夜明けの色を見る眼   作:にんら

40 / 40
半径二メートル

 窓を叩く音で目が覚めた。

 

 雨だった。細かくて、横から吹きつけてくる雨。硝子の向こうで、隣の家の白い壁が灰色に滲んでいた。

 

 青子は毛布の中で寝返りを打った。隣が空いていた。

 

 部屋の隅の小さな洗面台の前で、忉利がシャツのボタンを留めていた。鏡越しに目が合った。

 

「起きたか。十時のバスだぞ」

 

「……乗らない」

 

「は?」

 

「乗らない。今日はここにいる」

 

 忉利はボタンを留める手を止めた。窓の外を見て、それから枕元の時刻表に目をやった。ゴールウェイ行きの欄に、鉛筆で丸がしてある。昨日の夜、つけたのは忉利だった。

 

「雨だからか」

 

「雨だからよ」

 

「バスは雨でも走るぞ」

 

「私が走らないの」

 

 青子は毛布を鼻の上まで引き上げた。

 

「それに、延泊はもう言ってあるもの。ゆうべ、ミセス・ドーランに」

 

「……いつ」

 

「あんたがお風呂入ってる間」

 

「天気予報、聞いてたのか」

 

「台所のラジオで言ってたのよ。明日は一日雨だって。おばあちゃん、喜んでたわ。今週、お客さん私たちだけだから」

 

 忉利は時刻表を手に取って、しばらく丸のついた欄を見ていた。

 

 それから時刻表を二つに折って、枕元の引き出しにしまった。

 

 毛布の端が、内側から持ち上がった。

 

「寒い」

 

「暖房つけるか」

 

「そうじゃない」

 

 忉利は窓際のラジエーターを見て、毛布の隙間を見て、自分の留めかけのシャツを見下ろした。

 

 靴を脱いだ。

 

 毛布の中は、青子の体温でぬるくなっていた。忉利が横になると、青子はすぐに額を忉利の肩の窪みに押しつけてきた。

 

 雨の音が、窓硝子と屋根と雨樋で、それぞれ違う音を立てていた。

 

「……三週間」

 

 忉利が言った。

 

「何が」

 

「毎日バスだった。ダブリンから」

 

「そうね」

 

「お前、きのうのバスで寝てたろ」

 

「寝てないわよ」

 

「窓に頭ぶつけてた。三回」

 

「ぶつけてない」

 

「ごん、って鳴ってた」

 

「鳴ってない」

 

 青子は、忉利のシャツの留めかけのボタンを、一つ外した。それから、もう一つ外した。

 

「……何してんだ」

 

「着たまま寝たら、皺になるでしょ」

 

 忉利は天井を見た。天井の漆喰に、古い雨漏りの染みが一つ、地図のような形に広がっていた。

 

 それ以上、バスの話はしなかった。

 

 

◇

 

 

 八時を過ぎた頃、扉が軽く叩かれた。

 

「朝ごはんよ、お二人さん。下りてらっしゃいな」

 

 ミセス・ドーランの声だった。七十を過ぎた、背の小さな未亡人。この宿の主人で、料理人で、掃除係で、それからたぶん、この通りのすべての噂の集積所だった。

 

 青子は毛布の中に潜った。

 

「……行ってきて」

 

「お前の分は」

 

「持ってきて」

 

「ここ、朝飯は食堂だぞ」

 

「頼んでみて。あんたの頼み方なら通るわ」

 

 忉利は溜め息をついて、セーターを頭からかぶった。

 

 十五分後、扉が足で押し開けられた。両手に大きな盆。後ろから灰色の牧羊犬が一匹、のそのそとついてきた。ミセス・ドーランの犬で、名前はブランといった。年寄りで、片方の耳が折れている。

 

 盆の上には、厚いトーストが四枚と目玉焼きが二つ。ベーコン。焼いたトマト。それから、黒くて丸い輪切りのものが二枚。ティーポットにはミルクの小さな水差しが添えてあった。

 

「通ったの?」

 

「『あら、まあ』って三回言われた」

 

「通ったのね」

 

 青子は起き上がって、膝の上に盆を受け取った。黒い輪切りをフォークの先でつついた。

 

「これ、何」

 

「ブラックプディング。豚の血のソーセージ」

 

「……あんたが食べて」

 

「一口くらい食えよ」

 

「あんたが食べて」

 

 忉利は黙って黒い輪切りを二枚とも自分の皿に移した。

 

 ブランは扉の内側に伏せて、ベーコンの匂いのする方に鼻だけ向けていた。

 

 トーストを齧るたびに、パン屑がシーツの上に落ちた。忉利が手のひらでそれを払った。また落ちた。また払った。

 

「今日は気にしないの」

 

「シーツに残ると、夜ちくちくする」

 

「夜のことは夜考えるの」

 

 青子は忉利の手首を掴んで、払う手を止めさせた。それから、その手にトーストの耳を一切れ握らせた。

 

 

◇

 

 

 朝食の盆を廊下に出してから、忉利は四回立ち上がった。

 

 一回目は、洗面台の蛇口から水が垂れていたからだった。ぽた、ぽた、と一定の間隔で。忉利はポケットから五十ペンス硬貨を出して、蛇口の根元のねじを締め直した。

 

 二回目は、カーテンのレールの端が外れかけていたから。

 

 三回目は、椅子の背に掛けてあった青子のコートの袖が床についていたから。

 

 四回目で、青子は数えるのを口に出した。

 

「四回目」

 

「何が」

 

「あんたが立ったの。朝ごはんの後から」

 

 忉利は窓枠の隙間に新聞紙を詰めていた手を止めた。

 

「すきま風が入る」

 

「入っていいの」

 

「よくねえだろ」

 

「今日はいいの」

 

 青子はベッドの上に座り直して、両手を広げた。

 

「決めた。今日は、このベッドから半径二メートルより外に出るの禁止」

 

「二メートル」

 

「二メートル」

 

 忉利は部屋を見回した。

 

 ベッドから窓までは、一メートル半。小さなテーブルと、その上の電気ポットとティートレイまでは、一メートル。洗面台までは、たぶん二メートル半。扉までは三メートルと少し。

 

「蛇口、届かねえ」

 

「だから直さなくていいの」

 

「もう直した」

 

「じゃあ、もう用事ないでしょ」

 

 扉の前で、ブランが大きな欠伸をした。半径の外だった。

 

 忉利は詰めかけの新聞紙を窓枠に押し込んで、ベッドに戻ってきた。

 

 

◇

 

 

 十一時。

 

 テーブルの上のティートレイには、紅茶のティーバッグと砂糖の包みと、インスタントコーヒーの小袋が二つ並んでいた。

 

 青子は、小袋の一つをつまんで振ってみせた。

 

「飲んでみなさいよ」

 

「飲まねえ」

 

「飲んだことあるの?」

 

「……ない」

 

「じゃあ、わかんないじゃない」

 

 電気ポットが鳴った。忉利は観念したように小袋の端を破って、カップに粉を落とした。湯を注ぐ。茶色い泡が一瞬だけ浮いて、すぐ消えた。

 

 一口飲んだ。

 

 しばらく、何も言わなかった。

 

「……どう」

 

「まずい」

 

「飲んでるじゃない」

 

「まずいけど、残すのはもっと嫌だ」

 

 忉利はカップの半分まで飲んで、それからもう一つのカップにティーバッグを落とした。湯を注いで、腕時計を見る。青子の分だった。

 

 ティーバッグを引き上げて、渡す。

 

 青子は一口飲んで、眉を寄せた。

 

「……長い」

 

「ティーバッグだぞ」

 

「それでも長いの」

 

「十秒か」

 

「十秒」

 

 忉利は、まずいコーヒーの残りを黙って飲んだ。

 

 

◇

 

 

 昼前、青子は鞄の外ポケットから絵葉書を一枚引っぱり出した。

 

 きのう、村の郵便局で買ったものだった。石垣の囲いの中に、顔の黒い羊が五頭並んでいる。裏はまっさらだった。

 

「今月の分、まだでしょ」

 

「……忘れてた」

 

「忘れたら言いつけるって、晴華ちゃん言ってたわよ」

 

 忉利は、枕元の引き出しからボールペンを出した。膝の上に時刻表を敷いて、宛名を書く。三咲町の住所。Cafe HIKAGE。日景晴華様。

 

 本文の欄で、ペンが止まった。

 

「……何書けばいい」

 

「今日のこと書けばいいじゃない」

 

 忉利は少し考えて、書いた。

 

 ――アイルランド。雨。宿から出ていない。元気だ。

 

「それだけ?」

 

「それだけだ」

 

「貸して」

 

 青子はペンをひったくって、残りの余白に小さな字で書き足し始めた。

 

 ――晴華ちゃんへ。お兄ちゃんは今朝、朝ごはんの後だけで四回立ち上がりました。蛇口とカーテンと私のコートとすきま風を直しました。インスタントコーヒーを飲んで「まずい」と言いながら、全部飲みました。

 

「おい」

 

「まだ書いてる」

 

 ――それから、

 

「おい、それ以上は」

 

 忉利が手を伸ばした。青子は絵葉書を胸に抱えて、ベッドの上を転がって逃げた。そのまま床に降りて、扉の脇の古い箪笥の上に、絵葉書を伏せて置いた。

 

 ベッドに戻ってくる。

 

「はい。あそこ、二メートル半」

 

「……お前、今、出たろ」

 

「私が決めたルールだもの。私はいいの」

 

「ずるいだろ、それは」

 

「取りに行ったら、ルール違反よ」

 

 忉利は、箪笥の上の伏せた絵葉書を見た。それから青子を見た。

 

 ベッドの縁に腰を下ろしたまま、動かなかった。

 

 青子は枕を抱えて、忉利の背中に寄りかかった。ペンは、まだ青子の手の中にあった。

 

 

◇

 

 

 昼過ぎに、ミセス・ドーランがもう一度扉を叩いた。

 

 今度は、平たい紙の箱を抱えていた。

 

「雨の日にはこれよ。亡くなった主人と、冬になるたびにやったの」

 

 箱の蓋には、色褪せた城の写真が刷ってあった。灰色の石の塔が三つ。手前に湖、背後に低い山。千ピース、と隅に書いてある。

 

「一枚足りないかもしれないけど、気にしないでね。主人がね、毎年どこかに一枚なくすの。最後の最後になって、ポケットだの靴下だのから出てくるのよ」

 

 ミセス・ドーランは、箱の蓋の角の擦り切れたところを、指で一度だけ撫でた。

 

「去年は、出てこなかったけど」

 

 ミセス・ドーランは青子にウインクして、ブランの頭を撫でて、また階段を下りていった。

 

 二人は、朝食の盆を裏返してベッドの上に置いた。

 

 その上に、千のかけらを空けた。

 

 青子は、うつ伏せになって縁のピースを探し始めた。まっすぐな辺のあるものだけを、指先で次々に選り分けていく。速かった。

 

 忉利は枕を背もたれにして座り、中ほどの塔の石垣を担当した。灰色のかけらを一つ取って、別の灰色のかけらに当てて、合わないので戻した。

 

「……あんたの眼、こういうのには使えないの」

 

「使えねえ」

 

「線、見えるんでしょ」

 

「これは線じゃない。ただの切れ目だ」

 

 忉利は灰色のかけらをまた一つ取って、また戻した。

 

 三十分経っても、石垣は四つしか繋がらなかった。その間に、青子の側では縁の四辺が半分以上できあがっていた。

 

「遅い」

 

「難しいんだよ、灰色ばっかりで」

 

「じゃあ、こうしましょ」

 

 青子は寝返りを打って、忉利の膝に頭を乗せた。下から見上げる。

 

「一枚はまったら、一回」

 

「……何を」

 

「言わせたいの?」

 

 忉利は、手の中の灰色のかけらを見下ろした。

 

 五分後、石垣が三つ繋がった。

 

 その度に、忉利は身を屈めた。三回とも、短かった。

 

「……速くなってない?」

 

「気のせいだ」

 

「さっきまで三十分で四つだったわよ」

 

「目が慣れてきた」

 

「眼、使えないって言ってなかった?」

 

 忉利は答えずに、四つ目のかけらをはめた。

 

 青子は笑いながら、膝の上で首を伸ばした。

 

 

◇

 

 

 二時を過ぎると、青子はパズルに飽きた。

 

 窓際の小さな本棚から、前の客が置いていったらしいペーパーバックを一冊抜いてきた。窓際は一メートル半。表紙では、カウボーイハットの男が馬の上から振り返っている。

 

 青子は、忉利の腹を机の代わりにして本を開いた。

 

「『彼は、帽子のつばを指で押し上げた。お前を待っていたんだ、メアリー、と彼は言った』」

 

「……訳すのか、それ」

 

「訳さないと、あんたわかんないでしょ」

 

「わかる」

 

「『メアリーは馬から飛び降りて、彼の胸に――』」

 

 青子の声が止まった。次の行を目で追って、頁をめくって、もう一枚めくった。

 

「……どうした」

 

「……飛ばすわ」

 

「何があった」

 

「何もないわよ。十頁くらい、何もないの」

 

 忉利は目を閉じたまま、口の端だけ少し上げた。

 

 青子は本を伏せて、忉利の腹の上に顎を乗せた。忉利の手が、青子の髪の中に入ってきた。指が、耳の後ろから首筋へ、ゆっくり梳いていく。止まって、また最初から梳いた。

 

 青子は目を細めて、されるままになっていた。

 

 

◇

 

 

 三時を回る頃には、城の塔が二つ立ち上がっていた。

 

 雨は、相変わらず窓を叩いていた。ラジエーターが時々、こつん、と鳴った。扉の前で、ブランが寝息を立てていた。

 

 青子は、パズルの盆を足元に押しやって、忉利の腕を枕にした。

 

「……ちょっとだけ」

 

「ん」

 

「ちょっとだけ寝る」

 

「ん」

 

 三分で、寝息に変わった。

 

 忉利の右腕は、青子の首の下にあった。

 

 十五分で、指の先が冷たくなってきた。三十分で、肘から先の感覚が薄くなった。一時間で、腕があるのかないのか、わからなくなった。

 

 忉利は動かなかった。

 

 左手だけで、手の届く範囲のピースを一枚ずつ裏返した。窓の外の雨樋を、水が途切れずに流れ落ちていた。向かいの家の煙突から、細い煙が雨に押し潰されながら上がっていた。

 

 青子の髪が一筋、忉利の口元にかかっていた。左手で、そっと払った。

 

 青子が寝言のようなものを言った。日本語ではなかった気がした。忉利の右腕を、両手で抱え込むように引き寄せて、また静かになった。

 

 扉の前で、ブランが一度だけ顔を上げて、二人を見た。それから前脚の上に顎を乗せ直した。

 

 一時間と少しして、青子が目を開けた。

 

「……今、何時」

 

「四時過ぎ」

 

「……寝すぎた」

 

 青子は起き上がって、伸びをした。それから、ベッドの上に投げ出されたままの忉利の右腕を見た。

 

「……腕」

 

「なんともねえ」

 

「上げてみて」

 

 忉利の右腕は、肩のところで少しだけ持ち上がって、ぱたりと落ちた。

 

 青子は口を押さえた。肩が震えた。

 

「――笑うな」

 

「笑ってないわよ」

 

「笑ってる」

 

「笑ってない」

 

 青子は忉利の右腕を自分の膝の上に引き寄せた。手首から肘へ、肘から肩へ、両手で揉みほぐしていく。指の一本一本も、根元から先へ引っぱった。

 

「起こせばよかったのに」

 

「起きなかったろ、たぶん」

 

「起きたわよ」

 

「いや、起きねえ。いびきかいてた」

 

「かいてないわよ!」

 

 青子の指が、忉利の手のひらの真ん中を、思いきり押した。

 

 扉が叩かれた。

 

 ミセス・ドーランが、皿を一枚持って立っていた。焼きたてのスコーンが四つと、赤いジャムの小瓶。

 

「お茶の時間よ。……あら」

 

 ミセス・ドーランは、ベッドの上の盆を覗き込んだ。城の塔が二つ、灰色の石垣を積み上げて立っていた。

 

「もう塔が二つ。主人より速いわ」

 

 皺の多い指が、まだ空いている真ん中の塔のあたりを、宙でなぞった。

 

「主人はいつも、ここから始めたの。真ん中の塔の、窓から。窓は黒くて、形がわかりやすいからって」

 

「窓から」

 

「そう。それでいつも、窓を一枚なくすのよ」

 

 ミセス・ドーランは笑って、スコーンの皿をテーブルに置いた。それから、扉の前で寝ているブランを跨いで、廊下に出ていった。

 

 扉が閉まってから、青子はスコーンを二つに割った。湯気が立った。ジャムを塗って、半分を忉利の口に押し込んだ。

 

 

◇

 

 

 五時を過ぎると、窓の外はもう暗かった。

 

 青子は、自分の腕時計の文字盤を見ながら指を折った。

 

「HIKAGE、今、何時」

 

「夜中の一時か、二時」

 

「……おじさん、寝てるわね」

 

「明日の分の豆、焼き終わって寝てる頃だ」

 

 青子は、窓硝子に映った部屋の中を見ていた。小さなランプと、乱れたベッドと、パズルの盆と、その上に並んで座っている二人。

 

「……帰りたい?」

 

 忉利は、すぐには答えなかった。

 

 盆の上から灰色のかけらを一枚つまんで、指の間で裏返した。表。裏。また表。

 

「……まだいい」

 

「まだ?」

 

「まだ」

 

 青子はそれ以上聞かなかった。忉利の指からかけらを取り上げて、塔の、ちょうど合う場所にはめた。

 

 それから、一回、と言って身を屈めた。

 

 

◇

 

 

 夕方、窓の外が暗くなってから、ミセス・ドーランが鍋ごとシチューを持って上がってきた。

 

 羊肉とじゃがいもと人参を、とろとろに煮込んだもの。それから黒パンが一斤と、バターの塊。

 

「食堂、使ってもいいのよ」

 

「ここでいいです」

 

 青子が言った。ミセス・ドーランは、ベッドの上のパズルと、その横に並んだ二つの枕と、半径の内側に引き寄せられたテーブルを見て、もう一度「あら、まあ」と言った。

 

 シチューは熱くて、塩気が強くて、よく煮えていた。

 

 二人で、鍋の底が見えるまで食べた。

 

 青子はパンの最後のひと切れで、鍋の縁のシチューを拭った。

 

「……あの人、去年は出てこなかったって言ってたわね」

 

「パズルの話だろ」

 

「……そうね」

 

 青子は拭ったパンを、忉利の口元に差し出した。忉利は黙ってそれを食べた。

 

「鍋、返してくる」

 

 忉利が空の鍋を持って立ち上がった。

 

「半径」

 

「鍋は返さねえと。下で待ってる」

 

 青子は少し考えて、自分の頬を指でとんとんと叩いた。

 

「通行料」

 

 忉利は鍋を片手に持ったまま、身を屈めて払った。

 

 扉が閉まって、階段を下りていく足音がした。台所の方から、ミセス・ドーランの笑い声が一度だけ上がった。

 

 上がってきた足音が、扉の前で止まった。

 

 扉が開いた。忉利は、まっすぐベッドには戻ってこなかった。扉の脇の箪笥の前で立ち止まって、伏せてあった絵葉書を指でめくった。

 

 青子は、毛布を口元まで引き上げた。

 

 午後のうちに、青子が一度だけ床に降りて書き足しておいた行だった。忉利が廊下の先の手洗いに立った、二分の間に。

 

 ――それから、晴華ちゃんとの約束どおり、今日は一日、座ってご飯を食べさせました。

 

 忉利は、しばらく絵葉書を見下ろしていた。

 

 それから、元のとおりに伏せて置いた。

 

 ベッドに戻ってきて、何も言わずに青子の隣に座った。

 

「……読んだでしょ」

 

「読んでねえ」

 

「読んだ顔してる」

 

「……座って食ったろ。今日は」

 

「食べたわね」

 

「一日中な」

 

「一日中よ」

 

 食べ終わってから、パズルの残りに戻った。城の三つ目の塔。湖の水面。山の稜線。九時過ぎに、最後の空の部分が埋まった。

 

 一か所だけ、穴が開いていた。

 

 真ん中の塔の、上から二番目の窓だった。

 

「……足りない」

 

「一枚足りないかもって、言ってたな」

 

「探すのよ」

 

 二人で、枕の下を探した。毛布の中を探した。盆の裏を見て、ティートレイの砂糖の包みの間を見た。シーツの皺を一本ずつ伸ばした。

 

 なかった。

 

 二人は、扉の前のブランを見た。

 

 ブランは片方の折れた耳を少しだけ動かして、また眠り直した。

 

「……違うわね」

 

「違うな」

 

「いいわよ。一枚くらい」

 

 青子は、窓の欠けた城を見下ろした。それから、ベッドの脇の小さなランプを点けて、天井の電気を消した。

 

 

◇

 

 

 十時。

 

 雨の音が、少しだけ柔らかくなっていた。

 

「明日は乗るの。バス」

 

 毛布の中から、青子が訊いた。

 

「乗る」

 

「雨だったら?」

 

 忉利は、枕元の引き出しを見た。二つに折った時刻表が入っている。

 

「……そしたら、また考える」

 

「そう」

 

 青子は、それ以上何も言わなかった。

 

 忉利は、ベッドの端に腰かけて、セーターを脱ごうとしていた。

 

 青子は後ろから膝立ちで近づいて、その背中に額をつけた。両腕を、腹の前に回す。

 

「……まだ脱がないで」

 

「寝るんだろ」

 

「寝るわよ。でも、まだ」

 

 灰色の毛糸のセーターだった。朝からずっと着ていた。青子は頬を、その背中に押しつけた。

 

 頬に、何か硬いものが当たった。

 

 青子は顔を離して、セーターの背中を見た。肩甲骨の間の、毛糸の編み目に、小さな厚紙のかけらが一枚、引っかかっていた。

 

 灰色の石垣と、黒い四角がひとつ。

 

「……あった」

 

「何が」

 

「窓」

 

 青子は、毛糸の目からかけらをそっと外した。午後じゅう、忉利は散らばったかけらの上の枕に背中を預けていた。たぶん、その時に。

 

 枕元の盆の上の、城の穴にはめた。

 

 ぱちり、と小さな音がした。

 

「明日の朝、このまま下に持っていくわよ」

 

「崩すなよ」

 

「あんたこそ」

 

 青子は、忉利の背中にもう一度額をつけた。それから手を伸ばして、ランプの紐を引いた。




シエルの小説更新しました。短めですが。

息抜きで他のソシャゲのキャラでなんか書こうと思ってるんですよ。超亀更新だと思いますが。

一応アンケート置いときます。自分の好きなキャラしか載せてません。
ほんとに書くかも分かりませんが、原神・ゼンゼロ・スタレ・鳴潮が好きな方は投票お願いします。鳴潮とスタレは動画見たりしてるだけでプレイしたことないので、解像度低いかもしれません。

繰り返しますけど書くかどうかもわかりません。

書くかわからない息抜き作品。誰が見たいですか?自分の癖全開です。

  • 夜蘭(原神)
  • 八重神子(原神)
  • ネフェル(原神)
  • ジン(原神)
  • レミエール(ゼンゼロ)
  • シグリッド(ゼンゼロ)
  • エレン(ゼンゼロ)
  • イヴリン(ゼンゼロ)
  • 飛霄(スタレ)
  • 姫子(スタレ)
  • アグライア(スタレ)
  • ガルブレーナ(鳴潮)
  • 長離(鳴潮)
  • リンネー(鳴潮)
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