―――世界には、世界を守る仕組みがある。
誰が作ったのでもない。誰が命じたのでもない。ただ、この世界がこの世界であり続けるために、世界そのものが持っている免疫のようなもの。
魔術師たちは、それを抑止と呼ぶ。
普段は、眠っている。
魔術師が多少の無茶をしても。死徒が町ひとつを食い荒らしても。世界にとっては、皮膚の上の小さな擦り傷にすぎない。
けれど、傷が皮膚を越えて、その下に届きそうになった時。
世界は、目を覚ます。
目を覚ました世界は、傷をつけた者を、ためらいなく消す。
◇
ノルウェーの北の果て、フィンマルクの海岸は、まだ冬の夜の底にいた。
一月の終わりに、この辺りにも太陽は戻ってきていた。二ヶ月ぶりに、南の山の稜線からほんの数分だけ、太陽の縁が顔を覗かせた。それから毎日、少しずつ昼が長くなっている。今は、昼過ぎの三時間ほどだけ、空が薄く青く明るむ。
細長い入り江の町の、古い木造の宿の部屋で、青子は赤い封蝋の手紙を読んでいた。
「……夜が、明けない村」
青子の眉が寄った。
「この入り江の、ずっと奥の、小さな漁村。人口、八十人ちょっと。……先月の終わり、この辺り一帯に太陽が戻ってきたのに、その村だけ、夜のまま。外から見ると、村のあった場所に、黒い半球が蹲ってるだけで、中に入った者は、戻ってこない」
「……協会の依頼か」
窓辺で、忉利が訊いた。
「そう。先に入った、協会の魔術師が二人。それから、聖堂教会の代行者が一人。……三週間、誰も出てこない」
青子は便箋を指先で弾いた。
「報酬は、いつもの三倍。前払い。……それだけ、厄介ってことね」
「行くのか」
「行くわ」
青子は立ち上がってコートを羽織った。それから振り返って、忉利を見た。
「……あんたも、来るのよ」
「当たり前だろ」
「当たり前、ね」
青子は少しだけ唇を尖らせた。
「スロヴァキアの時は、当たり前じゃなかったでしょ」
「あれは、お前が一人で汽車に乗ったんだろ」
「そうよ。で、あんたは一人で坑道に入った。……だから、もう、どっちも、しないの」
青子は忉利の手を取った。左の手首の、赤と黒と白の糸の上から。
「一人では、行かない。……約束したでしょ」
◇
入り江の奥へ向かう小さな漁船の舳先から、それは見えた。
雪を被った黒い山々に挟まれた、鏡のように静かな細長い入り江。昼過ぎのほんの数時間だけの、薄青い光。
その入り江の突き当たりに、夜が蹲っていた。
ほかに、言いようがなかった。
半球の形をした巨大な闇。差し渡し一キロ近く。入り江の奥の斜面とその下の小さな港を、すっぽりと呑み込んでいる。表面は墨を流したように黒く、それでいて、どこかゆっくりと、呼吸をするように揺らめいていた。
昼の光が、その闇の縁でふっと途切れていた。そこから先は世界ではない、というように。
「……固有結界」
青子が船の縁を握りしめて呟いた。
「何だ、それ」
「術者の心の中の景色で、現実の世界を、塗り潰す魔術。……魔術の、行き着く先の一つよ。まともな魔術師が一生かけて、届くかどうか」
青子の指先が白くなっていた。
「それを、村一つ分。三週間以上。……世界は、こういうものを、放っておかないの。塗り潰された場所を、元に戻そうとして、いつも、外から押し返してくる。普通は、数分ももたない。……なのに、あれは、ずっと、あそこにある」
「……普通じゃねえ奴がいる、ってことか」
「そういうこと」
船頭の老人が、闇からいちばん遠い岸に船を着けた。それ以上は近づこうとしなかった。
老人は闇の方を見ないようにしながら、この国の言葉で、何かを低く呟いた。
たぶん、祈りだった。
◇
闇の縁に踏み込んだ瞬間、世界が裏返った。
昼の光が消えた。雪の匂いが消えた。入り江の潮の匂いも、風の音も。
代わりに、夜があった。深い、深い藍色の夜。
空の半分を埋め尽くすほどの、巨大な青白い満月。その光に照らされて、足元の雪原が一面、銀色に輝いている。雪原の向こうに、小さな漁村の家々がひっそりと並んでいた。赤や黄色の木造の家。
どの窓にも、明かりはなかった。
音がなかった。自分の心臓の音さえ遠くに聞こえるほどの、完全な静寂。
忉利は、目の奥の扉を開いた。
半分。
線が、空を覆っていた。
地面から、家々から、雪の一粒一粒から、無数の線が空の満月へと引き絞られていく。満月そのものが、巨大な結び目だった。何万本、何十万本という線が、そこで一つに編み込まれて、この夜の世界の全部を、一つの籠のように編み上げている。
そして、その籠の外側を、もう一つ、別の種類の線が取り巻いていた。
太くて静かで、途方もなく巨大な線。籠の外側から、ゆっくりと、ゆっくりと籠を押し潰そうとしている。
世界の方の線だった。籠と世界の間で、二つの線がぎりぎりと押し合っていた。
「……忉利」
青子の声が低かった。
「目、あんまり開けすぎないで」
「……なんでだよ」
「ここは、誰かの心の中よ。……あんたの目が、この籠の持ち主に、いちばん見られたくない場所まで、見ちゃうかもしれない」
その時。
「――ようこそ」
声がした。音のない夜の中で、その声だけがひどく鮮やかに響いた。
村のいちばん高い家の屋根の上に、一人の女が座っていた。
白い、裾の長い衣。月の光と同じ色の、長い、長い銀の髪。顔は少女のようにも、老女のようにも見えた。
目だけが、赤かった。
「――また、お客様。……今年の冬は、賑やかね」
◇
「……お客様?」
青子の目が細められた。
「三週間前に、魔術師が二人。少しして、教会の犬が一人。……みんな、月の下で眠ってもらったわ」
女は屋根の上で膝を抱えて、首を傾げた。
「この海辺は、冬になると二ヶ月、太陽が昇らないの。わたしは何百年も、それだけを楽しみに、ここで冬を越してきた。……なのに今年も、一月の終わりに太陽が戻ってきた。だから、戻さないことにしたの」
女の赤い目が、退屈そうに青子をなぞった。それから、その後ろの忉利で止まった。
止まったまま、しばらく動かなかった。
「……あら」
声の温度が変わった。
「わたしの月の糸を、そんな目でなぞる人間なんて、初めて見たわ」
忉利は黙っていた。
「噂は、北の果てにまで届いているのよ。……回路のない、ただの人間の眼。見ただけで、死徒の不死を断つ眼。何年か前、スロヴァキアの谷で、三百年ものの同族が一人、灰になった。その眼に、見られて」
女は屋根の上で、ゆっくりと立ち上がった。
「夜を延ばしてみるものね。冬の終わりに、こんなものが自分から歩いてくるなんて」
「わたしは、それが欲しいの」
「……あんたも、かよ」
「わたしも、よ。……同族たちは、みんな、囁き合っているわ。その眼の持ち主の血を啜れば、その眼の力も、手に入る。この世界の、全部の継ぎ目が見える眼。……永遠を生きる者にとって、こんなに素敵な宝物はない」
女は空の満月をうっとりと見上げた。
「運が悪かったわね。ここは、わたしの心の中の、明けない夜。………この中なら、わたしは、無敵。この中なら、その眼も、わたしの夜の外には、何も見えない。月から先は、何もない。わたしの心の、壁があるだけ」
女は赤い目を細めた。
「ここで、その眼を、ゆっくり、いただくわ」
青子が鼻で笑った。
「……噂って、ほんとに当てにならないのね」
「あら」
「その眼は、血に溶けてるものじゃないの。こいつと私の間でしか開かない眼よ。……啜ったって、あんたの口に残るのは、ただの人間の血の味だけ」
女は首を傾げた。微笑みは崩れなかった。
「なら、確かめるだけよ」
◇
青子の指先に、青い光が灯った。
「――悪いけど」
低い、低い声だった。
「こいつの目に手を伸ばした奴は、青を敵に回すの。……帳簿に、そう書いてあるはずよ」
「帳簿?」
女は笑った。
「魔術師たちの帳簿なんて、わたしたちには、関係ないわ」
「なら、今、教えてあげる」
指が弾けた。
一発。それだけだった。
屋根の上で、女が片手を上げた。満月から青白い光が降って、女の前に盾を編んだ。
青い礫は、その盾ごと、女の右半身を消し飛ばした。屋根の瓦が半分抉れて、夜の向こうへ吹き飛んでいった。
女の顔から、微笑みが一瞬だけ剥がれた。
満月から光が降った。女の身体が、元どおりに編み直された。
「……あら。痛いのね、それ」
「痛いでしょうね」
青子はもう次を撃っていた。
五発。
女の盾が五枚、同時に割れた。女の身体が肩から、腰から、膝から、ばらばらに吹き飛んだ。
満月から光が降る。編み直される。
十発。
編み直される前に、吹き飛ばす。
女の身体は、一度も完全な形に戻れないまま、屋根の上で何度も、何度も砕けた。
「――っ、この……!」
満月から、影が降ってきた。蝙蝠のように、狼のように、黒い影の群れが無数に。
青子はそちらを見もしなかった。左手を、横に薙いだ。
指先から放たれた青い光が帯になって、夜を横一文字に裂いた。影の群れが、まとめて消えた。
足元の雪が生き物のように盛り上がって、青子の足首に絡みつこうとした。
青子は足を踏み鳴らした。足の裏から魔力が弾けて、雪は湯気になって蒸発した。
「……二百年? 三百年?」
青子は肩にかかった髪を指で払った。
「どっちでもいいけど。私、今まで、あんたみたいなの、何人も撃ってきたのよ」
屋根の上で、女がまた編み直されていた。息が荒かった。
――格が、違った。
忉利は雪原の端で、それを見ていた。
知っていた。この女は、壊すことに関してだけは、誰よりも容赦がない。
この夜が女の心の中で、女の無敵の場所だとしても、このまま撃ち続ければ、いずれ夜ごと女を削りきる。
――けれど。
忉利は目を細めた。扉を、半分。
女が編み直されるたびに、月へ伸びる何十万本の線の中で、ある線だけがほんの少しずつ細くなっていた。
村の家々から伸びる線。窓に明かりのない、赤や黄色の家の中で、眠っている人たちの胸から伸びる線。
女が一度生き返るたびに、その線が一本ずつ、ほんの少しずつすり減っていった。
「――青子! 撃つな!」
青子の指が止まった。
「……なによ」
「あいつが、生き返るたびに。……村の連中の線が、細くなってる」
青子の目が見開かれた。
「月の線の、半分は、村の連中から引いてる。……あいつ、死ぬたびに、村の誰かを、ちょっとずつ、燃やして、生き返ってる」
「…………」
「あと、十回、殺したら。……たぶん、誰か、死ぬ」
屋根の上で、女が編み直された身体をゆっくりと起こした。微笑みが、戻っていた。
「……気づいたのね、眼の子。賢い子」
女は満月を愛おしそうに見上げた。
「この夜の月は、村の人たちの、夢で、編んでいるの。……わたしを殺すたびに、誰かの夢が、一つ、燃えるわ」
女は青子を見た。
「さあ、魔法使い。撃って。何度でも。……あなたが、村を、全部、燃やし尽くすまで」
◇
青子の指先の光が揺らいだ。
撃てば、勝てる。何度でも、壊せる。
けれど、壊すたびに、窓の暗い家の中で、誰かが少しずつ死んでいく。
「……卑怯ね、あんた」
「三週間、この夜を張ってきたのよ。……壊されない備えくらい、してあるわ」
女の手が、もう一度上がった。影が降ってきた。
今度は、雪原の端の忉利に向かって。
「――っ!」
青子は跳んだ。忉利の前に。
両手を広げた。青い光の壁が、二人の前に立ち上がった。
影が壁にぶつかって弾けた。次が来る。弾ける。次が来る。
撃ち返せば、一瞬で、全部消せる。けれど、影を撃てば、影を降らせた女の月が、また村から線を引く。
だから、受けるしかなかった。壁を張り続けるしかなかった。
その足元で、雪がまた盛り上がった。青子の足首に、膝に、腰に。冷たい、月の色の雪の鎖。
足を踏み鳴らせば、蒸発させられる。けれど今、足元に魔力を回せば、壁が薄くなる。壁が薄くなれば、影が忉利に届く。
青子は雪の鎖を振りほどかなかった。腰まで呑まれるに任せた。
「――青子!」
忉利は雪の鎖を見た。
ぷつり。切れた。
けれど、切れた端から、また雪が盛り上がる。また絡みつく。女の心の中の雪だった。いくらでも湧いてくる。
壁の向こうで、影が青子の首筋を狙っていた。壁を回り込んで。上から。横から。
青子は片手で壁を支えたまま、もう片方の手で、首筋に群がる影を払った。撃たずに。素手で。
影の牙が、青子の手の甲を裂いた。血が雪の上に落ちた。
「――取引よ、眼の子」
屋根の上から、女の声が降ってきた。
「その眼を、差し出しなさい。自分から、わたしのところへ、歩いてきなさい。……そうしたら、魔法使いは、返してあげる。夜の外へ、無傷で」
◇
忉利は動かなかった。
自分を背にかばって、雪に半身を呑まれたまま、一発も撃たずに壁を張り続けている青子を見ていた。
青子が肩越しに、忉利を見返した。雪の中で、歯を食いしばって。
「――来たら、殴るわよ」
かすれた声だった。
「……聞いたでしょ。二人で一つ。片方だけ差し出す取引なんて、最初から、成立しないの」
「…………」
「それに、あんたが行ったら。……私、もう、手加減しないわよ。村ごと、あいつを、吹き飛ばす。……それでも、いいなら、行きなさい」
嘘ではなかった。この女は、やろうと思えばそれができる。
だから今、やらずにいる。自分がここに立っている限り。
忉利は青子の目を見た。それから、屋根の上の女を見た。それから、空の満月を見た。
一部を切っても、戻る。心は、何度でも同じ景色を思い出す。
なら。思い出す暇もないくらいに、この夜の、全部を。
――目、あんまり開けすぎないで。
さっき、青子が言った。
いつもは、見たいところだけを見ていた。切りたい線だけを。必要な場所だけを。扉は半分か、それより少し。それ以外は意識の外に、ぼんやりと滲ませたまま。
旧校舎の夜、光の中でこの扉ができてから七年。全開までなら、何度も開けてきた。最後の蝶番まで。
けれど、その奥は。開けきった扉のさらに奥の、底までは。
一度も、開けたことがなかった。
「……悪い、青子」
忉利は言った。
「約束、一個、破る」
目を閉じた。それから、ゆっくりと開いた。
目の奥の扉を。全開の、その奥へ。
――底まで。
◇
―――。
青子は、影を払う手を止めた。
止めたのではなかった。止まったのだ。
全身の産毛が逆立っていた。背骨の奥を、冷たい何かが、下から上へ一息に駆け上がった。息ができなかった。
雪の鎖の中で、振り返った。忉利が、そこに立っていた。
その目が。
灰色の虹彩のいちばん外の縁に、細い輪になって閉じ込められていた夜明け前の青。それが今、輪ではなかった。虹彩の全部を満たして、なお溢れていた。瞳孔の黒までが、青く透けていた。
夜明け前の色でも、全開の時の真昼の青でもなかった。もっと深い。底の見えない深い井戸の、いちばん底に溜まった水のような青。それが忉利の両の目の奥から、静かに光っていた。月の光よりも、明るく。
青子は、その目と目が合った。合った瞬間、わかった。
見られている。自分の、全部が。
皮膚の下の血の流れの一本一本が。魔術回路の一本一本が。骨と骨を繋ぐ線が。心臓の鼓動を繋ぐ線が。四年半前の七夕に閉じた時間の輪が。その輪とこの男の輪を結んでいる、あの糸が。
祖父から継いだ魔法そのものの、目に見えないはずの線までもが。全部、あの青い目の中に映っている。
丸裸だった。どんな結界の中よりも、どんな敵の前よりも無防備だった。
あの目がほんの少しでも意識を傾けたら、自分は、ほどける。
音もなく。痛みもなく。蒼崎青子という存在を編み上げている線の、どれか一本がぷつりと。たった、それだけで。
青子の膝が、雪の鎖の中で震えていた。死徒の前でも、協会の執行者十二人の前でも、姉の前でさえ震えなかった膝が。
屋根の上で、女の顔から微笑みが消えていた。
「……なに、それ」
女の声がかすれた。
「なに、その目。……わたしの夜が、全部、見えてる。月の結び目も。夜の籠も。……わたしの心の、奥の、奥まで。……いや。やめて。見ないで」
女の声が震えていた。
「月から先は、何もないはずよ。わたしの心の壁しか、ないはずよ。……なのに、どうして、その目は、壁の、向こうを、見てるの――」
◇
忉利は、女を見ていなかった。月も、見ていなかった。
月の、その向こうを見ていた。
夜の籠の外側。籠をぎりぎりと押し潰そうとしている、世界の太くて静かな線。
籠と世界の継ぎ目を。女の心とこの世界が今、無理やり縫い合わされている、その縫い目を。
一本だった。何十万本の月の線を束ねた籠の全部を、世界に縫いつけている、たった一本の縫い目。
これを切れば、籠は世界から剥がれる。剥がれた籠は、世界に押し潰されて消える。
けれど、その縫い目は籠の線であると同時に、世界の線でもあった。切れば、世界の方にも傷がつく。
わかっていた。全部、見えていた。
雪の鎖の中で、青子が震えていた。影が、青子の首筋に牙を立てようとしていた。
「――――」
音は、なかった。ぷつり、とも言わなかった。
ただ、空に罅が入った。
◇
満月のちょうど真ん中を、一本の細い線が横切った。
線は満月を越えて、夜空を東の端から西の端まで一息に走った。
それから、その線から無数の罅が枝分かれして、広がった。夜空いっぱいに。薄い硝子の天井に石を投げつけたように。
満月が、割れた。夜空が、割れた。
割れた隙間から、光が差し込んできた。
金色の。温かい。北の果ての、昼の太陽の光だった。
夜が崩れ落ちた。藍色の欠片が硝子の雨のようにきらきらと降り注いで、地面に届く前に、光の中に溶けて消えた。
青子の身体に絡みついていた雪の鎖が、ただの雪になって崩れ落ちた。首筋に群がっていた影は、陽の光の中で煙のように掻き消えた。
その向こうに、昼の空があった。薄青い、北の国の冬の昼の空。南の山の稜線の上に、太陽の縁がほんの少しだけ顔を覗かせていた。
屋根の上で、女が悲鳴を上げた。白い衣が、陽の光の中で燃え始めていた。銀の髪が。白い肌が。
女は燃えながら、忉利を見ていた。恐怖に見開かれた赤い目で。
それから、その赤い目が、ほんの一瞬だけ忉利の目の底の青の中に何かを見た。女の唇が動いた。
「――――あなた、それは、世界の」
青子は震えを奥歯で噛み殺した。それから、ゆっくりと手を持ち上げた。指先に、青い光を灯す。
「……終わりよ」
撃った。一発だけ。
女の身体が、光の中で弾けた。灰が陽の光の中を静かに舞い上がって、消えていった。
◇
しばらく、誰も動かなかった。
漁村の家々の窓に、ひとつ、またひとつと明かりが灯り始めていた。眠らされていた人たちが目を覚ましたのだ。扉が開いて、寝ぼけた顔の漁師が一人外に出てきて、南の空の太陽を見上げ、ぽかんと口を開けていた。
青子は崩れた雪の中に座り込んで、空を見上げていた。薄青い、昼の空。
その空のちょうど真ん中を、一本の細い線が横切っていた。
糸のように細い、白い線。東の稜線から、西の稜線まで。満月を割った、あの線の名残だった。
固有結界の夜空は、もう、ない。今、そこにあるのは、本物の空だった。
本物の、この世界の空に。
罅が、入っていた。
青子の全身から、血の気が引いた。
その時、空気が変わった。
音がしなかった。風が止まった。入り江の波が止まった。舞い上がった灰が、空中で止まった。
何かが、目を覚ましかけていた。この世界のどこか、ずっと深いところで。
巨大な何かが、ゆっくりと瞼を持ち上げようとしていた。傷をつけた者を探すように。
青子は凍りついた。
知っていた。祖父から聞かされていた。
――世界に、本当の傷をつけるな。世界は、傷をつけた者を、許さない。
抑止。
あれが完全に目を覚ましたら、傷をつけた者は、消える。この世界から。痕跡ひとつ残さずに。
十秒。
白い線が、ゆっくりと薄れ始めた。空の青が両側から滲んできて、線を覆い隠していく。傷口が塞がっていくように。
二十秒。
三十秒。
白い線が消えた。
風が戻った。波の音が戻った。空中で止まっていた灰が、またゆっくりと舞い落ち始めた。
何かは、瞼を半分だけ持ち上げたまま、またゆっくりと閉じていった。
傷が塞がったから。ぎりぎり、間に合ったから。
ただの冬の空だった。
けれど、青子は見た。
あの三十秒の間、空の全部が、ほんのかすかに震えていたのを。世界が息を止めていたのを。それから、世界の底で、何かがこちらを見かけたのを。
◇
「……忉利」
青子の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
振り返る。忉利は、雪原の上に立っていた。
目は、もう元に戻っていた。灰色の虹彩の縁に、細い夜明け前の青の輪を宿した、いつもの目。いつもの気だるげな顔で、首の後ろを掻いていた。
「……ちょっと、行きすぎた」
ぼそりと言った。
「夜の籠だけ、剥がすつもりだったんだけどな。……縫い目が、世界の方にも、繋がってた」
「――――」
「塞がったから、たぶん、大丈夫だろ」
青子は何も言えなかった。
ちょっとだけ。世界の空に罅を入れて。世界の底の何かに、見られかけて。たぶん、大丈夫だろ、と。いつもの顔で。
◇
帰りの船の上で、青子は忉利から少し離れた舳先に座っていた。
いつもなら、隣に座る。肩が並ぶくらいの近さで。今日は、船の真ん中の網の山を挟んだ向こう側だった。
忉利は何も言わなかった。一度だけ、青子の方を見た。
目が合いかけた瞬間、青子の肩が、ほんのわずかにびくりと跳ねた。すぐに何事もなかったように、青子は入り江の水面に目を落とした。
忉利はゆっくりと視線を逸らした。それから、船尾の方の、遠ざかっていく漁村を見た。
港に、人が出てきていた。何人もの人が南の空を指さして、抱き合っていた。
村の外れの小さな教会の脇に、三つの影が横たえられていた。先に入って戻らなかった、協会の魔術師二人と教会の代行者一人。村の漁師たちが布をかけてやっていた。
自分たちが来る、ずっと前に死んでいた者たち。
忉利は船の縁に肘をついて、それを見ていた。それから、自分の手のひらを見下ろした。
この手は何も持っていない。剣も、杖も、魔弾も。目だけだ。
この目を見た途端に、あの女は太陽のことも忘れた顔をした。その目で今日、世界の空を切った。
船の反対側で、青子はずっと水面を見ていた。一度も、こちらを見なかった。
忉利は、それを責める気にはならなかった。ただ、船が入り江の町に着くまでの一時間が、ひどく長かった。
◇
その夜。入り江の町の、宿の部屋。
窓の外は、もう夜だった。本物の、北の国の長い冬の夜。空には、細い三日月と、緑色のオーロラがゆらゆらと揺れていた。
青子は寝台の端に座って、膝を抱えていた。忉利は窓辺の椅子に座っていた。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
「……どこまで、見えてたの」
やがて、青子が言った。
「あの時」
「全部」
忉利は窓の外のオーロラを見ていた。
「夜の籠の、全部。月の結び目の、全部。それから、籠の外の、世界の線も。……空の、ずっと向こうまで」
「…………」
「砂漠で見た、あの黒い石も。……見えてた」
青子は膝を抱えた腕に力を込めた。
「……私のも?」
忉利は少しだけ黙った。それから、嘘をつかずに答えた。
「見えてた」
「……切れた?」
「切れた」
青子の肩がびくりと震えた。
忉利は窓の外から目を離さなかった。
「お前の線も。お前の、魔法の線も。……たぶん、あのまま、ちょっと気を抜いたら、切りたくなくても、切れた」
「…………」
「切らなかったけどな」
宿の部屋がしんと静まり返った。
「……空の罅が塞がる前に」
青子がぽつりと言った。
「世界の底で、何かが、目を覚ましかけてたの。……わかった?」
「……わかった。空の向こうの、もっと下の方で。でけえ線が、一本、動いた」
「抑止よ」
青子は膝に額を押しつけた。
「世界が、世界を守るための仕組み。……あれが、ちゃんと目を覚ましてたら。あんた、今、ここにいないわ。消されてた。この世界から。……私の魔法でも、取り返せない場所に」
忉利は黙っていた。
「三十秒。……あと、何秒か、罅が塞がるのが遅かったら」
青子の声が震えた。
「怖かったわ」
膝に額を押しつけたまま。
「初めてよ。……あんたのこと、怖いって思ったの」
忉利は何も言わなかった。
「死徒の前でも、執行者の前でも、姉貴の前でも、震えたことなんてなかったのに。……あんたの目と目が合った時、膝が、震えたの。止まらなかった」
青子は顔を上げた。目の縁が赤かった。
「それから、罅が塞がる前の三十秒。……あんたが、消えるんじゃないかって。今度は、私の方が、何にもできないところで」
「…………」
「どっちが、怖かったのか、わかんないのよ。……あんたの目が怖かったのか。あんたが消えるのが、怖かったのか」
◇
忉利は椅子から立ち上がった。寝台の方に歩いてきた。
青子の前にしゃがみ込む。目線を合わせる。
「……約束、一個、破った」
「……え?」
「目、開けすぎないでって、言われたのに」
「…………」
「悪かった」
青子は忉利の目を見た。灰色の虹彩の縁の、細い夜明け前の青の輪。いつもの、眠たそうな目。
「……なんで、破ったのよ」
「お前の首に、影が、群がってたから」
忉利は言った。
「あのまま、半分だけ開けて、ちまちま切ってたら、間に合わなかった。……だから、底まで、開けた」
「…………」
「スロヴァキアの時と、同じだ。……待ってたら、間に合わなかった」
青子は唇を噛んだ。
「……ずるいのよ。そういうの」
「知ってる」
「怒れないじゃない」
「怒ってもいいぞ」
「怒れないって言ってるの!」
青子は忉利の胸を、拳でとん、と叩いた。力が入っていなかった。
「……怖がっとけ」
忉利が言った。
「え?」
「怖がっとけ。それで、いい」
忉利の声は静かだった。
「お前が怖がってくれるうちは、たぶん、おれは、大丈夫だ。……どこまで切っていいのか、わかんなくなった時。お前が怖い顔してたら、止まれる気がする」
青子は目を見開いた。
「アレクサンドリアで、お前が灯台の跡を撃とうとした時。おれが、手首掴んだろ」
「……うん」
「今度は、お前の番だ」
忉利は自分の左の手首を、青子の前に差し出した。赤と黒と白の細い糸が結ばれた手首。
「おれが、何でも切りたくなったら。……切っちゃいけねえもんまで、切りそうになったら。世界の方まで、目が行きそうになったら」
「…………」
「お前が、ここ、掴んで、止めろ」
◇
青子は長いこと、忉利の手首を見つめていた。
それから、震える手を伸ばして、その手首をそっと掴んだ。糸の上から。
温かかった。ただの、人間の温かさだった。
「……壊すのは、私の仕事よ」
青子は囁くように言った。
「エチオピアの森で、そう言ったでしょ」
「ああ」
「だから、あんたは、切らない方を選べばいいって」
「ああ」
「……でも、今日、わかったわ」
青子は、忉利の手首を掴んだ手に少しだけ力を込めた。
「あんたが本気で切ったら、私が壊すより、ずっと、ずっと、たくさんのものが、なくなるのね。……世界ごと」
「…………」
「だから」
青子は額を、忉利の額にこつんと押しつけた。
「止めてあげる。……何百年でも。あんたが、切っちゃいけないものに目を向けるたびに、この手首を掴んで、止めてあげる」
「……頼む」
「その代わり」
青子の声が、少しだけ震えた。
「私のことは、ずっと、いつもの目で見てなさいよ。……灰色で、縁だけ、ちょっと青くて、眠たそうな目で」
忉利は小さく笑った。
「わかった」
「……あの、真昼の空みたいな目で、見ないで」
「見ねえよ」
「約束よ」
「……破らねえ方の、約束だな」
「破ったら、今度こそ、殴るわよ」
窓の外で、オーロラが緑から紫へ、ゆっくりと色を変えていった。
青子は額を押しつけたまま、目を閉じた。忉利の手首を掴んだまま。
膝の震えは、もう止まっていた。
けれど、あの瞬間の冷たさは、背骨の奥のどこかに小さな氷の欠片のように残っていた。たぶん、ずっと残るのだろう。
それでいい、と青子は思った。この欠片がある限り、自分は、この手首を掴むことを忘れない。
◇
同じ夜。
遠く、ロンドンの塔の地下の観測室で。
古い巨大な真鍮の天球儀の針が、北の方角を指したまま三十秒間震え続けた記録が、帳簿に一行、書き加えられた。
――一九九七年二月。北緯七十度付近。世界の表層に、約三十秒間の断裂。原因、不明。
その一行のすぐ横に、誰かが細い万年筆で小さく書き添えた。
――青と、その眼。
帳簿を読む者は、多かった。その夜のうちに、塔のいくつもの家の書斎で、同じ一行が読まれた。
少しぶっ壊れにしすぎた感が否めなかったり、ゆうて抑止力そんな簡単に動くのかとかありますが、後々しっかりこの設定を活かして書きたいものがあるので、お許しください。
あと、前回から始めたアンケートは、クロリンデの小説のほうだけでやることにしました。
https://syosetu.org/novel/429390/
別の作品で同じアンケート載せるってできないんですね。知らなかったです。
集計が面倒だし、ほぼホヨバのキャラなのでこっちでやればいいかなと。