四月三日。午前五時。
久遠寺邸の台所は、戦場だった。
「――卵焼き、あと三本!」
「わかってる」
「唐揚げ、揚がった分からこっちに!」
「わかってるって」
「おにぎり、あと二十個!」
「お前が握れよ」
「握ってるわよ!」
調理台の上に、黒漆の重箱が、五段、ずらりと並んでいた。
正月に、忉利の父が使っていたものだ。「花見に使え」と、ホワイトデーの後に、わざわざ屋敷まで届けに来た。
その日、Cafe HIKAGEは、一日、店を閉めることになっていた。表の扉には、前の晩から、父の角張った字で、「本日、臨時休業」の貼り紙が出ていた。
年に一度の、花見の日の休みだった。
コンロの前で、忉利が、四角い卵焼き器を振っていた。溶き卵を流し込んで、手早く巻いて、また流し込んで、巻く。黄金色の卵焼きが、一本、また一本と、まな板の上に積み上がっていく。
その隣の調理台で、青子が、エプロン姿で、おにぎりを握っていた。
手のひらに、塩水をつける。炊き立ての飯を、しゃもじですくって、載せる。
「――あつっ」
「水、もっとつけろ」
「わかってるわよ!」
青子は、手のひらの上の飯を、両手で包み込むように握った。
ぎゅっ。ぎゅっ。
開いた手のひらの上に、おにぎりが、一つ、できていた。
丸かった。
三角ではなかった。
「……それ、何の形だよ」
「おにぎりの形よ」
「三角じゃねえのか」
「うちは、丸なのよ!」
「前は、三角だっただろ。お前の母さんの」
「――っ、今年から丸なの!」
青子は、丸いおにぎりを、重箱の一段目に、ぐいと押し込んだ。
既に、同じような丸いおにぎりが、十個ほど並んでいた。
大きさは、ばらばらだった。
台所の入り口から、草十郎が、顔を覗かせた。
「日景。重箱は、全部で何段だ」
「五段。……風呂敷、三枚要る」
「わかった。全部、俺が持つ」
「全部はきついだろ」
「山では、薪を三束背負って、峠を越えた。これは軽い」
草十郎の肩の上に、ロビンがとまっていた。
羽毛を膨らませて、調理台の上の卵焼きの山を、じっと見つめている。
「……シャバ憎二号。卵焼きの端っこ、おいらの分ッスよね?」
「ああ。取っとく」
「絶対ッスよ! 絶対ッス!」
食堂の方から、有珠が、ゆっくりと入ってきた。
黒い外套ではなかった。
薄い灰色の、春物のコート。手に、黒いレースの日傘を一本、持っている。
「……お花見というのは、日差しが強いのかしら」
「土手だから、日陰はあんまりねえな」
「そう」
有珠は、日傘の柄を、指先で軽く握りしめた。
「なら、これを持っていくわ」
「……お前、花見、初めてか」
「イギリスには、そういう習慣はないもの」
有珠は、調理台の上の、五段の重箱を見下ろした。
「……桜の下で、これを食べるの」
「そうだ」
「何のために」
「……桜が咲いたから、だろ」
「それだけ?」
「それだけだ」
有珠は、少しだけ、首を傾げた。
それから、調理台の端に置かれた、最後の一本の卵焼きを、じっと見つめた。
「……わたしの分は、甘い方にして」
「わかってる。一本だけ、砂糖多めにしてある」
有珠は、何も言わなかった。
ただ、ほんのわずかに、頷いた。
午前十時。
三咲の町を流れる川の、東側の土手。
春の陽射しの下で、桜並木が、見渡すかぎり、満開の薄紅色に染まっていた。
土手の斜面には、もう、あちこちに、ござが広げられていた。家族連れ。職場の仲間。学生のグループ。一升瓶を抱えた、赤ら顔のおじさんたち。
風が吹くたびに、花びらが、はらはらと舞い落ちる。
「――お兄ちゃーん! 青子ちゃーん! こっちこっち!」
土手のいちばん大きな桜の木の下で、晴華が、両手をぶんぶんと振っていた。
大きな青いビニールシートが、二枚、つなげて広げられている。その真ん中に、魔法瓶が三本と、紙コップの束。
シートの端に、忉利の父が、腕を組んで座っていた。
いつもの、無口な横顔。けれど、今日は、エプロンではなく、少しだけ上等な、紺色のジャンパーを着ていた。
「……朝から、場所取りしてたのか」
「お父さんが、五時半に起きて、一人で来てたんだよ! わたしは、七時に来た!」
「……五時半」
忉利は、父の顔を見た。
父は、目を逸らした。
「……常連が、言ってた。この木の下が、一番いいってな」
青子が、両手に抱えていた風呂敷包みを、シートの上に下ろした。
「おはようございます、おじさん。……場所、ありがとうございます」
「ああ」
父は、青子の顔を見て、それから、重箱の包みを見た。
「……丸か」
「――っ、な、なんで、見ただけでわかるんですか!?」
「風呂敷の、膨らみ方が違う」
青子は、真っ赤になって、口をぱくぱくさせた。
晴華が、お腹を抱えて笑った。
それから、草十郎が、残りの風呂敷包みを二つ、両腕に抱えて、土手を上ってきた。その肩の上で、ロビンが、そわそわと重箱の方を覗き込んでいる。
最後に、有珠が、黒いレースの日傘を差して、ゆっくりと土手を上ってきた。
桜の花びらが、日傘の上に、はらはらと降り積もっていく。
土手の周りの花見客たちが、何人も、振り返った。
「……有珠さん、すっごい、きれい」
晴華が、ぽかんと口を開けていた。
「映画のワンシーンみたい……」
「…………」
有珠は、何も言わずに、シートの端の、いちばん陽の当たらない場所に、日傘を差したまま、そっと腰を下ろした。
十時半を過ぎた頃、土手の下の道から、どやどやと、賑やかな一団が上ってきた。
「――おう! 日景の旦那! 場所、ここか!」
野太い声だった。
先頭を歩いてくるのは、熊のような大男だった。
太い腕に、巨大な寸胴鍋を一つ、軽々と抱えている。その後ろに、揃いのジャージを着た、大柄な青年が四人。それぞれ、両手に、一升瓶や、大皿や、クーラーボックスを提げている。
そして、その一団の、いちばん後ろに。
紺色のカーディガンを羽織って、両手で顔を覆っている、小柄な少女がいた。
「……なんで、家族全員で来るのよ……」
金鹿だった。
「晴華ちゃんに誘われたのは、わたしだけなのに……」
「水くせえこと言うな、金鹿! 日景の旦那のとこの花見だぞ! 手ぶらで来られるか!」
熊のような大男――まっどべあの店主は、寸胴鍋を、ビニールシートの真ん中に、どすんと下ろした。
蓋を開ける。
湯気と一緒に、焼売と、餃子と、春巻が、山のように詰まっているのが見えた。
「朝から、仕込んできたぜ! 食え食え!」
「……ありがとうございます」
忉利の父が、座ったまま、小さく頭を下げた。
「久万梨さん。……わざわざ、すみません」
「何言ってんだ、旦那! うちの静希が世話になってんだろ!」
「うちのじゃありません」
金鹿が、兄たちの陰から、低い声で言った。
「静希くんは、バイトです。うちの子じゃないです」
「似たようなもんだ! あいつ、皿洗わせりゃ一番早え、出前行かせりゃ一番正確、力仕事させりゃ一番強え! うちの倅どもより、よっぽど使える!」
「親父ぃ!」
「俺らの立場は!?」
四人の兄たちが、一斉に抗議の声を上げた。
草十郎は、重箱の包みをほどきながら、律儀に頭を下げた。
「おはようございます、親父さん」
「おう、静希! 今日は、しっかり食え!」
「ああ」
それから、土手の下の道から、もう二人。
「――殿下ぁ! ほら、あそこ! もう始まってますって!」
「……うるせえ。見りゃわかる」
芳助と、鳶丸だった。
芳助は、両手に、駄菓子屋の紙袋を提げている。鳶丸は、黒いジャンパーのポケットに手を突っ込んで、面倒くさそうに、けれどちゃんと、土手を上ってきた。
鳶丸の姿を見た瞬間、まっどべあの店主の目が、ぎらりと光った。
「……お前が、理事長の倅か」
低い、地の底から響くような声だった。
鳶丸は、足を止めた。
店主と、正面から、目が合う。
「……槻司鳶丸っす。どうも」
「うちの金鹿が、生徒会で、世話になってるそうだな」
「……こっちが、世話になってる方っすよ。帳簿、全部、あいつに任せっきりなんで」
店主は、しばらく、鳶丸の顔を、上から下まで、じろじろと眺めていた。
鳶丸は、目を逸らさなかった。
金鹿が、兄たちの陰で、青ざめていた。
「……ふん」
店主は、鼻を鳴らした。
「座れ。焼売、食え」
「……いただきます」
鳶丸は、シートの端に、胡座をかいた。
金鹿は、両手で顔を覆ったまま、その場にしゃがみ込んだ。
「……もう、帰りたい……」
青子が、その背中を、ぽんぽんと叩いてやった。
昼を過ぎると、花見は、すっかり宴会になっていた。
重箱の蓋が、次々と開けられる。
一段目。青子の、大きさのばらばらな丸いおにぎり。二段目。忉利の卵焼きと、唐揚げと、きんぴら。三段目。父の店の、まかないのナポリタン。四段目。春の菜の花のおひたしと、筍の煮物。五段目。いちご。
そこに、まっどべあの焼売と餃子と春巻が加わって、ビニールシートの上は、食べ物の山になっていた。
「――おい、静希!」
まっどべあの四人兄弟の長男が、腕まくりをして、草十郎の前にどかりと座った。
「親父が、お前のことを、俺らより使えるって言うんでな。……一回、勝負しろ」
「勝負」
「腕相撲だ」
長男は、シートの上に、右肘をついた。
太い腕だった。
草十郎は、少しだけ首を傾げた。
「……俺は、左腕を、まだ少し痛めている」
「右でいい」
「そうか」
草十郎は、長男の向かいに座って、右肘をついた。
手を、組む。
「――よーい、どん!」
晴華の掛け声と同時に、長男の腕に、ぐっと力がこもった。
草十郎の腕は、動かなかった。
一ミリも。
「…………え?」
長男の顔が、見る見るうちに、真っ赤になっていく。
全身の力を、右腕一本に込めている。額に、血管が浮いている。
草十郎の腕は、動かなかった。
表情も、変わらなかった。
それから、ほんの少しだけ、草十郎の手首が、傾いた。
長男の手の甲が、シートの上に、ぱたん、と倒れた。
「――――っ!?」
「次兄! 次、行け!」
「お、おう!」
次男が、長男を押しのけて、草十郎の向かいに座った。
ぱたん。
「三男!」
ぱたん。
「四男!!」
ぱたん。
四人の兄たちが、次々と、シートの上に倒れ伏していった。
土手の周りの花見客たちが、いつの間にか、人垣を作って見物していた。
草十郎は、最後の一人の手を離して、首を傾げた。
「……もう、終わりか」
まっどべあの店主が、一升瓶を片手に、腹を抱えて笑っていた。
「ガハハハハ! 見たか、倅ども! 静希の方が、よっぽど使えるだろうが!」
「親父ぃ……」
「静希! お前、高校出たら、うちに来い! 正式に雇ってやる!」
「……考えておく」
「なんなら、婿に来い! 金鹿の――」
「――親父っ!!!」
金鹿の絶叫が、土手じゅうに響き渡った。
金鹿は、真っ赤な顔で、父親の口を、両手で塞いでいた。
それから、はっと気づいて、シートの端を見た。
鳶丸が、焼売を口に運びかけたまま、固まっていた。
目が、合った。
金鹿は、父親の口から手を離して、そのまま、ビニールシートの上に、顔から突っ伏した。
「……違う……違うの……親父が、勝手に……」
「……おう」
鳶丸は、焼売を、口に放り込んだ。
咀嚼する。
飲み込む。
それから、ぼそりと言った。
「……草の字じゃ、帳簿、つけらんねえだろ」
金鹿の肩が、ぴくりと跳ねた。
店主の目が、ぎらりと、鳶丸の方に向いた。
「……ほう」
「…………」
「理事長の倅。今の、どういう意味だ」
「別に。事実を言っただけっすよ」
鳶丸は、紙コップのお茶を、ずずっとすすった。
その耳の先が、ほんの少しだけ、赤かった。
店主は、しばらく、鳶丸の顔を睨みつけていた。
それから、にやりと、口の端を持ち上げた。
「……気に入らねえ」
「どうも」
「だが、度胸はある」
店主は、一升瓶を、どん、とシートの上に置いた。
「――お前、成人したら、一回、うちに飲みに来い。潰してやる」
「……お手柔らかに」
金鹿は、シートに突っ伏したまま、ぴくりとも動かなかった。
耳の先から、首筋まで、真っ赤だった。
昼下がり。
宴会の喧騒から、少しだけ離れた、土手の上の古いベンチに、二人の男が並んで座っていた。
一人は、忉利の父。
もう一人は、まっどべあの店主。
店主の手には、一升瓶と、湯呑み。忉利の父の手には、魔法瓶から注いだ、珈琲の紙コップ。
「……旦那は、飲まねえのか」
「昼間は、飲まない」
「相変わらず、堅えな」
店主は、湯呑みの酒を、ぐいと呷った。
それから、ビニールシートの方を、目を細めて眺めた。
桜の花びらが舞う中で、子供たちが、騒いでいる。
晴華が、有珠の日傘の下に潜り込んで、魔法瓶の紅茶を注いでやっている。草十郎が、四人の兄たちに囲まれて、腕相撲の再戦を挑まれている。芳助が、紙袋から駄菓子をばら撒いて、ロビンにつつかれている。
それから、シートの端で、金鹿と鳶丸が、少しだけ距離を空けて、黙って座っている。
「……うちの金鹿はな」
店主が、ぽつりと言った。
「この町を、出たがってる」
忉利の父は、何も言わなかった。
「隠してるつもりなんだろうよ。地元の体育大に行くって、口では言ってる。兄貴どもと同じようにな。……だが、夜中に、こっそり帳簿つけてんのを、俺は知ってる。店の帳簿じゃねえ。自分の貯金の帳簿だ」
店主は、湯呑みの酒を、じっと見下ろした。
「中学の頃から、ずっとだ。バイト代、ほとんど使わねえで、全部、貯めてる。……遠くの大学の、学費のためにな」
「……気づいてないふりをしてるのか」
「当たり前だ」
店主は、ぶっきらぼうに言った。
「あいつ、母ちゃんが死んでから、あいつは、ずっと、店と、俺と、兄貴どもの面倒を見てきた。……本当は、とっくに、自分の好きなように生きていい年なんだ」
「…………」
「行きてえなら、行きゃいい。止める気はねえ。……ただ、あいつが自分から言い出すまでは、黙っといてやろうと思ってる」
店主は、湯呑みを呷った。
「親ってのは、そういうもんだろ」
忉利の父は、しばらく、黙っていた。
珈琲の紙コップを、両手で包んでいた。
それから、ビニールシートの反対側の端を、見た。
そこには、誰もいなかった。
忉利と青子の姿が、いつの間にか、シートの上から消えていた。
「……うちのも、そのうち、出ていく」
ぽつりと、言った。
店主が、横目で、忉利の父を見た。
「日景のとこの倅か」
「……ああ」
「店、継がねえのか」
「わからん。……継ぐかもしれんし、継がないかもしれん。どっちにしても、一度は、出ていく」
忉利の父は、土手の向こうの、桜並木の先を見つめていた。
「あいつは、青子ちゃんに、ついていく」
「……蒼崎の、お嬢ちゃんにか」
「あの子は、この町に収まる子じゃない。昔から、そうだった。……小さい頃から、うちのカウンターで、ずっと、どこか遠くを見てた」
忉利の父は、珈琲を一口、飲んだ。
「で、うちの馬鹿は、ずっと、その隣で、あの子の顔を見てた」
「……ガハハ」
店主が、低く笑った。
「そりゃあ、ついていくわな」
「……ああ」
「止めねえのか」
「止めて、止まる奴じゃない」
忉利の父は、紙コップを、膝の上に置いた。
「それに、あいつの目は、最近、ずいぶん遠くまで見えるようになったらしい。……この町だけじゃ、狭いだろう」
店主は、何も言わなかった。
それから、湯呑みに、また酒を注いだ。
「……親ってのは、見送るもんだ」
「……ああ」
「帰ってくる場所さえ、残しときゃいい」
「……そのつもりだ」
二人の男は、しばらく、黙って、桜を見ていた。
花びらが、一枚、忉利の父の、珈琲の紙コップの中に、ひらりと舞い落ちた。
父は、それを、指でつまみ出そうとして――やめた。
そのまま、一口、飲んだ。
同じ頃。
土手の上の、桜並木を、二人が並んで歩いていた。
宴会の喧騒から、少しずつ、遠ざかっていく。
青子は、エプロンを外して、首に、父のマフラーを巻いていた。四月にしては、少しだけ肌寒い日だった。
「……いいの? 抜けてきちゃって」
「弁当、全部出したし。もう、おれの仕事はねえよ」
「……今日の宿題は?」
「まだ言ってんのかよ、それ」
「冗談よ」
青子は、ぷいと、桜の方を向いた。
「……三日目で、私の方が、もたなくなったもの」
「だろうな」
「――っ、なによ、その言い方!」
「おじさんに、怒られない?」
「親父は、久万梨の親父さんと、ベンチで話し込んでる」
「……何の話かしら」
「さあな。どうせ、店の話だろ」
忉利は、ポケットに手を突っ込んで、桜並木を見上げていた。
薄紅色の花が、空を覆っている。風が吹くたびに、花びらが、雪のように舞い落ちる。
青子は、少しだけ、歩く速さを緩めた。
「……ねえ、忉利」
「なんだよ」
「来週から、もう、三年生ね」
「ああ」
「で、来年の春には、卒業」
「……ああ」
青子は、しばらく、黙って歩いた。
それから、足元の花びらを、靴の先で、そっと蹴った。
「……私ね」
小さな声だった。
「卒業したら、この町を、出ようと思ってるの」
忉利は、何も言わなかった。
ただ、歩く速さを、青子に合わせた。
「まだ、誰にも言ってないのよ。有珠にも。……世界を、見てみたいの。魔術師としても、……私としても」
「…………」
「この町は、好きよ。屋敷も、学校も、おじさんの店も。……でも、私、ずっと、どこか遠くに行きたかったの。小さい頃から」
青子は、桜の枝の向こうの、青い空を見上げた。
「それに、私、二十歳を過ぎたら、歳を取らなくなるでしょ。……ずっと同じ町にいたら、いつか、周りの人に、変だって思われる。晴華ちゃんが大人になって、おじさんが歳を取って、それでも私だけ、ずっと二十歳のまんまで」
「…………」
「だから、どっちにしても、いつかは、出ていかなきゃいけないのよ」
青子の声は、明るかった。
明るすぎて、忉利は、横を見た。
青子は、前を向いたまま、笑っていた。
少しだけ、寂しそうに。
「……で」
忉利は、ぽつりと言った。
「おれは」
青子の足が、止まった。
「……あんたは」
青子は、振り返らなかった。
「あんたは、おじさんの店が、あるでしょ。……継ぐんでしょ、いつか」
「さあな」
「さあなって」
「親父の味に届くまで、あと十年か二十年かかる。……どうせ、歳取らねえんだ。急ぐ必要はねえだろ」
忉利は、ポケットから、手を出した。
舞い落ちてきた花びらを、一枚、指先でつまむ。
「それに、おれ、珈琲豆の産地、一回も見たことねえんだよ」
「…………」
「イエメンとか、エチオピアとか、ブラジルとか。親父のブレンドに入ってる豆が、どんな山で、どんな奴らが育ててんのか。……一回、見てみてえと思ってた」
忉利は、指先の花びらを、ふっと吹いて、風に乗せた。
「そういうのは、この町にいても、わかんねえからな」
青子は、ゆっくりと、振り返った。
忉利を、見上げる。
「……それって」
「別に」
忉利は、また、ポケットに手を突っ込んだ。
桜並木の先を、見ている。
「共犯者は、最後まで付き合うんだろ。……お前が、そう言ったんだぞ」
青子は、何も言えなかった。
ただ、父のマフラーの端を、ぎゅっと握りしめていた。
「行き先、決まったら、教えろ。……豆、持ってく」
「…………」
「ネルも」
「……ネルも?」
「どこ行っても、うまいもん淹れろって、親父に言われてんだよ」
青子は、しばらく、忉利の横顔を見つめていた。
それから、小さく、笑った。
泣き笑いのような顔で。
「……まだ、一年も先の話よ」
「知ってる」
「行き先も、全然、決めてないのよ」
「上等だろ」
「……ばかじゃないの」
「知ってる」
青子は、忉利の隣に、並んだ。
肩が、触れるか触れないかの距離。
それから、ほんの少しだけ、その距離を、縮めた。
肩が、触れた。
「――お兄ちゃーん!! 青子ちゃーん!!」
土手の向こうから、晴華の声が聞こえた。
「写真撮るよー!! お父さんのカメラで、みんなでー!! 早く戻ってきてー!!」
青子は、ぱっと、忉利から離れた。
真っ赤な顔で、髪を手で直す。
「……い、行くわよ」
「おう」
二人は、また、並んで歩き出した。
今度は、宴会の方へ。
青子は、前を向いたまま、ぽつりと言った。
「……今の話、まだ、誰にも言わないでよ」
「言わねえよ」
「有珠にも」
「言わねえって」
「……語尾、切れてないわね」
「切れてねえよ」
「……今のは、切れてたわ」
青子は、少しだけ、笑った。
いちばん大きな桜の木の下に、全員が並んだ。
忉利の父が、古い一眼レフのカメラを、三脚の上に据えていた。何十年も前に買ったものだと、晴華が言っていた。
「――もっと寄れ。入りきらん」
父の声に、全員が、ぎゅうぎゅうと身を寄せ合う。
前列に、晴華と、有珠と、金鹿。有珠は、日傘を閉じて、少しだけ居心地悪そうに、晴華に腕を組まれている。金鹿は、まだ、少しだけ顔が赤い。
後列に、忉利と、青子と、草十郎と、鳶丸と、芳助。芳助は、鳶丸の肩に、勝手に腕を回して、振り払われている。
その後ろに、まっどべあの店主と、四人の兄たち。兄たちは、腕相撲で負けた右腕を、まだ揉んでいる。
草十郎の肩の上に、ロビンが、胸を張ってとまっていた。卵焼きの端っこを、嘴に咥えたまま。
「……おじさんは、入らないの?」
青子が、振り返って、訊いた。
「タイマーをかける」
父は、カメラのレバーを、かちりと下ろした。
それから、小走りで、列の端に回り込んだ。
忉利の隣に。
ジー、と。
カメラのタイマーが、鳴り始めた。
忉利は、目の奥の扉を、少しだけ開いた。
線が、見えた。
桜の花びらの一枚一枚を縫い合わせる、細い線。土手の草の、一本一本の線。
それから、並んでいる全員の胸から伸びる、時間の線。
晴華の線。父の線。有珠の線。草十郎の線。金鹿の線。鳶丸の線。芳助の線。まっどべあの店主と、四人の兄たちの線。
みんな、前へ、前へと流れていく。
明日へ。来年へ。十年後へ。
その中で、二本だけ。
ほんの少し先で、結び目を作って、止まっている線。
自分の線と、隣の、青子の線。
この写真の中で、歳を取らないのは、二人だけだった。
十年後に、この写真を見返した時。晴華は大人になって、父は白髪が増えて、金鹿も鳶丸も芳助も、みんな、少しずつ、違う顔になっているだろう。
自分と青子だけが、この写真と、同じ顔のまま。
だから、いつかは、この町を出ていくのだ。
この写真の中の人たちに、変だと思われないうちに。
帰ってくる場所を、ちゃんと残したまま。
隣で、父が、腕を組んで、カメラの方を見ていた。
いつもの、無口な横顔。
「……忉利」
「なんだよ」
父は、カメラの方を見たまま、ぽつりと言った。
「……帰ってくる時は、どこかの豆を、土産に持ってこい」
忉利は、目を見開いた。
土手の上で、青子に話したことを、この人は、聞いていない。聞いていないはずだった。
父の横顔を、見る。
父は、何も言わなかった。
ただ、カメラの方を、見ていた。
ジー、という音が、少しずつ、速くなっていく。
忉利は、扉を閉じた。
「……ああ」
小さく、答えた。
反対側の隣で、青子が、ほんの少しだけ、忉利の袖を掴んでいた。
カシャッ。
シャッターの音が、春の土手に響いた。
風が吹いて、桜の花びらが、全員の上に、一斉に降り注いだ。
夕方。
ござを畳み、重箱を風呂敷に包み直して、土手の上で、みんなが、ばらばらと帰り支度をしていた。
まっどべあの一家が、一升瓶を空にして、ガハハと笑いながら、先に帰っていった。金鹿が、何度も、振り返りながら。
鳶丸が、芳助の襟首を掴んで、土手を下りていった。
草十郎が、五段の重箱を、軽々と背負った。有珠が、日傘を差して、その隣を歩き出した。
父は、三脚を畳んで、カメラを、肩に掛けていた。
それから、忉利と青子の方を、振り返った。
「……片付けが済んだら、二人で、店に寄れ」
忉利は、瞬きをした。
「……店? 今日、休みだろ」
「休みだから、いいんだ。……九時だ」
「わたしは?」
晴華が、ビニールシートを抱えたまま、身を乗り出した。
「お前は、二階にいろ」
「えー! なんで!? わたしだけ、仲間はずれ!?」
「……大人の話だ」
「お兄ちゃんだって、まだ高校生じゃん! わたし、来週から中三だよ!?」
父は、何も答えなかった。
カメラを肩に掛けたまま、土手を、下りていった。
晴華が、頬を膨らませて、兄の顔を、見上げた。
「……ねえ。なんの話?」
「知らねえよ」
「青子ちゃんも、呼ばれてるんだよ? ……お兄ちゃんと、二人で」
晴華は、兄と、青子の顔を、交互に、じっと見た。
それから、ほんの少しだけ、唇を尖らせた。
「……後で、教えてくれるなら、いいけど」
青子が、忉利の袖を、そっと引いた。
何も、言わなかった。
ただ、その目が、訊いていた。
――なんだと、思う?
忉利は、首を振った。
わからなかった。
ただ、父の背中が、いつもより、少しだけ、丸く見えた。
夜の九時。
Cafe HIKAGEの、ドアベルが、からん、と鳴った。
店は、一日、閉まったままだった。表の扉には、「本日、臨時休業」の貼り紙が、まだ、貼られていた。
客のいない店の中は、朝から一度も湯を沸かしていないせいか、いつもより、少しだけ、冷えていた。
カウンターの上の、ランプだけが、灯っていた。
父が、カウンターの内側に、立っていた。
ネルを、手に持って。
「……来たか」
「来たよ」
「おじさん、こんばんは」
「ああ」
父は、顎で、カウンターの端を、示した。
右から、二番目と、三番目。
小学生の頃から、二人の、指定席だった。
忉利と青子は、並んで、座った。
父が、湯を、沸かし始めた。
豆を、挽く。
ごり、ごり、と。
先月、ホワイトデーの朝に、忉利が初めて焙煎室で焼いた豆の、残りだった。モカが七、ブラジルが三。父が「十秒」とだけ言って、青子が名前をつけた豆。
――夜明け前ブレンド。
レジの下の引き出しに、値段の欄が空白のままの札が、一枚、しまってある。
湯を、細く、注ぐ。
粉が、膨らむ。
泡が、浮いて、沈む。
父のネルを振る手が、ほんの少しだけ、震えていた。
忉利は、それを、見ていた。
十六年、毎朝、見てきた手だった。
一度も、震えたことのない手だった。
二つのカップが、二人の前に、置かれた。
父は、カウンターの内側の、古い丸椅子に、腰を下ろした。
しばらく、何も、言わなかった。
ランプの炎が、揺れていた。
二階から、晴華の部屋のラジオの音が、かすかに、漏れてきていた。
カウンターの奥の、古い柱には、まだ、何も留められていなかった。
今日の写真は、まだ、カメラの中だった。
父は、ランプの炎を、見ていた。
それから、ゆっくりと、忉利の方を、見た。
灰色の虹彩の、いちばん外の縁の、細い、夜明け前の青の輪を。
「……お前の目は」
父が、言った。
「母さんの目だ」
こっから三話くらいちょいまじめな感じになります。
でもちゃんと青子は一緒にいます。ダイジョブです。
アンケート、50集まったら止めるとか言っといて、ちょっと目を離してたらいつの間にか60超えてて慌てて止めました。こんなすぐに集まると思ってませんでした。
というわけで、次作のヒロインは僅差でしたが、シエルにしようと思います。
暇な時間に少しづつ書いて、来週くらいには投稿出来たらいいなあと思います。
ちょっと誘導尋問じみた気もしますが。
でもアルクは書くと思います。思いつき次第。だれか気軽に案くださいホントに、ガチむずいです。
改めてみると月姫の人気すごいですね。ここまで顕著だと思いませんでした。
まほよの二次小説なので、有珠か橙子か、世間的な認知度的に凛とかかなあと持ってました勝手に。
こっちのシリーズについてはまだまだストックがあるので、適宜上げていきます。ご安心を。
あと関係ないですが、昔書いた原神のクロリンデの小説を発掘したので今度上げようと思います。
ちゃんと確認してないので設定と矛盾していたりすると思うのでガンガン突っ込んでください。
周年てことでで2,3年ぶりにやりましたが、おもろいっすね。ガチャ限だと八重とクロリンデだけ完凸してます。
留学生時代にシコシコ書いてたものがたくさんあるので、発掘次第いろいろ上げるかもです。
次作品 ヒロイン候補 書いたはいいですが、橙子やアルクはどう作るつもりなんでしょうか…
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シエル (月姫R アルクェイドルート)
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アルクェイド(月姫R シエルルート?)
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蒼崎橙子 (空の境界)
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遠坂凛 (Heaven’s Feel)
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ライダー (Heaven’s Feel)
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ジャンヌ・ダルク (Apocrypha)
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ジャンヌ・ダルク (史実+FGO)
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久遠寺有珠 (魔法使いの夜)