夜明けの色を見る眼   作:にんら

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鏡の国の猟犬

 ―――鏡の中にも、もう一つの国がある。

 

 右と左が入れ替わった国。

 

 そこには、こちら側と同じ顔をした、こちら側と同じ誰かが住んでいる。

 

 鏡を覗き込むたびに、向こうの誰かもこちらを覗き込んでいる。

 

 もし向こうの国に、猟犬が一匹放たれていたら。

 

 鏡に映った瞬間に狩られるのは、向こうの誰かか。

 

 それとも。

 

 

◇

 

 

 凍った野原のすべての氷の鏡が、黒く濁っていた。

 

 鏡の奥に、何かがいた。

 

 鏡の向こう側の世界を、何かが走り回っている。無数の鏡から鏡へと、影のように飛び移りながら。姿は見えない。ただ、鏡の奥で何かの目がぎらりと光るのだけが見える。

 

 ワンダースナッチ。

 

 鏡の国の猟犬。三つの奇跡の最後の一つ。

 

 映るものを、鏡の中へと引きずり込む、見えない狩人。

 

「……トーコ」

 

 獣が低く唸った。

 

 金色の毛並みを逆立てている。

 

「なんか、いる。……足の下に、いっぱい」

 

「ああ。動くな、ベオ。下を見るなよ」

 

 橙子の声が、初めて、わずかに硬くなった。

 

「あれは、鏡に映ったものを狩る。映ったお前を捕まえれば、映っていない方のお前も一緒に引きずり込まれる。……見なければ、映っていることに気づかない。気づかなければ怯えない。怯えなければ足が止まらない」

 

「……下、見ちゃだめなの?」

 

「匂いで動け。お前は犬だろう」

 

 獣は、ぐるる、と喉を鳴らした。

 

 それから目を閉じた。

 

 鼻先を、夜気の中でひくつかせた。

 

 

◇

 

 

 有珠は凍った畝の間に立ったまま、動かなかった。

 

 胸の前で両手に手鏡を包んだまま。

 

 手鏡の面に、無数の小さな景色が映っていた。

 

 野原じゅうの氷の鏡。その一枚一枚に映っているものが全部、この小さな鏡の中に集まっていた。

 

 橋のたもとの橙子。

 

 温室の残骸の前の獣。

 

 給水塔。林檎の木。月。

 

 猟犬の目が、その全部を見ていた。

 

 最初に動いたのは、獣の方だった。

 

 目を閉じたまま、匂いだけを頼りに、凍った畝を蹴った。

 

 有珠の方へ。

 

 速かった。

 

 けれど、獣の足が凍った水たまりの縁を踏んだ。

 

 その氷の面に、獣の金色の脚が映った。

 

 鏡の奥で黒い牙が閃いた。

 

 映った脚に食らいついた。

 

 ――――!

 

 獣の身体が空中で、がくん、と止まった。

 

 右の後ろ脚が、見えない何かに、下へ引かれていた。

 

「――っ、え、何――!?」

 

 獣が目を開けた。

 

 下を見た。

 

 見てしまった。

 

 足元の氷の鏡の中で、黒い、濡れた、獣のような何かが、自分の脚の映り身に深々と牙を立てていた。

 

 鏡の中の自分の脚が、鏡の奥へ引きずり込まれていく。

 

 同時に、鏡の外の本物の脚が。

 

 膝まで、氷の面の中に、ずぶりと沈んだ。

 

「――やだ、やだやだやだっ!!」

 

 獣が叫んだ。

 

 初めて子供の声で、本当に怯えていた。

 

「ベオ! 鏡を割れ!」

 

 橙子の声が飛んだ。

 

 獣は、両の鉤爪を、自分の脚が沈んでいる氷の面に叩きつけた。

 

 氷が砕けた。

 

 鏡が割れた。

 

 割れた瞬間に、鏡の中の黒い牙が消えた。映り身が鏡ごと、ばらばらになって。

 

 獣の脚が氷の中から抜けた。

 

 獣は転がるように跳び退った。

 

 脚に深い、黒い牙の痕が残っていた。血は出ていなかった。代わりに、その傷口から、冷たい霜がじわじわと広がっていた。

 

「……割れた」

 

 有珠が静かに言った。

 

「割れた鏡は、一枚が何枚にもなるわ。……あなたの犬は、狩り場を増やしただけよ」

 

 獣が砕いた氷の面が、何十枚もの小さな破片になって、足元に散らばっていた。

 

 その一枚一枚にまた、月が映り、獣が映っていた。

 

 獣は脚を引きずりながら震えていた。

 

 もう下を見ることができなかった。

 

 見れば、映る。

 

 映れば、狩られる。

 

 

◇

 

 

 有珠は手鏡の中の橋のたもとを見た。

 

 橙子が立っていた。

 

 凍った用水路の縁に。崩れた橋の残骸の傍らに。

 

 足元に大きな氷の面があった。用水路の凍った水面。

 

 そこに、橙子の姿がくっきりと映っていた。

 

 外套の裾。短い髪。煙草の火。

 

「――狩りなさい」

 

 有珠が囁いた。

 

 凍った用水路の、氷の面の奥で。

 

 黒い牙が閃いた。

 

 鏡に映った橙子の足首に食らいついた。

 

 同時に、鏡の外の本物の橙子の足首が――まるで見えない何かに掴まれたように、ぐいと下に引かれた。

 

「――っ」

 

 橙子の身体が傾いた。

 

 足元の凍った水面に向かって。

 

 沈んでいく。

 

 足首が氷の面の中に、水に沈むように、ずぶりと呑み込まれる。脛が。膝が。

 

 橙子は叫ばなかった。

 

 ただ、沈みながら、有珠の方を見ていた。

 

 微笑んでいるようにも見えた。

 

 有珠はそれを、冷たい目で見つめていた。

 

「さようなら、橙子」

 

 腰が。胸が。肩が。

 

 氷の中に消えていく。

 

 最後に、短い髪が鏡の面の下に沈んだ。

 

 煙草の火だけが一瞬、氷の上に残って。

 

 それから、じゅっ、と消えた。

 

 

◇

 

 

 凍った野原に静寂が戻った。

 

 有珠はしばらく、その場に立っていた。

 

 手鏡の中から猟犬の目が消えていた。狩りを終えた猟犬は、鏡の国の奥へ、獲物を咥えて帰っていく。

 

 氷の鏡は元の、ただの凍った水たまりに戻っていた。

 

 獣は温室の残骸の前で、脚を抱えてうずくまったまま動かなかった。主人の気配が消えたことに気づいていないのか。気づいて、動けないのか。

 

「……やった、ッスか?」

 

 足元で、ロビンが恐る恐る有珠の顔を見上げた。

 

 有珠は答えなかった。

 

 ただ一歩、橙子が沈んだ用水路の方に踏み出した。

 

 何かがおかしかった。

 

 あの女があんなに、あっけなく。

 

 最後に微笑んで。

 

「――ロビン」

 

「は、はいッス」

 

「煙草の匂い。……まだ、する?」

 

 駒鳥が焦げた羽毛を震わせて、夜気の中で首を回した。

 

 探偵役の駒鳥。誰が駒鳥を殺したか、と問われれば、犯人を、最後まで追いかける子。

 

「……する、ッス」

 

 ロビンの声がかすれた。

 

「用水路の方じゃないッス。……温室の、奥。あっちからずっと、さっきから、同じ匂いがしてたッス」

 

 有珠の身体が凍りついた。

 

 振り返る。

 

 

◇

 

 

 割れた温室の奥。

 

 骨組みだけの鉄骨の、そのまた奥の、硝子がまだ割れ残っている薄暗い一角。

 

 そこだけ、床に何もなかった。

 

 凍った水たまりも。氷の鏡も。

 

 床の上に、黒い、厚い天鵞絨の布が、何枚も、何枚も敷き詰められていた。

 

 水たまりの一枚一枚を覆い隠すように。

 

 月の光も、星の光も、何も映さないように。

 

 その布の上に、蒼崎橙子が座っていた。

 

 外套の裾に泥ひとつ、ついていない。短い髪は一筋も乱れていない。新しい煙草に指先で火を点けているところだった。

 

「――いやあ、危なかった」

 

 場違いに、のんびりとした声だった。

 

「さすがに君の駒鳥の鼻までは、計算に入れていなかったよ」

 

「……なぜ」

 

「あれは、私ではないよ」

 

 橙子は煙草の煙を吐き出した。

 

「私によく似た人形だ。最初から、ずっとね。……君が橋の上で話していた相手も、ベオに指示を出していた相手も、光のルーンを空に上げた相手も。全部」

 

 有珠は目を見開いた。

 

「私は、君がここに来る前から、この温室の奥にいた。この布の上に。……ずっと君を見ていたんだ。人形の目を借りてね」

 

 橙子は布の上から、ゆっくりと立ち上がった。

 

「ワンダースナッチは、鏡に映ったものを狩る。映ったものが本物かどうかは問わない。……だから、偽物を映しておけばいい。本物は、どこにも映らない場所に隠れていればいい」

 

 布の端を靴先で踏みしめる。

 

「巨人に鏡を砕かせたのも、鏡を増やして君に三つ目を出させるためだ。……三つ目を出させて、偽物を狩らせるためだ。狩りを終えた猟犬は、しばらく鏡の国の奥から出てこない」

 

「…………」

 

「君の三つの奇跡は、確かに奇跡だ。でも、奇跡には筋書きがある。筋書きがあるなら、読める」

 

 橙子は布の上から、凍った野原へ、一歩降りた。

 

 足元の氷の鏡を慎重に避けながら。

 

 一歩ずつ、有珠に近づいてくる。

 

「君は昔から、そういうところが素直すぎるんだよ、有珠」

 

 

◇

 

 

 有珠は手鏡を握りしめた。

 

 手鏡の中は空っぽだった。

 

 猟犬はまだ戻ってこない。獲物を咥えて、鏡の国のずっと奥へ。

 

 呼び戻すには時間が要る。

 

「……ロビン」

 

「は、はいッス!」

 

「あの女の足元の、いちばん近い氷を。……探して」

 

 橙子が踏み出す一歩ごとに。

 

 その足元の近くの氷の鏡に、橙子の姿が、ほんの一瞬、映りかける。

 

 映りかけた瞬間に、橙子は足をずらす。

 

 映らない角度へ。映らない場所へ。

 

 月の位置を、自分の身体と、鏡と、有珠の立ち位置で測りながら。

 

 計算していた。

 

 全部、最初から。

 

 有珠の目の前に一枚だけ、大きな氷の鏡が残っていた。

 

 橙子が有珠に近づくには、その鏡の縁を通るしかない。

 

 有珠は手鏡の中に囁いた。

 

「――戻ってきなさい。……もう一度だけ」

 

 手鏡の奥で、黒い目がぎらりと光った。

 

 猟犬が戻ってくる。

 

 橙子の足が、その大きな鏡の縁に差しかかった。

 

 鏡に、橙子の外套の裾が映った。

 

 ――今。

 

 有珠が唇を開いた。

 

 その背中に、何かが、どさりとぶつかった。

 

 

◇

 

 

 熱い、獣の息。

 

 振り返る暇もなかった。

 

「つかまえた」

 

 耳元で、幼い声が、嬉しそうに言った。

 

 金色の鉤爪が、有珠の両腕を背後から鷲掴みにした。

 

 獣だった。

 

 脚を引きずって、うずくまっていたはずの。主人の気配が消えて、動けなくなっていたはずの。

 

 目を閉じていた。

 

 下を一度も見ていなかった。

 

 匂いだけで。

 

 温室の残骸から、凍った畝の間を、音もなく這ってきた。

 

「トーコがね、言ったの」

 

 獣は有珠の耳元で、くすくすと笑った。

 

「目、閉じてたら怖くないって。……ほんとだった」

 

 手鏡の中で、戻りかけていた猟犬の目が。

 

 主の動揺に引きずられて、ぶれて薄れた。

 

 橙子が大きな氷の鏡の縁を、何事もなかったように通り過ぎた。

 

「――ベオ」

 

 橙子の声が鋭く飛んだ。

 

「手鏡だ」

 

 獣の鉤爪が有珠の手首を捻った。

 

 手鏡が有珠の指からこぼれ落ちた。

 

 凍った土の上に落ちた。

 

 銀の縁の小さな手鏡が。

 

 からん、と。

 

 裏返しになって。

 

 鏡の面が土に伏せた。

 

 何も映さなくなった。

 

 

◇

 

 

 それから。

 

 獣のもう一方の鉤爪が、有珠の腹を横一文字に薙いだ。

 

 ―――。

 

 音はしなかった。

 

 黒い服の腹のあたりが、ぱっくりと裂けた。

 

 その下の白い肌も。

 

 温かいものが一気にあふれ出した。

 

 有珠は声を上げなかった。

 

 ただ、目を見開いて自分の腹を見下ろした。

 

 凍った土の上に、赤いものが、ぼたぼたと落ちていく。裏返しになった手鏡の、銀の縁を濡らしていく。

 

「――ベオ」

 

 橙子の声が低く落ちた。

 

「殺すなと言ったはずだ」

 

「殺してないよ」

 

 獣は不満そうに唇を尖らせた。

 

「ちょっと開けただけ。……だって、この子、まだ何か出しそうだったから」

 

 有珠の膝が折れた。

 

 凍った土の上に崩れ落ちる。

 

 両手で腹を押さえる。指の間から、赤いものが、止まらずに溢れてくる。

 

 視界が暗くなっていく。

 

 橙子が有珠の前に膝をついた。

 

 有珠の顔を覗き込む。

 

 その目には、嘲りも憐れみもなかった。ただ、よく出来た作品を眺めるような、静かな観察の色だけがあった。

 

「チェックだ、有珠」

 

「…………」

 

「殺しはしない。死なせもしない。……傷は、朝まではもつ。もたせてある」

 

 橙子の指先が、有珠の腹の傷の縁に触れた。

 

 角張った文字が一つ、赤く、傷の縁に焼きついた。

 

 溢れていた血の勢いが、ほんの少しだけ緩んだ。

 

「その代わり」

 

 橙子は有珠の顎を、指先でそっと持ち上げた。

 

 顔を近づけた。

 

 有珠の唇に自分の唇を重ねた。

 

 ほんの一瞬。

 

 有珠の身体がびくりと跳ねた。

 

 唇から何かが流し込まれた。冷たく、硬く、角張った何か。それが喉を通って、胸の奥へ沈んでいく。

 

 沈んで、そこで根を張った。

 

「……何、を」

 

「爆弾だよ」

 

 橙子は唇を離して、何でもないことのように言った。

 

「私のルーンを一つ、君の中に置かせてもらった。今夜、零時にそれが爆ぜる。……君の身体の、内側から」

 

 有珠の目が見開かれた。

 

「解けるのは私だけだ。……解いてほしければ、青子と、あの少年に、旧校舎まで来るように伝えてくれ。三人で。少年の目と、君の命を交換しよう」

 

 橙子は立ち上がった。

 

 外套の裾を払う。

 

「大事な客人だからね。……粗末には扱わないよ」

 

 

◇

 

 

 有珠は橙子を睨みつけた。

 

 その唇が、かすかに動いた。

 

「――ロビン」

 

 足元の駒鳥がびくりと跳ねた。

 

「……屋敷に。……静希草十郎に、伝えて。……朝までに帰れなかったと」

 

「マ、マイ天使!? でも、でも、マイ天使を置いてなんて――」

 

「行きなさい……!」

 

 有珠が声を絞り出した。

 

 ロビンは泣きそうな声を上げて、焦げた翼で夜空へと飛び立った。

 

 橙子はそれを止めなかった。

 

 代わりに懐から、小さく丸めた上質な紙片を一枚取り出した。

 

 指を一振りすると、紙片は細い糸になって空へ伸びて。飛び去る駒鳥の細い脚に、音もなく巻きついた。

 

「伝令は必要だからね」

 

 煙草を凍った土の上に落として、靴先で揉み消す。

 

「行こう、ベオ」

 

「えー。もう終わり?」

 

「終わりだ。……続きは今夜。零時に」

 

 獣はつまらなそうに、有珠の顔を覗き込んだ。

 

「また遊ぼうね」

 

 それから、主の後を追って、凍った野原の闇の奥へと跳ねていった。

 

 有珠の身体から力が抜けていった。

 

 三つの奇跡のうち二つを失い、最後の一つを空振りに終わらせた。腹は裂かれ、胸の奥には、爆弾。回路は焼けつく寸前だった。

 

 意識が遠のいていく。

 

 最後に見えたのは、凍った野原の無数の氷の鏡だった。

 

 そのどれにも、もう、何も映ってはいなかった。

 

 裏返しになった手鏡だけが、土の上で黙って伏せていた。

 

 

◇

 

 

 夜明けの少し前。

 

 久遠寺邸の石段に、静希草十郎はまだ座っていた。

 

 綿入れの肩に霜が降りている。吊った左腕が冷え切って、感覚がない。

 

 西の空の白い、硬い光は、とうに消えていた。

 

 それでも草十郎は、坂道の下の闇を見つめ続けていた。

 

 東の空が、ほんのわずかに群青色に変わり始めていた。

 

 その群青の中に、小さな青い影がふらふらと飛んでくるのが見えた。

 

 草十郎は立ち上がった。

 

 駒鳥だった。

 

 翼が焦げている。羽が何本も抜け落ちている。飛び方がひどく乱れている。それでも、まっすぐに、草十郎のところへ。

 

 差し出した右手に、ロビンは墜ちるように舞い降りた。

 

「……シャ、シャバ憎……」

 

 小さな身体が震えていた。

 

「マイ天使が……マイ天使が……」

 

「有珠は」

 

「鏡野の農園ッス……トーコの姐さんに……トーコの姐さんの犬に、腹を……腹を、裂かれて……」

 

 ロビンの嘴から、途切れ途切れに言葉がこぼれ落ちた。

 

「トロルの兄貴もやられて……スナッチの子も、偽物、狩らされて……マイ天使、おいらを逃がすために大きい声出して……」

 

「…………」

 

「伝えろって言われたッス。シャバ憎に。……朝までに帰れなかったって」

 

 草十郎は手のひらの上の駒鳥を、じっと見下ろしていた。

 

 それから東の空を見上げた。

 

 群青色が少しずつ白んでいく。

 

 朝が来る。

 

「……そうか」

 

 草十郎は静かに言った。

 

「なら、約束どおり蒼崎に言わなくてはならないな」

 

 ロビンの震える身体を、そっと綿入れの懐にしまい込む。

 

 それから草十郎は、坂道を下り始めた。

 

 屋敷の方ではなく。

 

 町の西へ。

 

「シャ、シャバ憎……どこ行くんスか……」

 

「鏡野だ」

 

 草十郎は振り返らずに言った。

 

「有珠を連れて帰る」

 

「一人で……? トーコの姐さんも、あの犬も、まだ……」

 

「もう、いないだろう」

 

 草十郎は坂道を駆け下りていった。

 

「用は済んだと言ったんだろう? なら、有珠は置いていかれているはずだ」

 

 

◇

 

 

 鏡野農園の凍った畝の間に、有珠は倒れていた。

 

 黒い服が、腹のあたりで、赤黒く固まっている。凍った土に大きな染みが広がっていた。

 

 橙子の姿も、獣の姿もなかった。

 

 崩れた丸太の山。砕けた橋。割れた温室。温室の奥に、黒い天鵞絨の布が何枚も打ち捨てられていた。

 

 草十郎は有珠の傍らに膝をついた。

 

 息はあった。浅く、弱く。

 

 有珠の手のそばに、小さな手鏡が裏返しになって落ちていた。

 

 草十郎はそれを右手で拾い上げた。

 

 表に返さずに。

 

 有珠の外套の内ポケットに、そっと戻した。

 

 それから綿入れを脱いだ。

 

 右手一本で、それを有珠の腹にきつく巻きつけた。

 

 有珠の身体を右腕で抱え上げた。

 

 吊った左腕は使えなかった。右腕一本で、有珠の背中と膝の裏をまとめて抱えて、胸の前に。

 

 軽かった。

 

 山で峠を越える時に背負った薪より、ずっと。

 

「……有珠」

 

 草十郎は立ち上がった。

 

「帰るぞ」

 

 有珠の目が薄く開いた。

 

 朝の光の中で、草十郎の顔を見上げた。

 

「……静希、君」

 

「ああ」

 

「……来るなと言ったのに」

 

「来るなとは言われていないよ。二人を見ていろとは言われたけど」

 

 草十郎は坂道の方へ歩き出した。

 

「二人は屋敷にいる。ちゃんと見ていたよ。……だから、有珠を連れて帰るんだ」

 

 有珠は何も言わなかった。

 

 ただ、右腕一本で抱えられたまま、草十郎の胸に額を預けた。

 

 朝日が、鏡野の凍った野原を、金色に染めていった。

 

 無数の氷の鏡が、その光を一斉に跳ね返した。

 

 そのどれにも、もう、猟犬の目は映っていなかった。

 

 

◇

 

 

 青子は居間のソファで目を覚ました。

 

 いつの間に眠ってしまったのか、覚えていなかった。ゆうべ、台所で忉利の珈琲を飲んで、それから――

 

 玄関の扉が開く音がした。

 

 重い足音。廊下を、ゆっくりと。

 

 居間の入り口に、草十郎が立っていた。

 

 綿入れを着ていなかった。浴衣の胸元が赤黒く汚れている。右腕に、黒い服の小さな身体を抱えていた。

 

「……静希くん?」

 

 寝ぼけた声で言ってから、青子は草十郎の腕の中を見て、はっと身を起こした。

 

「――有珠!?」

 

 草十郎は有珠を、ソファの上にそっと下ろした。

 

 腹に巻いた綿入れが、赤黒く濡れていた。白い顔は紙のように血の気がなかった。

 

「蒼崎。話がある」

 

 草十郎はいつもと同じ、平坦な声で言った。

 

「有珠が、ゆうべ一人で出かけたんだ。朝までに帰ると言っていた。帰ってくれば蒼崎には言わなくて済むから、って。……でも、帰ってこなかった」

 

 青子は有珠の傍らに、崩れるように膝をついた。

 

「有珠……! 有珠、しっかりしなさい……!」

 

 綿入れをそっとめくる。

 

 傷口の縁に、赤く光る角張った文字が一つ。

 

 姉の、ルーンだった。

 

 殺さないための。死なせないための。朝までもたせるための。

 

「……姉貴……」

 

 階段の上から足音がした。

 

 忉利が右目に布を当てたまま、居間の入り口に立っていた。

 

 草十郎の汚れた浴衣と、ソファの上の有珠を見て、すべてを察したようだった。

 

「……有珠か」

 

 忉利はソファの傍らまで歩いてきた。

 

 右目の布をずらした。

 

 有珠の線を見た。

 

 磨かれた石の上を滑る水のような、傷ひとつない、細く澄んだ線。

 

 その線の真ん中に。

 

 見たことのないものがあった。

 

 結び目だった。冷たく、硬く、定規で引いたような線が、有珠の線に無理やり縫いつけられている。腹の傷の少し上。胸の奥。そこに、角張った文字が一つ結ばれていた。

 

 その結び目から、細い糸が一本伸びている。

 

 町の東の方へ。

 

 三咲高校の旧校舎の方へ。

 

「……青子」

 

 忉利は低い声で言った。

 

「有珠の中に、なんかある。……線が結ばれてる。胸の奥に」

 

「……爆弾、ね」

 

 青子の声が震えていた。

 

「姉貴のやり方よ。……ルーンを人の中に置いて、時間が来たら、内側から爆ぜさせる」

 

「……切れるか」

 

 青子は忉利を見た。

 

 忉利は有珠の線をじっと見ていた。

 

 結び目は、有珠の線に深く食い込んでいた。有珠の線と姉の線が、一本の糸になるまで絡み合っている。

 

 切れば。

 

 有珠の線ごと、切れる。

 

「……切れねえ」

 

 忉利は布を戻した。

 

「切ったら、有珠ごとだ」

 

 青子は目を閉じた。

 

 その時、綿入れの懐から焦げた駒鳥が這い出してきた。

 

 細い脚に何かが巻きついていた。

 

 小さく丸められた上質な紙片。

 

 青子は震える指で、それをほどいた。

 

 流れるような筆記体の文字だった。

 

 ―――今夜、零時。三咲高校、旧校舎にて待つ。三人で来たまえ。有珠の中のものと、少年の目を交換しよう。

 

 紙片を持つ青子の手が、白くなるほど握りしめられた。

 

 くしゃり、と紙が潰れる音。

 

「……行くんだろ」

 

 忉利が言った。

 

 青子は答えなかった。

 

 ただ、潰れた紙片を握りしめたまま、窓の外を見た。

 

 東の空が白く明けていく。

 

 その光の中で、青子の目に青い炎が灯っていた。

 

「……ええ」

 

 青子は静かに言った。

 

「行くわ。……姉貴を止めに」

 

 窓の外で、冬の朝日が、三咲の町を金色に染め上げていった。

 

 決戦の日の朝だった。

シエルの小説満足度調査

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