三咲の町の外れ、川を渡った丘の上に、小さな教会がある。
合田教会。
白い壁。赤い屋根。小さな鐘楼。町の年寄りたちが、日曜の朝に集まる、それだけの場所。
その教会に、魔術師が足を踏み入れることは、ほとんどない。
この町で唯一、蒼崎の網の外にある建物だからだ。
網の外。
つまり、あの女の手も、届かない場所。
決戦の日の朝、七時。
久遠寺邸の居間で、有珠は、ソファの上で目を開けた。
白い顔は、紙のように血の気がない。腹に巻かれた綿入れは、赤黒く固まっている。それでも、その目は、いつもと同じように、静かだった。
「……教会へ」
かすれた声で、有珠は言った。
「わたしを、教会へ、連れていって」
青子が、ソファの脇で、顔を上げた。
「……有珠。あんた、あの神父、大嫌いでしょ」
「嫌いよ」
有珠は、即答した。
「でも、あの男の教会は、この町で唯一、橙子の手が届かない場所。……零時までに、この爆弾をどうにかできる者がいるとしたら、あの男だけよ」
「…………」
「わたしのためではないわ。……あなたが、今夜、橙子と戦う時に。わたしの中のものが、あなたの足を引っ張らないように」
青子は、唇を噛んだ。
それから、草十郎の方を振り返った。
「……静希くん」
「ああ」
草十郎は、すでに立ち上がっていた。
汚れた浴衣を着替えて、右腕を、有珠の方に差し出している。
「運ぶ。久遠寺は、軽い」
「……あなたに、二度も運ばれるとは、思わなかったわ」
有珠は、目を伏せた。
「……借りが、増えるわね」
「借りではない」
草十郎は、有珠を、右腕で抱え上げた。
「庭の手入れの、続きをするだけだ」
冬の朝の坂道を、四人は、ゆっくりと下りていった。
草十郎が先頭。その腕の中で、有珠が、黒い外套にくるまって目を閉じている。青子が、その隣。忉利が、最後。
肩の上に、翼の焦げたロビンが、ぐったりととまっていた。
川を渡る。丘を上る。
白い壁の教会が、朝の光の中に、見えてきた。
忉利は、右目の白い眼帯を、指で押さえた。
昨日の夜、有珠の胸の奥に見た、あの結び目。冷たく、硬く、定規で引いたような線が、有珠の線に、無理やり縫いつけられていた。
そこから伸びる細い糸が、今も、町の東へ。旧校舎の方へ。
あの糸の先に、あの女がいる。
教会の門をくぐった瞬間。
糸が、ふっと、薄くなった。
消えたわけではない。ただ、この場所に入った途端、その糸が、遠く、細く、届きにくくなった。
網の、外。
「……ここ、線が違う」
忉利は、小さく言った。
「町の線が、入ってきてねえ」
「そうよ」
青子が、前を向いたまま答えた。
「教会は、蒼崎の網の外。……最初から、そうやって建てられてるの。魔術師の手が、届かないように」
礼拝堂の重い扉が、内側から、開いた。
「――おや」
背の高い男が、立っていた。
黒い司祭服。穏やかな顔立ち。見上げるほどの長身なのに、その足取りは、驚くほど静かだった。
「珍しいお客様ですね。……青子さんが、ご自分から教会にいらっしゃるなんて」
「……おはようございます、神父」
青子は、頭を下げなかった。
文柄詠梨。この教会の、司祭代理。
忉利は、町で何度か見かけたことがあった。穏やかで、にこやかで、近所の年寄りたちに評判のいい神父。
けれど、今朝の青子は、その神父を、刃物でも見るような目で見ていた。
詠梨の目が、草十郎の腕の中の有珠に、移った。
穏やかな微笑みが、ほんのわずかに、動きを止めた。
「……有珠さん」
「……久しぶりね、詠梨」
有珠は、目を閉じたまま、言った。
「言っておくけれど。……あなたに、頼みに来たのではないわ。あなたの教会に、来ただけ」
「ええ。わかっていますよ」
詠梨は、扉を、大きく開けた。
「どうぞ。……奥の部屋に、寝台があります」
礼拝堂の奥の、小さな部屋。
白い壁。白い寝台。窓から、朝の光が斜めに差し込んでいる。
有珠は、寝台の上に、そっと下ろされた。
詠梨は、その傍らに膝をついて、綿入れをほどき、傷を見た。
長いこと、黙っていた。
「……橙子さんの、仕事ですね」
「ええ」
「傷は、ふさがれています。ルーンで。朝までもたせるために。……見事な手際です。あの人は、昔から、人を殺さずに戦うのが上手かった」
「褒めている場合ではないでしょう」
「そうでしたね」
詠梨は、有珠の胸の上に、手をかざした。
しばらく、目を閉じていた。
「……ありますね。中に」
「ええ」
「零時、ですか」
「そう聞いたわ」
詠梨は、手を下ろした。
「取り出せません。私には」
部屋の空気が、冷えた。
「橙子さんのルーンは、彼女の名前で結ばれています。結んだ本人でなければ、解けない。……無理に引き剥がせば、有珠さんの命ごとです」
青子の拳が、握りしめられた。
「でも、遅らせることは、できます」
詠梨は、立ち上がった。
「この教会の中にいる限り、橙子さんのルーンは、外の力を受け取れません。零時に爆ぜるための時間の流れそのものを、少しだけ、鈍らせておくことができる。……一時間か、二時間か。それが、精一杯です」
「……それで、十分よ」
有珠は、目を閉じたまま言った。
「零時までに、青子が、橙子を止めるわ」
詠梨は、青子を見た。
青子は、何も言わなかった。
ただ、有珠の白い手を、両手で握りしめていた。
礼拝堂の最前列の長椅子に、青子は、座っていた。
高い天井。色硝子の窓から差し込む、青や赤の光の帯。古い木の長椅子が、祭壇に向かって整然と並んでいる。
隣に、忉利。
草十郎は、奥の部屋の、有珠の傍らに残っていた。
「――お待たせしました」
詠梨が、祭壇の脇から、ゆっくりと歩いてきた。
手に、小さな硝子の瓶。
「青子さん。腕を」
「……なんで」
「両腕、内側が焼けているでしょう。回路を、限界まで回した跡です。……昨日の河原で三十体、その前の遊園地で、それ以上」
青子は、渋々、コートの袖をまくった。
両腕の内側の皮膚が、赤く、爛れていた。遊園地の夜から、ずっと隠していたものだった。
詠梨は、瓶の中の透明な液を、指先で、その腕に塗っていった。
冷たかった。
「……あなたの祖父に、教わった薬です」
「…………」
「私と、律架さんは、あの人の弟子でした。あなたのお姉さんが工房に来る前の、ほんの数年ですが」
青子は、腕を見下ろしたまま、答えなかった。
「橙子さんのことを、訊きに来たのでしょう」
詠梨は、瓶の蓋を閉めた。
「弱点、というものは、ありませんよ。あの人は、勝つための手順を、すべて用意してから戦う人です。昔から、そうでした。相手の手札を読み、自分の手札を揃え、盤面が詰んでから、初めて駒を動かす。……あの人が負けるところを、私は一度も見たことがありません」
詠梨の声は、穏やかだった。
「ですから、弱点があるとすれば」
詠梨は、忉利の方を向いた。
「あの人の手順に、ないものでしょうね」
忉利は、眼帯の下で、右目がわずかに疼くのを感じた。
「……神父は」
青子が、低く言った。
「手を、貸してはくれないんですよね」
「蒼崎の姉妹喧嘩に、教会が口を出すわけにはいきませんから」
詠梨は、困ったように笑った。
「それに、私が行けば、有珠さんに、後で何を言われるかわかりません。あの方には、ずいぶん嫌われていますので」
「…………」
「代わりに、祈っておきましょう。あなた方の無事を」
それは、冗談なのか本気なのか、わからない言い方だった。
青子は、ふっと鼻で笑った。
「……相変わらず、うさんくさいわね、神父は」
「よく言われます」
祭壇の奥の扉から、修道服を着た若い女が出てきた。
手に、箒を持っている。目を、閉じたまま。
「神父。また礼拝堂でお客様と油を売って――」
女は、ぴたりと足を止めた。
閉じた目のまま、顔を、青子たちの方に向ける。
「……足音で、わかります。蒼崎さんですね。それと、初めての方が、お二人」
「おはよう、唯架さん」
「おはようございます」
周瀬唯架は、表情を硬くしたまま、箒を胸の前で握りしめた。
「魔術師が、朝から教会に何の用です」
「奥に、有珠が寝てる。……あんたの神父に、預けたわ」
「……久遠寺さんが」
唯架の閉じた瞼が、かすかに震えた。
「そう、ですか」
それから、唯架は、ふと、忉利の方に顔を向けた。
閉じた瞼の下で、何かを探るように。
「……あなた」
「……なんだよ」
「不思議な方ですね。魔術の匂いは、まるでしないのに」
唯架は、少しだけ首を傾げた。
「どうしてでしょう。あなたの前に立つと、何かに、切られそうな気がします」
忉利は、何も答えなかった。
唯架は、それ以上は何も言わずに、礼拝堂の床を掃き始めた。
その時。
礼拝堂の入り口の扉が、開いた。
もう一人、修道服の女が入ってきた。
唯架と、同じ顔。同じ背丈。同じ髪。
ただ、目は、開いていた。
そして、その目が、まっすぐに、忉利を見ていた。
「……姉さん。誰、それ」
唯架が、箒を止めた。
「律架。……蒼崎さんの、幼馴染の方だそうよ」
「ふうん」
周瀬律架は、長椅子の列の間を、ゆっくりと歩いてきた。
忉利の前で、足を止める。
白い眼帯を、じっと見た。
それから、眼帯の周りの、赤く染まった皮膚を。
「……その目」
律架の声は、唯架とは違って、少しだけ、乾いていた。
「ロンドンの、噂で聞いたことがあるわ。回路もないのに、術式を断つ目を持った子供が、この田舎町にいるって」
青子の身体が、強張った。
「……ロンドン?」
「協会よ。魔術師の元締め。……わたし、あそこと、少し、繋がりがあるの」
律架は、悪びれもせずに言った。
「といっても、噂の出どころは、わたしじゃないわ。もっと、別のところ。……この町の網が削られ始めた頃から、ロンドンには、いろんな話が流れてる」
律架は、忉利の目を、もう一度、見た。
そして、初めて、その顔から、余裕が消えた。
「……見せて。その目」
「……なんでだよ」
「確かめたいの」
忉利は、青子を見た。
青子は、唇を噛んで、それから、小さく頷いた。
忉利は、眼帯を、ずらした。
赤く充血した右目が、律架を見た。
律架の身体が、一歩、後ずさった。
声は、出なかった。
ただ、その目が、見開かれていた。
「……嘘でしょ」
掠れた声だった。
「回路が、ない。魔力も、ない。……なのに、その目、この教会の結界の縁を、今、見てる。見えてる。……協会の執行者だって、あれは、見えないのに」
忉利は、眼帯を戻した。
「見えるだけだ」
「見えるだけで、十分よ」
律架は、額に手を当てた。
「……ロンドンに、報告なんかしたら、大変なことになるわ。教会も、協会も、あなたを、放っておかない」
「……するのか」
「しないわよ。……姉さんが、怒るもの」
律架は、唯架の方を、ちらりと見た。
唯架は、箒を持ったまま、静かに言った。
「教会は、見たものを、勝手に報告したりはしません。……特に、この町のことは」
律架は、肩をすくめた。
「だってさ」
それから、青子の方を見た。
「でも、蒼崎の妹さん。……あなたのお姉さんが、その目に気づいたなら。あの人は、絶対に、諦めないわよ」
「……知ってるわ」
青子は、立ち上がった。
「だから、今夜、止めるの」
青子は、有珠の様子を見に、奥の部屋へ戻っていった。
礼拝堂には、忉利と、詠梨だけが残った。
いや。
奥の部屋から、草十郎が、静かに出てきた。
「久遠寺が、眠った」
「……そうか」
詠梨は、長椅子に腰を下ろした。
それから、草十郎と、忉利を、順番に見た。
「静希草十郎さん。……お座りなさい。少し、話をしましょう」
草十郎は、素直に、詠梨の向かいの長椅子に座った。
詠梨は、しばらく、草十郎の顔を見ていた。
「……あなたは、面白い人ですね」
「よく、言われる」
「でしょうね」
詠梨は、微笑んだ。
「唯架は、目が見えません。代わりに、人の気配を、誰よりも正確に読みます。魔術師でも、悪霊でも、獣でも、この教会に一歩入れば、あの子には、わかる」
「…………」
「それなのに、あなたのことは、足音でしか、わからなかった。……あなたには、気配というものが、ない。中身が、白紙なのです」
草十郎は、少しだけ首を傾げた。
「白紙」
「ええ。自我も、欲も、恐れも。普通の人間なら、その年でもう、山ほど溜め込んでいるはずのものが、あなたの中には、何もない。……まっさらな紙のように」
詠梨は、静かに訊いた。
「なぜ、山を下りたのですか」
草十郎は、すぐには答えなかった。
「……追い出された」
「それは、理由ではなく、経緯ですね」
「…………」
「あなたは、何かを、見に来たのではないですか。山にはなかった、何かを」
草十郎は、長いこと、黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「わからない。……でも、この町に来てから、毎日、初めてのものを見ている。それは、悪くない」
詠梨は、頷いた。
「それで、十分でしょう」
それから、忉利の方を向いた。
「日景さん」
「……なんだよ」
「あなたは、青子さんのことを、どこまで知っていますか」
忉利は、眉を寄せた。
「……幼馴染だ。小学校の前から」
「ええ。でも、青子さんが魔術師になった日のことは、知らないでしょう」
「…………」
「三年前の春。あの子は、祖父の洞穴で、蒼崎の跡を継ぎました。……その時、あの子は、それまでの自分を、殺したのです」
忉利の手が、膝の上で、止まった。
「殺した、というのは、比喩ではありませんよ。魔術師になるということは、それまでの人生を、終わらせるということです。普通の女の子として、町で育って、友達と笑って、将来の夢を語っていた、蒼崎青子という子供。……それを、あの子は、自分の手で、殺した。祖父の洞穴で。一人で」
詠梨の声は、穏やかだった。
「そうしなければ、蒼崎の跡は継げなかった。あの子は、それを、わかっていて、やった。……それから、あの子は、二度と、自分の過去を、他人に話さなくなった」
「…………」
「あなたに、話しましたか」
忉利は、答えられなかった。
話した。二日前の夜、屋敷の廊下で。魔術のことも、姉のことも、実家を出た理由も。
けれど、自分を殺した、とは、言わなかった。
「……話しかけては、いた」
詠梨は、小さく、笑った。
「なら、あなたは、あの子の、たった一人の例外なのでしょうね」
教会を出る時、詠梨は、扉のところまで、見送りに来た。
有珠は、寝台に残った。草十郎が、その傍らに、しばらく残ることになった。零時までに、青子が戻らなければ、草十郎が、有珠を旧校舎まで運ぶ。それが、有珠自身の頼みだった。
「日景さん」
振り返ると、詠梨は、扉に手をかけたまま、穏やかに微笑んでいた。
「一つ、教えておきましょう」
「……なんだよ」
「斬れる時に斬るのが、いちばんですよ」
詠梨の声は、穏やかなままだった。
「迷ったら、それで終わりです。……代行者が、教会で、最初に教わることです」
「…………」
「あなたの目は、迷う目だと、律架が言っていました。見えすぎるから、迷う。何を切ればいいか、何を切ってはいけないか。……見えない者は、迷いません」
詠梨は、忉利の眼帯を見た。
「今夜、迷わないことです」
忉利は、何も答えなかった。
その言葉の重さを、まだ、知らなかったから。
教会からの帰り道。
川沿いの土手の上で、青子は、足を止めた。
冬の川が、白く光っていた。
忉利は、その隣に立った。
「……神父と、何話してたのよ」
「静希のこと。……あと、お前のこと」
「私の、なに」
「三年前の春の話」
青子の肩が、ぴくりと動いた。
しばらく、川を見ていた。
「……殺した、って言われた?」
「……ああ」
青子は、小さく、笑った。
笑い方が、下手だった。
「そうよ。……殺したの。普通の私を。あの洞穴で。一人で」
青子は、コートのポケットに、両手を突っ込んだ。
「中学出たら、東京に行こうと思ってたのよ。あんたには言ったことなかったけど。……普通の高校行って、普通に大学行って、普通の会社に入って。姉貴みたいな、変な家の人間にならないで、普通に生きようって」
「…………」
「その私を、私が、殺したの。……三年前に。それから、私は、こっち側の人間」
忉利は、川を見ていた。
それから、ぼそりと言った。
「……殺してねえだろ」
「え?」
「ここにいるじゃねえか」
青子が、振り返った。
忉利は、川を見たまま、続けた。
「理科室の窓割った奴も。テープ伸びるまで同じ曲聴いてる奴も。ウサギ小屋の当番で三日飯食えなかった奴も。……全部、ここにいるだろ。おれの隣に」
「…………」
「殺せてねえよ、お前」
青子は、しばらく、忉利の横顔を見ていた。
それから、ぷいと、川の方を向いた。
「……ばか」
「知ってる」
「ほんとに、ばか。……なんで、そういうこと、そういう顔で言うのよ」
青子の声が、少しだけ、詰まった。
冬の川が、白く、光っていた。
「……忉利」
「ん」
「今夜。……使わないでね。その目」
三度目だった。
裏通りで。露台で。そして、今。
「使わなきゃいけねえ時は、使う」
忉利は、同じ答えを、返した。
「それ以外は、使わねえ」
「……神父に、斬れる時に斬れって、言われたんでしょ」
「言われた」
「あれ、代行者の教えなの。……迷わずに、殺す教え。あんたは、そっち側じゃないわ」
青子は、忉利の方を向いた。
「あんたは、迷っていいの。……迷って、切らないでいて」
忉利は、青子の目を見た。
それから、少しだけ、口の端を持ち上げた。
「……神父と、真逆のこと言うんだな」
「当たり前でしょ。あんな男の言うこと、聞かなくていいわよ」
「じゃあ、お前の言うことは」
「聞きなさいよ」
「……考えとく」
青子は、忉利の脛を、軽く蹴った。
それから、二人は、並んで、土手を歩き出した。
昼が、近づいていた。
午後には、生徒会室で、鳶丸に、旧校舎の鍵を借りに行く。
零時まで、あと、十二時間。