三月二十日。春休み、二日目。午前九時。
久遠寺邸の書庫の扉に、紙が一枚、画鋲で留められていた。
――蒼崎先生の魔術講座 第一回 九時開講 遅刻厳禁 出席者:日景忉利、静希草十郎
紙の下の方に、小さな字で、追記があった。
――ロビンは、出席しても発言禁止。
「……なんだよ、これ」
忉利は、白いマグカップを手に持ったまま、その紙を見下ろしていた。
隣で、草十郎が、真面目な顔で紙を読んでいる。
「講座、と書いてある。……日景。蒼崎は、先生になったのか」
「なってねえよ。生徒会長だ」
「なら、なぜ先生と」
「知らねえ。……嫌な予感しかしねえ」
書庫の扉が、内側から、がらりと開いた。
「――遅い!」
青子が、立っていた。
制服姿だった。春休みなのに。手に、教科書らしい分厚い本を一冊。もう一方の手に、細い木の棒――どこかで見た覚えがある。屋敷の物置にあった、古いカーテンの吊り棒だ。
鼻の上に、黒縁の眼鏡が乗っていた。
忉利の眼鏡だった。
「……おい。それ、おれの」
「先生は、眼鏡をかけるものなの。座りなさい。九時二分。二分遅刻」
「九時って書いてあるから九時に来たんだろ」
「先生は、九時と言ったら八時五十分に来るものだと言ってるの」
「それ、親父の台詞だろ」
「いいから座りなさい!」
書庫の中には、樫の大机の前に、椅子が二脚、並べられていた。
大机の向こうには、どこから持ってきたのか、小さな黒板が一枚、書棚に立てかけてある。屋敷の物置の奥にあった、子供用の黒板らしい。角が、少し欠けていた。
黒板の上に、白墨で、大きく書かれていた。
――魔術とは何か。
その横に、小さく、蒼崎青子先生、と。
書棚の上の段に、ロビンが、ちょこんととまっていた。
嘴に、小さな紙が一枚、貼りつけられている。
――発言禁止。
ロビンは、恨みがましい目で、青子を睨んでいた。
「――さて」
青子は、カーテンの吊り棒で、黒板を、こつんと叩いた。
「あんたたちは、この三ヶ月で、いろんなものを見た。人形。童話の怪物。ルーン。それから、魔法。……でも、何が何なのか、ちゃんとわかってないでしょ」
「わかってねえな」
「わかっていない」
「でしょ。だから、今日から、私が教えるの。魔術師の家に生まれた、蒼崎青子が。……先生と呼びなさい」
「呼ばねえ」
「呼びなさい」
「……蒼崎先生」
草十郎が、律儀に言った。
青子は、満足げに頷いた。
それから、じろりと、忉利を見た。
「……忉利。あんたも」
忉利は、椅子の背にもたれて、気だるげに手を挙げた。
「はーい、あおあおせんせー」
―――
―――
―――。
書庫の空気が、凍った。
青子の顔から、表情が、すうっと消えた。
次の瞬間。
ごすっ、と。
吊り棒ではなかった。拳だった。
忉利の頭のてっぺんに、生徒会長の拳骨が、まっすぐに落ちていた。
「――っ、て、てめ……」
「今、なんて言ったの」
「……言ってねえ」
「言ったわよね。あおあおって。言ったわよね」
青子の声は、静かだった。
静かすぎて、書棚の上のロビンが、発言禁止の紙の下で、羽毛をぶわりと逆立てた。
忉利は、頭を押さえたまま、椅子の上で、身を縮めた。
「……小三の時、お前、フルネームで呼ばれるたびに、そいつの上履き隠してただろ」
「隠してないわよ。屋上に置いただけ」
「それを隠すって言うんだよ」
「――もう一発、いる?」
「いらねえ」
草十郎が、真面目な顔で、手を挙げた。
「蒼崎先生。あおあおとは、何だ」
「――静希くんは、覚えなくていいの!!」
「そうか。……だが、今、日景が」
「覚えなくていいの!!」
窓際で、有珠が、紅茶のカップを傾けていた。
「……あおこ、あおざき。青が、二つ」
「有珠っ!!」
「独り言よ」
有珠は、何事もなかったかのように、紅茶を一口飲んだ。
忉利は、頭を押さえたまま、机に突っ伏していた。
たんこぶが、もう、できかけていた。
「まず、基本の基本から。……魔術って、何だと思う?」
草十郎が、手を挙げた。
「すごいこと」
「……間違ってないけど、ざっくりしすぎよ」
「忉利」
「……変なこと」
「もっとざっくりしてどうすんのよ」
青子は、黒板に、白墨で、大きく書いた。
――魔術=料理。
「いい? 魔術は、料理なの。レシピがあって、材料があって、手順通りにやれば、ちゃんとできる。……ただし、台所がある家の子だけね」
「台所?」
草十郎が、首を傾げた。
「生まれつき、身体の中に、台所が付いてるかどうか。……付いてない人は、どんなに勉強しても、カップ麺止まり」
「……カップ麺は、作れるのか」
「お湯を沸かすくらいは、誰でもできるでしょ。そういうこと」
「……じゃあ、魔法は」
忉利が、訊いた。
「魔法は、今の世の中の、どんなお店でも、どんな機械でも、絶対に出せない料理。……作れるシェフは、世界に、数人だけ」
青子は、胸を張った。
「ちなみに、百年後に、ファミレスのメニューに載ったら、ただの魔術に格下げ」
「……格下げ、あんのかよ」
「あるのよ。昔は、空を飛ぶのも、魔法だったんだから」
窓際から、静かな声が、した。
「……その数人のひとりが、目の前で、雑な説明をしているのだけれど」
「雑じゃないわよ。わかりやすいのよ」
青子は、得意げに、付け足した。
「たとえば、私が作ると、なぜか爆発する料理とか」
「それは、お前の料理が下手なだけだろ」
「――っ、違うわよ!」
「チョコ、三回焦がしたって、晴華から聞いたぞ」
「……なんで知ってるのよ」
「……青子。魔法と、料理の失敗を、一緒にしないで」
「例えよ、例え」
「例えが、悪いわ」
「次。魔力」
青子は、黒板に、人の形を描いた。
棒人間だった。頭が、少し大きい。
その横に、「MP」と書いた。
「魔力っていうのは、これ。ゲームの、MP。魔術を使うと減って、休むと戻るの」
草十郎が、首を傾げた。
「えむぴー、とは何だ」
「……ゲーム、やったことないの?」
「ない。山には、なかった」
青子は、しばらく、考えた。
「……じゃあ、お腹。魔術を使うと、お腹が減るみたいに、減っていくの。空っぽになると、動けなくなる」
「なるほど」
草十郎は、深く、頷いた。
「なら、魔力が切れたら、飯を食えばいいのか」
「……だいたい、合ってる」
「合っていないわ」
窓際で、有珠が、紅茶のカップを置いた。
「だいたいよ、だいたい。……遊園地の後、私、おにぎり五個食べたもの」
「それは、ただの空腹よ」
有珠は、淡々と、続けた。
「魔力は、生命力を、回路で変換したもの。食事は、材料の補給にはなるけれど、おにぎり一個で魔力一杯、なんて計算はないわ。……それに、魔力は、身体の外にもあるの。大気とか、土地とか。マナ、というのよ」
「……つまり、外食もできるってことね」
青子が、ぽんと手を打った。
「……違うわ」
忉利が、マグカップの陰で、少しだけ、肩を揺らした。
「次。呪文」
青子は、吊り棒で、黒板を叩いた。
「魔術を使う時に唱える言葉。……自分に、言い聞かせるためのものなの。今から魔術を使うぞ、って。だから、基本的には、長い方が、強い。言い聞かせ方が、深くなるから」
「……お前の、短えよな」
忉利が、言った。
「指、ぱちん、ってやるだけだろ。いつも」
「あれは、早口じゃなくて、省略。……一工程っていって、呪文ごと、ばっさりカットしてるの」
窓際で、有珠が、言った。
「……レシピを読まずに、手が覚えている料理ね」
「そ。その代わり、ちゃんと唱えた方が、威力は上。……私の場合、長く唱えるほど、派手になる」
「派手になる、のか」
「派手になるのよ」
草十郎が、手を挙げた。
「俺も、山で、唱える言葉があった。獲物を獲った時に」
「……へえ。聞かせて」
草十郎は、目を閉じて、手を合わせた。
低い声で、何か、長い言葉を、唱え始めた。
山の言葉だった。意味は、わからなかった。
一分。
「……静希くん、まだ?」
「まだ、半分だ」
「……長いわね」
「長い方が、強いのだろう」
青子は、何も言い返せなかった。
「次。使い魔」
青子は、書棚の上を、吊り棒で指した。
「魔術師の、お手伝いをするもの。主人の言うことを聞いて、偵察とか、伝言とかをするの。……生き物の形をしてることが多いけど、道具みたいなのもいるわ。ほら、あれ。ロビン」
ロビンが、嘴の紙を、器用に剥がした。
「おいらは、マイ天使の言うことしか、聞かないッス!」
「……ほら、ちゃんと、主人の言うことを――」
「姉御の言うことは、聞かないッス!」
「…………」
有珠が、紅茶を一口飲んで、淡々と言った。
「……ロビンは、例外よ。参考にしないで」
「マイ天使!?」
「次。結界」
青子は、黒板に、大きな丸を描いた。
「魔術で引く、『ここから内側』の線。……壁にもなるし、警報にもなる。中にいる人を閉じ込めることもできる」
「線か」
忉利が、少しだけ、顔を上げた。
「で、その線の使い方の一つが、人払い。近づくと、なんとなく、帰りたくなったり、道に迷ったりする仕掛けよ」
「ああ」
忉利が、頷いた。
「遊園地の時の、丘の上のやつか」
「そう、あれ」
「あれ、切ったぞ」
「……あんたは、切るんじゃないの。普通は、帰るの」
「帰りたくなったけどな。三回くらい」
草十郎が、手を挙げた。
「俺は、帰りたくならなかった」
「静希くんは、効かないのよ。……なんで二人とも、人払いを、人払いとして使わせてくれないのよ」
窓際で、有珠が、言った。
「……ちなみに、気づかれる結界は、三流よ」
「この家のは、一流よ。……二人とも、最初は、玄関の前で、迷ったでしょ」
「迷ってねえ。開けただけだ」
「――あんたは、もう、黙ってなさい」
「……この屋敷の住人には、結界の意味がないわね」
有珠が、ぽつりと言った。
少しだけ、遠い目をしていた。
「次。魔術回路」
青子は、さっきの棒人間の身体に、細い線を、何本も、書き込んだ。
「さっきの、台所の話。……魔術師の身体の中には、見えない電線みたいなのが、通ってるの。これに、魔力を流すと、魔術が動く」
「……電線」
忉利が、マグカップを置いた。
「家電みたいなもんか」
「――え」
草十郎が、真面目な顔で、青子を見た。
「蒼崎は、家電だったのか」
「違うわよ!」
「だが、電線が通っていて、流すと動くのだろう。……家電だ」
「例えよ! 例え!」
窓際で、有珠が、紅茶のカップを、口元に、運びかけて。
止まった。
「……家電……」
小さく、呟いた。
それから、カップの陰に、顔を隠した。
肩が、ほんの少しだけ、震えていた。
「――有珠! 今、笑ったでしょ!」
「笑っていないわ」
「肩、震えてるわよ!」
「……寒いのよ」
有珠は、カップの陰から、出てこなかった。
それから、ようやく顔を上げた時には、いつもの無表情に戻っていた。
「……青子。その本、上下逆さまよ」
青子は、手元の分厚い本を、見下ろした。
金文字の題が、逆さまだった。
「――っ」
慌てて、ひっくり返した。
「……有珠。いつからいたの」
「最初から」
「見学?」
「監視よ。わたしの書庫で、わたしの本を使うのだもの。……それから、魔術回路は、電線ではなくて、擬似神経よ。しかも、発電所も兼ねているの」
「……発電所」
「魔力を、作るところ。……本数は、生まれつき決まっていて、増やすのは、臓器を一つ足すのと同じくらい、大変よ」
「ね? 電線と発電所。だいたい合ってる」
「合っていないわ。……家電になってしまったもの」
「――っ、蒸し返さないで」
草十郎が、真面目な顔で、頷いた。
「発電所付きの、家電か。……蒼崎は、すごいな」
「すごくないわよ!!」
「私、理屈は好きなのよ。例えるのが、ちょっと、苦手なだけで」
青子は、吊り棒を、ぎりぎりと握りしめた。
「なら、先生を名乗らないで」
「……とにかく。私にも、有珠にも、回路がある。で」
吊り棒の先が、くるりと回って、忉利を指した。
「忉利には、回路が、一本もない」
「……ねえな」
「台所がないのに、あの目で、人の家の料理を、切るの。結界も、ルーンも。……魔力を、一滴も使わずに」
「…………」
「だから、魔術師が、あんたの目を見ると、みんな、顔色が変わるのよ」
草十郎は、忉利の顔を見た。
「日景。見せてくれ」
「何を」
「顔色が変わるところを」
「お前は魔術師じゃねえだろ」
「そうか。……残念だ」
「最後。……これが、一番、大事」
青子は、黒板の、いちばん上に、書いた。
――魔術は、ひみつ。
「魔術はね、人に言うと、弱くなるの。一人しか知らない魔術を、もう一人に教えたら、力は半分。もう一人に教えたら、三分の一。……だから、魔術師は、人に言わない。秘密なの」
草十郎が、手を挙げた。
「なら、俺が、まっどべあで、言いふらしたら、どうなる」
「……やめなさい」
「……鳶丸に言ったら、次の日には、学校中に広まってんな」
忉利が、ぼそりと言った。
「あんたも、やめなさい」
窓際で、有珠が、紅茶のカップを、受け皿に、そっと置いた。
「……この講座が外に漏れたら、魔術が、少し弱くなりそうね」
「有珠」
忉利は、マグカップの珈琲を、静かに啜った。
ロビンが、書棚の上で、翼で口元を隠して、震えていた。
「――では、ここで、小テスト」
青子は、大机の上に、藁半紙を二枚、ぱしんと置いた。
手書きの問題用紙だった。青子の、少し右上がりの字で、四問。
「……聞いてねえぞ」
「言ってないもの。抜き打ちよ。五分」
草十郎が、鉛筆を、両手で握った。
山の子が、試験用紙に向かう時の顔だった。獲物を前にした時と、同じくらい真剣な。
忉利は、欠伸をかみ殺しながら、問題を読んだ。
――問一 魔術と魔法の違いを答えよ。
――問二 久遠寺有珠の使い魔を三つ挙げよ。
――問三 魔術回路の本数を確かめる方法を答えよ。
――問四(配点五十点) 先生の好きなものを答えよ。
「……おい。問四」
「私語禁止」
「配点、おかしいだろ。半分じゃねえか」
「先生への理解が、一番大事なの」
窓際で、有珠が、紅茶を一口飲んだ。
「……公私混同ね」
「有珠も私語禁止!」
五分後。
青子は、二枚の藁半紙を回収して、大机の向こうで、赤い鉛筆を握った。
まず、草十郎の方から。
「問一。……『蒼崎が使うのが魔法で、蒼崎以外が使うのが魔術』」
「違うのか」
「……ちょっと、合ってるのが腹立つわね。三角」
「三角」
「問二。『ロビン、ロビン、ロビン』」
書棚の上で、ロビンが、発言禁止の紙の下で、激しく羽ばたいた。
「……静希くん。なんで三回書いたの」
「一番よく見るのが、ロビンだから。三つ挙げろと言われたが、ロビン以外は、よく知らない」
「……ロビンは、正解。使い魔だから。でも、三回書いても、一つよ。三角」
「三角」
ロビンが、書棚の上で、胸の羽毛をこれ以上ないほど膨らませていた。嬉しいのか、怒っているのか、わからなかった。
「問三。『数える』」
「数えればいい」
「……どうやって」
「一本ずつ」
「……模範解答は、『詳しい人に、診てもらう』。私は、有珠に診てもらったわ」
窓際で、有珠が、紅茶を一口飲んだ。
「数えたわ」
「…………」
「……丸」
「丸」
「問四。『梅昆布茶』」
窓際で、有珠の紅茶のカップが、受け皿の上で、かちりと鳴った。
「――静希君。それは、この屋敷では、口にしてはいけない言葉よ」
「そうなのか。……だが、蒼崎は、好きだと言っていた。三年飲んでいない、と」
「――っ、静希くん!!」
「……青子」
有珠の声が、冬の湖の底の温度になった。
「屋敷の外で、飲んでいるのね」
「飲んでない! 飲んでないわよ! ……正月に、実家で、一杯だけ」
「そう」
「一杯だけよ!」
「三日」
「なんでよ!!」
忉利は、机に突っ伏して、肩を震わせていた。
青子は、真っ赤な顔で、赤鉛筆を、忉利の藁半紙に叩きつけた。
「――次! 忉利! 問一、『レシピで作れるのが魔術。どうやっても作れねえのが魔法。お前のチョコは、ただの失敗』。……最後の一文以外、丸。問二、『月の油、橋の巨人、薔薇の猟犬』」
「……丸でいいだろ」
「……丸。ただし、月の油は、遊園地で私が壊したから、そこだけ三角」
窓際で、有珠が、カップを置いた。
「……それを、自分で、採点に書くのね」
「――問三! 『知らねえ』」
「知らねえもんは知らねえ」
「バツ。……問四」
青子の赤鉛筆が、止まった。
藁半紙の、いちばん下の欄を、じっと見下ろしている。
「…………」
「なんだよ」
「……なに、これ」
忉利の字で、一行だけ、書いてあった。
――おれの淹れる珈琲。
青子の耳の先が、見る見るうちに、赤くなっていった。
「……な、なによ、これ。自意識過剰じゃないの」
「違うのか」
「――っ」
「毎朝、飲んでんだろ。紅茶派のくせに」
「……い、いいわよ! 五十点! あげるわよ!」
青子は、赤鉛筆で、問四の欄に、乱暴に丸をつけた。
丸が、藁半紙からはみ出していた。
「結果発表! 静希くん、三十点! 忉利、……八十点!」
「おれの勝ちだな」
「問四がなかったら、三十点よ!」
「問四、作ったのお前だろ」
窓際で、有珠が、藁半紙を覗き込んでいた。
「……公私混同ね」
「有珠!!」
「――理論は、ここまで!」
青子は、黒板の字を、袖で乱暴に消した。
「実技に入るわ。……ここからが、本題よ」
青子は、吊り棒を、忉利に向けた。
「日景忉利。あんたの目のこと」
忉利は、カップを置いた。
「あんたの目には、扉がある。開けたり、閉めたりできる。……そうよね」
「ああ」
「でも、あんた、まだ、それを、ちゃんと使いこなしてないでしょ」
「…………」
「たとえば。今、私を見て」
青子は、大机の前に立った。
忉利は、青子を見た。
「扉、開いてる? 閉じてる?」
「……閉じてる。たぶん」
「たぶん、じゃ駄目なの」
青子は、吊り棒で、大机を、こつんと叩いた。
「魔術師は、自分の回路が、今、どれだけ開いてるか、いつでもわかってる。あんたの扉も、同じ。……全開か、半分か、閉じてるか。自分で、いつでも、言えるようになりなさい」
「……なんでだよ」
「あんたの目は、見たものを切るのよ。切りたくない時に、勝手に開いてたら、どうなると思う」
忉利は、黙った。
旧校舎の夜。四枚目の壁。そして、その後の。
「――だから、練習するの。今日は、開け閉め」
青子は、大机の上に、白磁のティーカップを一つ、置いた。
有珠の食器棚から持ってきたものらしかった。
有珠の眉が、ぴくりと動いた。
「……青子。それ、母のよ」
「壊さないから!」
「壊したら、一ヶ月、話しかけないわ」
「わかってるってば! ……忉利。このカップを見て。扉、全開」
忉利は、カップを見た。
目の奥の扉を、開いた。
線が、見えた。
白磁の、釜の中で焼き固められた線。釉薬の、薄い層の線。取っ手と、胴を繋ぐ、太い線。縁の、金の絵付けの、細い線。
「……見えてる」
「何本」
「……は?」
「線、何本あるか、数えなさい」
「数えられるかよ、何百本もあるんだぞ」
「じゃあ、取っ手と胴を繋いでる線だけ。何本」
忉利は、目を細めた。
「……三本」
「じゃあ、扉を、半分閉じて」
忉利は、扉を、半分、閉じた。
線が、薄くなる。細い線が、消えていく。
「……取っ手の線、何本」
「……一本。太いのだけ」
「全部閉じて」
閉じた。
「何本」
「……見えねえ。ただのカップだ」
「よし」
青子は、頷いた。
「じゃあ、今度は、私が言った通りに開けて。……全開」
「ああ」
「半分」
「……ああ」
「閉じて」
「閉じた」
「全開」
「……おい、これいつまでやんだよ」
「目が、私の声に、勝手に反応するようになるまでよ」
「犬の芸かよ」
「――静希くんの首輪、借りてこようかしら」
「やめろ」
草十郎が、自分の首の革の首輪に、手を当てた。
「蒼崎。これは、貸せない。……日景の首には、合わないと思う」
「そういう問題じゃねえ」
書棚の上で、ロビンが、ついに我慢しきれずに、嘴の紙を剥がした。
「あーっははは! シャバ憎二号に首輪ッス! 姉御、いいセンスッス!」
「ロビン!! 減点!!」
「おいらは生徒じゃないッスって!!」
その隣で、草十郎が、真剣な顔で、ティーカップを見つめていた。
「……蒼崎」
「なに」
「俺の目にも、扉はあるか」
「ないわよ」
「そうか」
草十郎は、少しだけ考えて、目を閉じた。
「閉じた」
「それは、ただの瞼よ!」
「開けた」
「瞼!」
「半分」
「――半目で見ないで! 怖いから!」
草十郎は、半目のまま、首を傾げた。
「日景と、同じことをしているつもりだが」
「全然違うわよ!」
忉利は、扉を全開にしたまま、草十郎の半目を見てしまった。
草十郎の線は、いつもどおり、まっさらだった。何も結ばれていない、白い紙のような線。
それが、半目のせいで、ひどく眠たそうに見えた。
「……ぶっ」
「日景。笑ったな」
「笑ってねえ」
「今、扉が、半分閉じた。……蒼崎、日景の扉が、勝手に動いた」
「――集中しなさい! 二人とも!」
三十分後。
忉利は、大机に肘をついて、顔を伏せていた。
「……もう、無理だ」
「まだ二百回よ」
「二百回で十分だろ」
「開いて。半分。閉じて。開いて。閉じて。半分。……ほら、もう、私が言う前に、目が動いてるでしょ」
忉利は、顔を上げた。
青子の声が、「半分」と言った瞬間に、確かに、扉が、半分、開いていた。
考える前に。
「…………」
「でしょ」
青子は、得意げに、吊り棒を肩に担いだ。
「これで、あんたの目は、私の声を聞くようになったわ」
「……お前の声だけかよ」
「先生の声、でしょ」
有珠が、窓際で、紅茶のカップを置いた。
「……青子。それは、良くない訓練よ」
「え?」
「彼の目が、あなたの声にだけ反応するようになったら。あなたがいない時に、彼は、どうやって扉を閉じるの」
青子は、固まった。
「…………」
「自分の意志で開け閉めできなければ、意味がないわ。……声の主がいなければ動かない目なんて、危ないだけよ」
「わ、わかってるわよ! 次の段階の話よ! 今のは、その、準備運動!」
「準備運動で二百回」
「うるさいわね!」
忉利は、額に手を当てた。
それから、有珠の方を見た。
「……有珠。お前が教えた方が、早えんじゃねえのか」
「わたしは、教えないわ」
有珠は、即答した。
「あなたの目のことは、青子が、あなたに教えるべきよ。……わたしは、監視するだけ」
それから、有珠は、ほんの少しだけ、目を細めた。
「それに、見ている方が、面白いもの」
「――有珠!!」
「じゃあ、次!」
青子は、大机の上に、新しいものを置いた。
古い、刺繍の、テーブルクロスの端切れだった。
白い麻布に、赤と青と緑の糸で、小さな花の模様が縫い取られている。
「これも母のよ」
「使ってないやつでしょ! 物置にあったやつ!」
「……使っていないだけで、母のものよ」
「終わったら返すから!」
青子は、端切れを、忉利の前に、ぴんと広げた。
「この刺繍の中で、赤い糸だけ、切って。……青も緑も、麻布も、一本も傷つけずに」
忉利は、端切れを見下ろした。
「……何のためにだよ」
「精度の練習よ。あんた、有珠の中の爆弾、繊維一本ずつほどいたでしょ。あれ、もう一回できる?」
忉利は、黙った。
あの時は、有珠が目の前で死にかけていた。だから、できた。
落ち着いた書庫で、テーブルクロスの端切れを前にして、同じことができるかは、わからなかった。
「……やってみる」
目の奥の扉を、開いた。
半分。
それから、もう少し。
線が、見えた。
麻布の、縦糸と横糸の、無数の線。その上に縫いつけられた、赤い糸の線。青い糸の線。緑の糸の線。全部が、互いに、くぐり、絡み、締めつけ合っている。
赤だけ。
息を、止めた。
赤い糸の、線。それが、麻布の縦糸の下をくぐり、横糸の上を渡り、青い糸と交差する、その全部を、目で追う。
一本。
ぷつり。
二本。
三本。
赤い糸が、花の形のまま、麻布の上から、ふわりと浮き上がった。
縫い取りを、ほどかれて。
けれど、切れた赤い糸の下の麻布には、傷ひとつ、なかった。青と緑の花は、そのまま、咲いていた。
「…………」
青子は、端切れを、持ち上げた。
光に、透かす。
麻布の目は、一つも、破れていなかった。
「……できるじゃない」
少しだけ、声が、掠れていた。
「当たり前だろ」
「当たり前じゃないわよ。……私、正直、半分くらい、麻布ごと切ると思ってた」
「思ってたのかよ」
「思ってたわよ! だから、母のじゃなくて物置のにしたんじゃない!」
有珠が、窓際から、静かに言った。
「……それは、母のよ」
「――もう終わったから返すってば!!」
有珠は、端切れを受け取って、赤い糸のなくなった花を、じっと見下ろした。
それから、何も言わずに、外套のポケットに、しまった。
忉利は、有珠の横顔を、ちらりと見た。
無表情だった。
けれど、ポケットの上に置いた白い指が、その端切れの上を、ほんの一瞬だけ、なぞったように見えた。
昼を過ぎて、講座は、いつの間にか、昼食会になっていた。
大机の上の黒板は、書棚の陰に押しやられ、代わりに、忉利が作ったサンドイッチの皿が置かれている。
草十郎が、五つ目のサンドイッチを食べながら、言った。
「蒼崎。俺には、何か、練習はないのか」
「……静希くんは、いいの」
「なぜ」
「あんたには、切る目も、回路も、何もないでしょ。……教えることが、ないのよ」
「そうか」
草十郎は、少しだけ、考えた。
「なら、蒼崎の講座で、俺は、何をすればいい」
「聞いてればいいのよ。……あんたが聞いてると、私、なんか、間違ったこと言えない気がするから」
青子は、サンドイッチを齧った。
「暗示も人払いも通らない奴が、真面目な顔で聞いてるんだもの。……嘘、つけないじゃない」
草十郎は、首を傾げた。
「褒められているのか」
「……たぶん」
「なら、小テストの三十点は、もう少し、上げてもらえないか」
「それは、上げないわ」
忉利は、サンドイッチを片手に、青子の顔の上の、黒縁の眼鏡を見た。
「……そろそろ、眼鏡、返せ」
「嫌よ。明日も使うんだから」
「明日もやんのかよ」
「当たり前でしょ。明日は、実技の続き。……切らない練習よ」
青子は、吊り棒を、指先でくるりと回した。
「あんたの一番、下手なやつ」
「…………」
忉利は、何も言い返せなかった。
それから、ふと、青子の背中に、目をやった。
「……おい。青子」
「なによ」
「背中」
「背中?」
青子は、首をひねって、自分の背中を見ようとした。見えなかった。
草十郎が、真面目な顔で、青子の背中を覗き込んだ。
「蒼崎。背中に、紙が貼ってある」
「え?」
「『発言禁止』と、書いてある」
「――――」
書庫の中が、しんと、静まり返った。
書棚の上の段で、ロビンが、そっと、そっぽを向いた。
嘴に貼られていたはずの紙は、なくなっていた。
「……いつから」
「たぶん、小テストの採点の時から」
窓際で、有珠が、紅茶のカップを傾けた。
「……わたしは、気づいていたわ」
「――なんで言わないのよ!!」
「言ったら、面白くないもの」
「ロビン――――っ!!」
青子が、吊り棒を振り上げた。
ロビンが、書棚の上から、一目散に、窓の外へ飛び出していった。
「おいらは! 生徒じゃ! ないッス――――!!」
春の空に、駒鳥の悲鳴が、遠ざかっていった。
忉利は、机に突っ伏した。
肩が、しばらく、震えていた。
草十郎が、最後のサンドイッチを、静かに頬張った。
「……町の学校は、楽しいな」
「ここは学校じゃないわよ!!」
アンケートの内容がわかりずらい。という質問をいただいたので、答えます。
単純に次書くヒロイン誰にする?というアンケートです。
例えばライダー (Heaven's Feel)だと、
ライダーをヒロインとして、Heaven's Feelのストーリーに沿って書くよ。
ということです。
――書いたはいいですが、橙子やアルクはどう作るつもりなんでしょうか…
この部分については気にしなくていいです。
単に、候補に挙げたはいいけど、どんなストーリーにすればいいのかマジで思いつかない。どうしよう。というぼやきです。
確かに、勢い任せの文だったので、わかりにくかったですね。申し訳ないです。
ちなみに、アルクが現在優勢で、非常に焦っています。誰か案ください。おねがいします。
原作から大幅に逸れたストーリーにするのも嫌だし、かといって負けヒロインを横からかっさらうような展開も嫌です。どうしましょう。
…シエルとか比較的書きやすそうなんですけどね。
曇らせもりもりハッピーエンドとかで。皆さん好きでしょう?曇らせ。
投票数が50いくか、あと5日くらい経ったらアンケートを閉め切ろうと思います。
いろいろ勝手を吐きましたが、最多得票のキャラは、ちゃんと書きます。
ほんとに浮かばなかったら、ほかのヒロインでお茶を濁すかもしれません。
しっかり自分が納得いくものを書きたいんです。ゆるしてください。
誰か案くださいほんと。
次作品 ヒロイン候補 書いたはいいですが、橙子やアルクはどう作るつもりなんでしょうか…
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シエル (月姫R アルクェイドルート)
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アルクェイド(月姫R シエルルート?)
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蒼崎橙子 (空の境界)
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遠坂凛 (Heaven’s Feel)
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ライダー (Heaven’s Feel)
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ジャンヌ・ダルク (Apocrypha)
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ジャンヌ・ダルク (史実+FGO)
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久遠寺有珠 (魔法使いの夜)