夜明けの色を見る眼   作:にんら

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Cafe HIKAGEのクリスマス

 十二月二十四日。

 

 三咲高校の体育館は、冬休み前の最後の朝礼で、ざわざわと落ち着かなかった。

 

「――以上で生徒会長からの話を終わります」

 

 壇上で、蒼崎青子がきっちりと頭を下げた。

 

 背筋はいつものようにまっすぐだった。声もよく通った。先週までの死人のような顔は、もうどこにもなかった。

 

 拍手がまばらに起こる。

 

 二年C組の列の後ろの方で、日景忉利はパイプ椅子の背にもたれて、欠伸を噛み殺していた。

 

「……日景」

 

 隣の席で草十郎が小声で言った。

 

 全身の包帯はほとんど取れていた。左腕だけは、まだ三角巾で吊っている。有珠の薬が効いたのか、それとも山育ちの身体が頑丈すぎるのか、医者が首をひねるほどの回復の早さだった。

 

「なんだよ」

 

「蒼崎の話は長かったな」

 

「いつものことだ」

 

「三回も同じことを言っていたよ。『冬休み中も三咲高校の生徒としての自覚を持って』」

 

「数えてたのかよ」

 

「暇だったんだ」

 

 壇上から降りてくる青子と、一瞬だけ目が合った。

 

 青子はほんのわずかに眉を上げて、それから、何事もなかったように前を向いた。

 

 口の形だけで何か言っていた。

 

 ―――寝るな、バカ。

 

 忉利は小さく肩をすくめた。

 

「おい、日景、静希」

 

 前の席から芳助が椅子ごと振り返ってきた。

 

「今日の夜、お前んとこの店でクリパやるってマジ? 会長も来るってマジ? 俺も行っていい? 行っていいよな? な?」

 

「……誰から聞いたんだよ」

 

「晴華ちゃん! 昨日、店の前通ったら張り紙してあった! 『本日貸切。クリスマス会』って! で、訊いたら、会長とお兄ちゃんのお友達みんなでって!」

 

 忉利は額を押さえた。

 

 あの妹は、本当に黙っていられない。

 

「……勝手にしろ」

 

「やったああああ!」

 

「木乃美」

 

 体育館の後ろから教師の声が飛んできた。

 

「はいすみません!」

 

 芳助が慌てて前を向く。

 

 列の向こうで、二年A組の鳶丸が呆れたように首を振っているのが見えた。その隣の二年D組の列で、金鹿が小さく溜息をついているのも。

 

 忉利は何気なく、意識を向けた。

 

 線が、見えた。

 

 体育館じゅうの生徒たちの胸から、無数の細い線が前へ、前へと流れていく。明日へ。来年へ。十年後へ。ずっと先まで。

 

 川のように。

 

 たくさんの、たくさんの川が同じ方向へ向かって、流れていく。

 

 その中で二本だけ。

 

 ほんの少し先で、結び目を作って止まっている線があった。

 

 一本は自分の胸から。

 

 もう一本は、壇の脇で教頭に何か話しかけられている、長い髪の生徒会長の胸から。

 

 忉利は目を閉じて、線を見るのをやめた。

 

 それからまた、欠伸をひとつ噛み殺した。

 

 

◇

 

 

 午後三時。

 

 久遠寺邸の裏庭で、草十郎は一本の小さな樅の木の前にしゃがみ込んでいた。

 

 生け垣の陰にひっそりと生えていた木だった。背丈は草十郎の胸くらい。誰にも手入れされないまま伸び放題になっていた枝を、この一週間、少しずつ整えてきた。

 

「……本当にそれを持っていくの」

 

 背後で声がした。

 

 有珠だった。

 

 黒い外套を羽織って東屋の柱にもたれている。

 

「ああ。日景の妹が、ツリーがないと言っていたんだ」

 

 草十郎は、右手一本で、木の根元の土を丁寧に掘り返していく。

 

「山だと、冬に木を伐ることはあっても飾ることはなかったな。……でも、日景の妹は飾りたいらしい」

 

「根ごと掘り起こすのね」

 

「伐ったら死んでしまうからね。……根ごと持っていって、年が明けたらまたここに戻すよ」

 

 有珠は何も言わなかった。

 

 ただ、草十郎の背中をじっと見つめていた。

 

 土を掘る手つきは驚くほど優しかった。まるで眠っている子供を、そっと抱き上げるように。

 

「……わたしも、行かなければいけないの」

 

 有珠がぽつりと言った。

 

「その、クリスマス会に」

 

「蒼崎は来いと言っていたよ」

 

「珈琲の店よ」

 

「ああ」

 

「あの泥の匂いが店じゅうに染みついているのよ。……想像しただけで、頭が痛いわ」

 

 草十郎は手を止めて、振り返った。

 

「有珠は行きたくないのか」

 

 有珠は答えなかった。

 

 しばらく黙って、草十郎の手元の樅の木を見つめていた。

 

 それから、小さく息を吐いた。

 

「……茶葉を、持っていくわ。自分の分だけ」

 

「そうか」

 

 草十郎はまた土を掘り始めた。

 

「日景に淹れてもらえばいいよ。あいつの紅茶はうまいんだ」

 

「……十秒、短いのよ。わたしのより」

 

「それがうまいんだろう」

 

 有珠はぷいと顔を背けた。

 

 止まり木の代わりに有珠の肩にとまっていたロビンが、こっそりと囁いた。

 

「マイ天使、行く気満々ッスね」

 

「ロビン。あなたは留守番よ」

 

「えええ!? おいらもケーキ食べたいッス!」

 

「駒鳥がケーキを食べるの?」

 

「食べるッス! 生クリームのとこだけ!」

 

「……人前で喋ったら、焼き鳥にするわよ」

 

「喋らないッス! 絶対! 誓うッス!」

 

 草十郎は、樅の木の根を最後の一本まで丁寧に掘り出して、麻袋でくるんだ。

 

 それから、右腕一本で、ひょいと抱え上げた。

 

「行こう、有珠」

 

 

◇

 

 

 午後五時。

 

 Cafe HIKAGEの扉には、晴華が手書きした張り紙が貼られていた。

 

 ―――本日貸切。クリスマス会。

 

 その下に小さく、赤いクレヨンでサンタクロースの絵が描かれている。

 

 ドアベルが鳴った。

 

「――いらっしゃいませ! ……って、あ! 静希さん! すごい、木持ってきてくれたの!?」

 

 晴華がエプロン姿で飛び出してきた。

 

 草十郎の腕の中の樅の木を見て、目をまん丸にしている。

 

「根っこごと持ってきたんだ。年が明けたら、また植え直すよ」

 

「すごいすごい! 本物のツリーだ! お父さーん、見て見て!」

 

 カウンターの奥で、父がネルを振る手を止めた。

 

 草十郎の抱えた樅の木を見て、それから、草十郎の吊った左腕を見て、小さく頷いた。

 

「……その辺に置いてくれ」

 

「ああ」

 

 草十郎は、店の隅の窓際の空いた場所に樅の木をそっと下ろした。晴華が、待ってましたとばかりに、紙で作った星や銀紙の飾りを抱えて飛びついていく。

 

 そして、草十郎の背後にもう一人。

 

 黒い外套の少女が、扉の前で立ち止まっていた。

 

 店の中に一歩も入ろうとしない。

 

 ただ、眉間にほんのわずかな皺を寄せて、店じゅうに満ちた深煎りの珈琲の香りをじっと耐えているようだった。

 

「……あ」

 

 晴華が振り返って、有珠に気づいた。

 

「えっと……もしかして、青子ちゃんのお屋敷の?」

 

「……久遠寺有珠よ」

 

「うわあ……」

 

 晴華は口をぽかんと開けて、有珠の顔を見つめた。

 

「すっごいきれい……。お人形さんみたい……」

 

「…………」

 

「あ、ご、ごめんなさい! どうぞ入って入って! 寒いでしょ!」

 

 晴華に袖を引かれて、有珠は、ようやく店の中に一歩を踏み入れた。

 

 珈琲の香りが全身を包み込む。

 

 有珠の眉間の皺が一段、深くなった。

 

 カウンターの奥から父がゆっくりと出てきた。

 

 有珠の前に立つ。

 

 背の高い無口な喫茶店の主人と、小柄な黒衣の魔女が、しばらく無言で向かい合った。

 

「……うちの馬鹿息子が、世話になってます」

 

 父は深々と頭を下げた。

 

 有珠は少しだけ目を見開いた。

 

「…………いいえ」

 

 小さな声だった。

 

「世話になっているのは、たぶん、わたしの方よ」

 

 父は顔を上げた。

 

 それから、有珠の手元の小さな缶に目をやった。

 

 有珠が胸に抱えるようにして持ってきた、紅茶の缶。

 

「紅茶は、うちじゃ、忉利の担当でな」

 

 父は店の奥の厨房の方を振り返った。

 

「おい、忉利。お客さんだ」

 

 厨房から出てきた忉利は、有珠の顔を見て少しだけ目を瞬かせた。

 

「……ほんとに来たのか」

 

「来いと言ったのは、あなたたちよ」

 

「言ったのは青子だろ」

 

「同じことよ」

 

 有珠は紅茶の缶を、忉利の胸に押しつけた。

 

「わたしの茶葉よ。これで、淹れて。……十秒、短く」

 

 忉利は缶を受け取った。

 

 蓋を開ける。上品な甘い香りが立ちのぼった。

 

「……いい葉っぱだな」

 

「当たり前でしょう」

 

「窓際、座ってろ。あそこなら、珈琲の匂いも、ちょっとはましだ」

 

 有珠は何も言わずに、窓際のテーブル席に向かった。

 

 樅の木のすぐ隣の席。

 

 草十郎が晴華と一緒に、枝に銀紙の星を吊るしている。

 

 有珠はその様子を黙って眺めていた。

 

 外套の内側で、何かがもぞもぞと動いた。

 

「…………ロビン」

 

 有珠の低い囁き。

 

「ば、バレたッスか」

 

「留守番と言ったはずよ」

 

「ケーキ、食べたかったッス……」

 

「……喋ったら、本当に焼き鳥よ」

 

「黙ってるッス……」

 

 外套の中で、小さな駒鳥がしゅんと身を縮めた。

 

 

◇

 

 

 六時を過ぎると、店は一気に賑やかになった。

 

「メリークリスマース!」

 

 ドアベルを派手に鳴らして、芳助が飛び込んできた。赤いサンタ帽をかぶって両手に紙袋を提げている。

 

「クラッカー買ってきた! あとパーティー帽子! あと、これ、うちの近所の駄菓子屋で一番高いやつ!」

 

「……うるせえ」

 

「日景! メリークリスマス! 会長は!? 会長はまだ!?」

 

「まだだ」

 

 その後ろから、鳶丸が黒いコートのポケットに手を突っ込んだまま、のっそりと入ってきた。

 

 手に白い箱を一つ提げている。

 

「……ほらよ。ケーキ」

 

「え、殿下、ケーキ買ってきたんすか!?」

 

「親父の秘書が、得意先から山ほどもらってきやがったんだよ。家で余ってただけだ」

 

 ぶっきらぼうに言って、鳶丸は白い箱をカウンターの上に置いた。

 

 晴華が目を輝かせて飛びついていく。

 

「うわあ、苺のショートケーキだ! ありがとうございます、槻司さん!」

 

「……おう」

 

 鳶丸は、少しだけ居心地悪そうに、晴華から目を逸らした。

 

 そして最後に。

 

「――お邪魔します」

 

 金鹿が、大きな風呂敷包みを両腕に抱えて入ってきた。

 

 マフラーに顎を埋めて、いつものそっけない顔で。

 

「うちの親父から。……クリスマスに持ってくもんじゃないって言ったんだけど、聞かなくて」

 

 風呂敷をほどくと、中から大皿に山盛りの餃子が現れた。

 

 まだ湯気が立っている。焼きたてだった。

 

「……まっどべあの餃子」

 

 草十郎が樅の木の前から、ぴくりと顔を上げた。

 

「静希くんの分もちゃんとあるから。……年明けから、またバイト来るんでしょうね」

 

「ああ。行くよ」

 

「なら、いいわ」

 

 金鹿は大皿をカウンターに置くと、ちらりと鳶丸の方を見た。

 

 鳶丸は、芳助にクラッカーを押しつけられて、面倒くさそうに顔をしかめていた。

 

 金鹿はすぐに目を逸らした。

 

 その耳の先が、ほんの少しだけ赤かった。

 

 忉利はそれに気づいた。

 

 気づいたが、何も言わなかった。

 

「――で、会長は?」

 

 芳助がきょろきょろと店の中を見回した。

 

「会長、まだ来てないのか? 主役なのに?」

 

「主役ってなんだよ」

 

「会長だろ、どう考えても主役は!」

 

 その時。

 

 ドアベルが、からん、と控えめに鳴った。

 

 扉の前に青子が立っていた。

 

 いつもの制服ではなかった。

 

 深い青色の厚手のウールのワンピース。その上に白いコート。長い髪は珍しく、首の後ろで緩く一つにまとめて、小さな銀色の髪留めで留めている。

 

 手に小さな紙袋を一つ提げていた。

 

「……遅くなって、ごめんなさい。ちょっと寄るところがあって」

 

 店の中が一瞬、静まり返った。

 

「…………あ、青子ちゃん! かわいい!!」

 

 真っ先に声を上げたのは、晴華だった。

 

 カウンターから飛び出して青子に抱きつく。

 

「すっごい、すっごいかわいい! それ新しい服!? ねえ、お兄ちゃん、見て見て! 青子ちゃん、すっごいかわいいよ!」

 

「……見てるよ」

 

 忉利はカウンターの内側で、ポットを持ったまま、立ち尽くしていた。

 

 晴華の肩越しに、青子と目が合った。

 

 青子は一瞬、忉利の顔を見て――それから、ぱっと目を逸らした。

 

 頬が見る見るうちに赤く染まっていく。

 

「……な、なによ。じろじろ見ないでよ」

 

「見てねえよ」

 

「見てるじゃない!」

 

「……見てるって言ったのは、晴華だろ」

 

 芳助が鳶丸の袖を、ぐいぐいと引っ張った。

 

「殿下、殿下! あれ絶対そうですよね!? あの二人、絶対そうですよね!?」

 

「うるせえ。黙って餃子食ってろ」

 

「でもでも――」

 

 鳶丸が芳助の口に餃子を一つ押し込んだ。

 

 金鹿が呆れたように溜息をついた。

 

 窓際の席で、有珠が何の感情もない目で、その光景を眺めていた。

 

 外套の中で、ロビンが小さく震えていた。笑いをこらえているらしかった。

 

 

◇

 

 

 カウンターの奥で、忉利は有珠の茶葉で紅茶を淹れていた。

 

 ポットとカップを湯で温める。茶葉を量る。沸騰したての湯を、高い位置から勢いよく注ぐ。

 

 砂時計をひっくり返す。

 

 隣で青子が、カウンターの端のいつもの席に座って、頬杖をついていた。

 

 忉利の手元をじっと見ている。

 

「……さっき、どこ寄ってたんだよ」

 

「別に。……ちょっとね」

 

「ちょっとって、なんだよ」

 

「ちょっとは、ちょっとよ」

 

「お前の『ちょっと』は信用できねえ」

 

「あんたに言われたくないわよ」

 

 砂時計の砂が落ちきる、十秒前。

 

 忉利は茶漉しを通して、カップに紅茶を注いだ。

 

 琥珀色の液体。甘い香り。

 

「有珠のだ。……持ってってくれ」

 

「自分で持ってきなさいよ」

 

「手、塞がってんだよ」

 

 青子はぶつぶつ言いながらも、カップを受け取って、窓際の席へと運んでいった。

 

 有珠の前にカップを置く。

 

 有珠は黙って、それを両手で包んだ。

 

 一口。

 

「…………」

 

 何も言わなかった。

 

 ただ、もう一口、飲んだ。

 

 それから、樅の木の枝に最後の星を吊るし終えた草十郎の方を見て、ほんのわずかに――本当にわずかに、目を細めた。

 

「……悪くないわ」

 

 独り言のような声だった。

 

 青子はそれを聞いて、少しだけ笑った。

 

 

◇

 

 

 夜が更けるにつれて、店はどんどん騒がしくなっていった。

 

 芳助がクラッカーを鳴らしすぎて、晴華に怒られた。鳶丸が、父に勧められて珈琲を一口飲み、「……うめえ」と真顔で呟いた。金鹿が、父のブレンドの値段を訊いて、原価計算を始めた。草十郎が、まっどべあの餃子を黙々と食べ続け、大皿の半分を一人で空にした。

 

 有珠は窓際の席から一歩も動かなかった。

 

 けれど、晴華が何度も話しかけに来るのを、追い返しもしなかった。

 

「ねえねえ、有珠さん。有珠さんって、青子ちゃんと一緒に住んでるんでしょ? お兄ちゃん、ちゃんとしてる? 迷惑かけてない?」

 

「……毎朝、台所であの泥を煮出しているわ」

 

「泥?」

 

「珈琲のことよ」

 

「あー、お兄ちゃん、朝は絶対珈琲飲むもんね。……ごめんね、有珠さん。お兄ちゃん、昔からああなの」

 

「知っているわ」

 

 有珠は紅茶を一口飲んだ。

 

「……でも、あの子の淹れる紅茶は、悪くないわ」

 

 晴華はぱっと顔を輝かせた。

 

「でしょ!? お兄ちゃん、紅茶だけはお父さんより上手なんだよ! お父さん、紅茶だけは苦手だから!」

 

「……そうなの」

 

「うん! だから、お兄ちゃんがお屋敷に行っちゃってから、うちの紅茶、あんまり美味しくないんだ」

 

 晴華は少しだけ、寂しそうに笑った。

 

 有珠は晴華の顔をじっと見つめた。

 

 それから、カップを置いて、小さく言った。

 

「……たまには、帰らせるわ」

 

「ほんと!?」

 

「ええ。……たまには、ね」

 

 

◇

 

 

 九時を過ぎた頃、父がカウンターの奥から小さな包みを一つ持ってきた。

 

 古い茶色い布でくるまれた、手のひらくらいの大きさのもの。

 

 忉利の前にことりと置く。

 

「……なんだよ、これ」

 

「開けろ」

 

 忉利は布をほどいた。

 

 中から古いネルのフィルターと、使い込まれた木の柄のドリッパーが出てきた。

 

 布の部分は、何百回、何千回と珈琲を濾してきたせいで深い茶色に染まっている。木の柄は、手の脂を吸って、艶やかに光っていた。

 

 忉利はそれを見た瞬間、息を止めた。

 

「……これ、親父の」

 

「最初に使ってたやつだ。店を開けた時の。……お前にやったのは、その次のだ」

 

 父はカウンターを拭きながら、振り返らずに言った。

 

「屋敷で中坊の頃のネルで淹れてんだろ。……あれは、もう、布が薄い。味が落ちる」

 

「…………」

 

「持ってけ」

 

 忉利はしばらく、手の中のネルを見下ろしていた。

 

 深い茶色。父の手の形に少しだけ歪んだ木の柄。

 

 この店で何十年も、毎朝、毎朝、同じ手つきで振られてきたもの。

 

「……いいのかよ」

 

「いいから、やってる」

 

 父はようやく振り返った。

 

 いつもと同じ、無口な職人の顔だった。

 

「どこにいても、うまいもん淹れろ。……それだけだ」

 

 忉利は何も言えなかった。

 

 ただ、ネルを両手で、そっと包み込んだ。

 

 カウンターの端で、青子が黙ってその光景を見ていた。

 

 目の縁が少しだけ赤かった。

 

 

◇

 

 

 十時。

 

 クリスマス会はお開きになった。

 

 芳助は鳶丸に首根っこを掴まれて、引きずられるように帰っていった。「殿下、まだ二次会が!」「ねえよ」という声が、夜の商店街に遠ざかっていく。

 

 金鹿は空になった大皿を風呂敷に包み直して、最後に振り返った。

 

「……ごちそうさま。珈琲、おいしかった」

 

 父にぺこりと頭を下げる。

 

 それから青子と忉利を見た。

 

「年明け、生徒会、ちゃんと来てよね。予算の締め、まだ終わってないんだから」

 

「わかってるわよ」

 

「日景も。……たまには、手伝いなさいよ」

 

「なんでおれが」

 

「会長の、共犯者なんでしょ」

 

 金鹿はそれだけ言って、ぷいと背を向けて帰っていった。

 

 忉利と青子は顔を見合わせた。

 

「……お前、なんか言ったのか」

 

「い、言ってないわよ!」

 

 店の前の歩道に四人が並んだ。

 

 青子。忉利。草十郎。有珠。

 

 有珠の外套の中で、ロビンが満足そうに膨らんでいる。晴華が、こっそり生クリームを分けてやったらしかった。

 

 晴華が店の扉から顔を出した。

 

「お兄ちゃん、今日もお屋敷に帰るの?」

 

「……ああ」

 

「そっか」

 

 晴華は少しだけ唇を尖らせた。

 

 それから、にっと笑った。

 

「でも、有珠さんがたまには帰らせてくれるって言ってたもんね! お正月は、帰ってきてよ! おせち、一緒に食べるんだから!」

 

「……ああ。わかったよ」

 

「青子ちゃんも! 静希さんも! 有珠さんも! みんなで来てね!」

 

 青子が少しだけ困ったように笑った。

 

「……ええ。お邪魔するわ」

 

「約束だよ!」

 

 店の奥から父の声がした。

 

「晴華。閉めるぞ」

 

「はーい!」

 

 晴華は最後に大きく手を振って、店の中に引っ込んだ。

 

 扉が閉まる。

 

 ガラス越しに、父がネルを洗っている背中が見えた。

 

 その背中が、一瞬だけ、手を止めた。

 

 振り返らなかった。

 

 ただ、片手を、ほんの少しだけ持ち上げた。

 

 忉利はガラス越しにそれを見た。

 

 それから、小さく頷いた。

 

 

◇

 

 

 坂道を四人で上っていった。

 

 商店街の灯りが背中の方で、少しずつ遠ざかっていく。

 

 冬の夜気が頬を刺す。吐く息が白い。

 

 誰も何も喋らなかった。

 

 けれど、先週までの張り詰めた沈黙ではなかった。

 

 ただ、満ち足りた静かな沈黙だった。

 

「……あ」

 

 有珠が小さく声を上げた。

 

 立ち止まって夜空を見上げている。

 

 四人は同じように空を見上げた。

 

 白いものが、ひらひらと舞い降りてきていた。

 

「雪」

 

 草十郎がぽつりと言った。

 

「三咲に来て、初めて見たな」

 

「……今年、初めてね」

 

 青子が手のひらを、空に向けて差し出した。

 

 白い欠片が一つ、その上に舞い降りて、すうっと溶けた。

 

「ホワイトクリスマスってやつか」

 

 忉利は父のマフラーに顎を埋めた。

 

 雪は少しずつ、少しずつ量を増していった。坂道のアスファルトに、屋敷へと続く石段に、両脇の木々の枝に、白く、薄く、降り積もっていく。

 

 青子がふと、忉利の袖を掴んだ。

 

「……ねえ、忉利」

 

「なんだよ」

 

 青子はコートのポケットから、小さな紙袋を取り出した。

 

 店に来た時に手に提げていたもの。

 

「これ。……クリスマスだから」

 

 忉利は紙袋を受け取った。

 

 中から白い陶器のマグカップが一つ出てきた。

 

 飾り気のない、分厚いどっしりとしたマグカップ。取っ手の付け根に小さく、青い釉薬で、線が一本だけ引かれていた。

 

「……さっき寄ってたの、これか」

 

「あんた専用の珈琲のカップよ。屋敷の食器、全部紅茶用でしょ。……あのカップで珈琲飲まれると、有珠が怒るから」

 

「…………」

 

「有珠には、内緒よ」

 

「聞こえているわ」

 

 すぐ後ろで有珠の平坦な声がした。

 

「――っ!」

 

 青子が飛び上がった。

 

 有珠は、何事もなかったかのように、雪の中を歩いていく。

 

「……そのカップなら、許してあげるわ。台所の窓を開けて、朝の一杯だけなら」

 

「え」

 

「それ以上は、駄目よ」

 

 有珠は振り返らずに言った。

 

「……それと、草十郎」

 

 草十郎が顔を上げた。

 

 有珠が初めて、その名前だけで呼んだ。

 

 外套のポケットから小さな包みを取り出して、振り返らずに後ろ手に差し出す。

 

「……これ」

 

 草十郎は包みを受け取った。

 

 中から革の作業用の手袋が出てきた。

 

 庭仕事のための、分厚い丈夫な手袋。

 

「庭の手入れ。……素手でやっていたでしょう。棘で手が傷だらけだったわ」

 

 草十郎は手袋をじっと見下ろしていた。

 

 それから、綿入れの懐から何かを取り出した。

 

 小さな木彫りの鳥だった。

 

 手のひらに乗るくらいの大きさの、駒鳥の形をした木彫り。素朴な、けれど丁寧な刃物の跡が一面に残っている。

 

「……俺からも」

 

 草十郎はそれを、有珠の手のひらにそっと乗せた。

 

「この一週間、夜に少しずつ彫ったんだ。……山だと、冬の夜はみんなこうしていたよ」

 

 有珠は手のひらの上の木彫りの駒鳥を、じっと見つめた。

 

 何も言わなかった。

 

 外套の中からロビンが顔を出した。

 

「な、なんで木の駒鳥ッスか!? 本物の駒鳥がここにいるのに!?」

 

「ロビン」

 

「なんでもないッス……」

 

 有珠は木彫りの駒鳥を、外套の内ポケットにそっとしまった。

 

 それから、また歩き出した。

 

「……ありがとう」

 

 雪の中で、その声はほとんど聞こえないほど小さかった。

 

 けれど、草十郎はちゃんと聞いていた。

 

 忉利は手の中のマグカップを見下ろしていた。

 

 白い陶器。取っ手の付け根の青い線。

 

 それから、コートのポケットに手を突っ込んで、中のものを握りしめた。

 

 小さな四角い缶。

 

「……青子」

 

「なによ」

 

「これ」

 

 忉利は缶を青子の手に押しつけた。

 

 ぶっきらぼうに。視線を逸らしたまま。

 

 青子はきょとんとして、手の中の缶を見下ろした。

 

 紅茶の缶だった。

 

 ダージリン。それも、忉利の父の店では扱っていない、少し値の張る上等な茶葉。

 

「…………あんた、これ」

 

「屋敷で飲むなら、紅茶だろ」

 

 忉利は雪の降る夜空を見上げたまま、言った。

 

「おれが淹れてやるよ。……十秒、短くな」

 

 青子はしばらく、手の中の缶を見つめていた。

 

 それから、ゆっくりと顔を上げた。

 

 雪の中で、その頬が赤く染まっていた。

 

「……バカじゃないの」

 

「知ってる」

 

「珈琲屋の息子が、紅茶の缶とか」

 

「うるせえな。いらねえなら返せ」

 

「いらないなんて、言ってないでしょ!」

 

 青子は缶を胸に抱きしめた。

 

 それから、ぷいと顔を背けて、早足で坂を上り始めた。

 

 耳の先が、雪の白さの中で真っ赤だった。

 

 忉利はその背中を追った。

 

 小さい頃から、ずっとこの距離だった。肩が触れるか触れないか。青子の歩幅は忉利より少し広くて、だから意識して合わせないと、いつの間にか半歩前を行かれてしまう。

 

 忉利は歩幅を合わせた。

 

 隣に並ぶ。

 

 青子は何も言わなかった。

 

 ただ、ほんの少しだけ歩く速さを緩めた。

 

 

◇

 

 

 坂の上の洋館に明かりが灯っていた。

 

 出かける前に、有珠が玄関ホールのランプを点けておいたらしい。雪の中で、その橙色の光がぼんやりと、温かく滲んでいる。

 

 重い扉を開ける。

 

 暖炉にはまだ熾火が残っていた。

 

 草十郎が慣れた手つきで、新しい薪をくべる。火がぱちりと爆ぜて、また燃え上がる。

 

 有珠は外套を脱いで、暖炉の前のいつもの椅子に腰を下ろした。ロビンが止まり木に飛び移って、満足そうに羽を膨らませる。

 

 青子は、ソファに身を沈めて、胸に抱えた紅茶の缶をじっと見つめていた。

 

 忉利は台所に向かった。

 

 湯を沸かす。

 

 棚から有珠の茶葉を取り出す。それから、青子にもらったばかりのダージリンの缶も。

 

 ポットを温める。

 

 隣の調理台の上に、父にもらったネルと、青子にもらった白いマグカップを並べて置いた。

 

 明日の朝はこれで淹れよう。

 

 台所の窓を開けて、朝の一杯だけ。

 

 ふと意識を向けた。

 

 線が、見えた。

 

 居間の方から、細い線が何本も伸びていた。

 

 草十郎の胸から。前へ、前へと、ゆっくりと流れていく線。

 

 有珠の胸から。同じように、静かに、どこまでも続いていく線。

 

 青子の胸から。ほんの少し先で、くるりと輪を描いて止まっている、青く澄んだ線。

 

 そして、自分の胸から伸びる線が、その青い線と固く、固く、結び目を作っていた。

 

 いつか、止まる。

 

 二人だけ置いていかれる。

 

 草十郎も、有珠も、晴華も、父も、みんな、自分たちより先に歳を取っていく。

 

 けれど。

 

 今は、まだ。

 

 四本の線は、同じ方向に、同じ速さで、並んで流れていた。

 

 同じ屋根の下で。同じ暖炉の火に照らされて。

 

 明日も。明後日も。その次の日も。

 

 忉利は目を閉じて、線を見るのをやめた。

 

 沸騰した湯をポットに注ぐ。

 

 茶葉がガラスの中で、くるくると踊り始めた。

 

 砂時計をひっくり返す。

 

「――忉利ー! 紅茶、まだー?」

 

 居間から青子の声がした。

 

「今、淹れてる」

 

「早くしなさいよ! 有珠が待ってるわよ!」

 

「わたしは待っていないわ」

 

「待ってるじゃない! さっきからずっと台所の方見てるくせに!」

 

「……見ていないわ」

 

「静希くんは? 静希くんも飲むわよね?」

 

「ああ。もらうよ」

 

「ロビンは?」

 

「おいらは生クリームがいいッス!」

 

「ないわよ、そんなの!」

 

 騒がしい声が、居間から台所まで響いてくる。

 

 忉利は小さく溜息をついた。

 

 それから、少しだけ笑った。

 

 砂時計の砂が落ちきる、十秒前。

 

 四つのカップに、琥珀色の紅茶を注いでいく。

 

「――ほらよ。できたぞ」

 

 盆を持って居間に向かう。

 

 暖炉の火。三人の顔。一羽の駒鳥。

 

 窓の外では、雪が静かに、静かに、降り積もっていた。

 

 坂の上の洋館の長い冬の夜は、まだ、始まったばかりだった。

 

 そして明日の朝も、きっと。

 

 台所の窓を開けて、珈琲の匂いを逃がしながら。

 

 四人と一羽の騒がしい一日が、また、始まるのだ。




一旦完結しましたね、あとは後日談という名の、好き勝手タイムです。

あ、でもちょくちょく、ちゃんとしたやつ書くと、思います、たぶん。

まほよ好きなんですけど、あんまり草十郎が好きになれなかったんですよね。
まあ一ファンの意見なので、共感できる人は少ないと思います。

あと、青子が結局、一人で旅するのさみしそうだなーって勝手に思って書いたのがきっかけでしたね。でも青子についてこれるような人って、だいぶぶっ壊れ性能じゃないと無理だよなーって。そんなこんなでこうなりました。



気が向いたらアンケートお願いします。

でも、アルクは志貴以外あんま考えられないし、橙子はマジで想像つきません。難産なります。多分。

気分とある程度票が固まったら締め切ります。 

シエルの小説満足度調査

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