夜明けの色を見る眼   作:にんら

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鏡野の魔女

 ―――魔女は、三つの宝を持っていた。

 

 月を呑む油と。橋を背負う巨人と。鏡の向こうを駆ける猟犬と。

 

 どれも母から娘へ、娘からそのまた娘へと、何百年も受け継がれてきたもの。

 

 宝は、使えば減る。

 

 減ったものは二度と戻らない。

 

 遊園地の夜に一つ目を失った魔女は、残りの二つを抱えて冬の野原に立っていた。

 

 

◇

 

 

 三咲の町の西の外れ、丘陵の裾野に鏡野農園はある。

 

 かつては町でいちばん大きな果樹園だった。春には林檎の花が丘一面を白く染め、秋には収穫祭で賑わった。けれど、跡継ぎのいないまま主が亡くなって、もう何年も人の手が入っていない。

 

 硝子の温室は半分以上が割れ落ち、骨組みだけの鉄骨が月明かりの下で肋骨のように並んでいる。枯れた林檎の木々が、黒い指を夜空に伸ばしている。畑の間を縫う用水路には、古い木の橋が一本架かったままになっていた。錆びた給水塔が、野原の外れに一本足で立っていた。

 

 そして、あちこちに水たまりが凍っていた。

 

 畝の間に。温室の床に。給水塔の足元に。大小無数の氷の面が、月の光を跳ね返して白く光っている。

 

 まるで、野原一面に鏡をばら撒いたように。

 

 鏡野、という名前の由来を有珠は知らない。

 

 けれど、この農園の真ん中の古い井戸の跡に、蒼崎の五つの礎の一つが打ち込まれていることは知っていた。

 

 そして今夜、この場所を選んだのが誰なのかも。

 

「――時間どおりだね、有珠」

 

 声は、用水路の橋の上から降ってきた。

 

 蒼崎橙子が、橋の欄干に腰掛けていた。

 

 長い外套の裾を夜風になびかせて。眼鏡は、かけていなかった。煙草の先の小さな火が、闇の中でぽつりと赤く灯っている。

 

 髪が短かった。

 

 耳の下で切り揃えられた、熾火の色の髪。昨日の午後、屋敷の暖炉の前で見た背中まで流れる長い髪は、もうどこにもなかった。

 

「髪を捧げたのね」

 

「ああ。……よくわかったな」

 

「あなたの髪は、母の屋敷でわたしが梳いていたもの。長さくらい覚えているわ」

 

 橙子は、少しだけ目を細めた。

 

 有珠は、凍った畝の間に立ち止まった。

 

 肩の上で、ロビンが羽毛をぶわりと膨らませている。

 

 外套の内ポケットに二つの重みがあった。

 

 手のひらに収まるほどの、古い木彫りの橋の模型。欄干の一本一本まで、細かく彫り込まれた。

 

 それから、銀の縁の黒くくすんだ小さな手鏡。覗き込んでも、何も映らない。自分の顔さえ。

 

 三つあったうちの二つ。

 

 一つ目の空になった硝子の小瓶は、屋敷の箪笥のいちばん下の引き出しに置いてきた。

 

「一人で来てくれたんだね。嬉しいよ」

 

「あなたがそう書いたのでしょう」

 

「スナークの弔いをしよう、とも書いた」

 

「ええ」

 

 橙子は煙草の煙を、夜空にゆっくりと吐き出した。

 

「あの子は美しかった。遊園地で見た最期は、私がこれまで見たどんな神秘よりも見事な散り際だったよ。……月の油。初代の魔女の頃から続いてきた、三つの奇跡の一つ。それが、あんな形で終わるとはね」

 

 その声に、嘲りはなかった。

 

 本心からの惜しむような響きがあった。

 

 それがかえって、有珠の腹の底を冷たく焦がした。

 

「あなたが弔う資格はないわ」

 

「そうかもしれないね」

 

 橙子は、欄干からひらりと飛び降りた。

 

 橋の板がぎし、と軋む。

 

「昔は、よく話しただろう。ロンドンの君の母上の屋敷で。君がまだこれくらいの背丈だった頃に」

 

 橙子は自分の腰のあたりに手をかざしてみせた。

 

「君は、私の作る人形が好きだった。私が工房で指を動かしているのを、いつも目を輝かせて見ていた。……一体、ねだられて作ってやったこともあったね。硝子の目の小さな兎を」

 

「……昔の話よ」

 

「ああ、昔の話だ」

 

 橙子の声が、ほんの少しだけ低くなった。

 

「あの兎は、まだあるかい」

 

 有珠は、答えなかった。

 

 答えないことが答えだった。

 

 屋敷の有珠の部屋の、窓辺の棚のいちばん奥に。硝子の目の小さな兎は、今も、座っている。埃ひとつ被らずに。

 

 橙子はそれ以上、訊かなかった。

 

「だから、今の話をしよう。……有珠。手を引いてくれないか」

 

「…………」

 

「私が欲しいのは、青子の中にあるものとあの少年の目だけだ。君には何の用もない。この町の網も、君の屋敷も、君の使い魔たちも、何一つ傷つけるつもりはない」

 

 橙子は両手を広げた。

 

「君が今夜ここから屋敷に帰って、朝まで何も見なかったことにしてくれれば。それだけで、全部が丸く収まる」

 

 有珠は答えなかった。

 

 外套のポケットから、小さな青い鈴を取り出した。

 

「……答えはそれかい」

 

「あなたは、一つ間違えているわ、橙子」

 

 有珠は鈴を指先で揺らした。

 

 ちりん、と。

 

 澄んだ音が、凍った野原に響き渡る。

 

「あの屋敷は、わたしの屋敷よ。あそこで眠っている子たちは、今はわたしの客人なの」

 

 鈴を放す。

 

 青い鈴は凍った土の上に落ち――氷を割ることもなく、音もなくその下へと沈んでいった。

 

 

◇

 

 

 夜が深くなった。

 

 月の光が一段冷たくなる。星の瞬きが、一斉に遠のく。遠くの町の灯りが、薄い布を一枚、二枚と重ねられたように、ぼやけて滲んでいく。

 

 夜の饗宴。

 

 鈴を沈めた土地の夜を、深くする。深くなった夜の中では、童話は昼の倍の力で息をする。

 

「客人に手を出す者は、魔女の敵よ」

 

「そうか」

 

 橙子は心底、残念そうに溜息をついた。

 

 煙草を橋の欄干で揉み消す。

 

「なら、仕方ないね。……ベオ」

 

 夜の闇が動いた。

 

 枯れた林檎の木々の間から、金色の影が弾丸のように飛び出してきた。

 

 少年だった。

 

 十歳を少し過ぎたくらいの金色の髪の子供。裸足で、薄い服一枚で。

 

 けれど、その姿は走りながら変わっていった。背が伸びる。腕が太くなる。金色の髪が、背中に向かって逆立ち、たてがみのように広がっていく。指の先から鉤爪が伸びる。口が裂け、牙が覗く。

 

 人狼。

 

 人間の形を半分だけ残した、金色の獣。

 

「あははっ! やっと遊べる!」

 

 獣が笑った。

 

 幼い声のまま牙を剥き出しにして。

 

 凍った畝を蹴り、一直線に有珠の喉笛めがけて。

 

 速かった。

 

 凍った土を一歩蹴るごとに、氷の面が蜘蛛の巣のように砕けていく。十メートルの距離が、二歩で消えた。

 

 有珠は動かなかった。

 

 ただ、外套の内ポケットの木彫りの橋の模型に、指先で触れた。

 

 唇をかすかに動かした。

 

 歌うように。

 

「―――ロンドン橋が落ちる。落ちる、落ちる」

 

 

◇

 

 

 用水路の古い木の橋が、軋んだ。

 

 いや。

 

 橋の下から、何かがせり上がってきた。

 

 まず見えたのは、手だった。

 

 苔むした樹皮のような肌。節くれだった老木の根のような指。それが、橋の両側の欄干を、下から鷲掴みにした。

 

 次に、頭が。

 

 橋板を突き破って、巨大な木彫りの面のような顔が現れた。目の代わりに、深い洞が二つ。口の代わりに、裂けた幹の割れ目。

 

 そして、身体が。

 

 用水路の底から、橋そのものを背負うようにして、見上げるほど巨大な木の巨人が立ち上がった。

 

 テムズトロル。

 

 橋の巨人。三つの奇跡の二つ目。

 

 跳びかかった金色の獣の身体を、巨人の掌が真横から叩き落とした。

 

 鈍い音。

 

 獣が、凍った畑を何十メートルも吹き飛ばされていく。枯れた林檎の木を三本へし折り、割れた温室の骨組みに突っ込んで、ようやく止まった。

 

 硝子の破片が、月の光を撒き散らしながら降り注いだ。

 

「……へえ」

 

 温室の残骸の中から、獣が身を起こした。

 

 額から血が流れている。

 

 けれど、その金色の目は爛々と輝いていた。

 

「すごい。すごいすごい。今の、ちょっと痛かった」

 

 獣は額の血を長い舌で舐め取った。

 

「トーコ。あれ、壊していい?」

 

「好きにしたまえ。……ただし、足元に気をつけろ。今夜の野原は鏡だらけだ」

 

 橙子は、橋のたもとから数歩下がった。

 

 その目が、巨人をじっと見上げていた。

 

 観察する目だった。

 

 

◇

 

 

 凍った野原が戦場になった。

 

 金色の獣が跳ぶ。巨人が腕を振るう。

 

 巨人の拳が畑を叩き割る。凍った土が噴水のように噴き上がる。獣はその土くれを足場にして跳び回り、巨人の腕に、肩に、首筋に、次々と牙を立てていく。

 

 樹皮が裂ける。木片が飛び散る。

 

 けれど、巨人は倒れない。

 

 裂けた樹皮の下から、新しい枝がめきめきと伸びて、傷口を塞いでいく。

 

 有珠の唇が、また動いた。

 

「―――木と粘土で建てなさい。建てなさい、建てなさい」

 

 巨人の裂けた肩に。

 

 用水路の底の凍った泥が這い上がってきた。

 

 枝と泥が絡み合って、傷を塞ぎ、その上を分厚く覆っていく。

 

 夜が深かった。

 

 鈴を沈めた土の上で、夜は昼の倍の濃さで童話に息を吹き込んでいた。巨人の傷は、裂けた端から塞がっていく。獣が一度抉るあいだに、巨人は二度、立ち直る。

 

「……ディドルディドルか」

 

 橙子が足元の凍った土を、靴先でこつんと叩いた。

 

「鈴を沈めて夜を深くした。……深い夜の中では、童話は倍の速さで息をする。いい手だ、有珠。私の犬の牙が半分しか効かない」

 

 橙子は指先を空に向けた。

 

 角張った文字が一つ。

 

 白く燃え上がった。

 

 それが、音もなく夜空へ昇っていった。凍った野原のちょうど真上で止まった。

 

 光った。

 

 白い、硬い、ぎらぎらとした光。月の光とは違った。星の光とも違った。夜の工事現場の投光器のような、硝子と電気の光。

 

 野原を覆っていた深い夜が。

 

 その光の真下だけ、薄い布を剥ぎ取られたように薄くなった。

 

「……っ」

 

 有珠の眉が、ほんのわずかに寄った。

 

「夜の饗宴は、文明の光に弱い。……駅前では、君の鈴は使えなかったろう」

 

 橙子は光のルーンを見上げたまま言った。

 

「町の灯りを一つ、ここに持ってきた。それだけのことさ」

 

 光の真下で、巨人の傷の塞がり方が目に見えて鈍った。

 

 獣の爪が抉った肩の傷が、今度はなかなか閉じなかった。

 

 有珠は唇を噛んだ。

 

 泥で塞いだ傷が、光の下で乾いてひび割れていく。

 

「……木と粘土ではもたない、か」

 

 橙子が呟いた。

 

「木と粘土は、流れてしまう。……なら、次は煉瓦とモルタル」

 

 獣の爪が泥の肩を抉った。

 

 泥が崩れて流れた。

 

 有珠の唇が動く。

 

「―――煉瓦とモルタルで建てなさい」

 

 巨人の足元の、崩れた温室の古い煉瓦の土台が。

 

 ばらばらと宙に浮いた。

 

 巨人の腕に、脚に、胸に張りついていく。泥が目地のように、その隙間を埋めていく。

 

 樹皮の巨人が煉瓦の鎧をまとった。

 

 獣の牙が煉瓦に弾かれた。

 

「――っ、かったい!」

 

 獣が跳び退る。

 

 巨人の煉瓦の拳が追う。

 

 獣は、空中で身体をひねって、拳の側面を蹴った。蹴った反動で、さらに高く跳んだ。

 

 巨人の頭上へ。

 

 巨人の煉瓦の左手が、空中の獣を掴んだ。

 

 握った。

 

 金色の身体が、煉瓦の指の間でみしみしと軋んだ。

 

「――ぐ、あ……っ!」

 

 獣が、初めて悲鳴を上げた。

 

 有珠の唇が動く。

 

「……潰しなさい」

 

 煉瓦の指が閉じていく。

 

 その時。

 

 橙子の目が、巨人の左手を見た。

 

 握りしめた指の一本一本を。

 

 指が止まった。

 

 閉じかけたまま、見えない鎖で縫い止められたように。

 

 獣は止まった指の隙間を、身体をよじってすり抜けた。すり抜けざまに、巨人の手首を蹴って跳んだ。

 

 洞のような目の真上へ。

 

 両の鉤爪を振り下ろした。

 

 巨人の顔の木彫りの面に、深い四本の溝が刻まれた。

 

 巨人が身をよじった。

 

 煉瓦の鎧がぎしぎしと軋んだ。

 

 光のルーンの真下で、煉瓦の目地の泥が乾いてひび割れていく。夜が薄いぶんだけ、童話の糊が弱っていた。

 

「煉瓦とモルタルは、崩れる」

 

 橙子が歌うように言った。

 

「次は鉄と鋼だね、有珠。……この野原に鉄はあるかな」

 

 有珠の目が、野原の外れの錆びた給水塔を見た。

 

 温室の鉄の骨組みを見た。

 

 それから、唇を開きかけて。

 

 閉じた。

 

 鉄と鋼は曲がる。曲がった鉄の次は金と銀。金と銀は盗まれる。盗まれないためには、番人を置く。

 

 順番どおりに歌えば、最後に番人が要る。

 

 その番人は今、自分の肩の上にいる。

 

 橙子は、それを待っている。

 

 

◇

 

 

「……よく読んでいるわね、橙子」

 

 有珠が言った。

 

 巨人と獣の嵐から一歩も動かずに。

 

「マザーグースのロンドン橋。……あなたに昔、読んであげたかしら」

 

「読んでもらったよ。君の母上にね」

 

 橙子は新しい煙草を指先で点けた。

 

「木と粘土は、流れる。煉瓦とモルタルは、崩れる。鉄と鋼は、曲がる。金と銀は、盗まれる。……そして、最後は」

 

 煙を吐き出す。

 

「番人を置け。夜通し、見張らせろ」

 

 有珠の目が、ほんのわずかに細められた。

 

「――よく覚えているわね」

 

「覚えているとも。……君の巨人の最後の一節だからね」

 

 橙子は右手の指を空中に走らせた。

 

 角張った文字が三つ。

 

 赤く燃え上がる。

 

「番人がいる限り、橋は落ちない。……なら、番人から潰せばいい」

 

 火の矢が三本。

 

 獣と巨人の戦いの脇をすり抜けて、まっすぐに有珠の顔めがけて飛んだ。

 

 有珠は避けなかった。

 

 避ける前に、肩の上の青い影が飛んだ。

 

「――マイ天使には触らせないッス!」

 

 ロビンが翼を広げて、三本の火矢の前に身を投げ出した。

 

 小さな身体が赤く燃え上がる。

 

 三本の火矢が、駒鳥の身体に当たって、砕けて散った。

 

 燃える駒鳥が、凍った土の上に落ちた。

 

「……ロビン」

 

 有珠の声が、かすかに揺れた。

 

 落ちた駒鳥は、まだ燃えていた。けれど、その炎の中で小さな身体は少しも焦げていなかった。翼をばたばたと動かして、火を払い落としている。

 

「へ、へへ……おいらはマイ天使の身代わりの子ッスから……この程度じゃ、燃えないッス……」

 

「……そう。よくやったわ」

 

 誰が駒鳥を殺したか。それは私、と雀が言った。

 

 久遠寺の駒鳥は、主の身代わりになるために作られた子だった。主に向けられた一撃を、代わりに受ける。それが、ロビンという童話の筋書きだった。

 

 けれど、同じ夜に二度は身代わりになれない。

 

 橙子は、それを知っていた。

 

「一度、使わせた」

 

 橙子は静かに言った。

 

「これで、番人の身代わりは、今夜はもういない」

 

 

◇

 

 

 橙子は巨人を見上げた。

 

 眼鏡のないその目が、巨人の右腕をまっすぐに見つめた。

 

 巨人の動きが止まった。

 

 獣に向かって振り下ろしかけていた煉瓦の右腕が、まるで見えない鎖で空中に縫い止められたように、ぴたりと静止していた。

 

「……相変わらず、厄介な眼ね」

 

「君の巨人ほどではないよ」

 

 橙子は巨人を見上げたまま答えた。

 

「何しろ、大きすぎる。私の眼では、腕一本を縫い止めるのが精一杯だ。……全身を視界に収めきれないんだよ」

 

 巨人の左腕が動いた。

 

 縫い止められた右腕の代わりに、左の拳が橙子めがけて振り下ろされる。

 

 橙子は、その場から飛び退いた。

 

 拳が、橋のたもとの地面を叩き潰す。凍った土が爆発したように舞い上がる。氷の鏡が何十枚も、一度に砕け散った。

 

 縫い止めが途切れた。

 

 右腕が自由になる。

 

 けれど、その一瞬の隙に。

 

「――ベオ!」

 

 橙子の声が、鋭く響いた。

 

「橋だ!」

 

 獣が、空中で身をひねった。

 

 巨人ではなく、その足元へ。

 

 用水路に架かる古い木の橋へ。

 

 有珠の顔から、血の気が引いた。

 

「――やめなさい!」

 

 有珠の唇が、最後の一節を紡ごうとした。

 

「―――鉄と、鋼で――」

 

 遅かった。

 

 金色の獣が、橋のど真ん中に両の鉤爪を叩き込んだ。

 

 古い橋板が、砕けた。

 

 欄干が、折れた。

 

 橋脚が、根元からへし折れた。

 

 何十年もそこに架かっていた木の橋が、獣の一撃でばらばらの木片になって、凍った用水路の底へと崩れ落ちていく。

 

 

◇

 

 

 巨人が、悲鳴を上げた。

 

 木の軋む音のような、低く、長い断末魔の叫び。

 

 その巨体が、足元から崩れ始めた。

 

 膝が砕ける。腰が裂ける。煉瓦の鎧が目地の泥ごと、ぼろぼろと剥がれ落ちていく。その下の樹皮の肌が、乾いた木の葉のように崩れていく。

 

「橋の巨人は、橋がなければ立っていられない」

 

 橙子は崩れていく巨人を見上げて、静かに言った。

 

「童話の筋書きどおりだ。……伝承に守られた怪物は、伝承に従って殺せばいい」

 

 巨人の頭が、ゆっくりと傾いた。

 

 洞のような二つの目が、最後に有珠の方を向いた。

 

 何かを言いたそうに。

 

 それから、凍った野原に崩れ落ちた。

 

 地響き。

 

 舞い上がる土煙と、砕けた氷の粉。

 

 それが収まった時、そこには苔むした古い丸太の山と煉瓦の欠片が、ただ横たわっているだけだった。

 

 有珠は立ち尽くしていた。

 

 凍った畝の間で、崩れた丸太の山を見つめていた。

 

 外套の内ポケットで、木彫りの橋の模型が。

 

 ぱきん、と音を立てて、真っ二つに割れた。

 

 表情は、変わらなかった。

 

 けれど、握りしめた両手が小さく震えていた。

 

「――マ、マイ天使……」

 

 足元で、翼の焦げた駒鳥が震える声で言った。

 

「トロルの兄貴が……」

 

「……黙りなさい」

 

 有珠は目を閉じた。

 

 スナークに続いて。

 

 二つ目。

 

 母から受け継いだ三つの奇跡の、二つ目を。

 

 ひと月も経たないうちに。

 

 

◇

 

 

 同じ時刻。

 

 町の東の坂の上の、久遠寺邸の石段で。

 

 静希草十郎は、顔を上げた。

 

 足の裏が、揺れていた。

 

 ほんのかすかに。石段の冷たい石の奥から、低く、長く、何かが崩れ落ちる時の地鳴りのような震えが伝わってきた。

 

 西の方からだった。

 

 山で雪崩が起きる前に、足の裏で感じる揺れに似ていた。

 

 大きなものが、倒れた。

 

 草十郎は、吊った左腕を右手で押さえた。

 

 それから、西の空を見た。

 

 町の灯りの向こうの丘陵の裾野のあたりに、ぽつんと、白い、硬い光が一つだけ浮かんでいた。

 

 星ではなかった。月でもなかった。

 

 あんな光は、山にはない。

 

「……久遠寺」

 

 呟いた。

 

 答える者はいなかった。

 

 屋敷の中は静かだった。二人はまだ眠っている。

 

 見ていろ、と言われた。

 

 草十郎は石段に座り直した。

 

 西の空の白い光から、目を離さずに。

 

 

◇

 

 

 目を開けた。

 

 その瞳に、もう揺らぎはなかった。

 

 ただ、冬の湖のいちばん深い底のような、冷たい光だけがあった。

 

「――橙子」

 

「なんだい」

 

「あなたがこの場所を選んだ理由が、わかったわ」

 

 有珠は足元を見下ろした。

 

 凍った水たまり。無数の小さな氷の鏡。

 

 巨人が砕いた何十枚もの破片が野原じゅうに散らばって、その一枚一枚に月が映り、橙子の姿が映り、金色の獣の姿が映っていた。

 

 さっきよりも、ずっと多く。

 

「巨人に鏡を砕かせた。……鏡の数を増やすために」

 

 橙子の眉がわずかに動いた。

 

「わたしの三つ目の子に、ここは最高の狩り場よ。……あなたは、わかっていて、ここを選んだ。わたしがこの子を出さざるを得ないように」

 

「さあ、どうかな」

 

「なら、望みどおりにしてあげる」

 

 有珠は外套の内ポケットから、最後の一つを取り出した。

 

 銀の縁の黒くくすんだ小さな手鏡。

 

 覗き込んでも何も映らない、鏡。

 

 有珠はそれを胸の前で、両手で包んだ。

 

 祈るように。

 

 囁くように。

 

「―――鏡の国の猟犬よ」

 

 手鏡の面が初めて、何かを映した。

 

 黒い、濡れた獣の目だった。

 

「映るものを狩りなさい」

 

 凍った野原のすべての氷の鏡が。

 

 一斉に、黒く濁った。

シエルの小説満足度調査

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