―――誰?
声を放つと同時に、青子は地を蹴っていた。
指先の光は消さない。砕けた人形の破片を踏み越え、広場を横切り、木立の中へ。枝を腕で払いのける。冷たい樹皮の匂い。霜の降りかけた落ち葉が、靴の下でしゃりしゃりと鳴る。
十数歩。
そこで足を止めた。
誰もいない。
木立の奥は、しんと静まり返っていた。風が枝を揺らす音と、遠くの国道を走るトラックの唸りだけが聞こえる。
青子は足元に目を落とした。
霜の降りた黒い土に、靴の跡がひとつ、ふたつ。それが公園の裏手の柵の方へとまっすぐに続いている。
慌てて逃げた足取りではなかった。歩幅は一定で、乱れがない。踏み込みも浅い。まるで散歩の続きでもするかのように。
「……なによ、これ」
跡を追って柵まで走る。錆びた鉄柵の向こうは、寝静まった住宅街だった。碁盤の目のような路地が、街灯の下で四方に延びている。
どの道にも、もう人影はない。
青子は、柵を握りしめたまま、しばらくそこに立っていた。
吐く息が白い。握った鉄が手袋越しにも痛いほど冷たい。
背後で枯れ葉を踏む音がした。
振り返る。
黒い外套の少女が、木立の間を音もなく歩いてきていた。肩の上で青い駒鳥が、羽毛を膨らませている。
「……有珠」
「見ていたわ」
有珠は、青子の隣まで来て、柵の向こうの住宅街を見た。
「丘の上から。……あの人形たちが、あなたの真上から落ちてきたところまで」
「…………」
「悪くなかったわ。額の裏の糸を、二体目で見つけたのは」
褒めているのか、そうでないのかわからない声だった。
青子は答えなかった。
右手の震えはもう止まっていた。
「それより」
有珠は、足元の靴跡を見下ろした。
「……わたしの結界を、歩いて抜けた者がいる」
「そうよ。木の陰に、いたの。……足跡も、これ」
「見ていたわ。背の高い、痩せた子ね。年は、あなたと同じくらい。……最初はただ、公園を横切っているだけに見えた」
有珠の目が細められた。
「魔術師の足ではないわ。魔力の匂いも、しなかった。……人払いの結界は、人の無意識に働きかけるものよ。無意識を持たない人間なんて、いない」
「でも、いたじゃない」
「ええ。……だから、わからないの」
有珠はそれきり黙った。
広場に戻ると、人形の残骸はもう、半分以上が崩れていた。白い陶器のような破片が、端から細かな砂になって夜風にさらわれていく。
いつもと同じだった。
この一ヶ月、どれだけ壊しても、朝までにはひとつの手がかりも残らない。
「……ほんと、いい性格してるわね」
顔も知らない相手に向かって毒づいて、青子は最後の砂粒が風に消えるまで、それを睨みつけていた。
◇
―――同じ頃。
公園から二本離れた路地を、静希草十郎は、いつもと変わらない歩幅で歩いていた。
呼ばれたのはわかっていた。
けれど、仕事中の人間に声をかけるものではない。山でも、狩りの最中の者には決して近づかなかった。獲物を追っている人間の邪魔をすれば、自分が獲物と間違えられても文句は言えないからだ。
だから、音を立てないように、その場を離れた。
枝を踏んだのは失敗だった、と草十郎は思う。犬の声くらいで足を乱すとは、自分もまだまだだ。
見たことはとりあえず黙っておこう。
そう決めて、草十郎は冷えた手をポケットに入れた。
国道沿いの明るい建物の前を通りかかった。
硝子張りの大きな店。中から耳を塞ぎたくなるほどの音が漏れてくる。銀色の玉が何百も、何千も、硝子の箱の中を転がり落ちていく音。
パチンコ屋、というものだと芳助に教わった。玉を転がして、お金を増やす場所らしい。
草十郎には仕組みがわからない。
硝子の扉の向こうに何気なく目をやった。
その一番手前の台の前に、女が一人、座っていた。
長い、赤みがかった髪。細い縁の眼鏡。煙草を指に挟んで、銀色の玉が転がり落ちるのを、心底楽しそうに眺めている。
女は笑っていた。
柔らかく。上品に。まるで暖炉の前で子供に絵本を読んでやる母親のように。
草十郎の足が止まった。
自分でもなぜ止まったのか、わからなかった。
背筋を冷たいものが、下から上へ、ゆっくりと這い上がっていく。首の古傷がじん、と熱を持つ。
山で、一度だけ味わったことのある感覚だった。
冬の夜、小屋の外の暗闇に、何かがいるとわかった時の。姿は見えない。音もしない。ただそこにいる何かが自分よりもずっと、ずっと大きな獣だと、身体の方が先に知っている時の。
女はこちらを見なかった。
ただ、煙草の煙をゆっくりと吐き出した。
草十郎は扉から目を逸らした。
それから、来た時より少しだけ速い歩幅で、国道沿いの道をアパートの方へ歩いていった。
なぜ怖かったのかは、最後までわからなかった。
◇
青子が屋敷に戻ったのは、午前一時を回った頃だった。
玄関の扉を開けると、居間にはまだ明かりが灯っていた。
暖炉の火は熾火になり、部屋の空気は少し冷えている。ソファの上で有珠が、青子より先に戻って、まったく同じ姿勢で本を開いていた。
開いている頁まで同じだった。
「……先に寝ててって、言ったのに」
「本を読んでいただけよ」
有珠は顔を上げない。青子はそれ以上は何も言わなかった。
コートを脱ぎもせずに暖炉の前に立つ。熾火の赤い光が、青子の横顔を下から照らした。
「見られた」
ページをめくりかけていた有珠の指が、止まった。
「……公園で、言ったでしょう。見ていたと」
「わかってる。でも、確認したいの。……ただの人間よね、あれ」
「靴底のすり減った、安物の運動靴。歩き方は素人ではなかったけれど、魔術の匂いはまるでしなかった。……ええ。ただの人間よ、たぶん」
「なら、なおさらね」
有珠はゆっくりと本を閉じた。
その目が、初めて青子を見た。硝子玉のように澄んでいて、何の感情も浮かんでいない――ように見える。けれど青子は知っている。この同居人がこういう目をするときは、腹の底で何かが静かに煮えているのだ。
「ただの人間が、わたしたちを見た。それが何を意味するか、あなたにもわかっているでしょう」
「……まだ、誰かもわかってないのよ」
「わかったら、の話よ」
窓辺で何かがばさりと羽ばたいた。
鳥籠の中の駒鳥が、けたたましく何かを喚き立てる。有珠は一瞥もくれずに、「黙りなさい」とだけ言った。駒鳥はぴたりと静かになった。
「青子」
「なに」
「その人間を見つけたら、わたしに教えて」
それは頼みではなかった。
青子は答えずに、コートの襟を握りしめた。
熾火がぱちりと小さく爆ぜた。
◇
翌朝。
三咲高校の昇降口で、忉利は奇妙な光景に出くわした。
二年C組の下駄箱の前に、生徒会長がしゃがみ込んでいる。
蒼崎青子は、誰かの運動靴を片方手に取り、その靴底をじっと覗き込んでいた。真剣そのものの横顔。周りを通り過ぎていく生徒たちが、遠巻きに不思議そうな目を向けている。
「……何やってんだ、お前」
「ひゃっ!?」
青子は文字どおり飛び上がった。手から運動靴が落ちて、すのこの上で間抜けな音を立てる。
「な、なんでもないわよ! 風紀の抜き打ち検査!」
「靴の?」
「靴の!」
「靴底の?」
「く、靴底の! 最近、泥だらけのまま校舎に上がる不届き者が多いのよ!」
苦しい。あまりにも苦しい。
忉利は落ちた運動靴に目をやった。
すり減って踵の潰れた、白い運動靴。内側にマジックで小さく名前が書いてある。
静希。
靴底の溝には、乾いた赤土がこびりついていた。この辺りの舗装された道では、まず付かない色の土だ。
青子は、素早くその靴を下駄箱に戻した。
立ち上がる。スカートの埃を払う。その一連の動作の間、青子は一度も忉利の顔を見なかった。
「……じゃ、私、職員室寄るから」
「青子」
「なによ」
「お前、昨日ちゃんと帰ったのか」
青子の背中が一瞬だけ強張った。
「帰ったわよ。あんたに言われたとおり、ちゃんと」
そして振り返らずに廊下の奥へ消えていった。
語尾は切れていなかった。
だから、嘘ではないのだろう。帰ったことは、きっと本当なのだ。
ただ、その前に何をしていたのかを言わなかっただけで。
◇
昼休みの二年C組に、鳶丸が顔を出したのは、弁当を広げたばかりの頃だった。
「草の字。お前、昨日の夜、東の公園の辺り、歩いてただろ」
入り口に寄りかかったまま、鳶丸は言った。
「十一時前くらいだ。俺がバイクで国道通った時、公園の裏の路地から出てきた。……あんな時間に何してんだ、お前」
教室の空気が、少しだけ止まった。
握り飯を口に運びかけていた草十郎の手が、途中で止まる。
それから草十郎は律儀に答えた。
「おばあさんの家からアパートに帰る途中だったんだ。公園を突っ切ると近道になるから」
「……ふうん」
「殿下も、夜中にバイクで国道走ってたんすか。それ、校則的にどうなんすか」
芳助が余計なことを言った。
「うるせえ。理事長の息子の特権だ」
「ひでえ」
鳶丸はそれきり、興味を失ったように背を向けて出ていった。
けれど。
教室の前の扉のすぐ外の廊下で。
書類の束を抱えて職員室から戻ってきていた生徒会長が、その会話を、最初から最後まで聞いていたことを、教室の中の誰も知らなかった。
青子は廊下の壁に背中を預けた。
東の公園。十一時前。裏の路地。
赤土のついた運動靴。
――静希、草十郎。
青子は書類の束を胸に抱きしめた。
最悪だった。よりにもよって、自分が面倒を見ると決めた転入生。
◇
噂が教室を駆け巡ったのは、それから十分と経たない頃だった。
「おいおいおい、聞いたか日景!」
芳助が、廊下から教室に飛び込んでくるなり、忉利の机を両手で叩いた。
「会長が! 静希を! 屋上に呼び出した!」
「……は?」
「さっき廊下で! 『静希くん、ちょっといい?』って! あの会長が! くん付けで! 二人っきりで屋上だぞ! これはもう告白だろ! 告白以外に何があるんだよ!」
「アホか」
低い声が芳助の後頭部を小突いた。
まだ廊下にいたらしい鳶丸が、また教室の入り口に寄りかかっていた。
「あの女が告白なんざするタマかよ。どうせバイトの件だろ。草の字の申請書、数が合わねえって金鹿がぼやいてたからな」
「で、でも殿下、屋上っすよ? わざわざ屋上っすよ?」
「職員室で話せねえ話もあんだろ」
鳶丸はそう言いながら、ちらりと忉利を見た。
刺々しい目つきの奥に、珍しく、からかうような色はなかった。
「……日景」
「なんだよ」
「蒼崎の奴、最近なんか抱え込んでんぞ。ありゃあ生徒会の仕事なんかじゃねえ」
忉利は答えなかった。
「俺が口出すことじゃねえがな。お前が一番よくわかってんだろ」
鳶丸はそれだけ言うと、ひらりと手を振ってA組の方へ戻っていった。
芳助がまだ何か騒いでいる。
忉利は、しばらく自分の机の木目を眺めていた。
それから黙って席を立った。
◇
屋上には冬の風が吹き荒れていた。
フェンスの向こうに三咲の町が広がっている。灰色の屋根の連なり。駅前のビル。その向こうの丘と、丘の上の黒い森。
その景色を背にして、蒼崎青子は静希草十郎と向かい合っていた。
「静希くん」
「ああ」
「昨日の夜、十一時頃。どこにいた?」
「おばあさんの家からアパートに帰る途中だった。……昼に鳶丸にも同じことを訊かれたよ」
即答だった。
青子は小さく息を吸った。
知っていた。草十郎のバイトの許可申請に判子を押したのは、他でもない自分なのだから。まっどべあ。そして、町の東の外れに住む老婦人の家。そこから彼のアパートまで、最短の道を地図の上でなぞれば――ちょうど、あの公園の真ん中を通る。
「……公園、通った?」
「ああ。近道だから」
「――何か、見た?」
草十郎は少しだけ考えた。
嘘をつくかどうかを考えているのではなかった。どう言えば正確に伝わるかを、考えている顔だった。
「見た」
「…………」
「蒼崎が白い人形みたいなものを壊していた。手から青い光を出して」
淡々と。まるで今朝の天気でも報告するかのように。
青子は目を閉じた。
「驚いた」
草十郎は続けた。
「山にはああいうことができる人はいなかったけど、ここは町だからね。そういうこともあるんだろう」
「……は?」
「心配しなくていい。見たことは誰にも言わないよ。仕事の邪魔をするつもりもない」
「し、仕事って……」
「夜にも働いているって言っていただろう? あれが蒼崎の仕事なんだな」
青子は、しばらく口を開けたまま、目の前の少年を見つめていた。
怯えていない。問い詰めてもこない。気味悪がってすらいない。ただ、「そういうものだ」とあっさり受け入れている。
この男は本当に、何もわかっていない。
自分がどれほど危ういものを見てしまったのかを。
魔術師の世界には、たった一つの、絶対の決まりがある。
神秘は、隠されなければならない。
見られてはならない。知られてはならない。知ってしまった者は、忘れさせるか、それができないのなら――。
その先を、青子は三年前に祖父から叩き込まれた。
あの洞穴の暗闇の中で。子猫を生き返らせてくれと泣いた場所で。
「……そういう問題じゃないのよ、静希くん」
青子は一歩、草十郎に近づいた。
右手を上げる。人差し指を彼の眉間に向ける。
「ちょっと、じっとしてて」
「ああ」
素直に、草十郎は動かなかった。
青子は、自分の中の回路に、ほんの少しだけ熱を通した。
昼日中の屋上だ。派手なことはできない。けれど、一人の人間の一晩の記憶に、薄い蓋をかぶせるくらいなら――
記憶に触れる術は、繊細だ。相手の意識のいちばん柔らかい場所に、細い糸を通す。糸の先にこちらの言葉を結びつける。それを、相手が自分で思い出したことのように、そっと置いてくる。
指先が、ごくかすかに青く滲む。
「昨日の夜、あなたは公園を通らなかった」
言葉に力を乗せる。
耳ではなく、意識の底に直接落としていく声。
「まっすぐ家に帰って、すぐに眠った。何も見ていない。何も聞いていない。――いいわね?」
草十郎は瞬きをした。
一度。
二度。
「……蒼崎」
「なに」
「俺は、公園を通ったぞ」
青子の指先から光が消えた。
「…………嘘でしょ」
「嘘はついていない」
草十郎は不思議そうに首を傾げた。
「蒼崎、今、何かしたのか。額がむずむずした」
青子は答えられなかった。
糸が、通らなかった。
相手の意識の柔らかい場所。そこに糸を通すはずだった。けれど、そんな場所は、どこにもなかった。この男の中には、糸を通すための隙間が、最初から一つもない。
まっさらだった。
白紙のように。
手を下ろす。一歩、後ずさる。冬の風が束ねていない長い髪を乱暴に巻き上げた。
人払いが効かなかった。
暗示も効かない。
―――この男は、なんなの。
予鈴が鳴った。
青子は、はっと我に返った。
「……わかった。今のは、忘れて。……って言っても、無駄なのよね、あなたは」
「すまない」
「謝らないでよ。調子狂うから」
青子は踵を返し、屋上の扉に向かいかけて――足を止めた。
振り返らずに言う。
「このこと、本当に誰にも言わないで」
「ああ」
「……忉利にも」
草十郎は少しだけ間を置いてから、頷いた。
「約束する」
◇
―――その扉のすぐ向こう側で。
日景忉利は、階段の踊り場の壁に背中を押しつけて、右目を押さえていた。
扉の小さな磨り硝子越しに、見えたのは一瞬だった。
青子が、草十郎の顔に指を向けていた。ただそれだけの光景。声は風の音にかき消されて聞こえなかった。
けれど、その瞬間。
忉利の右目は見てしまった。
屋上の空気の中から、無数の細い黒い線が、青子の指先へと吸い寄せられていくのを。まるで糸巻きに糸が巻き取られるように、ぐるぐると渦を巻いて集まり、細い一本の束になって草十郎の額へと伸びていき――
そこで、ぷつりと。
すべての線がほどけるように弾けて散った。
眼球の奥で、何かが焼けた。
熱い。痛い。目の裏側に焼けた鉄の棒を押し当てられたような。視界が一瞬、真っ白に飛んで、涙が勝手に溢れてくる。
「……っ、は……」
膝が震える。息が詰まる。
こめかみの奥で、細い血管が一本、弾けた気がした。
なんだ。
なんなんだ、今のは。
乱視であんなものが見えるのか。疲れ目でこんなに痛むのか。
わからない。何もわからない。わかるのは、ただ――
あの線は青子の指に集まっていた、ということだけだ。
扉の向こうで足音が近づいてくる。
忉利は袖で乱暴に目元を拭った。
扉が開いた。
「――忉利?」
青子が目を丸くしていた。
「な、なにしてんのよ、こんなとこで」
「……こっちの台詞だ」
声が、自分でも驚くほど低くなった。
「静希と、何話してた」
青子の顔から表情が消えた。
ほんの一瞬。けれど、忉利が十年以上見てきた中で一度も見たことのない種類の、硬い無表情だった。
「生徒会の話よ」
「屋上でか」
「……あんたには、関係ない」
ぴしゃりと。
扉を閉めるような声だった。
青子は、忉利の横をすり抜けて、階段を駆け下りていった。
一度も振り返らなかった。
忉利は、その足音が消えるまで、踊り場に立ち尽くしていた。
右目の奥に、まだ鈍い熱が残っている。
「……そうかよ」
誰もいない階段に呟きだけが落ちた。
遅れて屋上から草十郎が下りてきた。
目元の赤い忉利を見て、少しだけ首を傾げる。
「日景。泣いていたのか」
「泣いてねえよ。目にゴミが入っただけだ」
「そうか」
草十郎はそれ以上は訊かなかった。
「……静希。青子と、何話してた」
「蒼崎と約束したんだ。だから言えない」
迷いのない声だった。
忉利は、しばらくその顔を見つめてから、長い溜息をついた。
「……お前、そういうとこ律儀だよな」
「そうか?」
「褒めてねえよ」
◇
その日の夕方。
Cafe HIKAGEのドアベルが鳴ったのは、六時を少し過ぎた頃だった。
「いらっしゃいま――」
カウンターの内側で皿を拭いていた晴華が、途中で言葉を失った。
入り口に制服姿の蒼崎青子が立っていた。
少しだけ気まずそうにコートの前を掻き合わせて。
「……こんばんは、晴華ちゃん」
「青子ちゃん!!」
晴華は皿を放り出す勢いでカウンターを飛び出し、青子に抱きついた。
「青子ちゃんだ! ほんとに青子ちゃんだ! もう、ずっと来ないから、お兄ちゃんと絶交したのかと思ったよ!」
「し、してないわよ、絶交なんて。……ちょっと、苦しいってば」
口ではそう言いながら、青子は晴華の頭をぽんぽんと撫でた。その手つきは、昔と少しも変わっていなかった。
奥のテーブルを片付けていた忉利は、手を止めて、その光景を見ていた。
昼間のことが、喉の奥に引っかかっている。
けれど、それを口に出すより先にカウンターの中から父の声がした。
「いらっしゃい」
「……ご無沙汰してます、おじさん」
青子はぺこりと頭を下げ、カウンターのいちばん端の席に座った。
小さい頃からずっとそこが青子の指定席だった。
父は、黙って棚から青子のためのブレンドの缶を取り出し、ミルに豆を入れかけて――
「あ、おじさん」
青子が少しだけ申し訳なさそうに声をかけた。
「今日は、その……紅茶って、あります?」
ミルを回す父の手が止まった。
晴華が目をまん丸にして青子を見る。
「青子ちゃんが……紅茶……?」
「い、いいでしょ別に! 人の好みは変わるのよ!」
父はしばらく無言で青子を見ていた。
それから、何も言わずにミルを置き、店の奥の忉利に目を向けた。
「忉利」
「……なんだよ」
「お前が淹れろ」
珈琲はこの人の領分だ。紅茶は、いつの間にか忉利の担当になっていた。
忉利は布巾をエプロンのポケットに突っ込むと、黙ってカウンターの中に入った。
湯を沸かす。ポットとカップに湯を注いで温め、その湯を捨てる。棚からダージリンの缶を取り、スプーンで茶葉を量る。人数分、プラス、ポットのための一杯。
沸騰したての湯を高い位置から勢いよく注ぐ。
ガラスのポットの中で、茶葉がくるくると踊り始めた。
蓋をしてティーコジーをかぶせる。砂時計をひっくり返す。
その間、忉利は一言も喋らなかった。
青子も何も言わなかった。
ただ、頬杖をついて、忉利の手元をじっと見ていた。湯を注ぐ角度。砂時計を返す指先。昔、この店のカウンターで、ホットミルクを飲みながら同じように忉利の父の手元を見ていたのと同じ目で。
砂が落ちきる。
茶漉しを通して、温めたカップに注ぐ。最後の一滴まで、きっちりと。
琥珀色の液体からふわりと甘い香りが立ちのぼった。
「ほらよ」
忉利はカップを青子の前に置いた。
「文句言うなら飲ませねえぞ」
「……言わないわよ」
青子は両手でカップを包み込んだ。
一口。
それからもう一口。
青子の肩からふっと力が抜けるのが見えた。
「…………おいしい」
小さな声だった。
「うちの同居人が淹れるのと、同じくらい。……悔しいけど」
「当たり前だろ。うちは喫茶店だぞ」
「知ってるわよ、そんなこと」
青子は、カップに口をつけたまま、視線を逸らした。
その耳の先が少しだけ赤い。
「……うちの同居人はね」
ふと、青子が言った。
「紅茶に、とんでもなくうるさいの。茶葉の種類ごとに蒸らす時間が、秒単位で決まってて。十秒長いだけで、その日一日、口をきいてくれないのよ」
「……面倒くせえな」
「面倒くさいのよ。でも、悔しいことに、あの子の淹れる紅茶は本当においしいの」
青子はカップの中を覗き込んだ。
「これは、その子のと、同じくらい。……ちゃんと時間、計ってたでしょ」
「砂時計、見てただろ」
「見てたわ」
「晴華」
父がぼそりと言った。
「宿題は」
「えっ。……え、今? 今それ言う? 青子ちゃん来てるのに!」
「今だ」
「うう……お父さんのいじわる……」
晴華は、何度も青子の方を振り返りながら、しぶしぶ二階へ上がっていった。父も、豆の袋を抱えて、奥の焙煎室へと消えていく。
カウンターには忉利と青子の二人だけが残った。
古い柱時計の振り子が、こち、こち、と時を刻む音だけが響く。
先に口を開いたのは、青子だった。
「……さっきは、ごめん」
「何が」
「関係ないって、言ったこと」
忉利はポットの中の茶葉を見つめたまま、答えた。
「別に。関係ねえのは、事実なんだろ」
「…………」
「お前が言いたくねえなら、訊かねえよ。昔からそうだろ」
青子はカップの縁を指でなぞった。
長い沈黙のあとで、ぽつりと言った。
「ねえ、忉利」
「なんだよ」
「……もしもの話よ。もしもの」
念を押すように、二度。
「自分が守らなきゃいけないもののために、関係ない誰かを……傷つけなきゃいけないとしたら。あんたなら、どうする?」
忉利はすぐには答えなかった。
ポットを持ち上げ、青子のカップに二杯目を注ぐ。少し渋みの出た、濃い色の紅茶。
「……知らねえよ、そんなの。おれは何も守ってねえし」
「でしょうね」
「でも」
ポットを置く。
「お前がそれやったら、たぶん一生そういう顔すんだろ。今みたいな」
「……どんな顔よ」
「泣きそうな顔」
「泣いてないわよ!」
「泣きそうって言ったんだ。泣いてるとは言ってねえ」
青子はぐっと言葉に詰まった。
忉利は、カウンターに肘をついて、気だるげに続けた。
「やりたくねえなら、やんなきゃいいだろ。お前、昔から、やりたくねえことやると三日は飯食えなくなるじゃねえか。小三の時、ウサギ小屋の当番で――」
「そ、その話はいいから!」
青子は真っ赤になって、忉利の言葉を遮った。
それから自分の紅茶に目を落として――小さく、笑った。
本当に小さく。ここひと月、誰にも見せなかったような力の抜けた笑い方で。
「……バカじゃないの。そんな簡単な話じゃないのよ」
「そうかよ」
「そうよ」
青子は残りの紅茶をゆっくりと飲み干した。
カップを置いて立ち上がる。
「ごちそうさま。おいくら?」
焙煎室の奥から、父の声だけが返ってきた。
「お代はいい」
「でも」
「また来い」
青子は、少しだけ唇を噛んで、それから焙煎室の方に深々と頭を下げた。
「……はい。また、来ます」
ドアベルが鳴る。
冷たい夜気と一緒に、青子の背中が商店街の暗がりへと消えていく。
忉利は空になったカップを見下ろした。
縁に薄く、口紅ではない、ただの唇の跡。
―――守らなきゃいけないもの、か。
それが何なのか、忉利にはわからない。
ただ、あいつがそれを口にするとき、あんなに苦しそうな顔をすることだけは、今夜はっきりとわかった。
◇
屋敷に戻った青子を、有珠は玄関ホールで待っていた。
手には燭台が一本。揺れる小さな炎が、有珠の白い顔を下から照らしている。
「遅かったわね」
「寄り道してたのよ」
「……紅茶の匂いがするわ」
「――っ」
青子は思わず自分の袖の匂いを嗅いだ。
「わたしのではない茶葉ね。ダージリン。……蒸らしは、三分。悪くないわ」
「……そこまでわかるの、あんた」
有珠は答えず、踵を返して居間へ向かった。青子はその後を黙ってついていった。
暖炉の火は、新しい薪で勢いよく燃えていた。
青子はソファに身を沈め、天井を仰いだ。
「見つけたわ。昨日の目撃者」
有珠の動きが止まった。
「誰」
「うちの学校の、二年。静希草十郎。先月、山奥から出てきたばっかりの転入生よ」
「……そう」
「それだけじゃない」
青子は両手で顔を覆った。
「暗示が、効かなかった。人払いと同じ。最初からかかる隙間がないみたいに、全部すり抜けていった」
しばらく、薪の爆ぜる音だけが響いた。
有珠は、暖炉の前の椅子に、音もなく腰を下ろした。
「……隙間がない」
「そう。……あの子の中、まっさらなのよ。白紙みたいに。糸を通す場所が、どこにもない」
「人払いも、暗示も通らない。なら、記憶をいじる術も、きっと通らないわ」
「……薬は?」
「あるいは。……でも、一から調合するとなれば、ひと月はかかるわ」
「ひと月も、放っておけないってことね」
「ええ」
有珠は、炎を見つめたまま、静かに言った。
「青子。わたしたちの世界の決まりを、忘れたわけではないでしょう」
見られてはならない。
知られてはならない。
知ってしまった者は、忘れさせるか――それができないのなら、消すしかない。
それは、この世界に足を踏み入れた日から青子が叩き込まれてきた、たった一つの鉄則だった。
「……わかってる」
青子は顔を覆ったまま答えた。
「わかってるわよ、そんなこと」
「なら」
有珠はゆっくりと青子の方を向いた。
「明日の夜。丘の向こうの、遊園地の跡に呼び出して。あそこなら、誰も来ないわ」
「…………」
「わたしが、片付けるから」
青子は指の隙間から有珠を見た。
「……あんたの子を使うの」
「ええ」
短い答え。
迷いはどこにもなかった。
久遠寺有珠は、使い魔を使う魔女だ。
母から受け継いだ、古い童話の登場人物たち。プロイキッシャー。それが有珠の言う「わたしの子」だった。あの公園の人形たちなど、比べものにならない。有珠の子たちは、物語そのものを身体にしてこの世界に現れる。
青子は目を閉じた。
瞼の裏に、今日の屋上の光景が浮かぶ。何もわかっていない顔で、「見たことは誰にも言わない」と言った少年。
そして、その向こうに、もう一つ。
湯気の立つ紅茶と、気だるげな声。
―――やりたくねえなら、やんなきゃいいだろ。
「……呼び出すのは、私がやる」
青子は顔から手を離した。
「あいつを学校で見てるのは、私だから。……それくらいは、私がやるわ」
有珠は何も言わなかった。
ただ、ほんのわずかに目を伏せた。
窓辺の鳥籠で、駒鳥が一度だけ、小さく鳴いた。
◇
翌日の放課後。
昇降口は、下校する生徒たちでごった返していた。
その喧騒から少し離れたC組の下駄箱の陰で、青子は草十郎を呼び止めた。
「静希くん」
「蒼崎。また靴の検査か」
「……違うわよ」
青子は、周りに人がいないことを確かめてから、声を落とした。
「今夜、十時。丘の向こうの、遊園地の跡に来て」
「遊園地?」
「潰れた遊園地よ。丘を越えた先の。……話があるの」
草十郎は少しだけ考えて頷いた。
「わかった。今日のバイトは九時に終わるから、間に合うよ」
あまりにもあっさりとした返事だった。
青子は唇を噛んだ。
「……来ないって選択肢も、あるのよ」
「蒼崎が来いと言ったんだ。行くよ」
草十郎は何の疑いもない目で、青子を見返した。
「山だと、人に呼ばれたら行くものだったんだ。理由は行ってから聞けばいい」
青子は、何か言いかけて――結局、何も言わなかった。
くるりと背を向けて人混みの中へと消えていく。
草十郎は、その背中を見送ってから、踵の潰れた運動靴に足を入れた。
―――そして。
そのすぐ隣の列の下駄箱の陰で、日景忉利は、靴を片方持ったまま動けなくなっていた。
聞くつもりはなかった。
たまたま同じ時間に靴を履き替えに来ただけだった。
けれど、聞こえてしまった。
今夜、十時。
丘の向こうの、遊園地の跡。
顔を上げる。人混みの向こうに、遠ざかっていく青子の背中が見える。
その背中に――
黒い線が、絡みついていた。
昨日の朝、坂道で見たものより、ずっと濃い。ずっと多い。まるで目に見えない何本もの手が、青子の肩を、腕を、首筋を、後ろから掴んで引きずり込もうとしているかのように。
右目がずきりと疼いた。
今度は目を逸らさなかった。
痛みが眼の奥で脈を打つ。視界の端がじわりと滲む。それでも忉利は、青子の背中が見えなくなるまで、その線から目を離さなかった。
―――早く、帰りなさい。
一昨日の夜、裏通りで聞いた声が耳の奥によみがえる。
お願い、と。あいつはそう言った。
忉利は、持っていた靴を、ゆっくりと床に置いた。
踵を押し込む。
「……悪いな、青子」
誰にも聞こえない声で呟く。
「その頼みは、聞いてやれそうにねえわ」
その夜。
日景忉利は、生まれて初めて、蒼崎青子の言いつけを破ることに決めた。
シエルの小説満足度調査
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びみょう