―――夜空に見える星の光は、ずっと昔にその星を出た光だ。
十年前に出た光。百年前に出た光。千年前、一万年前に出た光。今夜誰かが見上げているその星は、もしかすると、とうの昔に燃え尽きてどこにも存在していないのかもしれない。
それでも、光だけはまだ届く。
世界はそういうふうにできている。どんなものにも始まりがあって、終わりがある。星にも。海にも。この大地にも。
そして、世界そのものにも。
ずっと、ずっと先の話だ。人間が数えられるどんな数字よりも、さらに先。すべての星が燃え尽き、すべての線がほどけて、何もかもが静かに冷えていく、その最後の場所。
そこに、小さな石が一つ置いてある。
誰にも拾われないように。
世界が終わる、その最後の瞬間まで。
◇
一九九一年、四月の終わり。
カイロの下町、古い茶屋の軒先で、忉利は店の主人と並んで珈琲を啜っていた。
エチオピアの高原から北へ。国境を越えるバス。ナイルに沿って下る夜行の列車。この街に着いたのは昨日の夕方で、明日にはまた発つ。
細い路地を、真鍮の盆を抱えた給仕の少年たちが走り回っている。水煙管の甘い林檎の煙。ドミノ牌を打ちつける乾いた音。どこかのラジオから、女の歌声が長く震えるように流れている。
この国の茶屋では、珈琲は小さな銅の柄杓鍋で砂糖と一緒に煮立てて飲む。粉ごと、どろりと濃く。ひどく甘くて、ひどく濃くて、舌の上に粉が残る。けれど、それはそれでこの国の味だった。
忉利は鞄の中のネルには手を伸ばさなかった。旅に出て二ヶ月。行く先々で、その土地の飲み方をまず一杯飲む。それがいつの間にか忉利の決まりになっていた。
店の主人は珈琲を啜りながら、西の砂漠の話をした。
路銀の残りを数えた青子が、長いこと帳面とにらめっこをしてから、車を一台、四日だけ雇うことに決めた。
「――白い砂漠?」
茶屋を出た路地で、青子が眉を寄せた。
「砂漠って、普通、黄色いでしょ」
「店のおっさんが言ってた。西の方に、真っ白な砂漠がある。石が、茸みてえな形して、何百本も生えてるって」
「……茸」
「月夜に見ると、雪原みてえに見えるんだと」
青子はしばらく忉利の顔を見て、それから少しだけ口元を緩めた。
「あんた、珈琲以外のことで、行きたいって言うの、初めてじゃない?」
「……そうか?」
「そうよ。イエメンも、エチオピアも、全部、豆の話だったもの」
忉利は首の後ろを掻いた。なぜ行きたいのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、店主の話を聞いた時、なぜか右目の奥がかすかに疼いたのだ。
あの夜以来、痛むことのなくなった右目が。
◇
砂漠までは、古い四輪駆動の車で丸二日かかった。
運転手はサーレムという名の、日焼けした初老の男だった。砂漠の民の出で、頭に白い布を巻き、ほとんど喋らない。英語は「オーケー」と「ノー・プロブレム」と「ティー?」の三つしか使わなかった。
カイロの街並みが途切れると、道の両側はすぐに何もなくなった。黄色い砂。黒い岩。地平線まで続く平らな大地。時々、道端に錆びた車の残骸が骨のように横たわっている。
途中のオアシスの町で一晩泊まった。椰子の木に囲まれた、土壁の小さな宿。夕食の後、屋上で涼んでいると、宿の主人が甘い紅茶を三つ運んできた。英語の達者な白髪の男だった。
「〈砂漠に行くなら、流れ星を見るだろう〉」
主人は手すりにもたれて、暮れていく空を見上げた。
「〈わたしたちの祖父の祖父は、流れ星を見ると、祈った。どこかで、誰かが死んだのだと〉」
「〈……死んだ人の、星?〉」
青子がコップを持ったまま訊いた。
「〈そう。人は、生まれると、空に一つ、星を持つ。死ぬと、その星が落ちる。落ちた星は、砂になって、砂漠の一部になる〉」
主人は、手すりの外の闇に沈みかけた砂の海を顎で示した。
「〈だから、砂漠の砂は、全部、昔の誰かの星なんだ。……砂漠を歩く時は、踏まれている者たちに、少しだけ、遠慮しなさい〉」
主人はにこりと笑って、階段を降りていった。
忉利はコップの紅茶を黙って飲んでいた。
死んだら星が落ちる。落ちて、砂になる。自分の星はどうなったのだろう、と思った。
一年と少し前の冬、一度確かに死んだ。星が落ちたのなら、この世界のどこかの砂になっているはずだ。
けれど、自分はここにいる。砂になるはずだったものは、どこへ行ったのか。
答えは知っている気がした。ただ、まだ見たことがなかった。
◇
翌日、舗装の途切れた道をさらに半日。昼過ぎ、車が小高い砂丘を越えた時、青子が声を漏らした。
「……白い」
白かった。見渡すかぎりの大地が、雪を敷き詰めたように白く輝いていた。
その白い大地の上に、奇妙な形の岩がいくつも、いくつも立っていた。
細い首の上に大きな笠を載せた、茸のような岩。翼を広げた鳥のような岩。蹲る獣のような岩。人の横顔のような岩。どれも白く、陽の光を跳ね返して、目が痛いほどに眩しい。
白墨の岩だった。大昔、ここは海の底だったのだと、オアシスの宿の主人が言っていた。何百万年もかけて海の小さな生き物の殻が積もり、白い岩になった。それが何百万年もかけて砂混じりの風に削られ、こんな形になった。
「……海の、底」
青子は車の窓を開けて身を乗り出した。熱い乾いた風が髪を巻き上げる。
「こんなところが、昔は、海だったのね」
「ああ」
忉利は窓の外の白い岩を見ていた。目の奥の扉を、少しだけ開いた。
線が浮かび上がった。白い岩の一つ一つを形作っている線。何百万年分の殻が少しずつ積み重なって、結び合わされた線。それから、風に削られて少しずつほどけていく線。
どの岩も、ゆっくりとほどけている途中だった。
何百万年もかけて結ばれて、何百万年もかけてほどけていく。
忉利は扉を閉じた。右目の奥が、またかすかに疼いていた。
◇
日が沈む前に、サーレムは大きな茸岩の陰に車を止めた。
手際よく焚き火を熾す。車の荷台から、黒く煤けた薬缶と小さな硝子のコップを三つ取り出す。薬缶に水と茶葉と、どこかで摘んできた乾いた草の束を放り込んで、火にかける。
しばらくして、薬缶から湯気と一緒に、甘く青い香りが立ちのぼった。
「〈ティー?〉」
サーレムが硝子のコップを差し出した。青子が受け取る。一口。
「……おいしい」
青子は目を丸くした。
「紅茶に、何か、草の匂いが……薄荷? ううん、もっと、すうっとする」
「〈セージ〉」
サーレムが乾いた草の束を指さして、短く言った。それから自分の胸を叩き、砂漠の方を指さした。たぶん、砂漠の民の茶という意味だった。
青子は両手でコップを包んで、もう一口飲んだ。
「……有珠に、飲ませたいわね」
「怒るだろ。紅茶に草入れんなって」
「怒るわね。……でも、たぶん、全部飲むわ」
青子は少しだけ笑った。
日が沈んでいく。白い大地が橙色に、それから薄い桃色に、紫に、ゆっくりと色を変えていく。茸岩の影が長く、長く伸びて、やがて夕闇に溶けていった。
◇
それから、夜が来た。
星が降ってきそうだった。大げさではなく、本当にそう思った。
月はまだ昇っていなかった。見渡すかぎり、人工の明かりは一つもない。焚き火の小さな炎と、その周りの白い岩の輪郭だけが闇の中にぼんやりと浮かんでいる。
その上に、空があった。空の全部が星だった。
隙間がない。黒い空に星が浮かんでいるのではなく、星の海の中にところどころ黒い隙間があるだけのように見えた。天の川が白い煙の帯のように、地平線から地平線まで空を真っ二つに横切っている。
焚き火から少し離れた白い砂の上に、二人は並んで仰向けに寝転がっていた。サーレムは車の脇で毛布にくるまって、もう寝息を立てている。
「……すごいわね」
青子が囁くように言った。声を大きくしたら、星が驚いて逃げていくとでもいうように。
「三咲じゃ、こんなの見たことない」
「ああ」
砂漠の夜は驚くほど冷えた。昼間の焼けるような熱が、嘘のように空へ逃げていく。青子は濃紺のマフラーを鼻まで引き上げて、毛布の中で身体を縮めた。
忉利は空を見ていた。
それから、目の奥の扉を全部、開いた。
この場所なら、と思った。遮るものが何もない。ビルも、山も、木々も、人の家も。見渡すかぎり、白い大地と星空だけ。ここなら、どこまでも遠くまで見える。
線が浮かび上がった。星と星を繋ぐ線。白い岩を形作る線。砂の一粒一粒を繋ぐ線。焚き火の炎の揺らめきの、一瞬ごとに結ばれてはほどける線。
それらを通り越して、もっと遠くへ。
自分の胸から伸びる時間の線。ほんの少し先でくるりと輪を描き、青子の線と結び目を作って止まっている線。
その結び目も通り越して。もっと。もっと、先へ。
右目の奥が疼いた。痛みではなかった。何かに呼ばれているような疼きだった。
視界の果てで、この世界の無数の線が一本の大きな流れになっていた。星の線も、海の線も、大地の線も、すべての人間の線も。何千億年もかけて、ゆっくりと一つの方向へ流れていく大きな川。
その川の、ずっと、ずっと下流。すべての線がほどけて細くなり、冷えて、流れることさえやめていく最後の場所。
そこに、何かがあった。
小さな、黒い、石のようなもの。世界の線がすべてほどけて消えていく、その最後の岸辺に、ぽつんと一つだけ置かれている。
見覚えがあった。一年と少し前の冬。旧校舎の音楽室の冷たい床の上で。暗闇の中で、自分の胸から線の形をして引き抜かれていったもの。遠く、遠く、時間の果てへ。
――あなたの死は、ここには置いておかない。
あの夜の青子の声が、耳の奥によみがえった。
――ずっとずっと先の、誰も見ていない場所に、捨ててくるわ。
捨てられた自分の死。それが、あそこにあった。
そして、その小さな黒い石の周りで、世界の大きな川がほんのわずかにたわんでいた。
重いものを置いた布が、そこだけ沈むように。流れていく線のすべてが、ほんの少しだけその石の方へ引き寄せられている。ほんの、少しだけ。
川の流れが、その分だけ速くなっている。最後の岸辺が、その分だけ近くなっている。
「――忉利?」
すぐ隣で青子の声がした。
忉利は瞬きをした。星空が戻ってきた。白い岩。焚き火の匂い。冷たい砂の感触。
「……どうしたのよ。すごい顔してる」
青子が毛布から身体を起こして、忉利の顔を覗き込んでいた。
忉利はしばらく何も言えなかった。それから、空を見上げたままぽつりと言った。
「……見えた」
「何が」
「おれの死体」
青子の息が止まった。
「……正確には、死体じゃねえか。あの夜、お前が捨ててきた、おれの死。……世界のいちばん最後の場所に、置いてあった」
焚き火の薪がぱちりと爆ぜた。青子は何も言わず、毛布の端を握りしめたまま忉利の横顔を見つめていた。
「それでな」
忉利は続けた。
「その周りで、世界の線が、ちょっとだけ、たわんでた。……重いもん置いた布みてえに」
「…………」
「なあ、青子」
忉利はようやく青子の方を見た。
「あれ、なんだ」
長い沈黙があった。遠くで、風が白い岩の間を吹き抜けていく音がした。笛のような、細く高い音。
青子は毛布を肩から落として、砂の上に座り直した。膝を抱えて、星空を見上げる。
「……借金よ」
ぽつりと青子は言った。
「借金?」
――重い借りを、作ったな。
雪の山の洞穴で、声だけの老人が青子にそう言った。帰り道に忉利が訊いても、青子は「魔法使いの借金の話よ。あんたには関係ない」とだけ答えた。
「……爺さんが言ってたやつか」
青子の肩がぴくりと動いた。
「……覚えてたの」
「覚えてる。……あの時は、訊いても言わなかった」
「あんたの死を、なかったことにしたわけじゃないの。そんなこと、できないのよ。死んだっていう事実は、ちゃんとある。重さも、ちゃんとある。……だから、私は、それを、どこか遠くに押しつけただけ」
青子は指先で、空のずっと遠くの一点を指さした。
「世界が終わる、いちばん最後の場所に。誰も拾いに行けない場所に」
「…………」
「でも、押しつけたものは、なくならないの。そこに、ずっと置いてある。重さのまま。……だから、世界は、その分だけ、少しだけ早く終わるのよ。あんたの死の重さの、ちょうど分だけ」
青子の声は平らで、言い訳をしなかった。
「問題の、先送り。解決なんかじゃない。……世界に、借金を背負わせたの。私が、勝手に」
忉利は口を閉ざしていた。
「旧校舎で、有珠が止めようとしたの、覚えてる?」
「……ああ。叫んでたな」
「あれ、このせいよ。有珠は、わかってたの。私が何をしようとしてるのか。……姉貴は、喜んでたけどね。あの人、そういう人だから」
青子は膝に顎を乗せた。
「……言わなかったのは、悪かったわ」
「なんで、言わなかった」
「言ったら、あんた、そういう顔すると思ったから」
「…………」
「あの山の帰り道で、あんた、訊いたわよね。……本当は、あの時、言おうと思ったの。でも、あんたの目、もう、何でも見えちゃうでしょ。……自分の死が、どこにあるのかも、いつか、見えるって。お祖父ちゃんも言ってた」
青子は膝を抱えた腕に力を込めた。
「見えちゃう前に、言えばよかった。……ごめん」
忉利は自分の顔に手をやった。どういう顔をしているのか、自分ではわからなかった。
「……どれくらいなんだ」
「え?」
「世界が、早く終わる分。どれくらいだ」
「わからないわ」
青子は首を横に振った。
「一秒かもしれないし、百年かもしれない。……世界の寿命から見たら、たぶん、誤差みたいなものよ。宇宙が何千億年も続くんだとしたら、その中の、一瞬」
「誤差でも」
忉利は空を見上げた。
「借りは、借りだろ」
青子は答えなかった。
忉利はしばらく星空を見ていた。あの黒い石の場所を。
旧校舎の音楽室の床。背中に冷たい板の感触。胸に空いた穴から、何かが少しずつ流れ出ていく感覚。青子の声が遠くなっていく。自分の名前を呼ぶ声が、水の底から聞こえるようにくぐもって、遠くなっていく。
それから、暗闇。その暗闇の中で、胸の奥から何かがずるりと引き抜かれていった。重たくて、冷たくて、自分の一部だったもの。それが細い線の形になって、どこか遠くへ、遠くへ運ばれていった。
あの時は、それが何なのかわからなかった。今は、わかる。あれが、今夜世界の果てに見えた黒い石だった。
本当なら、自分と一緒にあの冷たい床の上に残るはずだったもの。砂漠の宿の主人の言葉を借りるなら、落ちて砂になるはずだった星。それが落ちずに、世界の果てまで放り投げられた。そうして自分は、ここで星空を見上げている。
右目の奥のざわめきは、もう静まっていた。
「……おれが生きてる分、世界が、早く終わんのか」
呟くように言った。責める響きはなく、ただ確かめるような声だった。
「そうよ」
青子ははっきりと答えた。それから、膝を抱えた腕に少しだけ力を込めた。
「……後悔、してる?」
小さな声だった。
「生き返ったこと。世界に借金背負わせて、生き返ったこと」
忉利は青子の方を見た。星明かりの中で、青子の横顔は白く硬く強張っていた。答えを怖がっている顔だった。
一年と少し、隣で見てきた。あの夜以来、この女がこういう顔をするのを忉利は一度も見たことがなかった。
「してねえ」
忉利は即答した。
「一回も、してねえ」
「…………」
「お前がおれに借金背負わせたんなら、おれは、それ込みで生きる。それだけだ」
青子の肩が、ほんのわずかに震えた。
「……私も」
かすれた声だった。
「私も、後悔してないわよ。一回も」
青子は顔を上げて、星空をまっすぐに見上げた。
「世界がちょっとだけ早く終わっても。姉貴に何て言われても。有珠に、どれだけ怒られても。……あの夜、あんたを返してもらったこと、一回も、後悔してない」
声が少しずつ強くなっていった。
「後悔は、するものじゃなくて、片付けていくものよ。卒業式で、そう言ったでしょ。……だから、片付けるわ。この借金も」
「……どうやって」
「私が生きてる間に、なんとかする」
「どうやってだよ」
「まだ考えてない」
「……考えてねえのかよ」
「考えてないわよ!」
青子は忉利の方を振り向いた。目の縁が赤かった。
けれど、その目はもう怖がってはいなかった。いつもの、まっすぐで少し怒ったような目だった。
「でも、時間ならあるでしょ。……私たち、歳、取らないんだから」
「…………」
「百年でも、二百年でも、考えてやるわよ。それでも駄目だったら――」
青子は夜空の果てを指さした。
「その時は、あの借金ごと、どこか別の時間に放り投げてやるわ」
忉利は目を見開いた。それから、堪えきれずに吹き出した。
「……最悪だな、お前」
「知ってるわよ」
「借金の上に、借金重ねる気かよ」
「うるさいわね! 踏み倒さないだけ、ましでしょ!」
忉利は砂の上で、腹を抱えて笑った。声を上げて。
車の脇で、毛布にくるまったサーレムがもぞりと寝返りを打った。
青子は真っ赤な顔で忉利を睨んでいた。睨んでいたけれど、その口元が少しずつ、少しずつ緩んでいった。
ひとしきり笑って、忉利は砂の上に仰向けに倒れ込んだ。星空が視界いっぱいに広がる。
「……なあ」
「……なによ」
「半分、持つ」
青子は目を瞬かせた。
「……何を」
「借金。……おれの死の分だろ、あれ。お前一人に背負わせとく筋合いはねえ」
「…………」
「共犯者だろ。最後まで付き合うって、お前が言った」
忉利は空を見上げたまま言った。
「親父が言ってた。十年で足りなきゃ二十年。二十年で足りなきゃ三十年。……いつでもいいから、返しに来いって」
青子は黙って、砂の上に座ったまま仰向けの忉利を見下ろしていた。
「返すまで、付き合う。何百年かかっても。……それだけだ」
長い沈黙があった。風が白い岩の間を吹き抜けていく。笛のような、細い音。
やがて青子は、忉利の隣にぱたりと仰向けに倒れ込んだ。毛布を二人の上に乱暴に引っ張り上げる。
「……寒い」
「さっきまで、自分でくるまってただろ」
「寒いのよ。……砂漠の夜って、こんなに冷えるなんて、聞いてない」
青子は毛布の中で、忉利の腕に自分の腕をぴたりとくっつけた。それから、小さく呟いた。
「……ばか」
「知ってる」
「最悪なのは、あんたの方よ。……そんなこと言われたら、踏み倒せなくなるじゃない」
「踏み倒す気だったのかよ」
「ちょっとだけ」
忉利はまた少しだけ笑った。
二人は並んで星空を見上げていた。東の地平線から、遅い月がゆっくりと昇り始めていた。月の光が白い大地を照らしていく。茸の形の岩が一本、また一本と、青白く浮かび上がっていく。
店主の言っていたとおり、雪原のようだった。
忉利はもう一度だけ、空の果てに目を向けた。あの小さな黒い石は、まだそこにあった。世界の最後の岸辺に、ぽつんと。
けれど、さっきより少しだけ軽く見えた。
たぶん、気のせいだった。気のせいでも、よかった。
◇
夜明け前、忉利は焚き火の熾火を掘り起こした。
サーレムの煤けた薬缶で湯を沸かす。鞄から、エチオピアの森の村でもらった豆を取り出す。祖母がいちばん古い木から摘んで、自分の鍋で煎ってくれた豆。
父のミルで挽く。ごり、ごり、と。静まり返った白い砂漠に、豆の砕ける音がやけに大きく響いた。
ネルに粉を落として、湯を細く注ぐ。粉が膨らむ。泡がゆっくりと沈む。
東の空が群青から薄い紫に、それから淡い桃色に変わり始めていた。白い岩たちが夜明けの光を受けて、少しずつ桃色に染まっていく。
「……いい匂い」
毛布から青子が顔を出した。髪が寝癖で跳ねている。
「エチオピアの婆さんの豆だ」
「……あの人の」
青子は左の手首の、赤と黒と白の糸の結び目を指先でなぞった。
車の脇で、サーレムも起き出してきた。鼻をひくつかせて、焚き火の前にしゃがみ込む。
忉利は三つの硝子のコップに珈琲を注いだ。一つをサーレムに。一つを青子に。一つを自分に。
サーレムは一口飲んで、ほんの少しだけ目を見開いた。それから日焼けした顔を皺くちゃにして、たった一言、言った。
「〈……ノー・プロブレム〉」
たぶん、うまいという意味だった。
青子がコップを持ったまま、声を上げて笑った。それから、ふと思いついたように鞄から小さな缶を取り出した。名前の読めない、擦れたラベルの缶。
「……おい、それ」
「いいのよ。昨日の夜、セージのお茶、ご馳走になったもの」
青子は缶の蓋を開けて、中身をのぞき込んだ。残りはもう底が見え始めていた。毎晩数えている、あと何杯分。
それでも青子は、ひとつまみだけ茶葉を取り出して、サーレムの煤けた薬缶に落とした。
「〈お返し。……イギリスの、ティー。私の、友達の〉」
サーレムは薬缶から立ちのぼる香りを嗅いで、少しだけ首を傾げた。それから、湯気の立つ一杯をゆっくりと飲んだ。しばらく何も言わなかった。
やがて、日焼けした顔をさっきよりもさらに皺くちゃにして、同じ言葉を言った。
「〈……ノー・プロブレム〉」
「それしか言わないのね、この人」
青子は呆れたように笑って、缶の蓋を閉めた。底に残った茶葉が、缶の中でさらさらと小さな音を立てた。
地平線から、最初の陽の光が白い砂漠に差し込んできた。茸の岩も、鳥の岩も、獣の岩も、一斉に金色に燃え上がった。
何百万年もかけて結ばれて、何百万年もかけてほどけていく岩たちが、今朝も同じように朝の光を浴びていた。
忉利はコップの珈琲を一口飲んだ。
苦かった。後から、ほんの少しだけ甘かった。
◇
二日後。帰りの車の中で、青子は忉利の肩にもたれて眠っていた。
舗装の途切れた道を、車はがたがたと揺れながら走っていく。窓の外を、黄色い砂と黒い岩がどこまでも流れていく。運転席のサーレムは相変わらず一言も喋らない。
忉利は膝の上に官製はがきを一枚載せていた。晴華に宛てた三枚目。ペンのキャップを外して、しばらく白い面を見つめていた。
――白い砂漠に行った。昔、海の底だったらしい。石が、茸みたいな形をしてる。
――星が、すごかった。三咲の百倍。数えるなって、青子に言われた。
そこまで書いて、ペン先が止まった。
世界の果ての黒い石のこと。世界に背負わせた借金のこと。それを半分持つと決めたこと。
書けることは何もなかった。書けないことの方が、ずっと多かった。この葉書を毎月書くたびに、書けないことばかりが少しずつ積もっていくのだろう。
忉利は少しだけ考えて、最後の一行を書き足した。
――青子は、元気だ。おれも。
それだけだった。それで、よかった。
ペンのキャップを閉めると、肩の上で青子が寝言のように何か呟いた。聞き取れなかった。
たぶん「ばか」とか、そういう類の言葉だった。
◇
砂漠の入り口のオアシスの町に戻ると、宿の帳場で主人が一通の封筒を差し出した。
「〈ミス・アオザキに。……昨日、届いた〉」
上質な厚手の、生成りの紙の封筒だった。宛名は流れるような筆記体で、青子の名前。差出人の名前はどこにもない。
封の上に、深い赤の蝋の封印が押されていた。何かの紋章だった。忉利には、それが何なのかわからなかった。
けれど、青子の顔からすうっと表情が消えていくのはわかった。
「……なんだ、それ」
「…………」
「青子」
青子は封筒を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。砂漠を渡ってくる乾いた風が、宿の入り口の暖簾代わりの布をばたばたと鳴らしていた。
「……協会よ」
砂漠の夜、星空を見上げていた時とはまるで違う、低い声だった。
「魔術協会。……私たちの、居場所を知ってるってこと」
「……協会」
「魔術師の、元締めみたいなもの。ロンドンに、本拠地があるの。時計塔って呼ばれてる」
青子は封筒を指先でつまんだまま、裏返した。
「世界中の魔術師を、見張ってる連中よ。誰がどんな魔術を使ってて、どこにいて、何を隠してるか。……蒼崎の家も、あいつらの帳簿に載ってる」
「……で、そいつらが、なんでお前に手紙なんか寄越すんだ」
青子は答えなかった。ただ、封筒を握る指に少しだけ力がこもった。
その目が一瞬だけ、忉利の顔を――忉利の目を、見た。
忉利は封筒の赤い蝋の紋章を見た。目の奥の扉を開いた。
封筒から一本の線が伸びていた。細く、冷たく、硬い線。定規で引いたような、どこか見覚えのある種類の線。
それが宿の入り口を抜け、オアシスの町の通りを渡って、その向こうのどこかへまっすぐに続いていた。
誰かが、その線の先でこちらを見ている。
右目の奥が、かすかにざわめいた。
シエルの小説なんですけど、書き溜めて3話くらいまとめて、キリのいいとこまで一気に投稿することにしようと思います。
1話ずつちまちま出されると、自分が読むときはなんか歯切れ悪くて嫌なので。
ご理解いただきたいです。
単純に、どんな話が見たいですか?
-
とりあえずイチャイチャ
-
シリアスな話
-
他作品のキャラとの絡み
-
FGOコラボ(隈乃温泉殺人事件)
-
2015年の時計塔