夜明けの色を見る眼   作:にんら

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母の糸 3/3

 ―――繕う、という言葉がある。

 

 破れたところに、布を当てる。ほつれたところを、糸で縫い合わせる。

 

 元には戻らない。

 

 破れた跡は、跡のまま、残る。

 

 けれど、繕われた布は、また使える。

 

 何年でも。何十年でも。

 

 繕い続ける手が、そこにある限り。

 

 

◇

 

 

 次の土曜日。

 

 北の山には、まだ雪が残っていた。

 

 麓の田んぼには、もう水が張られ始めていた。けれど、鏡野の丘を越えて杉林に入ると、日の当たらない斜面の窪みごとに、灰色に汚れた固い雪がまだらに残っていた。

 

 四ヶ月前の十二月。

 

 草十郎が先頭を歩いた道だった。雪の深さを足の裏で探るように。

 

 今日は二人だけだった。

 

 青子は、山の麓で忉利の手を取った。

 

 それから、一度も離さなかった。

 

 斜面が急になっても。倒木を跨ぐ時も。残雪のぬかるんだ縁に足を取られて、忉利の肩にしがみついた時も。

 

「……歩きにくくねえか。手、繋いだままで」

 

「歩きにくいわよ」

 

「なら――」

 

「離さない」

 

 青子は前を向いたまま言った。

 

「今日は、離さないって決めてるの」

 

 忉利は、それ以上何も言わなかった。

 

 握られた手を握り返した。

 

 杉の枝から、溶けかけた雪の塊がぼたりと落ちた。

 

「……十二月」

 

 しばらく歩いてから、青子が言った。

 

「私、ここに来たの。静希くんの記憶、消してもらおうと思って」

 

「知ってる。……聞こえてた」

 

「お祖父ちゃんに断られた。消せぬものは、消せぬって」

 

「言ってたな」

 

「……あんたにも何か言ってたでしょ。あの時。私、外に出されてたから」

 

 忉利は少しだけ考えた。

 

「死者に用はない。……だが、お前はまだ死者ではないな、って」

 

「…………」

 

「それから、何を切らないか決めるための目だ、って」

 

 青子の手が、忉利の手の中で、きゅっと締まった。

 

「……今日は、私も、全部聞くから」

 

「ああ」

 

「外に出されても、出ないから」

 

「……出されねえだろ、たぶん」

 

「出されても、よ」

 

 

◇

 

 

 昼前、林が途切れた。

 

 小さな谷の底に、古い家があった。蒼崎の家。黒く煤けた板壁。茅葺きの屋根の、北側の半分に、まだ雪が残っていた。雨戸は閉ざされたままだった。

 

 十二月と何も変わっていなかった。

 

 家の裏手の細い道を、谷の奥へ。

 

 岩壁の裾の、黒い洞穴の口。古い注連縄が、雪解け水に濡れて垂れ下がっている。

 

 忉利は、目の奥の扉を開いた。

 

 息を呑んだ。

 

 線が、岩壁の中から噴き出していた。

 

 十二月にも見た。三咲の町を編み上げる、蒼崎の網の根元。太く、古く、ゆっくりと脈打つ線が、何千本も洞穴の口から町の方へ。

 

 けれど今日は、もう一つ見えた。

 

 その太い線の束のさらに下に。

 

 地面のもっと深いところを這うように。

 

 細い、柔らかい、無数の糸が網になって広がっていた。

 

 指で、一目ずつ結んだような網。ところどころがほつれて。ところどころが結び直されて。

 

 先週、神社の楠の根元で見たあの網と同じだった。

 

 その古い網の糸が何本も、この洞穴の中へ吸い込まれていた。

 

「……ここにも来てる」

 

 忉利が呟いた。

 

「古い方の網が。……この洞穴の奥まで」

 

 十二月には見えなかった。

 

 あの時は、目の奥の扉を、まだ半分しか開けられなかった。

 

 青子は洞穴の口を見上げていた。

 

 蒼崎の後継者の顔で。

 

 それから、忉利の手を握り直した。

 

「……行くわよ」

 

 

◇

 

 

 洞穴の中は暗かった。

 

 けれど、寒くはなかった。岩の壁が、かすかに温かかった。

 

 狭い通路を進むと、広い空洞に出た。

 

 天井も壁も見えない、真っ暗な空間。

 

 その真ん中に、青白い小さな灯りが一つだけ浮かんでいた。

 

「――お祖父ちゃん」

 

 青子が言った。

 

 しばらく何も起きなかった。

 

 それから、声がした。

 

 洞穴の壁から。天井から。足元の岩から。空気そのものから。

 

 低くて、乾いていて、少しだけ笑っているような老人の声。

 

『――来たか。二人で』

 

「……来たわよ」

 

『四ヶ月ぶりか。……今度は、あの山育ちの少年は連れてこなかったのだな』

 

 青白い灯りがゆらりと揺れた。

 

『織部の墓に、行ったな』

 

 忉利の手が、青子の手の中で強張った。

 

「……知ってたのかよ」

 

『この山の中にいても、網の震えは届く。……古い方の網が、先週、少しだけ震えた。縁の墓の前で、見える者が泣きもせずに立っていた』

 

 忉利は何も言えなかった。

 

「……お祖父ちゃん」

 

 青子の声が低かった。

 

「織部の網のこと。……一回も言わなかったわね。十二月に来た時も」

 

『訊かれなかった』

 

「――っ、そういうことじゃないでしょ!」

 

『そういうことだ』

 

 声は平然と言った。

 

『蒼崎は、あの古い網の上に自分たちの網を張った。……借りたのだ。何百年も前に。織部の者たちが、それを許した。見えない魔術師どもに、見える者の網を貸してやった』

 

 灯りがゆっくりと、忉利の方へ揺れた。

 

『今日は外に出ていなくていい。青子。……二人とも、聞きなさい』

 

 

◇

 

 

『少年。お前の目は、織部の目だ』

 

 声は静かに語り始めた。

 

『生まれた時から見えていたのは、縁だ。人と人、人と物、物と物を繋ぐ糸。……十二月に、ここで、私はお前の目を、網の外から網を切った目、と言った』

 

「……言ってた」

 

『あれは比喩ではない。お前の目は、蒼崎の網よりも古い網を見る目だ。だから、蒼崎の網の外に立っていた。……外から、切れた』

 

『それから、もう一つ言ったな。何を切らないかを決める目だ、と』

 

「……ああ」

 

『あれは私の言葉ではない。……織部の、見える者たちの言葉だ。縁が、この洞穴で私にそう言ったことがある。まだ、神社にいた頃に。網の貸し借りの話をしに来た時に』

 

 青子が息を呑んだ。

 

「……お祖父ちゃん、おばさんに会ったことが」

 

『ある。……聡い子だった。見えすぎて、疲れている子だった』

 

 声がほんの少しだけ柔らかくなった。

 

『――さて。この冬、お前は、軽い線を何度も切った。人形の糸。月の糸。魔女の結界。……旧校舎の、姉の壁』

 

「…………」

 

『そのたびに、細っていた。右目が赤くなり、血が流れた。……あれは、お前の縁が削れていく音だった。あのまま、あと三本切っていれば。お前は、母親と同じ道を辿った』

 

 忉利の手が、青子の手の中で冷たくなっていた。

 

「……じゃあ」

 

 忉利が言った。

 

「なんで、今は平気なんだ」

 

 声が少しだけ掠れていた。

 

「屋上から一回も、痛くねえ。血も出ねえ。……あの女の、でかいの、切った時も」

 

 

◇

 

 

『旧校舎で、お前は一度、死んだ』

 

 声は言った。

 

『青子が、お前の死を時間の果てに捨てた。……それから、焼き切れたお前の目を作り直した』

 

 青白い灯りが青子の方に揺れた。

 

『青子。お前はあの時、何を使った』

 

「……魔法よ。……時間。この子の十年」

 

『そうだ。この子の十年を借りて魔法を回し、この子の目を編み直した。……返す時に、その十年と一緒に、お前の魔法の一部がこの子の目の中に、編み込まれたまま残った』

 

 青子の顔から血の気が引いていった。

 

『少年の目の縁の、あの青。……夜明け前の空の色、とお前たちは言うのだろう』

 

「…………」

 

『比喩ではない。あれは青子の魔法の色、そのものだ』

 

 忉利は自分の右目に、指先で触れた。

 

 洗面所の鏡で、この冬から毎朝見てきた。灰色の虹彩の、いちばん外の縁の細い輪。

 

 母から継いだ、灰色と。

 

 青子から受け取った、青。

 

『青子の魔法は、時間に触れる魔法だ。……だから、お前の目の中の青は、時間の糸でできている』

 

 声がゆっくりと言葉を選んでいた。

 

『お前が切るたびに、縁は削れる。……だが、削れた瞬間に、その青い時間の糸が、削れる前の長さに繕い戻す。時間を少しだけ巻き戻すようにして』

 

 忉利は息を止めた。

 

 あの夜。坂道の暗がりで、自分の胸に見た青い糸。

 

 削れた痕の上に何重にも巻きついて、一目ずつ繕っていた糸。

 

『だから、痛まない。血も出ない。何度切っても細くならない』

 

 灯りが忉利の前で止まった。

 

『母親の目で、母親にはできなかったことが、できる。……それが今のお前の目だ』

 

 

◇

 

 

 青子が口を開いた。

 

 声がうまく出なかった。

 

 一度閉じて、もう一度開いた。

 

「……それって」

 

 震える声だった。

 

「ただで済んでるわけじゃ、ないわよね」

 

 声はすぐには答えなかった。

 

 青白い灯りがゆっくりと揺れた。

 

『済んでいない』

 

 静かな声だった。

 

『お前たちは、もう聞いているのだろう。……二十歳を少し過ぎたあたりで、二人とも歳を取らなくなると』

 

「……有珠から」

 

 忉利が言った。

 

「十二月に。……おれの時計は青子と同じぜんまいで動いてる、って」

 

『そうだ。……あれは、この繕いの裏側だ』

 

 青白い灯りがゆっくりと揺れた。

 

『時間の糸で縁を繕い続ければ。……繕われる縁は、少しずつ時間の側に寄っていく。削れるたびに、元の長さに巻き戻される。何度も、何度も』

 

「…………」

 

『青子の魔法は、青子自身の時間を使っている。その魔法の糸が、この少年の中でずっと働いている。……二人の時間は、一本の糸で繋がっている』

 

 青子の指が忉利の手を、痛いほど握っていた。

 

『繋がった二つの時間は。……いずれ、一つの輪になって閉じる。お前たちが有珠から聞いたのは、その結び目のことだ』

 

「…………」

 

『つまり、少年。……お前の目が痛まないのと、お前たちの時間が止まるのとは、同じ一本の糸の表と裏だ。片方だけを取ることは、できん』

 

 青子の膝が、がくりと折れかけた。

 

 忉利がその腕を掴んだ。

 

 

◇

 

 

『それから、もう一つ』

 

 声は続けた。

 

『青子。お前は、この少年の死を時間の果てに捨てた。……その重石が、お前の時間をずっと引いている』

 

「……知ってる」

 

 青子の声は掠れていた。

 

「……なんとなく。あの夜から。背中に何か、ぶら下がってる感じがするの」

 

『忘れるな。……お前の時間が、その重石に引かれてほつれたら。お前の魔法の糸が、切れたら』

 

 灯りが忉利の方へ揺れた。

 

『繕いが止まる。……十二月から、この少年が切ってきた全部の分が。青い糸が巻き戻して、なかったことにしてきた分が。一度に、返ってくる』

 

「……一度に」

 

『母親が一年かけてほどけた道を。……一晩で、辿る』

 

 青子は忉利の腕にしがみついていた。

 

 顔が真っ白だった。

 

 忉利が口を開いた。

 

「……おれは、何なんだ」

 

 声は平らだった。

 

「織部の目で。青子の魔法が入ってて。……そのせいで、時間まで止まって。……なんなんだよ、おれは」

 

 灯りが忉利の前で止まった。

 

『織部の目と、魔法使いの魔法と。……その二つが一人の人間の中で撚り合わされたものなど、この世界のどこにも、例がない』

 

「…………」

 

『いずれ、お前のことをそう見る者も現れるだろう。この世界の縫い目だの、どこにもない綻びだの、と。……魔術師という連中は、そういう名前をつけたがる』

 

 声がほんの少しだけ笑った。

 

『私はそうは見ない。……お前は、喫茶店の子だ』

 

 忉利は瞬きをした。

 

『母親の目を持って。青子の魔法を半分抱えて。……それで、朝に珈琲を淹れている』

 

 灯りがゆらりと揺れた。

 

『それだけのものだ。……少なくとも、私にはそう見える』

 

 忉利は、長いこと何も言わなかった。

 

 それから、ぼそりと言った。

 

「……答えになってねえぞ」

 

『答えは、やらん。……お前が決めることだ』

 

 

◇

 

 

「……繕いが止まらねえ方法は、ねえのか」

 

 忉利が訊いた。

 

 青子の手が、忉利の手の中で跳ねた。

 

『ない』

 

 声はあっさりと言った。

 

『青子の時間がほつれないようにする。それだけだ。……二人の時間が並んでいる限り、繕いは続く。片方だけで生きようとするな』

 

「…………」

 

『――ただし』

 

 灯りがほんの少しだけ揺れた。

 

『結ぶのは、手でやる。……少年。お前の手は、まだ結び方を知らん』

 

「……先週、神社で結べなかった」

 

『いつか覚える。縁も、最初は下手だった』

 

 声がほんの少しだけ笑った。

 

『お前の手が結ぶ方を覚えたら。……今度は、お前の手で青子の時間を繕えるかもしれん。重石に引かれて、ほつれかけた時に』

 

 青子が息を呑んだ。

 

『青子の魔法が、お前を繕い。お前の手が、青子を繕う。……二重に繕われた布は、そう簡単には破れん』

 

『それができるかどうかは、知らん。織部の見える者で、魔法使いの隣にいた者は一人もいないからな』

 

 青白い灯りがすうっと小さくなった。

 

『行きなさい。……縁が、この洞穴で最後に言ったことを教えておこう』

 

「…………」

 

『――いつか、あの子がここに来たら。何を切らないか、自分で決めなさい、と伝えてください』

 

 灯りが、消えた。

 

 

◇

 

 

 洞穴を出ると、谷に細い雨が降り始めていた。

 

 春の冷たい雨だった。

 

 青子は、洞穴の口の脇の溶け残った雪の上に座り込んだ。

 

 膝を抱えて。

 

 顔を膝に埋めて。

 

「……青子」

 

「……私の魔法が」

 

 くぐもった声だった。

 

「あんたを削れないでいてくれたの」

 

「…………」

 

「知らなかった。……十二月、あんたを取り返すのに必死で。何をどう編んだのか、自分でも、よくわかってなかった」

 

 青子の肩が震えていた。

 

「その後、あんたが屋上で痛くないって言った時。……よかったって、思った。それだけ。何にも、考えなかった」

 

「…………」

 

「でも、違ったのね。……あんたのお母さん、一回切って、いなくなったのに」

 

 青子は、顔を上げた。

 

 目が真っ赤だった。

 

「あんたは、私のせいで何回でも切れちゃう。……それで、あんたの時間まで止まっちゃう。二十歳で。……私の、せいで」

 

 言葉が続かなかった。

 

 忉利は、青子の隣にしゃがんだ。

 

 溶け残った雪の上に。

 

 青子の、膝を抱えた手の上に、自分の手を重ねた。

 

「……お前のせいじゃねえ」

 

 低い声だった。

 

「お前の、おかげだ」

 

 青子の目が見開かれた。

 

「母さんは、一回切って、薄くなって、いなくなった。……晴華のために一回だけ切って。それで、全部終わった」

 

「…………」

 

「おれは何回切っても、ここにいる。……お前の隣に」

 

 忉利は、青子の手を握った。

 

「母さんの帳面の最後の頁。……見える目で、何を切らないか自分で決められる子に、って。それから、赤い靴の女の子がずっと隣にいてくれますように、って」

 

 青子の唇が震えた。

 

「……それって。母さんが一番欲しかったやつだろ」

 

 春の雨が二人の肩に降っていた。

 

「見える目で。普通に。……好きな奴の隣にいる」

 

 忉利は、少しだけ口の端を持ち上げた。

 

「時間が止まんなら、止まったまんま隣にいりゃいい。……お前の時間も一緒に止まんだろ。なら、同じだ」

 

 青子は何も言えなかった。

 

 ただ、忉利の胸に額を押しつけた。

 

 雨の中で、長いことそうしていた。

 

 

◇

 

 

 夕方。

 

 雨が上がった帰り道の、尾根の上で。

 

 三咲の町が、眼下に広がっていた。

 

 雲の切れ間から差す夕陽が、町の屋根を赤く染めていた。商店街の、アーケードの屋根。坂の上の、洋館の尖塔。西の外れの、神社の楠の梢。

 

 忉利は尾根の岩の上に立った。

 

「……見てみる」

 

「……何を」

 

「全部」

 

 青子の手が忉利の手首を掴んだ。

 

「……切らないでよ」

 

「見るだけだ」

 

 忉利は、目の奥の扉を開いた。

 

 全部。

 

 最後の蝶番まで。

 

 虹彩が、真昼の青に満ちた。

 

 青子はその目を、隣から見上げていた。

 

 初めて見る目だった。

 

 背骨の奥が、ほんの少しだけ冷たくなった。

 

 けれど、手首は離さなかった。

 

 ――見えた。

 

 町を覆う蒼崎の網。硬く、規則正しく、定規で引いたような。

 

 その下の、織部の網。柔らかく、一目ずつ結ばれた、何百年分の誰かの手の網。

 

 二枚の網の上に、町の全部が乗っていた。

 

 HIKAGEと。坂の上の屋敷と。西の神社と。細い縁で繋がっていた。

 

 店のカウンターから、父の線。晴華の線。

 

 屋敷の庭から、有珠の線。薔薇の苗の脇にしゃがんでいる草十郎の線。

 

 神社の楠の根元から、母の四本の糸。

 

 それから。

 

 自分の胸を見た。

 

 糸が伸びていた。

 

 母の墓へ。父へ。晴華へ。

 

 隣の青子へ。いちばん太く。いちばん固く。年中の赤い靴の日から、ずっとほどけない結び目で。

 

 それから、もう一本。

 

 どこにも繋がっていない線が、あった。

 

 町の方にも、空の方にも、誰の方にも伸びていない。ただ、自分の胸の真ん中から、世界のずっと向こうの見えない場所へ、まっすぐに伸びている一本の線。

 

 時間の果ての方へ。

 

 十二月に、青子が自分の死を捨てに行った方へ。

 

 そして、その全部を。

 

 自分の胸の全部の糸を。

 

 青い、細い糸が繕っていた。

 

 夜明け前の空の色で。

 

 一目ずつ。

 

 忉利は、扉を閉じた。

 

 真昼の青が引いていった。

 

 

◇

 

 

「……母さんの目で」

 

 忉利は夕陽の町を見下ろしたまま、言った。

 

「お前の魔法で。……そのうち時間が止まる。それが全部、一本の糸だって、ことだろ」

 

「…………」

 

「で」

 

 忉利は隣の青子を見た。

 

「何を切らないか決めるのは、おれだ」

 

 青子の目が揺れた。

 

「それだけは誰の目でもねえ。母さんのでも、お前のでも、爺さんのでも。……おれが、決める」

 

 夕陽の中で、青子は長いこと忉利の顔を見ていた。

 

 それから、少しだけ笑った。

 

 笑い方が下手だった。

 

「……ねえ」

 

「ん」

 

「私の魔法。……あんたの目の中に置きっぱなしなんだけど」

 

「ああ」

 

「返してほしいって、言ってもいい?」

 

「やだ」

 

 即答だった。

 

「――なんでよ」

 

「おれの、半分だからだ」

 

 青子は口を開けたまま、固まった。

 

 それから、顔を真っ赤にして忉利の脛を蹴った。

 

「……じゃあ」

 

 蹴った足を下ろして。

 

 忉利の手首を、もう一度握り直した。

 

「私の時間、ほつれないように。……ずっとそばにいなさいよ」

 

「言われなくても」

 

 それから、忉利は少しだけ考えて。

 

「……結ぶ方、覚える」

 

「?」

 

「お前の時間が、ほつれかけたら。……おれの手で繕えるように」

 

 青子は、何も言えなかった。

 

「何十年あっても足りねえかもしれねえけど。……時間なら、たぶんいくらでもあるだろ。おれら」

 

 

◇

 

 

 夜。

 

 Cafe HIKAGEの閉店後のカウンター。

 

 壁のメニューの、いちばん端の空いている釘の下で。

 

 父と、忉利と、青子が座っていた。

 

 忉利が、母の墓の話をした。

 

 四本の糸のこと。四本目が青子に伸びていたこと。

 

 洞穴の話は、しなかった。

 

 時間のことは。

 

 父は、長いこと黙っていた。

 

 それから、青子を見た。

 

 ほんの少しだけ、目元が緩んだ。

 

「……そうか」

 

 低い声だった。

 

「……母さんらしい」

 

 父は、立ち上がった。

 

 カウンターの奥の古い戸棚の、いちばん下の引き出しを開けた。

 

 中から、小さな木の箱を取り出した。

 

 角の擦り切れた桐の箱。蓋に小さな梅の花が彫られていた。

 

 父はそれを、青子の前に置いた。

 

「……母さんの裁縫箱だ」

 

 青子の手が止まった。

 

「ネルを縫ってた。母さんは。……俺の、店を開けた時の最初のネル。去年のクリスマスに、こいつに渡したやつだ」

 

 忉利は瞬きをした。

 

 クリスマスの朝。父から黙って渡された、古い、よく使い込まれたネル。

 

 あれは、母が縫ったものだった。

 

「……青子ちゃん。裁縫は」

 

「……へたくそです」

 

 青子は正直に言った。

 

「家庭科、いつもぎりぎりで。……ボタンつけるのも三回やり直すくらい」

 

「そうか」

 

 父は裁縫箱の蓋を、そっと開けた。

 

 中に針山と、何色もの糸の巻きと、小さな和鋏と、使い込まれた指ぬきが、きちんと並んでいた。

 

 十三年、誰も開けていなかった箱だった。

 

「母さんも、最初は下手だった。……ネル一枚縫うのに、何ヶ月もかかってた」

 

 父は、青子の顔を見た。

 

「母さんは言ってた。……切るのは、目でできる。結ぶのは、手でやる」

 

「…………」

 

「こいつの手は、まだ結び方を知らんだろう。……覚えるまで、青子ちゃんが持っててくれ」

 

 青子は長いこと、裁縫箱を見下ろしていた。

 

 それから、両手でそっと蓋を閉めて。

 

 胸に抱きしめた。

 

「……はい」

 

 小さな声だった。

 

「預かります。……ずっと」

 

 

◇

 

 

 忉利はカウンターの内側に入って、ネルを手に取った。

 

 母が縫った、ネル。

 

 三人分。

 

 湯を、細く。

 

 粉が、膨らむ。

 

 父の前に一杯置いた。

 

 父は、それを一口飲んだ。

 

 長いこと黙っていた。

 

「……十秒」

 

 ぼそりと言った。

 

「……遅えのかよ」

 

「蒸らしが十秒、長い」

 

 父はカップを受け皿に戻した。

 

「考え事をしながら淹れたな」

 

「…………」

 

「……母さんも、そうだった。考え事をすると、十秒長くなった」

 

 二階から、晴華の足音が下りてきた。

 

 階段の途中で止まった。

 

「……ねえ。もう、終わった?」

 

 晴華が手すりの隙間から、顔だけ覗かせていた。

 

「わたしにも教えてくれるの? 仲間はずれの話」

 

 忉利は、晴華の顔を見た。

 

 目の奥の扉を閉じたまま。

 

 閉じたまま、知っていた。

 

 晴華の胸から、あの暗い縁がもうどこにも伸びていないことを。

 

 十四年前、母が一生に一度を使って、切ったから。

 

 晴華には話さない。

 

 知ってて、言わない。

 

 父と同じように。

 

 母と同じように。

 

「……そのうちな」

 

「えー。お兄ちゃん、それ絶対教えないやつじゃん」

 

「うるせえ。……ほら、晴華の分」

 

 忉利は四つ目のカップに、牛乳をたっぷり入れた甘いカフェオレを淹れた。

 

 晴華は唇を尖らせたまま階段を下りてきて、カウンターの端に座った。

 

 カップを両手で持って、一口飲んだ。

 

「……おいしい」

 

 カウンターの下で。

 

 青子の手が、忉利の左手首をそっと握っていた。

 

 止めるためでは、なかった。

 

 繕っている糸の、その上から。

 

 ここにいることを確かめるように。




ストックが尽きた後の、今後についてのアンケートを載せました。

気軽に投票お願いします。

こんな話が見たい、などの要望もOKです。
例えば、高校でのラブコメ的なエピソード見たい。的な

ちなみに2人が三咲を経ってしばらくの間まではストックあります。

アンケートの下二つは時間かかると思います。

シエルの小説満足度調査

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