―――合わせ鏡を覗き込むと、自分がどこまでも続いている。
手前の自分。その奥の自分。そのまた奥の自分。
どれも同じ顔をして、同じ仕草で同じ鏡を覗き込んでいる。
けれど、ずっと、ずっと奥の方の自分は、本当に同じ自分だろうか。
ほんの少しだけ違う顔をしていないだろうか。ほんの少しだけ、違う誰かの隣に立っていないだろうか。
この世界の隣には、この世界によく似た無数の別の世界がある。合わせ鏡の奥のように、どこまでも。
その間を気の向くままに渡り歩く老人が、一人だけいる。
◇
ウィーンの冬は早かった。
ヴィーデン地区の、古い家具付きの貸し部屋。天井が高く、床の少し傾いた三階の部屋に、二人は一週間だけの約束で住んでいた。
青子が受けた、協会の依頼の後始末だった。ドナウ運河沿いの古い倉庫に、禁じられた人形を百体も溜め込んでいた魔術師がいた。人形は三日前、倉庫ごと灰になった。法政科の聴取が、手紙では片付かなかった。
あと三日、この街に足止めだった。
窓の外は雨だった。晩秋の、細く冷たい雨。路地の石畳が街灯の光を跳ね返して、黄色く濡れている。
部屋の隅には、大きな衣装箪笥が一つ置かれていた。
背の高い、胡桃材の古い箪笥。扉の片側に姿見が嵌め込まれている。貸し部屋の老婦人が「前の前の住人が置いていったの。重くて、誰も動かせなくて」と言っていた。
夜の十一時を回っていた。
青子は寝台の上に胡座をかいて、昼間、ナッシュマルクトの古道具屋で見つけてきた真鍮の砂時計を、指先でひっくり返していた。
三分半の砂時計。有珠の茶葉の蒸らしと、同じ長さの。
「……それ、いつ使うんだよ」
窓辺の小さな卓で、忉利が訊いた。
「いつか有珠に紅茶淹れる時よ」
「いつかって、いつだ」
「知らないわよ。来年か、十年後か」
青子は砂時計を卓の上に置いた。砂がさらさらと落ち始めた。
その時。
こん、こん、と音がした。
部屋の扉ではない。衣装箪笥の姿見の、内側からだった。
◇
二人は同時に姿見を見た。
鏡には部屋が映っていた。高い天井。寝台。窓辺の卓。青子と忉利。
その鏡の中の部屋の、ずっと奥に、この部屋にはない扉が一つあった。古い樫の扉。
その扉の前に、背の高い老人が立っていた。鏡の内側から、白い手袋の指の関節で、硝子の面をこん、こん、と叩いている。
灰色の長い外套。豊かな灰色の髪と、胸まで届く髭。手には黒い杖。
目が赤かった。深い、深い、葡萄酒を煮詰めたような赤。
老人は鏡の中から、にこやかに手を振った。口が動く。声は聞こえない。たぶん「開けてくれんか」と言っていた。
「…………」
青子が寝台の上で固まっていた。胡座をかいたまま、砂時計に伸ばしかけた手を宙に浮かせたまま。
「……おい、あれ」
「……開けなくても入ってくるわよ」
青子の声は掠れていた。
「あの人はそういう人だから」
その言葉のとおり、老人は叩くのをやめて、肩をすくめた。それから水面をくぐるように、鏡の面をすっと越えてきた。部屋のこちら側へ。
濡れてもいない外套の肩を、ぱたぱたと払う。
「――夜分に、失礼するぞ」
低くよく響く、楽しげな声だった。
「一応叩いてはみたのだがな。……最近の若いのは、礼儀にうるさいと聞いたものでな」
「…………宝石翁」
青子の声は、ひどく小さかった。
「おう、蒼崎か」
老人は目を細めた。
「見違えたな。……儂が最後に見たのは、おまえさんが、お祖父さんの肩車の上で、お祖父さんの髭を両手で引っこ抜こうとしていた頃だったが」
「――覚えてないわよ、そんなの!」
「儂は覚えている。一本、抜けたぞ」
「――――っ!」
青子の顔が、耳の先まで真っ赤になった。
◇
忉利は窓辺の椅子に座ったままだった。動けなかった。
目の奥の扉が、勝手に少しだけ開いていた。開いてしまっていた。
見えなかった。正確には、見えすぎた。
老人の胸から、線が伸びていた。
一本ではない。百本でも、千本でもない。数えられなかった。
老人の胸の一点から、無数の線があらゆる方向へ、噴き出すように伸びていた。前へ。後ろへ。上へ。下へ。それから、そのどれでもない方向へ。部屋の壁を越え、この街の空を越えて、この世界の向こうのどこか別の場所へ。
線の一本一本が、また枝分かれしていく。枝分かれした先が、また枝分かれしていく。
合わせ鏡の奥を覗き込んだように。どこまでも。どこまでも。
北の果ての夜、扉を全部開けた時でさえ、こんなものは見なかった。あの時は、一つの世界の全部だった。これは、世界が一つではなかった。
頭の芯がぐらりと揺れた。目の奥が、焼けるように熱くなる。
旧校舎の夜から九年。線を見て、痛みを感じたことなど、一度もなかったのに。
「――見るな、日景」
老人が、忉利の目の前に立っていた。いつの間に部屋を横切ったのか、わからなかった。赤い目が、忉利の目を真正面から覗き込んでいた。
「儂の線を、全部見ようとするな。……見尽くす前に、お前の頭の方が、先に焼き切れるぞ」
忉利は扉を閉じた。線が消えた。
頭の揺れが、ゆっくりと収まっていく。額に冷たい汗が浮いていた。
老人はにこにこと笑っていた。
「噂どおりだな。……いや、噂より少しばかり、上等だ」
それから、窓辺の卓のもう一脚の椅子に、よっこらしょと腰を下ろした。
「青と、その眼。……一度顔を見ておきたいと、思うておったのよ」
◇
青子は寝台から降りて、老人から一歩離れた場所に立っていた。背筋を、まっすぐに伸ばして。
忉利はそれを見ていた。
四百年の死徒の前でも。十二人の執行者の前でも。こんな顔をした青子は、見たことがなかった。
警戒しているのではない。職員室に呼び出された生徒のように、緊張していた。
「……誰だ、このじいさん」
忉利は小声で訊いた。
「魔法使いよ」
青子は、老人から目を離さずに言った。
「私と同じ。……でも、格が違うの。千年以上も前から魔法使いやってる人。第二の魔法。……隣の世界に渡る魔法。協会の一番古い方の名簿に、名前がある人。それから」
青子は少しだけ声を落とした。
「死徒の一番古い方の人たちの、一人でもある」
「……吸血鬼なのか、このじいさん」
「血は、あまり、吸わんよ」
老人はけろりとして言った。
「月から落ちてきたとんでもない王様と、昔、喧嘩をしてな。勝つには勝ったが、最後に首筋を、がぶりとやられた。……以来、こういう目だ。まあ、珈琲の方がうまいしな」
老人の赤い目が、窓辺の卓の忉利の手元に移った。
父のミル。携帯用の小さな焜炉。それから、五年前のサントスの雨の夜に縫われた、もう白くはないネル。
「――というわけで」
老人は卓の上で両手を組んだ。
「日景。一杯淹れてくれんか。……噂の、そのネルで」
◇
忉利は黙って湯を沸かした。
豆を挽く。ごり、ごり、と。手がまだ、ほんの少しだけ震えていた。
ネルに粉を落とす。湯を細く注ぐ。粉が膨らむ。泡が浮いて、ゆっくりと沈む。
老人は卓に頬杖をついて、その手元をじっと見ていた。
「……メランジュに、してくれんか」
「何だよ、それ」
「この街の飲み方だ。濃いめの珈琲の上に、泡立てた温かい牛乳をそっと載せる」
「牛乳、ねえぞ」
「ほれ」
老人が外套の内ポケットに手を入れて、小さな硝子の瓶を取り出した。中には白い牛乳がたっぷりと入っている。瓶の表面に、うっすらと霜がついていた。
「……どっから出した」
「隣の世界の、冷蔵庫からだ」
「…………」
「持ち主には、あとで、隣の世界の硬貨を置いておく」
青子が額に手を当てて、深い溜息をついた。
忉利は何も言わずに瓶を受け取った。
小さな鍋で牛乳を温める。フォークで、ゆっくりと泡立てる。カップの珈琲の上に、白い泡をそっと載せて、老人の前に置いた。
老人はカップを持ち上げて、香りを嗅いだ。
一口。
赤い目が、ほんのわずかに細められた。
「……ふむ」
老人はカップを受け皿に戻した。
「雑味があるな。……ネルの縫い目が、不揃いだ。糸の色も、五通り違う」
「……知ってる」
「縫ったのは、蒼崎か」
「そうだ」
老人は膝を叩いて、愉快そうに笑った。
「あの娘が針仕事か。しかも、五年も繕い続けている。……一年に一度ずつ、どこかが破れて、そのたびに夜中に、こっそりな。……いや、長生きはするものだ」
青子はぷいと窓の外を向いていた。耳の先が赤かった。
「――だが、うまい」
老人はもう一口飲んだ。
「雑味ごと、うまい。……儂は、この街で二百年、メランジュを飲んできたが。こういう一杯は、初めてだ」
◇
「……で、何の用よ」
青子がようやく口を開いた。
「ただ珈琲飲みに来たわけじゃないでしょ。……箪笥の鏡から、夜中に」
「ただ珈琲を、飲みに来たのだが」
「嘘」
「半分は、本当だ」
老人はカップを置いて、ゆっくりと立ち上がった。衣装箪笥の姿見の前に立つ。
「残りの半分は、見せたいものがあってな」
老人は杖の先で、姿見の面をこつん、と叩いた。
鏡の中の部屋が、水面に石を落としたように揺らいだ。
揺らぎが収まった時、鏡の中には、この部屋ではない場所が映っていた。
忉利は息を止めた。
カウンター七席。テーブルが三つ。壁に、色の褪せた外国の港の写真。
夜明け前の、Cafe HIKAGEだった。
カウンターの内側に、二人が立っていた。
一人は父だった。背中が少しだけ丸くなり、髪に白いものが混じっていた。
もう一人は、黒縁の眼鏡を掛けた二十五、六の男だった。
忉利と同じ顔をしていた。
同じ背丈で。同じ、少しだけ眠たげな目で。父の隣で、黙々とネルを振っていた。十秒、早く。
父が何も言わないところを見ると、たぶん、ちょうどよかったのだろう。
「…………」
忉利は鏡の中の自分を見た。眼鏡の奥の目を。灰色の虹彩を。
――縁に、青い輪が、なかった。
ただの灰色だった。
店の奥の階段から、晴華が下りてきた。二十二、三歳の晴華が。エプロンを腰に巻き、欠伸をしながら兄の背中をばしんと叩いて、隣に立つ。
三人で店を開けていた。
鏡の中の忉利が、ふとネルを振る手を止めて、カウンターのいちばん端の席を見た。
右から二番目と、三番目。空いていた。
鏡の中の忉利は、しばらくその空いた二つの席を見ていた。それから、何事もなかったように、またネルを振り始めた。
「……隣の世界の、Cafe HIKAGEだ」
老人が静かに言った。
「この世界によく似た、隣の世界。……その隣も、そのまた隣も、見てきた。どの世界にも、三咲の商店街の外れにこの店はある。無口な主人が、毎朝ネルを振っている」
老人は、鏡の中の眼鏡の男を杖で指した。
「そして、たいていの世界でその隣に、日景、お前がいる」
「…………」
「喫茶店の息子の日景忉利はな。……どの世界にも、ちゃんと、いる」
老人は杖で、もう一度鏡をこつんと叩いた。鏡の中の景色が切り替わった。
どこかの知らない国の、雪の駅のホーム。
古いトランクを一つ提げた、長い髪の女が、一人で夜汽車を待っていた。
青子だった。今の青子と同じ顔の。
一人で、トランクの持ち手の片側だけを握って。もう片側は、空いていた。
「……さっきの店と同じ世界の、蒼崎だ」
老人の声は静かだった。
「あの冬、魔法を継いだ娘が。姉と喧嘩をして、坂の上の屋敷で人形遣いの魔女の娘と暮らして。山から来た無口な少年と出会って。……そこまでは、どの世界でも大体、同じようにな」
「…………」
「あっちの日景も、線は見えていた。あの冬、旧校舎で、あの娘の隣にも立った。……だが、死ななかった。死なずに済んだ」
老人は、鏡の中の青子の、空いたトランクの持ち手を見ていた。
「だから、魔法も、あっちの日景の目には入らなかった。……目は、灰色のまま。線が見えるだけの喫茶店の息子のまま。春に、あの娘が旅に出る日、駅のホームまで見送りに行って」
老人は少しだけ言葉を切った。
「……そこで、手を、振った」
部屋がしんとした。窓の外で、雨が石畳を叩いていた。
「あの娘は、一人で汽車に乗った。……あっちの日景は、店に戻ってネルを振った。それから、何年も、毎朝、指定席を空けたまま」
老人は杖で、もう一度鏡を叩いた。景色がまた切り替わった。
三咲の西の外れ、神社の楠の大木の根元。
苔むした墓石が、いくつも並んでいた。
いちばん新しい墓石の隣に、もう一つ、まだ新しい小さな墓石があった。
――日景 忉利。
青子が息を呑んだ。
「……あの冬に死んだまま、の世界も、ある」
老人は静かに言った。
「蒼崎が魔法を、間に合わせられなかった世界だ。……あるいは、間に合わせようとしなかった世界だな」
老人が杖で鏡を叩くと、景色は揺らいで消えた。
鏡にはまた、高い天井と、寝台と、窓辺の卓と、青子と忉利だけが映っていた。
「日景忉利は、どの世界にも、いる」
老人は言った。
「店でネルを振っているお前も。楠の下で眠っているお前も。……儂は、何百と、見てきた」
老人の赤い目が、忉利の目を見た。灰色の虹彩の縁の、夜明け前の青の輪を。
「だが、その目の縁に、その青い輪を持って。……蒼崎の隣で、トランクのもう片側を握っているお前は」
老人は、ゆっくりと首を横に振った。
「儂が見てきたどの世界にも、いなかった。……ここにしか、おらん」
◇
忉利は何も言わなかった。さっきの鏡の中の、夜明け前のHIKAGEのことを考えていた。
父の隣でネルを振っていた、眼鏡の自分。欠伸をしながらその背中を叩いていた、晴華。十秒、早く。ちょうどよく。
それから、空いた二つの指定席を見ていた、あの目。
「……あっちの親父は得してんな」
ぽつりと忉利は言った。
「毎朝、息子が隣でネル振ってる」
寝台の端で、青子の肩が小さく揺れた。
「……で、あっちのおれは」
忉利は首の後ろを掻いた。
「損してんな」
老人が目を細めた。
「指定席、毎朝空けたまま待ってんだろ。……来ねえやつを」
「…………」
「おれは待たなくていい。……隣にいるから」
老人はしばらく、忉利の横顔を見ていた。それから静かに笑った。さっきまでの、腹を抱える笑い方ではなかった。
「……そうだな。おまえさんは、待たなくていい」
寝台の端で、青子が両手で顔を覆っていた。指の隙間から、光るものが一粒落ちていった。
◇
老人はカップの残りを、ゆっくりと飲み干した。
「千年と少し、生きてきたがの」
老人は空になったカップを見下ろした。
「同じ男が、何百といる中で。……たった一人だけ、違う道を歩いている奴に会うのは、なかなか面白いものだ」
赤い目が忉利を見た。その奥で、ほんのかすかに、畏れのようなものが揺れていた。
「よその世界のお前は皆、まっとうに歳を取って、まっとうに店を継ぐか、楠の下で眠るかだ。……どちらでもないのは、お前だけだ」
「……だから、何だよ」
忉利はぶっきらぼうに言った。
「よその世界のおれが何してようが、知らねえよ。……おれはここの青子の隣にいる。それだけだろ」
老人はしばらく忉利を見てから、小さく頷いた。
「……それだけ、か」
それから、老人は青子の方に向き直った。赤い目の奥の笑みが、すうっと消えた。
「さて。……蒼崎。おまえさんの方の、話だ」
◇
「世界の果ての、あの黒い石」
老人は静かに言った。
「儂には、見えるのでな。……おまえさんが、その男の死を放り投げた先の、あの小さな重石が」
青子は答えなかった。
「なかなか、思い切ったことをしたものだ。……お祖父さんは、もう知っているのだろう。あの洞穴で、さぞ渋い顔をしたことだろうな」
「……説教しに来たの」
「いや」
老人は首を横に振った。
「取引を、しに来た」
老人は卓の上に、人差し指で小さな円を描いた。それから、その円の隣にもう一つ。その隣に、もう一つ。
「儂の魔法は、知っているな。……隣の世界に、渡る。物を運ぶこともな。今の牛乳のように」
青子の目が見開かれた。
「その借金。……隣の世界に付け替えてやっても、いいぞ」
老人は、杖で姿見の方をちらりと指した。
「さっき見せた、あの雪の駅の蒼崎の世界がいいか。……あっちの世界の果てに、あの黒い石をそっと移しておく。誰も困らん。どうせ、途方もなく先の話だ。向こうの世界の誰も気づきもせん」
老人はにこにこと笑っていた。
「おまえさんは身軽になる。日景も、背負わんでよくなる。……悪い話では、あるまい?」
忉利は窓辺の椅子で、息を詰めていた。
白い砂漠の夜、星空の下で、青子は、まだ考えていない、と言った。百年でも二百年でも考えてやる、と。
今、その答えが目の前に差し出されていた。しかも、時間ではなく世界ごと。
青子は長いこと黙って、姿見の方を見ていた。
さっき鏡の中に映っていた、雪の駅のホームの。一人で、トランクを網棚に上げていた、自分と同じ顔の女を。
「――――いらない」
青子は言った。
老人の眉が、ほんのわずかに持ち上がった。
「ほう」
「いらないわよ、そんなの」
青子は背筋を伸ばしたまま、老人の赤い目をまっすぐに見返した。
「あっちの私に押しつけろって? ……隣に誰もいない、あっちの私に?」
声が少しだけ震えていた。
「冗談じゃないわよ。……あっちの私は、一人でトランク、網棚に上げてたのよ。誰にも手伝ってもらわないで。……その私に、私の借金まで背負わせろって言うの」
「…………」
「これは、私の借金よ。私が好きな人を返してもらうために、世界に頭も下げずに勝手に作った借金。……だから、私が返すの。この世界で。私のやり方で」
青子は拳を握った。
「砂漠でね、こいつが半分持つって言ったの。……だから、正確には私たちの借金よ。よその世界のどの私にも、一粒だって背負わせてあげない」
◇
しばらく、誰も何も言わなかった。
それから、老人が腹を抱えて笑い出した。杖を倒しそうになりながら。
「いや、いや、いや! これは、参った!」
老人は目尻に浮いた涙を指で拭った。
「それでこそ、蒼崎だ。……おまえさんのお祖父さんも同じことを言っただろうな」
「……試したの」
「試した」
老人は悪びれもせずに頷いた。
「付け替えてやる気など、最初からない。隣の世界の迷惑だからな。……ただ、おまえさんがどう答えるか、見たかった。あの雪の駅の娘を見た後でな」
青子は卓の上の砂時計を掴んで、老人に投げつけようとした。
忉利が椅子から手を伸ばして、その手首をそっと押さえた。左の手首の、糸の上から。
青子が忉利を睨む。忉利は小さく首を横に振った。
それ、有珠に淹れる時の、だろ。
青子はぐっと唇を噛んで、砂時計を卓の上に戻した。
老人は赤い目を細めて、その二人のやりとりを眺めていた。
「……ほう」
小さく呟いた。
「手首を掴む方は、日景の方か。……いや、両方か。互いに、掴み合っている。……面白い」
◇
雨が小降りになっていた。
老人は杖を手に取って立ち上がった。
「忠告を一つだけ、しておこう」
外套の襟を立てながら、老人は言った。
「……去年の冬、北の果てで、日景、お前、世界の空に罅を入れただろう」
忉利の手が止まった。
「世界は、覚えているぞ。自分の空に傷をつけた眼のことを。……あの時、世界は、お前を見かけた。一度見かけた者のことは、世界は忘れん」
「……わかった」
「わかったなら、いい。……世界に二度目を、させんことだ。二度目は、見かけるだけでは済まんぞ」
それから、老人は青子の方をちらりと見た。
「蒼崎。……おまえさんもだ。この男に二度目をさせるような場所へ、連れて行くな」
「……言われなくても」
「……だろうな」
◇
老人は衣装箪笥の姿見の前に立ち、ふと振り返った。
外套の内ポケットから、何かを一つ取り出して、窓辺の卓の上にころりと置く。
小さな青い宝石だった。
親指の爪ほどの大きさ。雨の夜の薄暗い部屋の中で、それ自体が光を持っているかのように、静かに深く輝いていた。
「代金だ。釣りは、いらん」
「……これ」
青子が宝石を覗き込んだ。
「これ一個で、この建物丸ごと買えるわよ……!」
「牛乳の礼も、入っている」
「その牛乳、隣の世界から盗んできたんでしょ!」
「借りてきたのだ。硬貨は、置く」
老人は鏡の面に片足をかけた。水面をくぐるように、硝子の向こうへ。鏡の中の部屋のずっと奥、樫の扉の方へ。
それから、鏡の中から一度だけ振り返った。
「……では、またな」
鏡の中で、樫の扉が閉まった。
鏡には、高い天井と、寝台と、窓辺の卓と、青子と忉利だけが映っていた。
◇
青子は寝台の上に、どさりと仰向けに倒れた。
「……疲れた」
「だろうな」
「あの人とこんなに長く話したの、初めてよ。……寿命、十年は縮んだわ」
「縮まねえだろ、おれらの寿命」
「気分の問題よ!」
青子は天井を見上げたまま、両腕で顔を覆った。しばらく、そのまま動かなかった。
「……ねえ」
「ん」
「さっきの鏡の。……雪の駅の、私」
忉利は窓辺の椅子で、ネルを絞っていた。
「……ああ」
「一人でトランク、網棚に上げてた」
「……ああ」
「……あっちの私、たぶん平気な顔してたわよね。ずっと一人で、それが当たり前みたいな顔」
「…………」
「あっちのあんたは、ホームで手を振ったのね。……私が、一人で乗るのを」
忉利はネルを窓辺の物干しに掛けた。五通りの色の糸で繕われ、茶色く染まりきった、不格好なネル。
それから、青子の方を見ずに言った。
「……網棚、高えだろ。お前には」
「――は?」
「トランク、重いし。お前、背伸びしても届くか届かねえかだろ」
「……何よ、それ」
「だから、おれが上げてやる。……どこの駅でも」
青子は腕の下で息を止めた。
「……それだけ?」
「それだけだ」
「……ばか」
「知ってる」
青子は腕をどけて、天井を見上げた。目の端が濡れていた。
「……ずるい」
「何が」
「そういうこと、さらっと言うの」
「さらっとしか言えねえよ。こういうのは」
◇
青子は寝台の上で身体を起こし、窓辺の忉利の背中をしばらく見ていた。それから、寝台を降りて、その背中に額をこつんと押しつけた。
「……さっき」
くぐもった声だった。
「隣の世界のCafe HIKAGE、見て。……あんた、どう思ったの」
忉利はしばらく黙っていた。
「親父、ちょっと老けてたな」
「…………」
「背中、丸くなってた。……こっちの親父もたぶんそうなってんだろ。八年見てねえけど」
「……うん」
「晴華は、エプロン似合ってた」
「……うん」
「で、指定席が空いてた」
忉利は窓の外の雨を見た。
「あっちの世界じゃ、お前、あの店に来ねえんだな」
「…………」
「おれがついて行かなかったから」
青子は忉利の背中に額を押しつけたまま、何も言えなかった。
「……ここで、よかった」
忉利がぼそりと言った。
「おれはここで、よかった」
青子の額が、忉利の背中で小さく震えた。
「……私も」
くぐもった声だった。
「ここで、よかった。……どの世界の私より、この世界の私が一番得してる。……あんたがいる分」
窓辺の卓の上で、真鍮の砂時計の砂がちょうど落ちきった。
三分半。有珠の紅茶の蒸らし時間。
青子は額を押しつけたまま手を伸ばして、砂時計をひっくり返した。砂がまた、さらさらと落ち始める。
「……何回ひっくり返すんだよ」
「いつか有珠に淹れる日まで」
「……それと」
忉利は振り返らずに言った。
「来年の春あたり、一回帰るか。……三咲」
青子の額が止まった。
「……親父の背中、確かめに」
「…………」
「こっちの親父の方が、得してるって。……確かめに」
青子は長いこと黙っていた。それから、忉利の背中に額を押しつけたまま、小さく頷いた。
窓の外で、雨が上がりかけていた。雲の切れ間から、晩秋の細い月が、濡れた路地の石畳を青白く照らし始めている。
衣装箪笥の姿見には、窓辺に並んだ二人の背中が映っていた。
この世界にしかいない、二人の背中が。
ストック無くなりそうなので、明日から不定期更新にしようと思ってます。
あと、隈乃温泉編の構想ができたので、絶賛書き進め中です。