夜明けの色を見る眼   作:にんら

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三日坊主

 三月二十一日。春休み三日目。午前九時。

 

 書庫の扉の貼り紙が一枚増えていた。

 

 ――蒼崎先生の魔術講座 第二回 本日の実技:切らない練習

 

 その下に昨日よりも小さな字で。

 

 ――ロビンは出席禁止。

 

 窓の外の庭の楡の木のてっぺんで、青い駒鳥が、ふてくされたように羽毛を膨らませていた。

 

「……根に持ってんな、あいつ」

 

「ロビンの方がな」

 

 忉利と草十郎は並んで書庫に入った。

 

 青子は、今日も制服だった。今日も忉利の黒縁眼鏡をかけていた。今日もカーテンの吊り棒を持っていた。

 

 背中には何も貼られていなかった。

 

 昨日の夜、三回確かめたらしい。

 

「――座りなさい。今日は理論はなし。いきなり実技よ」

 

 窓際の椅子には、もう有珠が座っていた。

 

 紅茶のカップ。膝の上に小さな青い鈴。

 

「今日も、監視?」

 

「今日は、助手よ。……鈴が要るのでしょう」

 

 

◇

 

 

「次は、逆よ」

 

 青子は吊り棒を忉利の顔に向けた。

 

「切らない練習」

 

「……切らない?」

 

「そう。見えてるのに、切らない。切りたくなっても、切らない。……あんた、それが一番下手でしょ」

 

 忉利は否定できなかった。

 

「有珠。頼んでいたやつ」

 

 有珠は立ち上がった。

 

 書庫の扉の前に立つ。

 

 外套のポケットから、小さな青い鈴を取り出して、扉の枷にそっと引っかけた。

 

 ちりん。

 

 扉の枠に、線が張られた。

 

 忉利の目には、見えていた。扉の枠の上から下まで、細い線が一本。玉すだれのように垂れ下がる人払いではない。たった一本の、細い糸のような線。

 

 結界のいちばん小さな一目。

 

「その線に触らずに、扉を通って」

 

 青子が言った。

 

「切らないで。……見えてても、切らないで。ただ、くぐるの」

 

「……くぐれるのか、これ」

 

「くぐれるわ。かがめば」

 

 忉利は扉の前に立った。

 

 線が見えていた。目の高さの少し上。細い一本の線。

 

 かがめば通れる。

 

 わかっている。

 

 けれど、見えていると。

 

 邪魔だ、と思う。

 

 思った瞬間に、目が、動く。

 

 ――ぷつり。

 

「――っ、こら!!」

 

 青子の吊り棒が、忉利の後頭部をこつんと叩いた。

 

「切ったでしょ! 今切ったでしょ!」

 

「……勝手に、動いた」

 

「勝手に動くのが駄目なんでしょ!」

 

 有珠が、無言で、鈴をもう一度扉に引っかけた。

 

 ちりん。

 

 線が張り直された。

 

「もう一回」

 

 忉利は扉の前に立った。

 

 線を見る。

 

 邪魔だ、と思わないようにする。

 

 ――ぷつり。

 

「こら!!」

 

 こつん。

 

 三回目。

 

 ぷつり。

 

 こつん。

 

 四回目。

 

 ぷつり。

 

 こつん。

 

「……日景」

 

 草十郎が、椅子から静かに言った。

 

「線を見なければいいんじゃないか」

 

「…………」

 

「扉を閉じて通ればいいんだ」

 

 忉利は瞬きをした。

 

 それから、青子の方を見た。

 

 青子は、吊り棒を握ったまま、少しだけ悔しそうな顔をしていた。

 

「……そうよ。閉じて通るのが、正解。……それを、あんたが自分で気づくまで待ってたのに、静希くんが言っちゃった」

 

「言ってしまった」

 

「いいわよ、もう。……忉利。閉じて、通りなさい」

 

 忉利は扉の前に立った。

 

 目の奥の扉を閉じた。

 

 線が消えた。

 

 ただの古い木の扉の枠が、そこにあるだけだった。

 

 かがんでくぐった。

 

 何も、切れなかった。

 

 背中の方で、ちりん、と鈴が小さく鳴った。

 

「……くぐれた」

 

「やっと」

 

 青子は大きく息を吐いた。

 

「わかった? 見えるものを全部見なくていいの。見なくていい時は、閉じる。……それが一番、あんたに要ることよ」

 

 忉利は、扉の枷に引っかかった青い鈴を見下ろした。

 

 それから、ぼそりと言った。

 

「……爺さんも似たようなこと言ってた」

 

「え?」

 

「何を切らないか、決める目だって」

 

 青子は、少しのあいだ黙った。

 

 それから、少しだけ笑った。

 

「……あの人と同じことを言えたなら、私も先生でいいわよね」

 

「三十点の先生だけどな」

 

「なんで三十点なのよ!」

 

「回路の説明、半分抜けてたんだろ」

 

「有珠!! 余計なこと教えないでよ!!」

 

 窓際で、有珠が紅茶のカップを傾けていた。

 

「わたしは、事実を言っただけよ」

 

 

◇

 

 

「――じゃあ、応用」

 

 青子は、吊り棒を置いて、書庫の扉の向こう側に回り込んだ。

 

 廊下に立つ。

 

 扉の枠に、有珠が、もう一度鈴を引っかけた。

 

 ちりん。

 

 線が張られた。

 

 その線の向こうに、青子が立っていた。

 

「線をくぐって私のところまで来なさい。……扉、閉じたまま」

 

「……さっきと同じだろ」

 

「同じよ。場所が変わっただけ」

 

 忉利は扉の前に立った。

 

 扉を閉じる。

 

 線が消えた。

 

 かがもうとして顔を上げた。

 

 扉の向こうに青子がいた。

 

 腕を組んで、少しだけ得意げな顔でこちらを見ていた。

 

 ――ぷつり。

 

「――っ、こら!!」

 

 青子が廊下で飛び上がった。

 

「なんで切るのよ! 閉じてたでしょ、今!」

 

「……閉じてた」

 

「じゃあなんで!」

 

「……お前が、見えたから」

 

 忉利はぼそりと言った。

 

「お前見たら勝手に開いた。……で、開いたら線が見えて、切れた」

 

「…………」

 

 青子は、廊下の真ん中で固まった。

 

 窓際で、有珠が紅茶のカップを置いた。

 

「……当然ね」

 

「当然って何よ!」

 

「彼の目は、あなたを見る時だけ言うことを聞かないの。……今朝から、ずっとそうよ。あなたが気づいていなかっただけ」

 

 青子の顔が、見る見るうちに赤くなっていった。

 

 草十郎が椅子の上で首を傾げた。

 

「なら、蒼崎が扉の向こうに立たなければいいんじゃないか」

 

「――それじゃ応用にならないでしょ!!」

 

「そうか」

 

 有珠が、無言で、鈴をもう一度扉に引っかけた。

 

 ちりん。

 

「……もう一回」

 

 青子が廊下から、震える声で言った。

 

「今度は私、目、閉じてるから」

 

「……お前が閉じてどうすんだよ」

 

「いいから!」

 

 五回目。

 

 青子は廊下でぎゅっと目を閉じていた。

 

 忉利は扉を閉じたまま、青子を見ないように床だけを見て、かがんでくぐった。

 

 何も切れなかった。

 

 ちりん、と鈴が鳴った。

 

 青子のすぐ目の前で。

 

「……来た」

 

 青子が目を開けた。

 

 忉利の顔がすぐそこにあった。

 

 かがんだまま、くぐり抜けた勢いで青子の鼻先、十センチ。

 

「――――っ」

 

「……おい」

 

「ち、近い!!」

 

「お前がここに立ってろって言ったんだろ」

 

「くぐったら止まりなさいよ!!」

 

 窓際で、有珠が無表情のまま紅茶を一口飲んだ。

 

「……訓練なのかしら、これ」

 

 

◇

 

 

「――じゃあ、宿題」

 

 青子は吊り棒を机の上に置いた。

 

 それから、指を一本立てた。

 

「今日一日。私の顔を見る時、扉、閉じてなさい」

 

「……は?」

 

「あんた、私見る時いつも、ちょっとだけ扉開いてるでしょ」

 

 忉利は言葉に詰まった。

 

 確かにそうだった。

 

 青子を見る時、いつも無意識に扉が少しだけ開く。青子の線を、確かめてしまう。ほんの少し先で自分の線と結び目を作っている、あの青い線を。

 

 そこにあるかどうかを。

 

 毎回。

 

「……別に開けてねえよ」

 

「開けてるわよ。私、わかるんだから」

 

「なんでわかんだよ」

 

「あんたの十年、見たからよ」

 

 青子は、少しだけ頬を赤くして、そっぽを向いた。

 

「あんた、線を見る時、右の眉がほんの少し上がるの。……その顔、私を見る時、毎回してる」

 

 忉利は右の眉に手を当てた。

 

「…………」

 

「だから宿題。今日一日、私を見る時は閉じたまま。……それで、夜に仕上げ。私の顔を、線なしで一分見る」

 

「……できるかよ、そんなの」

 

「できるようになるの。……先生の宿題よ」

 

 窓際で、有珠が紅茶を一口飲んだ。

 

「……それは、魔術の訓練なのかしら」

 

「訓練よ!」

 

「そう」

 

 有珠は、それ以上何も言わなかった。

 

 言わなかったが、窓の外の楡の木のてっぺんで、ロビンが翼で顔を覆っているのが見えた。

 

 

◇

 

 

 昼食の時間。

 

 屋敷の食堂のテーブルで、忉利はナポリタンを食べていた。

 

 正面に青子。

 

 忉利は皿の上だけを見ていた。

 

「……なんで下向いて食べてるのよ」

 

「宿題だろ」

 

「見る時は閉じろって言ったの。見るなとは言ってないわよ」

 

「見たら開くんだよ」

 

 青子のフォークが止まった。

 

「……勝手に?」

 

「勝手に」

 

 忉利は、ナポリタンを巻きながら、ぶっきらぼうに言った。

 

「お前の顔見たら、勝手に開く。……閉じとこうと思っても、気づいたらちょっと開いてる」

 

「…………」

 

「だから、見ねえ。それが一番確実だろ」

 

 青子は、何も言わなかった。

 

 フォークを持ったまま動かなかった。

 

 隣で草十郎が首を傾げた。

 

「蒼崎、顔が赤いよ」

 

「――赤くない!!」

 

「ナポリタンの色が映っているのか」

 

「そうよ!! ケチャップよ!!」

 

 有珠が、テーブルの端で、紅茶のカップを置いた。

 

「……ケチャップは、そんなふうに、耳まで映らないわ」

 

「有珠!!」

 

 

◇

 

 

 午後、忉利はCafe HIKAGEの店番に出た。

 

 春休みの間、晴華の部活の日だけ父の手伝いをすることになっている。

 

 そして、なぜか青子がついてきた。

 

「……なんで来てんだよ」

 

「宿題の監督よ。先生だもの」

 

 青子は、カウンターのいちばん端の、いつもの席に座った。

 

 忉利は、カウンターの内側でネルを振った。

 

 手元だけを見ていた。

 

「……こっち見なさいよ」

 

「見たら開くって言ったろ」

 

「見て、閉じるの。それが宿題でしょ」

 

 忉利は溜息をついた。

 

 顔を上げた。

 

 青子を見た。

 

 目の奥の扉を閉じたまま。

 

 ――閉じたまま、のつもりだった。

 

「……今、開いた」

 

「開いてねえ」

 

「右の眉、上がった」

 

「上がってねえよ」

 

「上がったわよ。……ほら、また」

 

 カウンターの奥のテーブル席で新聞を読んでいた常連の老人が、ちらりと二人を見た。

 

 それから、何も見なかったような顔で、新聞に目を戻した。

 

 ドアベルがからん、と鳴った。

 

「ただいまー! ……あれ、青子ちゃん!」

 

 晴華だった。

 

 部活のジャージ姿で、ラケットを肩に担いで。予定より一時間早かった。

 

 晴華は、カウンターの端の青子と、カウンターの内側の兄を見比べた。

 

 二人は至近距離で、じっと見つめ合っていた。

 

「…………」

 

 晴華の目が、見る見るうちに丸くなっていった。

 

「――お父さーん!! お兄ちゃんと青子ちゃんが見つめ合ってるー!!」

 

「違う!!」

 

「違うわよ!!」

 

 二人の声が重なった。

 

 焙煎室の奥から、父が顔を出した。

 

 カウンターの二人を見た。

 

 長いこと見ていた。

 

 それから、何も言わずに、焙煎室に戻っていった。

 

 扉が、静かに閉まった。

 

「……お父さん、今ちょっと笑ってた」

 

「笑ってねえよ!」

 

「笑ってたもん! ……ねえねえ、何してたの? にらめっこ?」

 

 晴華は、ラケットを放り出して、カウンターに身を乗り出した。

 

「……宿題よ」

 

 青子が、真っ赤な顔で言った。

 

「宿題? 春休みの?」

 

「そう。……忉利が、私の顔を一分見る宿題」

 

「……え、何それ。どこの学校の宿題?」

 

「蒼崎先生の学校よ」

 

「青子ちゃん、先生なの!?」

 

 晴華は目を輝かせた。

 

 それから、カウンターの上の砂時計をひっくり返した。

 

 紅茶の蒸らしに使う三分計。

 

「じゃあ、わたしが計ってあげる! はい、よーい、スタート!」

 

「――おい」

 

「スタート!」

 

 忉利は観念して、青子を見た。

 

 扉を閉じる。

 

 右の眉に力を入れて、動かさないようにする。

 

 青子も忉利を見ていた。

 

 十秒。

 

 二十秒。

 

 晴華が、カウンターに頬杖をついて、二人の顔を交互に見ている。

 

 三十秒。

 

 青子の頬が、少しずつ赤くなっていった。

 

 四十秒。

 

「……青子ちゃん、顔、真っ赤だよ」

 

「――っ、うるさい! 晴華ちゃん、黙ってて!」

 

「お兄ちゃんは全然平気な顔してるのにー」

 

「平気じゃねえよ」

 

「え?」

 

 忉利は、青子から目を離さなかった。

 

 ただ、耳の先が少しだけ赤くなっていた。

 

 五十秒。

 

 青子がぱっと目を逸らした。

 

「――も、もう無理! 今日はここまで!」

 

「まだ一分経ってねえぞ」

 

「経ったことにして!」

 

「お兄ちゃんの勝ちー!」

 

 晴華が両手を上げた。

 

 砂時計の砂は、まだ半分以上残っていた。

 

 焙煎室の扉の向こうから、豆を焼く低い唸りに混じって、ほんのかすかに咳払いのような音が聞こえた。

 

 

◇

 

 

 夕食の後。

 

 屋敷の台所で、草十郎が洗い物をしていた有珠の前に立った。

 

「有珠」

 

「なに」

 

「俺の顔を一分見てくれないか」

 

 有珠の手が皿の上で止まった。

 

「……なぜ」

 

「蒼崎と日景がやっていたんだ。宿題だそうだ。……どういうものか知りたくて」

 

 有珠は、しばらく、草十郎の顔を見ていた。

 

 それから、皿を置いて、手を拭いた。

 

「……いいわ」

 

 二人は台所の真ん中で向かい合った。

 

 有珠は草十郎の顔を見た。

 

 草十郎は有珠の顔を見た。

 

 十秒。

 

 三十秒。

 

 一分。

 

 どちらも瞬きひとつしなかった。

 

 どちらも顔色ひとつ変えなかった。

 

「……一分だ」

 

「そうね」

 

「何も起きなかったな」

 

「起きないわ。あれは、あの二人だから起きるのよ」

 

 草十郎は少しだけ首を傾げた。

 

「そうか。……なら、どうして蒼崎と日景は赤くなるんだ」

 

 有珠は答えなかった。

 

 ただ、皿洗いに戻った。

 

 流しの上の窓枠で、ロビンが翼で顔を覆っていた。

 

「……この二人、勝負にならないッス」

 

「ロビン。黙りなさい」

 

「へいッス」

 

 草十郎が、布巾を手に取って、有珠の隣で皿を拭き始めた。

 

 有珠は何も言わなかった。

 

 ただ、皿を渡す手がほんの少しだけゆっくりになった。

 

 

◇

 

 

 その夜。

 

 二階の露台で、忉利は手すりにもたれていた。

 

 背後で硝子戸が開いた。

 

「……宿題やった?」

 

 青子だった。

 

 寝間着の上にいつものカーディガン。眼鏡は、もうかけていなかった。

 

「……やってねえよ。今日あんだけやったんだぞ」

 

「今、やるのよ」

 

 青子は忉利の正面に立った。

 

 月明かりの下で。

 

「私の顔、見て。……線、見ないで。一分」

 

 忉利は、青子の顔を見た。

 

 目の奥の扉を閉じる。

 

 線が消えた。

 

 ただの青子の顔だった。

 

 月明かりに照らされた、少しだけ赤い頬。真剣な目。

 

「……見てる」

 

「まだ十秒」

 

「…………」

 

 二十秒。

 

 三十秒。

 

 忉利は、右の眉が上がりそうになるのを必死で堪えた。

 

 扉を開けたくなる。

 

 いつもそうしていた。

 

 この女の線がそこにあるか、確かめたくなる。

 

 けれど、今日は閉じたまま。

 

 四十秒。

 

 青子の頬が見る見るうちに赤くなっていった。

 

 耳の先まで。

 

「……な、なによ」

 

「お前が見ろって言ったんだろ」

 

「そうだけど……そんな、じっと……」

 

「一分だろ」

 

 五十秒。

 

 青子は、目を逸らそうとして、逸らさなかった。

 

 唇を噛んでいた。

 

 六十秒。

 

「……一分」

 

 忉利が言った。

 

 青子はばっと目を逸らした。

 

 両手で頬を押さえる。

 

「――も、もういいわよ! 合格! 宿題、合格!」

 

「……線なしで見た方が、お前、よく赤くなんだな」

 

「うるさいわね!!」

 

 青子は忉利の脛を蹴った。

 

 それから、硝子戸の方へ逃げようとして、立ち止まった。

 

 振り返らずに言う。

 

「……明日は、二分よ」

 

「増えんのかよ」

 

「先生の宿題なんだから」

 

「……じゃあ、お前もやれよ」

 

 青子の手が、硝子戸の取っ手の上で止まった。

 

「……え?」

 

「おれの顔、一分。……先生なら手本見せろ」

 

「な、なんで私が」

 

「お前、昼間、四十秒で逃げただろ。晴華の前で」

 

「あれは晴華ちゃんが見てたから――」

 

「じゃあ今は誰も見てねえ」

 

 忉利は、手すりから背中を離して、青子の正面に立った。

 

 青子は、しばらく、硝子戸の取っ手を握ったまま動かなかった。

 

 それから、観念したように振り返った。

 

「……一分だけよ」

 

「ああ」

 

 青子は忉利の顔を見た。

 

 十秒。

 

 青子の目が泳いだ。

 

 十五秒。

 

 唇を噛んだ。

 

 二十秒。

 

「……っ」

 

 青子は、両手で自分の顔を覆った。

 

「無理!!」

 

「二十秒だぞ」

 

「無理なものは無理なの!! あんた、なんでそんな、じっと……!」

 

「お前が見ろって言ったんだろ」

 

「私は見ろって言ったのであって、見られろとは言ってないの!!」

 

「同じだろ」

 

「全然違うわよ!!」

 

 青子は、指の隙間から忉利を睨んだ。

 

 それから、ぽつりと言った。

 

「……なんで、あんたは、平気なのよ」

 

 忉利は少しだけ黙った。

 

 それから、手すりの方を向いた。

 

「……平気じゃねえよ」

 

 月明かりの下で、耳の先が赤かった。

 

「扉閉じて見んの、初めてなんだよ。……お前の顔、線なしで、ちゃんと見んの」

 

 青子は、指の隙間から、忉利の耳を見ていた。

 

 長いこと見ていた。

 

 それから、顔から両手を離した。

 

「……明日は、二分よ」

 

「さっき聞いた」

 

「二人とも、よ」

 

「……ああ」

 

 硝子戸が閉まった。

 

 忉利は、手すりにもたれたまま、月を見上げた。

 

 目の奥の扉は閉じたままだった。

 

 線は見えなかった。

 

 それでも。

 

 あいつの線がそこにあることは、見なくても、わかった。

 

 

◇

 

 

 その頃。

 

 屋敷の一階の暗い書庫で。

 

 有珠は、窓際の椅子に座って、冷めた紅茶を手にしていた。

 

 窓の外の楡の木から、青い駒鳥がそっと舞い戻ってきて、有珠の肩にとまった。

 

「……マイ天使」

 

「なに」

 

「今、露台で姉御とシャバ憎二号が見つめ合って、二人とも真っ赤になってたッス」

 

「知っているわ」

 

「おいら、胸焼けするッス」

 

「わたしもよ」

 

 有珠は、冷めた紅茶を一口飲んだ。

 

「……珈琲の匂いのせいだと、思いたいけれど」

 

 それから、窓の外の月を見上げて、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「明日は、二分、ですって」

 

「……マイ天使、見に行くッスか」

 

「行かないわ」

 

 有珠はカップを置いた。

 

「……行かないけれど、露台の下の庭の、薔薇の芽の様子を見に行くかもしれないわね。九時頃に」

 

「それ、見に行くって言うッス」

 

「独り言よ」

 

 

◇

 

 

 二日目の夜。

 

 露台で二分。

 

 忉利は二分もった。

 

 最後の十秒は、右の眉がずっとぴくぴくと震えていた。

 

 耳の先は真っ赤だった。

 

 青子は、一分十秒で、両手で顔を覆った。

 

「……明日は、三分よ」

 

「まだ増やすのかよ」

 

「先生の宿題なんだから」

 

 露台の下の暗い庭で。

 

 薔薇の苗の前に、有珠がしゃがみ込んでいた。

 

 九時ちょうどだった。

 

 

◇

 

 

 三日目の夜。

 

 青子は露台に砂時計を持ってきた。

 

 晴華から借りてきた、HIKAGEのカウンターの紅茶の三分計。

 

「……わざわざ借りてきたのかよ」

 

「ちゃんと計るためよ」

 

 青子は砂時計を手すりの上に置いた。

 

「先に、あんた。……三分」

 

 砂時計がひっくり返された。

 

 忉利は青子の顔を見た。

 

 扉を閉じたまま。

 

 一分。

 

 月明かりの下で、青子の頬がもう赤かった。

 

 見られている方なのに。

 

 一分半。

 

 青子の目が泳ぎ始めた。

 

 二分。

 

 唇を噛んでいた。

 

 二分半。

 

 忉利の右の眉が、ぴくりと動きかけて。

 

 止まった。

 

 三分。

 

 砂が落ちきった。

 

「……三分」

 

「…………っ、ご、合格……」

 

 青子の声が裏返っていた。

 

「じゃあ次、お前な」

 

「…………」

 

 青子は砂時計をひっくり返した。

 

 忉利の顔を見た。

 

 十秒。

 

 二十秒。

 

 三十秒。

 

 青子の手が、砂時計を、ぱたりと横に倒した。

 

「――ギブ!!」

 

「……は?」

 

「ギブアップ!! 無理!! 宿題、終わり!!」

 

「三十秒だぞ」

 

「三十秒でも無理なの!!」

 

 青子は両手で顔を覆った。

 

 指の隙間から、真っ赤な耳が覗いていた。

 

「このままだと、明日四分、明後日五分って、きりがないでしょ!! 一週間後には十分とか見つめ合ってるのよ!? 毎晩!! 露台で!!」

 

「……増やしたの、お前だろ」

 

「だから、終わりにするの!! 先生の権限で!!」

 

「先生が先に落第してどうすんだよ」

 

「落第じゃないわよ!! ……卒業よ!! あんたは、もう、合格!! だから、宿題はなし!!」

 

「…………」

 

「三日坊主じゃないわよ。……三日で、卒業」

 

 青子はそっぽを向いた。

 

 それから、指の隙間から、ちらりと忉利を見て。

 

 小さな声で付け足した。

 

「……たまになら。……一分くらい。……また、やっても、いいけど」

 

 忉利は何も言わなかった。

 

 手すりの上の倒れた砂時計を起こした。

 

 砂がまた、さらさらと落ち始めた。

 

 露台の下の暗い庭で。

 

 薔薇の苗の前に、有珠がしゃがみ込んでいた。

 

 その隣に、なぜか草十郎もしゃがみ込んでいた。

 

「……有珠。薔薇の芽はまだ出ていないぞ」

 

「知っているわ」

 

「なら、どうして三日もここに来てるんだ」

 

「独り言よ」

 

 有珠は、立ち上がって、外套の裾を払った。

 

 露台を一度だけ見上げた。

 

「……三日。思ったより、もったわね」

 

 肩の上で、ロビンが翼で顔を覆っていた。

 

「……マイ天使、最初から三日で終わるって、わかってたッスか」

 

「わかっていたわ。……あの子、我慢比べで、あの男に勝ったこと、一度もないもの」

 




隈乃温泉とか、2015年の時計塔とか書くか迷ってるんですけど、毎回原作を確認しながら書くからすごい大変になりそうなんですよね。

2015年の時計塔とか、知ってる人何人いるんでしょうかね。

自分自身、小学校か中学校くらいの時に、テレビでバビロニアのアニメを見たのが型月に触れたきっかけですし。ある程度ディグってる人しか知らないと思うんですよね…

シエルの小説満足度調査

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