一月八日。三学期の始業式の朝。
久遠寺邸の玄関ホールで、青子が腕を組んで仁王立ちしていた。
「――いい? 今日から、登校時間をずらすわよ」
「……は?」
靴紐を結んでいた忉利が顔を上げた。
隣で草十郎も首を傾げている。
「なんでだよ」
「決まってるでしょ。三人揃って坂を下りて、三人揃って校門くぐったら、どう見えると思ってるのよ」
「どうって」
「同じ家から出てきたように見えるでしょ!」
「同じ家から出てきてんだろ」
「だから、それがバレたら困るって言ってるの!」
青子は頭を抱えた。
「年末に、木乃美にバレたのよ。あんたたちが屋敷に住み込んでるって。……あいつが冬休みの間に、どれだけ言いふらしてると思う?」
「……あいつなら、町内一周はしてるな」
「でしょ!? だから、せめて一緒に登校するのだけは避けるの。私が七時半に出る。忉利は七時四十分。静希くんは七時五十分」
「俺は七時には出たいんだけど」
草十郎が真顔で言った。
「朝、まっどべあの裏でごみ出しの手伝いがあるんだ」
「……また増やしたの、バイト」
「年明けから」
「数えたら、いくつになるのよ」
「……数え方による」
「その答え、もう聞き飽きたわよ!」
階段の上から、有珠が礼園女学院の濃紺の制服姿で下りてきた。
三人を一瞥して、無表情のまま玄関の扉に手をかける。
「……わたしは礼園だから、関係ないわね」
「有珠はいいわよね、学校違うから!」
「ええ」
有珠は扉を開けた。
それからふと振り返った。
「忉利」
「なんだよ」
「お弁当、ありがとう」
それだけ言って、有珠は坂を下りていった。
三人はしばらく、閉まった扉を見つめていた。
「……弁当?」
青子がゆっくりと、忉利の方を振り返った。
「弁当って、なに」
「……作ったんだよ。朝飯のついでに」
忉利は鞄の中から、布で包んだ箱を三つ取り出した。
「屋敷の冷蔵庫、また空っぽになりかけてたから。年末に親父の店の残りの食材、もらってきといたんだよ。……で、どうせなら四人分作った方が早えだろ」
一つを、草十郎に。
一つを、青子に。
青子は差し出された包みを、じっと見つめていた。
藍色の布。有珠のは黒い布だった。草十郎のは生成りの、少し大きな包み。
「……私の分も?」
「いらねえなら、静希にやる」
「い、いらないなんて、言ってないでしょ!」
青子はひったくるように包みを受け取った。
それから胸に抱えたまま、ぷいと顔を背けた。
「……ありがと」
「おう」
「蒼崎。七時半だ」
「わかってるわよ!!」
青子は玄関を飛び出していった。
忉利と草十郎はその背中を見送った。
「……日景」
「なんだよ」
「蒼崎は、弁当をもらって嬉しかったのか。それとも怒っていたのか」
「……さあな」
忉利は靴紐を結び直した。
「たぶん、両方だろ」
◇
結局、時間をずらした意味はまったくなかった。
「――おはよう、日景くん!」
「日景くん、あけましておめでとう!」
「ねえ、日景くん!」
二年C組の教室に入った瞬間、忉利は見知らぬ女子の群れに取り囲まれていた。
同じクラスの女子だけではなかった。隣のB組、その向こうのA組、それどころか一年生の襟章をつけた女子まで混じっている。
「……は?」
「ねえ、本当なの? 日景くんの目が青くなったって」
「冬休み前と全然違うって、C組の子が言ってて!」
「見せて見せて!」
忉利は言葉を失った。
確かに目の色は変わっていた。もともと灰色がかっていた虹彩の、いちばん外の縁に細い青の輪ができている。夜明け前の空の色。鏡で見れば自分でもはっきりわかる。
けれど、それだけのことでここまでになるとは思わなかった。
――いや。
それだけではなかったのかもしれない。
日景忉利は、もともと顔立ちが悪くなかった。
切れ長の目。すっと通った鼻筋。いつも眠たげで、気だるげで、口数が少ない。喫茶店の息子で、珈琲を淹れる手つきだけは妙に綺麗で、誰に対しても愛想がない。
女子の間では前から、密かに名前が挙がっていた。「C組の日景くん」と。
ただ、誰も近づかなかった。
いつも隣に生徒会長がいたからだ。
それが冬休み明けに、目の色まで変わって現れた。
耳にかからない程度に短く刈った髪のせいで、目元を隠すものは何もない。群れの最前列の女子は、忉利の顔をぐいと覗き込んできた。
「……わあ、ほんとだ。青い」
「きれい……」
「ハーフだったの?」
「外国の血が入ってるとか?」
「ち、ちげえよ。照明のせいだろ」
「えー、でも廊下でも青く見えたよ!」
「日景くんって、こんなに目、きれいだったっけ……」
忉利は後ずさった。
背中が机にぶつかった。
窓際の席で、草十郎が握り飯を食べながら、その光景を不思議そうに眺めていた。
「日景は人気者だな」
「助けろよ」
「どうやって」
「……知らねえよ」
群れの後ろから芳助の声が聞こえた。
「そうそう! しかもこいつ、会長の屋敷に住み込んでんだぜ! 年末から! 一つ屋根の下!」
「――えっ」
女子の群れが一斉に静まり返った。
「……会長の?」
「蒼崎さんの?」
「一つ屋根の下……?」
次の瞬間、群れは爆発した。
「嘘!? 本当に!?」
「蒼崎さんと日景くん、そういう関係だったの!?」
「幼馴染って聞いてたけど、まさか――」
「ち、ちげえって!」
忉利は叫んだ。
叫んでから、しまった、と思った。
晴華の声が頭の中によみがえる。
―――お兄ちゃん、嘘つく時、ぜったい『じゃねえよ』って言うもん。
いや、今のは嘘ではない。はずだ。たぶん。
「修繕の手伝いだよ。住み込みの。あの屋敷、古いから男手が要るんだよ。……静希も一緒だ」
「静希くんも?」
女子の視線が一斉に、窓際の草十郎に向けられた。
草十郎は握り飯を飲み込んで、律儀に頷いた。
「ああ。俺も住んでいるよ。庭の手入れをしているんだ」
「……三人で?」
「四人だよ。久遠寺有珠もいる」
「久遠寺って、誰?」
「あの屋敷の主だよ。礼園に通っているんだ」
「礼園……! お嬢様学校の……!」
「会長と、日景くんと、静希くんと、礼園のお嬢様が、一つ屋根の下……」
女子の群れがざわざわと、何かを想像し始めた。
忉利は額を押さえた。
事態は悪化の一途を辿っていた。
◇
その頃、生徒会室では。
「――ねえ、青子」
金鹿が帳簿から顔を上げずに言った。
「廊下が、うるさいんだけど」
「……知ってるわよ」
青子は会長席で、書類の山に顔を埋めていた。
「なんか、日景の目が青いとか、ハーフだとか、会長の屋敷で同棲してるとか。……朝からそればっかり」
「同棲じゃないわよ!」
青子は書類から顔を跳ね上げた。
「住み込みの修繕の手伝い! それだけ!」
「……ふうん」
金鹿は鉛筆を置いて、ちらりと青子を見た。
「で、今朝、日景の目を見に一年生まで群がってたけど。……いいの?」
「…………」
「日景、前から一年の間じゃ、ちょっと噂になってたのよ。ああいう黙ってるのに目立つ顔、好きな子は好きだから」
金鹿は鉛筆の尻で、帳簿の端を叩いた。
「今までは会長がいつも隣にいたから、誰も近寄らなかっただけ。……それが、目まで青くなったら、そりゃ群がるわよ」
「……知らないわよ、そんなの」
「知ってたでしょ」
「……」
青子は答えなかった。
代わりに、手元の書類をぐしゃりと握りつぶした。
「……会長、それ、予算の申請書」
「あっ」
青子は慌てて書類の皺を伸ばした。
窓際の机で、鳶丸が椅子の背にもたれて、くつくつと笑っていた。
「何がおかしいのよ、槻司」
「別に。……いや、日景の奴、目の色が変わっただけで急にモテ始めてんなと思ってよ」
「モテてないわよ!」
「廊下の騒ぎ、見てねえのか。C組の前、黒山の人だかりだぞ」
「見てない! 見たくない!」
「見てんだろ、その顔は」
青子は書類の山に再び顔を埋めた。
金鹿が小さく溜息をついた。
「……嫉妬するなら、素直に言えばいいのに」
「嫉妬なんてしてないわよ!!」
◇
昼休み。
二年C組の教室で、忉利はようやく女子の群れから解放されていた。
昼飯を食べるから、と言ったら「一緒に食べていい?」と言われかけて、芳助が「日景は静希と食う約束があるんだよ」と珍しく気の利いたことを言って追い払ってくれたのだ。
代わりに、芳助が忉利の机の前に椅子を引っ張ってきた。
「で、日景。弁当、何?」
「……なんでお前が気にすんだよ」
「いや、住み込みってことはあの屋敷で飯作ってもらってんだろ? 礼園のお嬢様の手料理とかだったら、俺、見たいじゃん!」
「おれが作ったんだよ」
「……は?」
忉利は藍色の布包みを、机の上でほどいた。
二段重ねの黒い弁当箱。
上の段におかずがぎっしりと詰まっている。卵焼き。鶏の照り焼き。ほうれん草のおひたし。人参のきんぴら。それから、父の店のまかないの定番、小さなナポリタン。
下の段は、白いご飯に梅干しが一つ。
「うわ、うまそう……! これ、お前が作ったの?」
「喫茶店の息子を舐めんな」
隣の席で、草十郎も生成りの布包みをほどいていた。
同じ弁当箱。ただし、忉利のものよりひと回り大きい。
中身はまったく同じだった。卵焼き。鶏の照り焼き。ほうれん草。きんぴら。ナポリタン。梅干し。
量だけが、倍。
「……静希の、でかくね?」
「静希は食うからな」
「いや、それにしても中身、全部同じじゃん。……ってことは」
芳助の目がきらりと光った。
それから、がたん、と椅子を蹴って立ち上がった。
「――確かめてくる!」
「おい、待て芳助――」
遅かった。
芳助は教室を飛び出して、廊下を全力で駆けていった。
生徒会室の方へ。
◇
生徒会室の扉が、がらりと開いた。
「会長! ちょっとお弁当、見せてもらっていいっすか!!」
青子はちょうど藍色の布包みをほどいて、弁当箱の蓋を開けたところだった。
二段重ねの黒い弁当箱。
卵焼き。鶏の照り焼き。ほうれん草のおひたし。人参のきんぴら。小さなナポリタン。白いご飯に梅干し。
芳助はそれを見て固まった。
それからゆっくりと、廊下の方を振り返った。
そして、叫んだ。
「――――同じだあああああ!! 会長と日景の弁当、全部同じだああああああ!!!」
その声は昼休みの廊下の端から端まで、見事に響き渡った。
廊下を歩いていた生徒たちが一斉に足を止めた。
教室の窓から、何十もの顔が一斉に覗いた。
生徒会室の中で、青子は箸を持ったまま完全に凍りついていた。
金鹿が額を押さえた。
鳶丸が、椅子から転げ落ちそうになるほど笑っていた。
「――き、木乃美ぃぃぃ!!!」
青子の絶叫が生徒会室の窓硝子を震わせた。
◇
噂は昼休みが終わるまでに、全校に広がっていた。
一時間目の後には「会長と日景が同棲している」になり、二時間目の後には「会長が日景に毎朝弁当を作らせている」になり、昼休みが終わる頃には「日景が会長のために毎朝弁当を作っている、つまり日景は会長の――」というところまで来ていた。
その先の言葉は誰も口に出さなかった。
出さなかったが、全員が同じことを考えていた。
「……最悪」
五時間目が終わった後の休み時間、青子はC組の教室の前の廊下で、忉利の袖を掴んでいた。
周りの生徒たちの視線が、痛いほど突き刺さってくる。
「なんで同じ中身にしたのよ」
「同じ中身にしねえと、手間が倍になるだろ」
「少しくらい変えなさいよ!」
「変えたって、弁当箱が同じなら同じだろ。屋敷の棚にあったやつ、あれしかなかったんだよ」
「……っ」
青子は言い返せなかった。
それからふと、忉利の顔を見上げた。
正確には、忉利の目を。
廊下の窓から差し込む冬の陽射しの中で、灰色の奥に、ほんのわずかに青が差している。
短い髪はそれを隠してはくれない。
青子はしばらく、それを見つめていた。
「……なに」
「ちょっと、待ってなさい」
青子は踵を返して、生徒会室の方へ駆けていった。
一分もしないうちに戻ってくる。
手に何かを握りしめていた。
黒縁の、分厚い、野暮ったい眼鏡だった。
「……なんだよ、それ」
「生徒会の落とし物箱に去年からずっと入ってたの。持ち主、名乗り出てこないし」
青子は有無を言わさず、その眼鏡を忉利の顔にかけた。
「……おい」
「度は、入ってないわよ。確かめたから」
「そういう問題じゃねえ」
「いいから、かけてなさい」
「なんでだよ」
「なんでもよ!」
青子は一歩下がって、忉利の顔をじっと見た。
分厚いレンズの奥で、目の色はほとんどわからなくなっていた。黒縁の太さのせいで、顔の印象そのものが三割ほど冴えなくなっている。
青子は満足げに頷いた。
「……よし」
「よし、じゃねえよ。なんで、お前が決めんだよ」
「――っ、だって、朝から一年生まで、あんたの目、見に来てたじゃない!」
言ってから青子は、はっと口を押さえた。
廊下の周りの生徒たちが、一斉に息を呑んだ。
忉利はしばらく、分厚いレンズ越しに青子の顔を見下ろしていた。
真っ赤だった。
耳の先から首筋まで。
「…………」
「な、なによ」
「……別に」
忉利は、ずり落ちかけた眼鏡を指で押し上げた。
「お前が言うなら、そうする」
青子は何か言い返そうとして口をぱくぱくさせて、結局何も言えずに、ぷいと顔を背けて走り去っていった。
廊下にしんとした沈黙が落ちた。
それから、どこかの女子がぽつりと言った。
「……もう、確定じゃない?」
周りの全員が無言で頷いた。
◇
放課後、忉利と草十郎と青子は職員室に呼び出された。
呼び出したのは、二年C組の担任で生徒会の顧問でもある、山城和樹だった。
二十代の半ばくらいの、細い眼鏡をかけた優しげな顔立ちの男。地味だが、いつも身なりはこざっぱりとしている。現国の教師で、この三咲高校の卒業生でもあった。
年が若く、話題も豊富で、一般の生徒たちからは「頼れる先輩」のように慕われている。
ただし、青子からの評価はすこぶる低い。
昼行灯。油断のならない細眼鏡。なあなあ現国教師。
職員室の奥の窓際の自分の机で、山城は椅子の背にゆったりともたれていた。指先に火の点いた煙草を挟んで。
「いやあ、すみませんね。放課後に呼び出しちゃって」
山城はにこやかに言った。
「今日一日で先生のところにまで、いろんな話が聞こえてきましてね。一応、顧問として確認しておかないと、あとで教頭先生に何か言われた時に、先生が困るんですよ」
青子の眉間にぴくりと皺が寄った。
先生が困る。
この人はいつもそうだ。生徒のためではなく、自分の仕事が増えないために動く。
「蒼崎さんのお屋敷に日景くんと静希くんが住んでる、っていうのは本当ですか?」
「……はい」
青子が背筋を伸ばして答えた。
「私の下宿先の久遠寺さんのお屋敷です。古い建物で、あちこち傷んでいて、年末から二人に修繕の手伝いをお願いしています。住み込みで」
語尾は切れていなかった。
何度も練習したのだろう、と忉利は思った。
「家主の久遠寺さんの許可もちゃんと取ってあります。日景くんのご家族にも、ご挨拶は済ませています。静希くんは以前のアパートが手狭で、ちょうど引っ越し先を探していたので」
「なるほど、なるほど」
山城は煙草の灰を、机の上の灰皿に落とした。
「家主さんと保護者の方が了承しているなら、先生がどうこう言うことではないですね。うん。それなら書類上は何の問題もない」
「……はい」
「ただね、世間体というのがありますから」
山城は細い眼鏡の位置を、指先で軽く直した。
「若い男女が一つ屋根の下。PTAの方々が聞いたら何と言うか。……そうなると、呼び出されるのは担任で顧問の先生なんですよ。わかりますよね、蒼崎さん」
「…………わかります」
青子の声がほんの少しだけ低くなった。
山城は、それに気づいているのかいないのか、にこやかなまま忉利の方に目を向けた。
それから、ほんの少しだけ首を傾げた。
「おや、日景くん。眼鏡ですか」
「……はあ」
「冬休みの間に目、悪くしたんですか?」
「……まあ」
山城は椅子から少しだけ身を乗り出して、忉利の顔を正面からじっと見た。
細い眼鏡の奥の目が、分厚いレンズの縁をなぞるように動く。
「……それ、度、入ってませんね」
忉利は何も答えなかった。
青子の背筋がびくりと強張った。
「レンズの縁で景色が歪んでいない。……眼鏡をかけてる人間には、そういうの、すぐわかるんですよ」
山城は柔らかく笑った。
「まあ、伊達眼鏡も校則違反ではないですからね。お洒落なら先生は何も言いません。……先生とお揃いですし」
「――っ」
青子が声にならない音を漏らした。
忉利は横目で青子を見た。
青子は職員室の天井を睨みつけていた。唇がぷるぷると震えていた。
なあなあ現国教師と、お揃い。
自分が無理やりかけさせた眼鏡のせいで。
山城は何事もなかったかのように、煙草を灰皿で揉み消した。
「さて。一応、形式的にもう一つだけ確認させてくださいね」
山城は青子と忉利を、にこやかに見比べた。
「その、なんですか。不純異性交遊、というようなことはありませんよね?」
職員室の空気が、凍りついた。
青子の顔が一瞬で真っ赤に染まった。
忉利は天井を見上げた。
「――あ、ありません!! あるわけないでしょう!!」
「そうですか。なら、いいんです」
山城は何事もなかったかのように、新しい煙草を一本、箱から取り出した。
「先生も、確認したという事実さえあれば、それで」
その時、草十郎が静かに口を開いた。
「先生」
「はい、静希くん」
「不純異性交遊というのは、何だろうか」
職員室の空気が、二度目の凍結を起こした。
山城は煙草を指に挟んだまま固まった。
「……ええと、ですね。それは、その」
「日景と蒼崎が何をしていると、不純異性交遊になるんだ」
「そ、それは、ですね……」
「毎朝日景が弁当を作って、蒼崎がそれを食べるのは、不純異性交遊なのか」
「い、いえ、それは違いますね。たぶん」
「なら、夜に露台で二人で紅茶を飲むのは」
「静希くん!!!」
青子が草十郎の口を、両手で塞いだ。
職員室じゅうの教師たちが、一斉にこちらを振り向いていた。
忉利は天井を見上げたまま動かなかった。
山城はしばらく、煙草を指に挟んだまま青子と忉利の顔を交互に見比べていた。
それからゆっくりと、細い眼鏡を外してレンズを拭いた。
かけ直す。
いつものにこやかな顔に戻っていた。
「……聞かなかったことにしましょう」
「先生!! 違いますから!!」
「ええ、ええ。わかってます、わかってます」
山城はひらひらと手を振った。
「聞いてしまうと、報告書を書かなきゃいけなくなるんですよ。先生の仕事が増えますから。ね」
「そういう問題じゃありません!!」
青子の抗議を、山城は柔らかな笑顔で受け流した。
それからふと、草十郎の方を見た。
細い眼鏡の奥で、ほんの少しだけ何かが光ったように見えた。
「静希くん。最近、ちゃんと食べてますか」
青子の手から解放された草十郎は、律儀に頷いた。
「日景の弁当を毎日食べているよ」
「そうですか」
「朝も夜も日景が作ってくれるんだ。うまいよ」
「……そうですか」
山城はほんのわずかに口元を緩めた。
「転入してきた頃、握り飯二つで一日過ごしているって聞いて、ちょっと気になってたんですよ。一応、担任ですからね。……よかった」
草十郎は少しだけ首を傾げた。
「先生は知っていたのか」
「担任ですから。一応は、見てますよ」
山城は煙草に火を点けた。
紫煙がゆっくりと、職員室の天井へ昇っていく。
「深くは立ち入りません。先生の仕事じゃないですから。……でも、職務の範囲のことはちゃんと見てます」
それからにこりと笑って、書類の山に手を伸ばした。
「さ、もう帰っていいですよ。……ああ、蒼崎さん」
「……なんですか」
「来週の予算委員会の資料、月曜までにお願いしますね。生徒会の分」
「…………はい」
「それと、日景くん」
「……なんすか」
「その眼鏡、よく似合ってますよ。先生の若い頃にちょっと似てます」
忉利はちらりと青子を見た。
青子は明後日の方向を見て、奥歯を噛みしめていた。
「……外しません」
「そうですか。まあ、好きにしてください」
山城はもう、机の上の書類に目を落としていた。
◇
職員室を出た三人は、昇降口で靴を履き替えていた。
「……疲れた」
青子が下駄箱に額を押しつけていた。
「一日で一年分疲れた。……しかも、あの細眼鏡と、お揃い……」
「お前がかけさせたんだろ」
「わかってるわよ!!」
「外すか?」
「……外さなくていいわよ」
青子は下駄箱に額を押しつけたまま、くぐもった声で言った。
「一年生が群がるよりは、マシだから」
「弁当の話で騒いだから、でかくなったんだろ」
「騒いだのは木乃美よ!!」
「静希も、余計なこと言うからな」
「すまない」
草十郎は素直に頭を下げた。
「でも、露台で紅茶を飲むのは本当のことだろう?」
「本当のことでも、言わなくていいことがあるのよ!!」
三人は校門を出た。
冬の夕暮れ。坂の上の洋館へと続く道を、並んで歩き出す。
◇
その十メートルほど後ろで。
電柱の陰に、五つの影がぴったりと身を寄せ合っていた。
「……行ったぞ」
芳助の声だった。
その後ろにC組の男子が三人。それから、なぜか一年生の女子が一人混じっていた。
「本当に行くのか、木乃美」
「当たり前だろ! 会長の屋敷が本当に同棲の現場なのか、この目で確かめるんだよ!」
「同棲じゃなくて、住み込みの修繕だって、日景が――」
「甘い! 甘いぞお前ら! 同じ弁当食って、夜に露台で二人で紅茶飲んで、それが修繕だと思うか!?」
「……思わない」
「だろ!? よし、行くぞ! 尾行作戦、開始だ!」
五つの影が電柱の陰から、こそこそと動き出した。
◇
坂を上りきったところで、忉利がふと足を止めた。
「……青子」
「なによ」
「後ろ、なんか、ついてきてんぞ」
青子は振り返らなかった。
ただ、小さく溜息をついた。
「……わかってる。校門出たところから、ずっとね」
「木乃美たちだ」
草十郎が振り返りもせずに言った。
「足音が五つある。一つは女子だな。……一年生だと思う」
「なんでわかんだよ」
「歩幅が狭いし、靴底が新しいんだ」
「……お前、ほんと、耳いいな」
青子はしばらく考えて、それからにやりと笑った。
いつもの、ろくでもないことを思いついた時の十七歳の青子の顔で。
「――ちょうどいいわ。有珠に、頼んでおいたのよ」
「何を」
「害虫よけ」
◇
「……おかしい」
芳助は坂の途中の曲がり角で、足を止めていた。
「なあ、おかしくね?」
「何が」
「この曲がり角、さっきも通らなかったか?」
五人は顔を見合わせた。
雑木林の中の坂道。左手に苔むした石垣。右手に葉を落とした楢の木。その根元に、誰かが捨てた錆びた自転車が一台転がっている。
「……さっきも、あの自転車、見たよな」
「見た」
「俺も見た」
「じゃあ、道、間違えたのか?」
「一本道だぞ、ここ」
五人はもう一度、坂を上り始めた。
五分後。
錆びた自転車の前に、また立っていた。
「――――」
全員が無言になった。
「……な、なんか、帰りたくなってきた」
一年生の女子が小さな声で言った。
「わ、私、今日、宿題あるし……」
「俺も、そういえば、塾が……」
「あ、俺、犬の散歩……」
「ちょ、待てよお前ら!」
芳助が両手を広げて、仲間たちを止めた。
「ここで帰ったら、なんのための尾行だよ! もうちょっとだって! 屋敷はこの坂の上だろ!?」
「でも、なんか、行きたくない……」
「気のせいだって! ほら、行くぞ!」
芳助は先頭に立って、ずんずんと坂を上り始めた。
その頭上で。
楢の木の枝に、一羽の青い駒鳥がとまっていた。
小さな目がきらりと光った。
次の瞬間、駒鳥は翼を広げて急降下した。
「――うわっ!?」
芳助の頭に、何かがどすんと着地した。
鋭い爪が髪の毛を掴む。小さな嘴が、つむじのあたりをここぞとばかりに突っつき回す。
「いてっ、いててっ! な、なんだ、鳥!?」
「きゃあああ!!」
「鳥が! 鳥が木乃美の頭に!!」
「と、とってくれ! 誰か、とってくれえええ!!」
芳助が頭を抱えて、坂道を転げ回る。
駒鳥は芳助の頭から飛び立つと、今度はC組の男子の肩に。それから次の男子の鞄に。まるで一人一人に挨拶して回るように、飛び移っていく。
ただし、一年生の女子の上だけはひらりと素通りしていった。
「に、逃げろおおおお!!」
「幽霊屋敷だあああ!! 本物の幽霊屋敷だあああ!!」
「呪われる!! 呪われるぞおおお!!」
五人は我先にと、坂道を駆け下りていった。
悲鳴が夕暮れの雑木林に遠ざかっていく。
楢の木の枝に戻った駒鳥が、満足そうに胸の羽毛を膨らませた。
「……ミッション、コンプリートッス」
◇
屋敷の二階の露台から、その一部始終を四人が見下ろしていた。
正確には、三人と先に帰っていた一人だった。
「……えげつねえな」
忉利が手すりにもたれて呟いた。
眼鏡を少しだけずらして、目の奥の扉を開く。
坂道の途中に張られた細い線の群れが見えていた。玉すだれのように道幅いっぱいに垂れ下がって、通る者の足をそっと元の場所に押し戻している。
あの日、自分が三度も迷わされた、あの線と同じものだった。
「害虫よけよ」
有珠が紅茶のカップを傾けながら、平然と言った。
「この屋敷に、招かれざる客は、入れないの。……昔から、そういう決まりよ」
「ロビンのあれは、やりすぎじゃねえのか」
「ロビンの判断よ。わたしは、何も言っていないわ」
「……一年生の子だけ、素通りしてたぞ」
「ロビンは、女の子には優しいの」
有珠はそれから、ちらりと忉利の顔を見た。
正確には、黒縁の分厚い眼鏡を。
「……それは、何」
「青子にかけさせられた」
「似合わないわ」
「知ってる」
「外しなさい。屋敷の中では」
「……そうする」
隣で青子が手すりに突っ伏して、肩を震わせていた。
笑っていた。
声を殺して、お腹を抱えて。
「……っ、ふ、ふふ……あはははっ! き、木乃美、頭に、鳥……!」
「笑いすぎだろ」
「だ、だって……『幽霊屋敷だあああ』って……! あっははは!」
草十郎が首を傾げていた。
「木乃美は大丈夫だろうか」
「大丈夫よ。髪の毛、ちょっと抜けたくらいでしょ」
「そうか」
草十郎は少しだけ考えた。
「明日、学校で木乃美に謝った方がいいだろうか」
「謝らなくていいわよ!!」
◇
翌朝。
二年C組の教室は、また騒がしかった。
「――だから、本当なんだって!!」
芳助が教壇の前で、身振り手振りを交えて熱弁をふるっていた。
頭のつむじのあたりに、小さな絆創膏が一枚貼られている。
「坂の途中で何回上っても、同じ場所に戻っちまうんだよ! 錆びた自転車の前に、三回! 三回だぞ!? で、帰りたくなってきたなと思ったら、いきなり青い鳥が襲いかかってきて!」
「青い鳥?」
「幸せの青い鳥じゃなくて、呪いの青い鳥だ! あれは絶対、普通の鳥じゃねえ! 目が、なんか、光ってた!」
教室の生徒たちがざわざわと顔を見合わせた。
「あの屋敷、昔から幽霊屋敷って言われてたよね……」
「うちのおばあちゃんも、あそこには近づくなって言ってた」
「じゃあ、日景くんと静希くんって、そこに住んでるってことは……」
「――取り憑かれてる?」
教室じゅうの視線が一斉に、窓際の二人に向けられた。
忉利は黒縁の分厚い眼鏡の奥から、窓の外を眺めていた。
草十郎は握り飯を食べていた。
「……日景」
「なんだよ」
「俺たちは取り憑かれているのか?」
「さあな」
忉利は頬杖をついたまま、気だるげに答えた。
「取り憑かれてるってことにしといた方が、楽そうだけどな」
教室の後ろのドアから、鳶丸がひょいと顔を覗かせた。
騒ぎの中心の芳助と窓際の二人を見比べて、くつくつと笑う。
「……同棲の噂が一晩で幽霊屋敷の噂に上書きされたか。蒼崎の奴、えげつねえ手使うな」
「おれは何もしてねえぞ」
「知ってるよ」
鳶丸は忉利の眼鏡を見て、また笑った。
「で、その眼鏡は山城の真似か?」
「……青子の趣味だ」
「蒼崎の趣味が山城とお揃いかよ。本人に言ったら殺されるぞ」
「もう、半分死んでた」
鳶丸は腹を抱えて笑った。
「で、どっちがマシなんだ? 同棲と、幽霊屋敷」
忉利は少しだけ考えた。
「……どっちも、似たようなもんだろ」
「違いねえ」
鳶丸は笑いを引っ込めて、廊下の方を顎でしゃくった。
「噂といや、草の字の方の話、聞いたか」
「……なんの話だよ」
「あいつ、年明けからばあさんのとこのバイトの封筒が、急に分厚くなったろ」
忉利は瞬きをした。
そういえば正月明けに、草十郎が茶封筒の中身を数えながら首を傾げていた。
「蒼崎が詐欺だって言い出してな。ばあさんが、どっかの悪い奴に騙されて草の字を使い走りにしてんじゃねえかって。……で、俺が三日ばかり、ばあさんの家の周り、張ってた」
「……お前が」
「生徒会の仕事だとよ。副会長の」
鳶丸は面倒くさそうに肩をすくめた。
「半分は当たってた。ばあさんの家に訪問販売の布団屋が、しつこく出入りしてやがった。一人暮らしの年寄りに高え羽毛布団を何枚も売りつける手合いだ」
「……で」
「蒼崎が、どっかの教会のシスターに電話一本かけた。……次の日にはその布団屋、看板下ろして町から消えてた」
忉利は何も言わなかった。
律架だろう、と思った。あの、乾いた声の。
「で、肝心の封筒の方はな。……ただの、ばあさんの気持ちだった」
鳶丸は窓の外に目をやった。
「死んだ孫と同い年なんだとよ、草の字。正月に孫にやるはずだったお年玉を、毎週少しずつ封筒に足してた。……それだけだ」
「…………」
「ゆうべ、帰りに三咲川の橋の上で草の字に話した。返した方がいいのか、って訊かれたから、知らねえって言った」
鳶丸はポケットに両手を突っ込んだ。
「そしたらあいつ、しばらく川見てて、『なら、もらっておく。返すのは、会いに行くことでいい』だとよ」
鳶丸は、ふん、と鼻を鳴らした。
「……ああいう奴が一番、始末に負えねえ」
それだけ言って、鳶丸はA組の方へ戻っていった。
忉利は窓際の草十郎を見た。
草十郎は握り飯を食べ終えて、封筒を一枚、大事そうに鞄の奥にしまっているところだった。
◇
その日の昼休み。
生徒会室で、青子が藍色の布包みをほどいていた。
二段重ねの黒い弁当箱。
蓋を開ける。
卵焼き。鶏の照り焼き。ほうれん草のおひたし。人参のきんぴら。小さなナポリタン。白いご飯に梅干し。
昨日とまったく同じだった。
ただ、一つだけ違っていた。
ご飯の上の梅干しの横に、海苔を小さく切り抜いて作った不格好な文字が、一つだけちょこんと載っていた。
『凶』。
「――――っ」
青子はしばらく、弁当箱を見下ろしたまま動かなかった。
それから、ばたん、と蓋を閉めた。
「……会長?」
金鹿が帳簿から顔を上げた。
「どうしたの。顔、真っ赤だけど」
「な、なんでもないわよ!!」
「……また、日景?」
「なんでもないって言ってるでしょ!!」
青子は弁当箱を胸に抱えたまま、机に突っ伏した。
耳の先まで、真っ赤だった。
金鹿は小さく溜息をついて、また帳簿に目を落とした。
窓の外で、冬の陽射しがのどかに降り注いでいた。
噂はたぶん、あと三日もすればまた別の何かに上書きされるだろう。
けれど、藍色の布包みの弁当は、明日も、明後日も、その次の日も、きっと、同じ中身で届くのだ。
梅干しの横の不格好な海苔の文字だけを、毎日、少しずつ変えながら。
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