―――スナークを狩る者は、最後にそれがブージャムであったと知る。
知った者は静かに、跡形もなく消え失せる。
百年以上前に英国の数学者が書いた、奇妙な詩。誰もスナークが何なのかを知らない。見た者は、いない。見た者は消えてしまったから。
だから、スナークとは正体がわからない、ということそのものの名前だ。
正体を暴かれた時、スナークはスナークでなくなる。
◇
オルゴールが鳴っていた。
調子の外れた、ぜんまいの伸びきったような旋律。園内のすべてのスピーカーから、錆びた鉄骨の一本一本から、同じ音が滲み出してくる。
「――走って!」
青子が叫んだ。
三人は、燃え落ちる鏡の館を背に、中央広場の方へ駆け出した。
回るメリーゴーランドの木馬が、一頭、また一頭と台座から首を引き抜き始めていた。
木の蹄が石畳を打つ。極彩色の塗料を滴らせて、首の折れた木馬が台座から飛び降りる。木の目玉が瞬きをした。
「蒼崎。あの馬は生きているのか」
「生きてないわよ! 生きてないけど、動くの!」
石畳の道の先、売店の並ぶ一角から、小さな影がわらわらと湧き出してきた。
こんがりと焼き色のついた丸い頭。干しぶどうの目。砂糖衣の口。子供の背丈ほどの、焼き菓子の兵隊。赤い砂糖の軍服を着て、棒のような腕に焼いた小麦の銃剣を構えている。
パン工場の看板に描かれていた、マスコットのパンの兵隊だった。
何十体も。
甘ったるい、焦げた匂いを撒き散らしながら、隊列を組んで押し寄せてくる。
青子は舌打ちをひとつして、右手を振り抜いた。
スナップ。
先頭の三体が粉々に砕けて、パンくずのように四散した。
後ろの列がパンくずを踏み越えて進んでくる。
スナップ。スナップ。
青い礫が隊列に穴を穿つ。穿った穴を、後ろの列がすぐに埋める。
青子は自分の指先を見た。
鏡の館で掻き乱された回路は、まだ痺れていた。一発撃つたびに、腕の内側が焼けるように痛む。
長くはもたない。
◇
忉利は走りながら、右目を細めていた。
パンの兵隊の一体一体の頭の上から。
線が、一本ずつ伸びていた。
細く、黒く、まっすぐに。空へ向かって。操り人形の糸のように。
焼き菓子の生地の線でも、砂糖衣の線でもなかった。この兵隊を、兵隊として動かしている糸。「パンが歩いて銃剣を振るう」という、ありえない筋書きを無理やりこの世界に縫いつけている、一本の糸。
何十体分の糸が、全部、空の同じ方へ伸びていた。
雲の裂け目のずっと高いところへ。
見上げようとした瞬間、右目の奥に焼けた針が突き立った。
空の方を見ていられなかった。明るすぎた。
「――日景!」
草十郎の声。
横から、一体の兵隊が隊列を外れて、忉利に飛びかかってきていた。
焼いた小麦の銃剣が、まっすぐに喉へ。
避けられなかった。
糸を、見た。
「――切れろ」
ぷつり。
兵隊の頭の上の糸が断ち切れた。
兵隊が跳びかかった姿勢のまま崩れた。赤い砂糖の軍服が、ただの焦げた砂糖の欠片に。銃剣が、ただの硬くなったパンの棒に。丸い頭が干しぶどうごと、ころりと石畳に転がって。
ただの古い、焦げたパンの山になった。
「……っ、ぐ……!」
遅れて痛みが来た。
目の奥で何かが、ぶちりと千切れる。忉利は膝をつき、額を石畳に押しつけて声にならない呻きを漏らした。
また、何かが抜けた。
今度は、はっきりとわかった。
遠くで店のドアベルが、からん、と鳴った気がした。
その音が。
いつもより、ほんの少しだけ遠かった。
「……なんだよ、今の」
呟いた。
答える者はいなかった。
忉利は顔を上げた。
パンの山を見た。
息を呑んだ。
緑の霧が、パンの山の上を這っていた。
霧の中から細い、細い、新しい糸が一本、空から垂れてきて。
パンの山に触れた。
焦げた砂糖の欠片が、かたかたと震え始めた。パンの棒が転がって、元の位置に戻ろうとしていた。
「……おい」
切れた糸が、また繋がろうとしていた。
霧が濃くなるほどに。
「――日景、立て」
草十郎が忉利の腕を掴んで引き起こした。
「あれはまた立つぞ」
「……見てた」
「なら、走れ」
◇
園の中央、噴水広場。
枯れていたはずの噴水から、水の代わりにどろりと甘い、金色の蜜のようなものが噴き上がっていた。
押し寄せてくるのは兵隊だけではなかった。
売店の屋根の上から、白塗りの顔が覗いていた。
ピエロだった。
遊園地の入り口の色褪せた看板に描かれていた、あの。大きな赤い鼻。裂けた笑顔。首から下が、ばね仕掛けのように、ありえない長さに伸びていく。
伸びた首がしなって。
白い顔が、屋根の上から、青子の真横へ一瞬で飛んできた。
「――っ!」
青子は身体を捻った。ピエロの裂けた口が、青子の頬を掠めた。
至近距離で撃った。
白い顔が弾け飛ぶ。伸びた首がばねのように縮んで、屋根の上に引き戻されていく。
その背後で、草十郎が崩れかけた売店の庇を両手で引き剥がしていた。トタンの板を盾のように構えて、青子の背中に回り込んでくる兵隊の銃剣を受け止める。がん、がん、と銃剣がトタンを叩く。
人間の業ではなかった。
けれど、忉利の目を奪ったのはそれではなかった。
青子だった。
噴水の縁に立ち、押し寄せる怪物たちを、手から放つ光で次々と粉砕していく、幼馴染の姿。
冷たかった。
鋭かった。
そして、ひどく綺麗だった。
夜そのものを従えているかのように。
十年以上、隣で見てきた、どの顔とも違った。
知らなかった。
こいつがずっと、一人で、こういう夜の中に立っていたことを。
◇
噴水の中から、何かがせり上がってきた。
巨大な、白い猫の顔だった。
遊園地のマスコット。ゲートの上の看板の、片目の塗装が剥げたあの猫。
それが蜜を滴らせて、家ほどの大きさで、噴水の底から、ゆっくりと身体を引き上げてくる。
片目だけの塗装の目が、瞬きをした。
口が耳まで裂けた。
「――でかすぎでしょ、あれ……!」
青子は両手を突き出して撃った。
スナップ。スナップ。スナップ。
猫の白い顔に、青い礫が次々と当たる。当たって弾ける。
弾けた跡が蜜で埋まっていく。
効いていなかった。
「蒼崎、あれは何を嫌がるんだ?」
草十郎がトタンの盾を構えたまま訊いた。
「……わかんないわよ、そんなの!」
「さっき、あの猫は燃えている館の方には来なかった」
青子の手が止まった。
「兵隊も、館の火の近くでは動きが鈍っていた。……火が嫌いなんじゃないか?」
青子は振り返った。
燃え落ちた鏡の館が、まだ炎の柱を上げていた。
その周りだけ、緑の霧が薄かった。
「……油よ」
青子の声が掠れた。
「月の油。……油なんだから、火に弱いんだわ。あの霧も、あの霧で動いてるものも」
「なら、あの猫を火に入れればいい」
「どうやって! 家くらいあるのよ、あれ!」
忉利は、燃えている鏡の館を見ていた。
右目を細めて。
館はもう、ほとんど骨組みだけになっていた。燃え残った柱が四本、梁を一本支えている。その梁の上に、燃えさかる屋根の半分が斜めに引っかかっていた。
屋根と梁の間に。梁と柱の間に。
線が見えた。
建物を、建物として立たせている、繋ぎ目の線。釘と木の。梁と柱の。焼けて、細くなって、今にも切れそうにぴんと張りつめている。
どこを切ればどちらへ倒れるのか。
見えた。
「――あの猫、館の前まで引っ張ってこい」
忉利は言った。
「館の西側の、柱の前。……そこに入った瞬間に、屋根を落とす」
青子と草十郎が、同時に忉利を見た。
「……落とすって、あんた」
「柱と梁の繋ぎ目を切る。……屋根が西に倒れる。燃えたまま」
青子は忉利の顔を見た。
血の流れ続ける右目を。
「……あと何回、それ、やれるのよ」
「知らねえ」
「知らねえじゃないでしょ……!」
「――来るぞ」
草十郎の声で、三人は同時に噴水の方を向いた。
巨大な猫が、蜜の中から完全に這い出していた。
◇
草十郎が走った。
トタンの盾を投げ捨てて。猫の真正面へ。
「――静希くん!?」
猫の片目が草十郎を追った。
草十郎は猫の鼻先を掠めるように走り抜けた。石畳の上を、低く、速く。山の斜面で獣の群れの間を抜ける時と、同じ走り方で。
猫が前脚を振り下ろした。
石畳が砕けた。草十郎はもう、そこにはいなかった。
猫の脇を抜けて、振り返りもせずに燃える館の方へ。
猫が追った。
家ほどの身体が蜜を撒き散らしながら、石畳を揺らして。
青子が横から撃った。
スナップ。スナップ。猫の顔ではなく、猫の足元の石畳を。
砕けた石が猫の前脚をすくう。猫の巨体がよろめく。よろめいた方向を、青子の礫が次々と押していく。
館の方へ。
西側の柱の前へ。
草十郎が、燃える館の西の柱のすぐ脇をすり抜けた。
猫の巨体がそれを追って、柱の前に飛び込んだ。
「――忉利っ!!」
青子の声。
忉利は、見ていた。
燃える柱と焼けた梁の、繋ぎ目の線。
張りつめて震えている、一本の線。
――切ったら。
また、何かが抜ける。
それでも。
「――落ちろ」
ぷつり。
梁が柱から外れた。
燃えさかる屋根の半分が、西へ傾いた。
ゆっくりと。
それから、一気に。
猫の真上に。
炎の塊が崩れ落ちた。
――――――!!
猫の身体が火に包まれた。
蜜が燃えた。
緑の霧が燃えた。
白い毛皮に見えていたものが、ぱちぱちと音を立てて燃え上がり、その下から、ただの、塗装の剥げた、木と布の巨大な張りぼての骨組みが覗いた。
猫が声のない悲鳴を上げて、のたうった。
のたうちながら崩れていった。
燃え尽きて灰の山になるまで。
◇
忉利は、石畳の上に倒れていた。
右目の奥で何かが、ぐらぐらと煮えていた。視界の右半分が赤い靄に覆われていた。
遠くで店のドアベルが鳴った気がした。
さっきより、また少し遠かった。
「――忉利!」
青子が駆け寄ってきた。
しゃがみ込んで、忉利の顔を両手で掴んだ。
「……ばか。……ばか……!」
「……燃えたろ」
「燃えたわよ! 燃えたけど……!」
青子の手が震えていた。
指先に忉利の血がついていた。
「……何なのよ、その目。……何なのよ」
「……さっき言ったろ。昔から、見えんだよ」
「そういうことじゃない……!」
青子は忉利の顔を見下ろしていた。
怒った顔だった。
怒った顔の、目の縁が赤かった。
「……蒼崎」
草十郎が二人の傍らに立っていた。
燃え尽きた猫の灰の山を見ていた。
その灰の山の上に。
緑の霧が、また這い寄ってきていた。
「猫はもう立たないな。……でも、霧はまた来る」
草十郎は園の奥を見た。
メリーゴーランドの木馬が、また台座から降りてきていた。パンの兵隊が隊列を組み直していた。売店の屋根の上に、白塗りの顔が二つ、三つと増えていた。
それだけではなかった。
観覧車の脇の潰れたハンバーガーショップが。
建物ごと、動いていた。
ぎし、ぎし、と土台を軋ませて。看板のハンバーガーの絵が、ぱくり、と口を開けて。
「……霧が濃くなってる」
青子が低い声で言った。
「濃くなるほど、あいつらはでかく、強くなる。……園そのものも、ねじれて広がってく」
「隠れる場所はあるか」
「……ある。スナークは、遊びのあるものしか、化け物にできないの。遊び心のない、ただの箱。ただの道具。……そういう場所なら」
青子は立ち上がった。
園の東の端の一角を指さした。
遊園地の事務所。飾り気のない、コンクリートの灰色の平屋。
「あそこよ」
◇
事務所の中は暗かった。
錆びたスチールの机。倒れたファイル棚。壁に、色褪せたパン工場の出荷予定表。
三人は受付のカウンターの下に、身を寄せ合って座り込んでいた。
外でオルゴールが鳴り続けていた。
時々、何かが事務所の前を通り過ぎていく音がした。木の蹄。焦げた砂糖の足音。建物が軋む音。
どれも事務所の中には入ってこなかった。
「……月の油。フラットスナーク」
青子が膝を抱えて、小さな声で言った。
「有珠の母親から受け継いだ、三つの奇跡の一つ。……とびきり古くて、とびきり性格の悪いプロイよ」
「プロイ」
「有珠の魔術。……童話を形にする魔術。マザーグースとか、そういう古い物語を」
青子は指を一本立てた。
「一つ。スナークは、捨てられたもの、忘れられたものに、童話の命を吹き込んで操る。霧が濃くなるほど、強く、大きく。……最初は兵隊くらいだったのが、今は建物が動いてる」
二本目。
「二つ。童話の化け物には、童話の筋書きの外からの攻撃は効かない。伝承防御っていうの。……私の魔弾が猫に効かなかったのは、それ」
「火は効いた」
「油だからよ。……月の油は、油。燃える。それは、あいつの童話の中にもちゃんと書いてあることだから」
三本目。
「三つ。スナークの本体はどこかに隠れてる。……でも、隠れきることはできないの。スナークはあの物語の主題だから。主題はいつも、ページの中にいなきゃいけない。……つまり、私たちの見えるところに、必ずいる」
「見えるところに」
「見えるところに。……でも、見えてるだけじゃわからない。スナークは、正体がわからない、ってことそのものだから」
青子は指を下ろした。
「四つ目。……正体を見抜けば。そこにあったら、おかしいもの。それが、本体。正体を暴かれたスナークは、童話の鎧が剥がれる」
「剥がれたら」
「撃てる。……私の魔弾が届く」
草十郎は黙って聞いていた。
それから、隣の忉利を見た。
「日景。……さっき、兵隊の糸が空に伸びてるって言っていたな」
「……ああ」
忉利は右目を押さえたまま言った。
「兵隊も、猫も、ピエロも。……全部、糸が空の方に伸びてた。同じ方に」
「空のどこだ」
「……わかんねえ。見上げると目が焼ける。明るすぎて」
青子が顔を上げた。
「……明るすぎる?」
「雲の裂け目のずっと上の方。……眩しくて見てらんねえ」
青子は何か言いかけて、口をつぐんだ。
考えていた。
明るすぎる。空の上。見えるところに、必ずいる。
けれど、まだ繋がらなかった。
◇
ちりん、と。
事務所の割れた窓の外で、鈴の音がした。
三人は同時に息を止めた。
窓の外に。
何かが浮いていた。
灰色の卵だった。
鈍色の、手作りのイースターエッグ。表面に細い線で、扉の絵が描かれていた。それから、細かな文字で何かの唄が。
最初は手のひらほどの大きさだった。
見ている間に膨らんでいった。
両手で抱えるほどに。それから、ひと抱えに。
直径一メートル近く。
卵は窓の割れ目を、音もなくすり抜けて。
事務所の中に入ってきた。
カウンターの真上に。
草十郎の頭の上に。
ぴたりと止まった。
卵の中から、かすかに音がしていた。
ちく、たく、ちく、たく。
時計の針の音。
それから、細い、細い歌声。
女王を讃える、古い唄。
「――目を離さないで!」
青子が叫んだ。
「静希くん、それから目を離しちゃだめ!」
「わかった」
草十郎は頭の上の卵を見上げた。
見上げたまま動かなかった。
「……スクラッチ・ダンプティ」
青子の声が震えていた。
「有珠の卵。……目を離すと落ちる。落ちたら、割れて、中から呪いが出る。五感を全部奪って、生きたまま石膏の像にする呪い。……しかも、見てるだけでもだめなの。あの唄が最後まで終わったら、卵の扉が開いて、中に引きずり込まれる」
「……見ていても、見ていなくても、だめなのか」
「そうよ!」
「そうか」
草十郎は卵を見上げたまま、少しだけ考えた。
「なら、唄が終わる前に終わらせればいい」
「……簡単に言わないでよ」
◇
忉利は卵を見ていた。
右目を細めて。
卵と草十郎の目の間に。
線が張っていた。
細く、白く、ぴんとまっすぐに。草十郎の目から、卵の殻の真ん中の、扉の絵の中心まで。
視線、だった。
見ている、ということが、そのまま一本の糸になって、卵を空中に吊り下げていた。
「……青子」
「なに」
「静希の目と卵の間に、糸が張ってる。……たぶん、あれが目を離さねえ、ってことなんだろ」
「切ったら」
「目を離したのと同じだ。……落ちる」
青子は息を呑んだ。
「――絶対切っちゃだめよ」
「切らねえよ」
卵の上の何もない空中から、場違いに軽薄な声が降ってきた。
「――いやー、気づいちゃったッスか、そこの流血の兄さん」
青い駒鳥が、割れた窓枠にとまっていた。
「マイ天使の卵は、見てるうちは落ちないッス。最後まで唄わせてやってほしいッス。……こんな褒め殺したい間抜け、そうはいないッスからねえ」
「――ロビン!」
「おいら、伝言係ッスから! 失礼するッス!」
駒鳥はばさりと、夜の中へ飛び去っていった。
◇
事務所を出て、三人は園の出口を目指した。
草十郎は頭の上の卵から目を離さなかった。前を見ずに歩いた。
青子が草十郎の袖を掴んで引いた。忉利が反対側の袖を掴んで、足元の段差を声で知らせた。
「右、段差。……三歩先、水たまり。……左、兵隊が一体倒れてる。跨げ」
「わかった」
跨いだ。
倒れた兵隊の上に、緑の霧が這い寄っていた。糸が、また垂れてきていた。
卵の中で唄が進んでいく。
女王を讃える唄。何番まであるのかわからない。
出口のゲートが見えた。
錆びた鉄のゲート。
くぐった。
その先に。
またゲートがあった。
同じ、錆びた鉄のゲート。
くぐった。
またゲートがあった。
くぐった。
また。
また。
また。
「……何よ、これ」
青子が足を止めた。
振り返ると、さっきくぐったはずのゲートが何枚も、何十枚も、夜の奥へ連なっていた。
前を見ると、同じゲートが何十枚も、夜の奥へ。
門の先に門。その先に、また門。
何マイルも、何マイルも。
忉利は右目を細めた。
ゲートとゲートを繋ぐ線が見えた。
一枚目から二枚目へ。二枚目から三枚目へ。
そして、何十枚目かの夜の奥の、見えないゲートから。
一枚目へ。
輪になっていた。
「……出らんねえ」
忉利は低く言った。
「ゲートが輪になってる。……くぐっても、くぐっても、最初のに戻る」
「――っ、切れないの、その輪!」
「切ったら、たぶん、ゲートが一枚消えるだけだ。……輪の根っこはここじゃねえ」
輪の糸の一本一本が。
やはり空へ伸びていた。
◇
ゲートの輪を外れて、園の外周へ。
鉄柵があった。
三年前の、閉園の時に張られた、古い一重の鉄柵のはずだった。
今は、何重にも、何重にも連なっていた。
見ているそばから、また一重、地面から音もなく生えてきた。
遊園地そのものが、じわじわと膨らんでいた。
「……静希くん。忉利」
青子が鉄柵の前で振り返った。
指先に光を灯していた。細く、弱く。
「この柵なら、私の残りの魔力で一か所だけぶち抜ける。……二人とも、そこから逃げて」
「お前は」
「私は残るわ。……有珠とのごっこ遊びは、私が始めたんだもの。ここで私が逃げたら、あいつは町まで、この霧を持ってくる」
「――ふざけんな」
忉利の声が低かった。
「置いてけるかよ」
「あんたはもう、目、使えないでしょ!」
「使えねえなら、使えねえなりにいるだけだ」
青子が何か言い返そうとした。
その前に。
「蒼崎」
草十郎が言った。
頭の上の卵から目を離さずに。
「まだそれだけの力が残っているなら、逃げるのに使うより戦おう。……俺も手伝うから」
青子は口を開けたまま固まった。
「俺は魔術のことはわからない。でも、蒼崎は本体を見つければいいって言っただろう。……なら、三人で探せばいいんだ」
「……っ、あんたたちねえ」
青子の声が震えた。
怒っているのか、泣きそうなのか、自分でもわからなかった。
「……ほんと、どいつもこいつも」
◇
「――おかしいもの、なのよ」
鉄柵に背中を預けて、青子は園内を見渡した。
「スナークの本体は、そこにあったらおかしいもの。……この遊園地の中で、あるはずのないもの」
回るメリーゴーランド。首を伸ばすピエロ。蜜を噴く噴水。パンの兵隊。歩くハンバーガーショップ。空中に浮いた歌う卵。無限に続くゲート。増え続ける鉄柵。
「……全部おかしいじゃない」
青子は頭を抱えた。
「おかしいものしかないじゃないの……!」
忉利は右目を細めた。
痛みで、視界が、ほとんど赤かった。
それでも。
今度は目を逸らさなかった。
遊園地のあちこちから。メリーゴーランドから。ピエロから。兵隊から。ゲートの輪から。増え続ける鉄柵から。
無数の細い、黒い糸が、夜空へ向かって伸びていた。
何百本、何千本という糸が、夜空の一点に向かって引き絞られていた。
眩しかった。
目の奥が焼けた。
それでも、見上げ続けた。
糸の先に。
白い、大きな、満月があった。
月の表面に、全部の糸が吸い込まれるように繋がっていた。
「……月だ」
忉利は掠れた声で言った。
「全部の糸が月に繋がってる」
青子が顔を上げた。
「……月に?」
「月の向こうに、何かいんのか。……月の裏に隠れてんのか」
忉利にはわからなかった。
糸が月に繋がっていることは、見えた。
けれど、それが何を意味するのか。月の向こうに本体がいるのか、月そのものが何かなのか。
見えるだけで、わからなかった。
◇
「――蒼崎」
草十郎が言った。
頭の上の卵から目を離さずに。
けれど、その目の端で夜空を見ていた。
「さっきからずっと、おかしいと思っていた」
「……何が」
「月だ」
草十郎は平坦な声で言った。
「今日は新月なんだ」
鉄柵の前が、しんと静まり返った。
オルゴールの旋律だけが、遠くで鳴っていた。
「……新月?」
青子の声が掠れた。
「昨日の夜明け前、アパートの窓から月を見たんだ。爪の先みたいな細い月だった。東の低いところに。……山だと、あれが見えた次の夜は月が出ない」
草十郎は夜空の白い満月を、目の端で見ていた。
「今夜は月が出ないはずの夜だ。……満月なんて出ているはずがないんだよ」
「――――」
「雲が晴れた時から、ずっとおかしいと思っていたんだ。……でも、都会の月はそういうものなのかと思って黙っていた」
青子は夜空を見上げた。
白い、大きな、満月。
雲を払って見せてくれた、月。
月の油。
月の、油。
「……あれ」
青子の唇が震えた。
「あれが、スナーク」
忉利は、白い満月を見上げていた。
月の表面に吸い込まれていく、何千本もの糸。
その月の周りに。
もう一種類の線があった。
分厚く、硬く、何百年分もの。月を、幾重にも、幾重にも包み込んでいる。硝子の球を、何百枚もの透明な布で包んだように。
童話の鎧。
あれは、この目では切れない。
見ただけでわかった。あれは線ではなかった。線が、何百年分、重なって固まって、もう、一枚の壁になっていた。
けれど。
正体は、暴いた。
糸が見える目と。
月の満ち欠けを知っている目と。
二つ合わせて。
鎧の表面が。
ほんのわずかに揺らいだ。
剥がれかけた硝子の布のように。
「……揺れた」
忉利が呟いた。
「今、あの月の周りの硬いのが。……ちょっとだけ揺れた」
青子が鉄柵から背中を離した。
指先に光を灯した。
細く、弱く。
けれど、その目は、もう迷っていなかった。
「……正体がばれたからよ」
青子は夜空の月を睨みつけた。
「撃つわ。……あの、月を」
頭上で、白い満月が。
ほんのわずかに。
こちらを見下ろすように。
揺らいだ。
遊園地じゅうのオルゴールが、一斉に音程を外した。
シエルの小説満足度調査
-
めちゃよかった
-
よかった
-
そこそこ
-
びみょう