夜明けの色を見る眼   作:にんら

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あとがきにて、ご報告があります。読んでいただけると幸いです。


土手の桜

 四月三日。午前五時。

 

 久遠寺邸の台所は、戦場だった。

 

「――卵焼き、あと三本!」

 

「わかってる」

 

「唐揚げ、揚がった分からこっちに!」

 

「わかってるって」

 

「おにぎり、あと二十個!」

 

「お前が握れよ」

 

「握ってるわよ!」

 

 調理台の上に、黒漆の重箱が五段、ずらりと並んでいた。

 

 正月に忉利の父が使っていたものだ。「花見に使え」と、ホワイトデーの後にわざわざ屋敷まで届けに来た。

 

 その日、Cafe HIKAGEは一日店を閉めることになっていた。表の扉には前の晩から、父の角張った字で「本日、臨時休業」の貼り紙が出ていた。

 

 年に一度の花見の日の休みだった。

 

 コンロの前で忉利が四角い卵焼き器を振っていた。溶き卵を流し込んで、手早く巻いて、また流し込んで巻く。黄金色の卵焼きが、一本、また一本とまな板の上に積み上がっていく。

 

 その隣の調理台で、青子がエプロン姿でおにぎりを握っていた。

 

 手のひらに塩水をつける。炊き立ての飯をしゃもじですくって、載せる。

 

「――あつっ」

 

「水、もっとつけろ」

 

「わかってるわよ!」

 

 青子は手のひらの上の飯を、両手で包み込むように握った。

 

 ぎゅっ。ぎゅっ。

 

 開いた手のひらの上に、おにぎりが一つ、できていた。

 

 丸かった。

 

 三角ではなかった。

 

「……それ、何の形だよ」

 

「おにぎりの形よ」

 

「三角じゃねえのか」

 

「うちは、丸なのよ!」

 

「前は三角だっただろ。お前の母さんの」

 

「――っ、今年から丸なの!」

 

 青子は丸いおにぎりを、重箱の一段目にぐいと押し込んだ。

 

 既に同じような丸いおにぎりが、十個ほど並んでいた。

 

 大きさは、ばらばらだった。

 

 台所の入り口から草十郎が顔を覗かせた。

 

「日景、重箱は全部で何段なんだ」

 

「五段。……風呂敷、三枚要る」

 

「わかった。全部俺が持つよ」

 

「全部はきついだろ」

 

「山では薪を三束背負って峠を越えてたんだ。これくらいなら軽いよ」

 

 草十郎の肩の上にロビンがとまっていた。

 

 羽毛を膨らませて、調理台の上の卵焼きの山をじっと見つめている。

 

「……シャバ憎二号。卵焼きの端っこ、おいらの分ッスよね?」

 

「ああ。取っとく」

 

「絶対ッスよ! 絶対ッス!」

 

 食堂の方から有珠がゆっくりと入ってきた。

 

 黒い外套ではなかった。

 

 薄い灰色の春物のコート。手に黒いレースの日傘を一本持っている。

 

「……お花見というのは、日差しが強いのかしら」

 

「土手だから、日陰はあんまりねえな」

 

「そう」

 

 有珠は日傘の柄を指先で軽く握りしめた。

 

「なら、これを持っていくわ」

 

「……お前、花見、初めてか」

 

「イギリスには、そういう習慣はないもの」

 

 有珠は調理台の上の、五段の重箱を見下ろした。

 

「……桜の下で、これを食べるの」

 

「そうだ」

 

「何のために」

 

「……桜が咲いたから、だろ」

 

「それだけ?」

 

「それだけだ」

 

 有珠は少しだけ首を傾げた。

 

 それから、調理台の端に置かれた最後の一本の卵焼きを、じっと見つめた。

 

「……わたしの分は、甘い方にして」

 

「わかってる。一本だけ砂糖多めにしてある」

 

 有珠は何も言わなかった。

 

 ただ、ほんのわずかに頷いた。

 

 

◇

 

 

 午前十時。

 

 三咲の町を流れる川の東側の土手。

 

 春の陽射しの下で、桜並木が、見渡すかぎり満開の薄紅色に染まっていた。

 

 土手の斜面にはもうあちこちに、ござが広げられていた。家族連れ。職場の仲間。学生のグループ。一升瓶を抱えた赤ら顔のおじさんたち。

 

 風が吹くたびに、花びらがはらはらと舞い落ちる。

 

「――お兄ちゃーん! 青子ちゃーん! こっちこっち!」

 

 土手のいちばん大きな桜の木の下で、晴華が両手をぶんぶんと振っていた。

 

 大きな青いビニールシートが二枚、つなげて広げられている。その真ん中に魔法瓶が三本と、紙コップの束。

 

 シートの端に、忉利の父が腕を組んで座っていた。

 

 いつもの無口な横顔。けれど、今日はエプロンではなく、少しだけ上等な紺色のジャンパーを着ていた。

 

「……朝から場所取りしてたのか」

 

「お父さんが五時半に起きて、一人で来てたんだよ! わたしは七時に来た!」

 

「……五時半」

 

 忉利は父の顔を見た。

 

 父は目を逸らした。

 

「……常連が、言ってた。この木の下が、一番いいってな」

 

 青子が両手に抱えていた風呂敷包みを、シートの上に下ろした。

 

「おはようございます、おじさん。……場所、ありがとうございます」

 

「ああ」

 

 父は青子の顔を見て、それから重箱の包みを見た。

 

「……丸か」

 

「――っ、な、なんで見ただけでわかるんですか!?」

 

「風呂敷の膨らみ方が違う」

 

 青子は真っ赤になって、口をぱくぱくさせた。

 

 晴華がお腹を抱えて笑った。

 

 それから、草十郎が残りの風呂敷包みを二つ両腕に抱えて、土手を上ってきた。その肩の上で、ロビンがそわそわと重箱の方を覗き込んでいる。

 

 最後に有珠が、黒いレースの日傘を差してゆっくりと土手を上ってきた。

 

 桜の花びらが日傘の上に、はらはらと降り積もっていく。

 

 土手の周りの花見客たちが、何人も振り返った。

 

「……有珠さん、すっごいきれい」

 

 晴華がぽかんと口を開けていた。

 

「映画のワンシーンみたい……」

 

「…………」

 

 有珠は何も言わずに、シートの端のいちばん陽の当たらない場所に、日傘を差したまま、そっと腰を下ろした。

 

 

◇

 

 

 十時半を過ぎた頃、土手の下の道から、どやどやと賑やかな一団が上ってきた。

 

「――おう! 日景の旦那! 場所、ここか!」

 

 野太い声だった。

 

 先頭を歩いてくるのは、熊のような大男だった。

 

 太い腕に巨大な寸胴鍋を一つ、軽々と抱えている。その後ろに、揃いのジャージを着た大柄な青年が四人。それぞれ両手に、一升瓶や大皿やクーラーボックスを提げている。

 

 そして、その一団のいちばん後ろに。

 

 紺色のカーディガンを羽織って、両手で顔を覆っている小柄な少女がいた。

 

「……なんで家族全員で来るのよ……」

 

 金鹿だった。

 

「晴華ちゃんに誘われたのは、わたしだけなのに……」

 

「水くせえこと言うな、金鹿! 日景の旦那のとこの花見だぞ! 手ぶらで来られるか!」

 

 熊のような大男――まっどべあの店主は、寸胴鍋をビニールシートの真ん中に、どすんと下ろした。

 

 蓋を開ける。

 

 湯気と一緒に、焼売と餃子と春巻が山のように詰まっているのが見えた。

 

「朝から仕込んできたぜ! 食え食え!」

 

「……ありがとうございます」

 

 忉利の父が座ったまま、小さく頭を下げた。

 

「久万梨さん。……わざわざ、すみません」

 

「何言ってんだ、旦那! うちの静希が世話になってんだろ!」

 

「うちのじゃありません」

 

 金鹿が兄たちの陰から、低い声で言った。

 

「静希くんはバイトです。うちの子じゃないです」

 

「似たようなもんだ! あいつ、皿洗わせりゃ一番早え、出前行かせりゃ一番正確、力仕事させりゃ一番強え! うちの倅どもよりよっぽど使える!」

 

「親父ぃ!」

 

「俺らの立場は!?」

 

 四人の兄たちが一斉に抗議の声を上げた。

 

 草十郎は重箱の包みをほどきながら、律儀に頭を下げた。

 

「おはようございます、親父さん」

 

「おう、静希! 今日はしっかり食え!」

 

「ああ」

 

 

◇

 

 

 それから、土手の下の道からもう二人。

 

「――殿下ぁ! ほら、あそこ! もう始まってますって!」

 

「……うるせえ。見りゃわかる」

 

 芳助と鳶丸だった。

 

 芳助は両手に駄菓子屋の紙袋を提げている。鳶丸は黒いジャンパーのポケットに手を突っ込んで、面倒くさそうに、けれどちゃんと土手を上ってきた。

 

 鳶丸の姿を見た瞬間、まっどべあの店主の目がぎらりと光った。

 

「……お前が、理事長の倅か」

 

 低い、地の底から響くような声だった。

 

 鳶丸は足を止めた。

 

 店主と正面から目が合う。

 

「……槻司鳶丸っす。どうも」

 

「うちの金鹿が、生徒会で世話になってるそうだな」

 

「……こっちが世話になってる方っすよ。帳簿、全部あいつに任せっきりなんで」

 

 店主はしばらく、鳶丸の顔を上から下まで、じろじろと眺めていた。

 

 鳶丸は目を逸らさなかった。

 

 金鹿が兄たちの陰で青ざめていた。

 

「……ふん」

 

 店主は鼻を鳴らした。

 

「座れ。焼売、食え」

 

「……いただきます」

 

 鳶丸はシートの端に胡座をかいた。

 

 金鹿は両手で顔を覆ったまま、その場にしゃがみ込んだ。

 

「……もう、帰りたい……」

 

 青子がその背中を、ぽんぽんと叩いてやった。

 

 

◇

 

 

 昼を過ぎると、花見はすっかり宴会になっていた。

 

 重箱の蓋が次々と開けられる。

 

 一段目。青子の、大きさのばらばらな丸いおにぎり。二段目。忉利の卵焼きと、唐揚げと、きんぴら。三段目。父の店のまかないのナポリタン。四段目。春の菜の花のおひたしと、筍の煮物。五段目。いちご。

 

 そこに、まっどべあの焼売と餃子と春巻が加わって、ビニールシートの上は食べ物の山になっていた。

 

「――おい、静希!」

 

 まっどべあの四人兄弟の長男が腕まくりをして、草十郎の前にどかりと座った。

 

「親父がお前のことを、俺らより使えるって言うんでな。……一回、勝負しろ」

 

「勝負」

 

「腕相撲だ」

 

 長男はシートの上に右肘をついた。

 

 太い腕だった。

 

 草十郎は少しだけ首を傾げた。

 

「……俺は左腕をまだ少し痛めてるんだ」

 

「右でいい」

 

「そうか」

 

 草十郎は長男の向かいに座って、右肘をついた。

 

 手を、組む。

 

「――よーい、どん!」

 

 晴華の掛け声と同時に、長男の腕にぐっと力がこもった。

 

 草十郎の腕は動かなかった。

 

 一ミリも。

 

「…………え?」

 

 長男の顔が見る見るうちに、真っ赤になっていく。

 

 全身の力を右腕一本に込めている。額に血管が浮いている。

 

 草十郎の腕は動かなかった。

 

 表情も変わらなかった。

 

 それから、ほんの少しだけ、草十郎の手首が傾いた。

 

 長男の手の甲がシートの上に、ぱたん、と倒れた。

 

「――――っ!?」

 

「次兄! 次、行け!」

 

「お、おう!」

 

 次男が長男を押しのけて、草十郎の向かいに座った。

 

 ぱたん。

 

「三男!」

 

 ぱたん。

 

「四男!!」

 

 ぱたん。

 

 四人の兄たちが次々と、シートの上に倒れ伏していった。

 

 土手の周りの花見客たちが、いつの間にか人垣を作って見物していた。

 

 草十郎は最後の一人の手を離して、首を傾げた。

 

「……もう終わりか」

 

 まっどべあの店主が、一升瓶を片手に腹を抱えて笑っていた。

 

「ガハハハハ! 見たか、倅ども! 静希の方がよっぽど使えるだろうが!」

 

「親父ぃ……」

 

「静希! お前、高校出たらうちに来い! 正式に雇ってやる!」

 

「……考えておくよ」

 

「なんなら婿に来い! 金鹿の――」

 

「――親父っ!!!」

 

 金鹿の絶叫が土手じゅうに響き渡った。

 

 金鹿は真っ赤な顔で、父親の口を両手で塞いでいた。

 

 それから、はっと気づいてシートの端を見た。

 

 鳶丸が焼売を口に運びかけたまま、固まっていた。

 

 目が、合った。

 

 金鹿は父親の口から手を離して、そのままビニールシートの上に顔から突っ伏した。

 

「……違う……違うの……親父が、勝手に……」

 

「……おう」

 

 鳶丸は焼売を口に放り込んだ。

 

 咀嚼する。

 

 飲み込む。

 

 それから、ぼそりと言った。

 

「……草の字じゃ、帳簿、つけらんねえだろ」

 

 金鹿の肩がぴくりと跳ねた。

 

 店主の目が、ぎらりと鳶丸の方に向いた。

 

「……ほう」

 

「…………」

 

「理事長の倅。今の、どういう意味だ」

 

「別に。事実を言っただけっすよ」

 

 鳶丸は紙コップのお茶を、ずずっとすすった。

 

 その耳の先が、ほんの少しだけ赤かった。

 

 店主はしばらく、鳶丸の顔を睨みつけていた。

 

 それから、にやりと口の端を持ち上げた。

 

「……気に入らねえ」

 

「どうも」

 

「だが、度胸はある」

 

 店主は一升瓶を、どん、とシートの上に置いた。

 

「――お前、成人したら一回うちに飲みに来い。潰してやる」

 

「……お手柔らかに」

 

 金鹿はシートに突っ伏したまま、ぴくりとも動かなかった。

 

 耳の先から首筋まで真っ赤だった。

 

 

◇

 

 

 昼下がり。

 

 宴会の喧騒から少しだけ離れた土手の上の古いベンチに、二人の男が並んで座っていた。

 

 一人は、忉利の父。

 

 もう一人は、まっどべあの店主。

 

 店主の手には一升瓶と湯呑み。忉利の父の手には、魔法瓶から注いだ珈琲の紙コップ。

 

「……旦那は、飲まねえのか」

 

「昼間は飲まない」

 

「相変わらず、堅えな」

 

 店主は湯呑みの酒をぐいと呷った。

 

 それから、ビニールシートの方を目を細めて眺めた。

 

 桜の花びらが舞う中で、子供たちが騒いでいる。

 

 晴華が有珠の日傘の下に潜り込んで、魔法瓶の紅茶を注いでやっている。草十郎が四人の兄たちに囲まれて、腕相撲の再戦を挑まれている。芳助が紙袋から駄菓子をばら撒いて、ロビンにつつかれている。

 

 それから、シートの端で金鹿と鳶丸が、少しだけ距離を空けて黙って座っている。

 

「……うちの金鹿はな」

 

 店主がぽつりと言った。

 

「この町を、出たがってる」

 

 忉利の父は何も言わなかった。

 

「隠してるつもりなんだろうよ。地元の体育大に行くって、口では言ってる。兄貴どもと同じようにな。……だが、夜中にこっそり帳簿つけてんのを、俺は知ってる。店の帳簿じゃねえ。自分の貯金の帳簿だ」

 

 店主は湯呑みの酒をじっと見下ろした。

 

「中学の頃から、ずっとだ。バイト代、ほとんど使わねえで全部貯めてる。……遠くの大学の学費のためにな」

 

「……気づいてないふりを、してるんですか」

 

「当たり前だ」

 

 店主はぶっきらぼうに言った。

 

「あいつの母ちゃんが死んでから、あいつはずっと、店と、俺と、兄貴どもの面倒を見てきた。……本当は、とっくに自分の好きなように生きていい年なんだ」

 

「…………」

 

「行きてえなら行きゃいい。止める気はねえ。……ただ、あいつが自分から言い出すまでは、黙っといてやろうと思ってる」

 

 店主は湯呑みを呷った。

 

「親ってのは、そういうもんだろ」

 

 忉利の父は、しばらく黙っていた。

 

 珈琲の紙コップを両手で包んでいた。

 

 それから、ビニールシートの反対側の端を見た。

 

 そこには誰もいなかった。

 

 忉利と青子の姿が、いつの間にかシートの上から消えていた。

 

「……うちのも、そのうち、出ていく」

 

 ぽつりと、言った。

 

 店主が横目で、忉利の父を見た。

 

「日景のとこの倅か」

 

「……ああ」

 

「店、継がねえのか」

 

「わからん。……継ぐかもしれんし、継がないかもしれん。どっちにしても、一度は出ていく」

 

 忉利の父は、土手の向こうの桜並木の先を見つめていた。

 

「あいつは、青子ちゃんに、ついていく」

 

「……蒼崎のお嬢ちゃんにか」

 

「あの子は、この町に収まる子じゃない。昔から、そうだった。……小さい頃から、うちのカウンターでずっと、どこか遠くを見てた」

 

 忉利の父は珈琲を一口、飲んだ。

 

「で、うちの馬鹿は、ずっと、その隣であの子の顔を見てた」

 

「……ガハハ」

 

 店主が低く笑った。

 

「そりゃあ、ついていくわな」

 

「……ああ」

 

「止めねえのか」

 

「止めて、止まる奴じゃない」

 

 忉利の父は紙コップを膝の上に置いた。

 

「それに、あいつの目は最近、ずいぶん遠くまで見えるようになったらしい。……この町だけじゃ狭いだろう」

 

 店主は何も言わなかった。

 

 それから、湯呑みにまた酒を注いだ。

 

「……親ってのは、見送るもんだ」

 

「……ああ」

 

「帰ってくる場所さえ、残しときゃいい」

 

「……そのつもりだ」

 

 二人の男は、しばらく、黙って桜を見ていた。

 

 花びらが一枚、忉利の父の珈琲の紙コップの中に、ひらりと舞い落ちた。

 

 父はそれを指でつまみ出そうとして――やめた。

 

 そのまま一口、飲んだ。

 

 

◇

 

 

 同じ頃。

 

 土手の上の桜並木を、二人が並んで歩いていた。

 

 宴会の喧騒から、少しずつ遠ざかっていく。

 

 青子はエプロンを外して、首に父のマフラーを巻いていた。四月にしては少しだけ肌寒い日だった。

 

「……いいの? 抜けてきちゃって」

 

「弁当、全部出したし。もうおれの仕事はねえよ」

 

「……今日の宿題は?」

 

「まだ言ってんのかよ、それ」

 

「冗談よ」

 

 青子はぷいと桜の方を向いた。

 

「……三日目で、私の方がもたなくなったもの」

 

「だろうな」

 

「――っ、なによ、その言い方!」

 

「おじさんに怒られない?」

 

「親父は久万梨の親父さんと、ベンチで話し込んでる」

 

「……何の話かしら」

 

「さあな。どうせ店の話だろ」

 

 忉利はポケットに手を突っ込んで、桜並木を見上げていた。

 

 薄紅色の花が空を覆っている。風が吹くたびに、花びらが雪のように舞い落ちる。

 

 青子は少しだけ、歩く速さを緩めた。

 

「……ねえ、忉利」

 

「なんだよ」

 

「来週から、もう三年生ね」

 

「ああ」

 

「で、来年の春には、卒業」

 

「……ああ」

 

 青子はしばらく黙って歩いた。

 

 それから、足元の花びらを靴の先でそっと蹴った。

 

「……私ね」

 

 小さな声だった。

 

「卒業したら、この町を、出ようと思ってるの」

 

 忉利は何も言わなかった。

 

 ただ、歩く速さを青子に合わせた。

 

「まだ、誰にも言ってないのよ。有珠にも。……世界を、見てみたいの。魔術師としても、……私としても」

 

「…………」

 

「この町は、好きよ。屋敷も、学校も、おじさんの店も。……でも、私、ずっとどこか遠くに行きたかったの。小さい頃から」

 

 青子は桜の枝の向こうの、青い空を見上げた。

 

「それに私、二十歳を過ぎたら歳を取らなくなるでしょ。……ずっと同じ町にいたら、いつか、周りの人に変だって思われる。晴華ちゃんが大人になって、おじさんが歳を取って、それでも私だけ、ずっと二十歳のまんまで」

 

「…………」

 

「だからどっちにしても、いつかは出ていかなきゃいけないのよ」

 

 青子の声は明るかった。

 

 明るすぎて、忉利は横を見た。

 

 青子は前を向いたまま、笑っていた。

 

 少しだけ寂しそうに。

 

「……で」

 

 忉利はぽつりと言った。

 

「おれは」

 

 青子の足が、止まった。

 

「……あんたは」

 

 青子は振り返らなかった。

 

「あんたは、おじさんの店があるでしょ。……継ぐんでしょ、いつか」

 

「さあな」

 

「さあなって」

 

「親父の味に届くまで、あと十年か二十年かかる。……どうせ、歳取らねえんだ。急ぐ必要はねえだろ」

 

 忉利はポケットから手を出した。

 

 舞い落ちてきた花びらを一枚、指先でつまむ。

 

「それに、おれ、珈琲豆の産地、一回も見たことねえんだよ」

 

「…………」

 

「イエメンとか、エチオピアとか、ブラジルとか。親父のブレンドに入ってる豆が、どんな山で、どんな奴らが育ててんのか。……一回見てみてえと思ってた」

 

 忉利は指先の花びらをふっと吹いて、風に乗せた。

 

「そういうのは、この町にいてもわかんねえからな」

 

 青子はゆっくりと振り返った。

 

 忉利を見上げる。

 

「……それって」

 

「別に」

 

 忉利はまた、ポケットに手を突っ込んだ。

 

 桜並木の先を見ている。

 

「共犯者は最後まで付き合うんだろ。……お前が、そう言ったんだぞ」

 

 青子は何も言えなかった。

 

 ただ、父のマフラーの端をぎゅっと握りしめていた。

 

「行き先、決まったら教えろ。……豆、持ってく」

 

「…………」

 

「ネルも」

 

「……ネルも?」

 

「どこ行ってもうまいもん淹れろって、親父に言われてんだよ」

 

 青子はしばらく、忉利の横顔を見つめていた。

 

 それから、小さく、笑った。

 

 泣き笑いのような顔で。

 

「……まだ、一年も先の話よ」

 

「知ってる」

 

「行き先も、全然決めてないのよ」

 

「上等だろ」

 

「……ばかじゃないの」

 

「知ってる」

 

 青子は忉利の隣に並んだ。

 

 肩が触れるか触れないかの距離。

 

 それから、ほんの少しだけ、その距離を縮めた。

 

 肩が、触れた。

 

「――お兄ちゃーん!! 青子ちゃーん!!」

 

 土手の向こうから晴華の声が聞こえた。

 

「写真撮るよー!! お父さんのカメラで、みんなでー!! 早く戻ってきてー!!」

 

 青子はぱっと忉利から離れた。

 

 真っ赤な顔で髪を手で直す。

 

「……い、行くわよ」

 

「おう」

 

 二人はまた、並んで歩き出した。

 

 今度は宴会の方へ。

 

 青子は前を向いたまま、ぽつりと言った。

 

「……今の話、まだ誰にも言わないでよ」

 

「言わねえよ」

 

「有珠にも」

 

「言わねえって」

 

「……語尾、切れてないわね」

 

「切れてねえよ」

 

「……今のは、切れてたわ」

 

 青子は少しだけ笑った。

 

 

◇

 

 

 いちばん大きな桜の木の下に、全員が並んだ。

 

 忉利の父が古い一眼レフのカメラを、三脚の上に据えていた。何十年も前に買ったものだと、晴華が言っていた。

 

「――もっと寄れ。入りきらん」

 

 父の声に、全員がぎゅうぎゅうと身を寄せ合う。

 

 前列に晴華と、有珠と、金鹿。有珠は日傘を閉じて、少しだけ居心地悪そうに晴華に腕を組まれている。金鹿はまだ、少しだけ顔が赤い。

 

 後列に忉利と、青子と、草十郎と、鳶丸と、芳助。芳助は鳶丸の肩に勝手に腕を回して、振り払われている。

 

 その後ろに、まっどべあの店主と四人の兄たち。兄たちは腕相撲で負けた右腕を、まだ揉んでいる。

 

 草十郎の肩の上に、ロビンが胸を張ってとまっていた。卵焼きの端っこを嘴に咥えたまま。

 

「……おじさんは、入らないの?」

 

 青子が振り返って訊いた。

 

「タイマーをかける」

 

 父はカメラのレバーを、かちりと下ろした。

 

 それから、小走りで列の端に回り込んだ。

 

 忉利の隣に。

 

 ジー、と。

 

 カメラのタイマーが鳴り始めた。

 

 忉利は、目の奥の扉を、少しだけ開いた。

 

 線が、見えた。

 

 桜の花びらの一枚一枚を縫い合わせる、細い線。土手の草の一本一本の線。

 

 それから、並んでいる全員の胸から伸びる、時間の線。

 

 晴華の線。父の線。有珠の線。草十郎の線。金鹿の線。鳶丸の線。芳助の線。まっどべあの店主と四人の兄たちの線。

 

 みんな、前へ、前へと流れていく。

 

 明日へ。来年へ。十年後へ。

 

 その中で、二本だけ。

 

 ほんの少し先で、結び目を作って、止まっている線。

 

 自分の線と、隣の青子の線。

 

 この写真の中で、歳を取らないのは、二人だけだった。

 

 十年後にこの写真を見返した時。晴華は大人になって、父は白髪が増えて、金鹿も鳶丸も芳助も、みんな、少しずつ違う顔になっているだろう。

 

 自分と青子だけが、この写真と同じ顔のまま。

 

 だから、いつかはこの町を出ていくのだ。

 

 この写真の中の人たちに、変だと思われないうちに。

 

 帰ってくる場所を、ちゃんと残したまま。

 

 隣で、父が腕を組んで、カメラの方を見ていた。

 

 いつもの無口な横顔。

 

「……忉利」

 

「なんだよ」

 

 父はカメラの方を見たまま、ぽつりと言った。

 

「……帰ってくる時は、どこかの豆を、土産に持ってこい」

 

 忉利は目を見開いた。

 

 土手の上で青子に話したことを、この人は、聞いていない。聞いていないはずだった。

 

 父の横顔を見る。

 

 父は何も言わなかった。

 

 ただ、カメラの方を見ていた。

 

 ジー、という音が、少しずつ速くなっていく。

 

 忉利は扉を閉じた。

 

「……ああ」

 

 小さく、答えた。

 

 反対側の隣で、青子が、ほんの少しだけ忉利の袖を掴んでいた。

 

 カシャッ。

 

 シャッターの音が春の土手に響いた。

 

 風が吹いて、桜の花びらが、全員の上に一斉に降り注いだ。

 

 

◇

 

 

 夕方。

 

 ござを畳み、重箱を風呂敷に包み直して、土手の上でみんながばらばらと帰り支度をしていた。

 

 まっどべあの一家が一升瓶を空にして、ガハハと笑いながら先に帰っていった。金鹿が何度も振り返りながら。

 

 鳶丸が芳助の襟首を掴んで、土手を下りていった。

 

 草十郎が五段の重箱を軽々と背負った。有珠が日傘を差して、その隣を歩き出した。

 

 父は三脚を畳んで、カメラを肩に掛けていた。

 

 それから、忉利と青子の方を振り返った。

 

「……片付けが済んだら、二人で店に寄れ」

 

 忉利は瞬きをした。

 

「……店? 今日、休みだろ」

 

「休みだから、いいんだ。……九時だ」

 

「わたしは?」

 

 晴華がビニールシートを抱えたまま、身を乗り出した。

 

「お前は二階にいろ」

 

「えー! なんで!? わたしだけ、仲間はずれ!?」

 

「……大人の話だ」

 

「お兄ちゃんだってまだ高校生じゃん! わたし、来週から中三だよ!?」

 

 父は何も答えなかった。

 

 カメラを肩に掛けたまま、土手を下りていった。

 

 晴華が頬を膨らませて、兄の顔を見上げた。

 

「……ねえ。なんの話?」

 

「知らねえよ」

 

「青子ちゃんも呼ばれてるんだよ? ……お兄ちゃんと、二人で」

 

 晴華は兄と青子の顔を、交互にじっと見た。

 

 それから、ほんの少しだけ唇を尖らせた。

 

「……後で教えてくれるなら、いいけど」

 

 青子が忉利の袖をそっと引いた。

 

 何も言わなかった。

 

 ただ、その目が訊いていた。

 

 ――なんだと、思う?

 

 忉利は首を振った。

 

 わからなかった。

 

 ただ、父の背中が、いつもより、少しだけ丸く見えた。

 

 

◇

 

 

 夜の九時。

 

 Cafe HIKAGEのドアベルが、からん、と鳴った。

 

 店は一日閉まったままだった。表の扉には「本日、臨時休業」の貼り紙が、まだ貼られていた。

 

 客のいない店の中は、朝から一度も湯を沸かしていないせいか、いつもより、少しだけ冷えていた。

 

 カウンターの上のランプだけが灯っていた。

 

 父がカウンターの内側に立っていた。

 

 ネルを手に持って。

 

「……来たか」

 

「来たよ」

 

「おじさん、こんばんは」

 

「ああ」

 

 父は顎で、カウンターの端を示した。

 

 右から二番目と、三番目。

 

 小学生の頃から、二人の指定席だった。

 

 忉利と青子は並んで座った。

 

 父が湯を沸かし始めた。

 

 豆を、挽く。

 

 ごり、ごり、と。

 

 先月、ホワイトデーの朝に忉利が初めて焙煎室で焼いた豆の、残りだった。モカが七、ブラジルが三。父が「十秒」とだけ言って、青子が名前をつけた豆。

 

 ――夜明け前ブレンド。

 

 レジの下の引き出しに、値段の欄が空白のままの札が一枚しまってある。

 

 湯を細く注ぐ。

 

 粉が膨らむ。

 

 泡が浮いて、沈む。

 

 父のネルを振る手が、ほんの少しだけ、震えていた。

 

 忉利はそれを見ていた。

 

 十六年、毎朝、見てきた手だった。

 

 一度も、震えたことのない手だった。

 

 二つのカップが二人の前に置かれた。

 

 父はカウンターの内側の、古い丸椅子に腰を下ろした。

 

 しばらく、何も言わなかった。

 

 ランプの炎が揺れていた。

 

 二階から、晴華の部屋のラジオの音がかすかに漏れてきていた。

 

 カウンターの奥の古い柱には、まだ何も留められていなかった。

 

 今日の写真は、まだカメラの中だった。

 

 父はランプの炎を見ていた。

 

 それから、ゆっくりと、忉利の方を見た。

 

 灰色の虹彩のいちばん外の縁の、細い、夜明け前の青の輪を。

 

「……お前の目は」

 

 父が、言った。

 

「母さんの目だ」




こっから三話くらいちょいまじめな感じになります。
でもちゃんと青子は一緒にいます。ダイジョブです。


アンケート、50集まったら止めるとか言っといて、ちょっと目を離してたらいつの間にか60超えてて慌てて止めました。こんなすぐに集まると思ってませんでした。

というわけで、次作のヒロインは僅差でしたが、シエルにしようと思います。
暇な時間に少しづつ書いて、来週くらいには投稿出来たらいいなあと思います。
ちょっと誘導尋問じみた気もしますが。

でもアルクは書くと思います。思いつき次第。だれか気軽に案くださいホントに、ガチむずいです。

改めてみると月姫の人気すごいですね。ここまで顕著だと思いませんでした。
まほよの二次小説なので、有珠か橙子か、世間的な認知度的に凛とかかなあと持ってました勝手に。

こっちのシリーズについてはまだまだストックがあるので、適宜上げていきます。ご安心を。

あと関係ないですが、昔書いた原神のクロリンデの小説を発掘したので今度上げようと思います。
ちゃんと確認してないので設定と矛盾していたりすると思うのでガンガン突っ込んでください。
周年てことでで2,3年ぶりにやりましたが、おもろいっすね。ガチャ限だと八重とクロリンデだけ完凸してます。

留学生時代にシコシコ書いてたものがたくさんあるので、発掘次第いろいろ上げるかもです。

シエルの小説満足度調査

  • めちゃよかった
  • よかった
  • そこそこ
  • びみょう
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