壁の板が、砕け散った。
金色の閃光に呑み込まれた静希草十郎の身体は、旧校舎二階の廊下の壁を突き破り、隣の空き教室の中へと転がり込んでいた。
古い机と椅子が、なぎ倒される。埃が、白く舞い上がる。
「あはっ! まだ動いてる!」
壁の穴から、金色の獣が、楽しそうに顔を覗かせた。
「すごいね、キミ。今ので、普通は背骨折れるのに」
草十郎は、倒れた机の陰で、ゆっくりと身体を起こした。
背中が、焼けるように痛む。息を吸うたびに、脇腹の奥で、何かが軋む。口の中に、鉄の味が広がっていた。
それでも、立った。
「……山の熊は」
口の端の血を、右手の甲で拭う。
「もっと、重かった」
「ふうん?」
獣は、首を傾げた。
それから、にい、と牙を剥き出しにして笑った。
「じゃあ、もっと重くしてあげる」
跳んだ。
今度は、真正面から。
草十郎は、避けなかった。
避けられないのは、わかっていた。あの速さは、山のどんな獣よりも速い。目で追えない。足で逃げられない。
だから、待った。
獣の鉤爪が、胸に届く、ほんの一瞬前。
身体を、半歩だけ、横にずらした。
鉤爪が、草十郎の左肩を掠めていく。服が裂け、皮膚が裂け、熱い痛みが走る。
その痛みと引き換えに、獣の身体が、草十郎のすぐ横を、通り過ぎようとしていた。
がら空きの、脇腹。
草十郎は、右の肘を、叩き込んだ。
鈍い音。
獣の身体が、横に弾け飛んだ。教室の黒板に叩きつけられ、白墨の粉が、雪のように舞い散る。
「…………っ、え」
獣は、黒板の下に座り込んだまま、きょとんとした顔で、自分の脇腹を見下ろした。
それから、草十郎を見た。
金色の目が、大きく見開かれていた。
「……今の、痛かった」
驚いたような声だった。
「ボク、トーコ以外に、痛くされたの、初めて」
草十郎は、答えなかった。
右の肘が、痺れている。骨に、ひびが入ったかもしれない。膝が、がくがくと震えていた。
次は、ない。
今のは、まぐれだ。あの獣が、自分を侮っていたから、当たっただけだ。
「……あは」
獣が、立ち上がった。
脇腹を押さえたまま。
けれど、その目は、さっきまでよりも、ずっと爛々と輝いていた。
「あははっ! すごい、すごいすごい! キミ、面白い!」
獣は、嬉しそうに笑いながら、教室の窓の方に目をやった。
天井の、ずっと上の方。
三階の、音楽室の方角を。
「でも、トーコが呼んでる」
「…………」
「ボク、行かなきゃ。……キミ、後でもう一回遊ぼうね。今度は、ちゃんと壊してあげるから」
獣は、窓枠を蹴って、夜の闇の中へと飛び出していった。
壁伝いに、上へ。
三階へ。
「――待て」
草十郎は、よろめきながら、教室を飛び出した。
廊下を走る。階段を、駆け上がる。
脇腹が、悲鳴を上げていた。肩の傷から、血が流れ続けていた。
それでも、足は止まらなかった。
上には、蒼崎がいる。
日景がいる。
久遠寺がいる。
あの獣を、上に行かせてはいけなかった。
音楽室の床の上で、日景忉利は、青子を抱きかかえていた。
青子の息は、浅かった。
浅く、速く、時々、途切れる。途切れるたびに、忉利の心臓が、握り潰されるように縮んだ。
脇腹から溢れる血は、止まらなかった。
押さえた指の間から、とめどなく、温かいものが流れ出していく。
窓辺で、橙子が、下の階の獣の咆哮に、耳を澄ませていた。
その目が、ほんの一瞬、忉利から逸れた。
壁際で、有珠の身体が、ふっと、軽くなった。
縫い止めが、緩んだ。
「――どいて」
かすれた声がした。
有珠だった。
壁を伝って、よろめきながら、ふらつく足取りで、青子の傍らに膝をついていた。
「……お前、動けんのかよ」
「動けないわ。……でも、少しだけなら」
有珠は、震える手で、外套のポケットから、小さな青い鈴を取り出した。
鏡野農園で使ったものと、同じ鈴。
それを、青子の傷口の上に、そっと置いた。
「わたしにできるのは、少しだけ、夜を長くすることだけ」
有珠は、目を閉じて、何かを囁いた。
鈴が、ちりん、と、かすかに鳴った。
青子の傷口から溢れる血の勢いが――ほんのわずかに、緩んだ。
止まったわけではない。ただ、ゆっくりになった。まるで、青子の身体の中の時間だけが、少しだけ、遅く流れ始めたかのように。
「……長くは、もたないわ」
有珠の額に、冷たい汗が浮かんでいた。
「わたしの回路も、もう、ほとんど残っていないの。……十分。それが、限界」
「十分……」
「その間に、あの女を、どうにかしなさい」
有珠は、目を開けて、忉利を見た。
いつもの、感情の読めない目ではなかった。
何かを、託すような目だった。
「――日景忉利」
「……なんだよ」
「あの子を、頼むわ」
忉利は、有珠の顔を、しばらく見つめていた。
それから、腕の中の青子を、そっと有珠の膝の上に預けた。
青子の瞼が、かすかに震えた。
「…………とう、り……?」
「寝てろ」
忉利は、青子の額にかかった髪を、指先でどけた。
「すぐ、終わらせる」
立ち上がる。
膝が、震えていた。
頭の芯が、まだ、焼けるように痛んでいた。さっき、四枚目の壁を切った時に、何かが千切れた場所。そこが、じくじくと、熱を持って疼いている。
怖かった。
正直に言えば、怖くてたまらなかった。
次に使ったら、戻ってこられない。その予感は、まだ、頭の奥にこびりついていた。
けれど。
忉利は、窓辺に立つ橙子を、まっすぐに見据えた。
「答えは、出たかい」
橙子は、窓の外の月を見上げたまま言った。
「目は、やらねえ」
忉利は、言った。
橙子が、ゆっくりと振り返った。
「……そうか」
「青子も、死なせねえ。有珠の中のもんも、解いてもらう」
「欲張りだね。全部は、取れないよ」
「知ってる」
忉利は、右目の眼帯を、むしり取った。
床に、投げ捨てる。
「だから、お前のその計算ごと、切ってやる」
橙子の目が、わずかに、細められた。
「……さっき、迷ったばかりの君がかい」
「ああ」
忉利は、否定しなかった。
「迷った。怖かった。……今も、怖えよ」
右目が、疼いていた。
ずきり、ずきりと。脈を打つたびに、視界の端が、赤く滲む。
「でもな」
忉利は、背後を振り返らなかった。
振り返らなくても、わかっていた。有珠の膝の上で、浅い息をしている青子。その脇腹から、ゆっくりと流れ続けている、血。
「あいつは、おれを庇って、あんなことになった。……おれが迷ったから」
「…………」
「二度も、迷ってたまるかよ」
今朝、教会で、あの神父が言っていた。
斬れる時に斬るのが、いちばんですよ。迷ったら、それで終わりです。
意味が、ようやくわかった。
そして、土手の上で、青子が言った。
あんたは、迷っていいの。迷って、切らないでいて。
その意味も、ようやくわかった。
迷っていいのは、切らなくてもいい時だけだ。
今は、違う。
橙子は、しばらく、忉利の顔を見つめていた。
それから、小さく、息を吐いた。
「……残念だよ、少年」
その声には、ほんのわずかに、本物の惜しむ色があった。
「君の目は、生きたまま手に入れたかった。脳が焼き切れた後の目では、少しばかり、質が落ちるからね」
橙子の指先が、持ち上がった。
有珠の爆弾を押さえていない方の、指先が。
「でも、仕方ない」
空中に、文字を描く。
一文字ではなかった。
二文字、三文字、四文字。赤く光る角張った文字が、橙子の指先から次々と紡ぎ出され、空中で組み合わさり、複雑な、ひとつの紋様を形作っていく。
それは、今まで見たどのルーンよりも、禍々しかった。
線が、見えた。
その紋様を貫く、何百本もの線。そして、その線の束が、まっすぐに――忉利の背後の、有珠の膝の上の、青子に向かって、伸びていた。
「青子の中にあるものを取り出すには、まず、あの子の命を止めなくてはならない」
橙子は、静かに言った。
「このルーンは、触れた者の心臓を、一瞬で止める。……痛みはないよ。あの子は、眠るように逝く」
「――てめえ」
「そして、君の目は」
音楽室の扉が、吹き飛んだ。
金色の獣が、飛び込んできた。
廊下から、一直線に。扉の残骸を踏み越え、何十体もの人形の間を縫い、床板を蹴り砕きながら。
「トーコ! 来たよ!」
その背後から、もう一つの影が、転がるように飛び込んできた。
「――日景。蒼崎」
草十郎だった。
全身血まみれで、左肩から、脇腹から、赤いものを滴らせながら。それでも、獣の背中を追って、音楽室に駆け込んできていた。
獣が、振り返った。
草十郎を見て、にい、と笑った。
「あ、来た。……じゃあ、キミから壊してあげる」
「ベオ」
橙子の声が、鋭く響いた。
「その少年は後だ。……目の少年を、押さえろ」
「えー」
獣は、不満そうに唇を尖らせた。
けれど、その金色の目が、忉利の方を向いた。
それから、また、草十郎の方を向いた。
二人の間で、獣の目が、迷うように揺れた。
「……いいや。両方、いっぺんに壊しちゃえ」
獣が、身を沈めた。
四肢に、力が溜まっていく。金色の毛並みが、ぶわりと逆立つ。
その視線の先に、草十郎がいた。
そして、草十郎と獣の、ちょうど間に――忉利が、立っていた。
同時に、橙子の指先で、赤い紋様が、完成した。
「――おやすみ、青子」
二つのものが、同時に、放たれた。
赤い、死の紋様。
それは、音もなく、まっすぐに、青子の心臓へと。
金色の、獣の突進。
それは、床板を砕き、空気を裂き、まっすぐに、草十郎へと。
そして、その両方の軌道の上に、日景忉利が、いた。
時間が、遅くなった。
いや、違う。
忉利の目に、すべてが、見えていた。
赤い紋様を貫く、何百本もの線。その線の束の、ちょうど真ん中にある、一本の、太い、黒い線。
獣の突進を貫く、一本の線。獣の身体を、前へ前へと押し出している、その勢いそのものの線。
そして。
獣の、振りかぶった右腕の、鉤爪の先から。
まっすぐに、自分の胸へと伸びている、もう一本の線。
全部、見えていた。
三本。
切らなければならない線が、三本。
右目の奥で、何かが、軋んだ。
わかっていた。
三本は、切れない。
さっき、四枚目の壁を切った時に、もう、ほとんどの糸が焼き切れている。残っているのは、あと、ほんの少しだけ。
切れるのは、二本だけだ。
どれを、切る。
答えは、最初から、決まっていた。
背後に、有珠の膝の上の青子がいる。
前に、血まみれで立ち尽くす草十郎がいる。
自分の胸に向かう線は――
―――いいや。
忉利は、ほんの一瞬だけ、振り返った。
有珠の膝の上で、青子が、目を開けていた。
焦点の合わない、けれど、確かに忉利を見ている目で。
「…………とう、り……」
唇が、動いていた。
だめ、と。
そう言っているのが、わかった。
忉利は、少しだけ、笑った。
「……青子」
低い声だった。
気だるげで、ぶっきらぼうで、いつもと同じ声。
「おれは、お前の共犯者で、幼馴染で……お前の味方だ」
赤い紋様が、迫る。
金色の獣が、迫る。
「世界中の誰が敵になろうと、おれだけは、絶対に、お前の側から離れてやらねえよ」
言ってから、忉利は、小さく舌打ちをした。
「……ちっ。柄じゃねえな」
前を向く。
右目を、見開く。
残った糸を、全部、一度に、燃やす。
「――――切れろッ!!」
音が、消えた。
赤い紋様が、真ん中から、二つに割れた。
割れた紋様は、青子に届く、ほんの数十センチ手前で、ばらばらの文字の欠片になって、宙に散った。赤い光が、火の粉のように舞い上がり、そして、消えた。
同時に。
獣の突進が、止まった。
床板を蹴り、空気を裂き、草十郎に向かって一直線に飛んでいた金色の身体が、まるで、見えない糸で吊られたように、空中で、ぴたりと静止した。
前へ進む、勢いそのものを、断ち切られて。
「――え」
獣の口から、きょとんとした声が漏れた。
そして。
勢いを失った獣の身体が、重力に引かれて、落ちる。
その落ちる身体の、振りかぶった右腕が。
獣の本能のままに、目の前の、いちばん近くにあるものへと、振り下ろされた。
鉤爪が、忉利の胸に、吸い込まれていった。
音は、しなかった。
ただ、背中に、何かが、突き抜けた感触がした。
熱かった。
いや、冷たかった。
わからなかった。
忉利は、ゆっくりと、自分の胸を見下ろした。
金色の、獣の腕が、生えていた。
自分の胸の、左側から。
ちょうど、心臓のあるあたりから。
「…………ああ」
声が、漏れた。
痛みは、なかった。
ただ、胸の奥で、ずっと規則正しく鳴っていた何かが、止まったのが、わかった。
とくん、と。
最後に、一度だけ。
それきり、何も、鳴らなくなった。
視界が、傾いていく。
音楽室の天井が、見えた。古い蛍光灯。蜘蛛の巣。剥がれかけた漆喰。
それから、窓の外の、冬の月が。
線が、見えなくなっていた。
天井にも。月にも。どこにも。物心ついた頃から、ずっと見えていたものが、初めて、一本もない。
ただの、天井。ただの、月。
――ああ、普通の奴には、こう見えてたのか。
遠くで、誰かが、叫んでいた。
聞き慣れた声だった。
十年以上、隣で聞いてきた声だった。
―――泣きそうな顔、すんなって。
言葉には、ならなかった。
日景忉利の世界は、そこで、終わった。
「――――――――ッ!!!」
声にならない叫びが、音楽室を満たした。
青子だった。
有珠の膝の上から、身を起こそうとして、脇腹の傷に崩れ落ちる。それでも、床を這うように、手を伸ばす。
届かない。
忉利の身体は、獣の腕に胸を貫かれたまま、ゆっくりと、床に崩れ落ちていった。
金色の獣は、自分の腕の先を、不思議そうに見つめていた。
「……あれ? ボク、こっちは、狙ってなかったのに」
ずるり、と。
獣が、腕を引き抜いた。
忉利の身体が、支えを失って、床板の上に、仰向けに倒れた。
胸に、穴が開いていた。
そこから、赤いものが、とめどなく溢れ出していく。
右目は、開いたままだった。
真っ赤に充血した、けれど、もう何も映していない目で、音楽室の天井を見上げていた。
「……壊れちゃった」
獣は、つまらなそうに呟いた。
それから、背後を振り返った。
草十郎が、そこに立っていた。
静希草十郎は、動かなかった。
ただ、床に倒れた忉利を、見下ろしていた。
血まみれの顔。胸の穴。開いたままの、何も映していない右目。
山で、何度も見た。
獣に襲われた者の、最後の姿。
村の男たちが、夜の山から戻ってこなかった時、翌朝、沢の近くで見つかる、動かなくなった身体。
日景は、自分を庇った。
あの獣の突進は、自分に向かっていた。日景は、それを、止めた。自分の命と、引き換えに。
「ねえ、キミ」
獣が、草十郎に向かって、にい、と笑った。
忉利の血で濡れた腕を、べろりと舐める。
「さっきの続き、しよ?」
草十郎は、答えなかった。
ただ、静かに、息を吸った。
恐怖は、あった。
今でも、犬は、苦手だった。
けれど、その恐怖の奥に、もっと冷たい、もっと古いものが、ゆっくりと目を覚ましていくのを、草十郎は感じていた。
山で、覚えたこと。
言葉にされたことは、一度もない。ただ、村の大人たちの背中を見て、身体で覚えた、たった一つの決まり。
―――人を食った獣は、殺さなければ、殺される。
迷っては、いけない。
ためらっては、いけない。
情けをかけた者から、順番に、沢の近くで見つかる。
「……ああ」
草十郎は、言った。
「続きを、しよう」
獣が、跳んだ。
金色の閃光。
さっきよりも、速い。さっきよりも、重い。草十郎を、今度こそ、跡形もなく砕くための、全力の一撃。
草十郎は、避けなかった。
踏み込んだ。
前へ。
獣の懐の、さらに内側へ。
鉤爪が、草十郎の頬を裂いていく。構わなかった。牙が、耳のすぐ横で空を噛む。構わなかった。
左腕を、獣の顎の下に、突っ込んだ。
牙が、腕に食い込む。骨が、軋む。鏡野で久遠寺の腹を裂いた顎が、草十郎の左腕を、噛み砕こうとしている。
構わなかった。
その腕一本で、獣の顎を、上に押し上げた。
獣の胸板が、目の前で、無防備に開いた。
距離は、ない。
拳を振りかぶる隙間すら、ない。
それでよかった。
山の猟師たちが、弾の尽きた時に使った、最後の打ち方。
猪の突進を、懐で受け止め、その胸に拳を押し当てたまま、足の裏から、膝から、腰から、背骨から、肩から――身体じゅうの力を、ただ一点に、叩き込む。
右の拳を、獣の胸に、押し当てた。
心臓の、真上に。
踏みしめる。
床板が、みしりと鳴った。
「―――――」
音は、ほとんど、しなかった。
ただ、獣の身体が、内側から、どんと、揺れた。
金色の目が、大きく見開かれた。
「…………か、は」
獣の口から、息とも声ともつかないものが漏れる。
左腕を噛んでいた牙が、緩んだ。
草十郎は、その隙に、腕を引き抜いた。
肉が、裂ける音。
それから、獣の身体に、肩から、体当たりを叩き込んだ。
全体重で。心臓を殴られて、止まりかけている獣の身体を、床に叩きつける。
獣の身体が、床板の上で、跳ねた。
金色の毛並みが、しぼんでいく。伸びていた背が、縮んでいく。鉤爪が、指先に引っ込んでいく。
床の上に、小さな、金色の髪の少年が、横たわっていた。
目を、見開いて。
その金色の目に、初めて、草十郎が見たことのない色が浮かんでいた。
「……こわ、い」
少年の唇が、震えた。
「なにこれ。……ボク、なんで、こわいの」
人狼の村に、自然に生まれた精霊。成長しない、痛みも知らない子供。橙子が「最高の神秘と戦わせてやる」と言って連れ出した、死を知らない獣。
その獣が、今、初めて、死を知った。
少年の目が、閉じた。
息は、あった。
草十郎は、少年を見下ろしていた。
右の拳が、震えていた。左の腕から、血が滴っていた。噛み砕かれた腕は、もう、感覚がなかった。
殺さなかった。
殺せなかったのか、殺さなかったのか、自分でも、わからなかった。
ただ、もう、この獣が、誰かを食うことはない。今夜は、もう。
それだけは、わかった。
「…………ベオ」
窓辺で、橙子が、小さく呟いた。
その顔に、初めて、驚きの色が浮かんでいた。
「……人狼を、素手で……?」
草十郎は、答えなかった。
ただ、振り返った。
床に倒れた、忉利の方を。
青子は、忉利の傍らに、たどり着いていた。
床を這って。脇腹の傷から、血の跡を引きずりながら。
有珠が止めようとした手を、振り払って。
忉利の身体の上に、覆いかぶさる。
「……とうり、」
呼んだ。
返事は、なかった。
「忉利。ねえ、忉利」
頬に、触れる。
まだ、温かかった。
けれど、その温かさが、指の下で、少しずつ、少しずつ、引いていくのがわかった。
「起きなさいよ。……ねえ。すぐ終わらせるって、言ったじゃない」
胸に、耳を当てる。
何も、聞こえなかった。
とくん、とも。
何も。
「……うそ」
青子の声が、震えた。
「うそよ。……だって、あんた、クリスマスに、晴華ちゃんとケーキ食べるって。おじさんに、冷えるぞって、言われたんでしょ。……ねえ」
忉利の胸の穴から溢れる血が、青子の頬を、赤く濡らした。
「帰らなきゃ、いけないでしょ……っ」
「――青子」
背後で、有珠の声がした。
静かな、けれど、ひどく震えた声だった。
「……もう、いないわ」
青子は、振り返らなかった。
「その子は、もう」
「うるさい」
「青子――」
「うるさいって言ってるでしょッ!!」
青子の叫びが、音楽室の空気を震わせた。
有珠は、口をつぐんだ。
草十郎は、立ち尽くしていた。
窓辺で、橙子が、ゆっくりと、こちらに歩いてきた。
「……惜しいことをした」
静かな声だった。
「脳も、心臓も、止まった。……でも、目は、まだ無事だ。今なら、間に合う」
橙子は、忉利の傍らに、膝をつこうとした。
その手が、忉利の、開いたままの右目に、伸びた。
その瞬間。
青子の髪が、ふわりと、浮き上がった。
風は、吹いていなかった。
けれど、青子の長い髪が、まるで水の中に沈んでいくように、ゆっくりと、宙に広がっていった。
橙子の手が、止まった。
「…………青子?」
青子は、答えなかった。
忉利の身体の上に覆いかぶさったまま、ゆっくりと、顔を上げた。
その目が。
青かった。
いつもの、魔弾を撃つ時の青ではなかった。もっと深く、もっと遠く、もっと古い。夜明け前の空の、いちばん高いところの、青。
この世界のどこにもない、青。
そして。
青子の、すぐ隣に。
赤い影が、立っていた。
子猫の日から、ずっと、少し離れたところにいたもの。遊園地で、隣まで来たもの。
今は、青子の肩に、触れるほど近くに。
青子は、初めて、それを、まっすぐに見た。
目を、逸らさなかった。
「――触らないで」
青子の声は、静かだった。
静かすぎて、音楽室の空気そのものが、凍りついたようだった。
「忉利に、触らないで」
橙子の顔から、表情が消えた。
眼鏡のない、冷たい研究者の顔が――初めて、崩れた。
目が、見開かれていた。
唇が、かすかに震えていた。
それは、恐怖だった。
蒼崎橙子が、生まれて初めて、妹に対して抱いた、剥き出しの、恐怖だった。
「……青子。お前、何を」
青子は、立ち上がった。
脇腹の傷から、血が流れ続けている。膝が、震えている。それでも、立った。
忉利の身体を、背中に庇うようにして。
「返して」
囁くような声だった。
「返して。忉利を。……忉利の時間を」
有珠が、息を呑んだ。
「――青子、だめ!! それは――」
遅かった。
青子の足元から、青い光が、溢れ出した。
床板の木目を、なぞるように。音楽室の隅々まで、波紋のように広がっていく。椅子の人形たちが、その光に触れた瞬間、動きを止めた。いや、止まったのではない。まるで、時間そのものが、そこだけ、凍りついたように。
窓の外の月が、揺らいだ。
旧校舎の古い柱時計の振り子が、宙に浮いたまま、止まった。
舞い上がっていた埃の粒が、空中で、静止した。
すべてが、止まっていた。
青子と、忉利の身体の周りだけを、除いて。
「祖父から、受け継いだもの」
青子は、目を閉じた。
「何代もかけて、蒼崎の家が守ってきたもの。……姉貴が、ずっと欲しがってたもの」
その声は、もう、震えていなかった。
「子猫の時に、駄目だって言われた。……そういうことは、してはいけないって」
隣の赤い影が、青子の肩に、手を置いた。
青子は、それを、払わなかった。
「知ってるわ。……でも、やる」
「使うわよ、姉貴。……よく見ておきなさい」
青子の瞼が、ゆっくりと、開いた。
その瞳の奥で。
世界の、果ての色が、燃えていた。
「―――これが、蒼崎の魔法よ」
次作品 ヒロイン候補 書いたはいいですが、橙子やアルクはどう作るつもりなんでしょうか…
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シエル (月姫R アルクェイドルート)
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アルクェイド(月姫R シエルルート?)
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蒼崎橙子 (空の境界)
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遠坂凛 (Heaven’s Feel)
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ライダー (Heaven’s Feel)
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ジャンヌ・ダルク (Apocrypha)
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ジャンヌ・ダルク (史実+FGO)
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久遠寺有珠 (魔法使いの夜)