夜明けの色を見る眼   作:にんら

36 / 48
執行者

―――昔、この街には世界でいちばん大きな図書館があった。

 

 港に入る船は、積み荷の書物を一冊残らず差し出さなければならなかった。書記たちがそれを書き写し、写しの方を船に返して、元の書物は図書館の棚に収めた。

 

 世界じゅうの知恵を、一冊も漏らさず帳簿に記す。

 

 それが、この街の王たちの夢だった。

 

 図書館はやがて燃えて、なくなった。

 

 けれど、夢の方は燃え残った。

 

 今、ロンドンの地の底に、その夢の続きを見ている者たちがいる。世界のどこかで神秘が使われれば、いずれその塔の帳簿に一行が書き加えられる。誰が。どこで。何を。どれほどの。

 

 魔術協会。

 

 人はその本拠を、時計塔と呼ぶ。

 

 

◇

 

 

 赤い封蝋を割ったのは、その夜、オアシスの宿の裸電球の下だった。

 

 中から出てきたのは、厚手の便箋が三枚。流れるような筆記体の英文を、青子はしばらく黙って読んでいた。

 

「……一枚目は、通知」

 

 青子は便箋を指先で弾いた。

 

「『魔法「青」の継承を、当協会は確認した。三原色の一、「青」の称号を、以後、蒼崎青子の名において記す』。……要するに、帳簿の欄を勝手に埋めましたって、知らせてきただけ」

 

「称号?」

 

「協会が、とびきりの術者に贈る色の名前よ。赤とか、青とか、黄色とか。……頼んでもないのにね」

 

 少しも嬉しそうではなかった。

 

「二枚目は、仕事の話」

 

 青子は二枚目に目を落とした。

 

「『アレクサンドリアの地下墓地に、封印指定を受けた魔術師が一名、工房ごと潜伏している。執行部の者が三名、捕縛に赴き、戻らない。魔法使い殿のご助力を乞う。報酬は』――」

 

 そこで青子の口が止まった。

 

 便箋の数字を、もう一度読み直している。指で桁を数えている。

 

「……いくらだよ」

 

「…………イエメンから、ここまでの、全部の宿代の、二十倍くらい」

 

 忉利は黙って窓枠にもたれ直した。

 

「で、三枚目は」

 

 青子は三枚目の便箋を、すぐには読み上げなかった。短い文面だった。一行だけ。

 

「『追伸。ご同行の日景忉利殿にも、どうか、よろしくお伝えください』」

 

 漢字の読みまで、正確にローマ字で添えてあった。

 

 

◇

 

 

 宿の屋上は、まだ昼の熱を溜め込んでいた。砂漠の夜空の下で、青子は膝を抱えて話した。

 

「蒼崎は、協会の外の家なの。ロンドンの塔に属して、研究して、成果を出して、偉くなっていく家もあるけど、うちは違う。自分の土地に籠って、塔とは距離を置いてきた。……有珠の家も、そう」

 

「属してねえのに、手紙は来るのか」

 

「属してなくても、帳簿には載るもの。それに、魔術を使う以上、あいつらの決まりには縛られる。神秘を人に見せるな。広めるな。破れば、所属してようがしてまいが、刺客が来る」

 

 青子は便箋の束を膝の上で揃えた。

 

「ただ、魔法使いには、命令できないの。塔の誰も。……だから、こうやって、頼んでくるのよ。報酬つきで」

 

「封印指定ってのは」

 

 青子は少しだけ黙った。

 

「この世に二つとない神秘を持った魔術師を、協会が『保護』する制度。……保護って言っても、二度と外には出してもらえない。最後は、脳と、神経と、珍しいところだけ取り出されて、薬の瓶に詰められて、塔の奥に並べられる。失われないように」

 

「…………」

 

「魔法使いは、対象外よ。手を出そうとした奴は、昔から、みんな帳簿から名前が消えてる」

 

 青子はそこで、忉利の目を見た。灰色の虹彩の縁の、細い青い輪を。

 

「――でも、あんたは、魔法使いじゃない」

 

 夜風が、屋上の洗濯紐をかすかに鳴らした。

 

「……なんで、おれの名前を知ってんだ。そいつら」

 

「三咲の、あの夜のことを、全部知ってて」

 

 青子は夜空を見上げた。

 

「回路のない男の子の目が、何を切ったのか、ちゃんと見てて。……それを協会に売りそうな人間なんて、一人しかいないわ」

 

 名前は言わなかった。言わなくても、わかった。

 

「……断るのか」

 

「断りたいわよ」

 

 青子はコートのポケットから財布を取り出した。中身を膝の上に広げる。エジプト・ポンドの皺だらけの札と小銭と、イエメンの硬貨が三枚。

 

 数える。二回、数える。

 

「……二週間」

 

「何が」

 

「残りの路銀。……白い砂漠で、車、四日も雇ったから」

 

 忉利は何も言わなかった。言えなかった。白い砂漠に行こうと言い出したのは、自分だった。

 

「罠かもしんねえんだろ」

 

「罠よ。たぶん、半分は」

 

「残りの半分は」

 

「本物の仕事。……三人、戻ってないって書いてある」

 

 青子は札を財布に押し込んだ。

 

「協会の人間が、どうなろうと知ったことじゃないけど。……地下で、誰かが、助けを待ってるかもしれないのよ」

 

 忉利は屋上の縁から立ち上がった。

 

「じゃあ、行くか」

 

「……あんた、わかってる? あんたの目を見に来るのよ、向こうは」

 

「断っても、どうせ向こうから来んだろ。……だったら、こっちから行った方が、早え」

 

 忉利は首の後ろを掻いた。

 

「それに、お前、逃げんの嫌いだろ」

 

 青子は長いこと、忉利の横顔を見上げていた。それから、便箋を丁寧に畳み直して、コートの内ポケットにしまった。

 

「……馬鹿」

 

「知ってる」

 

 

◇

 

 

 アレクサンドリアの海は、明るかった。

 

 白い砂漠の夜空とも、モカの浜の海とも違う、軽やかな地中海の青。海岸通りに沿って、色の褪せた古い建物が弧を描いて並び、潮風に洗濯物がはためいている。

 

 五月八日。

 

 指定された喫茶店は、海岸通りの角の古い店だった。高い天井。大理石の卓。壁の鏡は半分、銀が剥げていた。

 

「――ようこそ、ミス・アオザキ。それから、ミスター・ヒカゲ」

 

 窓際の席で、男が立ち上がった。

 

 痩せた長身に、仕立てのいい灰色の三つ揃い。銀色の髪は整えられ、細い金縁の眼鏡の奥で、薄い色の目が柔和に細められている。

 

 日本語だった。癖のない、流暢すぎるほどの。

 

「法政科、書記官のエドガー・ヴェイルと申します。遠路、ご足労いただき、感謝いたします」

 

 青子は、男の襟に留められた小さな銀の飾りを一瞥した。

 

「翻訳の礼装ね。……わざわざ、ご苦労さま」

 

「お客様に、ご不自由をおかけするわけにはまいりませんので」

 

 卓の脇に、もう二人立っていた。

 

 灰色の外套の年配の男。短く刈った白髪混じりの頭。それから、同じ外套の若い女。金髪を首の後ろで固く結び、両の手首に鈍い銀色の鎖を何重にも巻いている。

 

 二人とも座らなかった。青子を見て、それから、忉利を見て、その目をわずかに細めた。

 

「執行部の、ブレナン殿と、ハルトマン殿です。……地下に降りたまま戻らない三名は、お二人の同僚でして」

 

「魔法使いの手など、借りる必要はない」

 

 年配の男――ブレナンが低く言った。英語だった。

 

「我々の不始末は、我々で片付ける。書記官殿が、勝手に呼んだだけだ」

 

「片付けられなかったから、私が呼ばれたんでしょ」

 

 青子も英語で返した。

 

 ブレナンの顎が、ぎしりと鳴った。

 

 ヴェイルはそれに気づかないふりをして、卓の上に一枚の写真を置いた。

 

 痩せた、褐色の肌の老人だった。目が、異様に澄んでいる。

 

「ハキム・アル=サフィ。この街の、古い家の魔術師です。専門は、保存」

 

「保存?」

 

「防腐、と言い換えてもよろしい。古代の、遺体を永遠に保つ技の、その先。……この男は、生きたものを、生きたまま、時の外に置く術を編み上げた」

 

 ヴェイルは写真の上に指を一本置いた。

 

「呼吸も、鼓動も、止まる。けれど、死なない。何十年でも、何百年でも、そのまま。……学問では、二度と再現できないと判断され、二年前に、封印指定を受けました」

 

「で、逃げた」

 

「ええ。地元の、地下墓地へ。……そして、捕縛に向かった三名は、戻らない」

 

 ヴェイルの声が、ほんの少しだけ低くなった。

 

「おそらく、生きています。……『保存』されて」

 

 青子は写真から目を上げた。

 

「時の外に置く術者を、時の外に置かれないように、瓶に詰めに行くってわけね」

 

「皮肉は、承知しております」

 

 ヴェイルは微笑んだまま言った。

 

「それから、ミス・アオザキ。塔の資料を少し拝見しましたが、あなたの評価は、実に興味深い」

 

「……何よ」

 

「魔術師としての技量は、率直に申し上げて、並。……ただし、壊すことにかけてのみ、稀代」

 

 青子の顔が引きつった。ブレナンの後ろで、ハルトマンがほんのわずかに口元を歪めた。

 

「……並って、誰が書いたのよ」

 

「さあ。帳簿は、多くの手で書かれますので」

 

 ヴェイルは、それから薄い色の目を忉利に向けた。

 

「ミスター・ヒカゲ。あなたのことも、塔は、少しだけ存じ上げております」

 

「……そうかよ」

 

「ある筋からの、たいへん詳細な報告で。……今夜は、ただの見学と思っていただければ」

 

 忉利は何も答えなかった。ただ、目の奥の扉を、ほんの少しだけ開いた。

 

 ヴェイルの胸元から、細く、冷たく、硬い線が伸びていた。定規で引いたような、あの種類の線。オアシスの宿の封筒から伸びていたのと同じ線だった。それから、ブレナンとハルトマンからも。

 

 三本とも、自分の方を向いていた。

 

 

◇

 

 

 コム・エル・シュカーファの地下墓地は、街の南の古い墓地の跡にあった。

 

 中央に、井戸のような円い縦穴が空いている。その壁に沿って、石の螺旋階段が地の底へ降りていく。昔はこの穴から、死者の亡骸を縄で吊り下ろしたのだと、ヴェイルが地上で説明していた。

 

 ヴェイルは降りてこなかった。

 

「書記官は、記録するのが仕事ですので」

 

 そう言って、入り口の脇に折り畳みの椅子を広げた。

 

 四人で降りた。ブレナン。ハルトマン。青子。忉利。

 

 階段を下りるごとに、空気が変わっていった。ひんやりとした石の匂いに、別の匂いが混じり始める。樹脂。没薬。それから、塩のような、乾いて鼻の奥を刺す匂い。

 

「……ナトロンよ」

 

 青子が小声で言った。

 

「ミイラを作る時の、塩。……工房の中に入ったわ。もう」

 

 第一層は宴の間だった。岩をくり抜いた石の寝椅子が、三方の壁に沿って並んでいる。死者を弔う宴の席。

 

 その奥の主墓室の壁に、奇妙な彫刻があった。

 

 犬の頭を持つ神が、ローマの兵士の鎧を着て槍を構えている。蛇の身体に人の顔。古いエジプトの神々と、ギリシャやローマの意匠が、一つの壁の上で溶け合っていた。何千年もこの地の底で、死者を守り続けてきた神々。

 

 その足元で、何かが動いた。

 

 犬だった。痩せた黒い犬が四頭。毛皮は乾いて、ところどころ布が巻きついている。目が、樹脂を流し込んだように琥珀色に光っていた。

 

「保存された番犬ね」

 

 青子の指先に、光が灯った。

 

 次の瞬間、四頭が同時に跳んだ。

 

 青子は撃った。一発。二発。三発。四発。

 

 詠唱はなかった。指を弾く音すら追いつかなかった。青い光の弾が、四頭の犬の額の同じ一点を、寸分違わず撃ち抜いた。

 

 犬たちは空中で、乾いた砂のように崩れて、床に降り積もった。壁の彫刻には、傷一つなかった。

 

 ブレナンが無言で青子を見ていた。

 

「……並、ね」

 

 青子が呟いた。

 

「並の魔術師に、今のができるか、帳簿に書いた奴に訊いてみたいわ」

 

 

◇

 

 

 第二層への階段の途中で、ハルトマンが先に出た。

 

「――ここから先は、我々が行く」

 

 ブレナンが止めるより早く、手首の鎖がじゃらりと鳴ってほどけた。蛇のように宙を奔って、階段の先の暗がりへ。罠を探り、絡め取るための鎖だった。

 

 その鎖が、暗がりの中で止まった。空中で、ぴたりと。

 

 鎖の表面に、琥珀色の膜が薄く張っていく。樹脂が流れ落ちるように、ゆっくりと鎖を伝って、ハルトマンの手首の方へ。

 

「――っ、ハルトマン、離せ!」

 

 ブレナンが叫んだ。

 

 離れなかった。鎖はもう、ハルトマンの手首と一つになっていた。琥珀色の膜が手首を這い上がる。指先の動きが止まる。肘が止まる。

 

 ハルトマンの顔が、恐怖に歪んだまま固まり始めた。呼吸が止まりかけていた。

 

 忉利は、見ていた。鎖からハルトマンの腕へ這い上がっていく、琥珀色の線。時間を止める線。硬く、ねばついて、冷たい。それが、階段の下の暗がりのずっと奥へと繋がっている。

 

 目の奥の扉を、半分開いた。

 

―――ぷつり。

 

 ハルトマンの手首のすぐ上で、琥珀色の線が断たれた。

 

 膜がぱりぱりと剥がれ落ちる。鎖が、ただの金属の重さを取り戻して、階段の上にじゃらりと落ちた。

 

 ハルトマンが大きく息を吸い込んで、膝をついた。咳き込みながら自分の手首を見下ろし、それから忉利を見上げた。氷のような青い目が、大きく見開かれていた。

 

「……今。何を、した」

 

 掠れた声だった。

 

「回路が、動いていない。詠唱も、術式も。……見ただけで、あの男の術を、断った……?」

 

「邪魔だったから、そこにある線を断っただけだ」

 

 忉利はハルトマンの脇を通り過ぎて、階段を降り始めた。

 

「先、行くぞ。……あんたら、もう、前に出んな」

 

 ブレナンは何も言わなかった。ただ、忉利の背中を、ひどく硬い目で見ていた。

 

 

◇

 

 

 第三層は、水の底だった。

 

 地下水が墓室の床を、膝の高さまで満たしている。黒い水面に、青子の指先の光がゆらゆらと映っていた。

 

 その水の上に、老人が立っていた。写真の男だった。

 

 痩せた褐色の肌。異様に澄んだ目。白い長衣の腰に、小さな石の壺を一つ提げている。

 

 老人の背後に、三人の人影があった。灰色の外套の男が二人と、女が一人。立ったまま動かなかった。

 

 琥珀色の光の中に閉じ込められていた。目を開けたまま。口を、何か叫びかけた形のまま。

 

「――ようこそ」

 

 老人が言った。

 

 アラビア語だった。けれど、なぜか意味はわかった。

 

「魔法使い。……それから、その眼」

 

 澄んだ目が忉利を見た。

 

「噂より、美しい。……その眼を、時の外に置いてみたい。千年経っても、そのまま、世界の線を見続ける眼。……私の、最後の作品にふさわしい」

 

「人の目玉、勝手に作品にしないでくれる?」

 

 青子の両手に、光が集まった。

 

 老人は少しも動じなかった。

 

「撃つがいい、魔法使い」

 

 老人は腰の石の壺に、そっと手を添えた。

 

「この墓は、私の工房だ。柱の一本一本に、私の術が縫い込んである。……私を撃てば、術がほどけて、この墓が落ちる。三層分の岩と、その上の街並みと一緒に」

 

 水面がかすかに震えた。

 

「それから、この三人。……私が倒れれば、彼らの時間は、止まったまま、二度と動かない」

 

 青子の指先の光が揺れた。撃てなかった。

 

 撃てば、勝つ。この老人の術がどれほどのものでも、一発で壺ごと吹き飛ばせる。けれど、そのあとに墓が落ちる。街が沈む。三人が死ぬ。

 

 ブレナンが背後で、低く呻いた。

 

「……三度、ここまで来て、三度、これだ。誰も、撃てなかった」

 

 忉利は、扉を開いた。

 

 半分ではなく。最後の蝶番まで。全開に。

 

 墓室の中が、線で埋まった。

 

 柱という柱に、琥珀色の線が何十本も、楔のように食い込んでいる。それが天井へ、壁へ、床へと網の目のように広がって、その全部が、老人の腰の壺へと束ねられていた。

 

 そして、三人の人影から一本ずつ。細い、細い線が壺へと伸びていた。

 

 時間を止める線ではなかった。もっと細くて、もっと乱暴な。人質の命を壺の命に縛りつけておくための、ただの鎖。

 

 全部まとめて断てば、墓は落ちる。けれど、全部を断つ必要はなかった。

 

「――青子」

 

 忉利は言った。

 

「三つ数えたら、壺だけ撃て。……壺だけだぞ」

 

 青子は振り返らなかった。

 

「何をする気よ」

 

「柱と、あの三人を、先に壺から外す」

 

 老人の澄んだ目が、初めて揺れた。

 

「一」

 

 忉利は柱に食い込んだ線を見た。何十本もの琥珀色の楔。その一本一本と壺とを結ぶ、根元の一点。

 

 ぷつ。ぷつ。ぷつ。

 

「二」

 

 三人の人影から伸びる、三本の細い鎖。

 

 ぷつり。ぷつり。ぷつり。

 

 柱は落ちなかった。三人は琥珀色の光の中で、まだ止まっていた。けれど、もう何にも繋がっていなかった。

 

 壺の中に、老人の術だけが、行き場を失って取り残されていた。

 

「――三」

 

 青い光が一筋、水面の上をまっすぐに奔った。老人の腰の、石の壺だけを。

 

 ぱん、と乾いた音がした。壺が砕けた。

 

 中から、琥珀色の光が煙のように溢れ出して、墓室の天井に向かって昇っていき、そこでふっと消えた。

 

 柱は一本も崩れなかった。三人の人影を包んでいた光が、ゆっくりと薄れていく。

 

 最初に、男の一人が大きく息を吸い込んだ。それから水の中に、膝から崩れ落ちた。続いてもう一人。それから女。

 

 三人とも、咳き込みながら生きていた。

 

 老人は水の上に立ったまま、砕けた壺の破片を見下ろしていた。

 

「……私の術を、私から、切り離した」

 

 呟くような声だった。

 

「術そのものではなく、術の、繋がりだけを。……そんなことが」

 

 その身体がゆっくりと傾いた。

 

 ブレナンの銀の縄が横から伸びて、水に落ちる前に老人の身体を絡め取った。

 

 

◇

 

 

 ハルトマンは忉利の顔から目を離さなかった。水の中で、助け起こした同僚の肩を支えたまま。

 

「……断った」

 

 誰に言うでもなく呟いた。英語だった。

 

「He severed it. Every thread. …… He just looked, and severed them all」

 

 忉利には、英語はほとんどわからなかった。ただ、その声の中に、怯えと、それから怯えとは違う何かが混じっているのだけはわかった。

 

 

◇

 

 

 地上に出ると、東の空が白み始めていた。

 

 入り口の周りに、灰色の外套が増えていた。五人。いや、六人。どこから来たのか、執行部の者たちが担架を広げ、毛布を広げ、助け出された三人を運び出していく。縄で縛られた老人も。

 

 その中の一人、ブレナンよりもさらに年嵩の男が、ヴェイルの前に立って、書類を一枚差し出していた。

 

 ヴェイルはそれを読んで、眼鏡の位置を指先で直した。それから、ひどく申し訳なさそうな顔で青子の方へ歩いてきた。

 

「……ミス・アオザキ。誠に、申し上げにくいのですが」

 

「何よ」

 

「本件は、ただいま、執行部の作戦として処理されることになりました。捕縛も、救出も、すべて執行部の功績として、帳簿に」

 

「…………は?」

 

「つきましては、外部協力者への報酬の支払いは、手続き上――」

 

「ちょっと待ちなさいよ」

 

 青子の声が、地下墓地の入り口に響いた。

 

「墓に潜ったのも、犬を片付けたのも、壺を撃ったのも、私たちよ!? あの人たちは、後ろで立ってただけじゃない!」

 

「承知しております」

 

「承知してるなら、払いなさいよ!」

 

「法政科として、執行部に、正式に異議を申し入れます。……ただ、結論が出るまでには、いささか、時間が」

 

「いささかって、どれくらい」

 

「……数か月か、あるいは」

 

 青子の膝が、目に見えてかくりと揺れた。

 

 忉利は黙ってその背中を支えた。財布の中身は、二週間分。この街の宿代は、オアシスの町の三倍だった。

 

「――それから、もう一つ」

 

 ヴェイルが声を落とした。柔和な微笑みが消えていた。

 

「ブレナン殿が、先ほど、上に報告を上げました。……墓の中で、何を見たかを」

 

 青子の顔から、怒りが引いていった。

 

「回路を持たない眼が、封印指定の魔術師の術を、見ただけで、断った。……執行部の中には、それを、新たな封印指定の審議にかけるべきだという声が、もう」

 

「――させないわよ」

 

「私も、そう願っております」

 

 ヴェイルは眼鏡の奥の薄い色の目で、忉利を見た。

 

「ですが、ミスター・ヒカゲ。今夜、あなたの眼を見たのは、私だけではない。……報告は、今朝のうちに、塔じゅうの、いくつもの帳簿に書き写されるでしょう」

 

 

◇

 

 

 海岸通りの安宿は、潮風が吹き込む狭い部屋だった。

 

 青子は寝台の上に財布の中身を広げて、三回数え直した。三回とも同じ額だった。

 

「……一文無し、まで、あと十日」

 

「十日あるなら、まだ一文無しじゃねえだろ」

 

「同じことよ!」

 

 青子は札を握りしめたまま、寝台に仰向けに倒れ込んだ。

 

「何なのよ、協会って……。頼んできたのは向こうなのに、手柄だけ持ってって、お金は払わないで、それで、あんたの目を瓶に詰めるかどうか会議するって……っ」

 

「ひでえな」

 

「ひどいのよ!」

 

 忉利は黙って部屋を出て、階下の帳場で甘いミントティーを一杯だけもらってきた。二杯分の小銭は、惜しかった。

 

 小さな硝子のコップに、緑の葉が何枚も沈んでいる。それを寝台の青子の前に差し出す。

 

 青子は仰向けのまま、しばらくそれを見上げていた。それから、のろのろと起き上がって、両手で受け取った。一口、飲む。

 

「……ねえ」

 

「ん」

 

「連れてくるんじゃ、なかった」

 

 コップを見下ろしたまま、青子は言った。

 

「あんたの名前が、もう、塔じゅうの帳簿に載る。……私が、お金に釣られたせいで」

 

「おれが行くっつったんだ」

 

「でも」

 

「でもじゃねえよ」

 

 忉利は青子の隣に腰を下ろした。寝台が小さく軋んだ。

 

「どうせ、美咲に残っててもいつかは知られた。……だったら、お前の隣にいる時に知られた方が、いい」

 

「……なんでよ」

 

「お前の隣なら、瓶に詰められる前に、誰かが撃たれるだろ」

 

 青子は一瞬、黙った。それから、ぷっと吹き出して、慌ててコップを持ち直した。

 

「……撃つわよ。全部」

 

「知ってる」

 

「誰が来ても。何人来ても」

 

「知ってるって」

 

 青子はコップを忉利の方に戻した。忉利が一口飲んで、また青子に戻す。一つのコップを、交互に。

 

 窓の外で、港の灯りが黒い海面に長く揺れていた。

 

 忉利は何気なく、目の奥の扉を開いた。

 

 見えた。

 

 港の方から。北の古い要塞の方から。海岸通りの東と西から。

 

 細く、冷たく、硬い線が何本も。定規で引いたような、あの種類の線。それが、夜の街のあちこちから伸びて、この宿の、この窓へ向かって、ゆっくりと集まり始めていた。

 

 十本。十一本。十二本。

 

「……青子」

 

「……なに」

 

「さっきの書記官の言ったとおりだ。……もう、来てる」

 

「何人」

 

「冷てえのが、十二」

 

 青子はコップを置いた。

 

 青子には、線は見えない。けれど、夜の空気の中を何かが近づいてくる気配だけは、わかった。たくさんの。冷たい。

 

 青子は立ち上がって、皺だらけの札を財布に押し込み、コートに袖を通した。指先に、青い光が灯った。

 

「……ちょうどいいわ」

 

 低い声だった。

 

「今夜の分の不払い、まとめて、取り立ててあげる」

シエルの小説満足度調査

  • めちゃよかった
  • よかった
  • そこそこ
  • びみょう
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。