ぽーん、と。
調律の狂ったピアノの音が、古い音楽室の埃っぽい空気の中に、ゆっくりと溶けていった。
蒼崎橙子は、鍵盤の上に置いた指をそっと離した。
眼鏡の奥で柔らかく目を細めている。ランプの橙色の光が、その横顔を、暖炉の前の母親のように穏やかに照らしていた。
「座ったら? 椅子ならたくさんあるわ」
音楽室には、古い木の椅子が何十脚も並んでいた。かつて、ここで合唱の練習をした生徒たちのための椅子。今はどれも埃をかぶって、黙って教壇の方を向いている。
「……有珠の中のものを解いて」
青子は入り口に立ったまま言った。
両手に青い光を灯したまま。
その隣で、有珠が壁に手をついて立っていた。白い顔。胸を押さえた指の下で、赤い結び目が、脈打つように明滅している。
「解くわよ。約束どおり」
橙子は、青子の背後の壁にもたれている忉利を見た。
「その子の目と、交換でね」
「ふざけないで」
「ふざけてなんかいないわ。私はいつだって真剣よ。……知っているでしょう、青子」
橙子は、右手の人差し指をそっと持ち上げた。
指先が、空中の何かを押さえるように止まる。
有珠の胸の結び目の明滅が、ぴたりと止まった。
「零時は、もう過ぎたわ。……これが爆ぜていないのは、私がこの指で押さえているからよ。指を離せば、有珠は内側から裂ける」
有珠の目が細められた。
「……趣味が悪いわね、橙子」
「知っているわ」
橙子はピアノの椅子から立ち上がった。
教壇に向かって、ゆっくりと歩く。ヒールの音が古い床板の上で、こつ、こつ、と響く。指先は、空中の一点を押さえたまま。
「ねえ、青子。今夜は少しだけ話をしましょう。久しぶりに会ったのだもの。……四年ぶりね。あなたが中二の春、私が家を出て以来」
「話すことなんてないわ」
「私にはあるのよ」
橙子は教壇の上に立った。
背後の黒板には、色の褪せた五線譜が、白墨で書かれたまま残っている。
「最後の授業よ。お祖父様の工房で、あなたに一度も教えてあげられなかったから」
「――その前に、一つ訊いておくわ」
橙子は、青子のコートの下の制服をもう一度見た。
「あなた、まだ自分が現役だと思っているの」
青子の眉が寄った。
「……なんの話よ」
「学生の、現役。生徒会長。期末試験。クリスマス。……そういうものの中に、まだ自分がいると思っている」
橙子は微笑んだ。
「魔術師としては、あなたは、三年前に始まったばかりの素人よ。なのに学生としては、まだ現役のつもり。……どっちつかずのまま、蒼崎の一番大事なものを抱えて平気な顔をしている」
「現役よ」
青子は即答した。
「学生としても。魔術師としても。……どっちも、私よ」
橙子の目が、ほんのわずかに細められた。
「そういうところが可愛いわね、青子。本当に昔から変わらない」
それから橙子は、教壇の縁に軽く腰を預けた。
「あなた、私があなたを恨んでいると思っているでしょう」
「…………」
「お祖父様が私ではなくあなたを選んだから。私の居場所を、あなたが奪ったから。だから私は、あなたが受け継いだものを一つずつ壊して回っている。……そう思っているのよね」
青子は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
橙子はふっと笑った。
それは柔らかな笑みだった。
けれど、その柔らかさの底に、何かひどく冷たいものが沈んでいた。
「恨んでなんかいないわよ」
橙子は、眼鏡のつるに指をかけた。
「あなたのことなんか、これっぽっちも」
眼鏡を外した。
その瞬間、音楽室の空気が凍りついた。
柔らかな微笑みが、顔から剥がれ落ちるように消えていく。代わりに現れたのは研究者の顔だった。標本を前にした、冷たく、透き通った、何の感情もない顔。
「―――私が憎んでいるのは、蒼崎という家だ」
声も変わっていた。
低く、硬く、抑揚のない。
「何代もかけて、たった一つのものを守り続けてきた家。それが何なのかも、ろくに理解しないまま、ただ受け継いで、ただ隠して、ただ次に渡してきた家。……私はその家で、跡取りとして育てられた。あらゆることを学んだ。この町の網の張り方も、結び目の場所も、五つの礎の位置も、すべて」
橙子は教壇から一歩降りた。
「そして最後に、お祖父様は私ではなく、何も知らないお前を選んだ。……理由も言わずにな」
「…………」
「お前はたまたま選ばれただけだ、青子。家が決めた、ただの受け皿だ。私が恨むほどの価値すらない」
青子の顔から、血の気が引いていった。
恨まれていると思っていた。
憎まれていると思っていた。
それでも、それは姉が自分を見ている証だと、心のどこかで思っていた。
「私が欲しいのは、お前ではない。お前の中にあるものだ」
橙子は青子の胸のあたりを指さした。
「お祖父様が何代もかけて守ってきたもの。お前が受け継いだもの。蒼崎の家が、その正体すら知らずに次へと渡してきた、たった一つの奇跡。……魔法。私は、それが何なのかを知りたい。解体して、分解して、その仕組みを隅々まで確かめたい」
橙子の目が細められた。
「それが、この世界の果てに手を届かせる、唯一の道かもしれないからだ」
「……そのために、有珠を。忉利を」
「手段だよ。有珠はお前を呼ぶための餌だ。そしてあの少年の目は」
橙子の視線が、青子の肩越しに忉利を捉えた。
「私の人形に、世界を正しく見る目を与えるためのものだ。……ついでに、とでも言っておこうか。今夜ここで、両方とも手に入れる」
青子の手の中で、青い光が激しく揺らいだ。
怒りだった。
悔しさだった。
そして、そのずっと奥に――子供の頃、年に一度帰ってくる姉を門の前でずっと待っていた、小さな自分の姿があった。
「――ふざ、けんな……ッ!!」
青子が撃った。
青い光が、音楽室の空気を裂いた。
スナップ。一工程の最速の魔弾。
橙子は動かなかった。
押さえていない方の左手の人差し指で。空中に一文字を描いた。
角張った、斧の刃のような文字。
描き終わるより早く、青い礫がそこに着いた。
弾かれた。
橙子の目の前、ほんの指一本分の空中で。見えない壁に当たって青い火花になって、四方に散った。散った火花が、埃をかぶった椅子の上に降り注いで、小さく焦げ跡を残した。
「一文字で足りるな」
橙子はつまらなそうに言った。
「回路が半分も戻っていない。……遊園地で無茶をしたか。相変わらず、加減を知らない子だ」
青子は答えずに撃ち続けた。
二発。三発。四発。
角度を変えて。高さを変えて。左手の指の届かない右の肩口を狙って。
橙子の左手は動かなかった。
代わりに、目が動いた。
青子の指先を見た。
四発目の礫が、青子の指先を離れた瞬間。
その礫が空中で、ぴたりと止まった。
縫い止められていた。
橙子の目が見ているものは、止まる。
止まった礫を、橙子は指先で軽く弾いた。
礫が向きを変えて、青子の方へ戻ってきた。
「――っ!」
青子は身体を捻った。自分の礫が、頬を掠めて、背後の窓硝子を粉々に砕いた。
冬の夜気が、割れた窓から音楽室に流れ込んできた。
「目と、手と。……二つあるうちの手が一つ、有珠の中のものを押さえている」
橙子は、右手の指先を空中の一点に据えたまま言った。
「だから、今夜の私は、片手と目だけだ。……それでも、お前一人くらいなら足りる」
◇
「――青子。右へ」
有珠の声だった。
壁際に手をついて立ったまま。
青子は迷わず右に跳んだ。
青子が立っていた床板の下から、何かが一斉に立ち上がった。
鉛の兵隊だった。
親指ほどの、小さな玩具の兵隊。赤い上着に黒い帽子。銃剣を肩に担いで。
二十五体。
どれも片脚しかなかった。
片脚の兵隊たちが、床板の上に一列に並んで。銃剣を教壇の橙子に向けて構えた。
一斉に跳んだ。
小さな身体が、床を蹴って、弾丸のように橙子の足元へ。
「……片脚の錫の兵隊か」
橙子はそれを一瞥した。
「アンデルセンだね。有珠。……君の母上の書斎の、三段目の棚の赤い背表紙の本だ」
橙子の目が、いちばん前の一体を捉えた。
止まった。
次の一体。次の一体。
橙子の目が動くたびに、兵隊が、一体ずつ空中で縫い止められていく。
けれど、二十五体。
目は二つしかない。
縫い止めきれなかった兵隊が三体、四体、橙子の足元に届いた。
銃剣が橙子の外套の裾を裂いた。
「有珠。……その身体で、まだプロイを出すか」
「出すわよ」
有珠の声はかすれていた。
けれど、その目には冬の湖の底の光があった。
「あなたの指が、わたしの中のものを押さえている間は、あなたの片手は塞がっているもの。……片手と目だけで。青子と、わたしの子たちを、同時に捌けるかしら」
橙子の眉が、わずかに動いた。
「……なるほど。爆弾を逆手に取ったか」
「あなたが教えてくれたのよ。昔。……相手の手を塞げって」
「そうだったかな」
橙子は、縫い止めた兵隊たちを見回した。
それから左手の指で、空中に別の一文字を描いた。
松明のような、鉤の形の文字。
赤く燃え上がった。
「――だが、錫の兵隊の最後の頁を覚えているかい」
縫い止められた兵隊たちの足元に。
小さな赤い炎が、次々と灯った。
「片脚の兵隊は、最後に、暖炉に投げ込まれて溶けるんだ。……小さな、ハートの形の錫の塊だけを残して」
炎が兵隊を包んだ。
鉛の身体が、とろりと溶けた。
一体。三体。十体。
床板の上に、小さな歪んだハートの形の鉛の塊が、ぽつり、ぽつりと残っていった。
有珠の目が細められた。
「……伝承に守られたものは、伝承に従って、殺す」
「そう。……鏡野でもそう教えたろう」
その瞬間。
青子が撃った。
兵隊を焼くために、橙子の左手が火の文字を描いていた。その一瞬。
左手の壁がない。
右手は有珠の中のものを押さえている。
目は燃える兵隊を見ていた。
青い礫が兵隊たちの炎の隙間を縫って。
橙子の胸元へ。
橙子は初めて、教壇から飛び退いた。
飛び退かなければならなかった。
青い光が、橙子のいた場所を貫いて、黒板を撃ち砕いた。白墨の五線譜が粉々に散って、雪のように舞った。
「――そこよ」
有珠が囁いた。
橙子が着地した床板が。
鉛色に変わっていた。
焼け残った最後の一体。
床板の継ぎ目にずっと伏せていた兵隊。
その銃剣が、下から橙子の靴底を貫いて、床板ごとその脚を縫い止めた。
「…………」
橙子は自分の足元を見下ろした。
それから有珠を見た。
それから青子を見た。
「……少しはやるようになったな。二人とも」
冷たい声だった。
「なら、少し本気を見せてもらおうか」
◇
左手の指が、床に向かって一文字を描いた。
音楽室じゅうの椅子が立ち上がった。
何十脚もの古い木の椅子。それが、脚を軋ませながら一斉に床から浮き上がり、形を変えていく。
背もたれが胴体に。四本の脚が手足に。座面が顔のない白い面に。
人形だった。
木の椅子から組み上げられた何十体もの人形が、音楽室を埋め尽くしていた。
「……っ、嘘でしょ」
青子が低く呻いた。
それだけではなかった。
橙子の足元から、赤く光る文字が床板の上を這うように広がっていった。角張った、見たこともない文字。それが教壇から、黒板から、窓枠から、音楽室のありとあらゆる場所に次々と刻まれていく。
文字が壁になった。
赤く光る半透明の壁。
それが音楽室を、いくつもの区画に切り分けていく。
青子と有珠の間に一枚。有珠と忉利の間に一枚。青子と忉利の間にも一枚。
そして教壇の橙子を囲むように。何枚も、何枚も。
燃え残った鉛の兵隊が、壁に押し潰されて床に沈んだ。
「――忉利! 有珠!」
青子の声が、赤い壁の向こうからくぐもって聞こえた。
壁の向こうで、青子の周りに椅子の人形が群がっていた。
◇
忉利は、扉の脇の壁を背に立ち上がった。
右目で赤い壁を見た。
線が見えた。
壁を形作る角張った文字の、ひとつひとつ。その文字と文字を、縦に、横に、斜めに繋いでいる線。
煉瓦の壁のようだった。
一つ一つの煉瓦が、文字。煉瓦と煉瓦を繋ぐ目地が、線。
何百個もの文字が、何千本もの線で組み上げられている。
全部切るのは無理だった。
けれど。
煉瓦の壁には要石がある。
アーチのいちばん上の、真ん中の一個。それを抜けば、両側から支え合っている全部が崩れる。
忉利は目を凝らした。
痛んだ。
構わずに見た。
壁のいちばん上の、少しだけ右寄りに。
他の文字より、ほんのわずかに太い線が集まっている文字が、一つ。
あれだ。
「――切れろ」
ぷつり。
要の文字と、その周りの文字を繋ぐ線がほどけた。
一枚目の壁が上から崩れた。
赤い文字が、ばらばらの欠片になって、床に降り注いで消えた。
右目の奥で、何かが焼けた。
崩れた壁の向こうで、有珠が、壁に背を預けて崩れかけていた。
忉利はその腕を掴んで支えた。
「……日景、忉利」
「立ってろ。……まだ終わってねえだろ」
◇
椅子の人形が襲いかかってきた。
三体。
忉利は有珠を背に庇って、一体目の椅子の脚でできた腕を、左腕で受けた。
重かった。木の脚が骨に響いた。
二体目が横から。
その時、青い光が二体目を横から撃ち砕いた。
青子だった。自分の区画の壁越しに。壁の要石が抜けた隙間から。
「こっちはいいから! あんたは、壁!」
三体目を、有珠の小さな声が止めた。
「……ロビン」
駒鳥が、焦げた翼で、三体目の顔のない面に体当たりした。人形の動きが、一瞬鈍る。その隙に忉利は、有珠の腕を引いて横に跳んだ。
二枚目の壁。
忉利は見た。
要の文字。
――なかった。
さっきと同じ位置になかった。
壁の上の方の、どこにも。
忉利は息を呑んだ。
太い線の集まる文字が、一つもない。何百個もの文字が、全部、同じ太さの線で均等に繋がれている。
一枚目を見ていたのだ。
あの女は。
自分がどこを切るのかを。
「――見たろ、今の」
忉利は、教壇の方の何枚もの壁の向こうの、橙子の影に向かって言った。
「……ずりいぞ」
壁の向こうで、橙子が少しだけ笑った気がした。
「切れる場所を教えてしまうからね。君の目は」
壁の向こうから声がした。
「同じ手順は二度は使わない。……さあ、どうする、少年」
忉利は二枚目の壁を睨んだ。
均等だった。
どこを切っても、一か所だけでは崩れない。周りの文字が、互いに支え合っている。
右目の奥が、焼けるように痛んだ。
視界が赤く滲んだ。
それでも見た。
見続けた。
文字と文字の線の、奥を。
線の始まりの方を。
一枚目と同じだった。
描き直しの跡を探した。
あの女が、この一瞬で組み直した壁だ。一枚目を見て、要石を消した。消すために、全部の線を均等に引き直した。
急いで。
急げば。
どこかに。
――あった。
壁の左の下の隅。床板に近いところ。
一か所だけ。
線と線の継ぎ目が、ほんのわずかにずれている。
急いで引き直した時に、ほんの髪の毛一本分、合わなかった継ぎ目。
そこだけ支え合いが弱い。
「――切れろ」
ぷつり。
継ぎ目がほどけた。
二枚目の壁が、左の下の隅からばらばらと崩れていった。
頭の芯がずきりと痛んだ。
視界が赤く滲んだ。
◇
「――忉利!」
崩れた壁の向こうから、青子が駆け寄ってきた。
右手の拳が、赤く腫れていた。階段の火の文字を殴り潰した拳で、椅子の人形の面を三つ、四つと叩き割ってきたのだろう。
「あんた、目――」
「平気だ」
「平気な顔じゃない!」
「……まだ壁がある」
忉利は教壇の方を見た。
橙子を囲む赤い壁が、まだ何枚も残っていた。
その向こうで、橙子が脚を鉛の銃剣に縫い止められたまま、静かに立っていた。
壁が橙子を守っていた。
あれを切らなければ。
あれを切らなければ、青子の光は橙子に届かない。
◇
三枚目。
また組み直されていた。
今度は継ぎ目のずれもなかった。
二枚目を切られた時から、あの女は三枚目を、ゆっくりと丁寧に引き直していたのだ。
描き直しの跡すら残らないように。
完璧に。
忉利は目を凝らした。
凝らした。
痛みが、脳の奥の、いちばん奥まで突き刺さった。
それでも。
見えた。
完璧な壁の線の一本一本の、ずっと、ずっと奥に。
壁と床板を繋いでいる線。
壁は、宙に浮いているのではなかった。床板に刻まれた文字から立ち上がっている。
壁そのものは完璧でも。
壁が立っている床板は。
何十年もこの音楽室で生徒たちに踏まれてきた、古い、腐りかけた、ただの木の板だった。
その板の節目の、ひび割れ。
「――切れろッ」
床板のひび割れの線を。
ぷつり。
古い床板が節目から二つに割れた。
割れた板の上に刻まれていた文字が、真っ二つに裂けた。
三枚目の壁が足元から崩れ落ちた。
鼻から温かいものが垂れた。
「……っ、は……」
膝が崩れかけた。
青子が忉利の腕を掴んだ。
「忉利、もういいわ! 下がって!」
「……まだだ。……あと、一枚」
◇
四枚目。
橙子の真正面の、最後の一枚。
その向こうに、橙子の顔が赤い光越しに揺れて見えていた。
眼鏡のない、冷たい研究者の顔。
その顔が。
ほんの少しだけ。
楽しそうに見えた。
「……見てみたまえ」
壁の向こうから橙子の声がした。
「最後の一枚は、君のために引いた」
忉利は見た。
四枚目の壁は。
線が見えなかった。
いや。
見えすぎた。
何百、何千、何万本もの線が、壁の中でぎっしりと渦を巻いていた。
一本一本が髪の毛よりも細く。
目で追いきれない。
見れば見るほど、線が増えていく。
見ようとする目の奥へ。
線の方から入り込んでくる。
「その目は、線を見る目だろう。……なら、線で溺れさせればいい」
橙子の声が静かに響いた。
「見なければ、切れない。見れば、溺れる。……さあ、少年。君の目は、どこまで見ていられるかな」
――見るな、と身体が言っていた。
見たら、戻ってこられない。
けれど。
見なければ、切れない。
切らなければ、青子の光は届かない。
有珠の中のものは、零時を過ぎて、あの女の指一本で押さえられている。
忉利は。
右目を見開いた。
渦の中へ。
何万本の線の真ん中へ。
――――。
線が流れ込んできた。
目の奥へ。脳の奥へ。
一本一本が熱い針になって。
その渦のいちばん底に。
一本だけ。
渦を回している、芯の線があった。
独楽の心棒のような。
「――切れろ」
四枚目。
その瞬間。
頭の中で、何かがぶちりと音を立てた。
◇
白い。
視界が真っ白に塗り潰されていた。
音が消えていた。
青子の声も、人形の軋む音も、自分の心臓の鼓動さえも、何も聞こえない。
ただ、頭の奥で何かが焼けていた。
熱い。熱い、熱い、熱い、熱い。脳の芯を真っ赤に焼けた鉄の杭で、ゆっくりと、ゆっくりと貫かれていくような。細い糸が一本、また一本と、ぷつり、ぷつりと焼き切れていくのが、はっきりとわかった。
一本切れるたびに、何かが消えていく。
晴華の声。
父のネルを振る手。
Cafe HIKAGEのカウンターの木目。
遠くなる。
薄くなる。
―――やばい。
初めてそう思った。
遊園地でも、屋敷の居間でも痛かった。死ぬかと思った。けれど、どこかでまだ戻ってこられると思っていた。
今は違った。
次に使ったら、戻ってこられない。
次に切ったら、この糸が全部焼き切れる。
晴華の声も、父の手も、カウンターの木目も、全部。
それから――
青子の顔も。
◇
視界が戻ってきた。
白い靄の向こうに、音楽室がぼんやりと滲んで見えた。
四枚目の壁は崩れていた。
赤い文字の欠片が、まだ宙を舞っていた。
その向こうで、教壇の上の橙子が。
左手の指先で、空中に一文字を描いていた。
四枚目を切らせている間に。
ずっと描いていたのだ。
赤く光る、鋭い槍のような文字。
それが、まっすぐに――忉利に向けられていた。
「……四枚。よく切った」
橙子の声は静かだった。
「では、五枚目の授業だ」
線が見えた。
槍の真ん中を貫く一本の線。
切れる。
切れば止まる。
―――切ったら、戻ってこられない。
ほんの一瞬だった。
瞬きひとつにも満たない、ほんのわずかなためらい。
――斬れる時に斬るのが、いちばんですよ。
――迷ったら、それで終わりです。
今朝の神父の声が、頭の奥で遠く響いた。
右目を見開くのが遅れた。
赤い槍が放たれた。
「――忉利ッ!!」
誰かが、忉利の前に飛び込んできた。
長い髪が視界いっぱいに広がった。
どん、と。
鈍い音がした。
忉利の身体に、温かい重みがぶつかってきた。
二人で床に倒れ込む。
古い床板が背中を打つ。
忉利の胸の上に、青子がいた。
「…………あお、こ」
青子は答えなかった。
忉利の胸に顔を埋めたまま、動かなかった。
その背中から。
赤い光の槍が突き抜けていた。
左の脇腹を、背中から前へとまっすぐに。
槍の先端が、忉利のシャツの上で赤くちりちりと光っている。
そして、それがすうっと消えた。
後に残ったのは、青子のコートに開いた焦げた穴と。
そこから溢れ出してくる、温かいものだけだった。
「青子」
忉利は身体を起こした。
青子の身体を腕の中に抱え込む。
重かった。力が入っていなかった。長い髪が、忉利の腕から床に垂れ落ちる。
「青子。おい。青子」
揺さぶる。
青子の瞼が震えた。
ゆっくりと目が開く。
「…………っ、は……」
青子は息を吸おうとして、咳き込んだ。
唇の端から、赤いものが一筋流れた。
「おい、しっかりしろ。青子」
忉利の手が、青子の脇腹に触れた。
濡れていた。
温かくて、ぬるりとしていて、止まらなかった。コートの焦げた穴から、どくどくと脈を打つように溢れ出してくる。
押さえても、押さえても、指の間から溢れ出してくる。
「……なんで」
声が震えていた。
自分の声だと思えなかった。
「なんで庇ったんだよ。おれが、おれが切ればよかったのに。おれが――」
「…………あんた」
青子がかすれた声で言った。
力の入らない手を、ゆっくりと持ち上げる。
忉利の頬に触れた。
「……怪我、ない……?」
忉利の喉が詰まった。
何も言えなかった。
「……よかった」
青子は、少しだけ笑った。
血の気の引いた唇で。
「だから……言ったでしょ。使わなきゃいけない時以外は……使うなって……」
「……喋んな」
「あんたが……壊れたら……私……」
「喋んなって言ってんだろ!」
怒鳴った。
青子は驚いたように、少しだけ目を見開いた。
それから、また少しだけ笑った。
「……あんたが、怒鳴るの……珍しいわね……」
その手が、忉利の頬からずるりと落ちた。
瞼が半分閉じかける。
「――青子!」
まだ息はあった。
浅く、速く、途切れ途切れに。けれど、確かにあった。
青子の身体の下の床板に、赤い染みがゆっくりと広がっていく。
ランプの光が、その赤を黒く照らしていた。
壁際で、有珠が床に膝をついていた。
立とうとして立てなかった。
その身体を、橙子の目が縫い止めていた。
「動くな、有珠」
橙子の声が静かに落ちた。
「動けば、指を離す」
有珠は動けなかった。
ただ、床の上の青子を見ていた。
その白い指が床板を掻いていた。
◇
「……迷ったな、少年」
声は頭上から降ってきた。
忉利は顔を上げた。
橙子がそこに立っていた。
赤い壁は、もう消えていた。人形たちも動きを止めて、壁際に控えている。音楽室の真ん中に、橙子と、忉利と、忉利の腕の中の青子だけがいた。
橙子は二人を見下ろしていた。
その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
妹が、血を流して倒れているのに。
「あの槍の線、君には見えていたはずだ。見えていて、切らなかった。……いや、切れなかった、と言うべきかな」
「…………」
「痛みが怖くなったのだろう」
橙子は、忉利の右目をじっと見つめた。
「無理もない。回路もなしに、あれだけの神秘を切り続けたんだ。君の脳は、もう限界だよ。あと一度、本気で使えば、神経が焼き切れて君は二度と目を覚まさないかもしれない」
橙子は膝を折って、忉利と目線を合わせた。
「だから、提案だ」
優しい声ではなかった。
ただ、事実を並べるだけの平坦な声だった。
「その目を私に渡したまえ。そうすれば、青子の傷を塞いであげよう。私なら、まだ間に合う。有珠の中のものも解く」
「…………」
「君はその目を失う。けれど、命は失わない。青子も有珠も、生き延びる。……悪い取引ではないだろう?」
嘘なことなんて分かりきっている。
忉利は腕の中の青子を見た。
浅い息。血の気の引いた顔。閉じかけた瞼。
それから橙子を見た。
眼鏡のない、冷たい目。妹の血を見ても少しも揺らがない目。
「……てめえ」
低い声だった。
腹の底から絞り出すような声だった。
「自分の妹だろうが」
「そうだね」
「なんで平気な顔してられんだよ」
「平気なわけではないよ」
橙子は青子の顔に、ちらりと目をやった。
「ただ、今はそれより優先すべきことがあるだけだ。……私は、魔術師だからね」
忉利は奥歯を、ぎり、と噛みしめた。
右目が疼いていた。
ずきり、ずきりと脈を打つように。
まだ見えていた。橙子の周りの、無数の線。定規で引いたような、あの冷たい線が。
切れる。
たぶん、今なら切れる。
けれど、切ったら――
「……答えが出ないようだね」
橙子は立ち上がった。
「なら、少し時間をあげよう。ほんの少しだけ。……青子の血が、止まらなくなるまでの間だけ」
橙子は音楽室の窓の方に目をやった。
「それに、うちの子も、そろそろ下の遊びに飽きた頃だ」
その時。
旧校舎の下の階から。
獣の遠吠えが、響き渡った。
長く、高く、夜を裂くような。
人間の喉から出る声ではなかった。
◇
同じ頃、旧校舎の二階の廊下で、静希草十郎は壁に背中を預けて荒い息を吐いていた。
足元に、白い陶器の破片が山のように散らばっていた。
動いている人形はもう一体もいない。
右の拳が血まみれだった。自分の血か、人形の欠片で切ったのかわからない。左腕の包帯は、いつの間にかほどけて、床に落ちていた。
「……終わったか」
呟いて、草十郎は階段の方に目をやった。
上の階から、かすかに青子の叫び声が聞こえた気がした。
行かなくては。
壁から背中を離して、一歩踏み出した。
その時。
廊下の反対側の突き当たりの、割れた窓から。
金色の影が、音もなく滑り込んできた。
「――あは」
幼い声だった。
月明かりの下に、金色の髪の少年が立っていた。
裸足で。薄い服一枚で。冬の夜気の中で、少しも寒そうな素振りを見せずに。
その金色の目が、草十郎をまっすぐに見つめていた。
「見つけた」
少年は嬉しそうに笑った。
口の端から白い牙が覗いた。
「キミ、ボクの匂い、わかるんだ。……トーコの外套、嗅いだ時、変な顔してたもんね」
草十郎は答えなかった。
ただ、右の拳をゆっくりと握り直した。
首の古傷が疼いた。子供の頃、山の犬に噛まれた場所。左腕の古傷も、同じように、じんと熱を持っていた。
犬の匂い。
獣の匂い。
山で何度も嗅いだ。村の男たちが、槍を持って、夜の山に入っていく時の匂い。戻ってこなかった者たちの、最後の匂い。
鏡野で久遠寺の腹を裂いた匂い。
「トーコがね、上で遊んでるの。ボク、下で待ってろって言われたんだけど」
少年は、つまらなそうに、足元の人形の破片を蹴飛ばした。
「退屈なんだもん。……ねえ、キミ、ボクと遊んでよ」
少年の身体が変わり始めた。
背が伸びる。腕が太くなる。金色の髪が、背中に向かって逆立ち、たてがみのように広がっていく。指の先から鉤爪が伸びる。
月明かりの下で、金色の獣が低く唸った。
「すぐに壊れないでね」
草十郎は、一歩も退かなかった。
ただ、静かに息を吸った。
山で覚えた呼吸。獣と向き合う時の、呼吸。
恐怖はあった。
犬は苦手だった。
けれど、上の階で蒼崎が叫んでいた。日景が、あの目で、また無理をしているのかもしれない。久遠寺の中で、あの結び目がまだ脈打っているかもしれない。
なら、ここで、この獣を上に行かせるわけにはいかなかった。
「……山だと」
草十郎は静かに言った。
「人を食う獣が出たら、村の男が全員で行ったものなんだ」
「ふうん?」
「今夜は俺しかいないな」
獣が跳んだ。
金色の閃光が、月明かりの廊下を一直線に走った。
草十郎の姿がその閃光に呑み込まれた。
鈍い、重い音。
壁の板が砕け散った。
―――旧校舎の三階、音楽室で。
忉利は、腕の中の青子を強く抱きしめていた。
青子の息が、少しずつ浅くなっていく。
指の間から溢れる血が止まらない。
下の階から、獣の咆哮と何かが砕ける音が、立て続けに響いてくる。
橙子は、窓辺に立って、静かに忉利の答えを待っていた。片手の指先で、空中の一点を押さえたまま。
壁際で、有珠が縫い止められたまま床を掻いていた。
右目が疼いていた。
ずきり。
ずきり。
まるで何かを急かすように。
シエルの小説満足度調査
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びみょう