夜明けの色を見る眼   作:にんら

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原作では、この場面は年末だった気がします。

ですが、クリスマスのエピソードを書いて、本編を一旦完結させたいので少しずらしてます。


雪の山道

 ―――三咲の町の北に、山がある。

 

 鏡野の丘の、さらに奥。杉と檜の深い山。町の人間が、ほとんど足を踏み入れない場所。

 

 その山の中に、蒼崎の家がある。

 

 町の子供だった頃、忉利は、それを知らなかった。青子の家は、坂の下の、ごく普通の一軒家だった。ごく普通の父親と、ごく普通の母親がいて、ごく普通に、朝は牛乳を飲んでいた。

 

 山の中に、もう一つの家があることなど、誰も、教えてくれなかった。

 

 青子自身も、一度も、口にしなかった。

 

 十二月二十二日。

 

 夜のうちに、雪が降った。

 

 久遠寺邸の玄関の前で、青子は、長靴の紐を、きつく結び直していた。

 

「……本当に、行くのか」

 

 扉の脇で、忉利が訊いた。

 

 右目の周りの血の痕は、もう、きれいに消えていた。虹彩の縁に夜明け前の青を宿した目で、雪の積もった坂道を見下ろしている。

 

「行くわよ」

 

 青子は、立ち上がって、コートの襟を立てた。

 

「お祖父ちゃんに、報告しないと。……私が、何をしたか」

 

「報告して、どうすんだ」

 

「どうもしないわ。……ただ、言っておかないといけないの。あの人は、そういう人だから」

 

 青子は、忉利の方を、ちらりと見た。

 

「それから、あんたを、見せる」

 

「……おれを」

 

「そう。あんたの目を。……あの人が、何て言うか、聞いておきたいの」

 

 青子は、それだけ言った。

 

 もう一つ、言わなかったことがあった。

 

 玄関の扉が、開いた。

 

 草十郎が、綿入れの上に、分厚い外套を羽織って出てきた。左腕は、まだ三角巾で吊っている。

 

「準備ができた。行こう」

 

「……静希くん、あんたは留守番って言ったでしょ」

 

「山道だ。俺の方が、慣れている」

 

「腕、まだ吊ってるじゃない」

 

「足は、動く」

 

 草十郎は、平坦な顔で言った。

 

 青子は、何か言いかけて、やめた。

 

 扉の奥の、薄暗い玄関ホールに、有珠が立っていた。

 

 黒い服。長い髪。白い顔。

 

 三人の背中を、じっと見ていた。

 

「……有珠」

 

 青子が、振り返った。

 

「夕方には、戻るわ」

 

「そう」

 

 有珠は、それだけ言った。

 

 それから、草十郎の方を見た。

 

「静希君」

 

「ああ」

 

「……帰ってきなさい」

 

 草十郎は、少しだけ首を傾げて、それから、頷いた。

 

「帰ってくる。庭が、まだ、終わっていない」

 

 有珠は、何も言わなかった。

 

 ただ、扉が閉まるまで、玄関ホールに立っていた。

 

 忉利は、扉が閉まる寸前、目の奥の扉を、少しだけ開いた。

 

 有珠の線が、見えた。

 

 傷ひとつない、磨かれた石の上を滑る水のような線。

 

 その線が、閉じかけた扉の隙間から、草十郎の背中の方へ、細く、細く、伸びていた。

 

 いつもより、少しだけ、強く。

 

 まるで、行かせたくないものを、それでも行かせる時の、手のように。

 

 忉利は、扉を閉じた。

 

 見なかったことにした。

 

 山道は、雪で、白く塞がっていた。

 

 鏡野の丘を越えて、杉林に入ると、道は、もう道ではなかった。木々の間の、雪の窪みを辿っていくだけの、獣道。

 

 草十郎が、先を歩いた。

 

 左腕を吊ったまま、雪の深さを、足の裏で探るように。迷いのない足取りだった。

 

「……道、わかんのかよ」

 

「わかる。雪の下に、人の踏んだ跡がある。……古いが、ある」

 

 草十郎は、振り返らずに言った。

 

「蒼崎は、何度も、ここを歩いたんだろう」

 

「……小さい頃、ね」

 

 青子は、忉利の少し前を歩いていた。

 

「お祖父ちゃんのところに、遊びに行く時。父さんに、車で麓まで送ってもらって、そこからは一人で。……姉貴は、あの家で育ったから、一緒に歩いたことは、ほとんどない」

 

 白い息が、杉の枝の間に、消えていく。

 

「あの家のこと、あんたには、一回も話さなかったわね」

 

「……ああ」

 

「話せなかったのよ。話したら、全部、話さなきゃいけなくなるから」

 

 青子は、前を向いたまま言った。

 

「魔術のこと。蒼崎のこと。……私が、普通の女の子じゃなかったこと」

 

 忉利は、雪を踏みしめながら、青子の背中を見ていた。

 

 小学校の帰り道。中学の校門。三咲高校の、生徒会室。ずっと隣にいて、ずっと知らなかった。

 

「……お前、普通だったろ」

 

 ぼそりと、言った。

 

「小学校の時、理科室の窓、割ってたし」

 

「……蒸し返さないでよ」

 

「中学の時、テープ伸びるまで同じ曲聴いてたし」

 

「今も聴いてるわよ、悪い!?」

 

 青子が、振り返って、雪を一つかみ、忉利に投げつけた。

 

 忉利は、避けなかった。

 

 雪が、顔の真ん中に当たって、崩れた。

 

 草十郎が、前で、少しだけ足を止めて、振り返った。

 

「……山では、雪を投げると、獣が寄ってくると言われていた」

 

「嘘でしょ」

 

「嘘だ」

 

 草十郎は、真顔で言って、また、歩き出した。

 

 青子は、口を開けたまま、しばらく固まっていた。

 

 それから、忉利と顔を見合わせて、二人同時に、吹き出した。

 

 杉林に、久しぶりの笑い声が、響いた。

 

 しばらく歩いてから、忉利が、青子の背中に訊いた。

 

「……なあ。お前の爺さん、魔法使いなんだろ」

 

「そうよ」

 

「魔法って、結局、何なんだ。……お前、この前、今の時代の人間には届かない奇跡だって言ってたけど」

 

 青子は、少しのあいだ、雪を踏む音だけを返していた。

 

「……根源、って、聞いたことある?」

 

「ねえよ」

 

「この世界の、いちばん奥。全部のものが、そこから始まって、そこに戻っていく場所。……魔術師は、みんな、そこに辿り着きたくて、何百年も、何千年も、家ごと積み重ねてるの」

 

「……辿り着いたら、どうなんだよ」

 

「消えるわ」

 

 青子は、あっさりと言った。

 

「触れたら、その場で、消える。人間には、大きすぎるから。……神様が、いるとしたら、たぶん、そこね」

 

「…………」

 

「魔法は、その根源に、指一本だけ、届いた人間のこと。……お祖父ちゃんは、そうだった。だから、あの人は、もう、身体がないの」

 

 忉利は、足を止めかけた。

 

「……身体が、ない?」

 

「あるのは、声だけ。……行けば、わかるわ」

 

 青子は、それ以上、言わなかった。

 

 草十郎が、前を歩きながら、ぽつりと言った。

 

「蒼崎」

 

「なに」

 

「その、根源というのは、山の頂のようなものか」

 

「……どういう意味よ」

 

「登れば、登った分だけ、下が見える。だが、頂の上には、もう何もない。……村の年寄りが、そう言っていた。頂まで登った者は、山に、帰ってこない」

 

 青子は、しばらく、草十郎の背中を見ていた。

 

「……そうかもね」

 

 小さな声だった。

 

「あんたの山の年寄り、たぶん、お祖父ちゃんと、気が合ったと思う」

 

 少し歩いてから、青子が、前を行く草十郎の背中に訊いた。

 

「……ねえ、静希くん。あんたの山って、どんなところだったの」

 

 草十郎は、すぐには答えなかった。

 

 雪の深さを、足の裏で探りながら、何歩か、歩いた。

 

「……人が、よく死ぬところだ」

 

 平坦な声だった。

 

「冬に、道で。夏に、川で。獣に、やられて。……村の誰かが死ぬのは、珍しいことではなかった。俺も、小さい頃から、そういうものだと思っていた」

 

「…………」

 

「大きな獣が出ると、村の男が、全員で山に入った。俺も、七つの時から、連れていかれた。戻ってこない者もいた。……それも、そういうものだと思っていた」

 

 草十郎は、杉の枝から落ちかけた雪を、右手で払った。

 

「ある時、訊いたんだ。どうして、そういうものなのか、と。……村の年寄りに」

 

「……それで?」

 

「追い出された。山に、疑う者はいらない、と」

 

 青子は、何も言えなかった。

 

 忉利も、黙って、草十郎の背中を見ていた。

 

 左腕を吊ったまま、雪の中を、迷いなく歩いていく背中。

 

 旧校舎で、獣の顎に腕を噛ませたまま、心臓に拳を押し当てた背中。

 

「……でも、嫌いではない」

 

 草十郎は、振り返らずに言った。

 

「今でも、時々、思い出す。冬の朝の、山の匂いとか。……人が死ぬところだったが、いいところでもあった」

 

 それだけだった。

 

 青子は、長いこと、黙って歩いていた。

 

 それから、小さく、言った。

 

「……そう」

 

 肯定もしなかった。否定もしなかった。

 

 ただ、草十郎の背中との距離を、ほんの少しだけ、詰めた。

 

 昼前、林が途切れた。

 

 小さな谷の底に、古い家があった。

 

 黒く煤けた板壁。茅葺きの屋根に、厚く雪が積もっている。縁側の硝子戸は、雨戸で閉ざされたままだった。

 

 誰も、住んでいなかった。

 

「……両親は、今は、別のところにいるの」

 

 青子は、雪に埋もれた庭の真ん中で、足を止めた。

 

「姉貴が出ていってから、この家、誰も使ってない。……お祖父ちゃんは、この奥」

 

 家の裏手に、細い道が続いていた。

 

 杉の木立の間を、谷の奥へ。

 

 その突き当たりに、岩壁があった。

 

 岩壁の裾に、黒い、洞穴の口が開いていた。

 

 人ひとりが、やっと通れるくらいの、狭い口。周りの岩に、古い注連縄が、雪をかぶって垂れ下がっている。

 

 忉利は、目の奥の扉を、開いた。

 

 ―――。

 

 息を、呑んだ。

 

 線が、岩壁の中から、噴き出していた。

 

 旧校舎の結界のような、定規で引いた線ではなかった。もっと、古くて、太くて、ゆっくりと脈打つような線。それが、洞穴の口から、谷の外へ、山の外へ、三咲の町の方へ、何百本も、何千本も、根のように伸びていた。

 

 町を編み上げている、あの網。

 

 その、根元だった。

 

「……ここが、網の、真ん中か」

 

「そうよ」

 

 青子は、洞穴の口を、見上げていた。

 

「蒼崎が、何代もかけて、この町に張ってきた網。……その根っこが、ここ。お祖父ちゃんが、ここで、ずっと、守ってきた」

 

 青子は、少しのあいだ、黙っていた。

 

 それから、ぽつりと言った。

 

「小さい頃、一回だけ、ここで、お祖父ちゃんに、お願いしたことがあるの」

 

「……何を」

 

「子猫を、生き返らせてって」

 

 忉利は、青子の横顔を見た。

 

 青子は、忉利に、その話を一度もしていない。

 

 けれど、忉利は、知っていた。

 

 暗闇の中で、青子の声が言ったからだ。

 

 ―――子猫の時に、駄目だって言われた。

 

「父さんの車のエンジンルームに、子猫が三匹、潜り込んでたのよ。冬で、暖かかったから。……私が気づかなくて、エンジンかけて」

 

 青子の声は、静かだった。

 

「死んじゃった。三匹とも。……それで、私、この洞穴まで走ってきて、お祖父ちゃんに、泣いて、頼んだの。魔法使いなんでしょ、生き返らせてよって」

 

「…………」

 

「駄目だって言われたわ。……そういうことは、してはいけないって」

 

 青子は、忉利の方を、振り返らなかった。

 

「それから、赤い影を見るようになった。……あんたが死んだ夜、私の肩に、手を置いたやつ」

 

「…………見えてたのか」

 

「見えてたわ。ずっと、少し離れたところにいて。……あの夜、初めて、私の隣まで来た」

 

 青子は、洞穴の口を見つめた。

 

「その私が、二週間前に、何をしたか。……ちゃんと、言いに来ないと」

 

 忉利は、何も言えなかった。

 

 草十郎が、洞穴の脇の岩に、雪を払って腰を下ろした。

 

「俺は、ここで待つ」

 

「……静希くん」

 

「蒼崎の家の話だ。俺は、外の人間だ」

 

 草十郎は、吊った左腕を、右手で支え直した。

 

「行ってこい」

 

 洞穴の中は、暗かった。

 

 けれど、寒くはなかった。

 

 岩の壁が、かすかに、温かかった。地の底から、何かが、静かに脈打っているように。

 

 狭い通路を、少し進むと、広い空洞に出た。

 

 天井は、見えなかった。壁も、見えなかった。ただ、真っ暗な空間の真ん中に、ぽつんと、小さな灯りが一つ、浮かんでいた。蝋燭の火のような、青白い、小さな光。

 

 その光の周りに、何もなかった。

 

 机も、椅子も、本も、人も。

 

 何も。

 

「――――お祖父ちゃん」

 

 青子が、灯りに向かって、言った。

 

 しばらく、何も起きなかった。

 

 それから。

 

 声が、した。

 

 どこから聞こえてくるのか、わからなかった。洞穴の壁から。天井から。足元の岩から。いや、空気そのものから。

 

 低くて、乾いていて、少しだけ、笑っているような、老人の声。

 

『――青子か。よく来た。……何年ぶりだ』

 

「三年ぶり」

 

『そうか。……それで。何をした』

 

 青子の肩が、ぴくりと動いた。

 

「……もう、知ってるんでしょ」

 

『知っている。この山の中にいても、あの網の震えは、ここまで届く。……だが、お前の口から聞きたい』

 

 青子は、拳を握った。

 

 それから、ゆっくりと、口を開いた。

 

「使ったわ。……第五魔法を」

 

『何のために』

 

「こいつを、生き返らせるために」

 

 青子は、隣の忉利を、顎で示した。

 

「旧校舎で、姉貴の獣に、胸を貫かれて。……死んだの。心臓が、止まって」

 

『それで』

 

「死を、捨ててきた。……世界の、一番最後の場所に。誰にも拾えないところに」

 

 洞穴の中が、しんと、静まり返った。

 

 青白い灯りが、ゆらりと、揺れた。

 

『……子猫の時は、駄目だと言った』

 

「言ったわ」

 

『それを、覚えていて、やったのか』

 

「覚えていて、やったのよ」

 

 青子は、顔を上げた。

 

「後悔してない。……一回も」

 

 長い、長い沈黙があった。

 

 それから、声が、笑った。

 

 乾いた、短い笑い声だった。

 

『……重い借りを、作ったな』

 

 忉利は、瞬きをした。

 

 借り、という言葉の意味が、わからなかった。

 

 青子は、何も言わなかった。

 

 ただ、拳を握った手に、力を込めていた。

 

『それで。……誰の時間を、借りた』

 

「……こいつの。十年」

 

『死んだ本人の、十年をか』

 

「そうよ。……借りて、返したわ」

 

『返したか』

 

 青白い灯りが、忉利の方に、ほんの少しだけ、揺れた。

 

『……少し、混ざったな』

 

 青子の肩が、ぴくりと動いた。

 

 声は、それきり、その話をやめた。

 

『まあ、いい。……お前が選んだことだ。魔法を継いだのも、使ったのも、お前だ。私が口を出すことではない』

 

「…………」

 

『橙子と争ったのも、お前が選んだことではないがな。……あれは、星の巡りだ。姉と妹が、一つのものを挟んで向かい合う。私が仕組んだことではない。ただ、そうなるようになっていた』

 

 青子は、唇を噛んだ。

 

「……お祖父ちゃんが、私を選んだから」

 

『選んだのは、私だ。争ったのは、星だ。……その二つを、混ぜるな』

 

 青子は、答えなかった。

 

 それから、しばらく黙って、洞穴の入り口の方を、振り返った。

 

 外に、草十郎がいる。

 

「……お祖父ちゃん。もう一つ、頼みがあるの」

 

『言ってみなさい』

 

「外に、静希草十郎がいるわ。……あの子の、この一ヶ月の記憶を、消してほしいの」

 

 忉利は、青子の横顔を見た。

 

 初めて聞く話だった。

 

「あの子は、普通の人間よ。私たちのことを見て、巻き込まれて、獣に腕を噛み砕かれた。……有珠の薬は、あの子は飲まないって言った。私の暗示は、あの子には通らない。……でも、お祖父ちゃんなら」

 

『断る』

 

 即答だった。

 

「――なんでよ」

 

『面倒な記憶消しは、お前自身がやることだ。お前が巻き込んだのなら、お前が片付けろ。私は、手を貸さない』

 

「私には、できないって、言ってるでしょ!」

 

『できないのなら、それが答えだ』

 

 声は、静かだった。

 

『消せぬものは、消せぬ。……あの少年は、お前の暗示も、あの魔女の薬も、通さない。それは、あの少年が、そういうふうにできているからだ。お前が、どうこうできる話ではない』

 

 青子は、拳を握りしめた。

 

『それに、青子』

 

 声が、少しだけ、和らいだ。

 

『お前は、過去を捨てていない。捨てられない子だ。……捨てたと言い張って、その過去を、美しくするために生きている。子猫のことも、姉のことも、この店の――』

 

 声が、一瞬、途切れた。

 

『……喫茶店の子のことも』

 

 青子の肩が、震えた。

 

『そのお前が、他人の一ヶ月を、消してやろうというのは、筋が通らん』

 

 青子は、長いこと、黙っていた。

 

 それから、小さく、息を吐いた。

 

「……わかったわよ」

 

『わかればいい。……さて』

 

 青白い灯りが、忉利の方に、少しだけ、揺れた。

 

『そこの少年』

 

「……おれか」

 

『お前だ。……青子。少し、外していなさい』

 

「え」

 

『この少年と、二人で話す』

 

 青子は、忉利の顔を見た。

 

 それから、灯りを見た。

 

 少しのあいだ、迷っていた。

 

「……わかったわ」

 

 青子は、忉利の袖を、一度だけ、ぎゅっと掴んだ。

 

「外にいるから」

 

 足音が、遠ざかっていった。

 

 洞穴の中に、忉利と、青白い灯りだけが、残った。

 

『――少年。私を、見てみなさい』

 

「……見てるけど」

 

『お前の目で、だ』

 

 忉利は、少しのあいだ、黙っていた。

 

 それから、目の奥の扉を、開いた。

 

 全部。

 

 線が、浮かび上がった。

 

 灯りの周りに、何も、なかった。

 

 人の身体の線が、なかった。骨も、肉も、皮膚も。線で編まれた、人の形が、どこにもなかった。

 

 代わりに。

 

 線だけが、あった。

 

 太い、古い、ゆっくりと脈打つ線が、何千本も、洞穴の壁から、床から、天井から、この一点に集まって、結ばれていた。三咲の町を編み上げている網の、すべての線が、ここで、一つに束ねられていた。

 

 その結び目そのものが。

 

 声を、出していた。

 

「……あんた、ほんとに、身体、ねえのか」

 

『ない。とうの昔に、失くした。……この山の外の、教会の男が、斬った。私が、頼んでな』

 

「…………」

 

『私は、もう、人ではない。この網の、結び目だ。……網が残っている限り、私もここにいる。そういうものだ』

 

 声は、平然と言った。

 

『そして、私という現象がここに残っている限り、蒼崎の正統な跡取りは、生まれん。青子も、橙子も、跡取りではない。……私の、続きだ』

 

「……青子に、それ、言ったのか」

 

『言っておらん。……言えば、あの子は、また、それを美しくしようとする』

 

 忉利は、何も言わなかった。

 

『そんなことよりも』

 

 声が、少しだけ、近づいた気がした。

 

『お前の目だ』

 

 忉利は、黙っていた。

 

『網の外から、網を切った目。……この町に、蒼崎の網が張られてから、何百年も経つ。その間、外から一本でも切った者は、一人もいなかった。それを、お前は、回路もなしに切った』

 

「……切っただけだ。邪魔だったから」

 

『そうだろう。だから、恐ろしい』

 

 声は、笑っていなかった。

 

『魔術師は、切るために、何年も何十年も学ぶ。何を切れば何が起きるか、知った上で切る。……お前は、知らずに切る。邪魔だから切る。それは、子供が刃物を振り回すのと同じだ』

 

 忉利の拳が、握られた。

 

『――だが』

 

 声が、少しだけ、変わった。

 

『お前は、切らなかったこともある。……旧校舎で。あの女の槍の線が見えていて、切らなかった』

 

 忉利の息が、止まった。

 

『痛みが怖かったから、と、あの女は言ったそうだな。……違うだろう』

 

「…………」

 

『切ったら、何が起きるか、わからなかったからだ。……あの部屋の全部が、あの女の線で編まれていた。一本切れば、どこが崩れるか、わからない。その中に、青子がいた』

 

 忉利は、答えなかった。

 

 答えられなかった。

 

 あの時、自分が何を考えていたのか、自分でも、はっきりとは覚えていない。ただ、切れば青子ごと何かが崩れる気がして、指が――目が、動かなかった。

 

『それでいい』

 

 声は、言った。

 

『その目は、切るための目ではない。……何を切らないかを、決めるための目だ。それを、忘れるな』

 

 青白い灯りが、ゆらりと揺れた。

 

『それから、もう一つ』

 

「……なんだ」

 

『お前は、一度、死んでいる』

 

「……ああ」

 

『その死は、今、遠くにある。……青子が、放り投げた。世界の、一番最後の岸辺に』

 

 忉利は、胸の真ん中に、手を当てた。

 

 あの夜、暗闇の中で、線の形になって引き抜かれていった、自分の死。

 

『あれは、消えたのではない。置いてあるだけだ。……いつか、お前の目にも、見える日が来るだろう。それを見た時、お前は、青子に、何と言う』

 

 忉利は、少しのあいだ、考えた。

 

 それから、ぼそりと言った。

 

「……知らねえよ、そんなの。見てから、考える」

 

 声が、笑った。

 

 今度は、少しだけ、温かい笑い方だった。

 

『いいだろう。……死者に、用はない。だが、お前は、まだ、死者ではないな』

 

「……そういうこと、言うのかよ」

 

『言う。私は、そういう者だ』

 

 灯りが、少しだけ、揺れた。

 

『外の、山の少年とは、正反対だ』

 

「……静希か」

 

『あれは、十郎という、大勢の名前を背負っているくせに、何ものからも一人きりの子だ。全部を受け入れる。怒らず、恨まず、欲しがらず。……それは、死を、最初から受け入れているからだ。珍しい。だが、先に続くものがない』

 

 忉利は、何も言わなかった。

 

『お前は、逆だ。死を遠くに置いて、先に続こうとしている。……しかも、一人ではなく』

 

「…………」

 

『あの子は、お前の十年を通った。お前が十年、何を見て、何を見ないふりをして、誰を見ていたか。……全部、見たぞ』

 

 忉利の耳の先が、洞穴の暗がりの中で、赤くなった。

 

「……知ってる。言われた」

 

『そうか』

 

 声が、今度こそ、はっきりと笑った。

 

『返ってきたお前の十年には、あの子の時間が、少し混ざっている。……一度撚り合わせた糸は、元の一本には戻らん。これから先、お前たちの時間は、少しずつ、同じ撚り方をしていくだろう』

 

「……それ、悪いことなのか」

 

『良いか悪いかは、お前たちが決めることだ』

 

 灯りが、ゆらりと、忉利の目の前まで、近づいた。

 

『お前の目の色も、変わったな。あの子の魔法の色だ。……あの子は、お前に、ずいぶんなものを置いていった』

 

「…………」

 

『大事にしろとは、言わん。……ただ、見ろ。見て、決めろ。それが、その目の使い方だ』

 

 灯りが、すうっと、小さくなった。

 

『行きなさい。……青子が、外で、寒がっている』

 

 洞穴を出ると、雪が、また降り始めていた。

 

 青子は、洞穴の口の脇で、腕を組んで、足踏みをしていた。草十郎は、岩の上に座ったまま、雪をかぶって、じっと谷の方を見ていた。

 

「――遅い」

 

 青子が、振り返った。

 

「何話してたのよ、二十分も」

 

「……いろいろ言われた」

 

「何を」

 

「目のこととか。……あと、おれは死者じゃねえって」

 

 青子の動きが、止まった。

 

「……そう言ったの?」

 

「言った」

 

「……ほかには」

 

 忉利は、少しだけ、黙った。

 

「お前が、おれの十年、全部見たって」

 

 青子の顔が、雪の中で、見る見るうちに赤くなった。

 

「――っ、お、お祖父ちゃん、そんなこと、あんたに言ったの!?」

 

「言った」

 

「あの人……!」

 

 青子は、洞穴の暗がりを、睨みつけた。

 

 それから、ふいと、顔を背けた。

 

「……そう。なら、いいわ」

 

 全然よくなさそうな声だった。

 

 忉利は、雪を踏んで、青子の隣に立った。

 

「……静希の記憶、消す気だったのか」

 

 青子の肩が、強張った。

 

「聞こえてたぞ。あの中、声、響くんだよ」

 

 青子は、長いこと、雪の上を見ていた。

 

「……巻き込んだの、私だもの」

 

 小さな声だった。

 

「あの子は、普通の人間よ。山から下りてきて、バイトして、皿洗って、それだけの子だったのに。……私たちのせいで、獣に腕を噛み砕かれて」

 

「…………」

 

「元に戻すのが、筋でしょ」

 

「あいつが、飲まないって言ったんだろ。薬」

 

「……言ったわ」

 

「なら、それが答えだって、爺さんも言ってたじゃねえか」

 

 青子は、何も言い返さなかった。

 

 岩の上で、草十郎が、立ち上がった。

 

 雪を払う。

 

「蒼崎」

 

「……なに」

 

「俺の一ヶ月を、消してくれと頼んだんだろう」

 

 青子は、息を呑んだ。

 

 草十郎は、責める顔をしていなかった。ただ、事実を確かめる顔だった。

 

「……聞こえてたの」

 

「洞穴の中の声は、外まで響く」

 

「……ごめん」

 

「謝らなくていい。……消せなかったんだろう」

 

「消せなかったわ」

 

「なら、よかった」

 

 草十郎は、少しだけ、口の端を持ち上げた。

 

「消えたら、日景の珈琲の味も、消える。……あれは、惜しい」

 

 青子は、何も言えなかった。

 

 草十郎は、坂道の方へ、歩き出した。

 

 雪の中を、左腕を吊ったまま、迷いのない足取りで。

 

 その背中を、青子は、しばらく見ていた。

 

 それから、小さく、鼻をすすった。

 

「……ほんとに、どいつもこいつも」

 

「バカばっかりか」

 

「そうよ」

 

 青子は、忉利の脛を、軽く蹴った。

 

 それから、二人で、草十郎の背中を追った。

 

 杉林の中で、忉利は、青子の背中に、声をかけた。

 

「……なあ」

 

「なに」

 

「借り、って何だ」

 

 青子の足が、一瞬、止まった。

 

 振り返らなかった。

 

「……お祖父ちゃんが、言ったやつ?」

 

「ああ。重い借りを作ったって。……おれの十年は、返したんだろ。あれとは、別の話か」

 

 青子は、また、歩き出した。

 

 少しのあいだ、答えなかった。

 

「……魔法使いの、借金の話よ」

 

「借金?」

 

「あんたには、関係ないわ」

 

 青子は、前を向いたまま言った。

 

「私が、勝手に作った借金。……私が、勝手に返すの」

 

 忉利は、それ以上、訊かなかった。

 

 訊いても、答えないとわかっていたから。

 

 ただ、雪を踏む青子の背中を、見ていた。

 

 目の奥の扉は、閉じたままにしておいた。

 

 見れば、たぶん、何かが見える。青子の線の、どこかに。

 

 けれど、あの声は言った。見て、決めろ、と。

 

 今日は、見ないと、決めた。

 

 杉の枝から、雪の塊が、ぼたりと落ちた。

 

 夕方、坂の上の洋館に、明かりが灯っていた。

 

 三人が坂を上っていくと、玄関の扉が、内側から開いた。

 

 有珠が、立っていた。

 

 朝、見送った時と、同じ場所に。同じ顔で。

 

「……遅かったわね」

 

「雪のせいよ」

 

 青子が、長靴の雪を、玄関の石段で落とした。

 

 有珠は、草十郎の吊った左腕を、ちらりと見た。それから、その顔を見た。

 

「……あなた」

 

「ああ」

 

「……消されなかったのね」

 

 草十郎は、少しだけ、首を傾げた。

 

 それから、頷いた。

 

「消せなかったそうだ」

 

「そう」

 

 有珠は、それだけ言った。

 

 それから、扉の内側に、身を引いた。

 

 その白い指先が、扉の縁を、ほんの一瞬だけ、強く握ったのを、忉利は見た。

 

 居間の暖炉には、火が、赤々と燃えていた。

 

 朝から、ずっと、絶やさずにいたらしかった。

 

 その前に、四つの椅子が、並べてあった。

 

 忉利は、台所に向かった。

 

 湯を沸かす。

 

 棚から、有珠の茶葉を取り出す。ポットを温める。

 

 窓の外で、雪が、静かに降り続けていた。

 

 目の奥の扉を、少しだけ、開いた。

 

 線が、見えた。

 

 居間の方から、四本の線。

 

 草十郎の。有珠の。青子の。それから、自分の。

 

 その四本の、ずっと向こう。北の山の、深い谷の奥で。

 

 何千本もの古い線を束ねた、一つの結び目が。

 

 静かに、脈打っていた。

 

 ――何を切らないかを、決めるための目だ。

 

 忉利は、扉を、閉じた。

 

 沸騰した湯を、ポットに注ぐ。

 

 砂時計を、ひっくり返した。

 

 クリスマスまで、あと、二日だった。

次作品 ヒロイン候補 書いたはいいですが、橙子やアルクはどう作るつもりなんでしょうか…

  • シエル (月姫R アルクェイドルート)
  • アルクェイド(月姫R シエルルート?)
  • 蒼崎橙子 (空の境界)
  • 遠坂凛 (Heaven’s Feel)
  • ライダー (Heaven’s Feel)
  • ジャンヌ・ダルク (Apocrypha)
  • ジャンヌ・ダルク (史実+FGO)
  • 久遠寺有珠 (魔法使いの夜)
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