終末惑星1999
―――その年、世界は滅ぶことになっていた。
四百年以上も前に、フランスの医者が書き残した謎めいた四行の詩。一九九九年、七の月。空から恐怖の大王が降ってくる。
本気で信じている者は、ほとんどいなかった。
テレビは面白がって特番を組み、雑誌は派手な見出しを並べた。小学生たちは教室の後ろで、七月に世界が終わったら宿題はどうなるのかと真剣に議論した。
誰もが半分笑いながら、残りの半分で、ほんの少しだけ夜空を見上げた。
恐怖の大王は、七の月には降ってこなかった。
代わりに、五月。北陸の山の奥の、地図にも小さくしか名前の載らない温泉町で。
それは空からではなく、地の底から昇ってきた。
◇
一九九九年、五月一日。
成田の到着ロビー、入国審査の列に二人は並んでいた。
八年ぶりの日本だった。
「――次の方」
審査官の男が青子の旅券を開いた。
写真を見る。青子の顔を見る。写真を見る。旅券の発行日を見る。
「……三年前の写真ですか」
「そうです」
「……お若く写っていらっしゃいますね」
「写真が若いんじゃなくて、私が若いの」
審査官は少しだけ、困ったような顔をした。それから、判を押した。
次に、忉利の旅券。写真を見る。忉利の顔を見る。
目の縁の細い青い輪で、審査官の目が止まった。
「……コンタクトレンズをお使いですか」
「使ってねえ」
「……そうですか」
審査官は長いこと、忉利の目を見ていた。それから、判を押した。
「おかえりなさい」
忉利は瞬きをした。それから、少しだけ口の端を持ち上げた。
「……ただいま」
◇
到着ロビーの隅に、自動販売機が並んでいた。忉利はその前で足を止めた。
硬貨を入れる。ボタンを押す。がこん、と缶が落ちてくる音。温かい、細長い缶珈琲だった。
「……あんた、それ」
青子が呆れた顔で覗き込んだ。
「八年ぶりの日本の最初の一杯が、それ?」
「……これで、いい」
忉利はプルタブを開けた。一口。
甘かった。ひどく甘かった。牛乳と砂糖と、焦がした香料の味。豆の味はほとんどしない。
高校の頃、学校の帰りに坂の下の自販機で、青子と二人でよく買った味だった。
「……まずい」
「でしょうね」
「……でも、懐かしい」
青子は少しだけ笑った。それから忉利の手から缶を取って、自分も一口飲んだ。
「……甘っ」
「だろ」
「……でも、懐かしいわね」
二人で一本の缶を、交互に飲み干した。
◇
三咲には八日に帰る、と決めていた。
帰国の前に立ち寄った町の郵便局で、晴華からの局留めの返事を受け取っていた。
――八日の土曜日にして。お店、朝から開けて待ってるから。
――それから、国際電話はもう先方払いでかけないでね。
一週間あった。
「……少しこの国に慣れておきたいの」
成田からの電車の中で、青子が言った。
「八年も外にいたんだもの。……いきなりおじさんの前に座ったら、何て言えばいいかわからなくなりそう」
「……何も言わなくていいだろ。親父の前は」
「あんたはそれでいいのよ。息子なんだから」
青子は、窓の外を流れていく田んぼを見ていた。
「私は、……引っこ抜いた方なのよ。あんたを。あの店から」
忉利は何も言わなかった。ただ、鞄の持ち手の自分の側を握り直した。青子も、反対側を握っていた。
一週間をどこでどう過ごすかは、まだ決めていなかった。ただ、一つだけ決まっていることがあった。
スロヴァキアの谷の、あの朝から。どちらも、一人ではどこにも行かない。
◇
五月三日。
東京駅の、人でごった返す乗り換えの階段の途中で、青子が急に足を止めた。
人の流れの中で立ち尽くす。後ろを歩いていた会社員が、迷惑そうに脇をすり抜けていった。
「……青子?」
忉利は振り返った。
青子は階段の途中で、どこかずっと遠くを見ていた。
駅の天井や壁よりも、もっとずっと遠く。西の方角の、日本海の方の山々の、その向こう。
「……呼ばれてる」
ぽつりと、青子は言った。
「……あっちの方から。私の中の魔法の方が、ざわざわしてる」
青子は自分の胸に手を当てた。
忉利は、目の奥の扉を少しだけ開いた。
駅の天井。鉄骨。無数の人の流れの線。その、ずっと向こう。
西の遠い山の方で、世界の線が微かに震えていた。どこか一点に向かって、ほんの少しだけ引き寄せられている。
白い砂漠の夜に見た、あの黒い石の周りの線のたわみに似ていた。ほんの、少しだけ。
「……行くか」
忉利は言った。
青子が振り返った。
「……三咲より、先に?」
「八日まで、五日ある」
忉利は鞄を持ち直した。
「一人では行かねえ。……約束だろ」
青子は少しだけ目を見開いて、それから、ふっと笑った。
「……そうね。約束よ」
青子は階段を駆け下りてきて、鞄の持ち手の反対側を掴んだ。
線のたわみの真ん中を時刻表の路線図の上で指で辿ると、北陸の山の奥の、地図にも小さくしか名前の載らない温泉町に行き当たった。
隈乃、という名前だった。
◇
富山で二泊して、それから山へ向かう一両きりの小さな電車に乗った。
窓の外を新緑の山が流れていった。
向かいの座席で、青子は窓に頬杖をついていた。もう片方の手は、コートの内ポケットの中でゆっくりと何かを撫でている。忉利はそれを見ていた。
八年前の卒業式の朝、久遠寺邸の台所で、青子が焦げた糸の端ごとこっそり持っていったもの。ブレザーの、第一ボタン。
上野の宿で、握ったまま眠っていた。イエメンの屋根の上で、毎晩握って寝てんだろ、と言ったら、毛布を頭までかぶった。
あれから八年。ポケットの中の指が撫でているその形が、忉利には、目の扉を開けなくてもわかった。金色の、三咲高校の校章。八年撫でられ続けて、角がほんの少しだけ丸くなっている。
「……まだ持ってんのか、それ」
青子の手が、ポケットの中で止まった。窓の外を見たまま、言った。
「……悪い?」
「悪くねえ」
「じゃあ、見ないで」
「見てねえよ。ポケットの中だろ」
「見てる顔よ」
青子はポケットから手を出さずに、ぷいと窓の外に顔を向けた。耳の先が少しだけ赤かった。
谷川が白く泡立っていた。
◇
終点の駅は、山の懐の小さな温泉町だった。
谷川の両岸に、古い旅館や土産物屋が身を寄せ合うように並んでいた。硫黄の匂い。湯けむり。
五月五日の夕方だった。
駅前の小さな広場に、人が溢れていた。
浴衣の上に上着を羽織っただけの湯治客。大きな鞄を引きずる家族連れ。消防団の法被の男たちが、拡声器で何か叫んでいた。
山の上の旅館で、旧館の方から妙な靄が出たのだという。目が痛む、息が苦しいと言い出す客が続いて、宿の主人が泊まり客をバスで残らず下ろしたらしい。山火事かもしれない、と誰かが言っていた。
広場の真ん中で、派手な羽織の男が汗だくで客の頭数を数えていた。口髭。よく回る口。宿の主人だった。どこかで聞いたような声だと忉利は思った。思い出す前に、人の波がその姿を隠した。
忉利は目の奥の扉を少しだけ開いた。
線のたわみは、もっと上だった。谷の奥の山の中腹の、そのさらに上。頂の方。中腹に古い大きな温泉旅館が一軒だけ建っていて、窓に明かりは一つもなかった。
東京駅の階段で見た時より、たわみはずっと深くなっていた。
「――一人足りねえんだよ、一人!」
宿の主人の声が、人垣の向こうから聞こえた。
「黒い服の、外国のお人形さんみてえなお嬢さんが! わたしの不始末だからとか何とか言って、下りてこねえんだ!」
青子の足が止まった。
「……有珠」
青子は人垣をかき分けようとした。消防団の男が、その前に腕を広げた。
「お客さん、上には行けませんよ。道は止めてます」
「知り合いが上にいるの」
「誰も上げるなって言われてんです」
青子は男の顔を見て、それから山の方を見た。忉利は鞄の持ち手を握り直した。
「……暗くなったら行くわよ」
青子が低い声で言った。
「ああ」
◇
山道を半分ほど登った頃、頭上の木々の隙間が白く光った。
音は遅れてやってきた。
どん、と。地の底から突き上げるような、重い衝撃。
足元の地面が跳ねた。斜面の小石が一斉に転がり落ちていった。
木々の途切れたところまで駆け上がって、二人は空を見上げた。
山の上に、光があった。
夕闇の空を真昼のように白く照らし出す、途方もない光。山の頂のさらに上に、何かが浮かんでいた。
星、だった。ほかに言いようがなかった。
白く、眩しく、どこまでも澄みきった一つの星。それが山の頂から、ゆっくりと、ゆっくりと昇っていく。
まるで、今まで地の底に眠っていて、今、目を覚ましたかのように。
その真下の山が、音もなく崩れていった。山の頂が消えた。代わりに、黒い巨大な穴が口を開けた。
「――有珠」
青子が山を見上げたまま呟いた。
◇
熱い風が、谷を吹き下ろしてきた。
春の夜風ではなかった。焼けるように熱く、どろりと重く、肌に触れた瞬間にぴりぴりと痺れるような風。空気そのものが、何か別のものに変わっていく。
「……魔力よ、これ」
青子が顔を腕で庇いながら、呻いた。
「空気の中の魔力が濃くなってる。……どんどん昔に戻っていく。神様がいた頃みたいな、濃さに」
忉利は、山の上の星を見ていた。
目の奥の扉を開いた。半分。それから、もっと。
線が浮かび上がった。燃え始めた山の木々の線。崩れていく岩の線。吹き下ろしてくる熱風の、うねる流れの線。空気の中の、濃くなっていく魔力の線。
それらを全部通り越して、星へ。星を編み上げている線を。
――――。
なかった。何も、なかった。
あれほど白く輝いているのに。あれほど確かに、そこにあるのに。
星には、線が一本もなかった。
遊園地の月にも、線はあった。旧校舎の夜の、姉のルーンにも。北の果ての、明けない夜の籠でさえ、その外側には世界の線がちゃんと取り巻いていた。
あの星には、外側さえなかった。この世界のどこにも繋がっていない、世界の外から来たもの。
「……青子」
忉利の声が掠れていた。
「あれ、線がねえ」
青子が振り向いて、忉利の顔を見た。
八年、隣でずっと見てきた顔。死徒の前でも、執行者の前でも、北の果ての明けない夜の中でも、気だるげで眠たげで、少しも揺らがなかった顔。
その顔が、今、真っ白になっていた。何もできない者の顔だった。
青子の胸が、ぎゅっと締めつけられた。それから青子は、奥歯を噛みしめた。
「……行くわよ」
「――ああ」
忉利は鞄の持ち手に自分の腰のベルトを通して、背中に括りつけた。父のミルも、ネルも、有珠の古い鞄も、置いていく気にはなれなかった。
◇
そこから先は、もう道ではなかった。
木々が燃え、岩が溶けかけていた。熱風が斜面を這うように吹き下ろして、息をするたびに喉が焼けた。
忉利は走りながら、目を凝らし続けていた。
星には線がない。けれど、星から吹き出してくるこの風には、線があった。
星に無理やり吹かされている、この世界の風だった。
「――青子、後ろにいろ」
忉利は立ち止まって、斜面の上を見据えた。
熱風の流れの、何本もの太い線。
ぷつり。ぷつり。ぷつり。
風が裂けた。
斜面の上から二人のいる場所まで、幅一メートルほどの細い一本の道がひらいた。
その道の中だけ、熱風が吹いてこない。両側で燃える風が、見えない壁に阻まれたように渦を巻いて逸れていく。
「……風の通り道を切ったの」
「風が吹いてくる線を、ここだけ断った」
忉利はその道を駆け上がり始めた。
「長くはもたねえ。……急げ」
振り返ると、燃える木々の向こうに、中腹の旅館の影がちらりと見えた。瓦屋根の旧館と、鉄筋の新館。窓という窓が白い光を跳ね返していた。人影はなかった。もう誰も残っていないのだ。
二人は、風の通らない一本の道を、頂へ向かって駆け上がった。
風の道は長くはもたなかった。断っては進み、押し戻されてはまた断った。星が昇ってから何時間が過ぎたのか、もうわからなかった。
◇
やがて木々が途切れた。目の前に、巨大な穴があった。
山の頂があったはずの場所。今は、底の見えない、黒い、黒い、火口のような穴。その縁が赤くどろどろに溶けて、ゆっくりと崩れ続けていた。
穴の上に、星が浮かんでいた。
近くで見ると、それはもう、眩しいという言葉では足りなかった。見上げた瞬間に目の奥が焼けるような、純粋な白。
そして、火口の縁のずっと向こうの、崩れかけた岩の上に、小さな人影が倒れていた。
黒い服。長い髪。白い、硝子細工のような顔。
「――有珠っ!!」
青子の悲鳴が熱風に千切れた。
「――忉利! 有珠を!」
青子の指先に、青い光が灯った。
「私はあれを引きつける!」
青子は星に向かって、火口の縁を蹴った。
撃った。十発。五十発。百発。夜空を切り裂く、青い魔弾の嵐。
一発一発が、アレクサンドリアの岬で十二人の執行者の礼装をまとめて砕いた、あの魔弾だった。
全部、星に吸い込まれて消えた。何の手応えもなく。
星は傷ひとつなく、ただ白く輝いていた。
「……なによ、これ」
青子の声が震えていた。
「撃っても、叩いても、蹴り飛ばしても。……効かない。この世界の決まりの中にいないってこと……?」
それから、ほとんど笑うような声で呟いた。
「……これ、私も死ぬわね」
星から、何かが聞こえた。
声だった。人の言葉。けれど、人の声ではなかった。感情のない、平たい、硝子を爪で擦るような声。
――解析、却下。
――検討、却下。
「――人間の言葉、使うんじゃないわよ、こんちくしょう!」
◇
忉利は火口の縁を走っていた。
足元の岩が崩れていく。溶けた岩の飛沫が頬をかすめる。熱い。息ができない。
有珠の倒れている岩まで、まだ遠かった。その足元の岩の線が、ほどけかけているのが見えた。
そこだけは、この世界の岩だった。線が、あった。
切れる。有珠の岩と、崩れていく斜面を繋ぐ線を――
その時、星がこちらを見た。
目はなかった。顔もなかった。けれど、見られた、とわかった。
――鑑定。
――該当、不明。
――却下。
白い光の筋が一本、星からまっすぐに忉利へ。
避けられなかった。線がない。どこから来るのか、どこを通るのか、何も見えない。見えないものは、切れない。
旧校舎の夜から十年近く。初めて、この目が何の役にも立たなかった。
白い光が、目の前にあった。
「――――忉利っ!!」
青子の声がした。
次の瞬間、忉利の身体が横から強く突き飛ばされた。
青子だった。時間を跳ねるようにして火口の縁を一瞬で渡ってきて、忉利の身体を両腕で抱え込んでいた。
白い光の筋が、二人のすぐ脇をかすめていった。青子のコートの袖が、音もなく焼け落ちた。
「……青、子」
「――黙って聞いて」
青子の声は、ひどく静かだった。
その顔が、すぐ目の前にあった。煤だらけで汗だくで、髪を振り乱して。
決めてしまった顔だった。
「あれは、あんたの目じゃどうにもならない。……私の魔弾でも。今は」
「だったら、二人で――」
「二人でいたら、あんたが先に死ぬ」
青子の腕に力が込もった。
「あいつ、あんたのこと見てた。……わからないものを真っ先に消しにきた」
「…………」
「だから、先に行ってて」
青子の指先に、光が灯った。
青よりも、もっとずっと深い。夜空のいちばん高いところの、そのさらに向こうの色。
「私、これからこの山ごと先送りにする。……二年後くらいに。準備ができるまで」
「――っ、何言って」
「だから、あんたはその先で待ってて」
青子は少しだけ笑った。笑い方が下手だった。
「二年後の、ここで。……待ってて」
忉利の胸の奥で、何かがぐいと引かれた。
結び目だった。九年半前の冬、旧校舎で結ばれて、七年前の七夕と六年前の二月に輪になって閉じた。自分と青子を繋いでいる、あの結び目。
それが、どこか遠くへ。時間の先の方へ。ものすごい力で引っ張られていく。
「……一人では行かないって、約束」
青子の声が遠くなっていく。
「今だけ破るわ。……ごめん」
「――青子っ!」
忉利は手を伸ばした。青子の手首を掴もうとした。
ノルウェーの宿で、止めてくれと差し出した、あの手首。姉の石が爆ぜた橋の下で、焼けても離さなかった、あの手。
指先が、青子の袖の焼け焦げた端に触れた。
掴めなかった。
身体が、足元からふわりと浮いた。
燃える山が。白い星が。火口の縁の、倒れた有珠が。全部、遠ざかっていく。
最後に見えたのは、青子の手だった。焼け落ちたコートの胸の、内ポケットの上から、何かをぎゅっと握りしめている手。ポケットの中の、小さな、硬い、丸いものを。
白い光が、全部を呑み込んだ。
◇
―――蒼崎青子は、一人になった。
火口の縁に立っていた。隣には、誰もいなかった。
八年ずっと隣にいた男は、もうこの時間にはいない。二年先の、まだ誰も踏んでいない時間の中に、そっと置いてきた。
胸の奥が、ひどく軽かった。軽すぎて、心細かった。
「……さて」
青子は焼け落ちた袖を引きちぎった。ポケットの中のボタンを、もう一度だけ握りしめて、それから手を離した。
「――世界の終わりの後片付けね」
星が青子を見ていた。
白い光の筋が、雨のように降り注ぎ始めた。一筋一筋が、触れた岩も木も空気も、音もなく消していく。
青子はその光の雨の間を、時間を跳ねるようにして、ぎりぎりでかわし続けた。撃ち返す隙がない。
――解析、却下。
――検討、却下。
――鑑定、却下。
――診断、却下。
「……わかってるわよ」
青子は光の雨の中で呟いた。
応急の手は、思いついていた。この山ごと、この時間ごと畳んで、先へ送る。今の自分では壊せないものを、壊せる自分が来るまで先延ばしにする。
大技だった。撃つ前に両手を突き出して、溜めなければならない。たった二秒。
二秒、あの光の雨が止んでくれたら。
けれど星は、それを知っているかのように、一瞬も休まなかった。
光の雨が、青子の頬を、肩を、脇腹をかすめた。
跳ねる。跳ねる。跳ねる。息が上がっていく。足がもつれかける。
――二秒。
――たった二秒でいいのに。
その時、青子の視界の外で、何かが動いた。
頭上だった。火口の縁よりずっと高い、崩れかけた岩肌の方。見上げる暇はなかった。光の雨から目を離した瞬間に、自分は消える。
だから、見えなかった。ただ、聞こえた。
岩肌を、何かが蹴る音。崩れる岩を伝って、星の真上へ駆け上がっていく足音。
迷いのない足取りだった。
それから、何かが跳んだ。
骨の折れる音がした。肉の裂ける音がした。何かが焼ける音がした。
音は途切れなかった。跳んでいる間じゅう、ずっと。
星の光の雨が、青子から逸れた。青子の視界の外の、その何かの方へ。一斉に。
――――。
一秒。
二秒。
「――――今っ!!」
青子は両手を突き出した。
溜める必要は、もうなかった。二秒が、そこにあった。
「――――ツアープラン、ホライゾン!」
世界が折りたたまれた。
燃える山が。溶けた岩が。星が。この一九九九年の、五月の数日間ごと。
青子の両手の間で一枚の布を畳むように折りたたまれて、二年先の、まだ誰も踏んでいない時間の中へ。ほんの少しだけ、先送りにされた。
「――没収試合よ。この特異点ごと、ちょっとタンマ」
◇
全部が静かになる直前、青子はようやく顔を上げた。
頭上の岩肌を。視界の外で自分に二秒をくれた、何かの方を。
そこには、もう何もなかった。
燃える風と白い光の名残と、崩れかけた火口の縁の、焼け焦げた岩の上の、小さな黒い何かの跡だけが。
誰だったのか。何だったのか。見えなかった。
青子はそれを、長いこと見ていた。それから、もう一度、コートの内ポケットの上からボタンを握りしめた。
二年後の、あの山で。あいつが待っている。
自分も、行かなければならなかった。先送りにした、この時間の先へ。
青子は目を閉じた。折りたたまれていく世界の中で、最後に一言だけ呟いた。
「……誰かが私に、二秒をくれた」
答える者は、いなかった。
白い光が、全部を呑み込んだ。
てことで温泉篇始まりました。だいぶ原作とはかけ離れると思います。ゆるしてください。
最近、こっちのほうの更新がおろそかになっていたので、書きあがり次第投稿していこうと思います。
あと、シエルの小説、めっちゃ駆け足ですが完結させました。改めてアンケートご協力いただけたら嬉しいです。
シエルの小説満足度調査
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めちゃよかった
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よかった
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そこそこ
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びみょう