―――糸は、切れば、終わる。
けれど、結んだ糸は結んだ者がいなくなっても、ほどけないことがある。
結び目が、固ければ。
結んだ者が、ほどけないように、願って結んでいれば。
十三年、雨に打たれても。
風に晒されても。
◇
一九九〇年、四月三日。夜。
花見の日の夜だった。
臨時休業の札が出たままのCafe HIKAGEの、ランプの灯りの下で。
カウンターの上で、夜明け前ブレンドが二つ湯気を立てていた。
――お前の目は、母さんの目だ。
父の言葉が、店の中に落ちたまま残っていた。
◇
忉利の手が、カップの上で止まった。
隣で青子が息を呑んだ。
「……母さん」
「縁は見えた。……線、というのか。お前の言い方だと」
父はランプの炎を見ていた。
「母さんは縁、と言っていた。人と人とか、人と物とか。……それから、人と行く先とか。そういうのを繋いでるものが、見えると」
忉利は何も言えなかった。
母の顔は、ほとんど覚えていない。四つの時にいなくなった。
覚えているのは、白い手と、珈琲の匂いのする髪の毛だけ。
「母さんの家は、西の古い神社だ。……織部、という家だ。宮司の家で、代々一人だけ、見える者が生まれる。見えた者は、結んだりほどいたりして、この町の縁の世話をしてきた」
「……神社」
「お前は、行ったことがない。母さんが連れていくなと言った」
父の声は平らだった。
平らなまま、ずっとしまい込んできたものを、一枚ずつ並べていくような声だった。
「織部の家には決まりがあった。……結ぶのは、いくらでも。切るのは、生涯に一度」
「……一度」
「母さんは一度、切った」
父はランプの炎から目を離さなかった。
「晴華が生まれて半年の頃だ。……晴華の胸から、暗い縁が一本伸びてると言った。どこか暗いところへ。早すぎる別れに繋がってる、と」
忉利の手がカップを握りしめていた。
「母さんは、それを切った。……晴華の胸から。一生に一度を使って」
「…………」
「それから一年かけて、母さんは薄くなった。……切った縁の分だけ、自分とこの世の縁が細くなるんだと言っていた。重いのを切れば、一生分、細くなると」
父の声が、ほんの少しだけ掠れた。
「最後は、眠るみたいにほどけた。……医者は心臓だと言った」
◇
店の中がしんと静まり返った。
柱時計の振り子の音だけがしていた。
二階のラジオが、いつの間にか止んでいた。
青子の手が、カウンターの下で忉利の左手首を探し当てていた。
握っていた。
「……母さんは一つだけ、頼んだ」
父は言った。
「子供たちには、見えることを言わないで、と。……見えるなら自分で、普通に生きる方を選べるように。自分みたいに、見えることに縛られずに」
「…………」
「十三年、守った」
父はようやく、忉利の方を見た。
「お前が、小三の冬に。……カウンターで、空に罅が見えると言いかけた時も」
忉利の顔から、血の気が引いた。
「……気づいてたのか」
「気づいてた」
「……それでネル、振ってたのかよ」
「振ってた」
父は目を伏せた。
「言わせたら、母さんとの約束を破ることになる。……言わせなかったら、お前は一人で抱える。どっちも、選べなかった。だから、ネルを振ってた」
忉利は何も言えなかった。
小三の冬。店のカウンターで忙しそうにネルを振る父の背中を見て、言うのをやめた。
あの背中は、忙しかったのではなかった。
聞かないようにしていたのだ。
「……なんで今なんだよ」
忉利の声が低かった。
「十三年、黙ってたんだろ。……なんで今、言う気になったんだよ」
父はしばらく黙っていた。
それから、忉利の目を見た。
灰色の虹彩の縁の、細い青い輪を。
「……その目だ」
「…………」
「クリスマスに、気づいた。……目の色が変わってた。母さんの目にはなかった色だ」
父は、カウンターの上で両手を組んだ。
「冬のあいだに、お前に何かがあった。……何があったのかは訊かない。訊いても、たぶんお前は言わない」
「…………」
「だが、わかった。……お前はもう、見えることを選んだんだな。普通に生きる方じゃなく」
父の声がほんの少しだけ揺れた。
「母さんとの約束は、お前がまだ選んでない間のためのものだった。……選んだ後なら、もう黙ってる理由がない」
「…………」
「それに、今日」
父は青子の方をちらりと見た。
「土手で、お前たちが並んで、桜を見上げてるのを見た。……写真のファインダーの中で、お前たちが並んでるのを。……母さんが見たら、何て言うかと思った」
◇
「……親父」
忉利の声が低くなった。
「おれ、切ってたぞ」
父は黙っていた。
「何回も。……この冬。人形の糸とか、結界とか。遊園地で。旧校舎で」
青子の手が、忉利の手首の上でぎゅっと締まった。
「一生に一度、なんだろ。……じゃあおれ、なんで」
「重いのは、一度だ」
父は言った。
「母さんは、言ってた。……一度きりなのは重い方だけだ。人の生き死にに繋がってる縁。それを切ったら、一本で一生分、細くなる」
「…………」
「軽いのは、何度でも切れる。物と物の間の糸みたいなのは。……けど、切るたびにほんの少しずつ、自分が薄くなる。目が赤くなる。血が出る。それが、薄くなってるしるしだと」
忉利は、息を止めた。
右目の痛み。
遊園地の夜の、流れ落ちた血。
旧校舎の夜の、白い視界。
「……この冬」
父の声が、少しだけ揺れた。
「お前、目を赤くして帰ってきた日が、あったろう。……遊園地の次の朝だ」
「…………」
「母さんと同じ目だった」
父はネルをぎゅっと絞った。
「わかった。……お前が、薄くなっていくのが。坂の上の屋敷に住むと言い出した時も。十二月のあの晩に、帰ってこなかった夜も」
「……止めなかったのかよ」
「止められなかった」
父は青子の方を見た。
ほんの一瞬だけ。
「お前が、青子ちゃんの隣に自分で立ってたからだ」
◇
青子の手が、忉利の手首の上で震えていた。
旧校舎の音楽室。
赤い壁。四枚目の結界を切った後の、忉利の顔。
真っ白な顔で、何かを耐えていた。何かが自分の中から抜けていくのを、黙って耐えているような顔。
――次に切ったら、戻れない。
あの時、忉利の顔にそう書いてあった。
青子はそれを見ていた。
見ていて、何もわからなかった。
赤い槍が来て、それどころではなくなった。
四ヶ月前のことだった。
「……晴華の声が」
忉利が言った。
カップを見下ろしたまま。
「遠くなったんだ。旧校舎で、四枚目を切った時」
父の手が、ネルの上で止まった。
「頭の中で、いつも晴華の声がしてた。お兄ちゃん、って。……それが遠くなった。すうって。テレビの音を絞るみたいに」
「…………」
「何だったのかわかんなかった。……今、わかった」
忉利はカップを両手で包んだ。
「薄くなってたんだな。……晴華との縁が」
父は目を閉じた。
長いこと閉じていた。
ランプの炎が、父の顔の皺の一本一本に影を落としていた。
青子は何も言えなかった。
ただ、忉利の手首を握っていた。
この冬、自分の知らないところで、この男が少しずつ薄くなっていた。
自分の隣に立ち続けるために。
握った指に、力がこもった。
痛いほどに。
忉利は何も言わなかった。
ただ、握られた手首を少しだけ握り返すように、指を動かした。
◇
「……それから、もう一つ」
父が目を開けた。
今度は、青子をまっすぐに見た。
「母さんは、青子ちゃんのことも一回だけ見てる」
青子の手が、忉利の手首の上で止まった。
「……私を、ですか」
「お前たちが幼稚園の年中の頃だ。……青子ちゃん、赤い靴で店の前の水たまりに飛び込んで、泥だらけで泣いてた。忉利が、手を引いて、店に連れてきた」
青子は何も言えなかった。
覚えていなかった。
「母さんは、カウンターの内側からお前たちを見てた。……それから、俺に言った」
父はランプの炎を見ていた。
「あの子と忉利の間に。……もう、縁が一本ある、って」
「…………」
「細いけど切れない縁だ、って。……私には結ぶ必要がない。最初から結ばってる、って」
父の口元が、ほんのわずかに動いた。
「それが、母さんがこの店で見た最後の縁の話だ。……その冬に、母さんはいなくなった」
青子の目から、何かが一粒だけ、カウンターの上に落ちた。
青子はそれを慌てて袖で拭った。
忉利は何も言わなかった。
ただ、自分の手首を握る青子の手の上に、もう片方の手を重ねた。
◇
父がネルを干した。
それから、カウンターの内側の丸椅子から立ち上がった。
二階へ続く階段の方へ歩いていく。
階段の一段目に足をかけて。
振り返らずに言った。
「……母さんの墓は、神社の裏の楠の下だ。……喫茶店の家の墓じゃなく、織部の墓に入った」
「…………」
「一度も、連れていってやらなかった。……今度の日曜にでも、行ってこい。二人で」
それから、もう一言。
「……母さんによく似てる」
低い無愛想な声だった。
「何を切らないか、決めてから切るところが」
階段を一段ずつ上っていく足音。
二階の襖の閉まる音。
二階の廊下の奥で、晴華の部屋の戸がほんの少しだけ開いて、また閉まる音がした。
店の中に、二人だけが残った。
カウンターの上で、夜明け前ブレンドがまだ少しだけ湯気を立てていた。
◇
坂の上の洋館へ帰る夜の坂道で。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
街灯の明かりが、坂の途中で途切れていた。
その暗がりで、青子が足を止めた。
「……忉利」
「ん」
「今のあんたは。……薄くなってるの」
忉利はすぐには答えなかった。
それから、目の奥の扉を開いた。
半分。
自分の胸を見た。
自分とこの世界を繋いでいる、縁。
物心ついた頃からずっと、そこにあったはずの線。けれど、自分の線をこんなふうにじっと見たことはなかった。
胸の真ん中から四方へ、細い糸が何本も伸びている。坂の下の店へ。父へ。晴華へ。坂の上の屋敷へ。有珠へ。草十郎へ。隣の、青子へ。
それを束ねる一本の、太い縁。自分をこの世界に繋ぎ止めている、根のような線。
その太い縁の何か所かに。
古い傷のような痕が、あった。
ささくれて削れて、細くなりかけた痕。一つ、二つ、三つ、……十以上。
公園の人形。遊園地の月。有珠の屋敷の結界。鏡野の。旧校舎の四枚の壁。
旧校舎の四枚目の痕が、いちばん深かった。太い縁が、ほとんど半分の太さになるところまで抉れていた。
忉利は息を止めた。
それから、もっとよく見た。
抉れた痕のその上を。
青い細い糸が、何重にも、何重にも巻きついていた。
夜明け前の空の色の細い糸。
削れた縁を、包帯のように。いや、包帯よりもずっと丁寧に。ほつれた布を、目の細かい針で一目ずつ繕うように。
削れた痕は、痕のまま残っていた。
けれど、縁そのものは細くなっていなかった。
十二月のあの夜から、一本も。
旧校舎の屋上で、何を切っても。
「……薄くなってねえ」
忉利は言った。
「……ほんとに?」
「古い傷はある。この冬の。……でも、その上に青いのが巻いてある。繕ってあるみてえに」
「青いの?」
「お前の色の」
青子が息を呑んだ。
「……私の?」
「たぶんな。……夜明け前のあの色だ」
青子は何も言わなかった。
意味はわかっていなかったのだと思う。
けれど、青子は忉利の袖を掴んだ。
「……日曜、神社行くのよね」
「ああ」
「私も、行く」
「……わかってる。親父が二人でって言ったろ」
「……おばさんに会いに行くのよね」
「……ああ」
「……何て言えばいいのかしら。私」
忉利は少しだけ考えた。
「……何も言わなくていいだろ」
「言うわよ。……ちゃんと」
坂の上に洋館の灯りが見えていた。
露台に小さな人影が、一つ。
有珠が、紅茶のカップを手に、坂道を見下ろしていた。
二人が帰ってくるのを待っていたように。
既に先週のUAを超えててビビりました。
みんなまほよ好きなんですね、映画の効果もあると思いますが。
ちなみに映画は見に行かないと思います。書いてるうちにこっちしか受け付けなくなってしまいました。
でもそんな人がいてもいいと思います。
自分自身キャバルリィは甘木悠の物語としてしか知りませんし。
クロリンデの小説については明日か明後日くらいに上げます。
需要あるかわかりませんが。まあ全部自己満なんで好きにやらせていただきます。
シエルの小説満足度調査
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びみょう