ですが、クリスマスのエピソードを書いて、本編を一旦完結させたいので少しずらしてます。
―――三咲の町の北に、山がある。
鏡野の丘の、さらに奥。杉と檜の深い山。町の人間が、ほとんど足を踏み入れない場所。
その山の中に、蒼崎の家がある。
町の子供だった頃、忉利は、それを知らなかった。青子の家は、坂の下の、ごく普通の一軒家だった。ごく普通の父親と、ごく普通の母親がいて、ごく普通に、朝は牛乳を飲んでいた。
山の中に、もう一つの家があることなど、誰も、教えてくれなかった。
青子自身も、一度も、口にしなかった。
十二月二十二日。
夜のうちに、雪が降った。
久遠寺邸の玄関の前で、青子は、長靴の紐を、きつく結び直していた。
「……本当に、行くのか」
扉の脇で、忉利が訊いた。
右目の周りの血の痕は、もう、きれいに消えていた。虹彩の縁に夜明け前の青を宿した目で、雪の積もった坂道を見下ろしている。
「行くわよ」
青子は、立ち上がって、コートの襟を立てた。
「お祖父ちゃんに、報告しないと。……私が、何をしたか」
「報告して、どうすんだ」
「どうもしないわ。……ただ、言っておかないといけないの。あの人は、そういう人だから」
青子は、忉利の方を、ちらりと見た。
「それから、あんたを、見せる」
「……おれを」
「そう。あんたの目を。……あの人が、何て言うか、聞いておきたいの」
青子は、それだけ言った。
もう一つ、言わなかったことがあった。
玄関の扉が、開いた。
草十郎が、綿入れの上に、分厚い外套を羽織って出てきた。左腕は、まだ三角巾で吊っている。
「準備ができた。行こう」
「……静希くん、あんたは留守番って言ったでしょ」
「山道だ。俺の方が、慣れている」
「腕、まだ吊ってるじゃない」
「足は、動く」
草十郎は、平坦な顔で言った。
青子は、何か言いかけて、やめた。
扉の奥の、薄暗い玄関ホールに、有珠が立っていた。
黒い服。長い髪。白い顔。
三人の背中を、じっと見ていた。
「……有珠」
青子が、振り返った。
「夕方には、戻るわ」
「そう」
有珠は、それだけ言った。
それから、草十郎の方を見た。
「静希君」
「ああ」
「……帰ってきなさい」
草十郎は、少しだけ首を傾げて、それから、頷いた。
「帰ってくる。庭が、まだ、終わっていない」
有珠は、何も言わなかった。
ただ、扉が閉まるまで、玄関ホールに立っていた。
忉利は、扉が閉まる寸前、目の奥の扉を、少しだけ開いた。
有珠の線が、見えた。
傷ひとつない、磨かれた石の上を滑る水のような線。
その線が、閉じかけた扉の隙間から、草十郎の背中の方へ、細く、細く、伸びていた。
いつもより、少しだけ、強く。
まるで、行かせたくないものを、それでも行かせる時の、手のように。
忉利は、扉を閉じた。
見なかったことにした。
山道は、雪で、白く塞がっていた。
鏡野の丘を越えて、杉林に入ると、道は、もう道ではなかった。木々の間の、雪の窪みを辿っていくだけの、獣道。
草十郎が、先を歩いた。
左腕を吊ったまま、雪の深さを、足の裏で探るように。迷いのない足取りだった。
「……道、わかんのかよ」
「わかる。雪の下に、人の踏んだ跡がある。……古いが、ある」
草十郎は、振り返らずに言った。
「蒼崎は、何度も、ここを歩いたんだろう」
「……小さい頃、ね」
青子は、忉利の少し前を歩いていた。
「お祖父ちゃんのところに、遊びに行く時。父さんに、車で麓まで送ってもらって、そこからは一人で。……姉貴は、あの家で育ったから、一緒に歩いたことは、ほとんどない」
白い息が、杉の枝の間に、消えていく。
「あの家のこと、あんたには、一回も話さなかったわね」
「……ああ」
「話せなかったのよ。話したら、全部、話さなきゃいけなくなるから」
青子は、前を向いたまま言った。
「魔術のこと。蒼崎のこと。……私が、普通の女の子じゃなかったこと」
忉利は、雪を踏みしめながら、青子の背中を見ていた。
小学校の帰り道。中学の校門。三咲高校の、生徒会室。ずっと隣にいて、ずっと知らなかった。
「……お前、普通だったろ」
ぼそりと、言った。
「小学校の時、理科室の窓、割ってたし」
「……蒸し返さないでよ」
「中学の時、テープ伸びるまで同じ曲聴いてたし」
「今も聴いてるわよ、悪い!?」
青子が、振り返って、雪を一つかみ、忉利に投げつけた。
忉利は、避けなかった。
雪が、顔の真ん中に当たって、崩れた。
草十郎が、前で、少しだけ足を止めて、振り返った。
「……山では、雪を投げると、獣が寄ってくると言われていた」
「嘘でしょ」
「嘘だ」
草十郎は、真顔で言って、また、歩き出した。
青子は、口を開けたまま、しばらく固まっていた。
それから、忉利と顔を見合わせて、二人同時に、吹き出した。
杉林に、久しぶりの笑い声が、響いた。
しばらく歩いてから、忉利が、青子の背中に訊いた。
「……なあ。お前の爺さん、魔法使いなんだろ」
「そうよ」
「魔法って、結局、何なんだ。……お前、この前、今の時代の人間には届かない奇跡だって言ってたけど」
青子は、少しのあいだ、雪を踏む音だけを返していた。
「……根源、って、聞いたことある?」
「ねえよ」
「この世界の、いちばん奥。全部のものが、そこから始まって、そこに戻っていく場所。……魔術師は、みんな、そこに辿り着きたくて、何百年も、何千年も、家ごと積み重ねてるの」
「……辿り着いたら、どうなんだよ」
「消えるわ」
青子は、あっさりと言った。
「触れたら、その場で、消える。人間には、大きすぎるから。……神様が、いるとしたら、たぶん、そこね」
「…………」
「魔法は、その根源に、指一本だけ、届いた人間のこと。……お祖父ちゃんは、そうだった。だから、あの人は、もう、身体がないの」
忉利は、足を止めかけた。
「……身体が、ない?」
「あるのは、声だけ。……行けば、わかるわ」
青子は、それ以上、言わなかった。
草十郎が、前を歩きながら、ぽつりと言った。
「蒼崎」
「なに」
「その、根源というのは、山の頂のようなものか」
「……どういう意味よ」
「登れば、登った分だけ、下が見える。だが、頂の上には、もう何もない。……村の年寄りが、そう言っていた。頂まで登った者は、山に、帰ってこない」
青子は、しばらく、草十郎の背中を見ていた。
「……そうかもね」
小さな声だった。
「あんたの山の年寄り、たぶん、お祖父ちゃんと、気が合ったと思う」
少し歩いてから、青子が、前を行く草十郎の背中に訊いた。
「……ねえ、静希くん。あんたの山って、どんなところだったの」
草十郎は、すぐには答えなかった。
雪の深さを、足の裏で探りながら、何歩か、歩いた。
「……人が、よく死ぬところだ」
平坦な声だった。
「冬に、道で。夏に、川で。獣に、やられて。……村の誰かが死ぬのは、珍しいことではなかった。俺も、小さい頃から、そういうものだと思っていた」
「…………」
「大きな獣が出ると、村の男が、全員で山に入った。俺も、七つの時から、連れていかれた。戻ってこない者もいた。……それも、そういうものだと思っていた」
草十郎は、杉の枝から落ちかけた雪を、右手で払った。
「ある時、訊いたんだ。どうして、そういうものなのか、と。……村の年寄りに」
「……それで?」
「追い出された。山に、疑う者はいらない、と」
青子は、何も言えなかった。
忉利も、黙って、草十郎の背中を見ていた。
左腕を吊ったまま、雪の中を、迷いなく歩いていく背中。
旧校舎で、獣の顎に腕を噛ませたまま、心臓に拳を押し当てた背中。
「……でも、嫌いではない」
草十郎は、振り返らずに言った。
「今でも、時々、思い出す。冬の朝の、山の匂いとか。……人が死ぬところだったが、いいところでもあった」
それだけだった。
青子は、長いこと、黙って歩いていた。
それから、小さく、言った。
「……そう」
肯定もしなかった。否定もしなかった。
ただ、草十郎の背中との距離を、ほんの少しだけ、詰めた。
昼前、林が途切れた。
小さな谷の底に、古い家があった。
黒く煤けた板壁。茅葺きの屋根に、厚く雪が積もっている。縁側の硝子戸は、雨戸で閉ざされたままだった。
誰も、住んでいなかった。
「……両親は、今は、別のところにいるの」
青子は、雪に埋もれた庭の真ん中で、足を止めた。
「姉貴が出ていってから、この家、誰も使ってない。……お祖父ちゃんは、この奥」
家の裏手に、細い道が続いていた。
杉の木立の間を、谷の奥へ。
その突き当たりに、岩壁があった。
岩壁の裾に、黒い、洞穴の口が開いていた。
人ひとりが、やっと通れるくらいの、狭い口。周りの岩に、古い注連縄が、雪をかぶって垂れ下がっている。
忉利は、目の奥の扉を、開いた。
―――。
息を、呑んだ。
線が、岩壁の中から、噴き出していた。
旧校舎の結界のような、定規で引いた線ではなかった。もっと、古くて、太くて、ゆっくりと脈打つような線。それが、洞穴の口から、谷の外へ、山の外へ、三咲の町の方へ、何百本も、何千本も、根のように伸びていた。
町を編み上げている、あの網。
その、根元だった。
「……ここが、網の、真ん中か」
「そうよ」
青子は、洞穴の口を、見上げていた。
「蒼崎が、何代もかけて、この町に張ってきた網。……その根っこが、ここ。お祖父ちゃんが、ここで、ずっと、守ってきた」
青子は、少しのあいだ、黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「小さい頃、一回だけ、ここで、お祖父ちゃんに、お願いしたことがあるの」
「……何を」
「子猫を、生き返らせてって」
忉利は、青子の横顔を見た。
青子は、忉利に、その話を一度もしていない。
けれど、忉利は、知っていた。
暗闇の中で、青子の声が言ったからだ。
―――子猫の時に、駄目だって言われた。
「父さんの車のエンジンルームに、子猫が三匹、潜り込んでたのよ。冬で、暖かかったから。……私が気づかなくて、エンジンかけて」
青子の声は、静かだった。
「死んじゃった。三匹とも。……それで、私、この洞穴まで走ってきて、お祖父ちゃんに、泣いて、頼んだの。魔法使いなんでしょ、生き返らせてよって」
「…………」
「駄目だって言われたわ。……そういうことは、してはいけないって」
青子は、忉利の方を、振り返らなかった。
「それから、赤い影を見るようになった。……あんたが死んだ夜、私の肩に、手を置いたやつ」
「…………見えてたのか」
「見えてたわ。ずっと、少し離れたところにいて。……あの夜、初めて、私の隣まで来た」
青子は、洞穴の口を見つめた。
「その私が、二週間前に、何をしたか。……ちゃんと、言いに来ないと」
忉利は、何も言えなかった。
草十郎が、洞穴の脇の岩に、雪を払って腰を下ろした。
「俺は、ここで待つ」
「……静希くん」
「蒼崎の家の話だ。俺は、外の人間だ」
草十郎は、吊った左腕を、右手で支え直した。
「行ってこい」
洞穴の中は、暗かった。
けれど、寒くはなかった。
岩の壁が、かすかに、温かかった。地の底から、何かが、静かに脈打っているように。
狭い通路を、少し進むと、広い空洞に出た。
天井は、見えなかった。壁も、見えなかった。ただ、真っ暗な空間の真ん中に、ぽつんと、小さな灯りが一つ、浮かんでいた。蝋燭の火のような、青白い、小さな光。
その光の周りに、何もなかった。
机も、椅子も、本も、人も。
何も。
「――――お祖父ちゃん」
青子が、灯りに向かって、言った。
しばらく、何も起きなかった。
それから。
声が、した。
どこから聞こえてくるのか、わからなかった。洞穴の壁から。天井から。足元の岩から。いや、空気そのものから。
低くて、乾いていて、少しだけ、笑っているような、老人の声。
『――青子か。よく来た。……何年ぶりだ』
「三年ぶり」
『そうか。……それで。何をした』
青子の肩が、ぴくりと動いた。
「……もう、知ってるんでしょ」
『知っている。この山の中にいても、あの網の震えは、ここまで届く。……だが、お前の口から聞きたい』
青子は、拳を握った。
それから、ゆっくりと、口を開いた。
「使ったわ。……第五魔法を」
『何のために』
「こいつを、生き返らせるために」
青子は、隣の忉利を、顎で示した。
「旧校舎で、姉貴の獣に、胸を貫かれて。……死んだの。心臓が、止まって」
『それで』
「死を、捨ててきた。……世界の、一番最後の場所に。誰にも拾えないところに」
洞穴の中が、しんと、静まり返った。
青白い灯りが、ゆらりと、揺れた。
『……子猫の時は、駄目だと言った』
「言ったわ」
『それを、覚えていて、やったのか』
「覚えていて、やったのよ」
青子は、顔を上げた。
「後悔してない。……一回も」
長い、長い沈黙があった。
それから、声が、笑った。
乾いた、短い笑い声だった。
『……重い借りを、作ったな』
忉利は、瞬きをした。
借り、という言葉の意味が、わからなかった。
青子は、何も言わなかった。
ただ、拳を握った手に、力を込めていた。
『それで。……誰の時間を、借りた』
「……こいつの。十年」
『死んだ本人の、十年をか』
「そうよ。……借りて、返したわ」
『返したか』
青白い灯りが、忉利の方に、ほんの少しだけ、揺れた。
『……少し、混ざったな』
青子の肩が、ぴくりと動いた。
声は、それきり、その話をやめた。
『まあ、いい。……お前が選んだことだ。魔法を継いだのも、使ったのも、お前だ。私が口を出すことではない』
「…………」
『橙子と争ったのも、お前が選んだことではないがな。……あれは、星の巡りだ。姉と妹が、一つのものを挟んで向かい合う。私が仕組んだことではない。ただ、そうなるようになっていた』
青子は、唇を噛んだ。
「……お祖父ちゃんが、私を選んだから」
『選んだのは、私だ。争ったのは、星だ。……その二つを、混ぜるな』
青子は、答えなかった。
それから、しばらく黙って、洞穴の入り口の方を、振り返った。
外に、草十郎がいる。
「……お祖父ちゃん。もう一つ、頼みがあるの」
『言ってみなさい』
「外に、静希草十郎がいるわ。……あの子の、この一ヶ月の記憶を、消してほしいの」
忉利は、青子の横顔を見た。
初めて聞く話だった。
「あの子は、普通の人間よ。私たちのことを見て、巻き込まれて、獣に腕を噛み砕かれた。……有珠の薬は、あの子は飲まないって言った。私の暗示は、あの子には通らない。……でも、お祖父ちゃんなら」
『断る』
即答だった。
「――なんでよ」
『面倒な記憶消しは、お前自身がやることだ。お前が巻き込んだのなら、お前が片付けろ。私は、手を貸さない』
「私には、できないって、言ってるでしょ!」
『できないのなら、それが答えだ』
声は、静かだった。
『消せぬものは、消せぬ。……あの少年は、お前の暗示も、あの魔女の薬も、通さない。それは、あの少年が、そういうふうにできているからだ。お前が、どうこうできる話ではない』
青子は、拳を握りしめた。
『それに、青子』
声が、少しだけ、和らいだ。
『お前は、過去を捨てていない。捨てられない子だ。……捨てたと言い張って、その過去を、美しくするために生きている。子猫のことも、姉のことも、この店の――』
声が、一瞬、途切れた。
『……喫茶店の子のことも』
青子の肩が、震えた。
『そのお前が、他人の一ヶ月を、消してやろうというのは、筋が通らん』
青子は、長いこと、黙っていた。
それから、小さく、息を吐いた。
「……わかったわよ」
『わかればいい。……さて』
青白い灯りが、忉利の方に、少しだけ、揺れた。
『そこの少年』
「……おれか」
『お前だ。……青子。少し、外していなさい』
「え」
『この少年と、二人で話す』
青子は、忉利の顔を見た。
それから、灯りを見た。
少しのあいだ、迷っていた。
「……わかったわ」
青子は、忉利の袖を、一度だけ、ぎゅっと掴んだ。
「外にいるから」
足音が、遠ざかっていった。
洞穴の中に、忉利と、青白い灯りだけが、残った。
『――少年。私を、見てみなさい』
「……見てるけど」
『お前の目で、だ』
忉利は、少しのあいだ、黙っていた。
それから、目の奥の扉を、開いた。
全部。
線が、浮かび上がった。
灯りの周りに、何も、なかった。
人の身体の線が、なかった。骨も、肉も、皮膚も。線で編まれた、人の形が、どこにもなかった。
代わりに。
線だけが、あった。
太い、古い、ゆっくりと脈打つ線が、何千本も、洞穴の壁から、床から、天井から、この一点に集まって、結ばれていた。三咲の町を編み上げている網の、すべての線が、ここで、一つに束ねられていた。
その結び目そのものが。
声を、出していた。
「……あんた、ほんとに、身体、ねえのか」
『ない。とうの昔に、失くした。……この山の外の、教会の男が、斬った。私が、頼んでな』
「…………」
『私は、もう、人ではない。この網の、結び目だ。……網が残っている限り、私もここにいる。そういうものだ』
声は、平然と言った。
『そして、私という現象がここに残っている限り、蒼崎の正統な跡取りは、生まれん。青子も、橙子も、跡取りではない。……私の、続きだ』
「……青子に、それ、言ったのか」
『言っておらん。……言えば、あの子は、また、それを美しくしようとする』
忉利は、何も言わなかった。
『そんなことよりも』
声が、少しだけ、近づいた気がした。
『お前の目だ』
忉利は、黙っていた。
『網の外から、網を切った目。……この町に、蒼崎の網が張られてから、何百年も経つ。その間、外から一本でも切った者は、一人もいなかった。それを、お前は、回路もなしに切った』
「……切っただけだ。邪魔だったから」
『そうだろう。だから、恐ろしい』
声は、笑っていなかった。
『魔術師は、切るために、何年も何十年も学ぶ。何を切れば何が起きるか、知った上で切る。……お前は、知らずに切る。邪魔だから切る。それは、子供が刃物を振り回すのと同じだ』
忉利の拳が、握られた。
『――だが』
声が、少しだけ、変わった。
『お前は、切らなかったこともある。……旧校舎で。あの女の槍の線が見えていて、切らなかった』
忉利の息が、止まった。
『痛みが怖かったから、と、あの女は言ったそうだな。……違うだろう』
「…………」
『切ったら、何が起きるか、わからなかったからだ。……あの部屋の全部が、あの女の線で編まれていた。一本切れば、どこが崩れるか、わからない。その中に、青子がいた』
忉利は、答えなかった。
答えられなかった。
あの時、自分が何を考えていたのか、自分でも、はっきりとは覚えていない。ただ、切れば青子ごと何かが崩れる気がして、指が――目が、動かなかった。
『それでいい』
声は、言った。
『その目は、切るための目ではない。……何を切らないかを、決めるための目だ。それを、忘れるな』
青白い灯りが、ゆらりと揺れた。
『それから、もう一つ』
「……なんだ」
『お前は、一度、死んでいる』
「……ああ」
『その死は、今、遠くにある。……青子が、放り投げた。世界の、一番最後の岸辺に』
忉利は、胸の真ん中に、手を当てた。
あの夜、暗闇の中で、線の形になって引き抜かれていった、自分の死。
『あれは、消えたのではない。置いてあるだけだ。……いつか、お前の目にも、見える日が来るだろう。それを見た時、お前は、青子に、何と言う』
忉利は、少しのあいだ、考えた。
それから、ぼそりと言った。
「……知らねえよ、そんなの。見てから、考える」
声が、笑った。
今度は、少しだけ、温かい笑い方だった。
『いいだろう。……死者に、用はない。だが、お前は、まだ、死者ではないな』
「……そういうこと、言うのかよ」
『言う。私は、そういう者だ』
灯りが、少しだけ、揺れた。
『外の、山の少年とは、正反対だ』
「……静希か」
『あれは、十郎という、大勢の名前を背負っているくせに、何ものからも一人きりの子だ。全部を受け入れる。怒らず、恨まず、欲しがらず。……それは、死を、最初から受け入れているからだ。珍しい。だが、先に続くものがない』
忉利は、何も言わなかった。
『お前は、逆だ。死を遠くに置いて、先に続こうとしている。……しかも、一人ではなく』
「…………」
『あの子は、お前の十年を通った。お前が十年、何を見て、何を見ないふりをして、誰を見ていたか。……全部、見たぞ』
忉利の耳の先が、洞穴の暗がりの中で、赤くなった。
「……知ってる。言われた」
『そうか』
声が、今度こそ、はっきりと笑った。
『返ってきたお前の十年には、あの子の時間が、少し混ざっている。……一度撚り合わせた糸は、元の一本には戻らん。これから先、お前たちの時間は、少しずつ、同じ撚り方をしていくだろう』
「……それ、悪いことなのか」
『良いか悪いかは、お前たちが決めることだ』
灯りが、ゆらりと、忉利の目の前まで、近づいた。
『お前の目の色も、変わったな。あの子の魔法の色だ。……あの子は、お前に、ずいぶんなものを置いていった』
「…………」
『大事にしろとは、言わん。……ただ、見ろ。見て、決めろ。それが、その目の使い方だ』
灯りが、すうっと、小さくなった。
『行きなさい。……青子が、外で、寒がっている』
洞穴を出ると、雪が、また降り始めていた。
青子は、洞穴の口の脇で、腕を組んで、足踏みをしていた。草十郎は、岩の上に座ったまま、雪をかぶって、じっと谷の方を見ていた。
「――遅い」
青子が、振り返った。
「何話してたのよ、二十分も」
「……いろいろ言われた」
「何を」
「目のこととか。……あと、おれは死者じゃねえって」
青子の動きが、止まった。
「……そう言ったの?」
「言った」
「……ほかには」
忉利は、少しだけ、黙った。
「お前が、おれの十年、全部見たって」
青子の顔が、雪の中で、見る見るうちに赤くなった。
「――っ、お、お祖父ちゃん、そんなこと、あんたに言ったの!?」
「言った」
「あの人……!」
青子は、洞穴の暗がりを、睨みつけた。
それから、ふいと、顔を背けた。
「……そう。なら、いいわ」
全然よくなさそうな声だった。
忉利は、雪を踏んで、青子の隣に立った。
「……静希の記憶、消す気だったのか」
青子の肩が、強張った。
「聞こえてたぞ。あの中、声、響くんだよ」
青子は、長いこと、雪の上を見ていた。
「……巻き込んだの、私だもの」
小さな声だった。
「あの子は、普通の人間よ。山から下りてきて、バイトして、皿洗って、それだけの子だったのに。……私たちのせいで、獣に腕を噛み砕かれて」
「…………」
「元に戻すのが、筋でしょ」
「あいつが、飲まないって言ったんだろ。薬」
「……言ったわ」
「なら、それが答えだって、爺さんも言ってたじゃねえか」
青子は、何も言い返さなかった。
岩の上で、草十郎が、立ち上がった。
雪を払う。
「蒼崎」
「……なに」
「俺の一ヶ月を、消してくれと頼んだんだろう」
青子は、息を呑んだ。
草十郎は、責める顔をしていなかった。ただ、事実を確かめる顔だった。
「……聞こえてたの」
「洞穴の中の声は、外まで響く」
「……ごめん」
「謝らなくていい。……消せなかったんだろう」
「消せなかったわ」
「なら、よかった」
草十郎は、少しだけ、口の端を持ち上げた。
「消えたら、日景の珈琲の味も、消える。……あれは、惜しい」
青子は、何も言えなかった。
草十郎は、坂道の方へ、歩き出した。
雪の中を、左腕を吊ったまま、迷いのない足取りで。
その背中を、青子は、しばらく見ていた。
それから、小さく、鼻をすすった。
「……ほんとに、どいつもこいつも」
「バカばっかりか」
「そうよ」
青子は、忉利の脛を、軽く蹴った。
それから、二人で、草十郎の背中を追った。
杉林の中で、忉利は、青子の背中に、声をかけた。
「……なあ」
「なに」
「借り、って何だ」
青子の足が、一瞬、止まった。
振り返らなかった。
「……お祖父ちゃんが、言ったやつ?」
「ああ。重い借りを作ったって。……おれの十年は、返したんだろ。あれとは、別の話か」
青子は、また、歩き出した。
少しのあいだ、答えなかった。
「……魔法使いの、借金の話よ」
「借金?」
「あんたには、関係ないわ」
青子は、前を向いたまま言った。
「私が、勝手に作った借金。……私が、勝手に返すの」
忉利は、それ以上、訊かなかった。
訊いても、答えないとわかっていたから。
ただ、雪を踏む青子の背中を、見ていた。
目の奥の扉は、閉じたままにしておいた。
見れば、たぶん、何かが見える。青子の線の、どこかに。
けれど、あの声は言った。見て、決めろ、と。
今日は、見ないと、決めた。
杉の枝から、雪の塊が、ぼたりと落ちた。
夕方、坂の上の洋館に、明かりが灯っていた。
三人が坂を上っていくと、玄関の扉が、内側から開いた。
有珠が、立っていた。
朝、見送った時と、同じ場所に。同じ顔で。
「……遅かったわね」
「雪のせいよ」
青子が、長靴の雪を、玄関の石段で落とした。
有珠は、草十郎の吊った左腕を、ちらりと見た。それから、その顔を見た。
「……あなた」
「ああ」
「……消されなかったのね」
草十郎は、少しだけ、首を傾げた。
それから、頷いた。
「消せなかったそうだ」
「そう」
有珠は、それだけ言った。
それから、扉の内側に、身を引いた。
その白い指先が、扉の縁を、ほんの一瞬だけ、強く握ったのを、忉利は見た。
居間の暖炉には、火が、赤々と燃えていた。
朝から、ずっと、絶やさずにいたらしかった。
その前に、四つの椅子が、並べてあった。
忉利は、台所に向かった。
湯を沸かす。
棚から、有珠の茶葉を取り出す。ポットを温める。
窓の外で、雪が、静かに降り続けていた。
目の奥の扉を、少しだけ、開いた。
線が、見えた。
居間の方から、四本の線。
草十郎の。有珠の。青子の。それから、自分の。
その四本の、ずっと向こう。北の山の、深い谷の奥で。
何千本もの古い線を束ねた、一つの結び目が。
静かに、脈打っていた。
――何を切らないかを、決めるための目だ。
忉利は、扉を、閉じた。
沸騰した湯を、ポットに注ぐ。
砂時計を、ひっくり返した。
クリスマスまで、あと、二日だった。
次作品 ヒロイン候補 書いたはいいですが、橙子やアルクはどう作るつもりなんでしょうか…
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