壁の板が、砕け散った。
金色の閃光に呑み込まれた静希草十郎の身体は、旧校舎二階の廊下の壁を突き破り、隣の空き教室の中へと転がり込んでいた。
古い机と椅子がなぎ倒される。埃が白く舞い上がる。
「あはっ! まだ動いてる!」
壁の穴から、金色の獣が楽しそうに顔を覗かせた。
「すごいね、キミ。今ので普通は背骨折れるのに」
草十郎は倒れた机の陰で、ゆっくりと身体を起こした。
背中が焼けるように痛む。息を吸うたびに、脇腹の奥で何かが軋む。口の中に鉄の味が広がっていた。
それでも、立った。
「……山の熊は」
口の端の血を右手の甲で拭う。
「もっと重かったよ」
「ふうん?」
獣は首を傾げた。
それから、にい、と牙を剥き出しにして笑った。
「じゃあ、もっと重くしてあげる」
獣の姿が消えた。
消えたように見えた。
教室の天井の梁がみしりと鳴った。
草十郎は見上げなかった。
代わりに床を見た。
割れた窓から差し込む月明かりが、床板の上に、窓枠の形の白い四角を、いくつも落としていた。
その白い四角の一つを、黒い影が横切った。
天井の梁の上から斜めに。
右の、うしろ。
草十郎は右足で、倒れた机を蹴り上げた。
古い木の机が宙でひっくり返る。
その天板に上から、金色の塊が叩きつけられた。
机が真っ二つに割れた。
割れた机の破片の向こうで、獣が着地した。
「……見えてないくせに」
獣が不満そうに首を傾げた。
「なんで、わかるの」
「影が落ちるんだ」
草十郎は言った。
「月が出てる夜は、上から来るものより先に影が来る。山だと、鷹に狙われた兎はそれで逃げるんだ」
獣は窓の外の月を見た。
それから、にい、と笑った。
「じゃあ、影の来ないところから行けばいいんだ」
獣が、低く身を沈めた。
床すれすれに。
月明かりの白い四角の、隙間の暗いところを。
走った。
速かった。
影はなかった。暗がりの中を、暗がりのまま、這うように。
草十郎は、目を閉じた。
鼻をひくつかせた。
獣の匂い。
山の犬と同じ匂い。濡れた毛と、血と、生肉の匂い。
それが左の、下から。
草十郎は、教卓の上の白墨の箱を、左手で――吊った左腕の動く指先だけで、払った。
白い粉が舞い上がった。
暗がりの床すれすれに。
獣がその粉の中を突っ切った。
白墨の粉が、金色の毛並みにまとわりついた。
暗がりの中に、白い獣の形が浮かび上がった。
草十郎は、その白い形の鼻先に、右の膝を合わせた。
獣が自分から、膝に突っ込んできた。
鈍い音。
獣の身体がひっくり返って、床を転がった。
「――っ、けほっ、けほっ……!」
獣が白墨の粉にむせて、鼻を前脚で掻いた。
「なにこれ、鼻、変……!」
「匂いがわからなくなるだろう」
草十郎は自分も、白い粉の中で少しだけ咳き込んだ。
「山の犬も、灰を撒くとしばらく鼻が利かなくなるんだ」
獣は鼻を掻くのをやめて、草十郎を見た。
金色の目が爛々と光っていた。
怒ってはいなかった。
楽しんでいた。
「……すごい。すごいすごい。キミ、ほんとに面白い」
獣の身体がぶるりと震えた。
白墨の粉が毛並みから、一度に振り払われた。
それから。
跳んだ。
今度は真正面から。
草十郎は避けなかった。
避けられないのは、わかっていた。あの速さは山のどんな獣よりも速い。目で追えない。足で逃げられない。
だから、待った。
獣の鉤爪が胸に届く、ほんの一瞬前。
身体を半歩だけ横にずらした。
鉤爪が草十郎の左肩を掠めていく。服が裂け、皮膚が裂け、熱い痛みが走る。
その痛みと引き換えに、獣の身体が、草十郎のすぐ横を通り過ぎようとしていた。
がら空きの脇腹。
草十郎は右の肘を叩き込んだ。
鈍い音。
獣の身体が横に弾け飛んだ。教室の黒板に叩きつけられ、白墨の粉が雪のように舞い散る。
「…………っ、え」
獣は、黒板の下に座り込んだまま、きょとんとした顔で自分の脇腹を見下ろした。
それから草十郎を見た。
金色の目が大きく見開かれていた。
「……今の、痛かった」
驚いたような声だった。
「ボク、トーコ以外に痛くされたの、初めて」
草十郎は答えなかった。
右の肘が痺れている。骨にひびが入ったかもしれない。膝が、がくがくと震えていた。
次はない。
今のはまぐれだ。あの獣が自分を侮っていたから、当たっただけだ。
「……あは」
獣が立ち上がった。
脇腹を押さえたまま。
けれど、その目はさっきまでよりも、ずっと爛々と輝いていた。
「あははっ! すごい、すごいすごい! キミ、面白い!」
獣は嬉しそうに笑いながら、教室の窓の方に目をやった。
天井のずっと上の方。
三階の音楽室の方角を。
「でも、トーコが呼んでる」
「…………」
「ボク、行かなきゃ。……キミ、後でもう一回遊ぼうね。今度はちゃんと壊してあげるから」
獣は窓枠を蹴って、夜の闇の中へと飛び出していった。
壁伝いに上へ。
三階へ。
「――待て」
草十郎はよろめきながら、教室を飛び出した。
廊下を走る。階段を駆け上がる。
脇腹が悲鳴を上げていた。肩の傷から血が流れ続けていた。
それでも、足は止まらなかった。
上には蒼崎がいる。
日景がいる。
久遠寺がいる。
あの獣を上に行かせてはいけなかった。
◇
音楽室の床の上で、日景忉利は青子を抱きかかえていた。
青子の息は浅かった。
浅く、速く、時々途切れる。途切れるたびに、忉利の心臓が握り潰されるように縮んだ。
脇腹から溢れる血は止まらなかった。
押さえた指の間から、とめどなく温かいものが流れ出していく。
窓辺で橙子が、下の階の獣の咆哮に耳を澄ませていた。
その目が、ほんの一瞬、忉利から逸れた。
壁際で、有珠の身体がふっと軽くなった。
縫い止めが緩んだ。
「――どいて」
かすれた声がした。
有珠だった。
壁を伝って、よろめきながら、ふらつく足取りで青子の傍らに膝をついていた。
「……お前、動けんのかよ」
「動けないわ。……でも、少しだけなら」
有珠は、震える手で、外套のポケットから小さな青い鈴を取り出した。
鏡野農園で使ったものと同じ鈴。
それを青子の傷口の上に、そっと置いた。
「わたしにできるのは、少しだけ夜を長くすることだけ」
有珠は目を閉じて、何かを囁いた。
鈴が、ちりん、とかすかに鳴った。
青子の傷口から溢れる血の勢いが――ほんのわずかに緩んだ。
止まったわけではない。ただ、ゆっくりになった。まるで青子の身体の中の時間だけが、少しだけ遅く流れ始めたかのように。
「……長くはもたないわ」
有珠の額に冷たい汗が浮かんでいた。
「わたしの回路も、もう、ほとんど残っていないの。……十分。それが限界」
「十分……」
「その間に、あの女をどうにかしなさい」
有珠は目を開けて、忉利を見た。
いつもの、感情の読めない目ではなかった。
何かを託すような目だった。
「――日景忉利」
「……なんだよ」
「あの子を頼むわ」
忉利は有珠の顔を、しばらく見つめていた。
それから、腕の中の青子を、そっと有珠の膝の上に預けた。
青子の瞼がかすかに震えた。
「…………とう、り……?」
「寝てろ」
忉利は青子の額にかかった髪を、指先でどけた。
「すぐ終わらせる」
立ち上がる。
膝が震えていた。
頭の芯が、まだ焼けるように痛んでいた。さっき、四枚目の壁を切った時に、何かが千切れた場所。そこがじくじくと、熱を持って疼いている。
◇
怖かった。
正直に言えば、怖くてたまらなかった。
次に使ったら、戻ってこられない。その予感はまだ、頭の奥にこびりついていた。
けれど。
忉利は窓辺に立つ橙子を、まっすぐに見据えた。
「答えは出たかい」
橙子は、窓の外の月を見上げたまま言った。
「目は、やらねえ」
忉利は言った。
橙子がゆっくりと振り返った。
「……そうか」
「青子も、死なせねえ。有珠の中のもんも解いてもらう」
「欲張りだね。全部は取れないよ」
「知ってる」
忉利は、右目の布をむしり取った。
床に投げ捨てる。
「だから、お前のその計算ごと切ってやる」
橙子の目が、わずかに細められた。
「……さっき迷ったばかりの君がかい」
「ああ」
忉利は右目を細めた。
橙子の右手の人差し指から、一本の細い線が伸びていた。
空中の一点で止まっているように見える指先から。まっすぐに、有珠の胸の赤い結び目まで。
張りつめていた。
ぴん、と。
指一本で、爆弾の撃鉄を押さえている線。
――あれを切ったら。
押さえが外れる。
有珠が、内側から裂ける。
「……その線は切れないだろう?」
橙子が、自分の右手の指先をちらりと見て、言った。
「私の指と、有珠の中のものを繋いでいる線。……君の目なら見えているはずだ。そして、それを切ったら何が起きるかも」
「……知ってる」
「なら、君に切れるものはこの部屋に、そう多くはないよ」
忉利は否定しなかった。
「迷った。怖かった。……今も怖えよ」
右目が疼いていた。
ずきり、ずきりと。脈を打つたびに、視界の端が赤く滲む。
「でもな」
忉利は背後を振り返らなかった。
振り返らなくてもわかっていた。有珠の膝の上で、浅い息をしている青子。その脇腹から、ゆっくりと流れ続けている、血。
「あいつは、おれを庇ってあんなことになった。……おれが迷ったから」
「…………」
「二度も迷ってたまるかよ」
今朝、教会であの神父が言っていた。
斬れる時に斬るのが、いちばんですよ。迷ったら、それで終わりです。
意味が、ようやくわかった。
そして土手の上で、青子が言った。
あんたは、迷っていいの。迷って、切らないでいて。
その意味も、ようやくわかった。
迷っていいのは、切らなくてもいい時だけだ。
今は違う。
橙子はしばらく、忉利の顔を見つめていた。
それから小さく息を吐いた。
「……残念だよ、少年」
その声には、ほんのわずかに、本物の惜しむ色があった。
「君の目は生きたまま手に入れたかった。脳が焼き切れた後の目では、少しばかり質が落ちるからね」
橙子の指先が持ち上がった。
有珠の爆弾を押さえていない方の指先が。
「でも、仕方ない」
空中に文字を描く。
一文字ではなかった。
二文字、三文字、四文字。赤く光る角張った文字が、橙子の指先から次々と紡ぎ出され、空中で組み合わさり、複雑なひとつの紋様を形作っていく。
それは、今まで見たどのルーンよりも禍々しかった。
線が見えた。
その紋様を貫く何百本もの線。そして、その線の束がまっすぐに――忉利の背後の、有珠の膝の上の青子に向かって、伸びていた。
「青子の中にあるものを取り出すには、まずあの子の命を止めなくてはならない」
橙子は静かに言った。
「このルーンは、触れた者の心臓を一瞬で止める。……痛みはないよ。あの子は眠るように逝く」
「――てめえ」
「そして、君の目は」
音楽室の扉が吹き飛んだ。
金色の獣が飛び込んできた。
廊下から一直線に。扉の残骸を踏み越え、何十体もの人形の間を縫い、床板を蹴り砕きながら。
「トーコ! 来たよ!」
その背後から、もう一つの影が転がるように飛び込んできた。
「――日景。蒼崎」
草十郎だった。
全身血まみれで、左肩から、脇腹から、赤いものを滴らせながら。それでも獣の背中を追って、音楽室に駆け込んできていた。
獣が振り返った。
草十郎を見て、にい、と笑った。
「あ、来た。……じゃあ、キミから壊してあげる」
「ベオ」
橙子の声が鋭く響いた。
「その少年は後だ。……目の少年を押さえろ」
「えー」
獣は不満そうに唇を尖らせた。
けれど、その金色の目が忉利の方を向いた。
それからまた、草十郎の方を向いた。
二人の間で、獣の目が迷うように揺れた。
「……いいや。両方いっぺんに壊しちゃえ」
獣が身を沈めた。
四肢に力が溜まっていく。金色の毛並みがぶわりと逆立つ。
その視線の先に草十郎がいた。
そして、草十郎と獣のちょうど間に――忉利が、立っていた。
同時に、橙子の指先で、赤い紋様が完成した。
「――おやすみ、青子」
二つのものが、同時に放たれた。
赤い、死の紋様。
それは音もなく、まっすぐに青子の心臓へと。
金色の、獣の突進。
それは床板を砕き、空気を裂き、まっすぐに草十郎へと。
そして、その両方の軌道の上に、日景忉利がいた。
◇
時間が遅くなった。
いや、違う。
忉利の目に、すべてが見えていた。
赤い紋様を貫く何百本もの線。その線の束のちょうど真ん中にある、一本の、太い黒い線。
獣の突進を貫く一本の線。獣の身体を前へ前へと押し出している、その勢いそのものの線。
そして。
獣の振りかぶった右腕の、鉤爪の先から。
まっすぐに自分の胸へと伸びている、もう一本の線。
全部見えていた。
三本。
切らなければならない線が三本。
右目の奥で、何かが軋んだ。
わかっていた。
三本は切れない。
さっき、四枚目の壁を切った時に、もうほとんどの糸が焼き切れている。残っているのは、あとほんの少しだけ。
切れるのは二本だけだ。
どれを、切る。
――違う。
何を切るかじゃねえ。
何を切らないかだ。
答えは、最初から決まっていた。
背後に有珠の膝の上の青子がいる。
前に血まみれで立ち尽くす草十郎がいる。
自分の胸に向かう線は――
―――いいや。
忉利は、ほんの一瞬だけ振り返った。
有珠の膝の上で、青子が目を開けていた。
焦点の合わない、けれど確かに忉利を見ている目で。
「…………とう、り……」
唇が動いていた。
だめ、と。
そう言っているのがわかった。
忉利は、少しだけ笑った。
「……青子」
低い声だった。
気だるげで、ぶっきらぼうで、いつもと同じ声。
「おれは、お前の共犯者で、幼馴染で……お前の味方だ」
赤い紋様が迫る。
金色の獣が迫る。
「世界中の誰が敵になろうと、おれだけは絶対に、お前の側から離れてやらねえよ」
言ってから、忉利は小さく舌打ちをした。
「……ちっ。柄じゃねえな」
前を向く。
自分の胸へ伸びる三本目の線を。
見た。
切らない、と決めた。
右目を見開く。
残った糸を、全部、一度に、燃やす。
「――――切れろッ!!」
音が消えた。
赤い紋様が真ん中から、二つに割れた。
割れた紋様は、青子に届くほんの数十センチ手前で、ばらばらの文字の欠片になって宙に散った。赤い光が火の粉のように舞い上がり、そして、消えた。
同時に。
獣の突進が止まった。
床板を蹴り、空気を裂き、草十郎に向かって一直線に飛んでいた金色の身体が、まるで、見えない糸で吊られたように、空中でぴたりと静止した。
前へ進む勢いそのものを、断ち切られて。
「――え」
獣の口からきょとんとした声が漏れた。
そして。
勢いを失った獣の身体が、重力に引かれて落ちる。
その落ちる身体の振りかぶった右腕が。
獣の本能のままに、目の前の、いちばん近くにあるものへと振り下ろされた。
鉤爪が、忉利の胸に吸い込まれていった。
音はしなかった。
ただ、背中に何かが突き抜けた感触がした。
熱かった。
いや、冷たかった。
わからなかった。
忉利はゆっくりと、自分の胸を見下ろした。
金色の、獣の腕が生えていた。
自分の胸の左側から。
ちょうど心臓のあるあたりから。
「…………ああ」
声が漏れた。
痛みはなかった。
ただ、胸の奥でずっと規則正しく鳴っていた何かが、止まったのがわかった。
とくん、と。
最後に一度だけ。
それきり、何も鳴らなくなった。
視界が傾いていく。
音楽室の天井が見えた。古い蛍光灯。蜘蛛の巣。剥がれかけた漆喰。
それから、窓の外の冬の月が。
線が見えなくなっていた。
天井にも。月にも。どこにも。物心ついた頃からずっと見えていたものが、初めて、一本もない。
ただの天井。ただの月。
――ああ、普通の奴にはこう見えてたのか。
遠くで、誰かが叫んでいた。
聞き慣れた声だった。
十年以上、隣で聞いてきた声だった。
―――泣きそうな顔、すんなって。
言葉にはならなかった。
日景忉利の世界は、そこで、終わった。
◇
「――――――――ッ!!!」
声にならない叫びが音楽室を満たした。
青子だった。
有珠の膝の上から身を起こそうとして、脇腹の傷に崩れ落ちる。それでも、床を這うように、手を伸ばす。
届かない。
忉利の身体は獣の腕に胸を貫かれたまま、ゆっくりと床に崩れ落ちていった。
金色の獣は自分の腕の先を、不思議そうに見つめていた。
「……あれ? ボク、こっちは狙ってなかったのに」
ずるり、と。
獣が腕を引き抜いた。
忉利の身体が支えを失って、床板の上に仰向けに倒れた。
胸に穴が開いていた。
そこから赤いものが、とめどなく溢れ出していく。
右目は開いたままだった。
真っ赤に充血した、けれどもう何も映していない目で、音楽室の天井を見上げていた。
「……壊れちゃった」
獣はつまらなそうに呟いた。
それから、背後を振り返った。
草十郎がそこに立っていた。
◇
静希草十郎は動かなかった。
ただ、床に倒れた忉利を見下ろしていた。
血まみれの顔。胸の穴。開いたままの、何も映していない右目。
山で何度も見た。
獣に襲われた者の最後の姿。
村の男たちが、夜の山から戻ってこなかった時、翌朝、沢の近くで見つかる動かなくなった身体。
日景は、自分を庇った。
あの獣の突進は自分に向かっていた。日景は、それを止めた。自分の命と引き換えに。
「ねえ、キミ」
獣が草十郎に向かって、にい、と笑った。
忉利の血で濡れた腕をべろりと舐める。
「さっきの続き、しよ?」
草十郎は答えなかった。
ただ、静かに息を吸った。
恐怖はあった。
今でも犬は苦手だった。
けれど、その恐怖の奥にもっと冷たい、もっと古いものがゆっくりと目を覚ましていくのを、草十郎は感じていた。
山で覚えたこと。
言葉にされたことは一度もない。ただ、村の大人たちの背中を見て身体で覚えた、たった一つの決まり。
―――人を食った獣は、殺さなければ殺される。
迷ってはいけない。
ためらってはいけない。
情けをかけた者から順番に、沢の近くで見つかる。
「……ああ」
草十郎は言った。
「続きをしよう」
獣が跳んだ。
金色の閃光。
さっきよりも速い。さっきよりも重い。草十郎を今度こそ、跡形もなく砕くための全力の一撃。
草十郎は避けなかった。
踏み込んだ。
前へ。
獣の懐の、さらに内側へ。
鉤爪が草十郎の頬を裂いていく。構わなかった。牙が耳のすぐ横で空を噛む。構わなかった。
左腕を、獣の顎の下に突っ込んだ。
牙が腕に食い込む。骨が軋む。鏡野で久遠寺の腹を裂いた顎が、草十郎の左腕を噛み砕こうとしている。
構わなかった。
その腕一本で、獣の顎を上に押し上げた。
獣の胸板が目の前で、無防備に開いた。
距離はない。
拳を振りかぶる隙間すらない。
それでよかった。
山の猟師たちが弾の尽きた時に使った、最後の打ち方。
猪の突進を懐で受け止め、その胸に拳を押し当てたまま、足の裏から、膝から、腰から、背骨から、肩から――身体じゅうの力をただ一点に叩き込む。
右の拳を、獣の胸に押し当てた。
心臓の真上に。
踏みしめる。
床板がみしりと鳴った。
「―――――」
音はほとんどしなかった。
ただ、獣の身体が内側から、どんと揺れた。
金色の目が大きく見開かれた。
「…………か、は」
獣の口から息とも声ともつかないものが漏れる。
左腕を噛んでいた牙が緩んだ。
草十郎はその隙に、腕を引き抜いた。
肉が裂ける音。
それから、獣の身体に、肩から体当たりを叩き込んだ。
全体重で。心臓を殴られて止まりかけている獣の身体を、床に叩きつける。
獣の身体が床板の上で跳ねた。
金色の毛並みがしぼんでいく。伸びていた背が縮んでいく。鉤爪が指先に引っ込んでいく。
床の上に、小さな金色の髪の少年が横たわっていた。
目を見開いて。
その金色の目に、初めて、草十郎が見たことのない色が浮かんでいた。
「……こわ、い」
少年の唇が震えた。
「なにこれ。……ボク、なんで、こわいの」
人狼の村に自然に生まれた精霊。成長しない、痛みも知らない子供。橙子が「最高の神秘と戦わせてやる」と言って連れ出した、死を知らない獣。
その獣が今、初めて、死を知った。
少年の目が閉じた。
息はあった。
草十郎は少年を見下ろしていた。
右の拳が震えていた。左の腕から血が滴っていた。噛み砕かれた腕は、もう感覚がなかった。
殺さなかった。
殺せなかったのか、殺さなかったのか、自分でもわからなかった。
ただ、もうこの獣が誰かを食うことはない。今夜は、もう。
それだけはわかった。
「…………ベオ」
窓辺で橙子が、小さく呟いた。
その顔に初めて、驚きの色が浮かんでいた。
「……人狼を、素手で……?」
草十郎は答えなかった。
ただ、振り返った。
床に倒れた忉利の方を。
◇
青子は、忉利の傍らに、たどり着いていた。
床を這って。脇腹の傷から血の跡を引きずりながら。
有珠が止めようとした手を振り払って。
忉利の身体の上に覆いかぶさる。
「……忉利」
呼んだ。
返事はなかった。
「忉利。ねえ、忉利」
頬に触れる。
まだ、温かかった。
けれど、その温かさが指の下で、少しずつ、少しずつ引いていくのがわかった。
「起きなさいよ。……ねえ。すぐ終わらせるって言ったじゃない」
胸に耳を当てる。
何も、聞こえなかった。
とくん、とも。
何も。
「……うそ」
青子の声が震えた。
「うそよ。……だって、あんた、クリスマスに晴華ちゃんとケーキ食べるって。おじさんに、冷えるぞって言われたんでしょ。……ねえ」
忉利の胸の穴から溢れる血が、青子の頬を赤く濡らした。
「帰らなきゃ、いけないでしょ……っ」
「――青子」
背後で有珠の声がした。
静かな、けれどひどく震えた声だった。
「……もういないわ」
青子は振り返らなかった。
「その子は、もう」
「うるさい」
「青子――」
「うるさいって言ってるでしょッ!!」
青子の叫びが音楽室の空気を震わせた。
有珠は口をつぐんだ。
草十郎は立ち尽くしていた。
窓辺で橙子が、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
「……惜しいことをした」
静かな声だった。
「脳も、心臓も止まった。……でも、目はまだ無事だ。今なら、間に合う」
橙子は忉利の傍らに膝をつこうとした。
その手が、忉利の開いたままの右目に伸びた。
その瞬間。
青子の髪がふわりと浮き上がった。
風は吹いていなかった。
けれど、青子の長い髪がまるで水の中に沈んでいくように、ゆっくりと宙に広がっていった。
橙子の手が止まった。
「…………青子?」
青子は答えなかった。
忉利の身体の上に覆いかぶさったまま、ゆっくりと顔を上げた。
その目が。
青かった。
いつもの魔弾を撃つ時の青ではなかった。もっと深く、もっと遠く、もっと古い。夜明け前の空の、いちばん高いところの、青。
この世界のどこにもない、青。
そして。
青子のすぐ隣に。
赤い影が立っていた。
子猫の日からずっと、少し離れたところにいたもの。遊園地で、隣まで来たもの。
今は青子の肩に、触れるほど近くに。
青子は、初めて、それをまっすぐに見た。
目を逸らさなかった。
「――触らないで」
青子の声は静かだった。
静かすぎて、音楽室の空気そのものが凍りついたようだった。
「忉利に触らないで」
橙子の顔から表情が消えた。
眼鏡のない、冷たい研究者の顔が――初めて崩れた。
目が見開かれていた。
唇がかすかに震えていた。
それは、恐怖だった。
蒼崎橙子が、生まれて初めて妹に対して抱いた、剥き出しの恐怖だった。
「……青子。お前、何を」
青子は立ち上がった。
脇腹の傷から血が流れ続けている。膝が震えている。それでも、立った。
忉利の身体を背中に庇うようにして。
「返して」
囁くような声だった。
「返して。忉利を。……忉利の時間を」
有珠が息を呑んだ。
「――青子、だめ!! それは――」
遅かった。
青子の足元から、青い光が溢れ出した。
床板の木目をなぞるように。音楽室の隅々まで波紋のように広がっていく。椅子の人形たちが、その光に触れた瞬間、動きを止めた。いや、止まったのではない。まるで、時間そのものが、そこだけ凍りついたように。
窓の外の月が揺らいだ。
旧校舎の古い柱時計の振り子が、宙に浮いたまま止まった。
舞い上がっていた埃の粒が、空中で静止した。
すべてが止まっていた。
青子と、忉利の身体の周りだけを除いて。
「祖父から受け継いだもの」
青子は目を閉じた。
「何代もかけて蒼崎の家が守ってきたもの。……姉貴が、ずっと欲しがってたもの」
その声はもう、震えていなかった。
「子猫の時に、駄目だって言われた。……そういうことは、してはいけないって」
隣の赤い影が、青子の肩に手を置いた。
青子はそれを払わなかった。
「知ってるわ。……でも、やる」
「使うわよ、姉貴。……よく見ておきなさい」
青子の瞼が、ゆっくりと開いた。
その瞳の奥で。
世界の果ての色が、燃えていた。
「―――これが、蒼崎の魔法よ」
シエルの小説満足度調査
-
めちゃよかった
-
よかった
-
そこそこ
-
びみょう