夜明けの色を見る眼   作:にんら

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原作では、この場面は年末だった気がします。

ですが、クリスマスのエピソードを書いて、本編を一旦完結させたいので少しずらしてます。


雪の山道

 ―――三咲の町の北に、山がある。

 

 鏡野の丘の、さらに奥。杉と檜の深い山。町の人間がほとんど足を踏み入れない場所。

 

 その山の中に、蒼崎の家がある。

 

 町の子供だった頃、忉利はそれを知らなかった。青子の家は坂の下の、ごく普通の一軒家だった。ごく普通の父親と、ごく普通の母親がいて、ごく普通に、朝は牛乳を飲んでいた。

 

 山の中にもう一つの家があることなど、誰も教えてくれなかった。

 

 青子自身も、一度も口にしなかった。

 

 

◇

 

 

 十二月二十二日。

 

 夜のうちに雪が降った。

 

 久遠寺邸の玄関の前で、青子は長靴の紐をきつく結び直していた。

 

「……本当に行くのか」

 

 扉の脇で、忉利が訊いた。

 

 右目の周りの血の痕は、もうきれいに消えていた。虹彩の縁に夜明け前の青を宿した目で、雪の積もった坂道を見下ろしている。

 

「行くわよ」

 

 青子は立ち上がって、コートの襟を立てた。

 

「お祖父ちゃんに報告しないと。……私が何をしたか」

 

「報告してどうすんだ」

 

「どうもしないわ。……ただ、言っておかないといけないの。あの人はそういう人だから」

 

 青子は、忉利の方をちらりと見た。

 

「それから、あんたを見せる」

 

「……おれを」

 

「そう。あんたの目を。……あの人が何て言うか、聞いておきたいの」

 

 青子はそれだけ言った。

 

 もう一つ、言わなかったことがあった。

 

 玄関の扉が開いた。

 

 草十郎が、綿入れの上に分厚い外套を羽織って出てきた。左腕はまだ三角巾で吊っている。

 

「準備はできたよ。行こう」

 

「……静希くん、あんたは留守番って言ったでしょ」

 

「山道なら、俺の方が慣れている」

 

「腕、まだ吊ってるじゃない」

 

「足は動くから大丈夫だ」

 

 草十郎は平坦な顔で言った。

 

 青子は何か言いかけて、やめた。

 

 扉の奥の薄暗い玄関ホールに、有珠が立っていた。

 

 黒い服。長い髪。白い顔。

 

 三人の背中をじっと見ていた。

 

「……有珠」

 

 青子が振り返った。

 

「夕方には戻るわ」

 

「そう」

 

 有珠はそれだけ言った。

 

 それから草十郎の方を見た。

 

「静希君」

 

「ああ」

 

「……帰ってきなさい」

 

 草十郎は少しだけ首を傾げて、それから頷いた。

 

「帰ってくるよ。庭がまだ終わっていないからね」

 

 有珠は何も言わなかった。

 

 ただ、扉が閉まるまで玄関ホールに立っていた。

 

 忉利は扉が閉まる寸前、目の奥の扉を少しだけ開いた。

 

 有珠の線が見えた。

 

 傷ひとつない、磨かれた石の上を滑る水のような線。

 

 その線が、閉じかけた扉の隙間から、草十郎の背中の方へ細く、細く伸びていた。

 

 いつもより少しだけ、強く。

 

 まるで、行かせたくないものを、それでも行かせる時の手のように。

 

 忉利は扉を閉じた。

 

 見なかったことにした。

 

 

◇

 

 

 山道は、雪で白く塞がっていた。

 

 鏡野の丘を越えて杉林に入ると、道は、もう道ではなかった。木々の間の雪の窪みを辿っていくだけの、獣道。

 

 草十郎が先を歩いた。

 

 左腕を吊ったまま、雪の深さを足の裏で探るように。迷いのない足取りだった。

 

「……道、わかんのかよ」

 

「わかるよ。雪の下に人の踏んだ跡があるんだ。……古いけど、ちゃんとある」

 

 草十郎は振り返らずに言った。

 

「蒼崎は、何度もここを歩いたんだろう」

 

「……小さい頃、ね」

 

 青子は忉利の少し前を歩いていた。

 

「お祖父ちゃんのところに遊びに行く時。父さんに車で麓まで送ってもらって、そこからは一人で。……姉貴はあの家で育ったから、一緒に歩いたことはほとんどない」

 

 白い息が、杉の枝の間に消えていく。

 

「あの家のこと、あんたには一回も話さなかったわね」

 

「……ああ」

 

「話せなかったのよ。話したら、全部話さなきゃいけなくなるから」

 

 青子は前を向いたまま言った。

 

「魔術のこと。蒼崎のこと。……私が普通の女の子じゃなかったこと」

 

 忉利は雪を踏みしめながら、青子の背中を見ていた。

 

 小学校の帰り道。中学の校門。三咲高校の生徒会室。ずっと隣にいて、ずっと知らなかった。

 

「……お前、普通だったろ」

 

 ぼそりと言った。

 

「小学校の時、理科室の窓、割ってたし」

 

「……蒸し返さないでよ」

 

「中学の時、テープ伸びるまで同じ曲聴いてたし」

 

「今も聴いてるわよ、悪い!?」

 

 青子が振り返って、雪を一つかみ忉利に投げつけた。

 

 忉利は避けなかった。

 

 雪が顔の真ん中に当たって、崩れた。

 

 草十郎が前で少しだけ足を止めて、振り返った。

 

「……山だと、雪を投げると獣が寄ってくると言われてたな」

 

「嘘でしょ」

 

「嘘だ」

 

 草十郎は真顔で言って、また歩き出した。

 

 青子は口を開けたまま、しばらく固まっていた。

 

 それから忉利と顔を見合わせて、二人同時に吹き出した。

 

 杉林に、久しぶりの笑い声が響いた。

 

 

◇

 

 

 しばらく歩いてから、忉利が青子の背中に訊いた。

 

「……なあ。お前の爺さん、魔法使いなんだろ」

 

「そうよ」

 

「魔法って結局、何なんだ。……お前この前、今の時代の人間には届かない奇跡だって言ってたけど」

 

 青子は少しのあいだ、雪を踏む音だけを返していた。

 

「……根源、って聞いたことある?」

 

「ねえよ」

 

「この世界のいちばん奥。全部のものがそこから始まって、そこに戻っていく場所。……魔術師はみんな、そこに辿り着きたくて、何百年も、何千年も家ごと積み重ねてるの」

 

「……辿り着いたらどうなんだよ」

 

「消えるわ」

 

 青子はあっさりと言った。

 

「触れたら、その場で、消える。人間には大きすぎるから。……神様がいるとしたら、たぶんそこね」

 

「…………」

 

「魔法は、その根源に指一本だけ届いた人間のこと。……お祖父ちゃんはそうだった。だから、あの人はもう、身体がないの」

 

 忉利は足を止めかけた。

 

「……身体が、ない?」

 

「あるのは声だけ。……行けばわかるわ」

 

 青子は、それ以上言わなかった。

 

 草十郎が前を歩きながら、ぽつりと言った。

 

「蒼崎」

 

「なに」

 

「その根源というのは、山の頂みたいなものだろうか」

 

「……どういう意味よ」

 

「登れば登った分だけ下が見える。でも、頂の上にはもう何もない。……村の年寄りがそう言っていたんだ。頂まで登った者は、山に帰ってこないって」

 

 青子はしばらく、草十郎の背中を見ていた。

 

「……そうかもね」

 

 小さな声だった。

 

「あんたの山の年寄り、たぶんお祖父ちゃんと気が合ったと思う」

 

 

◇

 

 

 少し歩いてから、青子が前を行く草十郎の背中に訊いた。

 

「……ねえ、静希くん。あんたの山ってどんなところだったの」

 

 草十郎はすぐには答えなかった。

 

 雪の深さを足の裏で探りながら、何歩か歩いた。

 

「……人がよく死ぬところだよ」

 

 平坦な声だった。

 

「冬は道で、夏は川で。獣にやられることもあった。……村の誰かが死ぬのは、珍しいことじゃなかったんだ。俺も小さい頃から、そういうものだと思っていた」

 

「…………」

 

「大きな獣が出ると、村の男が全員で山に入るんだ。俺も七つの時から連れていかれた。戻ってこない人もいた。……それも、そういうものだと思っていたよ」

 

 草十郎は杉の枝から落ちかけた雪を、右手で払った。

 

「ある時、訊いたんだ。どうしてそういうものなのかって。……村の年寄りに」

 

「……それで?」

 

「追い出されたよ。山に疑う者はいらない、って」

 

 青子は何も言えなかった。

 

 忉利も黙って、草十郎の背中を見ていた。

 

 左腕を吊ったまま、雪の中を迷いなく歩いていく背中。

 

 旧校舎で、獣の顎に腕を噛ませたまま、心臓に拳を押し当てた背中。

 

「……でも、嫌いじゃないんだ」

 

 草十郎は振り返らずに言った。

 

「今でも時々思い出すよ。冬の朝の山の匂いとか。……人が死ぬところだったけど、いいところでもあった」

 

 それだけだった。

 

 青子は長いこと、黙って歩いていた。

 

 それから、小さく言った。

 

「……そう」

 

 肯定もしなかった。否定もしなかった。

 

 ただ、草十郎の背中との距離をほんの少しだけ詰めた。

 

 

◇

 

 

 昼前、林が途切れた。

 

 小さな谷の底に、古い家があった。

 

 黒く煤けた板壁。茅葺きの屋根に、厚く雪が積もっている。縁側の硝子戸は雨戸で閉ざされたままだった。

 

 誰も住んでいなかった。

 

「……両親は、今は別のところにいるの」

 

 青子は雪に埋もれた庭の真ん中で、足を止めた。

 

「姉貴が出ていってから、この家、誰も使ってない。……お祖父ちゃんはこの奥」

 

 家の裏手に細い道が続いていた。

 

 杉の木立の間を谷の奥へ。

 

 その突き当たりに、岩壁があった。

 

 岩壁の裾に、黒い洞穴の口が開いていた。

 

 人ひとりがやっと通れるくらいの、狭い口。周りの岩に古い注連縄が、雪をかぶって垂れ下がっている。

 

 忉利は、目の奥の扉を開いた。

 

 ―――。

 

 息を呑んだ。

 

 線が、岩壁の中から噴き出していた。

 

 旧校舎の結界のような、定規で引いた線ではなかった。もっと古くて、太くて、ゆっくりと脈打つような線。それが洞穴の口から、谷の外へ、山の外へ、三咲の町の方へ、何百本も、何千本も根のように伸びていた。

 

 町を編み上げているあの網。

 

 その根元だった。

 

「……ここが、網の真ん中か」

 

「そうよ」

 

 青子は洞穴の口を見上げていた。

 

「蒼崎が何代もかけて、この町に張ってきた網。……その根っこが、ここ。お祖父ちゃんがここで、ずっと守ってきた」

 

 青子は少しのあいだ黙っていた。

 

 それからぽつりと言った。

 

「小さい頃、一回だけ、ここでお祖父ちゃんにお願いしたことがあるの」

 

「……何を」

 

「子猫を生き返らせてって」

 

 忉利は青子の横顔を見た。

 

 青子は忉利に、その話を一度もしていない。

 

 けれど、忉利は知っていた。

 

 暗闇の中で、青子の声が言ったからだ。

 

 ―――子猫の時に、駄目だって言われた。

 

「父さんの車のエンジンルームに、子猫が三匹潜り込んでたのよ。冬で暖かかったから。……私が気づかなくて、エンジンかけて」

 

 青子の声は静かだった。

 

「死んじゃった。三匹とも。……それで私、この洞穴まで走ってきて、お祖父ちゃんに泣いて頼んだの。魔法使いなんでしょ、生き返らせてよって」

 

「…………」

 

「駄目だって言われたわ。……そういうことは、してはいけないって」

 

 青子は、忉利の方を振り返らなかった。

 

「それから赤い影を見るようになった。……あんたが死んだ夜、私の肩に手を置いたやつ」

 

「…………見えてたのか」

 

「見えてたわ。ずっと、少し離れたところにいて。……あの夜、初めて私の隣まで来た」

 

 青子は洞穴の口を見つめた。

 

「その私が、二週間前に何をしたか。……ちゃんと言いに来ないと」

 

 忉利は何も言えなかった。

 

 草十郎が洞穴の脇の岩に、雪を払って腰を下ろした。

 

「俺はここで待っているよ」

 

「……静希くん」

 

「蒼崎の家の話だろう。俺は外の人間だから」

 

 草十郎は吊った左腕を、右手で支え直した。

 

「行ってくるといい」

 

 

◇

 

 

 洞穴の中は暗かった。

 

 けれど、寒くはなかった。

 

 岩の壁が、かすかに温かかった。地の底から、何かが静かに脈打っているように。

 

 狭い通路を少し進むと、広い空洞に出た。

 

 天井は見えなかった。壁も見えなかった。ただ、真っ暗な空間の真ん中に、ぽつんと小さな灯りが一つ浮かんでいた。蝋燭の火のような、青白い小さな光。

 

 その光の周りに、何もなかった。

 

 机も、椅子も、本も、人も。

 

 何も。

 

「――――お祖父ちゃん」

 

 青子が灯りに向かって言った。

 

 しばらく何も起きなかった。

 

 それから。

 

 声が、した。

 

 どこから聞こえてくるのか、わからなかった。洞穴の壁から。天井から。足元の岩から。いや、空気そのものから。

 

 低くて、乾いていて、少しだけ笑っているような老人の声。

 

『――青子か。よく来た。……何年ぶりだ』

 

「三年ぶり」

 

『そうか。……それで。何をした』

 

 青子の肩がぴくりと動いた。

 

「……もう知ってるんでしょ」

 

『知っている。この山の中にいても、あの網の震えはここまで届く。……だが、お前の口から聞きたい』

 

 青子は拳を握った。

 

 それから、ゆっくりと口を開いた。

 

「使ったわ。……第五魔法を」

 

『何のために』

 

「こいつを生き返らせるために」

 

 青子は隣の忉利を顎で示した。

 

「旧校舎で、姉貴の獣に胸を貫かれて。……死んだの。心臓が止まって」

 

『それで』

 

「死を、捨ててきた。……世界の一番最後の場所に。誰にも拾えないところに」

 

 洞穴の中が、しんと静まり返った。

 

 青白い灯りがゆらりと揺れた。

 

『……子猫の時は駄目だと言った』

 

「言ったわ」

 

『それを覚えていて、やったのか』

 

「覚えていて、やったのよ」

 

 青子は顔を上げた。

 

「後悔してない。……一回も」

 

 長い、長い沈黙があった。

 

 それから、声が笑った。

 

 乾いた短い笑い声だった。

 

『……重い借りを作ったな』

 

 忉利は瞬きをした。

 

 借り、という言葉の意味がわからなかった。

 

 青子は何も言わなかった。

 

 ただ、拳を握った手に力を込めていた。

 

『それで。……誰の時間を借りた』

 

「……こいつの。十年」

 

『死んだ本人の十年をか』

 

「そうよ。……借りて、返したわ」

 

『返したか』

 

 青白い灯りが忉利の方に、ほんの少しだけ揺れた。

 

『……少し、混ざったな』

 

 青子の肩がぴくりと動いた。

 

 声はそれきり、その話をやめた。

 

『まあ、いい。……お前が選んだことだ。魔法を継いだのも、使ったのもお前だ。私が口を出すことではない』

 

「…………」

 

『橙子と争ったのも、お前が選んだことではないがな。……あれは星の巡りだ。姉と妹が、一つのものを挟んで向かい合う。私が仕組んだことではない。ただ、そうなるようになっていた』

 

 青子は唇を噛んだ。

 

「……お祖父ちゃんが私を選んだから」

 

『選んだのは、私だ。争ったのは、星だ。……その二つを混ぜるな』

 

 青子は答えなかった。

 

 それからしばらく黙って、洞穴の入り口の方を振り返った。

 

 外に草十郎がいる。

 

「……お祖父ちゃん。もう一つ頼みがあるの」

 

『言ってみなさい』

 

「外に静希草十郎がいるわ。……あの子の、この一ヶ月の記憶を消してほしいの」

 

 忉利は青子の横顔を見た。

 

 初めて聞く話だった。

 

「あの子は、普通の人間よ。私たちのことを見て、巻き込まれて、獣に腕を噛み砕かれた。……有珠の薬は、あの子は飲まないって言った。私の暗示はあの子には通らない。……でも、お祖父ちゃんなら」

 

『断る』

 

 即答だった。

 

「――なんでよ」

 

『面倒な記憶消しは、お前自身がやることだ。お前が巻き込んだのなら、お前が片付けろ。私は手を貸さない』

 

「私にはできないって、言ってるでしょ!」

 

『できないのなら、それが答えだ』

 

 声は静かだった。

 

『消せぬものは、消せぬ。……あの少年は、お前の暗示も、あの魔女の薬も通さない。それは、あの少年がそういうふうにできているからだ。お前がどうこうできる話ではない』

 

 青子は拳を握りしめた。

 

『それに、青子』

 

 声が少しだけ和らいだ。

 

『お前は、過去を捨てていない。捨てられない子だ。……捨てたと言い張って、その過去を美しくするために生きている。子猫のことも、姉のことも、この店の――』

 

 声が一瞬、途切れた。

 

『……喫茶店の子のことも』

 

 青子の肩が震えた。

 

『そのお前が、他人の一ヶ月を消してやろうというのは、筋が通らん』

 

 青子は、長いこと黙っていた。

 

 それから小さく息を吐いた。

 

「……わかったわよ」

 

『わかればいい。……さて』

 

 青白い灯りが忉利の方に、少しだけ揺れた。

 

『そこの少年』

 

 

◇

 

 

「……おれか」

 

『お前だ。……青子。少し外していなさい』

 

「え」

 

『この少年と二人で話す』

 

 青子は忉利の顔を見た。

 

 それから灯りを見た。

 

 少しのあいだ迷っていた。

 

「……わかったわ」

 

 青子は忉利の袖を、一度だけぎゅっと掴んだ。

 

「外にいるから」

 

 足音が遠ざかっていった。

 

 洞穴の中に、忉利と青白い灯りだけが残った。

 

『――少年。私を見てみなさい』

 

「……見てるけど」

 

『お前の目で、だ』

 

 忉利は少しのあいだ黙っていた。

 

 それから、目の奥の扉を開いた。

 

 全部。

 

 線が浮かび上がった。

 

 灯りの周りに、何もなかった。

 

 人の身体の線がなかった。骨も、肉も、皮膚も。線で編まれた人の形が、どこにもなかった。

 

 代わりに。

 

 線だけが、あった。

 

 太い、古い、ゆっくりと脈打つ線が何千本も、洞穴の壁から、床から、天井から、この一点に集まって結ばれていた。三咲の町を編み上げている網のすべての線が、ここで一つに束ねられていた。

 

 その結び目そのものが。

 

 声を出していた。

 

「……あんた、ほんとに身体、ねえのか」

 

『ない。とうの昔に失くした。……この山の外の、教会の男が斬った。私が頼んでな』

 

「…………」

 

『私はもう、人ではない。この網の結び目だ。……網が残っている限り、私もここにいる。そういうものだ』

 

 声は平然と言った。

 

『そして、私という現象がここに残っている限り、蒼崎の正統な跡取りは、生まれん。青子も橙子も、跡取りではない。……私の続きだ』

 

「……青子に、それ言ったのか」

 

『言っておらん。……言えば、あの子はまた、それを美しくしようとする』

 

 忉利は何も言わなかった。

 

『そんなことよりも』

 

 声が少しだけ近づいた気がした。

 

『お前の目だ』

 

 忉利は黙っていた。

 

『網の外から、網を切った目。……この町に蒼崎の網が張られてから、何百年も経つ。その間、外から一本でも切った者は、一人もいなかった。それを、お前は回路もなしに切った』

 

「……切っただけだ。邪魔だったから」

 

『そうだろう。だから、恐ろしい』

 

 声は笑っていなかった。

 

『魔術師は切るために、何年も何十年も学ぶ。何を切れば何が起きるか、知った上で切る。……お前は知らずに切る。邪魔だから切る。それは、子供が刃物を振り回すのと同じだ』

 

 忉利の拳が握られた。

 

『――だが』

 

 声が少しだけ変わった。

 

『お前は切らなかったこともある。……旧校舎で。あの女の槍の線が見えていて、切らなかった』

 

 忉利の息が止まった。

 

『痛みが怖かったから、とあの女は言ったそうだな。……違うだろう』

 

「…………」

 

『切ったら何が起きるか、わからなかったからだ。……あの部屋の全部が、あの女の線で編まれていた。一本切ればどこが崩れるか、わからない。その中に青子がいた』

 

 忉利は答えなかった。

 

 答えられなかった。

 

 あの時、自分が何を考えていたのか、自分でもはっきりとは覚えていない。ただ、切れば青子ごと何かが崩れる気がして、指が――目が、動かなかった。

 

『それでいい』

 

 声は言った。

 

『その目は、切るための目ではない。……何を切らないかを決めるための目だ。それを忘れるな』

 

 青白い灯りがゆらりと揺れた。

 

『それから、もう一つ』

 

「……なんだ」

 

『お前は一度、死んでいる』

 

「……ああ」

 

『その死は今、遠くにある。……青子が放り投げた。世界の一番最後の岸辺に』

 

 忉利は胸の真ん中に手を当てた。

 

 あの夜、暗闇の中で、線の形になって引き抜かれていった、自分の死。

 

『あれは消えたのではない。置いてあるだけだ。……いつか、お前の目にも見える日が来るだろう。それを見た時、お前は青子に何と言う』

 

 忉利は少しのあいだ考えた。

 

 それからぼそりと言った。

 

「……知らねえよ、そんなの。見てから考える」

 

 声が笑った。

 

 今度は少しだけ、温かい笑い方だった。

 

『いいだろう。……死者に用はない。だが、お前はまだ、死者ではないな』

 

「……そういうこと、言うのかよ」

 

『言う。私はそういう者だ』

 

 灯りが少しだけ揺れた。

 

『外の山の少年とは、正反対だ』

 

「……静希か」

 

『あれは、十郎という大勢の名前を背負っているくせに、何ものからも一人きりの子だ。全部を受け入れる。怒らず、恨まず、欲しがらず。……それは、死を最初から受け入れているからだ。珍しい。だが、先に続くものがない』

 

 忉利は何も言わなかった。

 

『お前は逆だ。死を遠くに置いて、先に続こうとしている。……しかも、一人ではなく』

 

「…………」

 

『あの子はお前の十年を通った。お前が十年、何を見て、何を見ないふりをして、誰を見ていたか。……全部、見たぞ』

 

 忉利の耳の先が、洞穴の暗がりの中で赤くなった。

 

「……知ってる。言われた」

 

『そうか』

 

 声が今度こそ、はっきりと笑った。

 

『返ってきたお前の十年には、あの子の時間が少し混ざっている。……一度撚り合わせた糸は、元の一本には戻らん。これから先、お前たちの時間は少しずつ、同じ撚り方をしていくだろう』

 

「……それ、悪いことなのか」

 

『良いか悪いかは、お前たちが決めることだ』

 

 灯りがゆらりと、忉利の目の前まで近づいた。

 

『お前の目の色も変わったな。あの子の魔法の色だ。……あの子はお前に、ずいぶんなものを置いていった』

 

「…………」

 

『大事にしろとは言わん。……ただ、見ろ。見て、決めろ。それがその目の使い方だ』

 

 灯りが、すうっと小さくなった。

 

『行きなさい。……青子が外で寒がっている』

 

 

◇

 

 

 洞穴を出ると、雪がまた降り始めていた。

 

 青子は洞穴の口の脇で、腕を組んで足踏みをしていた。草十郎は岩の上に座ったまま、雪をかぶってじっと谷の方を見ていた。

 

「――遅い」

 

 青子が振り返った。

 

「何話してたのよ、二十分も」

 

「……いろいろ言われた」

 

「何を」

 

「目のこととか。……あと、おれは死者じゃねえって」

 

 青子の動きが止まった。

 

「……そう言ったの?」

 

「言った」

 

「……ほかには」

 

 忉利は少しだけ黙った。

 

「お前が、おれの十年、全部見たって」

 

 青子の顔が雪の中で、見る見るうちに赤くなった。

 

「――っ、お、お祖父ちゃん、そんなことあんたに言ったの!?」

 

「言った」

 

「あの人……!」

 

 青子は洞穴の暗がりを睨みつけた。

 

 それから、ふいと顔を背けた。

 

「……そう。ならいいわ」

 

 全然よくなさそうな声だった。

 

 忉利は雪を踏んで、青子の隣に立った。

 

「……静希の記憶、消す気だったのか」

 

 青子の肩が強張った。

 

「聞こえてたぞ。あの中、声、響くんだよ」

 

 青子は長いこと、雪の上を見ていた。

 

「……巻き込んだの、私だもの」

 

 小さな声だった。

 

「あの子は、普通の人間よ。山から下りてきて、バイトして、皿洗って、それだけの子だったのに。……私たちのせいで獣に腕を噛み砕かれて」

 

「…………」

 

「元に戻すのが、筋でしょ」

 

「あいつが飲まないって言ったんだろ。薬」

 

「……言ったわ」

 

「なら、それが答えだって爺さんも言ってたじゃねえか」

 

 青子は何も言い返さなかった。

 

 岩の上で、草十郎が立ち上がった。

 

 雪を払う。

 

「蒼崎」

 

「……なに」

 

「俺の一ヶ月を消してくれと頼んだんだろう」

 

 青子は息を呑んだ。

 

 草十郎は責める顔をしていなかった。ただ、事実を確かめる顔だった。

 

「……聞こえてたの」

 

「洞穴の中の声は、外までよく響くんだ」

 

「……ごめん」

 

「謝らなくていいよ。……消せなかったんだろう?」

 

「消せなかったわ」

 

「なら、よかった」

 

 草十郎は少しだけ口の端を持ち上げた。

 

「消えたら、日景の珈琲の味も消えてしまう。……あれは惜しいからね」

 

 青子は何も言えなかった。

 

 草十郎は坂道の方へ歩き出した。

 

 雪の中を、左腕を吊ったまま迷いのない足取りで。

 

 その背中を、青子はしばらく見ていた。

 

 それから、小さく鼻をすすった。

 

「……ほんとに、どいつもこいつも」

 

「バカばっかりか」

 

「そうよ」

 

 青子は忉利の脛を軽く蹴った。

 

 それから二人で、草十郎の背中を追った。

 

 

◇

 

 

 杉林の中で、忉利は青子の背中に声をかけた。

 

「……なあ」

 

「なに」

 

「借り、って何だ」

 

 青子の足が一瞬、止まった。

 

 振り返らなかった。

 

「……お祖父ちゃんが言ったやつ?」

 

「ああ。重い借りを作ったって。……おれの十年は返したんだろ。あれとは別の話か」

 

 青子は、また歩き出した。

 

 少しのあいだ答えなかった。

 

「……魔法使いの借金の話よ」

 

「借金?」

 

「あんたには、関係ないわ」

 

 青子は前を向いたまま言った。

 

「私が、勝手に作った借金。……私が、勝手に返すの」

 

 忉利は、それ以上訊かなかった。

 

 訊いても、答えないとわかっていたから。

 

 ただ、雪を踏む青子の背中を見ていた。

 

 目の奥の扉は閉じたままにしておいた。

 

 見れば、たぶん何かが見える。青子の線のどこかに。

 

 けれど、あの声は言った。見て、決めろ、と。

 

 今日は見ないと、決めた。

 

 杉の枝から雪の塊が、ぼたりと落ちた。

 

 

◇

 

 

 夕方、坂の上の洋館に明かりが灯っていた。

 

 三人が坂を上っていくと、玄関の扉が内側から開いた。

 

 有珠が立っていた。

 

 朝、見送った時と同じ場所に。同じ顔で。

 

「……遅かったわね」

 

「雪のせいよ」

 

 青子が長靴の雪を、玄関の石段で落とした。

 

 有珠は草十郎の吊った左腕を、ちらりと見た。それからその顔を見た。

 

「……あなた」

 

「ああ」

 

「……消されなかったのね」

 

 草十郎は少しだけ首を傾げた。

 

 それから頷いた。

 

「消せなかったそうだ」

 

「そう」

 

 有珠はそれだけ言った。

 

 それから、扉の内側に身を引いた。

 

 その白い指先が扉の縁を、ほんの一瞬だけ強く握ったのを、忉利は見た。

 

 居間の暖炉には、火が赤々と燃えていた。

 

 朝からずっと、絶やさずにいたらしかった。

 

 その前に、四つの椅子が並べてあった。

 

 忉利は台所に向かった。

 

 湯を沸かす。

 

 棚から有珠の茶葉を取り出す。ポットを温める。

 

 窓の外で、雪が静かに降り続けていた。

 

 目の奥の扉を、少しだけ開いた。

 

 線が見えた。

 

 居間の方から四本の線。

 

 草十郎の。有珠の。青子の。それから、自分の。

 

 その四本のずっと向こう。北の山の深い谷の奥で。

 

 何千本もの古い線を束ねた、一つの結び目が。

 

 静かに、脈打っていた。

 

 ――何を切らないかを決めるための目だ。

 

 忉利は、扉を閉じた。

 

 沸騰した湯をポットに注ぐ。

 

 砂時計をひっくり返した。

 

 クリスマスまで、あと二日だった。

シエルの小説満足度調査

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