―――砂漠の真ん中の、まっすぐな道の脇に赤いネオンが灯っている。
VACANCY。
空室あり。
この国の長い長い道の脇には、こういう宿がいくらでもある。車で来て、車の前の扉から部屋に入って一晩寝て、朝には車で出ていく。名前も訊かれない。どこから来たのかも。どこへ行くのかも。
鍵を一本受け取って金を払えば、それで終わり。
根無し草にはちょうどいい宿だった。
金さえ、あれば。
◇
モーテルの隣の酒屋は、砂漠の国道沿いにぽつんと一軒だけ建っていた。
硝子戸の内側に、ネオン管のビールの看板が三つ。冷蔵庫が低く唸っている。帳場では野球帽の老人が、ラジオの天気予報を聞いていた。
青子は冷蔵庫の扉を開けて、六本入りの缶ビールを一つ取り出した。帳場に置いた。
戻って、もう一つ。
もう一つ。
四つ目を積み上げてから、棚のいちばん下の段に手を伸ばした。ラベルの曲がった琥珀色の瓶。いちばん安いのを一本。
それから、コートのポケットを裏返した。
くしゃくしゃの紙幣が数枚と硬貨がいくつか、帳場の上に転がり出た。モーテルの一泊分を払った、その残りの全部だった。
「……おい」
忉利が後ろから言った。
「なによ」
「それ、全部か」
「全部よ」
「明日の飯代は」
「明日のことは、明日考えるの」
「次の宿代は」
「明日考えるって、言ってるでしょ!」
老人が硬貨を一枚ずつ指で弾いて数えた。足りた。帳場の上に、一セント玉が一枚だけ残った。
青子はそれをつまんで、レジ脇の募金箱に放り込んだ。
◇
三週間前、二人はエディンバラにいた。
北の果ての村の報酬は、いつもの三倍だった。それが姉の買い物に化けていた。トネリコ材が十二本と、人形の土が二百キロ。最後の一箱は橋の下で取り返しかけて、粉々になった。
口座に残ったのは、二桁の数字だけだった。
アバディーンの銀行で青子が引き出した紙幣は、宿代にして十日分。
それなのに翌週、二人は大西洋を渡っていた。
「砂漠が見たいの。まっすぐな道の」
理由はそれだけだった。
十日分の宿代は、三週間で尽きかけていた。安い宿を選び、長距離バスを乗り継いで、赤い砂漠の国道沿いまで来た。今夜のモーテルの一泊分を払ったら、残りは酒屋の帳場に並べた分だけだった。
◇
酒屋から部屋へ戻る駐車場で、忉利は両腕の紙袋を抱え直した。
青子はモーテルの部屋の扉を足で蹴り開けた。
狭い部屋だった。色の褪せた花柄の壁紙。大きな寝台が一つ。小さなテレビ。壁には唸るような音を立てる冷房。窓の外に赤いネオンの VACANCY の文字が、じじじ、と点滅している。
青子は忉利の腕から紙袋をひったくって、寝台の上に放り出した。缶ビールを一本取り出す。
ぷしゅっ、と開ける。一気に半分飲んだ。
「――――っ、はあ!」
それから、もう一本取り出して忉利に向かって投げた。
「あんたも、飲みなさい」
「……おれ、あんま飲まねえんだけど」
「知ってるわよ。二十歳になってから、何回飲んだの」
「……三回」
「四年で、三回!?」
「酒より、珈琲の方がうまいだろ」
「今夜は、珈琲、なし!」
青子は忉利の鞄を寝台の下に足で押し込んだ。
「ミルも、ネルも、今夜はお休み。……飲むの。飲んで、忘れるの。あの眼鏡女のことも、人形の土のことも、口座の二桁のことも、全部」
忉利は手の中の缶ビールを見下ろして、それから青子の顔を見た。
怒っている顔だった。
怒っている顔の目の縁が、少しだけ赤かった。
北の果てで凍えながら、明けない夜を一つ剥がした。報酬はいつもの三倍だった。
その三倍で、まだ何も買っていなかった。いい宿にも泊まっていない。いいものも食べていない。
それを姉に全部持っていかれた。人形の土とトネリコの木に変えられて。
「……わかったよ」
忉利は缶を開けた。
ぷしゅっ、と。
◇
一時間後。
六本入りの一つ目が空になっていた。
「――だいたいねえ!」
青子は寝台の上に胡座をかいて、二つ目の六本入りの一本を握りしめていた。
「あの人、昔っから、そうなのよ! 私が小学二年の時、お年玉で買った子供用のギターの弦、勝手に、全部、張り替えて、変な音にしたのよ! 『こっちの方が、響きがいい』とか言って!」
「……ああ」
「それから、旧校舎! 妹のこと、本気で殺しにきて!」
「……ああ」
「それで、今度は、口座! 三倍! 全額! 人形の土、二百キロ! 何に使うのよ、二百キロも!」
「……ああ」
「あんた、さっきから、『ああ』しか言ってないじゃない!」
青子は寝台の上から隣を見た。
忉利は寝台のヘッドボードにもたれて、缶ビールを両手で持っていた。三本目だった。
顔が真っ赤だった。耳の先まで。首筋まで。目がとろんとしていた。
「……忉利?」
「ん」
「大丈夫?」
「んー」
忉利は缶ビールをゆっくりと持ち上げて、一口飲んだ。
それから、青子の方を見て。
笑った。
にへら、と。
青子は固まった。
見たことのない顔だった。
二十年以上、隣で見てきた。怒った顔も、呆れた顔も、照れた顔も、真剣な顔も。けれど、この顔は一度も。
眉尻が下がって、口元がふにゃりと緩んでいた。気だるげでも眠たげでもない。ただひたすらに締まりのない、幸せそうな顔。
「あおこぉ」
「……は?」
「あおこは、かわいいなあ」
青子の手から缶ビールが滑り落ちた。
寝台の上で、こぼれたビールがじわじわと染みを広げていった。
◇
「ちょ、ちょっと、待ちなさいよ」
青子は慌てて缶を拾い上げた。
「あんた、何言って――」
「かわいいって、言った」
忉利はヘッドボードにもたれたまま、空の缶をゆらゆらと揺らしていた。
「怒ってるとこも、かわいい。姉貴の悪口言ってる時の、眉間のとこ。ぎゅってなってて、かわいい」
「な、な……っ」
「ギターの弦の話。……覚えてる」
忉利は缶を揺らしながら天井を見上げた。
「小二の冬。お前、うちの店来て、カウンターで、わんわん泣いてた。弦が、変な音になったって。誰にやられたのか、何回訊いても、ぜったい、言わなかった」
「……っ」
「親父が、黙って、カフェオレ出してた。……お前、泣きながら、三杯、飲んだ」
「――――っ!」
「姉貴だったのかよ。……あの時、言えよ。おれ、そいつの靴、屋上に置いてきてやったのに」
「……それ、私の手口じゃない」
「お前に、教わったんだよ」
忉利は、にへら、と笑った。
青子の顔が、みるみるうちに忉利と同じくらい赤くなっていった。
ビールのせいではなかった。
「……あんた、酔ってるでしょ」
「酔ってない」
「酔ってるわよ! 顔、真っ赤よ!」
「お前も、真っ赤だ」
「私は、ビールのせいよ!」
「おれも、ビールのせいだ」
「さっき、酔ってないって言ったじゃない!」
「言った」
忉利は空き缶をヘッドボードの上にそっと置いた。
それから、寝台の上をもぞもぞと這って、青子の方に寄ってきた。
「……なによ」
「寄りたいから、寄った」
忉利は青子の肩にことんと頭を乗せた。
青子の全身がかちんと固まった。
重かった。熱かった。ビールと、微かに珈琲の匂いがした。
「あおこ」
「……な、なによ」
「いい匂いする」
「――――っっ!!」
◇
二時間後。
六本入りの二つ目も空になっていた。青子も、もうだいぶ回っていた。
寝台の上で、二人並んで仰向けに転がっていた。天井の雨漏りの染みを見上げながら。窓の外の赤いネオンが、じじじ、と点滅して、その染みを赤く照らしたり暗くしたりしていた。
「……ねえ、とうりぃ」
青子の声も、すっかりふにゃふにゃになっていた。
「んー」
「さっきの、もういっかい、いって」
「なにを」
「かわいいって」
「かわいい」
即答だった。
青子は寝台の上で両手で顔を覆い、ばたばたと足をばたつかせた。
「――――きゃーっ!」
「なんだよ」
「だって、だって、しらふのあんた、ぜったい、そんなこと言わないもん! 上野の宿から六年、何回言った!? かわいいって!」
「……さあ」
「ゼロよ! ゼロ! ずるいって言ったことはあるけど、かわいいは、ゼロ!」
「心ん中では、毎日、言ってた」
青子の足がぴたりと止まった。
顔を覆った指の隙間から隣を覗く。忉利は天井を見上げたまま、にへら、と笑っていた。
「毎朝、珈琲淹れて、お前が『紅茶党なんだけど』って言うたびに。……かわいいなあって」
「…………」
「お前が、屁理屈こねるたびに。怒るたびに。ネル縫って、指に絆創膏巻いてんの、隠してる時も。……かわいいなあって」
「……っ」
「スロヴァキアの下宿で、包帯巻きながら、ばかばかって怒鳴ってた時も。……かわいいなあって」
「――っ、あ、あれは、かわいくないでしょ!?」
「いちばん、かわいかった」
「――――」
「言わなかったのは、恥ずかしいからだ」
忉利は天井に向かって指を一本立てた。
「おれは、照れ屋だからな」
「自分で言う!?」
「今は、照れてない」
「酔ってるからでしょ!」
「そう。酔ってるから」
◇
忉利はころんと寝返りを打って、青子の方を向いた。
とろんとした目が、すぐ近くで青子を見ていた。
灰色の虹彩の縁の、夜明け前の青の輪。いつもよりずっと、ずっと柔らかく潤んでいた。
「あおこ」
「……な、なに」
「好きだ」
青子の心臓が止まった。
「好きだ。大好きだ。……小一の夏から、ずっと好きだ」
「……う、うん」
「その前から、見てた。年中の時から」
「ね、年中……!?」
「誕生日に、赤い靴、買ってもらって。その日のうちに、水たまりに、飛び込んで。泥だらけになって、わんわん泣いてた」
「覚えてないわよ、そんなの!」
「おれは、覚えてる。……泣きながら、『でも、赤い靴で飛び込んだら、水たまりが、いちばん、きれいだった』って、言ってた」
忉利は、にへら、と笑った。
「あの時から、ずっと見てた。……変な奴だなって。変な奴だけど、ずっと、見てたいって。……好きなんだってわかったのは、小一の夏だけどな」
「…………」
「上野の宿で言ったの、一回だけだったろ。……ほんとは、もっと、言いたかった。毎日。百回くらい」
「ひゃ、百回……」
「好きだ。好き。すごい好き。世界でいちばん好き。……どこの誰より、ここのお前が、いちばん好き」
「――――――っっ!!」
青子は枕を掴んで、自分の顔に押しつけた。
枕の中で、何か言葉にならない声を上げていた。
◇
しばらくして、枕の中から青子のくぐもった声がした。
「……わたしも」
「ん?」
「わたしも、すきだもん」
枕から、真っ赤な顔が半分だけ出てきた。目が潤んで、口元はふにゃふにゃだった。
「わたしだって、ずっと、すきだったもん。……あんたより、先に。赤い靴のことは、おぼえてないけど。でも、年長さんの時、あんたが、わたしのかわりに、先生におこられてくれたの、おぼえてるもん」
「……そんなこと、あったか」
「あったもん! わたしが、園長先生の金魚鉢、割ったとき!」
「……ああ、あれか」
「あんた、なにも言わないで、園長室で、『おれがやった』って言ったの。……廊下で、あんたの背中、見てたの。わたし」
「……小一の夏より前って、それかよ」
「――っ、言わないって、言ったのに……!」
青子は枕を抱きしめたまま言った。
「あのとき、わたし、この子のお嫁さんになるんだって、決めたんだもん」
忉利は目を丸くした。
それから、にへら、と今夜いちばんの顔で笑った。
「……お嫁さん」
「いまのは、なしっ!」
「なしにしねえ」
「なしって、言ってるでしょ!」
「覚えとく。一生。……おれらの一生、長えぞ」
「――――ばかっ!!」
青子は枕で忉利の顔をぽすぽすと叩いた。
忉利はされるがままになって笑っていた。声を上げて。子供みたいに。
青子も叩きながら笑っていた。
窓の外で赤いネオンが、じじじ、と点滅していた。
◇
「……親父に、電話する」
しばらくして、忉利がふらりと寝台から立ち上がった。
「え?」
「親父に、言いたいことがある」
「い、今!? 日本、今、昼過ぎよ!?」
「ちょうどいい。店、暇な時間だ」
「お金、ないのよ!?」
「相手に払わせるやつが、あるだろ。……この国には」
忉利は千鳥足で部屋を出て、駐車場の脇の錆びた公衆電話の前に立った。
受話器を取る。交換手を呼び出す。回らない舌で、国際の料金先方払いの通話を頼む。日本の三咲町の、Cafe HIKAGE。
青子が慌ててサンダルをつっかけて、その後を追いかけた。
呼び出し音。何度か。それから、遠い遠い回線の向こうで誰かが受話器を取った。
交換手の事務的な声。先方払いを承諾するかどうか。短い沈黙。それから、低い無愛想な声が一言だけ答えた。
――受ける。
「……親父」
忉利は受話器を両手で握りしめた。にへら、と笑った。
「親父。おれ、青子のこと、世界でいちばん好きだ」
駐車場の夜風の中で、青子が凍りついた。
受話器の向こうは長いこと黙っていた。遠い回線の、ざあざあという雑音だけが聞こえていた。
それから、受話器の向こうで誰かが息を吸い込む音がした。父の声ではなかった。もっと高い、若い女の――。
――お兄ちゃん!? 今、なんて――!
がたん、と受話器を奪い合うような音。それから、また父の低い声が戻ってきた。
――知ってる。
それだけ言って、電話は切れた。
忉利は、ツー、ツー、と鳴る受話器を、しばらくぼんやりと見下ろしていた。
それから青子の方を振り返って、にへら、と笑った。
「……知ってるって」
「――――っっ、ばかっ!! 国際電話で!! 先方払いで!! なに言ってるのよ!! 晴華ちゃんまで聞いてたじゃない!!」
「言いたかったから、言った」
「おじさん、電話代、いくら払ったと思ってるのよ!!」
「知らねえ」
青子は忉利の腕を掴んで、部屋の方へ引きずっていった。
顔がネオンよりも赤かった。
◇
三時間後。
琥珀色の瓶が半分になっていた。
忉利は寝台の上にぺたんと座り込んで、部屋の中をきょろきょろと見回していた。
「……なあ、あおこ」
「なぁにぃ」
「線が、いっぱいある」
「いつも、いっぱいあるんでしょ」
「いつもより、いっぱいある。……きらきらしてる」
忉利は天井を指さした。
扉が勝手に開いていた。半分。いや、それより少し多く。
「あそこの染みの線。きれいだ。……テレビの線も。冷房の線も。ネオンの線も。全部、きらきら」
「へえー」
青子は忉利の肩にもたれかかったまま、適当に相槌を打った。
「あ」
忉利が窓の外を指さした。
「ネオンの、Vの字だけ、線が、ぷらぷらしてる。……切れそう」
「ふうん」
「切ってやろうか。……ぷらぷらしてて、かわいそうだから」
忉利の目が、ほんのわずかに細められた。
その瞬間。
青子の手が、ぱしっと忉利の手首を掴んでいた。左の手首の、赤と黒と白の糸の上から。
考えるより先に、手が動いていた。
ノルウェーの宿の夜から、まだ四ヶ月。背骨の奥に残った小さな氷の欠片が、ビールと安物の酒の海の底で、ちゃんと目を覚ましていた。
「――だめ」
青子の声はふにゃふにゃのままだった。けれど、手首を掴む力は少しも緩まなかった。
「……だめ?」
「だめ。ネオン切ったら、空室ありって、わかんなくなるでしょ。……次のお客さん、困るでしょ」
「……そっか」
忉利は素直に目を閉じた。
扉が閉じた。
それから、青子の肩にもう一度ことんと頭を乗せた。
「……止めてくれた」
「止めるって、約束したもん」
「うん」
「なんびゃくねんでも、とめるもん」
「うん」
忉利は青子の肩に頭を乗せたまま、小さく、小さく呟いた。
「……あおこが、いてよかった」
それきり静かになった。寝息が聞こえ始めた。
青子は掴んだままの手首を離さなかった。
ゆっくりと、手首から手のひらへ。指を絡める。
姉の石が爆ぜた橋の下で、一度も離さなかった手。
今は、ちゃんとここにある。
「……離さないもん」
窓の外でネオンの V の字が、じじじ、と点滅していた。
ぷらぷらしたまま、それでもちゃんと光っていた。
◇
翌朝。
忉利は寝台の上で頭を抱えていた。頭が割れるように痛かった。
けれど、それ以上に。
「――――っ」
全部、覚えていた。
にへら、と笑ったことも。かわいいと何十回も言ったことも。赤い靴の水たまりの話も。百回くらい好きだと言いたかった、と言ったことも。スロヴァキアの下宿で包帯を巻いていた青子がいちばんかわいかった、と言ったことも。
全部。一言一句。
寝台の端で、青子がモーテルの帳場の無料の、薄くてまずい珈琲の紙コップを両手で持って、にやにやと笑っていた。
「おはよう、忉利」
「…………」
「頭、痛い?」
「…………」
「ねえ、あおこはかわいいなあ、って、もう一回、言って」
「――――っっ!!」
忉利は毛布を頭から被って丸くなった。毛布の中から呻き声が聞こえた。
「……忘れろ」
「いやよ」
「忘れろって」
「忘れないわよ。一生」
青子は毛布の上から、ぽんぽんと忉利の頭を叩いた。
「私たちの一生、長いわよ?」
「……っ」
「あと、昨日のあんた、自分で言ったのよ。『おれは照れ屋だからな』って」
「言うな……」
「『世界でいちばん好き』って」
「言うなって……!」
「あと、おじさんに、国際電話」
「……あれは、夢だろ」
「現実よ。先方払いで。『青子のこと、世界でいちばん好きだ』って。……晴華ちゃんも、聞いてたわよ」
「――――っっっ」
毛布の中からは、今度は呻き声さえ聞こえなくなった。
しばらくして、蚊の鳴くような声がした。
「……親父、なんて言ってた」
「『知ってる』って」
「…………」
「晴華ちゃんへの、次の葉書、なんて書くつもり?」
「……書かねえ。一生、三咲に、帰らねえ」
「いつかは帰るんでしょ。三咲」
「…………」
「おじさんの店の、あの二つの席。空けて待ってるわよ。ずっと」
毛布の動きがぴたりと止まった。
しばらくして、毛布の端から真っ赤な顔が目だけ覗いた。
「……お嫁さんの話は、お前が言ったんだろ」
「――っ」
今度は青子の顔が赤くなった。
「……覚えてたの」
「全部、覚えてる」
「……わ、私のは、忘れなさいよ」
「やだ」
「忘れなさいって、言ってるでしょ!」
「一生、覚えとく。……おれらの一生、長えぞ」
青子は紙コップを持ったまま固まった。
それから、毛布の上から忉利をばしばしと叩いた。
「――ばか! ばか! ばかばかばか!」
「痛え、頭に響く」
「知らない!」
◇
窓の外で、朝日が赤い砂漠を照らしていた。
駐車場には、相変わらず一台の車も止まっていなかった。
青子の財布は空っぽだった。口座も空っぽだった。
今日の朝食代も、次のバス代も、次の宿代も、青子の手元には何もなかった。
ただ、忉利の鞄の底の封筒には、まだ少しだけ残っていた。
そのことを、忉利はまだ言っていなかった。
モーテルの狭い部屋の中では、二人ともまだ顔を真っ赤にして、毛布の上と下で言い合いを続けていた。
ネオンの V の字が、朝の光の中で静かに消えていった。
◇
それから、ひと月あまり後。
遠く、日本の三咲町の商店街の外れで。
Cafe HIKAGEのレジの脇の小さな引き出しに、国際電話会社からの請求書の控えが一枚しまわれた。
店主はそれを、しばらく黙って見下ろしていた。それから、何も言わずにネルを振り始めた。
カウンターの向こうで、晴華が頬杖をついて、にやにやと笑っていた。
「……お父さん」
「なんだ」
「知ってた、って。……いつから?」
店主は答えなかった。ただ、ネルを振る手がほんの少しだけゆっくりになった。
窓の外で、夏の三咲の空が白く晴れていた。
ストックつきそうで焦ってたりします。ちなみに