昼休みの生徒会室は珍しく静かだった。
「――旧校舎の鍵?」
鳶丸が書類から顔を上げた。
眉間に深い皺が寄っている。
「何に使うんだよ」
「訊かないで」
青子は、会長席の机の前に立ったまま言った。
「今夜だけ、貸して。明日の朝には返すから」
「あそこは取り壊し前で、立ち入り禁止だ。床は腐ってるし、窓は割れてる。夜中に入ったら、怪我じゃ済まねえぞ」
「わかってる」
「わかってねえだろ」
鳶丸は書類を机に叩きつけた。
「お前も、日景も、草の字も、揃いも揃って怪我してやがる。今朝は、三人とも遅刻してきやがった。で、今度は夜中に、立ち入り禁止の旧校舎か。何に首突っ込んでんだ、お前ら」
「……訊かないでって言ってるでしょ」
青子の声は静かだった。
静かすぎて、鳶丸は言葉に詰まった。
窓際の机で、金鹿が帳簿をつける手を止めていた。
壁際で、忉利が黙ってそのやり取りを見ていた。
長い沈黙のあとで、鳶丸は大きく舌打ちをした。
机の引き出しを乱暴に開ける。中から、古びた真鍮の鍵束を取り出した。
「……理事長室の金庫から、ちょろまかしてきたやつだ」
「え」
「お前がそのうち言い出すと思ってたんだよ」
鳶丸は、鍵束を青子の手のひらに押しつけた。
「明日の朝一で返せ。親父にバレたら、俺が殺される」
「…………ありがと」
「礼なんざ要らねえ」
鳶丸は忉利の方を見た。
「日景」
「……なんだよ」
「前に言ったよな」
忉利は鳶丸の目を見返した。
「倒れそうになったら、支えろって。……覚えてんだろうな」
「ああ」
「なら、いい」
鳶丸はまた書類に目を落とした。
それきり顔を上げなかった。
金鹿が帳簿を閉じる音がした。
「……静希くんは」
金鹿は窓の外を見たまま言った。
「今夜のバイト、休みって言いに来たわ。朝一で、わざわざ店まで」
「…………」
「理由訊いたら、『約束がある』って。……それだけ」
金鹿は青子の方を見なかった。
「あの人、嘘つけないから。だから、何も言わないの。言えないことは、言わないだけ」
鉛筆を机に置く。
「……帰ってきなさいよ。三人とも」
そっけない、いつもと同じ温度の声だった。
けれど、青子は、その声がほんの少しだけ震えていたのを聞き逃さなかった。
「――ええ」
青子は鍵束を握りしめた。
「明日の朝には、ちゃんと返しに来るわ」
◇
夕方、忉利は久遠寺邸の玄関ホールにある、古い黒電話の受話器を取った。
ダイヤルを回す。
呼び出し音が三回。
「――はい、Cafe HIKAGEです!」
晴華の元気な声だった。
「……おれだ」
「あ、お兄ちゃん! どうしたの、電話なんて珍しいじゃん」
「別に。……今日、帰り遅くなるから」
「帰りって、お兄ちゃん、今お屋敷に住んでるじゃん。帰ってこないじゃん」
「……そうだったな」
「変なお兄ちゃん」
電話の向こうで晴華がけらけらと笑った。
「ねえ、青子ちゃん元気? 今度いつお店来るの? クリスマス、一緒にケーキ食べようって言っといてよ!」
「……ああ。言っとく」
「絶対だよ? 約束だよ?」
「ああ」
「お父さーん、お兄ちゃんから電話ー!」
受話器の向こうで、ばたばたと足音が遠ざかっていく。
少しの沈黙のあとで、低い声が聞こえた。
「……なんだ」
「……いや。別に、何もねえよ」
「そうか」
父は、それきり黙っていた。
忉利も何も言えなかった。
受話器の向こうから、焙煎機の低い唸りと豆の爆ぜる音が、かすかに聞こえてくる。
いつもの店の音だった。
「……忉利」
「なんだよ」
「冷えるぞ」
それだけ言って、電話は切れた。
忉利はツーツーと鳴る受話器を、しばらく耳に当てたままでいた。
それから、首に巻いた濃紺のウールのマフラーを、きつく巻き直した。
◇
午後七時。
久遠寺邸の二階の露台に、青子は立っていた。
眼下の町に灯りが点り始めている。
背後で硝子戸が開いた。
「……またここかよ」
忉利だった。
「見張りよ。……最後の」
青子は振り返らなかった。
忉利は隣に並んだ。
しばらく二人とも、口を開かなかった。
「……姉貴が欲しがってるもの、って言ったでしょ。屋敷で。私の中にあるもの」
青子がぽつりと言った。
「……ああ」
「魔法よ」
忉利は青子の横顔を見た。
「お前の、あの青い光か」
「違うわ。あれは魔術。……魔法は、別のもの」
青子は、町の灯りを見下ろしたまま言った。
「魔術は手順よ。学べば誰でも、いつかは辿り着ける。……魔法は、違う。今の時代の人間が、どれだけ時間とお金をかけても、届かない奇跡。それを持ってる人間を魔法使いって呼ぶの」
「…………」
「お祖父ちゃんが、それだった。……で、三年前、私が、継いだ」
青子は、自分の胸に手を当てた。
「ここにあるの。……一回も、使ったことはないけど」
「……使えばどうなんだよ」
「わからないわ」
青子は小さく笑った。
「お祖父ちゃんは、教えてくれなかった。ただ、使ってはいけないことがある、って。子猫の時に、それだけ」
忉利は何も言わなかった。
青子は、露台の手すりを握りしめた。
「姉貴はそれが欲しいの。……本当なら、姉貴のものになるはずだった、それが」
「…………」
「だから今夜、姉貴を止めるのは、私。……あんたは、後ろにいて」
「……ああ」
「本当に、後ろよ。……前に出たら殴るから」
「殴られる前に、殴っとけよ」
青子は忉利の脛を蹴った。
それから、少しだけ笑った。
笑った顔が下手だった。
◇
午後九時。
合田教会の奥の部屋で、有珠は寝台の上に身体を起こしていた。
「……行くわ」
青子が寝台の脇で目を見開いた。
「有珠、あんた、その身体で――」
「零時に橙子の前にいなければ、この爆弾は解けないの。……ここで寝ていても、爆ぜるだけよ」
有珠は寝台の縁に足を下ろした。
顔はまだ白い。腹には詠梨の巻き直した包帯。それでも、その目は、いつもと同じように静かだった。
「それに」
有珠は青子を見た。
「わたしは、あなたを、あの女と二人きりでは戦わせないわ」
青子は何も言えなかった。
草十郎が寝台の脇に膝をついて、背中を向けた。
「有珠、乗ってくれ」
「……右腕だけで旧校舎まで、わたしを背負う気なの」
「背負うよ。山だと、怪我をした人は峠まで背負っていくものだったんだ」
「…………」
有珠はしばらく草十郎の背中を見ていた。
それから、何も言わずに、その背中に身体を預けた。
詠梨が部屋の入り口でそれを見ていた。
「……零時までは、この教会の時間が有珠さんの中のものを、少しだけ遅らせてくれます。教会を出れば、それも、終わります」
「わかってる」
青子はコートの襟を立てた。
その下は制服だった。
三咲高校の冬の制服。
「……青子さん。その格好で行くのですか」
「生徒会長として、立ち入り禁止の旧校舎に入るんだから。……制服くらい着ていかないと」
青子は、それだけ言って部屋を出ていった。
詠梨は少しだけ笑った。
「……あの子は、昔から、そういうところがありますね」
◇
午後十一時四十分。
三咲高校の裏門の前に、四つの影が立っていた。
正確には四つと一羽だった。
「……姐さんの匂い、するッス」
青子の肩の上で、ロビンが焦げた羽毛を震わせながら言った。
「上の方ッス。一番上の、奥の方」
裏門の向こう、本校舎の影に隠れるように、古い木造の建物が建っていた。
旧校舎。
三階建ての木造の校舎。戦前に建てられたもので、もう十年以上使われていない。来年の春には、取り壊されることが決まっていた。
黒く煤けた板壁。割れた窓。傾いた雨樋。昼間に見ればただの古ぼけた廃屋だ。
けれど、今夜の旧校舎は違っていた。
「……なんだ、あれ」
忉利は右目の布を外した。
まだ赤い右目で旧校舎を見上げる。
息が止まった。
線が、あった。
旧校舎の外壁を、屋根を、窓枠のひとつひとつを、無数の細い線がびっしりと覆い尽くしていた。
定規で引いたような完璧な直線。コンパスで描いたような完璧な曲線。それが幾重にも幾重にも重なり合い、編み込まれ、巨大な鳥籠のように旧校舎全体を包み込んでいる。
屋敷の扉越しに見た、あの女の周りの線と同じ筆致。
けれど、その密度は比べものにならなかった。
遊園地のスナークの糸とは、違った。あれは、何百年分の童話が、勝手に絡まり合って固まったものだった。
これは、一本残らず、一人の人間の手が引いたものだった。
一本の迷いもなく。
「……姉貴の結界ね」
青子が低く言った。
「旧校舎そのものを、工房に作り替えてる。……中に入ったら全部、姉貴の手のひらの上よ」
草十郎の背中で、有珠が目を細めた。
「……この結界の癖、知っているわ。屋敷の扉を開けたのと同じ手」
「入り口は」
「正面の昇降口。……でも、たぶんあそこも罠ね」
◇
忉利は、右目を細めて、旧校舎の外壁を端から端までなぞった。
鳥籠の目の細かさ。
その中に一か所だけ。
一階の東の端の、割れた窓の一つ。
そこだけ、線が薄かった。
窓枠に何十本もの線が、網のように張ってはいる。けれど、他の窓の何百本という密度に比べれば、明らかに疎らだった。
網の目をちょうど真ん中で束ねている、結び目のような線が、一本。
あれを切れば、網全体がほどける。
「……あそこ。線がちょっとだけ薄い」
忉利は窓を指さしかけて。
指を止めた。
「――待て」
「なに」
「……おかしい」
忉利は右目をもっと細めた。
痛んだ。構わなかった。
薄い網の結び目。
その結び目から一本だけ。
網の外へ細い線が伸びていた。
窓枠を離れて外壁を這い、地面へ下りて土の中を潜って。
窓の真下の、地面の一点へ。
そこに、何かが埋まっていた。
線が赤かった。
熱を持った赤。
屋敷の居間で、あの女が指で描いた、火の文字と同じ色。
「……罠だ」
忉利は低く言った。
「あの窓の結び目、切ったら、下の地面の何かに繋がってる。……火だ。たぶん」
青子の顔が強張った。
「……薄いところを、わざと作ってあるのね」
「おれが、見るの、知ってんだ。……あいつ」
忉利は奥歯を噛んだ。
屋敷の居間で。扉越しに見られた。
あの女は、自分の目が何をするのかを、もう知っている。
知っていて、薄いところを作った。
見える目なら、必ずそこを選ぶ、と。
「……手順を、全部用意してから戦う」
青子の腕の中で、有珠がかすれた声で言った。
「今朝、あの神父が言っていた通りね。……あなたの目の分の手順まで用意してあるのよ」
◇
忉利はもう一度、旧校舎を見上げた。
薄いところは罠。
なら。
濃いところは。
右目が焼けるように痛んだ。
視界の縁が赤く滲む。
それでも見た。
鳥籠のいちばん目の細かいところを。
正面の昇降口の真上。二階の廊下の窓の並び。そこに何百本もの線が、びっしりと重なり合っている。
その何百本の中に。
一本だけ。
建物の線と絡まり合っている線があった。
結界の線ではなかった。
旧校舎そのものの線だった。
二階の廊下の窓の、すぐ下を走る、錆びた雨樋。その雨樋を外壁に留めている、古い鉄の金具。その金具と外壁の板を繋いでいる線。
何十年も前に大工が打ち込んだ、釘の線。
結界は、その雨樋に沿って張られていた。雨樋を骨組みの一本に使っていた。
完璧な直線で建物の形をなぞって。
「……あの人、建物に沿って張ってる」
忉利は呟いた。
「全部、定規で引いたみたいにまっすぐ。……だから、建物の方が、曲がったら」
「……建物を曲げるの?」
「雨樋、一本。……二階の昇降口の真上の。あれが外れたら、あそこの結界、雨樋ごと、ずれる」
青子は忉利の顔を見た。
それから、旧校舎の二階の錆びた雨樋を見上げた。
「……結界そのものは切らないのね」
「結界は、あいつの手順だ。……雨樋は、あいつの手順じゃねえ」
忉利は右目を見開いた。
雨樋の金具と外壁の板を繋ぐ、錆びた釘の線を。
「――外れろ」
ぷつり。
古い鉄の金具が外壁から外れた。
錆びた雨樋が重さに負けて、ゆっくりと、外壁から剥がれていく。
ぎい、と金属の軋む音。
雨樋が斜めに傾いた。
それに沿って張られていた、何百本もの完璧な直線が。
雨樋と一緒に斜めに引っ張られた。
鳥籠の目の細かいところに。
ほんのわずかな歪みが生まれた。
二階の昇降口の真上の、窓の一枚。
その窓枠を覆っていた網が引っ張られて、端の方からほつれて。
人が一人、通れるほどの隙間が開いた。
「……っ、は……」
忉利は膝をついた。
右目の奥で、何かがちりっと焼けた。頬を、一筋、温かいものが伝う。
遊園地の夜ほどではなかった。
けれど、何かがまた、ほんの少しだけ抜けた。
「……ほらな。一本なら、平気だ」
「平気な顔じゃないわよ、バカ」
青子は、自分のハンカチで、忉利の目元を乱暴に拭った。
「……でも」
青子は斜めに傾いた雨樋を見上げた。
「あの人の手順の外から、開けたわね」
◇
二階の窓までは、傾いた雨樋を伝って登った。
草十郎が右腕一本で、有珠を背負ったまま先に。錆びた鉄を、山の岩場のように、迷わずに掴んで。
青子が続いた。
最後に忉利が。
窓の隙間をくぐり抜けた瞬間。
背中で、ぴん、と何かが張り直る音がした。
振り返る。
傾いたはずの雨樋に沿った、結界の線が。
ゆっくりと、元の完璧な直線に戻っていくところだった。
隙間が閉じた。
「……直ってく」
「当たり前よ。姉貴の結界だもの」
青子が低く言った。
「入れたけど。……もう、出られないってことよ」
◇
旧校舎の中は真っ暗だった。
廊下が長すぎた。
忉利は最初、それに気づかなかった。
割れた窓から差し込む月明かりを頼りに、古い木の廊下を四人は進んでいた。床板が踏むたびに、ぎし、ぎし、と軋む。黴と、埃と、古い木の匂い。壁には、色の褪せた掲示物が、剥がれかけたまま貼られている。
昭和の日付の学級新聞。遠足の写真。書き初めの半紙。
十年以上前にここで過ごした誰かの痕跡。
「……おかしい」
先頭を歩いていた草十郎が、足を止めた。
「さっきから、同じ掲示物の前を三回通ってる」
青子が息を呑んだ。
壁の書き初めの半紙。「希望」と、子供の拙い筆で書かれている。
確かに見覚えがあった。
「……廊下が繋がってる」
青子は壁に手を当てた。
「端まで行くと、また最初に戻る。……空間をねじ曲げてるんだわ」
その時。
忉利は気づいた。
書き初めの半紙の隣に。
同じ半紙がもう一枚、貼られていた。
さっき通った時には一枚だった。
「希望」。「希望」。
同じ筆で。同じ墨で。
「……増えてる」
草十郎が言った。
「掲示物が、さっきより多くなってるんだ」
廊下の天井を見上げた。
低かった。
さっきより、ほんの少しだけ低かった。
壁と壁の間も狭かった。四人が並んで歩けた廊下が、今は、三人がやっとの幅になっていた。
「――縮んでる」
有珠が草十郎の背中で、かすれた声で言った。
「回るたびに、廊下が縮んでいるわ。……一周ごとに、壁が寄ってくる。何周かすれば」
言わなくてもわかった。
何周かすれば、天井と床と壁が四人を挟み潰す。
◇
「どうすれば抜けられるんだ?」
草十郎が訊いた。
「……わからない。姉貴の術式は、複雑すぎて、私には――」
「線が見える」
忉利が言った。
右目を廊下の奥に向けていた。
「廊下の奥の突き当たりの壁。そこから線が、こっちに向かって折り返してきてる。……鏡に当たった光みたいに」
「……折り返し」
「たぶん、あそこで廊下がひっくり返されてんだ。奥に行ったつもりで、手前に戻されてる」
有珠が目を開けた。
「……折り返しの結び目を、一つだけ外せば」
かすれた声だった。
「廊下は、元に戻るわ。橙子の術式は、精密すぎるの。一箇所狂えば、全部が狂う」
忉利は廊下の奥の突き当たりを睨んだ。
何百本もの線が突き当たりの壁で、ぐにゃりと折れ曲がってこちらに戻ってきている。
その折れ目。
――また、罠か。
右目を細めた。
折れ目の結び目から外へ伸びる線は、なかった。
代わりに。
折れ目のすぐ隣に。
同じような折れ目が、もう一つあった。
二つ。
どちらも同じ形。同じ太さ。同じ角度。
片方は、本物の折り返し。
もう片方は。
「……二つある」
忉利の声が低くなった。
「折れ目が二つ。……たぶん、片方は偽物だ」
「偽物を切ったら」
「わかんねえ。……たぶん、ろくなことにならねえ」
廊下がまた軋んだ。
天井がさらに低くなった。草十郎が、有珠を背負ったまま、首を少し屈めた。
四周目。
壁の書き初めは四枚になっていた。「希望」。「希望」。「希望」。「希望」。
◇
忉利は二つの折れ目を見比べた。
同じだった。
線の太さも、曲がり方も、張りつめ方も。
完璧に同じ。
定規とコンパスで寸分違わず、引き写したように。
――完璧に、同じ。
「……有珠」
「……なに」
「お前の知ってる、あいつの線。……どんな線だ」
有珠は少しだけ黙った。
「……一本も、迷っていない線よ。……いつも、完璧」
「完璧、か」
忉利は右目を見開いた。
痛みが脳の奥まで突き刺さった。
構わずに見た。
二つの折れ目のずっと奥を。
線の始まりの方を。
片方の折れ目の線は。
どこまで遡っても、完璧だった。一本の揺らぎもなく、一か所の継ぎ目もなく。
もう片方の折れ目の線は。
遡っていくと、ずっと奥の方で。
ほんの、ほんのわずかに。
一度だけ描き直した跡が、あった。
一本の線を引いて。気に入らなくて、ほどいて。もう一度、引き直した。その継ぎ目が、髪の毛一本ほどのわずかな段差になって残っていた。
完璧な方が偽物だった。
偽物は、本物を写して作ったものだから。写すだけなら迷わない。
本物は、あの女が一から考えながら引いた線だから。
一度だけ迷った跡が残っている。
「――こっちだ」
忉利は、描き直しの跡のある方の折れ目を睨んだ。
「――切れろ」
◇
音はしなかった。
ただ、廊下の奥の空気が、ぐらりと揺れた。
突き当たりの壁が水面に映った像のように、波打って、溶けて、消えた。
壁の書き初めが四枚から一枚に戻った。
天井が元の高さに戻った。
その向こうに階段があった。
上へと続く、古い木の階段。
踊り場の割れた窓から、冬の月が見えていた。
「……っ、は……」
忉利は壁に手をついた。
右目の奥が熱い。さっきより、痛みが深い。頬をまた温かいものが伝っていく。
「忉利」
「……平気だ。行くぞ」
忉利は壁から手を離した。
青子は、何も言わずに、その腕を自分の肩に回させた。
「……おい」
「黙ってて。これくらい、させなさいよ」
青子の横顔は前を向いたままだった。
「……偽物、切ってたら」
小さな声で青子が言った。
「どうなってたの」
「知らねえ」
「……あんた、今、賭けたでしょ」
「賭けてねえ。……見たんだよ」
忉利は、青子の肩に、少しだけ体重を預けた。
「お前の姉貴も、迷うことがあるらしい。……一回だけな」
青子は何も言わなかった。
ただ、忉利の腕を自分の肩の上で、ぎゅっと握った。
◇
階段の三段目で。
有珠が草十郎の背中から、手を伸ばして、青子の袖を掴んだ。
「――止まって」
四人の足が止まった。
有珠の白い指が、階段の四段目を指していた。
踏み板の真ん中に。
目を凝らさなければわからないほど薄く、角張った文字が一つ刻まれていた。
赤い火の文字。
「……踏んだら、燃えるわ。階段ごと」
有珠の声はかすれていた。
「四段目だけじゃない。……五段目にも。七段目にも。踊り場にも」
忉利は右目で階段を見上げた。
踏み板の何枚かに。
赤い、熱を持った線がうずくまっていた。
踏まれるのを待っている。
「……切るか」
「切らないで」
青子が言った。
忉利の腕を肩からそっと下ろした。
「あんたは、もう使わない。……ここは、私がやる」
青子は四段目の前に立った。
右手を握った。
指先ではなかった。
拳、だった。
遊園地の夜、鏡の館で、回路を乱されて撃てなくなった時に、掴みかけたこつ。
撃てない間に、拳で撃つ。回路の熱を、指先ではなく拳の全部に、叩きつけるように流す。
「――っ!」
青子の拳が、四段目の踏み板の火の文字の真上に。
振り下ろされた。
青い光が拳の中で弾けた。
踏み板の上の赤い文字が。
燃え上がる前に、青い衝撃に叩き潰された。
文字がばらばらの赤い欠片になって、宙に散った。
踏み板が真っ二つに割れた。
「……っ、た……」
青子は拳を振った。
指の関節が赤く腫れていた。
「……五段目」
次の拳。
七段目。
踊り場。
青子は、階段を一段ずつ、拳で叩き割りながら上っていった。
文字が一つずつ潰れていく。
踏み板が一枚ずつ割れていく。
有珠が草十郎の背中で、それを見ていた。
「……乱暴ね」
「姉貴の手順は指で描くでしょ」
青子は、踊り場の火の文字を殴り潰しながら言った。
「なら、拳の方が速いのよ」
◇
二階の廊下には人形が並んでいた。
壁際に、ずらりと。
公園で、遊園地で、河原で見たものと同じ、顔のないつるりとした白い面の人形たち。十体、二十体――いや、廊下の奥の暗がりまで、ずっと続いている。
どれも動かなかった。
壁に背を預けて、授業の始まりを待つ生徒たちのように、行儀よく並んでいた。
「……動かねえな」
「動くわよ」
青子は両手に青い光を灯した。拳は、まだ腫れていた。
「私たちが真ん中まで来たら。……姉貴は、そういう人よ」
忉利は右目で人形の列を見た。
どの人形の頭の上にも、線が一本ずつ伸びていた。
遊園地のスナークの糸と同じ。操り人形の糸。
けれど、行き先が違った。
空ではなかった。
廊下のちょうど真ん中の、教室の扉。
「二年三組」の色褪せた札の下がった、扉の向こうへ。
何十本もの糸が一本残らず、そこへ束ねられていた。
「……真ん中の教室。二年三組」
忉利は低く言った。
「人形の糸、全部あそこに集まってる。……なんか、ある。あいつらを、動かしてるもんが」
青子が扉の札を見た。
それから忉利を見た。
「……あそこを潰したら」
「たぶん、全部は止まらねえ。……でも、動きは、ばらばらになる。糸を束ねてる手がなくなるから」
「なら」
草十郎が背中の有珠を、そっと青子の隣に下ろした。
「有珠、歩けるか?」
「……三階までなら」
「なら、蒼崎と日景と三人で上に行ってくれ」
草十郎は廊下の奥を見据えた。
右手で首の古傷を、確かめるように押さえた。
「俺が先に行く。人形が動いたら俺が引きつけるから、その間に蒼崎は真ん中の教室を撃ってくれ。撃ったら上へ行くんだ」
「静希くん、あんた左腕――」
「右は動くよ」
草十郎は振り返らずに言った。
「山で獣の群れの中を抜ける時は、一番足の速いやつが先に行って群れを散らしたんだ。ここだと、俺が一番足が速い」
青子は草十郎の背中を見つめた。
細い背中だった。
遊園地の時と同じ、無防備で、けれどまっすぐな背中。
「……死なないでよ」
「死なないよ。まっどべあのバイトが、明日からまたあるんだ」
有珠がその背中に、小さく言った。
「……静希君」
「ああ」
「庭の続きを、しなさい。……明日も」
草十郎は少しだけ首を傾げた。
それから頷いた。
「うん、するよ」
◇
草十郎は廊下の真ん中へと歩き出した。
一歩。
二歩。
十歩目で。
壁際の人形たちが一斉に首をもたげた。
ぎし、ぎし、ぎし、と。
何十もの関節が同時に軋む音が、廊下じゅうに響き渡った。
「――今だ、蒼崎」
草十郎の声と同時に、人形たちが壁から離れた。
草十郎は走った。
人形の群れのど真ん中へ。わざと足音を立てて。わざと、目立つように。
白い腕が四方から伸びてくる。草十郎はそれを、身を低くしてかいくぐる。一体の膝を蹴り砕き、その背中を踏み台にして跳び、次の一体の顔面に右の肘を叩き込む。額の裏の石が砕ける。崩れる。次。
青子は二年三組の扉に両手を突き出した。
「――スナップ、三連!」
青い礫が三発。
扉を枠ごと吹き飛ばした。
教室の中が見えた。
机と椅子が全部、壁際に寄せられていた。
教室の真ん中の教卓の上に。
木で組んだ大きな十字の枠が置かれていた。
操り人形の手板。
何十本もの糸がその十字の枠から、天井を伝って廊下へ伸びていた。
手板の真ん中に、小さな陶器の手が一つ。
指をゆっくりと動かしていた。
誰もいないのに。
ひとりでに糸を繰っていた。
「――潰す!」
青子の四発目。
青い礫が教卓ごと、十字の枠を撃ち抜いた。
木の枠が砕けた。
陶器の手が粉々に弾けた。
廊下の人形たちの動きが。
一瞬、全部止まった。
それから、また動き出した。
けれど、ばらばらだった。
糸を束ねる手を失った人形たちは、一体一体が勝手な方向を向いて、勝手に腕を振り回していた。隣の人形の面を殴りつける者。壁に向かって、延々と進み続ける者。
草十郎がその隙間を、縫うように走り抜けていく。
「――行け、蒼崎!」
◇
草十郎の右腕に、白い腕が一本絡みついた。
引き剥がす。肘。額。砕く。
息は乱れていなかった。
山で、獣の群れの中を抜ける時と、同じ呼吸だった。
「今よ、忉利! 有珠!」
青子は忉利の腕を肩に回したまま、有珠の手を引いて廊下の反対側、三階へと続く階段に向かって走った。
背後で陶器の砕ける音。軋む関節の音。
振り返りたかった。
振り返らなかった。
階段を駆け上がる。
踊り場を曲がる。
三階の廊下に飛び出した。
◇
三階の廊下は静かだった。
人形もいない。
ただ、長い廊下の突き当たりに、一枚の扉があった。
古い両開きの木の扉。上の方に剥げかけた金文字の札が掛かっている。
音楽室。
扉の隙間から、かすかに明かりが漏れていた。
温かい、橙色の。ランプの光のような。
そして、その光と一緒に、かすかに音楽が流れてきた。
ピアノだった。
古い、調律の狂ったピアノで、誰かが、ゆっくりと何かの曲を弾いている。
有珠が廊下の壁に手をついた。
顔が真っ白だった。
「……零時が、近いわ」
有珠は胸を押さえた。
「中のものが、……動き始めている」
忉利は右目で有珠を見た。
胸の奥の、あの結び目。冷たい線が有珠の線に縫いつけられている。
その結び目が脈打つように、赤く明滅していた。
一定の間隔で。時計の秒針のように。
ゆっくりと、速くなっていく。
「……青子」
「わかってる」
青子は扉の前に立った。
それから振り返って、忉利を見た。
「……後ろよ」
「ああ」
「前に出たら、殴る」
「聞いた」
青子は少しだけ口の端を持ち上げた。
腫れた拳を握り直した。
それから前を向いた。
忉利の腕を肩から下ろす。
忉利は、壁に背中を預けて、荒い息を整えた。右目の奥が、まだ熱い。視界の右半分が薄く赤い靄に覆われている。
今夜、二本。
雨樋と、折れ目。
あと何本、切れるのか。
わからなかった。
扉の向こうから、無数の線がこちらに向かって伸びてきていた。
定規で引いたような、あの線が。
有珠の胸の結び目から伸びる糸が、その扉の向こうへ、まっすぐに繋がっていた。
扉の向こうで、ピアノの音が止んだ。
「――ようこそ」
柔らかな声がした。
扉の向こうから。
「時間どおりね、青子。……それに、有珠も、忉利くんも」
少しだけ間があった。
「雨樋を外したのね、忉利くん。……それから、描き直しの跡を見つけたのね」
声がほんの少しだけ、楽しそうに弾んだ。
「私が、一度だけ、迷ったところを」
忉利の背筋を冷たいものが走った。
青子の手に、青い光が灯った。
扉が内側から、ゆっくりと開いていく。
橙色のランプの光が廊下に溢れ出した。
古い音楽室。並んだ木の椅子。黒板に書かれた色の褪せた五線譜。窓際の埃をかぶったグランドピアノ。
その鍵盤の前に、蒼崎橙子が座っていた。
眼鏡をかけて。
柔らかな微笑みを浮かべて。
短い髪がランプの光で、熾火の色に輝いていた。
「――あら」
橙子の目が、青子のコートの下を見た。
三咲高校の冬の制服。
「制服なのね」
橙子は、心底楽しそうに目を細めた。
「そういう格好で、姉のところに来るの。……あなたは、まだ、学生のつもりなのね、青子」
「……うるさいわよ」
「いいえ。褒めているのよ」
橙子は鍵盤の上にそっと手を置いた。
ぽーん、と。
調律の狂った低い音が一つだけ、音楽室に響いた。
「さあ、始めましょうか。……私たち姉妹の、最後の授業を」
旧校舎の古い柱時計が、どこか遠くで零時を打ち始めた。
有珠の胸の奥で、赤い結び目が、大きく脈打った。
シエルの小説満足度調査
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めちゃよかった
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よかった
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そこそこ
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びみょう