―――昔、森の奥で山羊が踊った。
赤い実を食べた山羊たちが、夜になっても眠らずに跳ね回り、鳴き交わし、月に向かって踊り続けた。それを見た山羊飼いの少年が、自分でもその実を齧ってみた。そうして少年も夜通し踊った。
それが、この世でいちばん最初の珈琲の話だという。
本当かどうかは誰も知らない。
ただ、その森は今もある。
大地の裂け目の西、雲の湧く高原のさらに奥。見上げるほどの木々の下の薄暗がりに、誰に植えられたのでもない珈琲の木々が、何千年も前から勝手に生えて、勝手に実をつけ、勝手に枯れて、また芽を出してきた。
人の手が入る前から、そこにあったもの。
人が名前をつける前から、結ばれていたもの。
◇
一九九一年、四月の初め。
ジンマの町から、荷台に人と山羊と穀物袋を満載したトラックに揺られて半日、さらに歩いて半日。
森は深かった。
頭上を何十メートルもの高さの木々の枝が覆い尽くして、昼なのに薄暗い。湿った土と腐った落ち葉と、苔の匂い。どこか高いところで、猿の群れが鳴き交わしていた。
その薄暗がりの足元のあちこちに、背の低い木が生えていた。濃い緑の艶のある葉。枝に小さな実がぽつぽつとなっている。緑の実。それから、熟れた赤い実。
「……これ、全部、珈琲の木かよ」
忉利は足を止めて、一本の枝に手を伸ばした。
赤い実を一粒摘む。指先で潰すと、薄い果肉の中から二つの種が顔を出した。淡い緑の、見慣れた形。
豆だった。
「誰も植えてねえんだよな、これ」
「ジンマの宿の人は、そう言ってたわね」
青子が額の汗を手の甲で拭いながら言った。
「この森の珈琲は、全部勝手に生えてるって。世界でいちばん古い珈琲の森だって」
「……すげえな」
忉利の声が、珍しく少しだけ上擦っていた。
青子はその横顔をちらりと見た。
イエメンの山の茶屋で、白い髭の主人に「うちの山の豆だ」と持たされた生豆は、まだ鞄の底に半分残っている。三咲から持ってきた夜明け前ブレンドは、モカの宿で最後の一杯になった。それから忉利は毎晩、生豆の袋を開けては豆の匂いを嗅いで、また縛っていた。
その男が今、世界でいちばん古い珈琲の森の中で、子供みたいな顔をしている。
ここまで来てよかった、と青子は思った。
成田を発って、ひと月。最初の行き先にしたイエメンでは、山の上の都から段々畑の村々を歩いて下り、海辺のモカまで辿り着いた。港は名前だけを残して、何もなかった。
そこから海沿いの町を乗り合いの車で渡り歩いて、海峡を渡る小さな船に乗った。対岸の港から鉄道とバスとトラックの荷台を乗り継いで、この国の高原を西へ。
同じ町に二晩以上泊まったことは、一度もなかった。
この国に入って、三週間。
北の方では長い戦争が続いているらしかった。首都から南西へ向かうバスは、何度も兵隊に止められた。銃を肩に下げた若い兵士が車内を歩き回り、乗客の顔と書類を一人ずつ確かめていった。窓の外の道端で、兵隊を乗せたトラックが若い男たちを荷台に押し込んでいるのを見たこともある。
忉利はそのたびに、黙って窓の外を見ていた。
青子はそのたびに、膝の上で拳を握りしめていた。
撃てば、止められた。
けれど撃てば、この国の中で自分たちは誰よりも目立つ異物になる。
見られてはならない。知られてはならない。
三年間、その鉄則を青子は一度も破らなかった。
「――行きましょ」
青子は忉利の袖を引いた。
「村、この先なんでしょ。日が暮れる前に着かないと」
「ああ」
ジンマの宿の主人が、地図の端に鉛筆で印をつけてくれた。森のいちばん奥に小さな村がある。そこに、この森でいちばん古い珈琲の木があって、村の年寄りが今でも昔ながらのやり方で珈琲を淹れている、と。
―――ただ、道がわかりにくい。
主人は少しだけ言いにくそうに、そう付け足していた。
―――あの村には、辿り着けない者もいる。
◇
三度目だった。
目の前に、巨大な無花果の木が立っていた。幹の周りは大人が十人手を繋いでも届かないだろう。何本もの太い根が地面から大蛇のように盛り上がって、絡み合いながら四方へ伸びている。枝には赤い布切れが何本も結びつけられて、湿った風に揺れていた。
一時間前にも、この木の前を通った。二時間前にも。
道は一本しかなかったはずだった。無花果の木の脇を抜けて、まっすぐに森の奥へ。そう歩いてきたはずなのに、気がつくとまたこの木の前に立っている。
「……迷ってるんじゃ、ないわね」
青子が低い声で言った。足を止めて、周囲の空気を嗅ぐように目を細める。
「迷わされてる」
「結界か」
「そう。……でも、有珠のとは、全然違う」
青子は無花果の木を見上げた。
「魔術の匂いが、しないのよ。術式も、回路も、魔力の流れも。……なのに、確かに、何かがある。もっと古くて、もっと、ぼんやりしたもの」
忉利は目の奥の扉を開いた。
見えた。
森の中に、線が張り巡らされていた。けれどそれは、今まで見てきたどの線とも違う。
有珠の結界の線は、定規で引いたように整っていた。遊園地のスナークの線は、月に向かって一直線に引き絞られていた。橙子のルーンの線は、冷たく硬く、幾何学的だった。
この森の線は、編まれていた。
細い細い線が、何百本も何千本も。より合わされ、絡められ、編み込まれて太い縄のようになり、木々の間をうねりながら巡っている。誰かが森そのものを籠に編み上げたようだった。
そして、その縄のすべてが目の前の無花果の木の根元に集まって、一つの大きな結び目を作っていた。
「……結び目だ」
忉利は呟いた。
「でけえ結び目が、ある。木の根元に」
「切れる?」
青子が訊いた。
「切れる」
忉利は即答した。
この一年、あの夜から、線を切るのに痛みはない。力も要らない。ただ、切ろうと思えば切れる。
右手を少しだけ持ち上げる。視線を結び目に据える。あとは、ほんの少し意識を傾けるだけだった。
――――。
忉利の手が止まった。
「……忉利?」
忉利は結び目を見つめたまま、動かなかった。
近くで見ると、その結び目はひどく不格好だった。
整ってなどいない。あちこちで糸がほつれて、そのほつれを別の糸が上から縛り直している。その縛り直した糸もまた古くなってほつれ、さらに新しい糸でまた縛り直されている。何度も。何度も。
古い糸と新しい糸。太い糸と細い糸。几帳面な結び方と大雑把な結び方。何人もの違う手の癖が、何層にも重なっていた。
誰かが何代にもわたって、ほつれるたびに手で結び直してきた跡だった。
HIKAGEの柱の、背比べの鉛筆の線を忉利は思い出した。何年もかけて、少しずつ書き足されていった線。
――その目は、切るための目ではない。
一年と少し前の冬、雪の山の洞穴の暗闇で、声だけの老人が言った。
――何を切らないかを、決めるための目だ。
「……切れる、けど」
忉利は手を下ろした。
「なんか、切っちゃいけねえ気がする」
「……え?」
「わかんねえ。……でも、これ、誰かが、ずっと手で結び直してきたもんだ。何十年も。たぶん、もっと」
青子は忉利の横顔を見つめた。それから、無花果の木を見上げた。
枝に結びつけられた、何本もの赤い布切れ。色の褪せたもの。新しいもの。
「……じゃあ、どうするのよ。このままじゃ、日が暮れるわよ」
「さあな」
その時、背後の藪ががさりと揺れた。
二人が振り返ると、小さな山羊が一頭、藪の中から顔を出していた。続いてもう一頭。それから三頭目。
その後ろから、十歳くらいの少年が細い枝の鞭を片手に、ひょっこりと現れた。
裸足で、擦り切れた短いズボン。大きな目が見知らぬ二人の外国人を見て、まんまるに見開かれていた。
少年の名前はベケレといった。ベケレは言葉の通じない二人を、しばらく警戒するように眺めていた。それから、忉利の手の中の赤い珈琲の実に目を留めた。
忉利は鞄を開けて、イエメンの生豆の袋を取り出した。口を開けてベケレに見せる。
「ブン」
イエメンの茶屋で覚えた言葉だった。
ベケレの目がぱっと輝いた。
「……ブンナ!」
少年は自分の胸を指さし、それから森の奥を指さして、何度も「ブンナ」と繰り返した。豆のことを、この国ではブンナと呼ぶらしかった。
ベケレは山羊の鞭を振って手招きした。無花果の木の脇を、すたすたと歩いていく。二人は顔を見合わせて、その後を追った。
◇
四度目だった。
今度は、無花果の木の前には戻らなかった。木の脇を抜けると、道がふいに開けて、森の中にぽっかりと、陽の当たる空き地があった。
円い土壁の家が十軒ほど。円錐形の藁葺きの屋根。家々の周りに珈琲の木が並び、煮炊きの煙が細く立ちのぼっている。鶏が走り回っている。
村だった。森の奥の、いちばん奥の。
◇
ベケレの祖母は、村でいちばんの年寄りだった。皺に埋もれたような小さな顔。白い布を頭から肩まで巻いている。背中は曲がっていたが、目は黒々と澄んでいた。
その祖母が、客のために珈琲を淹れてくれた。
円い家の土間の上に、刈ったばかりの青い草が敷き詰められた。草の匂いが家じゅうに立ちこめる。土の香炉で乳香が焚かれる。甘く白い煙が、ゆらゆらと天井へ昇っていく。
祖母は小さな炭火の上に平たい鉄鍋を載せた。生豆をひと掴み。鍋を揺する。からから、からから。
忉利は、その手元から目を離せなかった。鍋の揺すり方が違う。火からの離し方が違う。イエメンの茶屋で竈を借りて自分が煎った時とも、父の焙煎機とも違う。けれど、この老婆は目を閉じたまま、豆の爆ぜる音だけですべてを聴き分けていた。
深い茶色になった豆から、煙が立ちのぼる。
祖母は鍋を持ち上げて、その煙を客の方へ手でそっと扇いだ。青子の顔に。忉利の顔に。
焙煎したての豆の、焦げる寸前の匂い。
「……香りを、嗅がせてくれてるのね」
青子が小さく言った。
ベケレの兄だという十七歳くらいの青年が、隣で頷いた。名前はダウィット。ジンマの町の学校に通っていたことがあって、少しだけ英語が話せた。
「〈そう。最初に、客に、香りを捧げる。それが、ブンナの始まり〉」
祖母は煎った豆を木の臼に移した。杵で搗く。とん、とん、と、ゆっくりと。
粉になった豆を、首の細い丸い土の壺に入れる。水を注いで炭火にかける。壺の口から湯気が上がる。
しばらく待って、祖母は壺を傾けた。小さな取っ手のない器に、黒い液体が細い糸のように注がれていく。高いところから、一滴もこぼさずに。器が満ちる直前に、ぴたりと止まる。
最初の一杯が青子の前に置かれた。次の一杯が、忉利の前に。
「〈一杯目は、アボル〉」
ダウィットが言った。
「〈二杯目は、トナ。三杯目は、バラカ。……バラカは、祝福という意味。三杯目まで飲まないと、祝福を受けずに帰ることになる〉」
「……三杯目まで、飲まないと失礼ってこと?」
青子が器を両手で持ったまま訊いた。
「〈失礼ではない。でも、もったいない〉」
ダウィットは少しだけ笑った。
忉利は器を持ち上げた。一口。
濃かった。粉ごと煮出したざらつきが舌に残る。苦くて、野生の果実のような酸味があって、それから奥の方に、乳香の煙の甘さが絡みついてくる。
ネルで淹れたものとは、まるで違う。
けれど。
「……うまい」
忉利は器を見下ろしたまま呟いた。
祖母が皺の奥の黒い目で、じっと忉利を見ていた。
◇
その夜、三杯目のバラカを飲み終えた後で、忉利はあの無花果の木のことを訊いた。
青子の片言の英語を挟んで、ダウィットがそれを祖母に伝える。
祖母は長いこと黙っていた。囲炉裏の熾火が、円い家の壁にゆらゆらと影を揺らしていた。
やがて、祖母は低い声で語り始めた。ダウィットが、ゆっくりとそれを英語に直していった。
「〈……祖母の、祖母の、そのまた祖母が、あの木に、結び目を作った。村を、隠すために〉」
「隠す?」
「〈昔、森の外から、人を攫う者たちが来た。子供や、若い者を連れていった。だから、結んだ。悪い心で来る者は、あの木の前で道を失って、森の外へ帰っていく〉」
ダウィットの声が少しだけ低くなった。
「〈今も、同じ。……今は、兵隊が来る。若い男を、戦争に連れていく。北の方の村では、もう、若い男は一人も残っていない〉」
青子の手が、膝の上でぎゅっと握られた。
バスの窓から見た、トラックの荷台に押し込まれていく若い男たち。
ダウィットは、十七歳だった。
「〈結び目は、ほつれる。だから、女たちが、代々、結び直してきた。祖母の祖母も、祖母の母も、祖母も〉」
ダウィットは祖母の手を見た。皺だらけの、節くれだった小さな手。
「〈でも、祖母は、もう、年を取った。あの木の根元まで、一人では歩けない日もある〉」
忉利は目の奥の扉を少しだけ開いて、祖母を見た。線が浮かび上がった。
祖母の胸から細い線が伸びていた。前へ、前へと。けれど、その線には、数えきれないほどのほつれが絡みついていた。父の線よりも、ずっと多く。糸という糸が毛羽立って、今にもほどけてしまいそうなほどに。
忉利は扉を閉じた。
「……結び目、見えた」
ぽつりと、忉利は言った。
「今日、あの木んとこで。三つ編みみたいに、何本も糸が編まれてて。何回も、何回も、結び直した跡があった。古い糸の上から、新しい糸で」
ダウィットがそれを訳す。
途中で、祖母の顔色が変わった。皺に埋もれた小さな顔から血の気が引いていく。黒い目が大きく見開かれる。
祖母は突然、囲炉裏越しに身を乗り出した。皺だらけの両手が、忉利の顔を挟み込むように掴んだ。
「――っ」
驚くほど強い力だった。
祖母は忉利の目を、至近距離から覗き込んだ。虹彩の縁に夜明け前の空の色の輪を宿した目を。早口で何かを言っている。震える声で。祈るような、あるいは怯えるような声で。
ダウィットが呆然とした顔で、それを聞いていた。
「……ダウィット。なんて言ってんの」
青子が鋭く訊いた。
ダウィットはしばらく答えられなかった。
「〈……結び目は、結んだ女の血筋にしか、見えない〉」
ようやく、かすれた声で言った。
「〈よその者に見えたことは、一度もない。僕にも、見えない。……祖母は、『この目は、ほどく目だ』と言っている〉」
「……ほどく目」
「〈祖母の祖母が、言い残していた。『いつか、ほどく目を持つ者が、森の外から来る。その者が来た時、村は終わる』〉」
円い家の中が、しんと静まり返った。熾火がぱちりと爆ぜた。
祖母の手が忉利の頬を掴んだまま、小刻みに震えていた。
忉利は動かなかった。振り払いもしなかった。ただ、老婆の黒い目をまっすぐに見返していた。
「……切ってねえよ」
低い声で、忉利は言った。
「見えたけど、切ってねえ。……切らねえよ」
ダウィットがそれを伝えた。
祖母は長いこと、忉利の目を見つめていた。やがて、その手からゆっくりと力が抜けていった。
◇
兵隊が来たのは、その翌朝だった。
夜明けの薄明かりの中、ベケレが山羊の鞭を握りしめたまま、息を切らして村に駆け込んできた。森の入り口の方角から、エンジンの音が聞こえる、と。
大人たちが一斉に動いた。若い男たちが、家の奥の暗がりへ、森の藪の中へ、音もなく消えていく。ダウィットも祖母に背中を押されて、円い家の裏の珈琲の木々の陰へ身を隠した。
忉利と青子は、村の端の森を見渡せる小さな丘の上に伏せた。木々の隙間から、遠く無花果の木が見えた。その前に、トラックが一台止まっていた。
荷台から兵士たちが降りてくる。十人ほど。肩に銃を下げて、何か怒鳴り合いながら、無花果の木の脇の道を森の奥へと歩き出す。
しばらくして、兵士たちはまた無花果の木の前に戻ってきた。
怒鳴り声が大きくなる。地図を広げる者。空を見上げる者。もう一度同じ道を歩き出す者。
また戻ってくる。三度目。
一人の兵士が苛立ったように、銃床で無花果の木の幹を殴りつけた。
忉利は扉を開いた。
無花果の木の根元の、大きな結び目。昨日よりも細かった。
兵士たちが道を失うたびに、結び目の糸が一本、また一本とぴんと張り詰めて軋んでいる。今にもどこかがほつれそうなほどに。
祖母は昨日、一人では歩けない日もある、と言っていた。この結び目は、もう何年もちゃんと結び直されていないのだ。
「……忉利」
隣で、青子が低い声で言った。指先に、ほんのかすかな熱が灯っていた。
「撃つ?」
「…………」
「十人くらいなら、トラックごと、誰にも見られずに吹き飛ばせるわ。森の中だもの。……事故に見せかけることだって、できる」
青子の声は静かだった。静かすぎた。
その目は、無花果の木の前の兵士たちをまっすぐに見据えていた。
「それとも、あんたが切る? あいつらの銃の線。トラックの線。……あんたなら、誰も殺さずに、全部、使い物にならなくできるでしょ」
忉利は答えなかった。右目の奥で、無数の線が見えていた。
兵士たちの肩の銃の線。銃身と銃床を繋ぐ線。弾と薬室を繋ぐ線。トラックの車輪と車軸を繋ぐ線。エンジンの中の無数の部品を繋ぐ線。
全部、切れる。一瞥で。痛みもなく。
切れば、兵士たちは武器も足も失って、この森から逃げ帰るしかなくなる。今日は。
けれど、明日は。来月は。来年は。
トラックが一台、森の中で謎の故障を起こし、兵士たちの銃が一斉に壊れた村の話は、きっと森の外に広まる。そうなれば、次はもっと多くの兵隊が来る。もっと大きな銃を持って。
それに。
忉利は結び目を見た。何代もの女たちが、ほつれるたびに結び直してきた、不格好な結び目。
この村を守ってきたのは、青子の魔弾でも自分の目でもない。あの結び目だった。
「……待て」
忉利は言った。
「何もしねえで、待て」
「……本気?」
「本気だ」
青子は忉利の横顔を見た。それから、指先の熱をゆっくりと引っ込めた。
二人は丘の上に伏せたまま、待った。
兵士たちは四度目、五度目と、無花果の木の前に戻ってきた。怒鳴り声がだんだん小さくなり、苛立ちが疲れに変わっていく。地図を放り出す者。木の根に座り込む者。
結び目は軋んでいた。糸が今にも切れそうに張り詰めていた。
けれど、切れなかった。
六度目に戻ってきた時、隊長らしい男が何か短く怒鳴った。兵士たちがのろのろとトラックの荷台に乗り込んでいく。エンジンがかかる。トラックが来た道を引き返していく。
エンジンの音が森の外へ遠ざかって、やがて聞こえなくなった。森に猿の鳴き声が戻ってきた。
青子は丘の上で、長い、長い息を吐いた。
「……撃たなかったわよ、私」
ぽつりと言った。
「ああ」
「撃ちたかったのに」
「知ってる」
「……成長したと思わない?」
「思う」
青子は少しだけ笑った。それから、丘の草の上に仰向けに転がった。
森の木々の隙間から、朝の空が細く見えていた。
◇
その日の夕方、忉利は祖母を背負って、森の中を歩いていた。
言い出したのは、忉利だった。丘の上から見た結び目のことを、ダウィットを通して祖母に伝えた。糸が今にも切れそうに張り詰めていたこと。どこがいちばん細くなっているか、見えたこと。
祖母は長いこと黙っていた。それから震える手で、家の奥の籠から糸の束を取り出した。赤と黒と白の、撚り合わせた細い糸。
――あの木まで、連れていってくれるか。
ダウィットが訳した祖母の言葉に、忉利は黙って背中を向けてしゃがみ込んだ。
背中の祖母は、驚くほど軽かった。枯れ枝の束を背負っているようだった。細い腕が忉利の首に回される。皺だらけの頬が肩に触れる。乳香と煙と、乾いた草の匂いがした。
ダウィットが糸の籠を抱えて後ろを歩く。ベケレが山羊の鞭を振って先を行く。青子は最後尾で、黙って森の暗がりに目を配っていた。
無花果の木の根元に着いた時、森はもう夕闇に沈みかけていた。忉利は祖母を、太い根の上にそっと下ろした。
「〈祖母が、訊いている〉」
ダウィットが言った。
「〈どこが、いちばん細いか〉」
忉利は結び目を見た。何層にも重なった、不格好な結び目。その中のいちばん外側の、兵士たちが道を失うたびに軋んでいた糸。
「……そこ。根の、左の、瘤みてえになってるとこの、少し上」
忉利が指さす先を、青子が片言の英語でダウィットに伝え、ダウィットがそれを祖母の言葉に直す。三人を経由する、ひどく回りくどい道案内だった。
祖母の皺だらけの指が、何もない空中を手探りで動く。
「もう少し、右。……そう、そこだ」
祖母の指が止まった。それから、その指が籠から取った糸を、何もない空中にゆっくりと絡め始めた。
忉利の目には見えていた。新しい糸が、古い糸のほつれに一本ずつ編み込まれていくのが。祖母の指が動くたびに、張り詰めていた結び目が少しずつ、少しずつ緩んで、太くしなやかになっていくのが。
「次は、その下。……真ん中の、太い根の付け根」
ほどく目が場所を示す。結ぶ手がそこを結び直す。どちらも、一人ではできないことだった。
日が完全に落ちて、ダウィットが松明に火を灯しても、二人はそれを続けた。
青子は少し離れた根に腰を下ろして、その様子を見ていた。膝を抱えて、何も言わずに。松明の炎に照らされた忉利の横顔を、ずっと見ていた。
夜も更けかけた頃。祖母がひと休みさせてくれと言って根の上で目を閉じた時、忉利は、松明の明かりの届かない暗がりの方を振り返った。
青子がそこにいた。膝を抱えて、こちらを見ていた。
目が合った。青子は慌てて目を逸らした。
「……なんだよ」
「なんでもないわよ」
「ずっと見てただろ」
「見てないわよ」
「見てた」
青子は膝の上に顎を埋めた。それから、くぐもった声で言った。
「……ちょっとだけ、見惚れてただけよ」
「……は?」
「なんでもない! ほら、おばあちゃん、起きたわよ!」
忉利は何も言えずに、結び目の方に向き直った。耳の先が、松明の熱のせいとは思えないほど熱かった。
最後の糸が結ばれたのは、それからしばらく経ってからだった。
祖母は糸の端を歯で噛み切った。それから、大きく息を吐いて、無花果の太い根にそっと手のひらを当てた。
忉利は結び目を見た。不格好だった。相変わらず。古い糸と新しい糸が、何層にも重なって。
けれど、もうどこも軋んではいなかった。
◇
出発の朝。祖母は円い家の土間で、もう一度だけ珈琲を淹れてくれた。
青い草。乳香の煙。鉄鍋の中で爆ぜる豆。臼と杵。首の細い土の壺。
アボル。トナ。それから、バラカ。
三杯目を飲み干すと、祖母は懐から細い糸を二本取り出した。赤と黒と白の糸を、三つ編みにしたもの。
祖母はそれを青子の左の手首に結んだ。それから、忉利の左の手首に。皺だらけの指が、小さな不格好な結び目を作る。
「〈祖母が、『迷わないように』って〉」
ダウィットが訳した。
「〈『どこへ行っても、帰り道を忘れないように』〉」
忉利は手首の結び目を見下ろした。目の奥の扉を、少しだけ開いた。
小さな結び目から、細い、細い線が一本伸びていた。円い家の土間を抜けて、森の奥へ。あの無花果の木の、大きな結び目の方へ。
糸のように細くて、今にも消えそうで。
けれど、確かに繋がっていた。
祖母は忉利の手首から手を離して、それからダウィットに向かって長い言葉を語った。ダウィットはそれを聞いて、少しだけ目を潤ませた。
「〈祖母が、言っている〉」
ダウィットは忉利の目を見た。
「〈『ほどく目を持つ者が来た。でも、何もほどかなかった』〉」
「…………」
「〈『祖母の祖母は、半分だけ、間違えていた』って〉」
祖母は皺の奥の黒い目で、忉利を見上げていた。それから、節くれだった手で忉利の瞼にそっと触れた。祈るように。
忉利は目を閉じて、じっとしていた。
手首の結び目が、少しだけ温かかった。
◇
森を出る道は、一度も迷わなかった。無花果の木の脇を抜けると、道はまっすぐに森の外へと続いていた。枝に結ばれた赤い布切れが湿った風に揺れて、二人を見送っていた。
「……ねえ」
青子が手首の糸を眺めながら言った。
「最初の日。あの木の前で、あんた、切りかけたわよね」
「……ああ」
「切ってたら、昨日、あいつら、村まで来てた」
「たぶんな」
「なんで、切らなかったの」
忉利はしばらく黙って歩いていた。
「……わかんねえ」
それから、正直に言った。
「ただ、結び直した跡が、見えたんだよ。何回も、何回も。……晴華の背比べの線みてえだと思った。そしたら、手が止まった」
青子は何も言わなかった。しばらく、二人の足音と森の鳥の声だけが聞こえていた。
「……わからなくていいのよ」
やがて、青子が言った。
「え?」
「なんで切らなかったのか。わからなくていいの」
青子は前を向いたまま歩いていた。
「壊すのは、私の仕事よ。あんたが、わざわざ手を出さなくたって、壊すべきものは、私が全部壊してあげる」
「…………」
「だから、あんたは」
青子は手首の結び目を、指先でそっとなぞった。
「切らない方も、選べるでしょ」
忉利は青子の横顔を見た。青子は、こちらを見なかった。
森の出口の方から光が差し込んでいた。木々の隙間から、高原の広く明るい空が見えていた。
「……そうだな」
―――
「選べるな」
青子の手が、横から忉利の手を探った。手首の糸と糸が触れ合った。
赤と黒と白の、二本の同じ糸。
「……おそろいね」
「おばあさんが結んだんだろ」
「わかってるわよ。……でも、おそろい」
青子は指を絡めた。
「……これ、切らないでよ。一生」
「切らねえよ」
「絶対よ」
「……切らない方を、選ぶ」
青子は少しだけ笑って、絡めた指に力を込めた。
左の手首で、赤と黒と白の糸が小さく揺れていた。
森の奥の、あの大きな結び目と、細い細い一本の線で繋がったまま。
単純に、どんな話が見たいですか?
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