夜明けの色を見る眼   作:にんら

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青

 ―――蒼崎橙子は、それを見ていた。

 

 音楽室の床に青い光が満ちていた。

 

 水ではない。炎でもない。光と呼ぶことすら正しいのかどうか、わからなかった。それは、床板の木目の一本一本に染み込み、壁の漆喰のひび割れを伝い、天井の蜘蛛の巣の糸にまで音もなく広がっていく。

 

 触れたものが止まっていく。

 

 椅子から組み上げた人形たちが、襲いかかる姿勢のまま凍りついている。舞い上がった埃の粒が空中に縫い止められている。窓の外の月の光さえ、硝子の手前で流れるのをやめている。

 

 橙子は自分の指先を見下ろした。

 

 動いた。

 

 止まっていない。自分はまだ、この光の外にいる。

 

 いや。

 

 外に、置かれている。

 

 見せるために。

 

 ―――よく見ておきなさい。

 

 妹の声が、耳の奥でまだ響いていた。

 

「……時間停止、か」

 

 呟いてから、橙子は自分の言葉を打ち消した。

 

 違う。

 

 時間を止めるだけなら大魔術の域だ。途方もない魔力と、途方もない準備があれば、ほんの一瞬、ほんの小さな範囲なら届かないこともない。

 

 けれど、これはそうではない。

 

 魔力の流れが、ない。

 

 術式が、ない。

 

 回路が回っている気配すら、ない。

 

 ただ、そこに結果だけがある。

 

 まるで世界そのものが、最初からそうであったかのように。

 

「……これが」

 

 橙子の声がかすれた。

 

 何代もかけて蒼崎の家が守ってきたもの。

 

 お祖父様が理由も言わずに、自分ではなく妹に渡したもの。

 

 跡取りとして育てられた十数年の間、ずっとその正体を知りたいと願い続けてきたもの。

 

 この世界の果てに手を届かせる、唯一の道。

 

 それが今、目の前で。

 

「――魔法」

 

 

◇

 

 

 青い光の中心に、青子が立っていた。

 

 その足元の忉利の身体を見下ろしたまま。

 

「……蒼崎」

 

 声は音楽室の隅から聞こえた。

 

 静希草十郎だった。

 

 気を失った金色の少年の傍らに、血まみれのまま立っていた。噛み砕かれた左腕を右手で押さえて。

 

「日景を連れ戻すのか」

 

「……ええ」

 

 青子は振り返らなかった。

 

「でも、足りないわ」

 

 静かな声だった。

 

「魔法は、ただでは動かないの。……この子の死をどこか遠くに捨てに行くには、そこまで行って帰ってくるだけの時間がいる」

 

「時間か」

 

「私の時間はもう、ほとんど残っていない。今夜、全部使った。……だから、借りるわ」

 

「誰から借りるんだ?」

 

 草十郎が訊いた。

 

 青子は足元の忉利を見下ろした。

 

「この子から」

 

 音楽室の隅で、有珠が息を呑む気配がした。

 

「死んだ人間の未来はもう、どこにもない。……でも、過去はまだ、ここにある。この子が生きてきた時間。見てきたもの。そういうものは死んでも、すぐには消えないの」

 

 青子は忉利の傍らに膝をついた。

 

「この子の十年を借りる。十年分の過去を、私の上に乗せて、十年先の私になる。……それで、この子の死を遠くへ捨ててくる」

 

「……日景の時間で、日景を連れ戻すのか」

 

「そうよ」

 

 青子は、忉利の開いたままの右目にそっと指を当てた。

 

 瞼を閉じさせる。

 

「勝手に借りるわ。……文句は、起きてから聞いてあげる」

 

 草十郎はしばらく、青子の横顔を見ていた。

 

 それから、小さく頷いた。

 

「……うん、筋は通ってる」

 

 青子は少しだけ笑った。

 

 それから、忉利の胸の穴の上に両手を重ねた。

 

 

◇

 

 

 音楽室が消えた。

 

 いや、正確には音楽室の上に、別のものが重ねられていった。

 

 床板が、磨き込まれた古い木の床になった。

 

 壁の漆喰が、色の褪せた外国の港の写真を飾った煤けた板壁になった。

 

 窓の外の冬の月が、真夏の白く眩しい午後の光になった。

 

 蝉の声がした。

 

 天井で古い扇風機がゆっくりと回っていた。

 

 そして、匂いがした。

 

 深煎りの、焦げる寸前の、苦くて、それから、後から甘い豆の匂い。

 

 カウンター七席とテーブルが三つ。

 

 Cafe HIKAGEだった。

 

 けれど、今の店ではなかった。

 

 カウンターの内側に立つ店主の髪は、まだ一本も白くなかった。今よりずっと若く、背中がまっすぐで、黙々とネルを振っている。

 

 そのカウンターのいちばん端の二つの高い椅子に、小さな子供が二人よじ登っていた。

 

 日に焼けた半袖の男の子。

 

 長い髪を二つに結んだ女の子。

 

 足が床に届かない。二人とも、ぶらぶらと椅子の上で足を揺らしている。

 

「――大人の飲み物は、大人になってからだ」

 

 若い店主がぶっきらぼうに言って、二人の前に、大きな厚手の白いカップを一つずつ置いた。

 

 牛乳がたっぷりの、甘いカフェオレ。

 

 女の子が両手でカップを持って、一口飲んで目を丸くした。

 

「……おいしい!」

 

 男の子は黙って、カップの縁から隣の女の子の顔を見ていた。

 

 それから自分も一口飲んだ。

 

 口のまわりに白い髭がついた。

 

 女の子がそれを見て、けらけらと笑った。

 

 ―――十年前の、夏だった。

 

 有珠が店の真ん中に立ち尽くしていた。

 

 草十郎がその隣で、若い店主の手元をじっと見ていた。

 

 橙子が窓辺に凍りついていた。

 

「……喫茶店、だと?」

 

 かすれた声だった。

 

「死を放逐する魔法の舞台が、……こんな場末の喫茶店の、夏の午後だと?」

 

「この子の一番だった頃よ」

 

 青子の声が、店の中に静かに響いた。

 

「借りた十年の中で、いちばんいい時間。……ここなら遠くまで行って、帰ってこられる」

 

 青子は、カウンターの端の二人の子供を見ていた。

 

 その目が揺れていた。

 

 借りた十年が、青子の中を流れていた。

 

 忉利の十年だった。

 

 小学一年の夏から今夜まで。

 

 天井の板に黒い線が見えた朝。窓硝子の縁の線。雨粒の一粒一粒の線。

 

 怖かったこと。

 

 眼科で「乱視だね」と言われて、ほっとしたこと。ほっとしたふりをしたこと。

 

 小学三年の冬、空に罅が見えると、一度だけ父に言いかけて、店のカウンターで忙しそうにネルを振る背中を見て言うのをやめたこと。

 

 それから、見ないふりをすると決めたこと。

 

 痛い時は瞬きをして、黙っていたこと。

 

 十年間、ずっと。

 

 誰にも。

 

 ―――そして。

 

 その十年のどの一年にも。

 

 青子が、いた。

 

 理科室の窓を割った青子。身代わりに職員室に呼ばれながら、その背中を見ていた、自分の目。

 

 テープが伸びるまで同じ曲を聴いている青子。ライブハウスの帰り道、耳鳴りのする頭で隣を歩く横顔を見ていた、自分の目。

 

 高校の入学式の朝、突然、坂の上の屋敷に引っ越すと言った青子。「格好いいでしょ」と笑った顔。笑い方が少しだけ下手だった、と思った、自分の目。

 

 線の見える目で、忉利は十年、ずっと。

 

 青子を、見ていた。

 

 青子の唇が震えた。

 

「……バカ」

 

 誰にも聞こえない声で呟いた。

 

「なんで、何にも、言わないのよ」

 

 

◇

 

 

 青子の姿が変わり始めていた。

 

 最初に気づいたのは髪だった。

 

 宙に広がった長い髪が、ゆっくりとさらに伸びていく。毛先が青い光を吸い込んで、反対の真紅に染まっていく。

 

 次に、背が。

 

 ほんの数センチ。けれど、確かに伸びていた。肩の線がわずかに広くなる。頬の輪郭から、少女の丸みがすうっと消えていく。

 

 脇腹のあの赤い槍の傷口から、血が流れなくなっていた。

 

 塞がったのではない。

 

 傷そのものがなかったことになっていた。コートに開いた焦げた穴だけを残して、その下の肌には傷ひとつなかった。

 

 青子は、ゆっくりと目を開けた。

 

 その瞳はもう、少女のものではなかった。

 

 深く、静かで、遠くを見ている目。何かを失い、何かを乗り越え、それでも前を向くことを選んできた人間の目。

 

 二十歳をとうに過ぎた女の目だった。

 

「……十年」

 

 夏の午後の喫茶店の窓辺で、橙子が呟いた。

 

「死んだ少年の十年を。……自分の上に乗せたのか」

 

 青子は橙子の方を見なかった。

 

 ただ、足元の忉利の身体を見下ろしていた。

 

 その目に一瞬だけ、少女の頃と同じ泣きそうな色がよぎった。

 

 けれど、すぐにそれは深い青の奥に沈んでいった。

 

「……少し、待っていて」

 

 静かな声だった。

 

 少女の頃の張り詰めた、突っかかるような声ではない。もっと低く、もっと柔らかく、もっと落ち着いた声。

 

 けれど、その声の芯は何ひとつ変わっていなかった。

 

「すぐに起こしてあげるから」

 

「――青子!!」

 

 店の真ん中で、有珠が叫んでいた。

 

 立ち上がろうとして膝から崩れ落ちる。回路は、とうに底をついていた。それでも、磨き込まれた古い床に手をついて、這うように青い光の中心へ進もうとする。

 

「だめ、青子! それは、使ってはいけないものよ! あなたが何をしているのか、わかっているの!? 死んだものを――」

 

 有珠の声が震えていた。

 

 この冷徹な魔女がこんなふうに声を荒らげるのを、草十郎は初めて聞いた。

 

 青子がゆっくりと振り返った。

 

 有珠を見る。

 

 その目がふっと、柔らかく細められた。

 

「大丈夫よ、アリス」

 

 有珠の身体が凍りついた。

 

「……アリス……?」

 

「この子の十年を、少しだけ借りただけ。……終わったら、ちゃんとこの子に返すわ」

 

 青子は穏やかに微笑んだ。

 

 その笑い方は、有珠が知っている青子のどの笑顔とも違っていた。

 

「それに」

 

 青子はまた、足元の忉利に目を落とした。

 

「この子をここで置いていったら。……十年後の私はきっと、一生、自分を許さないもの」

 

 有珠は何も言えなかった。

 

 ただ、古い床に手をついたまま、青い光の中の見知らぬ大人の顔をした親友を見つめていた。

 

 その頬を一筋、何かが伝い落ちた。

 

 有珠自身も、それが何なのかわからなかった。

 

 青子が忉利の傍らに膝をついた。

 

 両手を忉利の胸の上に、そっと重ねる。

 

 獣の鉤爪に貫かれたあの穴の上に。

 

「――戻りなさい」

 

 

◇

 

 

 ―――暗かった。

 

 日景忉利は、どこでもない場所に浮かんでいた。

 

 上もなく、下もない。音もなく、匂いもない。自分の身体があるのかどうかさえわからない。

 

 ただ、見えていた。

 

 線が。

 

 無数の、無数の、数えきれないほどの線が、暗闇の中を四方八方に走っていた。

 

 どこまでも。どこまでも。

 

 それは、今まで見てきたどの線とも違っていた。天井の線でも、空の線でも、怪物に絡みつく線でも、あの女の定規で引いたような線でもない。

 

 全部だった。

 

 この世界にあるものの全部の線。

 

 星と星を繋ぐ線。海と空を分ける線。一秒と一秒の間を区切る線。昨日と今日を、今日と明日を縫い合わせている線。

 

 世界そのものが、無数の線で編み上げられていた。

 

 ―――ああ。

 

 忉利は思った。

 

 おれがずっと見てたのは、これだったのか。

 

 物心ついた頃から視界の端に見えていた、あの線。乱視だと思っていた。目の病気だと思っていた。

 

 違った。

 

 あれは、世界の継ぎ目だった。

 

 この世界がどうやって縫い合わされているのか。その縫い目が、おれの目にだけ見えていた。

 

 ふと、胸のあたりに何かを感じた。

 

 見下ろす。

 

 身体はなかった。けれど、そこに一本の線があった。

 

 太く、黒く、重い線。

 

 それが自分の胸の真ん中を、まっすぐに貫いていた。

 

 すぐにわかった。

 

 これは、おれの、死だ。

 

 獣の爪に貫かれて心臓が止まった、という事実。それが、線の形をして、自分という存在に深々と縫いつけられていた。

 

 ほどけない。

 

 切れない。

 

 もう、切るための目もここにはない。

 

 ―――そうか。

 

 忉利はぼんやりと思った。

 

 終わったんだな。

 

 青子はたぶん、生きてる。あの赤い紋様はちゃんと切れた。静希もたぶん、生きてる。あの獣の突進もちゃんと止めた。

 

 なら、いい。

 

 晴華には悪いことをした。クリスマスのケーキ。親父にも。冷えるぞって、言われたのに。

 

 それから。

 

 青子に。

 

 泣きそうな顔、すんなって、最後に言えなかった。

 

 それだけが少しだけ、心残りだった。

 

 暗闇がゆっくりと濃くなっていく。

 

 線がひとつ、またひとつと見えなくなっていく。

 

 楽だった。

 

 初めてそう思った。

 

 見えないというのは、こんなに楽なことだったのか。天井を見て、天井しか見えない。空を見て、空しか見えない。痛みも疼きも、何もない。

 

 ずっとこうだったらよかったのに。

 

 忉利は目を閉じようとした。

 

 その時。

 

 遠くで何かが光った。

 

 青い、光だった。

 

 暗闇のずっとずっと向こうから。

 

 

◇

 

 

 その青い光は近づいてきた。

 

 いや、違う。近づいてくるのではない。広がってくるのだ。暗闇そのものを内側から青く染め上げながら。

 

 夜明け前の空の色だった。

 

 いちばん高いところの、いちばん深い青。

 

 ―――忉利。

 

 声が聞こえた。

 

 知っている声だった。

 

 十年以上隣で聞いてきた声。

 

 けれど、少しだけ違う。低くて、柔らかくて、落ち着いていて。まるで、何年も先の、ずっと大人になったあいつの声のような。

 

 ―――忉利。起きなさい。

 

「……青子?」

 

 声が、出た。

 

 身体がないのに声が出た。

 

 ―――まだ寝てる場合じゃないでしょう。晴華ちゃんとケーキを食べるんでしょう。

 

「……お前、なんでここに」

 

 ―――迎えに来たのよ。

 

 青い光が忉利を包み込んだ。

 

 温かかった。

 

 ひどく、温かかった。

 

 そして、その光の中で。

 

 忉利の胸を貫いていたあの黒く重い線が――ゆっくりと動き始めた。

 

 ほどけるのではない。切れるのでもない。

 

 引き抜かれていく。

 

 胸の真ん中から、するすると、まるで長い長い糸を手繰り寄せるように。どこか途方もなく遠い場所へと。

 

 忉利はその線の行き先を目で追った。

 

 見えた。

 

 線は、暗闇を抜け、青い光を抜け、どこまでも、どこまでも伸びていく。

 

 明日へ。来年へ。十年後へ。百年後へ。千年、一万年、一億年――

 

 この世界のすべての線がほどけて、消えて、何もかもが終わった、その先のさらに先へ。

 

 時間の、果てへ。

 

 ―――あなたの死は、ここには置いておかない。

 

 青子の声が静かに響いた。

 

 ―――ずっとずっと先の、誰も見ていない場所に捨ててくるわ。いつか、世界が全部終わる、その最後の瞬間まで、誰にも拾わせない。

 

「……そんなこと、できんのかよ」

 

 ―――できるわよ。

 

 青子が笑った気配がした。

 

 ―――私を、誰だと思ってるの。

 

 引き抜かれていく死の線のすぐ脇を。

 

 別の線が流れていた。

 

 細い、細い、何千本もの線。その一本一本に何かが映っていた。

 

 夏のカウンター。白いカップ。口のまわりの牛乳の髭。

 

 天井の板の黒い線。眼科の待合室。父の背中。

 

 理科室の割れた窓。伸びたテープの曲。坂の上の屋敷を見上げた、中学の卒業式の日。

 

 自分の十年だった。

 

 それが青い光の方へ流れ込んでいく。

 

 ―――借りるわよ。

 

 青子の声が言った。

 

 ―――あんたの十年。勝手に。……文句は起きてから聞くから。

 

「……おい」

 

 ―――全部、見たわ。

 

 声がほんの少しだけ震えていた。

 

 ―――なんで、何にも、言わなかったのよ。

 

 忉利は答えなかった。

 

 答えられなかった。

 

 胸を貫いていた線が、最後の一端まで引き抜かれた。

 

 黒い線は青い光の彼方へと、音もなく消えていった。

 

 胸が軽くなった。

 

 とくん、と。

 

 何かが鳴った。

 

 とくん。とくん。

 

 止まっていたものが、また動き始めた。

 

 

◇

 

 

 その瞬間。

 

 青い光の奔流が流れ戻ってきた。

 

 青子の中を通り抜けた自分の十年が。

 

 借りた時と同じ道を通って、持ち主のところへ返ってくる。

 

 それが忉利の目に流れ込んできた。

 

 右目に。左目に。

 

 眼球の奥へ。視神経を伝って。脳のいちばん深いところへ。

 

 熱かった。

 

 旧校舎で四枚目の壁を切った時に焼き切れた、あの無数の細い糸。その焼け跡に、青い光が染み込んでいく。

 

 忉利はそれを感じていた。

 

 焼け残った糸の切れ端が、光に触れて、ひとつずつ持ち上げられていく。それから、別の切れ端と引き合わされていく。結ばれていく。

 

 一本。

 

 また、一本。

 

 けれど、それは元どおりに戻っているのではなかった。

 

 結び直された糸は前より、太かった。前より、硬かった。細い木綿の糸が鋼の綱に編み直されていくように、一本結ばれるたびに、その糸を伝って光が次の糸へと流れていく。

 

 晴華の声が戻ってきた。

 

 父の、ネルを振る手が。

 

 Cafe HIKAGEのカウンターの木目が。

 

 全部、戻ってきた。

 

 前よりもずっと、くっきりと。

 

 ―――待て。

 

 忉利は光の中で思った。

 

 この光が何をしようとしているのかが、わかった。

 

 目を作り直そうとしている。

 

 今まで、線を見るたびに痛かった。切るたびに、血が出た。それは、この目が線を見るようにはできていなかったからだ。生まれつきのただの人間の目で、無理やり世界の継ぎ目を見ていたからだ。

 

 この光は、それを線を見るための目に作り直そうとしている。

 

 痛まない目に。切っても血の出ない目に。

 

 ―――でも、それは。

 

 もう、戻れない、ということでもあった。

 

 線の見えないただの世界には、もう、二度と。

 

 暗闇の中で見た、あの楽な世界。天井を見て、天井しか見えない世界。

 

 それを捨てる、ということだった。

 

 光は待っていた。

 

 忉利の答えを。

 

 誰かに頼まれたわけではなかった。この光は、青子の魔法だ。青子は自分を生き返らせようとしている。それだけだ。目のことまで頼まれてはいない。

 

 この光を目に入れなくても、たぶん生き返る。

 

 ただの人間として。乱視の、喫茶店の息子として。

 

 ――それで、いいじゃねえか。

 

 そう思った。

 

 思って、それから。

 

 暗闇の向こうに、青子の顔が浮かんだ。

 

 遊園地の噴水の縁で、一人で夜と戦っていた横顔。

 

 自分を庇って赤い槍に貫かれた背中。

 

 床に這って手を伸ばして、届かなかった手。

 

 ―――だめ。

 

 最後に唇がそう動いていた。

 

 あいつはこれからも、夜に出ていく。

 

 化け物と、姉と、線の見えないものと戦い続ける。

 

 その隣で。

 

 見えない目で隣にいるのか。

 

 あいつが何と戦っているのかも、見えないまま。

 

「……嫌だな」

 

 声が出た。

 

「それは、嫌だ」

 

 楽な世界は、確かに楽だった。

 

 けれど、あいつの隣で何も見えないのは嫌だった。

 

「見る」

 

 忉利は言った。

 

「おれは、見る。……全部、見る」

 

 光が動いた。

 

 一気に流れ込んできた。

 

 両目のいちばん奥まで。

 

 焼き切れていた糸が鋼の綱になって、一本残らず結び直されていく。その綱が、視神経を伝って、脳の奥まで伸びていく。線を見るための神経。線を切るための神経。生まれた時にはなかったもの。

 

 そして、最後に。

 

 目の奥に何かができた。

 

 流れ込んできた十年のいちばん長い部分。見えているのに見ないふりをしてきた、十年分の瞬き。痛い時に黙って目を閉じてきた、何千回ものあの閉じ方。

 

 それが形になった。

 

 扉のようなものだった。

 

 開けたり閉めたりできる、細い隙間。線を見たい時に見て、見たくない時に見ないでいられるための。

 

 この光は目を作り直しながら、忉利の十年と、忉利の「嫌だ」も一緒に編み込んでいた。

 

 全部を見る。けれど、全部をいつも見ていなくてもいい。

 

 そういう目に。

 

 そして――世界の線が、見えた。

 

 暗闇の中の無数の線。星と星を繋ぐ線。一秒と一秒を区切る線。昨日と今日を縫い合わせる線。

 

 全部、見えた。

 

 痛みはどこにもなかった。

 

 頭の芯を焼くような熱も、眼球の奥で何かが千切れる感触も、何もない。ただ、見える。当たり前のように。呼吸をするように。

 

 ―――ああ、そうか。

 

 忉利はぼんやりと理解した。

 

 今まで痛かったのは、目のせいじゃなかった。

 

 この目に身体が追いついていなかっただけだ。

 

 ふと、胸の奥で何かが、かちりと音を立てた気がした。

 

 時計の針がどこかで、ぴたりと止まったような。

 

 けれど、それが何なのか、今の忉利にはわからなかった。

 

 青い光が強くなる。

 

 暗闇が白く、明るく溶けていく。

 

 ―――ほら、忉利。

 

 声がすぐそばで聞こえた。

 

 ―――目を開けて。

 

 

◇

 

 

 古い扇風機が見えた。

 

 煤けた板の天井。夏の白い光。蝉の声。

 

 それから、焦げる寸前の豆の匂い。

 

 ここは音楽室ではなかった。

 

 店だった。

 

 十年前の夏の。

 

 窓の外の蝉の声が途中で止まっていた。扇風機の羽根が、回りかけたまま凍りついていた。

 

 カウンターの端で、二人の子供が白いカップを持ったまま止まっていた。

 

 そして、その天井と自分の間に。

 

 誰かの顔が、あった。

 

 長い、長い髪が夜空の色に染まって、宙にふわりと広がっている。

 

 深く、静かな青い瞳。

 

 少女の丸みが消えた大人の女の頬の線。

 

 知らない顔だった。

 

 知っている顔だった。

 

「……おはよう、忉利」

 

 その人は、少しだけ泣きそうな顔で笑った。

 

 忉利はしばらく、その顔を見上げていた。

 

 右目が、見えていた。

 

 左目も、見えていた。

 

 両目ではっきりと。痛みひとつなく。

 

 その人の周りに無数の線が見えた。けれど、それは今まで見てきたどの線とも違っていた。まるで、夜明けの空に引かれた何本もの光の筋のように、青く、澄んで、美しかった。

 

「…………青子?」

 

「ええ」

 

「……お前、なんかでかくなってねえか」

 

 青子は一瞬、きょとんとした。

 

 それから、くすりと笑った。

 

 大人の顔で。けれど、その笑い方だけは、十年以上隣で見てきたあの幼馴染と同じだった。

 

「開口一番、それ? ……相変わらずね、あんたは」

 

 それから、青子の目が忉利の目の上で止まった。

 

 じっと覗き込む。

 

「……あんた、目」

 

「……なんだよ」

 

「色が、変わってる」

 

 青子は忉利の目を、右、左と順番に見た。

 

 生まれつき色素の薄い、灰色がかった茶色の目だった。眼科で「少し色素が薄いね」と言われた、あの目。

 

 その虹彩のいちばん外の縁が。

 

 青かった。

 

 夜明け前の空の色。いちばん高いところの、いちばん深い青。灰色の奥から、その青がかすかに、けれど確かに差していた。

 

 まるで瞳の中に、夜明けを一つ閉じ込めたように。

 

「……私の、色」

 

 青子は小さく言った。

 

「私の魔法の色が、あんたの目に残ってる」

 

 忉利は瞬きをした。

 

 自分では見えなかった。

 

 けれど、青子の顔を見ていれば、それがどんな色なのかわかる気がした。

 

「……それと」

 

 青子は少しだけ目を逸らした。

 

「あんたの十年、見たわ。……全部」

 

「……は?」

 

「借りたんだもの。通るのよ、私の中を。……天井の線も。眼科も。乱視だって、嘘ついてたのも」

 

 忉利は何も言えなかった。

 

「それから、……ほかにもいろいろ」

 

 青子の頬が、大人の顔のまま見る見るうちに赤くなった。

 

「あとで文句、言ってあげるから。覚えてなさいよ」

 

「……泣きそうな顔、すんなって」

 

 忉利はゆっくりと手を持ち上げた。

 

 青子の頬に触れる。

 

 濡れていた。

 

「言っただろ。……最後に、言えなかったけど」

 

 青子の唇が震えた。

 

 それから何も言わずに、忉利の胸に額を押しつけた。

 

 とくん、とくん、と。

 

 心臓の音を確かめるように。

 

「……バカじゃないの」

 

 くぐもった声だった。

 

「ほんと、バカ。……大バカよ、あんたは」

 

「知ってる」

 

 忉利は青子の頭に、そっと手を置いた。

 

 長い、夜空の色の髪。少しだけ知らない手触りがした。

 

 けれど、その温かさは何も変わっていなかった。

 

 

◇

 

 

「――――素晴らしい」

 

 声が、した。

 

 静止した夏の店の中で、ただ一人動くことを許されていた者の声。

 

 蒼崎橙子が窓辺に立っていた。

 

 眼鏡はかけていなかった。

 

 その顔にはもう、驚きも恐怖も浮かんでいなかった。

 

 ただ、熱があった。

 

 生涯をかけて探し求めていたものを、ついに目の前で見届けた者の。

 

 狂おしいほどの、熱が。

 

「死を、未来へ捨てたのか。時間の果てに放逐した。……死んだ少年自身の十年を借りて、その代価として」

 

 橙子の声は震えていた。

 

 歓喜に。

 

「理屈が、わからない。仕組みが、わからない。術式も手順も、何ひとつ読み取れない。……ああ、それでいい。わからないからこそ、魔法だ」

 

 橙子は両手をゆっくりと広げた。

 

「青子。お前の中にあるものが何なのか。今夜ようやく、この目で見ることができた」

 

 青子は忉利の胸から顔を上げた。

 

 ゆっくりと立ち上がる。

 

 振り返る。

 

 大人の顔で。深く、静かな青い目で。

 

 姉を、見た。

 

「……満足した? 姉貴」

 

「いいや」

 

 橙子は首を振った。

 

「見たからこそ、欲しくなった。……解体して確かめたくなった」

 

 橙子の指先が、空中に文字を描き始めた。

 

 一文字。二文字。三文字。

 

 赤く光る文字が次々と紡ぎ出されていく。今までのどのルーンよりも多く、複雑で、禍々しい。

 

 店の空気が軋んだ。

 

 静止した時間の中で、橙子の周りだけがぎしぎしと、無理やりに動き始める。

 

「それに、君もだ、少年」

 

 橙子の目が忉利を捉えた。

 

 身体を起こした忉利の両目を。

 

「その目。……虹彩の色が変わっているな。魔法の奔流を目で受けたのか。そして、それを拒まなかった」

 

 橙子の唇が弧を描いた。

 

「回路のない目が、自分の十年ごと魔法に焼かれて作り変えられた。……ますます、欲しくなった」

 

 忉利はゆっくりと立ち上がった。

 

 膝は、もう震えていなかった。

 

 頭の芯も焼けていなかった。

 

 青子の隣に並ぶ。

 

 肩が触れるか触れないかの距離。

 

 小さい頃から、ずっとこの距離だった。

 

 ただ、今夜は――少しだけ見上げなければならなかった。

 

「……青子」

 

「なに」

 

「あいつ、まだやる気みてえだぞ」

 

「そうね」

 

「どうする」

 

 青子は少しだけ笑った。

 

 大人の顔で。

 

 けれど、その目の奥であの頃と同じ、ろくでもないことを思いついた時の光がちかりと灯った。

 

「決まってるでしょ」

 

 青子は右手を姉に向かって、すっと持ち上げた。

 

 指先に青い光が灯る。

 

 今までのどの光よりも深く、澄んだ夜明けの青。

 

「姉妹喧嘩の続きよ。……今度は、手加減しないわ」

 

 忉利は両目で橙子を見た。

 

 無数の線が見えた。定規で引いたような、あの冷たい線。紡がれていくルーンを貫く線。そして、その奥に――

 

 橙子という存在そのものを縫い合わせている、ひときわ太い一本の線が。

 

 痛みは、なかった。

 

 ただ、見えていた。

 

 当たり前のように。呼吸をするように。

 

 目の奥の扉を、少しだけ開いて。

 

「……ああ」

 

 忉利は気だるげに言った。

 

「さっさと終わらせて帰るか。……晴華が、ケーキ待ってんだよ」

 

 夏の午後の喫茶店で、蝉の声がひとつ残らず止まっていた。

 

 カウンターの端で、二人の子供が白いカップを持ったまま、こちらを見ていた。

 

 夜は、まだ明けていなかった。

 

 けれど、その夜の底で確かに。

 

 青い夜明けが、始まろうとしていた。




淡々と投稿していましたが、初めてあとがきというか、言い訳をしようと思います。

 あの白い花の草原は、特にアイコニックなシーンなので、「俺の十年には、まだ、何もない」。切り取っても何も破れない時間だから、貸せる。そして、忉利は草十郎を庇って死んだので、「俺の時間で戻すのが筋だ」みたいな展開にしようと思ったのですが、青子と忉利の関係を優先した結果こうなりました。

 ほんと迷いました、まだ少しもやもやが残ってますが、まあいいかなと。

ちなみに去年の今くらいに原作最終話くらいまで一気に上げてました。文章が下手で二日も経たないうちにUA80くらいで消しましたけども。今は久しぶりに見てブラッシュアップしたのを上げてます。なので、最終話まではもうできてるのでポンポン上げてくと思います。恥ずかしくなったら、また消すと思います。

正直後日談というか番外編を描きたくてやってるのでこんな番外編書いてなどのリクエストなどありましたらお気軽に申してください。

シエルの小説満足度調査

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