夜明けの色を見る眼   作:にんら

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放課後短編集

其の一 応援演説

 

 五月。生徒会役員選挙。

 

 蒼崎青子は、今年も、会長に立候補した。

 

 対立候補は、いなかった。いたことがなかった。

 

「……信任投票だろ。応援演説、いらねえだろ」

 

 生徒会室の窓際で、忉利が、伊達眼鏡の奥で目を細めた。

 

「いるのよ。規則で」

 

 青子は、腕を組んで、忉利を見下ろしていた。

 

「立候補者一人につき、応援演説者、一人。……去年は、槻司だったでしょ」

 

「じゃあ、今年も鳶丸でいいだろ」

 

「今年は、俺、自分の演説で手一杯だ」

 

 鳶丸が、帳簿から顔を上げずに、言った。

 

「副会長に、対立候補が出た。……芳助だ」

 

「――は?」

 

「『殿下の独裁を許すな』だとよ。公約は、購買のパンの種類を倍にする」

 

「……それ、人気出るぞ」

 

「出てる。二年の間で、けっこう」

 

 金鹿が、会計の机で、鉛筆を置いた。

 

「というわけで、会長の応援演説、日景に頼むことになったから。……もう、選管に、名前、出しといたわ」

 

「――勝手に出すな」

 

「会長の指示よ」

 

 青子は、にっこりと、笑った。

 

「頑張ってね。応援演説者さん」

 

 

◇

 

 

 その夜。Cafe HIKAGEのカウンター。

 

 忉利は、原稿用紙を前に、鉛筆を握ったまま、固まっていた。

 

「……お兄ちゃん、それ、三日前から一行も進んでないよね」

 

 中学三年の晴華が、カウンターの向こうから、身を乗り出していた。

 

「うるせえ」

 

「青子ちゃんのいいところ書けばいいんでしょ。簡単じゃん」

 

「……簡単じゃねえ」

 

「なんで? いっぱいあるでしょ」

 

「いっぱいあるから、書けねえんだよ」

 

 晴華は、目を丸くした。

 

 それから、にやあ、と笑った。

 

「……ふうん」

 

「なんだよ」

 

「なんでもなーい」

 

 カウンターの奥で、父が、ネルを振っていた。

 

 背中を向けたまま、ぼそりと、言った。

 

「……思ってることを、言え。書くな」

 

「…………」

 

「書くと、嘘が混じる」

 

 忉利は、原稿用紙を、見下ろした。

 

 それから、鉛筆を置いて、紙を、くしゃくしゃに、丸めた。

 

 

◇

 

 

 投票日。

 

 体育館に、全校生徒が、集まっていた。

 

 壇上の端の、パイプ椅子で、忉利は、伊達眼鏡を、三回、かけ直した。

 

 原稿は、なかった。

 

 書こうとして、白紙のまま、三日が過ぎた。

 

「……次、蒼崎青子さんの、応援演説です。三年C組、日景忉利さん」

 

 司会の声が、体育館に響いた。

 

 ざわ、と、女子の列が、揺れた。

 

 一月の目の色の騒ぎから、四ヶ月。噂は、とっくに、幽霊屋敷の話に上書きされたはずだった。

 

 上書きされていなかった。

 

 忉利は、壇上の中央の、マイクの前に、立った。

 

 体育館じゅうの、何百という目が、こっちを見ていた。

 

 扉を、閉じたままでも、わかる。何百本もの、好奇心の線。

 

 忉利は、息を、吸った。

 

「……蒼崎は」

 

 声が、マイクで、割れた。

 

 一歩、下がる。

 

「蒼崎は、面倒な奴です」

 

 体育館が、しんと、静まり返った。

 

 壇上の端で、青子の顔が、凍りついた。

 

「すぐ怒るし。人の話、聞かねえし。自分で全部やろうとするし。……頼んでもねえのに、前に、出る」

 

 鳶丸が、両手で、顔を覆っていた。

 

「でも」

 

 忉利は、マイクのスタンドを、握った。

 

「前に出たら、ちゃんと、最後まで、立ってる奴です」

 

「…………」

 

「誰かが倒れてたら、一番先に、走ってく。……一番、ボロボロになって、帰ってくる。それでも、次の日の朝には、また、前に出てる」

 

 忉利は、壇上の端の、青子を、見なかった。

 

「そういう奴が、会長やってる学校は。……たぶん、何があっても、大丈夫です」

 

 一礼して、マイクから、離れた。

 

「……以上」

 

 体育館が、しばらく、静まり返っていた。

 

 それから。

 

 誰かが、手を叩いた。

 

 一人。二人。十人。百人。

 

 拍手が、体育館じゅうに、広がっていった。

 

 壇上の端で、青子は、パイプ椅子に座ったまま、真っ赤な顔で、固まっていた。

 

 ちなみに、その後に続いた副会長候補の演説で、芳助は、壇上に焼きそばパンを掲げて、「このパンを、全校生徒に!」と叫んだ。

 

 体育館は、別の意味で、静まり返った。

 

 

◇

 

 

 放課後の、生徒会室。

 

「――面倒な奴って、何よ!」

 

 青子が、忉利の胸ぐらを、掴んでいた。

 

「全校生徒の前で! マイクで! 面倒な奴って!」

 

「事実だろ」

 

「すぐ怒るって!」

 

「今、怒ってんだろ」

 

「――――っ!!」

 

 青子は、胸ぐらを掴んだまま、動かなくなった。

 

 耳の先まで、真っ赤だった。

 

「……後半」

 

 小さな声だった。

 

「後半は、……なに、あれ」

 

「……事実だろ」

 

「――っ」

 

 青子は、忉利の胸に、額を、ごつんと、ぶつけた。

 

 それから、そのまま、動かなくなった。

 

 金鹿が、会計の机で、開票結果の紙を、ひらひらと振った。

 

「会長、信任率、九十八パーセント。……過去最高よ」

 

「……っ」

 

「で、副会長は」

 

 鳶丸が、窓の外を、見ていた。

 

「……芳助に、二十票差で、勝った」

 

「僅差じゃねえか」

 

「パンの種類を倍にする公約、俺も、取り入れることにした」

 

 

◇

 

 

 帰り道の、坂の途中で。

 

 青子は、忉利の少し後ろを、歩いていた。

 

 三歩。二歩。一歩。

 

 隣に、並んだ。

 

「……ありがと」

 

 小さな声だった。

 

「何が」

 

「……後半」

 

「前半は」

 

「前半は、許さない」

 

「……だろうな」

 

 青子は、忉利の脛を、軽く蹴った。

 

 それから、坂の上の洋館に着くまで、ずっと、隣を歩いた。

 

 鞄を、忉利の鞄と、ぶつけながら。

 

 

 

 

其の二 修学旅行の夜

 

 六月。京都。修学旅行の、二日目の夜。

 

 三咲高校の修学旅行は、三年の六月と決まっていた。受験が本格的になる前に、せめて思い出を、という、学校なりの気遣いらしかった。

 

 古い旅館の、男子の大部屋。

 

 布団が、十枚、並んでいた。

 

 消灯から、三十分。誰も、寝ていなかった。

 

「――で」

 

 枕を抱えた鳶丸が、布団の上で、あぐらをかいていた。

 

「日景。……蒼崎とは、どこまで行ってんだ」

 

 部屋じゅうの男子が、一斉に、忉利の方を見た。

 

 暗闇の中で、十対の目が、光っていた。

 

 忉利は、布団の上で、寝転がったまま、天井を見ていた。

 

「……どこまでって、何だよ」

 

「とぼけんな。もう半年、坂の上の屋敷で、一つ屋根の下だろ」

 

「有珠もいる。静希もいる」

 

「で、どこまでだ」

 

「……どこにも、行ってねえよ」

 

「嘘つけ」

 

「嘘じゃねえ」

 

 同じクラスの、野球部の佐伯が、布団から身を乗り出した。

 

「じゃあ訊くけどよ。……毎朝、二人で、坂、下りてくるよな」

 

「同じ家から出てんだから、当たり前だろ」

 

「蒼崎の弁当、お前が作ってんだろ」

 

「……有珠のも、静希のも作ってる」

 

「蒼崎のだけ、今でも、お前のと、包みの布まで同じなんだってな。藍色の」

 

「…………」

 

「今でもなんだな!?」

 

 部屋が、どっと、沸いた。

 

 忉利は、枕に、顔を埋めた。

 

 芳助が、布団の上で、正座になった。

 

「じゃあ、手とか、繋いだことないんすか」

 

「…………」

 

「あるんすね!?」

 

「……数えてねえ」

 

「数えてねえほど!?」

 

「そういう意味じゃねえ」

 

 部屋じゅうが、また、沸いた。

 

 旧校舎の夜。音楽室の冷たい床の上で、死にかけた青子の手を、握った。夜明け前、手を引かれて、空に浮かんだ時も。春先の、雪の残る山道でも。

 

 どれを、「手を繋いだ」と数えていいのかは、わからなかった。

 

 だから、数えたことは、なかった。

 

「じゃ、じゃあ、キスは!?」

 

「――してねえよ!」

 

 初めて、忉利の声が、大きくなった。

 

 部屋が、一瞬、しんとした。

 

 それから、もっと大きく、沸いた。

 

「声、でけえ!」

 

「動揺してんじゃねえか、日景!」

 

「してねえって言ってんだろ!」

 

「『してねえ』と『したくねえ』は、違うっすよね」

 

「――芳助、てめえ」

 

 鳶丸が、枕を抱えたまま、手を上げて、場を制した。

 

 妙に、真面目な顔だった。

 

「一個だけ、訊く」

 

「……なんだよ」

 

「好きなのか」

 

 部屋が、静まり返った。

 

 十対の目が、暗闇の中で、じっと、忉利を見ていた。

 

 忉利は、天井を見ていた。

 

 長いこと、何も、言わなかった。

 

「……言わねえ」

 

 それだけだった。

 

 部屋が、爆発した。

 

「――言わねえってことは!」

 

「言わねえってことは、そういうことだろ!」

 

「日景が! あの日景が!」

 

 佐伯が、布団の上で転げ回っていた。芳助が、枕を天井に投げていた。

 

 鳶丸だけが、あぐらをかいたまま、少しだけ、笑っていた。

 

「……去年の冬」

 

 騒ぎの中で、鳶丸が、ぽつりと、言った。

 

 忉利にだけ、聞こえる声で。

 

「お前ら二人、ボロボロになって、学校に来た日があったろ。……何があったかは、訊かねえけど」

 

「…………」

 

「あの日から、お前、蒼崎の方ばっかり、見てるぞ。自分で、気づいてねえだろうけど」

 

 忉利は、何も、言い返せなかった。

 

 部屋の隅の、窓際の布団で。

 

 草十郎が、正座したまま、真顔で、手を上げた。

 

「質問がある」

 

「……なんだよ、草の字」

 

「日景。……手を繋ぐのは、どこまでの、どのあたりだ」

 

「――お前は、黙ってろ」

 

「それから、木乃美」

 

「え、オレっすか」

 

「さっき、枕を投げる前に、木乃実にも好きな人がいると、言っていた。……誰だ」

 

 部屋じゅうの目が、一斉に、芳助に、向いた。

 

「――え、いや、それは、ちょっと」

 

「誰だ」

 

「静希くん、そういうの、真顔で訊くもんじゃないっす!」

 

 標的が、移った。

 

 忉利は、枕に顔を埋めたまま、心の底から、草十郎に、感謝した。

 

 

◇

 

 

 同じ頃。

 

 女子の大部屋。

 

「――で、会長」

 

 金鹿が、布団の上で、枕を抱えていた。

 

「日景とは、どこまで行ってるの」

 

 部屋じゅうの女子が、一斉に、青子の方を見た。

 

 暗闇の中で、十何対の目が、光っていた。

 

「……ど、どこまでって、何よ」

 

「とぼけないで。もう半年、一つ屋根の下でしょ」

 

「有珠がいるわ。静希くんもいるわ」

 

「で、どこまで」

 

「――どこにも、行ってないわよ!」

 

「嘘」

 

「嘘じゃない!」

 

 隣のクラスの、宮下が、布団から這い出してきた。

 

「会長。……勉強会の時、日景くんの眼鏡、かけてるって、本当ですか」

 

「――っ、か、借りてるだけよ!」

 

「借りてるんだ……」

 

「毎日……」

 

「……毎日じゃないわよ! 勉強会の時だけ!」

 

「勉強会、毎週やってるって、聞きましたけど」

 

「誰から!?」

 

「静希くんから」

 

「――――っ、静希くん!!」

 

 金鹿は、枕の上に顎を乗せて、じっと、青子を見ていた。

 

「……選挙の応援演説。全校生徒の前で、『最後まで、立ってる奴です』って、言われてたわよね」

 

「――っ」

 

「帰り道、鞄、ぶつけながら歩いてたわよね。坂の上まで、ずっと」

 

「な、なんで、知ってるのよ!」

 

「みんな見てるわよ。あの坂、通学路だもの。……会長、有名よ」

 

「――――っ!!!」

 

 青子は、布団を、頭から、被った。

 

 布団の中から、くぐもった声がした。

 

「……有名なの」

 

「有名よ」

 

「三年の間で」

 

「二年の間でも」

 

「…………」

 

「先生たちの間でも、たぶん」

 

「――――っ!!!!」

 

 布団の中で、何かが、じたばたと、暴れていた。

 

 女子たちが、きゃあきゃあと、笑っていた。

 

 宮下が、布団の山を、つんつんと、つついた。

 

「会長。……日景くんの、どこが、好きなんですか」

 

 布団の中の動きが、ぴたりと、止まった。

 

「……好きなんて、言ってないでしょ」

 

「じゃあ、嫌いなんですか」

 

「嫌いじゃないわよ!」

 

「じゃあ」

 

「――っ、誘導尋問やめなさい!」

 

 部屋じゅうが、転げ回って、笑っていた。

 

 金鹿だけが、笑わずに、布団の山を、見ていた。

 

 少しだけ、声を、落とした。

 

「……会長」

 

「…………」

 

「去年の冬から。……顔が、変わったわよ」

 

 布団の山が、動かなくなった。

 

「前は、いつも、一人で、全部、背負ってる顔してた。……生徒会室で、書類に判子押してる時も、窓の外、見てる時も」

 

「…………」

 

「今は、違う。……日景が、生徒会室に来ると。ちょっとだけ、肩の力が、抜けてる」

 

 女子たちの笑い声が、少しずつ、止んでいった。

 

 布団の山から、しばらく、何も、聞こえなかった。

 

 それから。

 

 布団の端から、真っ赤な顔が、目だけ、覗いた。

 

「……わかんないのよ」

 

 小さな声だった。

 

「どこが、とか。いつから、とか。……わかんない」

 

「…………」

 

「ただ」

 

 青子は、布団の端を、ぎゅっと、握った。

 

「……あいつがいない朝が、想像できないの。もう」

 

 部屋が、しんと、静まり返った。

 

 それから、次の瞬間。

 

 女子の大部屋が、爆発した。

 

「――――きゃああああ!!」

 

「会長!!」

 

「今の!! 今の、答えですよね!!」

 

「言ってない! 今のは、言ってないの!!」

 

「言いました!!」

 

「――聞かなかったことにしなさい!! 会長命令よ!!」

 

 青子は、布団を、また、頭から被った。

 

 金鹿は、枕に顔を埋めて、肩を震わせていた。

 

 笑っているのか、何なのか、わからなかった。

 

「……それ、答えよ。会長」

 

 布団の山に向かって、小さく、言った。

 

 壁一枚、向こうの男子の大部屋からも、同じような騒ぎが、聞こえていた。

 

 廊下の向こうで、山城先生が、懐中電灯を持って、深い溜息をついていた。

 

 

◇

 

 

 その日の昼間のことを、青子は、布団の中で、思い出していた。

 

 清水寺の、奥の、小さな神社。

 

 恋占いの石、というのがあった。十メートルほど離れた二つの石の間を、目を閉じて歩いて、辿り着ければ、恋が叶う、という。

 

 金鹿に、背中を押された。

 

「会長。やってきなさいよ」

 

「い、いいわよ、私は」

 

「生徒会長が、逃げるの?」

 

「――逃げてないわよ!」

 

 目を閉じて、歩き出した。

 

 三歩で、方向が、わからなくなった。

 

 五歩で、人にぶつかりかけた。

 

 その時。

 

「……右」

 

 声が、した。

 

 ぶっきらぼうな、低い声。

 

「……もうちょい、左。……そのまま、まっすぐ。……三歩」

 

 青子は、目を閉じたまま、その声のとおりに、歩いた。

 

 右。少し左。まっすぐ。三歩。

 

 指先が、冷たい石に、触れた。

 

 目を開けると、石の脇に、夏服のシャツの袖をまくって、ズボンのポケットに両手を突っ込んだ忉利が、そっぽを向いて、立っていた。

 

「……な、なんで、あんたが、ここにいるのよ」

 

「班、隣だった」

 

「――っ、それで、なんで、案内してんのよ!」

 

「人にぶつかりそうだったからだ」

 

 石の周りの、他校の女子たちが、きゃあ、と、黄色い声を上げていた。

 

 金鹿が、少し離れたところで、額を押さえていた。

 

「……人に助けてもらって辿り着いたら、恋も、人の助けで叶うって、書いてあるわよ。そこの札に」

 

「――――っ!!」

 

 青子は、布団の中で、もう一度、頭まで、布団を被った。

 

 

◇

 

 

 午前一時。

 

 旅館の、廊下の、突き当たりの、自動販売機の前。

 

 青子は、旅館の浴衣の上に、薄いカーディガンを羽織って、立っていた。

 

 眠れなかった。

 

 硬貨を入れて、ボタンを押そうとして。

 

 押す前に、隣に、気配がした。

 

「……何飲むんだよ」

 

「――っ!」

 

 忉利だった。

 

 旅館の浴衣の帯を、だらしなく結んで。

 

「……なんで、いるのよ」

 

「眠れねえ」

 

「……私も」

 

 二人は、自動販売機の、青白い明かりの中に、並んで立っていた。

 

「……鳶丸に、根掘り葉掘り、訊かれた」

 

「……金鹿に、根掘り葉掘り、訊かれた」

 

「何て答えた」

 

「……どこにも行ってないって。……それから、ちょっとだけ、余計なこと」

 

「余計なこと?」

 

「……言わない」

 

「…………」

 

「あんたは」

 

「どこにも行ってねえって。……それから、好きかって訊かれて、言わねえって言った」

 

「――それ、言ってるのと同じじゃない!」

 

「……部屋じゅうに、そう言われた」

 

「当たり前でしょ!」

 

「で、お前の余計なことは」

 

「――言わないって言ってるでしょ!!」

 

 自動販売機の青白い明かりの中で、青子の顔が、真っ赤だった。

 

 青子は、ボタンを、押した。

 

 冷たい、細長い缶の、ミルクティーが、落ちてきた。

 

 忉利も、ボタンを押した。

 

 冷たい、細長い缶の、珈琲。

 

「……甘いやつじゃない、それ」

 

「これで、いい」

 

 その時。

 

 廊下の、向こうの、角から。

 

 懐中電灯の光が、ゆらりと、揺れた。

 

「――見回りだ」

 

「山城先生……!」

 

 足音が、近づいてくる。

 

 二人は、顔を見合わせた。

 

 それから、同時に、自動販売機の脇の、布団部屋の、引き戸を、開けた。

 

 中に、飛び込んだ。

 

 引き戸を、閉めた。

 

 真っ暗だった。

 

 積み上げられた、予備の布団の、隙間。

 

 二人が、ぎりぎり、立っていられるくらいの。

 

 青子の背中が、布団の山に、押しつけられていた。

 

 忉利の胸が、すぐ、目の前にあった。

 

 顔が、近かった。

 

 息が、かかるほど。

 

 廊下を、懐中電灯の光が、通り過ぎていく。引き戸の隙間から、細い光の筋が、青子の顔を、一瞬だけ、照らした。

 

 真っ赤だった。

 

 光が、遠ざかっていった。

 

 足音が、消えた。

 

 それでも、二人とも、動かなかった。

 

「……行ったぞ」

 

 忉利の声が、すぐ耳元で、した。

 

「……わかってるわよ」

 

「出るか」

 

「……もうちょっと」

 

「……は?」

 

「もうちょっと、待った方が、いいわよ。……戻ってくるかもしれないし」

 

 忉利は、何も言わなかった。

 

 動かなかった。

 

 暗闇の中で、二人の手の中の缶が、汗をかいていた。

 

「……ねえ」

 

「ん」

 

「……手、繋いだことあるかって。……そっちでも、訊かれた?」

 

「訊かれた」

 

「なんて、答えたの」

 

「数えてねえって」

 

 青子は、暗闇の中で、少しだけ、黙った。

 

「……私は、数えてるけど」

 

「は?」

 

「なんでもない」

 

 それから、缶を持っていない方の手で、忉利の手を、探した。

 

 見つけた。

 

 指を、絡めた。

 

「……何回目だよ」

 

「教えない」

 

 忉利は、それ以上、訊かなかった。

 

 ただ、絡められた指を、握り返した。

 

 十分後、二人が布団部屋から出た時、自動販売機の前に、懐中電灯を持った山城先生が、腕を組んで、立っていた。

 

「……反省文、二枚ずつ」

 

「「――はい」」

 

 

 

 

其の三 期末テスト前夜

 

 七月。一学期、期末テストの三日前。

 

 坂の上の洋館の、居間。

 

 樫の大机の上に、教科書と、問題集と、ノートが、山になっていた。

 

「――はい、次。静希くん。数学の三番」

 

 青子が、眼鏡をかけて、赤鉛筆を構えていた。

 

 今日も、忉利の黒縁の伊達眼鏡だった。春休みに、書庫で「蒼崎先生」をやって以来、勉強会の時だけ、勝手に持っていくようになった。

 

「……先生って、呼んだ方がいいのか」

 

「呼びなさい」

 

「呼ばねえ」

 

「……あおあおせんせーって呼んだら、殴るから」

 

「呼んでねえだろ、まだ」

 

「まだ、って何よ!」

 

「――とにかく。関数 f(x) の最大値を求めよ」

 

 草十郎は、問題集を、じっと、見下ろしていた。

 

 長いこと。

 

「……最大値は」

 

「最大値は?」

 

「その関数が、いちばん、上にいる時だ」

 

「――それは、そうよ! だから、それがいくつかって訊いてるの!」

 

「そうか。……山の頂に、似ている。登ってみないと、高さは、わからない」

 

「計算で、わかるのよ! 登らなくても!」

 

 有珠が、窓際の椅子で、紅茶を飲んでいた。

 

「……静希君の言い方、嫌いじゃないわ」

 

「有珠は、黙ってて!」

 

 

◇

 

 

 一時間後。

 

 忉利は、机に突っ伏して、眠っていた。

 

 英語の長文の、三行目で。

 

「……ちょっと」

 

 青子が、赤鉛筆で、忉利の頭を、つついた。

 

「起きなさいよ。あんた、英語、一番やばいでしょ」

 

「……起きてる」

 

「寝てるわよ」

 

「……目、閉じてるだけだ」

 

「それを寝てるって言うの!」

 

 忉利は、机から顔を上げた。

 

 伊達眼鏡のない、灰色の、縁の青い目が、半分だけ、開いていた。

 

「……昨日、店で、夜中まで、焙煎の練習してた」

 

「知ってるわよ。……でも、だからって、ここで寝ていいとは、言ってないでしょ」

 

「……ちょっとだけ」

 

「だめ」

 

「……五分」

 

「だめだって――」

 

 忉利の頭が、ゆっくりと、横に、傾いた。

 

 隣の、青子の右の肩の上に。

 

 こつん、と。

 

 青子の赤鉛筆が、止まった。

 

「…………」

 

 寝息が、聞こえた。

 

 青子は、動けなかった。

 

 肩の上に、忉利の頭の重み。珈琲の匂いのする、髪。

 

 顔が、見る見るうちに、赤くなっていった。

 

「……ちょ、ちょっと」

 

 小さな声だった。

 

「……起きなさいよ」

 

 起きなかった。

 

 窓際で、有珠が、紅茶のカップを、ゆっくりと、受け皿に戻した。

 

「……五分、あげたら?」

 

「――っ、有珠!」

 

「英語の長文は、明日でも、できるわ」

 

 草十郎が、問題集から、顔を上げた。

 

「蒼崎。……その体勢だと、数学の四番が、教えられないのではないか」

 

「――静希くんは、自分で、解きなさい!」

 

「そうか」

 

 草十郎は、問題集に、目を戻した。

 

 それから、ぽつりと、言った。

 

「……最大値は、今の蒼崎の顔の、赤さに似ている」

 

「――――っ!!!」

 

 

◇

 

 

 三十分後。

 

 五分では、なかった。

 

 青子は、肩を動かさないまま、左手だけで、器用に、赤鉛筆を動かしていた。

 

 草十郎の数学の答案に、丸を、つけていた。

 

「……五番、正解」

 

「そうか」

 

「六番も、正解」

 

「そうか」

 

「……静希くん、なんで、急に、できるようになったの」

 

「蒼崎が、静かになったから、集中できた」

 

「――どういう意味よ!」

 

「声が、小さくなった。……日景が、起きないように」

 

 青子は、何も言い返せなかった。

 

 肩の上の、忉利の頭を、ちらりと見た。

 

 寝顔だった。

 

 いつもの、気だるげな、眠たげな顔の、そのまま眠った顔。

 

 ほんの少しだけ、口が、開いていた。

 

「……ばか」

 

 小さく、呟いた。

 

 それから、赤鉛筆を置いて。

 

 肩を動かさないまま、左手で、そっと、忉利の前髪を、よけた。

 

 窓際で、有珠が、何も言わずに、窓の外を見ていた。

 

 見ないふりを、していた。

 

 それから、さらに三十分。忉利が、ようやく、目を覚ました。

 

 肩の上で、頭を、ゆっくりと、持ち上げる。

 

 寝ぼけた目で、隣の青子を見た。

 

「……悪い。寝てた」

 

「……知ってるわよ」

 

「肩、痛くねえか」

 

「痛いわよ」

 

「……悪い」

 

「……一時間分、英語の長文、今から、やりなさい」

 

「今からかよ」

 

「今からよ。……肩の分」

 

 忉利は、欠伸を噛み殺しながら、英語の問題集を、開いた。

 

 青子は、右の肩を、そっと、左手で、さすっていた。

 

 痛いと言いながら、少しだけ、名残惜しそうに。

 

 三日後の、英語の期末テスト。

 

 忉利の点数は、三十二点だった。

 

 赤点の線の、二点上だった。

 

「――二点! 二点よ!? あと二点で、夏休み、補習だったのよ!?」

 

 返却の日の放課後、生徒会室で、青子が、答案を握りしめて、叫んでいた。

 

「赤点じゃねえだろ」

 

「ぎりぎりでしょ! だから、あの日、寝ちゃだめって言ったのに!」

 

「……寝かせたの、お前だろ」

 

「――っ、寝かせてない! 勝手に寝たのよ!」

 

「一時間、肩、動かさなかったって、有珠が言ってたぞ」

 

「――――っ!!」

 

 鳶丸が、帳簿から顔を上げずに、言った。

 

「……一時間か」

 

「言わないで!」

 

 

 ちなみに、草十郎の数学は、九十二点だった。

 

 

 

 

其の四 下駄箱の手紙

 

 九月。二学期が始まって、三日目の朝。

 

 三年C組の、下駄箱の前で、忉利は、固まっていた。

 

 上履きの上に、封筒が、一通、置かれていた。

 

 薄い、桜色の封筒。丸い、女の子らしい字で。

 

 ――日景先輩へ。

 

「……先輩」

 

 後ろから、覗き込んだ鳶丸が、口笛を吹いた。

 

「一年だな、これ。……目の色の件、新入生にまで、回ってんのか」

 

「知らねえよ」

 

「どうすんだ」

 

「……どうもしねえよ」

 

 忉利は、封筒を、鞄の中に、しまった。

 

 その、三メートル後ろで。

 

 生徒会長が、下駄箱の陰から、じっと、それを見ていた。

 

 

◇

 

 

 その日、休み時間のたびに、三年C組の前の廊下を、隣のクラスの生徒会長が、用もないのに、通り過ぎた。

 

 一時間目の後。二時間目の後。三時間目の後。

 

「……蒼崎が、また、廊下を通った」

 

 廊下側の席の草十郎が、真顔で、報告した。

 

「三回目だ。……生徒会の見回りは、一日に一回ではなかったか」

 

「知らねえよ」

 

「日景の方を、見ていた」

 

「……知らねえって」

 

 四時間目の始業のチャイムが鳴っても、廊下の柱の陰から、腕章をつけた生徒会長の頭の先が、ほんの少しだけ、はみ出していた。

 

 教科書を抱えて歩いてきた山城先生が、その柱の前で、足を止めた。

 

「……蒼崎さん。チャイム、鳴りましたよ」

 

「――っ、み、見回りです!」

 

「見回りは、結構です。……あなたの四時間目は、隣の教室で、数学でしょう」

 

 柱の陰の頭が、引っ込んだ。上履きの足音が、ばたばたと、隣の教室へ遠ざかっていった。

 

 開け放した戸口から一部始終を見ていた三年C組じゅうが、どっと、沸いた。

 

 忉利は、机に突っ伏した。

 

 

◇

 

 

 昼休み。

 

 青子は、生徒会室で、弁当を、食べていなかった。

 

 箸を、握ったまま、窓の外の、校庭を、睨んでいた。

 

「……会長。弁当、冷めるわよ」

 

 金鹿が、呆れた顔で、言った。

 

「冷めない。最初から、冷たいもの」

 

「そういう意味じゃなくて」

 

「……金鹿」

 

「なに」

 

「桜色の封筒って。……一年の女子の間で、流行ってるの?」

 

 金鹿は、瞬きをした。

 

 それから、帳簿を閉じて、深い、深い、溜息をついた。

 

「……見たのね」

 

「見てない」

 

「見たのね」

 

「――見てないって、言ってるでしょ!」

 

 青子の箸が、弁当の卵焼きを、真っ二つに、した。

 

 忉利が、毎朝、四人分焼いている、卵焼きの一切れだった。

 

 

◇

 

 

 放課後。

 

 校舎裏の、銀杏の木の下。

 

 一年の女子が、一人、立っていた。

 

 小柄で、おさげで、両手を、胸の前で、握りしめて。

 

 忉利が、その前に、立っていた。

 

 手に、桜色の封筒。

 

「……読んだ」

 

「は、はいっ」

 

「ありがとな」

 

 女子の顔が、ぱっと、明るくなった。

 

「じゃ、じゃあ――」

 

「悪い」

 

 忉利は、言った。

 

「隣、埋まってるから」

 

 女子の顔が、固まった。

 

 それから、少しだけ、泣きそうな顔になって。

 

 それから、なぜか、ふっと、笑った。

 

「……知ってました」

 

「……は?」

 

「生徒会長さん、ですよね。……みんな、知ってます」

 

 女子は、ぺこりと、頭を下げた。

 

「でも、言いたかったんです。……先輩の、目の色、すごく、きれいだったから」

 

 女子は、走っていった。

 

 おさげを、揺らして。

 

 忉利は、その背中を、しばらく、見送っていた。

 

 それから、振り返らずに、言った。

 

「……出てこいよ」

 

 銀杏の木の、反対側から。

 

 がさ、と、音がした。

 

「――っ、な、なんで、わかったのよ」

 

「線、見なくても、わかる。……お前の気配くらい」

 

 青子が、木の陰から、出てきた。

 

 真っ赤な顔で。

 

「……隣、埋まってるって」

 

「言った」

 

「……誰で」

 

「わかってて訊くな」

 

「――っ、わかんないわよ! 言いなさいよ!」

 

「言わねえ」

 

「なんでよ!」

 

「……恥ずかしいからだ」

 

 青子は、口を、開けたまま、固まった。

 

 忉利は、そっぽを向いて、首の後ろを、掻いていた。

 

 耳の先が、赤かった。

 

 銀杏の葉が、一枚、二人の間に、ひらりと、落ちた。

 

「……卵焼き」

 

 青子が、ぽつりと、言った。

 

「真っ二つに、しちゃった。……昼に」

 

「なんでだよ」

 

「……知らない」

 

 翌朝。

 

 屋敷の食堂で、青子の弁当箱を開けると、卵焼きが、二切れ、入っていた。

 

 いつもは、一切れなのに。

 

 片方は、砂糖の多い方だった。いつもなら、有珠の弁当にしか入らない、甘い一切れ。

 

「……なに、これ」

 

 台所から、忉利の声がした。

 

「真っ二つにしたんだろ。……一個じゃ、足りねえかと思って」

 

「――っ、そ、そういう意味で割ったんじゃないわよ!」

 

「じゃあ、どういう意味だよ」

 

「……知らない!」

 

 窓際で、有珠が、自分の弁当箱を覗き込んでいた。

 

 甘い一切れは、ちゃんと、そこにも入っていた。

 

「……甘い方は、わたしの分のはずだけれど」

 

「今日だけだ」

 

「……そう」

 

 有珠は、紅茶を一口飲んで、カップを、受け皿に戻した。

 

「朝から、胸焼けがするわ」

 

 

 

 

其の五 文化祭の喫茶店

 

 十月。三咲高校、文化祭。

 

 三年C組の出し物は、喫茶店だった。

 

 満場一致だった。

 

 理由は、一つだった。

 

「――日景がいれば、本物の喫茶店が出来る」

 

 鳶丸が、黒板に、でかでかと書いた。

 

 忉利は、机に突っ伏していた。

 

「……おれ、客で回りてえんだけど」

 

「却下」

 

「なんでだよ」

 

「三年だぞ。最後の文化祭だ。……クラスの売り上げ、学年一位、取りに行く」

 

 

◇

 

 

 当日。

 

 教室は、机を並べ替えて、白い布を掛けて、それらしくなっていた。黒板には、芳助が描いた、妙に上手い、湯気の立つカップの絵。

 

 教室の後ろの、窓際の一角が、厨房だった。

 

 忉利が、父から借りてきた、店の古いネルと、ミルと、携帯用の焜炉を、並べていた。

 

「――いらっしゃいませ」

 

 入り口で、草十郎が、平坦な声で、客を迎えていた。

 

 ブレザーを脱いだ白いシャツの上に、白いエプロン。背筋が、まっすぐで。

 

 立ち姿だけなら、十年はここに立っている給仕のようだった。

 

「……静希くん、もうちょっと、笑顔で」

 

「笑顔は、苦手だ」

 

「口角、上げるだけでいいから」

 

「こうか」

 

「――怖い! それ、怖い!」

 

 開店から、一時間で、行列ができた。

 

 廊下の、端まで。

 

 噂が、回っていた。三年C組で、本物の喫茶店の息子が、本物の珈琲を、ネルで淹れているらしい、と。

 

 それから、別の噂も。

 

 ――目の色で有名な、日景先輩が、珈琲淹れてるらしい。

 

 行列の八割が、女子だった。

 

 

◇

 

 

「――ちょっと、忉利!」

 

 昼過ぎ、生徒会の見回りの腕章をつけた青子が、厨房に、飛び込んできた。

 

「行列、廊下の、階段まで、はみ出してるのよ! 消防法! 避難経路!」

 

「知らねえよ。……淹れるの、追いつかねえんだよ」

 

「一杯ずつ、ネルで淹れてるからでしょ! まとめて淹れなさいよ!」

 

「まとめて淹れたら、味が落ちる」

 

「――っ、そういう職人気質、今、いらないの!」

 

 青子は、腕を組んで、厨房を、見回した。

 

 忉利の手元。草十郎の入り口。芳助の、配膳の、危なっかしい手つき。

 

 それから、深い溜息をついて、腕章を、外した。

 

「……手伝うわ」

 

「は?」

 

「注文、取ってあげる。……校内の行列一つ、生徒会長が捌けないなんて、格好悪いもの」

 

 青子は、厨房の隅にかかっていた、予備の白いエプロンを、手に取った。

 

 身体に当てて、紐を、後ろで結ぼうとした。

 

 うまく、結べなかった。

 

「……結んでやる」

 

「い、いいわよ!」

 

「後ろ、向け」

 

 忉利は、ネルを置いて、青子の後ろに、回った。

 

 エプロンの紐を、手に取る。

 

 青子の腰の後ろで、きゅっと、蝶結びに、した。

 

 教室の中が、一瞬、静まり返った。

 

 行列の、女子たちの。

 

 何十本もの、視線が。

 

 二人に、集中していた。

 

「……っ」

 

 青子の耳が、見る見るうちに、赤くなっていった。

 

「――は、はい、次の方! ご注文は!」

 

 真っ赤な顔のまま、青子は、入り口の方へ、大股で歩いていった。

 

 行列の先頭の一年女子が、青子の顔を見て、小さく、呟いた。

 

「……会長、彼氏さんに、エプロン、結んでもらってた」

 

「――彼氏じゃない!」

 

「え、違うんですか」

 

「……ち、違わ――ない、けど、違うの!」

 

「どっちですか」

 

「ご注文は!!」

 

 

◇

 

 

 午後三時。

 

 行列の中に、見覚えのある顔が、二つ、並んでいた。

 

「――お兄ちゃん! 来たよ!」

 

 中学三年の晴華が、手を振っていた。

 

 その隣に、父が、立っていた。

 

 いつもの無愛想な顔で。店のエプロンを、外しもせずに。

 

「……なんで、来てんだよ。店は」

 

「臨時休業! お父さんが、貼り紙、書いたの。『本日、息子の店に、偵察に行くため、休業』って」

 

「――嘘だろ」

 

「ほんとだよ。商店街の人たち、みんな、笑ってた」

 

 父は、何も言わずに、窓際の席に、座った。

 

 晴華が、その隣に、座った。

 

 草十郎が、注文を取りに行った。

 

「いらっしゃいませ。……日景さん」

 

「ブレンド。……二つ。俺のと、晴華の」

 

 厨房で、忉利は、ネルを、握りしめていた。

 

 手が、少しだけ、震えていた。

 

 行列の女子たちよりも。生徒会長よりも。

 

 この客が、いちばん、怖かった。

 

 湯を、細く。粉が、膨らむ。

 

 二杯。

 

 草十郎が、運んでいった。

 

 父は、カップを持ち上げて、香りを嗅いだ。

 

 一口。

 

 教室の中の、行列の女子たちまで、なぜか、息を詰めて、それを見ていた。

 

「……十秒」

 

 父が、言った。

 

「蒸らしが、十秒、短い。……急いでるな」

 

「行列が、階段まであんだよ」

 

「なら、行列を、待たせろ」

 

 父は、もう一口、飲んだ。

 

 それから、晴華の頭に、ぽんと、手を置いて、立ち上がった。

 

 代金を、机の上に、置いた。

 

 ちょうど、二杯分。

 

 教室を出ていく時、入り口で注文を取っていた青子の横を、通り過ぎた。

 

 ほんの一瞬だけ、足を止めた。

 

「……青子ちゃん」

 

「は、はい」

 

「エプロン、似合ってる」

 

 それだけ言って、出ていった。

 

 青子は、注文票を持ったまま、固まった。

 

 厨房で、忉利が、ネルを、取り落としかけた。

 

 

◇

 

 

 夕方。

 

 最後の客が、帰っていった後。

 

 教室に、一人だけ、客が、残っていた。

 

 黒い服。長い髪。白い、硝子細工のような顔。

 

 有珠だった。

 

 学校の生徒では、なかった。けれど、文化祭は、一般公開だった。

 

 有珠は、窓際の席に、座っていた。

 

「……紅茶は、ないの」

 

「ねえよ。珈琲の店だ」

 

「そう。……なら、一杯」

 

 忉利は、ネルを振った。

 

 有珠の前に、置いた。

 

 有珠は、一口飲んで、少しだけ、目を閉じた。

 

「……苦いわ」

 

「知ってる」

 

「でも、今日の一杯は、いつもより、少しだけ、甘いわね」

 

 有珠は、厨房の隅で、エプロンを外しかけている青子を、ちらりと見た。

 

 青子は、まだ、耳が赤いままだった。

 

「……何か、いいことが、あったのかしら」

 

「……知らねえよ」

 

 三年C組の喫茶店は、学年一位を、取った。

 

 売り上げの半分は、忉利の珈琲だった。

 

 残りの半分は、よそのクラスなのに、真っ赤な顔で注文を取り続けた、生徒会長の、功績だった。

 

 

 

 

其の六 何もない放課後

 

 一九九一年、一月。三学期が始まって、一週間。

 

 放課後のチャイムが鳴ると、蒼崎青子の足は、勝手に、本校舎三階の、端の部屋へ向かう。

 

 三年間、そうだった。

 

 階段を上がって。廊下を突き当たりまで歩いて。扉の取っ手に、手を掛けて。

 

 がらり、と開けた。

 

 会長席に座っていた二年生の女子が、判子を持ったまま、顔を上げた。

 

「……あ、蒼崎先輩。何か、ご用ですか」

 

「…………」

 

 秋に代替わりした、新しい会長だった。

 

 副会長の席にも、会計の席にも、新しい顔が並んでいた。帳簿をめくる手が、全部、止まっていた。

 

「……なんでもないわ。間違えたの」

 

 青子は、扉を、そっと、閉めた。

 

 廊下の壁に、忉利が、寄りかかっていた。

 

 鞄を肩に担いで、伊達眼鏡の奥で、目を細めて。

 

「三回目だぞ。今週」

 

「……数えないでよ」

 

 

◇

 

 

 昇降口で、靴を履き替えながら、青子は、深い溜息をついた。

 

「……わかんないのよ」

 

「何が」

 

「放課後って、何するものなの」

 

 忉利は、下駄箱の扉を閉める手を、止めた。

 

「……帰るもんだろ」

 

「帰っても、することないじゃない。静希くんはバイトだし、有珠は書庫だし」

 

「勉強でもしろよ」

 

「受験しないもの、私」

 

「おれもしねえよ」

 

 三年間。放課後は、毎日、生徒会室だった。書類に判子を押して、予算の数字を睨んで、揉め事の後始末をして。気がつくと、窓の外が暗くなっていた。

 

 それが、秋から、全部、なくなった。

 

「……手持ち無沙汰って、こういうのを言うのね」

 

 青子は、自分の両手を、じっと、見下ろした。

 

 判子を持っていない手だった。

 

 忉利は、しばらく、それを眺めていた。

 

 それから、鞄を担ぎ直した。

 

「寄り道でもするか」

 

「……寄り道?」

 

 青子は、顔を上げた。

 

「下校途中の寄り道は、校則違反よ。生徒手帳の、十四ページ」

 

「覚えてんのかよ」

 

「取り締まる側だったもの」

 

「もう、会長じゃねえだろ」

 

「…………」

 

 青子は、口を開けて。

 

 閉じて。

 

 もう一度、開けた。

 

「……それも、そうね」

 

 

◇

 

 

 商店街の入り口の、鯛焼き屋の前で、二人は、並んで、鯛焼きを齧った。

 

 青子は、頭から。

 

 忉利は、尻尾から。

 

「……なんで、尻尾からなのよ」

 

「頭から食ったら、最後に尻尾だけ残るだろ。寂しいじゃねえか」

 

「尻尾から食べたら、最後に、頭と目が合うじゃない。そっちの方が、嫌よ」

 

「目、合わせなきゃいいだろ」

 

「合っちゃうのよ。……ほら、あんたの、もう、こっち見てる」

 

 忉利の手の中で、半分になった鯛焼きが、つぶらな目で、青子を見上げていた。

 

「…………」

 

 忉利は、黙って、頭を、一口で、食べた。

 

「――あ、ずるい!」

 

「何がだよ」

 

「目、合うの、嫌だったんでしょ。今の」

 

「腹、減ってただけだ」

 

 鯛焼き屋の親父さんが、鉄板の向こうで、肩を震わせていた。

 

 青子は、包みを、もう一つ、買い足した。

 

「……有珠と、静希くんの分よ」

 

「冷めるぞ」

 

「温め直してくれるでしょ。あんたが」

 

 

◇

 

 

 本屋の、雑誌の棚の前。

 

 青子は、音楽雑誌を、立ち読みしていた。

 

 外国のバンドの、来日公演の記事。ライブハウスの、今月の予定表。

 

 忉利は、隣の、料理の棚の前で、珈琲の本を、めくっていた。

 

 二人とも、五分で、店の奥のおばあさんに、はたきで、追い払われた。

 

「……三年間、立ち読みするなって、注意してた側なのに」

 

 店の外で、青子は、ぼそりと、言った。

 

「おれは、されてた側だ」

 

「知ってるわよ。……あんた、二年の時、ここで三回、見回りの先生に捕まったでしょ。あれ、場所を教えたの、私よ」

 

「お前だったのかよ」

 

 硝子戸が、がらりと開いて、単語帳を握りしめた芳助が、顔を出した。

 

「――あ! 会長と日景が、寄り道してる!!」

 

「元、会長な」

 

「元でも、寄り道は寄り道っす! オレ、来週、試験なのに! 二人で、鯛焼きなんか!」

 

「お前の分は、ねえぞ」

 

「殿下に言いつけてやるっすー!」

 

 芳助は、単語帳を振り回しながら、店の中に、戻っていった。

 

 たぶん、参考書の棚の陰で、閉店まで、粘るつもりだった。

 

 

◇

 

 

 レコード屋の店先で、青子の足が、止まった。

 

 硝子戸の向こうの、カセットテープの棚。

 

「……ちょっとだけ」

 

「ちょっとって、どのくらいだ」

 

「ちょっとは、ちょっとよ」

 

 ちょっとは、四十分だった。

 

 青子は、試聴機のヘッドフォンを両耳に押し当てて、目を閉じて、指先で、膝を、とん、とん、と叩いていた。

 

 忉利は、店の隅の、丸椅子に座って、それを、眺めていた。

 

 生徒会室で、判子を押している時の顔とは、違う顔だった。

 

 眉間の皺が、なかった。

 

 口の端が、少しだけ、上がっていた。

 

 三年間、放課後の、どこにもなかった顔だった。

 

「……何、見てんのよ」

 

 ヘッドフォンを外した青子が、こっちを睨んでいた。

 

「別に」

 

「別にって顔じゃないわよ」

 

「……楽しそうだなと思っただけだ」

 

 青子は、何か言い返そうとして、やめた。

 

 それから、カセットテープを一本、レジに持っていった。

 

 洋楽の、知らないバンドの、一本。

 

「それ、買うのかよ」

 

「買うわよ。……伸びるまで、聴くんだから」

 

 

◇

 

 

 坂の下の、商店街の端。

 

 Cafe HIKAGEの、硝子窓の前を、通り過ぎた。

 

 カウンターの奥で、父が、ネルを振る手を、一瞬だけ、止めた。

 

 窓際の席で、問題集を広げていた晴華が、硝子に、べったりと、張りついていた。

 

 何か、口を、大きく、動かしていた。

 

 ――デ、ー、ト。

 

「…………」

 

「…………」

 

 二人は、何も言わずに、早足で、坂を、上り始めた。

 

 

◇

 

 

 坂の上の洋館の、居間。

 

 温め直した鯛焼きを、有珠は、皿に載せて、ナイフとフォークで、食べていた。

 

 真ん中から。

 

 縦に、切って。

 

「……頭からでも、尻尾からでも、ないのね」

 

 青子が、呆れた顔で、言った。

 

「どちらから食べても、どちらかが最後に残るわ。……可哀想でしょう」

 

 有珠は、真顔だった。

 

 バイトから帰ってきた草十郎は、鯛焼きを、手に持ったまま、じっと、見下ろしていた。

 

 それから、一口、齧った。

 

 長いこと、噛んでいた。

 

「……日景」

 

「なんだよ」

 

「この魚には、骨がない」

 

「餡子の魚だからな」

 

「そうか。……都会の魚は、甘いんだな」

 

「――鯛焼きは、都会の魚じゃないわよ!」

 

 青子の声が、居間に、響いた。

 

 忉利は、台所で、四人分の紅茶を、淹れていた。

 

 鯛焼きに紅茶が合うかどうかは、わからなかった。

 

 有珠が、何も言わなかったので、たぶん、合っていた。

 

 

◇

 

 

 その夜。

 

 青子の部屋の扉の隙間から、小さな音が、漏れていた。

 

 知らないバンドの、知らない歌。

 

 同じ曲が、三回、巻き戻されて、三回、流れた。

 

 翌日の、放課後。

 

 チャイムが鳴ると、青子の足は、やっぱり、勝手に、本校舎三階へ、向かいかけた。

 

 階段の、一段目で、止まった。

 

 それから、くるりと、向きを変えて。

 

 昇降口の、下駄箱の前へ。

 

 忉利が、靴を履き替えて、待っていた。

 

「……今日は、店だぞ。おれ」

 

「知ってるわよ。……HIKAGEまで、寄り道するの」

 

「寄り道って言わねえだろ、それ」

 

「言うのよ。……私が、決めたの」

 

 四回目は、なかった。




シエルの小説、土曜の夜中にあげると思います。

更新ペースがどうなるかはまだわかりません。

あと、いらないこだわりですが、原作では青子は鳶丸って呼んでましたが、ここでは基本忉利以外の異性は苗字で呼ばせてます。

単純に、どんな話が見たいですか?

  • とりあえずイチャイチャ
  • シリアスな話
  • 他作品のキャラとの絡み
  • FGOコラボ(隈乃温泉殺人事件)
  • 2015年の時計塔
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