―――糸は、切れば、終わる。
けれど、結んだ糸は、結んだ者がいなくなっても、ほどけないことがある。
結び目が、固ければ。
結んだ者が、ほどけないように、願って結んでいれば。
十三年、雨に打たれても。
風に晒されても。
一九九〇年、四月三日。夜。
花見の日の、夜だった。
臨時休業の札が出たままのCafe HIKAGEの、ランプの灯りの下で。
カウンターの上で、夜明け前ブレンドが、二つ、湯気を立てていた。
――お前の目は、母さんの目だ。
父の言葉が、店の中に、落ちたまま、残っていた。
忉利の手が、カップの上で、止まった。
隣で、青子が、息を呑んだ。
「……母さん」
「
父は、ランプの炎を、見ていた。
「母さんは、縁、と言っていた。人と人とか、人と物とか。……それから、人と、行く先とか。そういうのを、繋いでるものが、見えると」
忉利は、何も言えなかった。
母の顔は、ほとんど、覚えていない。四つの時に、いなくなった。
覚えているのは、白い手と、珈琲の匂いのする、髪の毛だけ。
「母さんの家は、西の、古い神社だ。……織部、という家だ。宮司の家で、代々、一人だけ、見える者が生まれる。見えた者は、結んだり、ほどいたりして、この町の縁の世話を、してきた」
「……神社」
「お前は、行ったことがない。母さんが、連れていくなと言った」
父の声は、平らだった。
平らなまま、ずっと、しまい込んできたものを、一枚ずつ、並べていくような声だった。
「織部の家には、決まりがあった。……結ぶのは、いくらでも。切るのは、生涯に、一度」
「……一度」
「母さんは、一度、切った」
父は、ランプの炎から、目を離さなかった。
「晴華が、生まれて、半年の頃だ。……晴華の胸から、暗い縁が、一本、伸びてると言った。どこか、暗いところへ。早すぎる別れに、繋がってる、と」
忉利の手が、カップを、握りしめていた。
「母さんは、それを、切った。……晴華の胸から。一生に一度を、使って」
「…………」
「それから、一年かけて、母さんは、薄くなった。……切った縁の分だけ、自分と、この世の縁が、細くなるんだと言っていた。重いのを切れば、一生分、細くなると」
父の声が、ほんの少しだけ、掠れた。
「最後は、眠るみたいに、ほどけた。……医者は、心臓だと言った」
店の中が、しんと、静まり返った。
柱時計の振り子の音だけが、していた。
二階のラジオが、いつの間にか、止んでいた。
青子の手が、カウンターの下で、忉利の左手首を、探し当てていた。
握っていた。
「……母さんは、一つだけ、頼んだ」
父は、言った。
「子供たちには、見えることを、言わないで、と。……見えるなら、自分で、普通に生きる方を、選べるように。自分みたいに、見えることに、縛られずに」
「…………」
「十三年、守った」
父は、ようやく、忉利の方を見た。
「お前が、小三の冬に。……カウンターで、空に罅が見えると、言いかけた時も」
忉利の顔から、血の気が、引いた。
「……気づいてたのか」
「気づいてた」
「……それで、ネル、振ってたのかよ」
「振ってた」
父は、目を伏せた。
「言わせたら、母さんとの約束を、破ることになる。……言わせなかったら、お前は、一人で、抱える。どっちも、選べなかった。だから、ネルを、振ってた」
忉利は、何も言えなかった。
小三の冬。店のカウンターで、忙しそうにネルを振る父の背中を見て、言うのをやめた。
あの背中は、忙しかったのでは、なかった。
聞かないように、していたのだ。
「……なんで、今なんだよ」
忉利の声が、低かった。
「十三年、黙ってたんだろ。……なんで、今、言う気になったんだよ」
父は、しばらく、黙っていた。
それから、忉利の目を、見た。
灰色の虹彩の、縁の、細い、青い輪を。
「……その目だ」
「…………」
「クリスマスに、気づいた。……目の色が、変わってた。母さんの目には、なかった色だ」
父は、カウンターの上で、両手を、組んだ。
「冬のあいだに、お前に、何かがあった。……何があったのかは、訊かない。訊いても、たぶん、お前は言わない」
「…………」
「だが、わかった。……お前は、もう、見えることを、選んだんだな。普通に生きる方じゃなく」
父の声が、ほんの少しだけ、揺れた。
「母さんとの約束は、お前が、まだ、選んでない間のためのものだった。……選んだ後なら、もう、黙ってる理由がない」
「…………」
「それに、今日」
父は、青子の方を、ちらりと見た。
「土手で、お前たちが、並んで、桜を見上げてるのを、見た。……写真のファインダーの中で、お前たちが、並んでるのを。……母さんが、見たら、何て言うかと、思った」
「……親父」
忉利の声が、低くなった。
「おれ、切ってたぞ」
父は、黙っていた。
「何回も。……この冬。人形の糸とか、結界とか。遊園地で。旧校舎で」
青子の手が、忉利の手首の上で、ぎゅっと、締まった。
「一生に一度、なんだろ。……じゃあ、おれ、なんで」
「重いのは、一度だ」
父は、言った。
「母さんは、言ってた。……一度きりなのは、重い方だけだ。人の生き死にに、繋がってる縁。それを切ったら、一本で、一生分、細くなる」
「…………」
「軽いのは、何度でも、切れる。物と物の間の、糸みたいなのは。……けど、切るたびに、ほんの少しずつ、自分が、薄くなる。目が、赤くなる。血が出る。それが、薄くなってる、しるしだと」
忉利は、息を、止めた。
右目の、痛み。
遊園地の夜の、流れ落ちた血。
旧校舎の夜の、白い視界。
「……この冬」
父の声が、少しだけ、揺れた。
「お前、目を赤くして、帰ってきた日が、あったろう。……遊園地の、次の朝だ」
「…………」
「母さんと、同じ目だった」
父は、ネルを、ぎゅっと、絞った。
「わかった。……お前が、薄くなっていくのが。坂の上の屋敷に、住むと言い出した時も。十二月の、あの晩に、帰ってこなかった夜も」
「……止めなかったのかよ」
「止められなかった」
父は、青子の方を、見た。
ほんの一瞬だけ。
「お前が、青子ちゃんの隣に、自分で、立ってたからだ」
青子の手が、忉利の手首の上で、震えていた。
旧校舎の、音楽室。
赤い壁。四枚目の結界を切った後の、忉利の顔。
真っ白な顔で、何かを、耐えていた。何かが、自分の中から、抜けていくのを、黙って、耐えているような顔。
――次に切ったら、戻れない。
あの時、忉利の顔に、そう書いてあった。
青子は、それを、見ていた。
見ていて、何も、わからなかった。
赤い槍が来て、それどころでは、なくなった。
四ヶ月前の、ことだった。
「……晴華の声が」
忉利が、言った。
カップを、見下ろしたまま。
「遠くなったんだ。旧校舎で、四枚目を、切った時」
父の手が、ネルの上で、止まった。
「頭の中で、いつも、晴華の声がしてた。お兄ちゃん、って。……それが、遠くなった。すうって。テレビの音を、絞るみたいに」
「…………」
「何だったのか、わかんなかった。……今、わかった」
忉利は、カップを、両手で、包んだ。
「薄くなってたんだな。……晴華との、縁が」
父は、目を、閉じた。
長いこと、閉じていた。
ランプの炎が、父の顔の皺の、一本一本に、影を落としていた。
青子は、何も言えなかった。
ただ、忉利の手首を、握っていた。
この冬、自分の知らないところで、この男が、少しずつ、薄くなっていた。
自分の隣に、立ち続けるために。
握った指に、力が、こもった。
痛いほどに。
忉利は、何も言わなかった。
ただ、握られた手首を、少しだけ、握り返すように、指を、動かした。
「……それから、もう一つ」
父が、目を開けた。
今度は、青子を、まっすぐに見た。
「母さんは、青子ちゃんのことも、一回だけ、見てる」
青子の手が、忉利の手首の上で、止まった。
「……私を、ですか」
「お前たちが、幼稚園の、年中の頃だ。……青子ちゃん、赤い靴で、店の前の水たまりに飛び込んで、泥だらけで泣いてた。忉利が、手を引いて、店に連れてきた」
青子は、何も言えなかった。
覚えていなかった。
「母さんは、カウンターの内側から、お前たちを、見てた。……それから、俺に、言った」
父は、ランプの炎を、見ていた。
「あの子と、忉利の間に。……もう、縁が、一本ある、って」
「…………」
「細いけど、切れない縁だ、って。……私には、結ぶ必要がない。最初から、結ばってる、って」
父の口元が、ほんのわずかに、動いた。
「それが、母さんが、この店で見た、最後の縁の話だ。……その冬に、母さんは、いなくなった」
青子の目から、何かが、一粒だけ、カウンターの上に、落ちた。
青子は、それを、慌てて、袖で拭った。
忉利は、何も言わなかった。
ただ、自分の手首を握る青子の手の上に、もう片方の手を、重ねた。
父が、ネルを、干した。
それから、カウンターの内側の丸椅子から、立ち上がった。
二階へ続く階段の方へ、歩いていく。
階段の、一段目に、足をかけて。
振り返らずに、言った。
「……母さんの墓は、神社の裏の、楠の下だ。……喫茶店の家の墓じゃなく、織部の墓に入った」
「…………」
「一度も、連れていってやらなかった。……今度の日曜にでも、行ってこい。二人で」
それから、もう一言。
「……母さんに、よく似てる」
低い、無愛想な声だった。
「何を切らないか、決めてから、切るところが」
階段を、一段ずつ、上っていく足音。
二階の、襖の閉まる音。
二階の廊下の奥で、晴華の部屋の戸が、ほんの少しだけ、開いて、また、閉まる音がした。
店の中に、二人だけが、残った。
カウンターの上で、夜明け前ブレンドが、まだ、少しだけ、湯気を立てていた。
坂の上の洋館へ帰る、夜の坂道で。
二人とも、しばらく、何も言わなかった。
街灯の明かりが、坂の途中で、途切れていた。
その暗がりで、青子が、足を止めた。
「……忉利」
「ん」
「今の、あんたは。……薄くなってるの」
忉利は、すぐには、答えなかった。
それから、目の奥の扉を、開いた。
半分。
自分の胸を、見た。
自分と、この世界を繋いでいる、縁。
物心ついた頃から、ずっと、そこにあったはずの線。けれど、自分の線を、こんなふうに、じっと見たことは、なかった。
胸の真ん中から、四方へ、細い糸が、何本も伸びている。坂の下の、店へ。父へ。晴華へ。坂の上の屋敷へ。有珠へ。草十郎へ。隣の、青子へ。
それを束ねる、一本の、太い縁。自分を、この世界に繋ぎ止めている、根のような線。
その太い縁の、何か所かに。
古い傷のような、痕が、あった。
ささくれて、削れて、細くなりかけた痕。一つ、二つ、三つ、……十以上。
公園の人形。遊園地の月。有珠の屋敷の結界。鏡野の。旧校舎の、四枚の壁。
旧校舎の、四枚目の痕が、いちばん深かった。太い縁が、ほとんど、半分の太さになるところまで、抉れていた。
忉利は、息を、止めた。
それから、もっと、よく見た。
抉れた痕の、その上を。
青い、細い糸が、何重にも、何重にも、巻きついていた。
夜明け前の空の色の、細い糸。
削れた縁を、包帯のように。いや、包帯よりも、ずっと丁寧に。ほつれた布を、目の細かい針で、一目ずつ、繕うように。
削れた痕は、痕のまま、残っていた。
けれど、縁そのものは、細くなっていなかった。
十二月の、あの夜から、一本も。
旧校舎の屋上で、何を切っても。
「……薄くなってねえ」
忉利は、言った。
「……ほんとに?」
「古い傷は、ある。この冬の。……でも、その上に、青いのが、巻いてある。繕ってあるみてえに」
「青いの?」
「お前の、色の」
青子が、息を呑んだ。
「……私の?」
「たぶんな。……夜明け前の、あの色だ」
青子は、何も言わなかった。
意味は、わかっていなかったのだと思う。
けれど、青子は、忉利の袖を、掴んだ。
「……日曜、神社、行くのよね」
「ああ」
「私も、行く」
「……わかってる。親父が、二人でって言ったろ」
「……おばさんに、会いに行くのよね」
「……ああ」
「……何て、言えばいいのかしら。私」
忉利は、少しだけ、考えた。
「……何も、言わなくていいだろ」
「言うわよ。……ちゃんと」
坂の上に、洋館の灯りが、見えていた。
露台に、小さな人影が、一つ。
有珠が、紅茶のカップを手に、坂道を、見下ろしていた。
二人が帰ってくるのを、待っていたように。
既に先週のUAを超えててビビりました。
みんなまほよ好きなんですね、映画の効果もあると思いますが。
ちなみに映画は見に行かないと思います。書いてるうちにこっちしか受け付けなくなってしまいました。
でもそんな人がいてもいいと思います。
自分自身キャバルリィは甘木悠の物語としてしか知りませんし。
クロリンデの小説については明日か明後日くらいに上げます。
需要あるかわかりませんが。まあ全部自己満なんで好きにやらせていただきます。
次作品 ヒロイン候補 書いたはいいですが、橙子やアルクはどう作るつもりなんでしょうか…
-
シエル (月姫R アルクェイドルート)
-
アルクェイド(月姫R シエルルート?)
-
蒼崎橙子 (空の境界)
-
遠坂凛 (Heaven’s Feel)
-
ライダー (Heaven’s Feel)
-
ジャンヌ・ダルク (Apocrypha)
-
ジャンヌ・ダルク (史実+FGO)
-
久遠寺有珠 (魔法使いの夜)