―――二つの時計がある。
一つは、もう止まっている。
半年前の夏の夜、ブラジルの高原の農園で、柱時計が十二回鳴り終わった時に。
もう一つは、まだ動いている。
あと少しだけ。
◇
一九九三年、二月。サントス。
世界でいちばん大きな珈琲の港。
夏だった。南半球の、二月の夏。
朝から雨が降っていた。熱帯の、重くて温かい雨。港の倉庫の赤い屋根を叩き、石畳の坂を川のように流れて、夕方には嘘のように上がり、夜になるとまた降り出す。
街じゅうが太鼓の音に満ちていた。カーニバルの季節だった。
港の近くの、古いホテルの二階。
鎧戸の窓。天井でゆっくり回る扇風機。鉄の枠の、少しだけ軋む寝台が一つ。
いつものように、一つだった。
三咲を出て二年。上野の宿で背中合わせに眠った最初の夜から、寝台はたいてい一つだった。寒い夜は抱き合って眠って、暑い夜は手だけ繋いで。唇も、何度も何度も重ねてきた。
それ以上は、まだ、だった。
去年の春、サントリーニの島じゅうが停電した夜に、青子がそう言った。
――まだ。あんたが二十歳になったら。二人とも、大人になったら。
――来年の、二月でしょ。
その夏、青子が先に二十歳になった。
七月七日。ミナス・ジェライスの、赤い土の丘の珈琲農園。
母屋の軒先で、雇われの摘み手たちがギターと太鼓で夜遅くまで歌っていた。誰もが青子の頬に、両側から口づけをしていった。この国の祝い方だ。青子の顔が赤どころではないほど、染まっていたのをよく覚えている。
夜が更けて、母屋の古い柱時計が零時を打ち始めた。
一回。二回。
十二回目の音が鳴り終わった時。
忉利は、隣に座る青子の線がゆっくりと弧を描き、小さな青い輪になって閉じるのを見た。
――閉じたぞ。
そう言うと、青子はしばらく黙って、それから自分の胸にそっと手を当てた。
――……あんたは、まだね。
――ああ。二月だ。あと、七か月。
――……織姫と、彦星みたい。
――一年に一回よか、ましだろ。
忉利はその夜、ポケットにずっと入れていたものを、黙って青子の首に掛けた。
サントリーニの崖の上の、白い路地の古い宝石屋の、隅の箱で見つけた。親指の爪ほどの、深い青の石。値段の割に少しも高価そうに見えない、小さな首飾り。
――……なに、これ。
――誕生日。
――……あんたの目の、縁の色ね。
青子は、それきり何も言わなかった。ただ、石を指先でずっと触っていた。
それから、七か月。
その二月が、来ていた。
◇
朝。
忉利が目を覚ますと、寝台の隣が空いていた。枕の上に、紙切れが一枚。
――夕方まで、帰らないから。探さないで。部屋にも、戻ってこないで。どっかで、珈琲でも飲んでなさい。
――絶対よ。
青子の、勢いのある字だった。
「……なんだよ」
忉利は紙切れを指でつまんで、天井の扇風機を見上げた。
今日が何の日か。自分でもわかっていた。
わかっていて、何も言えなかった。
◇
だから忉利は、言われたとおりに珈琲を飲みに行った。
港の通りの古い建物。石の階段を上がった先の、天井が高く床が大理石の、広い部屋。
珈琲取引所。世界じゅうの珈琲の値段が、ここで決まる。
建物の奥の試飲室に潜り込んだ。ミナスの農園の主人の紹介状があった。七十年ぶりに日本の淹れ方の珈琲を飲んだ、と泣いた神戸生まれの老人の。
白い上着の鑑定士たちが、ずらりと並んだ白い磁器のカップに、挽いた豆を入れて湯を注いでいく。浮いた粉の膜を、銀の匙で崩す。立ちのぼる香りを、深く吸い込む。それから匙で、ずずっと音を立てて啜る。口の中で転がして、吐き出す。
カップテイスティング。
忉利も隣の鑑定士の真似をして、匙を取った。啜った。舌の上で転がした。
――酸味が、尖ってる。
次のカップ。
――苦い。後から、甘い。
また、次。
――土の匂い。ミナスの、赤い土。
隣で、鑑定士の老人が眉を上げた。忉利の手元のメモを覗き込んで、それから早口のポルトガル語で何か言った。
通訳の青年が、笑いながら訳してくれた。
「――若いの。お前の舌は、うちの見習いより、いい。誰に教わった、と」
「……親父」
「どこの」
「……日本の、小さな町の、喫茶店」
老人は深く頷いた。それから、自分の帳面から紙を一枚破り、何かを書きつけて忉利に渡した。
読めなかった。通訳が言った。
「この港で、いちばんの焙煎所の、住所だそうです。――お前の親父に、土産を持って帰れ、と」
老人はもう一言何か言って、忉利の肩をばんと叩いた。通訳の青年が、にやにやしながら訳した。
「――今日、誕生日だろう、と。顔に書いてある、と。……何歳だ、と」
「……二十」
老人は大きく頷いて、白い磁器のカップを一つ、忉利の前にどんと置いた。自分のとっておきの豆だと言った。
啜った。甘かった。
砂糖も入れていないのに、蜂蜜のような丸い甘さが、舌の上にいつまでも残った。
「――二十歳は、一度きりだ、と。この味を、覚えておけ、と」
忉利は、カップを両手で包んだ。
一度きり。
この港の老人は、知らない。自分の二十歳が、今日から何百年も終わらないことを。
それでも、今日という日が一度きりなのは、本当だった。
◇
取引所を出たところの煙草屋で、絵葉書を一枚買った。港の赤い屋根の倉庫と、青い海の写真。
店先の小さな台で、鉛筆を舐めて書いた。
――二十歳になった。サントスにいる。雨。
――青子は、元気だ。おれも。
少しだけ、考えて。
――親父へ。今日の豆、いつか、焼いて持って帰る。
宛先は、三咲の商店街の外れの喫茶店。ポストに落とした。届くのは、ひと月先か、ふた月先か。
三咲の今日は、もうとっくに終わっていた。地球の反対側だった。
父は今朝、カウンターで何を淹れたのだろう、と思った。
◇
同じ頃。
ホテルの二階の部屋で、青子は寝台の上に胡座をかいていた。
膝の上に、白いネル地。脇に、桐の裁縫箱。
蓋の裏に、色の褪せた小さな紙が一枚貼ってあった。細くきれいな、少し右上がりの字で。
――ネルの縫い方。表を内側に。縫い代は、五ミリ。
三年前の春、Cafe HIKAGEのカウンターで忉利の父がこの箱を差し出した時から、ずっと貼ってあった紙だった。
会ったのは、一度きりの人の字だった。
――母さんは、言ってた。切るのは、目でできる。結ぶのは、手でやる。
――こいつの手は、まだ、結び方を知らんだろう。覚えるまで、青子ちゃんが、持っててくれ。
針に糸を通そうとした。通らなかった。
二回目。三回目。
「……っ、なんで、通らないのよ」
四回目で、通った。
最後の縫い目だった。ネルの袋の口の、針金の輪を縫い付ける最後のひと回り。
七か月のあいだ毎晩、忉利が寝息を立て始めてから寝台の隅で、窓からの街灯の明かりで少しずつ縫ってきた。
ミナスの農園の奥さんに型紙をもらった。サンパウロの布屋で、いちばん安いネル地を買った。三回、ほどいた。二回、最初から縫い直した。指に巻いた布は、もう何枚目かわからなかった。
針を刺す。引く。
――ぷつり。
「――っ、痛っ」
また、刺した。指先に、赤い玉がぷくりと膨らんだ。
青子は、それを口に含んだ。鉄の味がした。
それから、少しだけ笑った。
あいつの目なら、こんな縫い目、一瞬で全部の線が見えるのに。どこが歪んでいて、どこが詰まりすぎているのか。一目で。
――見えなくていいのよ。
――私の手で、縫うんだから。
最後のひと針を刺す。玉留めを作り、鋏で糸を切った。
ネルを両手で持って、窓の光にかざした。
不格好だった。どう見ても。
それでも、青子はそれを、胸にぎゅっと抱きしめた。
「……できた」
誰に言うでもなく、呟いた。
それから急に我に返って、時計を見た。夕方の五時を過ぎていた。
「――っ、やば、片付け……!」
◇
夕方。
雨が上がっていた。石畳の坂が夕陽を照り返して、金色に光っている。どこかの通りで、太鼓が腹に響くように鳴っていた。
忉利は、焙煎所で分けてもらった小さな麻袋を手に提げて、ホテルの階段を上った。部屋の扉の前で、止まった。
――部屋にも、戻ってこないで。
ノックをした。
「……まだ、だめ」
扉の向こうから、くぐもった声がした。
「……もう、夕方だぞ」
「……あと、五分」
何かを急いで片付けている音がした。がちゃがちゃと。それから、何か小さなものが床に落ちて転がる音。
「――っ、痛っ」
「……どうした」
「なんでもない! 指、刺しただけ!」
「……指?」
「――入ってきていいわよ!」
◇
扉を開けた。
青子が、寝台の端に座っていた。背筋をぴんと伸ばして、膝の上に両手を揃えて。その両手の指先に、小さな布切れが何か所も巻かれていた。
膝の脇に、古い桐の箱が蓋を閉じて置かれていた。蓋には、小さな梅の花が彫られている。三年前の春、Cafe HIKAGEのカウンターで父から預かった、母の裁縫箱だった。
「……座って」
忉利は言われるままに、寝台の端の、青子の隣に座った。寝台が軋んだ。
青子は、背中の後ろに隠していたものをゆっくりと取り出した。
白い布だった。手のひらに乗るくらいの、袋の形をした布。縁に、細い針金の輪が縫い込まれている。
ネルだった。
「……誕生日、おめでとう」
青子の声が、少しだけ震えていた。
「二十歳ね」
忉利はネルを受け取った。ネル地の、起毛した柔らかい手触り。
縫い目が不揃いだった。ところどころ目が詰まりすぎて、ところどころ隙間が空いて。針金の輪の縫い付けも、少しだけ傾いていた。
「……縫ったのか」
「縫ったのよ」
「いつから」
「……ミナスの、七夕の、次の日から」
七か月。
「ミナスの農園の、奥さんに、型紙、もらって。……おばさんの裁縫箱で。毎晩、あんたが寝てから、ちょっとずつ」
青子は、布の巻かれた指先を膝の上で握り込んだ。
「……へたくそでしょ」
「……ああ」
「……っ」
「へたくそだ」
忉利は、ネルを両手で持った。何気なく目を向けると、縫い目の線が見えた。
不格好で、ばらばらで、途中で何度も途切れかけて、そのたびに結び直された線。七か月分の、毎晩ほどいて結び直した跡。
けれど、どの一本も、切れていなかった。
「……使っていいのか」
「使うために、縫ったのよ」
◇
忉利は黙って、鞄から父のミルを取り出した。焙煎所で分けてもらったばかりの、サントスの豆。
挽く。ごり、ごり、と。窓の外の遠い太鼓の音の中に、豆の砕ける音が混ざった。
部屋の隅の小さな電熱器で、湯を沸かす。青子のネルに粉を落とす。湯を細く注ぐ。
粉が膨らんだ。泡が浮いて、沈んだ。
不格好な縫い目の隙間から、いつもよりほんの少しだけ速く、黒い雫が落ちていった。
一杯。忉利は、それを自分で飲んだ。
青子が、寝台の端から息を詰めて見ていた。
「……どう」
「雑味が多い」
「…………」
「縫い目から、粉が漏れてる。落ちるのが速えから、苦味も尖ってる」
「……っ」
「――でも」
忉利はカップを見下ろしたまま、もう一口飲んだ。
「うまい」
青子が顔を上げた。
「今まで飲んだ中で、たぶん、いちばん、うまい」
青子は口を開けて、閉じて、それから、寝台の上の枕を掴んで忉利の顔に投げつけた。
忉利は、カップを持っていない方の手でそれを受け止めた。
「……っ、ずるいのよ、そういうの!」
「思ったこと、言っただけだ」
「それが、ずるいって、言ってるの……!」
青子は両手で顔を覆った。布の巻かれた指の隙間から、耳が真っ赤になっているのが見えた。
◇
夜の初め、二人は港の通りの屋台で夕食を食べた。黒豆と豚肉の煮込み。揚げた芋。甘すぎる、緑色の炭酸の瓶。
通りは人で溢れていた。羽根飾りをつけた女たち。太鼓を叩く男たち。仮面をつけた子供たち。誰もが、踊りながら坂を下りていった。
青子の手を、知らない女が掴んだ。踊りの輪の中に引っ張り込もうとして。
「――え、ちょっ、私、踊れない――!」
忉利は、反対側の手を掴んだ。引っ張り合いになった。
女は、げらげら笑って手を離し、二人をまとめて輪の中に放り込んだ。
気がつくと、二人で太鼓の音の中にいた。
踊れなかった。どっちも。
ただ、人の波に揉まれて、手を繋いだままぐるぐると回って。足を踏み合って。肩をぶつけ合って。
青子が笑っていた。声を上げて。旧校舎の屋上の、夜明けの時よりも。三咲駅のホームの時よりも。ずっと大きな声で。
また、雨が降り出した。温かい、重い、熱帯の雨。
誰も、踊るのをやめなかった。二人も、やめなかった。
ずぶ濡れになって髪から雫を垂らし、ホテルの階段を駆け上がった時には、二人とも息が切れていた。
扉を閉めて、背中を扉に預けて、しばらく何も言わずに笑っていた。
笑い声が少しずつ小さくなって、止んだ。部屋の中に、雨の音だけが残った。
青子が、濡れた前髪の下から忉利を見上げていた。笑っていた顔が、少しずつ違う顔に変わっていった。
忉利は、それを見ていた。
◇
夜が来た。まだ、雨が降っていた。
鎧戸の向こうで、温かい雨が港町の屋根を叩いていた。遠くの通りで、太鼓が雨音に負けずに鳴り続けている。扇風機が、ゆっくりと回っていた。
電気は点けていなかった。窓の鎧戸の隙間から入ってくる港の灯りだけが、天井に細い縞を作っていた。
二人は、寝台の上に並んで座っていた。壁に背中を預けて。肩が触れていた。
忉利は、自分の胸に目を向けた。線が見えた。
二十年分の自分の線。前へ、前へと流れてきた線。
それがちょうど今、隣に座る青子の、半年前に閉じた小さな青い輪のすぐ脇で、ゆっくりと弧を描き始めていた。
「……青子」
「なに」
「今、閉じる」
青子が振り向いた。忉利は、自分の線を見ていた。
流れていたものが曲がる。戻ってくる。半年前に閉じた青子の輪のすぐ隣へ。三年と少し前の冬の、旧校舎の、あの結び目の場所へ。
二つの輪が並んだ。それから、そっと重なった。
結び目が、ほんの少しだけきゅっと締まった気がした。
音はなかった。光もなかった。ただ、二本の線が同じ場所で静かに止まった。
「……閉じた」
忉利は言った。
青子は、何も言わなかった。ただ、忉利の手を探して、握った。指と指が絡まった。
二人の手のひらの間に、何か小さな硬いものが挟まった。
金色のボタンだった。三咲高校の校章の刻まれた、ブレザーの第一ボタン。焦げた糸の切れ端が、まだくっついている。
「……持ってきたのかよ」
「持ってきたのよ」
青子は、握った手に力を込めた。
「上野の宿の夜も、握ってたでしょ。……今夜も、握ってたかったの」
◇
しばらく、どちらも何も言わなかった。
雨の音と。太鼓の音と。扇風機の羽根の回る音と。それから、自分の心臓の音。隣の、青子の心臓の音。
見なくても、わかった。速かった。どっちも。
「……忉利」
青子が言った。前を向いたまま、壁に背中を預けたまま。
「……約束、覚えてる?」
「……サントリーニの」
「……そう」
青子の声が、少しだけ掠れた。
「あんたが、二十歳になったら。……二人とも、大人になったら」
「…………」
「……今日よ」
忉利は、青子の横顔を見た。
港の灯りの縞が、青子の頬に落ちていた。首元で、青い石の首飾りが小さく光っていた。七夕の夜、ミナスの農園で柱時計が鳴り終わった後に、忉利が黙ってその首に掛けたもの。
頬が赤かった。唇を少しだけ噛んで、目が潤んでいた。
いつもの怒ったような顔の、その奥で、怖がっていた。
それから、それと同じくらい、待っていた。
「……青子」
「……なに」
「無理、すんなよ」
青子が、ようやく忉利の方を向いた。
「……無理なんか、してないわよ」
「指、震えてるぞ」
「――っ、あんたも、でしょ」
忉利は絡めた指を見下ろした。確かに、震えていた。自分の指も。
二人で、少しだけ笑った。
「……ねえ」
青子が、絡めた指に少しだけ力を込めた。
「私たち、もう、歳、取らないのよね。……二人とも、今日から」
「……ああ」
「十年後も。百年後も。……ずっと、この顔」
「……そうだな」
「……怖くない?」
忉利は少しだけ考えた。それから、正直に言った。
「怖え」
「…………」
「でも、お前が隣で、同じ顔してんなら。……たぶん、何百年でも、平気だ」
青子は何も言えなかった。唇を噛んで、それから、忉利の肩に額をこつんとぶつけた。
「……ばか」
「知ってる」
笑った息が、ふっと途切れて。
◇
忉利は、目を閉じた。
扉を閉じた。最初の蝶番から、最後の蝶番まで。全部。
線が、消えた。
ホテルの部屋を編み上げている線も。寝台の鉄の枠の線も。窓硝子の線も。雨粒の一粒一粒の線も。港の灯りの線も。遠くの太鼓の音の線も。それから、隣の青子の線も。
全部。
見たいものは、線ではなかった。
目を開けた。
青子が、いた。線のない世界で。ただの目で見る世界で。
ただ、青子だけがそこにいた。
「……今、扉、閉じてる?」
青子が囁いた。
「……全部、閉じてる」
「……ほんとに?」
「ほんとに」
青子は忉利の顔を見上げた。それから、小さく頷いた。
◇
唇が重なった。
何度も重ねてきた唇だった。上野の宿の、鼻がぶつかったぎこちない一回目から。旅の途中の何百回も。サントリーニの停電の、まだ、と止まった夜も。
今夜は、止まらなかった。
青子の指が、いつものように忉利のシャツの胸元を掴んだ。
それから、その指がゆっくりとほどけて、シャツのいちばん上のボタンに触れた。布を巻いた不器用な指先が、小さなボタンをうまく外せずに何度も滑った。
「……っ、外れない」
「……ゆっくりでいい」
「わかってるわよ……っ」
忉利は、その手に自分の手をそっと重ねた。一緒に外した。
一つ。二つ。
青子の手のひらが、シャツの合わせ目から忉利の胸に触れた。旧校舎の夜に金色の獣の鉤爪が貫いた、あの古い傷跡の上に。
ためらうように止まって、それから、そっと撫でた。撫でるでもなく。ただ、そこにあることを確かめるように。
とくん、とくん、と。手のひらの下で、ちゃんと動いていた。
「……動いてる」
青子が囁いた。
「……ああ」
「……よかった」
小さな声だった。ほとんど泣きそうな。
その手のひらが、少しだけ横へずれた。左の肩へ。一年あまり前、スロヴァキアの谷の坑道で、死徒の爪が抉った痕へ。そこも、確かめるように、そっと撫でた。
忉利は、青子の頬に手を当てた。熱かった。それから、耳の後ろへ。長い髪の中へ、指を差し入れて。
青子の首元の、青い石の首飾りの細い鎖に、指先が触れた。
鎖は外さなかった。そのままでいい、と思った。青子も、外さなかった。
青子の長い髪をまとめていた紐を、ほどいた。濡れた髪が、肩から背中へさらさらと落ちていった。
「……見ないでよ」
青子が小さな声で言った。
「見てる」
「……っ、見ないでって、言ってるの」
「線じゃなくて、お前を見てんだよ。……ずっと、見たかった」
青子は、何も言い返せなかった。両腕で自分を抱くようにして、それから、ゆっくりとその腕をほどいた。ほどいた腕が、忉利の首に回された。
「……忉利」
「ん」
「……あんたで、よかった」
息だけの声だった。
忉利は答えなかった。答える代わりに、もう一度唇を重ねた。
◇
扇風機が、ゆっくりと回っていた。鎧戸の向こうで、温かい雨が港町の屋根を叩き続けていた。遠くの通りでは、カーニバルの太鼓が夜通し鳴り止まなかった。
部屋の中のどんな音も、雨がそっと隠していった。
息の音も。名前を呼ぶ声も。呼び返す声も。何度も。
線の見えない、ただの目で。ただの手で。ただの、二十歳の二人で。
握りしめたままの手のひらの中で、金色のボタンが二人分の体温で、すっかり温まっていた。
二つの閉じた輪が、同じ結び目の上で静かに重なり合っている。
そのことだけを、忉利の閉じた目の奥の扉が、ずっと覚えていた。
◇
目を覚ますと、鎧戸の隙間の光が、もう白くなかった。黄色かった。昼に近い色だった。
雨は上がっていた。港の方から、貨物船の汽笛が長く低く聞こえてきた。天井では、扇風機がゆうべと同じ速さでゆっくりと回っていた。
忉利は天井を見上げたまま、しばらく動かなかった。動けなかった、の方が正しかった。
腕が重い。腰が重い。瞼まで重い。執行者に囲まれた岬の夜の翌朝でも、ここまでではなかった気がする。
左腕の上に、青子の頭が乗っていた。白いシーツにくるまって、長い髪を忉利の胸の上にまで広げて。首元で、青い石が昼の光を受けて小さく光っていた。
布を巻いた指先が、シーツの端から覗いている。その指が、まだ金色のボタンを握っていた。
「……起きてんだろ」
「……起きてない」
くぐもった声だった。
「起きてんじゃねえか」
「起きてないの。……動けないの」
青子は目を閉じたまま、忉利の胸に額を押しつけた。
「……足に、力が入らない」
「……おれもだ」
「あんたも?」
「腰が、死んでる」
青子はぷっと吹き出して、それから「……痛っ」と顔をしかめた。笑うと、どこかに響くらしかった。
◇
枕元の腕時計を見ると、十一時を回っていた。
「……昼じゃねえか」
「昼ね」
「何時に寝たんだ、おれたち」
「……知らないわよ。外が明るくなってたのは、覚えてる」
窓の外で、どこかの通りの太鼓がまた鳴り始めた。カーニバルは、もう二日目だった。
「……起きるか」
「やだ」
「腹、減ったろ」
「減ったけど、やだ」
青子は、忉利の腕を枕にしたまま、シーツを肩まで引き上げた。
「今日は、一日、ここにいるの。……二十歳の、最初の日なんだから」
「おれのな。お前は半年前だろ」
「二人とも、の、最初の日よ」
忉利は、何も言い返さなかった。言い返す元気がなかった。
◇
しばらく、二人はただ天井の扇風機を見ていた。羽根が、一回、二回と回る。
「……ねえ」
青子が、天井を見たまま言った。
「ゆうべ。……目、閉じてるって、言ったわよね」
「言った」
「全部、閉じてるって」
「最初はな」
青子がゆっくりと、首だけこちらに向けた。
「……最初は?」
「…………」
「最初は、って、何よ」
忉利は、天井を見たまま少しだけ黙って、それから、ぼそりと言った。
「……お前、ずっと震えてたろ」
「――っ」
「指だけじゃなかった。肩も、背中も。……がちがちだった」
青子の顔が、見る見るうちに赤くなっていった。
「だから、途中で、ちょっとだけ開けた。どこが強張ってんのか、見ようと思って」
「…………」
「線が、震えてるとこがあった。何か所か。……だから、そこを、ほぐした」
「ほ、ほぐしたって……」
「手で。軽く。……肩凝りと、同じ要領だ」
「同じじゃないわよ!!」
青子が跳ね起きようとして「――っ」と呻き、また枕に沈んだ。
忉利は天井の扇風機を見上げたまま、深い、深い溜息をついた。
「……そしたら、お前」
「言わないで」
「面白いくらい――」
「言わないでって言ってるでしょ!!」
枕が、顔に降ってきた。
忉利は避けなかった。避ける元気も、なかった。枕の下から、くぐもった声でぼやいた。
「……ほぐすたびに、それだぞ。何回目かで、数えんのやめた」
「――――っ!!!」
「おかげで、こっちは、寝かせてもらえなかった」
「わ、私のせいみたいに言わないでよ!」
「お前のせいだろ」
「あんたが、ほぐすからでしょ!!」
「震えてたら、ほぐすだろ」
「ほぐさなくていいの!!」
青子は、シーツを頭まで引き上げて、その中に潜り込んでしまった。シーツの山の中から、声がした。
「……ずるい。目、使うなんて。反則よ、反則」
「使うなとは、言われてねえ」
「言わなくてもわかるでしょ!」
「わかんねえよ。初めてなんだから」
シーツの山が、ぴたりと止まった。それから、目のところだけそろそろと覗いた。
「……ちょっとだけ、って言ったわね」
「言った」
「……何回?」
「…………」
「――――何回開けたのよ!!」
「……覚えてねえ」
「覚えてないくらい開けたの!?」
「お前が、震えるからだろ」
「震えさせたの、あんたでしょ!!」
二つ目の枕が、飛んできた。
◇
枕の応酬に、二人ともすぐに力尽きた。寝台の上で並んで仰向けになり、息を切らしていた。
太鼓の音が、近くなったり遠くなったりしていた。
「……あんただって」
青子が天井を見たまま、ぼそりと言った。
「全然、やめなかったじゃない」
「……お前が、やめんなって言った」
「言ってない」
「言った。三回」
「――言ってないわよ!」
青子は言い返そうとして、口を開けたまま止まった。
覚えが、あった。
「…………」
「…………」
「……っ、今の、なし。聞かなかったことにしなさい」
「無理だろ」
「なしったら、なし!」
青子は、またシーツを頭から被った。今度は、忉利の腕を引っ張って一緒に。
白いシーツの中が薄暗くなった。昼の光が、布越しにぼんやりと透けていた。
すぐ目の前に、青子の顔があった。耳まで真っ赤だった。
「……次は」
青子が小さな声で言った。
「次は、閉じたままでいなさいよ」
「……次?」
「――――っ!!」
青子は、自分の口を両手で塞いだ。布を巻いた指の隙間から、言葉にならない声が漏れた。
忉利は笑った。声を出して。腰に響いて、「……っ、痛え」と呻きながら。
シーツの中で、青子の額がごつんと忉利の額にぶつかった。
「……笑わないでよ」
「笑ってねえ」
「笑ってるわよ」
「……お前が、可笑しいこと言うからだ」
青子は何も言い返せずに目を伏せて、それから、小さく笑った。
◇
昼過ぎ。
さすがに腹が鳴って、忉利は寝台から這い出した。這い出す、という言葉がいちばん近かった。
「……どこ行くのよ」
シーツの中から腕が一本伸びてきて、忉利の手首を掴んだ。
「珈琲。……あと、下の屋台で、何か買ってくる」
「すぐ戻る?」
「すぐ戻る」
青子は少しだけ迷ってから、手を離した。
窓辺で湯を沸かす。鎧戸を半分だけ開ける。昼の、潮の匂いのする風が入ってきた。
サントスの豆を、父のミルで挽く。ごり、ごり、と。青子のネルに粉を落とし、湯を細く注ぐ。
不格好な縫い目の隙間から、ゆうべと同じように少しだけ速く、黒い雫が落ちていく。
振り返ると、青子はシーツにくるまったまま、寝台の上からじっとこちらを見ていた。布を巻いた指先で、金色のボタンを転がしながら。
「……何、見てんだよ」
「ネル。……ちゃんと、使えてるなって」
「使えてる。雑味は多いけどな」
「一言、多いのよ」
カップを二つ、寝台まで運ぶ。
青子は起き上がろうとして、「……っ」と顔をしかめた。忉利が背中に枕を差し込んでやると、ようやく壁にもたれて座れた。
二人で、寝台の上で珈琲を啜った。
苦かった。後から、甘かった。
「……ねえ」
青子が、カップを両手で包んだまま言った。
「今日、どこにも行かないからね」
「……ああ」
「明日も、たぶん、行けないからね」
「…………」
「誰のせいだと思ってるのよ」
「……お前が、震えるから」
「――っ、もう、その話は、終わり!」
青子はカップを置いて、忉利の肩に額をこつんとぶつけた。そのまま、動かなくなった。
窓の外で、世界でいちばん大きな珈琲の港が、昼の光の中でカーニバルの二日目を始めていた。
二十歳の、二月の昼だった。
この先、何百年も、この顔のまま。こういう昼を、何度でも迎える。
忉利は、もう一口飲んだ。
不格好なネルで淹れた珈琲は、やっぱり、少しだけ雑味が多かった。
それでも。
今まで飲んだ中で、いちばん、うまかった。
多分セーフです。
そんな露骨に書いてないので。
多分、セーフです。
単純に、どんな話が見たいですか?
-
とりあえずイチャイチャ
-
シリアスな話
-
他作品のキャラとの絡み
-
FGOコラボ(隈乃温泉殺人事件)
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2015年の時計塔