―――蒼崎橙子は、それを、見ていた。
音楽室の床に、青い光が満ちていた。
水ではない。炎でもない。光と呼ぶことすら、正しいのかどうか、わからなかった。それは、床板の木目の一本一本に染み込み、壁の漆喰のひび割れを伝い、天井の蜘蛛の巣の糸にまで、音もなく広がっていく。
触れたものが、止まっていく。
椅子から組み上げた人形たちが、襲いかかる姿勢のまま、凍りついている。舞い上がった埃の粒が、空中に縫い止められている。窓の外の月の光さえ、硝子の手前で、流れるのをやめている。
橙子は、自分の指先を見下ろした。
動いた。
止まっていない。自分は、まだ、この光の外にいる。
いや。
外に、置かれている。
見せるために。
―――よく見ておきなさい。
妹の声が、耳の奥で、まだ響いていた。
「……時間停止、か」
呟いてから、橙子は、自分の言葉を打ち消した。
違う。
時間を止めるだけなら、大魔術の域だ。途方もない魔力と、途方もない準備があれば、ほんの一瞬、ほんの小さな範囲なら、届かないこともない。
けれど、これは、そうではない。
魔力の流れが、ない。
術式が、ない。
回路が回っている気配すら、ない。
ただ、そこに、結果だけがある。
まるで、世界そのものが、最初からそうであったかのように。
「……これが」
橙子の声が、かすれた。
何代もかけて、蒼崎の家が守ってきたもの。
お祖父様が、理由も言わずに、自分ではなく妹に渡したもの。
跡取りとして育てられた十数年の間、ずっと、その正体を知りたいと願い続けてきたもの。
この世界の果てに手を届かせる、唯一の道。
それが今、目の前で。
「――魔法」
青い光の中心に、青子が、立っていた。
その足元の忉利の身体を、見下ろしたまま。
「……青子」
声は、音楽室の隅から聞こえた。
静希草十郎だった。
気を失った金色の少年の傍らに、血まみれのまま、立っていた。噛み砕かれた左腕を、右手で押さえて。
「日景を、連れ戻すのか」
「……ええ」
青子は、振り返らなかった。
「でも、足りないわ」
静かな声だった。
「魔法は、ただでは動かないの。……この子の死を、どこか遠くに捨てに行くには、そこまで行って帰ってくるだけの、時間がいる」
「時間」
「私の時間は、もう、ほとんど残っていない。今夜、全部使った。……だから、借りるわ」
「誰から」
草十郎が、訊いた。
青子は、足元の忉利を、見下ろした。
「この子から」
音楽室の隅で、有珠が、息を呑む気配がした。
「死んだ人間の未来は、もう、どこにもない。……でも、過去は、まだ、ここにある。この子が生きてきた時間。見てきたもの。そういうものは、死んでも、すぐには消えないの」
青子は、忉利の傍らに、膝をついた。
「この子の、十年を借りる。十年分の過去を、私の上に乗せて、十年先の私になる。……それで、この子の死を、遠くへ捨ててくる」
「……日景の時間で、日景を連れ戻すのか」
「そうよ」
青子は、忉利の、開いたままの右目に、そっと指を当てた。
瞼を、閉じさせる。
「勝手に借りるわ。……文句は、起きてから、聞いてあげる」
草十郎は、しばらく、青子の横顔を見ていた。
それから、小さく、頷いた。
「……筋は、通っている」
青子は、少しだけ、笑った。
それから、忉利の胸の穴の上に、両手を重ねた。
音楽室が、消えた。
いや、正確には、音楽室の上に、別のものが、重ねられていった。
床板が、磨き込まれた、古い木の床になった。
壁の漆喰が、色の褪せた外国の港の写真を飾った、煤けた板壁になった。
窓の外の冬の月が、真夏の、白く眩しい午後の光になった。
蝉の声がした。
天井で、古い扇風機が、ゆっくりと回っていた。
そして、匂いがした。
深煎りの、焦げる寸前の、苦くて、それから、後から甘い、豆の匂い。
カウンター七席と、テーブルが三つ。
Cafe HIKAGEだった。
けれど、今の店ではなかった。
カウンターの内側に立つ店主の髪は、まだ、一本も白くなかった。今よりずっと若く、背中がまっすぐで、黙々とネルを振っている。
そのカウンターの、いちばん端の二つの高い椅子に、小さな子供が、二人、よじ登っていた。
日に焼けた、半袖の男の子。
長い髪を、二つに結んだ、女の子。
足が、床に届かない。二人とも、ぶらぶらと、椅子の上で足を揺らしている。
「――大人の飲み物は、大人になってからだ」
若い店主が、ぶっきらぼうに言って、二人の前に、大きな、厚手の白いカップを、一つずつ置いた。
牛乳がたっぷりの、甘い、カフェオレ。
女の子が、両手でカップを持って、一口飲んで、目を丸くした。
「……おいしい!」
男の子は、黙って、カップの縁から、隣の女の子の顔を見ていた。
それから、自分も、一口飲んだ。
口のまわりに、白い髭がついた。
女の子が、それを見て、けらけらと笑った。
―――十年前の、夏だった。
有珠が、店の真ん中に、立ち尽くしていた。
草十郎が、その隣で、若い店主の手元を、じっと見ていた。
橙子が、窓辺に、凍りついていた。
「……喫茶店、だと?」
かすれた声だった。
「死を放逐する魔法の舞台が、……こんな、場末の喫茶店の、夏の午後だと?」
「この子の、一番だった頃よ」
青子の声が、店の中に、静かに響いた。
「借りた十年の中で、いちばん、いい時間。……ここなら、遠くまで行って、帰ってこられる」
青子は、カウンターの端の、二人の子供を見ていた。
その目が、揺れていた。
借りた十年が、青子の中を、流れていた。
忉利の十年だった。
小学一年の夏から、今夜まで。
天井の板に、黒い線が見えた朝。窓硝子の縁の線。雨粒の一粒一粒の線。
怖かったこと。
眼科で「乱視だね」と言われて、ほっとしたこと。ほっとしたふりを、したこと。
小学三年の冬、空に罅が見えると、一度だけ父に言いかけて、店のカウンターで忙しそうにネルを振る背中を見て、言うのをやめたこと。
それから、見ないふりをすると、決めたこと。
痛い時は、瞬きをして、黙っていたこと。
十年間、ずっと。
誰にも。
―――そして。
その十年の、どの一年にも。
青子が、いた。
理科室の窓を割った青子。身代わりに職員室に呼ばれながら、その背中を見ていた、自分の目。
テープが伸びるまで同じ曲を聴いている青子。ライブハウスの帰り道、耳鳴りのする頭で、隣を歩く横顔を見ていた、自分の目。
高校の入学式の朝、突然、坂の上の屋敷に引っ越すと言った青子。「格好いいでしょ」と笑った顔。笑い方が、少しだけ下手だった、と思った、自分の目。
線の見える目で、忉利は、十年、ずっと。
青子を、見ていた。
青子の唇が、震えた。
「……バカ」
誰にも聞こえない声で、呟いた。
「なんで、何にも、言わないのよ」
青子の姿が、変わり始めていた。
最初に気づいたのは、髪だった。
宙に広がった長い髪が、ゆっくりと、さらに伸びていく。毛先が、青い光を吸い込んで、眩しいほどの真紅に染まっていく。
次に、背が。
ほんの数センチ。けれど、確かに、伸びていた。肩の線が、わずかに広くなる。頬の輪郭から、少女の丸みが、すうっと消えていく。
脇腹の、あの赤い槍の傷口から、血が流れなくなっていた。
塞がったのではない。
傷そのものが、なかったことになっていた。コートに開いた焦げた穴だけを残して、その下の肌には、傷ひとつなかった。
青子は、ゆっくりと、目を開けた。
その瞳は、もう、少女のものではなかった。
深く、静かで、遠くを見ている目。何かを失い、何かを乗り越え、それでも前を向くことを選んできた人間の目。
二十歳を、とうに過ぎた女の目だった。
「……十年」
夏の午後の喫茶店の窓辺で、橙子が、呟いた。
「死んだ少年の、十年を。……自分の上に、乗せたのか」
青子は、橙子の方を見なかった。
ただ、足元の、忉利の身体を、見下ろしていた。
その目に、一瞬だけ、少女の頃と同じ、泣きそうな色がよぎった。
けれど、すぐに、それは深い青の奥に沈んでいった。
「……少し、待っていて」
静かな声だった。
少女の頃の、張り詰めた、突っかかるような声ではない。もっと低く、もっと柔らかく、もっと落ち着いた声。
けれど、その声の芯は、何ひとつ変わっていなかった。
「すぐに、起こしてあげるから」
「――青子!!」
店の真ん中で、有珠が、叫んでいた。
立ち上がろうとして、膝から崩れ落ちる。回路は、とうに底をついていた。それでも、磨き込まれた古い床に手をついて、這うように、青い光の中心へ進もうとする。
「だめ、青子! それは、使っては、いけないものよ! あなたが何をしているのか、わかっているの!? 死んだものを――」
有珠の声が、震えていた。
この冷徹な魔女が、こんなふうに声を荒らげるのを、草十郎は、初めて聞いた。
青子が、ゆっくりと、振り返った。
有珠を見る。
その目が、ふっと、柔らかく細められた。
「大丈夫よ、アリス」
有珠の身体が、凍りついた。
「……アリス……?」
「この子の十年を、少しだけ、借りただけ。……終わったら、ちゃんと、この子に返すわ」
青子は、穏やかに微笑んだ。
その笑い方は、有珠が知っている青子のどの笑顔とも、違っていた。
「それに」
青子は、また、足元の忉利に目を落とした。
「この子を、ここで置いていったら。……十年後の私は、きっと、一生、自分を許さないもの」
有珠は、何も言えなかった。
ただ、古い床に手をついたまま、青い光の中の、見知らぬ大人の顔をした親友を、見つめていた。
その頬を、一筋、何かが伝い落ちた。
有珠自身も、それが何なのか、わからなかった。
青子が、忉利の傍らに、膝をついた。
両手を、忉利の胸の上に、そっと重ねる。
獣の鉤爪に貫かれた、あの穴の上に。
「――戻りなさい」
―――暗かった。
日景忉利は、どこでもない場所に、浮かんでいた。
上もなく、下もない。音もなく、匂いもない。自分の身体があるのかどうかさえ、わからない。
ただ、見えていた。
線が。
無数の、無数の、数えきれないほどの線が、暗闇の中を、四方八方に走っていた。
どこまでも。どこまでも。
それは、今まで見てきたどの線とも違っていた。天井の線でも、空の線でも、怪物に絡みつく線でも、あの女の定規で引いたような線でもない。
全部だった。
この世界にあるものの、全部の線。
星と星を繋ぐ線。海と空を分ける線。一秒と一秒の間を区切る線。昨日と今日を、今日と明日を、縫い合わせている線。
世界そのものが、無数の線で、編み上げられていた。
―――ああ。
忉利は、思った。
おれが、ずっと見てたのは、これだったのか。
物心ついた頃から、視界の端に見えていた、あの線。乱視だと思っていた。目の病気だと思っていた。
違った。
あれは、世界の、継ぎ目だった。
この世界が、どうやって縫い合わされているのか。その縫い目が、おれの目にだけ、見えていた。
ふと、胸のあたりに、何かを感じた。
見下ろす。
身体は、なかった。けれど、そこに、一本の線があった。
太く、黒く、重い線。
それが、自分の胸の真ん中を、まっすぐに貫いていた。
すぐにわかった。
これは、おれの、死だ。
獣の爪に貫かれて、心臓が止まった、という事実。それが、線の形をして、自分という存在に、深々と縫いつけられていた。
ほどけない。
切れない。
もう、切るための目も、ここにはない。
―――そうか。
忉利は、ぼんやりと思った。
終わったんだな。
青子は、たぶん、生きてる。あの赤い紋様は、ちゃんと切れた。静希も、たぶん、生きてる。あの獣の突進も、ちゃんと止めた。
なら、いい。
晴華には、悪いことをした。クリスマスのケーキ。親父にも。冷えるぞって、言われたのに。
それから。
青子に。
泣きそうな顔、すんなって、最後に言えなかった。
それだけが、少しだけ、心残りだった。
暗闇が、ゆっくりと、濃くなっていく。
線が、ひとつ、またひとつと、見えなくなっていく。
楽だった。
初めて、そう思った。
見えないというのは、こんなに、楽なことだったのか。天井を見て、天井しか見えない。空を見て、空しか見えない。痛みも、疼きも、何もない。
ずっと、こうだったらよかったのに。
忉利は、目を閉じようとした。
その時。
遠くで、何かが、光った。
青い、光だった。
暗闇の、ずっとずっと向こうから。
その青い光は、近づいてきた。
いや、違う。近づいてくるのではない。広がってくるのだ。暗闇そのものを、内側から、青く染め上げながら。
夜明け前の空の色だった。
いちばん高いところの、いちばん深い、青。
―――忉利。
声が、聞こえた。
知っている声だった。
十年以上、隣で聞いてきた声。
けれど、少しだけ、違う。低くて、柔らかくて、落ち着いていて。まるで、何年も先の、ずっと大人になったあいつの声のような。
―――忉利。起きなさい。
「……青子?」
声が、出た。
身体がないのに、声が出た。
―――まだ、寝てる場合じゃないでしょう。晴華ちゃんと、ケーキを食べるんでしょう。
「……お前、なんで、ここに」
―――迎えに来たのよ。
青い光が、忉利を包み込んだ。
温かかった。
ひどく、温かかった。
そして、その光の中で。
忉利の胸を貫いていた、あの黒く重い線が――ゆっくりと、動き始めた。
ほどけるのではない。切れるのでもない。
引き抜かれていく。
胸の真ん中から、するすると、まるで長い長い糸を手繰り寄せるように。どこか、途方もなく遠い場所へと。
忉利は、その線の行き先を、目で追った。
見えた。
線は、暗闇を抜け、青い光を抜け、どこまでも、どこまでも伸びていく。
明日へ。来年へ。十年後へ。百年後へ。千年、一万年、一億年――
この世界のすべての線が、ほどけて、消えて、何もかもが終わった、その先の、さらに先へ。
時間の、果てへ。
―――あなたの死は、ここには置いておかない。
青子の声が、静かに響いた。
―――ずっとずっと先の、誰も見ていない場所に、捨ててくるわ。いつか、世界が全部終わる、その最後の瞬間まで、誰にも拾わせない。
「……そんなこと、できんのかよ」
―――できるわよ。
青子が、笑った気配がした。
―――私を、誰だと思ってるの。
引き抜かれていく死の線の、すぐ脇を。
別の線が、流れていた。
細い、細い、何千本もの線。その一本一本に、何かが映っていた。
夏のカウンター。白いカップ。口のまわりの、牛乳の髭。
天井の板の、黒い線。眼科の待合室。父の背中。
理科室の、割れた窓。伸びたテープの曲。坂の上の屋敷を見上げた、中学の卒業式の日。
自分の、十年だった。
それが、青い光の方へ、流れ込んでいく。
―――借りるわよ。
青子の声が、言った。
―――あんたの十年。勝手に。……文句は、起きてから聞くから。
「……おい」
―――全部、見たわ。
声が、ほんの少しだけ、震えていた。
―――なんで、何にも、言わなかったのよ。
忉利は、答えなかった。
答えられなかった。
胸を貫いていた線が、最後の一端まで、引き抜かれた。
黒い線は、青い光の彼方へと、音もなく消えていった。
胸が、軽くなった。
とくん、と。
何かが、鳴った。
とくん。とくん。
止まっていたものが、また、動き始めた。
その瞬間。
青い光の奔流が、流れ戻ってきた。
青子の中を通り抜けた、自分の十年が。
借りた時と同じ道を通って、持ち主のところへ、返ってくる。
それが、忉利の目に、流れ込んできた。
右目に。左目に。
眼球の奥へ。視神経を伝って。脳の、いちばん深いところへ。
熱かった。
旧校舎で、四枚目の壁を切った時に焼き切れた、あの無数の細い糸。その焼け跡に、青い光が、染み込んでいく。
忉利は、それを、感じていた。
焼け残った糸の切れ端が、光に触れて、ひとつずつ、持ち上げられていく。それから、別の切れ端と、引き合わされていく。結ばれていく。
一本。
また、一本。
けれど、それは、元どおりに戻っているのではなかった。
結び直された糸は、前より、太かった。前より、硬かった。細い木綿の糸が、鋼の綱に編み直されていくように、一本結ばれるたびに、その糸を伝って、光が、次の糸へと流れていく。
晴華の声が、戻ってきた。
父の、ネルを振る手が。
Cafe HIKAGEの、カウンターの木目が。
全部、戻ってきた。
前よりも、ずっと、くっきりと。
―――待て。
忉利は、光の中で、思った。
この光が、何をしようとしているのかが、わかった。
目を、作り直そうとしている。
今まで、線を見るたびに、痛かった。切るたびに、血が出た。それは、この目が、線を見るようには、できていなかったからだ。生まれつきの、ただの人間の目で、無理やり、世界の継ぎ目を見ていたからだ。
この光は、それを、線を見るための目に、作り直そうとしている。
痛まない目に。切っても、血の出ない目に。
―――でも、それは。
もう、戻れない、ということでもあった。
線の見えない、ただの世界には、もう、二度と。
暗闇の中で見た、あの、楽な世界。天井を見て、天井しか見えない世界。
それを、捨てる、ということだった。
光は、待っていた。
忉利の答えを。
誰かに頼まれたわけではなかった。この光は、青子の魔法だ。青子は、自分を生き返らせようとしている。それだけだ。目のことまで、頼まれてはいない。
この光を、目に入れなくても、たぶん、生き返る。
ただの、人間として。乱視の、喫茶店の息子として。
――それで、いいじゃねえか。
そう思った。
思って、それから。
暗闇の向こうに、青子の顔が、浮かんだ。
遊園地の噴水の縁で、一人で、夜と戦っていた横顔。
自分を庇って、赤い槍に貫かれた背中。
床に這って、手を伸ばして、届かなかった手。
―――だめ。
最後に、唇がそう動いていた。
あいつは、これからも、夜に出ていく。
化け物と、姉と、線の見えないものと、戦い続ける。
その隣で。
見えない目で、隣にいるのか。
あいつが、何と戦っているのかも、見えないまま。
「……嫌だな」
声が、出た。
「それは、嫌だ」
楽な世界は、確かに、楽だった。
けれど、あいつの隣で、何も見えないのは、嫌だった。
「見る」
忉利は、言った。
「おれは、見る。……全部、見る」
光が、動いた。
一気に、流れ込んできた。
両目の、いちばん奥まで。
焼き切れていた糸が、鋼の綱になって、一本残らず、結び直されていく。その綱が、視神経を伝って、脳の奥まで、伸びていく。線を見るための神経。線を切るための神経。生まれた時には、なかったもの。
そして、最後に。
目の奥に、何かが、できた。
流れ込んできた十年の、いちばん長い部分。見えているのに、見ないふりをしてきた、十年分の瞬き。痛い時に黙って目を閉じてきた、何千回もの、あの閉じ方。
それが、形になった。
扉のようなものだった。
開けたり、閉めたりできる、細い隙間。線を、見たい時に見て、見たくない時に、見ないでいられるための。
この光は、目を作り直しながら、忉利の十年と、忉利の「嫌だ」も、一緒に編み込んでいた。
全部を見る。けれど、全部を、いつも見ていなくてもいい。
そういう目に。
そして――世界の線が、見えた。
暗闇の中の、無数の線。星と星を繋ぐ線。一秒と一秒を区切る線。昨日と今日を縫い合わせる線。
全部、見えた。
痛みは、どこにもなかった。
頭の芯を焼くような熱も、眼球の奥で何かが千切れる感触も、何もない。ただ、見える。当たり前のように。呼吸をするように。
―――ああ、そうか。
忉利は、ぼんやりと理解した。
今まで、痛かったのは、目のせいじゃなかった。
この目に、身体が、追いついていなかっただけだ。
ふと、胸の奥で、何かが、かちりと音を立てた気がした。
時計の針が、どこかで、ぴたりと止まったような。
けれど、それが何なのか、今の忉利には、わからなかった。
青い光が、強くなる。
暗闇が、白く、明るく、溶けていく。
―――ほら、忉利。
声が、すぐそばで聞こえた。
―――目を、開けて。
古い扇風機が、見えた。
煤けた板の天井。夏の白い光。蝉の声。
それから、焦げる寸前の、豆の匂い。
ここは、音楽室ではなかった。
店だった。
十年前の、夏の。
窓の外の蝉の声が、途中で、止まっていた。扇風機の羽根が、回りかけたまま、凍りついていた。
カウンターの端で、二人の子供が、白いカップを持ったまま、止まっていた。
そして、その天井と自分の間に。
誰かの顔が、あった。
長い、長い髪が、宙にふわりと広がっている。
深く、静かな、青い瞳。
少女の丸みが消えた、大人の女の頬の線。
知らない顔だった。
知っている顔だった。
「……おはよう、忉利」
その人は、少しだけ泣きそうな顔で、笑った。
忉利は、しばらく、その顔を見上げていた。
右目が、見えていた。
左目も、見えていた。
両目で、はっきりと。痛みひとつなく。
その人の周りに、無数の線が見えた。けれど、それは今まで見てきたどの線とも違っていた。まるで、夜明けの空に引かれた、何本もの光の筋のように、青く、澄んで、美しかった。
「…………青子?」
「ええ」
「……お前、なんか、でかくなってねえか」
青子は、一瞬、きょとんとした。
それから、くすりと笑った。
大人の顔で。けれど、その笑い方だけは、十年以上隣で見てきた、あの幼馴染と同じだった。
「開口一番、それ? ……相変わらずね、あんたは」
それから、青子の目が、忉利の目の上で、止まった。
じっと、覗き込む。
「……あんた、目」
「……なんだよ」
「色が、変わってる」
青子は、忉利の目を、右、左と、順番に見た。
生まれつき、色素の薄い、灰色がかった茶色の目だった。眼科で「少し色素が薄いね」と言われた、あの目。
その虹彩の、いちばん外の縁が。
青かった。
夜明け前の、空の色。いちばん高いところの、いちばん深い、青。灰色の奥から、その青が、かすかに、けれど確かに、差していた。
まるで、瞳の中に、夜明けを一つ、閉じ込めたように。
「……私の、色」
青子は、小さく言った。
「私の魔法の色が、あんたの目に、残ってる」
忉利は、瞬きをした。
自分では、見えなかった。
けれど、青子の顔を見ていれば、それがどんな色なのか、わかる気がした。
「……それと」
青子は、少しだけ、目を逸らした。
「あんたの十年、見たわ。……全部」
「……は?」
「借りたんだもの。通るのよ、私の中を。……天井の線も。眼科も。乱視だって、嘘ついてたのも」
忉利は、何も言えなかった。
「それから、……ほかにも、いろいろ」
青子の頬が、大人の顔のまま、見る見るうちに赤くなった。
「あとで、文句、言ってあげるから。覚えてなさいよ」
「……泣きそうな顔、すんなって」
忉利は、ゆっくりと手を持ち上げた。
青子の頬に、触れる。
濡れていた。
「言っただろ。……最後に、言えなかったけど」
青子の唇が、震えた。
それから、何も言わずに、忉利の胸に、額を押しつけた。
とくん、とくん、と。
心臓の音を、確かめるように。
「……バカじゃないの」
くぐもった声だった。
「ほんと、バカ。……大バカよ、あんたは」
「知ってる」
忉利は、青子の頭に、そっと手を置いた。
長い、夜空の色の髪。少しだけ、知らない手触りがした。
けれど、その温かさは、何も変わっていなかった。
「――――素晴らしい」
声が、した。
静止した夏の店の中で、ただ一人、動くことを許されていた者の声。
蒼崎橙子が、窓辺に、立っていた。
眼鏡は、かけていなかった。
その顔には、もう、驚きも、恐怖も、浮かんでいなかった。
ただ、熱があった。
生涯をかけて探し求めていたものを、ついに、目の前で見届けた者の。
狂おしいほどの、熱が。
「死を、未来へ捨てたのか。時間の果てに、放逐した。……死んだ少年自身の十年を借りて、その代価として」
橙子の声は、震えていた。
歓喜に。
「理屈が、わからない。仕組みが、わからない。術式も、手順も、何ひとつ読み取れない。……ああ、それでいい。わからないからこそ、魔法だ」
橙子は、両手を、ゆっくりと広げた。
「青子。お前の中にあるものが、何なのか。今夜、ようやく、この目で見ることができた」
青子は、忉利の胸から、顔を上げた。
ゆっくりと、立ち上がる。
振り返る。
大人の顔で。深く、静かな、青い目で。
姉を、見た。
「……満足した? 姉貴」
「いいや」
橙子は、首を振った。
「見たからこそ、欲しくなった。……解体して、確かめたくなった」
橙子の指先が、空中に、文字を描き始めた。
一文字。二文字。三文字。
赤く光る文字が、次々と紡ぎ出されていく。今までのどのルーンよりも、多く、複雑で、禍々しい。
店の空気が、軋んだ。
静止した時間の中で、橙子の周りだけが、ぎしぎしと、無理やりに動き始める。
「それに、君もだ、少年」
橙子の目が、忉利を捉えた。
身体を起こした忉利の、両目を。
「その目。……虹彩の色が、変わっているな。魔法の奔流を、目で受けたのか。そして、それを、拒まなかった」
橙子の唇が、弧を描いた。
「回路のない目が、自分の十年ごと魔法に焼かれて、作り変えられた。……ますます、欲しくなった」
忉利は、ゆっくりと立ち上がった。
膝は、もう、震えていなかった。
頭の芯も、焼けていなかった。
青子の隣に、並ぶ。
肩が、触れるか触れないかの距離。
小さい頃から、ずっと、この距離だった。
ただ、今夜は――少しだけ、見上げなければならなかった。
「……青子」
「なに」
「あいつ、まだやる気みてえだぞ」
「そうね」
「どうする」
青子は、少しだけ、笑った。
大人の顔で。
けれど、その目の奥で、あの頃と同じ、ろくでもないことを思いついた時の光が、ちかりと灯った。
「決まってるでしょ」
青子は、右手を、姉に向かって、すっと持ち上げた。
指先に、青い光が灯る。
今までのどの光よりも、深く、澄んだ、夜明けの青。
「姉妹喧嘩の続きよ。……今度は、手加減しないわ」
忉利は、両目で、橙子を見た。
無数の線が、見えた。定規で引いたような、あの冷たい線。紡がれていくルーンを貫く線。そして、その奥に――
橙子という存在そのものを縫い合わせている、ひときわ太い、一本の線が。
痛みは、なかった。
ただ、見えていた。
当たり前のように。呼吸をするように。
目の奥の、扉を、少しだけ開いて。
「……ああ」
忉利は、気だるげに言った。
「さっさと終わらせて、帰るか。……晴華が、ケーキ待ってんだよ」
夏の午後の喫茶店で、蝉の声が、ひとつ残らず、止まっていた。
カウンターの端で、二人の子供が、白いカップを持ったまま、こちらを見ていた。
夜は、まだ、明けていなかった。
けれど、その夜の底で、確かに。
青い夜明けが、始まろうとしていた。
淡々と投稿していましたが、初めてあとがきというか、言い訳をしようと思います。
あの白い花の草原は、特にアイコニックなシーンなので、「俺の十年には、まだ、何もない」。切り取っても何も破れない時間だから、貸せる。そして、忉利は草十郎を庇って死んだので、「俺の時間で戻すのが筋だ」みたいな展開にしようと思ったのですが、青子と忉利の関係を優先した結果こうなりました。
ほんと迷いました、まだ少しもやもやが残ってますが、まあいいかなと。
ちなみに去年の今くらいに原作最終話くらいまで一気に上げてました。文章が下手で二日も経たないうちにUA80くらいで消しましたけども。今は久しぶりに見てブラッシュアップしたのを上げてます。なので、最終話まではもうできてるのでポンポン上げてくと思います。恥ずかしくなったら、また消すと思います。
正直後日談というか番外編を描きたくてやってるのでこんな番外編書いてなどのリクエストなどありましたらお気軽に申してください。
あと読点使いすぎじゃね、と我ながら思ってますが、なんかこっちのほうがリズムいいなあと思ってこうしてます。読みにくかったら申し訳ないです。
次作品 ヒロイン候補 書いたはいいですが、橙子やアルクはどう作るつもりなんでしょうか…
-
シエル (月姫R アルクェイドルート)
-
アルクェイド(月姫R シエルルート?)
-
蒼崎橙子 (空の境界)
-
遠坂凛 (Heaven’s Feel)
-
ライダー (Heaven’s Feel)
-
ジャンヌ・ダルク (Apocrypha)
-
ジャンヌ・ダルク (史実+FGO)
-
久遠寺有珠 (魔法使いの夜)