夜明けの色を見る眼   作:にんら

31 / 32
ここから、オリジナル要素、という名のアレルゲンが豊富に含まれます。

ご注意下さい。


春のトランク

 その鞄は、長いあいだ屋根裏で眠っていた。

 

 焦げ茶の革。くすんだ真鍮の留め金。角という角が擦り切れて、白く毛羽立っている。持ち手には、色の抜けた荷札が一枚、紐ごと硬くなってぶら下がっていた。滲んだインクの癖から、それが英語で書かれていたことだけが、かろうじてわかる。

 

―――海を渡ってきた鞄だった。

 

 梁の下の暗がりで、鞄は何十年も黙っていた。

 

 その春、鞄は、ずいぶん久しぶりに、陽の光の下へ引きずり出されることになった。

 

 

◇

 

 

 一九九一年、三月一日。午前六時。

 

 久遠寺邸の台所の窓を開けると、湿った土の匂いが流れ込んできた。夜のうちに降った雨が庭の黒土をやわらかく溶かして、その下で何かが目を覚ましかけている。そういう匂いだった。

 

 日景忉利は、ネルに湯を落としながら、その匂いを吸い込んでいた。

 

 粉が膨らむ。細かな泡が浮いて、ゆっくりと沈んでいく。一年と少し、この台所で毎朝繰り返してきた手順だ。

 

 この窓を開けて淹れる朝の一杯は、今朝を入れて、あと三回しかない。

 

「――ネクタイ」

 

 背後から、不機嫌そうな声がした。

 

 振り返るより先に、細い指が首元に伸びてきて、緩んだままの結び目を、きゅっと締め上げた。

 

「卒業式なのよ。だらしない格好で出ないで」

 

「……まだ六時だぞ」

 

「だから今のうちに言ってるの」

 

 蒼崎青子は、ついでのように、ブレザーの胸に並んだ金ボタンを、上から指先でなぞっていった。

 

 一つ。

 

 そこで、指が止まった。

 

「……ボタンも曲がってる。最後くらい、ちゃんとしなさいよ」

 

「へいへい」

 

「へいは一回」

 

 ふん、と鼻を鳴らして、青子は離れた。

 

 ほんの一瞬、焦げた糸のような匂いが鼻先をかすめた気がした。豆を煎りすぎたか、と忉利は手元のネルを見下ろした。いつもの香りだった。

 

 青子が、食器棚から白いマグカップを取り出して、黙って忉利の前に置く。取っ手の付け根に、細い青い線が一本。忉利も黙って、そこに一杯目を注いだ。

 

 草十郎は、とっくに出ていた。まっどべあのごみ出しも、HIKAGEの朝の支度も、卒業式の朝までという約束だった。

 

 雨上がりの庭で、楡の枝先の巣箱から、青い駒鳥が眠たげに顔を出して、また引っ込んだ。

 

 三日後の朝には、この景色を見ていない。

 

 青子は、それを口に出さなかった。忉利も、訊かなかった。

 

 

◇

 

 

 三咲高校の体育館は、灯油ストーブの匂いと、何百人分の緊張とで、ぬるく膨らんでいた。

 

「――卒業生代表、答辞。蒼崎青子」

 

 名前が呼ばれた瞬間、職員席の空気が、目に見えて固くなった。

 

 入学式の日に男子を一人宙に舞わせ、理事長の息子を返り討ちにして生徒会長の椅子を奪い取った女だ。三年間、職員会議の議題に彼女の名前が上がらなかった月は、たぶん一度もない。

 

 青子は壇上で一礼して、胸ポケットから折りたたんだ便箋を取り出した。

 

 目を落とす。二秒。

 

 それから、便箋を元どおりに折りたたんで、ポケットに戻した。

 

 職員席の誰かが、小さく呻いた。

 

「……三年間、いろいろありました。いろいろ壊しましたし、いろいろ怒られました。ここにいらっしゃる先生方の半分くらいには、たぶん今でも恨まれていると思います」

 

 押し殺した笑いが走った。

 

「でも、謝る気はありません。後悔するようなことは、最初からしないようにしてきたつもりです。それでもしてしまった後悔は、抱えて持ち歩くものじゃなくて、一つずつ片付けていくものだと思っています」

 

 壇上から、体育館を見渡す。何百人分の顔の、たった一つを、視線がほんの一瞬だけかすめて、通り過ぎた。

 

「私たちはこれから、それぞれ別の場所に行きます。……どこに行っても、逃げないでください。逃げたくなったら、この学校にとんでもなくうるさい生徒会長がいたことを、思い出してください。以上です」

 

 一拍遅れて、拍手が、雨が屋根を叩くように広がっていった。

 

「……会長ぉ……最後まで、かっけえっす……」

 

 隣の列で、木乃美芳助が、鼻水まみれの顔で手を叩いていた。

 

 前の列では、槻司鳶丸が、腕を組んだまま呆れた声を出した。

 

「……俺が書いてやった原稿、一行も使ってねえ」

 

「最初から、使う気なかったんだろ」

 

「知ってたよ。だから徹夜で済ませたんだ」

 

 鳶丸の口の端は、わずかに持ち上がっていた。

 

 その横顔を、少し離れた女子の列から、久万梨金鹿が見ていた。

 

 東京に行くらしい、という噂は、先週から耳に入っていた。本人の口からは、まだ一言も聞いていない。

 

 金鹿は、拍手をするふりをして、目を逸らした。

 

 

◇

 

 

 式が終わると、校庭は、別れと写真と、ほんの少しの戦場の気配に満ちた。

 

「日景くん、あの、第一ボタン――」

 

「ブレザーは、一番上のボタンが心臓に一番近いんだって!」

 

 校舎を出た途端、忉利は女子たちに取り囲まれていた。一年前の一月、目の色のことで騒がれた時と、ほとんど同じ顔ぶれだった。

 

 面倒くさそうに自分の胸元を見下ろして、忉利は動きを止めた。

 

 一番上の金ボタンが、なかった。

 

 代わりに、黒い糸の切れ端が二本、ちょろりと飛び出している。糸の先は、ちりちりと縮れて、黒く焦げていた。

 

 今朝の台所。首元に伸びてきた指先。一つ目で止まった指。焦げた糸の匂い。

 

 校庭の向こうで、青子が後輩たちに花束を押しつけられていた。こちらを見ていない。不自然なくらい、見ていない。

 

 長い髪の隙間から覗く耳が、三月の陽射しの中で、やけに赤かった。

 

「……悪い。売り切れだ」

 

 女子たちの悲鳴が、校庭に響き渡った。

 

「誰だよ、日景のボタン持ってった奴! ……で、俺のは要る人いる? 今なら全部つけるけど」

 

 芳助が叫び、女子たちが一斉に目を逸らす。その向こうで、一年生の女子が一人、真っ赤な顔で静希草十郎の前に立っていた。

 

「静希先輩、あの、第一ボタンを……」

 

「これか」

 

 草十郎は、一番上のボタンを、ためらいなく引きちぎって差し出した。

 

「やる。……袖にもついているが、要るか」

 

 一年生は、声にならない声を上げて走り去った。

 

 校門の脇では、鳶丸が門柱に背中を預けていた。ブレザーのボタンは、一つも欠けていない。理事長の息子の第一ボタンを取りに来る度胸のある女子は、三咲高校には一人もいなかった。

 

 

◇

 

 

 生徒会室の鍵は、秋に代替わりした新会長が、「一時間だけですよ」と念を押して貸してくれた。

 

「――で、明日発つのね」

 

「ああ。東京だ」

 

 会長席の机に行儀悪く腰掛けて、鳶丸は天井を見上げた。

 

「大学は受かったけどな。行くかどうかは、向こうで決める。……人の揉め事の後始末なら、三年間、誰かさんのおかげで嫌ってほど覚えた。それで食えるなら、それもいい」

 

「ちょっと。私が揉め事起こしてたみたいに言わないでよ」

 

「起こしてただろ」

 

「起こしてたな」

 

「起こしてたわね」

 

「起こしてましたっ!」

 

 四人分の声が、見事に揃った。青子は口を開けて、閉じて、ぷいと窓の外を向いた。

 

 芳助は浪人で、金鹿は三咲に残って店を手伝う。鳶丸は順に確かめて、最後に青子を見た。

 

「お前は、いつ発つ」

 

「三日後」

 

「日景も一緒か」

 

「……ああ」

 

 芳助が、椅子から転げ落ちた。

 

「か、か、駆け落ちっすか……っ!」

 

「違うわよ!! 旅行よ、旅行! ちょっと長いだけの!」

 

「ちょっとって、どれくらいっすか」

 

 青子は、答えなかった。

 

 ちょっと、では済まない。この町に、同じ顔のまま長く居続けることはできない。それを、この三人には言えない。

 

 鳶丸が、ひとつ息をついて、忉利の前に立った。

 

「日景。こいつの後始末、今度からお前一人だぞ」

 

「知ってる」

 

「骨を拾うのも、込みでな」

 

「……それも、知ってる」

 

「なら、いい」

 

 鳶丸は、忉利の肩を拳で一度だけ叩いて、片手を振って出ていった。芳助が「殿下ぁ!」と叫びながらその後を追いかけていく。

 

 金鹿は、帳簿から顔を上げなかった。鉛筆の先が、最後の欄の上で、止まったまま動かなかった。

 

 

◇

 

 

 三十分後、青子の湯呑みを取りに戻ると、金鹿はまだそこにいた。

 

 帳簿は、閉じられていた。表紙の上に両手を重ねて、窓の外を見ている。

 

「……まだいたのか」

 

「締めが終わったのよ。今」

 

 嘘だろう、と忉利は思った。三十分前には、もう最後の一行しか残っていなかった。

 

 棚の奥から、縁の欠けた湯呑みを取り出す。一年と少し前の冬、魔法瓶の珈琲を、青子がいつもこれに注いで飲んでいた。

 

「……言わねえのか」

 

 背を向けたまま、忉利は言った。

 

 金鹿の肩が、ぴくりと跳ねた。

 

「……何のことよ」

 

「さあな」

 

 しばらく、金鹿は黙っていた。窓の外から、校庭のざわめきが遠く聞こえてくる。誰かの笑い声。誰かの泣き声。写真機のシャッターの音。

 

「……言わないわよ」

 

 小さな声だった。

 

「あいつ、明日には東京よ。言ったって、どうにもならないでしょ」

 

「どうにもならねえかどうかは、言ってみねえとわかんねえだろ」

 

「わかるわよ。三年、隣の机にいたんだから」

 

 金鹿は、窓の外の校門の方を見た。門柱の脇には、もう誰もいなかった。

 

「あいつ、自分のことは一言も言わないの。家のことも、お父様のことも、東京に行くことも。……私が知ってるのは、帳簿の数字が合わない時に、黙って自分の財布から足しておく人だってことくらい」

 

「……知ってたのか、それ」

 

「会計よ、私。気づかないわけないでしょ。……一回も、言わなかったけど。私も、あいつも」

 

 忉利は、湯呑みを手の中で転がした。

 

「お前も、行きたかったんじゃねえのか。遠く」

 

 金鹿の指が、帳簿の表紙の上で止まった。

 

「……誰に聞いたのよ」

 

「誰にも。お前、三年間、どっか遠くの大学の赤本、帳簿の下に隠して読んでただろ。生徒会室、おれも毎日いたんだぞ」

 

「――っ」

 

 金鹿は、しばらく黙っていた。それから、観念したように、小さく息を吐いた。

 

「……受かってたのよ。一校だけ。東京の」

 

「…………」

 

「あいつが東京に行くって聞くより、ずっと前に願書出してたのよ。たまたま。本当に、たまたまよ」

 

 金鹿は、帳簿の表紙を指先でなぞった。

 

「でも、行かない。……今は。親父と兄貴たちを置いて出ていったら、あの店、本当に潰れるもの。静希くんがいたって、帳面つける人がいないんだから」

 

「東京なんか、電車で行けるだろ」

 

「そういう問題じゃないの」

 

 それから、じろりと忉利を見上げた。

 

「……あんたこそ。青子に、言ったの」

 

 忉利は、答えないまま、棚の扉を閉めた。かたん、と乾いた音がした。

 

「……言ってねえな」

 

「なら、人のこと言えないじゃない。世界の果てまで一緒に行くくせに」

 

「おれは、言わなくても、ついてくからな」

 

「……ずるいわね、それ」

 

「知ってる」

 

 忉利は扉に手をかけて、少しだけ振り返った。

 

「けど、あいつは、明日からいねえぞ。……お前の隣に」

 

 金鹿は、何も言い返さなかった。

 

「久万梨。帳簿、まだしまうなよ。……そのうち、決算が合わなくなるかもしれねえから」

 

「……は?」

 

 意味がわからない、という顔の金鹿を残して、忉利は生徒会室を出た。

 

 

◇

 

 

 階段を下りる。二階の踊り場。一階の昇降口。

 

 下駄箱の前で、鳶丸が、上履きのまま立っていた。芳助は、もういなかった。

 

「……忘れもんか、鳶丸」

 

「うるせえ。お前こそ」

 

「青子の湯呑み」

 

 ポケットを叩いてみせると、鳶丸は露骨に顔をしかめた。

 

 そのブレザーの胸元で、金ボタンが一つも欠けずに、鈍く光っていた。

 

「第一ボタン、残ってんな」

 

「誰も取りに来ねえよ、俺のなんか。理事長の息子のボタンなんざ、呪いの品みてえなもんだ」

 

 鳶丸は、自分の下駄箱の扉を開けて、閉めて、また開けた。靴を出すでもなく。

 

「……三年間、ここで何してたんだろうな、俺は」

 

「青子の後始末だろ」

 

「それと、帳簿の穴埋めな」

 

 鳶丸は、ふっと鼻で笑った。

 

「……知ってたか」

 

「久万梨が知ってた」

 

 鳶丸の手が、下駄箱の扉の上で止まった。

 

「……あいつ、何か言ってたか」

 

「言ってねえよ。何も。……三年間、一回も言わなかったって、言ってた。自分も、お前も」

 

 鳶丸は、長いこと黙っていた。

 

 忉利は、何気なく、目の奥の扉を、少しだけ開いた。

 

 下駄箱の木目の線。床板の線。それから、鳶丸の胸元から、細い、細い線が一本、伸びていた。昇降口の天井を抜けて、階段の方へ。三階の、端の部屋の方へ。

 

 ほつれかけていた。三年分、誰も結び直さなかった糸のように。

 

 それでも、切れてはいなかった。

 

 忉利は、扉を閉じた。断つのも、結ぶのも、自分の仕事ではなかった。

 

「……鳶丸」

 

「なんだよ」

 

「おれは、言わなくても、明日からも隣にいる。だから、言わなくても、まあ、なんとかなる」

 

 自分の下駄箱から靴を取り出して、踵を押し込む。

 

「お前は、明日から、いねえだろ」

 

「…………」

 

「三階の端の部屋で、まだ帳簿が開いてるらしいぞ。……決算、合わねえと困るだろ。元副会長としては」

 

 それだけ言って、忉利は昇降口を出た。

 

 背後で、長い沈黙があった。

 

 それから、舌打ちが一つ。

 

「――日景」

 

 振り返ると、鳶丸が、上履きのまま、階段の一段目に足をかけていた。

 

「……お前に言われると、腹立つな」

 

「知ってる」

 

 鳶丸は、もう何も言わずに、階段を駆け上がっていった。一段飛ばしの荒っぽい足音が、三階まで遠ざかっていった。

 

 

◇

 

 

―――本校舎三階の、端の部屋。

 

 扉が、ノックもなしに開いた。

 

 金鹿は、帳簿の表紙から顔を上げなかった。足音で、誰だかわかった。三年間、毎日聞いてきた足音だった。

 

「……忘れ物? 副会長」

 

「元、な」

 

 鳶丸は、会計の机の前まで来て、止まった。

 

 しばらく、何も言わなかった。窓の外で、また、誰かが写真機のシャッターを切った。

 

「……決算」

 

「合ってるわよ。最後の一行まで。……あんたが黙って足してた分も、全部入れて」

 

 鳶丸が、わずかに目を逸らした。

 

「……知ってたのかよ」

 

「知ってたわよ。一円の狂いもなく、ね」

 

 金鹿は、ようやく顔を上げた。

 

「三年分足すと、けっこうな額よ。……返してほしい?」

 

「いらねえ」

 

「そう」

 

 短い沈黙。

 

 鳶丸は、自分のブレザーの胸元に手をやった。

 

 一番上の金ボタンを、指でつまんで。

 

 ぶつり、と、引きちぎった。

 

 閉じた帳簿の表紙の上に、金ボタンが一つ、ころりと置かれた。

 

「……余った。やる」

 

 金鹿は、帳簿の上のボタンを見下ろした。

 

「……余ったって、何よ」

 

「誰も取りに来なかったからな。余りもんだ」

 

「……決算、合わなくなるんだけど」

 

「合わせとけ。会計だろ」

 

 鳶丸は、背を向けた。

 

 扉に手をかけて、振り返らずに、言った。

 

「――東京、電車で二時間だ」

 

 扉が、閉まった。

 

 遠ざかっていく足音は、来た時よりも、ずっとゆっくりだった。

 

 金鹿は、帳簿の上のボタンを、長いこと見下ろしていた。

 

 それから、両手でそっと拾い上げて、胸の前で、ぎゅっと握りしめた。

 

「……知ってるわよ」

 

 誰もいない部屋で、小さく呟いた。

 

「とっくに、時刻表で調べたもの」

 

 

◇

 

 

 その夜、二階の東の端の青子の部屋で、例の鞄が口を開けていた。

 

 三日前、屋根裏から下ろしてきたのは草十郎だった。有珠は暖炉の前でそれを一瞥して、短く言っただけだった。

 

―――持っていきなさい。わたしが、この国に来た時の鞄よ。

 

「……入らない」

 

 畳んだ服と、畳みかけの服と、畳むのを諦めた服の山に囲まれて、青子が唸っていた。

 

「服、減らせよ」

 

「減らしてこれなのよ!」

 

 忉利は隣にしゃがみ込んで、布の袋の中身を床に並べた。

 

 父の古い手回しのミル。木の取っ手が飴色に光っている。父のネル。陶器のドリッパー。晒し布の予備。それから、麻紐で口を縛った小さな布袋。紐をほどくと、深煎りの豆の匂いが部屋に広がった。

 

「……夜明け前ブレンド」

 

「昨日の朝、焼いてきた。親父が椅子に座って、腕組んで見てた。……最後に一粒噛んで、まだ十秒遅いって」

 

「一年経っても、十秒なのね」

 

「一年経っても、十秒だ。……これで、イエメンまで食いつなぐ」

 

「イエメン? どこよ、それ」

 

「アラビア半島の端っこ。モカって港がある。珈琲の名前の元になった港だ」

 

「最初の行き先、勝手に決めないでくれる?」

 

「じゃあ、どこがいい」

 

 青子は、口を開けて、閉じた。

 

「……いいわよ、イエメンで。どうせ最初は、どこでもいいんだから」

 

 鞄の内側に、仕切られた一角があった。

 

「そこ、本当は魔術の道具を入れるつもりで空けといたのよ。有珠に、少しは持っていけって言われたから。……でも、触媒とか宝石とか、ああいうごちゃごちゃしたの、好きじゃないの。私は身体一つで撃てるんだから」

 

 青子は、忉利の手からミルを奪い取って、その一角にぐいと押し込んだ。ネルとドリッパーを晒し布でくるんで、隣に。豆の袋を、その隙間に。

 

 ぴたりと、収まった。最初から、そのために空けてあったかのように。

 

 忉利が畳んで、青子が詰める。古い鞄の中身が、少しずつ埋まっていく。

 

 パスポート。去年の暮れに、二人で隣町まで申請に行った。写真の中の忉利は、虹彩の縁の青い輪のせいでひどく人相が悪く写っていて、青子は五分間笑い続けた。

 

 ウォークマン。それから、カセットテープが二本。一月の放課後にレコード屋で買った、まだ新しい一本と、ラベルの剥げかけた古い一本。

 

「……まだ持ってたのかよ、これ」

 

 忉利は、古い方を拾い上げた。

 

「中二の夏だろ。隣町のライブハウスで。一番後ろの壁際で三時間立たされて、耳鳴り、二日止まんなかった」

 

「あんた、途中から寝てたじゃない」

 

 青子はテープを取り返して、擦り切れたラベルを指でなぞった。

 

「……最近、伸びてきてるのよ。最後の曲の、サビのとこ。もう売ってないわ。解散したもの、このバンド」

 

「新しい方、聴けばいいだろ」

 

「どっちも聴くの。……それに、伸びてるのがいいの」

 

「よくわかんねえな」

 

「わかんなくていいわよ」

 

 部屋の隅には、ギターが二本立てかけてあった。どちらも、鞄には入れない。

 

「帰ってきた時、弾くものがないと困るでしょ」

 

 忉利は、何も言わずに、袋の底から濃紺の毛糸の手袋を取り出した。

 

「私、手袋はしない主義なんだけど」

 

「知ってる。だから入れとくんだろ。寒くなったら、どうせおれのを取り上げるくせに――」

 

 内ポケットに押し込もうとした指先が、何か小さくて硬いものに触れた。

 

 摘み出す。

 

 三咲高校の校章が刻まれた、金ボタンだった。裏の小さな輪に、焦げて縮れた黒い糸が、二本くっついている。

 

 青子が、石のように固まった。

 

「……これ、おれのだよな」

 

「し、知らないわよ! 有珠の鞄なんだから、最初から入ってたんじゃないの!」

 

「有珠の鞄に、三咲高校のボタンがか。糸、焦げてんだけど」

 

 青子はボタンをひったくって、真っ赤な顔で睨みつけた。

 

「……だって。変な子に渡されたら、困るでしょ」

 

「変な子って誰だよ」

 

「変な子は変な子よっ!」

 

 ボタンを内ポケットの一番奥に押し込んで、留め具をぱちりと閉める。その上から、手のひらでぐいぐいと押さえつけた。

 

「持ってくの。……文句ある?」

 

「ねえよ」

 

 青子は、膝を抱えた腕に顔を埋めてしまった。くぐもった声で、「ばか」とか「最低」とか、そういう類の言葉が聞こえた。

 

 忉利は少しだけ笑って、古い革の蓋を下ろした。

 

 目の奥の扉を、少しだけ開く。

 

 縫い目の線が見えた。何十年も前に、どこかの職人が一針ずつ通した糸。海を渡って、屋根裏で眠って、今日また引きずり出された鞄の縫い目は、一本も切れていなかった。

 

 まだ、どこまでも行ける。そういう線だった。

 

「……頑丈な鞄だな」

 

「有珠の鞄だもの」

 

 顔を上げないまま、青子が言った。

 

「……今は私のだけど」

 

 真鍮の留め金を、一つずつ押し込む。

 

 ぱちん。ぱちん。

 

 

◇

 

 

 廊下の突き当たりの窓辺に、有珠が立っていた。黒い部屋着の肩に、ロビンが丸くなってとまっている。

 

「……閉まったのね。鞄」

 

「ああ。悪いな、珈琲の道具詰め込んじまった」

 

「知っているわ。匂いで。……しばらく、珈琲臭くなるわね」

 

 有珠は、窓の外を見たまま言った。

 

「中身は、ちゃんと持って帰ってきなさい。……あれは、わたしの鞄よ。貸すだけ」

 

「わかってる」

 

 有珠は窓辺を離れて、忉利の脇を通り過ぎ、三歩で足を止めた。振り返らなかった。

 

「――忉利。出発の前の晩。少しだけ、時間をちょうだい」

 

「……なんだよ、改まって」

 

「話しておくことが、あるの」

 

 有珠の肩の上で、ロビンが、もぞりと身じろぎした。

 

「マ、マイ天使……それって、もしかして――」

 

「黙りなさい、駄鳥」

 

「……ッス」

 

 

◇

 

 

 三月三日。夕方。

 

 台所から、トマトの煮詰まる匂いが、廊下の端まで流れていた。

 

――赤いのにして。夕食よ。最後なのでしょう。

 

 今朝、有珠はそれだけ言った。ナポリタンか、と訊き返すと、答えずに紅茶を一口飲んだ。否定しないのは、この魔女にとっての肯定だった。

 

「……それ、何切りだよ」

 

「青子切りよ! 文句あるなら自分で切りなさいよ、目が痛くて前が見えないんだから!」

 

 分厚くて不揃いな玉ねぎを、青子が涙目で刻んでいる。

 

 昼過ぎから、青子は二時間ほど、有珠と居間にこもっていた。出てきた時の目も、今と同じくらい赤かった。玉ねぎのせいにできる分、今の方がまだましだろう、と忉利は思った。

 

 勝手口が開いて、草十郎が紙袋を一つぶら下げて帰ってきた。

 

「久万梨からだ。今日は三月三日だから、持っていけと言われた」

 

 袋の口から、桃色と白と薄緑の雛あられがこぼれそうになっていた。

 

「久万梨は、今日は機嫌がよかった。帳簿をつけながら、ずっと左手に何かを握っていた。何を握っているのか訊いたら、雛あられを投げつけられた」

 

 青子が、玉ねぎとは別の理由で肩を震わせ始めた。

 

 

◇

 

 

 一年と少し前、この屋敷で忉利が最初に作ったのも、ナポリタンだった。

 

 あの時と同じように、有珠は一口目から黙って食べ続けて、四人の中で一番最初に皿を空にした。

 

「……もう、ないのかしら」

 

「あるよ」

 

 忉利は、テーブルの端のフライパンの蓋を持ち上げた。ちょうど一人分が残っていた。

 

「……わたしが、おかわりをすると決めつけていたの」

 

「するだろ。しねえなら、静希が食う」

 

「食べる」

 

 有珠は、無言で空の皿を忉利の方へ押しやった。

 

 二杯目を盛って戻してから、忉利は、紐で綴じた手製の帳面を草十郎に渡した。

 

「引き継ぎだ」

 

 草十郎は表紙を開いて、真顔で読み上げた。

 

「『紅茶。ダージリン三分。アッサム四分。名前の読めない缶は三分半。十秒短くても長くても気づかれる』。『卵焼きは、一本だけ砂糖を多めにする。それは久遠寺の分。端っこは駒鳥の分』。『機嫌が悪い時は、何も言わずに甘いものを出す。それで駄目なら、一晩放っておく』」

 

「――忉利」

 

 有珠の声は、ほとんど氷だった。

 

「わたしは、家電ではないわ」

 

「似たようなもんだろ。取扱説明書がないと困る」

 

「似ていないわ」

 

「おいらのことも書いてあるッスか!?」

 

 止まり木から、ロビンが身を乗り出した。草十郎が、頁をめくる。

 

「……『駒鳥は、甘やかすとつけ上がる』」

 

「シャバ憎二号ぉぉ!!」

 

 青子が、椅子から転げ落ちそうになった。

 

 有珠は長い溜息をついて、草十郎の手元に目をやった。

 

「その帳面。わたしのいないところで、読みなさい」

 

 捨てろ、とは言わなかった。

 

 

◇

 

 

 九時過ぎに青子が、続いて草十郎が部屋に引き上げると、有珠は空のカップを受け皿に戻して立ち上がった。

 

「――来て」

 

 二階の廊下の突き当たり、天井の四角い蓋を、有珠が鉤のついた棒で押し上げる。軋みながら、折りたたみの梯子が降りてきた。

 

 屋根裏は、埃と古い木の匂いがした。太い梁の下に、白い布をかけた家具の影がいくつも蹲っている。妻側の壁の小さな丸窓から、月の光が床に白い円を落としていた。

 

 その円のすぐ脇に、埃の積もっていない長方形の跡があった。

 

 ちょうど、大きな鞄が一つ置かれていたくらいの。

 

「この国に来てから、ずっと、ここにあったの」

 

 有珠は、その跡の隣に膝を折って座った。ロビンが、布をかけた木馬の頭の上に飛び移って、翼を畳んだ。

 

「――忉利。あなたの目で、わたしを見て。時間の線を」

 

 忉利は、目の奥の扉を開いた。

 

 梁の木目の線。布の織り目の線。それらを通り越して、有珠の胸元から、一本の線が伸びていた。細く、静かで、丸窓の外の夜へ、その向こうの十年先へ、目で追いきれないほど遠くまで流れていく。

 

「……前に、流れてる。みんなと同じだ」

 

「それで、あなたは、わたしが歳を取ると思ったのね」

 

 忉利は、息を止めた。

 

「半分は、合っているわ。わたしの時間は、ちゃんと流れているの。……でも、わたしは、ほとんど変わらないわ。十年経っても。二十年経っても。……線の、周りを見なさい」

 

 目を凝らす。

 

 晴華の線には、流れていくにつれて、ごく細い糸のようなものが、少しずつほつれて絡みついていく。父の線には、もっとたくさん。使い込んだ縄の表面が毛羽立っていくように、時間が流れるたびに、身体に小さな痕が刻まれていく。

 

 それが老いというものの形なのだと、忉利は、今初めて知った。

 

 有珠の線には、それがなかった。時間は流れている。けれど、その流れは、有珠という岸を一粒も削らずに、磨かれた石の上を滑る水のように、ただ素通りしていく。

 

「……なんだよ、これ」

 

「体質よ。それ以上は、説明しないわ。長くなるもの」

 

 遊園地の朝靄の中で初めて見た時と、何ひとつ変わっていない顔だった。この一年で、晴華は背が伸びた。草十郎は肩幅が少し広くなった。鏡の中の自分と青子は、まだ変わっている途中で、あと二年か三年で止まる。

 

 有珠だけが、最初から、止まっていた。

 

「……青子は、知ってんのか」

 

「ええ。一緒に暮らし始めた頃から」

 

「静希は」

 

「……知らないわ。言うつもりも、ないの。草十郎は、変わっていくわ。……それで、いいの」

 

 有珠は、月の光から手を引いた。

 

「去年の春、土手でみんなで写真を撮った日。あなた、タイマーが鳴っている間、線を見ていたでしょう。この写真の中で歳を取らないのは自分たちだけだ、って顔で。……だから、この町を出ていくのでしょう。変わらない顔を、見られないうちに」

 

 忉利は、答えなかった。

 

「だから、話しておこうと思ったの」

 

 月の光を背にして、有珠の目が、暗がりの中で静かに光っていた。

 

「覚えておきなさい。変わらない顔が、ここにも一つあるわ。十年後に帰ってきても。百年後に帰ってきても。わたしは、この家で、同じ顔をしているわ。だから、ここでだけは、何も隠さなくていいの」

 

 屋根裏の空気が、しんと静まり返った。

 

「帰る場所は、ここにあるわ」

 

 忉利は、長いこと、何も言えなかった。

 

「……そうかよ」

 

 声が、少しだけ掠れていた。

 

「じゃあ、百年後も、ここ来て紅茶淹れりゃいいんだな」

 

「……あ」

 

 有珠が、小さく声を漏らした。

 

「なんだよ」

 

「……なんでもないわ」

 

 有珠は、ふいと丸窓の方に顔を背けた。

 

「百年後でも、蒸らしが十秒短かったら、追い返すわよ」

 

「知ってる」

 

 部屋着のポケットから、有珠は古い真鍮の鍵を取り出した。頭の部分に、蔦の葉の透かし彫り。長い年月撫でられ続けて、角という角が丸く鈍く光っている。

 

「この家の鍵よ。この家の結界は、招かれていない者を坂の途中で迷わせて帰すわ。……これを持っている者は、いつでも招かれているの。青子は、もう持っている。これは、あなたの分」

 

 受け取った鍵は、冷たかった。握っているうちに、少しずつ、手のひらの熱が移っていった。

 

「失くしたら、許さないわ。海に落としたら、泳いで拾いなさい」

 

「……泳ぐのかよ」

 

「拾えないなら、潜りなさい」

 

 忉利は、小さく吹き出した。有珠はにこりともしなかったが、その目元のわずかな和らぎを、月の光は隠さなかった。

 

「……う、うぅ……」

 

 木馬の上で、ロビンが翼で顔を覆って震えていた。

 

「シャバ憎二号がいなくなったら、卵焼きの端っこ、誰にもらえばいいんスか……! シャバ憎は山育ちだから、残すって概念がないッス……!」

 

「帳面に書いといたぞ。端っこは駒鳥の分って」

 

「甘やかすとつけ上がる、とも書いてあったッス!!」

 

 忉利は、とうとう声を上げて笑った。月の光の中で、屋根裏の埃がふわりと舞い上がった。

 

 

◇

 

 

 その笑い声を、青子は、天井の下の布団の中で聞いていた。

 

―――屋根裏に、連れていったのね。

 

 昼間、居間の閉じた扉の向こうで、有珠は言った。今夜、あの子にも話すわ、と。それから、暖炉の火を見つめたまま、ひどく静かな声でこう言った。

 

――青子。あの子を、ちゃんと連れて帰ってきなさい。あなたが先に飽きて、どこかに置いてきたりしたら、許さないわ。

 

――飽きないわよ。

 

――どうかしら。あなた、熱しやすくて冷めやすいもの。……冗談よ。

 

 有珠の冗談は、いつも、冗談にしなければ言えないことの代わりだった。だから青子は、その時だけは言い返さずに、暖炉の火が小さくなるまで、黙って隣に座っていた。

 

 梯子の畳まれる軋みと、階段を下りていく二人分の足音を聞き届けてから、青子は布団を抜け出した。

 

 喉なんか、渇いていなかった。

 

 

◇

 

 

 零時過ぎの台所に、明かりが一つだけ点いていた。

 

 名前の読めない古い缶。温めたポット。砂時計。三分半。

 

 一年と少し前、忉利が初めてこの台所で紅茶を淹れた時、有珠は同じ椅子で、同じ目で見ていた。あの時は、見張るために。今は、たぶん、覚えておくために。

 

「――何してんのよ、二人して」

 

 寝癖の跳ねた青子が、入り口の柱にもたれていた。調理台の上の真鍮の鍵に気づいて、足を止める。

 

「……有珠。話したの」

 

「ええ」

 

「……そ。なら、よかったわ」

 

 それだけ言って、自分のカップを忉利の前に置いた。

 

「――明かりが、見えた」

 

 綿入れを羽織った草十郎が、帳面を抱えて立っていた。

 

「ここに、『紅茶は、自分で淹れて覚えろ』と書いてある。今、覚えてもいいか」

 

 忉利が有珠を見ると、有珠は目を伏せた。駄目だとは、言わなかった。

 

 ポットを温めるところから、一つずつ手順を口にしていく。草十郎は、一言も聞き漏らすまいとするように頷いていた。棚の上に、ロビンが舞い降りた。

 

―――この家は、変わらない。

 

 有珠は、カップの縁越しに、三人の背中を見ていた。明日の朝、二人がいなくなっても、この台所はここにある。十年後も、百年後も。そして、自分も。

 

 草十郎が初めて淹れた紅茶を、有珠は一口飲んで、少しだけ目を閉じた。

 

「……十秒、短いわ」

 

「そうか。……覚えた」

 

 草十郎が、帳面に鉛筆で書き込む。

 

 忉利は、ポケットの中の鍵を握った。真鍮は、もう、すっかり温まっていた。

 

 

◇

 

 

 三月四日。午前六時四十分。

 

 有珠は、玄関に出てこなかった。昨日の夜に、もう全部済ませた。そういうことにして、二人は坂を下りた。

 

 商店街のシャッターは、まだどれも下りていた。

 

 薄青い夜明けの中を、忉利は大きな鞄を提げて歩いていた。中身を詰めすぎて、一歩ごとにミルの金具がかたかたと鳴る。

 

「……代わる?」

 

 青子が、横目で言った。首には、濃紺のウールのマフラー。元日に忉利が巻いてやってから、なんとなく青子の首に居着いてしまったものだ。

 

「重くねえ」

 

「顔、真っ赤じゃない」

 

「寒いからだ」

 

 青子はそれ以上何も言わずに、持ち手の、忉利の手のすぐ隣に、自分の手をかけた。

 

 重さが、半分になった。

 

 商店街の外れの、色の褪せた木の看板。「Cafe HIKAGE」。開店は七時で、まだ二十分あるのに、ドアの札は、もう「営業中」に返されていた。

 

 ドアベルが、からん、と鳴った。

 

 石油ストーブの赤い火。カウンター七席と、テーブルが三つ。柱に画鋲で留められた、満開の桜の下の写真。カウンターの端の釘には、坂の上の屋敷に移るまで忉利が毎朝締めていた古いエプロンが、誰にも使われずに下がっていた。

 

 父は、カウンターの内側でネルを振っていた。

 

「……おはよ」

 

「ああ。……座れ」

 

 青子が、いつもの席に腰を下ろす。カウンターの、右から二番目。小学校に上がった年の夏、夏休みの日記に「喫茶店で大人の飲み物を飲んだ」と書くためだけに、忉利と二人でよじ登った席だった。

 

 忉利も、隣に座ろうとした。

 

「お前は、違う」

 

 父はネルを置いて、エプロンの紐をほどきながらカウンターの外に出てきた。忉利の脇を通り過ぎて、青子の隣の、右端の席に、どさりと腰を下ろす。

 

 客の、席に。

 

「中に入れ。……一杯、淹れろ」

 

 三十年近く、この人はあのカウンターの内側に立ち続けてきた。その父が、客の席で腕を組んでいる。

 

 忉利は、黙ってカウンターの内側に回った。鞄から父のネルと豆の袋を出し、飴色の取っ手のミルをカウンターに置く。父の目が、ほんのわずかにそのミルに留まった。

 

 ごり、ごり、と、豆の砕ける音。

 

 階段のいちばん下の段で、きしり、と床板が鳴った。寝間着の上にセーターを着込んだ晴華が、膝を抱えてこちらを見ていた。目の下に、くっきりと隈ができていた。

 

「……起きてたのか」

 

「起きてないもん」

 

 湯を細く注ぐ。粉が膨らむ。客の席の父と、その隣の青子と、階段の晴華が、黙ってその手元を見ていた。柱時計が、こつ、こつ、と秒を刻む。

 

 最後の一滴が落ちて、忉利は、父の前にカップを置いた。

 

 父は香りを確かめて、一口飲んで、長い沈黙の後に言った。

 

「……まだ、尖ってるな。焙煎が、半歩早い」

 

「知ってる」

 

「なら、いい」

 

 父はもう一口飲んで、カップを両手で包んだ。

 

「十年だ。十年経ったら、帰ってこい。帰ってきて、ここで淹れろ。……レジの下の引き出しを、開けてみろ」

 

 伝票の束の一番上に、生成りの厚紙が一枚載っていた。去年のホワイトデーの夕方、父が書いたもの。角張った几帳面な字で、一行だけ。

 

―――夜明け前ブレンド。

 

 値段の欄は、一年経っても空白のままだった。

 

「十年後に、そこに貼る。値段は、その時の味で決める」

 

「……十年で、足りんのかよ」

 

「足りなかったら、二十年だ。それでも足りなかったら、三十年だ。……いつでもいい。帰ってきたら、淹れろ。それだけだ」

 

 忉利は厚紙を引き出しに戻して、父を見た。

 

 目の奥の扉を、少しだけ開く。

 

 父の胸から伸びる、太くてまっすぐな線。その周りに、無数の細い糸が、ほつれて絡みついていた。三十年このカウンターに立ち続けた時間が、使い込んだ縄の毛羽のように刻まれている。

 

 ゆうべ屋根裏で、初めてその意味を知った。十年後、この糸はもっと増えている。

 

 自分の線には、一本も増えないのに。

 

 扉を閉じると、少し白いものの混じり始めた髪と、目尻の皺の、ただの父の顔があった。

 

「……わかった。十年後に、淹れる。客の前で」

 

「ああ」

 

 カウンターの内側に戻ってくる父に、忉利は場所を譲った。すれ違いざまに、父の肩が忉利の肩にぶつかった。ぶつかったのか、ぶつけたのか、わからなかった。

 

 父は、棚の一番上の奥から、埃よけの布をかけた何かを取り出した。

 

 縁に小さな欠けのある、厚手の、大きな白いカップだった。

 

 青子が、息を呑んだ。

 

 父は、そこに珈琲を半分と、温めた牛乳を半分。砂糖を匙に一杯。かき混ぜて、青子の前に置いた。

 

「……最後だろう」

 

 小学一年の夏は、両手でなければ持ち上がらなかったカップだった。今は片手で持てる。それでも、青子は両手で包んだ。

 

 甘くて、それから、少しだけ苦かった。

 

「……子供扱い、しないでよ」

 

「大人の飲み物は、大人になってからだ。……お前は、まだ十八だろう」

 

 青子は、カップの縁に口をつけたまま、顔を上げられなかった。

 

 

◇

 

 

「――私の卒業式、見ないで行くんだ」

 

 階段から、晴華が言った。膝を抱えたまま、顔も上げずに。

 

「中学の卒業式、十五日なのに。高校の合格発表、二十日なのに。……お兄ちゃん、いっつもそうじゃん! 勝手に決めて、勝手に行っちゃって! 私、全部、後から聞いたんだよ!」

 

 顔を上げた晴華の、隈の上に、涙の筋が光っていた。泣かない、と決めていたのに。

 

「十年って、なに? 十年経ったら、私、二十五だよ?」

 

「……悪い」

 

「悪いって思ってないでしょ。……青子ちゃんと一緒なら、どこ行っても平気なんでしょ。私とお父さんのことなんか、すぐ忘れちゃうんでしょ」

 

 忉利はカウンターを回って、階段の前にしゃがみ込んだ。

 

「忘れねえよ」

 

 ジャンパーのポケットから、輪ゴムで束ねた真新しい官製はがきの束を取り出す。

 

「毎月、送る。どこにいても、毎月一枚、必ず」

 

「……毎週」

 

「無理だろ、それは」

 

「……じゃあ、毎月。一回でも忘れたら、青子ちゃんに言いつけるから」

 

「任せなさい」

 

 カップを片手に、青子が力強く頷いた。

 

「月末に書いてなかったら、書くまで宿から出さないわ」

 

「……監禁かよ」

 

 晴華は、泣きながら、ようやく少しだけ笑った。

 

 それから、セーターのポケットから小さな紙袋を二つ取り出して、二人に押しつけた。旅行安全、と金糸で縫い取られたお守りだった。正月に、青子が凶のおみくじを結んだ、西の神社のものだった。

 

「あと、青子ちゃん。……お兄ちゃんに、ちゃんとご飯食べさせてね。人には作るくせに、自分は立ったまま鍋の残りつまんで終わりにするから」

 

「わかったわ。約束する。私、約束は破らないの」

 

 店の奥で、父が黙ってトースターに食パンを放り込んだ。

 

 三枚だった。

 

 焼き上がった一枚を、忉利がカウンターの内側で立ったまま齧ろうとした瞬間、青子の声がぴしゃりと飛んだ。

 

「――座りなさい。お皿に載せて」

 

「立ったままでいいだろ、トーストくらい」

 

「晴華ちゃんと約束したの。今さっき」

 

 青子は、自分の隣の席を、指先でとんとんと叩いた。

 

 父は、ネルから目を離さないまま、棚から皿を一枚出して、黙ってカウンターに置いた。

 

 忉利は長い溜息をついて、カウンターの外に回り、青子の隣に座った。

 

 小学一年の夏、よじ登った席だった。今は、足が床に届く。

 

 

◇

 

 

 七時。最初の客は、角の煙草屋の爺さんだった。三十年、毎朝七時に、同じ席で同じブレンドを飲んでいく。

 

 入り口の鞄を見て、カウンターの中の忉利を見て、爺さんは、くしゃくしゃの千円札を一枚置いた。

 

「餞別だ。一杯、淹れてけ。……釣りはいらん。十年後に、同じ千円で、もう一杯淹れてもらう。それまで、くたばらんようにせんとな」

 

 クリーニング屋のおかみさん。八百屋の親父。常連たちは一人ずつ入ってきて、何も訊かずに一杯を頼み、「十年後にな」とだけ言って出ていった。この町の人間は、そういうふうにしか、別れの言葉を知らなかった。

 

「――写真撮るなら、着替えなきゃ! 青子ちゃん、髪やって!」

 

 晴華に手を引かれて上がった二階の廊下で、青子は、少しだけ開いた襖の前で足を止めた。

 

 がらんとした六畳の和室。その入り口の柱に、鉛筆の線が何本も引かれていた。

 

 背比べの線だった。「はるか 三さい」「とうり 小一」。それから、同じ高さのあたりに、少し丸っこい字で、「あおこ 小一」。

 

「青子ちゃん、うちに泊まりに来るたびに、お兄ちゃんと並んで測ってたでしょ。どっちが高いかって、毎回喧嘩して」

 

 青子の線は「小六」で、忉利の線は「中三」で止まっていた。晴華の線だけが、その先へ伸びている。

 

「私は、まだ測るよ。大人になっても。お兄ちゃんが帰ってきた時、どれだけ伸びたか、見せてやるんだから」

 

 この柱に、自分と忉利の線は、もう増えない。十年後も、二十年後も。

 

「――青子ちゃんも、一緒に帰ってくるよね」

 

 作り笑いは、苦手だった。言い訳も、嫌いだった。

 

 だから青子は、嘘にならない言葉だけを選んだ。

 

「帰ってくるわよ。十年後も、二十年後も。……晴華ちゃんがおばあちゃんになってても、よ」

 

 晴華は、ぷっと吹き出した。

 

「約束ね。じゃあ、髪! 可愛くして! 写真、十年残るんだから!」

 

「……私、人の髪なんて、やったことないんだけど」

 

 

◇

 

 

 七時四十分。父が、花見の日のカメラを持ち出してきた。

 

 色の褪せた看板の下に、四人で並ぶ。父が向かいのシャッターの前に三脚を立てて、レバーを下ろし、小走りに忉利の隣に戻ってくる。

 

 ジー、とタイマーが鳴り始めた。

 

「……青子」

 

 父が、カメラの方を見たまま言った。

 

「そのマフラーは、もう、お前のだ。……こいつは、人のことばかりで、自分のことはやらん」

 

 父は、忉利の方も、青子の方も見なかった。ただ、まっすぐにレンズを見ていた。

 

「……頼む」

 

 青子は、マフラーの端をぎゅっと握りしめた。言葉にならなかった。だから、深く頷いた。

 

「――――はい」

 

 晴華が、鼻をすすった。

 

 忉利は、黙っていた。隣の父の肩が、自分の肩よりほんの少し低い位置にあることに、今、初めて気がついた。

 

 いつの間に、追い越していたのだろう。

 

 カシャッ。

 

 一週間後、その写真は、カウンターの奥の柱の、満開の桜の写真の隣に、画鋲で留められることになる。泣き腫らした目で笑う、少しだけ不格好な三つ編みの少女。濃紺のマフラーに顎を埋めた、長い髪の少女。明後日の方を向いた少年。それから、腕を組んでまっすぐにこちらを見ている、無口な喫茶店の主人。

 

 

◇

 

 

 八時。二人で鞄を提げて、店を出た。

 

 硝子戸の向こうで晴華が大きく手を振っていて、父はカウンターの内側でネルを振っていた。息子が出ていくのに、ネルから目を離さない。それが、この人の見送り方だった。

 

 商店街を、二十歩。

 

 背後で、硝子戸が開いた。

 

「――忉利」

 

 振り返ると、父が、エプロン姿のまま、ネルを持ったまま、店の前に立っていた。

 

 何も言わなかった。ただ、空いている方の手を、肩の高さまで持ち上げた。

 

 忉利も、鞄を持っていない方の手を、同じ高さまで持ち上げた。

 

 それだけで、十分だった。

 

 硝子戸が閉まる。背中の方から、焙煎機の低い唸りと、豆の爆ぜる音が、まだかすかに聞こえていた。この匂いで目が覚めない朝は、日景家には一日もない。

 

 明日の朝も。十年後の朝も。

 

 

◇

 

 

 山では、人を送り出す時、峠でその名前を呼んだ。

 

 一度だけ。大きな声で。呼ばれた者は、振り返らない。名前を呼んでおけば、山がそいつの名前を覚えておく。いつか帰ってくる時に、道を間違えないように、山の方から迎えに来てくれる。

 

 それから、見送る者は、見送られる者より先に峠に着いていなければならない。

 

 だから静希草十郎は、電車の一時間前から、三咲駅のホームのベンチに座っていた。

 

 ポケットには、窓口で買った入場券が一枚。

 

――これで、どこまで行ける。

 

――どこにも行けません。ホームに入れるだけです。

 

 どこにも行けない切符。それでいい、と草十郎は思った。

 

 

◇

 

 

 八時二十分。ホームの階段を、大きな鞄が一つ上ってきた。両側から提げた二人の目元は、どちらも少し赤かった。

 

 HIKAGEで何かあったのだろう。草十郎は、訊かなかった。

 

「何時から待ってたのよ」

 

「七時五十分。山では、見送る者が先に峠に着く」

 

「ここ、峠じゃないわよ」

 

「駅は、町の峠のようなものだろう」

 

 青子は、何か言い返そうとして、小さく笑った。

 

「……そうかもね」

 

 草十郎は、膝の上の、湯気で湿った紙袋を差し出した。白くて丸い、大きな肉まんが三つ。

 

「久万梨からだ。『電車の中で、どうせ何も食べないでしょうから。あの二人、人の世話ばっかり焼いて、自分のことは後回しなんだから』と言っていた。……それと、『見送りなんか行ったら泣くから行かない』とも」

 

「……言っちゃうのね、それ」

 

「言うなとは、言われなかった」

 

 もう一つの、小さな四角い包みを、草十郎は青子に渡した。

 

「これは、久遠寺から。『向こうの紅茶は、たぶん不味いから』と言っていた」

 

 黒いリボンをほどくと、名前の読めない、擦れたラベルの缶が出てきた。屋敷の台所の棚の、一番奥に、いつも置いてあった缶だった。

 

 青子は、缶を胸に抱えて、顔を上げずに言った。

 

「……静希くん。有珠、窓から見てた?」

 

 草十郎は、少しだけ考えた。黙っていろとは、言われていない。

 

「ああ。二階の廊下の、東の窓に、手を当てて。二人が見えなくなるまで、ずっと」

 

 青子は、マフラーに顔を埋めた。

 

 忉利が、黙って、青子の頭に手を置いた。

 

 

◇

 

 

 肉まんの最後の一つを、青子が半分に割って、草十郎に押しつけた。

 

「見送る方も、お腹は空くでしょ」

 

「……そうだな」

 

「静希。お前は、これから、どうすんだ」

 

「バイトをする。それから、庭の手入れ。薔薇が、もうすぐ二年目になる。……あと、久遠寺の紅茶を、十秒短く淹れないように練習する。昨日の夜から三回淹れて、三回とも十秒短いと言われた」

 

「……三回も淹れたのか、あの後」

 

「久遠寺は、三回とも、全部飲んだ。だから、たぶん、不味くはないのだと思う」

 

 青子が、肩を震わせた。

 

 草十郎は、ベンチの上で少しだけ背筋を伸ばして、線路の向こうを見た。

 

「蒼崎は、まっすぐだ。どこに行っても、たぶん、まっすぐ行く。……俺は、それが、うらやましかった」

 

 青子の顔から、笑いが消えた。

 

「でも、まっすぐな道は、帰り道がわかりにくい。だから、帰り道を間違えそうになったら、日景が曲がればいい。日景は、曲がるのがうまい」

 

「……褒めてんのか、それ」

 

「褒めている」

 

 青子が、ふっと息を吐いた。

 

「――ありがとう、静希くん」

 

 何に対しての礼なのかは、言わなかった。遊園地の夜のことか。旧校舎の夜のことか。この一年と少しのことか。たぶん、その全部だった。

 

「ああ」

 

 それで、十分だった。

 

 

◇

 

 

 八時四十五分。銀色の車体が、冷たい風を押しのけてホームに滑り込んできた。

 

 青子が先に乗り込み、忉利が鞄の片側を持ち上げて続く。扉のすぐ内側で、二人は振り返った。

 

 ホームに、草十郎が一人で立っていた。入場券を、指に挟んだまま。

 

「有珠のこと、よろしくね。……あと、ロビンも。卵焼きの端っこ、ちゃんとあげてね」

 

「帳面に、書いてあった」

 

「……じゃあ、行ってくるわ」

 

 発車のベルが、鳴り始めた。

 

 忉利は、何か言うべきだと思った。一年と少し、同じ屋根の下で暮らした。遊園地の夜も、旧校舎の夜も、隣にいた。言葉にするには、多すぎた。

 

 ベルが鳴り止んで、扉が閉まり始める。

 

「――忉利」

 

 叫んだわけではなかった。けれど、山の峠で鍛えられた声は、閉まりかけた扉の隙間を抜けて、まっすぐに届いた。

 

 忉利は、振り返らなかった。振り返らないまま、扉の硝子越しに、草十郎を見ていた。

 

「行ってこい」

 

 扉が、閉まった。

 

 電車が、がたん、と動き出す。忉利は、硝子に手のひらを押しつけた。

 

「――――草十郎」

 

 届かない声だった。けれど、草十郎は、ほんの少しだけ頷いたように見えた。

 

 入場券を指に挟んだまま一人で立っている細い背中が、小さく、小さくなって、見えなくなった。

 

―――電車の最後尾がカーブに消えてからも、草十郎はしばらく、同じ場所に立っていた。

 

「……あの、電車、もう出ましたけど」

 

「知っている。見えなくなってから、百数える。それも、決まりだ」

 

 九十九。百。

 

 どこにも行けない切符を、草十郎は、捨てずにポケットにしまった。

 

 

◇

 

 

 ボックス席の窓の外を、三咲の町が流れていく。商店街の屋根。学校の給水塔。蕾の固い、川沿いの桜並木。

 

「……山に、覚えさせたのね。あんたの名前」

 

「そうらしいな」

 

「私のは、呼ばなかったわね」

 

「お前は、迷わねえだろ。まっすぐだから。……迷うのは、曲がる方だ」

 

 電車が、大きくカーブした。家並みが途切れて、丘の上に、洋館が一つ見えた。

 

 遠すぎて、窓の一つ一つまでは見えない。

 

 忉利は、目の奥の扉を開いた。

 

 丘の上の、二階の東の端の窓のあたりから、一本の線が伸びていた。細く、静かで、一本のほつれも絡みついていない、あの線。

 

「……青子。有珠、まだ窓んとこにいる」

 

 青子が、はっと窓に顔を寄せた。

 

 そして、その窓のあたりから、小さな青い点が一つ、ふわりと飛び立つのを見た。

 

 青い点は、丘を下って、畑の上を横切って、電車と並んで飛び始めた。小さな翼を目一杯に広げて、嘴を開けたり閉じたりしている。声は聞こえない。たぶん、「卵焼きの端っこぉぉ」とか、そういう類のことだ。

 

 青子は、窓硝子に額を押しつけて、笑いながら手を振った。

 

 三つ目の踏切の手前で、ロビンは空中で一度大きく旋回して、丘の方へ引き返していった。青い点が、空の色に溶けて、見えなくなった。

 

 

◇

 

 

 三咲の町が完全に見えなくなった頃、青子は、ようやく窓から顔を離した。鼻の頭が、少し赤かった。

 

 コートのポケットからウォークマンを取り出して、イヤホンの片方を自分の耳に差し、もう片方を、黙って忉利に差し出す。

 

「……あのテープか」

 

「そうよ」

 

 コードは短かった。向かいの席からでは届かない。忉利は少しだけ迷ってから、青子の隣に座り直した。

 

 かちり。

 

 少しくぐもったギターの音が、耳の奥に流れ込んできた。中二の夏、耳鳴りがするほど聞かされた音。今は、イヤホンの片方から、ずいぶん遠く、小さく聞こえた。

 

 知らない町が、流れていく。知らない川。知らない駅。

 

 最後の曲の、サビに差しかかったところで、音がぐにゃりと歪んだ。ギターが間延びして沈み、ボーカルが水の中で歌っているみたいに揺れる。

 

「……ほら。伸びてるでしょ」

 

「ああ」

 

「ここが、いいのよ」

 

 何度も、何度も、同じ場所を再生してきたのだろう。三年間、屋敷の部屋で、一人で。その伸びた場所に何が詰まっているのか、忉利にはわからなかった。わからなくていい、と言われた。

 

 だから、ただ隣で、同じ歪んだ音を聴いていた。

 

 しばらくして、肩に重みがかかった。

 

 忉利が、眠っていた。腕を組んで、イヤホンを片耳に差したまま、青子の肩に頭を預けて。屋根裏から降りてきて、真夜中に紅茶を淹れて、夜明け前にHIKAGEへ向かった。その間、この男が目を閉じているところを、青子は一度も見ていない。

 

――こいつは、人のことばかりで、自分のことはやらん。……頼む。

 

 青子は、肩を動かさないように、じっとしていた。

 

 イエメンという国が地図のどのあたりにあるのかさえ、昨夜初めて調べたくらいだ。言葉も、通貨も知らない。

 

 怖くは、なかった。帰り道を間違えそうになったら、この男が曲がってくれるのだ。

 

「……しっかり曲がりなさいよね。私、曲がり方、知らないんだから」

 

 忉利は、起きなかった。

 

 テープが止まる。かちり、とボタンの戻る音で、肩の上の重みが、ふっと離れた。

 

「……寝てたか、おれ」

 

「五分だけよ」

 

 本当は、四十分だった。

 

 青子は、鞄の持ち手に結ばれた、色の抜けた古い荷札に手を伸ばした。コートのポケットから、赤い紐のついた、真新しい白い荷札を取り出す。

 

 名前の欄に、書く。

 

――蒼崎青子。日景忉利。

 

 行き先の欄の上で、ペン先が止まった。

 

「……書かねえのか。行き先」

 

「書かないわよ。決まってないもの」

 

 青子は、その下の「連絡先」の欄に、ゆっくりと書き込んだ。

 

――三咲町 坂の上 久遠寺邸。

 

 新しい荷札を、古い荷札の隣に、赤い紐で結びつける。何も読めない荷札と、真新しい白い荷札が、持ち手に並んでぶら下がった。

 

「行き先は、わからないけど。……帰る場所は、わかってるもの」

 

 忉利は、何も言わなかった。ポケットの中で、真鍮の鍵を、一度だけ握った。

 

 電車が、大きな川を渡る鉄橋に差しかかった。窓の外で、広い川面が朝の光を白く跳ね返している。

 

 青子が、もう一度テープを巻き戻した。

 

 かちり。

 

 イヤホンのコードの長さの分だけの距離で、二人は並んで、知らない町の方へ運ばれていった。

 

 鞄の持ち手で、二枚の荷札が、電車の揺れに合わせて、かすかに揺れていた。




シエルの小説、もうすぐあげます。

あまり期待しないでいただきたいという保険をかけたい。

更新は不定期です。ストックなんてないので。

あ、でも3話くらいまではある程度構成はできてるので、スラスラ書けるかもしれない、かもしれません。

こっちはまだストックあるので、ご安心下さい。

単純に、どんな話が見たいですか?

  • とりあえずイチャイチャ
  • シリアスな話
  • 他作品のキャラとの絡み
  • FGOコラボ(隈乃温泉殺人事件)
  • 2015年の時計塔
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。