―――見える者はみんな、目が灰色になる。
空の色でも、土の色でもない。
晴れと雨の、ちょうど間の。
どちらでもないから、どちらも見える。
◇
日曜の朝。
三咲の西の外れの、古い小さな神社。
鳥居は色が剥げて、灰色になっていた。石段は苔に覆われていた。境内の奥に小さな社殿。その裏手に、楠の大木が一本、四月の若葉を空いっぱいに広げていた。
この冬、有珠が町の地図に赤い印をつけた場所の一つだった。蒼崎の網の礎の、すぐ隣。
石段を上りながら、忉利は目の奥の扉を少しだけ開いた。
息を呑んだ。
網が、あった。
蒼崎の網だった。この冬、忉利が初めてちゃんと見た、町を覆うあの網。硬く、規則正しく、定規で引いたような。
けれど、その網の下に。
もう一枚、網があった。
ずっと細かった。ずっと柔らかかった。定規ではなく、指で一目ずつ結んだような。ところどころがほつれて。ところどころが結び直されて。何百年分もの誰かの手の跡が、残っている網。
その網の、中心の結び目が。
この神社の楠の根元に、あった。
「……なに、見えてるの」
隣で青子が訊いた。
忉利の顔を見れば、何かが見えていることはわかる。
「……網が二枚ある」
「二枚?」
「蒼崎のの、下に。もっと古いのがある」
青子の足が止まった。
蒼崎の後継者の顔になって、石段の上の楠の大木を見上げた。
「……お祖父ちゃんは、そんなこと一回も」
「言ってなかったのかよ」
「……言ってなかったわ。冬に洞穴に行った時も」
社務所の古い引き戸が開いた。
白衣に浅葱の袴。痩せた、背の曲がった六十過ぎの男が立っていた。
男は石段の上の忉利を見て。
それから、忉利の目を見た。
灰色の虹彩を。
それから、その縁の、細い青い輪を。
長いこと見ていた。
「……縁の息子か」
しわがれた声だった。
忉利は瞬きをした。
「……なんで」
「目が灰色だ」
男は言った。
「織部の見える者は、みんな目が灰色になる。……縁も、そうだった。縁の祖母も。その前の見える者も」
それから男は、少しだけ眉を寄せた。
「……だが、その縁の青は知らんな。織部の目にはなかった色だ」
男は社務所の奥へ手招きをした。
「入りなさい。……二人とも。日景さんから昨日、電話があった」
◇
男は織部宗佑と名乗った。
縁の従兄弟だった。縁が神社を継がずに喫茶店の主人と一緒になった後、宮司の座を継いだ男。
見えない側の人間だった。
「……わしには何も見えん」
宗佑は、社務所の奥の薄暗い座敷に二人を座らせて、茶を淹れた。
「見えるのは代々一人だけだ。わしの代は、縁だった。縁の後は、……見える者は、もう生まれんと思っていた」
宗佑は忉利を見た。
「生まれていたんだな。……喫茶店の、あの人の息子に」
宗佑は少しだけ目を細めた。
「縁はな、見えるのがしんどい子だった。……朝起きても、道を歩いても、人と話しても。何もかもが糸で繋がって見える。どれを切れば何が起きるか。そんなことばかり、目の端に見えている」
宗佑は湯呑みの縁を指でなぞった。
「それが、ある日、商店街の外れの小さな喫茶店に入った。……帰ってきて、わしに言ったんだ」
――あの人の淹れる珈琲の湯気だけは。
――線が全部、ほどけて見えるの。
――だから、あのカウンターに座ってると、目が休まるのよ。
「それで、通うようになった。……毎朝、宮司の務めの前に。一杯だけ」
宗佑は忉利の顔を見た。
「そのうちに、神社を継がんと言い出した。……見える目で、普通に暮らしてみたい、とな」
忉利は何も言えなかった。
店のカウンター。父のネルから立ちのぼる湯気。
子供の頃、線が見えすぎて頭が痛くなった日。カウンターの端に座って、父の淹れる珈琲の湯気をぼんやりと見ていると、なぜか少しだけ楽になった。
理由は考えたことがなかった。
隣で青子が、忉利の横顔をじっと見ていた。
それから小さく言った。
「……あんたが、毎朝、珈琲淹れるの。それだったのね」
「……何がだよ」
「目、休めてたのよ。……おばさんと同じに」
◇
宗佑は、座敷の奥の古い桐の箪笥の引き出しから、何かを取り出した。
和綴じの帳面だった。
何冊も。紐で束ねられて。表紙が茶色く焼けて、角が擦り切れていた。
「織部の見える者たちの覚え書きだ。……何代分も。見えた者が、見えたものを書き残してきた」
宗佑は帳面の束を、忉利の前に置いた。
「縁が最後に書いた。……いつか見える者が来たら、渡せと。来なければ燃やせと」
忉利は帳面の束を見下ろした。
手が動かなかった。
青子が隣から、忉利の手の甲に自分の手を、そっと重ねた。
それから、その手ごと帳面のいちばん上の一冊に導いた。
◇
古い墨の字だった。
いろんな手の、いろんな時代の字。
――結ぶのは、いくらでも。切るのは、生涯に一度。
いちばん古い帳面の一頁目に、そう書かれていた。
頁をめくるごとに、時代が下っていく。
――重き縁、人の生き死にに関わる縁を切れば、切りし者の縁、一生分細る。故に、一度。
――軽き糸、物と物との糸、縁に非ざる結び目は幾度も切れる。然れど、切る度、己の縁、僅かずつ細る。目赤くなるは、細る証。血の出づるは、深く細る証。
――目の赤きを軽んずるべからず。赤き目を幾度も重ぬれば、重き縁一本を切りしに等しくなる。
忉利の指が、そこで止まった。
目が赤くなるのは、細る証。
血が出るのは、深く細る証。
この冬。
遊園地の月を見た後、右目から血が流れた。
旧校舎で四枚目の結界を切った時、右目から、また血が流れた。
――赤き目を幾度も重ぬれば、重き縁一本を切りしに等しくなる。
「……あのまま、あと何本か切ってたら」
忉利の声が掠れた。
青子の手が、忉利の手の上でぎゅっと締まった。
「……母さんと同じになってたのか。おれ」
宗佑は何も言わなかった。
ただ、自分の湯呑みを両手で包んでいた。
頁をめくる。
時代が下る。
字が柔らかくなっていく。
最後の一冊。
最後の数頁。
細い、きれいな、少し右上がりの字だった。
見たことのない字だった。
けれど、見た瞬間にわかった。
母の、字だった。
◇
――今日、店の前で泣いている女の子を、忉利が連れてきた。赤い靴を泥だらけにして。
――女の子と忉利の間に、縁が一本あった。細いけれど、とても固い縁。誰も結んでいないのに、最初から結ばっている。
――私は何もしなくていい。
――よかった。
青子の手が震えていた。
頁をめくる。
――晴華の胸から、暗い縁が一本伸びている。
――どこへ繋がっているのか見ようとした。見えなかった。ただ、とても暗い。とても早い。
――一週間考えた。
――切ります。
――後悔はありません。
次の頁。
字が少しだけ細くなっていた。
――切った。
――晴華の胸はきれいになった。
――私の縁が細くなっていくのが、わかる。痛くはない。ただ、少しずつ遠くなっていく。あの人の声が。忉利の声が。晴華の泣き声が。
――あの人には、全部話した。あの人は黙って、珈琲を淹れてくれた。いつもと同じ、苦くて後から甘い、あの人の珈琲。
次の頁。
字がもっと細くなっていた。
――忉利が空を見上げて、何かを数えている。
――見えている。たぶん、私と同じものが。
――言わない。
――あの子が、見えることに縛られずに普通に生きる方を、自分で選べるように。
――あの人と約束した。
最後の頁。
字はほとんど、糸のように細かった。
――忉利には見えないでいてほしい。
――それが無理なら。
――見える目で、何を切らないかを自分で決められる子に、なってほしい。
――あの赤い靴の女の子が、ずっと隣にいてくれますように。
それだけだった。
その下は白紙だった。
◇
座敷がしんと静まり返っていた。
縁側の向こうで、楠の若葉が風に揺れる音がしていた。
忉利は帳面を閉じられなかった。
最後の頁の糸のように細い字を、ずっと見ていた。
隣で青子が泣いていた。
声を立てずに。
肩を震わせて。
忉利の手の上に重ねた手を、一度も離さずに。
「……赤い靴の女の子」
青子が掠れた声で言った。
「私、……覚えてないのよ。何にも。おばさんの顔も。声も」
「……おれも、ほとんど覚えてねえ」
「なのに、おばさんは私のこと。……ずっと隣にいてくれますように、って」
青子は自分の顔を、もう片方の手で覆った。
宗佑が湯呑みを置いた。
「……墓は、裏の楠の下だ」
しわがれた声だった。
「縁は、喫茶店の家の墓じゃなくて、織部の墓に入りたいと言った。……見える者はみんな、あの楠の下に眠っている。網の根元に」
◇
楠の大木の根元に、小さな苔むした墓石が、いくつも並んでいた。
いちばん新しい墓石に、名前が刻まれていた。
――日景 縁。
十三年分の雨の跡が、石の表面を黒く染めていた。
忉利はその前に立った。
初めてだった。
母の墓の前に立つのは。
父は毎年、一人で来ていたのだろう。墓石の前に、まだ新しい白い菊が一輪、供えてあった。
忉利は目の奥の扉を、少しだけ開いた。
墓石から。
糸が伸びていた。
細い、古い、けれど少しもほどけていない、糸。
一本は、町の方へ。商店街の外れの喫茶店の方へ。父へ。
一本は、同じ方角へ。少しだけ明るい色で。晴華へ。
一本は、まっすぐに自分の胸へ。
十三年経っても。
母はまだ、結んでいた。
ほどけないように、願って結んだ結び目だった。
それから。
四本目があった。
墓石から自分の胸へ伸びる糸の、その途中から。
枝分かれして。
隣に立つ青子の胸へ。
細い、けれど確かな糸。
母は、会ったのは一度きりの、息子の隣の女の子とも縁を結んでいた。
息子に結んだ縁を辿って。
その先に誰がいるのかを、確かめて。
――あの赤い靴の女の子が、ずっと隣にいてくれますように。
「…………」
忉利は長いこと、何も言えなかった。
それから、隣の青子を見た。
青子は線が見えない。
ただ、忉利の顔を見て、何かが見えていることだけはわかる。
「……青子」
「……なに」
「お前にも一本、来てる」
「……え?」
「母さんから。……おれに結んだ縁から枝分かれして。お前に」
青子の目が見開かれた。
それから、ゆっくりと墓石の方を向いた。
青子は墓石の前にしゃがみ込んだ。
膝を抱えて。
長いこと、何も言わなかった。
楠の若葉が頭の上で揺れていた。
それから、小さな声で言った。
「……はじめまして」
震える声だった。
「蒼崎、青子です。……赤い靴の。覚えてないけど。……ずっと隣に、いました」
青子は墓石に額がつくほど、頭を下げた。
「……これからも、いますから」
忉利は青子の隣にしゃがんだ。
墓石を見た。
四つの時にいなくなった人。白い手と、珈琲の匂いのする髪の毛しか覚えていない人。
「……母さん」
初めて、呼んだ。
声に出して。
「見えてる。……ずっと。母さんと、同じもんが」
墓石から伸びる糸が、ほんのかすかに震えた気がした。
「普通には、生きられなかった。……悪い。でも」
忉利は隣の青子の手を取った。
「何を切らないかは、自分で決めてる。……こいつの隣で」
青子の指が、忉利の指の間でぎゅっと締まった。
◇
忉利は鞄から、父のお古の携帯用の焜炉と、小さなミルと、ネルを取り出した。
今朝、店に寄って、父から黙って渡されたものだった。
夜明け前ブレンドの、最後のひと握り。
湯を沸かす。豆を挽く。
ごり、ごり、と。
楠の下の静かな墓の前に、深煎りの匂いが広がっていった。
ネルに粉を落とす。湯を細く注ぐ。
粉が膨らむ。
カップを三つ出した。
一つを墓石の前に。
一つを青子に。
一つを自分に。
「……夜明け前ブレンド」
忉利は墓石に向かって言った。
「おれが焼いた。……親父に、十秒って言われたけど」
青子が、カップを両手で包んで墓石の隣に座った。
「おばさん。……名前、私がつけたんです。忉利の目の色と、同じ味がするからって」
忉利は自分のカップを一口飲んだ。
苦かった。
それから、後から甘かった。
墓石の前のカップから、湯気が細く立ちのぼっていた。
楠の枝の間を抜けて、四月の薄青い空へ。
湯気の中で、線が全部ほどけて見えた。
母が言っていたのと同じように。
◇
帰り際、楠の根元で忉利は足を止めた。
扉をもう一度、少しだけ開く。
古い方の網の結び目。楠の根に、何重にも巻きつくように、何百年分の誰かの手の結び目が、重なっていた。
その中の一本が、ほつれていた。
細い糸の端がほどけかけて、風に揺れている。
忉利は手を伸ばした。
見える。切れる。ほどける。
それは子供の頃から、できた。
結ぶのは。
指先を、ほつれた糸の端に近づける。見えている糸を、見えているもう一本の端に寄せようとする。
指が、糸に触れなかった。
見えているのに、指の方がどこに触ればいいのか、わからなかった。
糸は忉利の指の間を、すり抜けるように揺れた。
「……結べねえ」
忉利は呟いた。
背後で宗佑が、小さく笑う気配がした。
「縁も、最初は下手だった」
「…………」
「切るのは、目でできる。結ぶのは、手でやる。……見える者はみんな、そう言っていた。目の方が先に育つ。手は、後から覚える」
宗佑は楠の幹に、皺だらけの手を当てた。
「縁は、切った後、よくここに座っていた。細くなっていく自分を、この網に預けるみたいにな。……それで、ほつれたところを一目ずつ結び直していた。最後の冬まで」
忉利はほつれた糸を見下ろしていた。
それから、隣の青子を見た。
青子は何のことかわからない顔で、首を傾げた。
「……なによ」
「……いや」
忉利はほつれた糸から手を引いた。
「いつか覚える。……結ぶ方も」
「?」
「母さんの残りの半分だ」
宗佑が楠の根元で、深く頷いた。
◇
神社の石段を下りながら。
忉利はぼそりと言った。
「……切るたびに薄くなるはずだったんだ」
青子が隣を歩きながら、忉利の顔を見た。
「おれも。母さんみたいに。……帳面に書いてあったろ。赤い目を重ねたら、重いの一本と同じになるって」
「……うん」
「この冬、おれ、ぎりぎりだった。……たぶんあと二、三本で」
青子の足が一瞬、止まりかけた。
「なのに」
忉利は自分の右目に、指先で触れた。
「旧校舎の屋上から。一回も痛くねえ。血も出ねえ。……あの女のでかい紋様、切った時も」
「…………」
「こないだの夜、見たら。……削れた痕の上に、お前の色の糸が巻いてあった」
青子は何も言えなかった。
「なんでなのかわかんねえ」
忉利は石段の下の、三咲の町を見下ろした。
「……爺さんに訊きに行く」
青子は長いこと黙っていた。
それから、忉利の左手首を掴んだ。
「一緒に行くわよ」
「……ああ」
「当たり前でしょ。……お祖父ちゃんは、私のお祖父ちゃんなんだから」
それから、少しだけ声を落とした。
「……それに。私の色の糸の話なら。私が聞かなきゃ」
◇
昼過ぎ、坂の上の洋館の露台で。
有珠が紅茶を淹れていた。
三分半。
この冬から毎朝、忉利が量ってきた時間。
庭では草十郎がしゃがみ込んで、何かの苗に如雨露で水をやっていた。
先月、ホワイトデーの朝に草十郎が芽を出させて有珠に渡した、あの薔薇。小さな、柔らかい、赤みがかった若葉を四月の光に広げていた。
「……織部の神社に行ってきたのね」
有珠は二人の顔を見ただけで、言った。
「なんで、わかる」
「楠の匂いがするわ。……それに、青子の目が赤いもの」
「――っ、赤くないわよ」
「赤いわ」
有珠は二人の前にカップを置いた。
「あの神社の人たちは、蒼崎が来るずっと前から、この町の古い方の網を守ってきたの。……魔術師ではないから、協会の帳簿には載っていないけれど」
「……知ってたのかよ」
「知っていたわ。この屋敷のいちばん古い地図には、あの楠の場所に印がついているもの。……母がつけた印よ」
有珠は紅茶を一口飲んだ。
「あなたのお母様が織部の人だとは、知らなかったけれど」
それから有珠は、忉利の目をじっと見た。
灰色の虹彩の縁の、夜明け前の青の輪を。
十二月の夜明け前に旧校舎の屋上で、痛みひとつない澄み切った目で、自分の中の爆弾をほどいた目を。
「……それで、蒼崎のお祖父様のところへ行くのね」
「なんで、わかる」
「顔に書いてあるわ。……二人とも」
有珠はカップを受け皿に戻した。
「行きなさい。あの人は、この町の網の根元だもの。……古い方の網の根元が、あの楠なら。あの人は、きっと、その両方を知っている」
それから、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……聞いた後で。また、ここに紅茶を飲みに来なさい。三分半で、待っているから」
庭で草十郎が、如雨露を置いて立ち上がった。
露台を見上げた。
「……日景。蒼崎。どこかへ、行くのか」
「北の山」
忉利が言った。
「……冬に三人で行った、あそこか」
「ああ」
「そうか」
草十郎は少しだけ考えた。
「まだ、上の方は雪が残っているはずだ。……靴は、濡れてもいいものを履いていけ」
青子はテーブルの下で、忉利の手首を握っていた。
ずっと。
有珠は、それを見ないふりをしていた。
クロリンデの小説、一時に上がります。
まとめて上げます。どかっと最初から最後まで。
イギリスに留学中していた時に、暇な時間に喫茶店をはしごしまくって書いてたのを思い出してとても懐かしい気持ちになりましたね。
まあ、型月作品でもないんで、読む人は少ないと思いますが、原神好きな人は覗いてみてください。
マジで確認していないんで、原作の設定との差異や、誤字などあったらガンガンツッコんでください。
シエルの小説満足度調査
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