夜明けの色を見る眼   作:にんら

29 / 29
母の糸 3/3

 ―――繕う、という言葉がある。

 

 破れたところに、布を当てる。ほつれたところを、糸で縫い合わせる。

 

 元には、戻らない。

 

 破れた跡は、跡のまま、残る。

 

 けれど、繕われた布は、また、使える。

 

 何年でも。何十年でも。

 

 繕い続ける手が、そこにある限り。

 

 

 

 次の土曜日。

 

 北の山には、まだ、雪が残っていた。

 

 麓の田んぼには、もう、水が張られ始めていた。けれど、鏡野の丘を越えて、杉林に入ると、日の当たらない斜面の窪みごとに、灰色に汚れた、固い雪が、まだらに残っていた。

 

 四ヶ月前の、十二月。

 

 草十郎が先頭を歩いた道だった。雪の深さを、足の裏で探るように。

 

 今日は、二人だけだった。

 

 青子は、山の麓で、忉利の手を取った。

 

 それから、一度も、離さなかった。

 

 斜面が急になっても。倒木を跨ぐ時も。残雪の、ぬかるんだ縁に足を取られて、忉利の肩にしがみついた時も。

 

「……歩きにくくねえか。手、繋いだままで」

 

「歩きにくいわよ」

 

「なら――」

 

「離さない」

 

 青子は、前を向いたまま、言った。

 

「今日は、離さないって、決めてるの」

 

 忉利は、それ以上、何も言わなかった。

 

 握られた手を、握り返した。

 

 杉の枝から、溶けかけた雪の塊が、ぼたりと、落ちた。

 

「……十二月」

 

 しばらく歩いてから、青子が、言った。

 

「私、ここに来たの。静希くんの記憶、消してもらおうと思って」

 

「知ってる。……聞こえてた」

 

「お祖父ちゃんに、断られた。消せぬものは、消せぬって」

 

「言ってたな」

 

「……あんたにも、何か、言ってたでしょ。あの時。私、外に出されてたから」

 

 忉利は、少しだけ、考えた。

 

「死者に用はない。……だが、お前は、まだ、死者ではないな、って」

 

「…………」

 

「それから、何を切らないか、決めるための目だ、って」

 

 青子の手が、忉利の手の中で、きゅっと、締まった。

 

「……今日は、私も、全部、聞くから」

 

「ああ」

 

「外に出されても、出ないから」

 

「……出されねえだろ、たぶん」

 

「出されても、よ」

 

 

 

 

 昼前、林が、途切れた。

 

 小さな谷の底に、古い家があった。蒼崎の家。黒く煤けた板壁。茅葺きの屋根の、北側の半分に、まだ、雪が残っていた。雨戸は、閉ざされたままだった。

 

 十二月と、何も、変わっていなかった。

 

 家の裏手の細い道を、谷の奥へ。

 

 岩壁の裾の、黒い、洞穴の口。古い注連縄が、雪解け水に濡れて、垂れ下がっている。

 

 忉利は、目の奥の扉を、開いた。

 

 息を、呑んだ。

 

 線が、岩壁の中から、噴き出していた。

 

 十二月にも見た。三咲の町を編み上げる、蒼崎の網の、根元。太く、古く、ゆっくりと脈打つ線が、何千本も、洞穴の口から、町の方へ。

 

 けれど、今日は、もう一つ、見えた。

 

 その太い線の束の、さらに下に。

 

 地面の、もっと深いところを這うように。

 

 細い、柔らかい、無数の糸が、網になって、広がっていた。

 

 指で、一目ずつ、結んだような網。ところどころが、ほつれて。ところどころが、結び直されて。

 

 先週、神社の楠の根元で見た、あの網と、同じだった。

 

 その古い網の糸が、何本も、この洞穴の中へ、吸い込まれていた。

 

「……ここにも、来てる」

 

 忉利が、呟いた。

 

「古い方の網が。……この洞穴の、奥まで」

 

 十二月には、見えなかった。

 

 あの時は、目の奥の扉を、まだ、半分しか、開けられなかった。

 

 青子は、洞穴の口を、見上げていた。

 

 蒼崎の後継者の顔で。

 

 それから、忉利の手を、握り直した。

 

「……行くわよ」

 

 

 

 

 洞穴の中は、暗かった。

 

 けれど、寒くはなかった。岩の壁が、かすかに、温かかった。

 

 狭い通路を進むと、広い空洞に出た。

 

 天井も、壁も、見えない、真っ暗な空間。

 

 その真ん中に、青白い、小さな灯りが、一つだけ、浮かんでいた。

 

「――お祖父ちゃん」

 

 青子が、言った。

 

 しばらく、何も起きなかった。

 

 それから、声が、した。

 

 洞穴の壁から。天井から。足元の岩から。空気そのものから。

 

 低くて、乾いていて、少しだけ、笑っているような、老人の声。

 

『――来たか。二人で』

 

「……来たわよ」

 

『四ヶ月ぶりか。……今度は、あの山育ちの少年は、連れてこなかったのだな』

 

 青白い灯りが、ゆらりと、揺れた。

 

『織部の墓に、行ったな』

 

 忉利の手が、青子の手の中で、強張った。

 

「……知ってたのかよ」

 

『この山の中にいても、網の震えは、届く。……古い方の網が、先週、少しだけ、震えた。縁の墓の前で、見える者が、泣きもせずに、立っていた』

 

 忉利は、何も、言えなかった。

 

「……お祖父ちゃん」

 

 青子の声が、低かった。

 

「織部の網のこと。……一回も、言わなかったわね。十二月に来た時も」

 

『訊かれなかった』

 

「――っ、そういうことじゃないでしょ!」

 

『そういうことだ』

 

 声は、平然と、言った。

 

『蒼崎は、あの古い網の上に、自分たちの網を張った。……借りたのだ。何百年も前に。織部の者たちが、それを許した。見えない魔術師どもに、見える者の網を、貸してやった』

 

 灯りが、ゆっくりと、忉利の方へ、揺れた。

 

『今日は、外に出ていなくていい。青子。……二人とも、聞きなさい』

 

 

 

 

『少年。お前の目は、織部の目だ』

 

 声は、静かに、語り始めた。

 

『生まれた時から、見えていたのは、縁だ。人と人、人と物、物と物を繋ぐ、糸。……十二月に、ここで、私は、お前の目を、網の外から網を切った目、と言った』

 

「……言ってた」

 

『あれは、比喩ではない。お前の目は、蒼崎の網よりも古い網を、見る目だ。だから、蒼崎の網の外に、立っていた。……外から、切れた』

 

『それから、もう一つ、言ったな。何を切らないかを決める目だ、と』

 

「……ああ」

 

『あれは、私の言葉ではない。……織部の、見える者たちの言葉だ。縁が、この洞穴で、私に、そう言ったことがある。まだ、神社にいた頃に。網の貸し借りの話をしに来た時に』

 

 青子が、息を呑んだ。

 

「……お祖父ちゃん、おばさんに、会ったことが」

 

『ある。……聡い子だった。見えすぎて、疲れている子だった』

 

 声が、ほんの少しだけ、柔らかくなった。

 

『――さて。この冬、お前は、軽い線を、何度も切った。人形の糸。月の糸。魔女の結界。……旧校舎の、姉の壁』

 

「…………」

 

『そのたびに、細っていた。右目が赤くなり、血が流れた。……あれは、お前の縁が、削れていく音だった。あのまま、あと三本、切っていれば。お前は、母親と、同じ道を辿った』

 

 忉利の手が、青子の手の中で、冷たくなっていた。

 

「……じゃあ」

 

 忉利が、言った。

 

「なんで、今は、平気なんだ」

 

 声が、少しだけ、掠れていた。

 

「屋上から、一回も、痛くねえ。血も、出ねえ。……あの女の、でかいの、切った時も」

 

 

 

 

『旧校舎で、お前は、一度、死んだ』

 

 声は、言った。

 

『青子が、お前の死を、時間の果てに捨てた。……それから、焼き切れたお前の目を、作り直した』

 

 青白い灯りが、青子の方に、揺れた。

 

『青子。お前は、あの時、何を使った』

 

「……魔法よ。……時間。この子の、十年」

 

『そうだ。この子の十年を借りて、魔法を回し、この子の目を編み直した。……返す時に、その十年と一緒に、お前の魔法の一部が、この子の目の中に、編み込まれたまま、残った』

 

 青子の顔から、血の気が、引いていった。

 

『少年の目の縁の、あの青。……夜明け前の空の色、と、お前たちは言うのだろう』

 

「…………」

 

『比喩ではない。あれは、青子の魔法の色、そのものだ』

 

 忉利は、自分の右目に、指先で、触れた。

 

 洗面所の鏡で、この冬から、毎朝、見てきた。灰色の虹彩の、いちばん外の縁の、細い輪。

 

 母から継いだ、灰色と。

 

 青子から受け取った、青。

 

『青子の魔法は、時間に触れる魔法だ。……だから、お前の目の中の青は、時間の糸で、できている』

 

 声が、ゆっくりと、言葉を、選んでいた。

 

『お前が切るたびに、縁は、削れる。……だが、削れた瞬間に、その青い時間の糸が、削れる前の長さに、繕い戻す。時間を、少しだけ、巻き戻すようにして』

 

 忉利は、息を、止めた。

 

 あの夜。坂道の暗がりで、自分の胸に見た、青い糸。

 

 削れた痕の上に、何重にも巻きついて、一目ずつ、繕っていた糸。

 

『だから、痛まない。血も、出ない。何度切っても、細くならない』

 

 灯りが、忉利の前で、止まった。

 

『母親の目で、母親には、できなかったことが、できる。……それが、今のお前の目だ』

 

 

 

 

 青子が、口を、開いた。

 

 声が、うまく、出なかった。

 

 一度、閉じて、もう一度、開いた。

 

「……それって」

 

 震える声だった。

 

「ただで、済んでるわけじゃ、ないわよね」

 

 声は、すぐには、答えなかった。

 

 青白い灯りが、ゆっくりと、揺れた。

 

『済んでいない』

 

 静かな声だった。

 

『お前たちは、もう、聞いているのだろう。……二十歳を少し過ぎたあたりで、二人とも、歳を取らなくなると』

 

「……有珠から」

 

 忉利が、言った。

 

「十二月に。……おれの時計は、青子と同じぜんまいで動いてる、って」

 

『そうだ。……あれは、この繕いの、裏側だ』

 

 青白い灯りが、ゆっくりと、揺れた。

 

『時間の糸で、縁を繕い続ければ。……繕われる縁は、少しずつ、時間の側に、寄っていく。削れるたびに、元の長さに、巻き戻される。何度も、何度も』

 

「…………」

 

『青子の魔法は、青子自身の時間を、使っている。その魔法の糸が、この少年の中で、ずっと、働いている。……二人の時間は、一本の糸で、繋がっている』

 

 青子の指が、忉利の手を、痛いほど、握っていた。

 

『繋がった二つの時間は。……いずれ、一つの輪になって、閉じる。お前たちが、有珠から聞いたのは、その結び目のことだ』

 

「…………」

 

『つまり、少年。……お前の目が痛まないのと、お前たちの時間が止まるのとは、同じ一本の糸の、表と裏だ。片方だけを、取ることは、できん』

 

 青子の膝が、がくりと、折れかけた。

 

 忉利が、その腕を、掴んだ。

 

 

 

 

『それから、もう一つ』

 

 声は、続けた。

 

『青子。お前は、この少年の死を、時間の果てに捨てた。……その重石が、お前の時間を、ずっと、引いている』

 

「……知ってる」

 

 青子の声は、掠れていた。

 

「……なんとなく。あの夜から。背中に、何か、ぶら下がってる感じがするの」

 

『忘れるな。……お前の時間が、その重石に引かれて、ほつれたら。お前の魔法の糸が、切れたら』

 

 灯りが、忉利の方へ、揺れた。

 

『繕いが、止まる。……十二月から、この少年が切ってきた全部の分が。青い糸が巻き戻して、なかったことにしてきた分が。一度に、返ってくる』

 

「……一度に」

 

『母親が、一年かけて、ほどけた道を。……一晩で、辿る』

 

 青子は、忉利の腕に、しがみついていた。

 

 顔が、真っ白だった。

 

 忉利が、口を、開いた。

 

「……おれは、何なんだ」

 

 声は、平らだった。

 

「織部の目で。青子の魔法が入ってて。……そのせいで、時間まで、止まって。……なんなんだよ、おれは」

 

 灯りが、忉利の前で、止まった。

 

『織部の目と、魔法使いの魔法と。……その二つが、一人の人間の中で、撚り合わされたものなど、この世界の、どこにも、例がない』

 

「…………」

 

『いずれ、お前のことを、そう見る者も、現れるだろう。この世界の縫い目だの、どこにもない綻びだの、と。……魔術師という連中は、そういう名前をつけたがる』

 

 声が、ほんの少しだけ、笑った。

 

『私は、そうは見ない。……お前は、喫茶店の子だ』

 

 忉利は、瞬きをした。

 

『母親の目を持って。青子の魔法を、半分抱えて。……それで、朝に、珈琲を淹れている』

 

 灯りが、ゆらりと、揺れた。

 

『それだけのものだ。……少なくとも、私には、そう見える』

 

 忉利は、長いこと、何も言わなかった。

 

 それから、ぼそりと、言った。

 

「……答えになってねえぞ」

 

『答えは、やらん。……お前が、決めることだ』

 

 

 

 

「……繕いが、止まらねえ方法は、ねえのか」

 

 忉利が、訊いた。

 

 青子の手が、忉利の手の中で、跳ねた。

 

『ない』

 

 声は、あっさりと、言った。

 

『青子の時間が、ほつれないようにする。それだけだ。……二人の時間が、並んでいる限り、繕いは続く。片方だけで、生きようとするな』

 

「…………」

 

『――ただし』

 

 灯りが、ほんの少しだけ、揺れた。

 

『結ぶのは、手でやる。……少年。お前の手は、まだ、結び方を知らん』

 

「……先週、神社で、結べなかった」

 

『いつか、覚える。縁も、最初は、下手だった』

 

 声が、ほんの少しだけ、笑った。

 

『お前の手が、結ぶ方を覚えたら。……今度は、お前の手で、青子の時間を、繕えるかもしれん。重石に引かれて、ほつれかけた時に』

 

 青子が、息を呑んだ。

 

『青子の魔法が、お前を繕い。お前の手が、青子を繕う。……二重に繕われた布は、そう簡単には、破れん』

 

『それが、できるかどうかは、知らん。織部の見える者で、魔法使いの隣にいた者は、一人もいないからな』

 

 青白い灯りが、すうっと、小さくなった。

 

『行きなさい。……縁が、この洞穴で、最後に言ったことを、教えておこう』

 

「…………」

 

『――いつか、あの子が、ここに来たら。何を切らないか、自分で決めなさい、と、伝えてください』

 

 灯りが、消えた。

 

 

 

 

 洞穴を出ると、谷に、細い雨が、降り始めていた。

 

 春の、冷たい雨だった。

 

 青子は、洞穴の口の脇の、溶け残った雪の上に、座り込んだ。

 

 膝を抱えて。

 

 顔を、膝に、埋めて。

 

「……青子」

 

「……私の魔法が」

 

 くぐもった声だった。

 

「あんたを、削らないでいてくれたの」

 

「…………」

 

「知らなかった。……十二月、あんたを取り返すのに、必死で。何を、どう編んだのか、自分でも、よく、わかってなかった」

 

 青子の肩が、震えていた。

 

「その後、あんたが、屋上で、痛くないって言った時。……よかったって、思った。それだけ。何にも、考えなかった」

 

「…………」

 

「でも、違ったのね。……あんたのお母さん、一回切って、いなくなったのに」

 

 青子は、顔を上げた。

 

 目が、真っ赤だった。

 

「あんたは、私のせいで、何回でも、切れちゃう。……それで、あんたの時間まで、止まっちゃう。二十歳で。……私の、せいで」

 

 言葉が、続かなかった。

 

 忉利は、青子の隣に、しゃがんだ。

 

 溶け残った雪の上に。

 

 青子の、膝を抱えた手の上に、自分の手を、重ねた。

 

「……お前のせいじゃねえ」

 

 低い声だった。

 

「お前の、おかげだ」

 

 青子の目が、見開かれた。

 

「母さんは、一回切って、薄くなって、いなくなった。……晴華のために、一回だけ切って。それで、全部、終わった」

 

「…………」

 

「おれは、何回切っても、ここにいる。……お前の隣に」

 

 忉利は、青子の手を、握った。

 

「母さんの帳面の、最後の頁。……見える目で、何を切らないか、自分で決められる子に、って。それから、赤い靴の女の子が、ずっと隣にいてくれますように、って」

 

 青子の唇が、震えた。

 

「……それって。母さんが、一番、欲しかったやつだろ」

 

 春の雨が、二人の肩に、降っていた。

 

「見える目で。普通に。……好きな奴の、隣にいる」

 

 忉利は、少しだけ、口の端を持ち上げた。

 

「時間が止まんなら、止まったまんま、隣にいりゃいい。……お前の時間も、一緒に止まんだろ。なら、同じだ」

 

 青子は、何も言えなかった。

 

 ただ、忉利の胸に、額を、押しつけた。

 

 雨の中で、長いこと、そうしていた。

 

 

 

 

 夕方。

 

 雨が上がった帰り道の、尾根の上で。

 

 三咲の町が、眼下に、広がっていた。

 

 雲の切れ間から差す夕陽が、町の屋根を、赤く染めていた。商店街の、アーケードの屋根。坂の上の、洋館の尖塔。西の外れの、神社の、楠の梢。

 

 忉利は、尾根の岩の上に、立った。

 

「……見てみる」

 

「……何を」

 

「全部」

 

 青子の手が、忉利の手首を、掴んだ。

 

「……切らないでよ」

 

「見るだけだ」

 

 忉利は、目の奥の扉を、開いた。

 

 全部。

 

 最後の、蝶番まで。

 

 虹彩が、真昼の青に、満ちた。

 

 青子は、その目を、隣から、見上げていた。

 

 初めて、見る目だった。

 

 背骨の奥が、ほんの少しだけ、冷たくなった。

 

 けれど、手首は、離さなかった。

 

 ――見えた。

 

 町を覆う、蒼崎の網。硬く、規則正しく、定規で引いたような。

 

 その下の、織部の網。柔らかく、一目ずつ結ばれた、何百年分の、誰かの手の網。

 

 二枚の網の上に、町の全部が、乗っていた。

 

 HIKAGEと。坂の上の屋敷と。西の神社と。細い縁で、繋がっていた。

 

 店のカウンターから、父の線。晴華の線。

 

 屋敷の庭から、有珠の線。薔薇の苗の脇にしゃがんでいる、草十郎の線。

 

 神社の楠の根元から、母の、四本の糸。

 

 それから。

 

 自分の胸を、見た。

 

 糸が、伸びていた。

 

 母の墓へ。父へ。晴華へ。

 

 隣の、青子へ。いちばん太く。いちばん固く。年中の、赤い靴の日から、ずっと、ほどけない結び目で。

 

 それから、もう一本。

 

 どこにも、繋がっていない線が、あった。

 

 町の方にも、空の方にも、誰の方にも、伸びていない。ただ、自分の胸の真ん中から、世界の、ずっと向こうの、見えない場所へ、まっすぐに伸びている、一本の線。

 

 時間の、果ての方へ。

 

 十二月に、青子が、自分の死を、捨てに行った方へ。

 

 そして、その全部を。

 

 自分の胸の、全部の糸を。

 

 青い、細い糸が、繕っていた。

 

 夜明け前の空の色で。

 

 一目ずつ。

 

 忉利は、扉を、閉じた。

 

 真昼の青が、引いていった。

 

 

 

 

「……母さんの目で」

 

 忉利は、夕陽の町を、見下ろしたまま、言った。

 

「お前の魔法で。……そのうち、時間が止まる。それが、全部、一本の糸だって、ことだろ」

 

「…………」

 

「で」

 

 忉利は、隣の青子を、見た。

 

「何を切らないか決めるのは、おれだ」

 

 青子の目が、揺れた。

 

「それだけは、誰の目でもねえ。母さんのでも、お前のでも、爺さんのでも。……おれが、決める」

 

 夕陽の中で、青子は、長いこと、忉利の顔を見ていた。

 

 それから、少しだけ、笑った。

 

 笑い方が、下手だった。

 

「……ねえ」

 

「ん」

 

「私の魔法。……あんたの目の中に、置きっぱなしなんだけど」

 

「ああ」

 

「返してほしいって、言ってもいい?」

 

「やだ」

 

 即答だった。

 

「――なんでよ」

 

「おれの、半分だからだ」

 

 青子は、口を、開けたまま、固まった。

 

 それから、顔を、真っ赤にして、忉利の脛を、蹴った。

 

「……じゃあ」

 

 蹴った足を、下ろして。

 

 忉利の手首を、もう一度、握り直した。

 

「私の時間、ほつれないように。……ずっと、そばにいなさいよ」

 

「言われなくても」

 

 それから、忉利は、少しだけ、考えて。

 

「……結ぶ方、覚える」

 

「?」

 

「お前の時間が、ほつれかけたら。……おれの手で、繕えるように」

 

 青子は、何も言えなかった。

 

「何十年あっても、足りねえかもしれねえけど。……時間なら、たぶん、いくらでもあるだろ。おれら」

 

 

 

 

 夜。

 

 Cafe HIKAGEの、閉店後のカウンター。

 

 壁のメニューの、いちばん端の、空いている釘の下で。

 

 父と、忉利と、青子が、座っていた。

 

 忉利が、母の墓の話を、した。

 

 四本の糸のこと。四本目が、青子に伸びていたこと。

 

 洞穴の話は、しなかった。

 

 時間のことは。

 

 父は、長いこと、黙っていた。

 

 それから、青子を、見た。

 

 ほんの少しだけ、目元が、緩んだ。

 

「……そうか」

 

 低い声だった。

 

「……母さんらしい」

 

 父は、立ち上がった。

 

 カウンターの奥の、古い戸棚の、いちばん下の引き出しを、開けた。

 

 中から、小さな、木の箱を、取り出した。

 

 角の擦り切れた、桐の箱。蓋に、小さな梅の花が、彫られていた。

 

 父は、それを、青子の前に、置いた。

 

「……母さんの、裁縫箱だ」

 

 青子の手が、止まった。

 

「ネルを、縫ってた。母さんは。……俺の、店を開けた時の、最初のネル。去年のクリスマスに、こいつに渡したやつだ」

 

 忉利は、瞬きをした。

 

 クリスマスの朝。父から、黙って渡された、古い、よく使い込まれたネル。

 

 あれは、母が、縫ったものだった。

 

「……青子ちゃん。裁縫は」

 

「……へたくそです」

 

 青子は、正直に、言った。

 

「家庭科、苦手で。……ボタンつけるのも、三回やり直すくらい」

 

「そうか」

 

 父は、裁縫箱の蓋を、そっと、開けた。

 

 中に、針山と、何色もの糸の巻きと、小さな和鋏と、使い込まれた指ぬきが、きちんと、並んでいた。

 

 十三年、誰も、開けていなかった箱だった。

 

「母さんも、最初は、下手だった。……ネル一枚、縫うのに、何ヶ月もかかってた」

 

 父は、青子の顔を、見た。

 

「母さんは、言ってた。……切るのは、目でできる。結ぶのは、手でやる」

 

「…………」

 

「こいつの手は、まだ、結び方を、知らんだろう。……覚えるまで、青子ちゃんが、持っててくれ」

 

 青子は、長いこと、裁縫箱を、見下ろしていた。

 

 それから、両手で、そっと、蓋を閉めて。

 

 胸に、抱きしめた。

 

「……はい」

 

 小さな声だった。

 

「預かります。……ずっと」

 

 忉利は、カウンターの内側に入って、ネルを手に取った。

 

 母が縫った、ネル。

 

 三人分。

 

 湯を、細く。

 

 粉が、膨らむ。

 

 父の前に、一杯、置いた。

 

 父は、それを、一口、飲んだ。

 

 長いこと、黙っていた。

 

「……十秒」

 

 ぼそりと、言った。

 

「……遅えのかよ」

 

「蒸らしが、十秒、長い」

 

 父は、カップを、受け皿に戻した。

 

「考え事を、しながら淹れたな」

 

「…………」

 

「……母さんも、そうだった。考え事をすると、十秒、長くなった」

 

 二階から、晴華の足音が、下りてきた。

 

 階段の途中で、止まった。

 

「……ねえ。もう、終わった?」

 

 晴華が、手すりの隙間から、顔だけ、覗かせていた。

 

「わたしにも、教えてくれるの? 仲間はずれの話」

 

 忉利は、晴華の顔を、見た。

 

 目の奥の扉を、閉じたまま。

 

 閉じたまま、知っていた。

 

 晴華の胸から、あの暗い縁が、もう、どこにも伸びていないことを。

 

 十四年前、母が、一生に一度を使って、切ったから。

 

 晴華には、話さない。

 

 知ってて、言わない。

 

 父と、同じように。

 

 母と、同じように。

 

「……そのうちな」

 

「えー。お兄ちゃん、それ、絶対、教えないやつじゃん」

 

「うるせえ。……ほら、晴華の分」

 

 忉利は、四つ目のカップに、牛乳をたっぷり入れた、甘いカフェオレを、淹れた。

 

 晴華は、唇を尖らせたまま、階段を下りてきて、カウンターの端に、座った。

 

 カップを、両手で持って、一口、飲んだ。

 

「……おいしい」

 

 カウンターの下で。

 

 青子の手が、忉利の左手首を、そっと握っていた。

 

 止めるためでは、なかった。

 

 繕っている糸の、その上から。

 

 ここにいることを、確かめるように。




ストックが尽きた後の、今後についてのアンケートを載せました。

気軽に投票お願いします。

こんな話が見たい、などの要望もOKです。
例えば、高校でのラブコメ的なエピソード見たい。的な

ちなみに2人が三咲を経ってしばらくの間まではストックあります。

アンケートの下二つは時間かかると思います。

単純に、どんな話が見たいですか?

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錬鉄と鍛造の贋作者(作者:英雄に憧れた一般魔導師)(原作:杖と剣のウィストリア)

あるはずの無い記憶、何処か遠い記憶。求めて失えど、それらだけは焼き付いて離れる事なんて無い、鮮烈に残る記憶。▼理想に裏切られた赤い外套纏いし錬鉄の英雄▼業を絶つ無念無想の刃を目指した鍛冶師▼そんな二人の力と技術を得て、ドワーフに鍛えられた鍛造技法を以て、彼は▼魔法の世界で剣を打つ。▼これは、杖と剣が交わる物語に贋作者が交差する。


総合評価:2692/評価:8.64/連載:22話/更新日時:2026年08月18日(火) 23:00 小説情報

いちご100% ~名脇役は青春の主役になれるか~(作者:Gussan0)(原作:いちご100%)

 かつて、一人の役者がいた。▼ 俳優、舞台役者、声優――長い芸能人生の中で様々な役を演じ、主役以上に作品を支える『名脇役』として知られた男。▼ 天寿を全うした彼は、気がつけば境野新(さかいのあらた)という少年として新たな人生を歩んでいた。▼ 八歳の頃に前世の記憶を取り戻し、それから七年。▼ 中学三年生となった新は、あるとき自分が生きている世界が、前世で読んだ…


総合評価:1280/評価:7.92/連載:30話/更新日時:2026年10月07日(水) 16:21 小説情報

殺さずの剣客、そして人斬りの君(作者:ただの物書き)(原作:Fate/)

「人殺しはいけないでござるよ」▼ 男は、笑いながらそう言った。▼ 戯言だ。妄言だ。▼ 聞くに堪えない甘言だ。▼ けれど、それでも……。▼ あの時——人を斬らずに済んだことに、"私"は安堵した。▼


総合評価:1943/評価:8.44/連載:36話/更新日時:2026年09月14日(月) 00:55 小説情報

父をたずねて三千里(作者:くまも)(原作:月姫)

某掲示板で連載していた、アルクェイドと志貴の息子が現代を旅する話。アルクェイド√の後日譚。▼リメイク版の月姫を舞台としていますが、旧作の要素も含んでおります。▼※オリキャラあり、オリジナル設定マシマシ、月姫リメイクの重大なネタバレありなので、それらがNGな方はブラウザバックをお願いします。▼アルクェイド√のhappyendが見たいし、そもそも冒頭のプロローグ…


総合評価:1632/評価:9.15/連載:34話/更新日時:2026年10月05日(月) 22:41 小説情報

アストレア・ファミリアの盾使い(作者:ナカタカナ)(原作:ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか)

 【最強】と【最凶】が黒龍に敗れて訪れた暗黒期。死の七日間と呼ばれる大抗争の一年前・・・正義の眷属【アストレア・ファミリア】はギルドより依頼(クエスト)を要請された。オラリオを離れ海を渡った先にある、廃都に眠る宝の調査と回収。▼ 誰もいないはずの孤島にいたのは一人の少年。▼ 「お姉さんは誰?」▼ 「私はアリーゼ・ローヴェル! あなたは?」▼ 「僕はギャラハッ…


総合評価:2705/評価:8.68/連載:25話/更新日時:2026年09月15日(火) 21:44 小説情報


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