目を覚ますと、天井に線が走っていた。
日景忉利は、久遠寺邸の客間の天蓋付きの寝台の上で、しばらくそれを眺めていた。
白い漆喰。蔓草の浮き彫り。埃をかぶった硝子の照明。
そして、その上を無数の線が走っていた。
前とはまるで違っていた。
昔は視界の端に、ぼんやりと一本か二本見えるだけだった。瞬きをすれば消える、出来の悪い乱視のような線だった。
今は、全部見えていた。
漆喰の粒と粒を繋ぐ線。飾り縁の石膏を形作る線。照明の硝子の中を走る細い細い線。天井という一枚の面が、無数の線で縫い合わされているのが、手に取るようにわかった。
けれど痛くなかった。
眩しくもなかった。
窓の外の景色を眺めるように、ただそこに見えている。
忉利はゆっくりと瞬きをした。
線は消えなかった。
それから、目の奥のあの場所に意識を向けた。
あの夜、光の中でできたもの。扉のような細い隙間。
それを、ゆっくりと閉じてみた。
線がすうっと薄れて、ただの天井に戻った。
「……ほんとに閉まんのか、これ」
呟いて忉利は身体を起こした。
開ければ、見える。閉じれば、見えない。半分だけ開ければ半分だけ。まるで窓の鎧戸を、好きな幅で開け閉めするように。
窓の外はもう昼近かった。
明け方、旧校舎の屋上から四人でふらふらと坂を上って帰ってきた。青子は忉利の背中で眠ったまま。有珠は草十郎の背中で。誰も何も喋らなかった。玄関に倒れ込むように入って、それぞれの部屋に這うように戻って――
それきり屋敷は、しんと静まり返っていた。
顔を洗おうと、廊下の突き当たりの洗面所に入った。
古い陶器の洗面台。その上の縁の欠けた楕円形の鏡。
冷たい水を手ですくって顔にかける。一度。二度。
顔を上げた。
鏡の中に自分がいた。
寝癖のついた髪。少し痩せた頬。右目の周りには、まだうっすらと乾いた血の痕が残っている。
それから、目。
両目ともちゃんと見えていた。充血も、もう引いている。
ただ、色が違っていた。
もともと色素の薄い目だった。光の加減で灰色がかって見えることがあった。
その虹彩のいちばん外の縁が、青かった。
夜明け前の空の色。灰色の奥から、その青が細い輪になって、瞳を縁取っていた。
屋上の夜明けの中で、青子が覗き込みながら言っていた。私の魔法の色が、あんたの目に残ってる、と。
「……ほんとに青いな」
自分で見るのは初めてだった。
晴華に見られたら何て言われるだろう、と思った。
カラーコンタクトでも入れたのか、と騒ぐだろう。親父は何も言わないだろう。たぶんじっと見て、それからまた豆を挽き始める。
忉利は鏡に顔を近づけた。
それから何気なく意識を向けた。
鏡の中の自分の身体に線が浮かび上がった。
髪の毛の一本一本。皮膚の細かな皺。呼吸をするたびに膨らむ胸。その全部を、無数の細い線が、縫い合わせている。
その中に一本だけ、違う線があった。
胸の真ん中から。ちょうど、ゆうべ獣の爪に貫かれたあの場所から。
細い、けれどはっきりとした線が一本、伸びていた。
前へ。
どこかずっと先へ。
川の流れのようにゆっくりと、途切れることなく。
―――時間、か。
なぜか、すぐにわかった。
あの夜、暗闇の中で自分の死が線の形をして、未来の果てへ引き抜かれていくのを見た。あれと、同じ種類の線だ。
これは自分の、これからの時間だ。明日へ、来年へ、十年後へと、自分という人間が流れていく道筋。
その線を目で追った。
鏡の向こうへ。ずっと、ずっと先へ。
そして。
ほんの少し先で――止まっていた。
途切れているのではなかった。消えているのでもなかった。
ただ、そこから先に流れていかなかった。川の途中に見えない堰が作られたように。線は、その場所でくるりと輪を描いて、同じところをゆっくりと巡り続けていた。
そして、その輪に。
もう一本、別の線が絡みついていた。
自分のものではない線。青く澄んだ夜明けの空のような色の線。それが忉利の線と、固く、固く結び目を作っていた。
その青い線がどこから来ているのか、忉利には、見なくてもわかった。
廊下の向こう。
屋敷の二階のいちばん東の部屋。
青子が眠っている部屋から、だった。
◇
「――旧校舎の三階が崩れた」
翌日、月曜日の三咲高校、生徒会室。
槻司鳶丸は、会長席の机の上に置かれた真鍮の鍵束を見下ろして、低い声で言った。
「日曜の明け方から町じゅう大騒ぎだ。夜中にものすげえ音がしたってな。消防も警察も来た。理事会は、老朽化による自然崩落ってことで片付けるらしい。……取り壊しが三ヶ月早まっただけだってよ」
「…………」
青子は机の前に立ったまま、黙っていた。
その隣に、忉利。眼帯はもう着けていなかった。
「で」
鳶丸は鍵束を指先でつまみ上げた。
「約束どおり朝一で返しに来たわけだ。一日遅れだがな」
「……ええ」
「律儀なこった」
鳶丸は鍵束を制服のポケットにねじ込んだ。
それから青子の顔を見た。忉利の顔を見た。
二人ともひどく疲れた顔をしていた。けれど、先週までの死人のような顔ではなかった。
「……ま、いい」
鳶丸は椅子の背にもたれた。
「親父にバレなきゃそれでいい。旧校舎がどうなろうと、俺の知ったこっちゃねえ」
「……槻司」
「礼なら要らねえって言ったろ」
鳶丸はひらりと手を振った。
「それより、日景。お前、目、治ったのか」
「……ああ。なんとかな」
「そうか」
鳶丸はそれ以上は訊かなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ口の端を持ち上げた。
「支えたんだな。ちゃんと」
忉利は答えなかった。
答える代わりに、隣の青子をちらりと見た。
青子は、なぜか耳の先を赤くして、そっぽを向いていた。
窓際の机で、金鹿が帳簿から顔を上げずに言った。
「……おかえり」
小さな声だった。
「三人とも帰ってきたのね」
「ええ。……ただいま、金鹿」
「静希くんは」
「屋敷で寝てるわ。全身包帯だらけで、有珠に絶対安静って言われてる」
「……バイト、また休みね」
金鹿は小さく溜息をついた。
それから、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「傘は返してもらったから。……まあ、いいわ」
生徒会室の扉が、がらりと開いた。
「会長! 日景! 旧校舎見ました!? 三階が丸ごとなくなってて! なんか上から巨人に踏み潰されたみてえな――」
「芳助」
「はい殿下!」
「黙れ」
「……はい」
しょんぼりと口を閉じる芳助を見て、青子がくすりと笑った。
忉利はその笑顔を横目で見ていた。
それから何気なく意識を向けた。
線を見た。
芳助の胸から、線が伸びていた。
細い、けれど元気な線。前へ、前へとどこまでも流れていく。明日へ。来年へ。十年後へ。五十年後へ。ずっと先まで途切れることなく。
鳶丸の線も同じだった。
金鹿の線も。
みんな、同じように前へ流れていた。ゆっくりと、けれど確かに。川が海へ向かうように。
そして。
青子の線は。
忉利の隣で、くすくすと笑っている幼馴染の胸から伸びる、あの青く澄んだ線は。
ほんの少し先で止まっていた。
くるりと輪を描いて。同じところをゆっくりと巡り続けて。
忉利の線と、固く結び目を作って。
―――青子も、か。
忉利は何も言わなかった。
ただ、目を閉じて線を見るのをやめた。
◇
その日の夕方、忉利は屋敷の二階の、有珠の作業部屋の扉を叩いた。
二度。硬く、短く。
「……入って」
返事があった。
有珠は窓際の作業机の前に座っていた。
顔色はまだ青白かった。回路を使い果たした身体は、一日二日寝たくらいでは戻らないらしい。それでも、背筋はまっすぐに伸びていた。
作業机の上に、小さな硝子の小瓶が一つ置かれていた。
中に淡い琥珀色の液体が、半分ほど入っている。
「……それ」
「薬よ。あなたと静希草十郎の記憶を消すための。……まだ、完成していないわ」
「……そうかよ」
「座って」
有珠は窓際のもう一脚の椅子を目で示した。
忉利は黙って腰を下ろした。
「訊きたいことがあるのでしょう」
「……ああ」
「なら、先にわたしから話すわ。たぶん、あなたが訊きたいことと同じだから」
有珠は小瓶から目を離して、忉利の目を見た。
「その目。……時間の線が見えるのでしょう」
忉利は息を止めた。
「なんでわかんだよ」
「わたしも見えたからよ。あの夜」
有珠は窓の外に目をやった。
「青子が魔法を使った時、わたしは、あの光のすぐ近くにいた。だから、ほんの一瞬だけ見えたの。あなたの時間と、青子の時間が、どうなったのか」
「…………」
「あなたの死は、未来の果てに捨てられた。青子が、あなた自身の過去の十年を借りて、その力で。……でも、それだけでは、死んだ人間は戻ってこないわ」
有珠は白い指先で、作業机の上に見えない線を描いた。
「一度止まった時計をもう一度動かすには、ぜんまいが要るの。だから、青子は、自分のぜんまいをあなたに分けたのよ」
「……ぜんまい」
「青子の時間よ。あの子が、これから生きていくはずだった時間。その一部を、あなたの止まった時計に差し込んだの」
有珠は少しだけ目を伏せた。
「それに、あなたの十年は、あの子の中を通ってあなたに返ったわ。……返る時に、あの子の時間と少し混ざったのよ。糸と糸を一度撚り合わせて、また解いたように。……完全には、解けなかった」
有珠の指先が作業机の上で、二本の線を絡み合わせるように描いた。
「今のあなたの時計は、青子の時計と同じぜんまいで動いているわ。……同じ速さで。同じ時を刻んで」
「それと、もう一つ」
有珠は忉利の目をじっと見つめた。
「青子の時計は、いつか止まるわ」
忉利は何も言わなかった。
洗面所の鏡の中で見たあの線を思い出していた。ほんの少し先で、くるりと輪を描いて、止まっていた線。
「魔法を使う者は、この世界の時間の外に一歩だけ足を踏み出してしまうの。……しかも、あの子は借りた十年で、十年先の自分まで行って戻ってきた。本来なら十年かけて歩くはずだった道を、一晩で往復してしまったのよ」
「…………」
「だから、あの子の身体はいつか、どこかで歳を取るのをやめるわ。……たぶん、二十歳を少し過ぎたあたりで」
有珠の声は平坦だった。
けれど、その膝の上で白い指先が、かすかに握り込まれていた。
「あなたの時計は、青子と同じぜんまいで動いている。なら、あなたも同じところで止まるはず。……ただ」
「ただ?」
「本当は、それだけでは足りないはずなの」
有珠は首を横に振った。
「人の身体は、そんなに簡単に他人の時間には馴染まないわ。分けてもらったぜんまいだけなら、あなたの時計は何年かのうちに、少しずつ青子の時計からずれていくはずだった。……いつかは、あなただけが、またゆっくりと自分の時間を歩き始めていたかもしれない」
「……じゃあ、なんで」
「あなたの目よ」
有珠の声がほんの少しだけ低くなった。
「あの夜、あなたの目は、魔法の流れを真正面から浴びたわ」
有珠は窓の外の、暮れていく空を見つめた。
「それだけではないの。見てしまったのよ。あなた自身の死が、時間の線として、未来の果てへ引き抜かれていくところを」
「…………」
「あなたの目はそれまで、ものとものの繋ぎ目しか見えなかった。壁の継ぎ目。怪物の縫い目。術式の結び目。……でも、あの夜初めて、時間の線を見た。自分の身体を流れる時間が、どういう形をしているのかを」
有珠は作業机の上の小瓶を、指先でそっと押しやった。
「そして、魔法の奔流に焼かれて、あなたの目は作り変えられた。……見たものを切れる目に」
「…………」
「わかる? あなたの目は、時間の線を『見た』の。見えるものは、切れるのよ」
忉利は自分の手のひらを見下ろした。
意識を向ける。
見えた。
手のひらの皮膚の奥で、細い線がほんのわずかに、ぷつり、と切れるのが。
痛みはなかった。
音もなかった。
ただ切れていた。
そして切れた線の端がすぐに、胸から伸びるあの青い線の方へと引き寄せられて、また結び直されていく。
何度も。何度も。
まるで川の流れが本来の道筋へ戻ろうとするたびに、誰かが小石を置いて、流れを引き戻しているように。
「……おれがやってんのか。これ」
「ええ」
「切れろなんて思ってねえぞ」
「思っていなくても、望んでいるのよ」
有珠は静かに言った。
「その目は、見る者の意志ひとつで、ものを断つわ。でも、意志というのは、頭で考えることだけではないの。心のいちばん深いところで望んでいることも、意志よ。……眠っている時でさえ、目はそれを覚えているわ」
有珠は忉利をまっすぐに見つめた。
「あの夜、死ぬ前に、あなたは青子に何と言ったの」
忉利は答えなかった。
答えなくても、わかっていた。
―――世界中の誰が敵になろうと、おれだけは絶対に、お前の側から離れてやらねえよ。
「あなたの目はそれを覚えているのよ」
有珠の声はどこか、呆れたような響きを帯びていた。
「あなたの身体が、青子の時間からずれていこうとするたびに。……あなたが、青子を置いて、一人で歳を取っていこうとするたびに。その『老い』の線を、勝手に切り続けているの」
「…………」
「あなた自身の言葉を、あなたの目が守り続けているのよ。……たぶん、これから、ずっと」
長い沈黙があった。
窓の外はもう薄暗くなっていた。
有珠は作業机の上の小瓶を手に取った。
「それから、これのことも話しておくわ」
琥珀色の液体が小瓶の中で揺れる。
「ゆうべ、あなたが眠っている間に一滴だけ、あなたの額に垂らしてみたの」
「……おい」
「試作よ。数分間の記憶をぼんやりさせるくらいの効き目しかないわ」
有珠は小瓶を机の上に戻した。
「効かなかったわ。あなたの額に触れた瞬間、薬の効き目そのものがほどけて、ただの水になった。……あなたは眠ったまま、何も気づいていなかったけれど」
有珠は小さく息を吐いた。
「ゆうべ、あなたは、わたしの中の橙子の結び目を、繊維を一本ずつ選んでほどいたわ。わたしの線には一本も触れずに。……あれを見てわかったの」
有珠は自分の胸に、そっと手を当てた。
「あなたの目は、もう神の領域に足を踏み入れているわ。魔術も、薬も、暗示も。あなたの中の何かを書き換えようとするものは、全部、その目が勝手に切ってしまう。……わたしの手には、もう、負えないの」
「……じゃあ、記憶は」
「消せないわ。もう、誰にも」
有珠は窓の外に目をやった。
「だから、あなたの分は作るのをやめるわ」
忉利は有珠の横顔を見た。
「……いいのかよ。決まりは、決まりなんだろ」
「ええ。でも、消せないものは、消せないもの」
有珠は目を伏せた。
「なら、手の届くところに置いておくしかないわ。……この屋敷に」
「見張りってことか」
「それもあるわ」
有珠は淡々と言った。
「でも、それだけではないの。……あの夜、わたしは見たわ。青子が、あなたのために、十年分の未来を何の迷いもなく差し出したのを」
有珠の声がほんのわずかに揺れた。
「あの子は、いつかまた、あんなふうに自分を燃やすわ。誰かのために。何かのために。止める者がいなければ、どこまでも」
「…………」
「わたしには、止められなかった。あの夜、叫んだのに、届かなかった」
有珠は忉利の目をまっすぐに見つめた。
「でも、あなたなら、止められるかもしれない。あの子の暴走を止められる、たった一本の楔になれるかもしれない」
有珠は小さく首を傾げた。
「だから合理的に考えて、あなたをここに置いておくのが、いちばんいいのよ。……それだけ」
忉利はしばらく、有珠の顔を見ていた。
それから、ふっと口の端を持ち上げた。
「……素直じゃねえな、お嬢様」
「その呼び方はやめてと言ったわ」
「じゃあ、なんて呼べばいいんだよ」
有珠は少しだけ黙った。
それから窓の外を向いたまま、ぽつりと言った。
「……有珠で、いいわ」
◇
その夜、忉利は屋敷の二階の露台に立っていた。
眼下に三咲の町の灯りが広がっている。
冬の夜気が頬を刺すように冷たい。父のマフラーを首に巻き直す。
背後で硝子戸が開く音がした。
「……寒くないの、そんなとこ」
青子だった。
寝間着の上に大きなカーディガン。手に湯気の立つカップを二つ持っている。
「紅茶。有珠が淹れたやつ」
「……前も同じこと言ってなかったか」
「言ったわね」
青子はカップの一つを忉利に押しつけ、隣の手すりにもたれた。
しばらく二人とも黙っていた。
紅茶の湯気が夜気の中で白く溶けていく。
「……聞いたわ」
青子がぽつりと言った。
「有珠から。……全部」
忉利は何も言わなかった。
「あんたの時間のこと。私の時間のこと。それから、あんたの目が何をしてるのか」
青子の声は静かだった。
静かすぎて、忉利は横を見た。
青子は町の灯りを見下ろしていた。
カップを両手で握りしめて。その指先が白くなるほど、力が込められていた。
「……ごめん」
「何が」
「全部よ」
青子の声が震えた。
「あんたを、巻き込んだ。遊園地に来させて。旧校舎に連れていって。……あんたを、死なせて。あんたの十年まで、勝手に借りて」
「…………」
「それから、勝手に、生き返らせて」
青子は唇を噛んだ。
「あんたに、何も訊かずに。あんたが、それを望んでたかどうかも知らずに。私が、嫌だったから。あんたがいなくなるのが、耐えられなかったから。……それだけの理由で、あんたの時間を、勝手に、私の時間に繋いだの」
カップの中の紅茶が小さく波打っていた。
「あんたは、普通に生きられたはずなのに。普通に大人になって、普通に歳を取って、おじさんの店を継いで、晴華ちゃんの結婚式に出て、いつか、自分の子供に珈琲の淹れ方を教えて……」
青子の声が途切れた。
「そういう当たり前の時間を。……全部、私が、取り上げたのよ」
忉利は、しばらく黙っていた。
町の灯りを見下ろしていた。
駅前のアーケード。商店街の屋根。その外れの小さな灯り。
Cafe HIKAGEの看板の明かり。
あそこで父が、今も豆を挽いている。晴華が宿題をさぼって、カウンターで漫画を読んでいる。
でも、自分は、歳を取らない。
二十歳を少し過ぎたあたりで、止まる。
父が老いていくのを、晴華が大人になっていくのを、ただ変わらない姿のまま、見ていることになる。
普通の人間の普通の時間から、はじき出されて。
―――化け物、か。
遊園地で青子に向かって呟いた言葉を、思い出した。
今度は自分が、そうなるのだ。
忉利は紅茶を一口飲んだ。
少し冷めていた。
「……青子」
「…………なに」
「お前、二十歳過ぎたら歳取らなくなるんだろ」
「……そうよ」
「ずっとそのまんまなんだろ」
「……そうよ」
「一人でか」
青子は答えなかった。
忉利はカップを手すりの上に置いた。
「おれがいなかったら、お前、一人で止まってたんだろ。周りがみんな歳取っていくのに、お前だけずっと二十歳のまんまで。……何十年も、何百年も」
「…………」
「で、また誰かのために無茶して。自分燃やして。止める奴もいねえで」
忉利は気だるげに夜空を見上げた。
「――冗談じゃねえよ」
青子が顔を上げた。
忉利は夜空を見上げたまま、ぶっきらぼうに言った。
「お前が化け物になるなら、おれも一緒に化け物になった方が都合がいい」
青子の目が見開かれた。
「一人で化け物やってる奴の隣に普通の人間がいたって、どうせ先に死ぬだけだろ。そしたら、お前、また泣きそうな顔すんだろ。……そんなの見たくねえんだよ」
「…………」
「それに」
忉利は少しだけ口の端を持ち上げた。
「歳取らねえなら、親父の味に追いつくまでずっと練習できるじゃねえか。何十年でも。……悪くねえだろ」
青子は何も言えなかった。
ただ、唇を震わせて忉利の横顔を見つめていた。
「それにな」
忉利はようやく、青子の方を向いた。
夜明け前の空の色が差した、痛みひとつない両目で。
「有珠が言ってた。この目は、おれが心の底で望んでることを勝手にやってるんだってな。……なら、これは、おれが望んだことだ。お前が勝手に取り上げたんじゃねえ。おれが、勝手に選んだんだ」
「……忉利」
「だから謝んな」
忉利は青子の頭に、ぽん、と手を置いた。
「泣きそうな顔もすんな。……それが、一番、見たくねえんだよ」
青子はしばらく動かなかった。
それから、うつむいたまま小さく言った。
「……あんたの十年、見たって言ったでしょ」
「……ああ」
「天井の線も。乱視だって嘘ついてたのも。……小三の冬、おじさんに言いかけてやめたのも」
「…………」
「なんで言わなかったのよ。……私にも」
忉利は夜空を見上げた。
「言ったら、お前、泣きそうな顔すんだろ」
「……っ」
「今みてえに」
青子はしばらく動かなかった。
忉利の手の下でうつむいたまま。
それから小さく鼻をすすった。
「……バカじゃないの」
「知ってる」
「ほんとに、ほんとに、大バカよ、あんたは」
「知ってるって」
青子は顔を上げた。
泣いてはいなかった。
けれど、その目の縁が赤く滲んでいた。
「……後悔しても知らないわよ」
「しねえよ」
「百年後にやっぱり普通に生きたかったって言っても、もう戻れないのよ」
「言わねえよ」
「二百年後でも?」
「しつけえな」
青子はぐっと唇を結んだ。
それから、何かを決めたように、ゆっくりと息を吐いた。
「……わかったわ」
青子は忉利の手を、頭の上からそっと下ろした。
そして、その手を両手で包み込んだ。
「なら、私も覚悟を決める」
夜風が青子の長い髪を揺らした。
「あんたが、私の隣にいるって決めたなら。……私も、あんたを、ずっと隣に置いておく。百年でも、二百年でも。あんたが、嫌だって言っても」
「……言わねえって」
「言っても、離さないって言ってるの」
青子は忉利の手をぎゅっと握りしめた。
「共犯者、なんでしょ。……なら、最後まで付き合ってもらうわよ」
忉利はしばらく、青子の顔を見つめていた。
夜空の下で、真っ赤な顔をして、それでもまっすぐに自分を見上げている幼馴染の顔を。
それから、ふっと目を逸らした。
「……ああ」
ぶっきらぼうに言う。
「最後まで、な」
その耳の先が、夜目にもわかるほど真っ赤だった。
青子はそれに気づいて、少しだけ、笑った。
泣き笑いのような顔で。
それでも、ここひと月で、いちばんいい顔で。
二人は、しばらく手を繋いだまま、黙って町の灯りを見下ろしていた。
冷めた紅茶のカップが二つ、手すりの上で並んでいた。
◇
―――同じ頃。
屋敷の一階の居間の窓辺で、有珠は暖炉の火を見つめていた。
膝の上に開いたままの古い本。けれど、その目は文字を追ってはいなかった。
「……有珠」
居間の入り口で声がした。
草十郎だった。全身に包帯を巻いて、噛み砕かれた左腕を吊って、綿入れを羽織って、壁に手をつきながらゆっくりと歩いてくる。
「寝ていなさいと言ったはずよ」
「眠れなかったんだ。……二階の露台で、日景と蒼崎が話していた」
「知っているわ」
「日景は、これからもここに住むのか」
「……ええ」
「そうか」
草十郎は、暖炉の前のもう一脚の椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。
「俺もここにいていいだろうか」
有珠はちらりと草十郎を見た。
「あなたの薬は、もうすぐ完成するわ。飲めばこの数日のことを、すべて忘れられる。……普通の生活に、戻れるわ」
「そうか」
草十郎は少しだけ考えた。
「なら、飲まない」
「…………なぜ」
「ここの庭の手入れが、まだ終わっていないんだ」
有珠は何も言わなかった。
ただ、長いこと草十郎の横顔を見つめていた。
「それに、忘れたら日景の珈琲の味も忘れてしまう。……あれは苦いけど、後から甘くなるんだ」
「…………」
「忘れるのは惜しいよ」
有珠はふっと目を伏せた。
暖炉の薪がぱちりと爆ぜた。
「……勝手にしなさい」
小さな声だった。
「薬は棚の奥にしまっておくわ。……使うかどうかは、その時に決めればいい」
「ああ」
草十郎は静かに頷いた。
止まり木の上で、羽の生え揃いかけたロビンがこっそりと片目を開けた。
「……マイ天使、ちょっと嬉しそうッスね」
「ロビン」
「なんでもないッス!」
ロビンは慌てて翼の中に頭を突っ込んだ。
有珠は暖炉の火を見つめたまま、ほんのわずかに――本当にわずかに、唇の端を動かした。
それが何だったのか、草十郎には、やっぱりわからなかった。
窓の外で冬の星が、静かに瞬いていた。
クリスマスまで、あと三日だった。
シエルの小説満足度調査
-
めちゃよかった
-
よかった
-
そこそこ
-
びみょう