夜明けの色を見る眼   作:にんら

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最後の授業

 ぽーん、と。

 

 調律の狂ったピアノの音が、古い音楽室の埃っぽい空気の中に、ゆっくりと溶けていった。

 

 蒼崎橙子は、鍵盤の上に置いた指を、そっと離した。

 

 眼鏡の奥で、柔らかく目を細めている。ランプの橙色の光が、その横顔を、暖炉の前の母親のように穏やかに照らしていた。

 

「座ったら? 椅子なら、たくさんあるわ」

 

 音楽室には、古い木の椅子が、何十脚も並んでいた。かつて、ここで合唱の練習をした生徒たちのための椅子。今は、どれも埃をかぶって、黙って教壇の方を向いている。

 

「……有珠の中のものを、解いて」

 

 青子は、入り口に立ったまま言った。

 

 両手に、青い光を灯したまま。

 

 その隣で、有珠が、壁に手をついて立っていた。白い顔。胸を押さえた指の下で、赤い結び目が、脈打つように明滅している。

 

「解くわよ。約束どおり」

 

 橙子は、青子の背後の、壁にもたれている忉利を見た。

 

「その子の目と、交換でね」

 

「ふざけないで」

 

「ふざけてなんかいないわ。私は、いつだって真剣よ。……知っているでしょう、青子」

 

 橙子は、右手の人差し指を、そっと持ち上げた。

 

 指先が、空中の何かを、押さえるように、止まる。

 

 有珠の胸の結び目の明滅が、ぴたりと、止まった。

 

「零時は、もう過ぎたわ。……これが爆ぜていないのは、私が、この指で押さえているからよ。指を離せば、有珠は、内側から裂ける」

 

 有珠の目が、細められた。

 

「……趣味が悪いわね、橙子」

 

「知っているわ」

 

 橙子は、ピアノの椅子から立ち上がった。

 

 教壇に向かって、ゆっくりと歩く。ヒールの音が、古い床板の上で、こつ、こつ、と響く。指先は、空中の一点を押さえたまま。

 

「ねえ、青子。今夜は、少しだけ話をしましょう。久しぶりに会ったのだもの。……四年ぶりね。あなたが中二の春、私が家を出て以来」

 

「話すことなんて、ないわ」

 

「私には、あるのよ」

 

 橙子は、教壇の上に立った。

 

 背後の黒板には、色の褪せた五線譜が、白墨で書かれたまま残っている。

 

「最後の授業よ。お祖父様の工房で、あなたに一度も教えてあげられなかったから」

 

「――その前に、一つ、訊いておくわ」

 

 橙子は、青子のコートの下の、制服を、もう一度見た。

 

「あなた、まだ、自分が現役だと思っているの」

 

 青子の眉が、寄った。

 

「……なんの話よ」

 

「学生の、現役。生徒会長。期末試験。クリスマス。……そういうものの中に、まだ自分がいると思っている」

 

 橙子は、微笑んだ。

 

「魔術師としては、あなたは、三年前に始まったばかりの、素人よ。なのに、学生としては、まだ現役のつもり。……どっちつかずのまま、蒼崎の一番大事なものを抱えて、平気な顔をしている」

 

「現役よ」

 

 青子は、即答した。

 

「学生としても。魔術師としても。……どっちも、私よ」

 

 橙子の目が、ほんのわずかに、細められた。

 

「そういうところが、可愛いわね、青子。本当に、昔から変わらない」

 

 それから、橙子は、教壇の縁に、軽く腰を預けた。

 

「あなた、私があなたを恨んでいると思っているでしょう」

 

「…………」

 

「お祖父様が、私ではなくあなたを選んだから。私の居場所を、あなたが奪ったから。だから私は、あなたが受け継いだものを、一つずつ壊して回っている。……そう思っているのよね」

 

 青子は、答えなかった。

 

 答えないことが、答えだった。

 

 橙子は、ふっと、笑った。

 

 それは、柔らかな笑みだった。

 

 けれど、その柔らかさの底に、何か、ひどく冷たいものが沈んでいた。

 

「恨んでなんか、いないわよ」

 

 橙子は、眼鏡のつるに、指をかけた。

 

「あなたのことなんか、これっぽっちも」

 

 眼鏡を、外した。

 

 その瞬間、音楽室の空気が、凍りついた。

 

 柔らかな微笑みが、顔から、剥がれ落ちるように消えていく。代わりに現れたのは、研究者の顔だった。標本を前にした、冷たく、透き通った、何の感情もない顔。

 

「―――私が憎んでいるのは、蒼崎という家だ」

 

 声も、変わっていた。

 

 低く、硬く、抑揚のない。

 

「何代もかけて、たった一つのものを守り続けてきた家。それが何なのかも、ろくに理解しないまま、ただ受け継いで、ただ隠して、ただ次に渡してきた家。……私は、その家で、跡取りとして育てられた。あらゆることを学んだ。この町の網の張り方も、結び目の場所も、五つの礎の位置も、すべて」

 

 橙子は、教壇から、一歩降りた。

 

「そして最後に、お祖父様は、私ではなく、何も知らないお前を選んだ。……理由も、言わずにな」

 

「…………」

 

「お前は、たまたま選ばれただけだ、青子。家が決めた、ただの受け皿だ。私が恨むほどの価値すらない」

 

 青子の顔から、血の気が引いていった。

 

 恨まれていると思っていた。

 

 憎まれていると思っていた。

 

 それでも、それは、姉が自分を見ている証だと、心のどこかで思っていた。

 

「私が欲しいのは、お前ではない。お前の中にあるものだ」

 

 橙子は、青子の胸のあたりを、指さした。

 

「お祖父様が、何代もかけて守ってきたもの。お前が受け継いだもの。蒼崎の家が、その正体すら知らずに次へと渡してきた、たった一つの奇跡。……魔法。私は、それが何なのかを知りたい。解体して、分解して、その仕組みを、隅々まで確かめたい」

 

 橙子の目が、細められた。

 

「それが、この世界の果てに手を届かせる、唯一の道かもしれないからだ」

 

「……そのために、有珠を。忉利を」

 

「手段だよ。有珠はお前を呼ぶための餌だ。そして、あの少年の目は」

 

 橙子の視線が、青子の肩越しに、忉利を捉えた。

 

「私の人形に、世界を正しく見る目を与えるためのものだ。……ついでに、とでも言っておこうか。今夜、ここで、両方とも手に入れる」

 

 青子の手の中で、青い光が、激しく揺らいだ。

 

 怒りだった。

 

 悔しさだった。

 

 そして、そのずっと奥に――子供の頃、年に一度帰ってくる姉を、門の前でずっと待っていた、小さな自分の姿があった。

 

「――ふざ、けんな……ッ!!」

 

 青子が、撃った。

 

 青い光が、音楽室の空気を裂いた。

 

 橙子は、動かなかった。

 

 ただ、押さえていない方の手の指先で、空中に一文字を描いた。

 

 光が、橙子の目の前で、見えない壁に弾かれる。散った火花が、埃をかぶった椅子の上に降り注いだ。

 

「回路が、半分も戻っていないな」

 

 橙子は、つまらなそうに言った。

 

「遊園地で無茶をしたのか。……相変わらず、加減を知らない子だ」

 

 青子は、答えずに撃ち続けた。

 

 二発。三発。四発。

 

 すべて、見えない壁に弾かれる。

 

「――青子。右へ」

 

 有珠の声だった。

 

 青子は、迷わず、右に跳んだ。

 

 青子が立っていた床板の下から、鉛の兵隊たちが、一斉に立ち上がった。片脚しかない、小さな玩具の兵隊。銃剣を構えて、教壇の橙子に向かって、整列する。

 

「……鉛の兵隊か」

 

 橙子は、それを、一瞥した。

 

 その目が、兵隊たちの、いちばん前の一体を捉えた。

 

 いちばん前の一体の動きが、止まった。

 

 次の一体。次の一体。

 

 橙子の目が動くたびに、兵隊たちが、一体ずつ、見えない鎖で縫い止められていく。

 

「有珠。……その身体で、まだプロイを出すか」

 

「出すわよ。……あなたの指が、わたしを押さえている間は、あなたの片手は、塞がっているもの」

 

 有珠の声は、かすれていた。

 

 けれど、その目には、冬の湖の底の光があった。

 

「片手で、青子と、わたしの子たちを、同時に捌けるかしら」

 

 橙子の眉が、わずかに動いた。

 

「……なるほど。爆弾を、逆手に取ったか」

 

「あなたが教えてくれたのよ。昔。……相手の手を、塞げって」

 

 青子が、撃った。

 

 鉛の兵隊の隙間を縫って。橙子の片手の壁の、縫い止めに使われていない側から。

 

 橙子は、初めて、教壇から飛び退いた。

 

 青い光が、黒板を撃ち砕いた。白墨の五線譜が、粉々に散った。

 

「――そこよ」

 

 有珠が、囁いた。

 

 橙子の足元の床板が、鉛色に変わった。

 

 鉛の兵隊の銃剣が、下から、橙子の靴底を貫いて、床板ごと、その脚を縫い止めた。

 

「…………」

 

 橙子は、自分の足元を、見下ろした。

 

 それから、有珠を見た。

 

 それから、青子を見た。

 

「……少しは、やるようになったな。二人とも」

 

 冷たい声だった。

 

「なら、少し本気を見せてもらおうか」

 

 押さえていない方の手の指が、床に向かって、一文字を描いた。

 

 音楽室じゅうの椅子が、立ち上がった。

 

 何十脚もの、古い木の椅子。それが、脚を軋ませながら、一斉に床から浮き上がり、形を変えていく。

 

 背もたれが、胴体に。四本の脚が、手足に。座面が、顔のない白い面に。

 

 人形だった。

 

 木の椅子から組み上げられた、何十体もの人形が、音楽室を埋め尽くしていた。

 

「……っ、嘘でしょ」

 

 青子が、低く呻いた。

 

 それだけではなかった。

 

 橙子の足元から、赤く光る文字が、床板の上を這うように広がっていった。角張った、見たこともない文字。それが、教壇から、黒板から、窓枠から、音楽室のありとあらゆる場所に、次々と刻まれていく。

 

 文字が、壁になった。

 

 赤く光る、半透明の壁。それが、音楽室を、いくつもの区画に切り分けていく。青子と有珠の間に、一枚。有珠と忉利の間に、一枚。青子と忉利の間にも、一枚。

 

 鉛の兵隊たちが、壁に押し潰されて、床に沈んだ。

 

「――忉利! 有珠!」

 

 青子の声が、赤い壁の向こうから、くぐもって聞こえた。

 

 忉利は、壁を背に、立ち上がった。

 

 右目で、赤い壁を見る。

 

 線が、見えた。

 

 壁を形作る、角張った文字の、ひとつひとつを貫く線。それが、網のように組み合わさって、壁全体を支えている。

 

 切れる。

 

 でも、一本ではない。

 

「――切れろ」

 

 一枚目の壁が、崩れた。

 

 右目の奥で、何かが焼ける。

 

 崩れた壁の向こうで、有珠が、壁に背を預けて、崩れかけていた。

 

 忉利は、その腕を掴んで、支えた。

 

「……日景、忉利」

 

「立ってろ。……まだ、終わってねえだろ」

 

 人形たちが、襲いかかってくる。青子の青い光が、それを薙ぎ払う。けれど、次から次へと、椅子から新しい人形が組み上がっていく。

 

「切れろ」

 

 二枚目。

 

 頭の芯が、ずきりと痛む。視界が、赤く滲む。

 

「切れろッ」

 

 三枚目。

 

 鼻から、温かいものが垂れた。

 

 青子が、赤い壁の崩れた隙間から、忉利のそばに駆け寄ってくる。

 

「忉利、もういいわ! 下がって!」

 

「まだだ。……まだ、壁がある」

 

 音楽室には、まだ、赤い壁が何枚も残っていた。

 

 その向こうで、橙子が、教壇の上に立ったまま、静かに二人を見下ろしている。

 

 壁が、橙子を守っていた。

 

 あれを、切らなければ。

 

 あれを切らなければ、青子の光は、橙子に届かない。

 

「切れろ――」

 

 四枚目。

 

 その瞬間。

 

 頭の中で、何かが、ぶちりと音を立てた。

 

 白い。

 

 視界が、真っ白に、塗り潰されていた。

 

 音が、消えていた。

 

 青子の声も、人形の軋む音も、自分の心臓の鼓動さえも、何も聞こえない。

 

 ただ、頭の奥で、何かが、焼けていた。

 

 熱い。熱い、熱い、熱い、熱い。脳の芯を、真っ赤に焼けた鉄の杭で、ゆっくりと、ゆっくりと貫かれていくような。細い糸が、一本、また一本と、ぷつり、ぷつりと焼き切れていくのが、はっきりとわかった。

 

 一本切れるたびに、何かが、消えていく。

 

 晴華の声。

 

 父の、ネルを振る手。

 

 Cafe HIKAGEの、カウンターの木目。

 

 遠くなる。

 

 薄くなる。

 

 ―――やばい。

 

 初めて、そう思った。

 

 遊園地でも、屋敷の居間でも、痛かった。死ぬかと思った。けれど、どこかで、まだ戻ってこられると思っていた。

 

 今は、違った。

 

 次に使ったら、戻ってこられない。

 

 次に切ったら、この糸が、全部焼き切れる。

 

 晴華の声も、父の手も、カウンターの木目も、全部。

 

 それから――

 

 青子の、顔も。

 

 視界が、戻ってきた。

 

 白い靄の向こうに、音楽室が、ぼんやりと滲んで見えた。

 

 赤い壁。白い人形。青い光。

 

 そして、教壇の上の、橙子。

 

 橙子の指先が、空中に、一文字を描いていた。

 

 赤く光る、鋭い、槍のような文字。

 

 それが、まっすぐに――忉利に、向けられていた。

 

 線が、見えた。

 

 槍の真ん中を貫く、一本の線。

 

 切れる。

 

 切れば、止まる。

 

 ―――切ったら、戻ってこられない。

 

 ほんの、一瞬だった。

 

 瞬きひとつにも満たない、ほんのわずかな、ためらい。

 

 ――斬れる時に斬るのが、いちばんですよ。

 

 ――迷ったら、それで終わりです。

 

 今朝の、神父の声が、頭の奥で、遠く響いた。

 

 右目を見開くのが、遅れた。

 

 赤い槍が、放たれた。

 

「――忉利ッ!!」

 

 誰かが、忉利の前に、飛び込んできた。

 

 長い髪が、視界いっぱいに広がった。

 

 どん、と。

 

 鈍い音がした。

 

 忉利の身体に、温かい重みが、ぶつかってきた。

 

 二人で、床に倒れ込む。

 

 古い床板が、背中を打つ。

 

 忉利の胸の上に、青子が、いた。

 

「…………あお、こ」

 

 青子は、答えなかった。

 

 忉利の胸に顔を埋めたまま、動かなかった。

 

 その背中から。

 

 赤い光の槍が、突き抜けていた。

 

 左の脇腹を、背中から前へと、まっすぐに。

 

 槍の先端が、忉利のシャツの上で、赤く、ちりちりと光っている。

 

 そして、それが、すうっと、消えた。

 

 後に残ったのは、青子のコートに開いた、焦げた穴と。

 

 そこから、溢れ出してくる、温かいものだけだった。

 

「青子」

 

 忉利は、身体を起こした。

 

 青子の身体を、腕の中に抱え込む。

 

 重かった。力が、入っていなかった。長い髪が、忉利の腕から床に垂れ落ちる。

 

「青子。おい。青子」

 

 揺さぶる。

 

 青子の瞼が、震えた。

 

 ゆっくりと、目が開く。

 

「…………っ、は……」

 

 青子は、息を吸おうとして、咳き込んだ。

 

 唇の端から、赤いものが、一筋、流れた。

 

「おい、しっかりしろ。青子」

 

 忉利の手が、青子の脇腹に触れた。

 

 濡れていた。

 

 温かくて、ぬるりとしていて、止まらなかった。コートの焦げた穴から、どくどくと、脈を打つように溢れ出してくる。

 

 押さえても、押さえても、指の間から、溢れ出してくる。

 

「……なんで」

 

 声が、震えていた。

 

 自分の声だと、思えなかった。

 

「なんで、庇ったんだよ。おれが、おれが切れば、よかったのに。おれが――」

 

「…………あんた」

 

 青子が、かすれた声で言った。

 

 力の入らない手を、ゆっくりと持ち上げる。

 

 忉利の頬に、触れた。

 

「……怪我、ない……?」

 

 忉利の喉が、詰まった。

 

 何も、言えなかった。

 

「……よかった」

 

 青子は、少しだけ、笑った。

 

 血の気の引いた唇で。

 

「だから……言ったでしょ。使わなきゃいけない時以外は……使うなって……」

 

「……喋んな」

 

「あんたが……壊れたら……私……」

 

「喋んなって言ってんだろ!」

 

 怒鳴った。

 

 青子は、驚いたように、少しだけ目を見開いた。

 

 それから、また、少しだけ笑った。

 

「……あんたが、怒鳴るの……珍しいわね……」

 

 その手が、忉利の頬から、ずるりと落ちた。

 

 瞼が、半分、閉じかける。

 

「――青子!」

 

 まだ、息はあった。

 

 浅く、速く、途切れ途切れに。けれど、確かに、あった。

 

 青子の身体の下の床板に、赤い染みが、ゆっくりと広がっていく。

 

 ランプの光が、その赤を、黒く照らしていた。

 

 壁際で、有珠が、床に膝をついていた。

 

 立とうとして、立てなかった。

 

 その身体を、橙子の目が、縫い止めていた。

 

「動くな、有珠」

 

 橙子の声が、静かに落ちた。

 

「動けば、指を、離す」

 

 有珠は、動けなかった。

 

 ただ、床の上の青子を、見ていた。

 

 その白い指が、床板を、掻いていた。

 

「……迷ったな、少年」

 

 声は、頭上から降ってきた。

 

 忉利は、顔を上げた。

 

 橙子が、そこに立っていた。

 

 赤い壁は、もう消えていた。人形たちも、動きを止めて、壁際に控えている。音楽室の真ん中に、橙子と、忉利と、忉利の腕の中の青子だけがいた。

 

 橙子は、二人を見下ろしていた。

 

 その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。

 

 妹が、血を流して倒れているのに。

 

「あの槍の線、君には見えていたはずだ。見えていて、切らなかった。……いや、切れなかった、と言うべきかな」

 

「…………」

 

「痛みが、怖くなったのだろう」

 

 橙子は、忉利の右目を、じっと見つめた。

 

「無理もない。回路もなしに、あれだけの神秘を切り続けたんだ。君の脳は、もう限界だよ。あと一度、本気で使えば、神経が焼き切れて、君は二度と目を覚まさないかもしれない」

 

 橙子は、膝を折って、忉利と目線を合わせた。

 

「だから、提案だ」

 

 優しい声ではなかった。

 

 ただ、事実を並べるだけの、平坦な声だった。

 

「その目を、私に渡したまえ。そうすれば、青子の傷を塞いであげよう。私なら、まだ間に合う。有珠の中のものも、解く」

 

「…………」

 

「君は、その目を失う。けれど、命は失わない。青子も、有珠も、生き延びる。……悪い取引ではないだろう?」

 

 どうせ、嘘だろうに。

 

 忉利は、腕の中の青子を見た。

 

 浅い息。血の気の引いた顔。閉じかけた瞼。

 

 それから、橙子を見た。

 

 眼鏡のない、冷たい目。妹の血を見ても、少しも揺らがない目。

 

「……てめえ」

 

 低い声だった。

 

 腹の底から、絞り出すような声だった。

 

「自分の妹だろうが」

 

「そうだね」

 

「なんで、平気な顔してられんだよ」

 

「平気なわけではないよ」

 

 橙子は、青子の顔に、ちらりと目をやった。

 

「ただ、今は、それより優先すべきことがあるだけだ。……私は、魔術師だからね」

 

 忉利は、奥歯を、ぎり、と噛みしめた。

 

 右目が、疼いていた。

 

 ずきり、ずきりと、脈を打つように。

 

 まだ、見えていた。橙子の周りの、無数の線。定規で引いたような、あの冷たい線が。

 

 切れる。

 

 たぶん、今なら、切れる。

 

 けれど、切ったら――

 

「……答えが、出ないようだね」

 

 橙子は、立ち上がった。

 

「なら、少し時間をあげよう。ほんの少しだけ。……青子の血が、止まらなくなるまでの間だけ」

 

 橙子は、音楽室の窓の方に目をやった。

 

「それに、うちの子も、そろそろ下の遊びに飽きた頃だ」

 

 その時。

 

 旧校舎の、下の階から。

 

 獣の、遠吠えが、響き渡った。

 

 長く、高く、夜を裂くような。

 

 人間の喉から出る声ではなかった。

 

 同じ頃、旧校舎の二階の廊下で、静希草十郎は、壁に背中を預けて、荒い息を吐いていた。

 

 足元に、白い陶器の破片が、山のように散らばっていた。

 

 動いている人形は、もう一体もいない。

 

 右の拳が、血まみれだった。自分の血か、人形の欠片で切ったのか、わからない。左腕の包帯は、いつの間にかほどけて、床に落ちていた。

 

「……終わった、か」

 

 呟いて、草十郎は、階段の方に目をやった。

 

 上の階から、かすかに、青子の叫び声が聞こえた気がした。

 

 行かなくては。

 

 壁から背中を離して、一歩、踏み出した。

 

 その時。

 

 廊下の、反対側の突き当たりの、割れた窓から。

 

 金色の影が、音もなく、滑り込んできた。

 

「――あは」

 

 幼い声だった。

 

 月明かりの下に、金色の髪の少年が、立っていた。

 

 裸足で。薄い服一枚で。冬の夜気の中で、少しも寒そうな素振りを見せずに。

 

 その金色の目が、草十郎を、まっすぐに見つめていた。

 

「見つけた」

 

 少年は、嬉しそうに笑った。

 

 口の端から、白い牙が、覗いた。

 

「キミ、ボクの匂い、わかるんだ。……トーコの外套、嗅いだ時、変な顔してたもんね」

 

 草十郎は、答えなかった。

 

 ただ、右の拳を、ゆっくりと握り直した。

 

 首の古傷が、疼いた。子供の頃、山の犬に噛まれた場所。左腕の古傷も、同じように、じんと熱を持っていた。

 

 犬の匂い。

 

 獣の匂い。

 

 山で、何度も嗅いだ。村の男たちが、槍を持って、夜の山に入っていく時の匂い。戻ってこなかった者たちの、最後の匂い。

 

 鏡野で、久遠寺の腹を裂いた匂い。

 

「トーコがね、上で遊んでるの。ボク、下で待ってろって言われたんだけど」

 

 少年は、つまらなそうに、足元の人形の破片を蹴飛ばした。

 

「退屈なんだもん。……ねえ、キミ、ボクと遊んでよ」

 

 少年の身体が、変わり始めた。

 

 背が、伸びる。腕が、太くなる。金色の髪が、背中に向かって逆立ち、たてがみのように広がっていく。指の先から、鉤爪が伸びる。

 

 月明かりの下で、金色の獣が、低く、唸った。

 

「すぐに壊れないでね」

 

 草十郎は、一歩も、退かなかった。

 

 ただ、静かに、息を吸った。

 

 山で、覚えた呼吸。獣と向き合う時の、呼吸。

 

 恐怖は、あった。

 

 犬は、苦手だった。

 

 けれど、上の階で、蒼崎が叫んでいた。日景が、あの目で、また無理をしているのかもしれない。久遠寺の中で、あの結び目が、まだ脈打っているかもしれない。

 

 なら、ここで、この獣を、上に行かせるわけにはいかなかった。

 

「……山では」

 

 草十郎は、静かに言った。

 

「人を食う獣が出たら、村の男が、全員で行った」

 

「ふうん?」

 

「今夜は、俺しかいない」

 

 獣が、跳んだ。

 

 金色の閃光が、月明かりの廊下を、一直線に走った。

 

 草十郎の姿が、その閃光に呑み込まれた。

 

 鈍い、重い音。

 

 壁の板が、砕け散った。

 

 ―――旧校舎の三階、音楽室で。

 

 忉利は、腕の中の青子を、強く抱きしめていた。

 

 青子の息が、少しずつ、浅くなっていく。

 

 指の間から溢れる血が、止まらない。

 

 下の階から、獣の咆哮と、何かが砕ける音が、立て続けに響いてくる。

 

 橙子は、窓辺に立って、静かに、忉利の答えを待っていた。片手の指先で、空中の一点を、押さえたまま。

 

 壁際で、有珠が、縫い止められたまま、床を掻いていた。

 

 右目が、疼いていた。

 

 ずきり。

 

 ずきり。

 

 まるで、何かを、急かすように。

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