―――その夜、空に月はなかった。
新月。
月齢表の上では、それだけのことだった。一月に一度、月が太陽と同じ方角に並んで夜空から姿を消す。何百年も、何千年も繰り返されてきたこと。
山で育った者なら誰でも知っている。
新月の夜は獣がよく動く。
だから、山の人間は、新月の夜には外に出ない。
外に出るのは狩る側と。
狩られる側だけだ。
◇
放課後の、三咲高校の昇降口。
日景忉利は、下駄箱の陰に立っていた。
立つつもりは、なかった。上履きを脱いで、靴を出して帰るだけのはずだった。
三つ隣の列の下駄箱の前に、青子がいた。
生徒会長の腕章を外して、鞄を肩にかけて。誰もいない昇降口で周りを一度だけ見回して。
それから、一つの下駄箱の扉をそっと開けた。
静希草十郎の下駄箱だった。
白い封筒を一通、中に滑り込ませる。
扉を閉める。
何事もなかったように、青子は昇降口を出ていった。
振り返らなかった。
忉利は下駄箱の陰で、しばらく動けなかった。
ラブレターだと思うほど、忉利は青子を知らなくはなかった。
十年以上、隣で見てきた。好きな相手に手紙を書くような女ではない。書くなら面と向かって言う。言えないなら一生言わない。
それに、あの顔。
封筒を入れる時の青子の横顔は、ひどく硬かった。
昨日の夕方、店のカウンターで、紅茶の湯気の向こうに見た顔と同じだった。
――やりたくねえなら、やんなきゃいいだろ。
自分がそう言った時、青子は何も答えなかった。
忉利は、三つ隣の列の下駄箱の前に立った。
開けてはいけない。わかっていた。
開けた。
白い封筒。差出人も宛名もない。封もされていなかった。
便箋が一枚。青子の字ではなかった。定規で引いたような癖のない、誰の字ともわからない字。
――今夜、午前零時。やしろぎブレッド&キッツィーランド。ミラーハウスにて待つ。
それだけだった。
忉利は、便箋を、元のとおりに封筒に戻した。
下駄箱の扉を閉めた。
指先が、少しだけ冷たかった。
◇
夜の九時。
中華飯店「まっどべあ」の裏口で、静希草十郎は調理服を畳んでいた。
学生鞄の中に白い封筒が入っている。
差出人が誰なのかは、知っていた。昇降口の窓硝子に、封筒を入れて出ていく長い髪の後ろ姿が映っていたからだ。
裏口の脇に青いガスボンベが一本、転がっていた。厨房で使い切ったカセットコンロ用の小さな缶。
草十郎は、少し考えてから、それを拾って鞄に入れた。
山では何でも拾って帰るものだった。
「――静希くん」
レジ横の小窓から、金鹿が顔を出していた。
「これから、どこか行くの?」
「約束があるんだ。零時に」
「……零時?」
「丘の向こうの、遊園地に」
金鹿は何か言いたげに眉を寄せた。
それから、傘立てから骨の一本曲がったビニール傘を引き抜いて、押しつけた。
「降るわよ。……風邪ひいてバイト休まれたら、困るのはこっちなんだから」
「ありがとう、久万梨」
「お礼言うなら、明日ちゃんと返して」
小窓がぴしゃりと閉まった。
明日、返す。そう約束したのだから、明日もここに来なければならない。
そのことを、草十郎は特に不思議だとも思わなかった。
◇
同じ頃。
Cafe HIKAGEのカウンターで、忉利はエプロンの紐をほどいていた。
「お兄ちゃん、どこ行くの?」
宿題を広げていた晴華が目ざとく顔を上げた。
「静希んとこ。ノート、借りっぱなしなんだよ」
「こんな時間に? 雨、降ってきたよ?」
「明日の一限で、使うんだと」
晴華は疑わしげに、兄の顔をじっと見た。
忉利は、目を逸らさなかった。逸らせば、この妹は必ず気づく。
「……ふーん。青子ちゃんのとこ行くなら、そう言えばいいのに」
「行かねえよ」
カウンターの内側で、父がネルを洗う手を止めた。
何も言わずに、棚の下から厚手のマフラーを一本、取り出してカウンターの上に置いた。濃紺の、古いウールのマフラー。
「冷えるぞ」
それだけ言って、父はまたネルを洗い始めた。
忉利は黙って、それを首に巻いた。
「……行ってくる」
ドアベルがからん、と鳴った。
その音が背中で、妙に長く尾を引いた。
◇
三咲の町を見下ろす丘を越え、雑木林の中の坂道を下りきった先に、その遊園地はあった。
やしろぎブレッド&キッツィーランド。
隣町のパン屋の主人が、私有地に建てた小さな遊園地。パン工場の隣に観覧車を建てて、猫のマスコットに看板を持たせて子供たちを呼んだ。評判は良くなかった。三年前、小さな子供が園内で迷子になって、一晩見つからなかった事件があって、それきり閉園した。
午後十一時五十分。
霧雨が降っていた。
ゲートの鎖は外されていた。
静希草十郎は借りた傘を差したまま、ゲートをくぐった。
止まったままの観覧車。屋根の崩れたメリーゴーランド。色の褪せたコーヒーカップ。パン工場の割れた煙突。錆びた鉄骨を夜空に突き上げるジェットコースターのレール。
雨に濡れたそれらが、遠い街の明かりをかすかに照り返していた。巨大な獣の骨のように。
中央広場は静まりかえっていた。
石畳の案内板の剥げかけた矢印に従って、西へ。
メリーゴーランドの脇を抜けた先に、板張りの小屋があった。
入り口の上に、割れた電球で縁取られた看板。
――ふしぎのかがみのやかた。
入り口の脇の潰れた売店の裏に、錆びた大きなガスの瓶が三本、並んでいた。
草十郎はその前を通る時、ほんの少しだけ鼻をひくつかせた。
それから傘を畳んで、館の中に入った。
◇
丘の上の雑木林の中で。
日景忉利は同じ曲がり角を、三度目に通り過ぎていた。
「……なんでだよ」
膝に手をついて荒い息を吐く。濃紺のマフラーが、汗と霧雨で湿って重かった。
道は一本しかないはずだった。丘を越えて雑木林の坂道を下れば、遊園地に着く。
それなのに。
坂の途中のあの曲がり角まで来ると、決まって足が止まる。そして、ふと思う。今夜はもう遅い。雨で寒い。明日も学校がある。帰ろう。帰った方がいい。
そう思って踵を返してしまう。
「……おれ、なんで帰ろうとしてんだ」
声に出して、ようやく違和感の輪郭が掴めた。
これは、おれの考えじゃない。
忉利は顔を上げた。
四度目の曲がり角。
坂道の真ん中に。
線が垂れ下がっていた。
何百本もの細い、黒い線。古い喫茶店の入り口に下がっている玉すだれのように、道幅いっぱいに、ずらりと。風もないのに、かすかに揺れていた。
右目が疼き始めた。
ずきり、ずきり、と心臓の鼓動に合わせて。
子供の頃から、見えていた。ものとものを繋いでいる細い線。机と椅子の間。電線と電柱の間。人と人の間。
見えるだけで、何の役にも立たなかった。見続ければ頭が割れるように痛むだけ。だから、いつもなるべく見ないようにしてきた。
けれど、これは。
今まで見てきた、どの線とも違った。
誰かがここに、わざと垂らしたものだ。
人を遠ざけるために。
「……どけよ」
忉利は奥歯を噛みしめた。
目を逸らさなかった。
痛みが一気に膨れ上がった。
眼球の奥で何かが弾ける。熱した針が、目の裏から脳の奥へと、何本も突き刺さっていく。視界の縁が、赤く滲む。頬を生温かいものが伝い落ちていく。
涙ではなかった。
それでも見続けた。
玉すだれのいちばん真ん中に。
一本だけ太い線があった。
何百本もの細い線が、その一本から枝分かれして垂れている。すだれの糸を通す横棒のように。
そこだ、とわかった。
理屈ではなかった。糸の結び目を、指先が勝手に探り当てるのと同じだった。
「――どけ」
ぷつり、と。
音がした気がした。
太い線が、真っ二つに断ち切れた。垂れていた何百本もの細い線が、支えを失ってばらばらとほどけて、宙に溶けるように消えていった。
頭の中の囁きがぴたりと止んだ。
「……は、っ……」
忉利はその場に膝をついた。
右手で顔を押さえると、指の間からぬるりとした感触がした。
手のひらを見る。
赤黒く濡れていた。
それから。
痛みとは別に。
何かが、ほんの少しだけ抜けていった気がした。
身体の真ん中の細い糸のような何かが、一目だけほつれたような。
理由はわからなかった。
忉利は、血を袖で拭って立ち上がった。
坂道の先の雑木林の切れ目の向こうに、錆びた観覧車の骨組みが黒く、夜空に突き出していた。
◇
鏡の館の中は暗かった。
けれど真っ暗ではなかった。天井の割れた天窓から、雨雲越しの街の明かりが差し込んで、四方の鏡がそれを何十回も跳ね返して、通路の奥まで薄く広げていた。
鏡。鏡。鏡。
角を曲がるたびに、自分の姿が何十人にも増えていく。
草十郎は、その中を迷わずに歩いた。
鏡に映った道と、本物の道を間違えなかった。本物の道は、埃と雨の匂いがする。鏡の中の道は、しない。
通路の奥が少し広くなった。
八角形の小さな広間。八つの壁が全部、鏡。
その真ん中に青子が立っていた。
傘も差さずに来たのだろう。長い髪が雨に濡れて、コートの肩に張りついていた。
「……時間、ぴったりね」
「時計というのは、便利だな」
草十郎は、広間の入り口で足を止めた。
青子の右手を見た。
指先に青い光が灯っていた。八つの鏡が、それを何百にも増やしていた。
「蒼崎」
「……なによ」
「今夜の蒼崎は、狩りをする人の目をしている」
青子の指先の光が、ほんのわずかに揺れた。
「山で鹿を追う大人たちが、ああいう目をしていたんだ。……俺を殺すのか」
青子は答えなかった。
答える代わりに撃った。
一工程。スナップ。
指を弾く動作だけで、青い礫が音速で放たれる。
草十郎の頬を掠めた。背後の鏡が粉々に砕けた。
草十郎は動かなかった。
頬に細い血の筋が一本、走っていた。
「……逃げなさいよ」
青子の声が低かった。
「この迷路の中を。……私が、あんたを見失ったら、あんたの勝ち。見つけたら、私の勝ち」
「そういう決まりか」
「そういう決まりよ」
草十郎は、少しだけ首を傾げた。
それから、踵を返して走り出した。
鏡の迷路を、青い光が追った。
スナップ。スナップ。スナップ。
一発撃つたびに、鏡が砕け、硝子の雨が降った。草十郎の走り抜けた通路の一歩後ろの鏡が、次々と弾け飛んでいく。
当たらなかった。
当てていなかった。
青子自身、それに気づいていた。
狙いがほんの数十センチ、甘い。撃つたびに、指先がわずかに逸れる。
――やりたくねえなら、やんなきゃいいだろ。
奥歯を噛んだ。
やりたくない、なんて関係ない。
魔術を見た者は、消す。見られた神秘は、知る者が増えるほど薄まって弱くなる。だから、目撃者は、消す。それが魔術師の決まり。
記憶を消す魔術はある。けれど、青子も有珠も、それを空で唱えられない。準備には三ヶ月かかる。
三ヶ月も待てない。
通路の角を曲がった先で、草十郎が立ち止まっていた。
行き止まりだった。三方が鏡。
草十郎は振り返った。
鏡に囲まれて、何十人もの草十郎が青子を見ていた。
恐怖も、怒りも、命乞いもない顔で。
「蒼崎がそうしなければならないのなら」
平坦な声だった。
「仕方がないな。……見てはいけないものを見たのは俺の方だ。山でも、入っちゃいけない沢に入った人は戻ってこないことがあったよ」
「――――」
青子の指先に光が集まった。
今度は外さない。
外せない。
右手を上げた。
その時。
草十郎の背後の三方の鏡のうちの一枚が。
音もなく、内側から割れた。
◇
割れた鏡の向こうは壁ではなかった。
もう一つの暗い通路。その闇の中から、何かが、ゆっくりと歩み出てきた。
人の形をしていた。
長い髪。暗い色のコート。
青子だった。
同じ顔で。同じ服で。同じ背丈で。
ただ、目だけが違った。
硝子玉だった。何も映していない、つるりとした黒い硝子。
青子の顔を写し取ったマネキンだった。
「……何、これ」
マネキンの口が動いた。
声は出なかった。
代わりに、青子の全身の産毛が逆立った。
聞こえなかった。けれど、わかった。今、あれは何かを言った。
呪いの言葉を。
死ね、と。
青子の背骨の奥で魔術回路が軋んだ。点いていた回路の灯が、一斉にちらついた。熱が逆流する。腕の内側を、焼けた針金が肩から指先へ、何本も走り抜ける。
「――っ、ぐ……!」
指先の光が消えた。
撃てない。回路が呪いに掻き乱されて、魔力を指先まで送れない。
マネキンの右腕が上がった。
腕の先がぱきん、と外れた。
肘から先が、銛のように撃ち出された。
まっすぐに青子の胸へ。
「――蒼崎」
横から身体が突き飛ばされた。
草十郎だった。青子の身体を抱えて、硝子の散らばる床の上に転がった。
銛の腕が、青子のいた場所を貫いて、背後の鏡を突き破り、壁の板に深々と突き刺さった。その根元から細い鋼線が、マネキンの肘までぴんと張っていた。
鋼線が巻き戻る。銛が壁から引き抜かれて、肘にがしゃりと戻った。
「……なんで、庇うのよ」
青子は、草十郎の腕の中で言った。
「私、あんたを殺しに、ここに呼んだのよ」
「それとこれとは別の話だよ」
草十郎はマネキンを見上げていた。
「蒼崎が俺を殺すのは、蒼崎の決まりなんだろう。……でも、あれが蒼崎を殺すのは見ていて嫌なんだ」
マネキンがまた、右腕を上げた。
その時。
八角形の広間の入り口の方から。
硝子を踏む荒い足音がした。
◇
忉利が鏡の館に飛び込んだ時、最初に見えたのは、青子だった。
何十人もの青子だった。
八つの鏡に。割れた鏡の破片の一枚一枚に。何十人、何百人もの同じ顔。
その全部が一斉に、こちらを向いた。
右目が焼けた。
視界の半分が赤く滲む中で、忉利は見た。
線を。
鏡に映った青子たちには、線がなかった。
どこにも繋がっていない。床とも、空気とも、自分の身体とも。ただ、光が跳ね返っているだけの、薄っぺらな影。
線を持っている青子は、二人だけだった。
一人は床の上に。草十郎の腕の中に。
その身体から何本もの線が、四方に伸びていた。床へ。草十郎へ。濡れたコートへ。それから細く、忉利の方にも一本。
もう一人は割れた鏡の前に立っていた。
その身体の線はおかしかった。
外へは一本も伸びていなかった。
胸から出た線が、背中を回って、また胸に戻っている。首から出た線が、腕を回って、また首に戻っている。何十本もの線が全部、自分の身体の中で、ぐるぐると輪を描いていた。
自分で、自分に繋がっている。
どこからも力をもらわずに、自分の中で何かを延々と回し続けている。
気持ちが悪かった。
生き物の線ではなかった。
「――青子っ!」
声が勝手に出た。
床の上の青子が顔を上げた。
目が合った。
青子の顔から一瞬で、全部の色が消えた。
「……忉利?」
掠れた声だった。
「なんで、あんたがここに――」
マネキンが振り返った。
硝子玉の目が忉利を見た。
右腕が忉利の方へ向いた。
銛が撃ち出された。
◇
見えた。
銛の根元からマネキンの肘まで、ぴんと張った鋼線。
その鋼線が、マネキンの肘の中の巻き上げの仕掛けと繋がっている、結び目。
銛が飛んでくる。
避けられなかった。
だから、切った。
「――っ!」
ぷつり。
鋼線と肘の結び目がほどけた。
銛が忉利の胸の手前で、ぐらりと軌道を変えた。巻き戻す力を失った鋼線が、だらりと空中で弛んで。銛は忉利の肩を掠めて、背後の鏡に突き刺さった。
マネキンの肘から先がからっぽになった。
右目の奥で、何かがぶちりと千切れた。
「――ぐ……っ」
忉利は、硝子の破片の上に膝をついた。
頬を伝う血が、濃紺のマフラーにぽたぽたと染みていく。
また何かが抜けた。
さっきよりも少しだけ、多く。
「――忉利!!」
青子の悲鳴に近い声がした。
「何、今の。あんた、何したの……!」
答える余裕はなかった。
マネキンが左腕を上げていた。
硝子玉の目が忉利を見ていた。それから、青子を。それから、草十郎を。
三人を順番に。
獲物を数えるように。
◇
「――蒼崎」
草十郎が、青子を床に下ろして立ち上がった。
「手から光は出せるか?」
「……まだ、出せない。回路を、掻き乱されてる」
「どのくらいで戻る?」
「……わかんない。一分か、二分か」
「そうか」
草十郎は忉利を見た。
血の流れる右目を。
それから、少しだけ頷いた。
「日景も来たんだな。……なら、三人で戦おう」
「――は?」
青子と忉利の声が重なった。
「二分、時間を稼ぐよ。その間に蒼崎は戻してくれ」
左腕の銛が飛んできた。
草十郎は、通路の壁の赤い箱に手を伸ばした。
消火器。
錆びた留め金を引き剥がす。重い赤い筒を両手で抱えて。
銛の軌道に突き出した。
がぁん、と鈍い音。
銛の先が消火器の胴に突き刺さった。圧力が抜ける。白い粉が噴き出した。
狭い通路が一瞬で真っ白に染まった。
マネキンの硝子玉の目が、白い粉の中で何も映さなくなった。
草十郎は消火器を銛ごと、力任せに引いた。鋼線がぴんと張る。マネキンの身体が前につんのめった。
「――こっちだ」
草十郎は青子の腕を掴んだ。
忉利が反対側から、青子のもう片方の腕を掴んだ。
二人で青子を引きずるようにして、通路を駆け出した。
白い煙の中を。鏡の迷路を。
背後で、硝子の割れる音が追ってきた。
◇
「……あれ、魔術師の人形よ」
走りながら青子が言った。
自分の指先を見ていた。回路が、少しずつ静まっていく。けれど、光はまだ戻らない。
「たぶん、呪いで動いてる。呪いを撃ち出して、呪いを自分の動力にしてる。……壊しても壊しても、動き続ける類のやつ」
「……だからか」
忉利が、荒い息の合間に言った。
「あいつの線、全部、自分に戻ってた。……胸から出て、胸に戻る。輪になってる」
青子が走りながら、忉利の横顔を見た。
血に濡れた右目を。
「……線?」
「見えんだよ、昔から。……ものとものを繋いでる線が」
「――――」
「今、初めて切った。……さっきの、鋼線の。丘の上のは数に入れねえとして」
青子は何も言えなかった。
走りながら唇を噛んでいた。
「どうすれば止まるんだ?」
草十郎が訊いた。
「……跡形もなく、潰すしかない。輪が回ってる限り、止まらないなら。輪ごと」
「わかった」
草十郎は走りながら、学生鞄の中に手を入れた。
青い小さな缶を取り出した。
「蒼崎、これに火はつけられるか?」
「……空でしょ、それ」
「空だ。……でも、この館の入り口でガスの匂いがしたんだ」
青子の足が止まりかけた。
「入り口の脇の売店の裏に、大きなガスの瓶が三本並んでいた。錆びて栓が緩んでいたんだ。……この館の床下に、ずっと溜まってる」
忉利は走りながら、足元の割れた板張りの床を見た。
右目を細めた。
床の割れ目の奥に。
線が見えた。
入り口の方から床下を這って、館の奥の方まで、ゆっくりと広がっている、ぼんやりとした重い線の流れ。
空気の線とは違う。空気より重いものが、低いところに溜まって、床板の裏側にべったりと張りついている。
その流れの根元が。
入り口の脇の、売店の裏の、錆びた瓶の口に繋がっていた。
「……ある」
忉利が言った。
「床の下。……入り口から、この辺まで、全部。溜まってる」
青子が二人の顔を交互に見た。
山で育った男の鼻と。
線の見える男の目と。
「……あんたたち、ほんと」
出口の割れた電球の看板の下まで、あと十メートル。
背後の白い煙の中から、硝子玉の目が二つ、浮かび上がった。
マネキンが追いついてきた。
青子の顔で。笑ったまま。
左腕を上げる。
青子は自分の指先を見た。
光が灯った。
細く、弱く。けれど、確かに。
「……戻った」
「なら」
草十郎は立ち止まって振り返った。
「日景、いちばん溜まっているのはどこだ?」
「――右。三歩先の床の、でかい割れ目の下」
草十郎は空の缶を、その割れ目に向かって放った。
缶がからん、と板の上で跳ねて、割れ目の中に落ちた。
マネキンの硝子玉の目が、それを追った。
青子の顔をした人形は、青子と同じものを見る。
その一瞬。
「――今だ」
青子は撃った。
人形では、なかった。
床の割れ目の奥の青い缶を。
青い礫が板を貫いて、床下の闇に吸い込まれた。
◇
床が下から持ち上がった。
―――――!!!
鏡の館が内側から弾けた。
床下に溜まっていたガスが、一度に火を噴いた。板張りの床が、梁が、何百枚もの鏡が、一斉に夜空へ向かって吹き飛んだ。
三人は出口の看板の下を、爆風に背中を押されるようにして転がり出た。
濡れた石畳の上を何メートルも転がった。
背後で、鏡の館が炎の柱になっていた。
その炎の中で、青子の顔をした人形が燃えていた。
硝子玉の目が炎を映して、赤く光っていた。
笑ったまま。
燃え落ちる梁の下敷きになって、見えなくなった。
霧雨が、炎の上に降り注いでいた。じゅう、じゅう、と火の粉が雨に消されていく音。
三人は石畳の上に、仰向けに倒れていた。
しばらく、誰も動かなかった。
「……なんで」
青子が雨の降る夜空を見上げたまま、言った。
「なんで、一緒に戦おう、なんて言ったのよ、静希くん。……私、あんたを殺しに来たのよ」
「蒼崎が困っていたから」
草十郎は仰向けのまま、不思議そうに答えた。
「困っている人がいたら手伝うものだろう。……山ではそうだったよ」
「…………」
「それに、蒼崎はさっき撃つ時に外していた。……何回もね。本当に殺したいなら、蒼崎は外さない人だと思う」
青子は何も言い返せなかった。
それから、首だけを反対側に向けた。
忉利が石畳の上に転がっていた。
右目を手で押さえて。指の間から、血が流れ続けていた。
「……あんたは」
青子の声が震えた。
「なんで、来たのよ」
「……お前、昨日、何も言わなかったろ」
「――っ」
「黙ってた。……だから、来た」
青子は目を閉じた。
雨が顔に落ちてきた。
「……ほんと、どいつもこいつも」
青子は身体を起こした。
炎の柱を見た。
それから、草十郎の顔を。忉利の血に濡れた顔を。
「……静希くん。忉利」
「なんだ」
「……ああ」
「今夜のこと、全部、誰にも言わないって約束して。死ぬまで」
「ああ。約束する」
草十郎は、迷いなく即答した。
忉利は少しだけ黙ってから、言った。
「……言わねえよ。誰にも」
青子は、長い、長い息を吐いた。
「……なら、見逃してあげる。今夜は。二人とも」
青子の右手の指が、ぎこちなく握られた。
人形の呪いに掻き乱された回路の奥で、何かが少しだけ組み変わっていた。
撃てない間に、拳で撃つ。回路の熱を指先ではなく、手のひら全体に叩きつけるように流す。
白兵戦の魔弾の使い方。
今夜、ほんの少しだけ、そのこつを掴んだ気がしていた。
◇
「―――いいえ」
声が降ってきた。
炎のはぜる音にも、雨の音にもかき消されてもおかしくないほど小さいのに、はっきりと耳に届いた。
メリーゴーランドの崩れた屋根の上に。
一人の少女が立っていた。
黒い服。雨に濡れても乱れない長い髪。白い、硝子細工のような顔。
久遠寺有珠。
その肩の上で、青い駒鳥が羽を膨らませて身を縮めていた。
「青子。あなたがその約束をするのは、勝手よ」
有珠は炎の柱をちらりと見た。
それから、石畳の上の三人を見下ろした。
草十郎を。
それから、忉利を。
有珠の硝子のような目が、忉利の血に濡れた右目の上で止まった。
「……丘の上の、人払い」
平坦な声だった。
「外から、ほどいたのは、あなたね。……魔術の匂いもしないのに。どうやって」
忉利は答えなかった。
答えられなかった。
「そう」
有珠は小さく頷いた。
「なら、二人になったわね。……見てはいけないものを、見た人が」
「有珠――」
「わたしは、認めないわ。……二人とも、生かして帰さない。わたしたちの決まりは、あなたの気分で変わるものではないでしょう」
青子は立ち上がった。
草十郎と忉利の前に立った。
両手の指先に光を灯した。
回路は、まだ痺れていた。万全からはほど遠かった。
それでも。
「……変わるわよ」
低い声だった。
「一度、決めたの。今夜は、こいつらを殺さないって。……私が一度決めたことを、あんたの気分で変えさせる気も、ないわ」
有珠の目が、ほんのわずかに細められた。
二人の魔女が、雨の中で向かい合っていた。
どちらも動かなかった。
やがて。
有珠が、ふっと息を吐いた。
笑ったのかもしれなかった。
「―――いいわ」
有珠は白い指を、そっと胸の前に持ち上げた。
その指先に、小さな硝子の小瓶がつままれていた。
中で緑色の油が揺れていた。
「ごっこ遊びをしましょう、青子」
◇
青子の顔から血の気が引いた。
「……それ、まさか」
「月の油よ」
有珠は小瓶の栓を抜いた。
「母から受け継いだ、三つの奇跡の一つ。……この遊園地なら、きっと、いい夢を見せてくれるわ」
緑の油が一滴。
メリーゴーランドの屋根から落ちた。
石畳に触れる前に。
霧になった。
緑の、濃い甘い匂いのする霧。
それが音もなく、園内に広がっていった。石畳の上を這い、崩れた売店の間を抜け、錆びた観覧車の鉄骨を這い上がり。
有珠の唇が動いた。
歌うように。囁くように。
遠い国の古い物語の一節を。
「……ベイカー、スナーク見つけたよ」
霧が揺れた。
「そう、そのスナークの正体とは―――」
ぱちん、と。
どこかでスイッチの入る音がした。
◇
忉利は見た。
霧の中に。
線が生まれていくのを。
緑の霧が触れたところから、細い黒い糸が一本、また一本と立ち上がっていく。崩れた売店の看板から。割れたメリーゴーランドの電球から。首の折れた木馬から。錆びたコーヒーカップから。パン工場の割れた煙突から。
捨てられたもの。忘れられたもの。
その一つ一つに糸が結ばれていく。
操り人形の糸だった。
その何百本もの糸が全部、空へ伸びていった。
夜空の雨雲の向こうへ。
どこか見えないほど高いところへ。
メリーゴーランドの屋根の縁の、割れた電球が。
一つ、灯った。
二つ。三つ。十。
屋根の輪郭をなぞって、色とりどりの電球が次々と灯っていく。崩れていたはずの屋根が、軋みながら、元の形を取り戻していく。首の折れていた木馬が、極彩色の塗料を滴らせて、ゆっくりと首をもたげた。
木馬が回り始めた。
オルゴールの調子の外れた、ぜんまいの伸びきったような旋律が、どこからともなく流れ出した。
コーヒーカップが回り始めた。
観覧車の骨だけになった輪郭に、電飾が灯った。
それから。
園の奥のジェットコースターのレールの、いちばん下から。
白いライトが一つ、灯った。
次のライトが、その上に。その次が、さらに上に。
オルゴールの旋律が盛り上がっていく。
ライトがレールを下から上へ、駆け上がっていく。急な坂を、宙返りの輪を、夜空に突き上げる最頂点まで。
旋律が頂点に達した瞬間。
最頂点のライトが灯った。
三年前に死んだ遊園地が、目を覚ました。
霧雨が止んでいた。
頭上の雲が嘘のように、左右に裂けていた。
その裂け目の奥に。
白い、大きな満月が浮かんでいた。
メリーゴーランドの屋根の上から、有珠の姿は消えていた。
◇
丘の上の雑木林からずっと離れた場所で。
夜の三咲の町を見下ろす給水塔の上に、一人の女が座っていた。
長い赤みがかった髪。細い縁の眼鏡。指に挟んだ煙草の先が、小さく、赤く灯っていた。
膝の上に小さな鏡が一枚。
鏡の中に、燃え落ちた鏡の館の瓦礫の山が映っていた。
瓦礫の下で、焼け焦げた人形の硝子玉の目が、見ているもの。
「……有珠ちゃんの、月の油。まだ、持っていたんだ」
柔らかな声だった。
鏡の中で、石畳の上に少年が一人、座り込んでいた。
右の目から血が、筋になって流れていた。
「……人形の巻き上げを、ほどいた」
女は少しだけ首を傾げた。
「魔術の匂いもしないのに。……ふうん」
眼鏡の奥で、女の目が少しだけ楽しそうに細められた。
それから、鏡の中の瓦礫の山に目を戻した。
瓦礫の下で、焼け焦げた人形の指が。
ほんの少しだけ動いた。
「まだよ。……もう少し、寝ていなさい」
シエルの小説満足度調査
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びみょう