夜明けの色を見る眼   作:にんら

42 / 42
スカー・レッド

 ―――魔術協会は、とびきりの魔術師に色の名を贈る。

 

 赤。青。黄。

 

 三つの原色が最上位。その下に、混ぜ合わせた色が続く。

 

 ある女は青が欲しかった。家の名に入っている色だった。

 

 塔が女の名の横に書き込んだのは、赤だった。青の欄は、やがて妹の名で埋まった。

 

 それから塔の誰かが、女を陰でこう呼び始めた。

 

 傷んだ赤色。

 

 その名を口にした者がどうなったか、塔では誰も大きな声で話さない。

 

 

◇

 

 

 アバディーンの港に近い銀行は、朝から混んでいた。

 

 北の海を渡ってきたフェリーが着いたばかりで、窓口の列には漁師の妻らしい女や、油の匂いのする作業着の男たちが並んでいた。

 

 青子の番が来た。

 

 窓口の若い行員は、青子の差し出した書類を見て、端末の画面を見て、もう一度書類を見た。

 

「……申し訳ありません。残高が足りません」

 

「は?」

 

「ご指定の額には、足りません」

 

「足りないわけないでしょ。三ヶ月前に入ったのよ。いつもの三倍」

 

 行員は困った顔で、画面を青子の方へ少しだけ傾けた。

 

「お取引の明細を、お出ししましょうか」

 

 印字機ががたがたと鳴って、細長い紙が一枚出てきた。

 

 青子はそれをひったくるように受け取った。忉利は後ろから覗き込んだ。

 

 ――入金。ノルウェー、フィンマルク案件。

 

 見覚えのある数字だった。北の果ての村で、明けない夜を一つ剥がした仕事の報酬。

 

 その下に、行が続いていた。

 

 ――引き出し。ロンドン。

 

 ――引き出し。チューリッヒ。

 

 ――購入。北欧産トネリコ材、ルーン刻印済み、十二本。名義、ミス・アオザキ。

 

 ――購入。湖底粘土、精製済み、二百キロ。名義、ミス・アオザキ。

 

 ――購入(発送待ち)。エディンバラ、サウス・ブリッジ、ハロウェイ商会。名義、ミス・アオザキ。

 

 いちばん下の残高は、二桁だった。

 

 青子は紙を握ったまま動かなかった。

 

 忉利は黙って数えていた。一回目は三年前のイスタンブール。二回目は去年の冬のリスボン。

 

「……三回目だな」

 

「数えなくていいわよ」

 

 青子の声は平らだった。

 

 四年前の夏、塔から回ってきた一通の手紙を、忉利は覚えていた。蒼崎橙子、封印指定。自分とそっくりの人形を作ったという理由で。

 

 青子はその手紙を、宿の灰皿で燃やした。燃え尽きるまで見ていた。それから何も言わなかった。

 

 封印指定を受けた名前では、塔の息のかかった店からは釘一本買えない。だから姉は、もう一つのミス・アオザキの名前で買い物をする。妹の口座から。

 

 あれから、明細を見るたびに一行ずつ増えていく。

 

「……二百キロ」

 

「人形の土よ」

 

 青子は明細の一行を爪で弾いた。

 

「また身体を作るつもりなのね。……私のお金で」

 

「最後の行、発送待ちってなってんな」

 

 青子の爪が止まった。

 

 エディンバラ。ここから汽車で三時間。

 

「……まだ、店にあるってことよね」

 

「たぶんな」

 

 青子は明細を畳んで、コートのポケットに押し込んだ。それから振り返って、窓口の行員ににっこりと笑った。

 

「残ってる分、全部出して」

 

 

◇

 

 

 南へ向かう汽車は、海沿いを走った。

 

 窓の外で、灰色の海が途切れては、また岬の向こうから現れた。青子は向かいの席で腕を組んで、ずっとその海を睨んでいた。

 

 忉利は駅で買った紙袋から、ショートブレッドを一枚出して、青子の前に差し出した。

 

「……いらない」

 

「朝、食ってねえだろ」

 

「いらないって言ってるでしょ」

 

 忉利は差し出したまま待った。

 

 青子は三秒ほど睨んでから、ひったくって齧った。それから、窓の外を見たまま言った。

 

「取り返すわよ。土でも木でも、何でもいいから」

 

「取り返して、どうすんだ」

 

「売るの」

 

「人形の土をか」

 

「欲しがる魔術師なんて、いくらでもいるわよ」

 

 青子は二枚目に手を伸ばした。

 

「……それで、姉貴の買い物の邪魔ができるなら、言うことないわ」

 

 忉利は窓の外を見た。汽車が鉄橋に差しかかって、足元の海が一瞬だけ遠くなった。

 

 北の果ての夜のあと、帳簿に一行が載ったことは、二人とも知っていた。塔の地下の観測室で、天球儀が三十秒震えた。その行の横に、誰かが「青と、その眼」と書き添えた。

 

 あの一行を、あの人も読んでいるのだろうか。

 

 忉利はそれを口にしなかった。青子の三枚目の手が、紙袋の中で止まっていたからだ。

 

 

◇

 

 

 エディンバラの駅は、谷の底にあった。

 

 ホームから長い階段を上がると、いきなり坂の街の真ん中に出る。片側の崖の上に城が載っていて、もう片側には、煤けた石の建物が何階も積み重なっていた。

 

 青子は地図も見ずに歩き出した。歩幅が大きかった。

 

 忉利はその半歩後ろをついていった。

 

「……なあ」

 

「なによ」

 

「お前の姉貴の顔、もうあんまり覚えてねえ」

 

 青子の足が少しだけ緩んだ。

 

「旧校舎で一回会ったきりだからな。眼鏡と、煙草の匂いくらいだ」

 

「それで十分よ」

 

「線は覚えてる」

 

 忉利は自分の右目の下を、指で軽く叩いた。

 

「定規で引いたみてえな線だった。一本も迷ってねえ。……あんな線、あれから一回も見てねえ」

 

 青子は黙って歩いた。

 

 坂の途中で、観光客の一団がバグパイプ吹きを囲んでいた。音が霧の手前で膨らんで、石の壁に跳ね返った。

 

「……今日は」

 

 その音が遠ざかってから、青子が言った。

 

「あの人のもの、何も見ないで。線も、文字も。……一本も」

 

「見たら、どうなる」

 

「見たものを、向こうも見るわ。あの人が作るものは、だいたい、どこかであの人の目に繋がってるの」

 

 青子は前を向いたまま言った。

 

「北の果ての一行を、あの人が読んでないはずがない。……読んでたら、あんたの目を見たくて、うずうずしてるわよ」

 

「……そういう人なのか」

 

「そういう人よ。欲しいと思ったものは、絶対に忘れないの」

 

 忉利はしばらく黙って歩いた。

 

 それから、左の手首の糸を指先でなぞった。

 

「わかった。閉じとく」

 

 

◇

 

 

 サウス・ブリッジは、橋の名前のくせに、上を歩いていても橋だとはわからない。両側にぎっしりと石の建物が並んでいて、その下の谷は、とうの昔に見えなくなっている。

 

 橋のアーチの内側には、窓のない石の部屋が幾つも埋まっていた。昔は職人の仕事場や倉庫だったという。今は大半が塞がれて、残りのいくつかを、看板を出さない店が使っていた。

 

 ハロウェイ商会は、そのいちばん奥の部屋だった。

 

 低いアーチの天井の下に、木箱が積み上げられていた。帳場には、灰色の髭の大柄な男が座っていた。男は青子の差し出した明細を見て、それから青子の顔を見た。

 

「ミス・アオザキ」

 

「そうよ」

 

「……先月、手紙で注文をくださった方と、筆跡が違うようだが」

 

「名義は同じでしょ」

 

 男は髭を撫でた。それから、肩をすくめた。

 

「代金は頂いている。品の名義人がお見えになったのなら、お渡ししない理由はない。……もっとも、その品は、もう船に積む荷造りが済んでいるがね」

 

 男は部屋の隅を顎で示した。

 

 背丈ほどもある木箱が一つ、縄をかけて置かれていた。側面に、送り状が釘で打ちつけてあった。

 

 青子はそれに顔を近づけた。

 

 ――横浜港、倉庫会社気付。

 

 青子はしばらく、その一行を見ていた。

 

「……日本」

 

「船は来週だ」

 

 男が言った。

 

「お持ち帰りになるなら、縄を切るといい。ただし、蓋は気をつけて開けることだ。……注文主は、荷にいつも何かを添える方でね」

 

 忉利が木箱の前に立った。

 

 何も見ていない目で、箱の板を見た。扉は閉じたままだった。

 

 それでも、板の向こうで何かがじっとしているのはわかった。

 

「……青子」

 

「わかってる」

 

 青子は男から鉈を借りて、縄を断った。

 

 それから、忉利の方を振り返った。

 

「目、閉じてて。扉も、最後まで」

 

 忉利は頷いた。目を閉じた。扉を閉じた。

 

 閉じてから、左の手首を青子の方へ差し出した。赤と黒と白の糸の結ばれた手首。

 

 北の果ての宿で、止めてくれと差し出した手首だった。

 

 青子の指が、ゆっくりとそれを巻いた。

 

 そして、もう片方の手で、蓋を持ち上げた。

 

 

◇

 

 

 木箱の中には、灰色の粘土の袋が積まれていた。

 

 その真ん中に、拳ほどの黒い石が一つ、埋め込むように置かれていた。表面に、角張った文字が一つだけ刻まれている。

 

 蓋が開いた瞬間、その文字が赤く灯った。

 

 石から、影が溢れた。

 

 床を這って、壁を這い上がって、アーチの天井の下で形になった。四本の脚。長い首。肩から先が、黒い煙のように揺らいでいる。

 

 帳場の男が、悲鳴も上げずに帳場の下へ潜り込んだ。

 

「……番犬ね」

 

 青子は忉利の手首を掴んだまま、一歩下がった。

 

 影の獣が跳んだ。

 

 青子の右手が跳ね上がった。青い光が爆ぜて、獣の首が千切れ飛んだ。

 

 千切れた首は、床に落ちる前に霧のように溶けた。それから獣の肩の上で、もう一度首の形になった。

 

 石が灯っている限り、獣は消えない。

 

 石を撃てば終わる。けれど石の前には獣が立ちはだかっていて、撃つなら獣ごと、箱ごとになる。

 

 青子の指先に、もう一段深い青が灯りかけて、止まった。

 

 頭の上で、石のアーチがかすかに鳴った。

 

 この部屋の上には橋が載っていて、橋の上には、何百年分の建物と、昼の通りを行き交う人の足が載っている。

 

 強く撃てば、天井ごと抜ける。

 

「――っ」

 

 青子は指先の光を小さく絞った。

 

 獣の前脚が薙いできた。青子は忉利を背に庇ったまま、半歩だけ身体をずらした。爪がコートの左袖を肩口まで裂いた。

 

 手首を掴む指に、力がこもった。

 

 忉利は目を閉じたまま、その指の力を数えていた。強くなる。少し緩む。また強くなる。

 

 扉の向こうで、線が鳴っているのがわかった。獣の線。石の線。石と、どこか遠くとを繋いでいる、細くて長い一本の線。

 

 開ければ、一息で全部断てる。

 

 ――あの石は、目だ。

 

 何も見えないまま、それだけはわかった。石の向こうで、誰かがこちらを覗いている。

 

 忉利は奥歯を噛んだ。開けなかった。

 

 青子は撃つのをやめていた。獣の爪をかわしながら、小さな礫を一つずつ、木箱の足元に向かって撃った。箱の下の床石を少しずつ削っていく。獣が首を千切られては戻る間に、一つ。肩を裂かれては戻る間に、もう一つ。

 

 五つ目で、木箱が傾いた。

 

 粘土の袋が雪崩れて、黒い石の上に覆いかぶさった。

 

 灯りが塞がれた。獣の輪郭が、根本から崩れるように薄れていった。

 

 青子はその隙に踏み込んで、粘土の袋を押しのけ、黒い石を掴み上げた。刻まれた文字を、自分の手のひらで塞いだ。

 

 アーチの下に、ランプの灯りだけが戻った。

 

 

◇

 

 

「……はあ」

 

 青子は肩で息をついた。裂けた左袖から、細い血の筋が手首まで伝っていた。

 

 手のひらの下で、石がかすかに温かかった。

 

 その石から、声がした。

 

「――手荒ね、青子」

 

 柔らかくて落ち着いていて、少しだけ笑いを含んだ声だった。

 

 青子の指が、忉利の手首の上で強張った。

 

「……姉貴」

 

「荷物に手を出すのは、あなたくらいよ。送り状まで、ちゃんと読んだのね」

 

「読んだわよ。横浜の倉庫。……あそこも、どうせ中継ぎでしょ」

 

「さあ、どうかしら」

 

「三倍よ!?」

 

 青子は石を握りしめた。

 

「北の果てで凍えながら稼いだのよ! それを、土だの木だの――」

 

「名義を借りただけよ。姉妹でしょう」

 

「借りたなら返しなさいよ!」

 

「そのうちね」

 

 ふっと、石の向こうの声が途切れた。

 

 それから、少しだけ低くなった。

 

「……そこにいるのね。例の子」

 

 青子の背中がまっすぐになった。

 

「北の果ての話、聞いたわ。塔の地下の天球儀が、北を指したまま三十秒震えたって。帳簿のその行の横に、誰かが書き添えたそうね。青と、その眼、って」

 

 声が、ほんの少しだけ弾んだ。

 

「隠れていても、そういう話はちゃんと届くのよ。……七年ぶりね、忉利くん。旧校舎の夜には、私の結界を四本切って、床に膝をついていた目が」

 

 忉利は答えなかった。目を閉じたまま、そこに立っていた。

 

「その石の文字、少しずらしてくれないかしら。一度でいいの。今のあなたの目を、見てみたいわ」

 

「見せないわよ」

 

 青子が言った。

 

「ケチね」

 

 石の中で、女が小さく笑った。

 

「目を閉じているのね、その子。賢いわ。……それとも、賢くなるように躾けられたのかしら」

 

 それから、声が途切れた。

 

 石の向こうで、何かが小さく鳴った。硬いものを、机の上に置くような音。

 

「――青子」

 

 声が変わっていた。低く、平らで、温度のない声だった。

 

「お前はいつもそうだ。欲しがりもしないで、全部手に入れる。魔法も。家も。青も。……今度は、世界の空を切る眼か」

 

「…………」

 

「お前の後ろに隠しておくには、惜しすぎる。……いつか、見に行く」

 

 青子は黙っていた。

 

 忉利の手首を掴む指が、一度だけ強く締まった。

 

 何を言おうとしているのか、忉利にはわかった。

 

「……青子。言うなよ」

 

 低い声で言った。

 

 青子の指が、手首の上でゆっくりと緩んだ。

 

「――ねえ、姉貴」

 

 軽い声だった。

 

「よかったじゃない。色の名前まで貰えて。似合ってるわよ」

 

 ひと呼吸。

 

「傷んだ赤色」

 

 ―――。

 

 アーチの下の空気が止まった。

 

 ランプの炎が、まっすぐに立ったまま揺れなくなった。

 

 石の向こうからは、何も聞こえてこなかった。青子の指の隙間から、赤い光が一筋、また一筋と滲み出してきた。

 

「……殺す」

 

 静かな声だった。

 

「その名で私を呼んで、生きていた者はいない」

 

「知ってるわよ」

 

 青子は石を握り込んで、胸に抱えた。

 

「――忉利、下がって!」

 

 手首を離した。忉利を後ろへ突き飛ばした。

 

 それから、石を抱いたまま床に膝をついて、自分の身体を蓋にした。

 

 鈍い音がした。

 

 床石が跳ねた。ランプが倒れて消えた。アーチの天井から、細かな砂がぱらぱらと降ってきた。

 

 それだけだった。天井は抜けなかった。

 

 

◇

 

 

「――青子!」

 

 暗闇の中で、忉利は青子の名を呼んだ。目は閉じたままだった。

 

「……いるわよ」

 

 すぐ足元から、掠れた声がした。

 

「もう、いいわ。目、開けて。……石、粉々だから」

 

 忉利は目を開けた。扉は開けなかった。

 

 帳場の下から這い出してきた男が、燐寸を擦った。

 

 小さな炎の中で、青子が床に座り込んでいた。コートの胸元が焦げて、両手の甲が赤く焼けていた。膝の周りに、黒い石の欠片が散らばっていた。

 

 その向こうで、木箱が真っ二つに割れていた。粘土の袋は残らず裂けて、灰色の土が床一面にぶちまけられていた。トネリコの木材は、半分が炭になっていた。

 

「……無茶すんな」

 

「上、橋よ。……抜くわけにいかないでしょ」

 

 青子は焼けた手で床の土を一掴みすくって、それから、ぱらぱらとこぼした。

 

「売れないわね、これ」

 

「売れねえな」

 

「二百キロ」

 

「二百キロだな」

 

 帳場の男が燐寸の火を消して、髭を撫でながら天井を見上げた。

 

「……修理代は、どちらのミス・アオザキに」

 

「横浜に送っといて」

 

 青子は膝の土を払って立ち上がった。

 

 

◇

 

 

 地上に出ると、霧が出ていた。

 

 五月の海霧。北の海から乳白色の霧が坂を這い上がってきて、石の街並みを底から順に沈めていく。ハール、と昼の汽車で隣り合った老婆が呼んでいた。

 

 青子は朝の銀行で引き出した紙幣を、焼けた指で何度も数え直していた。

 

「……宿代、二週間分。ううん、十日」

 

「姉貴に会ったら、どうすんだ」

 

「殺すわ」

 

「その前に、金返してもらえ」

 

「殺してから返してもらうわよ。次の身体に」

 

 忉利は少しだけ笑った。

 

 坂の途中に、まだ明かりのついているフィッシュ・アンド・チップスの店があった。硝子戸の向こうで、油の鍋がぱちぱちと鳴っていた。

 

 青子が紙幣を握り直して、店先で足を止めた。一枚目を抜こうとした。

 

 忉利がその手首を押さえた。

 

「いい。おれが出す」

 

「……あんたの、それ。三咲から持ってきたお金でしょ」

 

「だから出すんだよ。こういう日のために持ってきた」

 

 忉利は紙包みを二つ買った。鱈のフライと、山盛りの芋。塩と酢を、店の親父の言うままにたっぷりかけた。

 

 

◇

 

 

 安宿の部屋で、忉利は洗面器に水を張って、青子の両手をそこに浸けさせた。

 

「……冷たい」

 

「冷やしてんだよ」

 

 焼けた手の甲に薬を塗る。裂けた左袖の下の傷を洗って、布を当てる。一度も締めすぎずに、包帯を巻いていく。

 

 青子は寝台の端に座って、黙ってそれを見下ろしていた。

 

「……言うなって、言ったろ」

 

 包帯の端を結びながら、忉利が言った。

 

「言ったわね」

 

「なんで言った」

 

 青子は少しだけ黙った。

 

「……あの人の頭の中、あんたの目のことで、いっぱいになりかけてたから」

 

「…………」

 

「あのまま話してたら、次は石じゃなくて、もっと別のものを寄越したわ。冠位の全部を使って。あんたが一人でいる夜に」

 

 青子は包帯の巻かれた自分の手を見下ろした。

 

「だから全部、私に向けさせたの。殺したいくらい腹を立てさせれば、あの人の頭から、あんたの目をしばらく追い出せるでしょ」

 

「……そのために、爆発抱えたのかよ」

 

「抱えたのは、私のお金で買ったものよ」

 

 忉利は言い返さなかった。

 

 紙包みを開けて、まだ温かい鱈のフライを小さく割った。青子の口元に差し出す。

 

「……自分で食べられるわよ」

 

「両手、包帯だろ」

 

「…………」

 

「口、開けろ」

 

 青子は忉利を睨んだ。睨んだまま、しばらく動かなかった。

 

 それから、ほんの少しだけ口を開けた。

 

 フライを押し込まれて、青子はもぐもぐと噛んだ。

 

「……しょっぱい」

 

「酢、かけすぎたな」

 

「おいしいけど」

 

 二口目を割りながら、忉利は窓の外を見た。霧の向こうで、坂の上の城の影がぼんやりと黒く浮かんでいた。

 

「……横浜って、書いてあったな」

 

「書いてあったわね」

 

「行かねえのか」

 

「行かないわ」

 

 青子は三口目を、自分から口で迎えにいった。

 

「どうせ、もういないもの。あの倉庫も、明日には別の名前になってるわ。……それに」

 

「それに」

 

「あの人を追いかけるために旅してるんじゃないもの。私たち」

 

 噛みながら、包帯の手で、忉利の左の手首を探した。

 

 糸の結び目のすぐ上に、青子の指の跡がまだ赤く残っていた。

 

「……痛かった?」

 

「痛かった」

 

「……ごめん」

 

「謝んな」

 

 忉利は四口目を割った。

 

 青子は包帯の手で、忉利の手首を掴み直した。

 

 今度は、止めるためではなかった。

 

 紙包みが空になる頃には、窓の外の霧はさらに濃くなっていた。坂の上の城は、もう影も見えなかった。

 

 青子は寝台の上で、壁に背を預けたままうとうとし始めた。頭が少しずつ傾いて、忉利の肩に落ちた。

 

 忉利は動かなかった。

 

「……忉利」

 

 眠たそうな声が、肩の上からした。

 

「ん」

 

「……あの人、いつか、ほんとに来るわよ」

 

「来たら、どうする」

 

「撃つわ」

 

「おれは」

 

「……閉じてて」

 

 青子の包帯の手が、忉利の手首の上で少しだけ力を込めた。

 

「私が掴んでる間は。……ずっと」

 

「ああ」

 

 青子の息が、ゆっくりと深くなっていった。

 

 忉利は窓の外の白い霧を見ていた。線は一本も見えなかった。

 

 見えなくていい夜だった。

 

 

◇

 

 

 同じ時刻。海を越えた東の国では、もう朝だった。

 

 ある街の外れの、工事の途中で放り出されたようなビル。その上の階の事務所。

 

 窓際の机で、眼鏡をかけた女が煙草をくゆらせていた。

 

 机の上に、小さな黒い石の台座が一つ。さっきまで嵌まっていた石の片割れは、もうなかった。

 

 女は台座を引き出しにしまった。代わりに、一枚の紙を取り出した。

 

 塔から遠回りに回ってきた紙だった。地下の観測室の帳簿の写し。一行だけ。

 

 ――北緯七十度付近。世界の表層に、約三十秒間の断裂。原因、不明。

 

 その横に、細い万年筆の字。

 

 ――青と、その眼。

 

 女はしばらく、その一行を眺めていた。

 

 それから紙を裏返して、引き出しに戻した。

 

 注文書の束を引き寄せる。湖底粘土、精製済み、二百キロ。トネリコ材、ルーン刻印済み、十二本。

 

 送り先の欄に、新しい倉庫の名前を書いた。

 

 署名の欄に、迷いのない字で、妹の名を書いた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

炭鉱のカナリア(作者:にんら)(原作:月姫)

―――カナリアは、歌わない。▼ カナリアは、鳴かない。▼ カナリアは、誰も、温めない。▼ カナリアは、誰にも、温められない。▼ カナリアは、誰よりも先に、死ぬ。▼ 炭鉱の底で、見えない毒をいちばん最初に吸い込んで、小さな体を痙攣させて、落ちる。その死を合図に、人は毒の在処を知り、刃を振るう。▼ 冷たい坑道の底で、誰の手のひらにも包まれずに。誰の手のひらも、温…


総合評価:155/評価:9/連載:8話/更新日時:2026年10月18日(日) 17:51 小説情報

殺さずの剣客、そして人斬りの君(作者:ただの物書き)(原作:Fate/)

「人殺しはいけないでござるよ」▼ 男は、笑いながらそう言った。▼ 戯言だ。妄言だ。▼ 聞くに堪えない甘言だ。▼ けれど、それでも……。▼ あの時——人を斬らずに済んだことに、"私"は安堵した。▼


総合評価:1981/評価:8.54/連載:36話/更新日時:2026年09月14日(月) 00:55 小説情報

父をたずねて三千里(作者:くまも)(原作:月姫)

某掲示板で連載していた、アルクェイドと志貴の息子が現代を旅する話。アルクェイド√の後日譚。▼リメイク版の月姫を舞台としていますが、旧作の要素も含んでおります。▼※オリキャラあり、オリジナル設定マシマシ、月姫リメイクの重大なネタバレありなので、それらがNGな方はブラウザバックをお願いします。▼アルクェイド√のhappyendが見たいし、そもそも冒頭のプロローグ…


総合評価:1668/評価:9.15/連載:36話/更新日時:2026年10月18日(日) 21:03 小説情報

錬鉄と鍛造の贋作者(作者:英雄に憧れた一般魔導師)(原作:杖と剣のウィストリア)

あるはずの無い記憶、何処か遠い記憶。求めて失えど、それらだけは焼き付いて離れる事なんて無い、鮮烈に残る記憶。▼理想に裏切られた赤い外套纏いし錬鉄の英雄▼業を絶つ無念無想の刃を目指した鍛冶師▼そんな二人の力と技術を得て、ドワーフに鍛えられた鍛造技法を以て、彼は▼魔法の世界で剣を打つ。▼これは、杖と剣が交わる物語に贋作者が交差する。


総合評価:2726/評価:8.71/連載:22話/更新日時:2026年08月18日(火) 23:00 小説情報

冬木市新卒ガス社員(作者:菌糸類に脳を焼かれた海洋生物)(原作:Fate/)

▼クソボケ社員が色んな奴から感情を向けられる話


総合評価:1773/評価:7.86/連載:9話/更新日時:2026年10月10日(土) 19:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>