三咲の町の西の外れ、丘陵の裾野に、鏡野農園はある。
かつては、町でいちばん大きな果樹園だった。春には林檎の花が丘一面を白く染め、秋には収穫祭で賑わった。けれど、跡継ぎのいないまま主が亡くなって、もう何年も人の手が入っていない。
硝子の温室は半分以上が割れ落ち、骨組みだけの鉄骨が、月明かりの下で肋骨のように並んでいる。枯れた林檎の木々が、黒い指を夜空に伸ばしている。畑の間を縫う用水路には、古い木の橋が一本、架かったままになっていた。
そして、あちこちに、水たまりが凍っていた。
畝の間に。温室の床に。錆びた給水塔の足元に。大小無数の氷の面が、月の光を跳ね返して、白く光っている。
まるで、野原一面に、鏡をばら撒いたように。
鏡野、という名前の由来を、久遠寺有珠は知らない。
けれど、この農園の真ん中の、古い井戸の跡に、蒼崎の五つの礎の一つが打ち込まれていることは、知っていた。
そして、今夜、この場所を選んだのが誰なのかも。
「――時間どおりだね、有珠」
声は、用水路の橋の上から降ってきた。
蒼崎橙子が、橋の欄干に腰掛けていた。
長い外套の裾を、夜風になびかせて。眼鏡は、かけていなかった。煙草の先の小さな火が、闇の中で、ぽつりと赤く灯っている。
髪が、短かった。
耳の下で切り揃えられた、熾火の色の髪。昨日の午後、屋敷の暖炉の前で見た、背中まで流れる長い髪は、もう、どこにもなかった。
「一人で来てくれたんだね。嬉しいよ」
「あなたが、そう書いたのでしょう」
有珠は、凍った畝の間に立ち止まった。
肩の上で、ロビンが、羽毛をぶわりと膨らませている。
「髪を、捧げたのね」
「ああ。……よく、わかったな」
「あなたの髪は、母の屋敷で、わたしが梳いていたもの。長さくらい、覚えているわ」
橙子は、少しだけ、目を細めた。
「来ないかと思っていたよ。君は、昔から、人の誘いに乗るのが嫌いだったから」
「スナークの弔いをすると書いてあったわ」
「ああ」
橙子は、煙草の煙を、ゆっくりと夜空に吐き出した。
「あの子は、実に美しかった。遊園地で見た最期は、私がこれまで見たどんな神秘よりも、見事な散り際だったよ。……月の油。初代の魔女の頃から続いてきた、三つの奇跡の一つ。それが、あんな形で終わるとはね」
その声には、嘲りはなかった。
本心からの、惜しむような響きがあった。
それが、かえって、有珠の腹の底を冷たく焦がした。
「あなたが、弔う資格はないわ」
「そうかもしれないね」
橙子は、欄干から、ひらりと飛び降りた。
橋の板が、ぎし、と軋む。
「でも、君と話がしたかったのは本当だよ、有珠。昔は、よく話しただろう。ロンドンの君の母上の屋敷で。君が、まだこれくらいの背丈だった頃に」
橙子は、自分の腰のあたりに、手をかざしてみせた。
「君は、私の作る人形が好きだった。いつも、目を輝かせて見ていた」
「……昔の話よ」
「ああ、昔の話だ」
橙子は、橋の上から、有珠を見下ろした。
「だから、今の話をしよう。……有珠。手を引いてくれないか」
「…………」
「私が欲しいのは、青子の中にあるものと、あの少年の目だけだ。君には、何の用もない。この町の網も、君の屋敷も、君の使い魔たちも、何一つ傷つけるつもりはない」
橙子は、両手を広げた。
「君が、今夜ここから屋敷に帰って、朝まで何も見なかったことにしてくれれば。それだけで、全部が丸く収まる」
有珠は、答えなかった。
ただ、外套のポケットから、何かを取り出した。
小さな、青い鈴だった。
「……答えは、それかい」
「あなたは、一つ間違えているわ、橙子」
有珠は、鈴を、指先で揺らした。
ちりん、と。澄んだ音が、凍った野原に響き渡る。
「あの屋敷は、わたしの屋敷よ。あそこで眠っている子たちは、今は、わたしの客人なの」
鈴を、放す。
青い鈴は、凍った土の上に落ち――氷を割ることもなく、音もなく、その下へと沈んでいった。
夜が、深くなった。
月の光が、一段、冷たくなる。星の瞬きが、一斉に遠のく。まるで、世界全体が、一枚の分厚い帳の向こうに押しやられたように。
「客人に手を出す者は、魔女の敵よ」
「そうか」
橙子は、心底残念そうに、溜息をついた。
煙草を、橋の欄干で揉み消す。
「なら、仕方ないね。……ベオ」
夜の闇が、動いた。
枯れた林檎の木々の間から、金色の影が、弾丸のように飛び出してきた。
少年だった。
十歳を少し過ぎたくらいの、金色の髪の子供。
けれど、その姿は、走りながら変わっていった。背が伸びる。腕が太くなる。金色の髪が、背中に向かって逆立ち、たてがみのように広がっていく。指の先から、鉤爪が伸びる。口が裂け、牙が覗く。
人狼。
人間の形を、半分だけ残した、金色の獣。
「あははっ! やっと遊べる!」
獣が、笑った。
幼い声のまま、牙を剥き出しにして。
凍った畝を蹴り、一直線に、有珠の喉笛めがけて。
有珠は、動かなかった。
ただ、唇を、かすかに動かした。
歌うように。
「―――ロンドン橋が、落ちる」
用水路の、古い木の橋が、軋んだ。
いや。
橋の下から、何かが、せり上がってきた。
まず見えたのは、手だった。
苔むした、樹皮のような肌。節くれだった、老木の根のような指。それが、橋の両側の欄干を、下から鷲掴みにした。
次に、頭が。
橋板を突き破って、巨大な、木彫りの面のような顔が現れた。目の代わりに、深い洞が二つ。口の代わりに、裂けた幹の割れ目。
そして、身体が。
用水路の底から、橋そのものを背負うようにして、見上げるほど巨大な木の巨人が、立ち上がった。
テムズトロル。
橋の巨人。三つの奇跡の、二つ目。
跳びかかった金色の獣の身体を、巨人の掌が、真横から叩き落とした。
鈍い音。
獣が、凍った畑を、何十メートルも吹き飛ばされていく。枯れた林檎の木を三本へし折り、割れた温室の骨組みに突っ込んで、ようやく止まった。
「……へえ」
温室の残骸の中から、獣が、身を起こした。
額から、血が流れている。
けれど、その金色の目は、爛々と輝いていた。
「すごい。すごいすごい。今の、ちょっと痛かった」
獣は、額の血を、長い舌で舐め取った。
「トーコ。あれ、壊していい?」
「好きにしたまえ」
橙子は、橋のたもとから、数歩下がった。
その目が、巨人を、じっと見上げていた。
凍った野原が、戦場になった。
金色の獣が、跳ぶ。巨人が、腕を振るう。
巨人の拳が、畑を叩き割る。凍った土が、噴水のように噴き上がる。獣は、その土くれを足場にして跳び回り、巨人の腕に、肩に、首筋に、次々と牙を立てていく。
樹皮が裂ける。木片が飛び散る。
けれど、巨人は、倒れない。
裂けた樹皮の下から、新しい枝がめきめきと伸びて、傷口を塞いでいく。
「無駄よ」
有珠は、凍った畝の間に立ったまま、静かに言った。
「あの子は、橋の巨人。橋がある限り、何度でも立ち上がるわ」
その時。
橋のたもとで、橙子が、右手の指を、空中に走らせた。
角張った文字が、三つ。
赤く燃え上がる。
火の矢が、三本。獣と巨人の戦いの脇をすり抜けて、まっすぐに、有珠の顔めがけて飛んだ。
有珠は、避けなかった。
避ける前に、肩の上の青い影が、飛んだ。
「――マイ天使には、触らせないッス!」
ロビンが、翼を広げて、三本の火矢の前に、身を投げ出した。
小さな身体が、赤く燃え上がる。
三本の火矢が、駒鳥の身体に当たって、砕けて散った。
燃える駒鳥が、凍った土の上に、落ちた。
「……ロビン」
有珠の声が、かすかに揺れた。
落ちた駒鳥は、まだ、燃えていた。けれど、その炎の中で、小さな身体は、少しも焦げていなかった。翼を、ばたばたと動かして、火を払い落としている。
「へ、へへ……おいらは、マイ天使の身代わりの子ッスから……この程度じゃ、燃えないッス……」
「……そう。よく、やったわ」
有珠は、目を細めた。
久遠寺の駒鳥は、主の身代わりになるために作られた子だ。主に向けられた一撃を、代わりに受ける。それが、ロビンという童話の筋書きだった。
「相変わらず、律儀な鳥だな」
橙子は、それ以上、火矢を撃たなかった。
代わりに、巨人を見上げた。
眼鏡を外したその目が、巨人の右腕を、まっすぐに見つめる。
巨人の動きが、止まった。
獣を握り込んだ右腕が、まるで、見えない鎖で空中に縫い止められたように、ぴたりと静止していた。
「……相変わらず、厄介な眼ね」
「君の巨人ほどではないよ」
橙子は、巨人を見上げたまま答えた。
「何しろ、大きすぎる。私の眼では、腕一本を縫い止めるのが精一杯だ。……全身を視界に収めきれないんだよ」
巨人の左腕が、動いた。
縫い止められた右腕の代わりに、左の拳が、橙子めがけて振り下ろされる。
橙子は、その場から飛び退いた。
拳が、橋のたもとの地面を叩き潰す。凍った土が、爆発したように舞い上がる。
縫い止めが、途切れた。
右腕が自由になり、握り込まれていた獣が、指の隙間から、するりと抜け出した。
「――ベオ!」
橙子の声が、鋭く響いた。
「橋だ!」
獣が、空中で身をひねった。
巨人ではなく、その足元へ。
用水路に架かる、古い木の橋へ。
有珠の顔から、血の気が引いた。
「――やめなさい!」
遅かった。
金色の獣が、橋のど真ん中に、両の鉤爪を叩き込んだ。
古い橋板が、砕けた。
欄干が、折れた。
橋脚が、根元から、へし折れた。
何十年もそこに架かっていた木の橋が、獣の一撃で、ばらばらの木片になって、凍った用水路の底へと崩れ落ちていく。
巨人が、悲鳴を上げた。
木の軋む音のような、低く、長い、断末魔の叫び。
その巨体が、足元から、崩れ始めた。
膝が、砕ける。腰が、裂ける。樹皮の肌が、乾いた木の葉のように、ぼろぼろと剥がれ落ちていく。
「橋の巨人は、橋がなければ立っていられない」
橙子は、崩れていく巨人を見上げて、静かに言った。
「童話の筋書きどおりだ。……伝承に守られた怪物は、伝承に従って殺せばいい」
巨人の頭が、ゆっくりと、傾いた。
洞のような二つの目が、最後に、有珠の方を向いた。
そして、凍った野原に、崩れ落ちた。
地響き。
舞い上がる土煙。
それが収まった時、そこには、苔むした古い丸太の山が、ただ横たわっているだけだった。
有珠は、立ち尽くしていた。
凍った畝の間で、崩れた丸太の山を、見つめていた。
表情は、変わらなかった。
けれど、握りしめた両手が、小さく、震えていた。
「――マ、マイ天使……」
足元で、翼の焦げた駒鳥が、震える声で言った。
「トロルの兄貴が……」
「……黙りなさい」
有珠は、目を閉じた。
スナークに続いて。
二つ目。
母から受け継いだ、三つの奇跡の、二つ目を。
目を、開けた。
その瞳に、もう、揺らぎはなかった。
ただ、冬の湖の、いちばん深い底のような、冷たい光だけがあった。
「――橙子」
「なんだい」
「あなたが、この場所を選んだ理由が、わかったわ」
有珠は、足元を見下ろした。
凍った水たまり。無数の、小さな氷の鏡。
そのひとつひとつに、月が映り、橙子の姿が映り、金色の獣の姿が映っていた。
「わたしの三つ目の子に、ここは、最高の狩り場よ」
橙子の眉が、わずかに動いた。
「……ほう」
「わかっていて、ここを選んだのでしょう。わたしが、この子を出さざるを得ないように」
「さあ、どうかな」
「なら、望みどおりにしてあげる」
有珠は、両手を、胸の前で組み合わせた。
祈るように。
囁くように。
「―――鏡の国の猟犬よ。映るものを、狩りなさい」
凍った水たまりの、ひとつひとつが。
一斉に、黒く、濁った。
氷の鏡の奥に、何かが、いた。
鏡の向こう側の世界を、何かが、走り回っている。無数の鏡から鏡へと、影のように飛び移りながら。姿は見えない。ただ、鏡の奥で、何かの目が、ぎらりと光るのだけが見える。
ワンダースナッチ。
鏡の国の猟犬。三つの奇跡の、最後の一つ。
映るものを、鏡の中へと引きずり込む、見えない狩人。
「……トーコ」
獣が、低く唸った。
金色の毛並みを、逆立てている。
「なんか、いる。……足の下に、いっぱい」
「ああ。動くな、ベオ。下を見るなよ」
橙子の声が、初めて、わずかに硬くなった。
凍った野原の、すべての氷の鏡が、ざわざわと波打っていた。
そして。
橙子の足元の、ひときわ大きな氷の鏡の中から。
黒い、牙のようなものが、突き出した。
鏡に映った橙子の足首に、食らいつく。
同時に、鏡の外の、本物の橙子の足首が――まるで見えない何かに掴まれたように、ぐいと、下に引かれた。
「――っ」
橙子の身体が、傾いた。
足元の鏡に向かって。
沈んでいく。
足首が、氷の面の中に、水に沈むように、ずぶりと呑み込まれる。脛が。膝が。
有珠は、それを、冷たい目で見つめていた。
「さようなら、橙子」
橙子の腰が、胸が、肩が、氷の中に消えていく。
最後に、短い髪が、鏡の面の下に沈んだ。
凍った野原に、静寂が戻った。
有珠は、しばらく、その場に立っていた。
氷の鏡は、元の、ただの凍った水たまりに戻っていた。
橙子の姿は、どこにもなかった。
「……やった、ッスか?」
足元で、ロビンが、恐る恐る、有珠の顔を見上げた。
有珠は、答えなかった。
ただ、一歩、橙子が沈んだ鏡の方に、踏み出した。
その時。
温室の残骸の方から、場違いに、のんびりとした声がした。
「――いやあ、危なかった」
有珠の身体が、凍りついた。
振り返る。
割れた温室の、鉄骨の上に。
蒼崎橙子が、座っていた。
外套の裾に、泥ひとつついていない。短い髪は、一筋も乱れていない。新しい煙草に、指先で火を点けているところだった。
「……なぜ」
「あれは、私ではないよ」
橙子は、煙草の煙を吐き出した。
「私によく似た、人形だ。最初から、ずっとね。……君が橋の上で話していた相手も、ベオに指示を出していた相手も、全部」
有珠は、目を見開いた。
「私は、君がここに来る前から、この温室の陰にいた。ずっと、君を見ていたんだ」
橙子は、鉄骨の上から、ゆっくりと降りてきた。
「ワンダースナッチは、鏡に映ったものを狩る。映ったものが、本物かどうかは問わない。……だから、偽物を映しておけばいい。本物は、どこにも映らない場所に隠れていればいい」
凍った水たまりを、慎重に避けながら。
一歩ずつ、有珠に近づいてくる。
「君の三つの奇跡は、確かに奇跡だ。でも、奇跡には、筋書きがある。筋書きがあるなら、読める」
「…………」
「君は、昔から、そういうところが素直すぎるんだよ、有珠」
有珠は、後ずさろうとした。
その背中に、何かが、どさりとぶつかった。
熱い、獣の息。
振り返る暇もなかった。
「つかまえた」
耳元で、幼い声が、嬉しそうに言った。
金色の鉤爪が、有珠の両腕を、背後から鷲掴みにした。
それから。
もう一方の鉤爪が、有珠の腹を、横一文字に、薙いだ。
―――。
音は、しなかった。
黒い服の腹のあたりが、ぱっくりと、裂けた。
その下の、白い肌も。
温かいものが、一気に、あふれ出した。
有珠は、声を上げなかった。
ただ、目を見開いて、自分の腹を、見下ろした。
凍った土の上に、赤いものが、ぼたぼたと落ちていく。氷の鏡の一つに、それが、広がっていく。
「――ベオ」
橙子の声が、鋭く飛んだ。
「殺すなと言ったはずだ」
「殺してないよ」
獣は、不満そうに唇を尖らせた。
「ちょっと、開けただけ。……だって、この子、まだ何か出しそうだったから」
有珠の膝が、折れた。
凍った土の上に、崩れ落ちる。
両手で、腹を押さえる。指の間から、赤いものが、止まらずに溢れてくる。
視界が、暗くなっていく。
橙子が、有珠の前に、膝をついた。
有珠の顔を、覗き込む。
その目には、嘲りも、憐れみもなかった。ただ、よく出来た作品を眺めるような、静かな観察の色だけがあった。
「チェックだ、有珠」
「…………」
「殺しはしない。死なせもしない。……傷は、朝までは、もつ。もたせてある」
橙子は、有珠の顎を、指先で、そっと持ち上げた。
「その代わり」
顔を、近づけた。
有珠の唇に、自分の唇を、重ねた。
ほんの、一瞬。
有珠の身体が、びくりと跳ねた。
唇から、何かが、流し込まれた。冷たく、硬く、角張った何か。それが、喉を通って、胸の奥へ、腹の傷の奥へ、沈んでいく。
沈んで、そこで、根を張った。
「……何、を」
「爆弾だよ」
橙子は、唇を離して、何でもないことのように言った。
「私のルーンを、一つ、君の中に置かせてもらった。今夜、零時に、それが爆ぜる。……君の身体の、内側から」
有珠の目が、見開かれた。
「解けるのは、私だけだ。……解いてほしければ、青子と、あの少年に、旧校舎まで来るように伝えてくれ。三人で。少年の目と、君の命を、交換しよう」
橙子は、立ち上がった。
外套の裾を払う。
「大事な客人だからね。……粗末には、扱わないよ」
有珠は、橙子を睨みつけた。
その唇が、かすかに動いた。
「――ロビン」
足元の駒鳥が、びくりと跳ねた。
「……屋敷に。……静希草十郎に、伝えて。……朝までに、帰れなかったと」
「マ、マイ天使!? でも、でも、マイ天使を置いてなんて――」
「行きなさい……!」
有珠が、声を絞り出した。
ロビンは、泣きそうな声を上げて、焦げた翼で、夜空へと飛び立った。
橙子は、それを止めなかった。
「いい判断だ」
煙草を、凍った土の上に落とし、靴先で揉み消す。
「伝令は、必要だからね」
有珠の身体から、力が抜けていった。
三つの奇跡のうち、二つを失い、最後の一つを空振りに終わらせた。腹は裂かれ、胸の奥には、爆弾。回路は、焼けつく寸前だった。
意識が、遠のいていく。
最後に見えたのは、凍った野原の、無数の氷の鏡だった。
そのどれにも、もう、何も映ってはいなかった。
夜明けの、少し前。
久遠寺邸の石段に、静希草十郎は、まだ座っていた。
綿入れの肩に、霜が降りている。吊った左腕が、冷え切って感覚がない。それでも、草十郎は、坂道の下の闇を見つめ続けていた。
東の空が、ほんのわずかに、群青色に変わり始めていた。
その群青の中に、小さな青い影が、ふらふらと飛んでくるのが見えた。
草十郎は、立ち上がった。
駒鳥だった。
翼が、焦げている。羽が、何本も抜け落ちている。飛び方が、ひどく乱れている。それでも、まっすぐに、草十郎のところへ。
草十郎が差し出した右手に、ロビンは、墜ちるように舞い降りた。
「……シャ、シャバ憎……」
小さな身体が、震えていた。
「マイ天使が……マイ天使が……」
「久遠寺は」
「鏡野の、農園ッス……トーコの姐さんに、腹を……腹を、裂かれて……」
ロビンの嘴から、途切れ途切れに、言葉がこぼれ落ちた。
「トロルの兄貴も、やられて……スナッチの子も、効かなくて……マイ天使、おいらを逃がすために、大きい声出して……」
「…………」
「伝えろって、言われたッス。シャバ憎に。……朝までに、帰れなかったって」
草十郎は、手のひらの上の駒鳥を、じっと見下ろしていた。
それから、東の空を見上げた。
群青色が、少しずつ、白んでいく。
朝が、来る。
「……そうか」
草十郎は、静かに言った。
「なら、約束どおり、蒼崎に言わなくてはならないな」
ロビンの震える身体を、そっと綿入れの懐にしまい込む。
それから、草十郎は、坂道を下り始めた。
屋敷の方ではなく。
町の西へ。
「シャ、シャバ憎……どこ行くんスか……」
「鏡野だ」
草十郎は、振り返らずに言った。
「久遠寺を、連れて帰る」
「一人で……? トーコの姐さんも、あの犬も、まだ……」
「もう、いないだろう」
草十郎は、坂道を、駆け下りていった。
「用は済んだと、言ったんだろう。……なら、久遠寺は、置いていかれている」
鏡野農園の、凍った畝の間に、有珠は倒れていた。
黒い服が、腹のあたりで、赤黒く固まっている。凍った土に、大きな染みが広がっていた。
橙子の姿も、獣の姿も、なかった。
崩れた丸太の山。砕けた橋。割れた温室。
それだけが、残っていた。
草十郎は、有珠の傍らに、膝をついた。
息は、あった。浅く、弱く。
草十郎は、綿入れを脱いだ。
右手一本で、それを、有珠の腹に、きつく巻きつけた。
それから、有珠の身体を、右腕で抱え上げた。
吊った左腕は、使えなかった。右腕一本で、有珠の背中と膝の裏を、まとめて抱えて、胸の前に。
軽かった。
山で、峠を越える時に背負った薪より、ずっと。
「……久遠寺」
草十郎は、立ち上がった。
「帰るぞ」
有珠の目が、薄く、開いた。
朝の光の中で、草十郎の顔を、見上げた。
「……静希、君」
「ああ」
「……来るなと、言ったのに」
「来るなとは、言われていない。青子と日景を見ていろと、言われた」
草十郎は、坂道の方へ、歩き出した。
「二人は、屋敷にいる。見ている。……だから、久遠寺を、連れて帰る」
有珠は、何も言わなかった。
ただ、右腕一本で抱えられたまま、草十郎の胸に、額を預けた。
朝日が、鏡野の凍った野原を、金色に染めていった。
無数の氷の鏡が、その光を、一斉に跳ね返した。
青子は、居間のソファで、目を覚ました。
いつの間に眠ってしまったのか、覚えていなかった。ゆうべ、台所で忉利の珈琲を飲んで、それから――
玄関の扉が、開く音がした。
重い足音。廊下を、ゆっくりと。
居間の入り口に、草十郎が立っていた。
綿入れを着ていなかった。浴衣の胸元が、赤黒く汚れている。右腕に、黒い服の小さな身体を、抱えていた。
「……静希くん?」
寝ぼけた声で言ってから、青子は、草十郎の腕の中を見て、はっと身を起こした。
「――有珠!?」
草十郎は、有珠を、ソファの上に、そっと下ろした。
腹に巻いた綿入れが、赤黒く濡れていた。白い顔は、紙のように、血の気がなかった。
「蒼崎。話がある」
草十郎は、いつもと同じ、平坦な声で言った。
「久遠寺が、ゆうべ、一人で出かけた。朝までに帰ると言っていた。帰ってきたら、蒼崎には言わなくて済むから、と。……帰ってこなかった」
青子は、有珠の傍らに、崩れるように膝をついた。
「有珠……! 有珠、しっかりしなさい……!」
青子の指先に、青い光が灯る。震える手で、綿入れの上から、有珠の腹に、手をかざす。
傷が、ふさがりかけていた。
いや、ふさがれていた。誰かの手で。傷口の縁に、赤く光る、角張った文字が、一つ。
姉の、ルーンだった。
殺さないための。死なせないための。朝までもたせるための。
「……姉貴……」
階段の上から、足音がした。
忉利が、右目の布を当てたまま、居間の入り口に立っていた。
草十郎の汚れた浴衣と、ソファの上の有珠を見て――すべてを、察したようだった。
「……有珠か」
忉利は、ソファの傍らまで歩いてきた。
それから、右目の布を、ずらした。
有珠の線を、見た。
磨かれた石の上を滑る水のような、傷ひとつない線。
その線の、真ん中に。
見たことのないものが、あった。
結び目だった。冷たく、硬く、定規で引いたような線が、有珠の線に、無理やり、縫いつけられている。腹の傷の、少し上。胸の奥。そこに、角張った文字が、一つ、結ばれていた。
その結び目から、細い糸が、一本、伸びている。
町の東の方へ。
三咲高校の、旧校舎の方へ。
「……青子」
忉利は、低い声で言った。
「有珠の中に、なんかある。……線が、結ばれてる。あいつの線が。胸の奥に」
青子が、顔を上げた。
「……爆弾、ね」
声が、震えていた。
「姉貴の、やり方よ。……ルーンを、人の中に置いて、時間が来たら、内側から爆ぜさせる」
「……切れるか」
青子は、忉利を見た。
忉利は、有珠の線を、じっと見ていた。
結び目は、有珠の線に、深く食い込んでいた。有珠の線と、姉の線が、一本の糸になるまで、絡み合っている。
切れば。
有珠の線ごと、切れる。
「……切れねえ」
忉利は、布を戻した。
「切ったら、有珠ごとだ」
青子は、目を閉じた。
その時、綿入れの懐から、焦げた駒鳥が、這い出してきた。
細い脚に、何かが結びつけられていた。
小さく丸められた、上質な紙片。
青子は、震える指で、それをほどいた。
流れるような、筆記体の文字だった。
―――今夜、零時。三咲高校、旧校舎にて待つ。三人で来たまえ。有珠の中のものと、少年の目を、交換しよう。
「…………」
紙片を持つ青子の手が、白くなるほど、握りしめられた。
くしゃり、と、紙が潰れる音。
「……行くんだろ」
忉利が、言った。
青子は、答えなかった。
ただ、潰れた紙片を握りしめたまま、窓の外を見た。
東の空が、白く、明けていく。
その光の中で、青子の目に、青い炎が灯っていた。
怒りだった。
悲しみだった。
そして、何よりも――覚悟だった。
「……ええ」
青子は、静かに言った。
「行くわ。……姉貴を、止めに」
窓の外で、冬の朝日が、三咲の町を、金色に染め上げていった。
決戦の日の、朝だった。