青子が、指先をほんの少しだけ下ろした。
それだけで、世界がまた動き始めた。
夏の午後の喫茶店が、足元からゆっくりと薄れていく。磨き込まれた床が、音楽室の古い床板に戻っていく。天井の扇風機が、蜘蛛の巣のかかった蛍光灯に溶けるように吸い込まれていく。カウンターの端の二人の子供が、白いカップを持ったまま光の粒になって消えていく。
借りた舞台は魔法を使う間だけのものだった。
音楽室が戻ってきた。
空中に縫い止められていた埃の粒が、はらはらと舞い落ちる。窓硝子の手前で凍りついていた月の光が、ふたたび床の上へと流れ込む。宙に浮いたまま止まっていた柱時計の振り子が、かつん、と音を立ててまた揺れ始めた。
そして、椅子から組み上げられた何十体もの人形たちが、軋みを上げて一斉に首をもたげた。
「――止めておかないのか」
窓辺で、橙子が意外そうに眉を上げた。
「時間を止めたままなら、私の人形は動けない。お前の一方的な勝ちだったろうに」
「そうね」
青子はあっさりと頷いた。
「でも、止めたままじゃ、この子が動けないもの」
青子は、隣に立つ忉利をちらりと見た。
「それに、借りた時間は無駄遣いしたくないの。……この子の十年なんだから。あんまり長くは、もたないし」
その言葉に、忉利は青子の横顔を見上げた。
夜空の色に染まった長い髪。大人の輪郭。深く静かな青い目。
その輪郭がほんのわずかに――本当にわずかに、揺らいで見えた。
水面に映った像が風で波立つように。
「……時間切れがあんのか」
「あるわよ。借り物だもの」
青子は何でもないことのように言った。
「夜明けまで。……それまでに終わらせるわ」
◇
人形たちが動いた。
何十体もの白い人形が、四方から同時に跳びかかってきた。
青子は動かなかった。
ただ、右手を横に払った。
青い光が弧を描いた。
音はなかった。
ただ、光が通り過ぎたあとには何も残っていなかった。人形たちは砕けたのではなかった。吹き飛んだのでもなかった。まるで、最初からそこに存在しなかったかのように、青い弧の軌跡に沿って跡形もなく消えていた。
残った人形たちが一瞬、動きを止めた。
怯んだように。
「……化け物じみてるな、お前」
忉利は呆れたように呟いた。
「あら。あんたに言われたくないわね」
青子はくすりと笑った。
その笑い方は、大人の顔でも、やっぱりいつもの青子だった。
◇
窓辺で、橙子が指先を走らせた。
空中に赤い文字が次々と刻まれていく。
ケナズ。
炎の文字が燃え上がる。
イサ。
氷の文字が凍りつく。
ソウェル。
陽光の文字が輝く。
三つの文字が空中で組み合わさり、ひとつの巨大な紋様になった。炎と氷と光が、互いに絡み合い、渦を巻き、音楽室の天井いっぱいに広がっていく。
「青子。君の魔法は確かに奇跡だ。……だが、奇跡は一度に一つしか起こせないだろう?」
橙子の声は冷静だった。
「未来を借りて、死を捨てて、傷を消した。それだけで、君の中の奇跡はほとんど使い切っているはずだ。今、君の手に残っているのは、せいぜい未来の自分の魔弾くらいのものだ」
紋様が完成した。
音楽室の空気が焼けるように熱くなる。同時に、凍えるように冷たくなる。
「――その程度なら、私にも防げる」
紋様が降ってきた。
炎と氷と光の奔流が、天井から滝のように。
青子は両手を掲げた。
青い光が盾のように広がる。
ぶつかった。
轟音。
音楽室の窓硝子が一斉に砕け散った。床板がめくれ上がり、黒板が真っ二つに裂ける。炎と氷と青い光が、せめぎ合い、火花を散らし、音楽室を真昼のように照らし出した。
「――っ」
青子の足が、わずかに床の上を滑った。
押されている。
大人の身体でも。未来の力を借りても。
姉の、何年もかけて積み上げてきたルーンの前で。
「言っただろう、青子」
紋様の向こうで、橙子が静かに言った。
「私は、勝つための手順をすべて用意してから戦う。……お祖父様の魔法の分も、ちゃんと計算に入れてある」
青子の奥歯がぎり、と鳴った。
青い盾にひびが入った。
忉利はその光景を、両目で見ていた。
炎と氷と光の紋様。
その中に線が見えた。
三つの文字を束ねている何百本もの線。それが網のように絡み合い、結び目を作り、紋様全体をひとつに縫い合わせている。
その結び目の真ん中に。
一本だけ、ひときわ太い線があった。
炎の文字と氷の文字と光の文字を、たった一点で繋ぎ止めている、要の線。
「……青子」
「なに……っ!」
「ちょっと、どいてろ」
忉利は一歩、前に出た。
青子の青い盾の、さらに前へ。
「――忉利!?」
見た。
それだけだった。
右目を細めることも、息を止めることも、「切れろ」と呟くことすらしなかった。
ただ、その一本の線を見た。
音はしなかった。
天井いっぱいに広がっていた紋様が、真ん中からほどけた。
炎の文字が、ばらばらの火の粉になって散った。氷の文字が、細かな霜になって舞い落ちた。光の文字が、蝋燭の炎を吹き消すようにふっと消えた。
音楽室に静寂が戻った。
焦げた匂いと冷たい霜の匂いが、混ざり合って漂っていた。
窓辺で、橙子が目を見開いていた。
「…………今、何をした」
忉利は答えなかった。
ただ、自分の目元に指で触れた。
血は出ていなかった。
痛みもなかった。
頭の芯が焼けるような熱も、眼球の奥で何かが千切れる感触も、何ひとつ。
ただ見えて、切れた。
息をするように。
「……ほんとに、痛くねえ」
忉利はぽつりと呟いた。
背後で、青子が息を呑むのが聞こえた。
「私のルーンを、一瞥で……」
橙子の声が震えていた。
「詠唱も、魔力も、術式への干渉もなく。ただ、見ただけで。……少年、君は今、どうやって――」
「知らねえよ」
忉利は気だるげに橙子を見返した。
「聞いても耳に入って来ないんだよ、てめえらの理屈は」
両目で橙子を見る。
「邪魔だから、そこにある線を切っただけだろ」
橙子は、しばらく何も言わなかった。
ただ、忉利の目を見つめていた。
その顔から、ゆっくりと表情が消えていった。
それから――ふっと笑った。
「……そうか」
小さな乾いた笑いだった。
「手順にないもの。……文柄あたりが、言いそうなことだ」
橙子は窓枠に背中を預けた。
「確かに、君の目は私のどの手順にもない。計算のしようがない。……だが、少年」
橙子の指先が、また持ち上がった。
「見えても届かなければ、意味がないだろう?」
◇
音楽室の床が揺れた。
いや、音楽室だけではない。
旧校舎そのものが揺れていた。
柱が軋む。梁が悲鳴を上げる。壁の板が一枚、また一枚と内側から膨らんでいく。
「この旧校舎は、私の工房だ。……柱の一本、板の一枚まで、すべて私の人形の材料だよ」
音楽室の壁が崩れた。
崩れた壁の板が、宙に浮かび上がる。黒板の破片が。割れた窓枠が。椅子の残骸が。床板が。すべてが渦を巻きながら、音楽室の中央に集まっていく。
組み上がっていく。
巨大な、腕。
巨大な、脚。
天井を突き破るほどの、巨大な、胴体。
旧校舎の三階そのものを材料にした、見上げるほどの木の巨人が、音楽室の中央に立ち上がった。
顔のない白い面。
ゆうべの人形たちと同じ面。
「――っ、有珠! 静希くん!」
青子が叫んだ。
黒板の前で床に手をついていた有珠の頭上に、崩れた天井の梁が落ちてこようとしていた。
影が走った。
草十郎だった。
血まみれの身体で、それでも獣のような速さで床を駆け、有珠の身体を右腕一本で抱え上げ、そのまま梁の下を滑り抜ける。
背後で、梁が床を叩き割った。
「……静希、草十郎」
草十郎の腕の中で、有珠がかすれた声で言った。
「あなた、その怪我で……」
「有珠は軽いからね」
草十郎は崩れかけた音楽室の隅に、有珠をそっと下ろした。
その足元には、まだ気を失ったままの金色の髪の少年が横たわっていた。草十郎は少しだけ迷ってから、少年の身体も有珠の隣に引きずり寄せた。
「……その子も助けるの」
「もう人は食わないよ」
草十郎は少年の寝顔を見下ろした。
「人を食わない獣は、殺さなくていいんだ」
有珠は何も言わなかった。
ただ、草十郎の横顔をじっと見つめていた。
◇
巨人が腕を振り上げた。
音楽室の天井を突き破り、夜空に届くほどの巨大な木の腕。
それが、青子と忉利の頭上に振り下ろされる。
青子が両手を掲げた。
「忉利、下がって!」
「下がんねえよ」
忉利は巨人を見上げていた。
見えていた。
巨人の身体を、何千本もの線が縫い合わせている。板と板を。梁と柱を。床と壁を。橙子の、定規で引いたような線が、一本一本丁寧に巨人という形を組み上げている。
けれど。
その何千本もの線が、すべて同じ方向に向かって伸びていた。
巨人の足元から。
下ではなく、上へ。
音楽室の突き破られた天井の、さらにその上へ。
夜空へ。
いや――
「……屋上」
忉利は呟いた。
「あいつの線、全部、屋上に繋がってる」
青子が振り返った。
「……え?」
忉利は窓辺の橙子を見た。
両目で、じっと。
橙子の身体を縫い合わせている無数の線。定規で引いたような、あの冷たい線。
けれど、その線は橙子の身体の中で途切れていた。
中心が、なかった。
遊園地の月にも、スナークの子たちにも、あの女の周りにも、どんなものにも必ずあった、いちばん太い、その存在そのものを縫い止めている一本の線。
それが、窓辺に立つ橙子の身体には、どこにもなかった。
代わりに、そこから細い糸が何本も、何本も、天井を抜けて上へと伸びていた。
操り人形の糸のように。
「――お前」
忉利は橙子を、まっすぐに見据えた。
「中身が、ねえな」
窓辺の橙子の表情が、ぴたりと止まった。
「最初から、ずっとだ。屋敷に来た時も。たぶん、あれも。……今そこに立ってんのは、全部お前にそっくりな人形だろ」
橙子は答えなかった。
ただ、その顔から、笑みがすうっと消えた。
「本物は、屋上にいる。この人形も、あのでかいのも、全部、屋上から糸で動かしてんだ」
忉利は天井の穴を見上げた。
「――見えてんだよ」
巨人の腕が振り下ろされた。
青子が青い光の盾を張った。
その盾の下で、忉利は目を閉じなかった。
窓辺の橙子の人形から、屋上へと伸びる何本もの細い糸。
巨人の身体から、屋上へと伸びる何千本もの糸。
それらすべてが、天井の穴を抜けたところで、たった一本の太い綱に束ねられていた。
操り糸の根元。
見た。
それだけで。
ぷつり、と。
音もなく、綱が、断ち切れた。
巨人の腕が、青い盾に触れるほんの数十センチ手前で――止まった。
それから、ばらばらと崩れ始めた。
腕が。脚が。胴体が。旧校舎の板と梁と柱で組み上げられていた巨体が、ただの木片の雨になって音楽室の床に降り注いでいく。
窓辺の橙子も同じだった。
糸の切れた操り人形のように、その場にがくりと崩れ落ちた。
床に倒れたその顔は、もう橙子の顔ではなかった。
つるりとした白い、顔のない面だった。
その人形の右手の人差し指が。
空中の一点を押さえていた、あの指が。
床の上で、力なく、ほどけた。
◇
「――――っ、あ」
音楽室の隅で、有珠が胸を押さえて身体を折った。
忉利は振り返った。
有珠の胸の奥の、あの結び目。橙子の冷たい線が、有珠の線に縫いつけられた場所。
それが赤く、赤く、脈打っていた。
秒針のように。いや、もっと速く。心臓の鼓動よりも速く。
押さえていた指が、なくなったのだ。
「……有珠!」
青子が叫んだ。
有珠は答えなかった。白い指が、胸元の外套を握り潰すように掴んでいる。唇の端から、赤いものが一筋、零れた。
内側から、裂けようとしている。
忉利は、有珠の前に膝をついた。
両目で、結び目を見た。
昨日の朝、屋敷の居間で見た時はわからなかった。有珠の線と、あの女の線が、一本の糸になるまで絡み合っていて、どこからどこまでが有珠で、どこからどこまでがあの女なのか、見分けがつかなかった。切ったら、有珠ごとだった。
今は違った。
目の奥の扉を、ゆっくりと開いていく。
半分。
それから、もっと。
結び目がほどけて見えた。
一本の糸だと思っていたものが、何百本もの、髪の毛よりも細い繊維の束だった。そのひとつひとつが、見えた。磨かれた石の上を滑る水のような、有珠の繊維。定規で引いたような冷たい、あの女の繊維。それが、交互に編み込まれている。
編み込まれているだけで、繋がってはいなかった。
切れる。
あの女の繊維だけを。
一本も、有珠の繊維に触れずに。
息を止めた。
見た。
あの女の繊維を、一本。二本。十本。百本。
ひとつずつ。けれど、瞬きひとつの間に。
縫い目をほどく仕立て屋の指のように。
結び目がほどけた。
赤い明滅が、ふっと消えた。
有珠の線が、元の傷ひとつない、磨かれた石の上を滑る水の線に戻っていた。
「…………」
有珠は胸を押さえたまま、動かなかった。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
忉利の目を見た。
灰色の奥に、夜明け前の空の色がかすかに差した目を。
「……切らない方を、選んだのね」
かすれた声だった。
「わたしの線を。……一本も」
「当たり前だろ」
忉利は立ち上がった。
目元に指で触れる。
血は出ていなかった。
「……遊園地で、あなたを生かしておいてはいけないものだと言ったわ」
有珠は目を伏せた。
「その目に助けられるなんて」
忉利は何も言わなかった。
ただ、有珠の頭にぽん、と一度だけ手を置いた。
有珠は払いのけなかった。
「……人形」
青子が呆然と呟いた。
「ずっと、人形だったの……?」
「たぶんな」
忉利は天井の穴を見上げた。
「本物は、あっちだ」
青子はしばらく、足元の顔のない人形を見下ろしていた。
それから、ゆっくりと天井の穴を見上げた。
その向こうに冬の夜空が見えた。
冷たい月が、見えた。
「……姉貴らしいわね」
青子は小さく笑った。
大人の顔で。けれど、どこか泣きそうな顔で。
「最後まで、自分は安全なところにいて。全部、手順どおりに」
それから、青子は忉利の手を取った。
「行くわよ、忉利」
「どうやって」
青子は答えなかった。
ただ、忉利の手を握ったまま床を軽く蹴った。
身体が浮いた。
◇
旧校舎の屋上は月明かりに満ちていた。
錆びた鉄柵。ひび割れたコンクリート。古い給水塔。
その給水塔の梯子の中ほどに、蒼崎橙子が腰掛けていた。
本物の、橙子が。
長い外套。短い髪。眼鏡はかけていない。指先に、火の点いた煙草を挟んでいる。
その隣に、白い布をかぶせられた何かが立てかけられていた。
人の形をしていた。
布の裾から、白くなめらかな、陶器のような指先が覗いていた。
「――やあ」
天井の穴から夜空へと舞い上がってきた二人を見て、橙子は煙草の煙を吐き出した。
「思ったより、早かったな」
青子と忉利は、屋上のコンクリートの上にそっと降り立った。
青子の足がわずかによろめいた。
忉利はその腕を支えた。
青子の身体の輪郭が、さっきよりもはっきりと揺らいで見えた。
「……青子」
「平気よ。……まだ、もつわ」
青子は忉利の手を、そっと外した。
一歩前に出る。
姉と向き合う。
「降りてきなさいよ、姉貴」
「断る」
橙子は、梯子の上から動かなかった。
「ここが、いちばん安全だからね。……もっとも、もう安全ではなくなったようだが」
橙子の視線が忉利に移った。
「私の操り糸を、根元から切った。……それも、屋上まで一本残らず見通して」
「見えたんだから、しょうがねえだろ」
「ああ。しょうがないな」
橙子は煙草を、給水塔の縁で揉み消した。
それから、隣の白い布をかぶせた人形に、そっと手を置いた。
「これが、私の最高傑作だ」
布の下で、何かがかすかに身じろぎしたように見えた。
「この世のどんな人間よりも、人間らしい人形。……まだ完成していない。世界を正しく見る目が、足りないからね」
橙子の目が忉利を捉えた。
「君の目があれば、完成するはずだった」
「やらねえって言っただろ」
「ああ。聞いたよ」
橙子は白い布の裾を、指先でつまんだ。
「なら、せめて見ていきたまえ。……君の目で」
◇
布が滑り落ちた。
女が立っていた。
いや。
女の形をした、何かが。
背の高い細い身体。白いなめらかな肌。長い黒髪。閉じた瞼。
人形だった。
けれど、今夜旧校舎で見てきたどの人形とも違った。顔のない白い面でも、椅子を組み上げた木の手足でもない。瞼の縁の、一本一本の睫毛まで。指の関節の、かすかな皺まで。
人間と、何ひとつ変わらなかった。
その瞼が。
ゆっくりと開いた。
硝子の、何も映していない黒い目。
「――っ」
青子が息を呑んだ。
人形が動いた。
給水塔の梯子の上から、音もなく屋上のコンクリートへ降りた。
降りた、と思った時には、もう青子の目の前にいた。
速かった。
ベオの獣の速さとは、違った。筋肉の力で跳ぶ速さではない。糸の一本一本が、無駄なく完璧な順番で身体を運んでいく速さ。
白い手のひらが青子の喉へ。
青子の指先が、撃った。
至近距離の未来の魔弾。
人形の手のひらに当たった。
弾かれなかった。
砕けもしなかった。
白い手のひらが、青い光を受け止めて。
握り潰した。
「――嘘でしょ」
青子の身体が後ろへ跳んだ。
白い指先が、青子の喉の皮一枚を掠めていった。
「私の人形の肌は、私の手順のすべてだ」
梯子の上で、橙子が静かに言った。
「十年分のルーンの層を重ねてある。……未来のお前の魔弾でも、手のひらひとつ貫けない」
人形がまた動いた。
青子へ。
青子の輪郭が、夜風の中で揺らいでいた。借りた十年が、指の間から零れ落ちていく。撃てる魔弾は、あと何発もない。
忉利は、人形を見た。
両目で。
線が見えた。
何千本もの線。
関節と関節の。筋と筋の。皮膚の下の見えない骨組みの。人間の身体の線と、何ひとつ変わらない線。
いや。
一つだけ、違った。
胸の真ん中に、中心がなかった。
さっきの窓辺の人形と、同じ。
中心の代わりに。
胸の奥から、一本の細い線が伸びていた。
給水塔の梯子の上の、橙子の胸へ。
操り糸ではなかった。
操り糸は、手首や指先から伸びる。
これは、胸から胸へ。
忉利は、その線を知っていた。
十年見てきた線と、同じ種類の線だった。
晴華と親父の間に。自分と青子の間に。
人と人とを繋いでいる線。
――あの女は。
この人形を。
「……切らねえぞ、それは」
忉利は呟いた。
人形の白い手が、青子の目の前に迫っていた。
忉利は見た。
胸の線ではなかった。
人形の右の膝と、左の足首。
関節を繋ぐ線だけを。
「――止まれ」
ぷつり。
人形の膝が、かくん、と折れた。
足首が、コンクリートの上でぐにゃりと曲がった。
白い手が、青子の鼻先で空を切った。
人形の身体が、ゆっくりと屋上のコンクリートの上に膝をついた。
壊れてはいなかった。
ただ、立てなくなっていた。
硝子の目が、ぼんやりと夜空を見上げていた。
屋上が、しんと静まり返った。
梯子の上で、橙子が目を見開いていた。
「……なぜ、壊さない」
橙子の声が、ほんのわずかに掠れていた。
「君の目なら、見えたはずだ。その人形の全部の線が。……胸の、線も」
「見えた」
忉利は、橙子を見上げた。
「だから、切らなかった」
「…………」
「あれは、あんたとその人形を繋いでる線だろ。……人と人を繋いでる線と、同じ形してた」
忉利は、気だるげに首の後ろを掻いた。
「そういうのは、切らねえことにしてんだよ。……おれは」
橙子は長いこと、何も言わなかった。
膝をついた人形を見下ろしていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……そうか」
その声には、何の色もなかった。
けれど、橙子は人形に手を伸ばして、その白い頬に指先でそっと触れた。
「……少し、休んでいなさい」
人形の瞼が、ゆっくりと閉じた。
◇
橙子はゆっくりと、梯子の上に立ち上がった。
その指先が、空中に文字を描き始める。
一文字。二文字。十文字。二十文字。
赤く光る文字が次々と紡ぎ出され、給水塔を中心に、屋上全体を包み込むように巨大な球形の紋様を描いていく。
何百もの文字。何千もの線。
それは今夜見たどのルーンよりも、巨大で、精緻で、美しかった。
「これが、私の最後の手札だ」
橙子の声は静かだった。
「十年かけて組み上げてきた。……お前の魔法を、受け止めるためにね、青子」
青子は答えなかった。
ただ、右手を姉に向けた。
指先に青い光が灯る。
「……姉貴」
「なんだい」
「最後に一つだけ、訊いていい?」
橙子は眉を上げた。
「お祖父様が、どうして姉貴じゃなくて私を選んだのか。……本当は、知ってるんでしょ」
屋上に冷たい夜風が吹いた。
橙子の短い髪が揺れる。
長い、長い沈黙があった。
「……知らないよ」
橙子はぽつりと言った。
「知らなかった。今夜までは」
橙子は、青子の大人の顔を見つめた。
夜空の色の髪。深く静かな、青い瞳。
そして、その隣に立つ、痛みひとつない目でまっすぐに自分を見返している少年を。
「……でも、今夜少しだけ、わかった気がするよ」
「…………」
「私は、奇跡の正体を知りたかった。解体して、確かめて、手に入れたかった。……お前は違った」
橙子は、ふっと笑った。
眼鏡をかけていないのに。
その笑みは、ほんの少しだけ柔らかかった。
「お前は、たった一人の幼馴染を取り戻すためにそれを使った。何の迷いもなく。何の計算もなく。……お祖父様は、たぶんそれを見ていたんだろうね」
青子の指先で、青い光が揺らいだ。
「さあ、青子」
橙子は両手を広げた。
屋上を包む巨大な紋様が、赤く、赤く燃え上がる。
「最後の授業だ。……姉を、超えてみせろ」
青子は目を閉じた。
右手の指先に光を集める。
青い光が膨らんでいく。
夜空のいちばん高いところの、いちばん深い青。この世界のどこにもない、世界の果ての色。
けれど。
その光の前に、橙子の紋様が壁のように立ちはだかっていた。
何百もの文字。何千もの線。十年かけて組み上げた、姉のすべて。
青子の魔弾は確かに強い。けれど、あの壁を一撃で撃ち抜けるかどうか。
わからなかった。
そして、二撃目を撃つ時間は、もう残っていなかった。
足元が揺らいでいた。
借りた十年が、少しずつ、少しずつ、指の間からこぼれ落ちていく。
「……忉利」
青子は、目を閉じたまま言った。
「あの壁、見える?」
「ああ」
「切れる?」
忉利は紋様を見た。
何百もの文字。何千もの線。
その全部が見えていた。
そして、その全部をたった一点で束ねている場所も。
球形の紋様のちょうど真ん中。給水塔の梯子の上。
橙子が立っている、その足元。
「……一本だけ、あるな」
「どこ」
「あいつの、足の下」
青子が目を開けた。
忉利を見た。
それから、ほんの少しだけ笑った。
あの頃と同じ、ろくでもないことを思いついた時の顔で。
「なら、合わせなさい」
「何を」
「私が撃つのと、あんたが切るのを。同時に」
青子は右手を姉に向けて、まっすぐに伸ばした。
「あんたが壁を切って、私が撃ち抜く。……二人がかりなら、姉貴の手順にだってないでしょ」
忉利は気だるげに肩をすくめた。
「……いつもの無茶振りかよ」
「嫌なの?」
「別に」
忉利は、紋様のちょうど真ん中を見据えた。
「慣れてる」
◇
屋上の扉が軋んで開いた。
草十郎だった。
右腕に、気を失ったままの金色の少年を抱えて。その肩に、有珠が寄りかかるようにして立っていた。
草十郎は給水塔の上の橙子を見た。
それから、右手を姉に向けて伸ばしている青子を見た。
「――蒼崎」
平坦な声だった。
「人殺しはいけないよ」
青子の肩が、ぴくりと揺れた。
振り返らなかった。
「……わかってるわよ」
小さな声だった。
「わかってる。……そのくらい」
青子の指先で、光が臨界に達した。
「――いくわよ」
「ああ」
二人の声が重なった。
忉利が、見た。
青子が、撃った。
同時だった。
紋様の真ん中の一本の線が、ぷつりと断ち切れた。
何百もの文字が、一斉に繋がりを失った。十年かけて組み上げた壁が、ほんの一瞬だけ、ただのばらばらの文字の集まりに戻った。
そのほんの一瞬の隙間を。
青い光が貫いた。
音はなかった。
ただ、夜空が青く染まった。
屋上の鉄柵が、給水塔が、ひび割れたコンクリートが、冬の月が、すべてが一瞬だけ、夜明け前の空の色に塗り潰された。
そして。
光が消えた。
屋上に静寂が戻った。
給水塔の梯子の上に、橙子が立っていた。
立ったまま、動かなかった。
その身体を包んでいた巨大な紋様は、跡形もなく消えていた。
外套の胸元に、焦げた穴が一つだけ開いていた。
けれど、その下の身体には傷ひとつなかった。
青い光は、橙子の胸のほんの数ミリ手前で止まっていた。
「…………」
橙子は自分の胸元の、焦げた穴を見下ろした。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
青子が右手を伸ばしたまま、姉を見つめていた。
その指先から、最後の青い光の粒が、ふわりと夜風に散っていった。
「……外したのか」
「外したのよ」
青子は静かに言った。
「人殺しは、いけないんですって。……静希くんがそう言うから」
それから、少しだけ目を伏せた。
「それに、姉貴を殺したら、私、きっと十年後に自分を許せないもの」
橙子はしばらく、何も言わなかった。
それから――梯子の上に、どさりと座り込んだ。
給水塔に背中を預ける。
夜空を見上げる。
「…………負けたよ」
ぽつりと言った。
「完敗だ。……まったく、手順にないことばかりしてくれる」
眼鏡はかけなかった。
研究者の顔のまま、橙子は夜空の月を見上げていた。悔しそうでもなく、清々しそうでもなく。ただ、計算の合わなかった数式をじっと眺めるような目で。
青子は、右手をまだ姉に向けたまま言った。
借りた十年の輪郭が、夜風の中でゆらゆらと揺らいでいる。
◇
「アリス。……まだ少しだけ、力は残ってる?」
草十郎の肩に寄りかかったまま、有珠が薄く目を開けた。
給水塔の上の橙子を見る。それから、青子の大人の横顔を見る。
それだけで、青子が何をしようとしているのか、わかったようだった。
「……少しだけなら」
「なら、手伝って」
有珠は草十郎の肩から、そっと離れた。
ふらつく足で、青子の隣に立つ。外套のポケットから、最後の一つの小さな青い鈴を取り出した。
給水塔の上で、橙子がわずかに目を細めた。
「……何をする気だ」
「決まってるでしょ」
青子は静かに言った。
「今夜は見逃してあげる。……でも、このまま、この町に居座られるのは御免よ」
有珠が青い鈴を、屋上のコンクリートの上に落とした。
ちりん、と。
澄んだ音が、夜明け前の空気に響き渡る。
鈴はコンクリートの中へと、音もなく沈んでいった。
有珠の唇が囁くように動いた。
古い、古い魔女の言葉。童話の中で、悪い魔法使いを森の外へと追い払う時の、呪いの文句。
その囁きに、青子の指先から最後の青い光が流れ込んでいった。
夜空の色の光と魔女の囁きが、ひとつに絡み合う。
それが、細い、細い青い糸になって、給水塔の上の橙子へと伸びていった。
橙子の足首に。手首に。首筋に。
からみつく。
縫いつけられる。
忉利の目には、はっきりと見えていた。橙子という存在に、新しい線が一本、深く固く結びつけられていくのが。
三咲の町の外へと、まっすぐに伸びていく線。
そして、町の境界のところで決して越えられない結び目を作っている線。
「――蒼崎橙子」
青子の声は静かだった。
「あなたは、もう二度とこの町には入れない。……入ったら、蛙になるわ。この呪いがほどけるまでは」
橙子は自分の手首を見下ろした。
青い糸は、もう見えなくなっていた。けれど、橙子にはそれが何なのか、わかっているようだった。
「……蛙、だと?」
橙子の眉がぴくりと動いた。
「悪い魔法使いは、蛙にされて森を追われる。……童話の筋書きどおりよ」
有珠が青子の隣で、淡々と言った。
橙子はしばらく、自分の手首を見下ろしていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……魔女と魔法使いの合作とはね。……やれやれ。これは、解くのに骨が折れそうだ」
「一生かかっても、解けなくていいわよ」
「そういうわけにもいかないさ」
橙子はゆっくりと立ち上がった。
外套の埃を払う。
それから、屋上のコンクリートの上に膝をついたままの白い人形を、そっと抱え上げた。
草十郎の腕の中で、金色の少年が身じろぎした。
「…………ん」
目を開ける。
金色の瞳が、ぼんやりと自分を抱えている草十郎の顔を見上げた。
「……あ。キミだ」
「起きたか」
「ボク、負けたの?」
「ああ」
「……そっか」
少年は不思議そうに、自分の胸のあたりを押さえた。
それから、草十郎の顔をじっと見つめた。
「キミ、強いね。……ボク、キミのこと、ちょっと好きかも」
「そうか。でも俺は、犬は苦手なんだ」
「犬じゃないもん」
少年は唇を尖らせた。
給水塔の上から、橙子の声がした。
「ベオ。行くぞ」
「……はーい」
少年は草十郎の腕から、するりと飛び降りた。
裸足で屋上のコンクリートを駆けていく。給水塔の梯子を猿のように駆け上がり、橙子の隣にちょこんと座る。
橙子は梯子の上から、屋上の四人を見下ろした。
最後に、その視線が青子の上で止まった。
夜空の色の髪。深く静かな、青い瞳。借り物の大人の顔。
「青子」
「……なによ」
「次に会う時は、姉妹としてではない」
橙子の声は冷たかった。
眼鏡のない研究者の声だった。
「魔術師同士としてだ。……お前の中にあるものを、私はまだ諦めていない」
「望むところよ」
青子は目を逸らさなかった。
「次は、外さないわ」
橙子は何も言わなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ――本当に一瞬だけ、その唇の端が動いたように見えた。
笑ったのか。
それとも、何か別の言葉を飲み込んだのか。
忉利にはわからなかった。
橙子は踵を返した。
夜風の中に、ふっと溶けるように消えていった。
金色の少年が、最後に一度だけ振り返った。
「キミ、また遊ぼうね。……今度は、ボクが勝つから」
草十郎は少しだけ考えて、言った。
「遊ぶだけならいいよ」
少年は嬉しそうに笑って、主の後を追って消えた。
屋上に静寂が戻った。
◇
その瞬間、青子の身体がぐらりと傾いた。
「――青子!」
忉利はとっさに、その身体を抱きとめた。
軽かった。
腕の中で、青子の輪郭が揺らいでいた。夜空の色に染まっていた長い髪が、毛先からゆっくりと、いつもの色に戻っていく。伸びていた背丈が縮んでいく。大人の頬の線に、少女の丸みが戻っていく。
借りていた十年が、持ち主へ返っていく。
青子の身体から、細い光の糸が何千本もほどけて、流れ出していく。夏のカウンター。白いカップ。天井の線。理科室の窓。伸びたテープの曲。その全部が、隣に立つ少年の胸へひとつ残らず戻っていく。
忉利は胸に手を当てた。
温かかった。
自分の十年が帰ってきた。
ただ、ほんの少しだけ、違う匂いがした。
帰ってきた十年のどこかに、青子の匂いが混じっていた。
忉利の腕の中で、蒼崎青子は十七歳の少女に戻っていった。
「……忉利」
青子がかすれた声で言った。
目を半分だけ開けて。
いつもの青子の目で。
「……終わった?」
「ああ。終わった」
「……姉貴は?」
「行っちまった。……お前らの呪い、ちゃんとかかってた」
「……そ」
青子は少しだけ笑った。
ひどく疲れた、けれど、どこか寂しそうな笑い方だった。
「なら、いいわ」
その瞼が、ゆっくりと閉じていった。
寝息が聞こえた。
浅くて、けれど、規則正しい寝息。
脇腹には傷ひとつなかった。
忉利は腕の中の幼馴染を、しばらくただ見下ろしていた。
それから、小さく、長い溜息をついた。
「……倒れたら、担いで帰んのはやっぱ、おれの役目じゃねえか」
隣で、有珠が膝から崩れるように座り込んだ。
最後の鈴を使い切って、今度こそ、本当に何も残っていないようだった。
それでも、その目は忉利の目を見ていた。
澄み切った、痛みひとつない、両目を。
有珠は何も言わなかった。
ただ、その目に何かを確かめたような、静かな色が浮かんでいた。
◇
屋上に四人だけが残った。
冬の夜風が吹いていた。
東の空が、ほんの少しだけ群青色に白み始めていた。
忉利は給水塔の足元に腰を下ろした。
腕の中で、青子がすうすうと寝息を立てている。
草十郎が、座り込んだ有珠の肩に自分の上着を、右手一本でそっと掛けた。それから、自分もその隣にどさりと座り込む。
「……疲れた」
草十郎がぽつりと言った。
「山で熊を追った時より疲れたな」
「……おれもだよ」
有珠は何も言わなかった。
ただ、給水塔に背中を預けて、東の空を見つめていた。
夜が明けていく。
群青色が少しずつ、紫に、それから淡い橙色に変わっていく。
忉利はその空を見上げた。
両目で。
見えていた。
夜明けの空に走る無数の線。雲と雲を繋ぐ線。光と闇を分ける線。夜と朝を縫い合わせている線。
痛みはなかった。
ただ、見えていた。
当たり前のように。
―――これから、ずっとこうなのか。
ふと、そう思った。
胸の奥で、あの時のかちりという音が、また聞こえた気がした。
時計の針がどこかで止まったような音。
けれど、それが何なのか、忉利はまだ考えなかった。
腕の中で、青子が身じろぎした。
「…………とうり」
寝言だった。
「……ケーキ……ちゃんと、食べるのよ……」
忉利は少しだけ笑った。
「わかってるよ」
東の空から、最初の陽の光が差し込んできた。
旧校舎の屋上を金色に染め上げていく。
青子の髪を。有珠の横顔を。草十郎の傷だらけの手を。
それから、忉利の両目を。
長い、長い夜が、ようやく明けた。
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