―――地の底で、死ぬということ。
それは、ゆっくりとやってくる。
落盤の音が止み、土埃が収まって、自分の息の音だけが聞こえるようになる。灯りはとうに消えている。上も下もわからない。岩の重さが四方から、少しずつ、少しずつ胸を押してくる。
空気が薄くなっていく。叫んでも、声は岩に吸われてどこにも届かない。
何百年も前、この谷の男たちは何人も、何十人も、そういう死に方をした。
銀を掘るというのは、そういう仕事だった。
その中の、たった一人だけが。
死ななかった。
◇
一九九一年、十二月。
スロヴァキアの山あい、古い銀山町から一つ外れた小さな谷は、雪に埋もれていた。
すり鉢のような谷の斜面に、漆喰の家々が段々に貼りついている。黄色、桃色、若草色。どの屋根にも厚く雪が積もり、煙突から細い煙が上っている。谷の底の広場に、古い教会の塔が一本。
谷を囲む山々の腹には、昔、銀を掘った坑道の口が、いくつもいくつも黒く開いていた。どの口も、百年以上前に板で塞がれていた。
「……ここで、待ってて」
広場の脇にある小さな下宿屋の二階で、青子はコートに袖を通していた。窓の外は夕暮れだった。
寝台の端に座った忉利は、黙って青子を見ていた。
「ウィーンで、仕事。協会の禁を破った魔術師が、街の真ん中の古い建物に、工房ごと立て籠もってるの。執行者が三人、もう返り討ちにあってる」
青子は、赤い封蝋の手紙をコートのポケットにしまった。
「汽車を乗り継いで、半日。明後日の夜には、戻るわ」
「……一緒に行く」
「駄目」
青子は即答した。
「現場には、協会の人間が、何人も張りついてるのよ。執行者に、法政科に、それから、手柄を横取りしたい、塔のいろんな家の人間。……アレクサンドリアの岬にいた顔も、きっと、いるわ」
青子はコートの釦を一つずつ留めた。
「あんたを連れていくのは、あいつらの前に、あんたの目玉をぶら下げて歩くようなものよ」
忉利は何も言い返さなかった。
アレクサンドリアから、七か月。
岬の防波堤で、右目の数センチ手前まで伸びてきた銀の匙を、忉利はまだ覚えていた。あの夜の顔ぶれが揃う場所で、同じことが起きないとは限らない。
「……この町なら、平気なのかよ」
「平気よ。こんな山奥、協会の誰も、気にしてないもの。……大きな鉱山からも外れた、谷の奥の小さな町。誰も見向きもしないわ」
青子は忉利の前に立った。手を伸ばして、忉利の前髪を指で少しだけよけ、虹彩の縁の青い輪を覗き込む。
「すぐ、戻るから」
「……二日だな」
「二日よ」
「遅れたら」
「遅れないわよ」
青子は少しだけ笑った。
それから身を屈めて、忉利の額にそっと唇を落とした。ほんの一瞬。
「……行ってきます」
◇
下宿屋の女主人は、アンナといった。三十半ばの痩せた未亡人で、夫は五年前、町外れの製材所の事故で亡くなったのだという。八歳の娘と二人で、二階の三部屋を旅人に貸して暮らしている。
娘の名前は、ズザナ。金色のおさげ髪の、よく笑う子だった。
この町に着いた翌朝、忉利が下宿屋の台所を借りて自分の朝の一杯を淹れていると、ズザナが台所の戸口からじっと覗いていた。ネルを振る手元を。膨らむ粉を。黒い雫を。
忉利は何も言わずに、小さなカップに牛乳をたっぷりと温めて、珈琲を半分だけ落とし、砂糖を一匙入れてズザナの前に置いた。
――大人の飲み物は、大人になってからだ。
日本語で言っても、通じなかった。
ズザナはカップを両手で持って一口飲み、目をまんまるにした。
それから毎朝、ズザナは台所の戸口にいた。
アンナは最初、困った顔をしていた。三日目の朝には、アンナの分も淹れることになった。
アンナは一口飲んで、しばらく黙っていた。それから、ドイツ語まじりの、ひどく訛りのある英語で言った。
「〈……夫が、好きだったの。こういう、苦いの〉」
それきり、アンナは何も言わなかった。ただ、四日目の朝から、台所の卓の上に忉利の分の焼きたての黒パンが、黙って置かれるようになった。
◇
青子が発った日の夜。
下宿屋の食堂で、アンナは窓の外を見ていた。広場の向こうの、教会の掲示板を。
「〈……また、一人〉」
ぽつりと言った。
掲示板に、新しい紙が一枚貼られていた。人探しの紙だった。隣の家の年寄りの男の顔が、鉛筆で描かれている。
この冬だけで、七人目だった。鉱夫の年寄り。羊飼いの若者。隣町から来た行商の女。宿を取っていた旅の男。
夜のうちに、いなくなる。寝床は空っぽで、窓が開いていて、雪の上に裸足の足跡が点々と山の方へ続いている。足跡は決まって、古い坑道の口の前で消えていた。町の警察は、雪で谷まで上がってこられないと言ったきりだった。
「〈昔から、何十年かに一度、冬に人がいなくなるの。年寄りたちは、坑道の呪いだって言うわ〉」
アンナは、窓のカーテンをきっちりと閉めた。
「〈昔、この谷で、落盤があったの。三百年くらい前。何十人も、生き埋めになった。……その中の一人が、今でも、地の底で、仲間を呼んでるんだって〉」
アンナは振り返って、少しだけ笑おうとした。うまく笑えていなかった。
「〈子供を寝かしつける時の、お話よ。……悪い子は、坑道の男に、呼ばれるわよ、って〉」
忉利は何も言わなかった。窓の方を見ていた。閉められたカーテンの向こうを、目の奥の扉を少しだけ開いて。
見えた。
谷の斜面、山の腹の坑道の口のあたりから、細く黒い糸のような線が何本も何本も、町の方へ伸びていた。
蜘蛛の巣のように、谷じゅうに薄く広く張り巡らされている。家々の屋根の上を渡って。窓の隙間を探るように。眠っている誰かを、探すように。
ねっとりと粘りつくような線だった。血も入れずに、眠っている者の夢にだけ掛かる糸。
◇
夜中。
忉利は寝台の上で目を開けた。何かに起こされた気がした。
音はしなかった。ただ、落ち着かなかった。
廊下の向こう、アンナとズザナの部屋の方から、扉の開く音がかすかにした。
忉利は寝台から跳ね起きた。廊下に出る。
アンナの部屋の扉が、半分開いていた。中ではアンナが、寝台の上でぐっすりと眠っていた。深すぎる眠りだった。揺すっても起きない眠り。
その隣の小さな寝台が、空っぽだった。窓が開いていて、冷たい夜気と雪が部屋の中に吹き込んでいた。
窓の外、雪の積もった屋根の上に、小さな裸足の足跡が点々と続いていた。屋根から裏の路地へ。路地から、町外れの山へ続く坂道へ。
忉利は、扉を開いた。
全部。
ズザナの足跡から、細い、細い子供の線が坂の上へ伸びていた。
その線に、黒い糸が一本巻きついていた。釣り糸のように、ゆっくりと、坂の上の坑道の口の方へズザナを手繰り寄せていた。
忉利はコートを掴んで、窓枠を越えた。
◇
坑道の口は、崖の中腹に黒く開いていた。百年前に打ち付けられた腐った板の柵が、内側から壊されていた。
中は真っ暗だった。
忉利はコートのポケットから、下宿屋の台所のマッチ箱を取り出した。一本、擦る。小さな炎が湿った岩の壁を照らした。
壁に何かが光った。
銀だった。
掘り残された細い銀の筋が、岩の壁を血管のように何本も走っていた。マッチの炎を跳ね返して、ちらちらと青白く光る。
忉利は奥へ進んだ。黒い糸が、坑道の奥へ奥へと続いていた。ズザナの細い線を手繰り寄せながら。
マッチが燃え尽きる。二本目を擦る。
坑道の脇には、横穴がいくつも口を開けていた。その一つの前で、忉利は足を止めた。
横穴の奥から、何かが出てきた。人の形をしていた。
ぼろぼろの寝間着。灰色の、生気のない肌。濁った白い目。掲示板の人探しの紙に描かれていた顔だった。隣の家の、年寄りの男。
死んでいた。死んだまま、歩いていた。
続いて、隣の横穴からもう一人。その向こうから、もう一人。
七人。
白い目が一斉に、マッチの炎の方を向いた。
忉利は七人の背中を見た。首の後ろから黒い糸が一本ずつ、坑道の奥の同じ一点へ束ねられていく。操り人形の糸だった。
「……悪い」
誰に言ったのか、自分でもわからなかった。たぶん、この七人に。たぶん、この七人の帰りをまだ町で待っている誰かに。
ぷつり。
七本の糸が、同時に切れた。
七人がその場に崩れ落ちた。声も上げずに、湿った坑道の床に静かに。ただの亡骸に戻っていた。
忉利は、崩れた七人の脇を黙って通り過ぎた。あとで、ちゃんと町に帰してやる。今は先に行かなければならなかった。
◇
坑道の奥が、少しだけ明るくなった。青白い、燐のような光。
広い空洞だった。昔、銀の大きな鉱脈を掘り尽くした跡なのだろう。天井が高く、岩の壁のあちこちに細い銀の筋がまだ残っていた。燐の光を受けて、壁一面が星空のようにちらちらと瞬いている。
壁際には、錆びたつるはしが何本も転がっていた。朽ちた木の支柱。潰れたランプ。それから、半分土に埋もれた古い、古い骨。何十人分もの。
三百年前の、落盤の跡だった。
空洞の真ん中に、男が立っていた。
背が高く、ひどく痩せていた。ぼろぼろの古い鉱夫の作業着の上に、どこかの貴族から剥ぎ取ってきたような黒い立派な外套を羽織っている。長い、白に近い灰色の髪。
顔は若かった。三十にも届かないように見えた。
けれど、その目は赤かった。血を煮詰めたような、深く濁った赤。
男の足元に、ズザナが横たわっていた。寝間着のまま。裸足のまま。目を閉じて、眠っているように。
首筋には、まだ傷はなかった。
「――誰だ」
男が言った。低く掠れた、ひどく古めかしい響きの声。この国の言葉でも、英語でもない。けれど意味だけは、頭の中に直接流れ込んできた。
「今夜、糸を掛けたのは、この娘だけだ。……お前は、呼んでいない」
赤い目が、忉利の背後の暗がりを見た。糸の切れた七人が崩れ落ちている、横穴の方を。
「私の糸を、切ったな。……三百年、誰にも触れられなかった糸を」
それから、その目が、忉利の目の上で止まった。虹彩の縁の、青い輪の上で。
「……その眼か」
「…………」
「見えているのだな、糸が。……回路も持たぬ、ただの人間の、その眼に」
男は一歩、忉利の方へ踏み出した。
「寄越せ。……その眼を、私に」
「……なんでだよ」
「見るためだ」
男の声が、少しだけ震えた。
「私を、この地の底に縛りつけているものを。……見て、確かめたい。それが、まだ、ちゃんと、繋がっているかどうか。ほどけかけていないかどうか。……毎晩、毎晩、怖くて、たまらないのだ。それが、いつ、切れるのか」
忉利は男の顔を見た。若い顔だった。
怯えた、若い顔だった。
◇
男が、消えた。
―――。
忉利の左の肩に、灼けるような痛みが走った。
衝撃で、身体が坑道の壁に叩きつけられた。岩の角が背中に食い込む。息が詰まる。
男が目の前にいた。長く伸びた爪が、忉利の肩の肉をコートごと深く抉っていた。
見えなかった。動きそのものが、速すぎた。
男の赤い目が、忉利の肩から溢れる血を見て、ゆっくりと細められた。
「……ただの、人間の血だ」
爪が引き抜かれた。
忉利は壁に背を預けたまま、膝をついた。左腕が上がらなかった。
痛い。
旧校舎の夜から、線を切るのに痛みはない。けれど、この身体はただの人間の身体だった。爪で抉られれば血が出る。骨が軋む。
あるのは、この目だけだった。
「――――見えてんだよ」
忉利は膝をついたまま、顔を上げた。男の右腕の線を、見た。
ぷつり。
男の右腕が、肩から落ちた。
男が目を見開いた。次の瞬間、肩の断面から黒い霧が噴き出した。霧が、時間を巻き戻すように腕の形を作る。骨が生え、肉が這い、皮膚が覆う。
三秒で、元に戻っていた。
男が、また消えた。
今度は、見えた。
動きそのものは見えない。けれど、男の身体から伸びる線が、動く方向へほんの一瞬だけ先に伸びる。
左から。
忉利は左を見た。
ぷつり。
男の両脚が、膝から下でほどけた。男は忉利の目の前で、銀の筋の走る岩の床につんのめった。
霧が噴き出す。脚が戻る。
跳ぶ。
ぷつり。腕。
ぷつり。首。
首が床に落ちて、転がる。霧が噴き出す。首が戻る。
何度切っても、戻ってくる。
忉利の頬を、爪がかすめた。脇腹をかすめた。血が滲む。
視界の端が、ちかちかと明滅し始めていた。血を失いすぎている。
――このままじゃ、先に、こっちが倒れる。
忉利は奥歯を噛んだ。
腕や脚や、首の線ではない。もっと深いところ。何度切っても戻ってくる、その「戻ってくる」理由の線。
この男が怯えていたもの。見て、確かめたいと言っていたもの。
忉利は、扉を全部開いた。
男の身体の、ずっと奥を見た。
―――あった。
一本の線だった。
男の胸の奥から、上へ。岩の天井を突き抜けて、地上へ。それから、どこかずっと遠くの、見知らぬ誰かの方へ。細く、硬く張りつめていた。
流れていくはずの時間を、無理やりこの地の底に縛りつけている線だった。
三百年前。
この空洞で落盤があった。何十人もの男たちが岩の下敷きになり、灯りを失い、空気を失って、一人ずつ死んでいった。
その中の一人のもとへ、最後の最後に、闇の奥から何かが来た。坑道をねぐらにしていた、古い吸血種だった。それは死にかけた男の口に、自分の血を落とした。
死にたくない、と男は頷いた。ここで、こんなふうに終わりたくない、と。
その約束が、この線だった。
男の赤い目が、忉利の視線の先に気づいた。男の顔から、一切の表情が消えた。
「――――待て」
初めて、男の声がはっきりと震えた。
「それは。……それだけは、やめてくれ」
「……ちゃんと、繋がってるよ」
忉利は言った。男が、動きを止めた。
「お前が見たかったやつだろ。……繋がってる。三百年分。ほどけかけてもいねえ。ちゃんと、張ってる」
「…………」
「怖がんなくて、いい。……切れる心配は、ねえよ」
男の赤い目が、大きく見開かれた。
「――おれ以外には、な」
◇
男が飛びかかってきた。最後の、最も速い一撃だった。爪が忉利の喉を目がけて、まっすぐに。
忉利は動かなかった。ただ、男の胸の奥の一本の線を見ていた。三百年前の、闇の中の約束の線を。
旧校舎の夜。音楽室の冷たい床の上で、自分も死んだ。
心臓が止まって、胸に穴が空いて、線がひとつ、またひとつと見えなくなっていった。暗闇が、ゆっくりと濃くなっていった。
楽だと思った。そのまま、終わるはずだった。
けれど、青い光が来た。遠い、遠い暗闇の向こうから。自分の名前を呼んで。
「――おれも、一回、死んだんだよ」
ぷつり。
爪が、忉利の喉の皮膚一枚手前で止まった。男の赤い目が、忉利のすぐ目の前で見開かれていた。
それから。
男の身体に、時間が追いついた。
灰色の髪が白く、それから脆く、ぱらぱらと抜け落ちていく。若かった顔に皺が刻まれる。肌が、乾いた紙のようにひび割れていく。三百年分の、踏みとどまっていた時間が一度に。
男は何かを言おうとした。唇が震えていた。
怯えた顔では、なかった。
その赤い目が、燐の光の中で、ほんの一瞬だけ赤ではない色になった。灰色の、ただの人間の目に。
目が、空洞の天井を見上げた。銀の筋が星空のように瞬く、岩の天井を。そのずっと上の、地上を。
「……ようやく」
掠れた声だった。三百年前の、ただの鉱夫の声だった。
「……上に、出られる」
灰になった。
黒い外套と、ぼろぼろの作業着だけが空っぽになって、岩の床にふわりと落ちた。
燐の光が、ゆっくりと消えていった。
忉利は壁に背を預けたまま、その外套を見下ろしていた。
「……拒んだのは、おれじゃねえ」
誰もいない暗闇に、呟いた。
「拾ってくれた奴が、いただけだ」
◇
ウィーンの旧市街、古い建物の地下で、青子は崩れた工房の瓦礫の上に立っていた。
禁を破った魔術師は、瓦礫の隅で気を失っていた。工房の結界は跡形もなかった。
地上から、協会の人間たちがばらばらと降りてきた。執行者の灰色の外套。法政科の、書類鞄を抱えた男。それから、どこの家の者ともわからない上等な仕立ての若い魔術師が二人。
「〈ミス・ブルー。ご協力、感謝いたします。つきましては、状況の聴取を――〉」
法政科の男が、書類鞄を開けかけた。
青子は書類鞄をちらりと見た。聴取。報告書。署名。それから、きっと手柄の取り合いの長い話し合い。
一日は、かかる。
「〈……ミス・ブルー?〉」
青子は、瓦礫の上から飛び降りた。
「〈後始末は、そっちでやって。聴取なら、手紙で。……待たせてる人がいるの〉」
「〈お待ちください、まだ――!〉」
「〈待たないわよ!〉」
上等な仕立ての若い魔術師の一人が何か言いかけて、青子の顔を見て、黙って道を空けた。背後で誰かが、ミサイルランチャー、と小さく呟いた。青子は聞こえなかったことにした。
青子は地下の階段を一息に駆け上がり、ウィーンの冬の街に飛び出した。
駅まで、走った。
◇
青子が雪の坑道に飛び込んできたのは、夜明けの少し前だった。
最終の汽車には、ぎりぎりで間に合った。途中の町で降りて、そこから先は夜明け前の雪の山道を、魔力で身体を持ち上げるようにして駆けてきた。
予定より、一日早かった。早く帰って驚かせてやろう、と。汽車の窓に額をつけながら、そんなことを考えていた。
広場で、アンナが雪の中に膝をついて泣いていた。町の男たちが松明を持って、坑道の方を見上げたまま立ち尽くしていた。
――トーリが、一人で、坑道に。
それだけ聞けば十分だった。
坑道の入り口。壊された柵。奥から漂ってくる血の匂い。それから、死徒の腐りかけた魔力の残り香。谷に何日もいて、一度も気づかなかった匂いだった。岩と、まだ残る銀の筋の厚みが、地の底の気配を塞いでいたのだ。
青子は指先に青い光を灯して、暗闇の中へ飛び込んだ。
横穴の前に、七つの亡骸が静かに崩れ落ちていた。
その先の広い空洞に、忉利が立っていた。
左腕をだらりと垂らして。コートを血で黒く染めて。頬にも脇腹にも、赤い筋を何本も走らせて。
右腕に、小さな女の子を抱えていた。金色のおさげ髪。寝間着のまま。裸足のまま。忉利の腕の中で目を閉じて、けれど小さな胸が、ちゃんと上下していた。
足元に、黒い外套が空っぽのまま落ちていた。その周りに、灰が薄く積もっていた。
青子は、息をするのを忘れていた。
「……青子か」
忉利が振り返った。血と煤で汚れた顔で。いつもと同じ、気だるげな目で。
「……二日って、言ったろ」
「――――っ」
「一日、早えな」
それだけ言って、少しだけ口の端を持ち上げた。
青子は何も言えなかった。ただ、大股で忉利の前まで歩いていった。
それから、ズザナを抱えた忉利ごと、両腕で抱きしめた。力いっぱい。
「……痛え、肩」
「知らないわよ」
「血、つくぞ。コートに」
「知らないって言ってるでしょ」
青子の声が震えていた。
忉利の胸の中で、ズザナが小さく身じろぎした。
◇
「――ばか!! ばか、ばか、ばかっ!!」
下宿屋の二階の部屋に、青子の声が響き渡った。
「なんで一人で行くのよ! なんで町の人が来るのを待たなかったのよ! 死徒よ!? 三百年ものの死徒よ!? わかってるの!?」
「わかってなかった。最初は」
「最初は!?」
「坑道に入ってから、たぶんそうだろうって」
「たぶん!?」
寝台の端に座らされた忉利の左肩に、青子が包帯を巻いていた。
巻き始める前に、青子は忉利の顎を掴んで、ぐいと横に向けさせた。首筋を覗き込む。右。それから左。耳の後ろ。襟の中。指先で肌を一箇所ずつ確かめていく。
「……噛まれてないわよね」
低い声だった。
「爪だけだ」
「ほんとに?」
「ほんとに。……あいつ、吸う前に、灰になった」
青子は、忉利の首筋からしばらく指を離さなかった。それから、長い、長い息を吐いた。
「……噛まれてたら」
声が、少しだけ震えた。
「もう、どうにもならなかったのよ。……あの坑道の七人みたいに。……あんな手、二度も通る保証なんて、ないんだから」
「……知らなかった」
「知らなかったの!?」
「吸血鬼に噛まれたら、吸血鬼になる、くらいは知ってた」
「普通の人間は、なれないわよ。なれずに死んで、ああいう人形になるだけ! なんで一人で行くのよ!」
青子は忉利の顎から手を離して、包帯をぐいと引いた。ひどく乱暴な手つきだった。ぎゅっ、と締めるたびに、忉利が小さく呻いた。
「……痛え」
「痛くしてるのよ!」
「なんでだよ」
「あんたが、ばかだからよ!」
青子の手が止まった。包帯の端を握ったまま、動かなくなった。
「……坑道の入り口で、血の匂いがした時」
声が小さくなった。
「死徒の匂いがした時。……私、また、あの夜かと思ったのよ」
「…………」
青子の指先が、包帯の上から忉利の肩にそっと触れた。
「旧校舎の、音楽室の。……あんたが、床に倒れてて、心臓が止まってて。私が、間に合わなくて」
「……間に合ったろ。今夜は」
「間に合ってないわよ! あんた、一人で片付けちゃったじゃない!」
青子の声が裏返った。
「私、何にも、してないのよ! ウィーンで、よその魔術師の工房、壊してただけ! あんたが、血まみれで、一人で――」
言葉が詰まった。青子は包帯の端を握りしめたまま、うつむいた。
忉利はしばらく黙って、青子の頭を見下ろしていた。それから、動く方の右手を青子の頭の上に、ぽん、と置いた。
「……悪かった」
「悪いって、思ってないでしょ」
「思ってる」
「嘘」
「……思ってるよ。一人で行ったのは」
忉利は青子の髪を、少しだけ撫でた。
「でも、あの子、糸で引っ張られてた。……待ってたら、間に合わなかった」
「…………」
「お前だって、同じこと、するだろ」
青子は答えなかった。答えられなかった。同じことを、するに決まっていた。
旧校舎の夜。忉利の前に飛び込んだ。赤い槍の前に。何も考えずに。
「……次、一人で行ったら、許さないから」
くぐもった声だった。
「ああ」
「私も、行かない。……一人では、どこにも」
「……おう」
「二人で一つって、あの書記官が、岬で帳簿に書いたんでしょ。……片方だけで、危ないとこ行くの、もう、禁止」
「帳簿の上の話だろ、あれ」
「帳簿の外でもよ! 何回言わせるのよ!」
青子は、包帯の端をきゅっと結んだ。
今度は、優しく。
◇
窓の外で、雪が静かに降り始めていた。広場の向こうの教会の鐘が、夜明けを告げていた。
青子は救急箱の蓋をぱたんと閉めた。それから、窓の方を向いたまま、ぼそりと言った。
「……坑道で、振り返った時のあんた」
「ん」
「女の子、抱えて。血まみれで。……『一日、早えな』って」
青子の耳が、みるみるうちに赤く染まっていった。
「……っ」
「なんだよ」
「な、なんでもないわよ!」
「顔、赤えぞ」
「赤くない!」
「赤えって」
「あ、あんたが、ばかだから、怒ってるのよ! それだけよ!」
「……それだけか」
「それだけよ!」
忉利は何も言わなかった。ただ、じっと青子の横顔を見ていた。
青子はしばらく窓の外を睨んでいた。それから、膝を抱えて顔を半分埋めた。
「……ずるいのよ、あんた」
「何が」
「昔から、ずっとそう。……無理しないって顔して、一番、無理するの。遊園地の夜も。旧校舎の夜も。その前からずっと。今夜も」
「…………」
「そのたびに、こっちの心臓が、止まりそうになって。……それで、そのたびに、また」
「また、なんだよ」
「…………」
「青子」
「――っ、また、惚れ直しちゃうのよ!! 悪い!?」
青子が顔を上げて、叫んだ。真っ赤な顔で。目にうっすらと涙を溜めて。
部屋が、しんと静まり返った。
忉利は瞬きをした。一回。二回。
それから、ゆっくりと口の端を持ち上げた。
「……悪くねえよ」
「――っ」
「むしろ、助かる」
「た、助かるって何よ!」
「毎回、惚れ直してもらえんなら。……何百年経っても、飽きられずに済むだろ」
青子は口を開けたまま固まった。それから、寝台の上の枕を掴んで、忉利の顔に叩きつけた。
「――――ばかっ!! もう知らないっ!!」
「痛え、肩」
「知らないって言ったでしょ!」
枕の向こうで、忉利が声を殺して笑っていた。
青子は、枕を叩きつけた手で、そのまま忉利の胸元のシャツをぎゅっと掴んだ。額を押しつける。
とくん、とくん、と。ちゃんと、聞こえた。
「……生きてて、よかった」
「ああ」
青子は、それ以上何も言わなかった。ただ、その音をずっと聴いていた。
◇
日が昇ると、町に一人の男が着いた。
黒い僧衣。首から下げた銀の十字架。痩せた、鋭い目の中年の男だった。隣の谷の町から、夜通し雪の山道を越えてきたのだという。聖堂教会の代行者だった。坑道の死徒の噂を聞いて、討伐の隊が組まれる前に検分に来たのだ、と。
代行者は坑道の奥の空洞で、空っぽの黒い外套と薄く積もった灰と、それから三百年前の落盤の、何十人分もの古い骨を、長いこと見下ろしていた。
それから下宿屋に来て、忉利の顔を見た。
左肩に包帯を巻いた、細身の日本人の若い男。回路の気配も魔力の匂いも、何ひとつない。
「……あれを、君が」
代行者の声は、かすれていた。
「三百年、この谷に棲みついていた死徒だ。我々代行者が、過去に二度、狩りに来て、二度とも戻らなかった。……それを、君が、一人で」
「……線を、切っただけだ」
忉利は、欠伸を噛み殺しながら言った。
「あいつが、一番、怖がってた線」
代行者の顔から、血の気が引いた。それから代行者の目が、忉利の目の、虹彩の縁の青い輪の上で止まった。長いこと、見ていた。
「……報告しなければ、ならない」
代行者は、胸の十字架を震える指で握りしめた。
「本部に。……ローマに。魔術師でもない、回路も持たぬ人間が、死徒の不死を、目で断った、と。……それは、神の御業か、それとも」
代行者は言葉を切った。その先は、口にしなかった。
青子が、忉利の前にすっと立った。
「――報告するなら、ちゃんと書きなさい」
低い声だった。
「『青と、その眼』。……魔術協会の帳簿には、もう、そう書いてあるわ。一つの件として」
代行者は青子の顔を見た。それから、その指先にほんのかすかに灯った、青い光を。
「片方に触れたら、もう片方が来るって。……ローマの偉い人たちにも、そう伝えておいて」
代行者は長いこと黙っていた。それから、小さく十字を切った。
青子に向かってなのか、忉利に向かってなのか、わからなかった。
◇
夜明けから少し経って青子が目を覚ますと、忉利が下宿屋の台所で、片手でミルを回そうとしていた。
左腕を包帯で吊ったまま、右手一本で。ミルが卓の上で、がたがたと空回りしている。
「――何してんのよ!」
「朝の一杯」
「怪我人が、何やってるのよ!」
「毎朝淹れてんだから、今朝も淹れる。……ズザナと、アンナさんの分も」
青子は大股で台所に入っていって、ミルを両手で押さえつけた。
「押さえててあげるから、回しなさい」
ごり、ごり、と。青子の両手がミルを押さえて、忉利の右手が取っ手を回す。粉をネルに落とす。
「湯は」
「……私が注ぐわ」
「細くだぞ」
「わかってるわよ」
青子は薬缶を持ち上げた。
湯が、どばっと落ちた。
「細くっつってんだろ」
「こ、これでも、細くしてるのよ!」
「糸くらい」
青子は息を止めて、薬缶の注ぎ口を睨みつけた。
湯が震えながら、細く、細く落ちていく。粉がゆっくりと膨らんだ。泡が浮いて、沈んだ。
それから、牛乳を温めて砂糖を一匙。青子が淹れた、へたくそな一杯と、へたくそなカフェオレ。
台所の戸口に、ズザナが立っていた。首筋には、傷ひとつなかった。寝間着の上からアンナのショールを羽織って、目をまんまるにしていた。
その後ろに、アンナが立っていた。目を真っ赤に腫らして。
青子は、カフェオレのカップをズザナの前にそっと置いた。
「……大人の飲み物は、大人になってから、よ」
日本語だった。通じなかった。
ズザナはカップを両手で持って一口飲み、それから少しだけ首を傾げた。いつもと味が違う、という顔だった。
それでも、全部飲み干した。それから忉利の方を見上げて、にっこりと笑った。
忉利は自分のカップの、青子の淹れた一杯を一口飲んだ。しばらく、黙っていた。
「……へたくそ」
「――っ」
「湯が暴れて、苦味が、全部出てる。……でも」
忉利は、もう一口飲んだ。
「うまい」
青子は薬缶を持ったまま固まった。それから、真っ赤な顔でそっぽを向いた。
「……ずるいって、何回、言わせるのよ」
台所の窓の外で、雪が朝の光を浴びて白く光っていた。
谷を囲む山の腹で、古い坑道の口が黒く開いていた。
その奥で、三百年、闇の中にいた鉱夫の外套の上に。
天井の隙間から、細い、細い朝の光が一筋、差し込んでいた。
シエルの小説4話一気に更新しました。
一人称書くの本当苦手です。書いてから後悔してます。
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