夜明けの色を見る眼   作:にんら

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線を断つ眼

 ―――スナークを狩る者は、最後にそれがブージャムであったと知る。

 

 知った者は静かに、跡形もなく消え失せる。

 

 百年以上前に英国の数学者が書いた、奇妙な詩。誰もスナークが何なのかを知らない。見た者は、いない。見た者は消えてしまったから。

 

 だから、スナークとは正体がわからない、ということそのものの名前だ。

 

 正体を暴かれた時、スナークはスナークでなくなる。

 

 

◇

 

 

 オルゴールが鳴っていた。

 

 調子の外れた、ぜんまいの伸びきったような旋律。園内のすべてのスピーカーから、錆びた鉄骨の一本一本から、同じ音が滲み出してくる。

 

「――走って!」

 

 青子が叫んだ。

 

 三人は、燃え落ちる鏡の館を背に、中央広場の方へ駆け出した。

 

 回るメリーゴーランドの木馬が、一頭、また一頭と台座から首を引き抜き始めていた。

 

 木の蹄が石畳を打つ。極彩色の塗料を滴らせて、首の折れた木馬が台座から飛び降りる。木の目玉が瞬きをした。

 

「蒼崎。あの馬は生きているのか」

 

「生きてないわよ! 生きてないけど、動くの!」

 

 石畳の道の先、売店の並ぶ一角から、小さな影がわらわらと湧き出してきた。

 

 こんがりと焼き色のついた丸い頭。干しぶどうの目。砂糖衣の口。子供の背丈ほどの、焼き菓子の兵隊。赤い砂糖の軍服を着て、棒のような腕に焼いた小麦の銃剣を構えている。

 

 パン工場の看板に描かれていた、マスコットのパンの兵隊だった。

 

 何十体も。

 

 甘ったるい、焦げた匂いを撒き散らしながら、隊列を組んで押し寄せてくる。

 

 青子は舌打ちをひとつして、右手を振り抜いた。

 

 スナップ。

 

 先頭の三体が粉々に砕けて、パンくずのように四散した。

 

 後ろの列がパンくずを踏み越えて進んでくる。

 

 スナップ。スナップ。

 

 青い礫が隊列に穴を穿つ。穿った穴を、後ろの列がすぐに埋める。

 

 青子は自分の指先を見た。

 

 鏡の館で掻き乱された回路は、まだ痺れていた。一発撃つたびに、腕の内側が焼けるように痛む。

 

 長くはもたない。

 

 

◇

 

 

 忉利は走りながら、右目を細めていた。

 

 パンの兵隊の一体一体の頭の上から。

 

 線が、一本ずつ伸びていた。

 

 細く、黒く、まっすぐに。空へ向かって。操り人形の糸のように。

 

 焼き菓子の生地の線でも、砂糖衣の線でもなかった。この兵隊を、兵隊として動かしている糸。「パンが歩いて銃剣を振るう」という、ありえない筋書きを無理やりこの世界に縫いつけている、一本の糸。

 

 何十体分の糸が、全部、空の同じ方へ伸びていた。

 

 雲の裂け目のずっと高いところへ。

 

 見上げようとした瞬間、右目の奥に焼けた針が突き立った。

 

 空の方を見ていられなかった。明るすぎた。

 

「――日景!」

 

 草十郎の声。

 

 横から、一体の兵隊が隊列を外れて、忉利に飛びかかってきていた。

 

 焼いた小麦の銃剣が、まっすぐに喉へ。

 

 避けられなかった。

 

 糸を、見た。

 

「――切れろ」

 

 ぷつり。

 

 兵隊の頭の上の糸が断ち切れた。

 

 兵隊が跳びかかった姿勢のまま崩れた。赤い砂糖の軍服が、ただの焦げた砂糖の欠片に。銃剣が、ただの硬くなったパンの棒に。丸い頭が干しぶどうごと、ころりと石畳に転がって。

 

 ただの古い、焦げたパンの山になった。

 

「……っ、ぐ……!」

 

 遅れて痛みが来た。

 

 目の奥で何かが、ぶちりと千切れる。忉利は膝をつき、額を石畳に押しつけて声にならない呻きを漏らした。

 

 また、何かが抜けた。

 

 今度は、はっきりとわかった。

 

 遠くで店のドアベルが、からん、と鳴った気がした。

 

 その音が。

 

 いつもより、ほんの少しだけ遠かった。

 

「……なんだよ、今の」

 

 呟いた。

 

 答える者はいなかった。

 

 忉利は顔を上げた。

 

 パンの山を見た。

 

 息を呑んだ。

 

 緑の霧が、パンの山の上を這っていた。

 

 霧の中から細い、細い、新しい糸が一本、空から垂れてきて。

 

 パンの山に触れた。

 

 焦げた砂糖の欠片が、かたかたと震え始めた。パンの棒が転がって、元の位置に戻ろうとしていた。

 

「……おい」

 

 切れた糸が、また繋がろうとしていた。

 

 霧が濃くなるほどに。

 

「――日景、立て」

 

 草十郎が忉利の腕を掴んで引き起こした。

 

「あれはまた立つぞ」

 

「……見てた」

 

「なら、走れ」

 

 

◇

 

 

 園の中央、噴水広場。

 

 枯れていたはずの噴水から、水の代わりにどろりと甘い、金色の蜜のようなものが噴き上がっていた。

 

 押し寄せてくるのは兵隊だけではなかった。

 

 売店の屋根の上から、白塗りの顔が覗いていた。

 

 ピエロだった。

 

 遊園地の入り口の色褪せた看板に描かれていた、あの。大きな赤い鼻。裂けた笑顔。首から下が、ばね仕掛けのように、ありえない長さに伸びていく。

 

 伸びた首がしなって。

 

 白い顔が、屋根の上から、青子の真横へ一瞬で飛んできた。

 

「――っ!」

 

 青子は身体を捻った。ピエロの裂けた口が、青子の頬を掠めた。

 

 至近距離で撃った。

 

 白い顔が弾け飛ぶ。伸びた首がばねのように縮んで、屋根の上に引き戻されていく。

 

 その背後で、草十郎が崩れかけた売店の庇を両手で引き剥がしていた。トタンの板を盾のように構えて、青子の背中に回り込んでくる兵隊の銃剣を受け止める。がん、がん、と銃剣がトタンを叩く。

 

 人間の業ではなかった。

 

 けれど、忉利の目を奪ったのはそれではなかった。

 

 青子だった。

 

 噴水の縁に立ち、押し寄せる怪物たちを、手から放つ光で次々と粉砕していく、幼馴染の姿。

 

 冷たかった。

 

 鋭かった。

 

 そして、ひどく綺麗だった。

 

 夜そのものを従えているかのように。

 

 十年以上、隣で見てきた、どの顔とも違った。

 

 知らなかった。

 

 こいつがずっと、一人で、こういう夜の中に立っていたことを。

 

 

◇

 

 

 噴水の中から、何かがせり上がってきた。

 

 巨大な、白い猫の顔だった。

 

 遊園地のマスコット。ゲートの上の看板の、片目の塗装が剥げたあの猫。

 

 それが蜜を滴らせて、家ほどの大きさで、噴水の底から、ゆっくりと身体を引き上げてくる。

 

 片目だけの塗装の目が、瞬きをした。

 

 口が耳まで裂けた。

 

「――でかすぎでしょ、あれ……!」

 

 青子は両手を突き出して撃った。

 

 スナップ。スナップ。スナップ。

 

 猫の白い顔に、青い礫が次々と当たる。当たって弾ける。

 

 弾けた跡が蜜で埋まっていく。

 

 効いていなかった。

 

「蒼崎、あれは何を嫌がるんだ?」

 

 草十郎がトタンの盾を構えたまま訊いた。

 

「……わかんないわよ、そんなの!」

 

「さっき、あの猫は燃えている館の方には来なかった」

 

 青子の手が止まった。

 

「兵隊も、館の火の近くでは動きが鈍っていた。……火が嫌いなんじゃないか?」

 

 青子は振り返った。

 

 燃え落ちた鏡の館が、まだ炎の柱を上げていた。

 

 その周りだけ、緑の霧が薄かった。

 

「……油よ」

 

 青子の声が掠れた。

 

「月の油。……油なんだから、火に弱いんだわ。あの霧も、あの霧で動いてるものも」

 

「なら、あの猫を火に入れればいい」

 

「どうやって! 家くらいあるのよ、あれ!」

 

 忉利は、燃えている鏡の館を見ていた。

 

 右目を細めて。

 

 館はもう、ほとんど骨組みだけになっていた。燃え残った柱が四本、梁を一本支えている。その梁の上に、燃えさかる屋根の半分が斜めに引っかかっていた。

 

 屋根と梁の間に。梁と柱の間に。

 

 線が見えた。

 

 建物を、建物として立たせている、繋ぎ目の線。釘と木の。梁と柱の。焼けて、細くなって、今にも切れそうにぴんと張りつめている。

 

 どこを切ればどちらへ倒れるのか。

 

 見えた。

 

「――あの猫、館の前まで引っ張ってこい」

 

 忉利は言った。

 

「館の西側の、柱の前。……そこに入った瞬間に、屋根を落とす」

 

 青子と草十郎が、同時に忉利を見た。

 

「……落とすって、あんた」

 

「柱と梁の繋ぎ目を切る。……屋根が西に倒れる。燃えたまま」

 

 青子は忉利の顔を見た。

 

 血の流れ続ける右目を。

 

「……あと何回、それ、やれるのよ」

 

「知らねえ」

 

「知らねえじゃないでしょ……!」

 

「――来るぞ」

 

 草十郎の声で、三人は同時に噴水の方を向いた。

 

 巨大な猫が、蜜の中から完全に這い出していた。

 

 

◇

 

 

 草十郎が走った。

 

 トタンの盾を投げ捨てて。猫の真正面へ。

 

「――静希くん!?」

 

 猫の片目が草十郎を追った。

 

 草十郎は猫の鼻先を掠めるように走り抜けた。石畳の上を、低く、速く。山の斜面で獣の群れの間を抜ける時と、同じ走り方で。

 

 猫が前脚を振り下ろした。

 

 石畳が砕けた。草十郎はもう、そこにはいなかった。

 

 猫の脇を抜けて、振り返りもせずに燃える館の方へ。

 

 猫が追った。

 

 家ほどの身体が蜜を撒き散らしながら、石畳を揺らして。

 

 青子が横から撃った。

 

 スナップ。スナップ。猫の顔ではなく、猫の足元の石畳を。

 

 砕けた石が猫の前脚をすくう。猫の巨体がよろめく。よろめいた方向を、青子の礫が次々と押していく。

 

 館の方へ。

 

 西側の柱の前へ。

 

 草十郎が、燃える館の西の柱のすぐ脇をすり抜けた。

 

 猫の巨体がそれを追って、柱の前に飛び込んだ。

 

「――忉利っ!!」

 

 青子の声。

 

 忉利は、見ていた。

 

 燃える柱と焼けた梁の、繋ぎ目の線。

 

 張りつめて震えている、一本の線。

 

 ――切ったら。

 

 また、何かが抜ける。

 

 それでも。

 

「――落ちろ」

 

 ぷつり。

 

 梁が柱から外れた。

 

 燃えさかる屋根の半分が、西へ傾いた。

 

 ゆっくりと。

 

 それから、一気に。

 

 猫の真上に。

 

 炎の塊が崩れ落ちた。

 

 ――――――!!

 

 猫の身体が火に包まれた。

 

 蜜が燃えた。

 

 緑の霧が燃えた。

 

 白い毛皮に見えていたものが、ぱちぱちと音を立てて燃え上がり、その下から、ただの、塗装の剥げた、木と布の巨大な張りぼての骨組みが覗いた。

 

 猫が声のない悲鳴を上げて、のたうった。

 

 のたうちながら崩れていった。

 

 燃え尽きて灰の山になるまで。

 

 

◇

 

 

 忉利は、石畳の上に倒れていた。

 

 右目の奥で何かが、ぐらぐらと煮えていた。視界の右半分が赤い靄に覆われていた。

 

 遠くで店のドアベルが鳴った気がした。

 

 さっきより、また少し遠かった。

 

「――忉利!」

 

 青子が駆け寄ってきた。

 

 しゃがみ込んで、忉利の顔を両手で掴んだ。

 

「……ばか。……ばか……!」

 

「……燃えたろ」

 

「燃えたわよ! 燃えたけど……!」

 

 青子の手が震えていた。

 

 指先に忉利の血がついていた。

 

「……何なのよ、その目。……何なのよ」

 

「……さっき言ったろ。昔から、見えんだよ」

 

「そういうことじゃない……!」

 

 青子は忉利の顔を見下ろしていた。

 

 怒った顔だった。

 

 怒った顔の、目の縁が赤かった。

 

「……蒼崎」

 

 草十郎が二人の傍らに立っていた。

 

 燃え尽きた猫の灰の山を見ていた。

 

 その灰の山の上に。

 

 緑の霧が、また這い寄ってきていた。

 

「猫はもう立たないな。……でも、霧はまた来る」

 

 草十郎は園の奥を見た。

 

 メリーゴーランドの木馬が、また台座から降りてきていた。パンの兵隊が隊列を組み直していた。売店の屋根の上に、白塗りの顔が二つ、三つと増えていた。

 

 それだけではなかった。

 

 観覧車の脇の潰れたハンバーガーショップが。

 

 建物ごと、動いていた。

 

 ぎし、ぎし、と土台を軋ませて。看板のハンバーガーの絵が、ぱくり、と口を開けて。

 

「……霧が濃くなってる」

 

 青子が低い声で言った。

 

「濃くなるほど、あいつらはでかく、強くなる。……園そのものも、ねじれて広がってく」

 

「隠れる場所はあるか」

 

「……ある。スナークは、遊びのあるものしか、化け物にできないの。遊び心のない、ただの箱。ただの道具。……そういう場所なら」

 

 青子は立ち上がった。

 

 園の東の端の一角を指さした。

 

 遊園地の事務所。飾り気のない、コンクリートの灰色の平屋。

 

「あそこよ」

 

 

◇

 

 

 事務所の中は暗かった。

 

 錆びたスチールの机。倒れたファイル棚。壁に、色褪せたパン工場の出荷予定表。

 

 三人は受付のカウンターの下に、身を寄せ合って座り込んでいた。

 

 外でオルゴールが鳴り続けていた。

 

 時々、何かが事務所の前を通り過ぎていく音がした。木の蹄。焦げた砂糖の足音。建物が軋む音。

 

 どれも事務所の中には入ってこなかった。

 

「……月の油。フラットスナーク」

 

 青子が膝を抱えて、小さな声で言った。

 

「有珠の母親から受け継いだ、三つの奇跡の一つ。……とびきり古くて、とびきり性格の悪いプロイよ」

 

「プロイ」

 

「有珠の魔術。……童話を形にする魔術。マザーグースとか、そういう古い物語を」

 

 青子は指を一本立てた。

 

「一つ。スナークは、捨てられたもの、忘れられたものに、童話の命を吹き込んで操る。霧が濃くなるほど、強く、大きく。……最初は兵隊くらいだったのが、今は建物が動いてる」

 

 二本目。

 

「二つ。童話の化け物には、童話の筋書きの外からの攻撃は効かない。伝承防御っていうの。……私の魔弾が猫に効かなかったのは、それ」

 

「火は効いた」

 

「油だからよ。……月の油は、油。燃える。それは、あいつの童話の中にもちゃんと書いてあることだから」

 

 三本目。

 

「三つ。スナークの本体はどこかに隠れてる。……でも、隠れきることはできないの。スナークはあの物語の主題だから。主題はいつも、ページの中にいなきゃいけない。……つまり、私たちの見えるところに、必ずいる」

 

「見えるところに」

 

「見えるところに。……でも、見えてるだけじゃわからない。スナークは、正体がわからない、ってことそのものだから」

 

 青子は指を下ろした。

 

「四つ目。……正体を見抜けば。そこにあったら、おかしいもの。それが、本体。正体を暴かれたスナークは、童話の鎧が剥がれる」

 

「剥がれたら」

 

「撃てる。……私の魔弾が届く」

 

 草十郎は黙って聞いていた。

 

 それから、隣の忉利を見た。

 

「日景。……さっき、兵隊の糸が空に伸びてるって言っていたな」

 

「……ああ」

 

 忉利は右目を押さえたまま言った。

 

「兵隊も、猫も、ピエロも。……全部、糸が空の方に伸びてた。同じ方に」

 

「空のどこだ」

 

「……わかんねえ。見上げると目が焼ける。明るすぎて」

 

 青子が顔を上げた。

 

「……明るすぎる?」

 

「雲の裂け目のずっと上の方。……眩しくて見てらんねえ」

 

 青子は何か言いかけて、口をつぐんだ。

 

 考えていた。

 

 明るすぎる。空の上。見えるところに、必ずいる。

 

 けれど、まだ繋がらなかった。

 

 

◇

 

 

 ちりん、と。

 

 事務所の割れた窓の外で、鈴の音がした。

 

 三人は同時に息を止めた。

 

 窓の外に。

 

 何かが浮いていた。

 

 灰色の卵だった。

 

 鈍色の、手作りのイースターエッグ。表面に細い線で、扉の絵が描かれていた。それから、細かな文字で何かの唄が。

 

 最初は手のひらほどの大きさだった。

 

 見ている間に膨らんでいった。

 

 両手で抱えるほどに。それから、ひと抱えに。

 

 直径一メートル近く。

 

 卵は窓の割れ目を、音もなくすり抜けて。

 

 事務所の中に入ってきた。

 

 カウンターの真上に。

 

 草十郎の頭の上に。

 

 ぴたりと止まった。

 

 卵の中から、かすかに音がしていた。

 

 ちく、たく、ちく、たく。

 

 時計の針の音。

 

 それから、細い、細い歌声。

 

 女王を讃える、古い唄。

 

「――目を離さないで!」

 

 青子が叫んだ。

 

「静希くん、それから目を離しちゃだめ!」

 

「わかった」

 

 草十郎は頭の上の卵を見上げた。

 

 見上げたまま動かなかった。

 

「……スクラッチ・ダンプティ」

 

 青子の声が震えていた。

 

「有珠の卵。……目を離すと落ちる。落ちたら、割れて、中から呪いが出る。五感を全部奪って、生きたまま石膏の像にする呪い。……しかも、見てるだけでもだめなの。あの唄が最後まで終わったら、卵の扉が開いて、中に引きずり込まれる」

 

「……見ていても、見ていなくても、だめなのか」

 

「そうよ!」

 

「そうか」

 

 草十郎は卵を見上げたまま、少しだけ考えた。

 

「なら、唄が終わる前に終わらせればいい」

 

「……簡単に言わないでよ」

 

 

◇

 

 

 忉利は卵を見ていた。

 

 右目を細めて。

 

 卵と草十郎の目の間に。

 

 線が張っていた。

 

 細く、白く、ぴんとまっすぐに。草十郎の目から、卵の殻の真ん中の、扉の絵の中心まで。

 

 視線、だった。

 

 見ている、ということが、そのまま一本の糸になって、卵を空中に吊り下げていた。

 

「……青子」

 

「なに」

 

「静希の目と卵の間に、糸が張ってる。……たぶん、あれが目を離さねえ、ってことなんだろ」

 

「切ったら」

 

「目を離したのと同じだ。……落ちる」

 

 青子は息を呑んだ。

 

「――絶対切っちゃだめよ」

 

「切らねえよ」

 

 卵の上の何もない空中から、場違いに軽薄な声が降ってきた。

 

「――いやー、気づいちゃったッスか、そこの流血の兄さん」

 

 青い駒鳥が、割れた窓枠にとまっていた。

 

「マイ天使の卵は、見てるうちは落ちないッス。最後まで唄わせてやってほしいッス。……こんな褒め殺したい間抜け、そうはいないッスからねえ」

 

「――ロビン!」

 

「おいら、伝言係ッスから! 失礼するッス!」

 

 駒鳥はばさりと、夜の中へ飛び去っていった。

 

 

◇

 

 

 事務所を出て、三人は園の出口を目指した。

 

 草十郎は頭の上の卵から目を離さなかった。前を見ずに歩いた。

 

 青子が草十郎の袖を掴んで引いた。忉利が反対側の袖を掴んで、足元の段差を声で知らせた。

 

「右、段差。……三歩先、水たまり。……左、兵隊が一体倒れてる。跨げ」

 

「わかった」

 

 跨いだ。

 

 倒れた兵隊の上に、緑の霧が這い寄っていた。糸が、また垂れてきていた。

 

 卵の中で唄が進んでいく。

 

 女王を讃える唄。何番まであるのかわからない。

 

 出口のゲートが見えた。

 

 錆びた鉄のゲート。

 

 くぐった。

 

 その先に。

 

 またゲートがあった。

 

 同じ、錆びた鉄のゲート。

 

 くぐった。

 

 またゲートがあった。

 

 くぐった。

 

 また。

 

 また。

 

 また。

 

「……何よ、これ」

 

 青子が足を止めた。

 

 振り返ると、さっきくぐったはずのゲートが何枚も、何十枚も、夜の奥へ連なっていた。

 

 前を見ると、同じゲートが何十枚も、夜の奥へ。

 

 門の先に門。その先に、また門。

 

 何マイルも、何マイルも。

 

 忉利は右目を細めた。

 

 ゲートとゲートを繋ぐ線が見えた。

 

 一枚目から二枚目へ。二枚目から三枚目へ。

 

 そして、何十枚目かの夜の奥の、見えないゲートから。

 

 一枚目へ。

 

 輪になっていた。

 

「……出らんねえ」

 

 忉利は低く言った。

 

「ゲートが輪になってる。……くぐっても、くぐっても、最初のに戻る」

 

「――っ、切れないの、その輪!」

 

「切ったら、たぶん、ゲートが一枚消えるだけだ。……輪の根っこはここじゃねえ」

 

 輪の糸の一本一本が。

 

 やはり空へ伸びていた。

 

 

◇

 

 

 ゲートの輪を外れて、園の外周へ。

 

 鉄柵があった。

 

 三年前の、閉園の時に張られた、古い一重の鉄柵のはずだった。

 

 今は、何重にも、何重にも連なっていた。

 

 見ているそばから、また一重、地面から音もなく生えてきた。

 

 遊園地そのものが、じわじわと膨らんでいた。

 

「……静希くん。忉利」

 

 青子が鉄柵の前で振り返った。

 

 指先に光を灯していた。細く、弱く。

 

「この柵なら、私の残りの魔力で一か所だけぶち抜ける。……二人とも、そこから逃げて」

 

「お前は」

 

「私は残るわ。……有珠とのごっこ遊びは、私が始めたんだもの。ここで私が逃げたら、あいつは町まで、この霧を持ってくる」

 

「――ふざけんな」

 

 忉利の声が低かった。

 

「置いてけるかよ」

 

「あんたはもう、目、使えないでしょ!」

 

「使えねえなら、使えねえなりにいるだけだ」

 

 青子が何か言い返そうとした。

 

 その前に。

 

「蒼崎」

 

 草十郎が言った。

 

 頭の上の卵から目を離さずに。

 

「まだそれだけの力が残っているなら、逃げるのに使うより戦おう。……俺も手伝うから」

 

 青子は口を開けたまま固まった。

 

「俺は魔術のことはわからない。でも、蒼崎は本体を見つければいいって言っただろう。……なら、三人で探せばいいんだ」

 

「……っ、あんたたちねえ」

 

 青子の声が震えた。

 

 怒っているのか、泣きそうなのか、自分でもわからなかった。

 

「……ほんと、どいつもこいつも」

 

 

◇

 

 

「――おかしいもの、なのよ」

 

 鉄柵に背中を預けて、青子は園内を見渡した。

 

「スナークの本体は、そこにあったらおかしいもの。……この遊園地の中で、あるはずのないもの」

 

 回るメリーゴーランド。首を伸ばすピエロ。蜜を噴く噴水。パンの兵隊。歩くハンバーガーショップ。空中に浮いた歌う卵。無限に続くゲート。増え続ける鉄柵。

 

「……全部おかしいじゃない」

 

 青子は頭を抱えた。

 

「おかしいものしかないじゃないの……!」

 

 忉利は右目を細めた。

 

 痛みで、視界が、ほとんど赤かった。

 

 それでも。

 

 今度は目を逸らさなかった。

 

 遊園地のあちこちから。メリーゴーランドから。ピエロから。兵隊から。ゲートの輪から。増え続ける鉄柵から。

 

 無数の細い、黒い糸が、夜空へ向かって伸びていた。

 

 何百本、何千本という糸が、夜空の一点に向かって引き絞られていた。

 

 眩しかった。

 

 目の奥が焼けた。

 

 それでも、見上げ続けた。

 

 糸の先に。

 

 白い、大きな、満月があった。

 

 月の表面に、全部の糸が吸い込まれるように繋がっていた。

 

「……月だ」

 

 忉利は掠れた声で言った。

 

「全部の糸が月に繋がってる」

 

 青子が顔を上げた。

 

「……月に?」

 

「月の向こうに、何かいんのか。……月の裏に隠れてんのか」

 

 忉利にはわからなかった。

 

 糸が月に繋がっていることは、見えた。

 

 けれど、それが何を意味するのか。月の向こうに本体がいるのか、月そのものが何かなのか。

 

 見えるだけで、わからなかった。

 

 

◇

 

 

「――蒼崎」

 

 草十郎が言った。

 

 頭の上の卵から目を離さずに。

 

 けれど、その目の端で夜空を見ていた。

 

「さっきからずっと、おかしいと思っていた」

 

「……何が」

 

「月だ」

 

 草十郎は平坦な声で言った。

 

「今日は新月なんだ」

 

 鉄柵の前が、しんと静まり返った。

 

 オルゴールの旋律だけが、遠くで鳴っていた。

 

「……新月?」

 

 青子の声が掠れた。

 

「昨日の夜明け前、アパートの窓から月を見たんだ。爪の先みたいな細い月だった。東の低いところに。……山だと、あれが見えた次の夜は月が出ない」

 

 草十郎は夜空の白い満月を、目の端で見ていた。

 

「今夜は月が出ないはずの夜だ。……満月なんて出ているはずがないんだよ」

 

「――――」

 

「雲が晴れた時から、ずっとおかしいと思っていたんだ。……でも、都会の月はそういうものなのかと思って黙っていた」

 

 青子は夜空を見上げた。

 

 白い、大きな、満月。

 

 雲を払って見せてくれた、月。

 

 月の油。

 

 月の、油。

 

「……あれ」

 

 青子の唇が震えた。

 

「あれが、スナーク」

 

 忉利は、白い満月を見上げていた。

 

 月の表面に吸い込まれていく、何千本もの糸。

 

 その月の周りに。

 

 もう一種類の線があった。

 

 分厚く、硬く、何百年分もの。月を、幾重にも、幾重にも包み込んでいる。硝子の球を、何百枚もの透明な布で包んだように。

 

 童話の鎧。

 

 あれは、この目では切れない。

 

 見ただけでわかった。あれは線ではなかった。線が、何百年分、重なって固まって、もう、一枚の壁になっていた。

 

 けれど。

 

 正体は、暴いた。

 

 糸が見える目と。

 

 月の満ち欠けを知っている目と。

 

 二つ合わせて。

 

 鎧の表面が。

 

 ほんのわずかに揺らいだ。

 

 剥がれかけた硝子の布のように。

 

「……揺れた」

 

 忉利が呟いた。

 

「今、あの月の周りの硬いのが。……ちょっとだけ揺れた」

 

 青子が鉄柵から背中を離した。

 

 指先に光を灯した。

 

 細く、弱く。

 

 けれど、その目は、もう迷っていなかった。

 

「……正体がばれたからよ」

 

 青子は夜空の月を睨みつけた。

 

「撃つわ。……あの、月を」

 

 頭上で、白い満月が。

 

 ほんのわずかに。

 

 こちらを見下ろすように。

 

 揺らいだ。

 

 遊園地じゅうのオルゴールが、一斉に音程を外した。

シエルの小説満足度調査

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