夜明けの色を見る眼   作:にんら

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最後の授業

 ぽーん、と。

 

 調律の狂ったピアノの音が、古い音楽室の埃っぽい空気の中に、ゆっくりと溶けていった。

 

 蒼崎橙子は、鍵盤の上に置いた指をそっと離した。

 

 眼鏡の奥で柔らかく目を細めている。ランプの橙色の光が、その横顔を、暖炉の前の母親のように穏やかに照らしていた。

 

「座ったら? 椅子ならたくさんあるわ」

 

 音楽室には、古い木の椅子が何十脚も並んでいた。かつて、ここで合唱の練習をした生徒たちのための椅子。今はどれも埃をかぶって、黙って教壇の方を向いている。

 

「……有珠の中のものを解いて」

 

 青子は入り口に立ったまま言った。

 

 両手に青い光を灯したまま。

 

 その隣で、有珠が壁に手をついて立っていた。白い顔。胸を押さえた指の下で、赤い結び目が、脈打つように明滅している。

 

「解くわよ。約束どおり」

 

 橙子は、青子の背後の壁にもたれている忉利を見た。

 

「その子の目と、交換でね」

 

「ふざけないで」

 

「ふざけてなんかいないわ。私はいつだって真剣よ。……知っているでしょう、青子」

 

 橙子は、右手の人差し指をそっと持ち上げた。

 

 指先が、空中の何かを押さえるように止まる。

 

 有珠の胸の結び目の明滅が、ぴたりと止まった。

 

「零時は、もう過ぎたわ。……これが爆ぜていないのは、私がこの指で押さえているからよ。指を離せば、有珠は内側から裂ける」

 

 有珠の目が細められた。

 

「……趣味が悪いわね、橙子」

 

「知っているわ」

 

 橙子はピアノの椅子から立ち上がった。

 

 教壇に向かって、ゆっくりと歩く。ヒールの音が古い床板の上で、こつ、こつ、と響く。指先は、空中の一点を押さえたまま。

 

「ねえ、青子。今夜は少しだけ話をしましょう。久しぶりに会ったのだもの。……四年ぶりね。あなたが中二の春、私が家を出て以来」

 

「話すことなんてないわ」

 

「私にはあるのよ」

 

 橙子は教壇の上に立った。

 

 背後の黒板には、色の褪せた五線譜が、白墨で書かれたまま残っている。

 

「最後の授業よ。お祖父様の工房で、あなたに一度も教えてあげられなかったから」

 

「――その前に、一つ訊いておくわ」

 

 橙子は、青子のコートの下の制服をもう一度見た。

 

「あなた、まだ自分が現役だと思っているの」

 

 青子の眉が寄った。

 

「……なんの話よ」

 

「学生の、現役。生徒会長。期末試験。クリスマス。……そういうものの中に、まだ自分がいると思っている」

 

 橙子は微笑んだ。

 

「魔術師としては、あなたは、三年前に始まったばかりの素人よ。なのに学生としては、まだ現役のつもり。……どっちつかずのまま、蒼崎の一番大事なものを抱えて平気な顔をしている」

 

「現役よ」

 

 青子は即答した。

 

「学生としても。魔術師としても。……どっちも、私よ」

 

 橙子の目が、ほんのわずかに細められた。

 

「そういうところが可愛いわね、青子。本当に昔から変わらない」

 

 それから橙子は、教壇の縁に軽く腰を預けた。

 

「あなた、私があなたを恨んでいると思っているでしょう」

 

「…………」

 

「お祖父様が私ではなくあなたを選んだから。私の居場所を、あなたが奪ったから。だから私は、あなたが受け継いだものを一つずつ壊して回っている。……そう思っているのよね」

 

 青子は答えなかった。

 

 答えないことが、答えだった。

 

 橙子はふっと笑った。

 

 それは柔らかな笑みだった。

 

 けれど、その柔らかさの底に、何かひどく冷たいものが沈んでいた。

 

「恨んでなんかいないわよ」

 

 橙子は、眼鏡のつるに指をかけた。

 

「あなたのことなんか、これっぽっちも」

 

 眼鏡を外した。

 

 その瞬間、音楽室の空気が凍りついた。

 

 柔らかな微笑みが、顔から剥がれ落ちるように消えていく。代わりに現れたのは研究者の顔だった。標本を前にした、冷たく、透き通った、何の感情もない顔。

 

「―――私が憎んでいるのは、蒼崎という家だ」

 

 声も変わっていた。

 

 低く、硬く、抑揚のない。

 

「何代もかけて、たった一つのものを守り続けてきた家。それが何なのかも、ろくに理解しないまま、ただ受け継いで、ただ隠して、ただ次に渡してきた家。……私はその家で、跡取りとして育てられた。あらゆることを学んだ。この町の網の張り方も、結び目の場所も、五つの礎の位置も、すべて」

 

 橙子は教壇から一歩降りた。

 

「そして最後に、お祖父様は私ではなく、何も知らないお前を選んだ。……理由も言わずにな」

 

「…………」

 

「お前はたまたま選ばれただけだ、青子。家が決めた、ただの受け皿だ。私が恨むほどの価値すらない」

 

 青子の顔から、血の気が引いていった。

 

 恨まれていると思っていた。

 

 憎まれていると思っていた。

 

 それでも、それは姉が自分を見ている証だと、心のどこかで思っていた。

 

「私が欲しいのは、お前ではない。お前の中にあるものだ」

 

 橙子は青子の胸のあたりを指さした。

 

「お祖父様が何代もかけて守ってきたもの。お前が受け継いだもの。蒼崎の家が、その正体すら知らずに次へと渡してきた、たった一つの奇跡。……魔法。私は、それが何なのかを知りたい。解体して、分解して、その仕組みを隅々まで確かめたい」

 

 橙子の目が細められた。

 

「それが、この世界の果てに手を届かせる、唯一の道かもしれないからだ」

 

「……そのために、有珠を。忉利を」

 

「手段だよ。有珠はお前を呼ぶための餌だ。そしてあの少年の目は」

 

 橙子の視線が、青子の肩越しに忉利を捉えた。

 

「私の人形に、世界を正しく見る目を与えるためのものだ。……ついでに、とでも言っておこうか。今夜ここで、両方とも手に入れる」

 

 青子の手の中で、青い光が激しく揺らいだ。

 

 怒りだった。

 

 悔しさだった。

 

 そして、そのずっと奥に――子供の頃、年に一度帰ってくる姉を門の前でずっと待っていた、小さな自分の姿があった。

 

「――ふざ、けんな……ッ!!」

 

 青子が撃った。

 

 青い光が、音楽室の空気を裂いた。

 

 スナップ。一工程の最速の魔弾。

 

 橙子は動かなかった。

 

 押さえていない方の左手の人差し指で。空中に一文字を描いた。

 

 角張った、斧の刃のような文字。

 

 描き終わるより早く、青い礫がそこに着いた。

 

 弾かれた。

 

 橙子の目の前、ほんの指一本分の空中で。見えない壁に当たって青い火花になって、四方に散った。散った火花が、埃をかぶった椅子の上に降り注いで、小さく焦げ跡を残した。

 

「一文字で足りるな」

 

 橙子はつまらなそうに言った。

 

「回路が半分も戻っていない。……遊園地で無茶をしたか。相変わらず、加減を知らない子だ」

 

 青子は答えずに撃ち続けた。

 

 二発。三発。四発。

 

 角度を変えて。高さを変えて。左手の指の届かない右の肩口を狙って。

 

 橙子の左手は動かなかった。

 

 代わりに、目が動いた。

 

 青子の指先を見た。

 

 四発目の礫が、青子の指先を離れた瞬間。

 

 その礫が空中で、ぴたりと止まった。

 

 縫い止められていた。

 

 橙子の目が見ているものは、止まる。

 

 止まった礫を、橙子は指先で軽く弾いた。

 

 礫が向きを変えて、青子の方へ戻ってきた。

 

「――っ!」

 

 青子は身体を捻った。自分の礫が、頬を掠めて、背後の窓硝子を粉々に砕いた。

 

 冬の夜気が、割れた窓から音楽室に流れ込んできた。

 

「目と、手と。……二つあるうちの手が一つ、有珠の中のものを押さえている」

 

 橙子は、右手の指先を空中の一点に据えたまま言った。

 

「だから、今夜の私は、片手と目だけだ。……それでも、お前一人くらいなら足りる」

 

 

◇

 

 

「――青子。右へ」

 

 有珠の声だった。

 

 壁際に手をついて立ったまま。

 

 青子は迷わず右に跳んだ。

 

 青子が立っていた床板の下から、何かが一斉に立ち上がった。

 

 鉛の兵隊だった。

 

 親指ほどの、小さな玩具の兵隊。赤い上着に黒い帽子。銃剣を肩に担いで。

 

 二十五体。

 

 どれも片脚しかなかった。

 

 片脚の兵隊たちが、床板の上に一列に並んで。銃剣を教壇の橙子に向けて構えた。

 

 一斉に跳んだ。

 

 小さな身体が、床を蹴って、弾丸のように橙子の足元へ。

 

「……片脚の錫の兵隊か」

 

 橙子はそれを一瞥した。

 

「アンデルセンだね。有珠。……君の母上の書斎の、三段目の棚の赤い背表紙の本だ」

 

 橙子の目が、いちばん前の一体を捉えた。

 

 止まった。

 

 次の一体。次の一体。

 

 橙子の目が動くたびに、兵隊が、一体ずつ空中で縫い止められていく。

 

 けれど、二十五体。

 

 目は二つしかない。

 

 縫い止めきれなかった兵隊が三体、四体、橙子の足元に届いた。

 

 銃剣が橙子の外套の裾を裂いた。

 

「有珠。……その身体で、まだプロイを出すか」

 

「出すわよ」

 

 有珠の声はかすれていた。

 

 けれど、その目には冬の湖の底の光があった。

 

「あなたの指が、わたしの中のものを押さえている間は、あなたの片手は塞がっているもの。……片手と目だけで。青子と、わたしの子たちを、同時に捌けるかしら」

 

 橙子の眉が、わずかに動いた。

 

「……なるほど。爆弾を逆手に取ったか」

 

「あなたが教えてくれたのよ。昔。……相手の手を塞げって」

 

「そうだったかな」

 

 橙子は、縫い止めた兵隊たちを見回した。

 

 それから左手の指で、空中に別の一文字を描いた。

 

 松明のような、鉤の形の文字。

 

 赤く燃え上がった。

 

「――だが、錫の兵隊の最後の頁を覚えているかい」

 

 縫い止められた兵隊たちの足元に。

 

 小さな赤い炎が、次々と灯った。

 

「片脚の兵隊は、最後に、暖炉に投げ込まれて溶けるんだ。……小さな、ハートの形の錫の塊だけを残して」

 

 炎が兵隊を包んだ。

 

 鉛の身体が、とろりと溶けた。

 

 一体。三体。十体。

 

 床板の上に、小さな歪んだハートの形の鉛の塊が、ぽつり、ぽつりと残っていった。

 

 有珠の目が細められた。

 

「……伝承に守られたものは、伝承に従って、殺す」

 

「そう。……鏡野でもそう教えたろう」

 

 その瞬間。

 

 青子が撃った。

 

 兵隊を焼くために、橙子の左手が火の文字を描いていた。その一瞬。

 

 左手の壁がない。

 

 右手は有珠の中のものを押さえている。

 

 目は燃える兵隊を見ていた。

 

 青い礫が兵隊たちの炎の隙間を縫って。

 

 橙子の胸元へ。

 

 橙子は初めて、教壇から飛び退いた。

 

 飛び退かなければならなかった。

 

 青い光が、橙子のいた場所を貫いて、黒板を撃ち砕いた。白墨の五線譜が粉々に散って、雪のように舞った。

 

「――そこよ」

 

 有珠が囁いた。

 

 橙子が着地した床板が。

 

 鉛色に変わっていた。

 

 焼け残った最後の一体。

 

 床板の継ぎ目にずっと伏せていた兵隊。

 

 その銃剣が、下から橙子の靴底を貫いて、床板ごとその脚を縫い止めた。

 

「…………」

 

 橙子は自分の足元を見下ろした。

 

 それから有珠を見た。

 

 それから青子を見た。

 

「……少しはやるようになったな。二人とも」

 

 冷たい声だった。

 

「なら、少し本気を見せてもらおうか」

 

 

◇

 

 

 左手の指が、床に向かって一文字を描いた。

 

 音楽室じゅうの椅子が立ち上がった。

 

 何十脚もの古い木の椅子。それが、脚を軋ませながら一斉に床から浮き上がり、形を変えていく。

 

 背もたれが胴体に。四本の脚が手足に。座面が顔のない白い面に。

 

 人形だった。

 

 木の椅子から組み上げられた何十体もの人形が、音楽室を埋め尽くしていた。

 

「……っ、嘘でしょ」

 

 青子が低く呻いた。

 

 それだけではなかった。

 

 橙子の足元から、赤く光る文字が床板の上を這うように広がっていった。角張った、見たこともない文字。それが教壇から、黒板から、窓枠から、音楽室のありとあらゆる場所に次々と刻まれていく。

 

 文字が壁になった。

 

 赤く光る半透明の壁。

 

 それが音楽室を、いくつもの区画に切り分けていく。

 

 青子と有珠の間に一枚。有珠と忉利の間に一枚。青子と忉利の間にも一枚。

 

 そして教壇の橙子を囲むように。何枚も、何枚も。

 

 燃え残った鉛の兵隊が、壁に押し潰されて床に沈んだ。

 

「――忉利! 有珠!」

 

 青子の声が、赤い壁の向こうからくぐもって聞こえた。

 

 壁の向こうで、青子の周りに椅子の人形が群がっていた。

 

 

◇

 

 

 忉利は、扉の脇の壁を背に立ち上がった。

 

 右目で赤い壁を見た。

 

 線が見えた。

 

 壁を形作る角張った文字の、ひとつひとつ。その文字と文字を、縦に、横に、斜めに繋いでいる線。

 

 煉瓦の壁のようだった。

 

 一つ一つの煉瓦が、文字。煉瓦と煉瓦を繋ぐ目地が、線。

 

 何百個もの文字が、何千本もの線で組み上げられている。

 

 全部切るのは無理だった。

 

 けれど。

 

 煉瓦の壁には要石がある。

 

 アーチのいちばん上の、真ん中の一個。それを抜けば、両側から支え合っている全部が崩れる。

 

 忉利は目を凝らした。

 

 痛んだ。

 

 構わずに見た。

 

 壁のいちばん上の、少しだけ右寄りに。

 

 他の文字より、ほんのわずかに太い線が集まっている文字が、一つ。

 

 あれだ。

 

「――切れろ」

 

 ぷつり。

 

 要の文字と、その周りの文字を繋ぐ線がほどけた。

 

 一枚目の壁が上から崩れた。

 

 赤い文字が、ばらばらの欠片になって、床に降り注いで消えた。

 

 右目の奥で、何かが焼けた。

 

 崩れた壁の向こうで、有珠が、壁に背を預けて崩れかけていた。

 

 忉利はその腕を掴んで支えた。

 

「……日景、忉利」

 

「立ってろ。……まだ終わってねえだろ」

 

 

◇

 

 

 椅子の人形が襲いかかってきた。

 

 三体。

 

 忉利は有珠を背に庇って、一体目の椅子の脚でできた腕を、左腕で受けた。

 

 重かった。木の脚が骨に響いた。

 

 二体目が横から。

 

 その時、青い光が二体目を横から撃ち砕いた。

 

 青子だった。自分の区画の壁越しに。壁の要石が抜けた隙間から。

 

「こっちはいいから! あんたは、壁!」

 

 三体目を、有珠の小さな声が止めた。

 

「……ロビン」

 

 駒鳥が、焦げた翼で、三体目の顔のない面に体当たりした。人形の動きが、一瞬鈍る。その隙に忉利は、有珠の腕を引いて横に跳んだ。

 

 二枚目の壁。

 

 忉利は見た。

 

 要の文字。

 

――なかった。

 

 さっきと同じ位置になかった。

 

 壁の上の方の、どこにも。

 

 忉利は息を呑んだ。

 

 太い線の集まる文字が、一つもない。何百個もの文字が、全部、同じ太さの線で均等に繋がれている。

 

 一枚目を見ていたのだ。

 

 あの女は。

 

 自分がどこを切るのかを。

 

「――見たろ、今の」

 

 忉利は、教壇の方の何枚もの壁の向こうの、橙子の影に向かって言った。

 

「……ずりいぞ」

 

 壁の向こうで、橙子が少しだけ笑った気がした。

 

「切れる場所を教えてしまうからね。君の目は」

 

 壁の向こうから声がした。

 

「同じ手順は二度は使わない。……さあ、どうする、少年」

 

 忉利は二枚目の壁を睨んだ。

 

 均等だった。

 

 どこを切っても、一か所だけでは崩れない。周りの文字が、互いに支え合っている。

 

 右目の奥が、焼けるように痛んだ。

 

 視界が赤く滲んだ。

 

 それでも見た。

 

 見続けた。

 

 文字と文字の線の、奥を。

 

 線の始まりの方を。

 

 一枚目と同じだった。

 

 描き直しの跡を探した。

 

 あの女が、この一瞬で組み直した壁だ。一枚目を見て、要石を消した。消すために、全部の線を均等に引き直した。

 

 急いで。

 

 急げば。

 

 どこかに。

 

――あった。

 

 壁の左の下の隅。床板に近いところ。

 

 一か所だけ。

 

 線と線の継ぎ目が、ほんのわずかにずれている。

 

 急いで引き直した時に、ほんの髪の毛一本分、合わなかった継ぎ目。

 

 そこだけ支え合いが弱い。

 

「――切れろ」

 

 ぷつり。

 

 継ぎ目がほどけた。

 

 二枚目の壁が、左の下の隅からばらばらと崩れていった。

 

 頭の芯がずきりと痛んだ。

 

 視界が赤く滲んだ。

 

 

◇

 

 

「――忉利!」

 

 崩れた壁の向こうから、青子が駆け寄ってきた。

 

 右手の拳が、赤く腫れていた。階段の火の文字を殴り潰した拳で、椅子の人形の面を三つ、四つと叩き割ってきたのだろう。

 

「あんた、目――」

 

「平気だ」

 

「平気な顔じゃない!」

 

「……まだ壁がある」

 

 忉利は教壇の方を見た。

 

 橙子を囲む赤い壁が、まだ何枚も残っていた。

 

 その向こうで、橙子が脚を鉛の銃剣に縫い止められたまま、静かに立っていた。

 

 壁が橙子を守っていた。

 

 あれを切らなければ。

 

 あれを切らなければ、青子の光は橙子に届かない。

 

 

◇

 

 

 三枚目。

 

 また組み直されていた。

 

 今度は継ぎ目のずれもなかった。

 

 二枚目を切られた時から、あの女は三枚目を、ゆっくりと丁寧に引き直していたのだ。

 

 描き直しの跡すら残らないように。

 

 完璧に。

 

 忉利は目を凝らした。

 

 凝らした。

 

 痛みが、脳の奥の、いちばん奥まで突き刺さった。

 

 それでも。

 

 見えた。

 

 完璧な壁の線の一本一本の、ずっと、ずっと奥に。

 

 壁と床板を繋いでいる線。

 

 壁は、宙に浮いているのではなかった。床板に刻まれた文字から立ち上がっている。

 

 壁そのものは完璧でも。

 

 壁が立っている床板は。

 

 何十年もこの音楽室で生徒たちに踏まれてきた、古い、腐りかけた、ただの木の板だった。

 

 その板の節目の、ひび割れ。

 

「――切れろッ」

 

 床板のひび割れの線を。

 

 ぷつり。

 

 古い床板が節目から二つに割れた。

 

 割れた板の上に刻まれていた文字が、真っ二つに裂けた。

 

 三枚目の壁が足元から崩れ落ちた。

 

 鼻から温かいものが垂れた。

 

「……っ、は……」

 

 膝が崩れかけた。

 

 青子が忉利の腕を掴んだ。

 

「忉利、もういいわ! 下がって!」

 

「……まだだ。……あと、一枚」

 

 

◇

 

 

 四枚目。

 

 橙子の真正面の、最後の一枚。

 

 その向こうに、橙子の顔が赤い光越しに揺れて見えていた。

 

 眼鏡のない、冷たい研究者の顔。

 

 その顔が。

 

 ほんの少しだけ。

 

 楽しそうに見えた。

 

「……見てみたまえ」

 

 壁の向こうから橙子の声がした。

 

「最後の一枚は、君のために引いた」

 

 忉利は見た。

 

 四枚目の壁は。

 

 線が見えなかった。

 

 いや。

 

 見えすぎた。

 

 何百、何千、何万本もの線が、壁の中でぎっしりと渦を巻いていた。

 

 一本一本が髪の毛よりも細く。

 

 目で追いきれない。

 

 見れば見るほど、線が増えていく。

 

 見ようとする目の奥へ。

 

 線の方から入り込んでくる。

 

「その目は、線を見る目だろう。……なら、線で溺れさせればいい」

 

 橙子の声が静かに響いた。

 

「見なければ、切れない。見れば、溺れる。……さあ、少年。君の目は、どこまで見ていられるかな」

 

――見るな、と身体が言っていた。

 

 見たら、戻ってこられない。

 

 けれど。

 

 見なければ、切れない。

 

 切らなければ、青子の光は届かない。

 

 有珠の中のものは、零時を過ぎて、あの女の指一本で押さえられている。

 

 忉利は。

 

 右目を見開いた。

 

 渦の中へ。

 

 何万本の線の真ん中へ。

 

――――。

 

 線が流れ込んできた。

 

 目の奥へ。脳の奥へ。

 

 一本一本が熱い針になって。

 

 その渦のいちばん底に。

 

 一本だけ。

 

 渦を回している、芯の線があった。

 

 独楽の心棒のような。

 

「――切れろ」

 

 四枚目。

 

 その瞬間。

 

 頭の中で、何かがぶちりと音を立てた。

 

 

◇

 

 

 白い。

 

 視界が真っ白に塗り潰されていた。

 

 音が消えていた。

 

 青子の声も、人形の軋む音も、自分の心臓の鼓動さえも、何も聞こえない。

 

 ただ、頭の奥で何かが焼けていた。

 

 熱い。熱い、熱い、熱い、熱い。脳の芯を真っ赤に焼けた鉄の杭で、ゆっくりと、ゆっくりと貫かれていくような。細い糸が一本、また一本と、ぷつり、ぷつりと焼き切れていくのが、はっきりとわかった。

 

 一本切れるたびに、何かが消えていく。

 

 晴華の声。

 

 父のネルを振る手。

 

 Cafe HIKAGEのカウンターの木目。

 

 遠くなる。

 

 薄くなる。

 

―――やばい。

 

 初めてそう思った。

 

 遊園地でも、屋敷の居間でも痛かった。死ぬかと思った。けれど、どこかでまだ戻ってこられると思っていた。

 

 今は違った。

 

 次に使ったら、戻ってこられない。

 

 次に切ったら、この糸が全部焼き切れる。

 

 晴華の声も、父の手も、カウンターの木目も、全部。

 

 それから――

 

 青子の顔も。

 

 

◇

 

 

 視界が戻ってきた。

 

 白い靄の向こうに、音楽室がぼんやりと滲んで見えた。

 

 四枚目の壁は崩れていた。

 

 赤い文字の欠片が、まだ宙を舞っていた。

 

 その向こうで、教壇の上の橙子が。

 

 左手の指先で、空中に一文字を描いていた。

 

 四枚目を切らせている間に。

 

 ずっと描いていたのだ。

 

 赤く光る、鋭い槍のような文字。

 

 それが、まっすぐに――忉利に向けられていた。

 

「……四枚。よく切った」

 

 橙子の声は静かだった。

 

「では、五枚目の授業だ」

 

 線が見えた。

 

 槍の真ん中を貫く一本の線。

 

 切れる。

 

 切れば止まる。

 

―――切ったら、戻ってこられない。

 

 ほんの一瞬だった。

 

 瞬きひとつにも満たない、ほんのわずかなためらい。

 

――斬れる時に斬るのが、いちばんですよ。

 

――迷ったら、それで終わりです。

 

 今朝の神父の声が、頭の奥で遠く響いた。

 

 右目を見開くのが遅れた。

 

 赤い槍が放たれた。

 

「――忉利ッ!!」

 

 誰かが、忉利の前に飛び込んできた。

 

 長い髪が視界いっぱいに広がった。

 

 どん、と。

 

 鈍い音がした。

 

 忉利の身体に、温かい重みがぶつかってきた。

 

 二人で床に倒れ込む。

 

 古い床板が背中を打つ。

 

 忉利の胸の上に、青子がいた。

 

「…………あお、こ」

 

 青子は答えなかった。

 

 忉利の胸に顔を埋めたまま、動かなかった。

 

 その背中から。

 

 赤い光の槍が突き抜けていた。

 

 左の脇腹を、背中から前へとまっすぐに。

 

 槍の先端が、忉利のシャツの上で赤くちりちりと光っている。

 

 そして、それがすうっと消えた。

 

 後に残ったのは、青子のコートに開いた焦げた穴と。

 

 そこから溢れ出してくる、温かいものだけだった。

 

「青子」

 

 忉利は身体を起こした。

 

 青子の身体を腕の中に抱え込む。

 

 重かった。力が入っていなかった。長い髪が、忉利の腕から床に垂れ落ちる。

 

「青子。おい。青子」

 

 揺さぶる。

 

 青子の瞼が震えた。

 

 ゆっくりと目が開く。

 

「…………っ、は……」

 

 青子は息を吸おうとして、咳き込んだ。

 

 唇の端から、赤いものが一筋流れた。

 

「おい、しっかりしろ。青子」

 

 忉利の手が、青子の脇腹に触れた。

 

 濡れていた。

 

 温かくて、ぬるりとしていて、止まらなかった。コートの焦げた穴から、どくどくと脈を打つように溢れ出してくる。

 

 押さえても、押さえても、指の間から溢れ出してくる。

 

「……なんで」

 

 声が震えていた。

 

 自分の声だと思えなかった。

 

「なんで庇ったんだよ。おれが、おれが切ればよかったのに。おれが――」

 

「…………あんた」

 

 青子がかすれた声で言った。

 

 力の入らない手を、ゆっくりと持ち上げる。

 

 忉利の頬に触れた。

 

「……怪我、ない……?」

 

 忉利の喉が詰まった。

 

 何も言えなかった。

 

「……よかった」

 

 青子は、少しだけ笑った。

 

 血の気の引いた唇で。

 

「だから……言ったでしょ。使わなきゃいけない時以外は……使うなって……」

 

「……喋んな」

 

「あんたが……壊れたら……私……」

 

「喋んなって言ってんだろ!」

 

 怒鳴った。

 

 青子は驚いたように、少しだけ目を見開いた。

 

 それから、また少しだけ笑った。

 

「……あんたが、怒鳴るの……珍しいわね……」

 

 その手が、忉利の頬からずるりと落ちた。

 

 瞼が半分閉じかける。

 

「――青子!」

 

 まだ息はあった。

 

 浅く、速く、途切れ途切れに。けれど、確かにあった。

 

 青子の身体の下の床板に、赤い染みがゆっくりと広がっていく。

 

 ランプの光が、その赤を黒く照らしていた。

 

 壁際で、有珠が床に膝をついていた。

 

 立とうとして立てなかった。

 

 その身体を、橙子の目が縫い止めていた。

 

「動くな、有珠」

 

 橙子の声が静かに落ちた。

 

「動けば、指を離す」

 

 有珠は動けなかった。

 

 ただ、床の上の青子を見ていた。

 

 その白い指が床板を掻いていた。

 

 

◇

 

 

「……迷ったな、少年」

 

 声は頭上から降ってきた。

 

 忉利は顔を上げた。

 

 橙子がそこに立っていた。

 

 赤い壁は、もう消えていた。人形たちも動きを止めて、壁際に控えている。音楽室の真ん中に、橙子と、忉利と、忉利の腕の中の青子だけがいた。

 

 橙子は二人を見下ろしていた。

 

 その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。

 

 妹が、血を流して倒れているのに。

 

「あの槍の線、君には見えていたはずだ。見えていて、切らなかった。……いや、切れなかった、と言うべきかな」

 

「…………」

 

「痛みが怖くなったのだろう」

 

 橙子は、忉利の右目をじっと見つめた。

 

「無理もない。回路もなしに、あれだけの神秘を切り続けたんだ。君の脳は、もう限界だよ。あと一度、本気で使えば、神経が焼き切れて君は二度と目を覚まさないかもしれない」

 

 橙子は膝を折って、忉利と目線を合わせた。

 

「だから、提案だ」

 

 優しい声ではなかった。

 

 ただ、事実を並べるだけの平坦な声だった。

 

「その目を私に渡したまえ。そうすれば、青子の傷を塞いであげよう。私なら、まだ間に合う。有珠の中のものも解く」

 

「…………」

 

「君はその目を失う。けれど、命は失わない。青子も有珠も、生き延びる。……悪い取引ではないだろう?」

 

 嘘なことなんて分かりきっている。

 

 忉利は腕の中の青子を見た。

 

 浅い息。血の気の引いた顔。閉じかけた瞼。

 

 それから橙子を見た。

 

 眼鏡のない、冷たい目。妹の血を見ても少しも揺らがない目。

 

「……てめえ」

 

 低い声だった。

 

 腹の底から絞り出すような声だった。

 

「自分の妹だろうが」

 

「そうだね」

 

「なんで平気な顔してられんだよ」

 

「平気なわけではないよ」

 

 橙子は青子の顔に、ちらりと目をやった。

 

「ただ、今はそれより優先すべきことがあるだけだ。……私は、魔術師だからね」

 

 忉利は奥歯を、ぎり、と噛みしめた。

 

 右目が疼いていた。

 

 ずきり、ずきりと脈を打つように。

 

 まだ見えていた。橙子の周りの、無数の線。定規で引いたような、あの冷たい線が。

 

 切れる。

 

 たぶん、今なら切れる。

 

 けれど、切ったら――

 

「……答えが出ないようだね」

 

 橙子は立ち上がった。

 

「なら、少し時間をあげよう。ほんの少しだけ。……青子の血が、止まらなくなるまでの間だけ」

 

 橙子は音楽室の窓の方に目をやった。

 

「それに、うちの子も、そろそろ下の遊びに飽きた頃だ」

 

 その時。

 

 旧校舎の下の階から。

 

 獣の遠吠えが、響き渡った。

 

 長く、高く、夜を裂くような。

 

 人間の喉から出る声ではなかった。

 

 

◇

 

 

 同じ頃、旧校舎の二階の廊下で、静希草十郎は壁に背中を預けて荒い息を吐いていた。

 

 足元に、白い陶器の破片が山のように散らばっていた。

 

 動いている人形はもう一体もいない。

 

 右の拳が血まみれだった。自分の血か、人形の欠片で切ったのかわからない。左腕の包帯は、いつの間にかほどけて、床に落ちていた。

 

「……終わったか」

 

 呟いて、草十郎は階段の方に目をやった。

 

 上の階から、かすかに青子の叫び声が聞こえた気がした。

 

 行かなくては。

 

 壁から背中を離して、一歩踏み出した。

 

 その時。

 

 廊下の反対側の突き当たりの、割れた窓から。

 

 金色の影が、音もなく滑り込んできた。

 

「――あは」

 

 幼い声だった。

 

 月明かりの下に、金色の髪の少年が立っていた。

 

 裸足で。薄い服一枚で。冬の夜気の中で、少しも寒そうな素振りを見せずに。

 

 その金色の目が、草十郎をまっすぐに見つめていた。

 

「見つけた」

 

 少年は嬉しそうに笑った。

 

 口の端から白い牙が覗いた。

 

「キミ、ボクの匂い、わかるんだ。……トーコの外套、嗅いだ時、変な顔してたもんね」

 

 草十郎は答えなかった。

 

 ただ、右の拳をゆっくりと握り直した。

 

 首の古傷が疼いた。子供の頃、山の犬に噛まれた場所。左腕の古傷も、同じように、じんと熱を持っていた。

 

 犬の匂い。

 

 獣の匂い。

 

 山で何度も嗅いだ。村の男たちが、槍を持って、夜の山に入っていく時の匂い。戻ってこなかった者たちの、最後の匂い。

 

 鏡野で久遠寺の腹を裂いた匂い。

 

「トーコがね、上で遊んでるの。ボク、下で待ってろって言われたんだけど」

 

 少年は、つまらなそうに、足元の人形の破片を蹴飛ばした。

 

「退屈なんだもん。……ねえ、キミ、ボクと遊んでよ」

 

 少年の身体が変わり始めた。

 

 背が伸びる。腕が太くなる。金色の髪が、背中に向かって逆立ち、たてがみのように広がっていく。指の先から鉤爪が伸びる。

 

 月明かりの下で、金色の獣が低く唸った。

 

「すぐに壊れないでね」

 

 草十郎は、一歩も退かなかった。

 

 ただ、静かに息を吸った。

 

 山で覚えた呼吸。獣と向き合う時の、呼吸。

 

 恐怖はあった。

 

 犬は苦手だった。

 

 けれど、上の階で蒼崎が叫んでいた。日景が、あの目で、また無理をしているのかもしれない。久遠寺の中で、あの結び目がまだ脈打っているかもしれない。

 

 なら、ここで、この獣を上に行かせるわけにはいかなかった。

 

「……山だと」

 

 草十郎は静かに言った。

 

「人を食う獣が出たら、村の男が全員で行ったものなんだ」

 

「ふうん?」

 

「今夜は俺しかいないな」

 

 獣が跳んだ。

 

 金色の閃光が、月明かりの廊下を一直線に走った。

 

 草十郎の姿がその閃光に呑み込まれた。

 

 鈍い、重い音。

 

 壁の板が砕け散った。

 

―――旧校舎の三階、音楽室で。

 

 忉利は、腕の中の青子を強く抱きしめていた。

 

 青子の息が、少しずつ浅くなっていく。

 

 指の間から溢れる血が止まらない。

 

 下の階から、獣の咆哮と何かが砕ける音が、立て続けに響いてくる。

 

 橙子は、窓辺に立って、静かに忉利の答えを待っていた。片手の指先で、空中の一点を押さえたまま。

 

 壁際で、有珠が縫い止められたまま床を掻いていた。

 

 右目が疼いていた。

 

 ずきり。

 

 ずきり。

 

 まるで何かを急かすように。

 

シエルの小説満足度調査

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