夜明けの色を見る眼   作:にんら

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義理と夜明け前

一 二月十三日

 

 午後九時。

 

 Cafe HIKAGEの扉には、「本日閉店」の札が下がっていた。

 

 けれど、店の奥の厨房にはまだ明かりが灯っていた。

 

「――だから、青子ちゃん! チョコレートは直接火にかけちゃ駄目なんだってば!」

 

「し、知ってるわよ、そのくらい!」

 

「知ってたらなんで鍋に直接入れたの!?」

 

「……ちょっと急いでただけよ」

 

「湯煎だよ、湯煎! お湯を張ったボウルの上にもう一個ボウルを重ねて、その中でゆっくり溶かすの!」

 

 厨房の調理台の前に、エプロン姿の青子が立っていた。

 

 手元の小鍋の中で、刻んだはずのチョコレートが茶色い塊になって、ぶすぶすと焦げた匂いを立てている。

 

 調理台の上には同じような残骸が、すでに二つ並んでいた。

 

 一つ目は溶かしすぎて、油と粉に分かれてしまったもの。二つ目は型から溢れて、調理台の上に広がったまま固まってしまったもの。

 

「……青子ちゃん、もしかしてお菓子作ったことない?」

 

「……ないわよ。一回も」

 

 青子はエプロンの裾をぎゅっと握りしめた。

 

「分量とか温度とか細かいことばっかりで、私の性に合わないのよ」

 

「……でも、青子ちゃんがわざわざうちに来て、こっそりチョコ作るってことは」

 

 晴華が青子の顔を覗き込んだ。

 

「お兄ちゃんにあげるんでしょ?」

 

「――っ、ち、違うわよ! 屋敷のみんなに、よ! 有珠と、静希くんと、ついでに忉利にも! ぎ、義理よ、義理!」

 

「義理なのに三回も失敗してるんだあ」

 

「晴華ちゃん!!」

 

 厨房の入り口で、かたん、と小さな音がした。

 

 父が、紙袋を一つ提げて立っていた。

 

 調理台の上の三つの残骸を黙って眺めた。

 

 それから何も言わずに、紙袋を調理台の上に置いた。

 

 中から、深煎りの珈琲豆が、ひと掴み分出てきた。

 

「うちのブレンドだ。細かく挽いて、少しだけ混ぜろ」

 

「え……」

 

「あいつは甘いだけのもんは、あんまり食わん。……苦いのが混ざってる方が、喜ぶ」

 

 父はもう背を向けていた。

 

「湯煎の温度は五十度くらいだ。指を入れて、風呂よりちょっと熱いと思うくらい。……それ以上は、焦げる」

 

 それだけ言って、父は厨房を出ていった。

 

 晴華が両手で口を押さえて、目を輝かせていた。

 

「……お父さん、全部お見通しだったんだ」

 

 青子は何も言えなかった。

 

 ただ、紙袋を胸に抱きしめた。

 

 深煎りの、焦げる寸前の、苦くて甘い匂いがした。

 

二 二月十四日

 

 朝六時。

 

 久遠寺邸の食堂のテーブルの上に、直径二十センチほどの黒々とした丸いケーキが、どん、と置かれていた。

 

「……なに、これ」

 

「ガトーショコラ。親父の店の二月の定番だ。……屋敷のみんなで食えるように、ゆうべ一個焼いといた」

 

 忉利が紅茶のポットを持って、台所から出てきた。

 

 青子は、しっとりと焼き上がった完璧な断面をじっと見つめていた。

 

 それから、自分の鞄の中の小さな紙包みのことを思い出した。

 

 ゆうべ、四回目にようやく形になった、不格好なチョコレートのことを。

 

「……先を越された」

 

「は?」

 

「なんでもないわよ!」

 

 有珠は一切れをフォークで小さく崩して、口に運んだ。

 

 咀嚼する。表情は変わらない。

 

 けれど、もう一口崩した。

 

「……悪くないわ」

 

 草十郎が首を傾げた。

 

 庭から戻ってきた草十郎が、有珠にもらった革の手袋をきちんと外して、手を洗ってから席に着いた。

 

「日景。これは何の祝いなんだ?」

 

「祝いじゃねえよ。二月だから焼いただけだ。……まあ、今日はそういう日だけどな」

 

「今日は何の日なんだ?」

 

 食堂がしんと静まり返った。

 

「……静希。お前、バレンタインって知らねえのか」

 

「知らないな。山にはなかったよ」

 

「……学校行けばわかるよ。嫌でもな」

 

 

◇

 

 

 三咲高校の昇降口は、朝から異様な空気に包まれていた。

 

 芳助は、自分の下駄箱の前で、五分近く両手を合わせて拝んでいた。

 

「一個でいい。義理でいい。チロルチョコ一個でいい。頼む……!」

 

 扉を開けた。

 

 上履きが一足、入っていた。

 

 それだけだった。

 

 芳助は無言で扉を閉めて、下駄箱に額を押しつけて動かなくなった。

 

 その隣で忉利が扉を開けた。

 

 赤い包装紙。ピンクのリボン。小さな箱が、ばさばさと六つなだれ落ちてきた。

 

「…………日景。お前、その眼鏡でまだモテんのか」

 

「知らねえよ」

 

 草十郎の下駄箱には、小さな包みが三つちょこんと載っていた。

 

「日景。どうして俺の下駄箱にチョコが入っているんだろう」

 

「今日は女が男にチョコをやる日なんだよ。……来月、ホワイトデーってのがあって、そん時に返す」

 

「なら、来月までに誰がくれたのか調べておこう」

 

「調べんな」

 

 下駄箱に額を押しつけていた芳助が、ついに崩れ落ちた。

 

「静希まで……静希まで三個……俺は、ゼロ……」

 

「木乃美」

 

 草十郎が芳助の肩にそっと手を置いた。

 

「一つ、分けようか」

 

「やめろ!! それが一番惨めになるんだよ!!」

 

 昇降口の向こうで、鳶丸の下駄箱の前に人だかりができていた。

 

 扉の隙間から、色とりどりの包みがはみ出していた。

 

 開ける前から、もう入りきっていなかった。

 

「……殿下は別格です……」

 

 芳助が床に突っ伏したまま呻いた。

 

 

◇

 

 

 朝のホームルームの前、生徒会室。

 

「――というわけで、蒼崎さん。今日一日、校内の見回りをお願いできますか。校則上、菓子類の持ち込みは一応、禁止ということになっていますので」

 

 山城が細い眼鏡の奥で、にこやかに微笑んでいた。指先に火の点いていない煙草を一本、挟んで。

 

「教頭先生が、毎年この日になると、うるさいんですよ。……ああ、形式だけで結構ですよ。実際に没収なんかしたら生徒たちに恨まれて、先生の仕事が増えますから」

 

 青子の眉間に深い皺が寄った。

 

 なあなあ現国教師。その評価は、今日も一ミリも揺らがない。

 

 山城は踵を返しかけて、ふと足を止めた。

 

 青子の机の脇の鞄の口から、ほんの少しだけ覗いている、青い包装紙に銀色のリボンの小さな紙包みを、見た。

 

「…………先生は、何も見ていません。見てしまうと報告しなきゃいけなくなりますからね」

 

 生徒会室の扉が閉まった。

 

 青子は閉まった扉を睨みつけて、それから鞄の口をばっと閉じて、机に突っ伏した。

 

「…………あの、細眼鏡……っ!」

 

 窓際の机で、金鹿が帳簿をつける手を止めていた。

 

 金鹿の鞄の脇にも、小さな紙包みが一つ置かれていた。

 

 赤い包装紙。金色のリボン。

 

 金鹿は、それをちらりと見て、すぐに目を逸らした。

 

 

◇

 

 

 昼休み。

 

 忉利は教室の窓から、中庭の向こうの生徒会室の窓を見た。

 

 窓際に金鹿が立っていた。

 

 手に赤い包装紙の包みを持って。廊下の方を、じっと見つめていた。

 

 忉利は眼鏡を少しだけずらして、目の奥の扉を細く開いた。

 

 金鹿の胸から伸びる線が、ほんのわずかに横に揺れていた。

 

 A組の方から廊下を歩いてくる、誰かの方へ。

 

 扉を閉じて、忉利は椅子から立ち上がった。

 

 A組の前の廊下で、鳶丸は壁にもたれて、紙袋を足元に置いていた。

 

 中には三十八個の包みがぎっしり詰まっていた。

 

「……いらねえよ、こんなもん。全部、理事長の息子にくれてるだけだ。親父の顔に媚び売っときゃ進路のコネになるとでも思ってんだろ。……ばかばかしい」

 

「全部がそうじゃねえだろ」

 

 忉利は鳶丸の隣に並んだ。

 

「生徒会室で、久万梨が一人で帳簿つけてる。予算の締めで手が回ってねえみたいだぞ。……副会長が手伝ってやんねえと、まずいんじゃねえの」

 

 鳶丸はしばらく、忉利の横顔を見ていた。

 

「……お前、なんか企んでんのか」

 

「企んでたらもっとうまくやる」

 

 鳶丸は、ふん、と鼻を鳴らして足元の紙袋を忉利に押しつけた。

 

「……これ、預かっとけ。草の字にでもやれ。あいつなら全部食うだろ」

 

 それからポケットに手を突っ込んで、生徒会室の方へ歩いていった。

 

 

◇

 

 

 生徒会室で、金鹿は慌てて赤い包みを背中に隠した。

 

 鳶丸は何も言わずに隣の机に座って、帳簿を覗き込んだ。

 

 しばらく二人とも、黙って数字を追っていた。

 

「……背中に隠してんの、なんだ」

 

 金鹿の顔から血の気が引いて、それから、一気に真っ赤になった。

 

「……ぎ、義理よ。副会長には、一年間お世話になったから。……生徒会の、義理。それだけ」

 

 震える手で、包みを鳶丸の前に置いた。

 

 包装紙の折り目が、少しだけ不揃いだった。リボンの結び目が、何度もやり直したように少しだけよれていた。

 

 廊下の紙袋の三十八個の、どれとも違っていた。

 

 鳶丸はリボンをほどいて、不揃いなトリュフを一つ口に放り込んだ。

 

「ちょ、ちょっと、ここで食べないでよ!」

 

「……うめえな。中に紹興酒か、これ」

 

 鳶丸はもう一つ口に放り込んだ。

 

「お前んちの親父の味じゃねえな。……お前のだろ、これ」

 

 金鹿は何も言えなかった。

 

 耳の先から首筋まで真っ赤だった。

 

「…………ぎ、義理だって言ってるでしょ」

 

「おう。義理な」

 

 鳶丸は箱の蓋を閉めて、制服のポケットにしまった。

 

「義理にしちゃ手が込んでんな」

 

「――槻司!!」

 

「帳簿、続きやるぞ」

 

 金鹿は何か言い返そうとして、結局、何も言えずに鉛筆を握りしめた。

 

 窓の外で、冬の陽射しが生徒会室の中をのどかに照らしていた。

 

 鳶丸の口元が、ほんの少しだけ持ち上がっていたのを、金鹿は見ていなかった。

 

 

◇

 

 

 夕方、久遠寺邸の裏庭で。

 

 冬枯れの薔薇の根元の土をほぐしていた草十郎の背後に、有珠が立った。

 

「……今日はバレンタイン、というものらしいわね」

 

「ああ。学校でチョコを三つもらったよ」

 

 有珠は外套のポケットから、小さな紙の袋を取り出して、後ろ手に差し出した。

 

 袋の口から小さな黒い粒が、ぱらぱらとこぼれた。

 

「……種?」

 

「薔薇の種よ。母の庭にあったものの、子孫。……チョコレートは、作れないし。あなたには、こちらの方がいいと思ったの」

 

「…………」

 

「春になったら、植えなさい。あなたが手入れしている、その薔薇の隣に」

 

「ありがとう、有珠。……大事に育てるよ」

 

 有珠は何も言わなかった。

 

 ほんのわずかに唇の端を動かしただけだった。

 

 肩の上のロビンがこっそりと囁いた。

 

「……マイ天使、チョコよりずっと重たいもの渡してるッスね」

 

「ロビン」

 

「なんでもないッス!」

 

 

◇

 

 

 夜。

 

 屋敷の二階の露台で、忉利は手すりにもたれていた。

 

 背後で硝子戸が開いた。

 

 青子だった。

 

 今夜は、紅茶のカップを持っていなかった。両手を背中に回していた。

 

「……下駄箱、六個だったんだって?」

 

「誰に聞いたんだよ」

 

「木乃美が廊下で泣きながら言いふらしてたわよ」

 

「静希に半分やった。あいつ、全部うまそうに食ってた」

 

「……あんた、最低ね」

 

 青子は背中に回していた両手を、前に持ってきた。

 

 青い包装紙に銀色のリボン。

 

「……ぎ、義理よ。屋敷のみんなに配ってるの。あんたの分も、ついで」

 

 忉利は黙って包みを受け取った。

 

 小さな箱の中に、不揃いな形の手作りのチョコレートが四つ並んでいた。

 

 一つは、角が欠けていた。一つは、表面に白い筋が浮いていた。

 

「……笑わないでよ。四回失敗したんだから」

 

「笑ってねえよ」

 

 一つ、口に入れた。

 

 甘かった。

 

 それから、その奥からじわりと苦いものが広がってきた。

 

 深煎りの。焦げる寸前の。苦くて、それから、後から甘い。

 

「……親父の豆だろ」

 

 青子の肩がびくりと跳ねた。

 

「…………なんでわかるのよ」

 

「わかるに決まってんだろ。十何年、毎朝嗅いでんだぞ」

 

「……おじさんが、くれたのよ。あいつは甘いだけのもんは食わないって。……ほんとに、そうなの?」

 

 忉利は町の灯りを見下ろしていた。

 

 商店街の外れの、Cafe HIKAGEの看板の明かり。

 

「……ああ。うまい」

 

 ぶっきらぼうに。

 

「義理でも、うまいよ」

 

 青子は手すりに顎を乗せたまま、忉利の横顔を見ていた。

 

「……義理じゃ」

 

 夜風がざあっと吹き抜けて、青子の声をかき消した。

 

「……なんか言ったか」

 

「な、なんでもないわよ!! ホ、ホワイトデー! 来月! 三倍返しだからね!」

 

「三倍?」

 

「当たり前でしょ! 四回も失敗したんだから!」

 

 忉利は最後の一つ――角の欠けたチョコレートを口に入れた。

 

 一番、苦かった。たぶん、豆の量を間違えたのだろう。

 

 それが、一番うまかった。

 

「……十秒短い紅茶でいいか。それとも、ガトーショコラ、もう一回焼くか。お前の分だけ」

 

「……両方よ」

 

「欲張りだな」

 

「三倍返しなんだから当然でしょ!」

 

 忉利は空になった箱を包装紙で丁寧に包み直して、青いリボンも結び直して、カーディガンのポケットにしまった。

 

「……それ、捨てないの?」

 

「四回失敗したやつの箱だからな」

 

 青子はしばらく、忉利の横顔を見つめていた。

 

 それから、手すりの上で、ほんの少しだけ身体を寄せた。

 

 肩が触れるか触れないかの距離。

 

 小さい頃から、ずっとこの距離だった。

 

 二月の夜風が冷たかった。

 

 けれど、触れた肩のところだけが、少しだけ温かかった。

 

 

◇

 

 

 屋敷の一階の、明かりの消えた食堂のテーブルの上に、青い包装紙の小さな包みが二つ並んで置かれていた。

 

 有珠の席の前と、草十郎の席の前に。

 

 ついさっき、青子がこっそり置いていったものだった。

 

 どちらも、駅前の菓子屋で買った、既製品のチョコレートだった。

 

 手作りは、四回目にしてようやく形になった、たった一箱しかなかったのだ。

 

三 三月十四日

 

 その前のひと月のあいだ。

 

 坂の上の洋館の台所では、時々、夜中に煙が上がった。

 

「……日景忉利」

 

 ある晩、有珠が台所の入り口に、寝間着の上に外套を羽織って立っていた。

 

「屋敷じゅうが焦げ臭いわ。……何を、しているの」

 

 忉利はフライパンを手に固まっていた。

 

 フライパンの上で、黒焦げになった小さな豆がぶすぶすと煙を上げていた。

 

「……豆、煎ってる」

 

「夜中の二時に」

 

「……昼間だと青子にばれる」

 

 有珠は、しばらく黙っていた。

 

 それから、台所の窓を黙って開けた。

 

 冷たい夜気が流れ込んできた。

 

「……窓は開けておきなさい。それから、終わったら換気扇を回しておくこと」

 

「……悪い」

 

「謝らなくていいわ。……三月の十四日でしょう」

 

 忉利は何も言えなかった。

 

 有珠は、それ以上何も言わずに、階段を上がっていった。

 

 翌朝、青子は朝食の席で鼻をひくつかせて、首を傾げた。

 

「……ねえ。なんか焦げ臭くない?」

 

「静希の焚き火だろ」

 

「俺は焚き火なんてしていないよ」

 

「――静希」

 

「……したかもしれない」

 

 有珠が紅茶のカップの陰で、ほんの少しだけ目を細めた。

 

 

◇

 

 

 三月十四日。午前三時。

 

 商店街は、まだ夜の底に沈んでいた。

 

 日景忉利はCafe HIKAGEの裏口の前で、息を殺して鍵を回した。

 

 ポケットに麻の小袋が一つ。

 

 暗い厨房の奥で、焙煎室の裸電球が一つだけ灯っていた。

 

 その下に、父が腕を組んで、壁にもたれて立っていた。

 

「……親父」

 

「遅い。三時と言ったら、二時五十分に来い」

 

「……言ってねえだろ、三時なんて」

 

「顔に書いてあった。昨日の昼に」

 

 昨日の昼、店番をしていた時、焙煎室の前を三回通り過ぎた。三回とも足を止めた。

 

 見られていたらしい。

 

 古い鉄の、手回しの焙煎機。父が店を開ける時に中古で買ってきて、三十年近く、この店のすべての豆を焼いてきたもの。

 

 ネルは中学に上がった時に握らせてもらった。ミルは小学生の頃から回していた。

 

 けれど、この焙煎機にだけは一度も触らせてもらったことがなかった。

 

 ――豆を焼くのは、店の味を決めることだ。お前にはまだ早い。

 

「火の番は最後までやれ。途中で投げたら二度と触らせん」

 

 父は、焙煎室の隅の古い椅子にどっかりと腰を下ろして、腕を組んで目を閉じた。

 

 口は出さずに。

 

 

◇

 

 

 麻の小袋の中は生豆だった。

 

 モカが七。ブラジルが三。

 

 一月から少しずつ、小遣いで買い足してきた。屋敷の台所のフライパンで試しに煎って、二回焦がした。一回は生焼けだった。

 

 ドラムをガスの火で温める。

 

 手のひらをかざして、鉄の温度を確かめる。父が毎朝そうしているのを、何年も見てきた。

 

 温まった。

 

 生豆をざらりと流し込む。

 

 ハンドルを回し始めた。

 

 ごろ、ごろ、ごろ。

 

 五分。豆の青臭い、干し草のような匂いが、焼いた麦のような香ばしい匂いに変わっていく。

 

 十分。豆の色が、灰色から淡い茶色へ。

 

 ハンドルを回す腕が、じわじわと重くなっていく。

 

 忉利は、覗き窓から豆を見ながら、目の奥の扉を少しだけ開いた。

 

 豆の一粒一粒の中に、細い線がびっしりと走っていた。豆の中の小さな部屋と部屋を仕切る壁を縫い合わせている、何千本もの線。

 

 熱が入るにつれて、それが張りつめていく。

 

 ――ぱちっ。

 

 一ハゼ。

 

 張りつめた線が一本、また一本とぷつりと切れて、豆の中の小さな部屋がひとつ、またひとつと繋がっていくのが見えた。

 

 椅子の上で、父が目を閉じたまま少しだけ首を傾けた。

 

 音を聞いているのだった。

 

 

◇

 

 

 一ハゼが落ち着いた。

 

 豆の色が深い栗色へ。煙がドラムの隙間から、細く立ちのぼり始めた。

 

 焼いた麦の匂いが、甘い、焦がした砂糖の匂いに。それから、その奥にほんの少しだけ、苦い、煙の匂いが混ざり始める。

 

 ここからだった。

 

 父の店の豆は、焦げるほんの手前まで焼く。

 

 その手前がどこなのか。

 

 父は音と、匂いと、煙の色で決める。三十年、そうしてきた。

 

 忉利には、それがまだわからない。フライパンで焦がした二回は、どちらもここでわからなくなった。

 

 腕が痺れていた。額から汗が一筋、流れ落ちた。

 

 扉をもう少しだけ開いた。

 

 一ハゼで切れ残った線が、また張りつめ始めていた。さっきよりも、細く。脆く。

 

 ――ぴし。

 

 二ハゼ。

 

 豆の中の線がほどけていく。一本。十本。百本。

 

 全部ほどけたら、焦げる。

 

 全部ほどける、その、ほんの手前で。

 

 忉利は息を止めて、見ていた。

 

 残り、何本か。ほどけていく速さ。

 

 ――今。

 

 排出口を開けた。

 

 黒に近い深い茶色の豆が、冷却用の網の上にざあっと流れ出した。

 

 煙が焙煎室いっぱいに立ちのぼった。

 

 網を揺すって団扇で扇ぐ。ぴし、ぴし、という音がまばらになって、やがて止んだ。

 

 苦くて、それから、後から甘い。

 

 この店の匂いだった。

 

 

◇

 

 

 父が目を開けた。

 

 網の上の豆を一粒、指でつまんで光にかざして、前歯でかりっと噛んだ。

 

 長いこと黙っていた。

 

 忉利の心臓がうるさかった。

 

 遊園地で化け物と向かい合った時よりも。旧校舎で、あの女と向かい合った時よりも。

 

「……十秒」

 

 父が言った。

 

「火から上げるのが十秒遅い。あと十秒早ければ、苦味の角が立たなかった」

 

 もう一粒、噛む。

 

「……だが、悪くない」

 

 忉利は何も言えなかった。

 

「初めての焙煎で、二ハゼの止めどころを十秒しか外さなかった奴は、見たことがない。……俺は最初、一分外した。真っ黒の炭を師匠に食わされた」

 

 父の口元が、ほんのわずかに動いたように見えた。

 

「どうやって見た」

 

「……見てた。豆を」

 

「そうか」

 

 父はそれ以上、訊かなかった。

 

 ただ、忉利の目を、ほんの一瞬だけ見た。

 

 虹彩の縁の青い輪を。

 

「二日、寝かせろ。焼きたてはガスが抜けてねえ」

 

「……今日、使いたいんだけど。……今日、ホワイトデーだから」

 

 父の手が止まった。

 

 それから、また豆を麻の袋に移し始めた。

 

「……なら、粗く挽け。蒸らしは四十秒だ」

 

 父は麻の袋の口を紐で縛って、忉利に差し出した。

 

「……青子ちゃんか」

 

 忉利は答えなかった。

 

 耳の先が、焙煎室の熱のせいとは思えないほど赤くなっていた。

 

 父は何も言わずに、焙煎室を出ていった。

 

 厨房の方から湯を沸かす音が聞こえ始めた。

 

 四時。

 

 この店のいつもの朝が、始まる時間だった。

 

 

◇

 

 

 午前六時半。

 

 久遠寺邸の食堂のテーブルの上に、三つのものが並んでいた。

 

 白いティーポット。ダージリン。蒸らしは十秒短く。

 

 直径十センチほどの、一人分だけの小さなガトーショコラ。表面に、粉砂糖で、小さないびつな星が一つ。

 

 それから、麻の小袋。

 

「……なに、これ」

 

「三倍返し。十秒短い紅茶とガトーショコラ、両方だってお前が言ったろ。……で、三倍だから、もう一個」

 

「……これは」

 

「豆だ。……おれが、焼いた。今朝」

 

 青子の目が見開かれた。

 

「……おじさん、あんたには絶対触らせないって――」

 

「触らせてもらった。十秒焦がしすぎだって言われたけど」

 

 青子は忉利の顔を見た。

 

 目の下に薄い隈があった。前髪が、少しだけ焦げ臭かった。袖口に煤がついていた。

 

「……何時に起きたのよ」

 

「二時半」

 

「――っ、バカじゃないの」

 

「知ってる」

 

「ホワイトデーのために二時半に起きて、おじさんの焙煎機、勝手に使ったの?」

 

「勝手じゃねえ。親父、先に起きて待ってた」

 

 青子は何か言い返そうとして、口を開けて、閉じた。

 

 それから、椅子にすとんと座った。

 

「……紅茶、淹れて。それから、……その豆で珈琲も」

 

「お前、紅茶派なんじゃねえのか」

 

「今日は両方よ。三倍返しなんだから」

 

 

◇

 

 

 粗く挽く。ネルに粉を落とす。湯を細く注ぐ。

 

 焼きたての豆の中のガスが押し出されて、粉がいつもより大きく膨らんだ。

 

 四十秒。

 

 白いマグカップを紅茶のカップの隣に置いた。

 

 青子は紅茶を一口飲んで、目を閉じた。

 

 ガトーショコラのいびつな星の端をフォークで崩して、口に運んだ。

 

「……甘い」

 

「お前の分だけ、砂糖多めにした。……十何年、隣で食ってんだぞ」

 

 最後に、マグカップを両手で包んだ。

 

 一口。

 

 ――――。

 

 長いこと動かなかった。

 

「……苦い。すっごく、苦い。おじさんのより、苦い。……十秒焦がしすぎよ、これ」

 

「だからそう言っただろ」

 

「……でも」

 

 青子は目を開けた。

 

「後から甘い。……それに、なんか明るい。夜が明ける、ちょっと前みたいな」

 

「モカ、多めにしてある」

 

 青子は顔を上げて、忉利の目を見た。

 

 灰色の虹彩の、いちばん外の縁の細い青い輪を。

 

 夜明け前の空の色を。

 

「……名前、あるの。これ」

 

「ねえよ。今朝焼いたばっかだぞ」

 

「じゃあ、私がつける」

 

 青子は、少しだけ頬を赤くして、言った。

 

「夜明け前。……夜明け前ブレンド。……あんたの目の色と、同じ味がするから」

 

 忉利は言葉を失った。

 

 食堂の入り口で、有珠が足を止めていた。

 

 肩の上でロビンが、両方の翼で顔を覆っていた。

 

「……朝から胸焼けがするわ。珈琲の匂いのせいだと、思いたいけれど」

 

「――っ、有珠!!」

 

「日景。俺の分はあるだろうか」

 

「ねえよ。これは青子の分だ」

 

「そうか。……なら、俺も三倍返しを配ってくるよ」

 

 草十郎が懐から、木彫りの小鳥を三羽取り出した。

 

 雀と、目白と、鶯。

 

「下駄箱にチョコを入れてくれた三人に返すんだ。……一月かけて、足音と下駄箱の開け方で調べたよ」

 

「調べたの!?」

 

「一年の女子が二人と、三年の女子が一人。……一人は園芸部だったから、鶯にしたんだ」

 

 青子は額を押さえた。忉利は天井を見上げた。

 

 有珠がふいと顔を背けた。

 

「……わたしには、ないのね」

 

 草十郎はもう一方の懐から、小さな素焼きの植木鉢を取り出した。

 

「有珠には、これだ。……先月の種を植えておいたら、今朝、芽が出たんだ」

 

 土の真ん中に、小さな緑の芽が一つだけ顔を出していた。

 

 有珠は両手で、植木鉢をそっと受け取った。

 

「……三倍では、ないわね」

 

「足りないだろうか」

 

「……足りているわ」

 

 有珠は植木鉢を胸に抱えたまま、階段の方へ踵を返した。

 

 肩の上でロビンがこっそりと囁いた。

 

「マイ天使、芽の方がチョコよりずっと重たいッスね」

 

「ロビン」

 

「なんでもないッス!」

 

 

◇

 

 

 その日の夕方。

 

 Cafe HIKAGEのカウンターの、いちばん端の席に、青子と忉利が並んで座っていた。

 

 カウンターの内側で、父が今朝の豆でネルを振っていた。

 

「……ガスがまだ抜けてねえな。泡がでかすぎる」

 

 それでも手は止めなかった。

 

 白いカップに注いで、青子の前に置いた。それからもう一杯。自分の前に。

 

 父は、立ったままそれを一口飲んで、長いこと黙っていた。

 

 青子も一口飲んだ。

 

 今朝より、少しだけ角が取れていた。父の淹れ方のせいだろう。同じ豆なのに、朝みたいな明るさがもう少しだけはっきりしている。

 

「……名前は」

 

 父が言った。

 

 忉利ではなく、青子の方を見て。

 

「つけたんだろう。青子ちゃんが。……こいつは自分で焼いたもんに、名前なんかつけん」

 

 青子は、少しだけ唇を噛んで、小さな声で言った。

 

「……夜明け前ブレンド、です」

 

 父はレジの下の引き出しを開けて、生成りの厚紙を一枚取り出した。

 

 店の壁に並んでいるのと同じ、メニュー札。

 

 胸ポケットの万年筆で、角張った几帳面な字で書いた。

 

 ――夜明け前ブレンド。

 

 値段の欄は空白のままだった。

 

「まだ客には出せん。十秒焦がしすぎだ。ガスの抜き方も知らん。二ハゼの止めどころは、今日は当たったが、次も当たるとは限らん」

 

「…………」

 

「客に出せる味になったら、値段を書く。……それまでは、ここだ」

 

 父は厚紙を引き出しの中に、そっとしまった。

 

「……いつになるんだよ、それ」

 

「知らん」

 

 父は背中を向けて、ネルを洗い始めた。

 

「……俺が、自分の豆を客に出せるまで、十年かかった」

 

 青子がカウンターの下で、忉利の袖をそっと掴んだ。

 

 厨房の奥から晴華の声が飛んできた。

 

「お兄ちゃーん! ホワイトデー、わたしには何もないの!?」

 

「冷蔵庫にプリン入れといた」

 

「やったー!! ……って、なんで一個だけ焦げてるの、これ!?」

 

「親父の焙煎機の横で蒸した」

 

「なんで焙煎機の横で蒸すの!?」

 

 青子がカウンターに突っ伏して、肩を震わせていた。

 

 父の背中も、ほんの少しだけ揺れていた。

 

 

◇

 

 

 夜。

 

 坂の上の洋館へ続く道を、二人で上っていった。

 

 三月の夜風は、二月よりも少しだけ柔らかかった。

 

 青子は胸の前に麻の小袋を抱えていた。

 

 今朝の豆の残りだった。

 

「……それ、持って帰んのか」

 

「当たり前でしょ。三倍返しの三つ目なんだから」

 

「挽いてやろうか」

 

「いいわよ。自分で挽くから」

 

「お前、ミル回せんのかよ」

 

「回せるわよ! ……たぶん」

 

 忉利は小さく笑った。

 

「……忉利」

 

「ん」

 

「あの札。……十年かかるって、おじさん言ってたわね」

 

「言ってたな」

 

「十年後、あんた、あの店にいるの」

 

 忉利はすぐには答えなかった。

 

 十年後のことなんて考えたことがなかった。

 

 この冬、何度も死にかけて、一度は本当に死んで、それでもこうして坂道を上っている。

 

 十年後、自分がどこにいるのか。何をしているのか。

 

 わからなかった。

 

「……わかんねえ」

 

 正直に言った。

 

「でも、あの札に値段が書かれる日には、いる。……どこにいても、その日だけは戻ってくる。親父の前で、あの豆、淹れる」

 

「……その時、私もいていい?」

 

「いなかったら誰が名前つけたって言うんだよ」

 

 青子の足が止まった。

 

 月明かりの下で、耳の先が赤かった。

 

「……十秒焦がしすぎたの。あんたの目で豆の中の線、見て止めたんでしょ」

 

「……なんでわかんだよ」

 

「わかるわよ。あんたの十年、見たんだから」

 

 青子は顔を上げた。

 

「あんた、線を見る時いつも、ほんの少しだけ見すぎるの。……切る前に、もう一回だけ確かめるから。その、もう一回の分が、たぶん十秒」

 

「…………」

 

「悪い癖じゃないわよ。……ただ、その十秒で苦くなるだけ」

 

 青子は少しだけ笑って、また歩き出した。

 

 忉利は、その背中を見て、歩幅を合わせて隣に並んだ。

 

 坂の上の洋館の、玄関の脇の窓辺に、小さな素焼きの植木鉢が一つ置かれていた。

 

 土の真ん中で、小さな緑の芽が月の光を浴びていた。

 

シエルの小説満足度調査

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