夜明けの色を見る眼   作:にんら

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都会と終電

―――この街の下には、もう一つの街がある。

 

 地面の下、何メートルもの土と岩の奥を、鉄の管がいくつも走っている。その中を、明かりを灯した箱が、昼も夜も何百人もの人間を詰め込んで行き来している。

 

 地上を歩く人間は、そのことをほとんど意識しない。

 

 ただ時々、古い建物の床の下から低い唸りが伝わってくる。ごう、と。遠い雷のような、大きな獣の寝息のような音が、足の裏をかすかに震わせて、また遠ざかっていく。

 

 蒼崎青子は、昔からその音が好きだった。理由は自分でもよくわからない。

 

 ただ、あの音を聴いていると、どれだけ苛立っていても少しだけ呼吸が深くなった。世界のどこかで、自分と関係のない何かが、決まった時刻に決まった場所へ黙々と走り続けている。そう思うと、なぜか安心できた。

 

 三咲には地下鉄がなかった。だから、この音を聴くのは子供の頃に親戚の家へ行った時以来だった。

 

 

◇

 

 

 一九九一年、三月四日。午後四時。

 

 上野の駅の、地下へ続く長い通路を抜けて地上に出ると、空はもう夕方の色に傾き始めていた。

 

「……人、多いわね」

 

 青子は鞄の持ち手を握ったまま、通りを見渡した。

 

 車の列。信号待ちの人の群れ。高架の上をひっきりなしに電車が走っていく。ビルの壁一面の看板。どこかの店から流れてくる知らない流行歌。排気ガスと焼き鳥の煙と、湿った春の風の匂いが、ごちゃ混ぜになって押し寄せてくる。

 

「三咲の百倍はいるな」

 

 隣で忉利が言った。

 

「百倍じゃきかないでしょ」

 

「じゃあ千倍か」

 

「……数えないでよ」

 

 明日の朝一番の電車で成田へ向かう。そこから飛行機を乗り継いで、何日かかけてアラビア半島の端の国へ。今夜は、その手前の最初の夜だった。

 

 宿は一昨日、青子が電話帳で見つけて予約した。上野の裏手の古い商人宿。一泊素泊まりで、二人一部屋。一番安い部屋を、と頼んだらそうなった。

 

 二部屋取るお金がなかったわけではない。ただ、これから先どれだけ旅が続くのか、誰にもわからないのだ。最初の一泊から贅沢をするわけにはいかない、と青子が言い張った。

 

 忉利はそれについて何も言わなかった。

 

 言わなかったことが、青子には少しだけ気に食わなかった。

 

 

◇

 

 

「……ちょっと、寄り道していい?」

 

 宿へ向かう途中の交差点で、青子が足を止めた。

 

「どこに」

 

「別に。……ちょっと、歩きたいだけ」

 

 忉利は鞄の持ち手を持ち直した。

 

「重てえんだぞ、これ」

 

「半分持つわよ」

 

「……好きにしろ」

 

 青子が歩いたのは、上野の山を抜けて御徒町の方へ下る道だった。

 

 高架下の商店街。安売りの靴屋。果物屋の裸電球。路地の奥の小さな喫茶店の看板。どこへ行くとも言わずに、青子は角を一つ曲がり、また一つ曲がった。

 

「……で、どこ行くんだよ」

 

「ここ、たぶん、住んでたのよ」

 

 青子はぽつりと言った。

 

「え?」

 

「中学出たら、東京に来るつもりだったって、言ったでしょ。……あの頃、ここらへんに下宿しようって決めてたの。地図、何度も見たわ。この辺なら、大学にも通えるし、夜でも電車があるし、ライブハウスにも歩いて行けるって」

 

 青子は古い木造のアパートの前で立ち止まった。錆びた外階段。洗濯物が揺れる窓。二階の角部屋の窓に、「入居者募集」の色褪せた紙が貼ってあった。

 

「別に、この建物ってわけじゃないけどね」

 

「……わかってるよ」

 

「こういうところに、住んでたのよ。たぶん」

 

 青子はしばらくその窓を見上げていた。

 

 姉が家を出ていかなければ。五年前の春、祖父が気を変えなければ。魔術なんてものを知らないままでいられたなら。自分は、あの窓の内側でギターを弾いていたのかもしれない。

 

 忉利は何も訊かなかった。ただ鞄を下ろして、隣で同じ窓を見上げていた。

 

 どこか近くで低い音が響いた。ずん、ずん、と。お腹の底に響く重たい音。

 

 青子がはっと顔を上げた。

 

 路地の向かい、雑居ビルの一階の脇に、地下へ続く細い階段があった。入り口の上に小さなネオンの看板。英語の、読みにくい崩した字。階段の壁一面に、ばらばらの大きさのチラシが重ね貼りされている。

 

 ドラムの音だった。扉の向こうの、そのまた奥から漏れ聞こえてくる。

 

 青子は階段の入り口まで歩いていって、チラシの一枚に目を落とした。今夜の出演。知らないバンドの名前が三つ並んでいた。

 

「……入るか?」

 

 後ろから忉利が言った。

 

「明日、早えけど。一時間くらいなら」

 

 青子はしばらく、階段の下の暗がりを見つめていた。

 

 ドラムの音。ベースの唸り。誰かの叫ぶような歌声。中学の頃、隣町の地下で浴びていたのと同じ種類の音。

 

 それから首を横に振った。

 

「……いいわ」

 

「いいのか」

 

「いいのよ」

 

 青子は階段の手すりにそっと手を置いた。

 

「聴こえるだけで、十分」

 

 そう言って振り返った顔は、笑っていた。

 

 笑っていたけれど、忉利はその顔をよく知っていた。小学三年の夏、飼っていた金魚が死んだ朝も、青子はこういう顔で笑っていた。

 

 

◇

 

 

 宿は路地の突き当たりにあった。木造二階建て。玄関の引き戸を開けると、たたきの向こうに磨き込まれた黒い廊下がまっすぐ延びていた。帳場から出てきた女将は腰の曲がった小柄な老婆で、二人の顔と大きな鞄と、青子の首に巻かれた濃紺のマフラーを順に眺めて、「はいはい、お待ちしてましたよ」と、それだけ言った。

 

 通されたのは、二階の奥の六畳間だった。色の褪せた畳。低い卓袱台。障子の向こうに、狭い裏路地と隣の建物の壁。天井の隅に雨漏りの染みが一つ。

 

 布団はもう敷いてあった。二組。部屋の両端に、ぴったりと壁に寄せて。真ん中に畳一枚分以上の隙間が空いている。

 

「……気が利くのか、利かないのか、わかんねえな」

 

 忉利が戸口に立ったまま呟いた。

 

 青子は返事をしなかった。黙って、窓際の方の布団の脇に鞄を下ろした。

 

 

◇

 

 

 晩飯は近くの定食屋で食べた。鯖の味噌煮と豚汁と、山盛りのご飯。忉利がいつもの癖で、青子の皿に先に手を伸ばして骨を取り始めたので、青子はその手をはたき落として「自分の食べなさい」と言った。晴華との約束だ。忉利は溜息をついて、自分の皿に向き直った。

 

 帰りに銭湯に寄った。男湯と女湯の暖簾をくぐる前に、青子が「三十分ね」と言い、忉利が「長えよ」と言い、結局四十分かかった。

 

 

◇

 

 

―――その四十分の最後の十分。

 

 先に上がった忉利は、銭湯の向かいの煙草屋の軒先で、赤い公衆電話の受話器を握っていた。

 

 十円玉を三枚。ダイヤルを回す指が途中で一度だけ止まった。それから、最後の数字まで回した。

 

 呼び出し音。一回。二回。三回目の途中で繋がった。

 

『――はい、Cafe HIKAGEです!』

 

 晴華の声だった。夜の九時前。店はもう閉めている時間だ。それでも、店の電話に出る時のいつもの元気な声。

 

「……おれだ」

 

『お兄ちゃん!?』

 

 受話器の向こうで、何かががたんと倒れる音がした。

 

『どこ!? 今どこ!? もう外国!?』

 

「まだ東京だ。明日の朝、飛行機」

 

『なんだあ……。ねえ、ご飯食べた? ちゃんと座って食べた?』

 

「食った。座って」

 

『青子ちゃんに見張られて?』

 

「……ああ」

 

 受話器の向こうで晴華が笑った。その笑い声の後ろから、かすかに別の音が聞こえた。ネルを洗う水の音。カップを重ねる、陶器の触れ合う音。

 

 父がまだ、カウンターの中にいるのだ。

 

『お父さんに代わる?』

 

「……いい」

 

『いいの?』

 

「どうせ、何も喋らねえだろ」

 

『……うん、たぶん』

 

 晴華は少しだけ黙った。それから、受話器に口を近づけたような小さな声になった。

 

『お父さんね、お兄ちゃんたちが出てってから、ずっと、ネル振ってるの。お客さんいないのに。……何杯も、淹れては、自分で飲んでるの』

 

 忉利は何も答えられなかった。

 

 ピー、と受話器の奥で、硬貨の残りを知らせる音が鳴った。

 

『あ、お兄ちゃん、十円――』

 

「葉書、送る」

 

 忉利は早口に言った。

 

「向こう着いたら、すぐ。……親父に、飲みすぎんなって言っとけ」

 

『うん! お兄ちゃんも――』

 

 ぷつり、と音が切れた。受話器の向こうに、つー、という平らな音だけが残った。

 

 忉利はしばらく、その音を聞いていた。ポケットの中には、まだ十円玉が何枚か残っていた。

 

 かけ直すことは、しなかった。

 

 受話器を戻す。かちゃん、と硬い音がした。

 

 振り返ると、銭湯の暖簾の前に湯上がりの青子が立っていた。濡れた髪を濃紺のマフラーで包むようにして。いつから見ていたのか、わからなかった。

 

 青子は何も訊かなかった。ただ「待たせたわね」とだけ言って、忉利の隣に並んだ。

 

 忉利の髪は、夜風ですっかり冷えていた。

 

 

◇

 

 

 宿に戻ったのは、夜の九時を過ぎた頃だった。

 

 明かりを消すと、部屋は思っていたより暗かった。障子の向こうの裏路地に街灯が一本だけ立っている。その光が紙越しに、ぼんやりと白く滲んでいた。

 

 青子は窓際の布団に仰向けになって、天井の染みを見上げていた。畳一枚分向こうの壁際で、忉利が同じように仰向けになっているのがわかった。寝息は聞こえなかった。

 

 しばらく、どちらも口を開かなかった。

 

 その時。

 

 ごう、と。

 

 床の下から低い音が伝わってきた。畳の目が、ほんのかすかに震える。遠い雷のような、大きな獣の寝息のような音が、部屋の下を通り抜けて、また遠ざかっていく。

 

 青子ははっと目を見開いた。

 

「……聴こえた?」

 

「地下鉄か」

 

「そう。……銀座線よ。たぶん、この下、走ってるの」

 

 青子の声が少しだけ弾んでいた。

 

「一番古い地下鉄なの。昭和のはじめからずっと、この下を走ってるのよ」

 

「……詳しいな」

 

「調べたもの。東京に来たら、真っ先に乗ろうと思ってたんだから」

 

「乗ったじゃねえか、今日」

 

「乗ったけど。……乗るのと、こうやって聴くのは、違うのよ」

 

 また、音が来た。ごう、と。さっきより少しだけ近く。それから遠くへ。

 

 青子は息を吐いた。深く、長く。

 

「……昔から、好きなの。この音」

 

「知ってる」

 

「知らないでしょ」

 

「知ってるよ。ガキの頃、親戚んちから帰ってきた時、お前、一週間、地下鉄の話しかしなかっただろ」

 

「……っ」

 

 青子は布団を顎まで引き上げた。

 

「……覚えてなくていいのに、そんなこと」

 

「覚えてんだから仕方ねえだろ」

 

 青子は答えなかった。ただ、床の下を通り過ぎていく音を、ひとつ、またひとつと数えていた。

 

 五本。六本。七本。間隔が少しずつ空いていく。

 

 十一本目が遠ざかっていった後、しばらく待っても、次の音は来なかった。

 

 障子の外で、どこかの酔っ払いの歌声が遠く聞こえて、消えた。

 

「……終電、行っちゃったわね」

 

 青子の声が小さくなった。それきり、部屋はしんと静かになった。

 

 静かだった。驚くほど、静かだった。

 

 屋敷の夜には、いつも何かの音があった。柱時計の振り子。暖炉の熾火が崩れる音。廊下の止まり木で駒鳥が寝返りを打つ羽音。夜明け前に、隣の部屋の草十郎が起き出す、律儀な足音。それから朝。台所の窓を開ける音と、湯の沸く音と、珈琲の匂い。

 

 今夜は、そのどれもなかった。知らない天井。知らない壁の染み。知らない路地の、知らない街灯。

 

 青子は天井を見上げたまま目を閉じた。閉じても、眠れなかった。

 

「……静かね」

 

「ああ」

 

「有珠、今頃、何してるかしら」

 

 言ってから、しまった、と思った。口に出した途端、胸がきゅっと縮んだ。

 

「……紅茶、飲んでんだろ」

 

 壁際から低い声がした。

 

「草十郎の、十秒短いやつ」

 

「……ふふ」

 

 青子は笑おうとした。笑い声は途中で掠れて、消えた。

 

「……変ね」

 

 青子は布団の中で膝を抱えた。

 

「自分で出てきたのよ。誰に言われたわけでもないのに。行き先も決めずに、ギターも置いて、有珠にも、ちゃんとさよならも言わないで」

 

「…………」

 

「なのに、一晩目から、これ」

 

 声が少しだけ震えた。

 

「ほんと、情けないわね。……笑ってもいいわよ」

 

 壁際から返事はなかった。しばらくして、布団の擦れる音がした。寝返りを打ったのだろう。

 

「……おれも」

 

 低い声だった。青子は目を開けた。

 

「朝、焙煎機の音がしねえと、たぶん起きらんねえ」

 

 ぶっきらぼうな、いつもの声。けれど、その奥に、ほんのわずかに何かが滲んでいた。

 

「十八年、毎朝あの音で起きてたんだぞ。屋敷に移ってからも、坂の下からかすかに聞こえる気がして、起きてた。……今夜は、それもねえ」

 

「…………」

 

「だから、笑わねえよ」

 

 青子は暗闇の中で、壁際の方を見た。畳一枚分の隙間の向こうに、布団の盛り上がりがぼんやりと見えた。こちらに背を向けているのか向いているのか、わからなかった。

 

 先月、十八になったばかりの男だった。青子より半年ちょっと遅く生まれた。子供の頃は、それを理由に散々弟扱いしてやった。

 

 その男が今、知らない街の知らない宿で、焙煎機の音がしないと眠れないと言っている。自分と同じように。

 

「……ねえ」

 

「なんだよ」

 

「そっち、行っていい?」

 

 壁際の布団がぴたりと動きを止めた。

 

 長い沈黙があった。裏路地の街灯が障子の向こうで、じじ、と小さく鳴った。

 

「……寒いのか」

 

「寒いのよ」

 

 嘘ではなかった。三月の夜の古い宿は、隙間風が冷たかった。けれど、それだけでもなかった。

 

 また、沈黙。それから、壁際の布団の端がゆっくりと持ち上がった。掛け布団の縁が、暗闇の中で小さく開かれる。

 

 それだけだった。何も言わなかった。

 

 青子は自分の布団を抜け出した。畳の冷たさが裸足の裏に刺さる。一枚分の隙間を四つん這いで渡る。ほんの数歩の距離が、やけに長かった。

 

 開かれた布団の縁から中に潜り込む。温かかった。

 

 忉利の体温で温まった布団は、青子の布団よりずっと温かくて、それから、かすかに珈琲の匂いがした。

 

 

◇

 

 

―――壁際で、忉利は目を開けたまま天井を見ていた。

 

 布団を壁に寄せ直したのは自分だった。女将が敷いた時よりも、さらに半歩壁の方へ。青子が気づいていたのは知っている。

 

 理由を訊かれたら、答えられなかっただろう。隣の布団で寝息を立てる幼馴染を、一晩じゅう意識しないでいられる自信がなかった。それだけだった。

 

 その幼馴染が今、自分の布団の中にいる。背中に、自分のものではない体温が、握りこぶし一つ分の隙間を越えてじわりと伝わってくる。

 

 目の奥の扉が、勝手に少しだけ開いた。暗がりの中に線が浮かんだ。古い板と板の継ぎ目。雨漏りの染みの縁。その向こうの、屋根瓦の一枚一枚を繋ぐ細い線。

 

 それから、背中の向こうの青い線。見なくてもそこにあるとわかっている線を、また確かめようとしていた。

 

 一年前の春、書庫で宿題を出された。線を見ないで、あいつの顔を見る。

 

 忉利は扉を閉じた。線がすうっと消える。

 

 背中の温もりだけが残った。

 

 

◇

 

 

 最初は背中合わせだった。狭い一人用の布団の中で、互いに背を向けて、少しだけ身体を丸めて。背中と背中の間に、握りこぶし一つ分の隙間。

 

 青子は、自分の心臓の音がうるさくて仕方がなかった。背中の向こうの忉利にも聞こえているのではないかと思うと、余計にうるさくなった。

 

「……静かにしなさいよ」

 

「何も言ってねえだろ」

 

「心臓がうるさいのよ」

 

「……お前のだろ、それ」

 

「あんたのよ!」

 

「おれのは、こんなうるさくねえ」

 

「うるさいわよ!」

 

 声を殺して言い合って、それから二人とも黙った。

 

 背中の向こうから、とくん、とくん、と確かに聞こえていた。自分のものと少しだけずれた速さで。

 

 青子はそっと寝返りを打った。忉利の背中が目の前にあった。

 

 薄い浴衣越しの肩甲骨の形。一年と少し前の冬、旧校舎の音楽室の床で、血に濡れて冷たくなっていた背中。心臓の音は、聞こえなかった。あの夜は。

 

 青子は額をその背中に押し当てた。

 

 とくん、とくん、と。

 

 聞こえた。ちゃんと、動いていた。

 

 青子の手は握りしめたままだった。布団に潜り込む時に、鞄の内ポケットからこっそり取り出してきたもの。

 

 小さな、金色のボタン。

 

「……青子」

 

 背中越しに声がした。

 

「なによ」

 

「手、何持ってんだ」

 

「……何も持ってないわよ」

 

「背中に当たってんだよ。硬いのが」

 

「…………」

 

 青子は答えなかった。代わりに、握りしめた手を忉利の背中から脇腹の方へ回した。

 

 その手を、忉利の手が布団の中で探り当てた。握りこぶしを大きな手のひらが包み込む。指の隙間から、小さな硬いものの輪郭を確かめるように。

 

「……ボタンかよ」

 

「…………」

 

「わざわざ出してきたのか、鞄から」

 

「……悪い?」

 

「悪くねえよ」

 

 忉利の手が、青子のこぶしをそっと開いた。金色のボタンが二人の手のひらの間に挟まった。

 

 それから、指と指がボタンを挟んだまま、ゆっくりと絡み合った。どちらからそうしたのかは、わからなかった。

 

「……忉利」

 

「なんだ」

 

「こっち、向いて」

 

 背中がしばらく動かなかった。それから、布団の中でゆっくりと寝返りを打った。

 

 障子越しの街灯の光が、ほんのわずかにその顔を照らしていた。

 

 虹彩の縁に、夜明け前の空の色を細い輪にして閉じ込めた目。一年と少し前の冬、旧校舎の夜から、この目の色は変わった。自分の魔法の色だった。

 

 その目が、すぐ近くで青子を見ていた。近かった。枕一つ分も、なかった。

 

「……言わないから」

 

 青子は小さな声で言った。

 

「なにを」

 

「言わないわよ。……言わないけど」

 

 絡めた指に力がこもった。二人の手のひらの間で、金ボタンがじわりと温かくなっていた。

 

 青子は逃げない。昔から、そう決めていた。

 

 だから、目を閉じた。それから、ほんの少しだけ顔を前に出した。

 

 唇が、触れた。

 

――と思った瞬間、鼻がぶつかった。

 

「っ」

 

「……っ」

 

 二人同時に顔を引いた。暗闇の中で、青子は自分の顔が燃えるように熱くなっていくのがわかった。

 

「…………」

 

「…………」

 

「……へたくそ」

 

 忉利が、ぼそりと言った。

 

「あ、あんたが動かないからでしょ!」

 

「動いたら、もっとぶつかってただろ」

 

「うるさいわね! 初めてなんだから、仕方ないでしょ!」

 

「……声、でけえよ。隣に聞こえる」

 

「っ……!」

 

 青子は忉利の胸に額をぐりぐりと押しつけた。顔を見せないように。

 

「……もう、知らない。寝る」

 

「寝んのかよ」

 

「寝るわよ!」

 

 忉利の胸が小さく震えた。笑っているのだとわかった。声を殺して。

 

 青子は胸に額を押しつけたまま、絡めた指に爪を立てた。

 

「……笑わないって言ったくせに」

 

「悪い」

 

「悪いって思ってないでしょ」

 

「思ってるよ」

 

 笑いの震えが、ゆっくりと止まった。それから、絡めた手とは反対の手が青子の髪に触れた。長い髪を指先で一度だけ梳く。

 

「……青子」

 

 静かな声だった。いつもの気だるげな声とは違う、何の飾りもない、低くて平らで、けれどどこまでもまっすぐな声。

 

 青子は額を押しつけたまま、動けなかった。

 

「言ってなかったな」

 

「……なにを」

 

「好きだって」

 

 心臓が止まったかと思った。

 

 青子は顔を上げられなかった。上げたら、何かが溢れてしまいそうだった。

 

「……ばか、じゃないの」

 

 声がひどく掠れていた。

 

「知ってるわよ、そんなの。……ずっと前から、知ってたわよ」

 

「知ってても、言っとく」

 

 忉利の手が、髪から青子の頬に降りてきた。熱い頬を、少し冷えた指先がそっと包む。顔を上向かせる。

 

 今度は、青子が目を閉じる前に、忉利の方から少しだけ首を傾けた。

 

 鼻は、ぶつからなかった。

 

 短くて、ぎこちなくて、少しだけ震えていた。けれど、ちゃんと触れていた。

 

 離れた後も、しばらく二人とも目を開けなかった。裏路地の街灯がまた、じじ、と鳴った。

 

「……いつから」

 

 青子が目を閉じたまま囁いた。

 

「……何が」

 

「好きだったの。いつから」

 

 忉利は少しだけ黙った。

 

「……知ってんだろ、お前」

 

「…………」

 

「おれの十年、見たって言ったろ」

 

 青子の指が、絡めた手の中でぴくりと動いた。

 

「……小一の夏」

 

 小さな声だった。

 

「おじさんのカウンターで、カフェオレ飲んで、あんたの口に牛乳の髭がついて、私が笑って。……あんた、その時、ずっと私の顔、見てた」

 

「…………」

 

「あの魔法の中で、見たわ。あんたの十年の、一番最初に、それがあった」

 

 忉利は何も言えなかった。

 

 自分でも忘れていた。いや、忘れたふりをしていた。十年も前の夏の午後。足の届かない椅子の上で、隣で笑った女の子の顔を。

 

「……でもね」

 

 青子は目を開けた。すぐ近くの忉利の目を、まっすぐに見た。

 

「私の方が、先だったんだから」

 

「……何が」

 

「好きになったの。私の方が、先」

 

「小一の夏より前って、いつだよ」

 

「言わない」

 

「ずりいな」

 

「あんたこそ、十年も黙ってたくせに」

 

「……それは、そうだな」

 

 すぐ近くに忉利の目があった。夜明け前の色の輪が、少しだけ細められていた。照れているのだとわかった。暗くて見えないけれど、たぶんこの男の耳も今、自分と同じくらい赤い。

 

 青子はふっと笑った。今度は、掠れなかった。

 

 それから、絡めた指をほどかないまま、もう一度少しだけ顔を上げた。今度は、二人ともぶつからなかった。

 

 三度目は、青子の方から。四度目は、どちらからだったのかわからなかった。

 

「……数えてんのか」

 

「数えてないわよ」

 

「数えてる顔だった」

 

「暗くて見えないでしょ!」

 

「見えんだよ、おれの目は」

 

「――っ、ずるい! それ、ずるい!」

 

「閉じてる。今は」

 

「……ほんとに?」

 

「ほんとに。……だから、お前の顔しか見えてねえ」

 

 青子は言葉を失った。それから、忉利の胸にもう一度額を押しつけた。今度は、隠すためではなかった。

 

 とくん、とくん、と。

 

 ちゃんと、聞こえていた。自分の音と少しずつ同じ速さになっていくのが、わかった。

 

 

◇

 

 

 いつの間に眠ったのか、青子は覚えていなかった。目を覚ましたのは、足の裏にかすかな震えを感じた時だった。

 

 ごう、と。

 

 床の下から低い音が伝わってくる。遠い雷のような、大きな獣の寝息のような音が、部屋の下を通り抜けて、遠ざかっていく。

 

 始発だった。障子の向こうが、ほんのりと青く白んでいた。

 

 青子は、目の前にある浴衣の襟をしばらくぼんやりと見つめていた。それから、昨夜のことを全部思い出した。

 

――――っ。

 

 顔が一瞬で熱くなる。

 

 絡めたままの指の間に、まだあの金ボタンが挟まっていた。二人分の体温で、すっかり温まって。

 

 頭の上から寝息が聞こえていた。穏やかな、規則正しい寝息。焙煎機の音がしないと起きられないと言った男が、始発の音にも気づかずにぐっすりと眠っている。

 

 青子はそっと顔を上げて、その寝顔を見た。十八歳の顔だった。

 

 この先、何十年経っても、この顔のまま。自分も同じように。

 

 ごう、と、二本目の電車が床の下を通り過ぎていった。

 

 世界のどこかで、自分と関係のない何かが、決まった時刻に決まった場所へ黙々と走り続けている。今朝は、その音がいつもよりずっと近くに聞こえた。

 

「……起きなさいよ」

 

 青子は忉利の鼻先を指でつついた。

 

「京成、六時よ。乗り遅れたら、飛行機、行っちゃうんだから」

 

 忉利の眉がぴくりと寄った。ゆっくりと目が開く。

 

 夜明け前の色の輪を宿した目が、すぐ近くの青子を見て、しばらく焦点を結ばなかった。それから、結んだ。

 

 二人とも、固まった。

 

「…………おはよ」

 

「…………おはよう」

 

 どちらも目を逸らした。同時に。

 

 

◇

 

 

 六畳間の窓を開けると、冷たい朝の空気が流れ込んできた。裏路地の向こうの空は、まだ薄い藍色だった。どこかで雀が鳴き始めている。

 

 忉利は卓袱台の上に、鞄から取り出した道具を並べた。父のミル。父のネル。陶器のドリッパー。宿の電気ポットで沸かした湯。

 

 豆を挽く。ごり、ごり、と。静かな宿の、朝の最初の音。

 

 ネルに粉を落として、湯を細く注ぐ。粉が膨らむ。泡がゆっくりと沈んでいく。深煎りの、焦げる寸前の匂いが六畳間に広がった。

 

「……窓、開けたのね」

 

 布団を畳みながら青子が言った。

 

「ああ」

 

「有珠、いないのに」

 

 忉利の手が一瞬止まった。それから、湯を注ぐのを再開した。

 

「……癖だな」

 

「癖ね」

 

 青子は畳んだ布団の上に座って、忉利の手元を見ていた。

 

 旅の最初の一杯。黒い雫が宿の湯呑みに、一滴、また一滴と落ちていく。

 

 忉利は湯呑みを二つ並べて、半分ずつ注いだ。一つを、黙って青子の前に置く。

 

「……紅茶党なんだけど、私」

 

「知ってる」

 

「元日くらいは、いいって言ったのよ。あの時は」

 

「今日は、旅の元日だろ」

 

 青子は少しだけ目を見開いた。それから、湯呑みを両手で包んだ。

 

「……屁理屈」

 

「お前に言われたくねえ」

 

 一口、飲む。苦かった。それから、後から甘かった。

 

 窓の外で、三本目の電車が床の下を通り過ぎていった。ごう、と。

 

 青子は湯呑みを持ったまま、窓の外の藍色の空を見上げた。寂しさは、まだ胸のどこかに残っていた。

 

 屋敷の柱時計の音も、暖炉の爆ぜる音も、駒鳥の羽音も、ここにはない。けれど、隣で同じ湯呑みから、同じ一杯を飲んでいる男がいる。

 

 昨夜、その胸の音をちゃんと聴いた。それで十分だった。

 

「……忉利」

 

「ん」

 

「ボタン、返してもらってないんだけど」

 

 忉利は浴衣の袂から、金色のボタンを取り出した。いつの間にそこへ移ったのだろう。

 

「……持ってたのかよ、おれ」

 

「持ってたのよ。寝てる間、ずっと握ってたわ」

 

「…………」

 

「返しなさいよ」

 

「おれのボタンだろ、これ」

 

「私のよ!」

 

 青子は忉利の手からボタンをひったくった。鞄の内ポケットの一番奥に押し込む。留め具をぱちりと閉める。

 

 それから、ぷいと顔を背けて、湯呑みの残りを一気に飲み干した。耳まで真っ赤だった。

 

 窓の外で、雀が一羽、電線から飛び立っていった。

 

 宿を出る時、青子は鞄の持ち手の、忉利の手のすぐ隣に自分の手をかけた。昨日と同じように。

 

 けれど今朝は、持ち手の上で、小指が忉利の小指に少しだけ重なっていた。

 

 忉利は何も言わなかった。小指を、どけなかった。

 

 京成の駅までの路地を、二人は一つの鞄を提げて歩いていった。

 

 旅の二日目の朝だった。




シエルの小説投稿しました。
https://syosetu.org/novel/429688/

競馬始まる前に無理やり終わらせました。
競馬めっちゃ好きです。スプリンターズSでは3連複500円持ってました。人生最高配当でした。皆さんも競馬やりましょう。

あと、添削や、改行、場面転換時の◇など、AIにやってもらうようにしたんですが、本文利用の範囲が、どこまでかわからないので、AIタグをつけました。

シエルの小説満足度調査

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