夜明けの色を見る眼   作:にんら

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紅茶と嘘

―――誰?

 

 声を放つと同時に、青子は地を蹴っていた。

 

 指先の光は消さない。砕けた人形の破片を踏み越え、広場を横切り、木立の中へ。枝を腕で払いのける。冷たい樹皮の匂い。霜の降りかけた落ち葉が、靴の下でしゃりしゃりと鳴る。

 

 十数歩。

 

 そこで、足を止めた。

 

 誰もいない。

 

 木立の奥は、しんと静まり返っていた。風が枝を揺らす音と、遠くの国道を走るトラックの唸りだけが聞こえる。

 

 青子は、足元に目を落とした。

 

 霜の降りた黒い土に、靴の跡がひとつ、ふたつ。それが公園の裏手の柵の方へと、まっすぐに続いている。

 

 慌てて逃げた足取りではなかった。歩幅は一定で、乱れがない。踏み込みも浅い。まるで、散歩の続きでもするかのように。

 

「……なによ、これ」

 

 跡を追って、柵まで走る。錆びた鉄柵の向こうは、寝静まった住宅街だった。碁盤の目のような路地が、街灯の下で四方に延びている。

 

 どの道にも、もう人影はない。

 

 青子は、柵を握りしめたまま、しばらくそこに立っていた。

 

 吐く息が白い。握った鉄が、手袋越しにも痛いほど冷たい。

 

 広場に戻ると、人形の残骸はもう、半分以上が崩れていた。白い陶器のような破片が、端から細かな砂になって、夜風にさらわれていく。

 

 いつもと同じだった。

 

 この一ヶ月、どれだけ壊しても、朝までにはひとつの手がかりも残らない。

 

「……ほんと、いい性格してるわね」

 

 顔も知らない相手に向かって毒づいて、青子は、最後の砂粒が風に消えるまで、それを睨みつけていた。

 

 ―――同じ頃。

 

 公園から二本離れた路地を、静希草十郎は、いつもと変わらない歩幅で歩いていた。

 

 呼ばれたのは、わかっていた。

 

 けれど、仕事中の人間に声をかけるものではない。山でも、狩りの最中の者には、決して近づかなかった。獲物を追っている人間の邪魔をすれば、自分が獲物と間違えられても文句は言えないからだ。

 

 だから、音を立てないように、その場を離れた。

 

 枝を踏んだのは失敗だった、と草十郎は思う。犬の声くらいで足を乱すとは、自分もまだまだだ。

 

 見たことは、とりあえず黙っておこう。

 

 そう決めて、草十郎は、冷えた手をポケットに入れた。

 

 青子が屋敷に戻ったのは、午前一時を回った頃だった。

 

 玄関の扉を開けると、居間にはまだ明かりが灯っていた。

 

 暖炉の火は熾火になり、部屋の空気は少し冷えている。ソファの上で、有珠が、青子が出ていったときとまったく同じ姿勢で本を開いていた。

 

 開いている頁まで、同じだった。

 

「……起きてたの」

 

「本を読んでいただけよ」

 

 有珠は顔を上げない。青子は、それ以上は何も言わなかった。

 

 コートを脱ぎもせずに、暖炉の前に立つ。熾火の赤い光が、青子の横顔を下から照らした。

 

「見られた」

 

 ページをめくりかけていた有珠の指が、止まった。

 

「人払いは、張ったわ」

 

「わかってる。でも、いたのよ。木の陰に。足跡も残ってた」

 

「…………」

 

 有珠は、ゆっくりと本を閉じた。

 

 その目が、初めて青子を見た。硝子玉のように澄んでいて、何の感情も浮かんでいない――ように見える。けれど青子は知っている。この同居人がこういう目をするときは、腹の底で何かが静かに煮えているのだ。

 

「わたしの結界を、歩いて抜けてきたというの」

 

「そうよ」

 

「ありえないわ。魔術師なら、わたしが気づく」

 

「魔術師の足跡じゃなかった」

 

 青子は、暖炉の火を見つめたまま言った。

 

「靴底のすり減った、安物の運動靴。歩き方は素人じゃなかったけど、魔術の匂いはまるでしなかった。……ただの人間よ、たぶん」

 

「なら、なおさらね」

 

 有珠の声は、平坦だった。

 

「ただの人間が、わたしたちを見た。それが何を意味するか、あなたにもわかっているでしょう」

 

「……まだ、誰かもわかってないのよ」

 

「わかったら、の話よ」

 

 窓辺で、何かがばさりと羽ばたいた。

 

 鳥籠の中の駒鳥が、けたたましく何かを喚き立てる。有珠は一瞥もくれずに、「黙りなさい」とだけ言った。駒鳥は、ぴたりと静かになった。

 

「青子」

 

「なに」

 

「その人間を見つけたら、わたしに教えて」

 

 それは頼みではなかった。

 

 青子は答えずに、コートの襟を握りしめた。

 

 熾火が、ぱちりと小さく爆ぜた。

 

 翌朝。

 

 三咲高校の昇降口で、忉利は奇妙な光景に出くわした。

 

 二年C組の下駄箱の前に、生徒会長がしゃがみ込んでいる。

 

 蒼崎青子は、誰かの運動靴を片方手に取り、その靴底をじっと覗き込んでいた。真剣そのものの横顔。周りを通り過ぎていく生徒たちが、遠巻きに不思議そうな目を向けている。

 

「……何やってんだ、お前」

 

「ひゃっ!?」

 

 青子は文字どおり飛び上がった。手から運動靴が落ちて、すのこの上で間抜けな音を立てる。

 

「な、なんでもないわよ! 風紀の抜き打ち検査!」

 

「靴の?」

 

「靴の!」

 

「靴底の?」

 

「く、靴底の! 最近、泥だらけのまま校舎に上がる不届き者が多いのよ!」

 

 苦しい。あまりにも苦しい。

 

 忉利は、落ちた運動靴に目をやった。

 

 すり減って、踵の潰れた、白い運動靴。内側に、マジックで小さく名前が書いてある。

 

 静希。

 

 靴底の溝には、乾いた赤土がこびりついていた。この辺りの舗装された道では、まず付かない色の土だ。

 

 青子は、素早くその靴を下駄箱に戻した。

 

 立ち上がる。スカートの埃を払う。その一連の動作の間、青子は一度も忉利の顔を見なかった。

 

「……じゃ、私、職員室寄るから」

 

「青子」

 

「なによ」

 

「お前、昨日ちゃんと帰ったのか」

 

 青子の背中が、一瞬だけ強張った。

 

「帰ったわよ。あんたに言われたとおり、ちゃんと」

 

 そして、振り返らずに廊下の奥へ消えていった。

 

 語尾は、切れていなかった。

 

 だから、嘘ではないのだろう。帰ったことは、きっと本当なのだ。

 

 ただ、その前に何をしていたのかを、言わなかっただけで。

 

 噂が教室を駆け巡ったのは、昼休みが始まってすぐのことだった。

 

「おいおいおい、聞いたか日景!」

 

 芳助が、教室に飛び込んでくるなり、忉利の机を両手で叩いた。

 

「会長が! 静希を! 屋上に呼び出した!」

 

「……は?」

 

「さっき廊下で! 『静希くん、ちょっといい?』って! あの会長が! くん付けで! 二人っきりで屋上だぞ! これはもう告白だろ! 告白以外に何があるんだよ!」

 

「アホか」

 

 低い声が、芳助の後頭部を小突いた。

 

 いつの間にか、鳶丸が教室の入り口に寄りかかっていた。

 

「あの女が告白なんざするタマかよ。どうせバイトの件だろ。静希の申請書、数が合わねえって金鹿がぼやいてたからな」

 

「で、でも殿下、屋上っすよ? わざわざ屋上っすよ?」

 

「職員室で話せねえ話もあんだろ」

 

 鳶丸はそう言いながら、ちらりと忉利を見た。

 

 刺々しい目つきの奥に、珍しく、からかうような色はなかった。

 

「……日景」

 

「なんだよ」

 

「蒼崎の奴、最近なんか抱え込んでんぞ。ありゃあ生徒会の仕事なんかじゃねえ」

 

 忉利は答えなかった。

 

「俺が口出すことじゃねえがな。お前が一番よくわかってんだろ」

 

 鳶丸はそれだけ言うと、ひらりと手を振って、A組の方へ戻っていった。

 

 芳助が、まだ何か騒いでいる。

 

 忉利は、しばらく自分の机の木目を眺めていた。

 

 それから、黙って席を立った。

 

 屋上には、冬の風が吹き荒れていた。

 

 フェンスの向こうに、三咲の町が広がっている。灰色の屋根の連なり。駅前のビル。その向こうの丘と、丘の上の黒い森。

 

 その景色を背にして、蒼崎青子は、静希草十郎と向かい合っていた。

 

「静希くん」

 

「ああ」

 

「昨日の夜、十一時頃。どこにいた?」

 

「おばあさんの家から、アパートに帰る途中だった」

 

 即答だった。

 

 青子は、小さく息を吸った。

 

 知っていた。草十郎のバイトの許可申請に判子を押したのは、他でもない自分なのだから。まっどべあ。そして、町の東の外れに住む老婦人の家。そこから彼のアパートまで、最短の道を地図の上でなぞれば――ちょうど、あの公園の真ん中を通る。

 

「……公園、通った?」

 

「ああ。近道だから」

 

「――何か、見た?」

 

 草十郎は、少しだけ考えた。

 

 嘘をつくかどうかを考えているのではなかった。どう言えば正確に伝わるかを、考えている顔だった。

 

「見た」

 

「…………」

 

「蒼崎が、白い人形のようなものを、壊していた。手から、青い光を出して」

 

 淡々と。まるで、今朝の天気でも報告するかのように。

 

 青子は、目を閉じた。

 

 最悪だった。よりにもよって、顔見知りだ。それも、自分が面倒を見ると決めた、この町に来たばかりの転入生。

 

「驚いた」

 

 草十郎は、続けた。

 

「山には、ああいうことができる人はいなかった。だが、ここは町だから。そういうこともあるんだろう」

 

「……は?」

 

「心配しなくていい。見たことは、誰にも言わない。仕事の邪魔をするつもりもない」

 

「し、仕事って……」

 

「夜にも働いていると言っていた。あれが、蒼崎の仕事なんだろう」

 

 青子は、しばらく口を開けたまま、目の前の少年を見つめていた。

 

 怯えていない。問い詰めてもこない。気味悪がってすらいない。ただ、「そういうものだ」と、あっさり受け入れている。

 

 この男は、本当に、何もわかっていない。

 

 自分がどれほど危ういものを見てしまったのかを。

 

「……そういう問題じゃないのよ、静希くん」

 

 青子は、一歩、草十郎に近づいた。

 

 右手を上げる。人差し指を、彼の眉間に向ける。

 

「ちょっと、じっとしてて」

 

「ああ」

 

 素直に、草十郎は動かなかった。

 

 青子は、自分の中の回路に、ほんの少しだけ熱を通した。

 

 昼日中の屋上だ。派手なことはできない。けれど、一人の人間の一晩の記憶に、薄い蓋をかぶせるくらいなら――

 

 指先が、ごくかすかに、青く滲む。

 

「昨日の夜、あなたは公園を通らなかった」

 

 言葉に、力を乗せる。

 

 耳ではなく、意識の底に直接落としていく声。

 

「まっすぐ家に帰って、すぐに眠った。何も見ていない。何も聞いていない。――いいわね?」

 

 草十郎は、瞬きをした。

 

 一度。

 

 二度。

 

「……蒼崎」

 

「なに」

 

「俺は、公園を通ったぞ」

 

 青子の指先から、光が消えた。

 

「…………嘘でしょ」

 

「嘘はついていない」

 

 草十郎は、不思議そうに首を傾げた。

 

「蒼崎、今、何かしたのか。額がむずむずした」

 

 青子は、答えられなかった。

 

 手を下ろす。一歩、後ずさる。冬の風が、束ねていない長い髪を乱暴に巻き上げた。

 

 人払いが効かなかった。

 

 暗示も、効かない。

 

 ―――この男は、なんなの。

 

 予鈴が鳴った。

 

 青子は、はっと我に返った。

 

「……わかった。今のは、忘れて。……って言っても、無駄なのよね、あなたは」

 

「すまない」

 

「謝らないでよ。調子狂うから」

 

 青子は踵を返し、屋上の扉に向かいかけて――足を止めた。

 

 振り返らずに、言う。

 

「このこと、本当に誰にも言わないで」

 

「ああ」

 

「……忉利にも」

 

 草十郎は、少しだけ間を置いてから、頷いた。

 

「約束する」

 

 ―――その扉の、すぐ向こう側で。

 

 日景忉利は、階段の踊り場の壁に背中を押しつけて、右目を押さえていた。

 

 扉の小さな磨り硝子越しに、見えたのは一瞬だった。

 

 青子が、草十郎の顔に指を向けていた。ただそれだけの光景。声は、風の音にかき消されて聞こえなかった。

 

 けれど、その瞬間。

 

 忉利の右目は、見てしまった。

 

 屋上の空気の中から、無数の細い黒い線が、青子の指先へと吸い寄せられていくのを。まるで糸巻きに糸が巻き取られるように、ぐるぐると渦を巻いて集まり、細い一本の束になって、草十郎の額へと伸びていき――

 

 そこで、ぷつりと。

 

 すべての線が、ほどけるように弾けて散った。

 

 眼球の奥で、何かが焼けた。

 

 熱い。痛い。目の裏側に、焼けた鉄の棒を押し当てられたような。視界が一瞬、真っ白に飛んで、涙が勝手に溢れてくる。

 

「……っ、は……」

 

 膝が震える。息が詰まる。

 

 なんだ。

 

 なんなんだ、今のは。

 

 乱視で、あんなものが見えるのか。疲れ目で、こんなに痛むのか。

 

 わからない。何もわからない。わかるのは、ただ――

 

 あの線は、青子の指に集まっていた、ということだけだ。

 

 扉の向こうで、足音が近づいてくる。

 

 忉利は、袖で乱暴に目元を拭った。

 

 扉が開いた。

 

「――忉利?」

 

 青子が、目を丸くしていた。

 

「な、なにしてんのよ、こんなとこで」

 

「……こっちの台詞だ」

 

 声が、自分でも驚くほど低くなった。

 

「静希と、何話してた」

 

 青子の顔から、表情が消えた。

 

 ほんの一瞬。けれど、忉利が十年以上見てきた中で、一度も見たことのない種類の、硬い無表情だった。

 

「生徒会の話よ」

 

「屋上でか」

 

「……あんたには、関係ない」

 

 ぴしゃりと。

 

 扉を閉めるような声だった。

 

 青子は、忉利の横をすり抜けて、階段を駆け下りていった。

 

 一度も、振り返らなかった。

 

 忉利は、その足音が消えるまで、踊り場に立ち尽くしていた。

 

 右目の奥に、まだ鈍い熱が残っている。

 

「……そうかよ」

 

 誰もいない階段に、呟きだけが落ちた。

 

 遅れて、屋上から草十郎が下りてきた。

 

 目元の赤い忉利を見て、少しだけ首を傾げる。

 

「日景。泣いていたのか」

 

「泣いてねえよ。目にゴミが入っただけだ」

 

「そうか」

 

 草十郎は、それ以上は訊かなかった。

 

「……静希。青子と、何話してた」

 

「蒼崎と約束をした。だから、言えない」

 

 迷いのない声だった。

 

 忉利は、しばらくその顔を見つめてから、長い溜息をついた。

 

「……お前、そういうとこ律儀だよな」

 

「そうか?」

 

「褒めてねえよ」

 

 その日の夕方。

 

 Cafe HIKAGEのドアベルが鳴ったのは、六時を少し過ぎた頃だった。

 

「いらっしゃいま――」

 

 カウンターの内側で皿を拭いていた晴華が、途中で言葉を失った。

 

 入り口に、制服姿の蒼崎青子が立っていた。

 

 少しだけ気まずそうに、コートの前を掻き合わせて。

 

「……こんばんは、晴華ちゃん」

 

「青子ちゃん!!」

 

 晴華は皿を放り出す勢いでカウンターを飛び出し、青子に抱きついた。

 

「青子ちゃんだ! ほんとに青子ちゃんだ! もう、ずっと来ないから、お兄ちゃんと絶交したのかと思ったよ!」

 

「し、してないわよ、絶交なんて。……ちょっと、苦しいってば」

 

 口ではそう言いながら、青子は晴華の頭をぽんぽんと撫でた。その手つきは、昔と少しも変わっていなかった。

 

 奥のテーブルを片付けていた忉利は、手を止めて、その光景を見ていた。

 

 昼間のことが、喉の奥に引っかかっている。

 

 けれど、それを口に出すより先に、カウンターの中から父の声がした。

 

「いらっしゃい」

 

「……ご無沙汰してます、おじさん」

 

 青子はぺこりと頭を下げ、カウンターのいちばん端の席に座った。

 

 小さい頃から、ずっとそこが青子の指定席だった。

 

 父は、黙って棚から青子のためのブレンドの缶を取り出し、ミルに豆を入れかけて――

 

「あ、おじさん」

 

 青子が、少しだけ申し訳なさそうに声をかけた。

 

「今日は、その……紅茶って、あります?」

 

 ミルを回す父の手が、止まった。

 

 晴華が、目をまん丸にして青子を見る。

 

「青子ちゃんが……紅茶……?」

 

「い、いいでしょ別に! 人の好みは変わるのよ!」

 

 父は、しばらく無言で青子を見ていた。

 

 それから、何も言わずにミルを置き、店の奥の忉利に目を向けた。

 

「忉利」

 

「……なんだよ」

 

「お前が淹れろ」

 

 珈琲はこの人の領分だ。紅茶は、いつの間にか忉利の担当になっていた。

 

 忉利は布巾をエプロンのポケットに突っ込むと、黙ってカウンターの中に入った。

 

 湯を沸かす。ポットとカップに湯を注いで温め、その湯を捨てる。棚からダージリンの缶を取り、スプーンで茶葉を量る。人数分、プラス、ポットのための一杯。

 

 沸騰したての湯を、高い位置から勢いよく注ぐ。

 

 ガラスのポットの中で、茶葉がくるくると踊り始めた。

 

 蓋をして、ティーコジーをかぶせる。砂時計をひっくり返す。

 

 その間、忉利は一言も喋らなかった。

 

 青子も、何も言わなかった。

 

 ただ、頬杖をついて、忉利の手元をじっと見ていた。湯を注ぐ角度。砂時計を返す指先。昔、この店のカウンターで、ホットミルクを飲みながら、同じように忉利の父の手元を見ていたのと同じ目で。

 

 砂が落ちきる。

 

 茶漉しを通して、温めたカップに注ぐ。最後の一滴まで、きっちりと。

 

 琥珀色の液体から、ふわりと甘い香りが立ちのぼった。

 

「ほらよ」

 

 忉利は、カップを青子の前に置いた。

 

「文句言うなら飲ませねえぞ」

 

「……言わないわよ」

 

 青子は、両手でカップを包み込んだ。

 

 一口。

 

 それから、もう一口。

 

 青子の肩から、ふっと力が抜けるのが見えた。

 

「…………おいしい」

 

 小さな声だった。

 

「うちの同居人が淹れるのと、同じくらい。……悔しいけど」

 

「当たり前だろ。うちは喫茶店だぞ」

 

「知ってるわよ、そんなこと」

 

 青子は、カップに口をつけたまま、視線を逸らした。

 

 その耳の先が、少しだけ赤い。

 

「晴華」

 

 父が、ぼそりと言った。

 

「宿題は」

 

「えっ。……え、今? 今それ言う? 青子ちゃん来てるのに!」

 

「今だ」

 

「うう……お父さんのいじわる……」

 

 晴華は、何度も青子の方を振り返りながら、しぶしぶ二階へ上がっていった。父も、豆の袋を抱えて、奥の焙煎室へと消えていく。

 

 カウンターには、忉利と青子の二人だけが残った。

 

 古い柱時計の振り子が、こち、こち、と時を刻む音だけが響く。

 

 先に口を開いたのは、青子だった。

 

「……さっきは、ごめん」

 

「何が」

 

「関係ないって、言ったこと」

 

 忉利は、ポットの中の茶葉を見つめたまま、答えた。

 

「別に。関係ねえのは、事実なんだろ」

 

「…………」

 

「お前が言いたくねえなら、訊かねえよ。昔からそうだろ」

 

 青子は、カップの縁を指でなぞった。

 

 長い沈黙のあとで、ぽつりと言った。

 

「ねえ、忉利」

 

「なんだよ」

 

「……もしもの話よ。もしもの」

 

 念を押すように、二度。

 

「自分が守らなきゃいけないもののために、関係ない誰かを……傷つけなきゃいけないとしたら。あんたなら、どうする?」

 

 忉利は、すぐには答えなかった。

 

 ポットを持ち上げ、青子のカップに二杯目を注ぐ。少し渋みの出た、濃い色の紅茶。

 

「……知らねえよ、そんなの。おれは何も守ってねえし」

 

「でしょうね」

 

「でも」

 

 ポットを置く。

 

「お前がそれやったら、たぶん一生そういう顔すんだろ。今みたいな」

 

「……どんな顔よ」

 

「泣きそうな顔」

 

「泣いてないわよ!」

 

「泣きそうって言ったんだ。泣いてるとは言ってねえ」

 

 青子は、ぐっと言葉に詰まった。

 

 忉利は、カウンターに肘をついて、気だるげに続けた。

 

「やりたくねえなら、やんなきゃいいだろ。お前、昔から、やりたくねえことやると三日は飯食えなくなるじゃねえか。小三の時、ウサギ小屋の当番で――」

 

「そ、その話はいいから!」

 

 青子は真っ赤になって、忉利の言葉を遮った。

 

 それから、自分の紅茶に目を落として――小さく、笑った。

 

 本当に小さく。ここひと月、誰にも見せなかったような、力の抜けた笑い方で。

 

「……バカじゃないの。そんな簡単な話じゃないのよ」

 

「そうかよ」

 

「そうよ」

 

 青子は、残りの紅茶をゆっくりと飲み干した。

 

 カップを置いて、立ち上がる。

 

「ごちそうさま。おいくら?」

 

 焙煎室の奥から、父の声だけが返ってきた。

 

「お代はいい」

 

「でも」

 

「また来い」

 

 青子は、少しだけ唇を噛んで、それから焙煎室の方に深々と頭を下げた。

 

「……はい。また、来ます」

 

 ドアベルが鳴る。

 

 冷たい夜気と一緒に、青子の背中が商店街の暗がりへと消えていく。

 

 忉利は、空になったカップを見下ろした。

 

 縁に、薄く、口紅ではない、ただの唇の跡。

 

 ―――守らなきゃいけないもの、か。

 

 それが何なのか、忉利にはわからない。

 

 ただ、あいつがそれを口にするとき、あんなに苦しそうな顔をすることだけは、今夜、はっきりとわかった。

 

 屋敷に戻った青子を、有珠は玄関ホールで待っていた。

 

 手には、燭台が一本。揺れる小さな炎が、有珠の白い顔を下から照らしている。

 

「遅かったわね」

 

「寄り道してたのよ」

 

「……紅茶の匂いがするわ」

 

「――っ」

 

 青子は、思わず自分の袖の匂いを嗅いだ。

 

「わたしのではない茶葉ね。ダージリン。淹れ方は、悪くないわ」

 

「……そこまでわかるの、あんた」

 

 有珠は答えず、踵を返して居間へ向かった。青子は、その後を黙ってついていった。

 

 暖炉の火は、新しい薪で勢いよく燃えていた。

 

 青子はソファに身を沈め、天井を仰いだ。

 

「見つけたわ。昨日の目撃者」

 

 有珠の動きが、止まった。

 

「誰」

 

「うちの学校の、二年。静希草十郎。先月、山奥から出てきたばっかりの転入生よ」

 

「……そう」

 

「それだけじゃない」

 

 青子は、両手で顔を覆った。

 

「暗示が、効かなかった。人払いと同じ。最初から、かかる隙間がないみたいに、全部すり抜けていった」

 

 しばらく、薪の爆ぜる音だけが響いた。

 

 有珠は、暖炉の前の椅子に、音もなく腰を下ろした。

 

「人払いも、暗示も通らない。なら、記憶をいじる術も、きっと通らないわ」

 

「……薬は?」

 

「あるいは。……でも、一から調合するとなれば、ひと月はかかるわ」

 

「ひと月も、放っておけないってことね」

 

「ええ」

 

 有珠は、炎を見つめたまま、静かに言った。

 

「青子。わたしたちの世界の決まりを、忘れたわけではないでしょう」

 

 見られてはならない。

 

 知られてはならない。

 

 知ってしまった者は、忘れさせるか――それができないのなら、消すしかない。

 

 それは、この世界に足を踏み入れた日から、青子が叩き込まれてきた、たった一つの鉄則だった。

 

「……わかってる」

 

 青子は、顔を覆ったまま答えた。

 

「わかってるわよ、そんなこと」

 

「なら」

 

 有珠は、ゆっくりと青子の方を向いた。

 

「明日の夜。丘の向こうの、遊園地の跡に呼び出して。あそこなら、誰も来ないわ」

 

「…………」

 

「わたしが、片付けるから」

 

 青子は、指の隙間から、有珠を見た。

 

「……あんたの子を使うの」

 

「ええ」

 

 短い答え。

 

 迷いは、どこにもなかった。

 

 青子は、目を閉じた。

 

 瞼の裏に、今日の屋上の光景が浮かぶ。何もわかっていない顔で、「見たことは誰にも言わない」と言った少年。

 

 そして、その向こうに、もう一つ。

 

 湯気の立つ紅茶と、気だるげな声。

 

 ―――やりたくねえなら、やんなきゃいいだろ。

 

「……呼び出すのは、私がやる」

 

 青子は、顔から手を離した。

 

「あいつを学校で見てるのは、私だから。……それくらいは、私がやるわ」

 

 有珠は、何も言わなかった。

 

 ただ、ほんのわずかに、目を伏せた。

 

 窓辺の鳥籠で、駒鳥が一度だけ、小さく鳴いた。

 

 翌日の放課後。

 

 昇降口は、下校する生徒たちでごった返していた。

 

 その喧騒から少し離れた、C組の下駄箱の陰で、青子は草十郎を呼び止めた。

 

「静希くん」

 

「蒼崎。また靴の検査か」

 

「……違うわよ」

 

 青子は、周りに人がいないことを確かめてから、声を落とした。

 

「今夜、十時。丘の向こうの、遊園地の跡に来て」

 

「遊園地?」

 

「潰れた遊園地よ。丘を越えた先の。……話があるの」

 

 草十郎は、少しだけ考えて、頷いた。

 

「わかった。今日のバイトは九時に終わる。間に合う」

 

 あまりにもあっさりとした返事だった。

 

 青子は、唇を噛んだ。

 

「……来ないって選択肢も、あるのよ」

 

「蒼崎が来いと言ったんだ。行く」

 

 草十郎は、何の疑いもない目で、青子を見返した。

 

 青子は、何か言いかけて――結局、何も言わなかった。

 

 くるりと背を向けて、人混みの中へと消えていく。

 

 草十郎は、その背中を見送ってから、踵の潰れた運動靴に足を入れた。

 

 ―――そして。

 

 そのすぐ隣の列の下駄箱の陰で、日景忉利は、靴を片方持ったまま、動けなくなっていた。

 

 聞くつもりはなかった。

 

 たまたま、同じ時間に靴を履き替えに来ただけだった。

 

 けれど、聞こえてしまった。

 

 今夜、十時。

 

 丘の向こうの、遊園地の跡。

 

 顔を上げる。人混みの向こうに、遠ざかっていく青子の背中が見える。

 

 その背中に――

 

 黒い線が、絡みついていた。

 

 昨日の朝、坂道で見たものより、ずっと濃い。ずっと多い。まるで、目に見えない何本もの手が、青子の肩を、腕を、首筋を、後ろから掴んで引きずり込もうとしているかのように。

 

 右目が、ずきりと疼いた。

 

 今度は、目を逸らさなかった。

 

 痛みが、眼の奥で脈を打つ。視界の端が、じわりと滲む。それでも忉利は、青子の背中が見えなくなるまで、その線から目を離さなかった。

 

 ―――早く、帰りなさい。

 

 一昨日の夜、裏通りで聞いた声が耳の奥によみがえる。

 

 お願い、と。あいつは、そう言った。

 

 忉利は、持っていた靴を、ゆっくりと床に置いた。

 

 踵を、押し込む。

 

「……悪いな、青子」

 

 誰にも聞こえない声で、呟く。

 

「その頼みは、聞いてやれそうにねえわ」

 

 その夜。

 

 日景忉利は、生まれて初めて、蒼崎青子の言いつけを破ることに決めた。

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