―――繕う、という言葉がある。
破れたところに、布を当てる。ほつれたところを、糸で縫い合わせる。
元には、戻らない。
破れた跡は、跡のまま、残る。
けれど、繕われた布は、また、使える。
何年でも。何十年でも。
繕い続ける手が、そこにある限り。
次の土曜日。
北の山には、まだ、雪が残っていた。
麓の田んぼには、もう、水が張られ始めていた。けれど、鏡野の丘を越えて、杉林に入ると、日の当たらない斜面の窪みごとに、灰色に汚れた、固い雪が、まだらに残っていた。
四ヶ月前の、十二月。
草十郎が先頭を歩いた道だった。雪の深さを、足の裏で探るように。
今日は、二人だけだった。
青子は、山の麓で、忉利の手を取った。
それから、一度も、離さなかった。
斜面が急になっても。倒木を跨ぐ時も。残雪の、ぬかるんだ縁に足を取られて、忉利の肩にしがみついた時も。
「……歩きにくくねえか。手、繋いだままで」
「歩きにくいわよ」
「なら――」
「離さない」
青子は、前を向いたまま、言った。
「今日は、離さないって、決めてるの」
忉利は、それ以上、何も言わなかった。
握られた手を、握り返した。
杉の枝から、溶けかけた雪の塊が、ぼたりと、落ちた。
「……十二月」
しばらく歩いてから、青子が、言った。
「私、ここに来たの。静希くんの記憶、消してもらおうと思って」
「知ってる。……聞こえてた」
「お祖父ちゃんに、断られた。消せぬものは、消せぬって」
「言ってたな」
「……あんたにも、何か、言ってたでしょ。あの時。私、外に出されてたから」
忉利は、少しだけ、考えた。
「死者に用はない。……だが、お前は、まだ、死者ではないな、って」
「…………」
「それから、何を切らないか、決めるための目だ、って」
青子の手が、忉利の手の中で、きゅっと、締まった。
「……今日は、私も、全部、聞くから」
「ああ」
「外に出されても、出ないから」
「……出されねえだろ、たぶん」
「出されても、よ」
昼前、林が、途切れた。
小さな谷の底に、古い家があった。蒼崎の家。黒く煤けた板壁。茅葺きの屋根の、北側の半分に、まだ、雪が残っていた。雨戸は、閉ざされたままだった。
十二月と、何も、変わっていなかった。
家の裏手の細い道を、谷の奥へ。
岩壁の裾の、黒い、洞穴の口。古い注連縄が、雪解け水に濡れて、垂れ下がっている。
忉利は、目の奥の扉を、開いた。
息を、呑んだ。
線が、岩壁の中から、噴き出していた。
十二月にも見た。三咲の町を編み上げる、蒼崎の網の、根元。太く、古く、ゆっくりと脈打つ線が、何千本も、洞穴の口から、町の方へ。
けれど、今日は、もう一つ、見えた。
その太い線の束の、さらに下に。
地面の、もっと深いところを這うように。
細い、柔らかい、無数の糸が、網になって、広がっていた。
指で、一目ずつ、結んだような網。ところどころが、ほつれて。ところどころが、結び直されて。
先週、神社の楠の根元で見た、あの網と、同じだった。
その古い網の糸が、何本も、この洞穴の中へ、吸い込まれていた。
「……ここにも、来てる」
忉利が、呟いた。
「古い方の網が。……この洞穴の、奥まで」
十二月には、見えなかった。
あの時は、目の奥の扉を、まだ、半分しか、開けられなかった。
青子は、洞穴の口を、見上げていた。
蒼崎の後継者の顔で。
それから、忉利の手を、握り直した。
「……行くわよ」
洞穴の中は、暗かった。
けれど、寒くはなかった。岩の壁が、かすかに、温かかった。
狭い通路を進むと、広い空洞に出た。
天井も、壁も、見えない、真っ暗な空間。
その真ん中に、青白い、小さな灯りが、一つだけ、浮かんでいた。
「――お祖父ちゃん」
青子が、言った。
しばらく、何も起きなかった。
それから、声が、した。
洞穴の壁から。天井から。足元の岩から。空気そのものから。
低くて、乾いていて、少しだけ、笑っているような、老人の声。
『――来たか。二人で』
「……来たわよ」
『四ヶ月ぶりか。……今度は、あの山育ちの少年は、連れてこなかったのだな』
青白い灯りが、ゆらりと、揺れた。
『織部の墓に、行ったな』
忉利の手が、青子の手の中で、強張った。
「……知ってたのかよ」
『この山の中にいても、網の震えは、届く。……古い方の網が、先週、少しだけ、震えた。縁の墓の前で、見える者が、泣きもせずに、立っていた』
忉利は、何も、言えなかった。
「……お祖父ちゃん」
青子の声が、低かった。
「織部の網のこと。……一回も、言わなかったわね。十二月に来た時も」
『訊かれなかった』
「――っ、そういうことじゃないでしょ!」
『そういうことだ』
声は、平然と、言った。
『蒼崎は、あの古い網の上に、自分たちの網を張った。……借りたのだ。何百年も前に。織部の者たちが、それを許した。見えない魔術師どもに、見える者の網を、貸してやった』
灯りが、ゆっくりと、忉利の方へ、揺れた。
『今日は、外に出ていなくていい。青子。……二人とも、聞きなさい』
『少年。お前の目は、織部の目だ』
声は、静かに、語り始めた。
『生まれた時から、見えていたのは、縁だ。人と人、人と物、物と物を繋ぐ、糸。……十二月に、ここで、私は、お前の目を、網の外から網を切った目、と言った』
「……言ってた」
『あれは、比喩ではない。お前の目は、蒼崎の網よりも古い網を、見る目だ。だから、蒼崎の網の外に、立っていた。……外から、切れた』
『それから、もう一つ、言ったな。何を切らないかを決める目だ、と』
「……ああ」
『あれは、私の言葉ではない。……織部の、見える者たちの言葉だ。縁が、この洞穴で、私に、そう言ったことがある。まだ、神社にいた頃に。網の貸し借りの話をしに来た時に』
青子が、息を呑んだ。
「……お祖父ちゃん、おばさんに、会ったことが」
『ある。……聡い子だった。見えすぎて、疲れている子だった』
声が、ほんの少しだけ、柔らかくなった。
『――さて。この冬、お前は、軽い線を、何度も切った。人形の糸。月の糸。魔女の結界。……旧校舎の、姉の壁』
「…………」
『そのたびに、細っていた。右目が赤くなり、血が流れた。……あれは、お前の縁が、削れていく音だった。あのまま、あと三本、切っていれば。お前は、母親と、同じ道を辿った』
忉利の手が、青子の手の中で、冷たくなっていた。
「……じゃあ」
忉利が、言った。
「なんで、今は、平気なんだ」
声が、少しだけ、掠れていた。
「屋上から、一回も、痛くねえ。血も、出ねえ。……あの女の、でかいの、切った時も」
『旧校舎で、お前は、一度、死んだ』
声は、言った。
『青子が、お前の死を、時間の果てに捨てた。……それから、焼き切れたお前の目を、作り直した』
青白い灯りが、青子の方に、揺れた。
『青子。お前は、あの時、何を使った』
「……魔法よ。……時間。この子の、十年」
『そうだ。この子の十年を借りて、魔法を回し、この子の目を編み直した。……返す時に、その十年と一緒に、お前の魔法の一部が、この子の目の中に、編み込まれたまま、残った』
青子の顔から、血の気が、引いていった。
『少年の目の縁の、あの青。……夜明け前の空の色、と、お前たちは言うのだろう』
「…………」
『比喩ではない。あれは、青子の魔法の色、そのものだ』
忉利は、自分の右目に、指先で、触れた。
洗面所の鏡で、この冬から、毎朝、見てきた。灰色の虹彩の、いちばん外の縁の、細い輪。
母から継いだ、灰色と。
青子から受け取った、青。
『青子の魔法は、時間に触れる魔法だ。……だから、お前の目の中の青は、時間の糸で、できている』
声が、ゆっくりと、言葉を、選んでいた。
『お前が切るたびに、縁は、削れる。……だが、削れた瞬間に、その青い時間の糸が、削れる前の長さに、繕い戻す。時間を、少しだけ、巻き戻すようにして』
忉利は、息を、止めた。
あの夜。坂道の暗がりで、自分の胸に見た、青い糸。
削れた痕の上に、何重にも巻きついて、一目ずつ、繕っていた糸。
『だから、痛まない。血も、出ない。何度切っても、細くならない』
灯りが、忉利の前で、止まった。
『母親の目で、母親には、できなかったことが、できる。……それが、今のお前の目だ』
青子が、口を、開いた。
声が、うまく、出なかった。
一度、閉じて、もう一度、開いた。
「……それって」
震える声だった。
「ただで、済んでるわけじゃ、ないわよね」
声は、すぐには、答えなかった。
青白い灯りが、ゆっくりと、揺れた。
『済んでいない』
静かな声だった。
『お前たちは、もう、聞いているのだろう。……二十歳を少し過ぎたあたりで、二人とも、歳を取らなくなると』
「……有珠から」
忉利が、言った。
「十二月に。……おれの時計は、青子と同じぜんまいで動いてる、って」
『そうだ。……あれは、この繕いの、裏側だ』
青白い灯りが、ゆっくりと、揺れた。
『時間の糸で、縁を繕い続ければ。……繕われる縁は、少しずつ、時間の側に、寄っていく。削れるたびに、元の長さに、巻き戻される。何度も、何度も』
「…………」
『青子の魔法は、青子自身の時間を、使っている。その魔法の糸が、この少年の中で、ずっと、働いている。……二人の時間は、一本の糸で、繋がっている』
青子の指が、忉利の手を、痛いほど、握っていた。
『繋がった二つの時間は。……いずれ、一つの輪になって、閉じる。お前たちが、有珠から聞いたのは、その結び目のことだ』
「…………」
『つまり、少年。……お前の目が痛まないのと、お前たちの時間が止まるのとは、同じ一本の糸の、表と裏だ。片方だけを、取ることは、できん』
青子の膝が、がくりと、折れかけた。
忉利が、その腕を、掴んだ。
『それから、もう一つ』
声は、続けた。
『青子。お前は、この少年の死を、時間の果てに捨てた。……その重石が、お前の時間を、ずっと、引いている』
「……知ってる」
青子の声は、掠れていた。
「……なんとなく。あの夜から。背中に、何か、ぶら下がってる感じがするの」
『忘れるな。……お前の時間が、その重石に引かれて、ほつれたら。お前の魔法の糸が、切れたら』
灯りが、忉利の方へ、揺れた。
『繕いが、止まる。……十二月から、この少年が切ってきた全部の分が。青い糸が巻き戻して、なかったことにしてきた分が。一度に、返ってくる』
「……一度に」
『母親が、一年かけて、ほどけた道を。……一晩で、辿る』
青子は、忉利の腕に、しがみついていた。
顔が、真っ白だった。
忉利が、口を、開いた。
「……おれは、何なんだ」
声は、平らだった。
「織部の目で。青子の魔法が入ってて。……そのせいで、時間まで、止まって。……なんなんだよ、おれは」
灯りが、忉利の前で、止まった。
『織部の目と、魔法使いの魔法と。……その二つが、一人の人間の中で、撚り合わされたものなど、この世界の、どこにも、例がない』
「…………」
『いずれ、お前のことを、そう見る者も、現れるだろう。この世界の縫い目だの、どこにもない綻びだの、と。……魔術師という連中は、そういう名前をつけたがる』
声が、ほんの少しだけ、笑った。
『私は、そうは見ない。……お前は、喫茶店の子だ』
忉利は、瞬きをした。
『母親の目を持って。青子の魔法を、半分抱えて。……それで、朝に、珈琲を淹れている』
灯りが、ゆらりと、揺れた。
『それだけのものだ。……少なくとも、私には、そう見える』
忉利は、長いこと、何も言わなかった。
それから、ぼそりと、言った。
「……答えになってねえぞ」
『答えは、やらん。……お前が、決めることだ』
「……繕いが、止まらねえ方法は、ねえのか」
忉利が、訊いた。
青子の手が、忉利の手の中で、跳ねた。
『ない』
声は、あっさりと、言った。
『青子の時間が、ほつれないようにする。それだけだ。……二人の時間が、並んでいる限り、繕いは続く。片方だけで、生きようとするな』
「…………」
『――ただし』
灯りが、ほんの少しだけ、揺れた。
『結ぶのは、手でやる。……少年。お前の手は、まだ、結び方を知らん』
「……先週、神社で、結べなかった」
『いつか、覚える。縁も、最初は、下手だった』
声が、ほんの少しだけ、笑った。
『お前の手が、結ぶ方を覚えたら。……今度は、お前の手で、青子の時間を、繕えるかもしれん。重石に引かれて、ほつれかけた時に』
青子が、息を呑んだ。
『青子の魔法が、お前を繕い。お前の手が、青子を繕う。……二重に繕われた布は、そう簡単には、破れん』
『それが、できるかどうかは、知らん。織部の見える者で、魔法使いの隣にいた者は、一人もいないからな』
青白い灯りが、すうっと、小さくなった。
『行きなさい。……縁が、この洞穴で、最後に言ったことを、教えておこう』
「…………」
『――いつか、あの子が、ここに来たら。何を切らないか、自分で決めなさい、と、伝えてください』
灯りが、消えた。
洞穴を出ると、谷に、細い雨が、降り始めていた。
春の、冷たい雨だった。
青子は、洞穴の口の脇の、溶け残った雪の上に、座り込んだ。
膝を抱えて。
顔を、膝に、埋めて。
「……青子」
「……私の魔法が」
くぐもった声だった。
「あんたを、削らないでいてくれたの」
「…………」
「知らなかった。……十二月、あんたを取り返すのに、必死で。何を、どう編んだのか、自分でも、よく、わかってなかった」
青子の肩が、震えていた。
「その後、あんたが、屋上で、痛くないって言った時。……よかったって、思った。それだけ。何にも、考えなかった」
「…………」
「でも、違ったのね。……あんたのお母さん、一回切って、いなくなったのに」
青子は、顔を上げた。
目が、真っ赤だった。
「あんたは、私のせいで、何回でも、切れちゃう。……それで、あんたの時間まで、止まっちゃう。二十歳で。……私の、せいで」
言葉が、続かなかった。
忉利は、青子の隣に、しゃがんだ。
溶け残った雪の上に。
青子の、膝を抱えた手の上に、自分の手を、重ねた。
「……お前のせいじゃねえ」
低い声だった。
「お前の、おかげだ」
青子の目が、見開かれた。
「母さんは、一回切って、薄くなって、いなくなった。……晴華のために、一回だけ切って。それで、全部、終わった」
「…………」
「おれは、何回切っても、ここにいる。……お前の隣に」
忉利は、青子の手を、握った。
「母さんの帳面の、最後の頁。……見える目で、何を切らないか、自分で決められる子に、って。それから、赤い靴の女の子が、ずっと隣にいてくれますように、って」
青子の唇が、震えた。
「……それって。母さんが、一番、欲しかったやつだろ」
春の雨が、二人の肩に、降っていた。
「見える目で。普通に。……好きな奴の、隣にいる」
忉利は、少しだけ、口の端を持ち上げた。
「時間が止まんなら、止まったまんま、隣にいりゃいい。……お前の時間も、一緒に止まんだろ。なら、同じだ」
青子は、何も言えなかった。
ただ、忉利の胸に、額を、押しつけた。
雨の中で、長いこと、そうしていた。
夕方。
雨が上がった帰り道の、尾根の上で。
三咲の町が、眼下に、広がっていた。
雲の切れ間から差す夕陽が、町の屋根を、赤く染めていた。商店街の、アーケードの屋根。坂の上の、洋館の尖塔。西の外れの、神社の、楠の梢。
忉利は、尾根の岩の上に、立った。
「……見てみる」
「……何を」
「全部」
青子の手が、忉利の手首を、掴んだ。
「……切らないでよ」
「見るだけだ」
忉利は、目の奥の扉を、開いた。
全部。
最後の、蝶番まで。
虹彩が、真昼の青に、満ちた。
青子は、その目を、隣から、見上げていた。
初めて、見る目だった。
背骨の奥が、ほんの少しだけ、冷たくなった。
けれど、手首は、離さなかった。
――見えた。
町を覆う、蒼崎の網。硬く、規則正しく、定規で引いたような。
その下の、織部の網。柔らかく、一目ずつ結ばれた、何百年分の、誰かの手の網。
二枚の網の上に、町の全部が、乗っていた。
HIKAGEと。坂の上の屋敷と。西の神社と。細い縁で、繋がっていた。
店のカウンターから、父の線。晴華の線。
屋敷の庭から、有珠の線。薔薇の苗の脇にしゃがんでいる、草十郎の線。
神社の楠の根元から、母の、四本の糸。
それから。
自分の胸を、見た。
糸が、伸びていた。
母の墓へ。父へ。晴華へ。
隣の、青子へ。いちばん太く。いちばん固く。年中の、赤い靴の日から、ずっと、ほどけない結び目で。
それから、もう一本。
どこにも、繋がっていない線が、あった。
町の方にも、空の方にも、誰の方にも、伸びていない。ただ、自分の胸の真ん中から、世界の、ずっと向こうの、見えない場所へ、まっすぐに伸びている、一本の線。
時間の、果ての方へ。
十二月に、青子が、自分の死を、捨てに行った方へ。
そして、その全部を。
自分の胸の、全部の糸を。
青い、細い糸が、繕っていた。
夜明け前の空の色で。
一目ずつ。
忉利は、扉を、閉じた。
真昼の青が、引いていった。
「……母さんの目で」
忉利は、夕陽の町を、見下ろしたまま、言った。
「お前の魔法で。……そのうち、時間が止まる。それが、全部、一本の糸だって、ことだろ」
「…………」
「で」
忉利は、隣の青子を、見た。
「何を切らないか決めるのは、おれだ」
青子の目が、揺れた。
「それだけは、誰の目でもねえ。母さんのでも、お前のでも、爺さんのでも。……おれが、決める」
夕陽の中で、青子は、長いこと、忉利の顔を見ていた。
それから、少しだけ、笑った。
笑い方が、下手だった。
「……ねえ」
「ん」
「私の魔法。……あんたの目の中に、置きっぱなしなんだけど」
「ああ」
「返してほしいって、言ってもいい?」
「やだ」
即答だった。
「――なんでよ」
「おれの、半分だからだ」
青子は、口を、開けたまま、固まった。
それから、顔を、真っ赤にして、忉利の脛を、蹴った。
「……じゃあ」
蹴った足を、下ろして。
忉利の手首を、もう一度、握り直した。
「私の時間、ほつれないように。……ずっと、そばにいなさいよ」
「言われなくても」
それから、忉利は、少しだけ、考えて。
「……結ぶ方、覚える」
「?」
「お前の時間が、ほつれかけたら。……おれの手で、繕えるように」
青子は、何も言えなかった。
「何十年あっても、足りねえかもしれねえけど。……時間なら、たぶん、いくらでもあるだろ。おれら」
夜。
Cafe HIKAGEの、閉店後のカウンター。
壁のメニューの、いちばん端の、空いている釘の下で。
父と、忉利と、青子が、座っていた。
忉利が、母の墓の話を、した。
四本の糸のこと。四本目が、青子に伸びていたこと。
洞穴の話は、しなかった。
時間のことは。
父は、長いこと、黙っていた。
それから、青子を、見た。
ほんの少しだけ、目元が、緩んだ。
「……そうか」
低い声だった。
「……母さんらしい」
父は、立ち上がった。
カウンターの奥の、古い戸棚の、いちばん下の引き出しを、開けた。
中から、小さな、木の箱を、取り出した。
角の擦り切れた、桐の箱。蓋に、小さな梅の花が、彫られていた。
父は、それを、青子の前に、置いた。
「……母さんの、裁縫箱だ」
青子の手が、止まった。
「ネルを、縫ってた。母さんは。……俺の、店を開けた時の、最初のネル。去年のクリスマスに、こいつに渡したやつだ」
忉利は、瞬きをした。
クリスマスの朝。父から、黙って渡された、古い、よく使い込まれたネル。
あれは、母が、縫ったものだった。
「……青子ちゃん。裁縫は」
「……へたくそです」
青子は、正直に、言った。
「家庭科、苦手で。……ボタンつけるのも、三回やり直すくらい」
「そうか」
父は、裁縫箱の蓋を、そっと、開けた。
中に、針山と、何色もの糸の巻きと、小さな和鋏と、使い込まれた指ぬきが、きちんと、並んでいた。
十三年、誰も、開けていなかった箱だった。
「母さんも、最初は、下手だった。……ネル一枚、縫うのに、何ヶ月もかかってた」
父は、青子の顔を、見た。
「母さんは、言ってた。……切るのは、目でできる。結ぶのは、手でやる」
「…………」
「こいつの手は、まだ、結び方を、知らんだろう。……覚えるまで、青子ちゃんが、持っててくれ」
青子は、長いこと、裁縫箱を、見下ろしていた。
それから、両手で、そっと、蓋を閉めて。
胸に、抱きしめた。
「……はい」
小さな声だった。
「預かります。……ずっと」
忉利は、カウンターの内側に入って、ネルを手に取った。
母が縫った、ネル。
三人分。
湯を、細く。
粉が、膨らむ。
父の前に、一杯、置いた。
父は、それを、一口、飲んだ。
長いこと、黙っていた。
「……十秒」
ぼそりと、言った。
「……遅えのかよ」
「蒸らしが、十秒、長い」
父は、カップを、受け皿に戻した。
「考え事を、しながら淹れたな」
「…………」
「……母さんも、そうだった。考え事をすると、十秒、長くなった」
二階から、晴華の足音が、下りてきた。
階段の途中で、止まった。
「……ねえ。もう、終わった?」
晴華が、手すりの隙間から、顔だけ、覗かせていた。
「わたしにも、教えてくれるの? 仲間はずれの話」
忉利は、晴華の顔を、見た。
目の奥の扉を、閉じたまま。
閉じたまま、知っていた。
晴華の胸から、あの暗い縁が、もう、どこにも伸びていないことを。
十四年前、母が、一生に一度を使って、切ったから。
晴華には、話さない。
知ってて、言わない。
父と、同じように。
母と、同じように。
「……そのうちな」
「えー。お兄ちゃん、それ、絶対、教えないやつじゃん」
「うるせえ。……ほら、晴華の分」
忉利は、四つ目のカップに、牛乳をたっぷり入れた、甘いカフェオレを、淹れた。
晴華は、唇を尖らせたまま、階段を下りてきて、カウンターの端に、座った。
カップを、両手で持って、一口、飲んだ。
「……おいしい」
カウンターの下で。
青子の手が、忉利の左手首を、そっと握っていた。
止めるためでは、なかった。
繕っている糸の、その上から。
ここにいることを、確かめるように。
ストックが尽きた後の、今後についてのアンケートを載せました。
気軽に投票お願いします。
こんな話が見たい、などの要望もOKです。
例えば、高校でのラブコメ的なエピソード見たい。的な
ちなみに2人が三咲を経ってしばらくの間まではストックあります。
アンケートの下二つは時間かかると思います。
単純に、どんな話が見たいですか?
-
とりあえずイチャイチャ
-
シリアスな話
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他作品のキャラとの絡み
-
FGOコラボ(隈乃温泉殺人事件)
-
2015年の時計塔