ですが、クリスマスのエピソードを書いて、本編を一旦完結させたいので少しずらしてます。
―――三咲の町の北に、山がある。
鏡野の丘の、さらに奥。杉と檜の深い山。町の人間がほとんど足を踏み入れない場所。
その山の中に、蒼崎の家がある。
町の子供だった頃、忉利はそれを知らなかった。青子の家は坂の下の、ごく普通の一軒家だった。ごく普通の父親と、ごく普通の母親がいて、ごく普通に、朝は牛乳を飲んでいた。
山の中にもう一つの家があることなど、誰も教えてくれなかった。
青子自身も、一度も口にしなかった。
◇
十二月二十二日。
夜のうちに雪が降った。
久遠寺邸の玄関の前で、青子は長靴の紐をきつく結び直していた。
「……本当に行くのか」
扉の脇で、忉利が訊いた。
右目の周りの血の痕は、もうきれいに消えていた。虹彩の縁に夜明け前の青を宿した目で、雪の積もった坂道を見下ろしている。
「行くわよ」
青子は立ち上がって、コートの襟を立てた。
「お祖父ちゃんに報告しないと。……私が何をしたか」
「報告してどうすんだ」
「どうもしないわ。……ただ、言っておかないといけないの。あの人はそういう人だから」
青子は、忉利の方をちらりと見た。
「それから、あんたを見せる」
「……おれを」
「そう。あんたの目を。……あの人が何て言うか、聞いておきたいの」
青子はそれだけ言った。
もう一つ、言わなかったことがあった。
玄関の扉が開いた。
草十郎が、綿入れの上に分厚い外套を羽織って出てきた。左腕はまだ三角巾で吊っている。
「準備はできたよ。行こう」
「……静希くん、あんたは留守番って言ったでしょ」
「山道なら、俺の方が慣れている」
「腕、まだ吊ってるじゃない」
「足は動くから大丈夫だ」
草十郎は平坦な顔で言った。
青子は何か言いかけて、やめた。
扉の奥の薄暗い玄関ホールに、有珠が立っていた。
黒い服。長い髪。白い顔。
三人の背中をじっと見ていた。
「……有珠」
青子が振り返った。
「夕方には戻るわ」
「そう」
有珠はそれだけ言った。
それから草十郎の方を見た。
「静希君」
「ああ」
「……帰ってきなさい」
草十郎は少しだけ首を傾げて、それから頷いた。
「帰ってくるよ。庭がまだ終わっていないからね」
有珠は何も言わなかった。
ただ、扉が閉まるまで玄関ホールに立っていた。
忉利は扉が閉まる寸前、目の奥の扉を少しだけ開いた。
有珠の線が見えた。
傷ひとつない、磨かれた石の上を滑る水のような線。
その線が、閉じかけた扉の隙間から、草十郎の背中の方へ細く、細く伸びていた。
いつもより少しだけ、強く。
まるで、行かせたくないものを、それでも行かせる時の手のように。
忉利は扉を閉じた。
見なかったことにした。
◇
山道は、雪で白く塞がっていた。
鏡野の丘を越えて杉林に入ると、道は、もう道ではなかった。木々の間の雪の窪みを辿っていくだけの、獣道。
草十郎が先を歩いた。
左腕を吊ったまま、雪の深さを足の裏で探るように。迷いのない足取りだった。
「……道、わかんのかよ」
「わかるよ。雪の下に人の踏んだ跡があるんだ。……古いけど、ちゃんとある」
草十郎は振り返らずに言った。
「蒼崎は、何度もここを歩いたんだろう」
「……小さい頃、ね」
青子は忉利の少し前を歩いていた。
「お祖父ちゃんのところに遊びに行く時。父さんに車で麓まで送ってもらって、そこからは一人で。……姉貴はあの家で育ったから、一緒に歩いたことはほとんどない」
白い息が、杉の枝の間に消えていく。
「あの家のこと、あんたには一回も話さなかったわね」
「……ああ」
「話せなかったのよ。話したら、全部話さなきゃいけなくなるから」
青子は前を向いたまま言った。
「魔術のこと。蒼崎のこと。……私が普通の女の子じゃなかったこと」
忉利は雪を踏みしめながら、青子の背中を見ていた。
小学校の帰り道。中学の校門。三咲高校の生徒会室。ずっと隣にいて、ずっと知らなかった。
「……お前、普通だったろ」
ぼそりと言った。
「小学校の時、理科室の窓、割ってたし」
「……蒸し返さないでよ」
「中学の時、テープ伸びるまで同じ曲聴いてたし」
「今も聴いてるわよ、悪い!?」
青子が振り返って、雪を一つかみ忉利に投げつけた。
忉利は避けなかった。
雪が顔の真ん中に当たって、崩れた。
草十郎が前で少しだけ足を止めて、振り返った。
「……山だと、雪を投げると獣が寄ってくると言われてたな」
「嘘でしょ」
「嘘だ」
草十郎は真顔で言って、また歩き出した。
青子は口を開けたまま、しばらく固まっていた。
それから忉利と顔を見合わせて、二人同時に吹き出した。
杉林に、久しぶりの笑い声が響いた。
◇
しばらく歩いてから、忉利が青子の背中に訊いた。
「……なあ。お前の爺さん、魔法使いなんだろ」
「そうよ」
「魔法って結局、何なんだ。……お前この前、今の時代の人間には届かない奇跡だって言ってたけど」
青子は少しのあいだ、雪を踏む音だけを返していた。
「……根源、って聞いたことある?」
「ねえよ」
「この世界のいちばん奥。全部のものがそこから始まって、そこに戻っていく場所。……魔術師はみんな、そこに辿り着きたくて、何百年も、何千年も家ごと積み重ねてるの」
「……辿り着いたらどうなんだよ」
「消えるわ」
青子はあっさりと言った。
「触れたら、その場で、消える。人間には大きすぎるから。……神様がいるとしたら、たぶんそこね」
「…………」
「魔法は、その根源に指一本だけ届いた人間のこと。……お祖父ちゃんはそうだった。だから、あの人はもう、身体がないの」
忉利は足を止めかけた。
「……身体が、ない?」
「あるのは声だけ。……行けばわかるわ」
青子は、それ以上言わなかった。
草十郎が前を歩きながら、ぽつりと言った。
「蒼崎」
「なに」
「その根源というのは、山の頂みたいなものだろうか」
「……どういう意味よ」
「登れば登った分だけ下が見える。でも、頂の上にはもう何もない。……村の年寄りがそう言っていたんだ。頂まで登った者は、山に帰ってこないって」
青子はしばらく、草十郎の背中を見ていた。
「……そうかもね」
小さな声だった。
「あんたの山の年寄り、たぶんお祖父ちゃんと気が合ったと思う」
◇
少し歩いてから、青子が前を行く草十郎の背中に訊いた。
「……ねえ、静希くん。あんたの山ってどんなところだったの」
草十郎はすぐには答えなかった。
雪の深さを足の裏で探りながら、何歩か歩いた。
「……人がよく死ぬところだよ」
平坦な声だった。
「冬は道で、夏は川で。獣にやられることもあった。……村の誰かが死ぬのは、珍しいことじゃなかったんだ。俺も小さい頃から、そういうものだと思っていた」
「…………」
「大きな獣が出ると、村の男が全員で山に入るんだ。俺も七つの時から連れていかれた。戻ってこない人もいた。……それも、そういうものだと思っていたよ」
草十郎は杉の枝から落ちかけた雪を、右手で払った。
「ある時、訊いたんだ。どうしてそういうものなのかって。……村の年寄りに」
「……それで?」
「追い出されたよ。山に疑う者はいらない、って」
青子は何も言えなかった。
忉利も黙って、草十郎の背中を見ていた。
左腕を吊ったまま、雪の中を迷いなく歩いていく背中。
旧校舎で、獣の顎に腕を噛ませたまま、心臓に拳を押し当てた背中。
「……でも、嫌いじゃないんだ」
草十郎は振り返らずに言った。
「今でも時々思い出すよ。冬の朝の山の匂いとか。……人が死ぬところだったけど、いいところでもあった」
それだけだった。
青子は長いこと、黙って歩いていた。
それから、小さく言った。
「……そう」
肯定もしなかった。否定もしなかった。
ただ、草十郎の背中との距離をほんの少しだけ詰めた。
◇
昼前、林が途切れた。
小さな谷の底に、古い家があった。
黒く煤けた板壁。茅葺きの屋根に、厚く雪が積もっている。縁側の硝子戸は雨戸で閉ざされたままだった。
誰も住んでいなかった。
「……両親は、今は別のところにいるの」
青子は雪に埋もれた庭の真ん中で、足を止めた。
「姉貴が出ていってから、この家、誰も使ってない。……お祖父ちゃんはこの奥」
家の裏手に細い道が続いていた。
杉の木立の間を谷の奥へ。
その突き当たりに、岩壁があった。
岩壁の裾に、黒い洞穴の口が開いていた。
人ひとりがやっと通れるくらいの、狭い口。周りの岩に古い注連縄が、雪をかぶって垂れ下がっている。
忉利は、目の奥の扉を開いた。
―――。
息を呑んだ。
線が、岩壁の中から噴き出していた。
旧校舎の結界のような、定規で引いた線ではなかった。もっと古くて、太くて、ゆっくりと脈打つような線。それが洞穴の口から、谷の外へ、山の外へ、三咲の町の方へ、何百本も、何千本も根のように伸びていた。
町を編み上げているあの網。
その根元だった。
「……ここが、網の真ん中か」
「そうよ」
青子は洞穴の口を見上げていた。
「蒼崎が何代もかけて、この町に張ってきた網。……その根っこが、ここ。お祖父ちゃんがここで、ずっと守ってきた」
青子は少しのあいだ黙っていた。
それからぽつりと言った。
「小さい頃、一回だけ、ここでお祖父ちゃんにお願いしたことがあるの」
「……何を」
「子猫を生き返らせてって」
忉利は青子の横顔を見た。
青子は忉利に、その話を一度もしていない。
けれど、忉利は知っていた。
暗闇の中で、青子の声が言ったからだ。
―――子猫の時に、駄目だって言われた。
「父さんの車のエンジンルームに、子猫が三匹潜り込んでたのよ。冬で暖かかったから。……私が気づかなくて、エンジンかけて」
青子の声は静かだった。
「死んじゃった。三匹とも。……それで私、この洞穴まで走ってきて、お祖父ちゃんに泣いて頼んだの。魔法使いなんでしょ、生き返らせてよって」
「…………」
「駄目だって言われたわ。……そういうことは、してはいけないって」
青子は、忉利の方を振り返らなかった。
「それから赤い影を見るようになった。……あんたが死んだ夜、私の肩に手を置いたやつ」
「…………見えてたのか」
「見えてたわ。ずっと、少し離れたところにいて。……あの夜、初めて私の隣まで来た」
青子は洞穴の口を見つめた。
「その私が、二週間前に何をしたか。……ちゃんと言いに来ないと」
忉利は何も言えなかった。
草十郎が洞穴の脇の岩に、雪を払って腰を下ろした。
「俺はここで待っているよ」
「……静希くん」
「蒼崎の家の話だろう。俺は外の人間だから」
草十郎は吊った左腕を、右手で支え直した。
「行ってくるといい」
◇
洞穴の中は暗かった。
けれど、寒くはなかった。
岩の壁が、かすかに温かかった。地の底から、何かが静かに脈打っているように。
狭い通路を少し進むと、広い空洞に出た。
天井は見えなかった。壁も見えなかった。ただ、真っ暗な空間の真ん中に、ぽつんと小さな灯りが一つ浮かんでいた。蝋燭の火のような、青白い小さな光。
その光の周りに、何もなかった。
机も、椅子も、本も、人も。
何も。
「――――お祖父ちゃん」
青子が灯りに向かって言った。
しばらく何も起きなかった。
それから。
声が、した。
どこから聞こえてくるのか、わからなかった。洞穴の壁から。天井から。足元の岩から。いや、空気そのものから。
低くて、乾いていて、少しだけ笑っているような老人の声。
『――青子か。よく来た。……何年ぶりだ』
「三年ぶり」
『そうか。……それで。何をした』
青子の肩がぴくりと動いた。
「……もう知ってるんでしょ」
『知っている。この山の中にいても、あの網の震えはここまで届く。……だが、お前の口から聞きたい』
青子は拳を握った。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「使ったわ。……第五魔法を」
『何のために』
「こいつを生き返らせるために」
青子は隣の忉利を顎で示した。
「旧校舎で、姉貴の獣に胸を貫かれて。……死んだの。心臓が止まって」
『それで』
「死を、捨ててきた。……世界の一番最後の場所に。誰にも拾えないところに」
洞穴の中が、しんと静まり返った。
青白い灯りがゆらりと揺れた。
『……子猫の時は駄目だと言った』
「言ったわ」
『それを覚えていて、やったのか』
「覚えていて、やったのよ」
青子は顔を上げた。
「後悔してない。……一回も」
長い、長い沈黙があった。
それから、声が笑った。
乾いた短い笑い声だった。
『……重い借りを作ったな』
忉利は瞬きをした。
借り、という言葉の意味がわからなかった。
青子は何も言わなかった。
ただ、拳を握った手に力を込めていた。
『それで。……誰の時間を借りた』
「……こいつの。十年」
『死んだ本人の十年をか』
「そうよ。……借りて、返したわ」
『返したか』
青白い灯りが忉利の方に、ほんの少しだけ揺れた。
『……少し、混ざったな』
青子の肩がぴくりと動いた。
声はそれきり、その話をやめた。
『まあ、いい。……お前が選んだことだ。魔法を継いだのも、使ったのもお前だ。私が口を出すことではない』
「…………」
『橙子と争ったのも、お前が選んだことではないがな。……あれは星の巡りだ。姉と妹が、一つのものを挟んで向かい合う。私が仕組んだことではない。ただ、そうなるようになっていた』
青子は唇を噛んだ。
「……お祖父ちゃんが私を選んだから」
『選んだのは、私だ。争ったのは、星だ。……その二つを混ぜるな』
青子は答えなかった。
それからしばらく黙って、洞穴の入り口の方を振り返った。
外に草十郎がいる。
「……お祖父ちゃん。もう一つ頼みがあるの」
『言ってみなさい』
「外に静希草十郎がいるわ。……あの子の、この一ヶ月の記憶を消してほしいの」
忉利は青子の横顔を見た。
初めて聞く話だった。
「あの子は、普通の人間よ。私たちのことを見て、巻き込まれて、獣に腕を噛み砕かれた。……有珠の薬は、あの子は飲まないって言った。私の暗示はあの子には通らない。……でも、お祖父ちゃんなら」
『断る』
即答だった。
「――なんでよ」
『面倒な記憶消しは、お前自身がやることだ。お前が巻き込んだのなら、お前が片付けろ。私は手を貸さない』
「私にはできないって、言ってるでしょ!」
『できないのなら、それが答えだ』
声は静かだった。
『消せぬものは、消せぬ。……あの少年は、お前の暗示も、あの魔女の薬も通さない。それは、あの少年がそういうふうにできているからだ。お前がどうこうできる話ではない』
青子は拳を握りしめた。
『それに、青子』
声が少しだけ和らいだ。
『お前は、過去を捨てていない。捨てられない子だ。……捨てたと言い張って、その過去を美しくするために生きている。子猫のことも、姉のことも、この店の――』
声が一瞬、途切れた。
『……喫茶店の子のことも』
青子の肩が震えた。
『そのお前が、他人の一ヶ月を消してやろうというのは、筋が通らん』
青子は、長いこと黙っていた。
それから小さく息を吐いた。
「……わかったわよ」
『わかればいい。……さて』
青白い灯りが忉利の方に、少しだけ揺れた。
『そこの少年』
◇
「……おれか」
『お前だ。……青子。少し外していなさい』
「え」
『この少年と二人で話す』
青子は忉利の顔を見た。
それから灯りを見た。
少しのあいだ迷っていた。
「……わかったわ」
青子は忉利の袖を、一度だけぎゅっと掴んだ。
「外にいるから」
足音が遠ざかっていった。
洞穴の中に、忉利と青白い灯りだけが残った。
『――少年。私を見てみなさい』
「……見てるけど」
『お前の目で、だ』
忉利は少しのあいだ黙っていた。
それから、目の奥の扉を開いた。
全部。
線が浮かび上がった。
灯りの周りに、何もなかった。
人の身体の線がなかった。骨も、肉も、皮膚も。線で編まれた人の形が、どこにもなかった。
代わりに。
線だけが、あった。
太い、古い、ゆっくりと脈打つ線が何千本も、洞穴の壁から、床から、天井から、この一点に集まって結ばれていた。三咲の町を編み上げている網のすべての線が、ここで一つに束ねられていた。
その結び目そのものが。
声を出していた。
「……あんた、ほんとに身体、ねえのか」
『ない。とうの昔に失くした。……この山の外の、教会の男が斬った。私が頼んでな』
「…………」
『私はもう、人ではない。この網の結び目だ。……網が残っている限り、私もここにいる。そういうものだ』
声は平然と言った。
『そして、私という現象がここに残っている限り、蒼崎の正統な跡取りは、生まれん。青子も橙子も、跡取りではない。……私の続きだ』
「……青子に、それ言ったのか」
『言っておらん。……言えば、あの子はまた、それを美しくしようとする』
忉利は何も言わなかった。
『そんなことよりも』
声が少しだけ近づいた気がした。
『お前の目だ』
忉利は黙っていた。
『網の外から、網を切った目。……この町に蒼崎の網が張られてから、何百年も経つ。その間、外から一本でも切った者は、一人もいなかった。それを、お前は回路もなしに切った』
「……切っただけだ。邪魔だったから」
『そうだろう。だから、恐ろしい』
声は笑っていなかった。
『魔術師は切るために、何年も何十年も学ぶ。何を切れば何が起きるか、知った上で切る。……お前は知らずに切る。邪魔だから切る。それは、子供が刃物を振り回すのと同じだ』
忉利の拳が握られた。
『――だが』
声が少しだけ変わった。
『お前は切らなかったこともある。……旧校舎で。あの女の槍の線が見えていて、切らなかった』
忉利の息が止まった。
『痛みが怖かったから、とあの女は言ったそうだな。……違うだろう』
「…………」
『切ったら何が起きるか、わからなかったからだ。……あの部屋の全部が、あの女の線で編まれていた。一本切ればどこが崩れるか、わからない。その中に青子がいた』
忉利は答えなかった。
答えられなかった。
あの時、自分が何を考えていたのか、自分でもはっきりとは覚えていない。ただ、切れば青子ごと何かが崩れる気がして、指が――目が、動かなかった。
『それでいい』
声は言った。
『その目は、切るための目ではない。……何を切らないかを決めるための目だ。それを忘れるな』
青白い灯りがゆらりと揺れた。
『それから、もう一つ』
「……なんだ」
『お前は一度、死んでいる』
「……ああ」
『その死は今、遠くにある。……青子が放り投げた。世界の一番最後の岸辺に』
忉利は胸の真ん中に手を当てた。
あの夜、暗闇の中で、線の形になって引き抜かれていった、自分の死。
『あれは消えたのではない。置いてあるだけだ。……いつか、お前の目にも見える日が来るだろう。それを見た時、お前は青子に何と言う』
忉利は少しのあいだ考えた。
それからぼそりと言った。
「……知らねえよ、そんなの。見てから考える」
声が笑った。
今度は少しだけ、温かい笑い方だった。
『いいだろう。……死者に用はない。だが、お前はまだ、死者ではないな』
「……そういうこと、言うのかよ」
『言う。私はそういう者だ』
灯りが少しだけ揺れた。
『外の山の少年とは、正反対だ』
「……静希か」
『あれは、十郎という大勢の名前を背負っているくせに、何ものからも一人きりの子だ。全部を受け入れる。怒らず、恨まず、欲しがらず。……それは、死を最初から受け入れているからだ。珍しい。だが、先に続くものがない』
忉利は何も言わなかった。
『お前は逆だ。死を遠くに置いて、先に続こうとしている。……しかも、一人ではなく』
「…………」
『あの子はお前の十年を通った。お前が十年、何を見て、何を見ないふりをして、誰を見ていたか。……全部、見たぞ』
忉利の耳の先が、洞穴の暗がりの中で赤くなった。
「……知ってる。言われた」
『そうか』
声が今度こそ、はっきりと笑った。
『返ってきたお前の十年には、あの子の時間が少し混ざっている。……一度撚り合わせた糸は、元の一本には戻らん。これから先、お前たちの時間は少しずつ、同じ撚り方をしていくだろう』
「……それ、悪いことなのか」
『良いか悪いかは、お前たちが決めることだ』
灯りがゆらりと、忉利の目の前まで近づいた。
『お前の目の色も変わったな。あの子の魔法の色だ。……あの子はお前に、ずいぶんなものを置いていった』
「…………」
『大事にしろとは言わん。……ただ、見ろ。見て、決めろ。それがその目の使い方だ』
灯りが、すうっと小さくなった。
『行きなさい。……青子が外で寒がっている』
◇
洞穴を出ると、雪がまた降り始めていた。
青子は洞穴の口の脇で、腕を組んで足踏みをしていた。草十郎は岩の上に座ったまま、雪をかぶってじっと谷の方を見ていた。
「――遅い」
青子が振り返った。
「何話してたのよ、二十分も」
「……いろいろ言われた」
「何を」
「目のこととか。……あと、おれは死者じゃねえって」
青子の動きが止まった。
「……そう言ったの?」
「言った」
「……ほかには」
忉利は少しだけ黙った。
「お前が、おれの十年、全部見たって」
青子の顔が雪の中で、見る見るうちに赤くなった。
「――っ、お、お祖父ちゃん、そんなことあんたに言ったの!?」
「言った」
「あの人……!」
青子は洞穴の暗がりを睨みつけた。
それから、ふいと顔を背けた。
「……そう。ならいいわ」
全然よくなさそうな声だった。
忉利は雪を踏んで、青子の隣に立った。
「……静希の記憶、消す気だったのか」
青子の肩が強張った。
「聞こえてたぞ。あの中、声、響くんだよ」
青子は長いこと、雪の上を見ていた。
「……巻き込んだの、私だもの」
小さな声だった。
「あの子は、普通の人間よ。山から下りてきて、バイトして、皿洗って、それだけの子だったのに。……私たちのせいで獣に腕を噛み砕かれて」
「…………」
「元に戻すのが、筋でしょ」
「あいつが飲まないって言ったんだろ。薬」
「……言ったわ」
「なら、それが答えだって爺さんも言ってたじゃねえか」
青子は何も言い返さなかった。
岩の上で、草十郎が立ち上がった。
雪を払う。
「蒼崎」
「……なに」
「俺の一ヶ月を消してくれと頼んだんだろう」
青子は息を呑んだ。
草十郎は責める顔をしていなかった。ただ、事実を確かめる顔だった。
「……聞こえてたの」
「洞穴の中の声は、外までよく響くんだ」
「……ごめん」
「謝らなくていいよ。……消せなかったんだろう?」
「消せなかったわ」
「なら、よかった」
草十郎は少しだけ口の端を持ち上げた。
「消えたら、日景の珈琲の味も消えてしまう。……あれは惜しいからね」
青子は何も言えなかった。
草十郎は坂道の方へ歩き出した。
雪の中を、左腕を吊ったまま迷いのない足取りで。
その背中を、青子はしばらく見ていた。
それから、小さく鼻をすすった。
「……ほんとに、どいつもこいつも」
「バカばっかりか」
「そうよ」
青子は忉利の脛を軽く蹴った。
それから二人で、草十郎の背中を追った。
◇
杉林の中で、忉利は青子の背中に声をかけた。
「……なあ」
「なに」
「借り、って何だ」
青子の足が一瞬、止まった。
振り返らなかった。
「……お祖父ちゃんが言ったやつ?」
「ああ。重い借りを作ったって。……おれの十年は返したんだろ。あれとは別の話か」
青子は、また歩き出した。
少しのあいだ答えなかった。
「……魔法使いの借金の話よ」
「借金?」
「あんたには、関係ないわ」
青子は前を向いたまま言った。
「私が、勝手に作った借金。……私が、勝手に返すの」
忉利は、それ以上訊かなかった。
訊いても、答えないとわかっていたから。
ただ、雪を踏む青子の背中を見ていた。
目の奥の扉は閉じたままにしておいた。
見れば、たぶん何かが見える。青子の線のどこかに。
けれど、あの声は言った。見て、決めろ、と。
今日は見ないと、決めた。
杉の枝から雪の塊が、ぼたりと落ちた。
◇
夕方、坂の上の洋館に明かりが灯っていた。
三人が坂を上っていくと、玄関の扉が内側から開いた。
有珠が立っていた。
朝、見送った時と同じ場所に。同じ顔で。
「……遅かったわね」
「雪のせいよ」
青子が長靴の雪を、玄関の石段で落とした。
有珠は草十郎の吊った左腕を、ちらりと見た。それからその顔を見た。
「……あなた」
「ああ」
「……消されなかったのね」
草十郎は少しだけ首を傾げた。
それから頷いた。
「消せなかったそうだ」
「そう」
有珠はそれだけ言った。
それから、扉の内側に身を引いた。
その白い指先が扉の縁を、ほんの一瞬だけ強く握ったのを、忉利は見た。
居間の暖炉には、火が赤々と燃えていた。
朝からずっと、絶やさずにいたらしかった。
その前に、四つの椅子が並べてあった。
忉利は台所に向かった。
湯を沸かす。
棚から有珠の茶葉を取り出す。ポットを温める。
窓の外で、雪が静かに降り続けていた。
目の奥の扉を、少しだけ開いた。
線が見えた。
居間の方から四本の線。
草十郎の。有珠の。青子の。それから、自分の。
その四本のずっと向こう。北の山の深い谷の奥で。
何千本もの古い線を束ねた、一つの結び目が。
静かに、脈打っていた。
――何を切らないかを決めるための目だ。
忉利は、扉を閉じた。
沸騰した湯をポットに注ぐ。
砂時計をひっくり返した。
クリスマスまで、あと二日だった。
シエルの小説満足度調査
-
めちゃよかった
-
よかった
-
そこそこ
-
びみょう