―――繕う、という言葉がある。
破れたところに、布を当てる。ほつれたところを、糸で縫い合わせる。
元には戻らない。
破れた跡は、跡のまま、残る。
けれど、繕われた布は、また使える。
何年でも。何十年でも。
繕い続ける手が、そこにある限り。
◇
次の土曜日。
北の山には、まだ雪が残っていた。
麓の田んぼには、もう水が張られ始めていた。けれど、鏡野の丘を越えて杉林に入ると、日の当たらない斜面の窪みごとに、灰色に汚れた固い雪がまだらに残っていた。
四ヶ月前の十二月。
草十郎が先頭を歩いた道だった。雪の深さを足の裏で探るように。
今日は二人だけだった。
青子は、山の麓で忉利の手を取った。
それから、一度も離さなかった。
斜面が急になっても。倒木を跨ぐ時も。残雪のぬかるんだ縁に足を取られて、忉利の肩にしがみついた時も。
「……歩きにくくねえか。手、繋いだままで」
「歩きにくいわよ」
「なら――」
「離さない」
青子は前を向いたまま言った。
「今日は、離さないって決めてるの」
忉利は、それ以上何も言わなかった。
握られた手を握り返した。
杉の枝から、溶けかけた雪の塊がぼたりと落ちた。
「……十二月」
しばらく歩いてから、青子が言った。
「私、ここに来たの。静希くんの記憶、消してもらおうと思って」
「知ってる。……聞こえてた」
「お祖父ちゃんに断られた。消せぬものは、消せぬって」
「言ってたな」
「……あんたにも何か言ってたでしょ。あの時。私、外に出されてたから」
忉利は少しだけ考えた。
「死者に用はない。……だが、お前はまだ死者ではないな、って」
「…………」
「それから、何を切らないか決めるための目だ、って」
青子の手が、忉利の手の中で、きゅっと締まった。
「……今日は、私も、全部聞くから」
「ああ」
「外に出されても、出ないから」
「……出されねえだろ、たぶん」
「出されても、よ」
◇
昼前、林が途切れた。
小さな谷の底に、古い家があった。蒼崎の家。黒く煤けた板壁。茅葺きの屋根の、北側の半分に、まだ雪が残っていた。雨戸は閉ざされたままだった。
十二月と何も変わっていなかった。
家の裏手の細い道を、谷の奥へ。
岩壁の裾の、黒い洞穴の口。古い注連縄が、雪解け水に濡れて垂れ下がっている。
忉利は、目の奥の扉を開いた。
息を呑んだ。
線が、岩壁の中から噴き出していた。
十二月にも見た。三咲の町を編み上げる、蒼崎の網の根元。太く、古く、ゆっくりと脈打つ線が、何千本も洞穴の口から町の方へ。
けれど今日は、もう一つ見えた。
その太い線の束のさらに下に。
地面のもっと深いところを這うように。
細い、柔らかい、無数の糸が網になって広がっていた。
指で、一目ずつ結んだような網。ところどころがほつれて。ところどころが結び直されて。
先週、神社の楠の根元で見たあの網と同じだった。
その古い網の糸が何本も、この洞穴の中へ吸い込まれていた。
「……ここにも来てる」
忉利が呟いた。
「古い方の網が。……この洞穴の奥まで」
十二月には見えなかった。
あの時は、目の奥の扉を、まだ半分しか開けられなかった。
青子は洞穴の口を見上げていた。
蒼崎の後継者の顔で。
それから、忉利の手を握り直した。
「……行くわよ」
◇
洞穴の中は暗かった。
けれど、寒くはなかった。岩の壁が、かすかに温かかった。
狭い通路を進むと、広い空洞に出た。
天井も壁も見えない、真っ暗な空間。
その真ん中に、青白い小さな灯りが一つだけ浮かんでいた。
「――お祖父ちゃん」
青子が言った。
しばらく何も起きなかった。
それから、声がした。
洞穴の壁から。天井から。足元の岩から。空気そのものから。
低くて、乾いていて、少しだけ笑っているような老人の声。
『――来たか。二人で』
「……来たわよ」
『四ヶ月ぶりか。……今度は、あの山育ちの少年は連れてこなかったのだな』
青白い灯りがゆらりと揺れた。
『織部の墓に、行ったな』
忉利の手が、青子の手の中で強張った。
「……知ってたのかよ」
『この山の中にいても、網の震えは届く。……古い方の網が、先週、少しだけ震えた。縁の墓の前で、見える者が泣きもせずに立っていた』
忉利は何も言えなかった。
「……お祖父ちゃん」
青子の声が低かった。
「織部の網のこと。……一回も言わなかったわね。十二月に来た時も」
『訊かれなかった』
「――っ、そういうことじゃないでしょ!」
『そういうことだ』
声は平然と言った。
『蒼崎は、あの古い網の上に自分たちの網を張った。……借りたのだ。何百年も前に。織部の者たちが、それを許した。見えない魔術師どもに、見える者の網を貸してやった』
灯りがゆっくりと、忉利の方へ揺れた。
『今日は外に出ていなくていい。青子。……二人とも、聞きなさい』
◇
『少年。お前の目は、織部の目だ』
声は静かに語り始めた。
『生まれた時から見えていたのは、縁だ。人と人、人と物、物と物を繋ぐ糸。……十二月に、ここで、私はお前の目を、網の外から網を切った目、と言った』
「……言ってた」
『あれは比喩ではない。お前の目は、蒼崎の網よりも古い網を見る目だ。だから、蒼崎の網の外に立っていた。……外から、切れた』
『それから、もう一つ言ったな。何を切らないかを決める目だ、と』
「……ああ」
『あれは私の言葉ではない。……織部の、見える者たちの言葉だ。縁が、この洞穴で私にそう言ったことがある。まだ、神社にいた頃に。網の貸し借りの話をしに来た時に』
青子が息を呑んだ。
「……お祖父ちゃん、おばさんに会ったことが」
『ある。……聡い子だった。見えすぎて、疲れている子だった』
声がほんの少しだけ柔らかくなった。
『――さて。この冬、お前は、軽い線を何度も切った。人形の糸。月の糸。魔女の結界。……旧校舎の、姉の壁』
「…………」
『そのたびに、細っていた。右目が赤くなり、血が流れた。……あれは、お前の縁が削れていく音だった。あのまま、あと三本切っていれば。お前は、母親と同じ道を辿った』
忉利の手が、青子の手の中で冷たくなっていた。
「……じゃあ」
忉利が言った。
「なんで、今は平気なんだ」
声が少しだけ掠れていた。
「屋上から一回も、痛くねえ。血も出ねえ。……あの女の、でかいの、切った時も」
◇
『旧校舎で、お前は一度、死んだ』
声は言った。
『青子が、お前の死を時間の果てに捨てた。……それから、焼き切れたお前の目を作り直した』
青白い灯りが青子の方に揺れた。
『青子。お前はあの時、何を使った』
「……魔法よ。……時間。この子の十年」
『そうだ。この子の十年を借りて魔法を回し、この子の目を編み直した。……返す時に、その十年と一緒に、お前の魔法の一部がこの子の目の中に、編み込まれたまま残った』
青子の顔から血の気が引いていった。
『少年の目の縁の、あの青。……夜明け前の空の色、とお前たちは言うのだろう』
「…………」
『比喩ではない。あれは青子の魔法の色、そのものだ』
忉利は自分の右目に、指先で触れた。
洗面所の鏡で、この冬から毎朝見てきた。灰色の虹彩の、いちばん外の縁の細い輪。
母から継いだ、灰色と。
青子から受け取った、青。
『青子の魔法は、時間に触れる魔法だ。……だから、お前の目の中の青は、時間の糸でできている』
声がゆっくりと言葉を選んでいた。
『お前が切るたびに、縁は削れる。……だが、削れた瞬間に、その青い時間の糸が、削れる前の長さに繕い戻す。時間を少しだけ巻き戻すようにして』
忉利は息を止めた。
あの夜。坂道の暗がりで、自分の胸に見た青い糸。
削れた痕の上に何重にも巻きついて、一目ずつ繕っていた糸。
『だから、痛まない。血も出ない。何度切っても細くならない』
灯りが忉利の前で止まった。
『母親の目で、母親にはできなかったことが、できる。……それが今のお前の目だ』
◇
青子が口を開いた。
声がうまく出なかった。
一度閉じて、もう一度開いた。
「……それって」
震える声だった。
「ただで済んでるわけじゃ、ないわよね」
声はすぐには答えなかった。
青白い灯りがゆっくりと揺れた。
『済んでいない』
静かな声だった。
『お前たちは、もう聞いているのだろう。……二十歳を少し過ぎたあたりで、二人とも歳を取らなくなると』
「……有珠から」
忉利が言った。
「十二月に。……おれの時計は青子と同じぜんまいで動いてる、って」
『そうだ。……あれは、この繕いの裏側だ』
青白い灯りがゆっくりと揺れた。
『時間の糸で縁を繕い続ければ。……繕われる縁は、少しずつ時間の側に寄っていく。削れるたびに、元の長さに巻き戻される。何度も、何度も』
「…………」
『青子の魔法は、青子自身の時間を使っている。その魔法の糸が、この少年の中でずっと働いている。……二人の時間は、一本の糸で繋がっている』
青子の指が忉利の手を、痛いほど握っていた。
『繋がった二つの時間は。……いずれ、一つの輪になって閉じる。お前たちが有珠から聞いたのは、その結び目のことだ』
「…………」
『つまり、少年。……お前の目が痛まないのと、お前たちの時間が止まるのとは、同じ一本の糸の表と裏だ。片方だけを取ることは、できん』
青子の膝が、がくりと折れかけた。
忉利がその腕を掴んだ。
◇
『それから、もう一つ』
声は続けた。
『青子。お前は、この少年の死を時間の果てに捨てた。……その重石が、お前の時間をずっと引いている』
「……知ってる」
青子の声は掠れていた。
「……なんとなく。あの夜から。背中に何か、ぶら下がってる感じがするの」
『忘れるな。……お前の時間が、その重石に引かれてほつれたら。お前の魔法の糸が、切れたら』
灯りが忉利の方へ揺れた。
『繕いが止まる。……十二月から、この少年が切ってきた全部の分が。青い糸が巻き戻して、なかったことにしてきた分が。一度に、返ってくる』
「……一度に」
『母親が一年かけてほどけた道を。……一晩で、辿る』
青子は忉利の腕にしがみついていた。
顔が真っ白だった。
忉利が口を開いた。
「……おれは、何なんだ」
声は平らだった。
「織部の目で。青子の魔法が入ってて。……そのせいで、時間まで止まって。……なんなんだよ、おれは」
灯りが忉利の前で止まった。
『織部の目と、魔法使いの魔法と。……その二つが一人の人間の中で撚り合わされたものなど、この世界のどこにも、例がない』
「…………」
『いずれ、お前のことをそう見る者も現れるだろう。この世界の縫い目だの、どこにもない綻びだの、と。……魔術師という連中は、そういう名前をつけたがる』
声がほんの少しだけ笑った。
『私はそうは見ない。……お前は、喫茶店の子だ』
忉利は瞬きをした。
『母親の目を持って。青子の魔法を半分抱えて。……それで、朝に珈琲を淹れている』
灯りがゆらりと揺れた。
『それだけのものだ。……少なくとも、私にはそう見える』
忉利は、長いこと何も言わなかった。
それから、ぼそりと言った。
「……答えになってねえぞ」
『答えは、やらん。……お前が決めることだ』
◇
「……繕いが止まらねえ方法は、ねえのか」
忉利が訊いた。
青子の手が、忉利の手の中で跳ねた。
『ない』
声はあっさりと言った。
『青子の時間がほつれないようにする。それだけだ。……二人の時間が並んでいる限り、繕いは続く。片方だけで生きようとするな』
「…………」
『――ただし』
灯りがほんの少しだけ揺れた。
『結ぶのは、手でやる。……少年。お前の手は、まだ結び方を知らん』
「……先週、神社で結べなかった」
『いつか覚える。縁も、最初は下手だった』
声がほんの少しだけ笑った。
『お前の手が結ぶ方を覚えたら。……今度は、お前の手で青子の時間を繕えるかもしれん。重石に引かれて、ほつれかけた時に』
青子が息を呑んだ。
『青子の魔法が、お前を繕い。お前の手が、青子を繕う。……二重に繕われた布は、そう簡単には破れん』
『それができるかどうかは、知らん。織部の見える者で、魔法使いの隣にいた者は一人もいないからな』
青白い灯りがすうっと小さくなった。
『行きなさい。……縁が、この洞穴で最後に言ったことを教えておこう』
「…………」
『――いつか、あの子がここに来たら。何を切らないか、自分で決めなさい、と伝えてください』
灯りが、消えた。
◇
洞穴を出ると、谷に細い雨が降り始めていた。
春の冷たい雨だった。
青子は、洞穴の口の脇の溶け残った雪の上に座り込んだ。
膝を抱えて。
顔を膝に埋めて。
「……青子」
「……私の魔法が」
くぐもった声だった。
「あんたを削れないでいてくれたの」
「…………」
「知らなかった。……十二月、あんたを取り返すのに必死で。何をどう編んだのか、自分でも、よくわかってなかった」
青子の肩が震えていた。
「その後、あんたが屋上で痛くないって言った時。……よかったって、思った。それだけ。何にも、考えなかった」
「…………」
「でも、違ったのね。……あんたのお母さん、一回切って、いなくなったのに」
青子は、顔を上げた。
目が真っ赤だった。
「あんたは、私のせいで何回でも切れちゃう。……それで、あんたの時間まで止まっちゃう。二十歳で。……私の、せいで」
言葉が続かなかった。
忉利は、青子の隣にしゃがんだ。
溶け残った雪の上に。
青子の、膝を抱えた手の上に、自分の手を重ねた。
「……お前のせいじゃねえ」
低い声だった。
「お前の、おかげだ」
青子の目が見開かれた。
「母さんは、一回切って、薄くなって、いなくなった。……晴華のために一回だけ切って。それで、全部終わった」
「…………」
「おれは何回切っても、ここにいる。……お前の隣に」
忉利は、青子の手を握った。
「母さんの帳面の最後の頁。……見える目で、何を切らないか自分で決められる子に、って。それから、赤い靴の女の子がずっと隣にいてくれますように、って」
青子の唇が震えた。
「……それって。母さんが一番欲しかったやつだろ」
春の雨が二人の肩に降っていた。
「見える目で。普通に。……好きな奴の隣にいる」
忉利は、少しだけ口の端を持ち上げた。
「時間が止まんなら、止まったまんま隣にいりゃいい。……お前の時間も一緒に止まんだろ。なら、同じだ」
青子は何も言えなかった。
ただ、忉利の胸に額を押しつけた。
雨の中で、長いことそうしていた。
◇
夕方。
雨が上がった帰り道の、尾根の上で。
三咲の町が、眼下に広がっていた。
雲の切れ間から差す夕陽が、町の屋根を赤く染めていた。商店街の、アーケードの屋根。坂の上の、洋館の尖塔。西の外れの、神社の楠の梢。
忉利は尾根の岩の上に立った。
「……見てみる」
「……何を」
「全部」
青子の手が忉利の手首を掴んだ。
「……切らないでよ」
「見るだけだ」
忉利は、目の奥の扉を開いた。
全部。
最後の蝶番まで。
虹彩が、真昼の青に満ちた。
青子はその目を、隣から見上げていた。
初めて見る目だった。
背骨の奥が、ほんの少しだけ冷たくなった。
けれど、手首は離さなかった。
――見えた。
町を覆う蒼崎の網。硬く、規則正しく、定規で引いたような。
その下の、織部の網。柔らかく、一目ずつ結ばれた、何百年分の誰かの手の網。
二枚の網の上に、町の全部が乗っていた。
HIKAGEと。坂の上の屋敷と。西の神社と。細い縁で繋がっていた。
店のカウンターから、父の線。晴華の線。
屋敷の庭から、有珠の線。薔薇の苗の脇にしゃがんでいる草十郎の線。
神社の楠の根元から、母の四本の糸。
それから。
自分の胸を見た。
糸が伸びていた。
母の墓へ。父へ。晴華へ。
隣の青子へ。いちばん太く。いちばん固く。年中の赤い靴の日から、ずっとほどけない結び目で。
それから、もう一本。
どこにも繋がっていない線が、あった。
町の方にも、空の方にも、誰の方にも伸びていない。ただ、自分の胸の真ん中から、世界のずっと向こうの見えない場所へ、まっすぐに伸びている一本の線。
時間の果ての方へ。
十二月に、青子が自分の死を捨てに行った方へ。
そして、その全部を。
自分の胸の全部の糸を。
青い、細い糸が繕っていた。
夜明け前の空の色で。
一目ずつ。
忉利は、扉を閉じた。
真昼の青が引いていった。
◇
「……母さんの目で」
忉利は夕陽の町を見下ろしたまま、言った。
「お前の魔法で。……そのうち時間が止まる。それが全部、一本の糸だって、ことだろ」
「…………」
「で」
忉利は隣の青子を見た。
「何を切らないか決めるのは、おれだ」
青子の目が揺れた。
「それだけは誰の目でもねえ。母さんのでも、お前のでも、爺さんのでも。……おれが、決める」
夕陽の中で、青子は長いこと忉利の顔を見ていた。
それから、少しだけ笑った。
笑い方が下手だった。
「……ねえ」
「ん」
「私の魔法。……あんたの目の中に置きっぱなしなんだけど」
「ああ」
「返してほしいって、言ってもいい?」
「やだ」
即答だった。
「――なんでよ」
「おれの、半分だからだ」
青子は口を開けたまま、固まった。
それから、顔を真っ赤にして忉利の脛を蹴った。
「……じゃあ」
蹴った足を下ろして。
忉利の手首を、もう一度握り直した。
「私の時間、ほつれないように。……ずっとそばにいなさいよ」
「言われなくても」
それから、忉利は少しだけ考えて。
「……結ぶ方、覚える」
「?」
「お前の時間が、ほつれかけたら。……おれの手で繕えるように」
青子は、何も言えなかった。
「何十年あっても足りねえかもしれねえけど。……時間なら、たぶんいくらでもあるだろ。おれら」
◇
夜。
Cafe HIKAGEの閉店後のカウンター。
壁のメニューの、いちばん端の空いている釘の下で。
父と、忉利と、青子が座っていた。
忉利が、母の墓の話をした。
四本の糸のこと。四本目が青子に伸びていたこと。
洞穴の話は、しなかった。
時間のことは。
父は、長いこと黙っていた。
それから、青子を見た。
ほんの少しだけ、目元が緩んだ。
「……そうか」
低い声だった。
「……母さんらしい」
父は、立ち上がった。
カウンターの奥の古い戸棚の、いちばん下の引き出しを開けた。
中から、小さな木の箱を取り出した。
角の擦り切れた桐の箱。蓋に小さな梅の花が彫られていた。
父はそれを、青子の前に置いた。
「……母さんの裁縫箱だ」
青子の手が止まった。
「ネルを縫ってた。母さんは。……俺の、店を開けた時の最初のネル。去年のクリスマスに、こいつに渡したやつだ」
忉利は瞬きをした。
クリスマスの朝。父から黙って渡された、古い、よく使い込まれたネル。
あれは、母が縫ったものだった。
「……青子ちゃん。裁縫は」
「……へたくそです」
青子は正直に言った。
「家庭科、いつもぎりぎりで。……ボタンつけるのも三回やり直すくらい」
「そうか」
父は裁縫箱の蓋を、そっと開けた。
中に針山と、何色もの糸の巻きと、小さな和鋏と、使い込まれた指ぬきが、きちんと並んでいた。
十三年、誰も開けていなかった箱だった。
「母さんも、最初は下手だった。……ネル一枚縫うのに、何ヶ月もかかってた」
父は、青子の顔を見た。
「母さんは言ってた。……切るのは、目でできる。結ぶのは、手でやる」
「…………」
「こいつの手は、まだ結び方を知らんだろう。……覚えるまで、青子ちゃんが持っててくれ」
青子は長いこと、裁縫箱を見下ろしていた。
それから、両手でそっと蓋を閉めて。
胸に抱きしめた。
「……はい」
小さな声だった。
「預かります。……ずっと」
◇
忉利はカウンターの内側に入って、ネルを手に取った。
母が縫った、ネル。
三人分。
湯を、細く。
粉が、膨らむ。
父の前に一杯置いた。
父は、それを一口飲んだ。
長いこと黙っていた。
「……十秒」
ぼそりと言った。
「……遅えのかよ」
「蒸らしが十秒、長い」
父はカップを受け皿に戻した。
「考え事をしながら淹れたな」
「…………」
「……母さんも、そうだった。考え事をすると、十秒長くなった」
二階から、晴華の足音が下りてきた。
階段の途中で止まった。
「……ねえ。もう、終わった?」
晴華が手すりの隙間から、顔だけ覗かせていた。
「わたしにも教えてくれるの? 仲間はずれの話」
忉利は、晴華の顔を見た。
目の奥の扉を閉じたまま。
閉じたまま、知っていた。
晴華の胸から、あの暗い縁がもうどこにも伸びていないことを。
十四年前、母が一生に一度を使って、切ったから。
晴華には話さない。
知ってて、言わない。
父と同じように。
母と同じように。
「……そのうちな」
「えー。お兄ちゃん、それ絶対教えないやつじゃん」
「うるせえ。……ほら、晴華の分」
忉利は四つ目のカップに、牛乳をたっぷり入れた甘いカフェオレを淹れた。
晴華は唇を尖らせたまま階段を下りてきて、カウンターの端に座った。
カップを両手で持って、一口飲んだ。
「……おいしい」
カウンターの下で。
青子の手が、忉利の左手首をそっと握っていた。
止めるためでは、なかった。
繕っている糸の、その上から。
ここにいることを確かめるように。
ストックが尽きた後の、今後についてのアンケートを載せました。
気軽に投票お願いします。
こんな話が見たい、などの要望もOKです。
例えば、高校でのラブコメ的なエピソード見たい。的な
ちなみに2人が三咲を経ってしばらくの間まではストックあります。
アンケートの下二つは時間かかると思います。
シエルの小説満足度調査
-
めちゃよかった
-
よかった
-
そこそこ
-
びみょう