―――この街の下には、もう一つの街がある。
地面の下、何メートルもの土と岩の奥を、鉄の管がいくつも走っている。その中を、明かりを灯した箱が、昼も夜も何百人もの人間を詰め込んで行き来している。
地上を歩く人間は、そのことをほとんど意識しない。
ただ時々、古い建物の床の下から低い唸りが伝わってくる。ごう、と。遠い雷のような、大きな獣の寝息のような音が、足の裏をかすかに震わせて、また遠ざかっていく。
蒼崎青子は、昔からその音が好きだった。理由は自分でもよくわからない。
ただ、あの音を聴いていると、どれだけ苛立っていても少しだけ呼吸が深くなった。世界のどこかで、自分と関係のない何かが、決まった時刻に決まった場所へ黙々と走り続けている。そう思うと、なぜか安心できた。
三咲には地下鉄がなかった。だから、この音を聴くのは子供の頃に親戚の家へ行った時以来だった。
◇
一九九一年、三月四日。午後四時。
上野の駅の、地下へ続く長い通路を抜けて地上に出ると、空はもう夕方の色に傾き始めていた。
「……人、多いわね」
青子は鞄の持ち手を握ったまま、通りを見渡した。
車の列。信号待ちの人の群れ。高架の上をひっきりなしに電車が走っていく。ビルの壁一面の看板。どこかの店から流れてくる知らない流行歌。排気ガスと焼き鳥の煙と、湿った春の風の匂いが、ごちゃ混ぜになって押し寄せてくる。
「三咲の百倍はいるな」
隣で忉利が言った。
「百倍じゃきかないでしょ」
「じゃあ千倍か」
「……数えないでよ」
明日の朝一番の電車で成田へ向かう。そこから飛行機を乗り継いで、何日かかけてアラビア半島の端の国へ。今夜は、その手前の最初の夜だった。
宿は一昨日、青子が電話帳で見つけて予約した。上野の裏手の古い商人宿。一泊素泊まりで、二人一部屋。一番安い部屋を、と頼んだらそうなった。
二部屋取るお金がなかったわけではない。ただ、これから先どれだけ旅が続くのか、誰にもわからないのだ。最初の一泊から贅沢をするわけにはいかない、と青子が言い張った。
忉利はそれについて何も言わなかった。
言わなかったことが、青子には少しだけ気に食わなかった。
◇
「……ちょっと、寄り道していい?」
宿へ向かう途中の交差点で、青子が足を止めた。
「どこに」
「別に。……ちょっと、歩きたいだけ」
忉利は鞄の持ち手を持ち直した。
「重てえんだぞ、これ」
「半分持つわよ」
「……好きにしろ」
青子が歩いたのは、上野の山を抜けて御徒町の方へ下る道だった。
高架下の商店街。安売りの靴屋。果物屋の裸電球。路地の奥の小さな喫茶店の看板。どこへ行くとも言わずに、青子は角を一つ曲がり、また一つ曲がった。
「……で、どこ行くんだよ」
「ここ、たぶん、住んでたのよ」
青子はぽつりと言った。
「え?」
「中学出たら、東京に来るつもりだったって、言ったでしょ。……あの頃、ここらへんに下宿しようって決めてたの。地図、何度も見たわ。この辺なら、大学にも通えるし、夜でも電車があるし、ライブハウスにも歩いて行けるって」
青子は古い木造のアパートの前で立ち止まった。錆びた外階段。洗濯物が揺れる窓。二階の角部屋の窓に、「入居者募集」の色褪せた紙が貼ってあった。
「別に、この建物ってわけじゃないけどね」
「……わかってるよ」
「こういうところに、住んでたのよ。たぶん」
青子はしばらくその窓を見上げていた。
姉が家を出ていかなければ。五年前の春、祖父が気を変えなければ。魔術なんてものを知らないままでいられたなら。自分は、あの窓の内側でギターを弾いていたのかもしれない。
忉利は何も訊かなかった。ただ鞄を下ろして、隣で同じ窓を見上げていた。
どこか近くで低い音が響いた。ずん、ずん、と。お腹の底に響く重たい音。
青子がはっと顔を上げた。
路地の向かい、雑居ビルの一階の脇に、地下へ続く細い階段があった。入り口の上に小さなネオンの看板。英語の、読みにくい崩した字。階段の壁一面に、ばらばらの大きさのチラシが重ね貼りされている。
ドラムの音だった。扉の向こうの、そのまた奥から漏れ聞こえてくる。
青子は階段の入り口まで歩いていって、チラシの一枚に目を落とした。今夜の出演。知らないバンドの名前が三つ並んでいた。
「……入るか?」
後ろから忉利が言った。
「明日、早えけど。一時間くらいなら」
青子はしばらく、階段の下の暗がりを見つめていた。
ドラムの音。ベースの唸り。誰かの叫ぶような歌声。中学の頃、隣町の地下で浴びていたのと同じ種類の音。
それから首を横に振った。
「……いいわ」
「いいのか」
「いいのよ」
青子は階段の手すりにそっと手を置いた。
「聴こえるだけで、十分」
そう言って振り返った顔は、笑っていた。
笑っていたけれど、忉利はその顔をよく知っていた。小学三年の夏、飼っていた金魚が死んだ朝も、青子はこういう顔で笑っていた。
◇
宿は路地の突き当たりにあった。木造二階建て。玄関の引き戸を開けると、たたきの向こうに磨き込まれた黒い廊下がまっすぐ延びていた。帳場から出てきた女将は腰の曲がった小柄な老婆で、二人の顔と大きな鞄と、青子の首に巻かれた濃紺のマフラーを順に眺めて、「はいはい、お待ちしてましたよ」と、それだけ言った。
通されたのは、二階の奥の六畳間だった。色の褪せた畳。低い卓袱台。障子の向こうに、狭い裏路地と隣の建物の壁。天井の隅に雨漏りの染みが一つ。
布団はもう敷いてあった。二組。部屋の両端に、ぴったりと壁に寄せて。真ん中に畳一枚分以上の隙間が空いている。
「……気が利くのか、利かないのか、わかんねえな」
忉利が戸口に立ったまま呟いた。
青子は返事をしなかった。黙って、窓際の方の布団の脇に鞄を下ろした。
◇
晩飯は近くの定食屋で食べた。鯖の味噌煮と豚汁と、山盛りのご飯。忉利がいつもの癖で、青子の皿に先に手を伸ばして骨を取り始めたので、青子はその手をはたき落として「自分の食べなさい」と言った。晴華との約束だ。忉利は溜息をついて、自分の皿に向き直った。
帰りに銭湯に寄った。男湯と女湯の暖簾をくぐる前に、青子が「三十分ね」と言い、忉利が「長えよ」と言い、結局四十分かかった。
◇
―――その四十分の最後の十分。
先に上がった忉利は、銭湯の向かいの煙草屋の軒先で、赤い公衆電話の受話器を握っていた。
十円玉を三枚。ダイヤルを回す指が途中で一度だけ止まった。それから、最後の数字まで回した。
呼び出し音。一回。二回。三回目の途中で繋がった。
『――はい、Cafe HIKAGEです!』
晴華の声だった。夜の九時前。店はもう閉めている時間だ。それでも、店の電話に出る時のいつもの元気な声。
「……おれだ」
『お兄ちゃん!?』
受話器の向こうで、何かががたんと倒れる音がした。
『どこ!? 今どこ!? もう外国!?』
「まだ東京だ。明日の朝、飛行機」
『なんだあ……。ねえ、ご飯食べた? ちゃんと座って食べた?』
「食った。座って」
『青子ちゃんに見張られて?』
「……ああ」
受話器の向こうで晴華が笑った。その笑い声の後ろから、かすかに別の音が聞こえた。ネルを洗う水の音。カップを重ねる、陶器の触れ合う音。
父がまだ、カウンターの中にいるのだ。
『お父さんに代わる?』
「……いい」
『いいの?』
「どうせ、何も喋らねえだろ」
『……うん、たぶん』
晴華は少しだけ黙った。それから、受話器に口を近づけたような小さな声になった。
『お父さんね、お兄ちゃんたちが出てってから、ずっと、ネル振ってるの。お客さんいないのに。……何杯も、淹れては、自分で飲んでるの』
忉利は何も答えられなかった。
ピー、と受話器の奥で、硬貨の残りを知らせる音が鳴った。
『あ、お兄ちゃん、十円――』
「葉書、送る」
忉利は早口に言った。
「向こう着いたら、すぐ。……親父に、飲みすぎんなって言っとけ」
『うん! お兄ちゃんも――』
ぷつり、と音が切れた。受話器の向こうに、つー、という平らな音だけが残った。
忉利はしばらく、その音を聞いていた。ポケットの中には、まだ十円玉が何枚か残っていた。
かけ直すことは、しなかった。
受話器を戻す。かちゃん、と硬い音がした。
振り返ると、銭湯の暖簾の前に湯上がりの青子が立っていた。濡れた髪を濃紺のマフラーで包むようにして。いつから見ていたのか、わからなかった。
青子は何も訊かなかった。ただ「待たせたわね」とだけ言って、忉利の隣に並んだ。
忉利の髪は、夜風ですっかり冷えていた。
◇
宿に戻ったのは、夜の九時を過ぎた頃だった。
明かりを消すと、部屋は思っていたより暗かった。障子の向こうの裏路地に街灯が一本だけ立っている。その光が紙越しに、ぼんやりと白く滲んでいた。
青子は窓際の布団に仰向けになって、天井の染みを見上げていた。畳一枚分向こうの壁際で、忉利が同じように仰向けになっているのがわかった。寝息は聞こえなかった。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
その時。
ごう、と。
床の下から低い音が伝わってきた。畳の目が、ほんのかすかに震える。遠い雷のような、大きな獣の寝息のような音が、部屋の下を通り抜けて、また遠ざかっていく。
青子ははっと目を見開いた。
「……聴こえた?」
「地下鉄か」
「そう。……銀座線よ。たぶん、この下、走ってるの」
青子の声が少しだけ弾んでいた。
「一番古い地下鉄なの。昭和のはじめからずっと、この下を走ってるのよ」
「……詳しいな」
「調べたもの。東京に来たら、真っ先に乗ろうと思ってたんだから」
「乗ったじゃねえか、今日」
「乗ったけど。……乗るのと、こうやって聴くのは、違うのよ」
また、音が来た。ごう、と。さっきより少しだけ近く。それから遠くへ。
青子は息を吐いた。深く、長く。
「……昔から、好きなの。この音」
「知ってる」
「知らないでしょ」
「知ってるよ。ガキの頃、親戚んちから帰ってきた時、お前、一週間、地下鉄の話しかしなかっただろ」
「……っ」
青子は布団を顎まで引き上げた。
「……覚えてなくていいのに、そんなこと」
「覚えてんだから仕方ねえだろ」
青子は答えなかった。ただ、床の下を通り過ぎていく音を、ひとつ、またひとつと数えていた。
五本。六本。七本。間隔が少しずつ空いていく。
十一本目が遠ざかっていった後、しばらく待っても、次の音は来なかった。
障子の外で、どこかの酔っ払いの歌声が遠く聞こえて、消えた。
「……終電、行っちゃったわね」
青子の声が小さくなった。それきり、部屋はしんと静かになった。
静かだった。驚くほど、静かだった。
屋敷の夜には、いつも何かの音があった。柱時計の振り子。暖炉の熾火が崩れる音。廊下の止まり木で駒鳥が寝返りを打つ羽音。夜明け前に、隣の部屋の草十郎が起き出す、律儀な足音。それから朝。台所の窓を開ける音と、湯の沸く音と、珈琲の匂い。
今夜は、そのどれもなかった。知らない天井。知らない壁の染み。知らない路地の、知らない街灯。
青子は天井を見上げたまま目を閉じた。閉じても、眠れなかった。
「……静かね」
「ああ」
「有珠、今頃、何してるかしら」
言ってから、しまった、と思った。口に出した途端、胸がきゅっと縮んだ。
「……紅茶、飲んでんだろ」
壁際から低い声がした。
「草十郎の、十秒短いやつ」
「……ふふ」
青子は笑おうとした。笑い声は途中で掠れて、消えた。
「……変ね」
青子は布団の中で膝を抱えた。
「自分で出てきたのよ。誰に言われたわけでもないのに。行き先も決めずに、ギターも置いて、有珠にも、ちゃんとさよならも言わないで」
「…………」
「なのに、一晩目から、これ」
声が少しだけ震えた。
「ほんと、情けないわね。……笑ってもいいわよ」
壁際から返事はなかった。しばらくして、布団の擦れる音がした。寝返りを打ったのだろう。
「……おれも」
低い声だった。青子は目を開けた。
「朝、焙煎機の音がしねえと、たぶん起きらんねえ」
ぶっきらぼうな、いつもの声。けれど、その奥に、ほんのわずかに何かが滲んでいた。
「十八年、毎朝あの音で起きてたんだぞ。屋敷に移ってからも、坂の下からかすかに聞こえる気がして、起きてた。……今夜は、それもねえ」
「…………」
「だから、笑わねえよ」
青子は暗闇の中で、壁際の方を見た。畳一枚分の隙間の向こうに、布団の盛り上がりがぼんやりと見えた。こちらに背を向けているのか向いているのか、わからなかった。
先月、十八になったばかりの男だった。青子より半年ちょっと遅く生まれた。子供の頃は、それを理由に散々弟扱いしてやった。
その男が今、知らない街の知らない宿で、焙煎機の音がしないと眠れないと言っている。自分と同じように。
「……ねえ」
「なんだよ」
「そっち、行っていい?」
壁際の布団がぴたりと動きを止めた。
長い沈黙があった。裏路地の街灯が障子の向こうで、じじ、と小さく鳴った。
「……寒いのか」
「寒いのよ」
嘘ではなかった。三月の夜の古い宿は、隙間風が冷たかった。けれど、それだけでもなかった。
また、沈黙。それから、壁際の布団の端がゆっくりと持ち上がった。掛け布団の縁が、暗闇の中で小さく開かれる。
それだけだった。何も言わなかった。
青子は自分の布団を抜け出した。畳の冷たさが裸足の裏に刺さる。一枚分の隙間を四つん這いで渡る。ほんの数歩の距離が、やけに長かった。
開かれた布団の縁から中に潜り込む。温かかった。
忉利の体温で温まった布団は、青子の布団よりずっと温かくて、それから、かすかに珈琲の匂いがした。
◇
―――壁際で、忉利は目を開けたまま天井を見ていた。
布団を壁に寄せ直したのは自分だった。女将が敷いた時よりも、さらに半歩壁の方へ。青子が気づいていたのは知っている。
理由を訊かれたら、答えられなかっただろう。隣の布団で寝息を立てる幼馴染を、一晩じゅう意識しないでいられる自信がなかった。それだけだった。
その幼馴染が今、自分の布団の中にいる。背中に、自分のものではない体温が、握りこぶし一つ分の隙間を越えてじわりと伝わってくる。
目の奥の扉が、勝手に少しだけ開いた。暗がりの中に線が浮かんだ。古い板と板の継ぎ目。雨漏りの染みの縁。その向こうの、屋根瓦の一枚一枚を繋ぐ細い線。
それから、背中の向こうの青い線。見なくてもそこにあるとわかっている線を、また確かめようとしていた。
一年前の春、書庫で宿題を出された。線を見ないで、あいつの顔を見る。
忉利は扉を閉じた。線がすうっと消える。
背中の温もりだけが残った。
◇
最初は背中合わせだった。狭い一人用の布団の中で、互いに背を向けて、少しだけ身体を丸めて。背中と背中の間に、握りこぶし一つ分の隙間。
青子は、自分の心臓の音がうるさくて仕方がなかった。背中の向こうの忉利にも聞こえているのではないかと思うと、余計にうるさくなった。
「……静かにしなさいよ」
「何も言ってねえだろ」
「心臓がうるさいのよ」
「……お前のだろ、それ」
「あんたのよ!」
「おれのは、こんなうるさくねえ」
「うるさいわよ!」
声を殺して言い合って、それから二人とも黙った。
背中の向こうから、とくん、とくん、と確かに聞こえていた。自分のものと少しだけずれた速さで。
青子はそっと寝返りを打った。忉利の背中が目の前にあった。
薄い浴衣越しの肩甲骨の形。一年と少し前の冬、旧校舎の音楽室の床で、血に濡れて冷たくなっていた背中。心臓の音は、聞こえなかった。あの夜は。
青子は額をその背中に押し当てた。
とくん、とくん、と。
聞こえた。ちゃんと、動いていた。
青子の手は握りしめたままだった。布団に潜り込む時に、鞄の内ポケットからこっそり取り出してきたもの。
小さな、金色のボタン。
「……青子」
背中越しに声がした。
「なによ」
「手、何持ってんだ」
「……何も持ってないわよ」
「背中に当たってんだよ。硬いのが」
「…………」
青子は答えなかった。代わりに、握りしめた手を忉利の背中から脇腹の方へ回した。
その手を、忉利の手が布団の中で探り当てた。握りこぶしを大きな手のひらが包み込む。指の隙間から、小さな硬いものの輪郭を確かめるように。
「……ボタンかよ」
「…………」
「わざわざ出してきたのか、鞄から」
「……悪い?」
「悪くねえよ」
忉利の手が、青子のこぶしをそっと開いた。金色のボタンが二人の手のひらの間に挟まった。
それから、指と指がボタンを挟んだまま、ゆっくりと絡み合った。どちらからそうしたのかは、わからなかった。
「……忉利」
「なんだ」
「こっち、向いて」
背中がしばらく動かなかった。それから、布団の中でゆっくりと寝返りを打った。
障子越しの街灯の光が、ほんのわずかにその顔を照らしていた。
虹彩の縁に、夜明け前の空の色を細い輪にして閉じ込めた目。一年と少し前の冬、旧校舎の夜から、この目の色は変わった。自分の魔法の色だった。
その目が、すぐ近くで青子を見ていた。近かった。枕一つ分も、なかった。
「……言わないから」
青子は小さな声で言った。
「なにを」
「言わないわよ。……言わないけど」
絡めた指に力がこもった。二人の手のひらの間で、金ボタンがじわりと温かくなっていた。
青子は逃げない。昔から、そう決めていた。
だから、目を閉じた。それから、ほんの少しだけ顔を前に出した。
唇が、触れた。
――と思った瞬間、鼻がぶつかった。
「っ」
「……っ」
二人同時に顔を引いた。暗闇の中で、青子は自分の顔が燃えるように熱くなっていくのがわかった。
「…………」
「…………」
「……へたくそ」
忉利が、ぼそりと言った。
「あ、あんたが動かないからでしょ!」
「動いたら、もっとぶつかってただろ」
「うるさいわね! 初めてなんだから、仕方ないでしょ!」
「……声、でけえよ。隣に聞こえる」
「っ……!」
青子は忉利の胸に額をぐりぐりと押しつけた。顔を見せないように。
「……もう、知らない。寝る」
「寝んのかよ」
「寝るわよ!」
忉利の胸が小さく震えた。笑っているのだとわかった。声を殺して。
青子は胸に額を押しつけたまま、絡めた指に爪を立てた。
「……笑わないって言ったくせに」
「悪い」
「悪いって思ってないでしょ」
「思ってるよ」
笑いの震えが、ゆっくりと止まった。それから、絡めた手とは反対の手が青子の髪に触れた。長い髪を指先で一度だけ梳く。
「……青子」
静かな声だった。いつもの気だるげな声とは違う、何の飾りもない、低くて平らで、けれどどこまでもまっすぐな声。
青子は額を押しつけたまま、動けなかった。
「言ってなかったな」
「……なにを」
「好きだって」
心臓が止まったかと思った。
青子は顔を上げられなかった。上げたら、何かが溢れてしまいそうだった。
「……ばか、じゃないの」
声がひどく掠れていた。
「知ってるわよ、そんなの。……ずっと前から、知ってたわよ」
「知ってても、言っとく」
忉利の手が、髪から青子の頬に降りてきた。熱い頬を、少し冷えた指先がそっと包む。顔を上向かせる。
今度は、青子が目を閉じる前に、忉利の方から少しだけ首を傾けた。
鼻は、ぶつからなかった。
短くて、ぎこちなくて、少しだけ震えていた。けれど、ちゃんと触れていた。
離れた後も、しばらく二人とも目を開けなかった。裏路地の街灯がまた、じじ、と鳴った。
「……いつから」
青子が目を閉じたまま囁いた。
「……何が」
「好きだったの。いつから」
忉利は少しだけ黙った。
「……知ってんだろ、お前」
「…………」
「おれの十年、見たって言ったろ」
青子の指が、絡めた手の中でぴくりと動いた。
「……小一の夏」
小さな声だった。
「おじさんのカウンターで、カフェオレ飲んで、あんたの口に牛乳の髭がついて、私が笑って。……あんた、その時、ずっと私の顔、見てた」
「…………」
「あの魔法の中で、見たわ。あんたの十年の、一番最初に、それがあった」
忉利は何も言えなかった。
自分でも忘れていた。いや、忘れたふりをしていた。十年も前の夏の午後。足の届かない椅子の上で、隣で笑った女の子の顔を。
「……でもね」
青子は目を開けた。すぐ近くの忉利の目を、まっすぐに見た。
「私の方が、先だったんだから」
「……何が」
「好きになったの。私の方が、先」
「小一の夏より前って、いつだよ」
「言わない」
「ずりいな」
「あんたこそ、十年も黙ってたくせに」
「……それは、そうだな」
すぐ近くに忉利の目があった。夜明け前の色の輪が、少しだけ細められていた。照れているのだとわかった。暗くて見えないけれど、たぶんこの男の耳も今、自分と同じくらい赤い。
青子はふっと笑った。今度は、掠れなかった。
それから、絡めた指をほどかないまま、もう一度少しだけ顔を上げた。今度は、二人ともぶつからなかった。
三度目は、青子の方から。四度目は、どちらからだったのかわからなかった。
「……数えてんのか」
「数えてないわよ」
「数えてる顔だった」
「暗くて見えないでしょ!」
「見えんだよ、おれの目は」
「――っ、ずるい! それ、ずるい!」
「閉じてる。今は」
「……ほんとに?」
「ほんとに。……だから、お前の顔しか見えてねえ」
青子は言葉を失った。それから、忉利の胸にもう一度額を押しつけた。今度は、隠すためではなかった。
とくん、とくん、と。
ちゃんと、聞こえていた。自分の音と少しずつ同じ速さになっていくのが、わかった。
◇
いつの間に眠ったのか、青子は覚えていなかった。目を覚ましたのは、足の裏にかすかな震えを感じた時だった。
ごう、と。
床の下から低い音が伝わってくる。遠い雷のような、大きな獣の寝息のような音が、部屋の下を通り抜けて、遠ざかっていく。
始発だった。障子の向こうが、ほんのりと青く白んでいた。
青子は、目の前にある浴衣の襟をしばらくぼんやりと見つめていた。それから、昨夜のことを全部思い出した。
――――っ。
顔が一瞬で熱くなる。
絡めたままの指の間に、まだあの金ボタンが挟まっていた。二人分の体温で、すっかり温まって。
頭の上から寝息が聞こえていた。穏やかな、規則正しい寝息。焙煎機の音がしないと起きられないと言った男が、始発の音にも気づかずにぐっすりと眠っている。
青子はそっと顔を上げて、その寝顔を見た。十八歳の顔だった。
この先、何十年経っても、この顔のまま。自分も同じように。
ごう、と、二本目の電車が床の下を通り過ぎていった。
世界のどこかで、自分と関係のない何かが、決まった時刻に決まった場所へ黙々と走り続けている。今朝は、その音がいつもよりずっと近くに聞こえた。
「……起きなさいよ」
青子は忉利の鼻先を指でつついた。
「京成、六時よ。乗り遅れたら、飛行機、行っちゃうんだから」
忉利の眉がぴくりと寄った。ゆっくりと目が開く。
夜明け前の色の輪を宿した目が、すぐ近くの青子を見て、しばらく焦点を結ばなかった。それから、結んだ。
二人とも、固まった。
「…………おはよ」
「…………おはよう」
どちらも目を逸らした。同時に。
◇
六畳間の窓を開けると、冷たい朝の空気が流れ込んできた。裏路地の向こうの空は、まだ薄い藍色だった。どこかで雀が鳴き始めている。
忉利は卓袱台の上に、鞄から取り出した道具を並べた。父のミル。父のネル。陶器のドリッパー。宿の電気ポットで沸かした湯。
豆を挽く。ごり、ごり、と。静かな宿の、朝の最初の音。
ネルに粉を落として、湯を細く注ぐ。粉が膨らむ。泡がゆっくりと沈んでいく。深煎りの、焦げる寸前の匂いが六畳間に広がった。
「……窓、開けたのね」
布団を畳みながら青子が言った。
「ああ」
「有珠、いないのに」
忉利の手が一瞬止まった。それから、湯を注ぐのを再開した。
「……癖だな」
「癖ね」
青子は畳んだ布団の上に座って、忉利の手元を見ていた。
旅の最初の一杯。黒い雫が宿の湯呑みに、一滴、また一滴と落ちていく。
忉利は湯呑みを二つ並べて、半分ずつ注いだ。一つを、黙って青子の前に置く。
「……紅茶党なんだけど、私」
「知ってる」
「元日くらいは、いいって言ったのよ。あの時は」
「今日は、旅の元日だろ」
青子は少しだけ目を見開いた。それから、湯呑みを両手で包んだ。
「……屁理屈」
「お前に言われたくねえ」
一口、飲む。苦かった。それから、後から甘かった。
窓の外で、三本目の電車が床の下を通り過ぎていった。ごう、と。
青子は湯呑みを持ったまま、窓の外の藍色の空を見上げた。寂しさは、まだ胸のどこかに残っていた。
屋敷の柱時計の音も、暖炉の爆ぜる音も、駒鳥の羽音も、ここにはない。けれど、隣で同じ湯呑みから、同じ一杯を飲んでいる男がいる。
昨夜、その胸の音をちゃんと聴いた。それで十分だった。
「……忉利」
「ん」
「ボタン、返してもらってないんだけど」
忉利は浴衣の袂から、金色のボタンを取り出した。いつの間にそこへ移ったのだろう。
「……持ってたのかよ、おれ」
「持ってたのよ。寝てる間、ずっと握ってたわ」
「…………」
「返しなさいよ」
「おれのボタンだろ、これ」
「私のよ!」
青子は忉利の手からボタンをひったくった。鞄の内ポケットの一番奥に押し込む。留め具をぱちりと閉める。
それから、ぷいと顔を背けて、湯呑みの残りを一気に飲み干した。耳まで真っ赤だった。
窓の外で、雀が一羽、電線から飛び立っていった。
宿を出る時、青子は鞄の持ち手の、忉利の手のすぐ隣に自分の手をかけた。昨日と同じように。
けれど今朝は、持ち手の上で、小指が忉利の小指に少しだけ重なっていた。
忉利は何も言わなかった。小指を、どけなかった。
京成の駅までの路地を、二人は一つの鞄を提げて歩いていった。
旅の二日目の朝だった。
シエルの小説投稿しました。
https://syosetu.org/novel/429688/
競馬始まる前に無理やり終わらせました。
競馬めっちゃ好きです。スプリンターズSでは3連複500円持ってました。人生最高配当でした。皆さんも競馬やりましょう。
あと、添削や、改行、場面転換時の◇など、AIにやってもらうようにしたんですが、本文利用の範囲が、どこまでかわからないので、AIタグをつけました。
シエルの小説満足度調査
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めちゃよかった
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よかった
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そこそこ
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びみょう