一 二月十三日
午後九時。
Cafe HIKAGEの扉には、「本日閉店」の札が下がっていた。
けれど、店の奥の厨房にはまだ明かりが灯っていた。
「――だから、青子ちゃん! チョコレートは直接火にかけちゃ駄目なんだってば!」
「し、知ってるわよ、そのくらい!」
「知ってたらなんで鍋に直接入れたの!?」
「……ちょっと急いでただけよ」
「湯煎だよ、湯煎! お湯を張ったボウルの上にもう一個ボウルを重ねて、その中でゆっくり溶かすの!」
厨房の調理台の前に、エプロン姿の青子が立っていた。
手元の小鍋の中で、刻んだはずのチョコレートが茶色い塊になって、ぶすぶすと焦げた匂いを立てている。
調理台の上には同じような残骸が、すでに二つ並んでいた。
一つ目は溶かしすぎて、油と粉に分かれてしまったもの。二つ目は型から溢れて、調理台の上に広がったまま固まってしまったもの。
「……青子ちゃん、もしかしてお菓子作ったことない?」
「……ないわよ。一回も」
青子はエプロンの裾をぎゅっと握りしめた。
「分量とか温度とか細かいことばっかりで、私の性に合わないのよ」
「……でも、青子ちゃんがわざわざうちに来て、こっそりチョコ作るってことは」
晴華が青子の顔を覗き込んだ。
「お兄ちゃんにあげるんでしょ?」
「――っ、ち、違うわよ! 屋敷のみんなに、よ! 有珠と、静希くんと、ついでに忉利にも! ぎ、義理よ、義理!」
「義理なのに三回も失敗してるんだあ」
「晴華ちゃん!!」
厨房の入り口で、かたん、と小さな音がした。
父が、紙袋を一つ提げて立っていた。
調理台の上の三つの残骸を黙って眺めた。
それから何も言わずに、紙袋を調理台の上に置いた。
中から、深煎りの珈琲豆が、ひと掴み分出てきた。
「うちのブレンドだ。細かく挽いて、少しだけ混ぜろ」
「え……」
「あいつは甘いだけのもんは、あんまり食わん。……苦いのが混ざってる方が、喜ぶ」
父はもう背を向けていた。
「湯煎の温度は五十度くらいだ。指を入れて、風呂よりちょっと熱いと思うくらい。……それ以上は、焦げる」
それだけ言って、父は厨房を出ていった。
晴華が両手で口を押さえて、目を輝かせていた。
「……お父さん、全部お見通しだったんだ」
青子は何も言えなかった。
ただ、紙袋を胸に抱きしめた。
深煎りの、焦げる寸前の、苦くて甘い匂いがした。
二 二月十四日
朝六時。
久遠寺邸の食堂のテーブルの上に、直径二十センチほどの黒々とした丸いケーキが、どん、と置かれていた。
「……なに、これ」
「ガトーショコラ。親父の店の二月の定番だ。……屋敷のみんなで食えるように、ゆうべ一個焼いといた」
忉利が紅茶のポットを持って、台所から出てきた。
青子は、しっとりと焼き上がった完璧な断面をじっと見つめていた。
それから、自分の鞄の中の小さな紙包みのことを思い出した。
ゆうべ、四回目にようやく形になった、不格好なチョコレートのことを。
「……先を越された」
「は?」
「なんでもないわよ!」
有珠は一切れをフォークで小さく崩して、口に運んだ。
咀嚼する。表情は変わらない。
けれど、もう一口崩した。
「……悪くないわ」
草十郎が首を傾げた。
庭から戻ってきた草十郎が、有珠にもらった革の手袋をきちんと外して、手を洗ってから席に着いた。
「日景。これは何の祝いなんだ?」
「祝いじゃねえよ。二月だから焼いただけだ。……まあ、今日はそういう日だけどな」
「今日は何の日なんだ?」
食堂がしんと静まり返った。
「……静希。お前、バレンタインって知らねえのか」
「知らないな。山にはなかったよ」
「……学校行けばわかるよ。嫌でもな」
◇
三咲高校の昇降口は、朝から異様な空気に包まれていた。
芳助は、自分の下駄箱の前で、五分近く両手を合わせて拝んでいた。
「一個でいい。義理でいい。チロルチョコ一個でいい。頼む……!」
扉を開けた。
上履きが一足、入っていた。
それだけだった。
芳助は無言で扉を閉めて、下駄箱に額を押しつけて動かなくなった。
その隣で忉利が扉を開けた。
赤い包装紙。ピンクのリボン。小さな箱が、ばさばさと六つなだれ落ちてきた。
「…………日景。お前、その眼鏡でまだモテんのか」
「知らねえよ」
草十郎の下駄箱には、小さな包みが三つちょこんと載っていた。
「日景。どうして俺の下駄箱にチョコが入っているんだろう」
「今日は女が男にチョコをやる日なんだよ。……来月、ホワイトデーってのがあって、そん時に返す」
「なら、来月までに誰がくれたのか調べておこう」
「調べんな」
下駄箱に額を押しつけていた芳助が、ついに崩れ落ちた。
「静希まで……静希まで三個……俺は、ゼロ……」
「木乃美」
草十郎が芳助の肩にそっと手を置いた。
「一つ、分けようか」
「やめろ!! それが一番惨めになるんだよ!!」
昇降口の向こうで、鳶丸の下駄箱の前に人だかりができていた。
扉の隙間から、色とりどりの包みがはみ出していた。
開ける前から、もう入りきっていなかった。
「……殿下は別格です……」
芳助が床に突っ伏したまま呻いた。
◇
朝のホームルームの前、生徒会室。
「――というわけで、蒼崎さん。今日一日、校内の見回りをお願いできますか。校則上、菓子類の持ち込みは一応、禁止ということになっていますので」
山城が細い眼鏡の奥で、にこやかに微笑んでいた。指先に火の点いていない煙草を一本、挟んで。
「教頭先生が、毎年この日になると、うるさいんですよ。……ああ、形式だけで結構ですよ。実際に没収なんかしたら生徒たちに恨まれて、先生の仕事が増えますから」
青子の眉間に深い皺が寄った。
なあなあ現国教師。その評価は、今日も一ミリも揺らがない。
山城は踵を返しかけて、ふと足を止めた。
青子の机の脇の鞄の口から、ほんの少しだけ覗いている、青い包装紙に銀色のリボンの小さな紙包みを、見た。
「…………先生は、何も見ていません。見てしまうと報告しなきゃいけなくなりますからね」
生徒会室の扉が閉まった。
青子は閉まった扉を睨みつけて、それから鞄の口をばっと閉じて、机に突っ伏した。
「…………あの、細眼鏡……っ!」
窓際の机で、金鹿が帳簿をつける手を止めていた。
金鹿の鞄の脇にも、小さな紙包みが一つ置かれていた。
赤い包装紙。金色のリボン。
金鹿は、それをちらりと見て、すぐに目を逸らした。
◇
昼休み。
忉利は教室の窓から、中庭の向こうの生徒会室の窓を見た。
窓際に金鹿が立っていた。
手に赤い包装紙の包みを持って。廊下の方を、じっと見つめていた。
忉利は眼鏡を少しだけずらして、目の奥の扉を細く開いた。
金鹿の胸から伸びる線が、ほんのわずかに横に揺れていた。
A組の方から廊下を歩いてくる、誰かの方へ。
扉を閉じて、忉利は椅子から立ち上がった。
A組の前の廊下で、鳶丸は壁にもたれて、紙袋を足元に置いていた。
中には三十八個の包みがぎっしり詰まっていた。
「……いらねえよ、こんなもん。全部、理事長の息子にくれてるだけだ。親父の顔に媚び売っときゃ進路のコネになるとでも思ってんだろ。……ばかばかしい」
「全部がそうじゃねえだろ」
忉利は鳶丸の隣に並んだ。
「生徒会室で、久万梨が一人で帳簿つけてる。予算の締めで手が回ってねえみたいだぞ。……副会長が手伝ってやんねえと、まずいんじゃねえの」
鳶丸はしばらく、忉利の横顔を見ていた。
「……お前、なんか企んでんのか」
「企んでたらもっとうまくやる」
鳶丸は、ふん、と鼻を鳴らして足元の紙袋を忉利に押しつけた。
「……これ、預かっとけ。草の字にでもやれ。あいつなら全部食うだろ」
それからポケットに手を突っ込んで、生徒会室の方へ歩いていった。
◇
生徒会室で、金鹿は慌てて赤い包みを背中に隠した。
鳶丸は何も言わずに隣の机に座って、帳簿を覗き込んだ。
しばらく二人とも、黙って数字を追っていた。
「……背中に隠してんの、なんだ」
金鹿の顔から血の気が引いて、それから、一気に真っ赤になった。
「……ぎ、義理よ。副会長には、一年間お世話になったから。……生徒会の、義理。それだけ」
震える手で、包みを鳶丸の前に置いた。
包装紙の折り目が、少しだけ不揃いだった。リボンの結び目が、何度もやり直したように少しだけよれていた。
廊下の紙袋の三十八個の、どれとも違っていた。
鳶丸はリボンをほどいて、不揃いなトリュフを一つ口に放り込んだ。
「ちょ、ちょっと、ここで食べないでよ!」
「……うめえな。中に紹興酒か、これ」
鳶丸はもう一つ口に放り込んだ。
「お前んちの親父の味じゃねえな。……お前のだろ、これ」
金鹿は何も言えなかった。
耳の先から首筋まで真っ赤だった。
「…………ぎ、義理だって言ってるでしょ」
「おう。義理な」
鳶丸は箱の蓋を閉めて、制服のポケットにしまった。
「義理にしちゃ手が込んでんな」
「――槻司!!」
「帳簿、続きやるぞ」
金鹿は何か言い返そうとして、結局、何も言えずに鉛筆を握りしめた。
窓の外で、冬の陽射しが生徒会室の中をのどかに照らしていた。
鳶丸の口元が、ほんの少しだけ持ち上がっていたのを、金鹿は見ていなかった。
◇
夕方、久遠寺邸の裏庭で。
冬枯れの薔薇の根元の土をほぐしていた草十郎の背後に、有珠が立った。
「……今日はバレンタイン、というものらしいわね」
「ああ。学校でチョコを三つもらったよ」
有珠は外套のポケットから、小さな紙の袋を取り出して、後ろ手に差し出した。
袋の口から小さな黒い粒が、ぱらぱらとこぼれた。
「……種?」
「薔薇の種よ。母の庭にあったものの、子孫。……チョコレートは、作れないし。あなたには、こちらの方がいいと思ったの」
「…………」
「春になったら、植えなさい。あなたが手入れしている、その薔薇の隣に」
「ありがとう、有珠。……大事に育てるよ」
有珠は何も言わなかった。
ほんのわずかに唇の端を動かしただけだった。
肩の上のロビンがこっそりと囁いた。
「……マイ天使、チョコよりずっと重たいもの渡してるッスね」
「ロビン」
「なんでもないッス!」
◇
夜。
屋敷の二階の露台で、忉利は手すりにもたれていた。
背後で硝子戸が開いた。
青子だった。
今夜は、紅茶のカップを持っていなかった。両手を背中に回していた。
「……下駄箱、六個だったんだって?」
「誰に聞いたんだよ」
「木乃美が廊下で泣きながら言いふらしてたわよ」
「静希に半分やった。あいつ、全部うまそうに食ってた」
「……あんた、最低ね」
青子は背中に回していた両手を、前に持ってきた。
青い包装紙に銀色のリボン。
「……ぎ、義理よ。屋敷のみんなに配ってるの。あんたの分も、ついで」
忉利は黙って包みを受け取った。
小さな箱の中に、不揃いな形の手作りのチョコレートが四つ並んでいた。
一つは、角が欠けていた。一つは、表面に白い筋が浮いていた。
「……笑わないでよ。四回失敗したんだから」
「笑ってねえよ」
一つ、口に入れた。
甘かった。
それから、その奥からじわりと苦いものが広がってきた。
深煎りの。焦げる寸前の。苦くて、それから、後から甘い。
「……親父の豆だろ」
青子の肩がびくりと跳ねた。
「…………なんでわかるのよ」
「わかるに決まってんだろ。十何年、毎朝嗅いでんだぞ」
「……おじさんが、くれたのよ。あいつは甘いだけのもんは食わないって。……ほんとに、そうなの?」
忉利は町の灯りを見下ろしていた。
商店街の外れの、Cafe HIKAGEの看板の明かり。
「……ああ。うまい」
ぶっきらぼうに。
「義理でも、うまいよ」
青子は手すりに顎を乗せたまま、忉利の横顔を見ていた。
「……義理じゃ」
夜風がざあっと吹き抜けて、青子の声をかき消した。
「……なんか言ったか」
「な、なんでもないわよ!! ホ、ホワイトデー! 来月! 三倍返しだからね!」
「三倍?」
「当たり前でしょ! 四回も失敗したんだから!」
忉利は最後の一つ――角の欠けたチョコレートを口に入れた。
一番、苦かった。たぶん、豆の量を間違えたのだろう。
それが、一番うまかった。
「……十秒短い紅茶でいいか。それとも、ガトーショコラ、もう一回焼くか。お前の分だけ」
「……両方よ」
「欲張りだな」
「三倍返しなんだから当然でしょ!」
忉利は空になった箱を包装紙で丁寧に包み直して、青いリボンも結び直して、カーディガンのポケットにしまった。
「……それ、捨てないの?」
「四回失敗したやつの箱だからな」
青子はしばらく、忉利の横顔を見つめていた。
それから、手すりの上で、ほんの少しだけ身体を寄せた。
肩が触れるか触れないかの距離。
小さい頃から、ずっとこの距離だった。
二月の夜風が冷たかった。
けれど、触れた肩のところだけが、少しだけ温かかった。
◇
屋敷の一階の、明かりの消えた食堂のテーブルの上に、青い包装紙の小さな包みが二つ並んで置かれていた。
有珠の席の前と、草十郎の席の前に。
ついさっき、青子がこっそり置いていったものだった。
どちらも、駅前の菓子屋で買った、既製品のチョコレートだった。
手作りは、四回目にしてようやく形になった、たった一箱しかなかったのだ。
三 三月十四日
その前のひと月のあいだ。
坂の上の洋館の台所では、時々、夜中に煙が上がった。
「……日景忉利」
ある晩、有珠が台所の入り口に、寝間着の上に外套を羽織って立っていた。
「屋敷じゅうが焦げ臭いわ。……何を、しているの」
忉利はフライパンを手に固まっていた。
フライパンの上で、黒焦げになった小さな豆がぶすぶすと煙を上げていた。
「……豆、煎ってる」
「夜中の二時に」
「……昼間だと青子にばれる」
有珠は、しばらく黙っていた。
それから、台所の窓を黙って開けた。
冷たい夜気が流れ込んできた。
「……窓は開けておきなさい。それから、終わったら換気扇を回しておくこと」
「……悪い」
「謝らなくていいわ。……三月の十四日でしょう」
忉利は何も言えなかった。
有珠は、それ以上何も言わずに、階段を上がっていった。
翌朝、青子は朝食の席で鼻をひくつかせて、首を傾げた。
「……ねえ。なんか焦げ臭くない?」
「静希の焚き火だろ」
「俺は焚き火なんてしていないよ」
「――静希」
「……したかもしれない」
有珠が紅茶のカップの陰で、ほんの少しだけ目を細めた。
◇
三月十四日。午前三時。
商店街は、まだ夜の底に沈んでいた。
日景忉利はCafe HIKAGEの裏口の前で、息を殺して鍵を回した。
ポケットに麻の小袋が一つ。
暗い厨房の奥で、焙煎室の裸電球が一つだけ灯っていた。
その下に、父が腕を組んで、壁にもたれて立っていた。
「……親父」
「遅い。三時と言ったら、二時五十分に来い」
「……言ってねえだろ、三時なんて」
「顔に書いてあった。昨日の昼に」
昨日の昼、店番をしていた時、焙煎室の前を三回通り過ぎた。三回とも足を止めた。
見られていたらしい。
古い鉄の、手回しの焙煎機。父が店を開ける時に中古で買ってきて、三十年近く、この店のすべての豆を焼いてきたもの。
ネルは中学に上がった時に握らせてもらった。ミルは小学生の頃から回していた。
けれど、この焙煎機にだけは一度も触らせてもらったことがなかった。
――豆を焼くのは、店の味を決めることだ。お前にはまだ早い。
「火の番は最後までやれ。途中で投げたら二度と触らせん」
父は、焙煎室の隅の古い椅子にどっかりと腰を下ろして、腕を組んで目を閉じた。
口は出さずに。
◇
麻の小袋の中は生豆だった。
モカが七。ブラジルが三。
一月から少しずつ、小遣いで買い足してきた。屋敷の台所のフライパンで試しに煎って、二回焦がした。一回は生焼けだった。
ドラムをガスの火で温める。
手のひらをかざして、鉄の温度を確かめる。父が毎朝そうしているのを、何年も見てきた。
温まった。
生豆をざらりと流し込む。
ハンドルを回し始めた。
ごろ、ごろ、ごろ。
五分。豆の青臭い、干し草のような匂いが、焼いた麦のような香ばしい匂いに変わっていく。
十分。豆の色が、灰色から淡い茶色へ。
ハンドルを回す腕が、じわじわと重くなっていく。
忉利は、覗き窓から豆を見ながら、目の奥の扉を少しだけ開いた。
豆の一粒一粒の中に、細い線がびっしりと走っていた。豆の中の小さな部屋と部屋を仕切る壁を縫い合わせている、何千本もの線。
熱が入るにつれて、それが張りつめていく。
――ぱちっ。
一ハゼ。
張りつめた線が一本、また一本とぷつりと切れて、豆の中の小さな部屋がひとつ、またひとつと繋がっていくのが見えた。
椅子の上で、父が目を閉じたまま少しだけ首を傾けた。
音を聞いているのだった。
◇
一ハゼが落ち着いた。
豆の色が深い栗色へ。煙がドラムの隙間から、細く立ちのぼり始めた。
焼いた麦の匂いが、甘い、焦がした砂糖の匂いに。それから、その奥にほんの少しだけ、苦い、煙の匂いが混ざり始める。
ここからだった。
父の店の豆は、焦げるほんの手前まで焼く。
その手前がどこなのか。
父は音と、匂いと、煙の色で決める。三十年、そうしてきた。
忉利には、それがまだわからない。フライパンで焦がした二回は、どちらもここでわからなくなった。
腕が痺れていた。額から汗が一筋、流れ落ちた。
扉をもう少しだけ開いた。
一ハゼで切れ残った線が、また張りつめ始めていた。さっきよりも、細く。脆く。
――ぴし。
二ハゼ。
豆の中の線がほどけていく。一本。十本。百本。
全部ほどけたら、焦げる。
全部ほどける、その、ほんの手前で。
忉利は息を止めて、見ていた。
残り、何本か。ほどけていく速さ。
――今。
排出口を開けた。
黒に近い深い茶色の豆が、冷却用の網の上にざあっと流れ出した。
煙が焙煎室いっぱいに立ちのぼった。
網を揺すって団扇で扇ぐ。ぴし、ぴし、という音がまばらになって、やがて止んだ。
苦くて、それから、後から甘い。
この店の匂いだった。
◇
父が目を開けた。
網の上の豆を一粒、指でつまんで光にかざして、前歯でかりっと噛んだ。
長いこと黙っていた。
忉利の心臓がうるさかった。
遊園地で化け物と向かい合った時よりも。旧校舎で、あの女と向かい合った時よりも。
「……十秒」
父が言った。
「火から上げるのが十秒遅い。あと十秒早ければ、苦味の角が立たなかった」
もう一粒、噛む。
「……だが、悪くない」
忉利は何も言えなかった。
「初めての焙煎で、二ハゼの止めどころを十秒しか外さなかった奴は、見たことがない。……俺は最初、一分外した。真っ黒の炭を師匠に食わされた」
父の口元が、ほんのわずかに動いたように見えた。
「どうやって見た」
「……見てた。豆を」
「そうか」
父はそれ以上、訊かなかった。
ただ、忉利の目を、ほんの一瞬だけ見た。
虹彩の縁の青い輪を。
「二日、寝かせろ。焼きたてはガスが抜けてねえ」
「……今日、使いたいんだけど。……今日、ホワイトデーだから」
父の手が止まった。
それから、また豆を麻の袋に移し始めた。
「……なら、粗く挽け。蒸らしは四十秒だ」
父は麻の袋の口を紐で縛って、忉利に差し出した。
「……青子ちゃんか」
忉利は答えなかった。
耳の先が、焙煎室の熱のせいとは思えないほど赤くなっていた。
父は何も言わずに、焙煎室を出ていった。
厨房の方から湯を沸かす音が聞こえ始めた。
四時。
この店のいつもの朝が、始まる時間だった。
◇
午前六時半。
久遠寺邸の食堂のテーブルの上に、三つのものが並んでいた。
白いティーポット。ダージリン。蒸らしは十秒短く。
直径十センチほどの、一人分だけの小さなガトーショコラ。表面に、粉砂糖で、小さないびつな星が一つ。
それから、麻の小袋。
「……なに、これ」
「三倍返し。十秒短い紅茶とガトーショコラ、両方だってお前が言ったろ。……で、三倍だから、もう一個」
「……これは」
「豆だ。……おれが、焼いた。今朝」
青子の目が見開かれた。
「……おじさん、あんたには絶対触らせないって――」
「触らせてもらった。十秒焦がしすぎだって言われたけど」
青子は忉利の顔を見た。
目の下に薄い隈があった。前髪が、少しだけ焦げ臭かった。袖口に煤がついていた。
「……何時に起きたのよ」
「二時半」
「――っ、バカじゃないの」
「知ってる」
「ホワイトデーのために二時半に起きて、おじさんの焙煎機、勝手に使ったの?」
「勝手じゃねえ。親父、先に起きて待ってた」
青子は何か言い返そうとして、口を開けて、閉じた。
それから、椅子にすとんと座った。
「……紅茶、淹れて。それから、……その豆で珈琲も」
「お前、紅茶派なんじゃねえのか」
「今日は両方よ。三倍返しなんだから」
◇
粗く挽く。ネルに粉を落とす。湯を細く注ぐ。
焼きたての豆の中のガスが押し出されて、粉がいつもより大きく膨らんだ。
四十秒。
白いマグカップを紅茶のカップの隣に置いた。
青子は紅茶を一口飲んで、目を閉じた。
ガトーショコラのいびつな星の端をフォークで崩して、口に運んだ。
「……甘い」
「お前の分だけ、砂糖多めにした。……十何年、隣で食ってんだぞ」
最後に、マグカップを両手で包んだ。
一口。
――――。
長いこと動かなかった。
「……苦い。すっごく、苦い。おじさんのより、苦い。……十秒焦がしすぎよ、これ」
「だからそう言っただろ」
「……でも」
青子は目を開けた。
「後から甘い。……それに、なんか明るい。夜が明ける、ちょっと前みたいな」
「モカ、多めにしてある」
青子は顔を上げて、忉利の目を見た。
灰色の虹彩の、いちばん外の縁の細い青い輪を。
夜明け前の空の色を。
「……名前、あるの。これ」
「ねえよ。今朝焼いたばっかだぞ」
「じゃあ、私がつける」
青子は、少しだけ頬を赤くして、言った。
「夜明け前。……夜明け前ブレンド。……あんたの目の色と、同じ味がするから」
忉利は言葉を失った。
食堂の入り口で、有珠が足を止めていた。
肩の上でロビンが、両方の翼で顔を覆っていた。
「……朝から胸焼けがするわ。珈琲の匂いのせいだと、思いたいけれど」
「――っ、有珠!!」
「日景。俺の分はあるだろうか」
「ねえよ。これは青子の分だ」
「そうか。……なら、俺も三倍返しを配ってくるよ」
草十郎が懐から、木彫りの小鳥を三羽取り出した。
雀と、目白と、鶯。
「下駄箱にチョコを入れてくれた三人に返すんだ。……一月かけて、足音と下駄箱の開け方で調べたよ」
「調べたの!?」
「一年の女子が二人と、三年の女子が一人。……一人は園芸部だったから、鶯にしたんだ」
青子は額を押さえた。忉利は天井を見上げた。
有珠がふいと顔を背けた。
「……わたしには、ないのね」
草十郎はもう一方の懐から、小さな素焼きの植木鉢を取り出した。
「有珠には、これだ。……先月の種を植えておいたら、今朝、芽が出たんだ」
土の真ん中に、小さな緑の芽が一つだけ顔を出していた。
有珠は両手で、植木鉢をそっと受け取った。
「……三倍では、ないわね」
「足りないだろうか」
「……足りているわ」
有珠は植木鉢を胸に抱えたまま、階段の方へ踵を返した。
肩の上でロビンがこっそりと囁いた。
「マイ天使、芽の方がチョコよりずっと重たいッスね」
「ロビン」
「なんでもないッス!」
◇
その日の夕方。
Cafe HIKAGEのカウンターの、いちばん端の席に、青子と忉利が並んで座っていた。
カウンターの内側で、父が今朝の豆でネルを振っていた。
「……ガスがまだ抜けてねえな。泡がでかすぎる」
それでも手は止めなかった。
白いカップに注いで、青子の前に置いた。それからもう一杯。自分の前に。
父は、立ったままそれを一口飲んで、長いこと黙っていた。
青子も一口飲んだ。
今朝より、少しだけ角が取れていた。父の淹れ方のせいだろう。同じ豆なのに、朝みたいな明るさがもう少しだけはっきりしている。
「……名前は」
父が言った。
忉利ではなく、青子の方を見て。
「つけたんだろう。青子ちゃんが。……こいつは自分で焼いたもんに、名前なんかつけん」
青子は、少しだけ唇を噛んで、小さな声で言った。
「……夜明け前ブレンド、です」
父はレジの下の引き出しを開けて、生成りの厚紙を一枚取り出した。
店の壁に並んでいるのと同じ、メニュー札。
胸ポケットの万年筆で、角張った几帳面な字で書いた。
――夜明け前ブレンド。
値段の欄は空白のままだった。
「まだ客には出せん。十秒焦がしすぎだ。ガスの抜き方も知らん。二ハゼの止めどころは、今日は当たったが、次も当たるとは限らん」
「…………」
「客に出せる味になったら、値段を書く。……それまでは、ここだ」
父は厚紙を引き出しの中に、そっとしまった。
「……いつになるんだよ、それ」
「知らん」
父は背中を向けて、ネルを洗い始めた。
「……俺が、自分の豆を客に出せるまで、十年かかった」
青子がカウンターの下で、忉利の袖をそっと掴んだ。
厨房の奥から晴華の声が飛んできた。
「お兄ちゃーん! ホワイトデー、わたしには何もないの!?」
「冷蔵庫にプリン入れといた」
「やったー!! ……って、なんで一個だけ焦げてるの、これ!?」
「親父の焙煎機の横で蒸した」
「なんで焙煎機の横で蒸すの!?」
青子がカウンターに突っ伏して、肩を震わせていた。
父の背中も、ほんの少しだけ揺れていた。
◇
夜。
坂の上の洋館へ続く道を、二人で上っていった。
三月の夜風は、二月よりも少しだけ柔らかかった。
青子は胸の前に麻の小袋を抱えていた。
今朝の豆の残りだった。
「……それ、持って帰んのか」
「当たり前でしょ。三倍返しの三つ目なんだから」
「挽いてやろうか」
「いいわよ。自分で挽くから」
「お前、ミル回せんのかよ」
「回せるわよ! ……たぶん」
忉利は小さく笑った。
「……忉利」
「ん」
「あの札。……十年かかるって、おじさん言ってたわね」
「言ってたな」
「十年後、あんた、あの店にいるの」
忉利はすぐには答えなかった。
十年後のことなんて考えたことがなかった。
この冬、何度も死にかけて、一度は本当に死んで、それでもこうして坂道を上っている。
十年後、自分がどこにいるのか。何をしているのか。
わからなかった。
「……わかんねえ」
正直に言った。
「でも、あの札に値段が書かれる日には、いる。……どこにいても、その日だけは戻ってくる。親父の前で、あの豆、淹れる」
「……その時、私もいていい?」
「いなかったら誰が名前つけたって言うんだよ」
青子の足が止まった。
月明かりの下で、耳の先が赤かった。
「……十秒焦がしすぎたの。あんたの目で豆の中の線、見て止めたんでしょ」
「……なんでわかんだよ」
「わかるわよ。あんたの十年、見たんだから」
青子は顔を上げた。
「あんた、線を見る時いつも、ほんの少しだけ見すぎるの。……切る前に、もう一回だけ確かめるから。その、もう一回の分が、たぶん十秒」
「…………」
「悪い癖じゃないわよ。……ただ、その十秒で苦くなるだけ」
青子は少しだけ笑って、また歩き出した。
忉利は、その背中を見て、歩幅を合わせて隣に並んだ。
坂の上の洋館の、玄関の脇の窓辺に、小さな素焼きの植木鉢が一つ置かれていた。
土の真ん中で、小さな緑の芽が月の光を浴びていた。
シエルの小説満足度調査
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めちゃよかった
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よかった
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そこそこ
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びみょう