夜明けの色を見る眼   作:にんら

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小品1

其の一 天敵

 

夏休み。

 

 三咲駅前の古い映画館。

 

 入口の看板に血の滴るような赤い字で、でかでかと書かれていた。

 

 ――『呪いの廊下』。全米が絶叫。

 

「……これ、観んのかよ」

 

 忉利は、看板を見上げて眉を寄せた。

 

「観るのよ」

 

 青子は、腕を組んで胸を張っていた。

 

「金鹿が券、四枚くれたの。……福引きで当てたんだって。自分は怖いの無理だからって」

 

「じゃあ、有珠と行けよ」

 

「有珠は断ったわ。『本物の方が、よっぽど怖いわよ』って」

 

「……それはそうだな」

 

 隣で、草十郎が、看板を真顔で見上げていた。

 

「廊下に呪いがあるのか。……それは困るんじゃないか?。掃除がしにくい」

 

「そういう話じゃないのよ、静希くん」

 

 四枚目の券は、芳助がいつの間にか手に入れていた。

 

「オレ、こういうの大好きっす! 日景、ビビんなよ!」

 

「ビビらねえよ」

 

 忉利は欠伸を噛み殺した。

 

 人形の群れと、夜の公園で渡り合った。遊園地の月の下で、線を切った。旧校舎で、赤い槍の前に立った。

 

 作り物の幽霊が今さら何だというのか。

 

 

◇

 

 

 館内は薄暗くて、冷房が効きすぎていた。

 

 夏休みの昼下がりにしては、客が多かった。中学生のグループ。大学生のカップル。

 

 四人は真ん中の列に並んで座った。

 

 左から、芳助。草十郎。青子。忉利。

 

 照明が落ちた。

 

 映画が始まった。

 

 古い洋館。長い廊下。蝋燭の灯り。軋む床板。

 

 主人公の女が一人で廊下を歩いていく。

 

 音楽が低く、不穏に鳴っている。

 

 忉利は、腕を組んで画面を見ていた。

 

 退屈だった。

 

 廊下の奥の扉が少しだけ開いている。どう見ても、あそこから何か出てくる。

 

 女が、扉に近づいていく。

 

 一歩。二歩。

 

 音楽が止んだ。

 

 しん、と。

 

 静寂。

 

 女が、扉に手をかけた――。

 

 その瞬間。

 

 画面の反対側の壁の、何もないところから。

 

 白い顔が、ばん、と飛び出した。

 

 耳を劈くような効果音。

 

「――――っっ!!!」

 

 忉利の身体が、座席の上で跳ねた。

 

 比喩ではなく、座面から三センチ浮いた。

 

 肘掛けに膝をぶつけた。

 

 がたん、と座席が鳴った。

 

 館内のあちこちから、悲鳴が上がっていた。中学生たちの。大学生のカップルの。

 

 その中で一つだけ、妙に低い、喉の奥で潰れたような音。

 

 隣で。

 

 青子が、ゆっくりと、首をこちらに向けた。

 

 

◇

 

 

 暗闇の中で、青子の目が光っていた。

 

 獲物を見つけた猫の目だった。

 

「……今の」

 

 小さな声だった。

 

「……なんだよ」

 

「跳ねたわよね」

 

「跳ねてねえ」

 

「三センチ、浮いたわよね」

 

「浮いてねえ」

 

「膝、ぶつけたわよね。ごんって」

 

「……ぶつけてねえ」

 

 青子の口元が、にやあ、と持ち上がっていくのが暗闇でもわかった。

 

「……忉利くん」

 

「その呼び方やめろ」

 

「もしかして。……怖いの?」

 

「怖くねえよ」

 

「じゃあ、なんで跳ねたの」

 

「……びっくりしただけだ」

 

「それを怖いって言うのよ」

 

「違う」

 

 忉利は画面を睨んだまま、低い声で言った。

 

「……わかんねえんだよ」

 

「何が」

 

「来るのが。……いつ来るか」

 

 青子が瞬きをした。

 

「……どういうこと」

 

「いつもは見えんだよ。線が」

 

 忉利は腕を組み直した。

 

「何かが動く前に、線が先に動く。人形が跳ぶ前に、糸が張る。……だから何が来ても、半歩先にわかる」

 

「…………」

 

「画面の中には線が、ねえ」

 

 忉利は苦い顔をした。

 

「作り物だから。光が映ってるだけだから。……どこから何が来るか、全然わかんねえ」

 

 青子は、しばらく黙っていた。

 

 それから口元を両手で押さえた。

 

 肩が震えていた。

 

「――っ、ふ、ふふ、……っ」

 

「笑うな」

 

「だ、だって、……っ、世界の線が見える男が、……作り物の幽霊に」

 

「笑うなって」

 

「……っ、三センチ、……っ」

 

 二つ隣の席で、草十郎が真顔で画面を見ていた。

 

「蒼崎。静かにした方がいい。……次が、来る」

 

「――え?」

 

 画面の中で。

 

 女が振り返った。

 

 背後に、誰もいない。

 

 女がほっと息を吐いて、前を向いた――。

 

 目の前に白い顔。

 

 ばん。

 

「「――――っっっ!!!」」

 

 今度は二人同時だった。

 

 忉利と。

 

 笑っていて完全に油断していた青子と。

 

 

◇

 

 

 それから先はひどかった。

 

 飛び出す顔。窓に張りつく手。天井から落ちてくる何か。

 

 そのたびに、忉利の身体が、座席の上でびくりと跳ねた。

 

 三回目で、忉利の右手が肘掛けを握りしめるようになった。

 

 五回目で、その手が肘掛けから、隣へ滑った。

 

 青子の、左手の上に。

 

 青子の肩が、びくりと跳ねた。

 

 画面の幽霊のせいではなかった。

 

「……ちょ、ちょっと」

 

「…………」

 

「手」

 

「……肘掛けと間違えた」

 

「間違えないでしょ!」

 

「暗えんだよ」

 

「……っ」

 

 青子は、手を引っ込めなかった。

 

 引っ込めようとして。

 

 引っ込めなかった。

 

 画面の中で、また何かが飛び出した。

 

 忉利の手が、青子の手をぎゅっと握った。

 

 青子の手も、忉利の手を握り返していた。

 

 どっちがどっちを握っているのか。

 

 もう、わからなかった。

 

 左の端の席で、芳助が両手で顔を覆って指の隙間から画面を見て、「無理っす無理っす無理っす」と呪文のように唱え続けていた。

 

 その隣で、草十郎だけが背筋を伸ばして微動だにせず画面を見ていた。

 

 飛び出す顔にも、窓の手にも眉一つ動かさなかった。

 

 

◇

 

 

 映画館を出ると、夏の午後の陽射しが眩しかった。

 

 芳助はふらふらと電柱にもたれかかっていた。

 

「……今夜、トイレ行けないっす……」

 

「静希くんは平気だったの?」

 

 青子が訊いた。

 

 草十郎は少し考えて言った。

 

「山の方が、怖い。……冬の山で夜中に、窓の外から熊が覗いていたことがある。あれは、本物だった」

 

「……そ、そう」

 

「それに、あの幽霊は足音がしなかった。足音がしないものは、山では怖くない。風だ」

 

 誰も何も言い返せなかった。

 

 忉利は映画館の前の自動販売機で、缶珈琲を買っていた。

 

 甘いやつ。

 

 プルタブを開けて、一気に半分飲んだ。

 

 青子が隣に並んだ。

 

「……ねえ」

 

「なんだよ」

 

「怖かった?」

 

「怖くねえ」

 

「手、握ってたのに?」

 

「……肘掛けと間違えた」

 

「九回も?」

 

「数えてんじゃねえよ」

 

 青子は少しだけ黙った。

 

 それから、忉利の手から缶珈琲を取って、一口飲んだ。

 

「……甘っ」

 

「返せ」

 

「……ねえ」

 

「今度はなんだよ」

 

 青子は、缶を忉利に返しながら、そっぽを向いた。

 

「……今度、また観に行きましょうか。ホラー」

 

「――は?」

 

「二人で」

 

「なんでだよ」

 

「……線、見えないんでしょ。映画の中は」

 

 青子は、自販機の見本の缶の列を見ながら言った。

 

「なら、私が隣にいてあげないと。……いつ来るか教えてあげるから」

 

 忉利は缶珈琲を握ったまま固まった。

 

 それから、ぼそりと言った。

 

「……お前も跳ねてたろ。二回目」

 

「――っ、跳ねてない!」

 

「跳ねてた」

 

「跳ねてないったら!」

 

 夏の陽射しの中で、青子の声が駅前に響いた。

 

 電柱にもたれた芳助が、力なく呟いた。

 

「……ホラーより、そっちの方が見てらんないっす」

 

 その夜。

 

 HIKAGEの二階の廊下の角を曲がる時、忉利はほんの少しだけ、目の奥の扉を開いていた。

 

 誰にも言わなかった。

 

 同じ夜、坂の上の洋館で、青子も廊下の電気をいつもより一つ多く点けていた。

 

 誰にも言わなかった。

 

 有珠だけが、紅茶を飲みながら、その様子を黙って見ていた。

 

「……だから、言ったのよ。本物の方が、よっぽど怖いって」

 

 

其の二 質問は二十個

 

「青子ちゃーん。暇でしょ。付き合って」

 

 カウンターで紅茶を飲んでいた青子の背中に、晴華が後ろから覆いかぶさってきた。紺のダッフルコートを着て、手には父の字のメモを握っている。

 

「重い。暇じゃないわよ、これ飲んでるの」

 

「飲み終わったら暇でしょ。駅前の手芸屋さん。お父さんのお使い」

 

 メモには、角張った鉛筆の字で二行だけ書いてあった。

 

 ――片起毛綿ネル 白 二メートル。

 

 ――木綿糸 白 一巻。

 

「ネルの布か」

 

 カウンターの内側で皿を拭いていた忉利が、メモを覗き込んだ。

 

「親父、また縫うのか。年末用に」

 

「うん。お兄ちゃんは店番。青子ちゃんはあたしと」

 

「なんで私なのよ」

 

「お兄ちゃんと行ったら、つまんないもん」

 

 青子は溜め息をついた。

 

 ついて、残りの紅茶を飲み干して、もう立ち上がっていた。壁のフックからコートを取って、袖を通す。灰色の毛糸のマフラーを首に二重に巻く。

 

 それから、晴華のダッフルコートの襟が片方だけ内側に折れているのを、指で引っぱり出して直した。

 

「トグル、一個かけ違えてる」

 

「えっ。あ、ほんとだ」

 

「貸しなさい」

 

 晴華が両手を下ろして待っている間に、青子は上から順にトグルをかけ直した。

 

 忉利がカップを下げながら、ちらりと二人を見た。何か言いかけて、やめた。

 

 

◇

 

 

 商店街を駅の方へ歩き出してすぐ、晴華が青子の腕に自分の腕を絡めてきた。

 

 空いている方の手で、ダッフルコートのポケットから手帳を出す。赤いビニール表紙の、学校で配られる生徒手帳だった。

 

「では、質問を始めます」

 

「……は?」

 

「二十個、用意してきました」

 

 晴華は片手で手帳を開いて、青子に見えないように胸の前で立てた。表紙の裏に、細かい字がびっしりと並んでいる。

 

「二十個!?」

 

「一問目。お兄ちゃんのこと、いつから好きだったの」

 

「答えないわよ」

 

「えー」

 

「えーじゃないの」

 

「一問目、回答拒否。……二問目。お兄ちゃんのどこが好きなの」

 

「それも答えない」

 

「青子ちゃん、ずるい。せっかく考えてきたのに」

 

 晴華が、絡めた腕にぶら下がるように体重をかけてきた。青子は半歩よろけた。

 

「……一個だけよ」

 

「やった」

 

「一個だけ。……珈琲」

 

「それ、お父さんのでしょ」

 

「あいつのよ。あいつが淹れたやつ」

 

 晴華は目を丸くして、それから、手帳に勢いよく書き込んだ。

 

「二問目、回答あり。『あいつが淹れたやつ』」

 

「書かなくていいわよ、そんなの!」

 

 八百屋の店先で、奥さんが大根に値札を差していた。二人が通り過ぎるのを見て、くすりと笑った。

 

 

◇

 

 

 駅前の鯛焼き屋の前で、晴華の足が止まった。

 

 止まっただけで、何も言わなかった。焼き型の上で、鉄の鯛がずらりと並んで湯気を立てている。

 

 青子は財布を出した。

 

「二つ」

 

「あたし、自分のお小遣いで――」

 

「いいから」

 

 紙に包まれた鯛焼きを受け取って、一つを晴華に渡す。晴華は頭から齧った。青子は尻尾から齧った。

 

「では、三問目」

 

 晴華は、もぐもぐと飲み込んでから言った。

 

「キスした?」

 

 青子の歯が、ちょうど鯛焼きの真ん中の、いちばん餡の詰まったところに入っていた。

 

「――熱っ!」

 

 舌の上に、煮えた餡が貼りついた。青子は鯛焼きを持ったまま、片手で口元を押さえた。

 

「あ、した顔だ」

 

「熱いのよ! 餡が!」

 

「三問目、回答あり。『熱い』」

 

「書くなって言ってるでしょ!」

 

 鯛焼き屋のおじさんが、窓口の奥で知らん顔をして型をひっくり返していた。

 

 

◇

 

 

「四問目。お兄ちゃんの、嫌いなところは」

 

 駅前のロータリーを回りながら、晴華が言った。

 

 青子は、鯛焼きの最後のひとかけを口に放り込んだ。

 

「寝癖」

 

「うん」

 

「靴下が左右で違う。ネルを振る時に鼻歌を歌う。それが毎回同じ歌で、しかも一番の途中までしか歌わない。人のこと、すぐ子供扱いする。朝が弱いくせに人を起こしに来る。怒っても声が大きくならないから、怒ってるのかどうかわかんない」

 

「待って待って、速い」

 

「あと、自分のご飯は立ったまま鍋の残りで済ませる。人には座れって言うくせに」

 

 晴華の鉛筆が、追いつかなくなっていた。

 

「……青子ちゃん」

 

「何よ」

 

「四問目だけ、すっごい答えるね」

 

 青子は口を閉じた。

 

 ロータリーの真ん中の時計が、二時半を指していた。

 

 

◇

 

 

 手芸店のある路地へ向かう間も、晴華の手帳は閉じなかった。

 

「五問目。二人の時、お兄ちゃんのこと何て呼ぶの」

 

「忉利。普通に」

 

「お兄ちゃんは?」

 

「青子。普通に」

 

「普通だね」

 

「普通よ」

 

 路地の手前に、夏に四人で入った映画館があった。入口の看板は『呪いの廊下』から、知らない洋画に掛け替わっていた。

 

 晴華が、その看板と青子の顔を見比べた。

 

「六問目。夏に映画館で、お兄ちゃんと手つないでたってほんと?」

 

 青子の足が、半歩だけ遅れた。

 

「……誰から聞いたのよ」

 

「芳助さん。こないだお店に来た時、全部しゃべってった。九回だって」

 

「あいつ……」

 

「で、ほんと?」

 

「……肘掛けと間違えたのよ」

 

「それ、お兄ちゃんも同じこと言ってた」

 

 青子は口を閉じた。

 

「六問目、肘掛け」

 

 青子が手帳に手を伸ばした。晴華はひょいと腕を上げてかわした。

 

「七問目。結婚するの?」

 

 青子の足が止まった。

 

「……飛ばしなさい」

 

「七問目、飛ばし」

 

 晴華は、手帳に横線を一本引いた。それから鉛筆の尻で、青子の首元を指した。

 

「八問目。そのマフラー、お兄ちゃんのでしょ」

 

 青子は、自分の首に巻いた灰色の毛糸を見下ろした。

 

 編み目のところどころに、焙煎の煙の匂いが染みついていた。

 

「……借りただけよ」

 

「いつから?」

 

「先週」

 

「返す気ないでしょ」

 

「返すわよ。そのうち」

 

「八問目、そのうち」

 

 晴華は書き込んで、それから、青子の腕に頬を押しつけて笑った。

 

「いいなあ。あたしも青子ちゃんみたいなお姉ちゃん、欲しかった」

 

「……今さら何言ってんのよ」

 

 青子は前を向いたまま言った。

 

 晴華が小学一年生の夏、自転車の補助輪を外す練習に付き合ったのは、忉利ではなく青子だった。荷台を掴んで、商店街の裏の空き地を何十周も走った。手を離したことに晴華が気づいたのは、空き地の端の電信柱の手前だった。

 

 晴華はたぶん、覚えていない。

 

 

◇

 

 

 川村手芸店は、駅前の通りから一本入った路地の角にあった。

 

 硝子戸に、毛糸の見本が何色も吊り下げてある。中に入ると、天井まで届く棚に布の反物が横倒しに積まれていて、防虫剤と糊の匂いがした。

 

「いらっしゃいませ」

 

 レジの奥から声がした。

 

 店番をしていたのは、晴華と同じくらいの年の男の子だった。眼鏡をかけて、紺のセーターの袖をまくっている。

 

 青子の腕に絡んでいた晴華の腕が、すっと抜けた。

 

「……あ」

 

「あ。日景さん」

 

「こ、こんにちは」

 

 晴華の声が、半音高かった。

 

 青子は、晴華の横顔を見た。晴華は手帳をポケットにねじ込んで、父のメモを両手で持ち直していた。

 

 青子は、店の奥の毛糸の棚を指さした。

 

「私、あっちの毛糸見てるから」

 

「えっ」

 

「ゆっくり買いなさい」

 

 青子は棚の陰に入った。

 

 棚の向こうから、晴華の声が聞こえてきた。片起毛の、綿ネルの、白を、二メートル。男の子の声が、はい、ちょっと待ってて、と答える。木の物差しがカウンターに当たる音。裁ち鋏が布の上を滑る音。

 

 青子は、からし色の毛糸玉を一つ手に取って、ラベルを読むふりをした。

 

 ちゃりん、と硬貨の落ちる音がした。それから、しゃがむ衣ずれの音。

 

「……ありがと」

 

「あと、これ。余ってるやつ。木のボタン。前、日景さんがかわいいって言ってたやつ」

 

「――えっ。……あ、ありがと」

 

 青子は毛糸玉を棚に戻した。戻す場所を間違えて、もう一度置き直した。

 

 棚の陰から出ていくと、晴華が、紙袋を二つ胸に抱えていた。布の入った大きい方と、手のひらに乗るくらいの小さい方。

 

「終わった?」

 

「……うん」

 

 晴華は硝子戸を押した。押す方向を間違えて、一度引いてから、もう一度押した。

 

 

◇

 

 

 路地を出るまで、晴華は一言も喋らなかった。

 

 青子も何も聞かなかった。

 

 踏切の警報機が鳴り出した。遮断機がゆっくりと下りてくる。二人は線路の手前で立ち止まった。

 

 晴華が、小さくくしゃみをした。

 

 青子は自分の首からマフラーをほどいて、晴華の首に巻いた。二重に。顎が埋まるくらいまで。

 

「……これ、お兄ちゃんのでしょ」

 

「だから、あんたが巻いても問題ないでしょ」

 

 晴華は灰色の毛糸に顎を埋めた。

 

「……質問、あと何個残ってるの」

 

 青子が言った。

 

「……十二個」

 

「全部は答えないわよ」

 

「うん」

 

 晴華はポケットから手帳を出した。開いて、一枚めくって、二枚めくって、最後のページで指を止めた。

 

「じゃあ、最後のだけ」

 

「最後の?」

 

「二十問目」

 

 電車が近づいてくる音がした。

 

「……好きって、どうやってわかったの」

 

 晴華は手帳を見たまま言った。

 

 電車が、二人の前を通り過ぎていった。窓の向こうで、立っている乗客の肩が並んで流れていく。風が晴華の前髪を持ち上げて、また下ろした。

 

 青子は、遮断機が上がるまで黙っていた。

 

 警報機が止んだ。

 

「……カップ」

 

「カップ?」

 

「HIKAGEの、取っ手の付け根が欠けてるカップ。私が小さい時に、落として欠けさせたやつ」

 

 晴華が瞬きをした。

 

「あいつ、私が行くと、いつもあれで出すのよ。お客さんには絶対出さないのに。誰にも頼まれてないのに。……それに気づいた時」

 

「…………」

 

「それだけよ」

 

「……それだけ?」

 

「それだけ。あとは、自分で考えなさい」

 

 晴華は手帳を閉じた。それから、小さい方の紙袋をダッフルコートのポケットの奥に押し込んだ。紙の底で、木のボタンが小さく転がる音がした。

 

「……お兄ちゃんには言わないでね」

 

「何を」

 

「……何でもない」

 

「言わないわよ」

 

 青子は、晴華の手から布の入った大きい方の紙袋を取った。空いた晴華の手を、自分の手でつかむ。

 

 踏切を渡った先で、鯛焼き屋の窓口から、また湯気が上がっていた。

 

「……もう一個、食べる?」

 

「食べる」

 

 

◇

 

 

 HIKAGEに戻ると、晴華は鯛焼きの紙包みを持ったまま、まっすぐ階段を上がっていった。

 

 灰色のマフラーは、晴華の首に巻かれたままだった。

 

「……おい。あれ、おれのマフラーだろ」

 

 忉利が階段の上を見上げた。

 

「知らない」

 

「お前が先週持ってったやつだろ」

 

「知らないわよ」

 

「晴華、なんかあったのか。あいつ、朝から手帳に何か書いてたぞ」

 

「二十個」

 

「は?」

 

「質問。二十個」

 

「……何答えたんだよ」

 

「言わない」

 

 青子はカウンターの端の席に座った。

 

 忉利は、しばらく青子の顔を見ていた。それから何も言わずに、棚に手を伸ばした。湯を沸かし直して、ネルに粉を落とす。

 

 カウンターに置かれたのは、白いカップだった。

 

 取っ手の付け根が、ほんの少しだけ欠けていた。

 

 青子は、何も言わずにそれを持ち上げた。




アンケート、イチャイチャが大多数だったので、上げるタイミングを失ってた番外編を急遽挟みました。

あと、実は少し前からAIに本文全話1話ずつちまちまぶん投げて、読点とか減らしてもらってたのですが、やっと全話分終わったので全部一気に今朝更新しました。

地の文やセリフは変わってませんが、皆さんにとっては読みやすくなったと思います。あんま確認せずに更新したので、変になってる所などあったら報告お願いします。

ちょうど流石に読点が多いという感想いただいたのでいいタイミングでした。
今後は書き終わったらそのフィルターも通してから投稿しようと思います。

あと、金曜にシエルの小説一気に上げると思います。

シエルの小説満足度調査

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