昼休みの生徒会室は、珍しく静かだった。
「――旧校舎の鍵?」
鳶丸が、書類から顔を上げた。
眉間に、深い皺が寄っている。
「何に使うんだよ」
「訊かないで」
青子は、会長席の机の前に立ったまま、言った。
「今夜だけ、貸して。明日の朝には返すから」
「あそこは取り壊し前で、立ち入り禁止だ。床は腐ってるし、窓は割れてる。夜中に入ったら、怪我じゃ済まねえぞ」
「わかってる」
「わかってねえだろ」
鳶丸は、書類を机に叩きつけた。
「お前も、日景も、静希も、揃いも揃って怪我してやがる。今朝は、三人とも、遅刻してきやがった。で、今度は夜中に、立ち入り禁止の旧校舎か。何に首突っ込んでんだ、お前ら」
「……訊かないでって、言ってるでしょ」
青子の声は、静かだった。
静かすぎて、鳶丸は、言葉に詰まった。
窓際の机で、金鹿が、帳簿をつける手を止めていた。
壁際で、忉利が、黙ってそのやり取りを見ていた。
長い沈黙のあとで、鳶丸は、大きく舌打ちをした。
机の引き出しを、乱暴に開ける。中から、古びた真鍮の鍵束を取り出した。
「……理事長室の金庫から、ちょろまかしてきたやつだ」
「え」
「お前が、そのうち言い出すと思ってたんだよ」
鳶丸は、鍵束を、青子の手のひらに押しつけた。
「明日の朝一で返せ。親父にバレたら、俺が殺される」
「…………ありがと」
「礼なんざ要らねえ」
鳶丸は、忉利の方を見た。
「日景」
「……なんだよ」
「前に、言ったよな」
忉利は、鳶丸の目を見返した。
「倒れそうになったら、支えろって。……覚えてんだろうな」
「ああ」
「なら、いい」
鳶丸は、また書類に目を落とした。
それきり、顔を上げなかった。
金鹿が、帳簿を閉じる音がした。
「……静希くんは」
金鹿は、窓の外を見たまま言った。
「今夜のバイト、休みって言いに来たわ。朝一で、わざわざ店まで」
「…………」
「理由訊いたら、『約束がある』って。……それだけ」
金鹿は、青子の方を見なかった。
「あの人、嘘つけないから。だから、何も言わないの。言えないことは、言わないだけ」
鉛筆を、机に置く。
「……帰ってきなさいよ。三人とも」
そっけない、いつもと同じ温度の声だった。
けれど、青子は、その声が、ほんの少しだけ震えていたのを聞き逃さなかった。
「――ええ」
青子は、鍵束を握りしめた。
「明日の朝には、ちゃんと返しに来るわ」
夕方、忉利は、久遠寺邸の玄関ホールにある、古い黒電話の受話器を取った。
ダイヤルを回す。
呼び出し音が、三回。
「――はい、Cafe HIKAGEです!」
晴華の、元気な声だった。
「……おれだ」
「あ、お兄ちゃん! どうしたの、電話なんて珍しいじゃん」
「別に。……今日、帰り遅くなるから」
「帰りって、お兄ちゃん、今お屋敷に住んでるじゃん。帰ってこないじゃん」
「……そうだったな」
「変なお兄ちゃん」
電話の向こうで、晴華がけらけらと笑った。
「ねえ、青子ちゃん元気? 今度いつお店来るの? クリスマス、一緒にケーキ食べようって言っといてよ!」
「……ああ。言っとく」
「絶対だよ? 約束だよ?」
「ああ」
「お父さーん、お兄ちゃんから電話ー!」
受話器の向こうで、ばたばたと足音が遠ざかっていく。
少しの沈黙のあとで、低い声が聞こえた。
「……なんだ」
「……いや。別に、何もねえよ」
「そうか」
父は、それきり、黙っていた。
忉利も、何も言えなかった。
受話器の向こうから、焙煎機の低い唸りと、豆の爆ぜる音が、かすかに聞こえてくる。
いつもの、店の音だった。
「……忉利」
「なんだよ」
「冷えるぞ」
それだけ言って、電話は切れた。
忉利は、ツーツーと鳴る受話器を、しばらく耳に当てたままでいた。
それから、首に巻いた、濃紺のウールのマフラーを、きつく巻き直した。
午後七時。
久遠寺邸の二階の露台に、青子は立っていた。
眼下の町に、灯りが点り始めている。
背後で、硝子戸が開いた。
「……また、ここかよ」
忉利だった。
「見張りよ。……最後の」
青子は、振り返らなかった。
忉利は、隣に並んだ。
しばらく、二人とも、口を開かなかった。
「……姉貴が欲しがってるもの、って、言ったでしょ。屋敷で。私の中にあるもの」
青子が、ぽつりと言った。
「……ああ」
「魔法よ」
忉利は、青子の横顔を見た。
「お前の、あの、青い光か」
「違うわ。あれは、魔術。……魔法は、別のもの」
青子は、町の灯りを見下ろしたまま、言った。
「魔術は、手順よ。学べば、誰でも、いつかは辿り着ける。……魔法は、違う。今の時代の人間が、どれだけ時間とお金をかけても、届かない奇跡。それを持ってる人間を、魔法使いって呼ぶの」
「…………」
「お祖父ちゃんが、それだった。……で、三年前、私が、継いだ」
青子は、自分の胸に、手を当てた。
「ここに、あるの。……一回も、使ったことはないけど」
「……使えば、どうなんだよ」
「わからないわ」
青子は、小さく笑った。
「お祖父ちゃんは、教えてくれなかった。ただ、使ってはいけないことがある、って。子猫の時に、それだけ」
忉利は、何も言わなかった。
青子は、露台の手すりを、握りしめた。
「姉貴は、それが欲しいの。……本当なら、姉貴のものになるはずだった、それが」
「…………」
「だから、今夜、姉貴を止めるのは、私。……あんたは、後ろにいて」
「……ああ」
「本当に、後ろよ。……前に出たら、殴るから」
「殴られる前に、殴っとけよ」
青子は、忉利の脛を、蹴った。
それから、少しだけ、笑った。
笑った顔が、下手だった。
午後九時。
合田教会の奥の部屋で、有珠は、寝台の上に身体を起こしていた。
「……行くわ」
青子が、寝台の脇で、目を見開いた。
「有珠、あんた、その身体で――」
「零時に、橙子の前にいなければ、この爆弾は解けないの。……ここで寝ていても、爆ぜるだけよ」
有珠は、寝台の縁に、足を下ろした。
顔は、まだ白い。腹には、詠梨の巻き直した包帯。それでも、その目は、いつもと同じように、静かだった。
「それに」
有珠は、青子を見た。
「わたしは、あなたを、あの女と二人きりでは、戦わせないわ」
青子は、何も言えなかった。
草十郎が、寝台の脇に膝をついて、背中を向けた。
「久遠寺。乗れ」
「……右腕だけで、旧校舎まで、わたしを背負う気なの」
「背負う。山では、怪我をした者は、峠まで背負って運ぶものだった」
「…………」
有珠は、しばらく草十郎の背中を見ていた。
それから、何も言わずに、その背中に、身体を預けた。
詠梨が、部屋の入り口で、それを見ていた。
「……零時までは、この教会の時間が、有珠さんの中のものを、少しだけ遅らせてくれます。教会を出れば、それも、終わります」
「わかってる」
青子は、コートの襟を立てた。
その下は、制服だった。
三咲高校の、冬の制服。
「……青子さん。その格好で、行くのですか」
「生徒会長として、立ち入り禁止の旧校舎に入るんだから。……制服くらい、着ていかないと」
青子は、それだけ言って、部屋を出ていった。
詠梨は、少しだけ、笑った。
「……あの子は、昔から、そういうところがありますね」
午後十一時四十分。
三咲高校の裏門の前に、四つの影が立っていた。
正確には、四つと一羽だった。
「……姉御の姐さんの匂い、するッス」
青子の肩の上で、ロビンが、焦げた羽毛を震わせながら言った。
「上の方ッス。一番上の、奥の方」
裏門の向こう、本校舎の影に隠れるように、古い木造の建物が建っていた。
旧校舎。
三階建ての、木造の校舎。戦前に建てられたもので、もう十年以上使われていない。来年の春には、取り壊されることが決まっていた。
黒く煤けた板壁。割れた窓。傾いた雨樋。昼間に見れば、ただの古ぼけた廃屋だ。
けれど、今夜の旧校舎は、違っていた。
「……なんだ、あれ」
忉利は、眼帯を外した。
まだ赤い右目で、旧校舎を見上げる。
息が、止まった。
線が、あった。
旧校舎の外壁を、屋根を、窓枠のひとつひとつを、無数の細い線が、びっしりと覆い尽くしていた。
定規で引いたような、完璧な直線。コンパスで描いたような、完璧な曲線。それが、幾重にも幾重にも重なり合い、編み込まれ、まるで巨大な鳥籠のように、旧校舎全体を包み込んでいる。
三日前、屋敷の扉越しに見た、あの女の周りの線と、同じ筆致。
けれど、その密度は、比べものにならなかった。
「……姉貴の、結界ね」
青子が、低く言った。
「旧校舎そのものを、工房に作り替えてる。この一ヶ月、ずっと、ここで。……中に入ったら、全部、姉貴の手のひらの上よ」
草十郎の背中で、有珠が、目を細めた。
「……この結界の癖、知っているわ。屋敷の扉を開けたのと、同じ手」
「入り口は」
「正面の昇降口。……でも、たぶん、あそこも罠ね」
「なら」
忉利は、旧校舎の側面、一階の、割れた窓の一つを指さした。
「あそこ。線が、ちょっとだけ薄い」
青子は、忉利の横顔を見た。
「……見えるの、そんなことまで」
「見えるんだから、仕方ねえだろ」
忉利は、右目を細めた。
薄い、と言っても、それは他と比べての話だった。窓枠には、何十本もの線が、網のように張り巡らされている。
そのうちの、一本。
網の目を、ちょうど真ん中で束ねている、結び目のような線。
あれを切れば、たぶん、網全体がほどける。
右目が、疼いた。
遊園地で、屋敷の居間で、何度も味わった、あの予感。これを使えば、また痛む。また、血が流れる。
「……忉利」
青子が、忉利の袖を掴んだ。
「使わなきゃいけない時以外は、使わないって言ったわよね」
「今が、その時だろ」
「…………」
「ここから入らねえと、あいつのとこまで行けねえ。……有珠の爆弾、解かせねえと」
忉利は、青子の手を、そっと袖から外した。
「一本だけだ。一本なら、たぶん平気だ」
青子は、唇を噛んだ。
それから、何も言わずに、忉利の背中に、手のひらを当てた。
温かかった。
忉利は、右目を見開いた。
結び目の線を、睨みつける。
「――切れろ」
ぷつり、と。
窓枠に張り巡らされていた網が、真ん中から、ほどけた。
ほどけた線が、蜘蛛の糸のように、夜風に流されて消えていく。
同時に、右目の奥で、何かが、ちりっと焼けた。
「っ……」
忉利は、片膝をついた。
けれど、遊園地の時ほどではなかった。頭の芯が、鈍く痛む。右目の端から、一筋だけ、温かいものが伝う。それだけだった。
「……ほらな。一本なら、平気だ」
「平気な顔じゃないわよ、バカ」
青子は、自分のハンカチで、忉利の目元を乱暴に拭った。
「……行くわよ」
草十郎が、有珠を背負ったまま、割れた窓枠に、右手をかけた。
音もなく、身体を中へと滑り込ませる。
続いて、青子が。
最後に、忉利が。
旧校舎の中は、真っ暗だった。
廊下が、長すぎた。
忉利は、最初、それに気づかなかった。
割れた窓から差し込む月明かりを頼りに、古い木の廊下を、四人は進んでいた。床板が、踏むたびに、ぎし、ぎし、と軋む。黴と、埃と、古い木の匂い。壁には、色の褪せた掲示物が、剥がれかけたまま貼られている。
昭和の日付の、学級新聞。遠足の写真。書き初めの半紙。
十年以上前に、ここで過ごした誰かの痕跡。
「……おかしい」
先頭を歩いていた草十郎が、足を止めた。
「さっきから、同じ掲示物の前を、三回通った」
青子が、息を呑んだ。
壁の、書き初めの半紙。「希望」と、子供の拙い筆で書かれている。
確かに、見覚えがあった。
「……廊下が、繋がってる」
青子は、壁に手を当てた。
「端まで行くと、また最初に戻る。……姉貴の結界よ。空間を、ねじ曲げてるんだわ」
「どうすれば、抜けられる」
「わからない。姉貴の術式は、複雑すぎて、私には――」
「線が見える」
忉利が、言った。
右目を、廊下の奥に向けている。
「廊下の奥の、突き当たりの壁。そこから、線が、こっちに向かって折り返してきてる。……遊園地の月の線みたいに」
「……折り返し」
「たぶん、あそこで、廊下がひっくり返されてんだ。奥に行ったつもりで、手前に戻されてる」
草十郎の背中で、有珠が、目を開けた。
「……折り返しの結び目を、一つだけ、外せば」
かすれた声だった。
「廊下は、元に戻るわ。橙子の術式は、精密すぎるの。一箇所狂えば、全部が狂う」
青子は、忉利の右目を、じっと見つめた。
「……その折り返しを、切れる?」
「たぶんな」
「また、血が出るわよ」
「さっきより、ちょっと多いくらいだろ」
忉利は、気だるげに肩をすくめた。
「お前の姉貴は、手順を全部用意してから戦うんだろ。……だったら、手順にねえことを、やってやるしかねえじゃねえか」
今朝、教会で聞いた、神父の言葉だった。
青子は、しばらく黙っていた。
それから、また、忉利の背中に、手のひらを当てた。
「……一本だけよ」
「わかってる」
忉利は、廊下の奥を睨んだ。
突き当たりの壁。そこで、何百本もの線が、まるで鏡に当たった光のように、ぐにゃりと折れ曲がって、こちらに戻ってきている。
その、折れ目。
「――切れろ」
音は、しなかった。
ただ、廊下の奥の空気が、ぐらりと揺れた。
突き当たりの壁が、まるで水面に映った像のように、波打って、溶けて、消えた。
その向こうに、階段があった。
上へと続く、古い木の階段。
踊り場の、割れた窓から、冬の月が見えていた。
「……っ、は……」
忉利は、壁に手をついた。
右目の奥が、熱い。さっきより、痛みが深い。頬を、また温かいものが伝っていく。
「忉利」
「……平気だ。行くぞ」
忉利は、壁から手を離した。
青子は、何も言わずに、その腕を自分の肩に回させた。
「……おい」
「黙ってて。これくらい、させなさいよ」
青子の横顔は、前を向いたままだった。
忉利は、何も言い返さなかった。
二階の廊下には、人形が並んでいた。
壁際に、ずらりと。
公園で、遊園地で、河原で見たものと同じ、顔のない、つるりとした白い面の人形たち。十体、二十体――いや、廊下の奥の暗がりまで、ずっと続いている。
どれも、動かなかった。
壁に背を預けて、まるで、授業の始まりを待つ生徒たちのように、行儀よく並んでいた。
「……動かねえな」
「動くわよ」
青子は、両手に、青い光を灯した。
「私たちが、真ん中まで来たら。……姉貴は、そういう人よ」
草十郎が、背中の有珠を、そっと、青子の隣に下ろした。
「久遠寺。歩けるか」
「……三階までなら」
「なら、蒼崎と、日景と、三人で上に行け」
草十郎は、廊下の奥を見据えた。
それから、右手で、首の革の首輪を、確かめるように押さえた。
「俺が、先に行く。人形が動いたら、俺が引きつける」
「静希くん、あんた左腕――」
「右は、動く」
草十郎は、振り返らずに言った。
「山では、獣の群れの中を抜ける時、一番足の速い者が先に行って、群れを散らした。……俺が、一番足が速い」
青子は、草十郎の背中を見つめた。
細い背中だった。
遊園地の時と同じ、無防備で、けれど、まっすぐな背中。
「……死なないでよ」
「死なない。まっどべあのバイトが、明日からまたある」
有珠が、その背中に、小さく言った。
「……静希君」
「ああ」
「庭の続きを、しなさい。……明日も」
草十郎は、少しだけ、首を傾げた。
それから、頷いた。
「する」
草十郎は、廊下の真ん中へと、歩き出した。
一歩。
二歩。
十歩目で。
壁際の人形たちが、一斉に、首をもたげた。
ぎし、ぎし、ぎし、と。
何十もの関節が、同時に軋む音が、廊下じゅうに響き渡った。
「――行け、蒼崎」
草十郎の声と同時に、人形たちが、壁から離れた。
草十郎は、走った。
人形の群れのど真ん中へ。わざと足音を立てて。わざと、目立つように。
白い腕が、四方から伸びてくる。草十郎は、それを、身を低くしてかいくぐる。一体の膝を蹴り砕き、その背中を踏み台にして跳び、また次の一体の顔面に、右の肘を叩き込む。額の裏の石が、砕ける。崩れる。次。
人形たちの白い面が、一斉に、草十郎の方を向いた。
三体が、同時に跳んだ。
草十郎は、廊下の壁を蹴った。身体が、横に跳ぶ。三本の白い腕が、さっきまで草十郎がいた空間を、交差して薙いだ。着地。すぐ隣の一体の、面の真ん中に、右の拳。石が砕ける。倒れる。その倒れかけた身体を、盾のように引き寄せて、次の一体の腕を受け止める。
陶器と陶器がぶつかる音。
草十郎の右腕に、白い腕が、一本、絡みついた。引き剥がす。肘。額。砕く。
息は、乱れていなかった。
山で、獣の群れの中を抜ける時と、同じ呼吸だった。
「今よ、忉利! 有珠!」
青子は、忉利の腕を肩に回したまま、有珠の手を引いて、廊下の反対側、三階へと続く階段に向かって、走った。
背後で、陶器の砕ける音。軋む関節の音。
振り返りたかった。
振り返らなかった。
階段を、駆け上がる。
踊り場を曲がる。
三階の廊下に、飛び出した。
三階の廊下は、静かだった。
人形も、いない。
ただ、長い廊下の突き当たりに、一枚の扉があった。
古い、両開きの木の扉。上の方に、剥げかけた金文字の札が掛かっている。
音楽室。
扉の隙間から、かすかに、明かりが漏れていた。
温かい、橙色の。
ランプの光のような。
そして、その光と一緒に、かすかに、音楽が流れてきた。
ピアノだった。
古い、調律の狂ったピアノで、誰かが、ゆっくりと何かの曲を弾いている。
有珠が、廊下の壁に、手をついた。
顔が、真っ白だった。
「……零時が、近いわ」
有珠は、胸を押さえた。
「中のものが、……動き始めている」
忉利は、右目で、有珠を見た。
胸の奥の、あの結び目。冷たい線が、有珠の線に、縫いつけられている。
その結び目が、脈打つように、赤く、明滅していた。
一定の間隔で。
時計の、秒針のように。
ゆっくりと、速く、なっていく。
「……青子」
「わかってる」
青子は、扉の前に立った。
それから、振り返って、忉利を見た。
「……後ろよ」
「ああ」
「前に出たら、殴る」
「聞いた」
青子は、少しだけ、口の端を持ち上げた。
それから、前を向いた。
忉利の腕を、肩から下ろす。
忉利は、壁に背中を預けて、荒い息を整えた。右目の奥が、まだ熱い。視界の右半分が、薄く赤い靄に覆われている。
それでも、見えていた。
扉の向こうから、無数の線が、こちらに向かって伸びてきていた。
定規で引いたような、あの線が。
有珠の胸の結び目から伸びる糸が、その扉の向こうへ、まっすぐに、繋がっていた。
扉の向こうで、ピアノの音が、止んだ。
「――ようこそ」
柔らかな声がした。
扉の向こうから。
「時間どおりね、青子。……それに、有珠も、忉利くんも」
青子の手に、青い光が灯った。
扉が、内側から、ゆっくりと開いていく。
橙色のランプの光が、廊下に溢れ出した。
古い音楽室。並んだ木の椅子。黒板に書かれた、色の褪せた五線譜。窓際の、埃をかぶったグランドピアノ。
その鍵盤の前に、蒼崎橙子が、座っていた。
眼鏡をかけて。
柔らかな微笑みを、浮かべて。
短い髪が、ランプの光で、熾火の色に輝いていた。
「――あら」
橙子の目が、青子のコートの下を、見た。
三咲高校の、冬の制服。
「制服なのね」
橙子は、心底、楽しそうに目を細めた。
「そういう格好で、姉のところに来るの。……あなたは、まだ、学生のつもりなのね、青子」
「……うるさいわよ」
「いいえ。褒めているのよ」
橙子は、鍵盤の上に、そっと手を置いた。
ぽーん、と。
調律の狂った、低い音が、一つだけ、音楽室に響いた。
「さあ、始めましょうか。……私たち姉妹の、最後の授業を」
旧校舎の古い柱時計が、どこか遠くで、零時を打ち始めた。
有珠の胸の奥で、赤い結び目が、大きく、脈打った。