―――鏡の中にも、もう一つの国がある。
右と左が入れ替わった国。
そこには、こちら側と同じ顔をした、こちら側と同じ誰かが住んでいる。
鏡を覗き込むたびに、向こうの誰かもこちらを覗き込んでいる。
もし向こうの国に、猟犬が一匹放たれていたら。
鏡に映った瞬間に狩られるのは、向こうの誰かか。
それとも。
◇
凍った野原のすべての氷の鏡が、黒く濁っていた。
鏡の奥に、何かがいた。
鏡の向こう側の世界を、何かが走り回っている。無数の鏡から鏡へと、影のように飛び移りながら。姿は見えない。ただ、鏡の奥で何かの目がぎらりと光るのだけが見える。
ワンダースナッチ。
鏡の国の猟犬。三つの奇跡の最後の一つ。
映るものを、鏡の中へと引きずり込む、見えない狩人。
「……トーコ」
獣が低く唸った。
金色の毛並みを逆立てている。
「なんか、いる。……足の下に、いっぱい」
「ああ。動くな、ベオ。下を見るなよ」
橙子の声が、初めて、わずかに硬くなった。
「あれは、鏡に映ったものを狩る。映ったお前を捕まえれば、映っていない方のお前も一緒に引きずり込まれる。……見なければ、映っていることに気づかない。気づかなければ怯えない。怯えなければ足が止まらない」
「……下、見ちゃだめなの?」
「匂いで動け。お前は犬だろう」
獣は、ぐるる、と喉を鳴らした。
それから目を閉じた。
鼻先を、夜気の中でひくつかせた。
◇
有珠は凍った畝の間に立ったまま、動かなかった。
胸の前で両手に手鏡を包んだまま。
手鏡の面に、無数の小さな景色が映っていた。
野原じゅうの氷の鏡。その一枚一枚に映っているものが全部、この小さな鏡の中に集まっていた。
橋のたもとの橙子。
温室の残骸の前の獣。
給水塔。林檎の木。月。
猟犬の目が、その全部を見ていた。
最初に動いたのは、獣の方だった。
目を閉じたまま、匂いだけを頼りに、凍った畝を蹴った。
有珠の方へ。
速かった。
けれど、獣の足が凍った水たまりの縁を踏んだ。
その氷の面に、獣の金色の脚が映った。
鏡の奥で黒い牙が閃いた。
映った脚に食らいついた。
――――!
獣の身体が空中で、がくん、と止まった。
右の後ろ脚が、見えない何かに、下へ引かれていた。
「――っ、え、何――!?」
獣が目を開けた。
下を見た。
見てしまった。
足元の氷の鏡の中で、黒い、濡れた、獣のような何かが、自分の脚の映り身に深々と牙を立てていた。
鏡の中の自分の脚が、鏡の奥へ引きずり込まれていく。
同時に、鏡の外の本物の脚が。
膝まで、氷の面の中に、ずぶりと沈んだ。
「――やだ、やだやだやだっ!!」
獣が叫んだ。
初めて子供の声で、本当に怯えていた。
「ベオ! 鏡を割れ!」
橙子の声が飛んだ。
獣は、両の鉤爪を、自分の脚が沈んでいる氷の面に叩きつけた。
氷が砕けた。
鏡が割れた。
割れた瞬間に、鏡の中の黒い牙が消えた。映り身が鏡ごと、ばらばらになって。
獣の脚が氷の中から抜けた。
獣は転がるように跳び退った。
脚に深い、黒い牙の痕が残っていた。血は出ていなかった。代わりに、その傷口から、冷たい霜がじわじわと広がっていた。
「……割れた」
有珠が静かに言った。
「割れた鏡は、一枚が何枚にもなるわ。……あなたの犬は、狩り場を増やしただけよ」
獣が砕いた氷の面が、何十枚もの小さな破片になって、足元に散らばっていた。
その一枚一枚にまた、月が映り、獣が映っていた。
獣は脚を引きずりながら震えていた。
もう下を見ることができなかった。
見れば、映る。
映れば、狩られる。
◇
有珠は手鏡の中の橋のたもとを見た。
橙子が立っていた。
凍った用水路の縁に。崩れた橋の残骸の傍らに。
足元に大きな氷の面があった。用水路の凍った水面。
そこに、橙子の姿がくっきりと映っていた。
外套の裾。短い髪。煙草の火。
「――狩りなさい」
有珠が囁いた。
凍った用水路の、氷の面の奥で。
黒い牙が閃いた。
鏡に映った橙子の足首に食らいついた。
同時に、鏡の外の本物の橙子の足首が――まるで見えない何かに掴まれたように、ぐいと下に引かれた。
「――っ」
橙子の身体が傾いた。
足元の凍った水面に向かって。
沈んでいく。
足首が氷の面の中に、水に沈むように、ずぶりと呑み込まれる。脛が。膝が。
橙子は叫ばなかった。
ただ、沈みながら、有珠の方を見ていた。
微笑んでいるようにも見えた。
有珠はそれを、冷たい目で見つめていた。
「さようなら、橙子」
腰が。胸が。肩が。
氷の中に消えていく。
最後に、短い髪が鏡の面の下に沈んだ。
煙草の火だけが一瞬、氷の上に残って。
それから、じゅっ、と消えた。
◇
凍った野原に静寂が戻った。
有珠はしばらく、その場に立っていた。
手鏡の中から猟犬の目が消えていた。狩りを終えた猟犬は、鏡の国の奥へ、獲物を咥えて帰っていく。
氷の鏡は元の、ただの凍った水たまりに戻っていた。
獣は温室の残骸の前で、脚を抱えてうずくまったまま動かなかった。主人の気配が消えたことに気づいていないのか。気づいて、動けないのか。
「……やった、ッスか?」
足元で、ロビンが恐る恐る有珠の顔を見上げた。
有珠は答えなかった。
ただ一歩、橙子が沈んだ用水路の方に踏み出した。
何かがおかしかった。
あの女があんなに、あっけなく。
最後に微笑んで。
「――ロビン」
「は、はいッス」
「煙草の匂い。……まだ、する?」
駒鳥が焦げた羽毛を震わせて、夜気の中で首を回した。
探偵役の駒鳥。誰が駒鳥を殺したか、と問われれば、犯人を、最後まで追いかける子。
「……する、ッス」
ロビンの声がかすれた。
「用水路の方じゃないッス。……温室の、奥。あっちからずっと、さっきから、同じ匂いがしてたッス」
有珠の身体が凍りついた。
振り返る。
◇
割れた温室の奥。
骨組みだけの鉄骨の、そのまた奥の、硝子がまだ割れ残っている薄暗い一角。
そこだけ、床に何もなかった。
凍った水たまりも。氷の鏡も。
床の上に、黒い、厚い天鵞絨の布が、何枚も、何枚も敷き詰められていた。
水たまりの一枚一枚を覆い隠すように。
月の光も、星の光も、何も映さないように。
その布の上に、蒼崎橙子が座っていた。
外套の裾に泥ひとつ、ついていない。短い髪は一筋も乱れていない。新しい煙草に指先で火を点けているところだった。
「――いやあ、危なかった」
場違いに、のんびりとした声だった。
「さすがに君の駒鳥の鼻までは、計算に入れていなかったよ」
「……なぜ」
「あれは、私ではないよ」
橙子は煙草の煙を吐き出した。
「私によく似た人形だ。最初から、ずっとね。……君が橋の上で話していた相手も、ベオに指示を出していた相手も、光のルーンを空に上げた相手も。全部」
有珠は目を見開いた。
「私は、君がここに来る前から、この温室の奥にいた。この布の上に。……ずっと君を見ていたんだ。人形の目を借りてね」
橙子は布の上から、ゆっくりと立ち上がった。
「ワンダースナッチは、鏡に映ったものを狩る。映ったものが本物かどうかは問わない。……だから、偽物を映しておけばいい。本物は、どこにも映らない場所に隠れていればいい」
布の端を靴先で踏みしめる。
「巨人に鏡を砕かせたのも、鏡を増やして君に三つ目を出させるためだ。……三つ目を出させて、偽物を狩らせるためだ。狩りを終えた猟犬は、しばらく鏡の国の奥から出てこない」
「…………」
「君の三つの奇跡は、確かに奇跡だ。でも、奇跡には筋書きがある。筋書きがあるなら、読める」
橙子は布の上から、凍った野原へ、一歩降りた。
足元の氷の鏡を慎重に避けながら。
一歩ずつ、有珠に近づいてくる。
「君は昔から、そういうところが素直すぎるんだよ、有珠」
◇
有珠は手鏡を握りしめた。
手鏡の中は空っぽだった。
猟犬はまだ戻ってこない。獲物を咥えて、鏡の国のずっと奥へ。
呼び戻すには時間が要る。
「……ロビン」
「は、はいッス!」
「あの女の足元の、いちばん近い氷を。……探して」
橙子が踏み出す一歩ごとに。
その足元の近くの氷の鏡に、橙子の姿が、ほんの一瞬、映りかける。
映りかけた瞬間に、橙子は足をずらす。
映らない角度へ。映らない場所へ。
月の位置を、自分の身体と、鏡と、有珠の立ち位置で測りながら。
計算していた。
全部、最初から。
有珠の目の前に一枚だけ、大きな氷の鏡が残っていた。
橙子が有珠に近づくには、その鏡の縁を通るしかない。
有珠は手鏡の中に囁いた。
「――戻ってきなさい。……もう一度だけ」
手鏡の奥で、黒い目がぎらりと光った。
猟犬が戻ってくる。
橙子の足が、その大きな鏡の縁に差しかかった。
鏡に、橙子の外套の裾が映った。
――今。
有珠が唇を開いた。
その背中に、何かが、どさりとぶつかった。
◇
熱い、獣の息。
振り返る暇もなかった。
「つかまえた」
耳元で、幼い声が、嬉しそうに言った。
金色の鉤爪が、有珠の両腕を背後から鷲掴みにした。
獣だった。
脚を引きずって、うずくまっていたはずの。主人の気配が消えて、動けなくなっていたはずの。
目を閉じていた。
下を一度も見ていなかった。
匂いだけで。
温室の残骸から、凍った畝の間を、音もなく這ってきた。
「トーコがね、言ったの」
獣は有珠の耳元で、くすくすと笑った。
「目、閉じてたら怖くないって。……ほんとだった」
手鏡の中で、戻りかけていた猟犬の目が。
主の動揺に引きずられて、ぶれて薄れた。
橙子が大きな氷の鏡の縁を、何事もなかったように通り過ぎた。
「――ベオ」
橙子の声が鋭く飛んだ。
「手鏡だ」
獣の鉤爪が有珠の手首を捻った。
手鏡が有珠の指からこぼれ落ちた。
凍った土の上に落ちた。
銀の縁の小さな手鏡が。
からん、と。
裏返しになって。
鏡の面が土に伏せた。
何も映さなくなった。
◇
それから。
獣のもう一方の鉤爪が、有珠の腹を横一文字に薙いだ。
―――。
音はしなかった。
黒い服の腹のあたりが、ぱっくりと裂けた。
その下の白い肌も。
温かいものが一気にあふれ出した。
有珠は声を上げなかった。
ただ、目を見開いて自分の腹を見下ろした。
凍った土の上に、赤いものが、ぼたぼたと落ちていく。裏返しになった手鏡の、銀の縁を濡らしていく。
「――ベオ」
橙子の声が低く落ちた。
「殺すなと言ったはずだ」
「殺してないよ」
獣は不満そうに唇を尖らせた。
「ちょっと開けただけ。……だって、この子、まだ何か出しそうだったから」
有珠の膝が折れた。
凍った土の上に崩れ落ちる。
両手で腹を押さえる。指の間から、赤いものが、止まらずに溢れてくる。
視界が暗くなっていく。
橙子が有珠の前に膝をついた。
有珠の顔を覗き込む。
その目には、嘲りも憐れみもなかった。ただ、よく出来た作品を眺めるような、静かな観察の色だけがあった。
「チェックだ、有珠」
「…………」
「殺しはしない。死なせもしない。……傷は、朝まではもつ。もたせてある」
橙子の指先が、有珠の腹の傷の縁に触れた。
角張った文字が一つ、赤く、傷の縁に焼きついた。
溢れていた血の勢いが、ほんの少しだけ緩んだ。
「その代わり」
橙子は有珠の顎を、指先でそっと持ち上げた。
顔を近づけた。
有珠の唇に自分の唇を重ねた。
ほんの一瞬。
有珠の身体がびくりと跳ねた。
唇から何かが流し込まれた。冷たく、硬く、角張った何か。それが喉を通って、胸の奥へ沈んでいく。
沈んで、そこで根を張った。
「……何、を」
「爆弾だよ」
橙子は唇を離して、何でもないことのように言った。
「私のルーンを一つ、君の中に置かせてもらった。今夜、零時にそれが爆ぜる。……君の身体の、内側から」
有珠の目が見開かれた。
「解けるのは私だけだ。……解いてほしければ、青子と、あの少年に、旧校舎まで来るように伝えてくれ。三人で。少年の目と、君の命を交換しよう」
橙子は立ち上がった。
外套の裾を払う。
「大事な客人だからね。……粗末には扱わないよ」
◇
有珠は橙子を睨みつけた。
その唇が、かすかに動いた。
「――ロビン」
足元の駒鳥がびくりと跳ねた。
「……屋敷に。……静希草十郎に、伝えて。……朝までに帰れなかったと」
「マ、マイ天使!? でも、でも、マイ天使を置いてなんて――」
「行きなさい……!」
有珠が声を絞り出した。
ロビンは泣きそうな声を上げて、焦げた翼で夜空へと飛び立った。
橙子はそれを止めなかった。
代わりに懐から、小さく丸めた上質な紙片を一枚取り出した。
指を一振りすると、紙片は細い糸になって空へ伸びて。飛び去る駒鳥の細い脚に、音もなく巻きついた。
「伝令は必要だからね」
煙草を凍った土の上に落として、靴先で揉み消す。
「行こう、ベオ」
「えー。もう終わり?」
「終わりだ。……続きは今夜。零時に」
獣はつまらなそうに、有珠の顔を覗き込んだ。
「また遊ぼうね」
それから、主の後を追って、凍った野原の闇の奥へと跳ねていった。
有珠の身体から力が抜けていった。
三つの奇跡のうち二つを失い、最後の一つを空振りに終わらせた。腹は裂かれ、胸の奥には、爆弾。回路は焼けつく寸前だった。
意識が遠のいていく。
最後に見えたのは、凍った野原の無数の氷の鏡だった。
そのどれにも、もう、何も映ってはいなかった。
裏返しになった手鏡だけが、土の上で黙って伏せていた。
◇
夜明けの少し前。
久遠寺邸の石段に、静希草十郎はまだ座っていた。
綿入れの肩に霜が降りている。吊った左腕が冷え切って、感覚がない。
西の空の白い、硬い光は、とうに消えていた。
それでも草十郎は、坂道の下の闇を見つめ続けていた。
東の空が、ほんのわずかに群青色に変わり始めていた。
その群青の中に、小さな青い影がふらふらと飛んでくるのが見えた。
草十郎は立ち上がった。
駒鳥だった。
翼が焦げている。羽が何本も抜け落ちている。飛び方がひどく乱れている。それでも、まっすぐに、草十郎のところへ。
差し出した右手に、ロビンは墜ちるように舞い降りた。
「……シャ、シャバ憎……」
小さな身体が震えていた。
「マイ天使が……マイ天使が……」
「有珠は」
「鏡野の農園ッス……トーコの姐さんに……トーコの姐さんの犬に、腹を……腹を、裂かれて……」
ロビンの嘴から、途切れ途切れに言葉がこぼれ落ちた。
「トロルの兄貴もやられて……スナッチの子も、偽物、狩らされて……マイ天使、おいらを逃がすために大きい声出して……」
「…………」
「伝えろって言われたッス。シャバ憎に。……朝までに帰れなかったって」
草十郎は手のひらの上の駒鳥を、じっと見下ろしていた。
それから東の空を見上げた。
群青色が少しずつ白んでいく。
朝が来る。
「……そうか」
草十郎は静かに言った。
「なら、約束どおり蒼崎に言わなくてはならないな」
ロビンの震える身体を、そっと綿入れの懐にしまい込む。
それから草十郎は、坂道を下り始めた。
屋敷の方ではなく。
町の西へ。
「シャ、シャバ憎……どこ行くんスか……」
「鏡野だ」
草十郎は振り返らずに言った。
「有珠を連れて帰る」
「一人で……? トーコの姐さんも、あの犬も、まだ……」
「もう、いないだろう」
草十郎は坂道を駆け下りていった。
「用は済んだと言ったんだろう? なら、有珠は置いていかれているはずだ」
◇
鏡野農園の凍った畝の間に、有珠は倒れていた。
黒い服が、腹のあたりで、赤黒く固まっている。凍った土に大きな染みが広がっていた。
橙子の姿も、獣の姿もなかった。
崩れた丸太の山。砕けた橋。割れた温室。温室の奥に、黒い天鵞絨の布が何枚も打ち捨てられていた。
草十郎は有珠の傍らに膝をついた。
息はあった。浅く、弱く。
有珠の手のそばに、小さな手鏡が裏返しになって落ちていた。
草十郎はそれを右手で拾い上げた。
表に返さずに。
有珠の外套の内ポケットに、そっと戻した。
それから綿入れを脱いだ。
右手一本で、それを有珠の腹にきつく巻きつけた。
有珠の身体を右腕で抱え上げた。
吊った左腕は使えなかった。右腕一本で、有珠の背中と膝の裏をまとめて抱えて、胸の前に。
軽かった。
山で峠を越える時に背負った薪より、ずっと。
「……有珠」
草十郎は立ち上がった。
「帰るぞ」
有珠の目が薄く開いた。
朝の光の中で、草十郎の顔を見上げた。
「……静希、君」
「ああ」
「……来るなと言ったのに」
「来るなとは言われていないよ。二人を見ていろとは言われたけど」
草十郎は坂道の方へ歩き出した。
「二人は屋敷にいる。ちゃんと見ていたよ。……だから、有珠を連れて帰るんだ」
有珠は何も言わなかった。
ただ、右腕一本で抱えられたまま、草十郎の胸に額を預けた。
朝日が、鏡野の凍った野原を、金色に染めていった。
無数の氷の鏡が、その光を一斉に跳ね返した。
そのどれにも、もう、猟犬の目は映っていなかった。
◇
青子は居間のソファで目を覚ました。
いつの間に眠ってしまったのか、覚えていなかった。ゆうべ、台所で忉利の珈琲を飲んで、それから――
玄関の扉が開く音がした。
重い足音。廊下を、ゆっくりと。
居間の入り口に、草十郎が立っていた。
綿入れを着ていなかった。浴衣の胸元が赤黒く汚れている。右腕に、黒い服の小さな身体を抱えていた。
「……静希くん?」
寝ぼけた声で言ってから、青子は草十郎の腕の中を見て、はっと身を起こした。
「――有珠!?」
草十郎は有珠を、ソファの上にそっと下ろした。
腹に巻いた綿入れが、赤黒く濡れていた。白い顔は紙のように血の気がなかった。
「蒼崎。話がある」
草十郎はいつもと同じ、平坦な声で言った。
「有珠が、ゆうべ一人で出かけたんだ。朝までに帰ると言っていた。帰ってくれば蒼崎には言わなくて済むから、って。……でも、帰ってこなかった」
青子は有珠の傍らに、崩れるように膝をついた。
「有珠……! 有珠、しっかりしなさい……!」
綿入れをそっとめくる。
傷口の縁に、赤く光る角張った文字が一つ。
姉の、ルーンだった。
殺さないための。死なせないための。朝までもたせるための。
「……姉貴……」
階段の上から足音がした。
忉利が右目に布を当てたまま、居間の入り口に立っていた。
草十郎の汚れた浴衣と、ソファの上の有珠を見て、すべてを察したようだった。
「……有珠か」
忉利はソファの傍らまで歩いてきた。
右目の布をずらした。
有珠の線を見た。
磨かれた石の上を滑る水のような、傷ひとつない、細く澄んだ線。
その線の真ん中に。
見たことのないものがあった。
結び目だった。冷たく、硬く、定規で引いたような線が、有珠の線に無理やり縫いつけられている。腹の傷の少し上。胸の奥。そこに、角張った文字が一つ結ばれていた。
その結び目から、細い糸が一本伸びている。
町の東の方へ。
三咲高校の旧校舎の方へ。
「……青子」
忉利は低い声で言った。
「有珠の中に、なんかある。……線が結ばれてる。胸の奥に」
「……爆弾、ね」
青子の声が震えていた。
「姉貴のやり方よ。……ルーンを人の中に置いて、時間が来たら、内側から爆ぜさせる」
「……切れるか」
青子は忉利を見た。
忉利は有珠の線をじっと見ていた。
結び目は、有珠の線に深く食い込んでいた。有珠の線と姉の線が、一本の糸になるまで絡み合っている。
切れば。
有珠の線ごと、切れる。
「……切れねえ」
忉利は布を戻した。
「切ったら、有珠ごとだ」
青子は目を閉じた。
その時、綿入れの懐から焦げた駒鳥が這い出してきた。
細い脚に何かが巻きついていた。
小さく丸められた上質な紙片。
青子は震える指で、それをほどいた。
流れるような筆記体の文字だった。
―――今夜、零時。三咲高校、旧校舎にて待つ。三人で来たまえ。有珠の中のものと、少年の目を交換しよう。
紙片を持つ青子の手が、白くなるほど握りしめられた。
くしゃり、と紙が潰れる音。
「……行くんだろ」
忉利が言った。
青子は答えなかった。
ただ、潰れた紙片を握りしめたまま、窓の外を見た。
東の空が白く明けていく。
その光の中で、青子の目に青い炎が灯っていた。
「……ええ」
青子は静かに言った。
「行くわ。……姉貴を止めに」
窓の外で、冬の朝日が、三咲の町を金色に染め上げていった。
決戦の日の朝だった。
シエルの小説満足度調査
-
めちゃよかった
-
よかった
-
そこそこ
-
びみょう