夜明けの色を見る眼   作:にんら

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キッツィーランド

 ―――その夜、空に月はなかった。

 

 新月。

 

 月齢表の上では、それだけのことだった。一月に一度、月が太陽と同じ方角に並んで夜空から姿を消す。何百年も、何千年も繰り返されてきたこと。

 

 山で育った者なら誰でも知っている。

 

 新月の夜は獣がよく動く。

 

 だから、山の人間は、新月の夜には外に出ない。

 

 外に出るのは狩る側と。

 

 狩られる側だけだ。

 

 

◇

 

 

 放課後の、三咲高校の昇降口。

 

 日景忉利は、下駄箱の陰に立っていた。

 

 立つつもりは、なかった。上履きを脱いで、靴を出して帰るだけのはずだった。

 

 三つ隣の列の下駄箱の前に、青子がいた。

 

 生徒会長の腕章を外して、鞄を肩にかけて。誰もいない昇降口で周りを一度だけ見回して。

 

 それから、一つの下駄箱の扉をそっと開けた。

 

 静希草十郎の下駄箱だった。

 

 白い封筒を一通、中に滑り込ませる。

 

 扉を閉める。

 

 何事もなかったように、青子は昇降口を出ていった。

 

 振り返らなかった。

 

 忉利は下駄箱の陰で、しばらく動けなかった。

 

 ラブレターだと思うほど、忉利は青子を知らなくはなかった。

 

 十年以上、隣で見てきた。好きな相手に手紙を書くような女ではない。書くなら面と向かって言う。言えないなら一生言わない。

 

 それに、あの顔。

 

 封筒を入れる時の青子の横顔は、ひどく硬かった。

 

 昨日の夕方、店のカウンターで、紅茶の湯気の向こうに見た顔と同じだった。

 

 ――やりたくねえなら、やんなきゃいいだろ。

 

 自分がそう言った時、青子は何も答えなかった。

 

 忉利は、三つ隣の列の下駄箱の前に立った。

 

 開けてはいけない。わかっていた。

 

 開けた。

 

 白い封筒。差出人も宛名もない。封もされていなかった。

 

 便箋が一枚。青子の字ではなかった。定規で引いたような癖のない、誰の字ともわからない字。

 

 ――今夜、午前零時。やしろぎブレッド&キッツィーランド。ミラーハウスにて待つ。

 

 それだけだった。

 

 忉利は、便箋を、元のとおりに封筒に戻した。

 

 下駄箱の扉を閉めた。

 

 指先が、少しだけ冷たかった。

 

 

◇

 

 

 夜の九時。

 

 中華飯店「まっどべあ」の裏口で、静希草十郎は調理服を畳んでいた。

 

 学生鞄の中に白い封筒が入っている。

 

 差出人が誰なのかは、知っていた。昇降口の窓硝子に、封筒を入れて出ていく長い髪の後ろ姿が映っていたからだ。

 

 裏口の脇に青いガスボンベが一本、転がっていた。厨房で使い切ったカセットコンロ用の小さな缶。

 

 草十郎は、少し考えてから、それを拾って鞄に入れた。

 

 山では何でも拾って帰るものだった。

 

「――静希くん」

 

 レジ横の小窓から、金鹿が顔を出していた。

 

「これから、どこか行くの?」

 

「約束があるんだ。零時に」

 

「……零時?」

 

「丘の向こうの、遊園地に」

 

 金鹿は何か言いたげに眉を寄せた。

 

 それから、傘立てから骨の一本曲がったビニール傘を引き抜いて、押しつけた。

 

「降るわよ。……風邪ひいてバイト休まれたら、困るのはこっちなんだから」

 

「ありがとう、久万梨」

 

「お礼言うなら、明日ちゃんと返して」

 

 小窓がぴしゃりと閉まった。

 

 明日、返す。そう約束したのだから、明日もここに来なければならない。

 

 そのことを、草十郎は特に不思議だとも思わなかった。

 

 

◇

 

 

 同じ頃。

 

 Cafe HIKAGEのカウンターで、忉利はエプロンの紐をほどいていた。

 

「お兄ちゃん、どこ行くの?」

 

 宿題を広げていた晴華が目ざとく顔を上げた。

 

「静希んとこ。ノート、借りっぱなしなんだよ」

 

「こんな時間に? 雨、降ってきたよ?」

 

「明日の一限で、使うんだと」

 

 晴華は疑わしげに、兄の顔をじっと見た。

 

 忉利は、目を逸らさなかった。逸らせば、この妹は必ず気づく。

 

「……ふーん。青子ちゃんのとこ行くなら、そう言えばいいのに」

 

「行かねえよ」

 

 カウンターの内側で、父がネルを洗う手を止めた。

 

 何も言わずに、棚の下から厚手のマフラーを一本、取り出してカウンターの上に置いた。濃紺の、古いウールのマフラー。

 

「冷えるぞ」

 

 それだけ言って、父はまたネルを洗い始めた。

 

 忉利は黙って、それを首に巻いた。

 

「……行ってくる」

 

 ドアベルがからん、と鳴った。

 

 その音が背中で、妙に長く尾を引いた。

 

 

◇

 

 

 三咲の町を見下ろす丘を越え、雑木林の中の坂道を下りきった先に、その遊園地はあった。

 

 やしろぎブレッド&キッツィーランド。

 

 隣町のパン屋の主人が、私有地に建てた小さな遊園地。パン工場の隣に観覧車を建てて、猫のマスコットに看板を持たせて子供たちを呼んだ。評判は良くなかった。三年前、小さな子供が園内で迷子になって、一晩見つからなかった事件があって、それきり閉園した。

 

 午後十一時五十分。

 

 霧雨が降っていた。

 

 ゲートの鎖は外されていた。

 

 静希草十郎は借りた傘を差したまま、ゲートをくぐった。

 

 止まったままの観覧車。屋根の崩れたメリーゴーランド。色の褪せたコーヒーカップ。パン工場の割れた煙突。錆びた鉄骨を夜空に突き上げるジェットコースターのレール。

 

 雨に濡れたそれらが、遠い街の明かりをかすかに照り返していた。巨大な獣の骨のように。

 

 中央広場は静まりかえっていた。

 

 石畳の案内板の剥げかけた矢印に従って、西へ。

 

 メリーゴーランドの脇を抜けた先に、板張りの小屋があった。

 

 入り口の上に、割れた電球で縁取られた看板。

 

 ――ふしぎのかがみのやかた。

 

 入り口の脇の潰れた売店の裏に、錆びた大きなガスの瓶が三本、並んでいた。

 

 草十郎はその前を通る時、ほんの少しだけ鼻をひくつかせた。

 

 それから傘を畳んで、館の中に入った。

 

 

◇

 

 

 丘の上の雑木林の中で。

 

 日景忉利は同じ曲がり角を、三度目に通り過ぎていた。

 

「……なんでだよ」

 

 膝に手をついて荒い息を吐く。濃紺のマフラーが、汗と霧雨で湿って重かった。

 

 道は一本しかないはずだった。丘を越えて雑木林の坂道を下れば、遊園地に着く。

 

 それなのに。

 

 坂の途中のあの曲がり角まで来ると、決まって足が止まる。そして、ふと思う。今夜はもう遅い。雨で寒い。明日も学校がある。帰ろう。帰った方がいい。

 

 そう思って踵を返してしまう。

 

「……おれ、なんで帰ろうとしてんだ」

 

 声に出して、ようやく違和感の輪郭が掴めた。

 

 これは、おれの考えじゃない。

 

 忉利は顔を上げた。

 

 四度目の曲がり角。

 

 坂道の真ん中に。

 

 線が垂れ下がっていた。

 

 何百本もの細い、黒い線。古い喫茶店の入り口に下がっている玉すだれのように、道幅いっぱいに、ずらりと。風もないのに、かすかに揺れていた。

 

 右目が疼き始めた。

 

 ずきり、ずきり、と心臓の鼓動に合わせて。

 

 子供の頃から、見えていた。ものとものを繋いでいる細い線。机と椅子の間。電線と電柱の間。人と人の間。

 

 見えるだけで、何の役にも立たなかった。見続ければ頭が割れるように痛むだけ。だから、いつもなるべく見ないようにしてきた。

 

 けれど、これは。

 

 今まで見てきた、どの線とも違った。

 

 誰かがここに、わざと垂らしたものだ。

 

 人を遠ざけるために。

 

「……どけよ」

 

 忉利は奥歯を噛みしめた。

 

 目を逸らさなかった。

 

 痛みが一気に膨れ上がった。

 

 眼球の奥で何かが弾ける。熱した針が、目の裏から脳の奥へと、何本も突き刺さっていく。視界の縁が、赤く滲む。頬を生温かいものが伝い落ちていく。

 

 涙ではなかった。

 

 それでも見続けた。

 

 玉すだれのいちばん真ん中に。

 

 一本だけ太い線があった。

 

 何百本もの細い線が、その一本から枝分かれして垂れている。すだれの糸を通す横棒のように。

 

 そこだ、とわかった。

 

 理屈ではなかった。糸の結び目を、指先が勝手に探り当てるのと同じだった。

 

「――どけ」

 

 ぷつり、と。

 

 音がした気がした。

 

 太い線が、真っ二つに断ち切れた。垂れていた何百本もの細い線が、支えを失ってばらばらとほどけて、宙に溶けるように消えていった。

 

 頭の中の囁きがぴたりと止んだ。

 

「……は、っ……」

 

 忉利はその場に膝をついた。

 

 右手で顔を押さえると、指の間からぬるりとした感触がした。

 

 手のひらを見る。

 

 赤黒く濡れていた。

 

 それから。

 

 痛みとは別に。

 

 何かが、ほんの少しだけ抜けていった気がした。

 

 身体の真ん中の細い糸のような何かが、一目だけほつれたような。

 

 理由はわからなかった。

 

 忉利は、血を袖で拭って立ち上がった。

 

 坂道の先の雑木林の切れ目の向こうに、錆びた観覧車の骨組みが黒く、夜空に突き出していた。

 

 

◇

 

 

 鏡の館の中は暗かった。

 

 けれど真っ暗ではなかった。天井の割れた天窓から、雨雲越しの街の明かりが差し込んで、四方の鏡がそれを何十回も跳ね返して、通路の奥まで薄く広げていた。

 

 鏡。鏡。鏡。

 

 角を曲がるたびに、自分の姿が何十人にも増えていく。

 

 草十郎は、その中を迷わずに歩いた。

 

 鏡に映った道と、本物の道を間違えなかった。本物の道は、埃と雨の匂いがする。鏡の中の道は、しない。

 

 通路の奥が少し広くなった。

 

 八角形の小さな広間。八つの壁が全部、鏡。

 

 その真ん中に青子が立っていた。

 

 傘も差さずに来たのだろう。長い髪が雨に濡れて、コートの肩に張りついていた。

 

「……時間、ぴったりね」

 

「時計というのは、便利だな」

 

 草十郎は、広間の入り口で足を止めた。

 

 青子の右手を見た。

 

 指先に青い光が灯っていた。八つの鏡が、それを何百にも増やしていた。

 

「蒼崎」

 

「……なによ」

 

「今夜の蒼崎は、狩りをする人の目をしている」

 

 青子の指先の光が、ほんのわずかに揺れた。

 

「山で鹿を追う大人たちが、ああいう目をしていたんだ。……俺を殺すのか」

 

 青子は答えなかった。

 

 答える代わりに撃った。

 

 一工程。スナップ。

 

 指を弾く動作だけで、青い礫が音速で放たれる。

 

 草十郎の頬を掠めた。背後の鏡が粉々に砕けた。

 

 草十郎は動かなかった。

 

 頬に細い血の筋が一本、走っていた。

 

「……逃げなさいよ」

 

 青子の声が低かった。

 

「この迷路の中を。……私が、あんたを見失ったら、あんたの勝ち。見つけたら、私の勝ち」

 

「そういう決まりか」

 

「そういう決まりよ」

 

 草十郎は、少しだけ首を傾げた。

 

 それから、踵を返して走り出した。

 

 鏡の迷路を、青い光が追った。

 

 スナップ。スナップ。スナップ。

 

 一発撃つたびに、鏡が砕け、硝子の雨が降った。草十郎の走り抜けた通路の一歩後ろの鏡が、次々と弾け飛んでいく。

 

 当たらなかった。

 

 当てていなかった。

 

 青子自身、それに気づいていた。

 

 狙いがほんの数十センチ、甘い。撃つたびに、指先がわずかに逸れる。

 

 ――やりたくねえなら、やんなきゃいいだろ。

 

 奥歯を噛んだ。

 

 やりたくない、なんて関係ない。

 

 魔術を見た者は、消す。見られた神秘は、知る者が増えるほど薄まって弱くなる。だから、目撃者は、消す。それが魔術師の決まり。

 

 記憶を消す魔術はある。けれど、青子も有珠も、それを空で唱えられない。準備には三ヶ月かかる。

 

 三ヶ月も待てない。

 

 通路の角を曲がった先で、草十郎が立ち止まっていた。

 

 行き止まりだった。三方が鏡。

 

 草十郎は振り返った。

 

 鏡に囲まれて、何十人もの草十郎が青子を見ていた。

 

 恐怖も、怒りも、命乞いもない顔で。

 

「蒼崎がそうしなければならないのなら」

 

 平坦な声だった。

 

「仕方がないな。……見てはいけないものを見たのは俺の方だ。山でも、入っちゃいけない沢に入った人は戻ってこないことがあったよ」

 

「――――」

 

 青子の指先に光が集まった。

 

 今度は外さない。

 

 外せない。

 

 右手を上げた。

 

 その時。

 

 草十郎の背後の三方の鏡のうちの一枚が。

 

 音もなく、内側から割れた。

 

 

◇

 

 

 割れた鏡の向こうは壁ではなかった。

 

 もう一つの暗い通路。その闇の中から、何かが、ゆっくりと歩み出てきた。

 

 人の形をしていた。

 

 長い髪。暗い色のコート。

 

 青子だった。

 

 同じ顔で。同じ服で。同じ背丈で。

 

 ただ、目だけが違った。

 

 硝子玉だった。何も映していない、つるりとした黒い硝子。

 

 青子の顔を写し取ったマネキンだった。

 

「……何、これ」

 

 マネキンの口が動いた。

 

 声は出なかった。

 

 代わりに、青子の全身の産毛が逆立った。

 

 聞こえなかった。けれど、わかった。今、あれは何かを言った。

 

 呪いの言葉を。

 

 死ね、と。

 

 青子の背骨の奥で魔術回路が軋んだ。点いていた回路の灯が、一斉にちらついた。熱が逆流する。腕の内側を、焼けた針金が肩から指先へ、何本も走り抜ける。

 

「――っ、ぐ……!」

 

 指先の光が消えた。

 

 撃てない。回路が呪いに掻き乱されて、魔力を指先まで送れない。

 

 マネキンの右腕が上がった。

 

 腕の先がぱきん、と外れた。

 

 肘から先が、銛のように撃ち出された。

 

 まっすぐに青子の胸へ。

 

「――蒼崎」

 

 横から身体が突き飛ばされた。

 

 草十郎だった。青子の身体を抱えて、硝子の散らばる床の上に転がった。

 

 銛の腕が、青子のいた場所を貫いて、背後の鏡を突き破り、壁の板に深々と突き刺さった。その根元から細い鋼線が、マネキンの肘までぴんと張っていた。

 

 鋼線が巻き戻る。銛が壁から引き抜かれて、肘にがしゃりと戻った。

 

「……なんで、庇うのよ」

 

 青子は、草十郎の腕の中で言った。

 

「私、あんたを殺しに、ここに呼んだのよ」

 

「それとこれとは別の話だよ」

 

 草十郎はマネキンを見上げていた。

 

「蒼崎が俺を殺すのは、蒼崎の決まりなんだろう。……でも、あれが蒼崎を殺すのは見ていて嫌なんだ」

 

 マネキンがまた、右腕を上げた。

 

 その時。

 

 八角形の広間の入り口の方から。

 

 硝子を踏む荒い足音がした。

 

 

◇

 

 

 忉利が鏡の館に飛び込んだ時、最初に見えたのは、青子だった。

 

 何十人もの青子だった。

 

 八つの鏡に。割れた鏡の破片の一枚一枚に。何十人、何百人もの同じ顔。

 

 その全部が一斉に、こちらを向いた。

 

 右目が焼けた。

 

 視界の半分が赤く滲む中で、忉利は見た。

 

 線を。

 

 鏡に映った青子たちには、線がなかった。

 

 どこにも繋がっていない。床とも、空気とも、自分の身体とも。ただ、光が跳ね返っているだけの、薄っぺらな影。

 

 線を持っている青子は、二人だけだった。

 

 一人は床の上に。草十郎の腕の中に。

 

 その身体から何本もの線が、四方に伸びていた。床へ。草十郎へ。濡れたコートへ。それから細く、忉利の方にも一本。

 

 もう一人は割れた鏡の前に立っていた。

 

 その身体の線はおかしかった。

 

 外へは一本も伸びていなかった。

 

 胸から出た線が、背中を回って、また胸に戻っている。首から出た線が、腕を回って、また首に戻っている。何十本もの線が全部、自分の身体の中で、ぐるぐると輪を描いていた。

 

 自分で、自分に繋がっている。

 

 どこからも力をもらわずに、自分の中で何かを延々と回し続けている。

 

 気持ちが悪かった。

 

 生き物の線ではなかった。

 

「――青子っ!」

 

 声が勝手に出た。

 

 床の上の青子が顔を上げた。

 

 目が合った。

 

 青子の顔から一瞬で、全部の色が消えた。

 

「……忉利?」

 

 掠れた声だった。

 

「なんで、あんたがここに――」

 

 マネキンが振り返った。

 

 硝子玉の目が忉利を見た。

 

 右腕が忉利の方へ向いた。

 

 銛が撃ち出された。

 

 

◇

 

 

 見えた。

 

 銛の根元からマネキンの肘まで、ぴんと張った鋼線。

 

 その鋼線が、マネキンの肘の中の巻き上げの仕掛けと繋がっている、結び目。

 

 銛が飛んでくる。

 

 避けられなかった。

 

 だから、切った。

 

「――っ!」

 

 ぷつり。

 

 鋼線と肘の結び目がほどけた。

 

 銛が忉利の胸の手前で、ぐらりと軌道を変えた。巻き戻す力を失った鋼線が、だらりと空中で弛んで。銛は忉利の肩を掠めて、背後の鏡に突き刺さった。

 

 マネキンの肘から先がからっぽになった。

 

 右目の奥で、何かがぶちりと千切れた。

 

「――ぐ……っ」

 

 忉利は、硝子の破片の上に膝をついた。

 

 頬を伝う血が、濃紺のマフラーにぽたぽたと染みていく。

 

 また何かが抜けた。

 

 さっきよりも少しだけ、多く。

 

「――忉利!!」

 

 青子の悲鳴に近い声がした。

 

「何、今の。あんた、何したの……!」

 

 答える余裕はなかった。

 

 マネキンが左腕を上げていた。

 

 硝子玉の目が忉利を見ていた。それから、青子を。それから、草十郎を。

 

 三人を順番に。

 

 獲物を数えるように。

 

 

◇

 

 

「――蒼崎」

 

 草十郎が、青子を床に下ろして立ち上がった。

 

「手から光は出せるか?」

 

「……まだ、出せない。回路を、掻き乱されてる」

 

「どのくらいで戻る?」

 

「……わかんない。一分か、二分か」

 

「そうか」

 

 草十郎は忉利を見た。

 

 血の流れる右目を。

 

 それから、少しだけ頷いた。

 

「日景も来たんだな。……なら、三人で戦おう」

 

「――は?」

 

 青子と忉利の声が重なった。

 

「二分、時間を稼ぐよ。その間に蒼崎は戻してくれ」

 

 左腕の銛が飛んできた。

 

 草十郎は、通路の壁の赤い箱に手を伸ばした。

 

 消火器。

 

 錆びた留め金を引き剥がす。重い赤い筒を両手で抱えて。

 

 銛の軌道に突き出した。

 

 がぁん、と鈍い音。

 

 銛の先が消火器の胴に突き刺さった。圧力が抜ける。白い粉が噴き出した。

 

 狭い通路が一瞬で真っ白に染まった。

 

 マネキンの硝子玉の目が、白い粉の中で何も映さなくなった。

 

 草十郎は消火器を銛ごと、力任せに引いた。鋼線がぴんと張る。マネキンの身体が前につんのめった。

 

「――こっちだ」

 

 草十郎は青子の腕を掴んだ。

 

 忉利が反対側から、青子のもう片方の腕を掴んだ。

 

 二人で青子を引きずるようにして、通路を駆け出した。

 

 白い煙の中を。鏡の迷路を。

 

 背後で、硝子の割れる音が追ってきた。

 

 

◇

 

 

「……あれ、魔術師の人形よ」

 

 走りながら青子が言った。

 

 自分の指先を見ていた。回路が、少しずつ静まっていく。けれど、光はまだ戻らない。

 

「たぶん、呪いで動いてる。呪いを撃ち出して、呪いを自分の動力にしてる。……壊しても壊しても、動き続ける類のやつ」

 

「……だからか」

 

 忉利が、荒い息の合間に言った。

 

「あいつの線、全部、自分に戻ってた。……胸から出て、胸に戻る。輪になってる」

 

 青子が走りながら、忉利の横顔を見た。

 

 血に濡れた右目を。

 

「……線?」

 

「見えんだよ、昔から。……ものとものを繋いでる線が」

 

「――――」

 

「今、初めて切った。……さっきの、鋼線の。丘の上のは数に入れねえとして」

 

 青子は何も言えなかった。

 

 走りながら唇を噛んでいた。

 

「どうすれば止まるんだ?」

 

 草十郎が訊いた。

 

「……跡形もなく、潰すしかない。輪が回ってる限り、止まらないなら。輪ごと」

 

「わかった」

 

 草十郎は走りながら、学生鞄の中に手を入れた。

 

 青い小さな缶を取り出した。

 

「蒼崎、これに火はつけられるか?」

 

「……空でしょ、それ」

 

「空だ。……でも、この館の入り口でガスの匂いがしたんだ」

 

 青子の足が止まりかけた。

 

「入り口の脇の売店の裏に、大きなガスの瓶が三本並んでいた。錆びて栓が緩んでいたんだ。……この館の床下に、ずっと溜まってる」

 

 忉利は走りながら、足元の割れた板張りの床を見た。

 

 右目を細めた。

 

 床の割れ目の奥に。

 

 線が見えた。

 

 入り口の方から床下を這って、館の奥の方まで、ゆっくりと広がっている、ぼんやりとした重い線の流れ。

 

 空気の線とは違う。空気より重いものが、低いところに溜まって、床板の裏側にべったりと張りついている。

 

 その流れの根元が。

 

 入り口の脇の、売店の裏の、錆びた瓶の口に繋がっていた。

 

「……ある」

 

 忉利が言った。

 

「床の下。……入り口から、この辺まで、全部。溜まってる」

 

 青子が二人の顔を交互に見た。

 

 山で育った男の鼻と。

 

 線の見える男の目と。

 

「……あんたたち、ほんと」

 

 出口の割れた電球の看板の下まで、あと十メートル。

 

 背後の白い煙の中から、硝子玉の目が二つ、浮かび上がった。

 

 マネキンが追いついてきた。

 

 青子の顔で。笑ったまま。

 

 左腕を上げる。

 

 青子は自分の指先を見た。

 

 光が灯った。

 

 細く、弱く。けれど、確かに。

 

「……戻った」

 

「なら」

 

 草十郎は立ち止まって振り返った。

 

「日景、いちばん溜まっているのはどこだ?」

 

「――右。三歩先の床の、でかい割れ目の下」

 

 草十郎は空の缶を、その割れ目に向かって放った。

 

 缶がからん、と板の上で跳ねて、割れ目の中に落ちた。

 

 マネキンの硝子玉の目が、それを追った。

 

 青子の顔をした人形は、青子と同じものを見る。

 

 その一瞬。

 

「――今だ」

 

 青子は撃った。

 

 人形では、なかった。

 

 床の割れ目の奥の青い缶を。

 

 青い礫が板を貫いて、床下の闇に吸い込まれた。

 

 

◇

 

 

 床が下から持ち上がった。

 

 ―――――!!!

 

 鏡の館が内側から弾けた。

 

 床下に溜まっていたガスが、一度に火を噴いた。板張りの床が、梁が、何百枚もの鏡が、一斉に夜空へ向かって吹き飛んだ。

 

 三人は出口の看板の下を、爆風に背中を押されるようにして転がり出た。

 

 濡れた石畳の上を何メートルも転がった。

 

 背後で、鏡の館が炎の柱になっていた。

 

 その炎の中で、青子の顔をした人形が燃えていた。

 

 硝子玉の目が炎を映して、赤く光っていた。

 

 笑ったまま。

 

 燃え落ちる梁の下敷きになって、見えなくなった。

 

 霧雨が、炎の上に降り注いでいた。じゅう、じゅう、と火の粉が雨に消されていく音。

 

 三人は石畳の上に、仰向けに倒れていた。

 

 しばらく、誰も動かなかった。

 

「……なんで」

 

 青子が雨の降る夜空を見上げたまま、言った。

 

「なんで、一緒に戦おう、なんて言ったのよ、静希くん。……私、あんたを殺しに来たのよ」

 

「蒼崎が困っていたから」

 

 草十郎は仰向けのまま、不思議そうに答えた。

 

「困っている人がいたら手伝うものだろう。……山ではそうだったよ」

 

「…………」

 

「それに、蒼崎はさっき撃つ時に外していた。……何回もね。本当に殺したいなら、蒼崎は外さない人だと思う」

 

 青子は何も言い返せなかった。

 

 それから、首だけを反対側に向けた。

 

 忉利が石畳の上に転がっていた。

 

 右目を手で押さえて。指の間から、血が流れ続けていた。

 

「……あんたは」

 

 青子の声が震えた。

 

「なんで、来たのよ」

 

「……お前、昨日、何も言わなかったろ」

 

「――っ」

 

「黙ってた。……だから、来た」

 

 青子は目を閉じた。

 

 雨が顔に落ちてきた。

 

「……ほんと、どいつもこいつも」

 

 青子は身体を起こした。

 

 炎の柱を見た。

 

 それから、草十郎の顔を。忉利の血に濡れた顔を。

 

「……静希くん。忉利」

 

「なんだ」

 

「……ああ」

 

「今夜のこと、全部、誰にも言わないって約束して。死ぬまで」

 

「ああ。約束する」

 

 草十郎は、迷いなく即答した。

 

 忉利は少しだけ黙ってから、言った。

 

「……言わねえよ。誰にも」

 

 青子は、長い、長い息を吐いた。

 

「……なら、見逃してあげる。今夜は。二人とも」

 

 青子の右手の指が、ぎこちなく握られた。

 

 人形の呪いに掻き乱された回路の奥で、何かが少しだけ組み変わっていた。

 

 撃てない間に、拳で撃つ。回路の熱を指先ではなく、手のひら全体に叩きつけるように流す。

 

 白兵戦の魔弾の使い方。

 

 今夜、ほんの少しだけ、そのこつを掴んだ気がしていた。

 

 

◇

 

 

「―――いいえ」

 

 声が降ってきた。

 

 炎のはぜる音にも、雨の音にもかき消されてもおかしくないほど小さいのに、はっきりと耳に届いた。

 

 メリーゴーランドの崩れた屋根の上に。

 

 一人の少女が立っていた。

 

 黒い服。雨に濡れても乱れない長い髪。白い、硝子細工のような顔。

 

 久遠寺有珠。

 

 その肩の上で、青い駒鳥が羽を膨らませて身を縮めていた。

 

「青子。あなたがその約束をするのは、勝手よ」

 

 有珠は炎の柱をちらりと見た。

 

 それから、石畳の上の三人を見下ろした。

 

 草十郎を。

 

 それから、忉利を。

 

 有珠の硝子のような目が、忉利の血に濡れた右目の上で止まった。

 

「……丘の上の、人払い」

 

 平坦な声だった。

 

「外から、ほどいたのは、あなたね。……魔術の匂いもしないのに。どうやって」

 

 忉利は答えなかった。

 

 答えられなかった。

 

「そう」

 

 有珠は小さく頷いた。

 

「なら、二人になったわね。……見てはいけないものを、見た人が」

 

「有珠――」

 

「わたしは、認めないわ。……二人とも、生かして帰さない。わたしたちの決まりは、あなたの気分で変わるものではないでしょう」

 

 青子は立ち上がった。

 

 草十郎と忉利の前に立った。

 

 両手の指先に光を灯した。

 

 回路は、まだ痺れていた。万全からはほど遠かった。

 

 それでも。

 

「……変わるわよ」

 

 低い声だった。

 

「一度、決めたの。今夜は、こいつらを殺さないって。……私が一度決めたことを、あんたの気分で変えさせる気も、ないわ」

 

 有珠の目が、ほんのわずかに細められた。

 

 二人の魔女が、雨の中で向かい合っていた。

 

 どちらも動かなかった。

 

 やがて。

 

 有珠が、ふっと息を吐いた。

 

 笑ったのかもしれなかった。

 

「―――いいわ」

 

 有珠は白い指を、そっと胸の前に持ち上げた。

 

 その指先に、小さな硝子の小瓶がつままれていた。

 

 中で緑色の油が揺れていた。

 

「ごっこ遊びをしましょう、青子」

 

 

◇

 

 

 青子の顔から血の気が引いた。

 

「……それ、まさか」

 

「月の油よ」

 

 有珠は小瓶の栓を抜いた。

 

「母から受け継いだ、三つの奇跡の一つ。……この遊園地なら、きっと、いい夢を見せてくれるわ」

 

 緑の油が一滴。

 

 メリーゴーランドの屋根から落ちた。

 

 石畳に触れる前に。

 

 霧になった。

 

 緑の、濃い甘い匂いのする霧。

 

 それが音もなく、園内に広がっていった。石畳の上を這い、崩れた売店の間を抜け、錆びた観覧車の鉄骨を這い上がり。

 

 有珠の唇が動いた。

 

 歌うように。囁くように。

 

 遠い国の古い物語の一節を。

 

「……ベイカー、スナーク見つけたよ」

 

 霧が揺れた。

 

「そう、そのスナークの正体とは―――」

 

 ぱちん、と。

 

 どこかでスイッチの入る音がした。

 

 

◇

 

 

 忉利は見た。

 

 霧の中に。

 

 線が生まれていくのを。

 

 緑の霧が触れたところから、細い黒い糸が一本、また一本と立ち上がっていく。崩れた売店の看板から。割れたメリーゴーランドの電球から。首の折れた木馬から。錆びたコーヒーカップから。パン工場の割れた煙突から。

 

 捨てられたもの。忘れられたもの。

 

 その一つ一つに糸が結ばれていく。

 

 操り人形の糸だった。

 

 その何百本もの糸が全部、空へ伸びていった。

 

 夜空の雨雲の向こうへ。

 

 どこか見えないほど高いところへ。

 

 メリーゴーランドの屋根の縁の、割れた電球が。

 

 一つ、灯った。

 

 二つ。三つ。十。

 

 屋根の輪郭をなぞって、色とりどりの電球が次々と灯っていく。崩れていたはずの屋根が、軋みながら、元の形を取り戻していく。首の折れていた木馬が、極彩色の塗料を滴らせて、ゆっくりと首をもたげた。

 

 木馬が回り始めた。

 

 オルゴールの調子の外れた、ぜんまいの伸びきったような旋律が、どこからともなく流れ出した。

 

 コーヒーカップが回り始めた。

 

 観覧車の骨だけになった輪郭に、電飾が灯った。

 

 それから。

 

 園の奥のジェットコースターのレールの、いちばん下から。

 

 白いライトが一つ、灯った。

 

 次のライトが、その上に。その次が、さらに上に。

 

 オルゴールの旋律が盛り上がっていく。

 

 ライトがレールを下から上へ、駆け上がっていく。急な坂を、宙返りの輪を、夜空に突き上げる最頂点まで。

 

 旋律が頂点に達した瞬間。

 

 最頂点のライトが灯った。

 

 三年前に死んだ遊園地が、目を覚ました。

 

 霧雨が止んでいた。

 

 頭上の雲が嘘のように、左右に裂けていた。

 

 その裂け目の奥に。

 

 白い、大きな満月が浮かんでいた。

 

 メリーゴーランドの屋根の上から、有珠の姿は消えていた。

 

 

◇

 

 

 丘の上の雑木林からずっと離れた場所で。

 

 夜の三咲の町を見下ろす給水塔の上に、一人の女が座っていた。

 

 長い赤みがかった髪。細い縁の眼鏡。指に挟んだ煙草の先が、小さく、赤く灯っていた。

 

 膝の上に小さな鏡が一枚。

 

 鏡の中に、燃え落ちた鏡の館の瓦礫の山が映っていた。

 

 瓦礫の下で、焼け焦げた人形の硝子玉の目が、見ているもの。

 

「……有珠ちゃんの、月の油。まだ、持っていたんだ」

 

 柔らかな声だった。

 

 鏡の中で、石畳の上に少年が一人、座り込んでいた。

 

 右の目から血が、筋になって流れていた。

 

「……人形の巻き上げを、ほどいた」

 

 女は少しだけ首を傾げた。

 

「魔術の匂いもしないのに。……ふうん」

 

 眼鏡の奥で、女の目が少しだけ楽しそうに細められた。

 

 それから、鏡の中の瓦礫の山に目を戻した。

 

 瓦礫の下で、焼け焦げた人形の指が。

 

 ほんの少しだけ動いた。

 

「まだよ。……もう少し、寝ていなさい」

シエルの小説満足度調査

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