お正月のHIKAGE
元日の朝、五時半。
久遠寺邸の台所には、まだ夜の名残の冷気が石の床に沈んでいた。
日景忉利は窓を少しだけ開けた。
冷たい空気が細く流れ込んでくる。坂の下の町はまだ眠っていた。遠くの寺から、除夜の鐘の余韻のような鈍い鐘の音がひとつだけ聞こえた。
湯を沸かす。
父にもらった手回しのミルで豆を挽く。ごり、ごり、と。
調理台の上に、父の古いネルと青子にもらった白いマグカップを並べる。
ネルに粉を落とし、湯を細く注いだ。
粉が膨らむ。泡がゆっくりと沈んでいく。
中学の頃から使ってきた薄くなったネルとは、まるで違った。布の目が、粉を抱え込むように受け止めて、湯を急がせず、けれど滞らせず、ちょうどいい速さで通していく。
父の手が何十年もかけて馴染ませてきた布だった。
「……やっぱ、全然違えな」
マグカップに黒い液体が満ちていく。
深煎りの香りが、開けた窓の隙間から夜明け前の空へと逃げていった。
「日景」
「……お前、毎朝この時間に起きてくんのな」
振り返らなくてもわかった。
台所の入り口に、草十郎が立っていた。綿入れを羽織って、左腕の三角巾はもう外れている。まだ少し動きがぎこちない。
「山だと、元日はもっと早く起きたよ」
「なんでだよ」
「初日の出を、峠まで拝みに行ったんだ」
「……ここからでも、見えんのか」
「たぶん見えるよ。屋敷の東の露台から」
草十郎は少しだけ首を傾げた。
「日景も来るか?」
忉利はマグカップを持ったまま、しばらく考えた。
それから、もう一つ食器棚からカップを取り出した。
「一杯だけだぞ」
「ああ」
◇
東の露台に出ると、空は群青から紫へ、紫から淡い橙へと、ゆっくり色を変え始めていた。
丘の向こう、町の東の外れの稜線が、細く金色に縁取られていく。
草十郎は手すりの前で、静かに両手を合わせた。
忉利は隣で、マグカップを両手で包んでいた。
「……何、祈ってんだよ」
「祈ってはいないよ。挨拶をしているんだ」
「挨拶」
「山だと、お日様に今年もよろしくと言うんだ。それだけだよ」
草十郎は目を閉じたまま言った。
「願い事は、自分でやるものだから」
忉利は少しだけ笑って、珈琲を一口飲んだ。
背後で硝子戸が開く音がした。
「――二人して、何やってるのよ、こんな時間に」
青子だった。
寝間着の上にいつもの大きなカーディガン。髪は寝癖で少し跳ねている。
「初日の出」
「……あんたたち、そういうキャラだった?」
「静希に誘われたんだよ」
青子は呆れたように溜息をついて、それから忉利の隣の手すりにもたれた。
ちょうどその時、稜線の向こうから、最初の光が一筋差し込んできた。
三人の顔を金色に照らす。
「……あけましておめでとう」
青子がぽつりと言った。
「今年も、よろしく」
「……ああ。よろしく」
「よろしく頼む、蒼崎」
しばらく三人とも黙って、昇っていく日を見ていた。
それから、青子がふと鼻をひくつかせた。
「……忉利。それ、珈琲よね」
「一杯だけだ。窓も開けてる」
「私の分は?」
「……お前、紅茶派になったんじゃなかったのかよ」
「元日くらい、いいでしょ」
忉利は手の中のマグカップを見下ろした。
それから黙って、青子に差し出した。
青子は両手でそれを受け取って、一口飲んだ。
白いマグカップの取っ手の付け根の、青い線。
「……おいしい。ネル、変えるとこんなに違うのね」
「親父のだからな」
青子はもう一口飲んで、それから、はっと気づいたように手元のカップを見た。
自分が贈った忉利専用のカップ。
そこに口をつけている。
「――っ」
青子の顔が朝日の中で、見る見るうちに赤くなった。
「か、返すわよ、これ!」
「まだ残ってんぞ」
「いいから!」
押しつけられたマグカップを受け取って、忉利は首を傾げた。
隣で草十郎が、朝日を見たままぽつりと言った。
「蒼崎は朝から顔が赤いな」
「日の出のせいよ!!」
露台の下の庭で、止まり木から抜け出してきたロビンがけたけたと笑い声を上げた。
◇
昼前、Cafe HIKAGEの前に三人と一羽が立っていた。
正確には、二人と一人と、外套の中の一羽だった。
「……蒼崎は」
「実家に寄ってくるってさ。朝飯の後、出てった」
「そうか」
有珠は店の扉の前で立ち止まっていた。
黒い外套の襟を立てて、眉間にほんのわずかな皺を寄せている。
「……正月まで、泥の匂いを嗅がされるのね」
「今日は、おせちの匂いのほうが強えよ。たぶん」
扉を開ける。ドアベルが、からん、と鳴った。
店の中は、いつもと少しだけ違っていた。
カウンターの上に重箱が三段、並べられていた。黒漆に金の蒔絵。窓際のテーブルには、白い布がかけられ、その上に小さな鏡餅が一つ、ちょこんと載っている。
そして、珈琲の香りに混じって、昆布と鰹の柔らかな出汁の匂いが、店じゅうに満ちていた。
「――お兄ちゃん! あけましておめでとう!」
晴華がエプロン姿で厨房から飛び出してきた。
「静希さんも! 有珠さんも! あけましておめでとうございます!」
「……おめでとう」
「あけましておめでとう、晴華」
草十郎が律儀に頭を下げる。有珠は小さく頷いただけだった。
「青子ちゃんは?」
「実家寄ってから来るって」
「そっか! じゃあ、先にお雑煮あっためとくね!」
晴華は厨房に戻りかけて、ふと足を止めた。
くるりと振り返って、忉利の顔をじっと覗き込む。
「……ねえ、お兄ちゃん。クリスマスの時から、ずっと気になってたんだけど」
「なんだよ」
「その目。……カラコン?」
「入れてねえよ」
「えー、だって、青いよ? ふちっこのとこ。ほら、ここ」
晴華は自分の目の縁を、指でぐるりと示した。
「光の加減だろ」
「そうかなあ。……なんか、きれいだけど」
晴華は首を傾げながら、厨房に消えていった。
カウンターの奥で、父が鍋の火加減を見たまま、ちらりと忉利の目を見た。
長いこと見ていた。
「……目は、悪くなってないか」
「……むしろ、よく見える」
「そうか」
父はそれだけ言って、また鍋に目を戻した。
カウンターの奥で、父が鍋の火加減を見ていた。
いつもの無口な横顔。けれど、今日はエプロンの下に、少しだけ上等なセーターを着ていた。
「……よく来たな」
「あけましておめでとうございます、日景さん」
草十郎がまた頭を下げる。
「……ああ。おめでとう」
父は有珠の方を見た。
「紅茶は、忉利に淹れさせる。……それまで、出汁の匂いで我慢してくれ」
「…………ええ」
有珠は窓際の、鏡餅の置かれた席にそっと腰を下ろした。
出汁の匂いを少しだけ深く吸い込んで。
眉間の皺が、ほんのわずかに緩んでいた。
◇
ドアベルが、からん、と控えめに鳴った。
「……遅くなって、ごめんなさい」
青子の声だった。
店の中の全員が振り返った。
そして、全員が言葉を失った。
扉の前に振袖姿の青子が立っていた。
深い藍色の地に、白と銀の雪輪の模様。帯は淡い金色。長い髪はきっちりと結い上げられて、小さな銀の簪が一本、挿されている。
いつもの背筋のまっすぐな立ち姿。
けれど、今日はその背筋が、ほんの少しだけ居心地悪そうに強張っていた。
「……お母さんに捕まったのよ。朝ご飯食べてたら、いきなり箪笥から出してきて」
青子は袖の端を、落ち着かなさそうにいじっていた。
「今年くらいちゃんとしなさいって。……ほんと、何年ぶりかしら、こんなの着るの」
「――青子ちゃん!!」
晴華が悲鳴に近い声を上げて、飛びついていった。
「かわいいかわいいかわいい!! すっごい、お姫様みたい!! ねえ、お父さん、見て! お兄ちゃん、見て!!」
「……見てるよ」
忉利はカウンターの内側で、紅茶のポットを持ったまま立ち尽くしていた。
晴華の肩越しに、青子と目が合った。
青子は一瞬、忉利を見て――それから、クリスマスの時と同じようにぱっと目を逸らした。
頬が赤かった。
「……な、なによ」
「別に」
「なんか言いなさいよ」
「……なんかって、なんだよ」
「なんかは、なんかよ!」
忉利はポットをカウンターに置いた。
しばらく、青子の姿を黙って眺めていた。
藍色の振袖。雪輪の模様。結い上げた髪。銀の簪。
それから、気だるげにぽつりと言った。
「……似合ってんじゃねえの」
店の中がしんと静まり返った。
青子の顔が耳の先から首筋まで、見る見るうちに真っ赤に染まっていった。
「――――っ」
何か言い返そうとして口をぱくぱくさせて、結局、何も言えずにぷいと顔を背けた。
晴華が両手で口を押さえて、目を輝かせていた。
窓際の席で、有珠が無表情のまま小さく首を振った。
草十郎が首を傾げた。
「日景。今の蒼崎は、怒っているんだろうか」
「……知らねえよ」
「怒ってないわよ!!」
カウンターの奥で、父が鍋の火を止めた。
その口元が、ほんのわずかに動いたように見えた。
◇
おせちは父の手作りだった。
黒豆。数の子。田作り。伊達巻。紅白なます。栗きんとん。昆布巻き。一段目から三段目まで、ぎっしりと色とりどりに詰められている。
「すごいな」
草十郎が重箱を覗き込んで、目を丸くした。
「山の正月は、餅と干した川魚だけだったよ」
「これ全部、お父さんが作ったんだよ! 毎年、大晦日の夜に一人で黙々と!」
「……喫茶店のまかないの延長だ」
父はぶっきらぼうに言って、湯気の立つお椀を一人一人の前に置いていった。
澄まし汁の雑煮。角餅が二つ。鶏肉と、小松菜と、かまぼこ。上に柚子の皮がひとひら。
「いただきます」
全員で手を合わせる。
忉利は雑煮を一口すすった。
出汁の味。柚子の香り。毎年、同じ味。
隣で青子が、振袖の袖を押さえながら慎重に餅を箸でつまんでいた。
「……おいしい。おじさんのお雑煮、久しぶり」
「毎年食べてたじゃん、青子ちゃん!」
「去年は、食べてないもの」
青子は少しだけ寂しそうに笑った。
「屋敷に移ってからは、初めてね」
晴華が何か言いかけて、口をつぐんだ。
それから、にっと笑って青子の皿に伊達巻を三切れ、どさりと載せた。
「じゃあ、去年の分も食べて!」
「ちょ、晴華ちゃん、多いって!」
テーブルの向かい側で、草十郎は黙々と黒豆を食べていた。一粒一粒、丁寧に箸でつまんで。
その隣で。
有珠が箸を持ったまま、固まっていた。
有珠の前の小皿には、栗きんとんが一匙載っていた。
それを箸でつまもうとしている。
つまめない。
箸の先が柔らかなきんとんの表面を滑って、つるりと逃げる。もう一度。また逃げる。もう一度。今度は箸の先が交差して、きんとんが小皿の縁まで押し出される。
有珠の眉間に深い皺が刻まれていた。
無言で、もう一度挑む。
「…………」
箸の先がきんとんを挟んだ。
持ち上げる。
途中でぽろりと落ちた。
小皿の上にぺしゃりと。
「……有珠さん」
晴華がそっと声をかけた。
「もしかして、お箸、苦手?」
「…………苦手ではないわ」
有珠は箸を握りしめたまま、低い声で言った。
「この食べ物が、柔らかすぎるだけよ」
「栗きんとんは、柔らかいもんね」
「…………」
有珠はもう一度、挑んだ。
また落ちた。
晴華は少しだけ考えて、それから席を立った。
厨房に行って、すぐに戻ってくる。手に銀色の小さなデザートスプーンを持っていた。
「はい。これ、使って」
有珠は差し出されたスプーンを、じっと見つめた。
それから晴華の顔を見た。
晴華はにこにこと笑っていた。からかうような色は、どこにもなかった。
「わたしも昔、栗きんとんと黒豆は、スプーンで食べてたの。お兄ちゃんに、お子様って笑われたけど」
「笑ってねえよ」
「笑ってたもん!」
有珠はしばらく黙っていた。
それから箸を置いて、スプーンを受け取った。
栗きんとんをすくう。
口に運ぶ。
咀嚼する。
「…………」
表情は変わらなかった。
けれど、もう一匙すくった。
それからもう一匙。
「……甘いわね」
「でしょ! お父さんの栗きんとん、甘さ控えめなんだけど、それでも甘いの!」
「……悪くないわ」
晴華がぱっと顔を輝かせた。
青子が振袖の袖で口元を隠して、肩を震わせていた。
忉利は雑煮をすすりながら、有珠の小皿に黙って黒豆を一匙分、取り分けてやった。
有珠はちらりと忉利を見た。
何も言わなかった。
ただ、黙ってスプーンで黒豆をすくった。
◇
昼過ぎ、五人は町の西の外れの古い神社へ初詣に出かけた。
父は店番に残った。「正月くらい、休めばいいのに」と晴華が言うと、「年始の挨拶に来る常連がいる」とだけ答えた。
神社の石段は参拝客で賑わっていた。
赤い鳥居。屋台の甘酒の湯気。羽子板の音。どこかで子供が凧を揚げている。
青子は鳥居をくぐる時、ほんの一瞬だけ足を止めた。
境内の奥、本殿の脇に苔むした大きな石が一つ、注連縄を巻かれて鎮座していた。
「……ここ、だったよな」
忉利は小声で言った。
あの一ヶ月、網を削られた場所の一つとして、有珠が地図に赤い印をつけていた神社。
「ええ」
青子も小声で答えた。
忉利は意識を向けた。
線が、見えた。
注連縄の巻かれた石から細い線が何本も、何本も、四方へと伸びていた。地面の下へ。町の方へ。丘の方へ。まるで大きな木の根のように。
どの線もきちんと繋がっていた。
切られた痕も、ほどけた痕もどこにもない。
「……直ってる」
「年末に、有珠と二人で繕ったのよ」
青子は少しだけ得意げに言った。
「あの人ほど上手くはないけどね。……でも、ちゃんと元通り」
忉利は線を見るのをやめた。
隣の青子の横顔を見る。
振袖の襟元から覗く白いうなじ。結い上げた髪。銀の簪。
その胸から伸びるあの青い線は、今日も、ほんの少し先で忉利の線と結び目を作っていた。
「……なによ、じろじろ見て」
「見てねえよ」
「見てたわよ」
「簪、曲がってんぞ」
「えっ、嘘!?」
青子が慌てて髪に手をやる。
忉利は何も言わずに、その簪をそっと指で直してやった。
青子は固まった。
それから、また耳の先まで真っ赤になった。
「……じ、自分で直せるわよ」
「曲がってたの、見えてなかっただろ」
「うるさいわね!」
少し後ろで、晴華が有珠の袖をくいくいと引っ張っていた。
「ねえねえ、有珠さん。お兄ちゃんと青子ちゃんって、あれ、絶対――」
「……知らないわ」
「えー、絶対知ってるでしょ、同じお屋敷に住んでるんだから!」
「知らないと、言っているでしょう」
有珠は無表情のまま、境内の奥へと歩いていった。
その後ろを、草十郎がきょろきょろと周りを見回しながらついていく。
「有珠。あの、紙を木に結んでいるのは何だろう」
「……おみくじよ」
「おみくじ」
「神様の占いのようなものね。……引いて良くなければ、ああして結んでいくの」
「占いは、有珠もするのか」
「わたしは自分でするわ。……神様に占ってもらう必要は、ないもの」
結局、おみくじは有珠以外の四人で引いた。
「――やった! 大吉!」
晴華が紙を掲げて飛び跳ねた。
「『願い事、叶う』『学業、努力すれば実る』『恋愛、焦らず待て』だって! やったー!」
「恋愛ってなんだよ、お前まだ中二だろ」
「中二だって恋愛くらいするもん!」
草十郎は自分の紙を、じっと見つめていた。
「……小吉と書いてある」
「小吉は、まあまあってことよ」
青子が横から覗き込んだ。
「『失せ物、近くにあり』『旅行、北は吉』『商い、利益少なし』……あんたのバイト、儲からないってことね」
「そうか」
草十郎は少しだけ考えた。
「なら、四つ目のバイトを探そう」
「増やすなって言ってるでしょ!?」
忉利は自分の紙を開いた。
吉。
「『待ち人、来る』『失せ物、出る』『争い事、勝つ』……普通だな」
「普通って、一番つまらないわね」
「うるせえ。お前は」
青子は自分の紙を、まだ開いていなかった。
振袖の袖で隠すようにして、そっと紙を開く。
それから固まった。
「……青子?」
「な、なんでもないわよ」
青子は素早く紙を折りたたもうとした。
晴華が横から、ひょいと覗き込んだ。
「あ、凶だ」
「晴華ちゃん!!」
「青子ちゃん、凶だって! 珍しい!」
青子の顔が引きつった。
「……いいのよ、凶なんて。こんなのただの紙切れなんだから」
「でも、結んでいくんでしょ? 悪いのは、木に結んで置いていくんだよね?」
「……そうよ。結んでいくわよ」
青子はぶつぶつと言いながら、境内の脇の白い紙がたくさん結ばれた木の方へと歩いていった。
忉利はその後を追った。
青子は背伸びをして、なるべく高い枝に紙を結ぼうとしていた。振袖の袖が邪魔をして、なかなか結べない。
「……貸せ」
「いいわよ、自分でやるから」
「袖、引っかかってんだろ」
忉利は青子の手から、折りたたまれた紙を取り上げた。
結ぶ前に何気なく、紙の端が少しだけ開いて、中の文字が目に入った。
凶。
その下に、小さな字でいくつかの項目が並んでいる。
『願い事、思うようにならず』。『争い事、控えよ』。『失せ物、出がたし』。
そして、いちばん下に。
『待ち人、既に傍に在り』。
「…………」
忉利は何も言わずに、その紙をいちばん高い枝にきゅっと結んだ。
「……見た?」
背後で青子が、低い声で言った。
「見てねえよ」
「見たでしょ」
「見てねえって」
「……語尾、切れてたわよ、今」
忉利は振り返った。
青子が真っ赤な顔で、忉利を睨みつけていた。
「嘘つく時、語尾一回切る癖。……あんたが私の癖、知ってるみたいに。私も、あんたの癖くらい知ってるのよ」
忉利はしばらく黙っていた。
それから、気だるげに首の後ろを掻いた。
「……凶なんだから、結んで置いてきゃいいだろ」
「――っ」
「全部、置いてけ。悪いのは」
忉利はそれだけ言って、踵を返した。
青子はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
それから、高い枝に結ばれた紙をちらりと見上げた。
それから、小さく呟いた。
「……全部は、置いていかないわよ」
誰にも聞こえない声だった。
◇
石段の下で、見知った顔と出くわした。
「――あ! 会長! 日景! 静希! あけましておめでとうございまーす!」
芳助だった。赤いマフラーを首に巻いて、手に綿菓子を持っている。
その後ろに、黒いコートのポケットに手を突っ込んだ鳶丸と、紺色のダッフルコートの金鹿が並んでいた。
「……よう」
鳶丸はひどく疲れた顔をしていた。
「槻司。珍しいわね、あんたが初詣なんて」
「逃げてきたんだよ」
鳶丸は忌々しそうに舌打ちをした。
「元旦は、親戚が本家に全員集まるんだ。朝から晩まで、ジジイどもの自慢話と兄貴どもの腹の探り合い。……三時間で限界だった」
「で、私の店の前をうろうろしてたから、捕まえてきたの」
金鹿がそっけなく言った。
「うちも、親父と兄貴たちが朝から酒盛りで、うるさいったらないし。……で、木乃美が、どうせ暇だろって」
「暇じゃないっすよ! 俺は殿下と金鹿の、えーと、なんだ、護衛?」
「いらねえ」
「いらない」
二人の声が見事に重なった。
芳助が、がっくりと肩を落とす。
鳶丸は青子の振袖姿を、ちらりと見た。
それから忉利の方を見た。
口の端をにやりと持ち上げる。
「……へえ」
「なによ、その顔」
「別に。……馬子にも衣装、ってやつか」
「――槻司ぃ!!」
青子が振袖の袖を振り上げた。鳶丸は笑いながら、ひらりとそれをかわした。
金鹿が呆れたように溜息をついた。
それから、ふと鳶丸の横顔を見上げた。
ほんの一瞬だけ。
すぐに目を逸らした。
忉利はそれに気づいた。
意識を向けたわけでもないのに、なぜか、金鹿の胸から伸びる線が、ほんの少しだけ鳶丸の方へ引かれるように揺れているのが見えた気がした。
忉利は目を閉じて、何も見なかったことにした。
「金鹿ちゃん、おみくじ引いた?」
晴華が金鹿の腕に飛びついた。
「……まだ」
「引こう引こう! わたし大吉だったよ! 恋愛、焦らず待てだって!」
「…………」
金鹿は一瞬だけ、固まった。
「……引かない」
「えー、なんで?」
「……なんとなく」
金鹿はマフラーに顎を埋めて、そっぽを向いた。
その耳の先が赤かった。
◇
夕方、全員で、Cafe HIKAGEに戻った。
父がストーブの前のテーブルに、古い箱を一つ出してきた。
「……トランプだ。正月は、これで遊ぶ」
「やったー! ババ抜きしよ、ババ抜き!」
晴華の号令で、八人がテーブルを囲んだ。
忉利。青子。有珠。草十郎。晴華。鳶丸。金鹿。芳助。
父はカウンターの内側から黙って珈琲を淹れながら、それを眺めていた。
カードが配られる。
一回目。
最初に上がったのは、有珠だった。
「……終わったわ」
無表情のまま、最後の二枚をすっと場に捨てる。
誰一人、有珠の手札の中身を表情から読み取れなかった。
「え、早っ! 有珠さん、強い!」
「当然よ」
有珠は紅茶のカップを傾けた。
ほんのわずかに満足げだった。
最後まで残ったのは、草十郎だった。
「……草の字。お前、なんでババ引く時だけ、そんなに嬉しそうなんだよ」
鳶丸が呆れたように言った。
「嬉しくはないよ。……ただ、蒼崎が俺の手札から引く時、ババの上で指を止めると顔が固くなるんだ。だから、わかる」
「わかってんなら、隠せよ」
「隠し方がわからないんだ」
草十郎は真顔で答えた。
「嘘がつけないから」
二回目。
最初に上がったのは、また有珠だった。
三回目。
また有珠。
四回目。
最後に残ったのは、青子と有珠だった。
青子の手札は一枚。有珠の手札は二枚。
どちらかがババだ。
店の中の全員が、息を詰めて見守っていた。
青子は有珠の手札の二枚を、じっと睨みつけていた。
有珠は無表情だった。紅茶のカップを傾けながら、窓の外を見ている。
「……右」
青子の指が右のカードに伸びる。
有珠の表情は、変わらない。
「……いや、左」
指が左に移る。
有珠の表情は、変わらない。
「……右!」
青子は右のカードを、引き抜いた。
ババだった。
「――――――っ!!」
青子がテーブルに突っ伏した。
有珠は紅茶を一口飲んで、残った一枚をそっと場に捨てた。
「……終わったわ」
「なんでよ!! なんで有珠、全然顔に出ないのよ!!」
「出す必要が、ないもの」
「四連敗よ!? 私、四連敗よ!?」
「知っているわ」
有珠はほんのわずかに――本当にわずかに、口の端を持ち上げた。
それを見た青子が、また悲鳴を上げた。
「今、笑ったでしょ!? 有珠、今、絶対笑ったでしょ!?」
「笑っていないわ」
「笑ったわよ!!」
「……もう一回、やる?」
「やるわよ!! 今度こそ、勝つんだから!!」
晴華がお腹を抱えて笑い転げていた。芳助がテーブルを叩いて笑っていた。金鹿が口元を押さえて、肩を震わせていた。鳶丸が「負けず嫌いが二人揃うと、地獄だな」と呟いた。
草十郎は次のカードを配りながら、有珠の横顔を見ていた。
「有珠は強いな」
「……当然よ」
「楽しいか」
有珠の手が一瞬だけ、止まった。
それから、カードを受け取りながら窓の外に目をやった。
「……悪くないわ」
カウンターの奥で、父が新しい珈琲を淹れていた。
ネルから落ちる黒い雫の音。
トランプを切る音。晴華の笑い声。青子の悲鳴。
忉利はその全部を、カウンターの端のいつもの席で黙って聞いていた。
ふと、目の奥の扉を少しだけ開いた。
線が、見えた。
店の中に、たくさんの線が流れていた。
晴華の線。父の線。鳶丸の線。金鹿の線。芳助の線。草十郎の線。有珠の線。
みんな、前へ、前へと同じ方向に流れていく。
その中で、二本だけ。
ほんの少し先で結び目を作っている、自分の線と、青子の線。
いつか、みんなに置いていかれる。
けれど。
今はまだ、同じテーブルを囲んでいる。
同じストーブに温まって。同じトランプで、ぎゃあぎゃあ騒いで。
忉利は目を閉じて、目の奥の扉を閉じた。
「――忉利! あんたも入りなさいよ! 有珠に勝てる奴、一人でも多い方がいいんだから!」
青子が振袖の袖をまくり上げて、叫んでいた。
「……おれ、ババ抜き弱えぞ」
「知ってるわよ! いいから、座りなさい!」
忉利は小さく溜息をついて、立ち上がった。
テーブルの、青子の隣の空いた椅子に座る。
配られたカードを手に取る。
手札の真ん中に、道化師の絵がにやりと笑っていた。
「…………」
「……あんた、今、ババ持ってるでしょ」
「持ってねえよ」
「語尾、切れたわよ」
店の中が、またどっと笑いに包まれた。
◇
夜。
坂の上の洋館へ続く道を、四人で上っていった。
振袖の青子は、慣れない草履で少し歩きにくそうだった。
有珠の外套の中で、ロビンが晴華にもらった伊達巻の切れ端を、こっそりと啄んでいる。草十郎は、晴華に持たされたおせちの残りの詰まった重箱を、大事そうに抱えていた。
「……寒い」
青子がぽつりと言った。
振袖の袖の中で両手を擦り合わせている。
「そんな薄着で出てくるからだろ」
「振袖に、コートなんて着られないでしょ」
忉利は黙って、首に巻いていた濃紺のマフラーを外した。
父の古いウールのマフラー。
それを青子の首にぐるりと巻いた。
「――っ、ちょっと」
「巻いとけ。風邪ひくぞ」
「あんたが寒いでしょ」
「おれは平気だ」
青子はしばらく、首に巻かれたマフラーを見下ろしていた。
それから、その端をそっと鼻先まで引き上げた。
ほんのかすかに珈琲の匂いがした。
「……ありがと」
くぐもった声だった。
少し先を歩いていた草十郎が、振り返った。
「蒼崎は、今日はずっと顔が赤いな」
「寒いせいよ!!」
有珠が無表情のまま、小さく溜息をついた。
坂の上の洋館に明かりが灯っていた。
四人は並んで、その明かりの方へと歩いていった。
凶のおみくじは、町の西の神社のいちばん高い枝に置いてきた。
けれど、そこに書かれていた、いちばん下の一行だけは。
青子は、置いてこなかった。
シエルの小説満足度調査
-
めちゃよかった
-
よかった
-
そこそこ
-
びみょう