夜明けの色を見る眼   作:にんら

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都会と終電

―――この街の下には、もう一つの街がある。

 

 地面の下、何メートルもの土と岩の奥を、鉄の管がいくつも走っている。その中を、明かりを灯した箱が、昼も夜も、何百人もの人間を詰め込んで行き来している。

 

 地上を歩く人間は、そのことをほとんど意識しない。

 

 ただ時々、古い建物の床の下から、低い唸りが伝わってくる。ごう、と。遠い雷のような、大きな獣の寝息のような音が、足の裏をかすかに震わせて、また遠ざかっていく。

 

 蒼崎青子は、昔から、その音が好きだった。

 

 理由は、自分でもよくわからない。

 

 ただ、あの音を聴いていると、どれだけ苛立っていても、少しだけ呼吸が深くなった。世界のどこかで、自分と関係のない何かが、決まった時刻に、決まった場所へ、黙々と走り続けている。そう思うと、なぜか、安心できた。

 

 三咲には、地下鉄がなかった。

 

 だから、この音を聴くのは、子供の頃に親戚の家へ行った時以来だった。

 

 

◇

 

 

 一九九一年、三月四日。午後四時。

 

 上野の駅の、地下へ続く長い通路を抜けて地上に出ると、空はもう、夕方の色に傾き始めていた。

 

「……人、多いわね」

 

 青子は、鞄の持ち手を握ったまま、通りを見渡した。

 

 車の列。信号待ちの人の群れ。高架の上を、ひっきりなしに電車が走っていく。ビルの壁一面の看板。どこかの店から流れてくる、知らない流行歌。排気ガスと、焼き鳥の煙と、湿った春の風の匂いが、ごちゃ混ぜになって押し寄せてくる。

 

「三咲の百倍はいるな」

 

 隣で、忉利が言った。

 

「百倍じゃきかないでしょ」

 

「じゃあ千倍か」

 

「……数えないでよ」

 

 明日の朝一番の電車で、成田へ向かう。そこから飛行機を乗り継いで、何日かかけて、アラビア半島の端の国へ。

 

 今夜は、その手前の、最初の夜だった。

 

 宿は、一昨日、青子が電話帳で見つけて予約した。上野の裏手の、古い商人宿。一泊素泊まりで、二人一部屋。一番安い部屋を、と頼んだら、そうなった。

 

 二部屋取るお金がなかったわけではない。

 

 ただ、これから先、どれだけ旅が続くのか、誰にもわからないのだ。最初の一泊から贅沢をするわけにはいかない、と青子が言い張った。

 

 忉利は、それについて何も言わなかった。

 

 言わなかったことが、青子には、少しだけ気に食わなかった。

 

 

◇

 

 

「……ちょっと、寄り道していい?」

 

 宿へ向かう途中の交差点で、青子が、足を止めた。

 

「どこに」

 

「別に。……ちょっと、歩きたいだけ」

 

 忉利は、鞄の持ち手を持ち直した。

 

「重てえんだぞ、これ」

 

「半分持つわよ」

 

「……好きにしろ」

 

 青子が歩いたのは、上野の山を抜けて、御徒町の方へ下る道だった。

 

 高架下の商店街。安売りの靴屋。果物屋の裸電球。路地の奥の、小さな喫茶店の看板。どこへ行くとも言わずに、青子は、角を一つ曲がり、また一つ曲がった。

 

「……で、どこ行くんだよ」

 

「ここ、たぶん、住んでたのよ」

 

 青子は、ぽつりと言った。

 

「え?」

 

「中学出たら、東京に来るつもりだったって、言ったでしょ。……あの頃、ここらへんに下宿しようって決めてたの。地図、何度も見たわ。この辺なら、大学にも通えるし、夜でも電車があるし、ライブハウスにも歩いて行けるって」

 

 青子は、古い木造のアパートの前で立ち止まった。

 

 錆びた外階段。洗濯物が揺れる窓。二階の角部屋の窓に、「入居者募集」の色褪せた紙が貼ってあった。

 

「別に、この建物ってわけじゃないけどね」

 

「……わかってるよ」

 

「こういうところに、住んでたのよ。たぶん」

 

 青子は、しばらくその窓を見上げていた。

 

 姉が家を出ていかなければ。五年前の春、祖父が気を変えなければ。魔術なんてものを、知らないままでいられたなら。

 

 自分は、あの窓の内側で、ギターを弾いていたのかもしれない。

 

 忉利は、何も訊かなかった。

 

 ただ、鞄を下ろして、隣で同じ窓を見上げていた。

 

 どこか近くで、低い音が響いた。

 

 ずん、ずん、と。お腹の底に響く、重たい音。

 

 青子が、はっと顔を上げた。

 

 路地の向かい、雑居ビルの一階の脇に、地下へ続く細い階段があった。入り口の上に、小さなネオンの看板。英語の、読みにくい崩した字。階段の壁一面に、ばらばらの大きさのチラシが重ね貼りされている。

 

 ドラムの音だった。

 

 扉の向こうの、そのまた奥から、漏れ聞こえてくる。

 

 青子は、階段の入り口まで歩いていって、チラシの一枚に目を落とした。

 

 今夜の出演。知らないバンドの名前が、三つ並んでいた。

 

「……入るか?」

 

 後ろから、忉利が言った。

 

「明日、早えけど。一時間くらいなら」

 

 青子は、しばらく、階段の下の暗がりを見つめていた。

 

 ドラムの音。ベースの唸り。誰かの叫ぶような歌声。中学の頃、隣町の地下で浴びていたのと同じ種類の音。

 

 それから、首を横に振った。

 

「……いいわ」

 

「いいのか」

 

「いいのよ」

 

 青子は、階段の手すりに、そっと手を置いた。

 

「聴こえるだけで、十分」

 

 そう言って、振り返った顔は、笑っていた。

 

 笑っていたけれど、忉利は、その顔をよく知っていた。

 

 小学三年の夏、飼っていた金魚が死んだ朝も、青子はこういう顔で笑っていた。

 

 

◇

 

 

 宿は、路地の突き当たりにあった。

 

 木造二階建て。玄関の引き戸を開けると、たたきの向こうに、磨き込まれた黒い廊下がまっすぐ延びていた。帳場から出てきた女将は、腰の曲がった小柄な老婆で、二人の顔と、大きな鞄と、青子の首に巻かれた濃紺のマフラーを順に眺めて、「はいはい、お待ちしてましたよ」と、それだけ言った。

 

 通されたのは、二階の奥の六畳間だった。

 

 色の褪せた畳。低い卓袱台。障子の向こうに、狭い裏路地と、隣の建物の壁。天井の隅に、雨漏りの染みが一つ。

 

 布団は、もう敷いてあった。

 

 二組。部屋の両端に、ぴったりと壁に寄せて。真ん中に、畳一枚分以上の隙間が空いている。

 

「……気が利くのか、利かないのか、わかんねえな」

 

 忉利が、戸口に立ったまま呟いた。

 

 青子は、返事をしなかった。

 

 黙って、窓際の方の布団の脇に、鞄を下ろした。

 

 

◇

 

 

 晩飯は、近くの定食屋で食べた。

 

 鯖の味噌煮と、豚汁と、山盛りのご飯。忉利がいつもの癖で、青子の皿に先に手を伸ばして骨を取り始めたので、青子はその手をはたき落として、「自分の食べなさい」と言った。晴華との約束だ。忉利は溜息をついて、自分の皿に向き直った。

 

 帰りに、銭湯に寄った。

 

 男湯と女湯の暖簾をくぐる前に、青子が「三十分ね」と言い、忉利が「長えよ」と言い、結局、四十分かかった。

 

 

◇

 

 

―――その四十分の、最後の十分。

 

 先に上がった忉利は、銭湯の向かいの煙草屋の軒先で、赤い公衆電話の受話器を握っていた。

 

 十円玉を、三枚。

 

 ダイヤルを回す指が、途中で一度だけ止まった。それから、最後の数字まで回した。

 

 呼び出し音。一回。二回。

 

 三回目の途中で、繋がった。

 

『――はい、Cafe HIKAGEです!』

 

 晴華の声だった。

 

 夜の九時前。店はもう閉めている時間だ。それでも、店の電話に出る時の、いつもの元気な声。

 

「……おれだ」

 

『お兄ちゃん!?』

 

 受話器の向こうで、何かががたんと倒れる音がした。

 

『どこ!? 今どこ!? もう外国!?』

 

「まだ東京だ。明日の朝、飛行機」

 

『なんだあ……。ねえ、ご飯食べた? ちゃんと座って食べた?』

 

「食った。座って」

 

『青子ちゃんに見張られて?』

 

「……ああ」

 

 受話器の向こうで、晴華が笑った。

 

 その笑い声の後ろから、かすかに、別の音が聞こえた。

 

 ネルを洗う水の音。カップを重ねる、陶器の触れ合う音。

 

 父が、まだ、カウンターの中にいるのだ。

 

『お父さんに代わる?』

 

「……いい」

 

『いいの?』

 

「どうせ、何も喋らねえだろ」

 

『……うん、たぶん』

 

 晴華は、少しだけ黙った。

 

 それから、受話器に口を近づけたような、小さな声になった。

 

『お父さんね、お兄ちゃんたちが出てってから、ずっと、ネル振ってるの。お客さんいないのに。……何杯も、淹れては、自分で飲んでるの』

 

 忉利は、何も答えられなかった。

 

 ピー、と、受話器の奥で、硬貨の残りを知らせる音が鳴った。

 

『あ、お兄ちゃん、十円――』

 

「葉書、送る」

 

 忉利は、早口に言った。

 

「向こう着いたら、すぐ。……親父に、飲みすぎんなって言っとけ」

 

『うん! お兄ちゃんも――』

 

 ぷつり、と、音が切れた。

 

 受話器の向こうに、つー、という、平らな音だけが残った。

 

 忉利は、しばらく、その音を聞いていた。

 

 ポケットの中には、まだ十円玉が何枚か残っていた。

 

 かけ直すことは、しなかった。

 

 受話器を戻す。かちゃん、と、硬い音がした。

 

 振り返ると、銭湯の暖簾の前に、湯上がりの青子が立っていた。濡れた髪を、濃紺のマフラーで包むようにして。

 

 いつから見ていたのか、わからなかった。

 

 青子は、何も訊かなかった。

 

 ただ、「待たせたわね」とだけ言って、忉利の隣に並んだ。

 

 忉利の髪は、夜風ですっかり冷えていた。

 

 

◇

 

 

 宿に戻ったのは、夜の九時を過ぎた頃だった。

 

 明かりを消すと、部屋は、思っていたより暗かった。

 

 障子の向こうの裏路地に、街灯が一本だけ立っている。その光が、紙越しに、ぼんやりと白く滲んでいた。

 

 青子は、窓際の布団に仰向けになって、天井の染みを見上げていた。

 

 畳一枚分向こうの壁際で、忉利が、同じように仰向けになっているのがわかった。寝息は、聞こえなかった。

 

 しばらく、どちらも口を開かなかった。

 

 その時。

 

 ごう、と。

 

 床の下から、低い音が伝わってきた。

 

 畳の目が、ほんのかすかに、震える。遠い雷のような、大きな獣の寝息のような音が、部屋の下を通り抜けて、また遠ざかっていく。

 

 青子は、はっと目を見開いた。

 

「……聴こえた?」

 

「地下鉄か」

 

「そう。……銀座線よ。たぶん、この下、走ってるの」

 

 青子の声が、少しだけ弾んでいた。

 

「一番古い地下鉄なの。昭和のはじめからずっと、この下を走ってるのよ」

 

「……詳しいな」

 

「調べたもの。東京に来たら、真っ先に乗ろうと思ってたんだから」

 

「乗ったじゃねえか、今日」

 

「乗ったけど。……乗るのと、こうやって聴くのは、違うのよ」

 

 また、音が来た。

 

 ごう、と。さっきより少しだけ近く。それから、遠くへ。

 

 青子は、息を吐いた。

 

 深く、長く。

 

「……昔から、好きなの。この音」

 

「知ってる」

 

「知らないでしょ」

 

「知ってるよ。ガキの頃、親戚んちから帰ってきた時、お前、一週間、地下鉄の話しかしなかっただろ」

 

「……っ」

 

 青子は、布団を顎まで引き上げた。

 

「……覚えてなくていいのに、そんなこと」

 

「覚えてんだから仕方ねえだろ」

 

 青子は、答えなかった。

 

 ただ、床の下を通り過ぎていく音を、ひとつ、またひとつと、数えていた。

 

 五本。六本。七本。

 

 間隔が、少しずつ空いていく。

 

 十一本目が、遠ざかっていった後。

 

 しばらく待っても、次の音は、来なかった。

 

 障子の外で、どこかの酔っ払いの歌声が、遠く聞こえて、消えた。

 

「……終電、行っちゃったわね」

 

 青子の声が、小さくなった。

 

 それきり、部屋は、しんと静かになった。

 

 静かだった。

 

 驚くほど、静かだった。

 

 屋敷の夜には、いつも何かの音があった。柱時計の振り子。暖炉の熾火が崩れる音。廊下の止まり木で、駒鳥が寝返りを打つ羽音。夜明け前に、隣の部屋の草十郎が起き出す、律儀な足音。

 

 それから、朝。台所の窓を開ける音と、湯の沸く音と、珈琲の匂い。

 

 今夜は、そのどれもなかった。

 

 知らない天井。知らない壁の染み。知らない路地の、知らない街灯。

 

 青子は、天井を見上げたまま、目を閉じた。

 

 閉じても、眠れなかった。

 

「……静かね」

 

「ああ」

 

「有珠、今頃、何してるかしら」

 

 言ってから、しまった、と思った。

 

 口に出した途端に、胸の奥の、どこか柔らかいところが、きゅっと縮んだ。

 

「……紅茶、飲んでんだろ」

 

 壁際から、低い声がした。

 

「草十郎の、十秒短いやつ」

 

「……ふふ」

 

 青子は、笑おうとした。

 

 笑い声は、途中で掠れて、消えた。

 

「……変ね」

 

 青子は、布団の中で、膝を抱えた。

 

「自分で出てきたのよ。誰に言われたわけでもないのに。行き先も決めずに、ギターも置いて、有珠にも、ちゃんとさよならも言わないで」

 

「…………」

 

「なのに、一晩目から、これ」

 

 声が、少しだけ震えた。

 

「ほんと、情けないわね。……笑ってもいいわよ」

 

 壁際から、返事はなかった。

 

 しばらくして、布団の擦れる音がした。

 

 寝返りを打ったのだろう。

 

「……おれも」

 

 低い声だった。

 

 青子は、目を開けた。

 

「朝、焙煎機の音がしねえと、たぶん起きらんねえ」

 

 ぶっきらぼうな、いつもの声。

 

 けれど、その奥に、ほんのわずかに、何かが滲んでいた。

 

「十八年、毎朝あの音で起きてたんだぞ。屋敷に移ってからも、坂の下からかすかに聞こえる気がして、起きてた。……今夜は、それもねえ」

 

「…………」

 

「だから、笑わねえよ」

 

 青子は、暗闇の中で、壁際の方を見た。

 

 畳一枚分の隙間の向こうに、布団の盛り上がりが、ぼんやりと見えた。こちらに背を向けているのか、向いているのか、わからなかった。

 

 先月、十八になったばかりの男だった。

 

 青子より、半年ちょっと遅く生まれた。子供の頃は、それを理由に、散々弟扱いしてやった。

 

 その男が、今、知らない街の知らない宿で、焙煎機の音がしないと眠れないと言っている。

 

 自分と、同じように。

 

「……ねえ」

 

「なんだよ」

 

「そっち、行っていい?」

 

 壁際の布団が、ぴたりと動きを止めた。

 

 長い、沈黙があった。

 

 裏路地の街灯が、障子の向こうで、じじ、と小さく鳴った。

 

「……寒いのか」

 

「寒いのよ」

 

 嘘ではなかった。

 

 三月の夜の古い宿は、隙間風が冷たかった。

 

 けれど、それだけでもなかった。

 

 また、沈黙。

 

 それから、壁際の布団の端が、ゆっくりと持ち上がった。

 

 掛け布団の縁が、暗闇の中で、小さく開かれる。

 

 それだけだった。

 

 何も言わなかった。

 

 青子は、自分の布団を抜け出した。

 

 畳の冷たさが、裸足の裏に刺さる。一枚分の隙間を、四つん這いで渡る。ほんの数歩の距離が、やけに長かった。

 

 開かれた布団の縁から、中に潜り込む。

 

 温かかった。

 

 忉利の体温で温まった布団は、青子の布団よりずっと温かくて、それから、かすかに、珈琲の匂いがした。

 

 

◇

 

 

―――壁際で、忉利は、目を開けたまま天井を見ていた。

 

 布団を壁に寄せ直したのは、自分だった。女将が敷いた時よりも、さらに半歩、壁の方へ。青子が気づいていたのは、知っている。

 

 理由を訊かれたら、答えられなかっただろう。

 

 隣の布団で寝息を立てる幼馴染を、一晩じゅう意識しないでいられる自信がなかった。ただ、それだけだった。

 

 その幼馴染が、今、自分の布団の中にいる。

 

 背中に、自分のものではない体温が、握りこぶし一つ分の隙間を越えて、じわりと伝わってくる。

 

 目の奥の扉が、勝手に、少しだけ開いた。

 

 暗がりの中に、線が浮かんだ。古い板と板の継ぎ目。雨漏りの染みの縁。その向こうの、屋根瓦の一枚一枚を繋ぐ、細い線。

 

 それから、背中の向こうの、青い線。

 

 見なくてもそこにあるとわかっている線を、また、確かめようとしていた。

 

 一年前の春、書庫で、宿題を出された。線を見ないで、あいつの顔を見る。

 

 忉利は、扉を閉じた。

 

 線が、すうっと消える。

 

 背中の温もりだけが、残った。

 

 

◇

 

 

 最初は、背中合わせだった。

 

 狭い一人用の布団の中で、互いに背を向けて、少しだけ身体を丸めて。背中と背中の間に、握りこぶし一つ分の隙間。

 

 青子は、自分の心臓の音がうるさくて、仕方がなかった。

 

 背中の向こうの忉利にも聞こえているのではないかと思うと、余計にうるさくなった。

 

「……静かにしなさいよ」

 

「何も言ってねえだろ」

 

「心臓がうるさいのよ」

 

「……お前のだろ、それ」

 

「あんたのよ!」

 

「おれのは、こんなうるさくねえ」

 

「うるさいわよ!」

 

 声を殺して言い合って、それから、二人とも黙った。

 

 背中の向こうから、とくん、とくん、と、確かに聞こえていた。

 

 自分のものと、少しだけずれた速さで。

 

 青子は、そっと、寝返りを打った。

 

 忉利の背中が、目の前にあった。

 

 薄い浴衣越しの、肩甲骨の形。一年と少し前の冬、旧校舎の音楽室の床で、血に濡れて、冷たくなっていた背中。

 

 心臓の音は、聞こえなかった。あの夜は。

 

 青子は、額を、その背中に押し当てた。

 

 とくん、とくん、と。

 

 聞こえた。

 

 ちゃんと、動いていた。

 

 青子の手は、握りしめたままだった。布団に潜り込む時に、鞄の内ポケットから、こっそり取り出してきたもの。

 

 小さな、金色のボタン。

 

「……青子」

 

 背中越しに、声がした。

 

「なによ」

 

「手、何持ってんだ」

 

「……何も持ってないわよ」

 

「背中に当たってんだよ。硬いのが」

 

「…………」

 

 青子は、答えなかった。

 

 代わりに、握りしめた手を、忉利の背中から、脇腹の方へ回した。

 

 その手を、忉利の手が、布団の中で探り当てた。

 

 握りこぶしを、大きな手のひらが、包み込む。

 

 指の隙間から、小さな硬いものの輪郭を、確かめるように。

 

「……ボタンかよ」

 

「…………」

 

「わざわざ出してきたのか、鞄から」

 

「……悪い?」

 

「悪くねえよ」

 

 忉利の手が、青子のこぶしを、そっと開いた。

 

 金色のボタンが、二人の手のひらの間に挟まった。

 

 それから、指と指が、ボタンを挟んだまま、ゆっくりと絡み合った。

 

 どちらからそうしたのかは、わからなかった。

 

「……忉利」

 

「なんだ」

 

「こっち、向いて」

 

 背中が、しばらく動かなかった。

 

 それから、布団の中で、ゆっくりと寝返りを打った。

 

 障子越しの街灯の光が、ほんのわずかに、その顔を照らしていた。

 

 虹彩の縁に、夜明け前の空の色を細い輪にして閉じ込めた目。一年と少し前の冬、旧校舎の夜から、この目の色は変わった。自分の魔法の色だった。

 

 その目が、すぐ近くで、青子を見ていた。

 

 近かった。

 

 枕一つ分も、なかった。

 

「……言わないから」

 

 青子は、小さな声で言った。

 

「なにを」

 

「言わないわよ。……言わないけど」

 

 絡めた指に、力がこもった。二人の手のひらの間で、金ボタンが、じわりと温かくなっていた。

 

 青子は、逃げない。

 

 昔から、そう決めていた。

 

 だから、目を閉じた。

 

 それから、ほんの少しだけ、顔を前に出した。

 

 唇が、触れた。

 

――と思った瞬間、鼻がぶつかった。

 

「っ」

 

「……っ」

 

 二人同時に、顔を引いた。

 

 暗闇の中で、青子は、自分の顔が燃えるように熱くなっていくのがわかった。

 

「…………」

 

「…………」

 

「……へたくそ」

 

 忉利が、ぼそりと言った。

 

「あ、あんたが動かないからでしょ!」

 

「動いたら、もっとぶつかってただろ」

 

「うるさいわね! 初めてなんだから、仕方ないでしょ!」

 

「……声、でけえよ。隣に聞こえる」

 

「っ……!」

 

 青子は、忉利の胸に、額をぐりぐりと押しつけた。

 

 顔を、見せないように。

 

「……もう、知らない。寝る」

 

「寝んのかよ」

 

「寝るわよ!」

 

 忉利の胸が、小さく震えた。

 

 笑っているのだと、わかった。声を殺して。

 

 青子は、胸に額を押しつけたまま、絡めた指に爪を立てた。

 

「……笑わないって言ったくせに」

 

「悪い」

 

「悪いって思ってないでしょ」

 

「思ってるよ」

 

 笑いの震えが、ゆっくりと、止まった。

 

 それから、絡めた手とは反対の手が、青子の髪に触れた。

 

 長い髪を、指先で、一度だけ梳く。

 

「……青子」

 

 静かな声だった。

 

 いつもの、気だるげな声とは違った。何の飾りもない、低くて、平らで、けれど、どこまでもまっすぐな声。

 

 青子は、額を押しつけたまま、動けなかった。

 

「言ってなかったな」

 

「……なにを」

 

「好きだって」

 

 心臓が、止まったかと思った。

 

 青子は、顔を上げられなかった。

 

 上げたら、何かが溢れてしまいそうだった。

 

「……ばか、じゃないの」

 

 声が、ひどく掠れていた。

 

「知ってるわよ、そんなの。……ずっと前から、知ってたわよ」

 

「知ってても、言っとく」

 

 忉利の手が、髪から、青子の頬に降りてきた。

 

 熱い頬を、少し冷えた指先が、そっと包む。

 

 顔を、上向かせる。

 

 今度は、青子が目を閉じる前に、忉利の方から、少しだけ首を傾けた。

 

 鼻は、ぶつからなかった。

 

 短くて、ぎこちなくて、少しだけ震えていた。

 

 けれど、ちゃんと、触れていた。

 

 離れた後も、しばらく、二人とも目を開けなかった。

 

 裏路地の街灯が、また、じじ、と鳴った。

 

「……いつから」

 

 青子が、目を閉じたまま、囁いた。

 

「……何が」

 

「好きだったの。いつから」

 

 忉利は、少しだけ黙った。

 

「……知ってんだろ、お前」

 

「…………」

 

「おれの十年、見たって言ったろ」

 

 青子の指が、絡めた手の中で、ぴくりと動いた。

 

「……小一の夏」

 

 小さな声だった。

 

「おじさんのカウンターで、カフェオレ飲んで、あんたの口に牛乳の髭がついて、私が笑って。……あんた、その時、ずっと私の顔、見てた」

 

「…………」

 

「あの魔法の中で、見たわ。あんたの十年の、一番最初に、それがあった」

 

 忉利は、何も言えなかった。

 

 自分でも、忘れていた。いや、忘れたふりをしていた。

 

 十年も前の、夏の午後。足の届かない椅子の上で、隣で笑った女の子の顔を。

 

「……でもね」

 

 青子は、目を開けた。

 

 すぐ近くの、忉利の目を、まっすぐに見た。

 

「私の方が、先だったんだから」

 

「……何が」

 

「好きになったの。私の方が、先」

 

「小一の夏より前って、いつだよ」

 

「言わない」

 

「ずりいな」

 

「あんたこそ、十年も黙ってたくせに」

 

「……それは、そうだな」

 

 すぐ近くに、忉利の目があった。夜明け前の色の輪が、少しだけ、細められていた。

 

 照れているのだと、わかった。暗くて見えないけれど、たぶん、この男の耳も、今、自分と同じくらい赤い。

 

 青子は、ふっと笑った。

 

 今度は、掠れなかった。

 

 それから、絡めた指を、ほどかないまま、もう一度、少しだけ顔を上げた。

 

 今度は、二人とも、ぶつからなかった。

 

 三度目は、青子の方から。

 

 四度目は、どちらからだったのか、わからなかった。

 

「……数えてんのか」

 

「数えてないわよ」

 

「数えてる顔だった」

 

「暗くて見えないでしょ!」

 

「見えんだよ、おれの目は」

 

「――っ、ずるい! それ、ずるい!」

 

「閉じてる。今は」

 

「……ほんとに?」

 

「ほんとに。……だから、お前の顔しか見えてねえ」

 

 青子は、言葉を失った。

 

 それから、忉利の胸に、もう一度、額を押しつけた。

 

 今度は、隠すためではなかった。

 

 とくん、とくん、と。

 

 ちゃんと、聞こえていた。

 

 自分の音と、少しずつ、同じ速さになっていくのが、わかった。

 

 

◇

 

 

 いつの間に眠ったのか、青子は覚えていなかった。

 

 目を覚ましたのは、足の裏に、かすかな震えを感じた時だった。

 

 ごう、と。

 

 床の下から、低い音が伝わってくる。遠い雷のような、大きな獣の寝息のような音が、部屋の下を通り抜けて、遠ざかっていく。

 

 始発だった。

 

 障子の向こうが、ほんのりと青く白んでいた。

 

 青子は、目の前にある浴衣の襟を、しばらくぼんやりと見つめていた。

 

 それから、昨夜のことを、全部思い出した。

 

――――っ。

 

 顔が、一瞬で熱くなる。

 

 絡めたままの指の間に、まだ、あの金ボタンが挟まっていた。二人分の体温で、すっかり温まって。

 

 頭の上から、寝息が聞こえていた。

 

 穏やかな、規則正しい寝息。焙煎機の音がしないと起きられないと言った男が、始発の音にも気づかずに、ぐっすりと眠っている。

 

 青子は、そっと顔を上げて、その寝顔を見た。

 

 十八歳の顔だった。

 

 この先、何十年経っても、この顔のまま。

 

 自分も、同じように。

 

 ごう、と、二本目の電車が、床の下を通り過ぎていった。

 

 世界のどこかで、自分と関係のない何かが、決まった時刻に、決まった場所へ、黙々と走り続けている。

 

 今朝は、その音が、いつもより、ずっと近くに聞こえた。

 

「……起きなさいよ」

 

 青子は、忉利の鼻先を、指でつついた。

 

「京成、六時よ。乗り遅れたら、飛行機、行っちゃうんだから」

 

 忉利の眉が、ぴくりと寄った。

 

 ゆっくりと、目が開く。

 

 夜明け前の色の輪を宿した目が、すぐ近くの青子を見て、しばらく、焦点を結ばなかった。

 

 それから、結んだ。

 

 二人とも、固まった。

 

「…………おはよ」

 

「…………おはよう」

 

 どちらも、目を逸らした。

 

 同時に。

 

 

◇

 

 

 六畳間の窓を開けると、冷たい朝の空気が流れ込んできた。

 

 裏路地の向こうの空は、まだ薄い藍色だった。どこかで、雀が鳴き始めている。

 

 忉利は、卓袱台の上に、鞄から取り出した道具を並べた。

 

 父のミル。父のネル。陶器のドリッパー。宿の電気ポットで沸かした湯。

 

 豆を挽く。ごり、ごり、と。

 

 静かな宿の、朝の最初の音。

 

 ネルに粉を落として、湯を細く注ぐ。粉が膨らむ。泡が、ゆっくりと沈んでいく。

 

 深煎りの、焦げる寸前の匂いが、六畳間に広がった。

 

「……窓、開けたのね」

 

 布団を畳みながら、青子が言った。

 

「ああ」

 

「有珠、いないのに」

 

 忉利の手が、一瞬、止まった。

 

 それから、湯を注ぐのを再開した。

 

「……癖だな」

 

「癖ね」

 

 青子は、畳んだ布団の上に座って、忉利の手元を見ていた。

 

 旅の、最初の一杯。

 

 黒い雫が、宿の湯呑みに、一滴、また一滴と落ちていく。

 

 忉利は、湯呑みを二つ並べて、半分ずつ注いだ。

 

 一つを、黙って青子の前に置く。

 

「……紅茶党なんだけど、私」

 

「知ってる」

 

「元日くらいは、いいって言ったのよ。あの時は」

 

「今日は、旅の元日だろ」

 

 青子は、少しだけ目を見開いた。

 

 それから、湯呑みを両手で包んだ。

 

「……屁理屈」

 

「お前に言われたくねえ」

 

 一口、飲む。

 

 苦かった。それから、後から甘かった。

 

 窓の外で、三本目の電車が、床の下を通り過ぎていった。

 

 ごう、と。

 

 青子は、湯呑みを持ったまま、窓の外の藍色の空を見上げた。

 

 寂しさは、まだ、胸の奥のどこかに残っていた。

 

 屋敷の柱時計の音も、暖炉の爆ぜる音も、駒鳥の羽音も、ここにはない。

 

 けれど、隣で、同じ湯呑みから、同じ一杯を飲んでいる男がいる。

 

 昨夜、その胸の音を、ちゃんと聴いた。

 

 それで、十分だった。

 

「……忉利」

 

「ん」

 

「ボタン、返してもらってないんだけど」

 

 忉利は、浴衣の袂から、金色のボタンを取り出した。

 

 いつの間に、そこへ移ったのだろう。

 

「……持ってたのかよ、おれ」

 

「持ってたのよ。寝てる間、ずっと握ってたわ」

 

「…………」

 

「返しなさいよ」

 

「おれのボタンだろ、これ」

 

「私のよ!」

 

 青子は、忉利の手からボタンをひったくった。

 

 鞄の内ポケットの、一番奥に押し込む。留め具を、ぱちりと閉める。

 

 それから、ぷいと顔を背けて、湯呑みの残りを一気に飲み干した。

 

 耳まで、真っ赤だった。

 

 窓の外で、雀が一羽、電線から飛び立っていった。

 

 宿を出る時、青子は、鞄の持ち手の、忉利の手のすぐ隣に、自分の手をかけた。

 

 昨日と、同じように。

 

 けれど、今朝は、持ち手の上で、小指が、忉利の小指に、少しだけ重なっていた。

 

 忉利は、何も言わなかった。

 

 小指を、どけなかった。

 

 京成の駅までの路地を、二人は、一つの鞄を提げて歩いていった。

 

 旅の、二日目の朝だった。




シエルの小説投稿しました。
https://syosetu.org/novel/429688/

競馬始まる前に無理やり終わらせました。
競馬めっちゃ好きです。スプリンターズSでは3連複500円持ってました。人生最高配当でした。皆さんも競馬やりましょう。

あと、添削や、改行、場面転換時の◇など、AIにやってもらうようにしたんですが、本文利用の範囲が、どこまでかわからないので、AIタグをつけました。

単純に、どんな話が見たいですか?

  • とりあえずイチャイチャ
  • シリアスな話
  • 他作品のキャラとの絡み
  • FGOコラボ(隈乃温泉殺人事件)
  • 2015年の時計塔
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