―――魔術協会は、とびきりの魔術師に色の名を贈る。
赤。青。黄。
三つの原色が最上位。その下に、混ぜ合わせた色が続く。
ある女は青が欲しかった。家の名に入っている色だった。
塔が女の名の横に書き込んだのは、赤だった。青の欄は、やがて妹の名で埋まった。
それから塔の誰かが、女を陰でこう呼び始めた。
傷んだ赤色。
その名を口にした者がどうなったか、塔では誰も大きな声で話さない。
◇
アバディーンの港に近い銀行は、朝から混んでいた。
北の海を渡ってきたフェリーが着いたばかりで、窓口の列には漁師の妻らしい女や、油の匂いのする作業着の男たちが並んでいた。
青子の番が来た。
窓口の若い行員は、青子の差し出した書類を見て、端末の画面を見て、もう一度書類を見た。
「……申し訳ありません。残高が足りません」
「は?」
「ご指定の額には、足りません」
「足りないわけないでしょ。三ヶ月前に入ったのよ。いつもの三倍」
行員は困った顔で、画面を青子の方へ少しだけ傾けた。
「お取引の明細を、お出ししましょうか」
印字機ががたがたと鳴って、細長い紙が一枚出てきた。
青子はそれをひったくるように受け取った。忉利は後ろから覗き込んだ。
――入金。ノルウェー、フィンマルク案件。
見覚えのある数字だった。北の果ての村で、明けない夜を一つ剥がした仕事の報酬。
その下に、行が続いていた。
――引き出し。ロンドン。
――引き出し。チューリッヒ。
――購入。北欧産トネリコ材、ルーン刻印済み、十二本。名義、ミス・アオザキ。
――購入。湖底粘土、精製済み、二百キロ。名義、ミス・アオザキ。
――購入(発送待ち)。エディンバラ、サウス・ブリッジ、ハロウェイ商会。名義、ミス・アオザキ。
いちばん下の残高は、二桁だった。
青子は紙を握ったまま動かなかった。
忉利は黙って数えていた。一回目は三年前のイスタンブール。二回目は去年の冬のリスボン。
「……三回目だな」
「数えなくていいわよ」
青子の声は平らだった。
四年前の夏、塔から回ってきた一通の手紙を、忉利は覚えていた。蒼崎橙子、封印指定。自分とそっくりの人形を作ったという理由で。
青子はその手紙を、宿の灰皿で燃やした。燃え尽きるまで見ていた。それから何も言わなかった。
封印指定を受けた名前では、塔の息のかかった店からは釘一本買えない。だから姉は、もう一つのミス・アオザキの名前で買い物をする。妹の口座から。
あれから、明細を見るたびに一行ずつ増えていく。
「……二百キロ」
「人形の土よ」
青子は明細の一行を爪で弾いた。
「また身体を作るつもりなのね。……私のお金で」
「最後の行、発送待ちってなってんな」
青子の爪が止まった。
エディンバラ。ここから汽車で三時間。
「……まだ、店にあるってことよね」
「たぶんな」
青子は明細を畳んで、コートのポケットに押し込んだ。それから振り返って、窓口の行員ににっこりと笑った。
「残ってる分、全部出して」
◇
南へ向かう汽車は、海沿いを走った。
窓の外で、灰色の海が途切れては、また岬の向こうから現れた。青子は向かいの席で腕を組んで、ずっとその海を睨んでいた。
忉利は駅で買った紙袋から、ショートブレッドを一枚出して、青子の前に差し出した。
「……いらない」
「朝、食ってねえだろ」
「いらないって言ってるでしょ」
忉利は差し出したまま待った。
青子は三秒ほど睨んでから、ひったくって齧った。それから、窓の外を見たまま言った。
「取り返すわよ。土でも木でも、何でもいいから」
「取り返して、どうすんだ」
「売るの」
「人形の土をか」
「欲しがる魔術師なんて、いくらでもいるわよ」
青子は二枚目に手を伸ばした。
「……それで、姉貴の買い物の邪魔ができるなら、言うことないわ」
忉利は窓の外を見た。汽車が鉄橋に差しかかって、足元の海が一瞬だけ遠くなった。
北の果ての夜のあと、帳簿に一行が載ったことは、二人とも知っていた。塔の地下の観測室で、天球儀が三十秒震えた。その行の横に、誰かが「青と、その眼」と書き添えた。
あの一行を、あの人も読んでいるのだろうか。
忉利はそれを口にしなかった。青子の三枚目の手が、紙袋の中で止まっていたからだ。
◇
エディンバラの駅は、谷の底にあった。
ホームから長い階段を上がると、いきなり坂の街の真ん中に出る。片側の崖の上に城が載っていて、もう片側には、煤けた石の建物が何階も積み重なっていた。
青子は地図も見ずに歩き出した。歩幅が大きかった。
忉利はその半歩後ろをついていった。
「……なあ」
「なによ」
「お前の姉貴の顔、もうあんまり覚えてねえ」
青子の足が少しだけ緩んだ。
「旧校舎で一回会ったきりだからな。眼鏡と、煙草の匂いくらいだ」
「それで十分よ」
「線は覚えてる」
忉利は自分の右目の下を、指で軽く叩いた。
「定規で引いたみてえな線だった。一本も迷ってねえ。……あんな線、あれから一回も見てねえ」
青子は黙って歩いた。
坂の途中で、観光客の一団がバグパイプ吹きを囲んでいた。音が霧の手前で膨らんで、石の壁に跳ね返った。
「……今日は」
その音が遠ざかってから、青子が言った。
「あの人のもの、何も見ないで。線も、文字も。……一本も」
「見たら、どうなる」
「見たものを、向こうも見るわ。あの人が作るものは、だいたい、どこかであの人の目に繋がってるの」
青子は前を向いたまま言った。
「北の果ての一行を、あの人が読んでないはずがない。……読んでたら、あんたの目を見たくて、うずうずしてるわよ」
「……そういう人なのか」
「そういう人よ。欲しいと思ったものは、絶対に忘れないの」
忉利はしばらく黙って歩いた。
それから、左の手首の糸を指先でなぞった。
「わかった。閉じとく」
◇
サウス・ブリッジは、橋の名前のくせに、上を歩いていても橋だとはわからない。両側にぎっしりと石の建物が並んでいて、その下の谷は、とうの昔に見えなくなっている。
橋のアーチの内側には、窓のない石の部屋が幾つも埋まっていた。昔は職人の仕事場や倉庫だったという。今は大半が塞がれて、残りのいくつかを、看板を出さない店が使っていた。
ハロウェイ商会は、そのいちばん奥の部屋だった。
低いアーチの天井の下に、木箱が積み上げられていた。帳場には、灰色の髭の大柄な男が座っていた。男は青子の差し出した明細を見て、それから青子の顔を見た。
「ミス・アオザキ」
「そうよ」
「……先月、手紙で注文をくださった方と、筆跡が違うようだが」
「名義は同じでしょ」
男は髭を撫でた。それから、肩をすくめた。
「代金は頂いている。品の名義人がお見えになったのなら、お渡ししない理由はない。……もっとも、その品は、もう船に積む荷造りが済んでいるがね」
男は部屋の隅を顎で示した。
背丈ほどもある木箱が一つ、縄をかけて置かれていた。側面に、送り状が釘で打ちつけてあった。
青子はそれに顔を近づけた。
――横浜港、倉庫会社気付。
青子はしばらく、その一行を見ていた。
「……日本」
「船は来週だ」
男が言った。
「お持ち帰りになるなら、縄を切るといい。ただし、蓋は気をつけて開けることだ。……注文主は、荷にいつも何かを添える方でね」
忉利が木箱の前に立った。
何も見ていない目で、箱の板を見た。扉は閉じたままだった。
それでも、板の向こうで何かがじっとしているのはわかった。
「……青子」
「わかってる」
青子は男から鉈を借りて、縄を断った。
それから、忉利の方を振り返った。
「目、閉じてて。扉も、最後まで」
忉利は頷いた。目を閉じた。扉を閉じた。
閉じてから、左の手首を青子の方へ差し出した。赤と黒と白の糸の結ばれた手首。
北の果ての宿で、止めてくれと差し出した手首だった。
青子の指が、ゆっくりとそれを巻いた。
そして、もう片方の手で、蓋を持ち上げた。
◇
木箱の中には、灰色の粘土の袋が積まれていた。
その真ん中に、拳ほどの黒い石が一つ、埋め込むように置かれていた。表面に、角張った文字が一つだけ刻まれている。
蓋が開いた瞬間、その文字が赤く灯った。
石から、影が溢れた。
床を這って、壁を這い上がって、アーチの天井の下で形になった。四本の脚。長い首。肩から先が、黒い煙のように揺らいでいる。
帳場の男が、悲鳴も上げずに帳場の下へ潜り込んだ。
「……番犬ね」
青子は忉利の手首を掴んだまま、一歩下がった。
影の獣が跳んだ。
青子の右手が跳ね上がった。青い光が爆ぜて、獣の首が千切れ飛んだ。
千切れた首は、床に落ちる前に霧のように溶けた。それから獣の肩の上で、もう一度首の形になった。
石が灯っている限り、獣は消えない。
石を撃てば終わる。けれど石の前には獣が立ちはだかっていて、撃つなら獣ごと、箱ごとになる。
青子の指先に、もう一段深い青が灯りかけて、止まった。
頭の上で、石のアーチがかすかに鳴った。
この部屋の上には橋が載っていて、橋の上には、何百年分の建物と、昼の通りを行き交う人の足が載っている。
強く撃てば、天井ごと抜ける。
「――っ」
青子は指先の光を小さく絞った。
獣の前脚が薙いできた。青子は忉利を背に庇ったまま、半歩だけ身体をずらした。爪がコートの左袖を肩口まで裂いた。
手首を掴む指に、力がこもった。
忉利は目を閉じたまま、その指の力を数えていた。強くなる。少し緩む。また強くなる。
扉の向こうで、線が鳴っているのがわかった。獣の線。石の線。石と、どこか遠くとを繋いでいる、細くて長い一本の線。
開ければ、一息で全部断てる。
――あの石は、目だ。
何も見えないまま、それだけはわかった。石の向こうで、誰かがこちらを覗いている。
忉利は奥歯を噛んだ。開けなかった。
青子は撃つのをやめていた。獣の爪をかわしながら、小さな礫を一つずつ、木箱の足元に向かって撃った。箱の下の床石を少しずつ削っていく。獣が首を千切られては戻る間に、一つ。肩を裂かれては戻る間に、もう一つ。
五つ目で、木箱が傾いた。
粘土の袋が雪崩れて、黒い石の上に覆いかぶさった。
灯りが塞がれた。獣の輪郭が、根本から崩れるように薄れていった。
青子はその隙に踏み込んで、粘土の袋を押しのけ、黒い石を掴み上げた。刻まれた文字を、自分の手のひらで塞いだ。
アーチの下に、ランプの灯りだけが戻った。
◇
「……はあ」
青子は肩で息をついた。裂けた左袖から、細い血の筋が手首まで伝っていた。
手のひらの下で、石がかすかに温かかった。
その石から、声がした。
「――手荒ね、青子」
柔らかくて落ち着いていて、少しだけ笑いを含んだ声だった。
青子の指が、忉利の手首の上で強張った。
「……姉貴」
「荷物に手を出すのは、あなたくらいよ。送り状まで、ちゃんと読んだのね」
「読んだわよ。横浜の倉庫。……あそこも、どうせ中継ぎでしょ」
「さあ、どうかしら」
「三倍よ!?」
青子は石を握りしめた。
「北の果てで凍えながら稼いだのよ! それを、土だの木だの――」
「名義を借りただけよ。姉妹でしょう」
「借りたなら返しなさいよ!」
「そのうちね」
ふっと、石の向こうの声が途切れた。
それから、少しだけ低くなった。
「……そこにいるのね。例の子」
青子の背中がまっすぐになった。
「北の果ての話、聞いたわ。塔の地下の天球儀が、北を指したまま三十秒震えたって。帳簿のその行の横に、誰かが書き添えたそうね。青と、その眼、って」
声が、ほんの少しだけ弾んだ。
「隠れていても、そういう話はちゃんと届くのよ。……七年ぶりね、忉利くん。旧校舎の夜には、私の結界を四本切って、床に膝をついていた目が」
忉利は答えなかった。目を閉じたまま、そこに立っていた。
「その石の文字、少しずらしてくれないかしら。一度でいいの。今のあなたの目を、見てみたいわ」
「見せないわよ」
青子が言った。
「ケチね」
石の中で、女が小さく笑った。
「目を閉じているのね、その子。賢いわ。……それとも、賢くなるように躾けられたのかしら」
それから、声が途切れた。
石の向こうで、何かが小さく鳴った。硬いものを、机の上に置くような音。
「――青子」
声が変わっていた。低く、平らで、温度のない声だった。
「お前はいつもそうだ。欲しがりもしないで、全部手に入れる。魔法も。家も。青も。……今度は、世界の空を切る眼か」
「…………」
「お前の後ろに隠しておくには、惜しすぎる。……いつか、見に行く」
青子は黙っていた。
忉利の手首を掴む指が、一度だけ強く締まった。
何を言おうとしているのか、忉利にはわかった。
「……青子。言うなよ」
低い声で言った。
青子の指が、手首の上でゆっくりと緩んだ。
「――ねえ、姉貴」
軽い声だった。
「よかったじゃない。色の名前まで貰えて。似合ってるわよ」
ひと呼吸。
「傷んだ赤色」
―――。
アーチの下の空気が止まった。
ランプの炎が、まっすぐに立ったまま揺れなくなった。
石の向こうからは、何も聞こえてこなかった。青子の指の隙間から、赤い光が一筋、また一筋と滲み出してきた。
「……殺す」
静かな声だった。
「その名で私を呼んで、生きていた者はいない」
「知ってるわよ」
青子は石を握り込んで、胸に抱えた。
「――忉利、下がって!」
手首を離した。忉利を後ろへ突き飛ばした。
それから、石を抱いたまま床に膝をついて、自分の身体を蓋にした。
鈍い音がした。
床石が跳ねた。ランプが倒れて消えた。アーチの天井から、細かな砂がぱらぱらと降ってきた。
それだけだった。天井は抜けなかった。
◇
「――青子!」
暗闇の中で、忉利は青子の名を呼んだ。目は閉じたままだった。
「……いるわよ」
すぐ足元から、掠れた声がした。
「もう、いいわ。目、開けて。……石、粉々だから」
忉利は目を開けた。扉は開けなかった。
帳場の下から這い出してきた男が、燐寸を擦った。
小さな炎の中で、青子が床に座り込んでいた。コートの胸元が焦げて、両手の甲が赤く焼けていた。膝の周りに、黒い石の欠片が散らばっていた。
その向こうで、木箱が真っ二つに割れていた。粘土の袋は残らず裂けて、灰色の土が床一面にぶちまけられていた。トネリコの木材は、半分が炭になっていた。
「……無茶すんな」
「上、橋よ。……抜くわけにいかないでしょ」
青子は焼けた手で床の土を一掴みすくって、それから、ぱらぱらとこぼした。
「売れないわね、これ」
「売れねえな」
「二百キロ」
「二百キロだな」
帳場の男が燐寸の火を消して、髭を撫でながら天井を見上げた。
「……修理代は、どちらのミス・アオザキに」
「横浜に送っといて」
青子は膝の土を払って立ち上がった。
◇
地上に出ると、霧が出ていた。
五月の海霧。北の海から乳白色の霧が坂を這い上がってきて、石の街並みを底から順に沈めていく。ハール、と昼の汽車で隣り合った老婆が呼んでいた。
青子は朝の銀行で引き出した紙幣を、焼けた指で何度も数え直していた。
「……宿代、二週間分。ううん、十日」
「姉貴に会ったら、どうすんだ」
「殺すわ」
「その前に、金返してもらえ」
「殺してから返してもらうわよ。次の身体に」
忉利は少しだけ笑った。
坂の途中に、まだ明かりのついているフィッシュ・アンド・チップスの店があった。硝子戸の向こうで、油の鍋がぱちぱちと鳴っていた。
青子が紙幣を握り直して、店先で足を止めた。一枚目を抜こうとした。
忉利がその手首を押さえた。
「いい。おれが出す」
「……あんたの、それ。三咲から持ってきたお金でしょ」
「だから出すんだよ。こういう日のために持ってきた」
忉利は紙包みを二つ買った。鱈のフライと、山盛りの芋。塩と酢を、店の親父の言うままにたっぷりかけた。
◇
安宿の部屋で、忉利は洗面器に水を張って、青子の両手をそこに浸けさせた。
「……冷たい」
「冷やしてんだよ」
焼けた手の甲に薬を塗る。裂けた左袖の下の傷を洗って、布を当てる。一度も締めすぎずに、包帯を巻いていく。
青子は寝台の端に座って、黙ってそれを見下ろしていた。
「……言うなって、言ったろ」
包帯の端を結びながら、忉利が言った。
「言ったわね」
「なんで言った」
青子は少しだけ黙った。
「……あの人の頭の中、あんたの目のことで、いっぱいになりかけてたから」
「…………」
「あのまま話してたら、次は石じゃなくて、もっと別のものを寄越したわ。冠位の全部を使って。あんたが一人でいる夜に」
青子は包帯の巻かれた自分の手を見下ろした。
「だから全部、私に向けさせたの。殺したいくらい腹を立てさせれば、あの人の頭から、あんたの目をしばらく追い出せるでしょ」
「……そのために、爆発抱えたのかよ」
「抱えたのは、私のお金で買ったものよ」
忉利は言い返さなかった。
紙包みを開けて、まだ温かい鱈のフライを小さく割った。青子の口元に差し出す。
「……自分で食べられるわよ」
「両手、包帯だろ」
「…………」
「口、開けろ」
青子は忉利を睨んだ。睨んだまま、しばらく動かなかった。
それから、ほんの少しだけ口を開けた。
フライを押し込まれて、青子はもぐもぐと噛んだ。
「……しょっぱい」
「酢、かけすぎたな」
「おいしいけど」
二口目を割りながら、忉利は窓の外を見た。霧の向こうで、坂の上の城の影がぼんやりと黒く浮かんでいた。
「……横浜って、書いてあったな」
「書いてあったわね」
「行かねえのか」
「行かないわ」
青子は三口目を、自分から口で迎えにいった。
「どうせ、もういないもの。あの倉庫も、明日には別の名前になってるわ。……それに」
「それに」
「あの人を追いかけるために旅してるんじゃないもの。私たち」
噛みながら、包帯の手で、忉利の左の手首を探した。
糸の結び目のすぐ上に、青子の指の跡がまだ赤く残っていた。
「……痛かった?」
「痛かった」
「……ごめん」
「謝んな」
忉利は四口目を割った。
青子は包帯の手で、忉利の手首を掴み直した。
今度は、止めるためではなかった。
紙包みが空になる頃には、窓の外の霧はさらに濃くなっていた。坂の上の城は、もう影も見えなかった。
青子は寝台の上で、壁に背を預けたままうとうとし始めた。頭が少しずつ傾いて、忉利の肩に落ちた。
忉利は動かなかった。
「……忉利」
眠たそうな声が、肩の上からした。
「ん」
「……あの人、いつか、ほんとに来るわよ」
「来たら、どうする」
「撃つわ」
「おれは」
「……閉じてて」
青子の包帯の手が、忉利の手首の上で少しだけ力を込めた。
「私が掴んでる間は。……ずっと」
「ああ」
青子の息が、ゆっくりと深くなっていった。
忉利は窓の外の白い霧を見ていた。線は一本も見えなかった。
見えなくていい夜だった。
◇
同じ時刻。海を越えた東の国では、もう朝だった。
ある街の外れの、工事の途中で放り出されたようなビル。その上の階の事務所。
窓際の机で、眼鏡をかけた女が煙草をくゆらせていた。
机の上に、小さな黒い石の台座が一つ。さっきまで嵌まっていた石の片割れは、もうなかった。
女は台座を引き出しにしまった。代わりに、一枚の紙を取り出した。
塔から遠回りに回ってきた紙だった。地下の観測室の帳簿の写し。一行だけ。
――北緯七十度付近。世界の表層に、約三十秒間の断裂。原因、不明。
その横に、細い万年筆の字。
――青と、その眼。
女はしばらく、その一行を眺めていた。
それから紙を裏返して、引き出しに戻した。
注文書の束を引き寄せる。湖底粘土、精製済み、二百キロ。トネリコ材、ルーン刻印済み、十二本。
送り先の欄に、新しい倉庫の名前を書いた。
署名の欄に、迷いのない字で、妹の名を書いた。