夜明けの色を見る眼   作:にんら

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共犯者

 壁の板が、砕け散った。

 

 金色の閃光に呑み込まれた静希草十郎の身体は、旧校舎二階の廊下の壁を突き破り、隣の空き教室の中へと転がり込んでいた。

 

 古い机と椅子が、なぎ倒される。埃が、白く舞い上がる。

 

「あはっ! まだ動いてる!」

 

 壁の穴から、金色の獣が、楽しそうに顔を覗かせた。

 

「すごいね、キミ。今ので、普通は背骨折れるのに」

 

 草十郎は、倒れた机の陰で、ゆっくりと身体を起こした。

 

 背中が、焼けるように痛む。息を吸うたびに、脇腹の奥で、何かが軋む。口の中に、鉄の味が広がっていた。

 

 それでも、立った。

 

「……山の熊は」

 

 口の端の血を、右手の甲で拭う。

 

「もっと、重かった」

 

「ふうん?」

 

 獣は、首を傾げた。

 

 それから、にい、と牙を剥き出しにして笑った。

 

「じゃあ、もっと重くしてあげる」

 

 跳んだ。

 

 今度は、真正面から。

 

 草十郎は、避けなかった。

 

 避けられないのは、わかっていた。あの速さは、山のどんな獣よりも速い。目で追えない。足で逃げられない。

 

 だから、待った。

 

 獣の鉤爪が、胸に届く、ほんの一瞬前。

 

 身体を、半歩だけ、横にずらした。

 

 鉤爪が、草十郎の左肩を掠めていく。服が裂け、皮膚が裂け、熱い痛みが走る。

 

 その痛みと引き換えに、獣の身体が、草十郎のすぐ横を、通り過ぎようとしていた。

 

 がら空きの、脇腹。

 

 草十郎は、右の肘を、叩き込んだ。

 

 鈍い音。

 

 獣の身体が、横に弾け飛んだ。教室の黒板に叩きつけられ、白墨の粉が、雪のように舞い散る。

 

「…………っ、え」

 

 獣は、黒板の下に座り込んだまま、きょとんとした顔で、自分の脇腹を見下ろした。

 

 それから、草十郎を見た。

 

 金色の目が、大きく見開かれていた。

 

「……今の、痛かった」

 

 驚いたような声だった。

 

「ボク、トーコ以外に、痛くされたの、初めて」

 

 草十郎は、答えなかった。

 

 右の肘が、痺れている。骨に、ひびが入ったかもしれない。膝が、がくがくと震えていた。

 

 次は、ない。

 

 今のは、まぐれだ。あの獣が、自分を侮っていたから、当たっただけだ。

 

「……あは」

 

 獣が、立ち上がった。

 

 脇腹を押さえたまま。

 

 けれど、その目は、さっきまでよりも、ずっと爛々と輝いていた。

 

「あははっ! すごい、すごいすごい! キミ、面白い!」

 

 獣は、嬉しそうに笑いながら、教室の窓の方に目をやった。

 

 天井の、ずっと上の方。

 

 三階の、音楽室の方角を。

 

「でも、トーコが呼んでる」

 

「…………」

 

「ボク、行かなきゃ。……キミ、後でもう一回遊ぼうね。今度は、ちゃんと壊してあげるから」

 

 獣は、窓枠を蹴って、夜の闇の中へと飛び出していった。

 

 壁伝いに、上へ。

 

 三階へ。

 

「――待て」

 

 草十郎は、よろめきながら、教室を飛び出した。

 

 廊下を走る。階段を、駆け上がる。

 

 脇腹が、悲鳴を上げていた。肩の傷から、血が流れ続けていた。

 

 それでも、足は止まらなかった。

 

 上には、蒼崎がいる。

 

 日景がいる。

 

 久遠寺がいる。

 

 あの獣を、上に行かせてはいけなかった。

 

 音楽室の床の上で、日景忉利は、青子を抱きかかえていた。

 

 青子の息は、浅かった。

 

 浅く、速く、時々、途切れる。途切れるたびに、忉利の心臓が、握り潰されるように縮んだ。

 

 脇腹から溢れる血は、止まらなかった。

 

 押さえた指の間から、とめどなく、温かいものが流れ出していく。

 

 窓辺で、橙子が、下の階の獣の咆哮に、耳を澄ませていた。

 

 その目が、ほんの一瞬、忉利から逸れた。

 

 壁際で、有珠の身体が、ふっと、軽くなった。

 

 縫い止めが、緩んだ。

 

「――どいて」

 

 かすれた声がした。

 

 有珠だった。

 

 壁を伝って、よろめきながら、ふらつく足取りで、青子の傍らに膝をついていた。

 

「……お前、動けんのかよ」

 

「動けないわ。……でも、少しだけなら」

 

 有珠は、震える手で、外套のポケットから、小さな青い鈴を取り出した。

 

 鏡野農園で使ったものと、同じ鈴。

 

 それを、青子の傷口の上に、そっと置いた。

 

「わたしにできるのは、少しだけ、夜を長くすることだけ」

 

 有珠は、目を閉じて、何かを囁いた。

 

 鈴が、ちりん、と、かすかに鳴った。

 

 青子の傷口から溢れる血の勢いが――ほんのわずかに、緩んだ。

 

 止まったわけではない。ただ、ゆっくりになった。まるで、青子の身体の中の時間だけが、少しだけ、遅く流れ始めたかのように。

 

「……長くは、もたないわ」

 

 有珠の額に、冷たい汗が浮かんでいた。

 

「わたしの回路も、もう、ほとんど残っていないの。……十分。それが、限界」

 

「十分……」

 

「その間に、あの女を、どうにかしなさい」

 

 有珠は、目を開けて、忉利を見た。

 

 いつもの、感情の読めない目ではなかった。

 

 何かを、託すような目だった。

 

「――日景忉利」

 

「……なんだよ」

 

「あの子を、頼むわ」

 

 忉利は、有珠の顔を、しばらく見つめていた。

 

 それから、腕の中の青子を、そっと有珠の膝の上に預けた。

 

 青子の瞼が、かすかに震えた。

 

「…………とう、り……?」

 

「寝てろ」

 

 忉利は、青子の額にかかった髪を、指先でどけた。

 

「すぐ、終わらせる」

 

 立ち上がる。

 

 膝が、震えていた。

 

 頭の芯が、まだ、焼けるように痛んでいた。さっき、四枚目の壁を切った時に、何かが千切れた場所。そこが、じくじくと、熱を持って疼いている。

 

 怖かった。

 

 正直に言えば、怖くてたまらなかった。

 

 次に使ったら、戻ってこられない。その予感は、まだ、頭の奥にこびりついていた。

 

 けれど。

 

 忉利は、窓辺に立つ橙子を、まっすぐに見据えた。

 

「答えは、出たかい」

 

 橙子は、窓の外の月を見上げたまま言った。

 

「目は、やらねえ」

 

 忉利は、言った。

 

 橙子が、ゆっくりと振り返った。

 

「……そうか」

 

「青子も、死なせねえ。有珠の中のもんも、解いてもらう」

 

「欲張りだね。全部は、取れないよ」

 

「知ってる」

 

 忉利は、右目の眼帯を、むしり取った。

 

 床に、投げ捨てる。

 

「だから、お前のその計算ごと、切ってやる」

 

 橙子の目が、わずかに、細められた。

 

「……さっき、迷ったばかりの君がかい」

 

「ああ」

 

 忉利は、否定しなかった。

 

「迷った。怖かった。……今も、怖えよ」

 

 右目が、疼いていた。

 

 ずきり、ずきりと。脈を打つたびに、視界の端が、赤く滲む。

 

「でもな」

 

 忉利は、背後を振り返らなかった。

 

 振り返らなくても、わかっていた。有珠の膝の上で、浅い息をしている青子。その脇腹から、ゆっくりと流れ続けている、血。

 

「あいつは、おれを庇って、あんなことになった。……おれが迷ったから」

 

「…………」

 

「二度も、迷ってたまるかよ」

 

 今朝、教会で、あの神父が言っていた。

 

 斬れる時に斬るのが、いちばんですよ。迷ったら、それで終わりです。

 

 意味が、ようやくわかった。

 

 そして、土手の上で、青子が言った。

 

 あんたは、迷っていいの。迷って、切らないでいて。

 

 その意味も、ようやくわかった。

 

 迷っていいのは、切らなくてもいい時だけだ。

 

 今は、違う。

 

 橙子は、しばらく、忉利の顔を見つめていた。

 

 それから、小さく、息を吐いた。

 

「……残念だよ、少年」

 

 その声には、ほんのわずかに、本物の惜しむ色があった。

 

「君の目は、生きたまま手に入れたかった。脳が焼き切れた後の目では、少しばかり、質が落ちるからね」

 

 橙子の指先が、持ち上がった。

 

 有珠の爆弾を押さえていない方の、指先が。

 

「でも、仕方ない」

 

 空中に、文字を描く。

 

 一文字ではなかった。

 

 二文字、三文字、四文字。赤く光る角張った文字が、橙子の指先から次々と紡ぎ出され、空中で組み合わさり、複雑な、ひとつの紋様を形作っていく。

 

 それは、今まで見たどのルーンよりも、禍々しかった。

 

 線が、見えた。

 

 その紋様を貫く、何百本もの線。そして、その線の束が、まっすぐに――忉利の背後の、有珠の膝の上の、青子に向かって、伸びていた。

 

「青子の中にあるものを取り出すには、まず、あの子の命を止めなくてはならない」

 

 橙子は、静かに言った。

 

「このルーンは、触れた者の心臓を、一瞬で止める。……痛みはないよ。あの子は、眠るように逝く」

 

「――てめえ」

 

「そして、君の目は」

 

 音楽室の扉が、吹き飛んだ。

 

 金色の獣が、飛び込んできた。

 

 廊下から、一直線に。扉の残骸を踏み越え、何十体もの人形の間を縫い、床板を蹴り砕きながら。

 

「トーコ! 来たよ!」

 

 その背後から、もう一つの影が、転がるように飛び込んできた。

 

「――日景。蒼崎」

 

 草十郎だった。

 

 全身血まみれで、左肩から、脇腹から、赤いものを滴らせながら。それでも、獣の背中を追って、音楽室に駆け込んできていた。

 

 獣が、振り返った。

 

 草十郎を見て、にい、と笑った。

 

「あ、来た。……じゃあ、キミから壊してあげる」

 

「ベオ」

 

 橙子の声が、鋭く響いた。

 

「その少年は後だ。……目の少年を、押さえろ」

 

「えー」

 

 獣は、不満そうに唇を尖らせた。

 

 けれど、その金色の目が、忉利の方を向いた。

 

 それから、また、草十郎の方を向いた。

 

 二人の間で、獣の目が、迷うように揺れた。

 

「……いいや。両方、いっぺんに壊しちゃえ」

 

 獣が、身を沈めた。

 

 四肢に、力が溜まっていく。金色の毛並みが、ぶわりと逆立つ。

 

 その視線の先に、草十郎がいた。

 

 そして、草十郎と獣の、ちょうど間に――忉利が、立っていた。

 

 同時に、橙子の指先で、赤い紋様が、完成した。

 

「――おやすみ、青子」

 

 二つのものが、同時に、放たれた。

 

 赤い、死の紋様。

 

 それは、音もなく、まっすぐに、青子の心臓へと。

 

 金色の、獣の突進。

 

 それは、床板を砕き、空気を裂き、まっすぐに、草十郎へと。

 

 そして、その両方の軌道の上に、日景忉利が、いた。

 

 時間が、遅くなった。

 

 いや、違う。

 

 忉利の目に、すべてが、見えていた。

 

 赤い紋様を貫く、何百本もの線。その線の束の、ちょうど真ん中にある、一本の、太い、黒い線。

 

 獣の突進を貫く、一本の線。獣の身体を、前へ前へと押し出している、その勢いそのものの線。

 

 そして。

 

 獣の、振りかぶった右腕の、鉤爪の先から。

 

 まっすぐに、自分の胸へと伸びている、もう一本の線。

 

 全部、見えていた。

 

 三本。

 

 切らなければならない線が、三本。

 

 右目の奥で、何かが、軋んだ。

 

 わかっていた。

 

 三本は、切れない。

 

 さっき、四枚目の壁を切った時に、もう、ほとんどの糸が焼き切れている。残っているのは、あと、ほんの少しだけ。

 

 切れるのは、二本だけだ。

 

 どれを、切る。

 

 答えは、最初から、決まっていた。

 

 背後に、有珠の膝の上の青子がいる。

 

 前に、血まみれで立ち尽くす草十郎がいる。

 

 自分の胸に向かう線は――

 

 ―――いいや。

 

 忉利は、ほんの一瞬だけ、振り返った。

 

 有珠の膝の上で、青子が、目を開けていた。

 

 焦点の合わない、けれど、確かに忉利を見ている目で。

 

「…………とう、り……」

 

 唇が、動いていた。

 

 だめ、と。

 

 そう言っているのが、わかった。

 

 忉利は、少しだけ、笑った。

 

「……青子」

 

 低い声だった。

 

 気だるげで、ぶっきらぼうで、いつもと同じ声。

 

「おれは、お前の共犯者で、幼馴染で……お前の味方だ」

 

 赤い紋様が、迫る。

 

 金色の獣が、迫る。

 

「世界中の誰が敵になろうと、おれだけは、絶対に、お前の側から離れてやらねえよ」

 

 言ってから、忉利は、小さく舌打ちをした。

 

「……ちっ。柄じゃねえな」

 

 前を向く。

 

 右目を、見開く。

 

 残った糸を、全部、一度に、燃やす。

 

「――――切れろッ!!」

 

 音が、消えた。

 

 赤い紋様が、真ん中から、二つに割れた。

 

 割れた紋様は、青子に届く、ほんの数十センチ手前で、ばらばらの文字の欠片になって、宙に散った。赤い光が、火の粉のように舞い上がり、そして、消えた。

 

 同時に。

 

 獣の突進が、止まった。

 

 床板を蹴り、空気を裂き、草十郎に向かって一直線に飛んでいた金色の身体が、まるで、見えない糸で吊られたように、空中で、ぴたりと静止した。

 

 前へ進む、勢いそのものを、断ち切られて。

 

「――え」

 

 獣の口から、きょとんとした声が漏れた。

 

 そして。

 

 勢いを失った獣の身体が、重力に引かれて、落ちる。

 

 その落ちる身体の、振りかぶった右腕が。

 

 獣の本能のままに、目の前の、いちばん近くにあるものへと、振り下ろされた。

 

 鉤爪が、忉利の胸に、吸い込まれていった。

 

 音は、しなかった。

 

 ただ、背中に、何かが、突き抜けた感触がした。

 

 熱かった。

 

 いや、冷たかった。

 

 わからなかった。

 

 忉利は、ゆっくりと、自分の胸を見下ろした。

 

 金色の、獣の腕が、生えていた。

 

 自分の胸の、左側から。

 

 ちょうど、心臓のあるあたりから。

 

「…………ああ」

 

 声が、漏れた。

 

 痛みは、なかった。

 

 ただ、胸の奥で、ずっと規則正しく鳴っていた何かが、止まったのが、わかった。

 

 とくん、と。

 

 最後に、一度だけ。

 

 それきり、何も、鳴らなくなった。

 

 視界が、傾いていく。

 

 音楽室の天井が、見えた。古い蛍光灯。蜘蛛の巣。剥がれかけた漆喰。

 

 それから、窓の外の、冬の月が。

 

 線が、見えなくなっていた。

 

 天井にも。月にも。どこにも。物心ついた頃から、ずっと見えていたものが、初めて、一本もない。

 

 ただの、天井。ただの、月。

 

 ――ああ、普通の奴には、こう見えてたのか。

 

 遠くで、誰かが、叫んでいた。

 

 聞き慣れた声だった。

 

 十年以上、隣で聞いてきた声だった。

 

 ―――泣きそうな顔、すんなって。

 

 言葉には、ならなかった。

 

 日景忉利の世界は、そこで、終わった。

 

「――――――――ッ!!!」

 

 声にならない叫びが、音楽室を満たした。

 

 青子だった。

 

 有珠の膝の上から、身を起こそうとして、脇腹の傷に崩れ落ちる。それでも、床を這うように、手を伸ばす。

 

 届かない。

 

 忉利の身体は、獣の腕に胸を貫かれたまま、ゆっくりと、床に崩れ落ちていった。

 

 金色の獣は、自分の腕の先を、不思議そうに見つめていた。

 

「……あれ? ボク、こっちは、狙ってなかったのに」

 

 ずるり、と。

 

 獣が、腕を引き抜いた。

 

 忉利の身体が、支えを失って、床板の上に、仰向けに倒れた。

 

 胸に、穴が開いていた。

 

 そこから、赤いものが、とめどなく溢れ出していく。

 

 右目は、開いたままだった。

 

 真っ赤に充血した、けれど、もう何も映していない目で、音楽室の天井を見上げていた。

 

「……壊れちゃった」

 

 獣は、つまらなそうに呟いた。

 

 それから、背後を振り返った。

 

 草十郎が、そこに立っていた。

 

 静希草十郎は、動かなかった。

 

 ただ、床に倒れた忉利を、見下ろしていた。

 

 血まみれの顔。胸の穴。開いたままの、何も映していない右目。

 

 山で、何度も見た。

 

 獣に襲われた者の、最後の姿。

 

 村の男たちが、夜の山から戻ってこなかった時、翌朝、沢の近くで見つかる、動かなくなった身体。

 

 日景は、自分を庇った。

 

 あの獣の突進は、自分に向かっていた。日景は、それを、止めた。自分の命と、引き換えに。

 

「ねえ、キミ」

 

 獣が、草十郎に向かって、にい、と笑った。

 

 忉利の血で濡れた腕を、べろりと舐める。

 

「さっきの続き、しよ?」

 

 草十郎は、答えなかった。

 

 ただ、静かに、息を吸った。

 

 恐怖は、あった。

 

 今でも、犬は、苦手だった。

 

 けれど、その恐怖の奥に、もっと冷たい、もっと古いものが、ゆっくりと目を覚ましていくのを、草十郎は感じていた。

 

 山で、覚えたこと。

 

 言葉にされたことは、一度もない。ただ、村の大人たちの背中を見て、身体で覚えた、たった一つの決まり。

 

 ―――人を食った獣は、殺さなければ、殺される。

 

 迷っては、いけない。

 

 ためらっては、いけない。

 

 情けをかけた者から、順番に、沢の近くで見つかる。

 

「……ああ」

 

 草十郎は、言った。

 

「続きを、しよう」

 

 獣が、跳んだ。

 

 金色の閃光。

 

 さっきよりも、速い。さっきよりも、重い。草十郎を、今度こそ、跡形もなく砕くための、全力の一撃。

 

 草十郎は、避けなかった。

 

 踏み込んだ。

 

 前へ。

 

 獣の懐の、さらに内側へ。

 

 鉤爪が、草十郎の頬を裂いていく。構わなかった。牙が、耳のすぐ横で空を噛む。構わなかった。

 

 左腕を、獣の顎の下に、突っ込んだ。

 

 牙が、腕に食い込む。骨が、軋む。鏡野で久遠寺の腹を裂いた顎が、草十郎の左腕を、噛み砕こうとしている。

 

 構わなかった。

 

 その腕一本で、獣の顎を、上に押し上げた。

 

 獣の胸板が、目の前で、無防備に開いた。

 

 距離は、ない。

 

 拳を振りかぶる隙間すら、ない。

 

 それでよかった。

 

 山の猟師たちが、弾の尽きた時に使った、最後の打ち方。

 

 猪の突進を、懐で受け止め、その胸に拳を押し当てたまま、足の裏から、膝から、腰から、背骨から、肩から――身体じゅうの力を、ただ一点に、叩き込む。

 

 右の拳を、獣の胸に、押し当てた。

 

 心臓の、真上に。

 

 踏みしめる。

 

 床板が、みしりと鳴った。

 

「―――――」

 

 音は、ほとんど、しなかった。

 

 ただ、獣の身体が、内側から、どんと、揺れた。

 

 金色の目が、大きく見開かれた。

 

「…………か、は」

 

 獣の口から、息とも声ともつかないものが漏れる。

 

 左腕を噛んでいた牙が、緩んだ。

 

 草十郎は、その隙に、腕を引き抜いた。

 

 肉が、裂ける音。

 

 それから、獣の身体に、肩から、体当たりを叩き込んだ。

 

 全体重で。心臓を殴られて、止まりかけている獣の身体を、床に叩きつける。

 

 獣の身体が、床板の上で、跳ねた。

 

 金色の毛並みが、しぼんでいく。伸びていた背が、縮んでいく。鉤爪が、指先に引っ込んでいく。

 

 床の上に、小さな、金色の髪の少年が、横たわっていた。

 

 目を、見開いて。

 

 その金色の目に、初めて、草十郎が見たことのない色が浮かんでいた。

 

「……こわ、い」

 

 少年の唇が、震えた。

 

「なにこれ。……ボク、なんで、こわいの」

 

 人狼の村に、自然に生まれた精霊。成長しない、痛みも知らない子供。橙子が「最高の神秘と戦わせてやる」と言って連れ出した、死を知らない獣。

 

 その獣が、今、初めて、死を知った。

 

 少年の目が、閉じた。

 

 息は、あった。

 

 草十郎は、少年を見下ろしていた。

 

 右の拳が、震えていた。左の腕から、血が滴っていた。噛み砕かれた腕は、もう、感覚がなかった。

 

 殺さなかった。

 

 殺せなかったのか、殺さなかったのか、自分でも、わからなかった。

 

 ただ、もう、この獣が、誰かを食うことはない。今夜は、もう。

 

 それだけは、わかった。

 

「…………ベオ」

 

 窓辺で、橙子が、小さく呟いた。

 

 その顔に、初めて、驚きの色が浮かんでいた。

 

「……人狼を、素手で……?」

 

 草十郎は、答えなかった。

 

 ただ、振り返った。

 

 床に倒れた、忉利の方を。

 

 

 

 

 青子は、忉利の傍らに、たどり着いていた。

 

 床を這って。脇腹の傷から、血の跡を引きずりながら。

 

 有珠が止めようとした手を、振り払って。

 

 忉利の身体の上に、覆いかぶさる。

 

「……とうり、」

 

 呼んだ。

 

 返事は、なかった。

 

「忉利。ねえ、忉利」

 

 頬に、触れる。

 

 まだ、温かかった。

 

 けれど、その温かさが、指の下で、少しずつ、少しずつ、引いていくのがわかった。

 

「起きなさいよ。……ねえ。すぐ終わらせるって、言ったじゃない」

 

 胸に、耳を当てる。

 

 何も、聞こえなかった。

 

 とくん、とも。

 

 何も。

 

「……うそ」

 

 青子の声が、震えた。

 

「うそよ。……だって、あんた、クリスマスに、晴華ちゃんとケーキ食べるって。おじさんに、冷えるぞって、言われたんでしょ。……ねえ」

 

 忉利の胸の穴から溢れる血が、青子の頬を、赤く濡らした。

 

「帰らなきゃ、いけないでしょ……っ」

 

「――青子」

 

 背後で、有珠の声がした。

 

 静かな、けれど、ひどく震えた声だった。

 

「……もう、いないわ」

 

 青子は、振り返らなかった。

 

「その子は、もう」

 

「うるさい」

 

「青子――」

 

「うるさいって言ってるでしょッ!!」

 

 青子の叫びが、音楽室の空気を震わせた。

 

 有珠は、口をつぐんだ。

 

 草十郎は、立ち尽くしていた。

 

 窓辺で、橙子が、ゆっくりと、こちらに歩いてきた。

 

「……惜しいことをした」

 

 静かな声だった。

 

「脳も、心臓も、止まった。……でも、目は、まだ無事だ。今なら、間に合う」

 

 橙子は、忉利の傍らに、膝をつこうとした。

 

 その手が、忉利の、開いたままの右目に、伸びた。

 

 その瞬間。

 

 青子の髪が、ふわりと、浮き上がった。

 

 風は、吹いていなかった。

 

 けれど、青子の長い髪が、まるで水の中に沈んでいくように、ゆっくりと、宙に広がっていった。

 

 橙子の手が、止まった。

 

「…………青子?」

 

 青子は、答えなかった。

 

 忉利の身体の上に覆いかぶさったまま、ゆっくりと、顔を上げた。

 

 その目が。

 

 青かった。

 

 いつもの、魔弾を撃つ時の青ではなかった。もっと深く、もっと遠く、もっと古い。夜明け前の空の、いちばん高いところの、青。

 

 この世界のどこにもない、青。

 

 そして。

 

 青子の、すぐ隣に。

 

 赤い影が、立っていた。

 

 子猫の日から、ずっと、少し離れたところにいたもの。遊園地で、隣まで来たもの。

 

 今は、青子の肩に、触れるほど近くに。

 

 青子は、初めて、それを、まっすぐに見た。

 

 目を、逸らさなかった。

 

「――触らないで」

 

 青子の声は、静かだった。

 

 静かすぎて、音楽室の空気そのものが、凍りついたようだった。

 

「忉利に、触らないで」

 

 橙子の顔から、表情が消えた。

 

 眼鏡のない、冷たい研究者の顔が――初めて、崩れた。

 

 目が、見開かれていた。

 

 唇が、かすかに震えていた。

 

 それは、恐怖だった。

 

 蒼崎橙子が、生まれて初めて、妹に対して抱いた、剥き出しの、恐怖だった。

 

「……青子。お前、何を」

 

 青子は、立ち上がった。

 

 脇腹の傷から、血が流れ続けている。膝が、震えている。それでも、立った。

 

 忉利の身体を、背中に庇うようにして。

 

「返して」

 

 囁くような声だった。

 

「返して。忉利を。……忉利の時間を」

 

 有珠が、息を呑んだ。

 

「――青子、だめ!! それは――」

 

 遅かった。

 

 青子の足元から、青い光が、溢れ出した。

 

 床板の木目を、なぞるように。音楽室の隅々まで、波紋のように広がっていく。椅子の人形たちが、その光に触れた瞬間、動きを止めた。いや、止まったのではない。まるで、時間そのものが、そこだけ、凍りついたように。

 

 窓の外の月が、揺らいだ。

 

 旧校舎の古い柱時計の振り子が、宙に浮いたまま、止まった。

 

 舞い上がっていた埃の粒が、空中で、静止した。

 

 すべてが、止まっていた。

 

 青子と、忉利の身体の周りだけを、除いて。

 

「祖父から、受け継いだもの」

 

 青子は、目を閉じた。

 

「何代もかけて、蒼崎の家が守ってきたもの。……姉貴が、ずっと欲しがってたもの」

 

 その声は、もう、震えていなかった。

 

「子猫の時に、駄目だって言われた。……そういうことは、してはいけないって」

 

 隣の赤い影が、青子の肩に、手を置いた。

 

 青子は、それを、払わなかった。

 

「知ってるわ。……でも、やる」

 

「使うわよ、姉貴。……よく見ておきなさい」

 

 青子の瞼が、ゆっくりと、開いた。

 

 その瞳の奥で。

 

 世界の、果ての色が、燃えていた。

 

「―――これが、蒼崎の魔法よ」

次作品 ヒロイン候補 書いたはいいですが、橙子やアルクはどう作るつもりなんでしょうか…

  • シエル (月姫R アルクェイドルート)
  • アルクェイド(月姫R シエルルート?)
  • 蒼崎橙子 (空の境界)
  • 遠坂凛 (Heaven’s Feel)
  • ライダー (Heaven’s Feel)
  • ジャンヌ・ダルク (Apocrypha)
  • ジャンヌ・ダルク (史実+FGO)
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