夜明けの色を見る眼   作:にんら

39 / 39
ここまで読んでる方にはいないと思いますが、原作の青子しか認めねぇッ!という方は見ないほうがいいです。今回は内容が内容なので。


二十歳の雨

 ―――二つの時計がある。

 

 一つは、もう止まっている。

 

 半年前の夏の夜、ブラジルの高原の農園で、柱時計が十二回鳴り終わった時に。

 

 もう一つは、まだ動いている。

 

 あと少しだけ。

 

 

◇

 

 

 一九九三年、二月。サントス。

 

 世界でいちばん大きな珈琲の港。

夏だった。南半球の、二月の夏。

 

 朝から雨が降っていた。熱帯の、重くて温かい雨。港の倉庫の赤い屋根を叩き、石畳の坂を川のように流れて、夕方には嘘のように上がり、夜になるとまた降り出す。

 

 街じゅうが太鼓の音に満ちていた。カーニバルの季節だった。

 

 港の近くの、古いホテルの二階。

 

 鎧戸の窓。天井でゆっくり回る扇風機。鉄の枠の、少しだけ軋む寝台が一つ。

 

 いつものように、一つだった。

 

 三咲を出て二年。上野の宿で背中合わせに眠った最初の夜から、寝台はたいてい一つだった。寒い夜は抱き合って眠って、暑い夜は手だけ繋いで。唇も、何度も何度も重ねてきた。

 

 それ以上は、まだ、だった。

 

 去年の春、サントリーニの島じゅうが停電した夜に、青子がそう言った。

 

 ――まだ。あんたが二十歳になったら。二人とも、大人になったら。

 

 ――来年の、二月でしょ。

 

 その夏、青子が先に二十歳になった。

 

 七月七日。ミナス・ジェライスの、赤い土の丘の珈琲農園。

 

 母屋の軒先で、雇われの摘み手たちがギターと太鼓で夜遅くまで歌っていた。誰もが青子の頬に、両側から口づけをしていった。この国の祝い方だ。青子の顔が赤どころではないほど、染まっていたのをよく覚えている。

 

 夜が更けて、母屋の古い柱時計が零時を打ち始めた。

 

 一回。二回。

 

 十二回目の音が鳴り終わった時。

 

 忉利は、隣に座る青子の線がゆっくりと弧を描き、小さな青い輪になって閉じるのを見た。

 

 ――閉じたぞ。

 

 そう言うと、青子はしばらく黙って、それから自分の胸にそっと手を当てた。

 

 ――……あんたは、まだね。

 

 ――ああ。二月だ。あと、七か月。

 

 ――……織姫と、彦星みたい。

 

 ――一年に一回よか、ましだろ。

 

 忉利はその夜、ポケットにずっと入れていたものを、黙って青子の首に掛けた。

 

 サントリーニの崖の上の、白い路地の古い宝石屋の、隅の箱で見つけた。親指の爪ほどの、深い青の石。値段の割に少しも高価そうに見えない、小さな首飾り。

 

 ――……なに、これ。

 

 ――誕生日。

 

 ――……あんたの目の、縁の色ね。

 

 青子は、それきり何も言わなかった。ただ、石を指先でずっと触っていた。

 

 それから、七か月。

 

 その二月が、来ていた。

 

 

◇

 

 

 朝。

 

 忉利が目を覚ますと、寝台の隣が空いていた。枕の上に、紙切れが一枚。

 

 ――夕方まで、帰らないから。探さないで。部屋にも、戻ってこないで。どっかで、珈琲でも飲んでなさい。

 

 ――絶対よ。

 

 青子の、勢いのある字だった。

 

「……なんだよ」

 

 忉利は紙切れを指でつまんで、天井の扇風機を見上げた。

 

 今日が何の日か。自分でもわかっていた。

 

 わかっていて、何も言えなかった。

 

 

◇

 

 

 だから忉利は、言われたとおりに珈琲を飲みに行った。

 

 港の通りの古い建物。石の階段を上がった先の、天井が高く床が大理石の、広い部屋。

 

 珈琲取引所。世界じゅうの珈琲の値段が、ここで決まる。

 

 建物の奥の試飲室に潜り込んだ。ミナスの農園の主人の紹介状があった。七十年ぶりに日本の淹れ方の珈琲を飲んだ、と泣いた神戸生まれの老人の。

 

 白い上着の鑑定士たちが、ずらりと並んだ白い磁器のカップに、挽いた豆を入れて湯を注いでいく。浮いた粉の膜を、銀の匙で崩す。立ちのぼる香りを、深く吸い込む。それから匙で、ずずっと音を立てて啜る。口の中で転がして、吐き出す。

 

 カップテイスティング。

 

 忉利も隣の鑑定士の真似をして、匙を取った。啜った。舌の上で転がした。

 

 ――酸味が、尖ってる。

 

 次のカップ。

 

 ――苦い。後から、甘い。

 

 また、次。

 

 ――土の匂い。ミナスの、赤い土。

 

 隣で、鑑定士の老人が眉を上げた。忉利の手元のメモを覗き込んで、それから早口のポルトガル語で何か言った。

 

 通訳の青年が、笑いながら訳してくれた。

 

「――若いの。お前の舌は、うちの見習いより、いい。誰に教わった、と」

 

「……親父」

 

「どこの」

 

「……日本の、小さな町の、喫茶店」

 

 老人は深く頷いた。それから、自分の帳面から紙を一枚破り、何かを書きつけて忉利に渡した。

 

 読めなかった。通訳が言った。

 

「この港で、いちばんの焙煎所の、住所だそうです。――お前の親父に、土産を持って帰れ、と」

 

 老人はもう一言何か言って、忉利の肩をばんと叩いた。通訳の青年が、にやにやしながら訳した。

 

「――今日、誕生日だろう、と。顔に書いてある、と。……何歳だ、と」

 

「……二十」

 

 老人は大きく頷いて、白い磁器のカップを一つ、忉利の前にどんと置いた。自分のとっておきの豆だと言った。

 

 啜った。甘かった。

 

 砂糖も入れていないのに、蜂蜜のような丸い甘さが、舌の上にいつまでも残った。

 

「――二十歳は、一度きりだ、と。この味を、覚えておけ、と」

 

 忉利は、カップを両手で包んだ。

 

 一度きり。

 

 この港の老人は、知らない。自分の二十歳が、今日から何百年も終わらないことを。

 

 それでも、今日という日が一度きりなのは、本当だった。

 

 

◇

 

 

 取引所を出たところの煙草屋で、絵葉書を一枚買った。港の赤い屋根の倉庫と、青い海の写真。

 

 店先の小さな台で、鉛筆を舐めて書いた。

 

 ――二十歳になった。サントスにいる。雨。

 

 ――青子は、元気だ。おれも。

 

 少しだけ、考えて。

 

 ――親父へ。今日の豆、いつか、焼いて持って帰る。

 

 宛先は、三咲の商店街の外れの喫茶店。ポストに落とした。届くのは、ひと月先か、ふた月先か。

 

 三咲の今日は、もうとっくに終わっていた。地球の反対側だった。

 

 父は今朝、カウンターで何を淹れたのだろう、と思った。

 

 

◇

 

 

 同じ頃。

 

 ホテルの二階の部屋で、青子は寝台の上に胡座をかいていた。

 

 膝の上に、白いネル地。脇に、桐の裁縫箱。

 

 蓋の裏に、色の褪せた小さな紙が一枚貼ってあった。細くきれいな、少し右上がりの字で。

 

 ――ネルの縫い方。表を内側に。縫い代は、五ミリ。

 

 三年前の春、Cafe HIKAGEのカウンターで忉利の父がこの箱を差し出した時から、ずっと貼ってあった紙だった。

 

 会ったのは、一度きりの人の字だった。

 

 ――母さんは、言ってた。切るのは、目でできる。結ぶのは、手でやる。

 

 ――こいつの手は、まだ、結び方を知らんだろう。覚えるまで、青子ちゃんが、持っててくれ。

 

 針に糸を通そうとした。通らなかった。

 

 二回目。三回目。

 

「……っ、なんで、通らないのよ」

 

 四回目で、通った。

 

 最後の縫い目だった。ネルの袋の口の、針金の輪を縫い付ける最後のひと回り。

 

 七か月のあいだ毎晩、忉利が寝息を立て始めてから寝台の隅で、窓からの街灯の明かりで少しずつ縫ってきた。

 

 ミナスの農園の奥さんに型紙をもらった。サンパウロの布屋で、いちばん安いネル地を買った。三回、ほどいた。二回、最初から縫い直した。指に巻いた布は、もう何枚目かわからなかった。

 

 針を刺す。引く。

 

 ――ぷつり。

 

「――っ、痛っ」

 

 また、刺した。指先に、赤い玉がぷくりと膨らんだ。

 

 青子は、それを口に含んだ。鉄の味がした。

 

 それから、少しだけ笑った。

 

 あいつの目なら、こんな縫い目、一瞬で全部の線が見えるのに。どこが歪んでいて、どこが詰まりすぎているのか。一目で。

 

 ――見えなくていいのよ。

 

 ――私の手で、縫うんだから。

 

 最後のひと針を刺す。玉留めを作り、鋏で糸を切った。

 

 ネルを両手で持って、窓の光にかざした。

 

 不格好だった。どう見ても。

 

 それでも、青子はそれを、胸にぎゅっと抱きしめた。

 

「……できた」

 

 誰に言うでもなく、呟いた。

 

 それから急に我に返って、時計を見た。夕方の五時を過ぎていた。

 

「――っ、やば、片付け……!」

 

 

◇

 

 

 夕方。

 

 雨が上がっていた。石畳の坂が夕陽を照り返して、金色に光っている。どこかの通りで、太鼓が腹に響くように鳴っていた。

 

 忉利は、焙煎所で分けてもらった小さな麻袋を手に提げて、ホテルの階段を上った。部屋の扉の前で、止まった。

 

 ――部屋にも、戻ってこないで。

 

 ノックをした。

 

「……まだ、だめ」

 

 扉の向こうから、くぐもった声がした。

 

「……もう、夕方だぞ」

 

「……あと、五分」

 

 何かを急いで片付けている音がした。がちゃがちゃと。それから、何か小さなものが床に落ちて転がる音。

 

「――っ、痛っ」

 

「……どうした」

 

「なんでもない! 指、刺しただけ!」

 

「……指?」

 

「――入ってきていいわよ!」

 

 

◇

 

 

 扉を開けた。

 

 青子が、寝台の端に座っていた。背筋をぴんと伸ばして、膝の上に両手を揃えて。その両手の指先に、小さな布切れが何か所も巻かれていた。

 

 膝の脇に、古い桐の箱が蓋を閉じて置かれていた。蓋には、小さな梅の花が彫られている。三年前の春、Cafe HIKAGEのカウンターで父から預かった、母の裁縫箱だった。

 

「……座って」

 

 忉利は言われるままに、寝台の端の、青子の隣に座った。寝台が軋んだ。

 

 青子は、背中の後ろに隠していたものをゆっくりと取り出した。

 

 白い布だった。手のひらに乗るくらいの、袋の形をした布。縁に、細い針金の輪が縫い込まれている。

 

 ネルだった。

 

「……誕生日、おめでとう」

 

 青子の声が、少しだけ震えていた。

 

「二十歳ね」

 

 忉利はネルを受け取った。ネル地の、起毛した柔らかい手触り。

 

 縫い目が不揃いだった。ところどころ目が詰まりすぎて、ところどころ隙間が空いて。針金の輪の縫い付けも、少しだけ傾いていた。

 

「……縫ったのか」

 

「縫ったのよ」

 

「いつから」

 

「……ミナスの、七夕の、次の日から」

 

 七か月。

 

「ミナスの農園の、奥さんに、型紙、もらって。……おばさんの裁縫箱で。毎晩、あんたが寝てから、ちょっとずつ」

 

 青子は、布の巻かれた指先を膝の上で握り込んだ。

 

「……へたくそでしょ」

 

「……ああ」

 

「……っ」

 

「へたくそだ」

 

 忉利は、ネルを両手で持った。何気なく目を向けると、縫い目の線が見えた。

 

 不格好で、ばらばらで、途中で何度も途切れかけて、そのたびに結び直された線。七か月分の、毎晩ほどいて結び直した跡。

 

 けれど、どの一本も、切れていなかった。

 

「……使っていいのか」

 

「使うために、縫ったのよ」

 

 

◇

 

 

 忉利は黙って、鞄から父のミルを取り出した。焙煎所で分けてもらったばかりの、サントスの豆。

 

 挽く。ごり、ごり、と。窓の外の遠い太鼓の音の中に、豆の砕ける音が混ざった。

 

 部屋の隅の小さな電熱器で、湯を沸かす。青子のネルに粉を落とす。湯を細く注ぐ。

 

 粉が膨らんだ。泡が浮いて、沈んだ。

 

 不格好な縫い目の隙間から、いつもよりほんの少しだけ速く、黒い雫が落ちていった。

 

 一杯。忉利は、それを自分で飲んだ。

 

 青子が、寝台の端から息を詰めて見ていた。

 

「……どう」

 

「雑味が多い」

 

「…………」

 

「縫い目から、粉が漏れてる。落ちるのが速えから、苦味も尖ってる」

 

「……っ」

 

「――でも」

 

 忉利はカップを見下ろしたまま、もう一口飲んだ。

 

「うまい」

 

 青子が顔を上げた。

 

「今まで飲んだ中で、たぶん、いちばん、うまい」

 

 青子は口を開けて、閉じて、それから、寝台の上の枕を掴んで忉利の顔に投げつけた。

 

 忉利は、カップを持っていない方の手でそれを受け止めた。

 

「……っ、ずるいのよ、そういうの!」

 

「思ったこと、言っただけだ」

 

「それが、ずるいって、言ってるの……!」

 

 青子は両手で顔を覆った。布の巻かれた指の隙間から、耳が真っ赤になっているのが見えた。

 

 

◇

 

 

 夜の初め、二人は港の通りの屋台で夕食を食べた。黒豆と豚肉の煮込み。揚げた芋。甘すぎる、緑色の炭酸の瓶。

 

 通りは人で溢れていた。羽根飾りをつけた女たち。太鼓を叩く男たち。仮面をつけた子供たち。誰もが、踊りながら坂を下りていった。

 

 青子の手を、知らない女が掴んだ。踊りの輪の中に引っ張り込もうとして。

 

「――え、ちょっ、私、踊れない――!」

 

 忉利は、反対側の手を掴んだ。引っ張り合いになった。

 

 女は、げらげら笑って手を離し、二人をまとめて輪の中に放り込んだ。

 

 気がつくと、二人で太鼓の音の中にいた。

 

 踊れなかった。どっちも。

 

 ただ、人の波に揉まれて、手を繋いだままぐるぐると回って。足を踏み合って。肩をぶつけ合って。

 

 青子が笑っていた。声を上げて。旧校舎の屋上の、夜明けの時よりも。三咲駅のホームの時よりも。ずっと大きな声で。

 

 また、雨が降り出した。温かい、重い、熱帯の雨。

 

 誰も、踊るのをやめなかった。二人も、やめなかった。

 

 ずぶ濡れになって髪から雫を垂らし、ホテルの階段を駆け上がった時には、二人とも息が切れていた。

 

 扉を閉めて、背中を扉に預けて、しばらく何も言わずに笑っていた。

 

 笑い声が少しずつ小さくなって、止んだ。部屋の中に、雨の音だけが残った。

 

 青子が、濡れた前髪の下から忉利を見上げていた。笑っていた顔が、少しずつ違う顔に変わっていった。

 

 忉利は、それを見ていた。

 

 

◇

 

 

 夜が来た。まだ、雨が降っていた。

 

 鎧戸の向こうで、温かい雨が港町の屋根を叩いていた。遠くの通りで、太鼓が雨音に負けずに鳴り続けている。扇風機が、ゆっくりと回っていた。

 

 電気は点けていなかった。窓の鎧戸の隙間から入ってくる港の灯りだけが、天井に細い縞を作っていた。

 

 二人は、寝台の上に並んで座っていた。壁に背中を預けて。肩が触れていた。

 

 忉利は、自分の胸に目を向けた。線が見えた。

 

 二十年分の自分の線。前へ、前へと流れてきた線。

 

 それがちょうど今、隣に座る青子の、半年前に閉じた小さな青い輪のすぐ脇で、ゆっくりと弧を描き始めていた。

 

「……青子」

 

「なに」

 

「今、閉じる」

 

 青子が振り向いた。忉利は、自分の線を見ていた。

 

 流れていたものが曲がる。戻ってくる。半年前に閉じた青子の輪のすぐ隣へ。三年と少し前の冬の、旧校舎の、あの結び目の場所へ。

 

 二つの輪が並んだ。それから、そっと重なった。

 

 結び目が、ほんの少しだけきゅっと締まった気がした。

 

 音はなかった。光もなかった。ただ、二本の線が同じ場所で静かに止まった。

 

「……閉じた」

 

 忉利は言った。

 

 青子は、何も言わなかった。ただ、忉利の手を探して、握った。指と指が絡まった。

 

 二人の手のひらの間に、何か小さな硬いものが挟まった。

 

 金色のボタンだった。三咲高校の校章の刻まれた、ブレザーの第一ボタン。焦げた糸の切れ端が、まだくっついている。

 

「……持ってきたのかよ」

 

「持ってきたのよ」

 

 青子は、握った手に力を込めた。

 

「上野の宿の夜も、握ってたでしょ。……今夜も、握ってたかったの」

 

 

◇

 

 

 しばらく、どちらも何も言わなかった。

 

 雨の音と。太鼓の音と。扇風機の羽根の回る音と。それから、自分の心臓の音。隣の、青子の心臓の音。

 

 見なくても、わかった。速かった。どっちも。

 

「……忉利」

 

 青子が言った。前を向いたまま、壁に背中を預けたまま。

 

「……約束、覚えてる?」

 

「……サントリーニの」

 

「……そう」

 

 青子の声が、少しだけ掠れた。

 

「あんたが、二十歳になったら。……二人とも、大人になったら」

 

「…………」

 

「……今日よ」

 

 忉利は、青子の横顔を見た。

 

 港の灯りの縞が、青子の頬に落ちていた。首元で、青い石の首飾りが小さく光っていた。七夕の夜、ミナスの農園で柱時計が鳴り終わった後に、忉利が黙ってその首に掛けたもの。

 

 頬が赤かった。唇を少しだけ噛んで、目が潤んでいた。

 

 いつもの怒ったような顔の、その奥で、怖がっていた。

 

 それから、それと同じくらい、待っていた。

 

「……青子」

 

「……なに」

 

「無理、すんなよ」

 

 青子が、ようやく忉利の方を向いた。

 

「……無理なんか、してないわよ」

 

「指、震えてるぞ」

 

「――っ、あんたも、でしょ」

 

 忉利は絡めた指を見下ろした。確かに、震えていた。自分の指も。

 

 二人で、少しだけ笑った。

 

「……ねえ」

 

 青子が、絡めた指に少しだけ力を込めた。

 

「私たち、もう、歳、取らないのよね。……二人とも、今日から」

 

「……ああ」

 

「十年後も。百年後も。……ずっと、この顔」

 

「……そうだな」

 

「……怖くない?」

 

 忉利は少しだけ考えた。それから、正直に言った。

 

「怖え」

 

「…………」

 

「でも、お前が隣で、同じ顔してんなら。……たぶん、何百年でも、平気だ」

 

 青子は何も言えなかった。唇を噛んで、それから、忉利の肩に額をこつんとぶつけた。

 

「……ばか」

 

「知ってる」

 

 笑った息が、ふっと途切れて。

 

 

◇

 

 

 忉利は、目を閉じた。

 

 扉を閉じた。最初の蝶番から、最後の蝶番まで。全部。

 

 線が、消えた。

 

 ホテルの部屋を編み上げている線も。寝台の鉄の枠の線も。窓硝子の線も。雨粒の一粒一粒の線も。港の灯りの線も。遠くの太鼓の音の線も。それから、隣の青子の線も。

 

 全部。

 

 見たいものは、線ではなかった。

 

 目を開けた。

 

 青子が、いた。線のない世界で。ただの目で見る世界で。

 

 ただ、青子だけがそこにいた。

 

「……今、扉、閉じてる?」

 

 青子が囁いた。

 

「……全部、閉じてる」

 

「……ほんとに?」

 

「ほんとに」

 

 青子は忉利の顔を見上げた。それから、小さく頷いた。

 

 

◇

 

 

 唇が重なった。

 

 何度も重ねてきた唇だった。上野の宿の、鼻がぶつかったぎこちない一回目から。旅の途中の何百回も。サントリーニの停電の、まだ、と止まった夜も。

 

 今夜は、止まらなかった。

 

 青子の指が、いつものように忉利のシャツの胸元を掴んだ。

 

 それから、その指がゆっくりとほどけて、シャツのいちばん上のボタンに触れた。布を巻いた不器用な指先が、小さなボタンをうまく外せずに何度も滑った。

 

「……っ、外れない」

 

「……ゆっくりでいい」

 

「わかってるわよ……っ」

 

 忉利は、その手に自分の手をそっと重ねた。一緒に外した。

 

 一つ。二つ。

 

 青子の手のひらが、シャツの合わせ目から忉利の胸に触れた。旧校舎の夜に金色の獣の鉤爪が貫いた、あの古い傷跡の上に。

 

 ためらうように止まって、それから、そっと撫でた。撫でるでもなく。ただ、そこにあることを確かめるように。

 

 とくん、とくん、と。手のひらの下で、ちゃんと動いていた。

 

「……動いてる」

 

 青子が囁いた。

 

「……ああ」

 

「……よかった」

 

 小さな声だった。ほとんど泣きそうな。

 

 その手のひらが、少しだけ横へずれた。左の肩へ。一年あまり前、スロヴァキアの谷の坑道で、死徒の爪が抉った痕へ。そこも、確かめるように、そっと撫でた。

 

 忉利は、青子の頬に手を当てた。熱かった。それから、耳の後ろへ。長い髪の中へ、指を差し入れて。

 

 青子の首元の、青い石の首飾りの細い鎖に、指先が触れた。

 

 鎖は外さなかった。そのままでいい、と思った。青子も、外さなかった。

 

 青子の長い髪をまとめていた紐を、ほどいた。濡れた髪が、肩から背中へさらさらと落ちていった。

 

「……見ないでよ」

 

 青子が小さな声で言った。

 

「見てる」

 

「……っ、見ないでって、言ってるの」

 

「線じゃなくて、お前を見てんだよ。……ずっと、見たかった」

 

 青子は、何も言い返せなかった。両腕で自分を抱くようにして、それから、ゆっくりとその腕をほどいた。ほどいた腕が、忉利の首に回された。

 

「……忉利」

 

「ん」

 

「……あんたで、よかった」

 

 息だけの声だった。

 

 忉利は答えなかった。答える代わりに、もう一度唇を重ねた。

 

 

◇

 

 

 扇風機が、ゆっくりと回っていた。鎧戸の向こうで、温かい雨が港町の屋根を叩き続けていた。遠くの通りでは、カーニバルの太鼓が夜通し鳴り止まなかった。

 

 部屋の中のどんな音も、雨がそっと隠していった。

 

 息の音も。名前を呼ぶ声も。呼び返す声も。何度も。

 

 線の見えない、ただの目で。ただの手で。ただの、二十歳の二人で。

 

 握りしめたままの手のひらの中で、金色のボタンが二人分の体温で、すっかり温まっていた。

 

 二つの閉じた輪が、同じ結び目の上で静かに重なり合っている。

 

 そのことだけを、忉利の閉じた目の奥の扉が、ずっと覚えていた。

 

 

◇

 

 

 目を覚ますと、鎧戸の隙間の光が、もう白くなかった。黄色かった。昼に近い色だった。

 

 雨は上がっていた。港の方から、貨物船の汽笛が長く低く聞こえてきた。天井では、扇風機がゆうべと同じ速さでゆっくりと回っていた。

 

 忉利は天井を見上げたまま、しばらく動かなかった。動けなかった、の方が正しかった。

 

 腕が重い。腰が重い。瞼まで重い。執行者に囲まれた岬の夜の翌朝でも、ここまでではなかった気がする。

 

 左腕の上に、青子の頭が乗っていた。白いシーツにくるまって、長い髪を忉利の胸の上にまで広げて。首元で、青い石が昼の光を受けて小さく光っていた。

 

 布を巻いた指先が、シーツの端から覗いている。その指が、まだ金色のボタンを握っていた。

 

「……起きてんだろ」

 

「……起きてない」

 

 くぐもった声だった。

 

「起きてんじゃねえか」

 

「起きてないの。……動けないの」

 

 青子は目を閉じたまま、忉利の胸に額を押しつけた。

 

「……足に、力が入らない」

 

「……おれもだ」

 

「あんたも?」

 

「腰が、死んでる」

 

 青子はぷっと吹き出して、それから「……痛っ」と顔をしかめた。笑うと、どこかに響くらしかった。

 

 

◇

 

 

 枕元の腕時計を見ると、十一時を回っていた。

 

「……昼じゃねえか」

 

「昼ね」

 

「何時に寝たんだ、おれたち」

 

「……知らないわよ。外が明るくなってたのは、覚えてる」

 

 窓の外で、どこかの通りの太鼓がまた鳴り始めた。カーニバルは、もう二日目だった。

 

「……起きるか」

 

「やだ」

 

「腹、減ったろ」

 

「減ったけど、やだ」

 

 青子は、忉利の腕を枕にしたまま、シーツを肩まで引き上げた。

 

「今日は、一日、ここにいるの。……二十歳の、最初の日なんだから」

 

「おれのな。お前は半年前だろ」

 

「二人とも、の、最初の日よ」

 

 忉利は、何も言い返さなかった。言い返す元気がなかった。

 

 

◇

 

 

 しばらく、二人はただ天井の扇風機を見ていた。羽根が、一回、二回と回る。

 

「……ねえ」

 

 青子が、天井を見たまま言った。

 

「ゆうべ。……目、閉じてるって、言ったわよね」

 

「言った」

 

「全部、閉じてるって」

 

「最初はな」

 

 青子がゆっくりと、首だけこちらに向けた。

 

「……最初は?」

 

「…………」

 

「最初は、って、何よ」

 

 忉利は、天井を見たまま少しだけ黙って、それから、ぼそりと言った。

 

「……お前、ずっと震えてたろ」

 

「――っ」

 

「指だけじゃなかった。肩も、背中も。……がちがちだった」

 

 青子の顔が、見る見るうちに赤くなっていった。

 

「だから、途中で、ちょっとだけ開けた。どこが強張ってんのか、見ようと思って」

 

「…………」

 

「線が、震えてるとこがあった。何か所か。……だから、そこを、ほぐした」

 

「ほ、ほぐしたって……」

 

「手で。軽く。……肩凝りと、同じ要領だ」

 

「同じじゃないわよ!!」

 

 青子が跳ね起きようとして「――っ」と呻き、また枕に沈んだ。

 

 忉利は天井の扇風機を見上げたまま、深い、深い溜息をついた。

 

「……そしたら、お前」

 

「言わないで」

 

「面白いくらい――」

 

「言わないでって言ってるでしょ!!」

 

 枕が、顔に降ってきた。

 

 忉利は避けなかった。避ける元気も、なかった。枕の下から、くぐもった声でぼやいた。

 

「……ほぐすたびに、それだぞ。何回目かで、数えんのやめた」

 

「――――っ!!!」

 

「おかげで、こっちは、寝かせてもらえなかった」

 

「わ、私のせいみたいに言わないでよ!」

 

「お前のせいだろ」

 

「あんたが、ほぐすからでしょ!!」

 

「震えてたら、ほぐすだろ」

 

「ほぐさなくていいの!!」

 

 青子は、シーツを頭まで引き上げて、その中に潜り込んでしまった。シーツの山の中から、声がした。

 

「……ずるい。目、使うなんて。反則よ、反則」

 

「使うなとは、言われてねえ」

 

「言わなくてもわかるでしょ!」

 

「わかんねえよ。初めてなんだから」

 

 シーツの山が、ぴたりと止まった。それから、目のところだけそろそろと覗いた。

 

「……ちょっとだけ、って言ったわね」

 

「言った」

 

「……何回?」

 

「…………」

 

「――――何回開けたのよ!!」

 

「……覚えてねえ」

 

「覚えてないくらい開けたの!?」

 

「お前が、震えるからだろ」

 

「震えさせたの、あんたでしょ!!」

 

 二つ目の枕が、飛んできた。

 

 

◇

 

 

 枕の応酬に、二人ともすぐに力尽きた。寝台の上で並んで仰向けになり、息を切らしていた。

 

 太鼓の音が、近くなったり遠くなったりしていた。

 

「……あんただって」

 

 青子が天井を見たまま、ぼそりと言った。

 

「全然、やめなかったじゃない」

 

「……お前が、やめんなって言った」

 

「言ってない」

 

「言った。三回」

 

「――言ってないわよ!」

 

 青子は言い返そうとして、口を開けたまま止まった。

 

 覚えが、あった。

 

「…………」

 

「…………」

 

「……っ、今の、なし。聞かなかったことにしなさい」

 

「無理だろ」

 

「なしったら、なし!」

 

 青子は、またシーツを頭から被った。今度は、忉利の腕を引っ張って一緒に。

 

 白いシーツの中が薄暗くなった。昼の光が、布越しにぼんやりと透けていた。

 

 すぐ目の前に、青子の顔があった。耳まで真っ赤だった。

 

「……次は」

 

 青子が小さな声で言った。

 

「次は、閉じたままでいなさいよ」

 

「……次?」

 

「――――っ!!」

 

 青子は、自分の口を両手で塞いだ。布を巻いた指の隙間から、言葉にならない声が漏れた。

 

 忉利は笑った。声を出して。腰に響いて、「……っ、痛え」と呻きながら。

 

 シーツの中で、青子の額がごつんと忉利の額にぶつかった。

 

「……笑わないでよ」

 

「笑ってねえ」

 

「笑ってるわよ」

 

「……お前が、可笑しいこと言うからだ」

 

 青子は何も言い返せずに目を伏せて、それから、小さく笑った。

 

 

◇

 

 

 昼過ぎ。

 

 さすがに腹が鳴って、忉利は寝台から這い出した。這い出す、という言葉がいちばん近かった。

 

「……どこ行くのよ」

 

 シーツの中から腕が一本伸びてきて、忉利の手首を掴んだ。

 

「珈琲。……あと、下の屋台で、何か買ってくる」

 

「すぐ戻る?」

 

「すぐ戻る」

 

 青子は少しだけ迷ってから、手を離した。

 

 窓辺で湯を沸かす。鎧戸を半分だけ開ける。昼の、潮の匂いのする風が入ってきた。

 

 サントスの豆を、父のミルで挽く。ごり、ごり、と。青子のネルに粉を落とし、湯を細く注ぐ。

 

 不格好な縫い目の隙間から、ゆうべと同じように少しだけ速く、黒い雫が落ちていく。

 

 振り返ると、青子はシーツにくるまったまま、寝台の上からじっとこちらを見ていた。布を巻いた指先で、金色のボタンを転がしながら。

 

「……何、見てんだよ」

 

「ネル。……ちゃんと、使えてるなって」

 

「使えてる。雑味は多いけどな」

 

「一言、多いのよ」

 

 カップを二つ、寝台まで運ぶ。

 

 青子は起き上がろうとして、「……っ」と顔をしかめた。忉利が背中に枕を差し込んでやると、ようやく壁にもたれて座れた。

 

 二人で、寝台の上で珈琲を啜った。

 

 苦かった。後から、甘かった。

 

「……ねえ」

 

 青子が、カップを両手で包んだまま言った。

 

「今日、どこにも行かないからね」

 

「……ああ」

 

「明日も、たぶん、行けないからね」

 

「…………」

 

「誰のせいだと思ってるのよ」

 

「……お前が、震えるから」

 

「――っ、もう、その話は、終わり!」

 

 青子はカップを置いて、忉利の肩に額をこつんとぶつけた。そのまま、動かなくなった。

 

 窓の外で、世界でいちばん大きな珈琲の港が、昼の光の中でカーニバルの二日目を始めていた。

 

 二十歳の、二月の昼だった。

 

 この先、何百年も、この顔のまま。こういう昼を、何度でも迎える。

 

 忉利は、もう一口飲んだ。

 

 不格好なネルで淹れた珈琲は、やっぱり、少しだけ雑味が多かった。

 

 それでも。

 

 今まで飲んだ中で、いちばん、うまかった。




多分セーフです。

そんな露骨に書いてないので。

多分、セーフです。

単純に、どんな話が見たいですか?

  • とりあえずイチャイチャ
  • シリアスな話
  • 他作品のキャラとの絡み
  • FGOコラボ(隈乃温泉殺人事件)
  • 2015年の時計塔
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

炭鉱のカナリア(作者:にんら)(原作:月姫)

―――カナリアは、歌わない。▼ カナリアは、鳴かない。▼ カナリアは、誰も、温めない。▼ カナリアは、誰にも、温められない。▼ カナリアは、誰よりも先に、死ぬ。▼ 炭鉱の底で、見えない毒をいちばん最初に吸い込んで、小さな体を痙攣させて、落ちる。その死を合図に、人は毒の在処を知り、刃を振るう。▼ 冷たい坑道の底で、誰の手のひらにも包まれずに。誰の手のひらも、温…


総合評価:43/評価:-.--/連載:6話/更新日時:2026年10月16日(金) 20:31 小説情報

殺さずの剣客、そして人斬りの君(作者:ただの物書き)(原作:Fate/)

「人殺しはいけないでござるよ」▼ 男は、笑いながらそう言った。▼ 戯言だ。妄言だ。▼ 聞くに堪えない甘言だ。▼ けれど、それでも……。▼ あの時——人を斬らずに済んだことに、"私"は安堵した。▼


総合評価:1981/評価:8.54/連載:36話/更新日時:2026年09月14日(月) 00:55 小説情報

父をたずねて三千里(作者:くまも)(原作:月姫)

某掲示板で連載していた、アルクェイドと志貴の息子が現代を旅する話。アルクェイド√の後日譚。▼リメイク版の月姫を舞台としていますが、旧作の要素も含んでおります。▼※オリキャラあり、オリジナル設定マシマシ、月姫リメイクの重大なネタバレありなので、それらがNGな方はブラウザバックをお願いします。▼アルクェイド√のhappyendが見たいし、そもそも冒頭のプロローグ…


総合評価:1640/評価:9.15/連載:35話/更新日時:2026年10月11日(日) 23:19 小説情報

錬鉄と鍛造の贋作者(作者:英雄に憧れた一般魔導師)(原作:杖と剣のウィストリア)

あるはずの無い記憶、何処か遠い記憶。求めて失えど、それらだけは焼き付いて離れる事なんて無い、鮮烈に残る記憶。▼理想に裏切られた赤い外套纏いし錬鉄の英雄▼業を絶つ無念無想の刃を目指した鍛冶師▼そんな二人の力と技術を得て、ドワーフに鍛えられた鍛造技法を以て、彼は▼魔法の世界で剣を打つ。▼これは、杖と剣が交わる物語に贋作者が交差する。


総合評価:2724/評価:8.65/連載:22話/更新日時:2026年08月18日(火) 23:00 小説情報

距離を置きたいだけなんだけど(作者:ろしでれ)(原作:時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん)

▼転生した先は、異世界ではなかった。▼慣れ親しんだ現代日本――そして、中学三年の春に思い出した。▼ここは、前世で読んだ事のある『時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん』の世界だと。▼ハーレム系な主人公が苦手な僕、真田伊織は、原作主人公・久世政近と少しずつ距離を置くことを決意するはず、だったんだけど………


総合評価:3919/評価:7.88/連載:23話/更新日時:2026年09月20日(日) 16:04 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>