夜明けの色を見る眼   作:にんら

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キッツィーランド

 夕方から降り出した霧雨は、夜になってもやむ気配がなかった。

 

 中華飯店「まっどべあ」の裏口で、静希草十郎は調理服を畳み、古びた学生鞄にしまい込んだ。壁の時計は、九時を五分過ぎている。

 

「静希くん」

 

 背後から、そっけない声がした。

 

 振り返ると、金鹿がレジ横の小窓から顔を出していた。今日の分の給金が入った茶封筒を、指先でひらひらと振っている。

 

「忘れ物。……珍しいわね、あんたがお金忘れるなんて」

 

「ああ、すまない」

 

 草十郎は封筒を受け取り、懐にしまった。金鹿は、外の霧雨にちらりと目をやった。

 

「この雨の中、まだどこか行くの? 今日はおばあさんのとこ、休みでしょ」

 

「約束がある」

 

「……こんな時間に?」

 

「ああ。十時までに、丘の向こうに行かなくてはならない」

 

 金鹿は、何か言いたげに眉を寄せた。

 

 けれど結局、小さく溜息をついただけだった。

 

「……傘、持ってきなさいよ。風邪ひいてバイト休まれたら、困るのはこっちなんだから」

 

 店の傘立てから、骨の一本曲がったビニール傘を引き抜いて、草十郎に押しつける。

 

「ありがとう、久万梨」

 

「お礼言うなら、明日ちゃんと返して」

 

 ぴしゃりと小窓が閉まる。

 

 草十郎は、ビニール傘を開いた。

 

 明日、返す。そう約束したのだから、明日もここに来なければならない。

 

 そのことを、草十郎は特に不思議だとも思わなかった。

 

 同じ頃、Cafe HIKAGEでは、忉利がエプロンを外していた。

 

「お兄ちゃん、どこ行くの?」

 

 カウンターで宿題を広げていた晴華が、目ざとく顔を上げる。

 

「静希んとこ。ノート借りっぱなしなんだよ」

 

「こんな時間に? 雨降ってるよ?」

 

「明日の一限で使うんだって」

 

 晴華は、疑わしげに兄の顔をじっと見た。

 

 忉利は、目を逸らさなかった。逸らせば、この妹は必ず気づく。

 

「……ふーん」

 

 晴華は、鉛筆の尻で頬をつつきながら言った。

 

「青子ちゃんのとこ行くなら、そう言えばいいのに」

 

「行かねえよ」

 

「嘘だあ。お兄ちゃん、昨日からずっと青子ちゃんの話すると変な顔するもん」

 

 反論の言葉が、喉の奥で詰まった。

 

 カウンターの内側で、父がネルを洗う手を止めた。

 

 何も言わない。ただ、棚の下から厚手のマフラーを一本取り出して、カウンターの上に置いた。忉利のものより、ずっと古くて、ずっと暖かそうな、濃紺のウールのマフラー。

 

「冷えるぞ」

 

 それだけ言って、父はまたネルを洗い始めた。

 

 忉利は、しばらくそのマフラーを見下ろしていた。

 

 それから、黙って首に巻いた。

 

「……行ってくる」

 

 ドアベルが鳴る。

 

 背中で、晴華の「青子ちゃんによろしくね!」という声が聞こえた。

 

 三咲の町を見下ろす丘を越え、さらに雑木林の中の坂道を下りきった先に、その遊園地はあった。

 

 キッツィーランド。

 

 十年ほど前に経営が傾いて、それきり閉鎖されたままの廃遊園地だ。錆びたゲートの上には、かつて子供たちを出迎えたであろう猫のマスコットの看板が、片目の塗装を剥がされたまま傾いている。

 

 九時五十分。

 

 蒼崎青子は、そのゲートの前に、ひとりで立っていた。

 

 傘は差していない。霧雨が髪を濡らし、コートの肩に細かな水滴を宿らせている。けれど、そんなことはどうでもよかった。

 

 ゲートの向こうには、闇に沈んだ園内が広がっている。

 

 止まったままの観覧車。屋根の崩れたメリーゴーランド。色の褪せたコーヒーカップ。雨に濡れたそれらが、遠くの街の明かりをかすかに反射して、巨大な獣の骨のように黒々と横たわっていた。

 

「――寒いッスねえ、ここ」

 

 頭上から、場違いに軽薄な声が降ってきた。

 

 青子は、見上げもしなかった。

 

 ゲートの上の、傾いた看板の縁に、一羽の青い駒鳥がとまっていた。羽を膨らませて、ぶるぶると震えている。

 

「マイ天使からの伝言ッス。『準備はできているわ』だそうッス」

 

「……そ」

 

「いやー、それにしても、こんな雨の夜にシャバの人間を呼び出すなんて、穏やかじゃないッスねえ。おいら、こういうの嫌いじゃないッスけど」

 

「うるさい。伝言だけ置いて帰りなさいよ」

 

「へいへい。おっかないッスねえ」

 

 駒鳥は、ばさりと翼を広げて、闇の中へと飛び去っていった。観覧車の、ずっと上の方へ。

 

 あそこに、有珠がいる。

 

 青子は、コートのポケットの中で、拳を握りしめた。

 

 段取りは決まっていた。自分が、静希草十郎をここに呼び出す。園内の奥まで連れて行く。そして、有珠が片付ける。

 

 それだけだ。

 

 それだけの、はずだった。

 

 ―――やりたくねえなら、やんなきゃいいだろ。

 

 昨日、紅茶の湯気の向こうで聞いた声が、耳の奥で何度も繰り返される。

 

「……簡単に言ってくれるわよね、ほんと」

 

 呟いた声は、霧雨の中に吸い込まれて消えた。

 

 十時、ちょうど。

 

 雑木林の坂道を、一本のビニール傘が下りてきた。

 

 骨の一本曲がった、安っぽい透明な傘。その下で、静希草十郎は、いつもと変わらない歩幅で歩いていた。

 

「蒼崎。待たせたか」

 

「……時間ぴったりよ」

 

「そうか。時計というのは、便利だな」

 

 草十郎は、ゲートの前で立ち止まり、傾いた猫の看板を見上げた。

 

「ここが、遊園地か」

 

「潰れた遊園地よ」

 

「遊園地というのは、何をするところなんだ」

 

 青子は、一瞬、答えに詰まった。

 

「……乗り物に乗ったり、遊んだりするところよ。子供とか、家族とか、恋人とかが」

 

「そうか。山には、なかった」

 

 草十郎は、錆びたゲートの向こうの、止まった観覧車をじっと見つめた。

 

「あの大きな輪は、何だ」

 

「観覧車。……ゆっくり回って、高いところから景色を見るの」

 

「高いところから景色を見るだけなら、山に登ればいい」

 

「そういうことじゃないのよ」

 

「そうか」

 

 草十郎は、少しだけ首を傾げた。わからないものを、わからないまま受け入れる顔だった。

 

 青子は、ゲートの鎖を外した。

 

 錆びた蝶番が、長い悲鳴のような音を立てて開く。

 

「……入って。奥で話すから」

 

「ああ」

 

 草十郎は、傘を畳んで、何のためらいもなく園内へと足を踏み入れた。

 

 青子は、その背中を見つめた。

 

 細い背中だった。無防備な背中だった。今この瞬間、指先ひとつで吹き飛ばせる背中だった。

 

 園内の石畳は、ところどころが割れて、雑草が顔を出している。濡れた落ち葉が、靴の下でぐしゃりと潰れた。

 

 メリーゴーランドの前まで来たところで、草十郎が、不意に足を止めた。

 

「蒼崎」

 

「……なによ」

 

「今夜の蒼崎は、狩りをする人の目をしている」

 

 青子の足が、止まった。

 

 草十郎は、振り返らなかった。崩れたメリーゴーランドの、首の折れた木馬を見つめたまま、淡々と続けた。

 

「山で、鹿を追う大人たちが、ああいう目をしていた。獲物の足跡を見つけて、風下に回り込むときの目だ」

 

「…………」

 

「俺を、殺すのか」

 

 霧雨の音だけが、しばらく二人の間を満たした。

 

 青子は、答えなかった。

 

 答えられなかった。

 

「そうか」

 

 草十郎は、静かに頷いた。

 

「蒼崎が、そうしなければならないのなら、仕方がない」

 

「――は?」

 

「見てはいけないものを見たのは、俺だ。山でも、そういう決まりはあった。禁じられた沢に入った者は、戻ってこないことがあった。だから、仕方がない」

 

 あまりにも平坦な声だった。

 

 恐怖も、怒りも、命乞いもない。まるで、明日の天気の話でもするかのように、自分の死を受け入れている。

 

 青子の奥歯が、ぎり、と鳴った。

 

「……あんたねえ」

 

 声が、震えた。

 

「なんで、そんな簡単に――」

 

 その言葉は、最後まで続かなかった。

 

 ぎし、と。

 

 背後で、何かが軋む音がした。

 

 振り返った青子の目に映ったのは、メリーゴーランドの屋根の上に立つ、白い影だった。

 

 一体ではない。

 

 屋根の上に三体。売店の陰に二体。コーヒーカップの中から、ゆっくりと身を起こすものが、四体。

 

 顔のない、つるりとした白い面。軋む関節。一昨日の夜、公園で砕いたものと、同じ形をした人形たち。

 

 それが、十体近く。

 

「……嘘でしょ」

 

 青子は、低く呻いた。

 

「なんで、こんなところにまで――」

 

 ここは、蒼崎の網の外だ。結界の穴を塞ぎに来たわけでもない。それなのに、待ち伏せていたかのように、あの人形たちがいる。

 

 考える暇はなかった。

 

 屋根の上の一体が、跳んだ。

 

「下がって!」

 

 青子は草十郎の胸を突き飛ばし、同時に右腕を振り抜いた。

 

 指先から、青い光が迸る。

 

 夜気を裂く轟音。跳びかかってきた人形の胴体が、空中で砕け散る。白い破片が、霧雨に混じって降り注いだ。

 

 続けて二発。三発。

 

 青い光が、濡れた園内を真昼のように照らし出す。コーヒーカップが吹き飛び、売店の看板が弾け、人形たちが次々と崩れ落ちていく。

 

 けれど、数が多い。

 

 撃ち抜くそばから、闇の奥から新しい白い影が這い出してくる。

 

 ―――多すぎる。今夜は、何なの。

 

 左から一体。撃つ。右から二体。一体を撃ち、もう一体を回し蹴りで弾き飛ばす。息が上がる。回路が熱を持ち、腕の内側がじんと痺れる。

 

 だから、気づかなかった。

 

 真後ろ。崩れたメリーゴーランドの木馬の陰から、音もなく滑り出た最後の一体に。

 

 腕とも刃ともつかない白いものが、青子の背中めがけて振り下ろされる――

 

「蒼崎」

 

 声がした。

 

 次の瞬間、青子の身体は、横から強く引っ張られていた。

 

 視界が回る。濡れた石畳に、肩から倒れ込む。

 

 すぐ目の前を、白い刃が掠めていった。

 

 そして、その刃の軌道の上に。

 

 青子の代わりに、静希草十郎の腕があった。

 

 布の裂ける音。

 

 ぱっと、暗い色の飛沫が散った。

 

「――静希くん!?」

 

 草十郎は、声ひとつ上げなかった。

 

 切り裂かれた左腕をだらりと下げたまま、右の肘を、人形の顔のない頭部に叩き込む。

 

 ごきり、と。陶器が内側から割れる鈍い音。

 

 人形は、糸が切れたように膝から崩れ落ち、そのまま動かなくなった。

 

 静寂が戻った。

 

 霧雨の音。遠くの国道のトラックの唸り。そして、ぽた、ぽた、と、石畳に落ちる水音。

 

 雨ではない。

 

 草十郎の左腕から滴る、赤い血の音だった。

 

「……なんで」

 

 青子は、濡れた石畳の上に座り込んだまま、草十郎を見上げていた。

 

「なんで、庇ったのよ。私、あんたを殺しに――」

 

「蒼崎が、危なかったから」

 

 草十郎は、裂けた袖を右手で押さえながら、不思議そうに答えた。

 

「後ろから来ていた。蒼崎は、見えていなかった」

 

「そういうことを訊いてるんじゃないわよ!」

 

 青子は、立ち上がった。

 

 膝が震えていた。寒さのせいではなかった。

 

「さっき、あんた、殺されても仕方ないって言ったじゃない! 自分を殺そうとしてる相手を、なんで庇うのよ! バカじゃないの!?」

 

「それとこれとは、別の話だ」

 

 草十郎は、首を傾げた。

 

「蒼崎が俺を殺すのは、蒼崎の決まりだ。でも、蒼崎が後ろから襲われるのは、見ていて嫌だった。だから、引っ張った。それだけだ」

 

 青子は、言葉を失った。

 

 この男は、本当に。

 

 本当に、どうしようもなく、バカだ。

 

 自分の命の値段を、道端の石ころほどにも数えていない。そのくせ、他人が傷つくのは「見ていて嫌だ」と、当たり前のように身体を投げ出す。

 

 ―――こんな奴を。

 

 青子は、目を閉じた。

 

 瞼の裏に、昨日のカウンターが浮かぶ。湯気。琥珀色の紅茶。気だるげな声。

 

 ―――お前がそれやったら、たぶん一生そういう顔すんだろ。

 

「……ほんと、どいつもこいつも」

 

 青子は、目を開けた。

 

 コートのポケットからハンカチを引っ張り出し、乱暴に草十郎の腕に巻きつける。きつく、固く。

 

「痛い」

 

「我慢しなさい」

 

 結び目を作りながら、青子は、草十郎の顔を見ずに言った。

 

「静希くん。約束して」

 

「何をだ」

 

「今夜のこと、全部、誰にも言わないって。昨日の屋上の約束も含めて、全部。死ぬまで」

 

「ああ。約束する」

 

 迷いのない、即答だった。

 

 青子は、最後の結び目をきつく引き絞った。

 

「……なら、今夜だけは、見逃してあげる」

 

 顔を上げる。

 

 観覧車の、止まったゴンドラのずっと上の方を、まっすぐに見据える。

 

「聞こえてるんでしょ、有珠。――悪いけど、段取りは変更よ。今夜は、こいつを殺さない」

 

 霧雨が、しばらく、しんと降り続いた。

 

 それから。

 

「―――そう」

 

 声は、頭上から降ってきた。

 

 観覧車の頂上。

 

 錆びついた鉄骨の上に、久遠寺有珠が立っていた。

 

 黒い服。雨に濡れても乱れない、長い髪。その肩の上で、青い駒鳥が小さく身を縮めている。

 

 有珠は、眼下の二人を見下ろしていた。

 

 いつもと同じ、何の感情も浮かばない、硝子のように澄んだ目で。

 

「青子。あなたがその約束をするのは、勝手よ」

 

 静かな声だった。雨の音にかき消されてもおかしくないほど小さいのに、なぜか、はっきりと耳に届く。

 

「でも、わたしは認めないわ」

 

「有珠――」

 

「わたしたちの決まりは、あなたの気分で変わるものではないでしょう」

 

 有珠は、ゆっくりと右手を持ち上げた。

 

 白い指先に、小さな青い鈴がひとつ、つままれている。

 

「だから、公平にしましょう」

 

 ちりん、と。

 

 澄んだ音が、雨の夜に響いた。

 

「今夜、夜が明けるまで、彼が生き延びたら。……わたしも、彼を見逃してあげる」

 

「……っ、あんた、まさか」

 

「手加減は、してあげるわ」

 

 有珠は、空を見上げた。

 

 垂れ込めた雨雲。その向こうにあるはずの、見えない月を。

 

 鈴を、放す。

 

 小さな青い鈴は、観覧車の鉄骨の間をすり抜けて落ちていき――地面に触れた瞬間、音もなく、濡れた土の中へと沈んでいった。

 

 波紋が、広がった。

 

 水面ではない地面に、見えない波紋が。

 

 次の瞬間、頭上の雨雲が、裂けた。

 

 まるで、巨大な手が分厚いカーテンを左右に引き開けたように。雨がやむ。雲が流れる。そして、その裂け目の奥から――

 

 月が、現れた。

 

 冬の夜空に、白く、冷たく、異様なほど大きな満月が。

 

「雲は、払っておいてあげる。それが、わたしからの手加減」

 

 有珠は、月光の中で、そっと目を閉じた。

 

 唇が、かすかに動く。

 

 歌うように。囁くように。遠い国の、古い童話の一節を。

 

「―――For the Snark was a Boojum, you see.」

 

 その瞬間。

 

 死んでいたはずの遊園地が、息を吹き返した。

 

 同じ頃。

 

 日景忉利は、丘の上の雑木林の中で、同じ場所を三度目に通り過ぎていた。

 

「……なんでだよ」

 

 膝に手をついて、荒い息を吐く。濃紺のマフラーが、汗と霧雨で湿って重い。

 

 道は一本しかないはずだった。丘を越えて、雑木林の坂道を下れば、遊園地に着く。地図で確かめた。昼間の下見までした。

 

 それなのに。

 

 坂道を下っていたはずが、気がつくと、丘の上に戻っている。

 

 一度目は、道を間違えたのだと思った。二度目は、暗くて見落としたのだと思った。

 

 三度目で、ようやく気づいた。

 

 自分は、下りていない。

 

 坂の途中の、あの曲がり角まで来ると、決まって足が止まるのだ。そして、ふと思う。今夜はもう遅い。雨で寒い。明日も学校がある。静希のノートなんて嘘で、本当は用事なんてない。帰ろう。帰った方がいい。

 

 そう思って、踵を返してしまう。

 

 一昨日の夜、裏通りで青子を追いかけられなかった時と、まったく同じ感覚だった。

 

「……おれ、なんで帰ろうとしてんだ」

 

 声に出して、ようやく、その違和感の輪郭が掴めた。

 

 これは、おれの考えじゃない。

 

 誰かが、頭の中に、そっと囁いている。

 

 忉利は、顔を上げた。

 

 四度目の、曲がり角。

 

 雑木林の坂道が、闇の中へと下っていく。その道の真ん中に――

 

 線が、垂れ下がっていた。

 

 何百本もの、細い、黒い線。まるで、古い喫茶店の入り口に下がっている玉すだれのように、道幅いっぱいに、ずらりと。風もないのに、かすかに揺れている。

 

 あれだ、と忉利は思った。

 

 理由はわからない。けれど、わかった。あの線が、自分をここで引き返させている。

 

 右目が、疼き始めた。

 

 ずきり、ずきり、と、心臓の鼓動に合わせて。

 

 見るな、と身体が言っていた。見れば、また痛む。昨日の屋上で味わった、あの焼けるような痛みが来る。目を逸らせ。帰れ。今夜のことは忘れて、布団に潜り込め。

 

 ―――早く、帰りなさい。

 

 青子の声が、よみがえる。

 

 ―――お願い。

 

「……うるせえよ」

 

 忉利は、奥歯を噛みしめた。

 

 目を、逸らさなかった。

 

 垂れ下がる線の群れを、真正面から睨みつける。

 

 痛みが、一気に膨れ上がった。

 

 眼球の奥で、何かが弾ける。熱い。熱い。熱した針が、目の裏から脳の奥へと、何本も何本も突き刺さっていく。視界の縁が真っ赤に染まる。頬を、生温かいものが伝い落ちていく。

 

 涙ではなかった。

 

 それでも、忉利は、見続けた。

 

 あいつは、あの先にいる。

 

 一人で、あんな顔をして。

 

「……邪魔、なんだよ」

 

 声が、勝手に漏れた。

 

「どけ」

 

 その瞬間。

 

 ぷつり、と。

 

 音が、した気がした。

 

 目の前に垂れ下がっていた何百本もの線が、真ん中から一斉に断ち切れた。切れた端が、ばらばらとほどけて、宙に溶けるように消えていく。

 

 同時に、頭の中の囁きが、ぴたりと止んだ。

 

 帰りたい、という気持ちが、嘘のように消えていた。

 

「……は、っ……」

 

 忉利は、その場に膝をついた。

 

 息ができない。頭が割れるように痛い。右手で顔を押さえると、指の間から、ぬるりとした感触がした。

 

 手のひらを見る。

 

 月明かりの下で、赤黒く濡れていた。

 

 右目から、血が流れていた。

 

「……なんだよ、これ」

 

 わからない。何もわからない。

 

 ただ一つだけ、わかることがあった。

 

 今、何かを、切った。

 

 おれが、この目で。

 

 ―――月明かり?

 

 忉利は、はっと顔を上げた。

 

 いつの間にか、雨がやんでいた。頭上の雲が、嘘のように晴れ渡っている。そして、その真ん中に、見たこともないほど大きな、白い満月が浮かんでいた。

 

 その月光の下、坂道の先。

 

 雑木林の切れ目の向こうに、遊園地が見えた。

 

 廃墟のはずだった。十年も前に潰れて、明かりの一つも灯っていないはずの場所。

 

 その遊園地が、光っていた。

 

 観覧車に、色とりどりの電飾が灯っている。メリーゴーランドが、軋みながら回り始めている。どこからか、調子の外れたオルゴールの音色が、夜風に乗って流れてくる。

 

 錆びたゲートの上で、片目の剥げた猫の看板が、ゆっくりと――

 

 首を、こちらに向けた。

 

 笑っていた。

 

 塗装の剥げた片目のまま、にたりと、口の端を耳まで裂いて。

 

 そして、その遊園地の、ずっと奥の方で。

 

 青い光が、一閃した。

 

 夜を切り裂くような、鮮烈な青。一昨日の夜、裏通りで見上げた、あの黒い線が集まっていた空の下で、確かに何かが光っていた、あの色。

 

「――青子」

 

 忉利は、血に濡れた目元を袖で乱暴に拭い、立ち上がった。

 

 膝が笑う。頭の中で、まだ誰かが太鼓を叩いている。

 

 構わなかった。

 

 日景忉利は、月明かりの坂道を、転がるように駆け下りていった。

 

 目覚めた夢の国の、その只中へと。

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