夜明けの色を見る眼   作:にんら

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停滞と漸進

 目を覚ますと、天井に、線が走っていた。

 

 日景忉利は、久遠寺邸の客間の天蓋付きの寝台の上で、しばらくそれを眺めていた。

 

 白い漆喰。蔓草の浮き彫り。埃をかぶった硝子の照明。

 

 そして、その上を、無数の線が走っていた。

 

 前とは、まるで違っていた。

 

 昔は、視界の端に、ぼんやりと一本か二本、見えるだけだった。瞬きをすれば消える、出来の悪い乱視のような線だった。

 

 今は、全部、見えていた。

 

 漆喰の粒と粒を繋ぐ線。飾り縁の石膏を形作る線。照明の硝子の中を走る、細い細い線。天井という一枚の面が、無数の線で縫い合わされているのが、手に取るようにわかった。

 

 けれど、痛くなかった。

 

 眩しくもなかった。

 

 窓の外の景色を眺めるように、ただ、そこに見えている。

 

 忉利は、ゆっくりと瞬きをした。

 

 線は、消えなかった。

 

 それから、目の奥の、あの場所に、意識を向けた。

 

 あの夜、光の中で、できたもの。扉のような、細い隙間。

 

 それを、ゆっくりと、閉じてみた。

 

 線が、すうっと薄れて、ただの天井に戻った。

 

「……ほんとに、閉まんのか、これ」

 

 呟いて、忉利は身体を起こした。

 

 開ければ、見える。閉じれば、見えない。半分だけ開ければ、半分だけ。まるで、窓の鎧戸を、好きな幅で開け閉めするように。

 

 窓の外は、もう昼近かった。

 

 明け方、旧校舎の屋上から、四人でふらふらと坂を上って帰ってきた。青子は忉利の背中で眠ったまま。有珠は草十郎の背中で。誰も、何も喋らなかった。玄関に倒れ込むように入って、それぞれの部屋に這うように戻って――

 

 それきり、屋敷は、しんと静まり返っていた。

 

 顔を洗おうと、廊下の突き当たりの洗面所に入った。

 

 古い陶器の洗面台。その上の、縁の欠けた楕円形の鏡。

 

 冷たい水を、手ですくって顔にかける。一度。二度。

 

 顔を上げた。

 

 鏡の中に、自分がいた。

 

 寝癖のついた髪。少し痩せた頬。右目の周りには、まだうっすらと、乾いた血の痕が残っている。

 

 それから、目。

 

 両目とも、ちゃんと見えていた。充血も、もう引いている。

 

 ただ、色が違っていた。

 

 もともと、色素の薄い目だった。光の加減で、灰色がかって見えることがあった。

 

 その虹彩の、いちばん外の縁が、青かった。

 

 夜明け前の、空の色。灰色の奥から、その青が、細い輪になって、瞳を縁取っていた。

 

 屋上の夜明けの中で、青子が、覗き込みながら言っていた。私の魔法の色が、あんたの目に残ってる、と。

 

「……ほんとに、青いな」

 

 自分で見るのは、初めてだった。

 

 晴華に見られたら、何て言われるだろう、と思った。

 

 カラーコンタクトでも入れたのか、と騒ぐだろう。親父は、何も言わないだろう。たぶん、じっと見て、それから、また豆を挽き始める。

 

 忉利は、鏡に顔を近づけた。

 

 それから、何気なく、意識を向けた。

 

 鏡の中の自分の身体に、線が浮かび上がった。

 

 髪の毛の一本一本。皮膚の細かな皺。呼吸をするたびに膨らむ胸。その全部を、無数の細い線が、縫い合わせている。

 

 その中に、一本だけ、違う線があった。

 

 胸の真ん中から。ちょうど、ゆうべ獣の爪に貫かれた、あの場所から。

 

 細い、けれど、はっきりとした線が、一本、伸びていた。

 

 前へ。

 

 どこか、ずっと先へ。

 

 川の流れのように、ゆっくりと、途切れることなく。

 

 ―――時間、か。

 

 なぜか、すぐにわかった。

 

 あの夜、暗闇の中で、自分の死が線の形をして、未来の果てへ引き抜かれていくのを見た。あれと、同じ種類の線だ。

 

 これは、自分の、これからの時間だ。明日へ、来年へ、十年後へと、自分という人間が流れていく道筋。

 

 その線を、目で追った。

 

 鏡の向こうへ。ずっと、ずっと先へ。

 

 そして。

 

 ほんの少し先で――止まっていた。

 

 途切れているのではなかった。消えているのでもなかった。

 

 ただ、そこから先に、流れていかなかった。川の途中に、見えない堰が作られたように。線は、その場所で、くるりと輪を描いて、同じところをゆっくりと巡り続けていた。

 

 そして、その輪に。

 

 もう一本、別の線が、絡みついていた。

 

 自分のものではない線。青く澄んだ、夜明けの空のような色の線。それが、忉利の線と、固く、固く、結び目を作っていた。

 

 その青い線がどこから来ているのか、忉利には、見なくてもわかった。

 

 廊下の向こう。

 

 屋敷の二階の、いちばん東の部屋。

 

 青子が眠っている部屋から、だった。

 

「――旧校舎の三階が、崩れた」

 

 翌日、月曜日の三咲高校、生徒会室。

 

 槻司鳶丸は、会長席の机の上に置かれた真鍮の鍵束を見下ろして、低い声で言った。

 

「日曜の明け方から、町じゅう大騒ぎだ。夜中に、ものすげえ音がしたってな。消防も警察も来た。理事会は、老朽化による自然崩落ってことで片付けるらしい。……取り壊しが、三ヶ月早まっただけだってよ」

 

「…………」

 

 青子は、机の前に立ったまま、黙っていた。

 

 その隣に、忉利。眼帯は、もう着けていなかった。

 

「で」

 

 鳶丸は、鍵束を指先でつまみ上げた。

 

「約束どおり、朝一で返しに来たわけだ。一日遅れだがな」

 

「……ええ」

 

「律儀なこった」

 

 鳶丸は、鍵束を、制服のポケットにねじ込んだ。

 

 それから、青子の顔を見た。忉利の顔を見た。

 

 二人とも、ひどく疲れた顔をしていた。けれど、先週までの、死人のような顔ではなかった。

 

「……ま、いい」

 

 鳶丸は、椅子の背にもたれた。

 

「親父にバレなきゃ、それでいい。旧校舎がどうなろうと、俺の知ったこっちゃねえ」

 

「……槻司」

 

「礼なら、要らねえって言ったろ」

 

 鳶丸は、ひらりと手を振った。

 

「それより、日景。お前、目、治ったのか」

 

「……ああ。なんとかな」

 

「そうか」

 

 鳶丸は、それ以上は訊かなかった。

 

 ただ、ほんの一瞬だけ、口の端を持ち上げた。

 

「支えたんだな。ちゃんと」

 

 忉利は、答えなかった。

 

 答える代わりに、隣の青子を、ちらりと見た。

 

 青子は、なぜか、耳の先を赤くして、そっぽを向いていた。

 

 窓際の机で、金鹿が、帳簿から顔を上げずに言った。

 

「……おかえり」

 

 小さな声だった。

 

「三人とも、帰ってきたのね」

 

「ええ。……ただいま、金鹿」

 

「静希くんは」

 

「屋敷で寝てるわ。全身包帯だらけで、有珠に絶対安静って言われてる」

 

「……バイト、また休みね」

 

 金鹿は、小さく溜息をついた。

 

 それから、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。

 

「傘は、返してもらったから。……まあ、いいわ」

 

 生徒会室の扉が、がらりと開いた。

 

「会長! 日景! 旧校舎見ました!? 三階が丸ごとなくなってて! なんか、上から巨人に踏み潰されたみてえな――」

 

「芳助」

 

「はい殿下!」

 

「黙れ」

 

「……はい」

 

 しょんぼりと口を閉じる芳助を見て、青子が、くすりと笑った。

 

 忉利は、その笑顔を、横目で見ていた。

 

 それから、何気なく、意識を向けた。

 

 線を、見た。

 

 芳助の胸から、線が伸びていた。

 

 細い、けれど、元気な線。前へ、前へと、どこまでも流れていく。明日へ。来年へ。十年後へ。五十年後へ。ずっと先まで、途切れることなく。

 

 鳶丸の線も、同じだった。

 

 金鹿の線も。

 

 みんな、同じように、前へ流れていた。ゆっくりと、けれど確かに。川が海へ向かうように。

 

 そして。

 

 青子の線は。

 

 忉利の隣で、くすくすと笑っている幼馴染の胸から伸びる、あの青く澄んだ線は。

 

 ほんの少し先で、止まっていた。

 

 くるりと輪を描いて。同じところを、ゆっくりと巡り続けて。

 

 忉利の線と、固く、結び目を作って。

 

 ―――青子も、か。

 

 忉利は、何も言わなかった。

 

 ただ、目を閉じて、線を見るのをやめた。

 

 その日の夕方、忉利は、屋敷の二階の、有珠の作業部屋の扉を叩いた。

 

 二度。硬く、短く。

 

「……入って」

 

 返事があった。

 

 有珠は、窓際の作業机の前に座っていた。

 

 顔色は、まだ青白かった。回路を使い果たした身体は、一日二日寝たくらいでは戻らないらしい。それでも、背筋はまっすぐに伸びていた。

 

 作業机の上に、小さな硝子の小瓶が、一つ置かれていた。

 

 中に、淡い琥珀色の液体が、半分ほど入っている。

 

「……それ」

 

「薬よ。あなたと、静希草十郎の記憶を消すための。……まだ、完成していないわ」

 

「……そうかよ」

 

「座って」

 

 有珠は、窓際のもう一脚の椅子を、目で示した。

 

 忉利は、黙って腰を下ろした。

 

「訊きたいことが、あるのでしょう」

 

「……ああ」

 

「なら、先に、わたしから話すわ。たぶん、あなたが訊きたいことと、同じだから」

 

 有珠は、小瓶から目を離して、忉利の目を見た。

 

「その目。……時間の線が、見えるのでしょう」

 

 忉利は、息を止めた。

 

「なんで、わかんだよ」

 

「わたしも、見えたからよ。あの夜」

 

 有珠は、窓の外に目をやった。

 

「青子が魔法を使った時、わたしは、あの光のすぐ近くにいた。だから、ほんの一瞬だけ、見えたの。あなたの時間と、青子の時間が、どうなったのか」

 

「…………」

 

「あなたの死は、未来の果てに捨てられた。青子が、あなた自身の過去の十年を借りて、その力で。……でも、それだけでは、死んだ人間は戻ってこないわ」

 

 有珠は、白い指先で、作業机の上に、見えない線を描いた。

 

「一度止まった時計を、もう一度動かすには、ぜんまいが要るの。だから、青子は、自分のぜんまいを、あなたに分けたのよ」

 

「……ぜんまい」

 

「青子の時間よ。あの子が、これから生きていくはずだった時間。その一部を、あなたの止まった時計に、差し込んだの」

 

 有珠は、少しだけ、目を伏せた。

 

「それに、あなたの十年は、あの子の中を通って、あなたに返ったわ。……返る時に、あの子の時間と、少し混ざったのよ。糸と糸を、一度撚り合わせて、また解いたように。……完全には、解けなかった」

 

 有珠の指先が、作業机の上で、二本の線を絡み合わせるように描いた。

 

「今のあなたの時計は、青子の時計と同じぜんまいで動いているわ。……同じ速さで。同じ時を刻んで」

 

「それと、もう一つ」

 

 有珠は、忉利の目を、じっと見つめた。

 

「青子の時計は、いつか、止まるわ」

 

 忉利は、何も言わなかった。

 

 洗面所の鏡の中で見た、あの線を思い出していた。ほんの少し先で、くるりと輪を描いて、止まっていた線。

 

「魔法を使う者は、この世界の時間の外に、一歩だけ、足を踏み出してしまうの。……しかも、あの子は、借りた十年で、十年先の自分まで行って、戻ってきた。本来なら十年かけて歩くはずだった道を、一晩で往復してしまったのよ」

 

「…………」

 

「だから、あの子の身体は、いつか、どこかで、歳を取るのをやめるわ。……たぶん、二十歳を少し過ぎたあたりで」

 

 有珠の声は、平坦だった。

 

 けれど、その膝の上で、白い指先が、かすかに握り込まれていた。

 

「あなたの時計は、青子と同じぜんまいで動いている。なら、あなたも、同じところで止まるはず。……ただ」

 

「ただ?」

 

「本当は、それだけでは、足りないはずなの」

 

 有珠は、首を横に振った。

 

「人の身体は、そんなに簡単に、他人の時間には馴染まないわ。分けてもらったぜんまいだけなら、あなたの時計は、何年かのうちに、少しずつ青子の時計からずれていくはずだった。……いつかは、あなただけが、またゆっくりと、自分の時間を歩き始めていたかもしれない」

 

「……じゃあ、なんで」

 

「あなたの目よ」

 

 有珠の声が、ほんの少しだけ、低くなった。

 

「あの夜、あなたの目は、魔法の流れを、真正面から浴びたわ」

 

 有珠は、窓の外の、暮れていく空を見つめた。

 

「それだけではないの。見てしまったのよ。あなた自身の死が、時間の線として、未来の果てへ引き抜かれていくところを」

 

「…………」

 

「あなたの目は、それまで、ものとものの繋ぎ目しか見えなかった。壁の継ぎ目。怪物の縫い目。術式の結び目。……でも、あの夜、初めて、時間の線を見た。自分の身体を流れる時間が、どういう形をしているのかを」

 

 有珠は、作業机の上の小瓶を、指先でそっと押しやった。

 

「そして、魔法の奔流に焼かれて、あなたの目は作り変えられた。……見たものを、切れる目に」

 

「…………」

 

「わかる? あなたの目は、時間の線を『見た』の。見えるものは、切れるのよ」

 

 忉利は、自分の手のひらを見下ろした。

 

 意識を向ける。

 

 見えた。

 

 手のひらの皮膚の奥で、細い線が、ほんのわずかに、ぷつり、と切れるのが。

 

 痛みは、なかった。

 

 音も、なかった。

 

 ただ、切れていた。

 

 そして、切れた線の端が、すぐに、胸から伸びるあの青い線の方へと引き寄せられて、また結び直されていく。

 

 何度も。何度も。

 

 まるで、川の流れが本来の道筋へ戻ろうとするたびに、誰かが小石を置いて、流れを引き戻しているように。

 

「……おれが、やってんのか。これ」

 

「ええ」

 

「切れろなんて、思ってねえぞ」

 

「思っていなくても、望んでいるのよ」

 

 有珠は、静かに言った。

 

「その目は、見る者の意志ひとつで、ものを断つわ。でも、意志というのは、頭で考えることだけではないの。心のいちばん深いところで望んでいることも、意志よ。……眠っている時でさえ、目は、それを覚えているわ」

 

 有珠は、忉利を、まっすぐに見つめた。

 

「あの夜、死ぬ前に、あなたは青子に何と言ったの」

 

 忉利は、答えなかった。

 

 答えなくても、わかっていた。

 

 ―――世界中の誰が敵になろうと、おれだけは、絶対に、お前の側から離れてやらねえよ。

 

「あなたの目は、それを覚えているのよ」

 

 有珠の声は、どこか、呆れたような響きを帯びていた。

 

「あなたの身体が、青子の時間からずれていこうとするたびに。……あなたが、青子を置いて、一人で歳を取っていこうとするたびに。その『老い』の線を、勝手に切り続けているの」

 

「…………」

 

「あなた自身の言葉を、あなたの目が、守り続けているのよ。……たぶん、これから、ずっと」

 

 長い、沈黙があった。

 

 窓の外は、もう、薄暗くなっていた。

 

 有珠は、作業机の上の小瓶を、手に取った。

 

「それから、これのことも、話しておくわ」

 

 琥珀色の液体が、小瓶の中で揺れる。

 

「ゆうべ、あなたが眠っている間に、一滴だけ、あなたの額に垂らしてみたの」

 

「……おい」

 

「試作よ。数分間の記憶を、ぼんやりさせるくらいの効き目しかないわ」

 

 有珠は、小瓶を、机の上に戻した。

 

「効かなかったわ。あなたの額に触れた瞬間、薬の効き目そのものが、ほどけて、ただの水になった。……あなたは、眠ったまま、何も気づいていなかったけれど」

 

 有珠は、小さく、息を吐いた。

 

「ゆうべ、あなたは、わたしの中の橙子の結び目を、繊維を一本ずつ選んでほどいたわ。わたしの線には、一本も触れずに。……あれを見て、わかったの」

 

 有珠は、自分の胸に、そっと手を当てた。

 

「あなたの目は、もう、神の領域に足を踏み入れているわ。魔術も、薬も、暗示も。あなたの中の何かを書き換えようとするものは、全部、その目が勝手に切ってしまう。……わたしの手には、もう、負えないの」

 

「……じゃあ、記憶は」

 

「消せないわ。もう、誰にも」

 

 有珠は、窓の外に目をやった。

 

「だから、あなたの分は、作るのをやめるわ」

 

 忉利は、有珠の横顔を見た。

 

「……いいのかよ。決まりは、決まりなんだろ」

 

「ええ。でも、消せないものは、消せないもの」

 

 有珠は、目を伏せた。

 

「なら、手の届くところに、置いておくしかないわ。……この屋敷に」

 

「見張りってことか」

 

「それもあるわ」

 

 有珠は、淡々と言った。

 

「でも、それだけではないの。……あの夜、わたしは見たわ。青子が、あなたのために、十年分の未来を、何の迷いもなく差し出したのを」

 

 有珠の声が、ほんのわずかに、揺れた。

 

「あの子は、いつか、また、あんなふうに自分を燃やすわ。誰かのために。何かのために。止める者がいなければ、どこまでも」

 

「…………」

 

「わたしには、止められなかった。あの夜、叫んだのに、届かなかった」

 

 有珠は、忉利の目を、まっすぐに見つめた。

 

「でも、あなたなら、止められるかもしれない。あの子の暴走を止められる、たった一本の楔に、なれるかもしれない」

 

 有珠は、小さく首を傾げた。

 

「だから、合理的に考えて、あなたをここに置いておくのが、いちばんいいのよ。……それだけ」

 

 忉利は、しばらく、有珠の顔を見ていた。

 

 それから、ふっと、口の端を持ち上げた。

 

「……素直じゃねえな、お嬢様」

 

「その呼び方は、やめてと言ったわ」

 

「じゃあ、なんて呼べばいいんだよ」

 

 有珠は、少しだけ、黙った。

 

 それから、窓の外を向いたまま、ぽつりと言った。

 

「……有珠で、いいわ」

 

 その夜、忉利は、屋敷の二階の露台に立っていた。

 

 眼下に、三咲の町の灯りが広がっている。

 

 冬の夜気が、頬を刺すように冷たい。父のマフラーを、首に巻き直す。

 

 背後で、硝子戸が開く音がした。

 

「……寒くないの、そんなとこ」

 

 青子だった。

 

 寝間着の上に、大きなカーディガン。手に、湯気の立つカップを二つ持っている。

 

「紅茶。有珠が淹れたやつ」

 

「……前も、同じこと言ってなかったか」

 

「言ったわね」

 

 青子は、カップの一つを忉利に押しつけ、隣の手すりにもたれた。

 

 しばらく、二人とも黙っていた。

 

 紅茶の湯気が、夜気の中で白く溶けていく。

 

「……聞いたわ」

 

 青子が、ぽつりと言った。

 

「有珠から。……全部」

 

 忉利は、何も言わなかった。

 

「あんたの時間のこと。私の時間のこと。それから、あんたの目が、何をしてるのか」

 

 青子の声は、静かだった。

 

 静かすぎて、忉利は、横を見た。

 

 青子は、町の灯りを見下ろしていた。

 

 カップを両手で握りしめて。その指先が、白くなるほど、力が込められていた。

 

「……ごめん」

 

「何が」

 

「全部よ」

 

 青子の声が、震えた。

 

「あんたを、巻き込んだ。遊園地に来させて。旧校舎に連れていって。……あんたを、死なせて。あんたの十年まで、勝手に借りて」

 

「…………」

 

「それから、勝手に、生き返らせて」

 

 青子は、唇を噛んだ。

 

「あんたに、何も訊かずに。あんたが、それを望んでたかどうかも知らずに。私が、嫌だったから。あんたがいなくなるのが、耐えられなかったから。……それだけの理由で、あんたの時間を、勝手に、私の時間に繋いだの」

 

 カップの中の紅茶が、小さく波打っていた。

 

「あんたは、普通に生きられたはずなのに。普通に大人になって、普通に歳を取って、おじさんの店を継いで、晴華ちゃんの結婚式に出て、いつか、自分の子供に珈琲の淹れ方を教えて……」

 

 青子の声が、途切れた。

 

「そういう、当たり前の時間を。……全部、私が、取り上げたのよ」

 

 忉利は、しばらく、黙っていた。

 

 町の灯りを、見下ろしていた。

 

 駅前のアーケード。商店街の屋根。その外れの、小さな灯り。

 

 Cafe HIKAGEの、看板の明かり。

 

 あそこで、父が、今も豆を挽いている。晴華が、宿題をさぼって、カウンターで漫画を読んでいる。

 

 でも、自分は、歳を取らない。

 

 二十歳を少し過ぎたあたりで、止まる。

 

 父が老いていくのを、晴華が大人になっていくのを、ただ、変わらない姿のまま、見ていることになる。

 

 普通の人間の、普通の時間から、はじき出されて。

 

 ―――化け物、か。

 

 遊園地で、青子に向かって呟いた言葉を、思い出した。

 

 今度は、自分が、そうなるのだ。

 

 忉利は、紅茶を一口飲んだ。

 

 少し、冷めていた。

 

「……青子」

 

「…………なに」

 

「お前、二十歳過ぎたら、歳取らなくなるんだろ」

 

「……そうよ」

 

「ずっと、そのまんまなんだろ」

 

「……そうよ」

 

「一人でか」

 

 青子は、答えなかった。

 

 忉利は、カップを手すりの上に置いた。

 

「おれがいなかったら、お前、一人で止まってたんだろ。周りがみんな歳取っていくのに、お前だけ、ずっと二十歳のまんまで。……何十年も、何百年も」

 

「…………」

 

「で、また、誰かのために無茶して。自分燃やして。止める奴もいねえで」

 

 忉利は、気だるげに、夜空を見上げた。

 

「――冗談じゃねえよ」

 

 青子が、顔を上げた。

 

 忉利は、夜空を見上げたまま、ぶっきらぼうに言った。

 

「お前が化け物になるなら、おれも一緒に化け物になった方が都合がいい」

 

 青子の目が、見開かれた。

 

「一人で化け物やってる奴の隣に、普通の人間がいたって、どうせ先に死ぬだけだろ。そしたら、お前、また泣きそうな顔すんだろ。……そんなの、見たくねえんだよ」

 

「…………」

 

「それに」

 

 忉利は、少しだけ、口の端を持ち上げた。

 

「歳取らねえなら、親父の味に追いつくまで、ずっと練習できるじゃねえか。何十年でも。……悪くねえだろ」

 

 青子は、何も言えなかった。

 

 ただ、唇を震わせて、忉利の横顔を見つめていた。

 

「それにな」

 

 忉利は、ようやく、青子の方を向いた。

 

 夜明け前の空の色が差した、痛みひとつない、両目で。

 

「有珠が言ってた。この目は、おれが心の底で望んでることを、勝手にやってるんだってな。……なら、これは、おれが望んだことだ。お前が勝手に取り上げたんじゃねえ。おれが、勝手に選んだんだ」

 

「……忉利」

 

「だから、謝んな」

 

 忉利は、青子の頭に、ぽん、と手を置いた。

 

「泣きそうな顔も、すんな。……それが、一番、見たくねえんだよ」

 

 青子は、しばらく、動かなかった。

 

 それから、うつむいたまま、小さく言った。

 

「……あんたの十年、見たって、言ったでしょ」

 

「……ああ」

 

「天井の線も。乱視だって、嘘ついてたのも。……小三の冬、おじさんに、言いかけてやめたのも」

 

「…………」

 

「なんで、言わなかったのよ。……私にも」

 

 忉利は、夜空を見上げた。

 

「言ったら、お前、泣きそうな顔すんだろ」

 

「……っ」

 

「今みてえに」

 

 青子は、しばらく、動かなかった。

 

 忉利の手の下で、うつむいたまま。

 

 それから、小さく、鼻をすすった。

 

「……バカじゃないの」

 

「知ってる」

 

「ほんとに、ほんとに、大バカよ、あんたは」

 

「知ってるって」

 

 青子は、顔を上げた。

 

 泣いてはいなかった。

 

 けれど、その目の縁が、赤く滲んでいた。

 

「……後悔しても、知らないわよ」

 

「しねえよ」

 

「百年後に、やっぱり普通に生きたかったって言っても、もう戻れないのよ」

 

「言わねえよ」

 

「二百年後でも?」

 

「しつけえな」

 

 青子は、ぐっと唇を結んだ。

 

 それから、何かを決めたように、ゆっくりと、息を吐いた。

 

「……わかったわ」

 

 青子は、忉利の手を、頭の上から、そっと下ろした。

 

 そして、その手を、両手で包み込んだ。

 

「なら、私も、覚悟を決める」

 

 夜風が、青子の長い髪を揺らした。

 

「あんたが、私の隣にいるって決めたなら。……私も、あんたを、ずっと隣に置いておく。百年でも、二百年でも。あんたが、嫌だって言っても」

 

「……言わねえって」

 

「言っても、離さないって言ってるの」

 

 青子は、忉利の手を、ぎゅっと握りしめた。

 

「共犯者、なんでしょ。……なら、最後まで、付き合ってもらうわよ」

 

 忉利は、しばらく、青子の顔を見つめていた。

 

 夜空の下で、真っ赤な顔をして、それでもまっすぐに自分を見上げている、幼馴染の顔を。

 

 それから、ふっと、目を逸らした。

 

「……ああ」

 

 ぶっきらぼうに、言う。

 

「最後まで、な」

 

 その耳の先が、夜目にもわかるほど、真っ赤だった。

 

 青子は、それに気づいて、少しだけ、笑った。

 

 泣き笑いのような顔で。

 

 それでも、ここひと月で、いちばん、いい顔で。

 

 二人は、しばらく、手を繋いだまま、黙って町の灯りを見下ろしていた。

 

 冷めた紅茶のカップが二つ、手すりの上で、並んでいた。

 

 ―――同じ頃。

 

 屋敷の一階の居間の窓辺で、有珠は、暖炉の火を見つめていた。

 

 膝の上に、開いたままの古い本。けれど、その目は、文字を追ってはいなかった。

 

「……久遠寺」

 

 居間の入り口で、声がした。

 

 草十郎だった。全身に包帯を巻いて、噛み砕かれた左腕を吊って、綿入れを羽織って、壁に手をつきながら、ゆっくりと歩いてくる。

 

「寝ていなさいと、言ったはずよ」

 

「眠れなかった。……二階の露台で、日景と蒼崎が、話していた」

 

「知っているわ」

 

「日景は、ここに住むのか。これからも」

 

「……ええ」

 

「そうか」

 

 草十郎は、暖炉の前の、もう一脚の椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。

 

「俺も、ここにいていいか」

 

 有珠は、ちらりと、草十郎を見た。

 

「あなたの薬は、もうすぐ完成するわ。飲めば、この数日のことを、すべて忘れられる。……普通の生活に、戻れるわ」

 

「そうか」

 

 草十郎は、少しだけ考えた。

 

「なら、飲まない」

 

「…………なぜ」

 

「ここの庭の手入れが、まだ終わっていない」

 

 有珠は、何も言わなかった。

 

 ただ、長いこと、草十郎の横顔を見つめていた。

 

「それに、忘れたら、日景の珈琲の味も、忘れる。……あれは、苦いが、後から、甘い」

 

「…………」

 

「忘れるのは、惜しい」

 

 有珠は、ふっと、目を伏せた。

 

 暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。

 

「……勝手にしなさい」

 

 小さな声だった。

 

「薬は、棚の奥にしまっておくわ。……使うかどうかは、その時に、決めればいい」

 

「ああ」

 

 草十郎は、静かに頷いた。

 

 止まり木の上で、羽の生え揃いかけたロビンが、こっそりと片目を開けた。

 

「……マイ天使、ちょっと嬉しそうッスね」

 

「ロビン」

 

「なんでもないッス!」

 

 ロビンは、慌てて翼の中に頭を突っ込んだ。

 

 有珠は、暖炉の火を見つめたまま、ほんのわずかに――本当にわずかに、唇の端を動かした。

 

 それが何だったのか、草十郎には、やっぱり、わからなかった。

 

 窓の外で、冬の星が、静かに瞬いていた。

 

 クリスマスまで、あと、三日だった。

次作品 ヒロイン候補 書いたはいいですが、橙子やアルクはどう作るつもりなんでしょうか…

  • シエル (月姫R アルクェイドルート)
  • アルクェイド(月姫R シエルルート?)
  • 蒼崎橙子 (空の境界)
  • 遠坂凛 (Heaven’s Feel)
  • ライダー (Heaven’s Feel)
  • ジャンヌ・ダルク (Apocrypha)
  • ジャンヌ・ダルク (史実+FGO)
  • 久遠寺有珠 (魔法使いの夜)
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