夜明けの色を見る眼   作:にんら

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二つ名

―――この港の入り口には、昔、世界でいちばん高い灯台が建っていた。

 

 白い石を積み上げた塔。てっぺんで焚かれる火は、夜の海を何十キロも先まで照らした。沖の船乗りたちは、その光を見て、まだ見えない港の名を口にした。

 

 街より先に、光が名前を届けていた。

 

 灯台は何度かの地震で崩れて、海に沈んだ。今、その跡には、灯台の石を積み直して造ったという古い要塞が、黒い影になって蹲っている。

 

 もう、どこも照らさない。

 

 名前だけが、千年以上ここに残っている。

 

 名前というのは、そういうものだ。本人より先に遠くまで届く。本人がいなくなっても、残る。

 

 その夜、この岬で名前が二つ生まれた。

 

 

◇

 

 

 五月九日、午後十一時。

 

「……港の方から四本。北の通りから三本。海岸通りを、東と西から二本ずつ。それから、隣の屋根に一本」

 

 窓辺で忉利が言った。

 

「十二本。……どれも、こっちが動くのを待ってる」

 

「ご丁寧に、囲んでくれちゃって」

 

 青子はマフラーを首に巻きつけながら、鼻を鳴らした。

 

 壁の薄い宿だった。隣の部屋から家族連れの寝息が聞こえる。帳場では宿の老夫婦が、まだ小さくラジオを鳴らしていた。

 

「ここで撃ったら、宿ごと吹き飛ぶわ。……向こうも、それはわかってる。だから、囲むだけ囲んで、私たちが人目のない場所に出るのを、待ってるのよ」

 

 青子は窓の外、港の入り口を見た。

 

 黒い海に突き出た細長い岬。その先端に、古い要塞の影。

 

「……じゃあ、こっちから、人目のない場所に行ってあげる」

 

 忉利は鞄の口を閉めて、肩にかけた。

 

 古い革の鞄。持ち手で二枚の荷札が揺れている。

 

「……持ってくの? それ」

 

「親父のミルが入ってる。お前の紅茶の缶も」

 

 青子は口を開けて、閉じた。

 

「……絶対に、落とさないでよ」

 

「知ってる」

 

 

◇

 

 

 海岸通りは夜でも人がいた。遅くまで開いている茶屋。潮風に涼む老人たち。石の堤防に並んで腰かけた恋人たち。

 

 その間を、二人は手を繋いで歩いた。観光客の若い二人連れのように。

 

 背後の十二本の線が、建物の影から影へ、つかず離れずついてくる。

 

「……気づいてないふり、うまいな」

 

「三年間、生徒会長やってたのよ。職員室に呼び出されても、何食わぬ顔で廊下歩くの、得意なんだから」

 

「自慢になんのか、それ」

 

「なるわよ」

 

 海岸通りが途切れて、岬へ続く細い道に入ると、人の気配がふっと消えた。

 

 街灯もない。両側に黒い海。波が石の護岸に打ちつける音だけ。

 

 要塞の脇を回り込んだ先に、コンクリートの防波堤が長く延びていた。外側には四本脚の灰色の消波ブロックが、何百個も積み上げられている。

 

 防波堤の真ん中で、青子は立ち止まって振り返った。

 

「――もう、いいわよ。出てきなさい」

 

 

◇

 

 

 防波堤の両端に人影が現れた。

 

 要塞の城壁の上に。消波ブロックの陰に。岬へ続く道の上に。

 

 全部で、十二人。灰色の外套。剣を持つ者。鎖を巻く者。杖を持つ者。両手に文字の刻まれた手袋をはめた者。

 

 その中にブレナンがいた。ハルトマンもいた。ハルトマンだけが、忉利の方を見ようとしなかった。

 

 夜の空気が、薄い膜のようにたわんだ。人払いの結界。この岬で何が起きても、街の誰にも見えもしなければ聞こえもしない。

 

「……ご丁寧に。自分たちで、人目を消してくれたわ」

 

 城壁の上の一人が口を開いた。

 

 年嵩の男だった。夜明けの地下墓地の入り口で、ヴェイルに書類を渡していた男。外套の襟に、他の者とは違う銀の徽章が光っている。

 

「魔法使い『青』。我々は、あなたと戦うつもりはない」

 

 低い、よく通る英語だった。

 

「封印指定の審議が終わるまで、その少年の身柄を、執行部が預かる。……あなたには、指一本触れない」

 

「預かるって、どこにだよ」

 

 忉利が、英語ではなく日本語で言った。

 

 男には意味が通じたようだった。

 

「塔に」

 

「瓶か」

 

 男は答えなかった。

 

 青子が一歩前に出た。

 

「こいつを連れていくなら、私ごと連れていきなさい」

 

 声は大きくなかった。

 

「……ロンドンまで、ずっと撃ちながら、ついていってあげるから」

 

 城壁の上の男の顔が、わずかに強張った。

 

「魔法使いに、手を出すつもりはない」

 

 男は片手を、ゆっくりと持ち上げた。

 

「――引き剥がすだけだ」

 

 

◇

 

 

 最初に来たのは、壁だった。

 

 防波堤の上に光の壁が立ち上がった。青子と忉利の、ちょうど間に。

 

 青子の身体が見えない力に押されて、壁の向こうへ弾き飛ばされる。

 

 同時に、忉利の側の四方から鎖が奔った。杖の先から、光の縄が。文字の刻まれた手袋から、見えない指が。

 

 全部、忉利に向かっていた。

 

 青子から引き剥がし、一人になったところを捕らえる。最初から、そういう段取りだったのだ。

 

 忉利は目の奥の扉を開いた。

 

 光の壁を編み上げている線。硬くて、真っ直ぐで、冷たい。

 

―――ぱきん。

 

 壁が砕けた。硝子が割れるように、光の破片が夜の海風に散った。

 

 四方から迫る鎖の線。光の縄の線。見えない指の線。礼装と術者を繋ぐ線。全部、忉利の視界の中にあった。

 

 ぷつ。ぷつ。ぷつ。ぷつり。

 

 鎖がただの金属になって、コンクリートの上に落ちた。光の縄は宙でほどけて消え、見えない指は霧のように散った。

 

 十二人の動きが止まった。

 

「……報告以上だ」

 

 誰かが掠れた声で言った。

 

「回路が、動いていない。本当に、一滴も……!」

 

「見ただけで、術式を――」

 

 灰色の外套の間に、ざわめきが走った。恐怖のざわめきだった。

 

 その中で、ハルトマンがぽつりと言った。

 

「……Severer」

 

 小さな声だった。けれど、その言葉はざわめきの中を、まっすぐに渡っていった。

 

「Severer……」「the Severer」「断ち手だ――」

 

 灰色の外套の誰かが、恐怖と一緒にそれを叫んだ。

 

 後に、塔の帳簿で一人の男の名の横に書き込まれることになるその呼び名は、この夜、この岬で、灰色の外套たちの口から最初に生まれた。

 

 

◇

 

 

 砕けた壁の向こうで、青子が防波堤の縁に片膝をついていた。ゆっくりと顔を上げる。

 

「……引き剥がそうと、したわね」

 

 低い、低い声だった。

 

 忉利はその声を知っていた。めったに聞かない、本気で怒った時の、この女の声だった。

 

「私から、こいつを」

 

 青子が立ち上がった。

 

 両の手のひらに、青い光が灯った。

 

 

◇

 

 

 それから先のことを、執行者たちは後になって、ばらばらにしか証言できなかった。あまりにも速すぎたのだ。

 

 青い光が奔った。一つではなかった。十。二十。五十。両手から、指先から、身体の周りの空気そのものから、青い光の弾が嵐のように撃ち出された。

 

 詠唱はなかった。あったとしても、誰にも聞き取れなかった。

 

 光の弾が着弾する。コンクリートが砕ける。消波ブロックが跳ね上がる。剣を構えた男の、剣だけが根元から吹き飛ぶ。杖を持った女の、杖だけが粉々に砕け散る。

 

 身体には一発も当たっていなかった。当てなかったのだ。武器だけを。礼装だけを。足場だけを。正確に、一つ残らず。

 

「――障壁を張れ!」

 

 何重もの光の盾が、防波堤の上に花開いた。

 

 次の弾が盾に着弾する。一発で一枚が割れる。二発目で二枚目が。三発目で三枚目が。盾が張られるより早く、次の弾が来る。

 

 光と光が、夜の海の上で弾け合った。

 

「なんだ、これは……!」

 

 消波ブロックの陰で、盾ごと吹き飛ばされた男が海水を吐きながら叫んだ。

 

「魔術じゃない、砲撃だ……! 人間ミサイルランチャーかよ……!」

 

 その呼び名も恐怖と一緒に、灰色の外套たちの間をあっという間に渡っていった。

 

 光の嵐の中で、忉利は一歩も動かなかった。ただ、見ていた。

 

 影から影へ、音もなく背後に回り込もうとする執行者が一人。手に、眠りの術式を刻んだ銀の針。

 

 振り返りもせずに、ぷつり、と断った。ついでに、外套に縫い込まれた、身を隠す術式も。

 

 闇の中で急に丸見えになった男の足元を、青い弾が吹き飛ばした。男は宙を舞い、黒い海に盛大な水音を立てて落ちていった。

 

「……生きてるよな、あれ」

 

「生きてるわよ! 浅いとこ狙ったんだから!」

 

 光の嵐の中から、青子の怒鳴り声が返ってきた。

 

 

◇

 

 

 その時。足が、動かなくなった。

 

 濡れたコンクリートに、靴底ごと縫い止められたように。膝から上も、指一本、言うことをきかない。

 

「――ご無礼を、お許しください」

 

 すぐ耳元で声がした。

 

 黒い燕尾服の白髪の老人が、背後に立っていた。完璧に仕立てられた服。白い手袋。その手に、小さな銀の器具を持っている。

 

 匙のような形だった。先端がちょうど、人の眼球を掬い取れるくらいの大きさに窪んでいた。

 

「我が主は、あなたの眼を、生きたまま、お望みです。……痛みは、ございません。この匙に刻まれた術式が、神経ごと、眠らせて――」

 

 銀の匙が、右目に向かって伸びてきた。

 

 身体は動かなかった。けれど、目は動いた。

 

 足元を縫い止めている線。老人の手袋から伸びる、影を縫う線。匙に刻まれた、神経を眠らせる術式の線。

 

 ぷつ。ぷつ。ぷつり。

 

 足の縛めが断たれた。影を縫う線も断たれた。銀の匙が光を失って、ただの匙になった。

 

 匙の先は、右目のほんの数センチ手前で止まっていた。

 

「……おれの目に、何しようとした」

 

 老人は答えなかった。

 

 その背後で、光の嵐が止んでいた。防波堤の上の空気が、しんと冷えた。

 

「――――あんた」

 

 青子がこちらを見ていた。

 

「今、こいつの目に、何を、しようとしたの」

 

 老人の顔から、初めて血の気が引いた。

 

 次の瞬間、その身体が影に溶けるように消えた。防波堤の端の暗がりにまた現れて、黒い海の方へ後ずさっていく。

 

「……引き際は、心得ております。ですが、我が主は、諦めませんよ。ミスター・ヒカゲ」

 

 白い手袋の手を、胸に当てて。

 

「次は、もっと、上手にやります」

 

 それから、影ごと夜の闇に溶けて消えた。

 

 

◇

 

 

 十二人が九人になり、六人になり、三人になった。

 

 武器を失った者。礼装を砕かれた者。海に落とされた者。防波堤の隅で腰を抜かしている者。

 

 誰も、死んでいなかった。

 

 最後に残ったのは、城壁の上の銀の徽章の男だった。

 

 古い黒い杖を構えていた。杖の先に、何重にも重ねた術式の光が、脈打つように明滅している。城壁ごと、岬ごと押し潰すような重たい切り札。

 

「……魔法使い『青』。あなたが、これほどとは」

 

 男の声は震えていなかった。

 

「だが、我々にも、引けない理由がある」

 

「知らないわよ、そんなの」

 

 青子は両手を、ゆっくりと持ち上げた。

 

 青い光が、そこに集まっていく。今までの弾とは比べものにならない量。防波堤の空気がびりびりと震え、消波ブロックがかたかたと鳴り、波が岬を避けるように沖へ引いていく。

 

 狙いは、城壁の上、男の足元の古い石の要塞。

 

「――青子」

 

 忉利の手が、青子の手首を掴んだ。その手首は震えていた。怒りで。

 

「……なによ、今――」

 

「そこ、灯台の跡だ」

 

 忉利は城壁を見上げていた。

 

 灰色の石。石の一つ一つを、線が繋いでいた。何百年も前に、誰かが一つずつ積み直した線。そのさらに奥に、もっと古い線。千年以上、港の入り口に立ち続けた、白い灯台の石の記憶。

 

「……古いもんだろ」

 

 青子は、忉利の横顔を見た。城壁を見上げた。もう一度、忉利を見た。

 

「――――もう」

 

 大きく、大きく息を吐いた。

 

「わかったわよ」

 

 青子は両手を、ぐるりと回した。狙いが城壁から逸れる。要塞の横の、黒い海へ。

 

 撃った。

 

 青い光が夜を切り裂いて、まっすぐに海へ。

 

 着弾した瞬間、海が割れた。

 

 水柱が立ち上がった。何十メートルもの、白い水の塔。夜空へ向かって、まっすぐに。まるで、そこにもう一度、白い灯台が建ったかのように。

 

 轟音が遅れて来た。岬が揺れ、消波ブロックが転がった。城壁の上の男が、杖を取り落として、尻もちをついた。

 

 それから、水の塔が崩れた。何千トンもの海水が雨になって、岬の上に降り注いだ。

 

 防波堤も、要塞も、執行者たちも、青子も、忉利も。全員、頭からずぶ濡れになった。

 

 城壁の上で、男は濡れた髪をかき上げながら、呆然と沖を見ていた。水柱の立った場所には、まだ白い泡が渦を巻いていた。

 

 あれが城壁に当たっていたら。男は、それ以上考えるのをやめた。

 

 

◇

 

 

 防波堤の上で、忉利は慌てて鞄を開けた。

 

 ミル。ネル。ドリッパー。豆の袋。それから、名前の読めない小さな缶。

 

 全部、無事だった。古い革の鞄は、あれだけの海水を浴びて、中まで一滴も染みていなかった。

 

「……頑丈な鞄だな、本当に」

 

「有珠の鞄だもの」

 

 青子は濡れた前髪を乱暴にかき上げて、つかつかと忉利の前まで来た。胸元を両手で掴む。

 

「怪我は」

 

「ねえよ」

 

「どこも?」

 

「どこも」

 

 青子は忉利の顔を、じっと見上げた。濡れた前髪の奥で、その目がわずかに揺れていた。

 

「……壁で、引き剥がされた時。一瞬だけ、あんたが見えなくなったのよ」

 

 声が小さくなった。

 

「その一瞬に、あの爺さんの匙が、あんたの目の前にあった」

 

「一瞬で、壁、壊しただろ」

 

「一瞬でも、嫌だったの」

 

 青子は胸元を掴んだ手に、ぎゅっと力を込めた。それから、ぱっと離してそっぽを向いた。

 

「……それだけ」

 

「そうか」

 

 忉利は、濡れた青子の頭に、ぽんと一度だけ手を載せた。

 

 青子は振り払わなかった。

 

 

◇

 

 

「――見事な腕前です」

 

 岬へ続く道の上に、灰色の三つ揃いの男が立っていた。

 

 エドガー・ヴェイル。黒い蝙蝠傘を差していた。傘の端から、水柱の名残の滴がぽたぽたと落ちていた。

 

「……あんた、見てたの」

 

「最初から。……止めても、無駄でしたので」

 

 ヴェイルは傘を畳んで、防波堤の上を歩いてきた。砕けた剣や折れた杖を、慎重に避けながら。それから周りを見渡して、手帳を開いた。

 

「執行者十二名。死者、なし。礼装、全損。防波堤、半壊。消波ブロック、およそ百二十基が海へ」

 

 淡々と書きつけていく。

 

「それでいて、歴史的建造物には、傷一つない」

 

 ペン先が止まった。

 

「……塔の方々は、これを、どう読まれるでしょうね」

 

「知らないわよ」

 

「では、私が申し上げましょう」

 

 ヴェイルは手帳を閉じた。

 

「法政科は、あなた方と、戦争をするつもりはございません。……費用が、見合いませんので」

 

 今夜、執行部は十二名分の礼装を失った。次に二十名を送れば、二十名分を失う。その間に、眼の噂は塔じゅうに広まり、家と家が奪い合いを始める。

 

「それよりも、はるかに安上がりな方法がございます。……帳簿の書き方を、決めることです」

 

「だったら、書きなさい」

 

 青子は腕を組んだ。濡れた袖から、ぽたりと滴が落ちた。

 

「こいつの眼に手を伸ばした奴は、青を敵に回すって」

 

「――それから」

 

 忉利が海を見たまま言った。

 

「こいつに手を伸ばした奴は、おれを敵に回す。……それも、書いとけ」

 

 ヴェイルはしばらく、二人の顔を交互に見ていた。それから手帳を開いて、銀のペンでゆっくりと書いた。

 

「魔法使い『青』、蒼崎青子。ならびに、その眼、日景忉利。……二名をもって、一つの案件とする」

 

 ペン先の音だけが、防波堤の上に響いた。

 

「その眼は、魔法使いと不可分のものとして扱う。……よって、封印指定の審議には、当たらない。執行部には、法政科から、そのように申し入れます。今夜の報告を読めば、異を唱える方は、そう多くはないでしょう」

 

 ヴェイルは顔を上げた。

 

「それから、ミス・アオザキ。あなたは、協会に属さない。ロンドンに来る必要もない。協会の側からも、それを求めない」

 

「当然よ」

 

「ただ、協会には、時折、協会の手に余る厄介事がございます。神秘の漏れかけた土地の後始末。行方をくらました魔術師の探索。執行部の礼装が何十と壊れるような、ろくでもないもの。……そうしたものを、魔法使いに、お願いすることがあるかもしれません。赤い封蝋の手紙で」

 

「引き受けるかどうかは、私の自由よ」

 

「もちろんです。引き受けていただいた場合は、正当な報酬を。……そのために、協会の中に、あなた名義の口座を一つ、開かせていただきます。名義は、『ミス・アオザキ』で」

 

 青子の顔が、一瞬、引きつった。

 

「……ちょっと待ちなさいよ。うちの姉貴も、ミス・アオザキなんだけど」

 

「ご心配なく。照合は、厳重に行いますので」

 

 ヴェイルはにこやかに言った。

 

 忉利はずぶ濡れの首の後ろを掻いた。何となく、嫌な予感がした。

 

「それと、昨夜の地下墓地の件ですが」

 

 ヴェイルは手帳の頁をめくった。

 

「執行部の功績の扱いは、そのままといたします。……その代わり、外部協力者への報酬は、法政科の裁量で、執行部の予算から、新しい口座へ、先にお振り込みしておきます。今夜、執行部が失った礼装の額を考えれば、彼らも、文句は申しますまい」

 

 青子の目が、ぱっと見開かれた。

 

「……全額?」

 

「全額です」

 

 青子は忉利の方を振り返った。ずぶ濡れの顔が、見る見るうちに輝いていった。

 

「……忉利! 一文無し、回避!」

 

「よかったな」

 

「イエメンからの宿代の、二十倍よ!?」

 

「よかったなって」

 

 ヴェイルはそれを、少しだけ目を細めて眺めていた。

 

 

◇

 

 

「ひとつ、ご報告を」

 

 ヴェイルが声の調子を変えた。

 

「あなたの呼び名が、塔で、少しずつ定まり始めております」

 

「……呼び名?」

 

「ミス・ブルー」

 

 ヴェイルは指を一本立てた。

 

「これは、称号からの、ごく当然の呼び名です。塔では、もう、あなたの名前よりも先に、こちらが歩き回っている。……それから、マジックガンナー。撃つことにかけては、塔の誰も敵わない魔女、という意味で」

 

 二本目の指。

 

「……マジックガンナー、ね」

 

 青子は濡れた前髪をかき上げて、まんざらでもなさそうに鼻を鳴らした。

 

「ま、悪くないんじゃない」

 

 忉利は首の後ろを掻きながら、座り込んだ執行者たちの方をちらりと見た。

 

「……そういや、さっき、あいつら、人間ミサイルランチャーとか言ってなかったか」

 

 ぼそりと。独り言のような声だった。

 

 ただ、口の端が、もう、少しだけ上がっていた。

 

「――――は?」

 

「言ってた。消波ブロックの陰で、海水吐きながら。……『人間ミサイルランチャーかよ……!』って」

 

 わざわざ、声色まで似せて。

 

 青子の顔が、みるみる真っ赤に染まった。

 

「だ、誰よ、そんなこと言ったの! 出てきなさい! もう一回、海に還してあげるから!」

 

 座り込んでいた執行者の何人かが、びくりと肩を跳ねさせて目を逸らした。

 

 ヴェイルは何も言わずに、手帳に一行、書き足した。

 

「ほら。書かれた」

 

「書かなくていいの!」

 

「マジックガンナーより、わかりやすくていいじゃねえか」

 

 忉利の肩が、小刻みに震えていた。笑いを噛み殺しているつもりらしかったが、まるで噛み殺せていなかった。

 

「……人間、ミサイルランチャー」

 

 もう一度、わざとらしく、ゆっくりと口の中で転がす。それで、とうとう堪えきれずに吹き出した。

 

「笑うな!」

 

「笑ってねえ」

 

「肩が笑ってるのよ!」

 

「……ミサイルランチャー」

 

「四回目!!」

 

「似合ってんじゃねえの。……撃ってる時のお前、ほんとにそんな感じだったぞ」

 

「似合ってないわよ!」

 

 ヴェイルはそれから、忉利の方を見た。

 

「ミスター・ヒカゲ。あなたにも」

 

「……おれにも、あんのかよ」

 

「法政科の帳簿では、お二人を、『青と、その眼』として一件に記します。どちらか片方の名前だけを口にする者は、もう、塔にはいなくなるでしょう」

 

 ヴェイルは少しだけ間を置いた。

 

「ですが、あなた個人の欄にも、おそらく、名前が書かれることになる。……先ほどから、執行部の方々が、そう呼んでおりますので」

 

 防波堤の隅で、ハルトマンが膝を抱えたまま、こちらを見ていた。

 

「『断ち手(セヴァラー)』」

 

 ヴェイルは静かに言った。

 

「魔術を、術者から。礼装を、その持ち主から。人質を、術から。……繋がりだけを断つ、回路のない眼。今夜と昨夜、執行部が見たのは、そういうものでした」

 

 忉利は黙っていた。ずぶ濡れの鞄の持ち手を、少しだけ握り直した。

 

「……嬉しくねえ」

 

 隣で、青子がわなわなと震えていた。

 

「…………なんで」

 

「ん」

 

「なんで、あんたのだけ、そんな格好いいのよ!!」

 

 青子の声が、夜明け前の岬に響いた。

 

「私なんか、ミサイルランチャーよ!? 兵器よ、兵器! あんたは『断ち手』で、私は『ミサイルランチャー』!? 不公平でしょ!!」

 

「知らねえよ。おれがつけたんじゃねえ」

 

「書記官! 今の、帳簿から消しなさい! 私の方!」

 

「帳簿は、多くの手で書かれますので」

 

 ヴェイルは少しも悪びれずに、手帳を閉じた。

 

 

◇

 

 

 夜明け前、執行者たちを引き連れて岬を去る間際に、ヴェイルは一度だけ振り返った。

 

「依頼の際は、行く先々の宿に、手紙を差し上げます。……あの赤い封蝋で」

 

「来なくていいわよ」

 

「ええ、存じております」

 

 灰色の三つ揃いの胸に手を当てて、最後にもう一度、優雅に一礼した。それから濡れた防波堤の上を、ゆっくりと遠ざかっていった。

 

 ハルトマンが、その後ろを歩いていた。一度だけ振り返った。忉利の顔を見て、何か言いかけて、やめて。小さく頭を下げた。

 

 それから、灰色の外套の列の中に紛れていった。

 

 

◇

 

 

 防波堤の上に、二人だけが残った。濡れたコンクリートに、並んで腰を下ろす。東の空が、少しずつ白み始めていた。

 

 二人とも、頭から爪先までずぶ濡れだった。青子の髪の先から、ぽたぽたと滴が落ちていた。

 海の方から、朝の最初の風が吹いてきた。濡れた身体には、ひどく冷たかった。

 青子が黙って、忉利の方へ肩を寄せた。忉利も、黙って寄せ返した。

 

「……ねえ」

 

「ん」

 

「あの爺さんの匙。……怖くなかったの」

 

「怖かった」

 

 忉利は正直に言った。

 

「目の前まで来た時、ちょっとだけ」

 

「…………」

 

「でも、お前の声、聞こえたから」

 

 青子は、膝を抱えたまま、忉利の肩に濡れた頭をこつんと預けた。

 

「……二名で、一つなんでしょ」

 

「帳簿の上ではな」

 

「帳簿の外でもよ」

 

 青子は目を閉じた。それから、少しだけ口の端を持ち上げた。

 

「……セヴァラー」

 

「やめろ」

 

「断ち手さん」

 

「やめろって」

 

「ちょっとくらい、からかわせなさいよ。……私なんか、兵器なんだから」

 

 

◇

 

 

 翌朝、アレクサンドリアの港を出るフェリーの甲板で、青子は、手すりにもたれて朝刊を広げていた。

 

 アラビア語の新聞だった。読めない。けれど、一面の写真は読めた。岬の先の、半分崩れた防波堤。海に転がり落ちた、無数の消波ブロック。その向こうの、傷一つない古い要塞。

 

「……なんて書いてあると思う?」

 

「海底のガス管の事故、とかじゃねえの」

 

 忉利は売店で買った甘い紅茶を啜っていた。

 

「協会が、そういうことにしたんだろ」

 

 青子は新聞を畳んで、海に向かって大きく伸びをした。コートは、まだ少し湿っていた。

 

「時計塔なんて、一生、行かないわよ。私」

 

 遠ざかっていく岬を、青子は振り返った。

 

「ミス・ブルーとか、ミサイルランチャーとか。勝手に呼んでればいいのよ。こっちは、顔なんか、一生、出してあげないんだから」

 

「一生、か」

 

 忉利は紅茶のカップを手すりに置いた。

 

「おれらの一生、長えぞ」

 

 青子は一瞬、言葉に詰まった。

 

「……長くても、よ」

 

「百年経っても?」

 

「百年経っても」

 

「そっか」

 

 忉利はそれ以上、何も言わなかった。

思っていた。一生は、長い。自分たちの一生は、とりわけ。

そのどこかで、この女が、あの塔の門をくぐる日が来るような気が、なんとなくした。

 

 ずっと、ずっと先の方に。細くて、薄くて、今にも消えそうな線が、一本だけ、見えた気がしたのだ。

 フェリーの汽笛が、長く、低く鳴った。

 

 白い灯台がかつて立っていた岬に、朝の光が静かに差し込んでいた。

 

 その夜に生まれた二つの名前は、二人より先に、海を渡っていった。




どんな経緯でこの名がついたか知らないんですが、自分なりに書いたやつです。
本当はこんな堂々と、あなたはこう呼ばれますよ、とか言われないと思いますけど。

クロリンデの小説の評価、半端ないですね。
みんなクロリンデさん好きなんだ〜と、嬉しく思ってます。

あと、隈乃温泉は描くことにしました。
ただ、シエルの方を優先するべきだと思うので、いつ上げるかはまだ何もわかりません。

イチャイチャについては、数話後にデカめのがあります。お待ちください。

シエルの小説満足度調査

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