―――温泉の湯は、地の底から湧いてくる。
何百年も何千年も前に地の底に染み込んだ雨が、地熱に温められ、岩の中の何かを溶かし込んで、ゆっくりと、ゆっくりと昇ってくる。
だから湯には、地の底の記憶が混じっている。
この山の湯には、とりわけたくさんの記憶が混じっていた。
山の主の。昔の祈りの。叶わなかった願いの。
それから、まだ起きていない何かの。
◇
目を開けると、見知らぬ天井だった。
古い太い梁。煤けた板張り。どこかで湯の流れる音がしていた。
忉利は布団の中で、しばらく動かなかった。頭の芯が、ひどく重かった。
何かを。とても大事なものを見た気がするのに、思い出そうとするたびに、ぼろぼろと崩れていく。
燃える山。白い光。熱い風。
それから、声。
――二年後の、ここで。待ってて。
それだけが耳の奥に、はっきりと残っていた。
誰の声かは、考えるまでもなかった。
「……青子」
身体を起こした。六畳の和室だった。枕元に自分の鞄が置かれている。父のミルもネルも、有珠の古い鞄の中に、ちゃんとあった。
隣の布団は、なかった。
窓の外で、新緑の山が朝の光に濡れていた。
襖が開いて、派手な柄の羽織を着た男が顔を出した。口髭。脂ぎった、よく喋りそうな顔。
「――お、目ぇ覚めましたかい、お客さん。昨日の夕方、裏山の道でぶっ倒れてたんですよ。うちの前で死なれちゃ縁起が悪いってんで運び込んどきました」
男は隈乃院ヨシスケと名乗った。この温泉旅館の主人だという。
忉利は男の顔をじっと見ていた。どこかで、見たことがある気がした。声か。喋り方か。笑う時の目尻の皺か。思い出そうとすると、頭の芯がまた重くなった。
「……今日、何日だ」
「五月の二日ですけど」
「……何年の」
男は少しだけ、妙な顔をした。
「二〇〇一年に決まってるでしょう。お客さん、頭打ちました?」
忉利は何も言わなかった。
東京駅の階段で青子が西を指さしたのは、一九九九年の五月だった。
二年が、消えていた。
――二年後の、ここで。待ってて。
「……待ってる、って」
忉利は口の中で呟いた。
「どこでだよ。……どこにいんだよ、お前」
男が首を傾げて、襖を閉めていった。
忉利は鞄を掴んで、立ち上がった。旅館の玄関を出て、裏山の道を登り始めた。
何かに呼ばれるように。
◇
木々の向こうの小さな開けた場所に、二人が倒れかけていた。
一人は、身の丈ほどもある大きな盾を構えた薄紫の髪の少女。もう一人は、その背中に庇われた、同じくらいの年の白い服の少女。
その前に、何かがいた。
獣のようで、獣ではなかった。猪と狼と大蛇を無理やり捏ね合わせたような形をとった影が、木々の間の空気そのものを歪ませながら、ずるりと這い寄ってくる。
山の怪異。
忉利は走りながら、目の奥の扉を開いた。線が浮かんだ。
滲んでいた。いつもなら墨で引いたようにくっきり見える線が、雨に打たれた障子紙のようにぼやけて揺れている。
それでも、見えた。怪異の身体から周りの森の地面へ、何十本もの線が根を張るように伸びている。この山の、この場所に縛りつけられた線。縄張りの線だった。
ぷつり。
切った、はずだった。
手応えが、半分しかなかった。何十本のうち半分だけが断たれて、残りは滲んだまま、そこに残っていた。
それでも、怪異の動きはがくんと鈍った。地面から半分足を抜かれたように、よろめく。
同時に、右目の奥に針で刺されたような痛みが走った。
「――っ」
忉利は思わず、右目を手で押さえた。
痛み。旧校舎の夜以来、一度も感じたことのない種類の痛みだった。線を切るたびに眼の奥の細い血管が弾けて、脳の芯が焼けるような。あの冬、遊園地で初めて線を切った時に味わった、あの痛み。
ほんの一瞬だった。すぐに消えた。押さえた指の隙間から、何か温かいものが一滴だけ、頬を伝い落ちた。
怪異がよろめきながら、それでもこちらへ向き直った。影の口が裂けるように開いた。
その時。
木々の間に、青い光が差した。
「――このあたりの地面、崩れやすいから! 叩く系のは最後の手段にとっときなさい!」
光の中から、誰かが現れた。魔弾が、よろめいた怪異の真ん中を撃ち抜いた。影はばらばらに弾けて、木漏れ日の中に溶けて消えた。
現れた女は、焦げたコートの裾を払って振り返った。長い髪。煤のついた頬。片方の袖が、肘のあたりで焼け落ちている。
忉利と目が合った。
女の顔から、一瞬だけ何もかもが消えた。
それから、ゆっくりと口の端が持ち上がった。笑い方が、少しだけ下手だった。
「……待たせたわね」
忉利は何も言わなかった。
三歩で青子の前まで歩いて、左の手首を掴んだ。赤と黒と白の糸の上から。
今度は、掴めた。
「……遅えよ」
「……ごめん」
「どこ行ってた」
「……全部終わったら、話す」
青子は掴まれた手首を振りほどかなかった。代わりに、もう片方の手で忉利の手の甲をそっと包んだ。
「――今はちょっと、人前よ」
「知らねえ」
「知らないじゃないわよ」
盾の少女が、口を開けたまま二人を見ていた。白い服の少女がその袖を引いて、そっと目を逸らさせた。
「……た、助かりました」
盾の少女は大きく息を吐いて盾を地面に下ろし、それから、青子を見上げた。
「あの、あなた方は……」
「観光客!」
青子は指先の光を吹き消すように払って、胸を張った。
「通りすがりの旅行者よ。ちょっとこの辺を観光してたところ」
「観光……」
少女は青子の焦げたコートの袖と煤のついた頬を、交互に見た。明らかに信じていない顔だった。
白い服の少女が盾の少女の後ろから進み出て、頭を下げた。
「ありがとうございました。……藤丸です。こっちはマシュ」
「蒼崎青子。こっちは日景忉利」
青子は忉利の方を顎で示した。
マシュと呼ばれた少女が忉利を見た。眼鏡の奥の目が、ゆっくりと見開かれていった。
「……先輩」
マシュの声が小さくなった。
「今、あの方の方から怪異の霊的な結合が断たれるのが観測されました。……でも、魔術回路の反応がありません。魔力の流れも、一切。……術式を使わずに見ただけで霊体の結合を断った……?」
藤丸が忉利の顔を見た。マシュは青子の方をちらりと見た。
「それに……そちらの方は、光の中から現れたように見えましたが」
「見間違いじゃない? 光の中から出てくるなんて、ワープじゃあるまいし。あはは」
忉利は右目の下を手の甲で拭って、面倒くさそうに言った。
「……邪魔だったから、線を切っただけだ」
マシュが盾の縁をぎゅっと握りしめた。
青子はその様子を横目で見て、ふと、忉利の頬に目を留めた。手の甲で拭った跡に、ほんの薄く赤い色が残っていた。
青子の目が、一瞬だけ揺れた。何も言わなかった。
◇
藤丸とマシュは、未来から来たのだと言った。カルデアという、雪山の天文台のような場所から。人類の歴史のどこかに歪みが生まれるとその時代に跳んで、歪みの原因を取り除く。それが、彼らの仕事なのだと。
今、この場所も、そういう歪みの一つだった。七日ほどで閉じるはずの、小さな歪み。
旅館までの道は、少し前に山道で行き会った男に教わったのだと藤丸は言った。宿の泊まり客で、散歩の途中だったらしい。背の高い日に焼けた人で、願いの叶う五つの秘湯の話を聞かせてくれたのだという。
「静希さん、とおっしゃっていました」
マシュが言った。忉利は足を止めた。
「……静希」
「お知り合いですか」
忉利は答えなかった。手首を握る青子の指に、少しだけ力がこもった。
「……ここ、二〇〇一年なんだとよ」
忉利が小声で言った。
「おれ、二年どこにいた」
青子は少しのあいだ、黙っていた。それから、首を横に振った。
「……今は、言えない」
「覚えてねえのか」
「覚えてるわ。……全部」
青子はそう言って忉利から目を逸らし、木々の間の遠くの山並みの方を見た。
忉利はその横顔を見ていた。何気なく、意識を向けた。
青子の胸から伸びる時間の線と自分の線を結んでいる、あの結び目。そこから伸びる、細い、細い糸。どこか見えない場所へ向かって、何かを支えるようにぴんと張り詰めている糸。
その糸は、青子の側の方がずっと太かった。青子の方が、ずっと重いものを支えていた。
何を支えているのかは、見えなかった。ただ、それを青子が自分に言わずに、一人で持っていることだけは、わかった。
◇
山の谷間に、古い旧館と新しい新館が渡り廊下で繋がって建っていた。
隈乃旅館。
玄関の前で、青子はぴたりと足を止めた。
「……やばいわ、ここ」
低い声だった。
「何人か死んでる。間違いない」
青子はしばらく何か考え込んでいた。それから、鞄の外ポケットから茶色い紙袋を取り出した。土産物屋の大きな紙袋。
それを頭からすっぽりと被った。目の部分に、指で穴を二つ開ける。
「……何やってんだ、お前」
「変装よ」
紙袋の中から、くぐもった声が返ってきた。
「念のため。私の名前はスセリツカでお願い」
「目立つだろ、それ。逆に」
「目立つのと正体がばれるのは、別の話よ」
藤丸とマシュが顔を見合わせていた。忉利は額に手を当てた。
宿の主人の隈乃院ヨシスケは忉利の顔を見て、「おや、昨日の行き倒れのお客さんじゃねえですか」と笑った。宿泊客のほとんどは霊能力者で、旅館に出る怪異を祓った者に礼金を出す。そういう趣向なのだと、得意げに説明した。
静希という客はいるかと忉利が訊くと、主人は宿帳をめくった。
「ああ、探偵さんのお連れさんね。さっきお戻りになって、旧館の方へ行かれましたよ」
旧館へ続く渡り廊下の先には、誰もいなかった。古い板張りの床が、薄暗い奥へまっすぐに延びているだけだった。
忉利がそちらへ一歩踏み出しかけると、繋いだままの手を青子が引いた。
「後にしなさい」
紙袋の穴の向こうから、青子の目が主人の顔をじっと見ていた。何かを確かめるような、長い目だった。
「――じゃ、手始めに裏山の地獄堂の霊障を鎮めてもらいましょうかねぇ。昔の鉱山跡の洞窟でしてね」
隈乃院が、ぱんと手を叩いた。
「もうお一方、別の霊能力者の先生にもお願いしてるんで。どっちが先に鎮めるか競争ってことで」
◇
洞窟の奥には、山彦がいた。
こちらが何かをすると、それをそっくりそのまま跳ね返してくる怪異。撃てば撃った分だけ、同じ力が返ってくる。
青子は紙袋を被ったまま、舌打ちした。
「……厄介ね。撃てば撃つほどこっちが削られる」
忉利は洞窟の暗がりに目を凝らした。滲んだ線の向こうに、見えた。
山彦たちの身体から伸びる細い線。それが洞窟の天井の一点へ、すべて束ねられている。こだまが跳ね返る、その起点。
「青子。天井の右奥の、鍾乳石の根元だ」
「……そこ?」
「そこから全部跳ね返ってきてる」
青子は紙袋の穴から天井を見上げた。
撃った。鍾乳石の根元が砕けた。
山彦たちの動きが、一斉にばらばらになった。跳ね返す力を失ってただの影になり、うろうろと彷徨い始める。そこへ、藤丸とマシュが飛び込んでいった。
忉利は右目を押さえていた。また、あの痛みが一瞬だけ走った。指先に、また一滴。
青子が紙袋の穴から、それを見ていた。
その時、洞窟の中の空気がふっと凍りついた。
山彦たちが、一斉に消えた。跡形もなく。音もなく。
洞窟の入り口の方から、静かな足音が近づいてきた。
「――勝ち負けは、もっと単純に決めるものよ」
平坦な声だった。
「競争相手がいなくなれば、残った一人が勝者でしょう?」
黒い服。長い髪。白い、硝子細工のような顔。肩の上に、青い駒鳥が一羽。
久遠寺有珠が、そこに立っていた。
有珠は洞窟の中を見渡した。藤丸を。マシュを。紙袋を被った女を。それから、忉利を。
その目が止まった。長いこと、有珠は忉利の顔を見ていた。十年前、屋根裏の丸窓の下で真鍮の鍵を渡した時と、同じ目だった。
けれど、それだけではなかった。何かを思い出そうとしている目だった。思い出せなくて、それでも思い出さなければならない何かがあると、知っている目。
「……忉利」
「……おう」
「――遅いわ」
有珠はそれだけ言った。何が遅いのか、有珠自身にもわかっていないようだった。
紙袋の女が深い溜息をついて、紙袋を脱いだ。
「……人前で魔術使うのは、ご法度でしょ。有珠」
「青子」
有珠の目がほんのわずかに見開かれ、それから、すっと細められた。
「……あなたの変装は、相変わらず、壊滅的ね」
「うるさいわね」
有珠の肩の上で、ロビンがばさばさと羽ばたいた。
「姉御! シャバ憎二号! ひ、久しぶりッス! 十年ぶりッス! ……あれ、二人とも全然変わってないッスね!?」
十年、と忉利は口の中で繰り返した。八年だろ、と言いかけて、やめた。
「駄鳥」
有珠がロビンの嘴を指でつまんだ。ロビンはじたばたと羽を震わせて、黙った。
青子と有珠はしばらく言い合いを続けて、最後には、藤丸たちの勝ちと有珠の勝ちを両方認める引き分けで手を打った。
忉利はその間、ずっと有珠の横顔を見ていた。
有珠の線は、相変わらず前へ流れていた。傷ひとつない、磨かれた石の上を滑る水のように。
けれど、その線のほんの少し前の方。二年ほど前のあたりで、何かがぼやけていた。線そのものが、そこだけ滲んでいた。
◇
昼過ぎ、天空の間という広い客室で、有珠が召喚というものを見てみたいと言い出した。藤丸は少し迷ってから、マシュの盾の前で一人の男を喚んだ。
未来の魔術師たちの、召喚という術だった。この土地に縁のある誰かを英霊として喚び出すのだという。
光の中から現れたのは、背の高い痩せた若い男だった。着古した、三咲高校のブレザーの制服。飾り気のない、真剣な顔。
「なんだか不思議な場所で『世界のピンチだ』と言われた気がして、目を開けたらここにいた」
男は部屋の中を見回した。
「ここが次のバイト先、ということでいいのだろうか」
草十郎だった。
八年前、三咲駅のホームで入場券を指に挟んでいた頃の、まだ少年の面影を残した草十郎。あの日から少しも年を取っていなかった。
マシュが盾の陰で目を丸くしていた。山道で道を教えてくれた方です、と藤丸に囁く声が聞こえた。でも、ずっとお若いです、と。
若い草十郎は、部屋の中の顔を一人ずつ見た。有珠を。青子を。それから、忉利を。少しだけ、首を傾げた。
「忉利か」
平坦な声だった。
「行ってこいと言ったばかりなのに、もう帰ってきたのか。早いな」
忉利は何も言えなかった。この草十郎にとっては、あのホームからほんの数日しか経っていないのだ。
その時、忉利の頭の奥で何かがちかりと光った。
燃える山。白い光。熱い風。
焼け落ちた袖。ポケットの上から何かを握りしめる、青子の手。
忉利は額を押さえた。何も、浮かばなかった。白い光と、熱い風と、青子の手のほかには、何も。
隣で、青子がじっと若い草十郎の顔を見ていた。何も言わなかった。
それから、ふいに草十郎の前に立った。
「あんた、今日はこの部屋から一歩も出ないこと。……出たら消し炭にするからね」
「どうしてだ?」
「なんでも」
草十郎は少し考えて、それから頷いた。
青子は、朝から握っていた忉利の手を離した。
「ちょっと見てくるところがあるの。……夜までには戻るわ」
「おれも行く」
「すぐよ。宿の中だけ」
青子は振り返らずに廊下へ出ていった。怖い顔をしていた。
戻ってきたのは、日が暮れてからだった。
「……どこ行ってた」
「野暮用。もう片づいたわ」
それだけ言って、青子はまた忉利の手を握った。
◇
夜が更けて、忉利が部屋の全員の分の珈琲を淹れに、廊下の端の湯沸かし場へ出ていった後。
天空の間の窓辺で、青子は藤丸を手招きした。
「……ねえ。貴方たちは信用できそうだから、今のうちに言っとくわ」
「……はい」
「この宿で明日から、湯に入ろうとする人間がいたら。……止めて。誰にも、願いは叶えさせないで」
声を落としていた。
「この歪み、解決しないと人類は滅びるの」
藤丸は目を見開いた。
「……え」
「願い星が来るのよ。……たぶん、二年前に来たのと同じものが」
青子は窓の外の暗い山並みを見ていた。
二年前。藤丸は、その言葉の意味を訊こうとした。けれど青子は、それより先に藤丸の方を振り向いた。
「それと、もう一つ」
真剣な目だった。
「今の話、あの人には言わないで」
「……日景さんに、ですか」
「そう。……お願い」
廊下の方から足音が近づいてきた。青子はぱっと表情を戻して、窓枠に頬杖をついた。
扉が開いて、盆にカップを並べた忉利が入ってきた。
「……何話してたんだ」
「別に。未来の話」
青子はいつもの顔で笑った。
忉利は何も言わずに、盆を卓の上に置いた。
若い草十郎が、自分の前に置かれたカップをじっと見下ろした。
「……忉利」
「ん」
「豆は見つかったか?」
忉利は少しのあいだ、黙っていた。
「……ああ。モカの港にも行った。エチオピアの森にも」
「そうか」
草十郎はカップを両手で持ち上げて、一口飲んだ。
「よかった」
それだけだった。八年前のホームから、ほんの数日しか経っていない顔で。
忉利はその顔を、まともに見ていられなかった。理由は、わからなかった。
◇
やがて、有珠が言った。
「青子は、わたしの部屋で引き取るわ」
「……なんでよ」
「静希君はあの人たちの部屋でしょう。なら、あなたはわたしの部屋。……十年ぶりなのだから、それくらい、いいでしょう」
有珠はそれだけ言って、廊下へ出ていった。
青子は少しのあいだ、その背中を見ていた。それから、忉利の方を振り返った。
天空の間の窓辺。夜の山並みの上に、細い月が出ていた。
青子は忉利の隣まで歩いてきて、窓枠に並んで寄りかかった。何も言わなかった。
ただ、忉利の手を握った。指を絡めて、強く。
今日一日じゅう、青子はずっとこうだった。山道でも、旅館の廊下でも、洞窟の中でも。人目がある時も、ない時も。気がつくと、忉利の手を握っていた。昼過ぎに一度だけ離れた、あの時のほかは。
「……どうした、今日」
忉利は絡んだ指を見下ろした。
「朝、山ん中で会った時から。ずっとこれだ」
「別に」
青子は窓の外の月を見ていた。
「なんとなく」
「なんとなく、ねえ」
「なんとなくよ」
しばらく、二人とも黙っていた。遠くで、谷川の水の音がしていた。
「……ねえ、忉利」
「ん」
「明日の朝の一杯、楽しみにしてるわ」
青子は忉利の方を見ないで言った。
「いつもの時間に淹れといて。……ちゃんと窓、開けて」
「有珠、いねえのに」
「有珠、いるわよ。今日は」
青子は少しだけ笑った。それから、絡めた指をゆっくりとほどいた。
「……おやすみ」
「……ああ」
青子は廊下の方へ歩いていった。扉の前で、一度だけ振り返る。コートの胸の内ポケットを、上からそっと押さえていた。
何か言いかけたように見えた。けれど、何も言わずに扉の向こうへ消えた。
◇
夜明け前、忉利は目を覚ました。
天空の間の隅の布団。隣では、若い草十郎が背筋を伸ばしたまま、座って目を閉じていた。英霊というのは、眠らなくてもいいらしい。
忉利は布団を抜け出して、窓を開けた。夜明け前の冷たい空気が流れ込んでくる。山の匂い。硫黄の匂い。
部屋の隅の電気ポットで湯を沸かした。鞄から父のミルと、青子の縫ったネルを取り出す。
豆を挽く。ごり、ごり、と。ネルに粉を落として、湯を細く注ぐ。粉が膨らむ。泡が浮いて、沈む。
白いカップに一杯目を注いで、窓辺に置いた。
それから、待った。
いつもの時間を過ぎた。十分。二十分。カップの湯気が細くなっていった。
廊下の方から、ばたばたと足音が聞こえた。扉が乱暴に開いた。
「――先輩っ! 皆さん!」
マシュだった。顔が真っ白だった。
「大浴場で……草十郎さんが見つけて……青子さんが……!」
◇
大浴場の濡れた石の床の上に、青子が倒れていた。
服を着たままだった。後ろ頭が、ひどく壊れていた。
忉利は入り口に立ったまま、動けなかった。
目の奥の扉が、勝手に開いた。開けたくなかったのに、開いてしまった。
青子の胸から伸びていた時間の線が、途中で、ぷつりと途切れていた。
それから、自分の胸のあの結び目。九年半前の冬に結ばれて、七年前の七夕と六年前の二月に、輪になって閉じた結び目。
その結び目の片側が、ほどけて、だらりと垂れ下がっていた。青子の側の糸が、どこにも繋がっていなかった。
右目の奥に、あの痛みが走った。今度は、一瞬ではなかった。ずきり、ずきりと脈打つように痛み続けた。
視界の線が、さっきよりもさらに滲んでいく。墨を垂らした水のように、何もかもがぼやけていく。
ただ一つ、自分の胸から垂れ下がる、ほどけた結び目の端だけが、やけにくっきりと見えていた。
忉利はゆっくりと、青子の傍らに膝をついた。コートの内ポケットに手を入れる。指先に、小さくて硬いものが触れた。取り出す。
金色のボタンだった。
三咲高校の校章。焦げた糸の切れ端。ついこの間の――いや、二年前の、あの一両きりの電車で青子がポケットの中で撫でていた、あのボタン。八年撫でられて、角がほんの少しだけ丸くなった。
忉利はそれを握りしめた。
声は出なかった。何も、出なかった。
「――――え?」
背後で声がした。大浴場の入り口の方から。
「なに、え? 私、死んでる?」
忉利はゆっくりと振り返った。
青子が、立っていた。
同じコート。同じ長い髪。首元に、同じ青い石の首飾り。目の前の石の床に倒れている青子と、同じ顔で。
「あ、ほんとだ。こりゃ死んでるわ。……っていうか、後ろ頭ひどくない? 自分の死体見るのって、なんかけっこう恥ずかしいわね。あはは」
青子は頭を掻きながら、倒れている自分を覗き込んで、それから顔を上げた。
忉利と目が合った。
「……忉利」
青子の顔から、笑みがすうっと消えた。
「あんた、……私の知ってるあんたより、ちょっとだけ幼い目をしてる」
忉利は立ち上がった。目の奥の扉を開いた。ずきずきと痛む右目で。滲んだ、ぼやけた視界で。
新しい青子の胸から伸びる時間の線。輪になって閉じた、あの見慣れた線。その輪にも、結び目があった。
けれど、その結び目のもう片方の糸は、自分の胸の方には伸びていなかった。どこか、ずっと遠く。この山の外の、この時間の外の、どこか。ここにいない誰かの方へ。
たぶん。ずっと先の、自分の方へ。
同じ青子なのに。自分とは、結ばれていなかった。
◇
天空の間に戻って、忉利は窓辺のカップを見下ろした。すっかり冷めていた。それを流しに捨てて、もう一度、湯を沸かした。
いつものように豆を挽いて、ネルを振った。白いカップに注ぐ。
それを、窓辺に座った新しい青子の前に、黙って置いた。
青子はカップを見下ろした。それから、両手でそっと包んだ。
「……紅茶党なんだけど、私」
一字一句、同じだった。声も、言い方も、少しだけ唇を尖らせる癖も。昨日の朝までの自分の青子と、何ひとつ変わらなかった。
「知ってる」
忉利はそれだけ言って、部屋を出た。
廊下を少しだけ歩いて、角を曲がったところで足を止めた。壁に背中を預ける。ポケットの中で、金色のボタンを握りしめる。
ほどけた結び目の端が、胸の奥でだらりと揺れていた。右目が、ずきずきと痛み続けていた。
滲んだ視界の中で、廊下の窓の外の山並みが、ぼやけて揺れていた。
泣いているせいなのか、目のせいなのか、忉利にはわからなかった。
原作見返してて思いましたが、シナリオすんごい長いですね。
それだけ、気合入ってたコラボだったって思ってます。
やっぱFGOで一番好きなシナリオだなと、再確認しまくってます。
ちなみに二部だとミクトランがダントツ一位です。ククルカンめっちゃすき。
アヴァロンは胸糞過ぎてマジで見れなかったです。
あと、昨日はみんな同じこと思ったと思います。
ダノンデサイルつんよ。って。何あの勝ち方、ヤヴァイ。
単勝に3万入れてました。最高の秋天でした。
ジャパンカップも楽しみですね。
多分府中で一番声出てました。
執筆ペース上がりそうなくらいテンション高いです。
シエルの小説満足度調査
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めちゃよかった
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よかった
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そこそこ
-
びみょう