夜明けの色を見る眼   作:にんら

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母の糸 1/3

―――糸は、切れば、終わる。

 

 けれど、結んだ糸は、結んだ者がいなくなっても、ほどけないことがある。

 

 結び目が、固ければ。

 

 結んだ者が、ほどけないように、願って結んでいれば。

 

 十三年、雨に打たれても。

 

 風に晒されても。

 

 

 

 

 一九九〇年、四月三日。夜。

 

 花見の日の、夜だった。

 

 臨時休業の札が出たままのCafe HIKAGEの、ランプの灯りの下で。

 

 カウンターの上で、夜明け前ブレンドが、二つ、湯気を立てていた。

 

 ――お前の目は、母さんの目だ。

 

 父の言葉が、店の中に、落ちたまま、残っていた。

 

 

 

 

 忉利の手が、カップの上で、止まった。

 

 隣で、青子が、息を呑んだ。

 

「……母さん」

 

「縁(ゆかり)は、見える人だった。……線、というのか。お前の言い方だと」

 

 父は、ランプの炎を、見ていた。

 

「母さんは、縁、と言っていた。人と人とか、人と物とか。……それから、人と、行く先とか。そういうのを、繋いでるものが、見えると」

 

 忉利は、何も言えなかった。

 

 母の顔は、ほとんど、覚えていない。四つの時に、いなくなった。

 

 覚えているのは、白い手と、珈琲の匂いのする、髪の毛だけ。

 

「母さんの家は、西の、古い神社だ。……織部、という家だ。宮司の家で、代々、一人だけ、見える者が生まれる。見えた者は、結んだり、ほどいたりして、この町の縁の世話を、してきた」

 

「……神社」

 

「お前は、行ったことがない。母さんが、連れていくなと言った」

 

 父の声は、平らだった。

 

 平らなまま、ずっと、しまい込んできたものを、一枚ずつ、並べていくような声だった。

 

「織部の家には、決まりがあった。……結ぶのは、いくらでも。切るのは、生涯に、一度」

 

「……一度」

 

「母さんは、一度、切った」

 

 父は、ランプの炎から、目を離さなかった。

 

「晴華が、生まれて、半年の頃だ。……晴華の胸から、暗い縁が、一本、伸びてると言った。どこか、暗いところへ。早すぎる別れに、繋がってる、と」

 

 忉利の手が、カップを、握りしめていた。

 

「母さんは、それを、切った。……晴華の胸から。一生に一度を、使って」

 

「…………」

 

「それから、一年かけて、母さんは、薄くなった。……切った縁の分だけ、自分と、この世の縁が、細くなるんだと言っていた。重いのを切れば、一生分、細くなると」

 

 父の声が、ほんの少しだけ、掠れた。

 

「最後は、眠るみたいに、ほどけた。……医者は、心臓だと言った」

 

 

 

 

 店の中が、しんと、静まり返った。

 

 柱時計の振り子の音だけが、していた。

 

 二階のラジオが、いつの間にか、止んでいた。

 

 青子の手が、カウンターの下で、忉利の左手首を、探し当てていた。

 

 握っていた。

 

「……母さんは、一つだけ、頼んだ」

 

 父は、言った。

 

「子供たちには、見えることを、言わないで、と。……見えるなら、自分で、普通に生きる方を、選べるように。自分みたいに、見えることに、縛られずに」

 

「…………」

 

「十三年、守った」

 

 父は、ようやく、忉利の方を見た。

 

「お前が、小三の冬に。……カウンターで、空に罅が見えると、言いかけた時も」

 

 忉利の顔から、血の気が、引いた。

 

「……気づいてたのか」

 

「気づいてた」

 

「……それで、ネル、振ってたのかよ」

 

「振ってた」

 

 父は、目を伏せた。

 

「言わせたら、母さんとの約束を、破ることになる。……言わせなかったら、お前は、一人で、抱える。どっちも、選べなかった。だから、ネルを、振ってた」

 

 忉利は、何も言えなかった。

 

 小三の冬。店のカウンターで、忙しそうにネルを振る父の背中を見て、言うのをやめた。

 

 あの背中は、忙しかったのでは、なかった。

 

 聞かないように、していたのだ。

 

「……なんで、今なんだよ」

 

 忉利の声が、低かった。

 

「十三年、黙ってたんだろ。……なんで、今、言う気になったんだよ」

 

 父は、しばらく、黙っていた。

 

 それから、忉利の目を、見た。

 

 灰色の虹彩の、縁の、細い、青い輪を。

 

「……その目だ」

 

「…………」

 

「クリスマスに、気づいた。……目の色が、変わってた。母さんの目には、なかった色だ」

 

 父は、カウンターの上で、両手を、組んだ。

 

「冬のあいだに、お前に、何かがあった。……何があったのかは、訊かない。訊いても、たぶん、お前は言わない」

 

「…………」

 

「だが、わかった。……お前は、もう、見えることを、選んだんだな。普通に生きる方じゃなく」

 

 父の声が、ほんの少しだけ、揺れた。

 

「母さんとの約束は、お前が、まだ、選んでない間のためのものだった。……選んだ後なら、もう、黙ってる理由がない」

 

「…………」

 

「それに、今日」

 

 父は、青子の方を、ちらりと見た。

 

「土手で、お前たちが、並んで、桜を見上げてるのを、見た。……写真のファインダーの中で、お前たちが、並んでるのを。……母さんが、見たら、何て言うかと、思った」

 

 

 

 

「……親父」

 

 忉利の声が、低くなった。

 

「おれ、切ってたぞ」

 

 父は、黙っていた。

 

「何回も。……この冬。人形の糸とか、結界とか。遊園地で。旧校舎で」

 

 青子の手が、忉利の手首の上で、ぎゅっと、締まった。

 

「一生に一度、なんだろ。……じゃあ、おれ、なんで」

 

「重いのは、一度だ」

 

 父は、言った。

 

「母さんは、言ってた。……一度きりなのは、重い方だけだ。人の生き死にに、繋がってる縁。それを切ったら、一本で、一生分、細くなる」

 

「…………」

 

「軽いのは、何度でも、切れる。物と物の間の、糸みたいなのは。……けど、切るたびに、ほんの少しずつ、自分が、薄くなる。目が、赤くなる。血が出る。それが、薄くなってる、しるしだと」

 

 忉利は、息を、止めた。

 

 右目の、痛み。

 

 遊園地の夜の、流れ落ちた血。

 

 旧校舎の夜の、白い視界。

 

「……この冬」

 

 父の声が、少しだけ、揺れた。

 

「お前、目を赤くして、帰ってきた日が、あったろう。……遊園地の、次の朝だ」

 

「…………」

 

「母さんと、同じ目だった」

 

 父は、ネルを、ぎゅっと、絞った。

 

「わかった。……お前が、薄くなっていくのが。坂の上の屋敷に、住むと言い出した時も。十二月の、あの晩に、帰ってこなかった夜も」

 

「……止めなかったのかよ」

 

「止められなかった」

 

 父は、青子の方を、見た。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

「お前が、青子ちゃんの隣に、自分で、立ってたからだ」

 

 

 

 

 青子の手が、忉利の手首の上で、震えていた。

 

 旧校舎の、音楽室。

 

 赤い壁。四枚目の結界を切った後の、忉利の顔。

 

 真っ白な顔で、何かを、耐えていた。何かが、自分の中から、抜けていくのを、黙って、耐えているような顔。

 

 ――次に切ったら、戻れない。

 

 あの時、忉利の顔に、そう書いてあった。

 

 青子は、それを、見ていた。

 

 見ていて、何も、わからなかった。

 

 赤い槍が来て、それどころでは、なくなった。

 

 四ヶ月前の、ことだった。

 

「……晴華の声が」

 

 忉利が、言った。

 

 カップを、見下ろしたまま。

 

「遠くなったんだ。旧校舎で、四枚目を、切った時」

 

 父の手が、ネルの上で、止まった。

 

「頭の中で、いつも、晴華の声がしてた。お兄ちゃん、って。……それが、遠くなった。すうって。テレビの音を、絞るみたいに」

 

「…………」

 

「何だったのか、わかんなかった。……今、わかった」

 

 忉利は、カップを、両手で、包んだ。

 

「薄くなってたんだな。……晴華との、縁が」

 

 父は、目を、閉じた。

 

 長いこと、閉じていた。

 

 ランプの炎が、父の顔の皺の、一本一本に、影を落としていた。

 

 青子は、何も言えなかった。

 

 ただ、忉利の手首を、握っていた。

 

 この冬、自分の知らないところで、この男が、少しずつ、薄くなっていた。

 

 自分の隣に、立ち続けるために。

 

 握った指に、力が、こもった。

 

 痛いほどに。

 

 忉利は、何も言わなかった。

 

 ただ、握られた手首を、少しだけ、握り返すように、指を、動かした。

 

 

 

 

「……それから、もう一つ」

 

 父が、目を開けた。

 

 今度は、青子を、まっすぐに見た。

 

「母さんは、青子ちゃんのことも、一回だけ、見てる」

 

 青子の手が、忉利の手首の上で、止まった。

 

「……私を、ですか」

 

「お前たちが、幼稚園の、年中の頃だ。……青子ちゃん、赤い靴で、店の前の水たまりに飛び込んで、泥だらけで泣いてた。忉利が、手を引いて、店に連れてきた」

 

 青子は、何も言えなかった。

 

 覚えていなかった。

 

「母さんは、カウンターの内側から、お前たちを、見てた。……それから、俺に、言った」

 

 父は、ランプの炎を、見ていた。

 

「あの子と、忉利の間に。……もう、縁が、一本ある、って」

 

「…………」

 

「細いけど、切れない縁だ、って。……私には、結ぶ必要がない。最初から、結ばってる、って」

 

 父の口元が、ほんのわずかに、動いた。

 

「それが、母さんが、この店で見た、最後の縁の話だ。……その冬に、母さんは、いなくなった」

 

 青子の目から、何かが、一粒だけ、カウンターの上に、落ちた。

 

 青子は、それを、慌てて、袖で拭った。

 

 忉利は、何も言わなかった。

 

 ただ、自分の手首を握る青子の手の上に、もう片方の手を、重ねた。

 

 

 

 

 父が、ネルを、干した。

 

 それから、カウンターの内側の丸椅子から、立ち上がった。

 

 二階へ続く階段の方へ、歩いていく。

 

 階段の、一段目に、足をかけて。

 

 振り返らずに、言った。

 

「……母さんの墓は、神社の裏の、楠の下だ。……喫茶店の家の墓じゃなく、織部の墓に入った」

 

「…………」

 

「一度も、連れていってやらなかった。……今度の日曜にでも、行ってこい。二人で」

 

 それから、もう一言。

 

「……母さんに、よく似てる」

 

 低い、無愛想な声だった。

 

「何を切らないか、決めてから、切るところが」

 

 階段を、一段ずつ、上っていく足音。

 

 二階の、襖の閉まる音。

 

 二階の廊下の奥で、晴華の部屋の戸が、ほんの少しだけ、開いて、また、閉まる音がした。

 

 店の中に、二人だけが、残った。

 

 カウンターの上で、夜明け前ブレンドが、まだ、少しだけ、湯気を立てていた。

 

 

 

 

 坂の上の洋館へ帰る、夜の坂道で。

 

 二人とも、しばらく、何も言わなかった。

 

 街灯の明かりが、坂の途中で、途切れていた。

 

 その暗がりで、青子が、足を止めた。

 

「……忉利」

 

「ん」

 

「今の、あんたは。……薄くなってるの」

 

 忉利は、すぐには、答えなかった。

 

 それから、目の奥の扉を、開いた。

 

 半分。

 

 自分の胸を、見た。

 

 自分と、この世界を繋いでいる、縁。

 

 物心ついた頃から、ずっと、そこにあったはずの線。けれど、自分の線を、こんなふうに、じっと見たことは、なかった。

 

 胸の真ん中から、四方へ、細い糸が、何本も伸びている。坂の下の、店へ。父へ。晴華へ。坂の上の屋敷へ。有珠へ。草十郎へ。隣の、青子へ。

 

 それを束ねる、一本の、太い縁。自分を、この世界に繋ぎ止めている、根のような線。

 

 その太い縁の、何か所かに。

 

 古い傷のような、痕が、あった。

 

 ささくれて、削れて、細くなりかけた痕。一つ、二つ、三つ、……十以上。

 

 公園の人形。遊園地の月。有珠の屋敷の結界。鏡野の。旧校舎の、四枚の壁。

 

 旧校舎の、四枚目の痕が、いちばん深かった。太い縁が、ほとんど、半分の太さになるところまで、抉れていた。

 

 忉利は、息を、止めた。

 

 それから、もっと、よく見た。

 

 抉れた痕の、その上を。

 

 青い、細い糸が、何重にも、何重にも、巻きついていた。

 

 夜明け前の空の色の、細い糸。

 

 削れた縁を、包帯のように。いや、包帯よりも、ずっと丁寧に。ほつれた布を、目の細かい針で、一目ずつ、繕うように。

 

 削れた痕は、痕のまま、残っていた。

 

 けれど、縁そのものは、細くなっていなかった。

 

 十二月の、あの夜から、一本も。

 

 旧校舎の屋上で、何を切っても。

 

「……薄くなってねえ」

 

 忉利は、言った。

 

「……ほんとに?」

 

「古い傷は、ある。この冬の。……でも、その上に、青いのが、巻いてある。繕ってあるみてえに」

 

「青いの?」

 

「お前の、色の」

 

 青子が、息を呑んだ。

 

「……私の?」

 

「たぶんな。……夜明け前の、あの色だ」

 

 青子は、何も言わなかった。

 

 意味は、わかっていなかったのだと思う。

 

 けれど、青子は、忉利の袖を、掴んだ。

 

「……日曜、神社、行くのよね」

 

「ああ」

 

「私も、行く」

 

「……わかってる。親父が、二人でって言ったろ」

 

「……おばさんに、会いに行くのよね」

 

「……ああ」

 

「……何て、言えばいいのかしら。私」

 

 忉利は、少しだけ、考えた。

 

「……何も、言わなくていいだろ」

 

「言うわよ。……ちゃんと」

 

 坂の上に、洋館の灯りが、見えていた。

 

 露台に、小さな人影が、一つ。

 

 有珠が、紅茶のカップを手に、坂道を、見下ろしていた。

 

 二人が帰ってくるのを、待っていたように。




既に先週のUAを超えててビビりました。

みんなまほよ好きなんですね、映画の効果もあると思いますが。

ちなみに映画は見に行かないと思います。書いてるうちにこっちしか受け付けなくなってしまいました。

でもそんな人がいてもいいと思います。
自分自身キャバルリィは甘木悠の物語としてしか知りませんし。

クロリンデの小説については明日か明後日くらいに上げます。
需要あるかわかりませんが。まあ全部自己満なんで好きにやらせていただきます。

次作品 ヒロイン候補 書いたはいいですが、橙子やアルクはどう作るつもりなんでしょうか…

  • シエル (月姫R アルクェイドルート)
  • アルクェイド(月姫R シエルルート?)
  • 蒼崎橙子 (空の境界)
  • 遠坂凛 (Heaven’s Feel)
  • ライダー (Heaven’s Feel)
  • ジャンヌ・ダルク (Apocrypha)
  • ジャンヌ・ダルク (史実+FGO)
  • 久遠寺有珠 (魔法使いの夜)
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