―――この街の下には、もう一つの街がある。
地面の下、何メートルもの土と岩の奥を、鉄の管がいくつも走っている。その中を、明かりを灯した箱が、昼も夜も、何百人もの人間を詰め込んで行き来している。
地上を歩く人間は、そのことをほとんど意識しない。
ただ時々、古い建物の床の下から、低い唸りが伝わってくる。ごう、と。遠い雷のような、大きな獣の寝息のような音が、足の裏をかすかに震わせて、また遠ざかっていく。
蒼崎青子は、昔から、その音が好きだった。
理由は、自分でもよくわからない。
ただ、あの音を聴いていると、どれだけ苛立っていても、少しだけ呼吸が深くなった。世界のどこかで、自分と関係のない何かが、決まった時刻に、決まった場所へ、黙々と走り続けている。そう思うと、なぜか、安心できた。
三咲には、地下鉄がなかった。
だから、この音を聴くのは、子供の頃に親戚の家へ行った時以来だった。
◇
一九九一年、三月四日。午後四時。
上野の駅の、地下へ続く長い通路を抜けて地上に出ると、空はもう、夕方の色に傾き始めていた。
「……人、多いわね」
青子は、鞄の持ち手を握ったまま、通りを見渡した。
車の列。信号待ちの人の群れ。高架の上を、ひっきりなしに電車が走っていく。ビルの壁一面の看板。どこかの店から流れてくる、知らない流行歌。排気ガスと、焼き鳥の煙と、湿った春の風の匂いが、ごちゃ混ぜになって押し寄せてくる。
「三咲の百倍はいるな」
隣で、忉利が言った。
「百倍じゃきかないでしょ」
「じゃあ千倍か」
「……数えないでよ」
明日の朝一番の電車で、成田へ向かう。そこから飛行機を乗り継いで、何日かかけて、アラビア半島の端の国へ。
今夜は、その手前の、最初の夜だった。
宿は、一昨日、青子が電話帳で見つけて予約した。上野の裏手の、古い商人宿。一泊素泊まりで、二人一部屋。一番安い部屋を、と頼んだら、そうなった。
二部屋取るお金がなかったわけではない。
ただ、これから先、どれだけ旅が続くのか、誰にもわからないのだ。最初の一泊から贅沢をするわけにはいかない、と青子が言い張った。
忉利は、それについて何も言わなかった。
言わなかったことが、青子には、少しだけ気に食わなかった。
◇
「……ちょっと、寄り道していい?」
宿へ向かう途中の交差点で、青子が、足を止めた。
「どこに」
「別に。……ちょっと、歩きたいだけ」
忉利は、鞄の持ち手を持ち直した。
「重てえんだぞ、これ」
「半分持つわよ」
「……好きにしろ」
青子が歩いたのは、上野の山を抜けて、御徒町の方へ下る道だった。
高架下の商店街。安売りの靴屋。果物屋の裸電球。路地の奥の、小さな喫茶店の看板。どこへ行くとも言わずに、青子は、角を一つ曲がり、また一つ曲がった。
「……で、どこ行くんだよ」
「ここ、たぶん、住んでたのよ」
青子は、ぽつりと言った。
「え?」
「中学出たら、東京に来るつもりだったって、言ったでしょ。……あの頃、ここらへんに下宿しようって決めてたの。地図、何度も見たわ。この辺なら、大学にも通えるし、夜でも電車があるし、ライブハウスにも歩いて行けるって」
青子は、古い木造のアパートの前で立ち止まった。
錆びた外階段。洗濯物が揺れる窓。二階の角部屋の窓に、「入居者募集」の色褪せた紙が貼ってあった。
「別に、この建物ってわけじゃないけどね」
「……わかってるよ」
「こういうところに、住んでたのよ。たぶん」
青子は、しばらくその窓を見上げていた。
姉が家を出ていかなければ。五年前の春、祖父が気を変えなければ。魔術なんてものを、知らないままでいられたなら。
自分は、あの窓の内側で、ギターを弾いていたのかもしれない。
忉利は、何も訊かなかった。
ただ、鞄を下ろして、隣で同じ窓を見上げていた。
どこか近くで、低い音が響いた。
ずん、ずん、と。お腹の底に響く、重たい音。
青子が、はっと顔を上げた。
路地の向かい、雑居ビルの一階の脇に、地下へ続く細い階段があった。入り口の上に、小さなネオンの看板。英語の、読みにくい崩した字。階段の壁一面に、ばらばらの大きさのチラシが重ね貼りされている。
ドラムの音だった。
扉の向こうの、そのまた奥から、漏れ聞こえてくる。
青子は、階段の入り口まで歩いていって、チラシの一枚に目を落とした。
今夜の出演。知らないバンドの名前が、三つ並んでいた。
「……入るか?」
後ろから、忉利が言った。
「明日、早えけど。一時間くらいなら」
青子は、しばらく、階段の下の暗がりを見つめていた。
ドラムの音。ベースの唸り。誰かの叫ぶような歌声。中学の頃、隣町の地下で浴びていたのと同じ種類の音。
それから、首を横に振った。
「……いいわ」
「いいのか」
「いいのよ」
青子は、階段の手すりに、そっと手を置いた。
「聴こえるだけで、十分」
そう言って、振り返った顔は、笑っていた。
笑っていたけれど、忉利は、その顔をよく知っていた。
小学三年の夏、飼っていた金魚が死んだ朝も、青子はこういう顔で笑っていた。
◇
宿は、路地の突き当たりにあった。
木造二階建て。玄関の引き戸を開けると、たたきの向こうに、磨き込まれた黒い廊下がまっすぐ延びていた。帳場から出てきた女将は、腰の曲がった小柄な老婆で、二人の顔と、大きな鞄と、青子の首に巻かれた濃紺のマフラーを順に眺めて、「はいはい、お待ちしてましたよ」と、それだけ言った。
通されたのは、二階の奥の六畳間だった。
色の褪せた畳。低い卓袱台。障子の向こうに、狭い裏路地と、隣の建物の壁。天井の隅に、雨漏りの染みが一つ。
布団は、もう敷いてあった。
二組。部屋の両端に、ぴったりと壁に寄せて。真ん中に、畳一枚分以上の隙間が空いている。
「……気が利くのか、利かないのか、わかんねえな」
忉利が、戸口に立ったまま呟いた。
青子は、返事をしなかった。
黙って、窓際の方の布団の脇に、鞄を下ろした。
◇
晩飯は、近くの定食屋で食べた。
鯖の味噌煮と、豚汁と、山盛りのご飯。忉利がいつもの癖で、青子の皿に先に手を伸ばして骨を取り始めたので、青子はその手をはたき落として、「自分の食べなさい」と言った。晴華との約束だ。忉利は溜息をついて、自分の皿に向き直った。
帰りに、銭湯に寄った。
男湯と女湯の暖簾をくぐる前に、青子が「三十分ね」と言い、忉利が「長えよ」と言い、結局、四十分かかった。
◇
―――その四十分の、最後の十分。
先に上がった忉利は、銭湯の向かいの煙草屋の軒先で、赤い公衆電話の受話器を握っていた。
十円玉を、三枚。
ダイヤルを回す指が、途中で一度だけ止まった。それから、最後の数字まで回した。
呼び出し音。一回。二回。
三回目の途中で、繋がった。
『――はい、Cafe HIKAGEです!』
晴華の声だった。
夜の九時前。店はもう閉めている時間だ。それでも、店の電話に出る時の、いつもの元気な声。
「……おれだ」
『お兄ちゃん!?』
受話器の向こうで、何かががたんと倒れる音がした。
『どこ!? 今どこ!? もう外国!?』
「まだ東京だ。明日の朝、飛行機」
『なんだあ……。ねえ、ご飯食べた? ちゃんと座って食べた?』
「食った。座って」
『青子ちゃんに見張られて?』
「……ああ」
受話器の向こうで、晴華が笑った。
その笑い声の後ろから、かすかに、別の音が聞こえた。
ネルを洗う水の音。カップを重ねる、陶器の触れ合う音。
父が、まだ、カウンターの中にいるのだ。
『お父さんに代わる?』
「……いい」
『いいの?』
「どうせ、何も喋らねえだろ」
『……うん、たぶん』
晴華は、少しだけ黙った。
それから、受話器に口を近づけたような、小さな声になった。
『お父さんね、お兄ちゃんたちが出てってから、ずっと、ネル振ってるの。お客さんいないのに。……何杯も、淹れては、自分で飲んでるの』
忉利は、何も答えられなかった。
ピー、と、受話器の奥で、硬貨の残りを知らせる音が鳴った。
『あ、お兄ちゃん、十円――』
「葉書、送る」
忉利は、早口に言った。
「向こう着いたら、すぐ。……親父に、飲みすぎんなって言っとけ」
『うん! お兄ちゃんも――』
ぷつり、と、音が切れた。
受話器の向こうに、つー、という、平らな音だけが残った。
忉利は、しばらく、その音を聞いていた。
ポケットの中には、まだ十円玉が何枚か残っていた。
かけ直すことは、しなかった。
受話器を戻す。かちゃん、と、硬い音がした。
振り返ると、銭湯の暖簾の前に、湯上がりの青子が立っていた。濡れた髪を、濃紺のマフラーで包むようにして。
いつから見ていたのか、わからなかった。
青子は、何も訊かなかった。
ただ、「待たせたわね」とだけ言って、忉利の隣に並んだ。
忉利の髪は、夜風ですっかり冷えていた。
◇
宿に戻ったのは、夜の九時を過ぎた頃だった。
明かりを消すと、部屋は、思っていたより暗かった。
障子の向こうの裏路地に、街灯が一本だけ立っている。その光が、紙越しに、ぼんやりと白く滲んでいた。
青子は、窓際の布団に仰向けになって、天井の染みを見上げていた。
畳一枚分向こうの壁際で、忉利が、同じように仰向けになっているのがわかった。寝息は、聞こえなかった。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
その時。
ごう、と。
床の下から、低い音が伝わってきた。
畳の目が、ほんのかすかに、震える。遠い雷のような、大きな獣の寝息のような音が、部屋の下を通り抜けて、また遠ざかっていく。
青子は、はっと目を見開いた。
「……聴こえた?」
「地下鉄か」
「そう。……銀座線よ。たぶん、この下、走ってるの」
青子の声が、少しだけ弾んでいた。
「一番古い地下鉄なの。昭和のはじめからずっと、この下を走ってるのよ」
「……詳しいな」
「調べたもの。東京に来たら、真っ先に乗ろうと思ってたんだから」
「乗ったじゃねえか、今日」
「乗ったけど。……乗るのと、こうやって聴くのは、違うのよ」
また、音が来た。
ごう、と。さっきより少しだけ近く。それから、遠くへ。
青子は、息を吐いた。
深く、長く。
「……昔から、好きなの。この音」
「知ってる」
「知らないでしょ」
「知ってるよ。ガキの頃、親戚んちから帰ってきた時、お前、一週間、地下鉄の話しかしなかっただろ」
「……っ」
青子は、布団を顎まで引き上げた。
「……覚えてなくていいのに、そんなこと」
「覚えてんだから仕方ねえだろ」
青子は、答えなかった。
ただ、床の下を通り過ぎていく音を、ひとつ、またひとつと、数えていた。
五本。六本。七本。
間隔が、少しずつ空いていく。
十一本目が、遠ざかっていった後。
しばらく待っても、次の音は、来なかった。
障子の外で、どこかの酔っ払いの歌声が、遠く聞こえて、消えた。
「……終電、行っちゃったわね」
青子の声が、小さくなった。
それきり、部屋は、しんと静かになった。
静かだった。
驚くほど、静かだった。
屋敷の夜には、いつも何かの音があった。柱時計の振り子。暖炉の熾火が崩れる音。廊下の止まり木で、駒鳥が寝返りを打つ羽音。夜明け前に、隣の部屋の草十郎が起き出す、律儀な足音。
それから、朝。台所の窓を開ける音と、湯の沸く音と、珈琲の匂い。
今夜は、そのどれもなかった。
知らない天井。知らない壁の染み。知らない路地の、知らない街灯。
青子は、天井を見上げたまま、目を閉じた。
閉じても、眠れなかった。
「……静かね」
「ああ」
「有珠、今頃、何してるかしら」
言ってから、しまった、と思った。
口に出した途端に、胸の奥の、どこか柔らかいところが、きゅっと縮んだ。
「……紅茶、飲んでんだろ」
壁際から、低い声がした。
「草十郎の、十秒短いやつ」
「……ふふ」
青子は、笑おうとした。
笑い声は、途中で掠れて、消えた。
「……変ね」
青子は、布団の中で、膝を抱えた。
「自分で出てきたのよ。誰に言われたわけでもないのに。行き先も決めずに、ギターも置いて、有珠にも、ちゃんとさよならも言わないで」
「…………」
「なのに、一晩目から、これ」
声が、少しだけ震えた。
「ほんと、情けないわね。……笑ってもいいわよ」
壁際から、返事はなかった。
しばらくして、布団の擦れる音がした。
寝返りを打ったのだろう。
「……おれも」
低い声だった。
青子は、目を開けた。
「朝、焙煎機の音がしねえと、たぶん起きらんねえ」
ぶっきらぼうな、いつもの声。
けれど、その奥に、ほんのわずかに、何かが滲んでいた。
「十八年、毎朝あの音で起きてたんだぞ。屋敷に移ってからも、坂の下からかすかに聞こえる気がして、起きてた。……今夜は、それもねえ」
「…………」
「だから、笑わねえよ」
青子は、暗闇の中で、壁際の方を見た。
畳一枚分の隙間の向こうに、布団の盛り上がりが、ぼんやりと見えた。こちらに背を向けているのか、向いているのか、わからなかった。
先月、十八になったばかりの男だった。
青子より、半年ちょっと遅く生まれた。子供の頃は、それを理由に、散々弟扱いしてやった。
その男が、今、知らない街の知らない宿で、焙煎機の音がしないと眠れないと言っている。
自分と、同じように。
「……ねえ」
「なんだよ」
「そっち、行っていい?」
壁際の布団が、ぴたりと動きを止めた。
長い、沈黙があった。
裏路地の街灯が、障子の向こうで、じじ、と小さく鳴った。
「……寒いのか」
「寒いのよ」
嘘ではなかった。
三月の夜の古い宿は、隙間風が冷たかった。
けれど、それだけでもなかった。
また、沈黙。
それから、壁際の布団の端が、ゆっくりと持ち上がった。
掛け布団の縁が、暗闇の中で、小さく開かれる。
それだけだった。
何も言わなかった。
青子は、自分の布団を抜け出した。
畳の冷たさが、裸足の裏に刺さる。一枚分の隙間を、四つん這いで渡る。ほんの数歩の距離が、やけに長かった。
開かれた布団の縁から、中に潜り込む。
温かかった。
忉利の体温で温まった布団は、青子の布団よりずっと温かくて、それから、かすかに、珈琲の匂いがした。
◇
―――壁際で、忉利は、目を開けたまま天井を見ていた。
布団を壁に寄せ直したのは、自分だった。女将が敷いた時よりも、さらに半歩、壁の方へ。青子が気づいていたのは、知っている。
理由を訊かれたら、答えられなかっただろう。
隣の布団で寝息を立てる幼馴染を、一晩じゅう意識しないでいられる自信がなかった。ただ、それだけだった。
その幼馴染が、今、自分の布団の中にいる。
背中に、自分のものではない体温が、握りこぶし一つ分の隙間を越えて、じわりと伝わってくる。
目の奥の扉が、勝手に、少しだけ開いた。
暗がりの中に、線が浮かんだ。古い板と板の継ぎ目。雨漏りの染みの縁。その向こうの、屋根瓦の一枚一枚を繋ぐ、細い線。
それから、背中の向こうの、青い線。
見なくてもそこにあるとわかっている線を、また、確かめようとしていた。
一年前の春、書庫で、宿題を出された。線を見ないで、あいつの顔を見る。
忉利は、扉を閉じた。
線が、すうっと消える。
背中の温もりだけが、残った。
◇
最初は、背中合わせだった。
狭い一人用の布団の中で、互いに背を向けて、少しだけ身体を丸めて。背中と背中の間に、握りこぶし一つ分の隙間。
青子は、自分の心臓の音がうるさくて、仕方がなかった。
背中の向こうの忉利にも聞こえているのではないかと思うと、余計にうるさくなった。
「……静かにしなさいよ」
「何も言ってねえだろ」
「心臓がうるさいのよ」
「……お前のだろ、それ」
「あんたのよ!」
「おれのは、こんなうるさくねえ」
「うるさいわよ!」
声を殺して言い合って、それから、二人とも黙った。
背中の向こうから、とくん、とくん、と、確かに聞こえていた。
自分のものと、少しだけずれた速さで。
青子は、そっと、寝返りを打った。
忉利の背中が、目の前にあった。
薄い浴衣越しの、肩甲骨の形。一年と少し前の冬、旧校舎の音楽室の床で、血に濡れて、冷たくなっていた背中。
心臓の音は、聞こえなかった。あの夜は。
青子は、額を、その背中に押し当てた。
とくん、とくん、と。
聞こえた。
ちゃんと、動いていた。
青子の手は、握りしめたままだった。布団に潜り込む時に、鞄の内ポケットから、こっそり取り出してきたもの。
小さな、金色のボタン。
「……青子」
背中越しに、声がした。
「なによ」
「手、何持ってんだ」
「……何も持ってないわよ」
「背中に当たってんだよ。硬いのが」
「…………」
青子は、答えなかった。
代わりに、握りしめた手を、忉利の背中から、脇腹の方へ回した。
その手を、忉利の手が、布団の中で探り当てた。
握りこぶしを、大きな手のひらが、包み込む。
指の隙間から、小さな硬いものの輪郭を、確かめるように。
「……ボタンかよ」
「…………」
「わざわざ出してきたのか、鞄から」
「……悪い?」
「悪くねえよ」
忉利の手が、青子のこぶしを、そっと開いた。
金色のボタンが、二人の手のひらの間に挟まった。
それから、指と指が、ボタンを挟んだまま、ゆっくりと絡み合った。
どちらからそうしたのかは、わからなかった。
「……忉利」
「なんだ」
「こっち、向いて」
背中が、しばらく動かなかった。
それから、布団の中で、ゆっくりと寝返りを打った。
障子越しの街灯の光が、ほんのわずかに、その顔を照らしていた。
虹彩の縁に、夜明け前の空の色を細い輪にして閉じ込めた目。一年と少し前の冬、旧校舎の夜から、この目の色は変わった。自分の魔法の色だった。
その目が、すぐ近くで、青子を見ていた。
近かった。
枕一つ分も、なかった。
「……言わないから」
青子は、小さな声で言った。
「なにを」
「言わないわよ。……言わないけど」
絡めた指に、力がこもった。二人の手のひらの間で、金ボタンが、じわりと温かくなっていた。
青子は、逃げない。
昔から、そう決めていた。
だから、目を閉じた。
それから、ほんの少しだけ、顔を前に出した。
唇が、触れた。
――と思った瞬間、鼻がぶつかった。
「っ」
「……っ」
二人同時に、顔を引いた。
暗闇の中で、青子は、自分の顔が燃えるように熱くなっていくのがわかった。
「…………」
「…………」
「……へたくそ」
忉利が、ぼそりと言った。
「あ、あんたが動かないからでしょ!」
「動いたら、もっとぶつかってただろ」
「うるさいわね! 初めてなんだから、仕方ないでしょ!」
「……声、でけえよ。隣に聞こえる」
「っ……!」
青子は、忉利の胸に、額をぐりぐりと押しつけた。
顔を、見せないように。
「……もう、知らない。寝る」
「寝んのかよ」
「寝るわよ!」
忉利の胸が、小さく震えた。
笑っているのだと、わかった。声を殺して。
青子は、胸に額を押しつけたまま、絡めた指に爪を立てた。
「……笑わないって言ったくせに」
「悪い」
「悪いって思ってないでしょ」
「思ってるよ」
笑いの震えが、ゆっくりと、止まった。
それから、絡めた手とは反対の手が、青子の髪に触れた。
長い髪を、指先で、一度だけ梳く。
「……青子」
静かな声だった。
いつもの、気だるげな声とは違った。何の飾りもない、低くて、平らで、けれど、どこまでもまっすぐな声。
青子は、額を押しつけたまま、動けなかった。
「言ってなかったな」
「……なにを」
「好きだって」
心臓が、止まったかと思った。
青子は、顔を上げられなかった。
上げたら、何かが溢れてしまいそうだった。
「……ばか、じゃないの」
声が、ひどく掠れていた。
「知ってるわよ、そんなの。……ずっと前から、知ってたわよ」
「知ってても、言っとく」
忉利の手が、髪から、青子の頬に降りてきた。
熱い頬を、少し冷えた指先が、そっと包む。
顔を、上向かせる。
今度は、青子が目を閉じる前に、忉利の方から、少しだけ首を傾けた。
鼻は、ぶつからなかった。
短くて、ぎこちなくて、少しだけ震えていた。
けれど、ちゃんと、触れていた。
離れた後も、しばらく、二人とも目を開けなかった。
裏路地の街灯が、また、じじ、と鳴った。
「……いつから」
青子が、目を閉じたまま、囁いた。
「……何が」
「好きだったの。いつから」
忉利は、少しだけ黙った。
「……知ってんだろ、お前」
「…………」
「おれの十年、見たって言ったろ」
青子の指が、絡めた手の中で、ぴくりと動いた。
「……小一の夏」
小さな声だった。
「おじさんのカウンターで、カフェオレ飲んで、あんたの口に牛乳の髭がついて、私が笑って。……あんた、その時、ずっと私の顔、見てた」
「…………」
「あの魔法の中で、見たわ。あんたの十年の、一番最初に、それがあった」
忉利は、何も言えなかった。
自分でも、忘れていた。いや、忘れたふりをしていた。
十年も前の、夏の午後。足の届かない椅子の上で、隣で笑った女の子の顔を。
「……でもね」
青子は、目を開けた。
すぐ近くの、忉利の目を、まっすぐに見た。
「私の方が、先だったんだから」
「……何が」
「好きになったの。私の方が、先」
「小一の夏より前って、いつだよ」
「言わない」
「ずりいな」
「あんたこそ、十年も黙ってたくせに」
「……それは、そうだな」
すぐ近くに、忉利の目があった。夜明け前の色の輪が、少しだけ、細められていた。
照れているのだと、わかった。暗くて見えないけれど、たぶん、この男の耳も、今、自分と同じくらい赤い。
青子は、ふっと笑った。
今度は、掠れなかった。
それから、絡めた指を、ほどかないまま、もう一度、少しだけ顔を上げた。
今度は、二人とも、ぶつからなかった。
三度目は、青子の方から。
四度目は、どちらからだったのか、わからなかった。
「……数えてんのか」
「数えてないわよ」
「数えてる顔だった」
「暗くて見えないでしょ!」
「見えんだよ、おれの目は」
「――っ、ずるい! それ、ずるい!」
「閉じてる。今は」
「……ほんとに?」
「ほんとに。……だから、お前の顔しか見えてねえ」
青子は、言葉を失った。
それから、忉利の胸に、もう一度、額を押しつけた。
今度は、隠すためではなかった。
とくん、とくん、と。
ちゃんと、聞こえていた。
自分の音と、少しずつ、同じ速さになっていくのが、わかった。
◇
いつの間に眠ったのか、青子は覚えていなかった。
目を覚ましたのは、足の裏に、かすかな震えを感じた時だった。
ごう、と。
床の下から、低い音が伝わってくる。遠い雷のような、大きな獣の寝息のような音が、部屋の下を通り抜けて、遠ざかっていく。
始発だった。
障子の向こうが、ほんのりと青く白んでいた。
青子は、目の前にある浴衣の襟を、しばらくぼんやりと見つめていた。
それから、昨夜のことを、全部思い出した。
――――っ。
顔が、一瞬で熱くなる。
絡めたままの指の間に、まだ、あの金ボタンが挟まっていた。二人分の体温で、すっかり温まって。
頭の上から、寝息が聞こえていた。
穏やかな、規則正しい寝息。焙煎機の音がしないと起きられないと言った男が、始発の音にも気づかずに、ぐっすりと眠っている。
青子は、そっと顔を上げて、その寝顔を見た。
十八歳の顔だった。
この先、何十年経っても、この顔のまま。
自分も、同じように。
ごう、と、二本目の電車が、床の下を通り過ぎていった。
世界のどこかで、自分と関係のない何かが、決まった時刻に、決まった場所へ、黙々と走り続けている。
今朝は、その音が、いつもより、ずっと近くに聞こえた。
「……起きなさいよ」
青子は、忉利の鼻先を、指でつついた。
「京成、六時よ。乗り遅れたら、飛行機、行っちゃうんだから」
忉利の眉が、ぴくりと寄った。
ゆっくりと、目が開く。
夜明け前の色の輪を宿した目が、すぐ近くの青子を見て、しばらく、焦点を結ばなかった。
それから、結んだ。
二人とも、固まった。
「…………おはよ」
「…………おはよう」
どちらも、目を逸らした。
同時に。
◇
六畳間の窓を開けると、冷たい朝の空気が流れ込んできた。
裏路地の向こうの空は、まだ薄い藍色だった。どこかで、雀が鳴き始めている。
忉利は、卓袱台の上に、鞄から取り出した道具を並べた。
父のミル。父のネル。陶器のドリッパー。宿の電気ポットで沸かした湯。
豆を挽く。ごり、ごり、と。
静かな宿の、朝の最初の音。
ネルに粉を落として、湯を細く注ぐ。粉が膨らむ。泡が、ゆっくりと沈んでいく。
深煎りの、焦げる寸前の匂いが、六畳間に広がった。
「……窓、開けたのね」
布団を畳みながら、青子が言った。
「ああ」
「有珠、いないのに」
忉利の手が、一瞬、止まった。
それから、湯を注ぐのを再開した。
「……癖だな」
「癖ね」
青子は、畳んだ布団の上に座って、忉利の手元を見ていた。
旅の、最初の一杯。
黒い雫が、宿の湯呑みに、一滴、また一滴と落ちていく。
忉利は、湯呑みを二つ並べて、半分ずつ注いだ。
一つを、黙って青子の前に置く。
「……紅茶党なんだけど、私」
「知ってる」
「元日くらいは、いいって言ったのよ。あの時は」
「今日は、旅の元日だろ」
青子は、少しだけ目を見開いた。
それから、湯呑みを両手で包んだ。
「……屁理屈」
「お前に言われたくねえ」
一口、飲む。
苦かった。それから、後から甘かった。
窓の外で、三本目の電車が、床の下を通り過ぎていった。
ごう、と。
青子は、湯呑みを持ったまま、窓の外の藍色の空を見上げた。
寂しさは、まだ、胸の奥のどこかに残っていた。
屋敷の柱時計の音も、暖炉の爆ぜる音も、駒鳥の羽音も、ここにはない。
けれど、隣で、同じ湯呑みから、同じ一杯を飲んでいる男がいる。
昨夜、その胸の音を、ちゃんと聴いた。
それで、十分だった。
「……忉利」
「ん」
「ボタン、返してもらってないんだけど」
忉利は、浴衣の袂から、金色のボタンを取り出した。
いつの間に、そこへ移ったのだろう。
「……持ってたのかよ、おれ」
「持ってたのよ。寝てる間、ずっと握ってたわ」
「…………」
「返しなさいよ」
「おれのボタンだろ、これ」
「私のよ!」
青子は、忉利の手からボタンをひったくった。
鞄の内ポケットの、一番奥に押し込む。留め具を、ぱちりと閉める。
それから、ぷいと顔を背けて、湯呑みの残りを一気に飲み干した。
耳まで、真っ赤だった。
窓の外で、雀が一羽、電線から飛び立っていった。
宿を出る時、青子は、鞄の持ち手の、忉利の手のすぐ隣に、自分の手をかけた。
昨日と、同じように。
けれど、今朝は、持ち手の上で、小指が、忉利の小指に、少しだけ重なっていた。
忉利は、何も言わなかった。
小指を、どけなかった。
京成の駅までの路地を、二人は、一つの鞄を提げて歩いていった。
旅の、二日目の朝だった。
シエルの小説投稿しました。
https://syosetu.org/novel/429688/
競馬始まる前に無理やり終わらせました。
競馬めっちゃ好きです。スプリンターズSでは3連複500円持ってました。人生最高配当でした。皆さんも競馬やりましょう。
あと、添削や、改行、場面転換時の◇など、AIにやってもらうようにしたんですが、本文利用の範囲が、どこまでかわからないので、AIタグをつけました。
単純に、どんな話が見たいですか?
-
とりあえずイチャイチャ
-
シリアスな話
-
他作品のキャラとの絡み
-
FGOコラボ(隈乃温泉殺人事件)
-
2015年の時計塔