夜明けの色を見る眼   作:にんら

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夜の明けない村

 ―――世界には、世界を守る仕組みがある。

 

 誰が作ったのでもない。誰が命じたのでもない。ただ、この世界がこの世界であり続けるために、世界そのものが持っている免疫のようなもの。

 

 魔術師たちは、それを抑止と呼ぶ。

 

 普段は、眠っている。

 

 魔術師が多少の無茶をしても。死徒が町ひとつを食い荒らしても。世界にとっては、皮膚の上の小さな擦り傷にすぎない。

 

 けれど、傷が皮膚を越えて、その下に届きそうになった時。

 

 世界は、目を覚ます。

 

 目を覚ました世界は、傷をつけた者を、ためらいなく消す。

 

 

◇

 

 

 ノルウェーの北の果て、フィンマルクの海岸は、まだ冬の夜の底にいた。

 

 一月の終わりに、この辺りにも太陽は戻ってきていた。二ヶ月ぶりに、南の山の稜線からほんの数分だけ、太陽の縁が顔を覗かせた。それから毎日、少しずつ昼が長くなっている。今は、昼過ぎの三時間ほどだけ、空が薄く青く明るむ。

 

 細長い入り江の町の、古い木造の宿の部屋で、青子は赤い封蝋の手紙を読んでいた。

 

「……夜が、明けない村」

 

 青子の眉が寄った。

 

「この入り江の、ずっと奥の、小さな漁村。人口、八十人ちょっと。……先月の終わり、この辺り一帯に太陽が戻ってきたのに、その村だけ、夜のまま。外から見ると、村のあった場所に、黒い半球が蹲ってるだけで、中に入った者は、戻ってこない」

 

「……協会の依頼か」

 

 窓辺で、忉利が訊いた。

 

「そう。先に入った、協会の魔術師が二人。それから、聖堂教会の代行者が一人。……三週間、誰も出てこない」

 

 青子は便箋を指先で弾いた。

 

「報酬は、いつもの三倍。前払い。……それだけ、厄介ってことね」

 

「行くのか」

 

「行くわ」

 

 青子は立ち上がってコートを羽織った。それから振り返って、忉利を見た。

 

「……あんたも、来るのよ」

 

「当たり前だろ」

 

「当たり前、ね」

 

 青子は少しだけ唇を尖らせた。

 

「スロヴァキアの時は、当たり前じゃなかったでしょ」

 

「あれは、お前が一人で汽車に乗ったんだろ」

 

「そうよ。で、あんたは一人で坑道に入った。……だから、もう、どっちも、しないの」

 

 青子は忉利の手を取った。左の手首の、赤と黒と白の糸の上から。

 

「一人では、行かない。……約束したでしょ」

 

 

◇

 

 

 入り江の奥へ向かう小さな漁船の舳先から、それは見えた。

 

 雪を被った黒い山々に挟まれた、鏡のように静かな細長い入り江。昼過ぎのほんの数時間だけの、薄青い光。

 

 その入り江の突き当たりに、夜が蹲っていた。

 

 ほかに、言いようがなかった。

 

 半球の形をした巨大な闇。差し渡し一キロ近く。入り江の奥の斜面とその下の小さな港を、すっぽりと呑み込んでいる。表面は墨を流したように黒く、それでいて、どこかゆっくりと、呼吸をするように揺らめいていた。

 

 昼の光が、その闇の縁でふっと途切れていた。そこから先は世界ではない、というように。

 

「……固有結界」

 

 青子が船の縁を握りしめて呟いた。

 

「何だ、それ」

 

「術者の心の中の景色で、現実の世界を、塗り潰す魔術。……魔術の、行き着く先の一つよ。まともな魔術師が一生かけて、届くかどうか」

 

 青子の指先が白くなっていた。

 

「それを、村一つ分。三週間以上。……世界は、こういうものを、放っておかないの。塗り潰された場所を、元に戻そうとして、いつも、外から押し返してくる。普通は、数分ももたない。……なのに、あれは、ずっと、あそこにある」

 

「……普通じゃねえ奴がいる、ってことか」

 

「そういうこと」

 

 船頭の老人が、闇からいちばん遠い岸に船を着けた。それ以上は近づこうとしなかった。

 

 老人は闇の方を見ないようにしながら、この国の言葉で、何かを低く呟いた。

 

 たぶん、祈りだった。

 

 

◇

 

 

 闇の縁に踏み込んだ瞬間、世界が裏返った。

 

 昼の光が消えた。雪の匂いが消えた。入り江の潮の匂いも、風の音も。

 

 代わりに、夜があった。深い、深い藍色の夜。

 

 空の半分を埋め尽くすほどの、巨大な青白い満月。その光に照らされて、足元の雪原が一面、銀色に輝いている。雪原の向こうに、小さな漁村の家々がひっそりと並んでいた。赤や黄色の木造の家。

 

 どの窓にも、明かりはなかった。

 

 音がなかった。自分の心臓の音さえ遠くに聞こえるほどの、完全な静寂。

 

 忉利は、目の奥の扉を開いた。

 

 半分。

 

 線が、空を覆っていた。

 

 地面から、家々から、雪の一粒一粒から、無数の線が空の満月へと引き絞られていく。満月そのものが、巨大な結び目だった。何万本、何十万本という線が、そこで一つに編み込まれて、この夜の世界の全部を、一つの籠のように編み上げている。

 

 そして、その籠の外側を、もう一つ、別の種類の線が取り巻いていた。

 

 太くて静かで、途方もなく巨大な線。籠の外側から、ゆっくりと、ゆっくりと籠を押し潰そうとしている。

 

 世界の方の線だった。籠と世界の間で、二つの線がぎりぎりと押し合っていた。

 

「……忉利」

 

 青子の声が低かった。

 

「目、あんまり開けすぎないで」

 

「……なんでだよ」

 

「ここは、誰かの心の中よ。……あんたの目が、この籠の持ち主に、いちばん見られたくない場所まで、見ちゃうかもしれない」

 

 その時。

 

「――ようこそ」

 

 声がした。音のない夜の中で、その声だけがひどく鮮やかに響いた。

 

 村のいちばん高い家の屋根の上に、一人の女が座っていた。

 

 白い、裾の長い衣。月の光と同じ色の、長い、長い銀の髪。顔は少女のようにも、老女のようにも見えた。

 

 目だけが、赤かった。

 

「――また、お客様。……今年の冬は、賑やかね」

 

 

◇

 

 

「……お客様?」

 

 青子の目が細められた。

 

「三週間前に、魔術師が二人。少しして、教会の犬が一人。……みんな、月の下で眠ってもらったわ」

 

 女は屋根の上で膝を抱えて、首を傾げた。

 

「この海辺は、冬になると二ヶ月、太陽が昇らないの。わたしは何百年も、それだけを楽しみに、ここで冬を越してきた。……なのに今年も、一月の終わりに太陽が戻ってきた。だから、戻さないことにしたの」

 

 女の赤い目が、退屈そうに青子をなぞった。それから、その後ろの忉利で止まった。

 

 止まったまま、しばらく動かなかった。

 

「……あら」

 

 声の温度が変わった。

 

「わたしの月の糸を、そんな目でなぞる人間なんて、初めて見たわ」

 

 忉利は黙っていた。

 

「噂は、北の果てにまで届いているのよ。……回路のない、ただの人間の眼。見ただけで、死徒の不死を断つ眼。何年か前、スロヴァキアの谷で、三百年ものの同族が一人、灰になった。その眼に、見られて」

 

 女は屋根の上で、ゆっくりと立ち上がった。

 

「夜を延ばしてみるものね。冬の終わりに、こんなものが自分から歩いてくるなんて」

 

「わたしは、それが欲しいの」

 

「……あんたも、かよ」

 

「わたしも、よ。……同族たちは、みんな、囁き合っているわ。その眼の持ち主の血を啜れば、その眼の力も、手に入る。この世界の、全部の継ぎ目が見える眼。……永遠を生きる者にとって、こんなに素敵な宝物はない」

 

 女は空の満月をうっとりと見上げた。

 

「運が悪かったわね。ここは、わたしの心の中の、明けない夜。………この中なら、わたしは、無敵。この中なら、その眼も、わたしの夜の外には、何も見えない。月から先は、何もない。わたしの心の、壁があるだけ」

 

 女は赤い目を細めた。

 

「ここで、その眼を、ゆっくり、いただくわ」

 

 青子が鼻で笑った。

 

「……噂って、ほんとに当てにならないのね」

 

「あら」

 

「その眼は、血に溶けてるものじゃないの。こいつと私の間でしか開かない眼よ。……啜ったって、あんたの口に残るのは、ただの人間の血の味だけ」

 

 女は首を傾げた。微笑みは崩れなかった。

 

「なら、確かめるだけよ」

 

 

◇

 

 

 青子の指先に、青い光が灯った。

 

「――悪いけど」

 

 低い、低い声だった。

 

「こいつの目に手を伸ばした奴は、青を敵に回すの。……帳簿に、そう書いてあるはずよ」

 

「帳簿?」

 

 女は笑った。

 

「魔術師たちの帳簿なんて、わたしたちには、関係ないわ」

 

「なら、今、教えてあげる」

 

 指が弾けた。

 

 一発。それだけだった。

 

 屋根の上で、女が片手を上げた。満月から青白い光が降って、女の前に盾を編んだ。

 

 青い礫は、その盾ごと、女の右半身を消し飛ばした。屋根の瓦が半分抉れて、夜の向こうへ吹き飛んでいった。

 

 女の顔から、微笑みが一瞬だけ剥がれた。

 

 満月から光が降った。女の身体が、元どおりに編み直された。

 

「……あら。痛いのね、それ」

 

「痛いでしょうね」

 

 青子はもう次を撃っていた。

 

 五発。

 

 女の盾が五枚、同時に割れた。女の身体が肩から、腰から、膝から、ばらばらに吹き飛んだ。

 

 満月から光が降る。編み直される。

 

 十発。

 

 編み直される前に、吹き飛ばす。

 

 女の身体は、一度も完全な形に戻れないまま、屋根の上で何度も、何度も砕けた。

 

「――っ、この……!」

 

 満月から、影が降ってきた。蝙蝠のように、狼のように、黒い影の群れが無数に。

 

 青子はそちらを見もしなかった。左手を、横に薙いだ。

 

 指先から放たれた青い光が帯になって、夜を横一文字に裂いた。影の群れが、まとめて消えた。

 

 足元の雪が生き物のように盛り上がって、青子の足首に絡みつこうとした。

 

 青子は足を踏み鳴らした。足の裏から魔力が弾けて、雪は湯気になって蒸発した。

 

「……二百年? 三百年?」

 

 青子は肩にかかった髪を指で払った。

 

「どっちでもいいけど。私、今まで、あんたみたいなの、何人も撃ってきたのよ」

 

 屋根の上で、女がまた編み直されていた。息が荒かった。

 

 ――格が、違った。

 

 忉利は雪原の端で、それを見ていた。

 

 知っていた。この女は、壊すことに関してだけは、誰よりも容赦がない。

 

 この夜が女の心の中で、女の無敵の場所だとしても、このまま撃ち続ければ、いずれ夜ごと女を削りきる。

 

 ――けれど。

 

 忉利は目を細めた。扉を、半分。

 

 女が編み直されるたびに、月へ伸びる何十万本の線の中で、ある線だけがほんの少しずつ細くなっていた。

 

 村の家々から伸びる線。窓に明かりのない、赤や黄色の家の中で、眠っている人たちの胸から伸びる線。

 

 女が一度生き返るたびに、その線が一本ずつ、ほんの少しずつすり減っていった。

 

「――青子! 撃つな!」

 

 青子の指が止まった。

 

「……なによ」

 

「あいつが、生き返るたびに。……村の連中の線が、細くなってる」

 

 青子の目が見開かれた。

 

「月の線の、半分は、村の連中から引いてる。……あいつ、死ぬたびに、村の誰かを、ちょっとずつ、燃やして、生き返ってる」

 

「…………」

 

「あと、十回、殺したら。……たぶん、誰か、死ぬ」

 

 屋根の上で、女が編み直された身体をゆっくりと起こした。微笑みが、戻っていた。

 

「……気づいたのね、眼の子。賢い子」

 

 女は満月を愛おしそうに見上げた。

 

「この夜の月は、村の人たちの、夢で、編んでいるの。……わたしを殺すたびに、誰かの夢が、一つ、燃えるわ」

 

 女は青子を見た。

 

「さあ、魔法使い。撃って。何度でも。……あなたが、村を、全部、燃やし尽くすまで」

 

 

◇

 

 

 青子の指先の光が揺らいだ。

 

 撃てば、勝てる。何度でも、壊せる。

 

 けれど、壊すたびに、窓の暗い家の中で、誰かが少しずつ死んでいく。

 

「……卑怯ね、あんた」

 

「三週間、この夜を張ってきたのよ。……壊されない備えくらい、してあるわ」

 

 女の手が、もう一度上がった。影が降ってきた。

 

 今度は、雪原の端の忉利に向かって。

 

「――っ!」

 

 青子は跳んだ。忉利の前に。

 

 両手を広げた。青い光の壁が、二人の前に立ち上がった。

 

 影が壁にぶつかって弾けた。次が来る。弾ける。次が来る。

 

 撃ち返せば、一瞬で、全部消せる。けれど、影を撃てば、影を降らせた女の月が、また村から線を引く。

 

 だから、受けるしかなかった。壁を張り続けるしかなかった。

 

 その足元で、雪がまた盛り上がった。青子の足首に、膝に、腰に。冷たい、月の色の雪の鎖。

 

 足を踏み鳴らせば、蒸発させられる。けれど今、足元に魔力を回せば、壁が薄くなる。壁が薄くなれば、影が忉利に届く。

 

 青子は雪の鎖を振りほどかなかった。腰まで呑まれるに任せた。

 

「――青子!」

 

 忉利は雪の鎖を見た。

 

 ぷつり。切れた。

 

 けれど、切れた端から、また雪が盛り上がる。また絡みつく。女の心の中の雪だった。いくらでも湧いてくる。

 

 壁の向こうで、影が青子の首筋を狙っていた。壁を回り込んで。上から。横から。

 

 青子は片手で壁を支えたまま、もう片方の手で、首筋に群がる影を払った。撃たずに。素手で。

 

 影の牙が、青子の手の甲を裂いた。血が雪の上に落ちた。

 

「――取引よ、眼の子」

 

 屋根の上から、女の声が降ってきた。

 

「その眼を、差し出しなさい。自分から、わたしのところへ、歩いてきなさい。……そうしたら、魔法使いは、返してあげる。夜の外へ、無傷で」

 

 

◇

 

 

 忉利は動かなかった。

 

 自分を背にかばって、雪に半身を呑まれたまま、一発も撃たずに壁を張り続けている青子を見ていた。

 

 青子が肩越しに、忉利を見返した。雪の中で、歯を食いしばって。

 

「――来たら、殴るわよ」

 

 かすれた声だった。

 

「……聞いたでしょ。二人で一つ。片方だけ差し出す取引なんて、最初から、成立しないの」

 

「…………」

 

「それに、あんたが行ったら。……私、もう、手加減しないわよ。村ごと、あいつを、吹き飛ばす。……それでも、いいなら、行きなさい」

 

 嘘ではなかった。この女は、やろうと思えばそれができる。

 

 だから今、やらずにいる。自分がここに立っている限り。

 

 忉利は青子の目を見た。それから、屋根の上の女を見た。それから、空の満月を見た。

 

 一部を切っても、戻る。心は、何度でも同じ景色を思い出す。

 

 なら。思い出す暇もないくらいに、この夜の、全部を。

 

 ――目、あんまり開けすぎないで。

 

 さっき、青子が言った。

 

 いつもは、見たいところだけを見ていた。切りたい線だけを。必要な場所だけを。扉は半分か、それより少し。それ以外は意識の外に、ぼんやりと滲ませたまま。

 

 旧校舎の夜、光の中でこの扉ができてから七年。全開までなら、何度も開けてきた。最後の蝶番まで。

 

 けれど、その奥は。開けきった扉のさらに奥の、底までは。

 

 一度も、開けたことがなかった。

 

「……悪い、青子」

 

 忉利は言った。

 

「約束、一個、破る」

 

 目を閉じた。それから、ゆっくりと開いた。

 

 目の奥の扉を。全開の、その奥へ。

 

 ――底まで。

 

 

◇

 

 

 ―――。

 

 青子は、影を払う手を止めた。

 

 止めたのではなかった。止まったのだ。

 

 全身の産毛が逆立っていた。背骨の奥を、冷たい何かが、下から上へ一息に駆け上がった。息ができなかった。

 

 雪の鎖の中で、振り返った。忉利が、そこに立っていた。

 

 その目が。

 

 灰色の虹彩のいちばん外の縁に、細い輪になって閉じ込められていた夜明け前の青。それが今、輪ではなかった。虹彩の全部を満たして、なお溢れていた。瞳孔の黒までが、青く透けていた。

 

 夜明け前の色でも、全開の時の真昼の青でもなかった。もっと深い。底の見えない深い井戸の、いちばん底に溜まった水のような青。それが忉利の両の目の奥から、静かに光っていた。月の光よりも、明るく。

 

 青子は、その目と目が合った。合った瞬間、わかった。

 

 見られている。自分の、全部が。

 

 皮膚の下の血の流れの一本一本が。魔術回路の一本一本が。骨と骨を繋ぐ線が。心臓の鼓動を繋ぐ線が。四年半前の七夕に閉じた時間の輪が。その輪とこの男の輪を結んでいる、あの糸が。

 

 祖父から継いだ魔法そのものの、目に見えないはずの線までもが。全部、あの青い目の中に映っている。

 

 丸裸だった。どんな結界の中よりも、どんな敵の前よりも無防備だった。

 

 あの目がほんの少しでも意識を傾けたら、自分は、ほどける。

 

 音もなく。痛みもなく。蒼崎青子という存在を編み上げている線の、どれか一本がぷつりと。たった、それだけで。

 

 青子の膝が、雪の鎖の中で震えていた。死徒の前でも、協会の執行者十二人の前でも、姉の前でさえ震えなかった膝が。

 

 屋根の上で、女の顔から微笑みが消えていた。

 

「……なに、それ」

 

 女の声がかすれた。

 

「なに、その目。……わたしの夜が、全部、見えてる。月の結び目も。夜の籠も。……わたしの心の、奥の、奥まで。……いや。やめて。見ないで」

 

 女の声が震えていた。

 

「月から先は、何もないはずよ。わたしの心の壁しか、ないはずよ。……なのに、どうして、その目は、壁の、向こうを、見てるの――」

 

 

◇

 

 

 忉利は、女を見ていなかった。月も、見ていなかった。

 

 月の、その向こうを見ていた。

 

 夜の籠の外側。籠をぎりぎりと押し潰そうとしている、世界の太くて静かな線。

 

 籠と世界の継ぎ目を。女の心とこの世界が今、無理やり縫い合わされている、その縫い目を。

 

 一本だった。何十万本の月の線を束ねた籠の全部を、世界に縫いつけている、たった一本の縫い目。

 

 これを切れば、籠は世界から剥がれる。剥がれた籠は、世界に押し潰されて消える。

 

 けれど、その縫い目は籠の線であると同時に、世界の線でもあった。切れば、世界の方にも傷がつく。

 

 わかっていた。全部、見えていた。

 

 雪の鎖の中で、青子が震えていた。影が、青子の首筋に牙を立てようとしていた。

 

「――――」

 

 音は、なかった。ぷつり、とも言わなかった。

 

 ただ、空に罅が入った。

 

 

◇

 

 

 満月のちょうど真ん中を、一本の細い線が横切った。

 

 線は満月を越えて、夜空を東の端から西の端まで一息に走った。

 

 それから、その線から無数の罅が枝分かれして、広がった。夜空いっぱいに。薄い硝子の天井に石を投げつけたように。

 

 満月が、割れた。夜空が、割れた。

 

 割れた隙間から、光が差し込んできた。

 

 金色の。温かい。北の果ての、昼の太陽の光だった。

 

 夜が崩れ落ちた。藍色の欠片が硝子の雨のようにきらきらと降り注いで、地面に届く前に、光の中に溶けて消えた。

 

 青子の身体に絡みついていた雪の鎖が、ただの雪になって崩れ落ちた。首筋に群がっていた影は、陽の光の中で煙のように掻き消えた。

 

 その向こうに、昼の空があった。薄青い、北の国の冬の昼の空。南の山の稜線の上に、太陽の縁がほんの少しだけ顔を覗かせていた。

 

 屋根の上で、女が悲鳴を上げた。白い衣が、陽の光の中で燃え始めていた。銀の髪が。白い肌が。

 

 女は燃えながら、忉利を見ていた。恐怖に見開かれた赤い目で。

 

 それから、その赤い目が、ほんの一瞬だけ忉利の目の底の青の中に何かを見た。女の唇が動いた。

 

「――――あなた、それは、世界の」

 

 青子は震えを奥歯で噛み殺した。それから、ゆっくりと手を持ち上げた。指先に、青い光を灯す。

 

「……終わりよ」

 

 撃った。一発だけ。

 

 女の身体が、光の中で弾けた。灰が陽の光の中を静かに舞い上がって、消えていった。

 

 

◇

 

 

 しばらく、誰も動かなかった。

 

 漁村の家々の窓に、ひとつ、またひとつと明かりが灯り始めていた。眠らされていた人たちが目を覚ましたのだ。扉が開いて、寝ぼけた顔の漁師が一人外に出てきて、南の空の太陽を見上げ、ぽかんと口を開けていた。

 

 青子は崩れた雪の中に座り込んで、空を見上げていた。薄青い、昼の空。

 

 その空のちょうど真ん中を、一本の細い線が横切っていた。

 

 糸のように細い、白い線。東の稜線から、西の稜線まで。満月を割った、あの線の名残だった。

 

 固有結界の夜空は、もう、ない。今、そこにあるのは、本物の空だった。

 

 本物の、この世界の空に。

 

 罅が、入っていた。

 

 青子の全身から、血の気が引いた。

 

 その時、空気が変わった。

 

 音がしなかった。風が止まった。入り江の波が止まった。舞い上がった灰が、空中で止まった。

 

 何かが、目を覚ましかけていた。この世界のどこか、ずっと深いところで。

 

 巨大な何かが、ゆっくりと瞼を持ち上げようとしていた。傷をつけた者を探すように。

 

 青子は凍りついた。

 

 知っていた。祖父から聞かされていた。

 

 ――世界に、本当の傷をつけるな。世界は、傷をつけた者を、許さない。

 

 抑止。

 

 あれが完全に目を覚ましたら、傷をつけた者は、消える。この世界から。痕跡ひとつ残さずに。

 

 十秒。

 

 白い線が、ゆっくりと薄れ始めた。空の青が両側から滲んできて、線を覆い隠していく。傷口が塞がっていくように。

 

 二十秒。

 

 三十秒。

 

 白い線が消えた。

 

 風が戻った。波の音が戻った。空中で止まっていた灰が、またゆっくりと舞い落ち始めた。

 

 何かは、瞼を半分だけ持ち上げたまま、またゆっくりと閉じていった。

 

 傷が塞がったから。ぎりぎり、間に合ったから。

 

 ただの冬の空だった。

 

 けれど、青子は見た。

 

 あの三十秒の間、空の全部が、ほんのかすかに震えていたのを。世界が息を止めていたのを。それから、世界の底で、何かがこちらを見かけたのを。

 

 

◇

 

 

「……忉利」

 

 青子の声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 

 振り返る。忉利は、雪原の上に立っていた。

 

 目は、もう元に戻っていた。灰色の虹彩の縁に、細い夜明け前の青の輪を宿した、いつもの目。いつもの気だるげな顔で、首の後ろを掻いていた。

 

「……ちょっと、行きすぎた」

 

 ぼそりと言った。

 

「夜の籠だけ、剥がすつもりだったんだけどな。……縫い目が、世界の方にも、繋がってた」

 

「――――」

 

「塞がったから、たぶん、大丈夫だろ」

 

 青子は何も言えなかった。

 

 ちょっとだけ。世界の空に罅を入れて。世界の底の何かに、見られかけて。たぶん、大丈夫だろ、と。いつもの顔で。

 

 

◇

 

 

 帰りの船の上で、青子は忉利から少し離れた舳先に座っていた。

 

 いつもなら、隣に座る。肩が並ぶくらいの近さで。今日は、船の真ん中の網の山を挟んだ向こう側だった。

 

 忉利は何も言わなかった。一度だけ、青子の方を見た。

 

 目が合いかけた瞬間、青子の肩が、ほんのわずかにびくりと跳ねた。すぐに何事もなかったように、青子は入り江の水面に目を落とした。

 

 忉利はゆっくりと視線を逸らした。それから、船尾の方の、遠ざかっていく漁村を見た。

 

 港に、人が出てきていた。何人もの人が南の空を指さして、抱き合っていた。

 

 村の外れの小さな教会の脇に、三つの影が横たえられていた。先に入って戻らなかった、協会の魔術師二人と教会の代行者一人。村の漁師たちが布をかけてやっていた。

 

 自分たちが来る、ずっと前に死んでいた者たち。

 

 忉利は船の縁に肘をついて、それを見ていた。それから、自分の手のひらを見下ろした。

 

 この手は何も持っていない。剣も、杖も、魔弾も。目だけだ。

 

 この目を見た途端に、あの女は太陽のことも忘れた顔をした。その目で今日、世界の空を切った。

 

 船の反対側で、青子はずっと水面を見ていた。一度も、こちらを見なかった。

 

 忉利は、それを責める気にはならなかった。ただ、船が入り江の町に着くまでの一時間が、ひどく長かった。

 

 

◇

 

 

 その夜。入り江の町の、宿の部屋。

 

 窓の外は、もう夜だった。本物の、北の国の長い冬の夜。空には、細い三日月と、緑色のオーロラがゆらゆらと揺れていた。

 

 青子は寝台の端に座って、膝を抱えていた。忉利は窓辺の椅子に座っていた。

 

 二人とも、しばらく何も言わなかった。

 

「……どこまで、見えてたの」

 

 やがて、青子が言った。

 

「あの時」

 

「全部」

 

 忉利は窓の外のオーロラを見ていた。

 

「夜の籠の、全部。月の結び目の、全部。それから、籠の外の、世界の線も。……空の、ずっと向こうまで」

 

「…………」

 

「砂漠で見た、あの黒い石も。……見えてた」

 

 青子は膝を抱えた腕に力を込めた。

 

「……私のも?」

 

 忉利は少しだけ黙った。それから、嘘をつかずに答えた。

 

「見えてた」

 

「……切れた?」

 

「切れた」

 

 青子の肩がびくりと震えた。

 

 忉利は窓の外から目を離さなかった。

 

「お前の線も。お前の、魔法の線も。……たぶん、あのまま、ちょっと気を抜いたら、切りたくなくても、切れた」

 

「…………」

 

「切らなかったけどな」

 

 宿の部屋がしんと静まり返った。

 

「……空の罅が塞がる前に」

 

 青子がぽつりと言った。

 

「世界の底で、何かが、目を覚ましかけてたの。……わかった?」

 

「……わかった。空の向こうの、もっと下の方で。でけえ線が、一本、動いた」

 

「抑止よ」

 

 青子は膝に額を押しつけた。

 

「世界が、世界を守るための仕組み。……あれが、ちゃんと目を覚ましてたら。あんた、今、ここにいないわ。消されてた。この世界から。……私の魔法でも、取り返せない場所に」

 

 忉利は黙っていた。

 

「三十秒。……あと、何秒か、罅が塞がるのが遅かったら」

 

 青子の声が震えた。

 

「怖かったわ」

 

 膝に額を押しつけたまま。

 

「初めてよ。……あんたのこと、怖いって思ったの」

 

 忉利は何も言わなかった。

 

「死徒の前でも、執行者の前でも、姉貴の前でも、震えたことなんてなかったのに。……あんたの目と目が合った時、膝が、震えたの。止まらなかった」

 

 青子は顔を上げた。目の縁が赤かった。

 

「それから、罅が塞がる前の三十秒。……あんたが、消えるんじゃないかって。今度は、私の方が、何にもできないところで」

 

「…………」

 

「どっちが、怖かったのか、わかんないのよ。……あんたの目が怖かったのか。あんたが消えるのが、怖かったのか」

 

 

◇

 

 

 忉利は椅子から立ち上がった。寝台の方に歩いてきた。

 

 青子の前にしゃがみ込む。目線を合わせる。

 

「……約束、一個、破った」

 

「……え?」

 

「目、開けすぎないでって、言われたのに」

 

「…………」

 

「悪かった」

 

 青子は忉利の目を見た。灰色の虹彩の縁の、細い夜明け前の青の輪。いつもの、眠たそうな目。

 

「……なんで、破ったのよ」

 

「お前の首に、影が、群がってたから」

 

 忉利は言った。

 

「あのまま、半分だけ開けて、ちまちま切ってたら、間に合わなかった。……だから、底まで、開けた」

 

「…………」

 

「スロヴァキアの時と、同じだ。……待ってたら、間に合わなかった」

 

 青子は唇を噛んだ。

 

「……ずるいのよ。そういうの」

 

「知ってる」

 

「怒れないじゃない」

 

「怒ってもいいぞ」

 

「怒れないって言ってるの!」

 

 青子は忉利の胸を、拳でとん、と叩いた。力が入っていなかった。

 

「……怖がっとけ」

 

 忉利が言った。

 

「え?」

 

「怖がっとけ。それで、いい」

 

 忉利の声は静かだった。

 

「お前が怖がってくれるうちは、たぶん、おれは、大丈夫だ。……どこまで切っていいのか、わかんなくなった時。お前が怖い顔してたら、止まれる気がする」

 

 青子は目を見開いた。

 

「アレクサンドリアで、お前が灯台の跡を撃とうとした時。おれが、手首掴んだろ」

 

「……うん」

 

「今度は、お前の番だ」

 

 忉利は自分の左の手首を、青子の前に差し出した。赤と黒と白の細い糸が結ばれた手首。

 

「おれが、何でも切りたくなったら。……切っちゃいけねえもんまで、切りそうになったら。世界の方まで、目が行きそうになったら」

 

「…………」

 

「お前が、ここ、掴んで、止めろ」

 

 

◇

 

 

 青子は長いこと、忉利の手首を見つめていた。

 

 それから、震える手を伸ばして、その手首をそっと掴んだ。糸の上から。

 

 温かかった。ただの、人間の温かさだった。

 

「……壊すのは、私の仕事よ」

 

 青子は囁くように言った。

 

「エチオピアの森で、そう言ったでしょ」

 

「ああ」

 

「だから、あんたは、切らない方を選べばいいって」

 

「ああ」

 

「……でも、今日、わかったわ」

 

 青子は、忉利の手首を掴んだ手に少しだけ力を込めた。

 

「あんたが本気で切ったら、私が壊すより、ずっと、ずっと、たくさんのものが、なくなるのね。……世界ごと」

 

「…………」

 

「だから」

 

 青子は額を、忉利の額にこつんと押しつけた。

 

「止めてあげる。……何百年でも。あんたが、切っちゃいけないものに目を向けるたびに、この手首を掴んで、止めてあげる」

 

「……頼む」

 

「その代わり」

 

 青子の声が、少しだけ震えた。

 

「私のことは、ずっと、いつもの目で見てなさいよ。……灰色で、縁だけ、ちょっと青くて、眠たそうな目で」

 

 忉利は小さく笑った。

 

「わかった」

 

「……あの、真昼の空みたいな目で、見ないで」

 

「見ねえよ」

 

「約束よ」

 

「……破らねえ方の、約束だな」

 

「破ったら、今度こそ、殴るわよ」

 

 窓の外で、オーロラが緑から紫へ、ゆっくりと色を変えていった。

 

 青子は額を押しつけたまま、目を閉じた。忉利の手首を掴んだまま。

 

 膝の震えは、もう止まっていた。

 

 けれど、あの瞬間の冷たさは、背骨の奥のどこかに小さな氷の欠片のように残っていた。たぶん、ずっと残るのだろう。

 

 それでいい、と青子は思った。この欠片がある限り、自分は、この手首を掴むことを忘れない。

 

 

◇

 

 

 同じ夜。

 

 遠く、ロンドンの塔の地下の観測室で。

 

 古い巨大な真鍮の天球儀の針が、北の方角を指したまま三十秒間震え続けた記録が、帳簿に一行、書き加えられた。

 

 ――一九九七年二月。北緯七十度付近。世界の表層に、約三十秒間の断裂。原因、不明。

 

 その一行のすぐ横に、誰かが細い万年筆で小さく書き添えた。

 

 ――青と、その眼。

 

 帳簿を読む者は、多かった。その夜のうちに、塔のいくつもの家の書斎で、同じ一行が読まれた。




少しぶっ壊れにしすぎた感が否めなかったり、ゆうて抑止力そんな簡単に動くのかとかありますが、後々しっかりこの設定を活かして書きたいものがあるので、お許しください。

あと、前回から始めたアンケートは、クロリンデの小説のほうだけでやることにしました。

https://syosetu.org/novel/429390/

別の作品で同じアンケート載せるってできないんですね。知らなかったです。
集計が面倒だし、ほぼホヨバのキャラなのでこっちでやればいいかなと。
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