ご注意下さい。
その鞄は、長いあいだ屋根裏で眠っていた。
焦げ茶の革。くすんだ真鍮の留め金。角という角が擦り切れて、白く毛羽立っている。持ち手には、色の抜けた荷札が一枚、紐ごと硬くなってぶら下がっていた。滲んだインクの癖から、それが英語で書かれていたことだけが、かろうじてわかる。
―――海を渡ってきた鞄だった。
梁の下の暗がりで、鞄は何十年も黙っていた。
その春、鞄は、ずいぶん久しぶりに、陽の光の下へ引きずり出されることになった。
◇
一九九一年、三月一日。午前六時。
久遠寺邸の台所の窓を開けると、湿った土の匂いが流れ込んできた。夜のうちに降った雨が庭の黒土をやわらかく溶かして、その下で何かが目を覚ましかけている。そういう匂いだった。
日景忉利は、ネルに湯を落としながら、その匂いを吸い込んでいた。
粉が膨らむ。細かな泡が浮いて、ゆっくりと沈んでいく。一年と少し、この台所で毎朝繰り返してきた手順だ。
この窓を開けて淹れる朝の一杯は、今朝を入れて、あと三回しかない。
「――ネクタイ」
背後から、不機嫌そうな声がした。
振り返るより先に、細い指が首元に伸びてきて、緩んだままの結び目を、きゅっと締め上げた。
「卒業式なのよ。だらしない格好で出ないで」
「……まだ六時だぞ」
「だから今のうちに言ってるの」
蒼崎青子は、ついでのように、ブレザーの胸に並んだ金ボタンを、上から指先でなぞっていった。
一つ。
そこで、指が止まった。
「……ボタンも曲がってる。最後くらい、ちゃんとしなさいよ」
「へいへい」
「へいは一回」
ふん、と鼻を鳴らして、青子は離れた。
ほんの一瞬、焦げた糸のような匂いが鼻先をかすめた気がした。豆を煎りすぎたか、と忉利は手元のネルを見下ろした。いつもの香りだった。
青子が、食器棚から白いマグカップを取り出して、黙って忉利の前に置く。取っ手の付け根に、細い青い線が一本。忉利も黙って、そこに一杯目を注いだ。
草十郎は、とっくに出ていた。まっどべあのごみ出しも、HIKAGEの朝の支度も、卒業式の朝までという約束だった。
雨上がりの庭で、楡の枝先の巣箱から、青い駒鳥が眠たげに顔を出して、また引っ込んだ。
三日後の朝には、この景色を見ていない。
青子は、それを口に出さなかった。忉利も、訊かなかった。
◇
三咲高校の体育館は、灯油ストーブの匂いと、何百人分の緊張とで、ぬるく膨らんでいた。
「――卒業生代表、答辞。蒼崎青子」
名前が呼ばれた瞬間、職員席の空気が、目に見えて固くなった。
入学式の日に男子を一人宙に舞わせ、理事長の息子を返り討ちにして生徒会長の椅子を奪い取った女だ。三年間、職員会議の議題に彼女の名前が上がらなかった月は、たぶん一度もない。
青子は壇上で一礼して、胸ポケットから折りたたんだ便箋を取り出した。
目を落とす。二秒。
それから、便箋を元どおりに折りたたんで、ポケットに戻した。
職員席の誰かが、小さく呻いた。
「……三年間、いろいろありました。いろいろ壊しましたし、いろいろ怒られました。ここにいらっしゃる先生方の半分くらいには、たぶん今でも恨まれていると思います」
押し殺した笑いが走った。
「でも、謝る気はありません。後悔するようなことは、最初からしないようにしてきたつもりです。それでもしてしまった後悔は、抱えて持ち歩くものじゃなくて、一つずつ片付けていくものだと思っています」
壇上から、体育館を見渡す。何百人分の顔の、たった一つを、視線がほんの一瞬だけかすめて、通り過ぎた。
「私たちはこれから、それぞれ別の場所に行きます。……どこに行っても、逃げないでください。逃げたくなったら、この学校にとんでもなくうるさい生徒会長がいたことを、思い出してください。以上です」
一拍遅れて、拍手が、雨が屋根を叩くように広がっていった。
「……会長ぉ……最後まで、かっけえっす……」
隣の列で、木乃美芳助が、鼻水まみれの顔で手を叩いていた。
前の列では、槻司鳶丸が、腕を組んだまま呆れた声を出した。
「……俺が書いてやった原稿、一行も使ってねえ」
「最初から、使う気なかったんだろ」
「知ってたよ。だから徹夜で済ませたんだ」
鳶丸の口の端は、わずかに持ち上がっていた。
その横顔を、少し離れた女子の列から、久万梨金鹿が見ていた。
東京に行くらしい、という噂は、先週から耳に入っていた。本人の口からは、まだ一言も聞いていない。
金鹿は、拍手をするふりをして、目を逸らした。
◇
式が終わると、校庭は、別れと写真と、ほんの少しの戦場の気配に満ちた。
「日景くん、あの、第一ボタン――」
「ブレザーは、一番上のボタンが心臓に一番近いんだって!」
校舎を出た途端、忉利は女子たちに取り囲まれていた。一年前の一月、目の色のことで騒がれた時と、ほとんど同じ顔ぶれだった。
面倒くさそうに自分の胸元を見下ろして、忉利は動きを止めた。
一番上の金ボタンが、なかった。
代わりに、黒い糸の切れ端が二本、ちょろりと飛び出している。糸の先は、ちりちりと縮れて、黒く焦げていた。
今朝の台所。首元に伸びてきた指先。一つ目で止まった指。焦げた糸の匂い。
校庭の向こうで、青子が後輩たちに花束を押しつけられていた。こちらを見ていない。不自然なくらい、見ていない。
長い髪の隙間から覗く耳が、三月の陽射しの中で、やけに赤かった。
「……悪い。売り切れだ」
女子たちの悲鳴が、校庭に響き渡った。
「誰だよ、日景のボタン持ってった奴! ……で、俺のは要る人いる? 今なら全部つけるけど」
芳助が叫び、女子たちが一斉に目を逸らす。その向こうで、一年生の女子が一人、真っ赤な顔で静希草十郎の前に立っていた。
「静希先輩、あの、第一ボタンを……」
「これか」
草十郎は、一番上のボタンを、ためらいなく引きちぎって差し出した。
「やる。……袖にもついているが、要るか」
一年生は、声にならない声を上げて走り去った。
校門の脇では、鳶丸が門柱に背中を預けていた。ブレザーのボタンは、一つも欠けていない。理事長の息子の第一ボタンを取りに来る度胸のある女子は、三咲高校には一人もいなかった。
◇
生徒会室の鍵は、秋に代替わりした新会長が、「一時間だけですよ」と念を押して貸してくれた。
「――で、明日発つのね」
「ああ。東京だ」
会長席の机に行儀悪く腰掛けて、鳶丸は天井を見上げた。
「大学は受かったけどな。行くかどうかは、向こうで決める。……人の揉め事の後始末なら、三年間、誰かさんのおかげで嫌ってほど覚えた。それで食えるなら、それもいい」
「ちょっと。私が揉め事起こしてたみたいに言わないでよ」
「起こしてただろ」
「起こしてたな」
「起こしてたわね」
「起こしてましたっ!」
四人分の声が、見事に揃った。青子は口を開けて、閉じて、ぷいと窓の外を向いた。
芳助は浪人で、金鹿は三咲に残って店を手伝う。鳶丸は順に確かめて、最後に青子を見た。
「お前は、いつ発つ」
「三日後」
「日景も一緒か」
「……ああ」
芳助が、椅子から転げ落ちた。
「か、か、駆け落ちっすか……っ!」
「違うわよ!! 旅行よ、旅行! ちょっと長いだけの!」
「ちょっとって、どれくらいっすか」
青子は、答えなかった。
ちょっと、では済まない。この町に、同じ顔のまま長く居続けることはできない。それを、この三人には言えない。
鳶丸が、ひとつ息をついて、忉利の前に立った。
「日景。こいつの後始末、今度からお前一人だぞ」
「知ってる」
「骨を拾うのも、込みでな」
「……それも、知ってる」
「なら、いい」
鳶丸は、忉利の肩を拳で一度だけ叩いて、片手を振って出ていった。芳助が「殿下ぁ!」と叫びながらその後を追いかけていく。
金鹿は、帳簿から顔を上げなかった。鉛筆の先が、最後の欄の上で、止まったまま動かなかった。
◇
三十分後、青子の湯呑みを取りに戻ると、金鹿はまだそこにいた。
帳簿は、閉じられていた。表紙の上に両手を重ねて、窓の外を見ている。
「……まだいたのか」
「締めが終わったのよ。今」
嘘だろう、と忉利は思った。三十分前には、もう最後の一行しか残っていなかった。
棚の奥から、縁の欠けた湯呑みを取り出す。一年と少し前の冬、魔法瓶の珈琲を、青子がいつもこれに注いで飲んでいた。
「……言わねえのか」
背を向けたまま、忉利は言った。
金鹿の肩が、ぴくりと跳ねた。
「……何のことよ」
「さあな」
しばらく、金鹿は黙っていた。窓の外から、校庭のざわめきが遠く聞こえてくる。誰かの笑い声。誰かの泣き声。写真機のシャッターの音。
「……言わないわよ」
小さな声だった。
「あいつ、明日には東京よ。言ったって、どうにもならないでしょ」
「どうにもならねえかどうかは、言ってみねえとわかんねえだろ」
「わかるわよ。三年、隣の机にいたんだから」
金鹿は、窓の外の校門の方を見た。門柱の脇には、もう誰もいなかった。
「あいつ、自分のことは一言も言わないの。家のことも、お父様のことも、東京に行くことも。……私が知ってるのは、帳簿の数字が合わない時に、黙って自分の財布から足しておく人だってことくらい」
「……知ってたのか、それ」
「会計よ、私。気づかないわけないでしょ。……一回も、言わなかったけど。私も、あいつも」
忉利は、湯呑みを手の中で転がした。
「お前も、行きたかったんじゃねえのか。遠く」
金鹿の指が、帳簿の表紙の上で止まった。
「……誰に聞いたのよ」
「誰にも。お前、三年間、どっか遠くの大学の赤本、帳簿の下に隠して読んでただろ。生徒会室、おれも毎日いたんだぞ」
「――っ」
金鹿は、しばらく黙っていた。それから、観念したように、小さく息を吐いた。
「……受かってたのよ。一校だけ。東京の」
「…………」
「あいつが東京に行くって聞くより、ずっと前に願書出してたのよ。たまたま。本当に、たまたまよ」
金鹿は、帳簿の表紙を指先でなぞった。
「でも、行かない。……今は。親父と兄貴たちを置いて出ていったら、あの店、本当に潰れるもの。静希くんがいたって、帳面つける人がいないんだから」
「東京なんか、電車で行けるだろ」
「そういう問題じゃないの」
それから、じろりと忉利を見上げた。
「……あんたこそ。青子に、言ったの」
忉利は、答えないまま、棚の扉を閉めた。かたん、と乾いた音がした。
「……言ってねえな」
「なら、人のこと言えないじゃない。世界の果てまで一緒に行くくせに」
「おれは、言わなくても、ついてくからな」
「……ずるいわね、それ」
「知ってる」
忉利は扉に手をかけて、少しだけ振り返った。
「けど、あいつは、明日からいねえぞ。……お前の隣に」
金鹿は、何も言い返さなかった。
「久万梨。帳簿、まだしまうなよ。……そのうち、決算が合わなくなるかもしれねえから」
「……は?」
意味がわからない、という顔の金鹿を残して、忉利は生徒会室を出た。
◇
階段を下りる。二階の踊り場。一階の昇降口。
下駄箱の前で、鳶丸が、上履きのまま立っていた。芳助は、もういなかった。
「……忘れもんか、鳶丸」
「うるせえ。お前こそ」
「青子の湯呑み」
ポケットを叩いてみせると、鳶丸は露骨に顔をしかめた。
そのブレザーの胸元で、金ボタンが一つも欠けずに、鈍く光っていた。
「第一ボタン、残ってんな」
「誰も取りに来ねえよ、俺のなんか。理事長の息子のボタンなんざ、呪いの品みてえなもんだ」
鳶丸は、自分の下駄箱の扉を開けて、閉めて、また開けた。靴を出すでもなく。
「……三年間、ここで何してたんだろうな、俺は」
「青子の後始末だろ」
「それと、帳簿の穴埋めな」
鳶丸は、ふっと鼻で笑った。
「……知ってたか」
「久万梨が知ってた」
鳶丸の手が、下駄箱の扉の上で止まった。
「……あいつ、何か言ってたか」
「言ってねえよ。何も。……三年間、一回も言わなかったって、言ってた。自分も、お前も」
鳶丸は、長いこと黙っていた。
忉利は、何気なく、目の奥の扉を、少しだけ開いた。
下駄箱の木目の線。床板の線。それから、鳶丸の胸元から、細い、細い線が一本、伸びていた。昇降口の天井を抜けて、階段の方へ。三階の、端の部屋の方へ。
ほつれかけていた。三年分、誰も結び直さなかった糸のように。
それでも、切れてはいなかった。
忉利は、扉を閉じた。断つのも、結ぶのも、自分の仕事ではなかった。
「……鳶丸」
「なんだよ」
「おれは、言わなくても、明日からも隣にいる。だから、言わなくても、まあ、なんとかなる」
自分の下駄箱から靴を取り出して、踵を押し込む。
「お前は、明日から、いねえだろ」
「…………」
「三階の端の部屋で、まだ帳簿が開いてるらしいぞ。……決算、合わねえと困るだろ。元副会長としては」
それだけ言って、忉利は昇降口を出た。
背後で、長い沈黙があった。
それから、舌打ちが一つ。
「――日景」
振り返ると、鳶丸が、上履きのまま、階段の一段目に足をかけていた。
「……お前に言われると、腹立つな」
「知ってる」
鳶丸は、もう何も言わずに、階段を駆け上がっていった。一段飛ばしの荒っぽい足音が、三階まで遠ざかっていった。
◇
―――本校舎三階の、端の部屋。
扉が、ノックもなしに開いた。
金鹿は、帳簿の表紙から顔を上げなかった。足音で、誰だかわかった。三年間、毎日聞いてきた足音だった。
「……忘れ物? 副会長」
「元、な」
鳶丸は、会計の机の前まで来て、止まった。
しばらく、何も言わなかった。窓の外で、また、誰かが写真機のシャッターを切った。
「……決算」
「合ってるわよ。最後の一行まで。……あんたが黙って足してた分も、全部入れて」
鳶丸が、わずかに目を逸らした。
「……知ってたのかよ」
「知ってたわよ。一円の狂いもなく、ね」
金鹿は、ようやく顔を上げた。
「三年分足すと、けっこうな額よ。……返してほしい?」
「いらねえ」
「そう」
短い沈黙。
鳶丸は、自分のブレザーの胸元に手をやった。
一番上の金ボタンを、指でつまんで。
ぶつり、と、引きちぎった。
閉じた帳簿の表紙の上に、金ボタンが一つ、ころりと置かれた。
「……余った。やる」
金鹿は、帳簿の上のボタンを見下ろした。
「……余ったって、何よ」
「誰も取りに来なかったからな。余りもんだ」
「……決算、合わなくなるんだけど」
「合わせとけ。会計だろ」
鳶丸は、背を向けた。
扉に手をかけて、振り返らずに、言った。
「――東京、電車で二時間だ」
扉が、閉まった。
遠ざかっていく足音は、来た時よりも、ずっとゆっくりだった。
金鹿は、帳簿の上のボタンを、長いこと見下ろしていた。
それから、両手でそっと拾い上げて、胸の前で、ぎゅっと握りしめた。
「……知ってるわよ」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。
「とっくに、時刻表で調べたもの」
◇
その夜、二階の東の端の青子の部屋で、例の鞄が口を開けていた。
三日前、屋根裏から下ろしてきたのは草十郎だった。有珠は暖炉の前でそれを一瞥して、短く言っただけだった。
―――持っていきなさい。わたしが、この国に来た時の鞄よ。
「……入らない」
畳んだ服と、畳みかけの服と、畳むのを諦めた服の山に囲まれて、青子が唸っていた。
「服、減らせよ」
「減らしてこれなのよ!」
忉利は隣にしゃがみ込んで、布の袋の中身を床に並べた。
父の古い手回しのミル。木の取っ手が飴色に光っている。父のネル。陶器のドリッパー。晒し布の予備。それから、麻紐で口を縛った小さな布袋。紐をほどくと、深煎りの豆の匂いが部屋に広がった。
「……夜明け前ブレンド」
「昨日の朝、焼いてきた。親父が椅子に座って、腕組んで見てた。……最後に一粒噛んで、まだ十秒遅いって」
「一年経っても、十秒なのね」
「一年経っても、十秒だ。……これで、イエメンまで食いつなぐ」
「イエメン? どこよ、それ」
「アラビア半島の端っこ。モカって港がある。珈琲の名前の元になった港だ」
「最初の行き先、勝手に決めないでくれる?」
「じゃあ、どこがいい」
青子は、口を開けて、閉じた。
「……いいわよ、イエメンで。どうせ最初は、どこでもいいんだから」
鞄の内側に、仕切られた一角があった。
「そこ、本当は魔術の道具を入れるつもりで空けといたのよ。有珠に、少しは持っていけって言われたから。……でも、触媒とか宝石とか、ああいうごちゃごちゃしたの、好きじゃないの。私は身体一つで撃てるんだから」
青子は、忉利の手からミルを奪い取って、その一角にぐいと押し込んだ。ネルとドリッパーを晒し布でくるんで、隣に。豆の袋を、その隙間に。
ぴたりと、収まった。最初から、そのために空けてあったかのように。
忉利が畳んで、青子が詰める。古い鞄の中身が、少しずつ埋まっていく。
パスポート。去年の暮れに、二人で隣町まで申請に行った。写真の中の忉利は、虹彩の縁の青い輪のせいでひどく人相が悪く写っていて、青子は五分間笑い続けた。
ウォークマン。それから、カセットテープが二本。一月の放課後にレコード屋で買った、まだ新しい一本と、ラベルの剥げかけた古い一本。
「……まだ持ってたのかよ、これ」
忉利は、古い方を拾い上げた。
「中二の夏だろ。隣町のライブハウスで。一番後ろの壁際で三時間立たされて、耳鳴り、二日止まんなかった」
「あんた、途中から寝てたじゃない」
青子はテープを取り返して、擦り切れたラベルを指でなぞった。
「……最近、伸びてきてるのよ。最後の曲の、サビのとこ。もう売ってないわ。解散したもの、このバンド」
「新しい方、聴けばいいだろ」
「どっちも聴くの。……それに、伸びてるのがいいの」
「よくわかんねえな」
「わかんなくていいわよ」
部屋の隅には、ギターが二本立てかけてあった。どちらも、鞄には入れない。
「帰ってきた時、弾くものがないと困るでしょ」
忉利は、何も言わずに、袋の底から濃紺の毛糸の手袋を取り出した。
「私、手袋はしない主義なんだけど」
「知ってる。だから入れとくんだろ。寒くなったら、どうせおれのを取り上げるくせに――」
内ポケットに押し込もうとした指先が、何か小さくて硬いものに触れた。
摘み出す。
三咲高校の校章が刻まれた、金ボタンだった。裏の小さな輪に、焦げて縮れた黒い糸が、二本くっついている。
青子が、石のように固まった。
「……これ、おれのだよな」
「し、知らないわよ! 有珠の鞄なんだから、最初から入ってたんじゃないの!」
「有珠の鞄に、三咲高校のボタンがか。糸、焦げてんだけど」
青子はボタンをひったくって、真っ赤な顔で睨みつけた。
「……だって。変な子に渡されたら、困るでしょ」
「変な子って誰だよ」
「変な子は変な子よっ!」
ボタンを内ポケットの一番奥に押し込んで、留め具をぱちりと閉める。その上から、手のひらでぐいぐいと押さえつけた。
「持ってくの。……文句ある?」
「ねえよ」
青子は、膝を抱えた腕に顔を埋めてしまった。くぐもった声で、「ばか」とか「最低」とか、そういう類の言葉が聞こえた。
忉利は少しだけ笑って、古い革の蓋を下ろした。
目の奥の扉を、少しだけ開く。
縫い目の線が見えた。何十年も前に、どこかの職人が一針ずつ通した糸。海を渡って、屋根裏で眠って、今日また引きずり出された鞄の縫い目は、一本も切れていなかった。
まだ、どこまでも行ける。そういう線だった。
「……頑丈な鞄だな」
「有珠の鞄だもの」
顔を上げないまま、青子が言った。
「……今は私のだけど」
真鍮の留め金を、一つずつ押し込む。
ぱちん。ぱちん。
◇
廊下の突き当たりの窓辺に、有珠が立っていた。黒い部屋着の肩に、ロビンが丸くなってとまっている。
「……閉まったのね。鞄」
「ああ。悪いな、珈琲の道具詰め込んじまった」
「知っているわ。匂いで。……しばらく、珈琲臭くなるわね」
有珠は、窓の外を見たまま言った。
「中身は、ちゃんと持って帰ってきなさい。……あれは、わたしの鞄よ。貸すだけ」
「わかってる」
有珠は窓辺を離れて、忉利の脇を通り過ぎ、三歩で足を止めた。振り返らなかった。
「――忉利。出発の前の晩。少しだけ、時間をちょうだい」
「……なんだよ、改まって」
「話しておくことが、あるの」
有珠の肩の上で、ロビンが、もぞりと身じろぎした。
「マ、マイ天使……それって、もしかして――」
「黙りなさい、駄鳥」
「……ッス」
◇
三月三日。夕方。
台所から、トマトの煮詰まる匂いが、廊下の端まで流れていた。
――赤いのにして。夕食よ。最後なのでしょう。
今朝、有珠はそれだけ言った。ナポリタンか、と訊き返すと、答えずに紅茶を一口飲んだ。否定しないのは、この魔女にとっての肯定だった。
「……それ、何切りだよ」
「青子切りよ! 文句あるなら自分で切りなさいよ、目が痛くて前が見えないんだから!」
分厚くて不揃いな玉ねぎを、青子が涙目で刻んでいる。
昼過ぎから、青子は二時間ほど、有珠と居間にこもっていた。出てきた時の目も、今と同じくらい赤かった。玉ねぎのせいにできる分、今の方がまだましだろう、と忉利は思った。
勝手口が開いて、草十郎が紙袋を一つぶら下げて帰ってきた。
「久万梨からだ。今日は三月三日だから、持っていけと言われた」
袋の口から、桃色と白と薄緑の雛あられがこぼれそうになっていた。
「久万梨は、今日は機嫌がよかった。帳簿をつけながら、ずっと左手に何かを握っていた。何を握っているのか訊いたら、雛あられを投げつけられた」
青子が、玉ねぎとは別の理由で肩を震わせ始めた。
◇
一年と少し前、この屋敷で忉利が最初に作ったのも、ナポリタンだった。
あの時と同じように、有珠は一口目から黙って食べ続けて、四人の中で一番最初に皿を空にした。
「……もう、ないのかしら」
「あるよ」
忉利は、テーブルの端のフライパンの蓋を持ち上げた。ちょうど一人分が残っていた。
「……わたしが、おかわりをすると決めつけていたの」
「するだろ。しねえなら、静希が食う」
「食べる」
有珠は、無言で空の皿を忉利の方へ押しやった。
二杯目を盛って戻してから、忉利は、紐で綴じた手製の帳面を草十郎に渡した。
「引き継ぎだ」
草十郎は表紙を開いて、真顔で読み上げた。
「『紅茶。ダージリン三分。アッサム四分。名前の読めない缶は三分半。十秒短くても長くても気づかれる』。『卵焼きは、一本だけ砂糖を多めにする。それは久遠寺の分。端っこは駒鳥の分』。『機嫌が悪い時は、何も言わずに甘いものを出す。それで駄目なら、一晩放っておく』」
「――忉利」
有珠の声は、ほとんど氷だった。
「わたしは、家電ではないわ」
「似たようなもんだろ。取扱説明書がないと困る」
「似ていないわ」
「おいらのことも書いてあるッスか!?」
止まり木から、ロビンが身を乗り出した。草十郎が、頁をめくる。
「……『駒鳥は、甘やかすとつけ上がる』」
「シャバ憎二号ぉぉ!!」
青子が、椅子から転げ落ちそうになった。
有珠は長い溜息をついて、草十郎の手元に目をやった。
「その帳面。わたしのいないところで、読みなさい」
捨てろ、とは言わなかった。
◇
九時過ぎに青子が、続いて草十郎が部屋に引き上げると、有珠は空のカップを受け皿に戻して立ち上がった。
「――来て」
二階の廊下の突き当たり、天井の四角い蓋を、有珠が鉤のついた棒で押し上げる。軋みながら、折りたたみの梯子が降りてきた。
屋根裏は、埃と古い木の匂いがした。太い梁の下に、白い布をかけた家具の影がいくつも蹲っている。妻側の壁の小さな丸窓から、月の光が床に白い円を落としていた。
その円のすぐ脇に、埃の積もっていない長方形の跡があった。
ちょうど、大きな鞄が一つ置かれていたくらいの。
「この国に来てから、ずっと、ここにあったの」
有珠は、その跡の隣に膝を折って座った。ロビンが、布をかけた木馬の頭の上に飛び移って、翼を畳んだ。
「――忉利。あなたの目で、わたしを見て。時間の線を」
忉利は、目の奥の扉を開いた。
梁の木目の線。布の織り目の線。それらを通り越して、有珠の胸元から、一本の線が伸びていた。細く、静かで、丸窓の外の夜へ、その向こうの十年先へ、目で追いきれないほど遠くまで流れていく。
「……前に、流れてる。みんなと同じだ」
「それで、あなたは、わたしが歳を取ると思ったのね」
忉利は、息を止めた。
「半分は、合っているわ。わたしの時間は、ちゃんと流れているの。……でも、わたしは、ほとんど変わらないわ。十年経っても。二十年経っても。……線の、周りを見なさい」
目を凝らす。
晴華の線には、流れていくにつれて、ごく細い糸のようなものが、少しずつほつれて絡みついていく。父の線には、もっとたくさん。使い込んだ縄の表面が毛羽立っていくように、時間が流れるたびに、身体に小さな痕が刻まれていく。
それが老いというものの形なのだと、忉利は、今初めて知った。
有珠の線には、それがなかった。時間は流れている。けれど、その流れは、有珠という岸を一粒も削らずに、磨かれた石の上を滑る水のように、ただ素通りしていく。
「……なんだよ、これ」
「体質よ。それ以上は、説明しないわ。長くなるもの」
遊園地の朝靄の中で初めて見た時と、何ひとつ変わっていない顔だった。この一年で、晴華は背が伸びた。草十郎は肩幅が少し広くなった。鏡の中の自分と青子は、まだ変わっている途中で、あと二年か三年で止まる。
有珠だけが、最初から、止まっていた。
「……青子は、知ってんのか」
「ええ。一緒に暮らし始めた頃から」
「静希は」
「……知らないわ。言うつもりも、ないの。草十郎は、変わっていくわ。……それで、いいの」
有珠は、月の光から手を引いた。
「去年の春、土手でみんなで写真を撮った日。あなた、タイマーが鳴っている間、線を見ていたでしょう。この写真の中で歳を取らないのは自分たちだけだ、って顔で。……だから、この町を出ていくのでしょう。変わらない顔を、見られないうちに」
忉利は、答えなかった。
「だから、話しておこうと思ったの」
月の光を背にして、有珠の目が、暗がりの中で静かに光っていた。
「覚えておきなさい。変わらない顔が、ここにも一つあるわ。十年後に帰ってきても。百年後に帰ってきても。わたしは、この家で、同じ顔をしているわ。だから、ここでだけは、何も隠さなくていいの」
屋根裏の空気が、しんと静まり返った。
「帰る場所は、ここにあるわ」
忉利は、長いこと、何も言えなかった。
「……そうかよ」
声が、少しだけ掠れていた。
「じゃあ、百年後も、ここ来て紅茶淹れりゃいいんだな」
「……あ」
有珠が、小さく声を漏らした。
「なんだよ」
「……なんでもないわ」
有珠は、ふいと丸窓の方に顔を背けた。
「百年後でも、蒸らしが十秒短かったら、追い返すわよ」
「知ってる」
部屋着のポケットから、有珠は古い真鍮の鍵を取り出した。頭の部分に、蔦の葉の透かし彫り。長い年月撫でられ続けて、角という角が丸く鈍く光っている。
「この家の鍵よ。この家の結界は、招かれていない者を坂の途中で迷わせて帰すわ。……これを持っている者は、いつでも招かれているの。青子は、もう持っている。これは、あなたの分」
受け取った鍵は、冷たかった。握っているうちに、少しずつ、手のひらの熱が移っていった。
「失くしたら、許さないわ。海に落としたら、泳いで拾いなさい」
「……泳ぐのかよ」
「拾えないなら、潜りなさい」
忉利は、小さく吹き出した。有珠はにこりともしなかったが、その目元のわずかな和らぎを、月の光は隠さなかった。
「……う、うぅ……」
木馬の上で、ロビンが翼で顔を覆って震えていた。
「シャバ憎二号がいなくなったら、卵焼きの端っこ、誰にもらえばいいんスか……! シャバ憎は山育ちだから、残すって概念がないッス……!」
「帳面に書いといたぞ。端っこは駒鳥の分って」
「甘やかすとつけ上がる、とも書いてあったッス!!」
忉利は、とうとう声を上げて笑った。月の光の中で、屋根裏の埃がふわりと舞い上がった。
◇
その笑い声を、青子は、天井の下の布団の中で聞いていた。
―――屋根裏に、連れていったのね。
昼間、居間の閉じた扉の向こうで、有珠は言った。今夜、あの子にも話すわ、と。それから、暖炉の火を見つめたまま、ひどく静かな声でこう言った。
――青子。あの子を、ちゃんと連れて帰ってきなさい。あなたが先に飽きて、どこかに置いてきたりしたら、許さないわ。
――飽きないわよ。
――どうかしら。あなた、熱しやすくて冷めやすいもの。……冗談よ。
有珠の冗談は、いつも、冗談にしなければ言えないことの代わりだった。だから青子は、その時だけは言い返さずに、暖炉の火が小さくなるまで、黙って隣に座っていた。
梯子の畳まれる軋みと、階段を下りていく二人分の足音を聞き届けてから、青子は布団を抜け出した。
喉なんか、渇いていなかった。
◇
零時過ぎの台所に、明かりが一つだけ点いていた。
名前の読めない古い缶。温めたポット。砂時計。三分半。
一年と少し前、忉利が初めてこの台所で紅茶を淹れた時、有珠は同じ椅子で、同じ目で見ていた。あの時は、見張るために。今は、たぶん、覚えておくために。
「――何してんのよ、二人して」
寝癖の跳ねた青子が、入り口の柱にもたれていた。調理台の上の真鍮の鍵に気づいて、足を止める。
「……有珠。話したの」
「ええ」
「……そ。なら、よかったわ」
それだけ言って、自分のカップを忉利の前に置いた。
「――明かりが、見えた」
綿入れを羽織った草十郎が、帳面を抱えて立っていた。
「ここに、『紅茶は、自分で淹れて覚えろ』と書いてある。今、覚えてもいいか」
忉利が有珠を見ると、有珠は目を伏せた。駄目だとは、言わなかった。
ポットを温めるところから、一つずつ手順を口にしていく。草十郎は、一言も聞き漏らすまいとするように頷いていた。棚の上に、ロビンが舞い降りた。
―――この家は、変わらない。
有珠は、カップの縁越しに、三人の背中を見ていた。明日の朝、二人がいなくなっても、この台所はここにある。十年後も、百年後も。そして、自分も。
草十郎が初めて淹れた紅茶を、有珠は一口飲んで、少しだけ目を閉じた。
「……十秒、短いわ」
「そうか。……覚えた」
草十郎が、帳面に鉛筆で書き込む。
忉利は、ポケットの中の鍵を握った。真鍮は、もう、すっかり温まっていた。
◇
三月四日。午前六時四十分。
有珠は、玄関に出てこなかった。昨日の夜に、もう全部済ませた。そういうことにして、二人は坂を下りた。
商店街のシャッターは、まだどれも下りていた。
薄青い夜明けの中を、忉利は大きな鞄を提げて歩いていた。中身を詰めすぎて、一歩ごとにミルの金具がかたかたと鳴る。
「……代わる?」
青子が、横目で言った。首には、濃紺のウールのマフラー。元日に忉利が巻いてやってから、なんとなく青子の首に居着いてしまったものだ。
「重くねえ」
「顔、真っ赤じゃない」
「寒いからだ」
青子はそれ以上何も言わずに、持ち手の、忉利の手のすぐ隣に、自分の手をかけた。
重さが、半分になった。
商店街の外れの、色の褪せた木の看板。「Cafe HIKAGE」。開店は七時で、まだ二十分あるのに、ドアの札は、もう「営業中」に返されていた。
ドアベルが、からん、と鳴った。
石油ストーブの赤い火。カウンター七席と、テーブルが三つ。柱に画鋲で留められた、満開の桜の下の写真。カウンターの端の釘には、坂の上の屋敷に移るまで忉利が毎朝締めていた古いエプロンが、誰にも使われずに下がっていた。
父は、カウンターの内側でネルを振っていた。
「……おはよ」
「ああ。……座れ」
青子が、いつもの席に腰を下ろす。カウンターの、右から二番目。小学校に上がった年の夏、夏休みの日記に「喫茶店で大人の飲み物を飲んだ」と書くためだけに、忉利と二人でよじ登った席だった。
忉利も、隣に座ろうとした。
「お前は、違う」
父はネルを置いて、エプロンの紐をほどきながらカウンターの外に出てきた。忉利の脇を通り過ぎて、青子の隣の、右端の席に、どさりと腰を下ろす。
客の、席に。
「中に入れ。……一杯、淹れろ」
三十年近く、この人はあのカウンターの内側に立ち続けてきた。その父が、客の席で腕を組んでいる。
忉利は、黙ってカウンターの内側に回った。鞄から父のネルと豆の袋を出し、飴色の取っ手のミルをカウンターに置く。父の目が、ほんのわずかにそのミルに留まった。
ごり、ごり、と、豆の砕ける音。
階段のいちばん下の段で、きしり、と床板が鳴った。寝間着の上にセーターを着込んだ晴華が、膝を抱えてこちらを見ていた。目の下に、くっきりと隈ができていた。
「……起きてたのか」
「起きてないもん」
湯を細く注ぐ。粉が膨らむ。客の席の父と、その隣の青子と、階段の晴華が、黙ってその手元を見ていた。柱時計が、こつ、こつ、と秒を刻む。
最後の一滴が落ちて、忉利は、父の前にカップを置いた。
父は香りを確かめて、一口飲んで、長い沈黙の後に言った。
「……まだ、尖ってるな。焙煎が、半歩早い」
「知ってる」
「なら、いい」
父はもう一口飲んで、カップを両手で包んだ。
「十年だ。十年経ったら、帰ってこい。帰ってきて、ここで淹れろ。……レジの下の引き出しを、開けてみろ」
伝票の束の一番上に、生成りの厚紙が一枚載っていた。去年のホワイトデーの夕方、父が書いたもの。角張った几帳面な字で、一行だけ。
―――夜明け前ブレンド。
値段の欄は、一年経っても空白のままだった。
「十年後に、そこに貼る。値段は、その時の味で決める」
「……十年で、足りんのかよ」
「足りなかったら、二十年だ。それでも足りなかったら、三十年だ。……いつでもいい。帰ってきたら、淹れろ。それだけだ」
忉利は厚紙を引き出しに戻して、父を見た。
目の奥の扉を、少しだけ開く。
父の胸から伸びる、太くてまっすぐな線。その周りに、無数の細い糸が、ほつれて絡みついていた。三十年このカウンターに立ち続けた時間が、使い込んだ縄の毛羽のように刻まれている。
ゆうべ屋根裏で、初めてその意味を知った。十年後、この糸はもっと増えている。
自分の線には、一本も増えないのに。
扉を閉じると、少し白いものの混じり始めた髪と、目尻の皺の、ただの父の顔があった。
「……わかった。十年後に、淹れる。客の前で」
「ああ」
カウンターの内側に戻ってくる父に、忉利は場所を譲った。すれ違いざまに、父の肩が忉利の肩にぶつかった。ぶつかったのか、ぶつけたのか、わからなかった。
父は、棚の一番上の奥から、埃よけの布をかけた何かを取り出した。
縁に小さな欠けのある、厚手の、大きな白いカップだった。
青子が、息を呑んだ。
父は、そこに珈琲を半分と、温めた牛乳を半分。砂糖を匙に一杯。かき混ぜて、青子の前に置いた。
「……最後だろう」
小学一年の夏は、両手でなければ持ち上がらなかったカップだった。今は片手で持てる。それでも、青子は両手で包んだ。
甘くて、それから、少しだけ苦かった。
「……子供扱い、しないでよ」
「大人の飲み物は、大人になってからだ。……お前は、まだ十八だろう」
青子は、カップの縁に口をつけたまま、顔を上げられなかった。
◇
「――私の卒業式、見ないで行くんだ」
階段から、晴華が言った。膝を抱えたまま、顔も上げずに。
「中学の卒業式、十五日なのに。高校の合格発表、二十日なのに。……お兄ちゃん、いっつもそうじゃん! 勝手に決めて、勝手に行っちゃって! 私、全部、後から聞いたんだよ!」
顔を上げた晴華の、隈の上に、涙の筋が光っていた。泣かない、と決めていたのに。
「十年って、なに? 十年経ったら、私、二十五だよ?」
「……悪い」
「悪いって思ってないでしょ。……青子ちゃんと一緒なら、どこ行っても平気なんでしょ。私とお父さんのことなんか、すぐ忘れちゃうんでしょ」
忉利はカウンターを回って、階段の前にしゃがみ込んだ。
「忘れねえよ」
ジャンパーのポケットから、輪ゴムで束ねた真新しい官製はがきの束を取り出す。
「毎月、送る。どこにいても、毎月一枚、必ず」
「……毎週」
「無理だろ、それは」
「……じゃあ、毎月。一回でも忘れたら、青子ちゃんに言いつけるから」
「任せなさい」
カップを片手に、青子が力強く頷いた。
「月末に書いてなかったら、書くまで宿から出さないわ」
「……監禁かよ」
晴華は、泣きながら、ようやく少しだけ笑った。
それから、セーターのポケットから小さな紙袋を二つ取り出して、二人に押しつけた。旅行安全、と金糸で縫い取られたお守りだった。正月に、青子が凶のおみくじを結んだ、西の神社のものだった。
「あと、青子ちゃん。……お兄ちゃんに、ちゃんとご飯食べさせてね。人には作るくせに、自分は立ったまま鍋の残りつまんで終わりにするから」
「わかったわ。約束する。私、約束は破らないの」
店の奥で、父が黙ってトースターに食パンを放り込んだ。
三枚だった。
焼き上がった一枚を、忉利がカウンターの内側で立ったまま齧ろうとした瞬間、青子の声がぴしゃりと飛んだ。
「――座りなさい。お皿に載せて」
「立ったままでいいだろ、トーストくらい」
「晴華ちゃんと約束したの。今さっき」
青子は、自分の隣の席を、指先でとんとんと叩いた。
父は、ネルから目を離さないまま、棚から皿を一枚出して、黙ってカウンターに置いた。
忉利は長い溜息をついて、カウンターの外に回り、青子の隣に座った。
小学一年の夏、よじ登った席だった。今は、足が床に届く。
◇
七時。最初の客は、角の煙草屋の爺さんだった。三十年、毎朝七時に、同じ席で同じブレンドを飲んでいく。
入り口の鞄を見て、カウンターの中の忉利を見て、爺さんは、くしゃくしゃの千円札を一枚置いた。
「餞別だ。一杯、淹れてけ。……釣りはいらん。十年後に、同じ千円で、もう一杯淹れてもらう。それまで、くたばらんようにせんとな」
クリーニング屋のおかみさん。八百屋の親父。常連たちは一人ずつ入ってきて、何も訊かずに一杯を頼み、「十年後にな」とだけ言って出ていった。この町の人間は、そういうふうにしか、別れの言葉を知らなかった。
「――写真撮るなら、着替えなきゃ! 青子ちゃん、髪やって!」
晴華に手を引かれて上がった二階の廊下で、青子は、少しだけ開いた襖の前で足を止めた。
がらんとした六畳の和室。その入り口の柱に、鉛筆の線が何本も引かれていた。
背比べの線だった。「はるか 三さい」「とうり 小一」。それから、同じ高さのあたりに、少し丸っこい字で、「あおこ 小一」。
「青子ちゃん、うちに泊まりに来るたびに、お兄ちゃんと並んで測ってたでしょ。どっちが高いかって、毎回喧嘩して」
青子の線は「小六」で、忉利の線は「中三」で止まっていた。晴華の線だけが、その先へ伸びている。
「私は、まだ測るよ。大人になっても。お兄ちゃんが帰ってきた時、どれだけ伸びたか、見せてやるんだから」
この柱に、自分と忉利の線は、もう増えない。十年後も、二十年後も。
「――青子ちゃんも、一緒に帰ってくるよね」
作り笑いは、苦手だった。言い訳も、嫌いだった。
だから青子は、嘘にならない言葉だけを選んだ。
「帰ってくるわよ。十年後も、二十年後も。……晴華ちゃんがおばあちゃんになってても、よ」
晴華は、ぷっと吹き出した。
「約束ね。じゃあ、髪! 可愛くして! 写真、十年残るんだから!」
「……私、人の髪なんて、やったことないんだけど」
◇
七時四十分。父が、花見の日のカメラを持ち出してきた。
色の褪せた看板の下に、四人で並ぶ。父が向かいのシャッターの前に三脚を立てて、レバーを下ろし、小走りに忉利の隣に戻ってくる。
ジー、とタイマーが鳴り始めた。
「……青子」
父が、カメラの方を見たまま言った。
「そのマフラーは、もう、お前のだ。……こいつは、人のことばかりで、自分のことはやらん」
父は、忉利の方も、青子の方も見なかった。ただ、まっすぐにレンズを見ていた。
「……頼む」
青子は、マフラーの端をぎゅっと握りしめた。言葉にならなかった。だから、深く頷いた。
「――――はい」
晴華が、鼻をすすった。
忉利は、黙っていた。隣の父の肩が、自分の肩よりほんの少し低い位置にあることに、今、初めて気がついた。
いつの間に、追い越していたのだろう。
カシャッ。
一週間後、その写真は、カウンターの奥の柱の、満開の桜の写真の隣に、画鋲で留められることになる。泣き腫らした目で笑う、少しだけ不格好な三つ編みの少女。濃紺のマフラーに顎を埋めた、長い髪の少女。明後日の方を向いた少年。それから、腕を組んでまっすぐにこちらを見ている、無口な喫茶店の主人。
◇
八時。二人で鞄を提げて、店を出た。
硝子戸の向こうで晴華が大きく手を振っていて、父はカウンターの内側でネルを振っていた。息子が出ていくのに、ネルから目を離さない。それが、この人の見送り方だった。
商店街を、二十歩。
背後で、硝子戸が開いた。
「――忉利」
振り返ると、父が、エプロン姿のまま、ネルを持ったまま、店の前に立っていた。
何も言わなかった。ただ、空いている方の手を、肩の高さまで持ち上げた。
忉利も、鞄を持っていない方の手を、同じ高さまで持ち上げた。
それだけで、十分だった。
硝子戸が閉まる。背中の方から、焙煎機の低い唸りと、豆の爆ぜる音が、まだかすかに聞こえていた。この匂いで目が覚めない朝は、日景家には一日もない。
明日の朝も。十年後の朝も。
◇
山では、人を送り出す時、峠でその名前を呼んだ。
一度だけ。大きな声で。呼ばれた者は、振り返らない。名前を呼んでおけば、山がそいつの名前を覚えておく。いつか帰ってくる時に、道を間違えないように、山の方から迎えに来てくれる。
それから、見送る者は、見送られる者より先に峠に着いていなければならない。
だから静希草十郎は、電車の一時間前から、三咲駅のホームのベンチに座っていた。
ポケットには、窓口で買った入場券が一枚。
――これで、どこまで行ける。
――どこにも行けません。ホームに入れるだけです。
どこにも行けない切符。それでいい、と草十郎は思った。
◇
八時二十分。ホームの階段を、大きな鞄が一つ上ってきた。両側から提げた二人の目元は、どちらも少し赤かった。
HIKAGEで何かあったのだろう。草十郎は、訊かなかった。
「何時から待ってたのよ」
「七時五十分。山では、見送る者が先に峠に着く」
「ここ、峠じゃないわよ」
「駅は、町の峠のようなものだろう」
青子は、何か言い返そうとして、小さく笑った。
「……そうかもね」
草十郎は、膝の上の、湯気で湿った紙袋を差し出した。白くて丸い、大きな肉まんが三つ。
「久万梨からだ。『電車の中で、どうせ何も食べないでしょうから。あの二人、人の世話ばっかり焼いて、自分のことは後回しなんだから』と言っていた。……それと、『見送りなんか行ったら泣くから行かない』とも」
「……言っちゃうのね、それ」
「言うなとは、言われなかった」
もう一つの、小さな四角い包みを、草十郎は青子に渡した。
「これは、久遠寺から。『向こうの紅茶は、たぶん不味いから』と言っていた」
黒いリボンをほどくと、名前の読めない、擦れたラベルの缶が出てきた。屋敷の台所の棚の、一番奥に、いつも置いてあった缶だった。
青子は、缶を胸に抱えて、顔を上げずに言った。
「……静希くん。有珠、窓から見てた?」
草十郎は、少しだけ考えた。黙っていろとは、言われていない。
「ああ。二階の廊下の、東の窓に、手を当てて。二人が見えなくなるまで、ずっと」
青子は、マフラーに顔を埋めた。
忉利が、黙って、青子の頭に手を置いた。
◇
肉まんの最後の一つを、青子が半分に割って、草十郎に押しつけた。
「見送る方も、お腹は空くでしょ」
「……そうだな」
「静希。お前は、これから、どうすんだ」
「バイトをする。それから、庭の手入れ。薔薇が、もうすぐ二年目になる。……あと、久遠寺の紅茶を、十秒短く淹れないように練習する。昨日の夜から三回淹れて、三回とも十秒短いと言われた」
「……三回も淹れたのか、あの後」
「久遠寺は、三回とも、全部飲んだ。だから、たぶん、不味くはないのだと思う」
青子が、肩を震わせた。
草十郎は、ベンチの上で少しだけ背筋を伸ばして、線路の向こうを見た。
「蒼崎は、まっすぐだ。どこに行っても、たぶん、まっすぐ行く。……俺は、それが、うらやましかった」
青子の顔から、笑いが消えた。
「でも、まっすぐな道は、帰り道がわかりにくい。だから、帰り道を間違えそうになったら、日景が曲がればいい。日景は、曲がるのがうまい」
「……褒めてんのか、それ」
「褒めている」
青子が、ふっと息を吐いた。
「――ありがとう、静希くん」
何に対しての礼なのかは、言わなかった。遊園地の夜のことか。旧校舎の夜のことか。この一年と少しのことか。たぶん、その全部だった。
「ああ」
それで、十分だった。
◇
八時四十五分。銀色の車体が、冷たい風を押しのけてホームに滑り込んできた。
青子が先に乗り込み、忉利が鞄の片側を持ち上げて続く。扉のすぐ内側で、二人は振り返った。
ホームに、草十郎が一人で立っていた。入場券を、指に挟んだまま。
「有珠のこと、よろしくね。……あと、ロビンも。卵焼きの端っこ、ちゃんとあげてね」
「帳面に、書いてあった」
「……じゃあ、行ってくるわ」
発車のベルが、鳴り始めた。
忉利は、何か言うべきだと思った。一年と少し、同じ屋根の下で暮らした。遊園地の夜も、旧校舎の夜も、隣にいた。言葉にするには、多すぎた。
ベルが鳴り止んで、扉が閉まり始める。
「――忉利」
叫んだわけではなかった。けれど、山の峠で鍛えられた声は、閉まりかけた扉の隙間を抜けて、まっすぐに届いた。
忉利は、振り返らなかった。振り返らないまま、扉の硝子越しに、草十郎を見ていた。
「行ってこい」
扉が、閉まった。
電車が、がたん、と動き出す。忉利は、硝子に手のひらを押しつけた。
「――――草十郎」
届かない声だった。けれど、草十郎は、ほんの少しだけ頷いたように見えた。
入場券を指に挟んだまま一人で立っている細い背中が、小さく、小さくなって、見えなくなった。
―――電車の最後尾がカーブに消えてからも、草十郎はしばらく、同じ場所に立っていた。
「……あの、電車、もう出ましたけど」
「知っている。見えなくなってから、百数える。それも、決まりだ」
九十九。百。
どこにも行けない切符を、草十郎は、捨てずにポケットにしまった。
◇
ボックス席の窓の外を、三咲の町が流れていく。商店街の屋根。学校の給水塔。蕾の固い、川沿いの桜並木。
「……山に、覚えさせたのね。あんたの名前」
「そうらしいな」
「私のは、呼ばなかったわね」
「お前は、迷わねえだろ。まっすぐだから。……迷うのは、曲がる方だ」
電車が、大きくカーブした。家並みが途切れて、丘の上に、洋館が一つ見えた。
遠すぎて、窓の一つ一つまでは見えない。
忉利は、目の奥の扉を開いた。
丘の上の、二階の東の端の窓のあたりから、一本の線が伸びていた。細く、静かで、一本のほつれも絡みついていない、あの線。
「……青子。有珠、まだ窓んとこにいる」
青子が、はっと窓に顔を寄せた。
そして、その窓のあたりから、小さな青い点が一つ、ふわりと飛び立つのを見た。
青い点は、丘を下って、畑の上を横切って、電車と並んで飛び始めた。小さな翼を目一杯に広げて、嘴を開けたり閉じたりしている。声は聞こえない。たぶん、「卵焼きの端っこぉぉ」とか、そういう類のことだ。
青子は、窓硝子に額を押しつけて、笑いながら手を振った。
三つ目の踏切の手前で、ロビンは空中で一度大きく旋回して、丘の方へ引き返していった。青い点が、空の色に溶けて、見えなくなった。
◇
三咲の町が完全に見えなくなった頃、青子は、ようやく窓から顔を離した。鼻の頭が、少し赤かった。
コートのポケットからウォークマンを取り出して、イヤホンの片方を自分の耳に差し、もう片方を、黙って忉利に差し出す。
「……あのテープか」
「そうよ」
コードは短かった。向かいの席からでは届かない。忉利は少しだけ迷ってから、青子の隣に座り直した。
かちり。
少しくぐもったギターの音が、耳の奥に流れ込んできた。中二の夏、耳鳴りがするほど聞かされた音。今は、イヤホンの片方から、ずいぶん遠く、小さく聞こえた。
知らない町が、流れていく。知らない川。知らない駅。
最後の曲の、サビに差しかかったところで、音がぐにゃりと歪んだ。ギターが間延びして沈み、ボーカルが水の中で歌っているみたいに揺れる。
「……ほら。伸びてるでしょ」
「ああ」
「ここが、いいのよ」
何度も、何度も、同じ場所を再生してきたのだろう。三年間、屋敷の部屋で、一人で。その伸びた場所に何が詰まっているのか、忉利にはわからなかった。わからなくていい、と言われた。
だから、ただ隣で、同じ歪んだ音を聴いていた。
しばらくして、肩に重みがかかった。
忉利が、眠っていた。腕を組んで、イヤホンを片耳に差したまま、青子の肩に頭を預けて。屋根裏から降りてきて、真夜中に紅茶を淹れて、夜明け前にHIKAGEへ向かった。その間、この男が目を閉じているところを、青子は一度も見ていない。
――こいつは、人のことばかりで、自分のことはやらん。……頼む。
青子は、肩を動かさないように、じっとしていた。
イエメンという国が地図のどのあたりにあるのかさえ、昨夜初めて調べたくらいだ。言葉も、通貨も知らない。
怖くは、なかった。帰り道を間違えそうになったら、この男が曲がってくれるのだ。
「……しっかり曲がりなさいよね。私、曲がり方、知らないんだから」
忉利は、起きなかった。
テープが止まる。かちり、とボタンの戻る音で、肩の上の重みが、ふっと離れた。
「……寝てたか、おれ」
「五分だけよ」
本当は、四十分だった。
青子は、鞄の持ち手に結ばれた、色の抜けた古い荷札に手を伸ばした。コートのポケットから、赤い紐のついた、真新しい白い荷札を取り出す。
名前の欄に、書く。
――蒼崎青子。日景忉利。
行き先の欄の上で、ペン先が止まった。
「……書かねえのか。行き先」
「書かないわよ。決まってないもの」
青子は、その下の「連絡先」の欄に、ゆっくりと書き込んだ。
――三咲町 坂の上 久遠寺邸。
新しい荷札を、古い荷札の隣に、赤い紐で結びつける。何も読めない荷札と、真新しい白い荷札が、持ち手に並んでぶら下がった。
「行き先は、わからないけど。……帰る場所は、わかってるもの」
忉利は、何も言わなかった。ポケットの中で、真鍮の鍵を、一度だけ握った。
電車が、大きな川を渡る鉄橋に差しかかった。窓の外で、広い川面が朝の光を白く跳ね返している。
青子が、もう一度テープを巻き戻した。
かちり。
イヤホンのコードの長さの分だけの距離で、二人は並んで、知らない町の方へ運ばれていった。
鞄の持ち手で、二枚の荷札が、電車の揺れに合わせて、かすかに揺れていた。
シエルの小説、もうすぐあげます。
あまり期待しないでいただきたいという保険をかけたい。
更新は不定期です。ストックなんてないので。
あ、でも3話くらいまではある程度構成はできてるので、スラスラ書けるかもしれない、かもしれません。
こっちはまだストックあるので、ご安心下さい。
単純に、どんな話が見たいですか?
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とりあえずイチャイチャ
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シリアスな話
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他作品のキャラとの絡み
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FGOコラボ(隈乃温泉殺人事件)
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2015年の時計塔