夜明けの色を見る眼   作:にんら

15 / 48
共犯者

 壁の板が、砕け散った。

 

 金色の閃光に呑み込まれた静希草十郎の身体は、旧校舎二階の廊下の壁を突き破り、隣の空き教室の中へと転がり込んでいた。

 

 古い机と椅子がなぎ倒される。埃が白く舞い上がる。

 

「あはっ! まだ動いてる!」

 

 壁の穴から、金色の獣が楽しそうに顔を覗かせた。

 

「すごいね、キミ。今ので普通は背骨折れるのに」

 

 草十郎は倒れた机の陰で、ゆっくりと身体を起こした。

 

 背中が焼けるように痛む。息を吸うたびに、脇腹の奥で何かが軋む。口の中に鉄の味が広がっていた。

 

 それでも、立った。

 

「……山の熊は」

 

 口の端の血を右手の甲で拭う。

 

「もっと重かったよ」

 

「ふうん?」

 

 獣は首を傾げた。

 

 それから、にい、と牙を剥き出しにして笑った。

 

「じゃあ、もっと重くしてあげる」

 

 獣の姿が消えた。

 

 消えたように見えた。

 

 教室の天井の梁がみしりと鳴った。

 

 草十郎は見上げなかった。

 

 代わりに床を見た。

 

 割れた窓から差し込む月明かりが、床板の上に、窓枠の形の白い四角を、いくつも落としていた。

 

 その白い四角の一つを、黒い影が横切った。

 

 天井の梁の上から斜めに。

 

 右の、うしろ。

 

 草十郎は右足で、倒れた机を蹴り上げた。

 

 古い木の机が宙でひっくり返る。

 

 その天板に上から、金色の塊が叩きつけられた。

 

 机が真っ二つに割れた。

 

 割れた机の破片の向こうで、獣が着地した。

 

「……見えてないくせに」

 

 獣が不満そうに首を傾げた。

 

「なんで、わかるの」

 

「影が落ちるんだ」

 

 草十郎は言った。

 

「月が出てる夜は、上から来るものより先に影が来る。山だと、鷹に狙われた兎はそれで逃げるんだ」

 

 獣は窓の外の月を見た。

 

 それから、にい、と笑った。

 

「じゃあ、影の来ないところから行けばいいんだ」

 

 獣が、低く身を沈めた。

 

 床すれすれに。

 

 月明かりの白い四角の、隙間の暗いところを。

 

 走った。

 

 速かった。

 

 影はなかった。暗がりの中を、暗がりのまま、這うように。

 

 草十郎は、目を閉じた。

 

 鼻をひくつかせた。

 

 獣の匂い。

 

 山の犬と同じ匂い。濡れた毛と、血と、生肉の匂い。

 

 それが左の、下から。

 

 草十郎は、教卓の上の白墨の箱を、左手で――吊った左腕の動く指先だけで、払った。

 

 白い粉が舞い上がった。

 

 暗がりの床すれすれに。

 

 獣がその粉の中を突っ切った。

 

 白墨の粉が、金色の毛並みにまとわりついた。

 

 暗がりの中に、白い獣の形が浮かび上がった。

 

 草十郎は、その白い形の鼻先に、右の膝を合わせた。

 

 獣が自分から、膝に突っ込んできた。

 

 鈍い音。

 

 獣の身体がひっくり返って、床を転がった。

 

「――っ、けほっ、けほっ……!」

 

 獣が白墨の粉にむせて、鼻を前脚で掻いた。

 

「なにこれ、鼻、変……!」

 

「匂いがわからなくなるだろう」

 

 草十郎は自分も、白い粉の中で少しだけ咳き込んだ。

 

「山の犬も、灰を撒くとしばらく鼻が利かなくなるんだ」

 

 獣は鼻を掻くのをやめて、草十郎を見た。

 

 金色の目が爛々と光っていた。

 

 怒ってはいなかった。

 

 楽しんでいた。

 

「……すごい。すごいすごい。キミ、ほんとに面白い」

 

 獣の身体がぶるりと震えた。

 

 白墨の粉が毛並みから、一度に振り払われた。

 

 それから。

 

 跳んだ。

 

 今度は真正面から。

 

 草十郎は避けなかった。

 

 避けられないのは、わかっていた。あの速さは山のどんな獣よりも速い。目で追えない。足で逃げられない。

 

 だから、待った。

 

 獣の鉤爪が胸に届く、ほんの一瞬前。

 

 身体を半歩だけ横にずらした。

 

 鉤爪が草十郎の左肩を掠めていく。服が裂け、皮膚が裂け、熱い痛みが走る。

 

 その痛みと引き換えに、獣の身体が、草十郎のすぐ横を通り過ぎようとしていた。

 

 がら空きの脇腹。

 

 草十郎は右の肘を叩き込んだ。

 

 鈍い音。

 

 獣の身体が横に弾け飛んだ。教室の黒板に叩きつけられ、白墨の粉が雪のように舞い散る。

 

「…………っ、え」

 

 獣は、黒板の下に座り込んだまま、きょとんとした顔で自分の脇腹を見下ろした。

 

 それから草十郎を見た。

 

 金色の目が大きく見開かれていた。

 

「……今の、痛かった」

 

 驚いたような声だった。

 

「ボク、トーコ以外に痛くされたの、初めて」

 

 草十郎は答えなかった。

 

 右の肘が痺れている。骨にひびが入ったかもしれない。膝が、がくがくと震えていた。

 

 次はない。

 

 今のはまぐれだ。あの獣が自分を侮っていたから、当たっただけだ。

 

「……あは」

 

 獣が立ち上がった。

 

 脇腹を押さえたまま。

 

 けれど、その目はさっきまでよりも、ずっと爛々と輝いていた。

 

「あははっ! すごい、すごいすごい! キミ、面白い!」

 

 獣は嬉しそうに笑いながら、教室の窓の方に目をやった。

 

 天井のずっと上の方。

 

 三階の音楽室の方角を。

 

「でも、トーコが呼んでる」

 

「…………」

 

「ボク、行かなきゃ。……キミ、後でもう一回遊ぼうね。今度はちゃんと壊してあげるから」

 

 獣は窓枠を蹴って、夜の闇の中へと飛び出していった。

 

 壁伝いに上へ。

 

 三階へ。

 

「――待て」

 

 草十郎はよろめきながら、教室を飛び出した。

 

 廊下を走る。階段を駆け上がる。

 

 脇腹が悲鳴を上げていた。肩の傷から血が流れ続けていた。

 

 それでも、足は止まらなかった。

 

 上には蒼崎がいる。

 

 日景がいる。

 

 久遠寺がいる。

 

 あの獣を上に行かせてはいけなかった。

 

 

◇

 

 

 音楽室の床の上で、日景忉利は青子を抱きかかえていた。

 

 青子の息は浅かった。

 

 浅く、速く、時々途切れる。途切れるたびに、忉利の心臓が握り潰されるように縮んだ。

 

 脇腹から溢れる血は止まらなかった。

 

 押さえた指の間から、とめどなく温かいものが流れ出していく。

 

 窓辺で橙子が、下の階の獣の咆哮に耳を澄ませていた。

 

 その目が、ほんの一瞬、忉利から逸れた。

 

 壁際で、有珠の身体がふっと軽くなった。

 

 縫い止めが緩んだ。

 

「――どいて」

 

 かすれた声がした。

 

 有珠だった。

 

 壁を伝って、よろめきながら、ふらつく足取りで青子の傍らに膝をついていた。

 

「……お前、動けんのかよ」

 

「動けないわ。……でも、少しだけなら」

 

 有珠は、震える手で、外套のポケットから小さな青い鈴を取り出した。

 

 鏡野農園で使ったものと同じ鈴。

 

 それを青子の傷口の上に、そっと置いた。

 

「わたしにできるのは、少しだけ夜を長くすることだけ」

 

 有珠は目を閉じて、何かを囁いた。

 

 鈴が、ちりん、とかすかに鳴った。

 

 青子の傷口から溢れる血の勢いが――ほんのわずかに緩んだ。

 

 止まったわけではない。ただ、ゆっくりになった。まるで青子の身体の中の時間だけが、少しだけ遅く流れ始めたかのように。

 

「……長くはもたないわ」

 

 有珠の額に冷たい汗が浮かんでいた。

 

「わたしの回路も、もう、ほとんど残っていないの。……十分。それが限界」

 

「十分……」

 

「その間に、あの女をどうにかしなさい」

 

 有珠は目を開けて、忉利を見た。

 

 いつもの、感情の読めない目ではなかった。

 

 何かを託すような目だった。

 

「――日景忉利」

 

「……なんだよ」

 

「あの子を頼むわ」

 

 忉利は有珠の顔を、しばらく見つめていた。

 

 それから、腕の中の青子を、そっと有珠の膝の上に預けた。

 

 青子の瞼がかすかに震えた。

 

「…………とう、り……?」

 

「寝てろ」

 

 忉利は青子の額にかかった髪を、指先でどけた。

 

「すぐ終わらせる」

 

 立ち上がる。

 

 膝が震えていた。

 

 頭の芯が、まだ焼けるように痛んでいた。さっき、四枚目の壁を切った時に、何かが千切れた場所。そこがじくじくと、熱を持って疼いている。

 

 

◇

 

 

 怖かった。

 

 正直に言えば、怖くてたまらなかった。

 

 次に使ったら、戻ってこられない。その予感はまだ、頭の奥にこびりついていた。

 

 けれど。

 

 忉利は窓辺に立つ橙子を、まっすぐに見据えた。

 

「答えは出たかい」

 

 橙子は、窓の外の月を見上げたまま言った。

 

「目は、やらねえ」

 

 忉利は言った。

 

 橙子がゆっくりと振り返った。

 

「……そうか」

 

「青子も、死なせねえ。有珠の中のもんも解いてもらう」

 

「欲張りだね。全部は取れないよ」

 

「知ってる」

 

 忉利は、右目の布をむしり取った。

 

 床に投げ捨てる。

 

「だから、お前のその計算ごと切ってやる」

 

 橙子の目が、わずかに細められた。

 

「……さっき迷ったばかりの君がかい」

 

「ああ」

 

 忉利は右目を細めた。

 

 橙子の右手の人差し指から、一本の細い線が伸びていた。

 

 空中の一点で止まっているように見える指先から。まっすぐに、有珠の胸の赤い結び目まで。

 

 張りつめていた。

 

 ぴん、と。

 

 指一本で、爆弾の撃鉄を押さえている線。

 

――あれを切ったら。

 

 押さえが外れる。

 

 有珠が、内側から裂ける。

 

「……その線は切れないだろう?」

 

 橙子が、自分の右手の指先をちらりと見て、言った。

 

「私の指と、有珠の中のものを繋いでいる線。……君の目なら見えているはずだ。そして、それを切ったら何が起きるかも」

 

「……知ってる」

 

「なら、君に切れるものはこの部屋に、そう多くはないよ」

 

 忉利は否定しなかった。

 

「迷った。怖かった。……今も怖えよ」

 

 右目が疼いていた。

 

 ずきり、ずきりと。脈を打つたびに、視界の端が赤く滲む。

 

「でもな」

 

 忉利は背後を振り返らなかった。

 

 振り返らなくてもわかっていた。有珠の膝の上で、浅い息をしている青子。その脇腹から、ゆっくりと流れ続けている、血。

 

「あいつは、おれを庇ってあんなことになった。……おれが迷ったから」

 

「…………」

 

「二度も迷ってたまるかよ」

 

 今朝、教会であの神父が言っていた。

 

 斬れる時に斬るのが、いちばんですよ。迷ったら、それで終わりです。

 

 意味が、ようやくわかった。

 

 そして土手の上で、青子が言った。

 

 あんたは、迷っていいの。迷って、切らないでいて。

 

 その意味も、ようやくわかった。

 

 迷っていいのは、切らなくてもいい時だけだ。

 

 今は違う。

 

 橙子はしばらく、忉利の顔を見つめていた。

 

 それから小さく息を吐いた。

 

「……残念だよ、少年」

 

 その声には、ほんのわずかに、本物の惜しむ色があった。

 

「君の目は生きたまま手に入れたかった。脳が焼き切れた後の目では、少しばかり質が落ちるからね」

 

 橙子の指先が持ち上がった。

 

 有珠の爆弾を押さえていない方の指先が。

 

「でも、仕方ない」

 

 空中に文字を描く。

 

 一文字ではなかった。

 

 二文字、三文字、四文字。赤く光る角張った文字が、橙子の指先から次々と紡ぎ出され、空中で組み合わさり、複雑なひとつの紋様を形作っていく。

 

 それは、今まで見たどのルーンよりも禍々しかった。

 

 線が見えた。

 

 その紋様を貫く何百本もの線。そして、その線の束がまっすぐに――忉利の背後の、有珠の膝の上の青子に向かって、伸びていた。

 

「青子の中にあるものを取り出すには、まずあの子の命を止めなくてはならない」

 

 橙子は静かに言った。

 

「このルーンは、触れた者の心臓を一瞬で止める。……痛みはないよ。あの子は眠るように逝く」

 

「――てめえ」

 

「そして、君の目は」

 

 音楽室の扉が吹き飛んだ。

 

 金色の獣が飛び込んできた。

 

 廊下から一直線に。扉の残骸を踏み越え、何十体もの人形の間を縫い、床板を蹴り砕きながら。

 

「トーコ! 来たよ!」

 

 その背後から、もう一つの影が転がるように飛び込んできた。

 

「――日景。蒼崎」

 

 草十郎だった。

 

 全身血まみれで、左肩から、脇腹から、赤いものを滴らせながら。それでも獣の背中を追って、音楽室に駆け込んできていた。

 

 獣が振り返った。

 

 草十郎を見て、にい、と笑った。

 

「あ、来た。……じゃあ、キミから壊してあげる」

 

「ベオ」

 

 橙子の声が鋭く響いた。

 

「その少年は後だ。……目の少年を押さえろ」

 

「えー」

 

 獣は不満そうに唇を尖らせた。

 

 けれど、その金色の目が忉利の方を向いた。

 

 それからまた、草十郎の方を向いた。

 

 二人の間で、獣の目が迷うように揺れた。

 

「……いいや。両方いっぺんに壊しちゃえ」

 

 獣が身を沈めた。

 

 四肢に力が溜まっていく。金色の毛並みがぶわりと逆立つ。

 

 その視線の先に草十郎がいた。

 

 そして、草十郎と獣のちょうど間に――忉利が、立っていた。

 

 同時に、橙子の指先で、赤い紋様が完成した。

 

「――おやすみ、青子」

 

 二つのものが、同時に放たれた。

 

 赤い、死の紋様。

 

 それは音もなく、まっすぐに青子の心臓へと。

 

 金色の、獣の突進。

 

 それは床板を砕き、空気を裂き、まっすぐに草十郎へと。

 

 そして、その両方の軌道の上に、日景忉利がいた。

 

 

◇

 

 

 時間が遅くなった。

 

 いや、違う。

 

 忉利の目に、すべてが見えていた。

 

 赤い紋様を貫く何百本もの線。その線の束のちょうど真ん中にある、一本の、太い黒い線。

 

 獣の突進を貫く一本の線。獣の身体を前へ前へと押し出している、その勢いそのものの線。

 

 そして。

 

 獣の振りかぶった右腕の、鉤爪の先から。

 

 まっすぐに自分の胸へと伸びている、もう一本の線。

 

 全部見えていた。

 

 三本。

 

 切らなければならない線が三本。

 

 右目の奥で、何かが軋んだ。

 

 わかっていた。

 

 三本は切れない。

 

 さっき、四枚目の壁を切った時に、もうほとんどの糸が焼き切れている。残っているのは、あとほんの少しだけ。

 

 切れるのは二本だけだ。

 

 どれを、切る。

 

――違う。

 

 何を切るかじゃねえ。

 

 何を切らないかだ。

 

 答えは、最初から決まっていた。

 

 背後に有珠の膝の上の青子がいる。

 

 前に血まみれで立ち尽くす草十郎がいる。

 

 自分の胸に向かう線は――

 

―――いいや。

 

 忉利は、ほんの一瞬だけ振り返った。

 

 有珠の膝の上で、青子が目を開けていた。

 

 焦点の合わない、けれど確かに忉利を見ている目で。

 

「…………とう、り……」

 

 唇が動いていた。

 

 だめ、と。

 

 そう言っているのがわかった。

 

 忉利は、少しだけ笑った。

 

「……青子」

 

 低い声だった。

 

 気だるげで、ぶっきらぼうで、いつもと同じ声。

 

「おれは、お前の共犯者で、幼馴染で……お前の味方だ」

 

 赤い紋様が迫る。

 

 金色の獣が迫る。

 

「世界中の誰が敵になろうと、おれだけは絶対に、お前の側から離れてやらねえよ」

 

 言ってから、忉利は小さく舌打ちをした。

 

「……ちっ。柄じゃねえな」

 

 前を向く。

 

 自分の胸へ伸びる三本目の線を。

 

 見た。

 

 切らない、と決めた。

 

 右目を見開く。

 

 残った糸を、全部、一度に、燃やす。

 

「――――切れろッ!!」

 

 音が消えた。

 

 赤い紋様が真ん中から、二つに割れた。

 

 割れた紋様は、青子に届くほんの数十センチ手前で、ばらばらの文字の欠片になって宙に散った。赤い光が火の粉のように舞い上がり、そして、消えた。

 

 同時に。

 

 獣の突進が止まった。

 

 床板を蹴り、空気を裂き、草十郎に向かって一直線に飛んでいた金色の身体が、まるで、見えない糸で吊られたように、空中でぴたりと静止した。

 

 前へ進む勢いそのものを、断ち切られて。

 

「――え」

 

 獣の口からきょとんとした声が漏れた。

 

 そして。

 

 勢いを失った獣の身体が、重力に引かれて落ちる。

 

 その落ちる身体の振りかぶった右腕が。

 

 獣の本能のままに、目の前の、いちばん近くにあるものへと振り下ろされた。

 

 鉤爪が、忉利の胸に吸い込まれていった。

 

 音はしなかった。

 

 ただ、背中に何かが突き抜けた感触がした。

 

 熱かった。

 

 いや、冷たかった。

 

 わからなかった。

 

 忉利はゆっくりと、自分の胸を見下ろした。

 

 金色の、獣の腕が生えていた。

 

 自分の胸の左側から。

 

 ちょうど心臓のあるあたりから。

 

「…………ああ」

 

 声が漏れた。

 

 痛みはなかった。

 

 ただ、胸の奥でずっと規則正しく鳴っていた何かが、止まったのがわかった。

 

 とくん、と。

 

 最後に一度だけ。

 

 それきり、何も鳴らなくなった。

 

 視界が傾いていく。

 

 音楽室の天井が見えた。古い蛍光灯。蜘蛛の巣。剥がれかけた漆喰。

 

 それから、窓の外の冬の月が。

 

 線が見えなくなっていた。

 

 天井にも。月にも。どこにも。物心ついた頃からずっと見えていたものが、初めて、一本もない。

 

 ただの天井。ただの月。

 

――ああ、普通の奴にはこう見えてたのか。

 

 遠くで、誰かが叫んでいた。

 

 聞き慣れた声だった。

 

 十年以上、隣で聞いてきた声だった。

 

―――泣きそうな顔、すんなって。

 

 言葉にはならなかった。

 

 日景忉利の世界は、そこで、終わった。

 

 

◇

 

 

「――――――――ッ!!!」

 

 声にならない叫びが音楽室を満たした。

 

 青子だった。

 

 有珠の膝の上から身を起こそうとして、脇腹の傷に崩れ落ちる。それでも、床を這うように、手を伸ばす。

 

 届かない。

 

 忉利の身体は獣の腕に胸を貫かれたまま、ゆっくりと床に崩れ落ちていった。

 

 金色の獣は自分の腕の先を、不思議そうに見つめていた。

 

「……あれ? ボク、こっちは狙ってなかったのに」

 

 ずるり、と。

 

 獣が腕を引き抜いた。

 

 忉利の身体が支えを失って、床板の上に仰向けに倒れた。

 

 胸に穴が開いていた。

 

 そこから赤いものが、とめどなく溢れ出していく。

 

 右目は開いたままだった。

 

 真っ赤に充血した、けれどもう何も映していない目で、音楽室の天井を見上げていた。

 

「……壊れちゃった」

 

 獣はつまらなそうに呟いた。

 

 それから、背後を振り返った。

 

 草十郎がそこに立っていた。

 

 

◇

 

 

 静希草十郎は動かなかった。

 

 ただ、床に倒れた忉利を見下ろしていた。

 

 血まみれの顔。胸の穴。開いたままの、何も映していない右目。

 

 山で何度も見た。

 

 獣に襲われた者の最後の姿。

 

 村の男たちが、夜の山から戻ってこなかった時、翌朝、沢の近くで見つかる動かなくなった身体。

 

 日景は、自分を庇った。

 

 あの獣の突進は自分に向かっていた。日景は、それを止めた。自分の命と引き換えに。

 

「ねえ、キミ」

 

 獣が草十郎に向かって、にい、と笑った。

 

 忉利の血で濡れた腕をべろりと舐める。

 

「さっきの続き、しよ?」

 

 草十郎は答えなかった。

 

 ただ、静かに息を吸った。

 

 恐怖はあった。

 

 今でも犬は苦手だった。

 

 けれど、その恐怖の奥にもっと冷たい、もっと古いものがゆっくりと目を覚ましていくのを、草十郎は感じていた。

 

 山で覚えたこと。

 

 言葉にされたことは一度もない。ただ、村の大人たちの背中を見て身体で覚えた、たった一つの決まり。

 

―――人を食った獣は、殺さなければ殺される。

 

 迷ってはいけない。

 

 ためらってはいけない。

 

 情けをかけた者から順番に、沢の近くで見つかる。

 

「……ああ」

 

 草十郎は言った。

 

「続きをしよう」

 

 獣が跳んだ。

 

 金色の閃光。

 

 さっきよりも速い。さっきよりも重い。草十郎を今度こそ、跡形もなく砕くための全力の一撃。

 

 草十郎は避けなかった。

 

 踏み込んだ。

 

 前へ。

 

 獣の懐の、さらに内側へ。

 

 鉤爪が草十郎の頬を裂いていく。構わなかった。牙が耳のすぐ横で空を噛む。構わなかった。

 

 左腕を、獣の顎の下に突っ込んだ。

 

 牙が腕に食い込む。骨が軋む。鏡野で久遠寺の腹を裂いた顎が、草十郎の左腕を噛み砕こうとしている。

 

 構わなかった。

 

 その腕一本で、獣の顎を上に押し上げた。

 

 獣の胸板が目の前で、無防備に開いた。

 

 距離はない。

 

 拳を振りかぶる隙間すらない。

 

 それでよかった。

 

 山の猟師たちが弾の尽きた時に使った、最後の打ち方。

 

 猪の突進を懐で受け止め、その胸に拳を押し当てたまま、足の裏から、膝から、腰から、背骨から、肩から――身体じゅうの力をただ一点に叩き込む。

 

 右の拳を、獣の胸に押し当てた。

 

 心臓の真上に。

 

 踏みしめる。

 

 床板がみしりと鳴った。

 

「―――――」

 

 音はほとんどしなかった。

 

 ただ、獣の身体が内側から、どんと揺れた。

 

 金色の目が大きく見開かれた。

 

「…………か、は」

 

 獣の口から息とも声ともつかないものが漏れる。

 

 左腕を噛んでいた牙が緩んだ。

 

 草十郎はその隙に、腕を引き抜いた。

 

 肉が裂ける音。

 

 それから、獣の身体に、肩から体当たりを叩き込んだ。

 

 全体重で。心臓を殴られて止まりかけている獣の身体を、床に叩きつける。

 

 獣の身体が床板の上で跳ねた。

 

 金色の毛並みがしぼんでいく。伸びていた背が縮んでいく。鉤爪が指先に引っ込んでいく。

 

 床の上に、小さな金色の髪の少年が横たわっていた。

 

 目を見開いて。

 

 その金色の目に、初めて、草十郎が見たことのない色が浮かんでいた。

 

「……こわ、い」

 

 少年の唇が震えた。

 

「なにこれ。……ボク、なんで、こわいの」

 

 人狼の村に自然に生まれた精霊。成長しない、痛みも知らない子供。橙子が「最高の神秘と戦わせてやる」と言って連れ出した、死を知らない獣。

 

 その獣が今、初めて、死を知った。

 

 少年の目が閉じた。

 

 息はあった。

 

 草十郎は少年を見下ろしていた。

 

 右の拳が震えていた。左の腕から血が滴っていた。噛み砕かれた腕は、もう感覚がなかった。

 

 殺さなかった。

 

 殺せなかったのか、殺さなかったのか、自分でもわからなかった。

 

 ただ、もうこの獣が誰かを食うことはない。今夜は、もう。

 

 それだけはわかった。

 

「…………ベオ」

 

 窓辺で橙子が、小さく呟いた。

 

 その顔に初めて、驚きの色が浮かんでいた。

 

「……人狼を、素手で……?」

 

 草十郎は答えなかった。

 

 ただ、振り返った。

 

 床に倒れた忉利の方を。

 

 

◇

 

 

 青子は、忉利の傍らに、たどり着いていた。

 

 床を這って。脇腹の傷から血の跡を引きずりながら。

 

 有珠が止めようとした手を振り払って。

 

 忉利の身体の上に覆いかぶさる。

 

「……忉利」

 

 呼んだ。

 

 返事はなかった。

 

「忉利。ねえ、忉利」

 

 頬に触れる。

 

 まだ、温かかった。

 

 けれど、その温かさが指の下で、少しずつ、少しずつ引いていくのがわかった。

 

「起きなさいよ。……ねえ。すぐ終わらせるって言ったじゃない」

 

 胸に耳を当てる。

 

 何も、聞こえなかった。

 

 とくん、とも。

 

 何も。

 

「……うそ」

 

 青子の声が震えた。

 

「うそよ。……だって、あんた、クリスマスに晴華ちゃんとケーキ食べるって。おじさんに、冷えるぞって言われたんでしょ。……ねえ」

 

 忉利の胸の穴から溢れる血が、青子の頬を赤く濡らした。

 

「帰らなきゃ、いけないでしょ……っ」

 

「――青子」

 

 背後で有珠の声がした。

 

 静かな、けれどひどく震えた声だった。

 

「……もういないわ」

 

 青子は振り返らなかった。

 

「その子は、もう」

 

「うるさい」

 

「青子――」

 

「うるさいって言ってるでしょッ!!」

 

 青子の叫びが音楽室の空気を震わせた。

 

 有珠は口をつぐんだ。

 

 草十郎は立ち尽くしていた。

 

 窓辺で橙子が、ゆっくりとこちらに歩いてきた。

 

「……惜しいことをした」

 

 静かな声だった。

 

「脳も、心臓も止まった。……でも、目はまだ無事だ。今なら、間に合う」

 

 橙子は忉利の傍らに膝をつこうとした。

 

 その手が、忉利の開いたままの右目に伸びた。

 

 その瞬間。

 

 青子の髪がふわりと浮き上がった。

 

 風は吹いていなかった。

 

 けれど、青子の長い髪がまるで水の中に沈んでいくように、ゆっくりと宙に広がっていった。

 

 橙子の手が止まった。

 

「…………青子?」

 

 青子は答えなかった。

 

 忉利の身体の上に覆いかぶさったまま、ゆっくりと顔を上げた。

 

 その目が。

 

 青かった。

 

 いつもの魔弾を撃つ時の青ではなかった。もっと深く、もっと遠く、もっと古い。夜明け前の空の、いちばん高いところの、青。

 

 この世界のどこにもない、青。

 

 そして。

 

 青子のすぐ隣に。

 

 赤い影が立っていた。

 

 子猫の日からずっと、少し離れたところにいたもの。遊園地で、隣まで来たもの。

 

 今は青子の肩に、触れるほど近くに。

 

 青子は、初めて、それをまっすぐに見た。

 

 目を逸らさなかった。

 

「――触らないで」

 

 青子の声は静かだった。

 

 静かすぎて、音楽室の空気そのものが凍りついたようだった。

 

「忉利に触らないで」

 

 橙子の顔から表情が消えた。

 

 眼鏡のない、冷たい研究者の顔が――初めて崩れた。

 

 目が見開かれていた。

 

 唇がかすかに震えていた。

 

 それは、恐怖だった。

 

 蒼崎橙子が、生まれて初めて妹に対して抱いた、剥き出しの恐怖だった。

 

「……青子。お前、何を」

 

 青子は立ち上がった。

 

 脇腹の傷から血が流れ続けている。膝が震えている。それでも、立った。

 

 忉利の身体を背中に庇うようにして。

 

「返して」

 

 囁くような声だった。

 

「返して。忉利を。……忉利の時間を」

 

 有珠が息を呑んだ。

 

「――青子、だめ!! それは――」

 

 遅かった。

 

 青子の足元から、青い光が溢れ出した。

 

 床板の木目をなぞるように。音楽室の隅々まで波紋のように広がっていく。椅子の人形たちが、その光に触れた瞬間、動きを止めた。いや、止まったのではない。まるで、時間そのものが、そこだけ凍りついたように。

 

 窓の外の月が揺らいだ。

 

 旧校舎の古い柱時計の振り子が、宙に浮いたまま止まった。

 

 舞い上がっていた埃の粒が、空中で静止した。

 

 すべてが止まっていた。

 

 青子と、忉利の身体の周りだけを除いて。

 

「祖父から受け継いだもの」

 

 青子は目を閉じた。

 

「何代もかけて蒼崎の家が守ってきたもの。……姉貴が、ずっと欲しがってたもの」

 

 その声はもう、震えていなかった。

 

「子猫の時に、駄目だって言われた。……そういうことは、してはいけないって」

 

 隣の赤い影が、青子の肩に手を置いた。

 

 青子はそれを払わなかった。

 

「知ってるわ。……でも、やる」

 

「使うわよ、姉貴。……よく見ておきなさい」

 

 青子の瞼が、ゆっくりと開いた。

 

 その瞳の奥で。

 

 世界の果ての色が、燃えていた。

 

「―――これが、蒼崎の魔法よ」

 

シエルの小説満足度調査

  • めちゃよかった
  • よかった
  • そこそこ
  • びみょう
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。