夜明けの色を見る眼   作:にんら

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義理と夜明け前

 午後九時。

 

 Cafe HIKAGEの扉には、「本日閉店」の札が下がっていた。

 

 けれど、店の奥の厨房には、まだ明かりが灯っていた。

 

「――だから、青子ちゃん! チョコレートは、直接火にかけちゃ駄目なんだってば!」

 

「し、知ってるわよ、そのくらい!」

 

「知ってたら、なんで鍋に直接入れたの!?」

 

「……ちょっと、急いでただけよ」

 

「湯煎だよ、湯煎! お湯を張ったボウルの上に、もう一個ボウルを重ねて、その中でゆっくり溶かすの!」

 

 厨房の調理台の前に、エプロン姿の青子が立っていた。

 

 手元の小鍋の中で、刻んだはずのチョコレートが、茶色い塊になって、ぶすぶすと焦げた匂いを立てている。

 

 調理台の上には、同じような残骸が、すでに二つ並んでいた。

 

 一つ目は、溶かしすぎて、油と粉に分かれてしまったもの。二つ目は、型から溢れて、調理台の上に広がったまま固まってしまったもの。

 

「……青子ちゃん、もしかして、お菓子作ったことない?」

 

「……ないわよ。一回も」

 

 青子は、エプロンの裾を、ぎゅっと握りしめた。

 

「分量とか温度とか、細かいことばっかりで、私の性に合わないのよ」

 

「……でも、青子ちゃんが、わざわざうちに来て、こっそりチョコ作るってことは」

 

 晴華が、青子の顔を覗き込んだ。

 

「お兄ちゃんに、あげるんでしょ?」

 

「――っ、ち、違うわよ! 屋敷のみんなに、よ! 有珠と、静希くんと、ついでに忉利にも! ぎ、義理よ、義理!」

 

「義理なのに、三回も失敗してるんだあ」

 

「晴華ちゃん!!」

 

 厨房の入り口で、かたん、と小さな音がした。

 

 父が、紙袋を一つ提げて、立っていた。

 

 調理台の上の三つの残骸を、黙って眺めた。

 

 それから、何も言わずに、紙袋を調理台の上に置いた。

 

 中から、深煎りの珈琲豆が、ひと掴み分、出てきた。

 

「うちのブレンドだ。細かく挽いて、少しだけ混ぜろ」

 

「え……」

 

「あいつは、甘いだけのもんは、あんまり食わん。……苦いのが混ざってる方が、喜ぶ」

 

 父は、もう、背を向けていた。

 

「湯煎の温度は、五十度くらいだ。指を入れて、風呂よりちょっと熱いと思うくらい。……それ以上は、焦げる」

 

 それだけ言って、父は、厨房を出ていった。

 

 晴華が、両手で口を押さえて、目を輝かせていた。

 

「……お父さん、全部、お見通しだったんだ」

 

 青子は、何も言えなかった。

 

 ただ、紙袋を、胸に抱きしめた。

 

 深煎りの、焦げる寸前の、苦くて甘い匂いがした。

 

 

 

 

 二月十四日

 

 朝六時。

 

 久遠寺邸の食堂のテーブルの上に、直径二十センチほどの、黒々とした丸いケーキが、どん、と置かれていた。

 

「……なに、これ」

 

「ガトーショコラ。親父の店の、二月の定番だ。……屋敷のみんなで食えるように、ゆうべ、一個焼いといた」

 

 忉利が、紅茶のポットを持って、台所から出てきた。

 

 青子は、しっとりと焼き上がった完璧な断面を、じっと見つめていた。

 

 それから、自分の鞄の中の、小さな紙包みのことを思い出した。

 

 ゆうべ、四回目に、ようやく形になった、不格好なチョコレートのことを。

 

「……先を、越された」

 

「は?」

 

「なんでもないわよ!」

 

 有珠は、一切れをフォークで小さく崩して、口に運んだ。

 

 咀嚼する。表情は、変わらない。

 

 けれど、もう一口、崩した。

 

「……悪くないわ」

 

 草十郎が、首を傾げた。

 

 庭から戻ってきた草十郎が、有珠にもらった革の手袋をきちんと外して、手を洗ってから、席に着いた。

 

「日景。これは、何の祝いだ」

 

「祝いじゃねえよ。二月だから焼いただけだ。……まあ、今日は、そういう日だけどな」

 

「今日は、何の日だ」

 

 食堂が、しんと静まり返った。

 

「……静希。お前、バレンタインって知らねえのか」

 

「知らない。山には、なかった」

 

「……学校行けば、わかるよ。嫌でもな」

 

 三咲高校の昇降口は、朝から、異様な空気に包まれていた。

 

 芳助は、自分の下駄箱の前で、五分近く、両手を合わせて拝んでいた。

 

「一個でいい。義理でいい。チロルチョコ一個でいい。頼む……!」

 

 扉を開けた。

 

 上履きが一足、入っていた。

 

 それだけだった。

 

 芳助は、無言で扉を閉めて、下駄箱に額を押しつけて、動かなくなった。

 

 その隣で、忉利が扉を開けた。

 

 赤い包装紙。ピンクのリボン。小さな箱が、ばさばさと、六つ、なだれ落ちてきた。

 

「…………日景。お前、その眼鏡で、まだモテんのか」

 

「知らねえよ」

 

 草十郎の下駄箱には、小さな包みが、三つ、ちょこんと載っていた。

 

「日景。なぜ、俺の下駄箱に、チョコが入っている」

 

「今日は、女が男にチョコをやる日なんだよ。……来月、ホワイトデーってのがあって、そん時に返す」

 

「なら、来月までに、誰がくれたか、調べておこう」

 

「調べんな」

 

 下駄箱に額を押しつけていた芳助が、ついに、崩れ落ちた。

 

「静希まで……静希まで三個……俺は、ゼロ……」

 

「木乃美」

 

 草十郎が、芳助の肩に、そっと手を置いた。

 

「一つ、分けようか」

 

「やめろ!! それが一番惨めになるんだよ!!」

 

 昇降口の向こうで、鳶丸の下駄箱の前に、人だかりができていた。

 

 扉の隙間から、色とりどりの包みが、はみ出していた。

 

 開ける前から、もう、入りきっていなかった。

 

「……殿下は、別格です……」

 

 芳助が、床に突っ伏したまま、呻いた。

 

 朝のホームルームの前、生徒会室。

 

「――というわけで、蒼崎さん。今日一日、校内の見回りをお願いできますか。校則上、菓子類の持ち込みは、一応、禁止ということになっていますので」

 

 山城が、細い眼鏡の奥で、にこやかに微笑んでいた。指先に、火の点いていない煙草を一本、挟んで。

 

「教頭先生が、毎年この日になると、うるさいんですよ。……ああ、形式だけで結構ですよ。実際に没収なんかしたら、生徒たちに恨まれて、先生の仕事が増えますから」

 

 青子の眉間に、深い皺が寄った。

 

 なあなあ現国教師。その評価は、今日も、一ミリも揺らがない。

 

 山城は、踵を返しかけて、ふと、足を止めた。

 

 青子の机の脇の鞄の口から、ほんの少しだけ覗いている、青い包装紙に、銀色のリボンの、小さな紙包みを、見た。

 

「…………先生は、何も見ていません。見てしまうと、報告しなきゃいけなくなりますからね」

 

 生徒会室の扉が、閉まった。

 

 青子は、閉まった扉を睨みつけて、それから、鞄の口を、ばっと閉じて、机に突っ伏した。

 

「…………あの、細眼鏡……っ!」

 

 窓際の机で、金鹿が、帳簿をつける手を止めていた。

 

 金鹿の鞄の脇にも、小さな紙包みが、一つ、置かれていた。

 

 赤い包装紙。金色のリボン。

 

 金鹿は、それを、ちらりと見て、すぐに目を逸らした。

 

 昼休み。

 

 忉利は、教室の窓から、中庭の向こうの、生徒会室の窓を見た。

 

 窓際に、金鹿が立っていた。

 

 手に、赤い包装紙の包みを持って。廊下の方を、じっと見つめていた。

 

 忉利は、眼鏡を少しだけずらして、目の奥の扉を、細く開いた。

 

 金鹿の胸から伸びる線が、ほんのわずかに、横に揺れていた。

 

 A組の方から、廊下を歩いてくる、誰かの方へ。

 

 扉を閉じて、忉利は、椅子から立ち上がった。

 

 A組の前の廊下で、鳶丸は、壁にもたれて、紙袋を足元に置いていた。

 

 中には、三十八個の包みが、ぎっしり詰まっていた。

 

「……いらねえよ、こんなもん。全部、理事長の息子にくれてるだけだ。親父の顔に媚び売っときゃ、進路のコネになるとでも思ってんだろ。……ばかばかしい」

 

「全部が、そうじゃねえだろ」

 

 忉利は、鳶丸の隣に並んだ。

 

「生徒会室で、久万梨が、一人で帳簿つけてる。予算の締めで、手が回ってねえみたいだぞ。……副会長が手伝ってやんねえと、まずいんじゃねえの」

 

 鳶丸は、しばらく、忉利の横顔を見ていた。

 

「……お前、なんか企んでんのか」

 

「企んでたら、もっとうまくやる」

 

 鳶丸は、ふん、と鼻を鳴らして、足元の紙袋を、忉利に押しつけた。

 

「……これ、預かっとけ。草の字にでもやれ。あいつなら、全部食うだろ」

 

 それから、ポケットに手を突っ込んで、生徒会室の方へ歩いていった。

 

 生徒会室で、金鹿は、慌てて、赤い包みを背中に隠した。

 

 鳶丸は、何も言わずに、隣の机に座って、帳簿を覗き込んだ。

 

 しばらく、二人とも、黙って数字を追っていた。

 

「……背中に隠してんの、なんだ」

 

 金鹿の顔から、血の気が引いて、それから、一気に、真っ赤になった。

 

「……ぎ、義理よ。副会長には、一年間、お世話になったから。……生徒会の、義理。それだけ」

 

 震える手で、包みを、鳶丸の前に置いた。

 

 包装紙の折り目が、少しだけ、不揃いだった。リボンの結び目が、何度もやり直したように、少しだけ、よれていた。

 

 廊下の紙袋の、三十八個の、どれとも違っていた。

 

 鳶丸は、リボンをほどいて、不揃いなトリュフを一つ、口に放り込んだ。

 

「ちょ、ちょっと、ここで食べないでよ!」

 

「……うめえな。中に、紹興酒か、これ」

 

 鳶丸は、もう一つ、口に放り込んだ。

 

「お前んちの親父の味じゃねえな。……お前のだろ、これ」

 

 金鹿は、何も言えなかった。

 

 耳の先から、首筋まで、真っ赤だった。

 

「…………ぎ、義理だって、言ってるでしょ」

 

「おう。義理な」

 

 鳶丸は、箱の蓋を閉めて、制服のポケットにしまった。

 

「義理にしちゃ、手が込んでんな」

 

「――槻司!!」

 

「帳簿、続きやるぞ」

 

 金鹿は、何か言い返そうとして、結局、何も言えずに、鉛筆を握りしめた。

 

 窓の外で、冬の陽射しが、生徒会室の中を、のどかに照らしていた。

 

 鳶丸の口元が、ほんの少しだけ持ち上がっていたのを、金鹿は、見ていなかった。

 

 夕方、久遠寺邸の裏庭で。

 

 冬枯れの薔薇の根元の土をほぐしていた草十郎の背後に、有珠が立った。

 

「……今日は、バレンタイン、というものらしいわね」

 

「ああ。学校で、チョコを三つもらった」

 

 有珠は、外套のポケットから、小さな紙の袋を取り出して、後ろ手に、差し出した。

 

 袋の口から、小さな黒い粒が、ぱらぱらとこぼれた。

 

「……種?」

 

「薔薇の種よ。母の庭にあったものの、子孫。……チョコレートは、作れないし。あなたには、こちらの方が、いいと思ったの」

 

「…………」

 

「春になったら、植えなさい。あなたが手入れしている、その薔薇の隣に」

 

「ありがとう、久遠寺。……大事に、育てる」

 

 有珠は、何も言わなかった。

 

 ほんのわずかに、唇の端を動かしただけだった。

 

 肩の上のロビンが、こっそりと囁いた。

 

「……マイ天使、チョコより、ずっと重たいもの渡してるッスね」

 

「ロビン」

 

「なんでもないッス!」

 

 夜。

 

 屋敷の二階の露台で、忉利は、手すりにもたれていた。

 

 背後で、硝子戸が開いた。

 

 青子だった。

 

 今夜は、紅茶のカップを持っていなかった。両手を、背中に回していた。

 

「……下駄箱、六個だったんだって?」

 

「誰に聞いたんだよ」

 

「木乃美が、廊下で泣きながら言いふらしてたわよ」

 

「静希に半分やった。あいつ、全部うまそうに食ってた」

 

「……あんた、最低ね」

 

 青子は、背中に回していた両手を、前に持ってきた。

 

 青い包装紙に、銀色のリボン。

 

「……ぎ、義理よ。屋敷のみんなに配ってるの。あんたの分も、ついで」

 

 忉利は、黙って、包みを受け取った。

 

 小さな箱の中に、不揃いな形の、手作りのチョコレートが、四つ並んでいた。

 

 一つは、角が欠けていた。一つは、表面に、白い筋が浮いていた。

 

「……笑わないでよ。四回、失敗したんだから」

 

「笑ってねえよ」

 

 一つ、口に入れた。

 

 甘かった。

 

 それから、その奥から、じわりと、苦いものが広がってきた。

 

 深煎りの。焦げる寸前の。苦くて、それから、後から甘い。

 

「……親父の豆だろ」

 

 青子の肩が、びくりと跳ねた。

 

「…………なんで、わかるのよ」

 

「わかるに決まってんだろ。十何年、毎朝嗅いでんだぞ」

 

「……おじさんが、くれたのよ。あいつは、甘いだけのもんは食わないって。……ほんとに、そうなの?」

 

 忉利は、町の灯りを見下ろしていた。

 

 商店街の外れの、Cafe HIKAGEの、看板の明かり。

 

「……ああ。うまい」

 

 ぶっきらぼうに。

 

「義理でも、うまいよ」

 

 青子は、手すりに顎を乗せたまま、忉利の横顔を見ていた。

 

「……義理じゃ」

 

 夜風が、ざあっと吹き抜けて、青子の声を、かき消した。

 

「……なんか言ったか」

 

「な、なんでもないわよ!! ホ、ホワイトデー! 来月! 三倍返しだからね!」

 

「三倍?」

 

「当たり前でしょ! 四回も失敗したんだから!」

 

 忉利は、最後の一つ――角の欠けたチョコレートを、口に入れた。

 

 一番、苦かった。たぶん、豆の量を、間違えたのだろう。

 

 それが、一番、うまかった。

 

「……十秒短い紅茶で、いいか。それとも、ガトーショコラ、もう一回焼くか。お前の分だけ」

 

「……両方よ」

 

「欲張りだな」

 

「三倍返しなんだから、当然でしょ!」

 

 忉利は、空になった箱を、包装紙で丁寧に包み直して、青いリボンも結び直して、カーディガンのポケットにしまった。

 

「……それ、捨てないの?」

 

「四回失敗したやつの箱だからな」

 

 青子は、しばらく、忉利の横顔を見つめていた。

 

 それから、手すりの上で、ほんの少しだけ、身体を寄せた。

 

 肩が、触れるか触れないかの距離。

 

 小さい頃から、ずっと、この距離だった。

 

 二月の夜風が、冷たかった。

 

 けれど、触れた肩のところだけが、少しだけ、温かかった。

 

 屋敷の一階の、明かりの消えた食堂のテーブルの上に、青い包装紙の小さな包みが、二つ、並んで置かれていた。

 

 有珠の席の前と、草十郎の席の前に。

 

 ついさっき、青子が、こっそり置いていったものだった。

 

 どちらも、駅前の菓子屋で買った、既製品のチョコレートだった。

 

 手作りは、四回目にしてようやく形になった、たった一箱しか、なかったのだ。

 

三 三月十四日

 その前の、ひと月のあいだ。

 

 坂の上の洋館の台所では、時々、夜中に、煙が上がった。

 

「……日景忉利」

 

 ある晩、有珠が、台所の入り口に、寝間着の上に外套を羽織って、立っていた。

 

「屋敷じゅうが、焦げ臭いわ。……何を、しているの」

 

 忉利は、フライパンを手に、固まっていた。

 

 フライパンの上で、黒焦げになった、小さな豆が、ぶすぶすと煙を上げていた。

 

「……豆、煎ってる」

 

「夜中の二時に」

 

「……昼間だと、青子にばれる」

 

 有珠は、しばらく、黙っていた。

 

 それから、台所の窓を、黙って、開けた。

 

 冷たい夜気が、流れ込んできた。

 

「……窓は、開けておきなさい。それから、終わったら、換気扇を回しておくこと」

 

「……悪い」

 

「謝らなくていいわ。……三月の、十四日でしょう」

 

 忉利は、何も言えなかった。

 

 有珠は、それ以上、何も言わずに、階段を上がっていった。

 

 翌朝、青子は、朝食の席で、鼻をひくつかせて、首を傾げた。

 

「……ねえ。なんか、焦げ臭くない?」

 

「静希の焚き火だろ」

 

「俺は、焚き火はしていない」

 

「――静希」

 

「……したかもしれない」

 

 有珠が、紅茶のカップの陰で、ほんの少しだけ、目を細めた。

 

 

 

 

 三月十四日。午前三時。

 

 商店街は、まだ、夜の底に沈んでいた。

 

 日景忉利は、Cafe HIKAGEの裏口の前で、息を殺して、鍵を回した。

 

 ポケットに、麻の小袋が一つ。

 

 暗い厨房の奥で、焙煎室の裸電球が、一つだけ、灯っていた。

 

 その下に、父が、腕を組んで、壁にもたれて立っていた。

 

「……親父」

 

「遅い。三時と言ったら、二時五十分に来い」

 

「……言ってねえだろ、三時なんて」

 

「顔に書いてあった。昨日の昼に」

 

 昨日の昼、店番をしていた時、焙煎室の前を、三回通り過ぎた。三回とも、足を止めた。

 

 見られていたらしい。

 

 古い、鉄の、手回しの焙煎機。父が店を開ける時に中古で買ってきて、三十年近く、この店のすべての豆を焼いてきたもの。

 

 ネルは、中学に上がった時に握らせてもらった。ミルは、小学生の頃から回していた。

 

 けれど、この焙煎機にだけは、一度も触らせてもらったことがなかった。

 

 ――豆を焼くのは、店の味を決めることだ。お前には、まだ早い。

 

「火の番は、最後までやれ。途中で投げたら、二度と触らせん」

 

 父は、焙煎室の隅の古い椅子に、どっかりと腰を下ろして、腕を組んで、目を閉じた。

 

 口は、出さずに。

 

 麻の小袋の中は、生豆だった。

 

 モカが、七。ブラジルが、三。

 

 一月から、少しずつ、小遣いで買い足してきた。屋敷の台所のフライパンで試しに煎って、二回焦がした。一回は、生焼けだった。

 

 ドラムを、ガスの火で温める。

 

 手のひらをかざして、鉄の温度を確かめる。父が、毎朝そうしているのを、何年も見てきた。

 

 温まった。

 

 生豆を、ざらりと流し込む。

 

 ハンドルを、回し始めた。

 

 ごろ、ごろ、ごろ。

 

 五分。豆の青臭い、干し草のような匂いが、焼いた麦のような、香ばしい匂いに変わっていく。

 

 十分。豆の色が、灰色から、淡い茶色へ。

 

 ハンドルを回す腕が、じわじわと、重くなっていく。

 

 忉利は、覗き窓から豆を見ながら、目の奥の扉を、少しだけ、開いた。

 

 豆の一粒一粒の中に、細い線が、びっしりと走っていた。豆の中の小さな部屋と部屋を仕切る壁を縫い合わせている、何千本もの線。

 

 熱が入るにつれて、それが、張りつめていく。

 

 ――ぱちっ。

 

 一ハゼ。

 

 張りつめた線が、一本、また一本と、ぷつりと切れて、豆の中の小さな部屋が、ひとつ、またひとつと、繋がっていくのが、見えた。

 

 椅子の上で、父が、目を閉じたまま、少しだけ、首を傾けた。

 

 音を、聞いているのだった。

 

 一ハゼが、落ち着いた。

 

 豆の色が、深い栗色へ。煙が、ドラムの隙間から、細く立ちのぼり始めた。

 

 焼いた麦の匂いが、甘い、焦がした砂糖の匂いに。それから、その奥に、ほんの少しだけ、苦い、煙の匂いが混ざり始める。

 

 ここからだった。

 

 父の店の豆は、焦げる、ほんの手前まで焼く。

 

 その手前が、どこなのか。

 

 父は、音と、匂いと、煙の色で決める。三十年、そうしてきた。

 

 忉利には、それが、まだ、わからない。フライパンで焦がした二回は、どちらも、ここで、わからなくなった。

 

 腕が、痺れていた。額から、汗が、一筋、流れ落ちた。

 

 扉を、もう少しだけ、開いた。

 

 一ハゼで切れ残った線が、また、張りつめ始めていた。さっきよりも、細く。脆く。

 

 ――ぴし。

 

 二ハゼ。

 

 豆の中の線が、ほどけていく。一本。十本。百本。

 

 全部ほどけたら、焦げる。

 

 全部ほどける、その、ほんの手前で。

 

 忉利は、息を止めて、見ていた。

 

 残り、何本か。ほどけていく速さ。

 

 ――今。

 

 排出口を開けた。

 

 黒に近い深い茶色の豆が、冷却用の網の上に、ざあっと流れ出した。

 

 煙が、焙煎室いっぱいに、立ちのぼった。

 

 網を揺すって、団扇で扇ぐ。ぴし、ぴし、という音が、まばらになって、やがて、止んだ。

 

 苦くて、それから、後から甘い。

 

 この店の、匂いだった。

 

 父が、目を開けた。

 

 網の上の豆を一粒、指でつまんで、光にかざして、前歯で、かりっと噛んだ。

 

 長いこと、黙っていた。

 

 忉利の心臓が、うるさかった。

 

 遊園地で化け物と向かい合った時よりも。旧校舎で、あの女と向かい合った時よりも。

 

「……十秒」

 

 父が、言った。

 

「火から上げるのが、十秒遅い。あと十秒早ければ、苦味の角が立たなかった」

 

 もう一粒、噛む。

 

「……だが、悪くない」

 

 忉利は、何も言えなかった。

 

「初めての焙煎で、二ハゼの止めどころを、十秒しか外さなかった奴は、見たことがない。……俺は、最初、一分外した。真っ黒の炭を、師匠に食わされた」

 

 父の口元が、ほんのわずかに、動いたように見えた。

 

「どうやって、見た」

 

「……見てた。豆を」

 

「そうか」

 

 父は、それ以上、訊かなかった。

 

 ただ、忉利の目を、ほんの一瞬だけ、見た。

 

 虹彩の縁の、青い輪を。

 

「二日、寝かせろ。焼きたては、ガスが抜けてねえ」

 

「……今日、使いたいんだけど。……今日、ホワイトデーだから」

 

 父の手が、止まった。

 

 それから、また、豆を麻の袋に移し始めた。

 

「……なら、粗く挽け。蒸らしは、四十秒だ」

 

 父は、麻の袋の口を、紐で縛って、忉利に差し出した。

 

「……青子ちゃんか」

 

 忉利は、答えなかった。

 

 耳の先が、焙煎室の熱のせいとは思えないほど、赤くなっていた。

 

 父は、何も言わずに、焙煎室を出ていった。

 

 厨房の方から、湯を沸かす音が聞こえ始めた。

 

 四時。

 

 この店の、いつもの朝が、始まる時間だった。

 

 午前六時半。

 

 久遠寺邸の食堂のテーブルの上に、三つのものが、並んでいた。

 

 白いティーポット。ダージリン。蒸らしは、十秒短く。

 

 直径十センチほどの、一人分だけの、小さなガトーショコラ。表面に、粉砂糖で、小さな、いびつな星が一つ。

 

 それから、麻の小袋。

 

「……なに、これ」

 

「三倍返し。十秒短い紅茶と、ガトーショコラ、両方だって、お前が言ったろ。……で、三倍だから、もう一個」

 

「……これは」

 

「豆だ。……おれが、焼いた。今朝」

 

 青子の目が、見開かれた。

 

「……おじさん、あんたには、絶対触らせないって――」

 

「触らせてもらった。十秒、焦がしすぎだって言われたけど」

 

 青子は、忉利の顔を見た。

 

 目の下に、薄い隈があった。前髪が、少しだけ、焦げ臭かった。袖口に、煤がついていた。

 

「……何時に、起きたのよ」

 

「二時半」

 

「――っ、バカじゃないの」

 

「知ってる」

 

「ホワイトデーのために、二時半に起きて、おじさんの焙煎機、勝手に使ったの?」

 

「勝手じゃねえ。親父、先に起きて待ってた」

 

 青子は、何か言い返そうとして、口を開けて、閉じた。

 

 それから、椅子に、すとんと座った。

 

「……紅茶、淹れて。それから、……その豆で、珈琲も」

 

「お前、紅茶派なんじゃねえのか」

 

「今日は、両方よ。三倍返しなんだから」

 

 粗く挽く。ネルに粉を落とす。湯を、細く注ぐ。

 

 焼きたての豆の中のガスが押し出されて、粉が、いつもより大きく、膨らんだ。

 

 四十秒。

 

 白いマグカップを、紅茶のカップの隣に、置いた。

 

 青子は、紅茶を一口飲んで、目を閉じた。

 

 ガトーショコラの、いびつな星の端を、フォークで崩して、口に運んだ。

 

「……甘い」

 

「お前の分だけ、砂糖、多めにした。……十何年、隣で食ってんだぞ」

 

 最後に、マグカップを、両手で包んだ。

 

 一口。

 

 ――――。

 

 長いこと、動かなかった。

 

「……苦い。すっごく、苦い。おじさんのより、苦い。……十秒、焦がしすぎよ、これ」

 

「だから、そう言っただろ」

 

「……でも」

 

 青子は、目を開けた。

 

「後から、甘い。……それに、なんか、明るい。夜が明ける、ちょっと前みたいな」

 

「モカ、多めにしてある」

 

 青子は、顔を上げて、忉利の目を見た。

 

 灰色の虹彩の、いちばん外の縁の、細い青い輪を。

 

 夜明け前の、空の色を。

 

「……名前、あるの。これ」

 

「ねえよ。今朝、焼いたばっかだぞ」

 

「じゃあ、私がつける」

 

 青子は、少しだけ、頬を赤くして、言った。

 

「夜明け前。……夜明け前ブレンド。……あんたの目の色と、同じ味がするから」

 

 忉利は、言葉を失った。

 

 食堂の入り口で、有珠が、足を止めていた。

 

 肩の上で、ロビンが、両方の翼で、顔を覆っていた。

 

「……朝から、胸焼けがするわ。珈琲の匂いのせいだと、思いたいけれど」

 

「――っ、有珠!!」

 

「日景。俺の分は、あるか」

 

「ねえよ。これは、青子の分だ」

 

「そうか。……なら、俺も、三倍返しを配ってくる」

 

 草十郎が、懐から、木彫りの小鳥を三羽、取り出した。

 

 雀と、目白と、鶯。

 

「下駄箱にチョコを入れてくれた三人に、返す。……一月かけて、足音と下駄箱の開け方で、調べた」

 

「調べたの!?」

 

「一年の女子が二人。三年の女子が一人。……一人は、園芸部だった。だから、鶯にした」

 

 青子は、額を押さえた。忉利は、天井を見上げた。

 

 有珠が、ふいと、顔を背けた。

 

「……わたしには、ないのね」

 

 草十郎は、もう一方の懐から、小さな素焼きの植木鉢を取り出した。

 

「久遠寺には、これだ。……先月の種を、植えておいた。今朝、芽が出た」

 

 土の真ん中に、小さな緑の芽が、一つだけ、顔を出していた。

 

 有珠は、両手で、植木鉢を、そっと受け取った。

 

「……三倍では、ないわね」

 

「足りないか」

 

「……足りているわ」

 

 有珠は、植木鉢を胸に抱えたまま、階段の方へ、踵を返した。

 

 肩の上で、ロビンが、こっそりと囁いた。

 

「マイ天使、芽の方が、チョコより、ずっと重たいッスね」

 

「ロビン」

 

「なんでもないッス!」

 

 その日の夕方。

 

 Cafe HIKAGEのカウンターの、いちばん端の席に、青子と、忉利が並んで座っていた。

 

 カウンターの内側で、父が、今朝の豆で、ネルを振っていた。

 

「……ガスが、まだ抜けてねえな。泡が、でかすぎる」

 

 それでも、手は止めなかった。

 

 白いカップに注いで、青子の前に置いた。それから、もう一杯。自分の前に。

 

 父は、立ったまま、それを一口飲んで、長いこと、黙っていた。

 

 青子も、一口、飲んだ。

 

 今朝より、少しだけ、角が取れていた。父の淹れ方のせいだろう。同じ豆なのに、朝みたいな明るさが、もう少しだけ、はっきりしている。

 

「……名前は」

 

 父が、言った。

 

 忉利ではなく、青子の方を見て。

 

「つけたんだろう。青子ちゃんが。……こいつは、自分で焼いたもんに、名前なんかつけん」

 

 青子は、少しだけ唇を噛んで、小さな声で、言った。

 

「……夜明け前ブレンド、です」

 

 父は、レジの下の引き出しを開けて、生成りの厚紙を一枚、取り出した。

 

 店の壁に並んでいるのと同じ、メニュー札。

 

 胸ポケットの万年筆で、角張った、几帳面な字で、書いた。

 

 ――夜明け前ブレンド。

 

 値段の欄は、空白のままだった。

 

「まだ、客には出せん。十秒、焦がしすぎだ。ガスの抜き方も知らん。二ハゼの止めどころは、今日は当たったが、次も当たるとは限らん」

 

「…………」

 

「客に出せる味になったら、値段を書く。……それまでは、ここだ」

 

 父は、厚紙を、引き出しの中に、そっとしまった。

 

「……いつになるんだよ、それ」

 

「知らん」

 

 父は、背中を向けて、ネルを洗い始めた。

 

「……俺が、自分の豆を客に出せるまで、十年かかった」

 

 青子が、カウンターの下で、忉利の袖を、そっと掴んだ。

 

 厨房の奥から、晴華の声が飛んできた。

 

「お兄ちゃーん! ホワイトデー、わたしには何もないの!?」

 

「冷蔵庫に、プリン入れといた」

 

「やったー!! ……って、なんで一個だけ焦げてるの、これ!?」

 

「親父の焙煎機の横で、蒸した」

 

「なんで焙煎機の横で蒸すの!?」

 

 青子が、カウンターに突っ伏して、肩を震わせていた。

 

 父の背中も、ほんの少しだけ、揺れていた。

 

 

 

 

 夜。

 

 坂の上の洋館へ続く道を、二人で上っていった。

 

 三月の夜風は、二月よりも、少しだけ、柔らかかった。

 

 青子は、胸の前に、麻の小袋を抱えていた。

 

 今朝の豆の、残りだった。

 

「……それ、持って帰んのか」

 

「当たり前でしょ。三倍返しの、三つ目なんだから」

 

「挽いてやろうか」

 

「いいわよ。自分で挽くから」

 

「お前、ミル回せんのかよ」

 

「回せるわよ! ……たぶん」

 

 忉利は、小さく笑った。

 

「……忉利」

 

「ん」

 

「あの札。……十年かかるって、おじさん、言ってたわね」

 

「言ってたな」

 

「十年後、あんた、あの店にいるの」

 

 忉利は、すぐには答えなかった。

 

 十年後のことなんて、考えたことがなかった。

 

 この冬、何度も死にかけて、一度は本当に死んで、それでも、こうして坂道を上っている。

 

 十年後、自分がどこにいるのか。何をしているのか。

 

 わからなかった。

 

「……わかんねえ」

 

 正直に、言った。

 

「でも、あの札に値段が書かれる日には、いる。……どこにいても、その日だけは、戻ってくる。親父の前で、あの豆、淹れる」

 

「……その時、私も、いていい?」

 

「いなかったら、誰が名前つけたって言うんだよ」

 

 青子の足が、止まった。

 

 月明かりの下で、耳の先が、赤かった。

 

「……十秒焦がしすぎたの。あんたの目で、豆の中の線、見て止めたんでしょ」

 

「……なんで、わかんだよ」

 

「わかるわよ。あんたの十年、見たんだから」

 

 青子は、顔を上げた。

 

「あんた、線を見る時、いつも、ほんの少しだけ、見すぎるの。……切る前に、もう一回だけ、確かめるから。その、もう一回の分が、たぶん、十秒」

 

「…………」

 

「悪い癖じゃないわよ。……ただ、その十秒で、苦くなるだけ」

 

 青子は、少しだけ笑って、また、歩き出した。

 

 忉利は、その背中を見て、歩幅を合わせて、隣に並んだ。

 

 坂の上の洋館の、玄関の脇の窓辺に、小さな素焼きの植木鉢が、一つ、置かれていた。

 

 土の真ん中で、小さな緑の芽が、月の光を浴びていた。

次作品 ヒロイン候補 書いたはいいですが、橙子やアルクはどう作るつもりなんでしょうか…

  • シエル (月姫R アルクェイドルート)
  • アルクェイド(月姫R シエルルート?)
  • 蒼崎橙子 (空の境界)
  • 遠坂凛 (Heaven’s Feel)
  • ライダー (Heaven’s Feel)
  • ジャンヌ・ダルク (Apocrypha)
  • ジャンヌ・ダルク (史実+FGO)
  • 久遠寺有珠 (魔法使いの夜)
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