三月二十一日。春休み、三日目。午前九時。
書庫の扉の貼り紙が、一枚、増えていた。
――蒼崎先生の魔術講座 第二回 本日の実技:切らない練習
その下に、昨日よりも小さな字で。
――ロビンは、出席禁止。
窓の外の、庭の楡の木のてっぺんで、青い駒鳥が、ふてくされたように羽毛を膨らませていた。
「……根に持ってんな、あいつ」
「ロビンの方がな」
忉利と草十郎は、並んで書庫に入った。
青子は、今日も制服だった。今日も、忉利の黒縁眼鏡をかけていた。今日も、カーテンの吊り棒を持っていた。
背中には、何も貼られていなかった。
昨日の夜、三回確かめたらしい。
「――座りなさい。今日は、理論はなし。いきなり実技よ」
窓際の椅子には、もう、有珠が座っていた。
紅茶のカップ。膝の上に、小さな青い鈴。
「今日も、監視?」
「今日は、助手よ。……鈴が要るのでしょう」
「次は、逆よ」
青子は、吊り棒を、忉利の顔に向けた。
「切らない練習」
「……切らない?」
「そう。見えてるのに、切らない。切りたくなっても、切らない。……あんた、それが一番、下手でしょ」
忉利は、否定できなかった。
「有珠。頼んでいたやつ」
有珠は、立ち上がった。
書庫の扉の前に、立つ。
外套のポケットから、小さな青い鈴を取り出して、扉の枷に、そっと引っかけた。
ちりん。
扉の枠に、線が、張られた。
忉利の目には、見えていた。扉の枠の上から下まで、細い線が、一本。玉すだれのように垂れ下がる人払いではない。たった一本の、細い、糸のような線。
結界の、いちばん小さな一目。
「その線に、触らずに、扉を通って」
青子が、言った。
「切らないで。……見えてても、切らないで。ただ、くぐるの」
「……くぐれるのか、これ」
「くぐれるわ。かがめば」
忉利は、扉の前に立った。
線が、見えていた。目の高さの、少し上。細い、一本の線。
かがめば、通れる。
わかっている。
けれど、見えていると。
邪魔だ、と思う。
思った瞬間に、目が、動く。
――ぷつり。
「――っ、こら!!」
青子の吊り棒が、忉利の後頭部を、こつんと叩いた。
「切ったでしょ! 今、切ったでしょ!」
「……勝手に、動いた」
「勝手に動くのが駄目なんでしょ!」
有珠が、無言で、鈴をもう一度、扉に引っかけた。
ちりん。
線が、張り直された。
「もう一回」
忉利は、扉の前に立った。
線を見る。
邪魔だ、と思わないようにする。
――ぷつり。
「こら!!」
こつん。
三回目。
ぷつり。
こつん。
四回目。
ぷつり。
こつん。
「……日景」
草十郎が、椅子から、静かに言った。
「線を、見なければいいのではないか」
「…………」
「扉を、閉じて、通ればいい」
忉利は、瞬きをした。
それから、青子の方を見た。
青子は、吊り棒を握ったまま、少しだけ、悔しそうな顔をしていた。
「……そうよ。閉じて通るのが、正解。……それを、あんたが自分で気づくまで待ってたのに、静希くんが言っちゃった」
「言ってしまった」
「いいわよ、もう。……忉利。閉じて、通りなさい」
忉利は、扉の前に立った。
目の奥の扉を、閉じた。
線が、消えた。
ただの、古い木の扉の枠が、そこにあるだけだった。
かがんで、くぐった。
何も、切れなかった。
背中の方で、ちりん、と、鈴が小さく鳴った。
「……くぐれた」
「やっと」
青子は、大きく息を吐いた。
「わかった? 見えるものを、全部見なくていいの。見なくていい時は、閉じる。……それが、一番、あんたに要ることよ」
忉利は、扉の枷に引っかかった青い鈴を、見下ろした。
それから、ぼそりと言った。
「……爺さんも、似たようなこと言ってた」
「え?」
「何を切らないか、決める目だって」
青子は、少しのあいだ、黙った。
それから、少しだけ、笑った。
「……あの人と同じことを言えたなら、私も、先生でいいわよね」
「三十点の先生だけどな」
「なんで三十点なのよ!」
「回路の説明、半分抜けてたんだろ」
「有珠!! 余計なこと教えないでよ!!」
窓際で、有珠が、紅茶のカップを傾けていた。
「わたしは、事実を言っただけよ」
「――じゃあ、応用」
青子は、吊り棒を置いて、書庫の扉の向こう側に、回り込んだ。
廊下に立つ。
扉の枠に、有珠が、もう一度、鈴を引っかけた。
ちりん。
線が、張られた。
その線の、向こうに、青子が立っていた。
「線をくぐって、私のところまで来なさい。……扉、閉じたまま」
「……さっきと、同じだろ」
「同じよ。場所が変わっただけ」
忉利は、扉の前に立った。
扉を、閉じる。
線が、消えた。
かがもうとして、顔を上げた。
扉の向こうに、青子がいた。
腕を組んで、少しだけ、得意げな顔で、こちらを見ていた。
――ぷつり。
「――っ、こら!!」
青子が、廊下で、飛び上がった。
「なんで切るのよ! 閉じてたでしょ、今!」
「……閉じてた」
「じゃあ、なんで!」
「……お前が、見えたから」
忉利は、ぼそりと言った。
「お前見たら、勝手に開いた。……で、開いたら、線が見えて、切れた」
「…………」
青子は、廊下の真ん中で、固まった。
窓際で、有珠が、紅茶のカップを置いた。
「……当然ね」
「当然って何よ!」
「彼の目は、あなたを見る時だけ、言うことを聞かないの。……今朝から、ずっとそうよ。あなたが気づいていなかっただけ」
青子の顔が、見る見るうちに、赤くなっていった。
草十郎が、椅子の上で、首を傾げた。
「なら、蒼崎が、扉の向こうに立たなければいい」
「――それじゃ、応用にならないでしょ!!」
「そうか」
有珠が、無言で、鈴をもう一度、扉に引っかけた。
ちりん。
「……もう一回」
青子が、廊下から、震える声で言った。
「今度は、私、目、閉じてるから」
「……お前が閉じてどうすんだよ」
「いいから!」
五回目。
青子は、廊下で、ぎゅっと目を閉じていた。
忉利は、扉を閉じたまま、青子を見ないように、床だけを見て、かがんで、くぐった。
何も、切れなかった。
ちりん、と、鈴が鳴った。
青子の、すぐ目の前で。
「……来た」
青子が、目を開けた。
忉利の顔が、すぐそこにあった。
かがんだまま、くぐり抜けた勢いで、青子の鼻先、十センチ。
「――――っ」
「……おい」
「ち、近い!!」
「お前が、ここに立ってろって言ったんだろ」
「くぐったら止まりなさいよ!!」
窓際で、有珠が、無表情のまま、紅茶を一口飲んだ。
「……訓練なのかしら、これ」
「――じゃあ、宿題」
青子は、吊り棒を、机の上に置いた。
それから、指を一本、立てた。
「今日一日。私の顔を見る時、扉、閉じてなさい」
「……は?」
「あんた、私見る時、いつも、ちょっとだけ、扉開いてるでしょ」
忉利は、言葉に詰まった。
確かに、そうだった。
青子を見る時、いつも、無意識に、扉が少しだけ開く。青子の線を、確かめてしまう。ほんの少し先で、自分の線と結び目を作っている、あの青い線を。
そこにあるかどうかを。
毎回。
「……別に、開けてねえよ」
「開けてるわよ。私、わかるんだから」
「なんでわかんだよ」
「あんたの十年、見たからよ」
青子は、少しだけ、頬を赤くして、そっぽを向いた。
「あんた、線を見る時、右の眉が、ほんの少し、上がるの。……その顔、私を見る時、毎回してる」
忉利は、右の眉に、手を当てた。
「…………」
「だから、宿題。今日一日、私を見る時は、閉じたまま。……それで、夜に、仕上げ。私の顔を、線なしで、一分見る」
「……できるかよ、そんなの」
「できるようになるの。……先生の宿題よ」
窓際で、有珠が、紅茶を一口飲んだ。
「……それは、魔術の訓練なのかしら」
「訓練よ!」
「そう」
有珠は、それ以上、何も言わなかった。
言わなかったが、窓の外の楡の木のてっぺんで、ロビンが、翼で顔を覆っているのが見えた。
昼食の時間。
屋敷のテーブルで、忉利は、ナポリタンを食べていた。
正面に、青子。
忉利は、皿の上だけを見ていた。
「……なんで、下向いて食べてるのよ」
「宿題だろ」
「見る時は閉じろって言ったの。見るなとは言ってないわよ」
「見たら、開くんだよ」
青子のフォークが、止まった。
「……勝手に?」
「勝手に」
忉利は、ナポリタンを巻きながら、ぶっきらぼうに言った。
「お前の顔見たら、勝手に開く。……閉じとこうと思っても、気づいたら、ちょっと開いてる」
「…………」
「だから、見ねえ。それが一番、確実だろ」
青子は、何も言わなかった。
フォークを持ったまま、動かなかった。
隣で、草十郎が、首を傾げた。
「蒼崎。顔が赤い」
「――赤くない!!」
「ナポリタンの色が、映っているのか」
「そうよ!! ケチャップよ!!」
有珠が、テーブルの端で、紅茶のカップを置いた。
「……ケチャップは、そんなふうに、耳まで映らないわ」
「有珠!!」
午後、忉利は、Cafe HIKAGEの店番に出た。
春休みの間、晴華の部活の日だけ、父の手伝いをすることになっている。
そして、なぜか、青子がついてきた。
「……なんで来てんだよ」
「宿題の監督よ。先生だもの」
青子は、カウンターのいちばん端の、いつもの席に座った。
忉利は、カウンターの内側で、ネルを振った。
手元だけを、見ていた。
「……こっち、見なさいよ」
「見たら、開くって言ったろ」
「見て、閉じるの。それが宿題でしょ」
忉利は、溜息をついた。
顔を上げた。
青子を、見た。
目の奥の扉を、閉じたまま。
――閉じたまま、のつもりだった。
「……今、開いた」
「開いてねえ」
「右の眉、上がった」
「上がってねえよ」
「上がったわよ。……ほら、また」
カウンターの奥のテーブル席で、新聞を読んでいた常連の老人が、ちらりと二人を見た。
それから、何も見なかったような顔で、新聞に目を戻した。
ドアベルが、からん、と鳴った。
「ただいまー! ……あれ、青子ちゃん!」
晴華だった。
部活のジャージ姿で、ラケットを肩に担いで。予定より、一時間早かった。
晴華は、カウンターの端の青子と、カウンターの内側の兄を見比べた。
二人は、至近距離で、じっと、見つめ合っていた。
「…………」
晴華の目が、見る見るうちに、丸くなっていった。
「――お父さーん!! お兄ちゃんと青子ちゃんが、見つめ合ってるー!!」
「違う!!」
「違うわよ!!」
二人の声が、重なった。
焙煎室の奥から、父が、顔を出した。
カウンターの二人を、見た。
長いこと、見ていた。
それから、何も言わずに、焙煎室に戻っていった。
扉が、静かに、閉まった。
「……お父さん、今、ちょっと笑ってた」
「笑ってねえよ!」
「笑ってたもん! ……ねえねえ、何してたの? にらめっこ?」
晴華は、ラケットを放り出して、カウンターに身を乗り出した。
「……宿題よ」
青子が、真っ赤な顔で、言った。
「宿題? 春休みの?」
「そう。……忉利が、私の顔を、一分見る宿題」
「……え、何それ。どこの学校の宿題?」
「蒼崎先生の学校よ」
「青子ちゃん、先生なの!?」
晴華は、目を輝かせた。
それから、カウンターの上の砂時計を、ひっくり返した。
紅茶の蒸らしに使う、三分計。
「じゃあ、わたしが計ってあげる! はい、よーい、スタート!」
「――おい」
「スタート!」
忉利は、観念して、青子を見た。
扉を、閉じる。
右の眉に、力を入れて、動かさないようにする。
青子も、忉利を見ていた。
十秒。
二十秒。
晴華が、カウンターに頬杖をついて、二人の顔を、交互に見ている。
三十秒。
青子の頬が、少しずつ、赤くなっていった。
四十秒。
「……青子ちゃん、顔、真っ赤だよ」
「――っ、うるさい! 晴華ちゃん、黙ってて!」
「お兄ちゃんは、全然平気な顔してるのにー」
「平気じゃねえよ」
「え?」
忉利は、青子から、目を離さなかった。
ただ、耳の先が、少しだけ、赤くなっていた。
五十秒。
青子が、ぱっと、目を逸らした。
「――も、もう無理! 今日はここまで!」
「まだ一分経ってねえぞ」
「経ったことにして!」
「お兄ちゃんの勝ちー!」
晴華が、両手を上げた。
砂時計の砂は、まだ、半分以上、残っていた。
焙煎室の扉の向こうから、豆を焼く低い唸りに混じって、ほんのかすかに、咳払いのような音が聞こえた。
夕食の後。
屋敷の台所で、草十郎が、洗い物をしていた有珠の前に、立った。
「久遠寺」
「なに」
「俺の顔を、一分、見てくれないか」
有珠の手が、皿の上で、止まった。
「……なぜ」
「蒼崎と日景が、やっていた。宿題だそうだ。……どういうものか、知りたい」
有珠は、しばらく、草十郎の顔を見ていた。
それから、皿を置いて、手を拭いた。
「……いいわ」
二人は、台所の真ん中で、向かい合った。
有珠は、草十郎の顔を、見た。
草十郎は、有珠の顔を、見た。
十秒。
三十秒。
一分。
どちらも、瞬きひとつしなかった。
どちらも、顔色ひとつ、変えなかった。
「……一分だ」
「そうね」
「何も、起きなかった」
「起きないわ。あれは、あの二人だから起きるのよ」
草十郎は、少しだけ、首を傾げた。
「そうか。……なら、なぜ、蒼崎と日景は、赤くなるんだ」
有珠は、答えなかった。
ただ、皿洗いに、戻った。
流しの上の窓枠で、ロビンが、翼で顔を覆っていた。
「……この二人、勝負にならないッス」
「ロビン。黙りなさい」
「へいッス」
草十郎が、布巾を手に取って、有珠の隣で、皿を拭き始めた。
有珠は、何も言わなかった。
ただ、皿を渡す手が、ほんの少しだけ、ゆっくりになった。
その夜。
二階の露台で、忉利は、手すりにもたれていた。
背後で、硝子戸が開いた。
「……宿題、やった?」
青子だった。
寝間着の上に、いつものカーディガン。眼鏡は、もう、かけていなかった。
「……やってねえよ。今日、あんだけやったんだぞ」
「今、やるのよ」
青子は、忉利の正面に立った。
月明かりの下で。
「私の顔、見て。……線、見ないで。一分」
忉利は、青子の顔を見た。
目の奥の扉を、閉じる。
線が、消えた。
ただの、青子の顔だった。
月明かりに照らされた、少しだけ赤い頬。真剣な目。
「……見てる」
「まだ十秒」
「…………」
二十秒。
三十秒。
忉利は、右の眉が、上がりそうになるのを、必死で堪えた。
扉を、開けたくなる。
いつも、そうしていた。
この女の線が、そこにあるか、確かめたくなる。
けれど、今日は、閉じたまま。
四十秒。
青子の頬が、見る見るうちに、赤くなっていった。
耳の先まで。
「……な、なによ」
「お前が、見ろって言ったんだろ」
「そうだけど……そんな、じっと……」
「一分だろ」
五十秒。
青子は、目を逸らそうとして、逸らさなかった。
唇を、噛んでいた。
六十秒。
「……一分」
忉利が、言った。
青子は、ばっと、目を逸らした。
両手で、頬を押さえる。
「――も、もういいわよ! 合格! 宿題、合格!」
「……線なしで見た方が、お前、よく赤くなんだな」
「うるさいわね!!」
青子は、忉利の脛を、蹴った。
それから、硝子戸の方へ、逃げようとして、立ち止まった。
振り返らずに、言う。
「……明日は、二分よ」
「増えんのかよ」
「先生の宿題なんだから」
「……じゃあ、お前もやれよ」
青子の手が、硝子戸の取っ手の上で、止まった。
「……え?」
「おれの顔、一分。……先生なら、手本見せろ」
「な、なんで私が」
「お前、昼間、四十秒で逃げただろ。晴華の前で」
「あれは、晴華ちゃんが見てたから――」
「じゃあ、今は誰も見てねえ」
忉利は、手すりから背中を離して、青子の正面に立った。
青子は、しばらく、硝子戸の取っ手を握ったまま、動かなかった。
それから、観念したように、振り返った。
「……一分だけよ」
「ああ」
青子は、忉利の顔を見た。
十秒。
青子の目が、泳いだ。
十五秒。
唇を、噛んだ。
二十秒。
「……っ」
青子は、両手で、自分の顔を覆った。
「無理!!」
「二十秒だぞ」
「無理なものは無理なの!! あんた、なんでそんな、じっと……!」
「お前が、見ろって言ったんだろ」
「私は見ろって言ったのであって、見られろとは言ってないの!!」
「同じだろ」
「全然違うわよ!!」
青子は、指の隙間から、忉利を睨んだ。
それから、ぽつりと言った。
「……なんで、あんたは、平気なのよ」
忉利は、少しだけ、黙った。
それから、手すりの方を向いた。
「……平気じゃねえよ」
月明かりの下で、耳の先が、赤かった。
「扉閉じて見んの、初めてなんだよ。……お前の顔、線なしで、ちゃんと見んの」
青子は、指の隙間から、忉利の耳を見ていた。
長いこと、見ていた。
それから、顔から、両手を離した。
「……明日は、二分よ」
「さっき聞いた」
「二人とも、よ」
「……ああ」
硝子戸が、閉まった。
忉利は、手すりにもたれたまま、月を見上げた。
目の奥の扉は、閉じたままだった。
線は、見えなかった。
それでも。
あいつの線が、そこにあることは、見なくても、わかった。
その頃。
屋敷の一階の、暗い書庫で。
有珠は、窓際の椅子に座って、冷めた紅茶を手にしていた。
窓の外の楡の木から、青い駒鳥が、そっと舞い戻ってきて、有珠の肩にとまった。
「……マイ天使」
「なに」
「今、露台で、姉御とシャバ憎二号が、見つめ合って、二人とも真っ赤になってたッス」
「知っているわ」
「おいら、胸焼けするッス」
「わたしもよ」
有珠は、冷めた紅茶を、一口飲んだ。
「……珈琲の匂いのせいだと、思いたいけれど」
それから、窓の外の月を見上げて、ほんの少しだけ、目を細めた。
「明日は、二分、ですって」
「……マイ天使、見に行くッスか」
「行かないわ」
有珠は、カップを置いた。
「……行かないけれど、露台の下の庭の、薔薇の芽の様子を見に行くかもしれないわね。九時頃に」
「それ、見に行くって言うッス」
「独り言よ」
二日目の夜。
露台で、二分。
忉利は、二分、もった。
最後の十秒は、右の眉が、ずっと、ぴくぴくと、震えていた。
耳の先は、真っ赤だった。
青子は、一分十秒で、両手で顔を覆った。
「……明日は、三分よ」
「まだ増やすのかよ」
「先生の宿題なんだから」
露台の下の、暗い庭で。
薔薇の苗の前に、有珠が、しゃがみ込んでいた。
九時、ちょうどだった。
三日目の夜。
青子は、露台に、砂時計を、持ってきた。
晴華から借りてきた、HIKAGEのカウンターの、紅茶の三分計。
「……わざわざ、借りてきたのかよ」
「ちゃんと計るためよ」
青子は、砂時計を、手すりの上に、置いた。
「先に、あんた。……三分」
砂時計が、ひっくり返された。
忉利は、青子の顔を、見た。
扉を、閉じたまま。
一分。
月明かりの下で、青子の頬が、もう、赤かった。
見られている方なのに。
一分半。
青子の目が、泳ぎ始めた。
二分。
唇を、噛んでいた。
二分半。
忉利の右の眉が、ぴくりと、動きかけて。
止まった。
三分。
砂が、落ちきった。
「……三分」
「…………っ、ご、合格……」
青子の声が、裏返っていた。
「じゃあ、次、お前な」
「…………」
青子は、砂時計を、ひっくり返した。
忉利の顔を、見た。
十秒。
二十秒。
三十秒。
青子の手が、砂時計を、ぱたりと、横に倒した。
「――ギブ!!」
「……は?」
「ギブアップ!! 無理!! 宿題、終わり!!」
「三十秒だぞ」
「三十秒でも無理なの!!」
青子は、両手で、顔を覆った。
指の隙間から、真っ赤な耳が、覗いていた。
「このままだと、明日四分、明後日五分って、きりがないでしょ!! 一週間後には、十分とか、見つめ合ってるのよ!? 毎晩!! 露台で!!」
「……増やしたの、お前だろ」
「だから、終わりにするの!! 先生の権限で!!」
「先生が、先に落第してどうすんだよ」
「落第じゃないわよ!! ……卒業よ!! あんたは、もう、合格!! だから、宿題は、なし!!」
「…………」
「三日坊主じゃないわよ。……三日で、卒業」
青子は、そっぽを向いた。
それから、指の隙間から、ちらりと、忉利を見て。
小さな声で、付け足した。
「……たまになら。……一分くらい。……また、やっても、いいけど」
忉利は、何も言わなかった。
手すりの上の、倒れた砂時計を、起こした。
砂が、また、さらさらと、落ち始めた。
露台の下の、暗い庭で。
薔薇の苗の前に、有珠が、しゃがみ込んでいた。
その隣に、なぜか、草十郎も、しゃがみ込んでいた。
「……久遠寺。薔薇の芽は、まだ、出ていないぞ」
「知っているわ」
「なら、なぜ、三日も、ここに」
「独り言よ」
有珠は、立ち上がって、外套の裾を、払った。
露台を、一度だけ、見上げた。
「……三日。思ったより、もったわね」
肩の上で、ロビンが、翼で顔を覆っていた。
「……マイ天使、最初から、三日で終わるって、わかってたッスか」
「わかっていたわ。……あの子、我慢比べで、あの男に勝ったこと、一度もないもの」
隈乃温泉とか、2015年の時計塔とか書くか迷ってるんですけど、毎回原作を確認しながら書くからすごい大変になりそうなんですよね。
2015年の時計塔とか、知ってる人何人いるんでしょうかね。
自分自身、小学校か中学校くらいの時に、テレビでバビロニアのアニメを見たのが型月に触れたきっかけですし。ある程度ディグってる人しか知らないと思うんですよね…
次作品 ヒロイン候補 書いたはいいですが、橙子やアルクはどう作るつもりなんでしょうか…
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