其の一 応援演説
五月。生徒会役員選挙。
蒼崎青子は、今年も会長に立候補した。
対立候補はいなかった。いたことがなかった。
「……信任投票だろ。応援演説、いらねえだろ」
生徒会室の窓際で、忉利が伊達眼鏡の奥で目を細めた。
「いるのよ。規則で」
青子は腕を組んで、忉利を見下ろしていた。
「立候補者一人につき、応援演説者、一人。……去年は槻司だったでしょ」
「じゃあ、今年も鳶丸でいいだろ」
「今年は俺、自分の演説で手一杯だ」
鳶丸が帳簿から顔を上げずに言った。
「副会長に対立候補が出た。……芳助だ」
「――は?」
「『殿下の独裁を許すな』だとよ。公約は、購買のパンの種類を倍にする」
「……それ、人気出るぞ」
「出てる。二年の間で、けっこう」
金鹿が会計の机で鉛筆を置いた。
「というわけで、会長の応援演説、日景に頼むことになったから。……もう、選管に名前、出しといたわ」
「――勝手に出すな」
「会長の指示よ」
青子はにっこりと笑った。
「頑張ってね。応援演説者さん」
◇
その夜。Cafe HIKAGEのカウンター。
忉利は原稿用紙を前に、鉛筆を握ったまま固まっていた。
「……お兄ちゃん、それ三日前から一行も進んでないよね」
中学三年の晴華が、カウンターの向こうから身を乗り出していた。
「うるせえ」
「青子ちゃんのいいところ書けばいいんでしょ。簡単じゃん」
「……簡単じゃねえ」
「なんで? いっぱいあるでしょ」
「いっぱいあるから、書けねえんだよ」
晴華は目を丸くした。
それから、にやあ、と笑った。
「……ふうん」
「なんだよ」
「なんでもなーい」
カウンターの奥で、父がネルを振っていた。
背中を向けたまま、ぼそりと言った。
「……思ってることを、言え。書くな」
「…………」
「書くと、嘘が混じる」
忉利は原稿用紙を見下ろした。
それから鉛筆を置いて、紙をくしゃくしゃに丸めた。
◇
投票日。
体育館に全校生徒が集まっていた。
壇上の端のパイプ椅子で、忉利は、伊達眼鏡を三回かけ直した。
原稿はなかった。
書こうとして、白紙のまま三日が過ぎた。
「……次、蒼崎青子さんの応援演説です。三年C組、日景忉利さん」
司会の声が体育館に響いた。
ざわ、と女子の列が揺れた。
一月の目の色の騒ぎから、四ヶ月。噂はとっくに幽霊屋敷の話に上書きされたはずだった。
上書きされていなかった。
忉利は壇上の中央の、マイクの前に立った。
体育館じゅうの何百という目が、こっちを見ていた。
扉を閉じたままでも、わかる。何百本もの好奇心の線。
忉利は、息を吸った。
「……蒼崎は」
声がマイクで割れた。
一歩、下がる。
「蒼崎は、面倒な奴です」
体育館が、しんと静まり返った。
壇上の端で、青子の顔が凍りついた。
「すぐ怒るし。人の話、聞かねえし。自分で全部やろうとするし。……頼んでもねえのに、前に出る」
鳶丸が両手で顔を覆っていた。
「でも」
忉利はマイクのスタンドを握った。
「前に出たら、ちゃんと最後まで、立ってる奴です」
「…………」
「誰かが倒れてたら、一番先に走ってく。……一番、ボロボロになって帰ってくる。それでも、次の日の朝には、また前に出てる」
忉利は、壇上の端の青子を見なかった。
「そういう奴が会長やってる学校は。……たぶん、何があっても、大丈夫です」
一礼して、マイクから離れた。
「……以上」
体育館が、しばらく静まり返っていた。
それから。
誰かが手を叩いた。
一人。二人。十人。百人。
拍手が体育館じゅうに広がっていった。
壇上の端で、青子はパイプ椅子に座ったまま、真っ赤な顔で固まっていた。
ちなみに、その後に続いた副会長候補の演説で、芳助は壇上に焼きそばパンを掲げて「このパンを、全校生徒に!」と叫んだ。
体育館は別の意味で静まり返った。
◇
放課後の生徒会室。
「――面倒な奴って、何よ!」
青子が忉利の胸ぐらを掴んでいた。
「全校生徒の前で! マイクで! 面倒な奴って!」
「事実だろ」
「すぐ怒るって!」
「今、怒ってんだろ」
「――――っ!!」
青子は胸ぐらを掴んだまま動かなくなった。
耳の先まで真っ赤だった。
「……後半」
小さな声だった。
「後半は、……なに、あれ」
「……事実だろ」
「――っ」
青子は、忉利の胸に、額をごつんとぶつけた。
それから、そのまま動かなくなった。
金鹿が、会計の机で、開票結果の紙をひらひらと振った。
「会長、信任率、九十八パーセント。……過去最高よ」
「……っ」
「で、副会長は」
鳶丸が窓の外を見ていた。
「……芳助に、二十票差で勝った」
「僅差じゃねえか」
「パンの種類を倍にする公約、俺も取り入れることにした」
◇
帰り道の坂の途中で。
青子は忉利の少し後ろを歩いていた。
三歩。二歩。一歩。
隣に並んだ。
「……ありがと」
小さな声だった。
「何が」
「……後半」
「前半は」
「前半は、許さない」
「……だろうな」
青子は、忉利の脛を軽く蹴った。
それから、坂の上の洋館に着くまで、ずっと隣を歩いた。
鞄を忉利の鞄とぶつけながら。
其の二 修学旅行の夜
六月。京都。修学旅行の二日目の夜。
三咲高校の修学旅行は、三年の六月と決まっていた。受験が本格的になる前にせめて思い出を、という学校なりの気遣いらしかった。
古い旅館の男子の大部屋。
布団が十枚並んでいた。
消灯から、三十分。誰も寝ていなかった。
「――で」
枕を抱えた鳶丸が、布団の上であぐらをかいていた。
「日景。……蒼崎とはどこまで行ってんだ」
部屋じゅうの男子が、一斉に忉利の方を見た。
暗闇の中で、十対の目が光っていた。
忉利は、布団の上で寝転がったまま、天井を見ていた。
「……どこまでって、何だよ」
「とぼけんな。もう半年、坂の上の屋敷で一つ屋根の下だろ」
「有珠もいる。静希もいる」
「で、どこまでだ」
「……どこにも行ってねえよ」
「嘘つけ」
「嘘じゃねえ」
同じクラスの野球部の佐伯が、布団から身を乗り出した。
「じゃあ訊くけどよ。……毎朝二人で、坂、下りてくるよな」
「同じ家から出てんだから、当たり前だろ」
「蒼崎の弁当、お前が作ってんだろ」
「……有珠のも、静希のも作ってる」
「蒼崎のだけ、今でも、お前のと包みの布まで同じなんだってな。藍色の」
「…………」
「今でもなんだな!?」
部屋がどっと沸いた。
忉利は枕に顔を埋めた。
芳助が布団の上で正座になった。
「じゃあ、手とか繋いだことないんすか」
「…………」
「あるんすね!?」
「……数えてねえ」
「数えてねえほど!?」
「そういう意味じゃねえ」
部屋じゅうがまた沸いた。
旧校舎の夜。音楽室の冷たい床の上で、死にかけた青子の手を握った。夜明け前、手を引かれて空に浮かんだ時も。春先の雪の残る山道でも。
どれを「手を繋いだ」と数えていいのかは、わからなかった。
だから、数えたことはなかった。
「じゃ、じゃあ、キスは!?」
「――してねえよ!」
初めて、忉利の声が大きくなった。
部屋が一瞬しんとした。
それから、もっと大きく沸いた。
「声、でけえ!」
「動揺してんじゃねえか、日景!」
「してねえって言ってんだろ!」
「『してねえ』と『したくねえ』は違うっすよね」
「――芳助、てめえ」
鳶丸が、枕を抱えたまま、手を上げて場を制した。
妙に真面目な顔だった。
「一個だけ、訊く」
「……なんだよ」
「好きなのか」
部屋が静まり返った。
十対の目が、暗闇の中で、じっと忉利を見ていた。
忉利は天井を見ていた。
長いこと、何も言わなかった。
「……言わねえ」
それだけだった。
部屋が、爆発した。
「――言わねえってことは!」
「言わねえってことは、そういうことだろ!」
「日景が! あの日景が!」
佐伯が布団の上で転げ回っていた。芳助が枕を天井に投げていた。
鳶丸だけが、あぐらをかいたまま、少しだけ笑っていた。
「……去年の冬」
騒ぎの中で、鳶丸がぽつりと言った。
忉利にだけ聞こえる声で。
「お前ら二人、ボロボロになって学校に来た日があったろ。……何があったかは訊かねえけど」
「…………」
「あの日から、お前、蒼崎の方ばっかり見てるぞ。自分で、気づいてねえだろうけど」
忉利は、何も言い返せなかった。
部屋の隅の窓際の布団で。
草十郎が、正座したまま、真顔で手を上げた。
「質問がある」
「……なんだよ、草の字」
「日景。……手を繋ぐのは、どこまでの、どのあたりだ」
「――お前は黙ってろ」
「それから、木乃美」
「え、オレっすか」
「さっき、枕を投げる前に、木乃実にも好きな人がいると言っていた。……誰だ」
部屋じゅうの目が、一斉に芳助に向いた。
「――え、いや、それは、ちょっと」
「誰だ」
「静希くん、そういうの真顔で訊くもんじゃないっす!」
標的が移った。
忉利は、枕に顔を埋めたまま、心の底から草十郎に感謝した。
◇
同じ頃。
女子の大部屋。
「――で、会長」
金鹿が布団の上で枕を抱えていた。
「日景とはどこまで行ってるの」
部屋じゅうの女子が、一斉に青子の方を見た。
暗闇の中で、十何対の目が光っていた。
「……ど、どこまでって、何よ」
「とぼけないで。もう半年、一つ屋根の下でしょ」
「有珠がいるわ。静希くんもいるわ」
「で、どこまで」
「――どこにも行ってないわよ!」
「嘘」
「嘘じゃない!」
隣のクラスの宮下が、布団から這い出してきた。
「会長。……勉強会の時、日景くんの眼鏡かけてるって、本当ですか」
「――っ、か、借りてるだけよ!」
「借りてるんだ……」
「毎日……」
「……毎日じゃないわよ! 勉強会の時だけ!」
「勉強会、毎週やってるって聞きましたけど」
「誰から!?」
「静希くんから」
「――――っ、静希くん!!」
金鹿は、枕の上に顎を乗せて、じっと青子を見ていた。
「……選挙の応援演説。全校生徒の前で『最後まで、立ってる奴です』って言われてたわよね」
「――っ」
「帰り道、鞄ぶつけながら歩いてたわよね。坂の上まで、ずっと」
「な、なんで知ってるのよ!」
「みんな見てるわよ。あの坂、通学路だもの。……会長、有名よ」
「――――っ!!!」
青子は、布団を頭から被った。
布団の中から、くぐもった声がした。
「……有名なの」
「有名よ」
「三年の間で」
「二年の間でも」
「…………」
「先生たちの間でも、たぶん」
「――――っ!!!!」
布団の中で、何かがじたばたと暴れていた。
女子たちがきゃあきゃあと笑っていた。
宮下が布団の山を、つんつんとつついた。
「会長。……日景くんの、どこが好きなんですか」
布団の中の動きがぴたりと止まった。
「……好きなんて言ってないでしょ」
「じゃあ、嫌いなんですか」
「嫌いじゃないわよ!」
「じゃあ」
「――っ、誘導尋問やめなさい!」
部屋じゅうが転げ回って笑っていた。
金鹿だけが、笑わずに布団の山を見ていた。
少しだけ声を落とした。
「……会長」
「…………」
「去年の冬から。……顔が、変わったわよ」
布団の山が動かなくなった。
「前は、いつも、一人で全部背負ってる顔してた。……生徒会室で書類に判子押してる時も、窓の外、見てる時も」
「…………」
「今は、違う。……日景が、生徒会室に来ると。ちょっとだけ、肩の力が抜けてる」
女子たちの笑い声が、少しずつ止んでいった。
布団の山から、しばらく何も聞こえなかった。
それから。
布団の端から、真っ赤な顔が、目だけ覗いた。
「……わかんないのよ」
小さな声だった。
「どこが、とか。いつから、とか。……わかんない」
「…………」
「ただ」
青子は、布団の端をぎゅっと握った。
「……あいつがいない朝が、想像できないの。もう」
部屋が、しんと静まり返った。
それから次の瞬間。
女子の大部屋が、爆発した。
「――――きゃああああ!!」
「会長!!」
「今の!! 今の、答えですよね!!」
「言ってない! 今のは言ってないの!!」
「言いました!!」
「――聞かなかったことにしなさい!! 会長命令よ!!」
青子は布団を、また頭から被った。
金鹿は枕に顔を埋めて、肩を震わせていた。
笑っているのか何なのか、わからなかった。
「……それ、答えよ。会長」
布団の山に向かって、小さく言った。
壁一枚向こうの男子の大部屋からも、同じような騒ぎが聞こえていた。
廊下の向こうで、山城先生が、懐中電灯を持って深い溜息をついていた。
◇
その日の昼間のことを、青子は布団の中で思い出していた。
清水寺の奥の小さな神社。
恋占いの石、というのがあった。十メートルほど離れた二つの石の間を、目を閉じて歩いて辿り着ければ恋が叶う、という。
金鹿に背中を押された。
「会長。やってきなさいよ」
「い、いいわよ、私は」
「生徒会長が逃げるの?」
「――逃げてないわよ!」
目を閉じて歩き出した。
三歩で、方向がわからなくなった。
五歩で、人にぶつかりかけた。
その時。
「……右」
声がした。
ぶっきらぼうな低い声。
「……もうちょい左。……そのまま、まっすぐ。……三歩」
青子は目を閉じたまま、その声のとおりに歩いた。
右。少し左。まっすぐ。三歩。
指先が、冷たい石に触れた。
目を開けると、石の脇に、夏服のシャツの袖をまくってズボンのポケットに両手を突っ込んだ忉利が、そっぽを向いて立っていた。
「……な、なんで、あんたがここにいるのよ」
「班、隣だった」
「――っ、それで、なんで案内してんのよ!」
「人にぶつかりそうだったからだ」
石の周りの他校の女子たちが、きゃあ、と黄色い声を上げていた。
金鹿が、少し離れたところで額を押さえていた。
「……人に助けてもらって辿り着いたら、恋も人の助けで叶うって、書いてあるわよ。そこの札に」
「――――っ!!」
青子は、布団の中で、もう一度頭まで布団を被った。
◇
午前一時。
旅館の廊下の突き当たりの、自動販売機の前。
青子は、旅館の浴衣の上に、薄いカーディガンを羽織って立っていた。
眠れなかった。
硬貨を入れてボタンを押そうとして。
押す前に、隣に気配がした。
「……何飲むんだよ」
「――っ!」
忉利だった。
旅館の浴衣の帯をだらしなく結んで。
「……なんで、いるのよ」
「眠れねえ」
「……私も」
二人は、自動販売機の青白い明かりの中に、並んで立っていた。
「……鳶丸に、根掘り葉掘り訊かれた」
「……金鹿に、根掘り葉掘り訊かれた」
「何て答えた」
「……どこにも行ってないって。……それから、ちょっとだけ余計なこと」
「余計なこと?」
「……言わない」
「…………」
「あんたは」
「どこにも行ってねえって。……それから、好きかって訊かれて、言わねえって言った」
「――それ、言ってるのと同じじゃない!」
「……部屋じゅうにそう言われた」
「当たり前でしょ!」
「で、お前の余計なことは」
「――言わないって言ってるでしょ!!」
自動販売機の青白い明かりの中で、青子の顔が真っ赤だった。
青子はボタンを押した。
冷たい細長い缶の、ミルクティーが落ちてきた。
忉利もボタンを押した。
冷たい細長い缶の、珈琲。
「……甘いやつじゃない、それ」
「これで、いい」
その時。
廊下の向こうの角から。
懐中電灯の光が、ゆらりと揺れた。
「――見回りだ」
「山城先生……!」
足音が近づいてくる。
二人は顔を見合わせた。
それから、同時に、自動販売機の脇の布団部屋の引き戸を開けた。
中に飛び込んだ。
引き戸を閉めた。
真っ暗だった。
積み上げられた予備の布団の隙間。
二人がぎりぎり立っていられるくらいの。
青子の背中が、布団の山に押しつけられていた。
忉利の胸が、すぐ目の前にあった。
顔が、近かった。
息が、かかるほど。
廊下を懐中電灯の光が通り過ぎていく。引き戸の隙間から、細い光の筋が、青子の顔を一瞬だけ照らした。
真っ赤だった。
光が遠ざかっていった。
足音が消えた。
それでも、二人とも動かなかった。
「……行ったぞ」
忉利の声がすぐ耳元で、した。
「……わかってるわよ」
「出るか」
「……もうちょっと」
「……は?」
「もうちょっと、待った方がいいわよ。……戻ってくるかもしれないし」
忉利は、何も言わなかった。
動かなかった。
暗闇の中で、二人の手の中の缶が汗をかいていた。
「……ねえ」
「ん」
「……手、繋いだことあるかって。……そっちでも訊かれた?」
「訊かれた」
「なんて答えたの」
「数えてねえって」
青子は、暗闇の中で、少しだけ黙った。
「……私は、数えてるけど」
「は?」
「なんでもない」
それから、缶を持っていない方の手で忉利の手を探した。
見つけた。
指を、絡めた。
「……何回目だよ」
「教えない」
忉利は、それ以上訊かなかった。
ただ、絡められた指を握り返した。
十分後、二人が布団部屋から出た時、自動販売機の前に懐中電灯を持った山城先生が、腕を組んで立っていた。
「……反省文、二枚ずつ」
「――はい」
「――はい」
其の三 期末テスト前夜
七月。一学期、期末テストの三日前。
坂の上の洋館の居間。
樫の大机の上に、教科書と問題集とノートが山になっていた。
「――はい、次。静希くん。数学の三番」
青子が眼鏡をかけて、赤鉛筆を構えていた。
今日も忉利の黒縁の伊達眼鏡だった。春休みに、書庫で「蒼崎先生」をやって以来、勉強会の時だけ勝手に持っていくようになった。
「……先生って呼んだ方がいいのか」
「呼びなさい」
「呼ばねえ」
「……あおあおせんせーって呼んだら、殴るから」
「呼んでねえだろ、まだ」
「まだ、って何よ!」
「――とにかく。関数 f(x) の最大値を求めよ」
草十郎は、問題集をじっと見下ろしていた。
長いこと。
「……最大値は」
「最大値は?」
「その関数が、いちばん上にいる時だ」
「――それはそうよ! だから、それがいくつかって訊いてるの!」
「そうか。……山の頂に似ている。登ってみないと、高さは、わからない」
「計算でわかるのよ! 登らなくても!」
有珠が窓際の椅子で紅茶を飲んでいた。
「……静希君の言い方、嫌いじゃないわ」
「有珠は黙ってて!」
◇
一時間後。
忉利は、机に突っ伏して眠っていた。
英語の長文の三行目で。
「……ちょっと」
青子が、赤鉛筆で忉利の頭をつついた。
「起きなさいよ。あんた、英語、一番やばいでしょ」
「……起きてる」
「寝てるわよ」
「……目、閉じてるだけだ」
「それを寝てるって言うの!」
忉利は机から顔を上げた。
伊達眼鏡のない、灰色の、縁の青い目が半分だけ開いていた。
「……昨日、店で夜中まで焙煎の練習してた」
「知ってるわよ。……でも、だからって、ここで寝ていいとは言ってないでしょ」
「……ちょっとだけ」
「だめ」
「……五分」
「だめだって――」
忉利の頭が、ゆっくりと横に傾いた。
隣の青子の右の肩の上に。
こつん、と。
青子の赤鉛筆が止まった。
「…………」
寝息が聞こえた。
青子は、動けなかった。
肩の上に忉利の頭の重み。珈琲の匂いのする、髪。
顔が、見る見るうちに赤くなっていった。
「……ちょ、ちょっと」
小さな声だった。
「……起きなさいよ」
起きなかった。
窓際で、有珠が紅茶のカップを、ゆっくりと受け皿に戻した。
「……五分、あげたら?」
「――っ、有珠!」
「英語の長文は、明日でもできるわ」
草十郎が、問題集から顔を上げた。
「蒼崎。……その体勢だと、数学の四番が、教えられないのではないか」
「――静希くんは、自分で解きなさい!」
「そうか」
草十郎は、問題集に目を戻した。
それから、ぽつりと言った。
「……最大値は、今の蒼崎の顔の赤さに似ている」
「――――っ!!!」
◇
三十分後。
五分ではなかった。
青子は肩を動かさないまま、左手だけで、器用に赤鉛筆を動かしていた。
草十郎の数学の答案に丸をつけていた。
「……五番、正解」
「そうか」
「六番も、正解」
「そうか」
「……静希くん、なんで、急にできるようになったの」
「蒼崎が静かになったから、集中できた」
「――どういう意味よ!」
「声が、小さくなった。……日景が起きないように」
青子は何も言い返せなかった。
肩の上の忉利の頭を、ちらりと見た。
寝顔だった。
いつもの気だるげな、眠たげな顔の、そのまま眠った顔。
ほんの少しだけ口が開いていた。
「……ばか」
小さく呟いた。
それから赤鉛筆を置いて。
肩を動かさないまま、左手で、そっと忉利の前髪をよけた。
窓際で有珠が、何も言わずに窓の外を見ていた。
見ないふりをしていた。
それから、さらに三十分。忉利がようやく目を覚ました。
肩の上で、頭をゆっくりと持ち上げる。
寝ぼけた目で隣の青子を見た。
「……悪い。寝てた」
「……知ってるわよ」
「肩、痛くねえか」
「痛いわよ」
「……悪い」
「……一時間分、英語の長文、今からやりなさい」
「今からかよ」
「今からよ。……肩の分」
忉利は欠伸を噛み殺しながら、英語の問題集を開いた。
青子は右の肩を、そっと左手でさすっていた。
痛いと言いながら、少しだけ名残惜しそうに。
三日後の英語の期末テスト。
忉利の点数は三十二点だった。
赤点の線の二点上だった。
「――二点! 二点よ!? あと二点で夏休み、補習だったのよ!?」
返却の日の放課後、生徒会室で、青子が答案を握りしめて叫んでいた。
「赤点じゃねえだろ」
「ぎりぎりでしょ! だからあの日、寝ちゃだめって言ったのに!」
「……寝かせたの、お前だろ」
「――っ、寝かせてない! 勝手に寝たのよ!」
「一時間、肩動かさなかったって、有珠が言ってたぞ」
「――――っ!!」
鳶丸が帳簿から顔を上げずに言った。
「……一時間か」
「言わないで、槻司くん!」
ちなみに、草十郎の数学は九十二点だった。
其の四 下駄箱の手紙
九月。二学期が始まって三日目の朝。
三年C組の下駄箱の前で、忉利は固まっていた。
上履きの上に、封筒が一通置かれていた。
薄い桜色の封筒。丸い、女の子らしい字で。
――日景先輩へ。
「……先輩」
後ろから覗き込んだ鳶丸が、口笛を吹いた。
「一年だな、これ。……目の色の件、新入生にまで回ってんのか」
「知らねえよ」
「どうすんだ」
「……どうもしねえよ」
忉利は封筒を鞄の中にしまった。
その三メートル後ろで。
生徒会長が、下駄箱の陰から、じっとそれを見ていた。
◇
その日、休み時間のたびに三年C組の前の廊下を、隣のクラスの生徒会長が用もないのに通り過ぎた。
一時間目の後。二時間目の後。三時間目の後。
「……蒼崎が、また廊下を通った」
廊下側の席の草十郎が、真顔で報告した。
「三回目だ。……生徒会の見回りは、一日に一回ではなかったか」
「知らねえよ」
「日景の方を見ていた」
「……知らねえって」
四時間目の始業のチャイムが鳴っても、廊下の柱の陰から腕章をつけた生徒会長の頭の先が、ほんの少しだけはみ出していた。
教科書を抱えて歩いてきた山城先生が、その柱の前で足を止めた。
「……蒼崎さん。チャイム、鳴りましたよ」
「――っ、み、見回りです!」
「見回りは結構です。……あなたの四時間目は、隣の教室で数学でしょう」
柱の陰の頭が引っ込んだ。上履きの足音が、ばたばたと隣の教室へ遠ざかっていった。
開け放した戸口から一部始終を見ていた三年C組じゅうが、どっと沸いた。
忉利は机に突っ伏した。
◇
昼休み。
青子は生徒会室で、弁当を食べていなかった。
箸を握ったまま、窓の外の校庭を睨んでいた。
「……会長。弁当、冷めるわよ」
金鹿が呆れた顔で言った。
「冷めない。最初から、冷たいもの」
「そういう意味じゃなくて」
「……金鹿」
「なに」
「桜色の封筒って。……一年の女子の間で流行ってるの?」
金鹿は瞬きをした。
それから帳簿を閉じて、深い、深い溜息をついた。
「……見たのね」
「見てない」
「見たのね」
「――見てないって、言ってるでしょ!」
青子の箸が、弁当の卵焼きを真っ二つにした。
忉利が、毎朝四人分焼いている、卵焼きの一切れだった。
◇
放課後。
校舎裏の銀杏の木の下。
一年の女子が一人、立っていた。
小柄で、おさげで、両手を胸の前で握りしめて。
忉利がその前に立っていた。
手に桜色の封筒。
「……読んだ」
「は、はいっ」
「ありがとな」
女子の顔が、ぱっと明るくなった。
「じゃ、じゃあ――」
「悪い」
忉利は言った。
「隣、埋まってるから」
女子の顔が固まった。
それから、少しだけ泣きそうな顔になって。
それから、なぜかふっと笑った。
「……知ってました」
「……は?」
「生徒会長さん、ですよね。……みんな知ってます」
女子はぺこりと頭を下げた。
「でも、言いたかったんです。……先輩の目の色、すごく、きれいだったから」
女子は走っていった。
おさげを揺らして。
忉利はその背中を、しばらく見送っていた。
それから、振り返らずに言った。
「……出てこいよ」
銀杏の木の反対側から。
がさ、と音がした。
「――っ、な、なんでわかったのよ」
「線、見なくてもわかる。……お前の気配くらい」
青子が木の陰から出てきた。
真っ赤な顔で。
「……隣、埋まってるって」
「言った」
「……誰で」
「わかってて訊くな」
「――っ、わかんないわよ! 言いなさいよ!」
「言わねえ」
「なんでよ!」
「……恥ずかしいからだ」
青子は、口を開けたまま固まった。
忉利はそっぽを向いて、首の後ろを掻いていた。
耳の先が赤かった。
銀杏の葉が一枚、二人の間にひらりと落ちた。
「……卵焼き」
青子がぽつりと言った。
「真っ二つに、しちゃった。……昼に」
「なんでだよ」
「……知らない」
翌朝。
屋敷の食堂で青子の弁当箱を開けると、卵焼きが二切れ入っていた。
いつもは一切れなのに。
片方は、砂糖の多い方だった。いつもなら有珠の弁当にしか入らない、甘い一切れ。
「……なに、これ」
台所から忉利の声がした。
「真っ二つにしたんだろ。……一個じゃ、足りねえかと思って」
「――っ、そ、そういう意味で割ったんじゃないわよ!」
「じゃあ、どういう意味だよ」
「……知らない!」
窓際で有珠が、自分の弁当箱を覗き込んでいた。
甘い一切れは、ちゃんとそこにも入っていた。
「……甘い方は、わたしの分のはずだけれど」
「今日だけだ」
「……そう」
有珠は紅茶を一口飲んで、カップを受け皿に戻した。
「朝から、胸焼けがするわ」
其の五 文化祭の喫茶店
十月。三咲高校、文化祭。
三年C組の出し物は、喫茶店だった。
満場一致だった。
理由は、一つだった。
「――日景がいれば、本物の珈琲が出せる」
鳶丸が黒板にでかでかと書いた。
忉利は机に突っ伏していた。
「……おれ、客で回りてえんだけど」
「却下」
「なんでだよ」
「三年だぞ。最後の文化祭だ。……クラスの売り上げ、学年一位取りに行く」
◇
当日。
教室は机を並べ替えて、白い布を掛けて、それらしくなっていた。黒板には芳助が描いた、妙に上手い湯気の立つカップの絵。
教室の後ろの窓際の一角が、厨房だった。
忉利が、父から借りてきた店の古いネルと、ミルと、携帯用の焜炉を並べていた。
「――いらっしゃいませ」
入り口で草十郎が、平坦な声で客を迎えていた。
ブレザーを脱いだ白いシャツの上に、白いエプロン。背筋がまっすぐで。
立ち姿だけなら、十年はここに立っている給仕のようだった。
「……静希くん、もうちょっと笑顔で」
「笑顔は、苦手だ」
「口角、上げるだけでいいから」
「こうか」
「――怖い! それ、怖い!」
開店から一時間で、行列ができた。
廊下の端まで。
噂が回っていた。三年C組で、本物の喫茶店の息子が本物の珈琲をネルで淹れているらしい、と。
それから別の噂も。
――目の色の日景先輩が、珈琲淹れてるらしい。
行列の八割が女子だった。
◇
「――ちょっと、忉利!」
昼過ぎ、生徒会の見回りの腕章をつけた青子が、厨房に飛び込んできた。
「行列、廊下の階段まではみ出してるのよ! 消防法! 避難経路!」
「知らねえよ。……淹れるの、追いつかねえんだよ」
「一杯ずつネルで淹れてるからでしょ! まとめて淹れなさいよ!」
「まとめて淹れたら、味が落ちる」
「――っ、そういう職人気質、今いらないの!」
青子は腕を組んで、厨房を見回した。
忉利の手元。草十郎の入り口。芳助の配膳の、危なっかしい手つき。
それから深い溜息をついて、腕章を外した。
「……手伝うわ」
「は?」
「注文取ってあげる。……校内の行列一つ、生徒会長が捌けないなんて、格好悪いもの」
青子は、厨房の隅にかかっていた予備の白いエプロンを、手に取った。
身体に当てて、紐を後ろで結ぼうとした。
うまく結べなかった。
「……結んでやる」
「い、いいわよ!」
「後ろ、向け」
忉利はネルを置いて、青子の後ろに回った。
エプロンの紐を手に取る。
青子の腰の後ろで、きゅっと蝶結びにした。
教室の中が一瞬、静まり返った。
行列の女子たちの。
何十本もの視線が。
二人に集中していた。
「……っ」
青子の耳が、見る見るうちに赤くなっていった。
「――は、はい、次の方! ご注文は!」
真っ赤な顔のまま、青子は入り口の方へ大股で歩いていった。
行列の先頭の一年女子が、青子の顔を見て小さく呟いた。
「……会長、彼氏さんに、エプロン結んでもらってた」
「――彼氏じゃない!」
「え、違うんですか」
「……ち、違わ――ない、けど、違うの!」
「どっちですか」
「ご注文は!!」
◇
午後三時。
行列の中に、見覚えのある顔が二つ並んでいた。
「――お兄ちゃん! 来たよ!」
中学三年の晴華が手を振っていた。
その隣に、父が立っていた。
いつもの無愛想な顔で。店のエプロンを外しもせずに。
「……なんで来てんだよ。店は」
「臨時休業! お父さんが、貼り紙書いたの。『本日、息子の店に偵察に行くため、休業』って」
「――嘘だろ」
「ほんとだよ。商店街の人たち、みんな笑ってた」
父は何も言わずに、窓際の席に座った。
晴華がその隣に座った。
草十郎が注文を取りに行った。
「いらっしゃいませ。……日景さん」
「ブレンド。……二つ。俺のと、晴華の」
厨房で忉利は、ネルを握りしめていた。
手が、少しだけ震えていた。
行列の女子たちよりも。生徒会長よりも。
この客が、いちばん怖かった。
湯を細く。粉が膨らむ。
二杯。
草十郎が運んでいった。
父はカップを持ち上げて、香りを嗅いだ。
一口。
教室の中の行列の女子たちまで、なぜか息を詰めてそれを見ていた。
「……十秒」
父が言った。
「蒸らしが十秒、短い。……急いでるな」
「行列が階段まであんだよ」
「なら、行列を待たせろ」
父はもう一口飲んだ。
それから晴華の頭にぽんと手を置いて、立ち上がった。
代金を机の上に置いた。
ちょうど二杯分。
教室を出ていく時、入り口で注文を取っていた青子の横を通り過ぎた。
ほんの一瞬だけ足を止めた。
「……青子ちゃん」
「は、はい」
「エプロン、似合ってる」
それだけ言って、出ていった。
青子は、注文票を持ったまま固まった。
厨房で忉利が、ネルを取り落としかけた。
◇
夕方。
最後の客が帰っていった後。
教室に一人だけ、客が残っていた。
黒い服。長い髪。白い、硝子細工のような顔。
有珠だった。
学校の生徒ではなかった。けれど、文化祭は一般公開だった。
有珠は、窓際の席に座っていた。
「……紅茶は、ないの」
「ねえよ。珈琲の店だ」
「そう。……なら、一杯」
忉利はネルを振った。
有珠の前に置いた。
有珠は一口飲んで、少しだけ目を閉じた。
「……苦いわ」
「知ってる」
「でも、今日の一杯は、いつもより少しだけ甘いわね」
有珠は厨房の隅で、エプロンを外しかけている青子をちらりと見た。
青子はまだ、耳が赤いままだった。
「……何か、いいことがあったのかしら」
「……知らねえよ」
三年C組の喫茶店は、学年一位を取った。
売り上げの半分は、忉利の珈琲だった。
残りの半分は、よそのクラスなのに真っ赤な顔で注文を取り続けた、生徒会長の功績だった。
其の六 何もない放課後
一九九一年、一月。三学期が始まって一週間。
放課後のチャイムが鳴ると、蒼崎青子の足は、勝手に本校舎三階の端の部屋へ向かう。
三年間、そうだった。
階段を上がって。廊下を突き当たりまで歩いて。扉の取っ手に手を掛けて。
がらり、と開けた。
会長席に座っていた二年生の女子が、判子を持ったまま顔を上げた。
「……あ、蒼崎先輩。何かご用ですか」
「…………」
秋に代替わりした新しい会長だった。
副会長の席にも、会計の席にも、新しい顔が並んでいた。帳簿をめくる手が全部止まっていた。
「……なんでもないわ。間違えたの」
青子は扉をそっと閉めた。
廊下の壁に忉利が寄りかかっていた。
鞄を肩に担いで、伊達眼鏡の奥で目を細めて。
「三回目だぞ。今週」
「……数えないでよ」
◇
昇降口で靴を履き替えながら、青子は深い溜息をついた。
「……わかんないのよ」
「何が」
「放課後って、何するものなの」
忉利は下駄箱の扉を閉める手を止めた。
「……帰るもんだろ」
「帰ってもすることないじゃない。静希くんはバイトだし、有珠は書庫だし」
「勉強でもしろよ」
「受験しないもの、私」
「おれもしねえよ」
三年間。放課後は毎日、生徒会室だった。書類に判子を押して、予算の数字を睨んで、揉め事の後始末をして。気がつくと、窓の外が暗くなっていた。
それが秋から、全部なくなった。
「……手持ち無沙汰って、こういうのを言うのね」
青子は自分の両手を、じっと見下ろした。
判子を持っていない手だった。
忉利はしばらく、それを眺めていた。
それから鞄を担ぎ直した。
「寄り道でもするか」
「……寄り道?」
青子は顔を上げた。
「下校途中の寄り道は、校則違反よ。生徒手帳の十四ページ」
「覚えてんのかよ」
「取り締まる側だったもの」
「もう、会長じゃねえだろ」
「…………」
青子は口を開けて。
閉じて。
もう一度開けた。
「……それも、そうね」
◇
商店街の入り口の鯛焼き屋の前で、二人は並んで鯛焼きを齧った。
青子は頭から。
忉利は尻尾から。
「……なんで尻尾からなのよ」
「頭から食ったら、最後に尻尾だけ残るだろ。寂しいじゃねえか」
「尻尾から食べたら、最後に頭と目が合うじゃない。そっちの方が嫌よ」
「目、合わせなきゃいいだろ」
「合っちゃうのよ。……ほら、あんたの、もうこっち見てる」
忉利の手の中で、半分になった鯛焼きが、つぶらな目で青子を見上げていた。
「…………」
忉利は黙って、頭を一口で食べた。
「――あ、ずるい!」
「何がだよ」
「目、合うの嫌だったんでしょ。今の」
「腹、減ってただけだ」
鯛焼き屋の親父さんが、鉄板の向こうで肩を震わせていた。
青子は包みをもう一つ買い足した。
「……有珠と静希くんの分よ」
「冷めるぞ」
「温め直してくれるでしょ。あんたが」
◇
本屋の雑誌の棚の前。
青子は音楽雑誌を立ち読みしていた。
外国のバンドの来日公演の記事。ライブハウスの今月の予定表。
忉利は隣の料理の棚の前で、珈琲の本をめくっていた。
二人とも五分で、店の奥のおばあさんに、はたきで追い払われた。
「……三年間、立ち読みするなって注意してた側なのに」
店の外で、青子はぼそりと言った。
「おれは、されてた側だ」
「知ってるわよ。……あんた、二年の時ここで三回、見回りの先生に捕まったでしょ。あれ、場所を教えたの私よ」
「お前だったのかよ」
硝子戸が、がらりと開いて、単語帳を握りしめた芳助が顔を出した。
「――あ! 会長と日景が寄り道してる!!」
「元、会長な」
「元でも寄り道は寄り道っす! オレ、来週試験なのに! 二人で鯛焼きなんか!」
「お前の分は、ねえぞ」
「殿下に言いつけてやるっすー!」
芳助は単語帳を振り回しながら、店の中に戻っていった。
たぶん、参考書の棚の陰で閉店まで粘るつもりだった。
◇
レコード屋の店先で、青子の足が止まった。
硝子戸の向こうのカセットテープの棚。
「……ちょっとだけ」
「ちょっとって、どのくらいだ」
「ちょっとは、ちょっとよ」
ちょっとは、四十分だった。
青子は試聴機のヘッドフォンを両耳に押し当てて、目を閉じて指先で膝を、とん、とん、と叩いていた。
忉利は店の隅の丸椅子に座って、それを眺めていた。
生徒会室で判子を押している時の顔とは、違う顔だった。
眉間の皺がなかった。
口の端が少しだけ上がっていた。
三年間、放課後のどこにもなかった顔だった。
「……何、見てんのよ」
ヘッドフォンを外した青子が、こっちを睨んでいた。
「別に」
「別にって顔じゃないわよ」
「……楽しそうだなと思っただけだ」
青子は何か言い返そうとして、やめた。
それからカセットテープを一本、レジに持っていった。
洋楽の、知らないバンドの一本。
「それ、買うのかよ」
「買うわよ。……伸びるまで聴くんだから」
◇
坂の下の商店街の端。
Cafe HIKAGEの硝子窓の前を通り過ぎた。
カウンターの奥で、父が、ネルを振る手を一瞬だけ止めた。
窓際の席で問題集を広げていた晴華が、硝子にべったりと張りついていた。
何か、口を大きく動かしていた。
――デ、ー、ト。
「…………」
「…………」
二人は何も言わずに、早足で坂を上り始めた。
◇
坂の上の洋館の居間。
温め直した鯛焼きを、有珠は皿に載せて、ナイフとフォークで食べていた。
真ん中から。
縦に切って。
「……頭からでも、尻尾からでもないのね」
青子が呆れた顔で言った。
「どちらから食べても、どちらかが最後に残るわ。……可哀想でしょう」
有珠は真顔だった。
バイトから帰ってきた草十郎は、鯛焼きを手に持ったまま、じっと見下ろしていた。
それから、一口齧った。
長いこと噛んでいた。
「……日景」
「なんだよ」
「この魚には、骨がない」
「餡子の魚だからな」
「そうか。……都会の魚は、甘いんだな」
「――鯛焼きは、都会の魚じゃないわよ!」
青子の声が居間に響いた。
忉利は台所で、四人分の紅茶を淹れていた。
鯛焼きに紅茶が合うかどうかは、わからなかった。
有珠が何も言わなかったので、たぶん合っていた。
◇
その夜。
青子の部屋の扉の隙間から、小さな音が漏れていた。
知らないバンドの、知らない歌。
同じ曲が、三回巻き戻されて、三回流れた。
翌日の放課後。
チャイムが鳴ると、青子の足は、やっぱり勝手に本校舎三階へ向かいかけた。
階段の一段目で止まった。
それから、くるりと向きを変えて。
昇降口の下駄箱の前へ。
忉利が、靴を履き替えて待っていた。
「……今日は店だぞ。おれ」
「知ってるわよ。……HIKAGEまで寄り道するの」
「寄り道って言わねえだろそれ」
「言うのよ。……私が決めたの」
四回目はなかった。
シエルの小説、土曜の夜中にあげると思います。
更新ペースがどうなるかはまだわかりません。
あと、いらないこだわりですが、原作では青子は鳶丸って呼んでましたが、ここでは基本忉利以外の異性は苗字で呼ばせてます。
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