夜明けの色を見る眼   作:にんら

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毎朝、違う君

―――温泉の湯は、地の底から湧いてくる。

 

 何百年も何千年も前に地の底に染み込んだ雨が、地熱に温められ、岩の中の何かを溶かし込んで、ゆっくりと、ゆっくりと昇ってくる。

 

 だから湯には、地の底の記憶が混じっている。

 

 この山の湯には、とりわけたくさんの記憶が混じっていた。

 

 山の主の。昔の祈りの。叶わなかった願いの。

 

 それから、まだ起きていない何かの。

 

 

◇

 

 

 目を開けると、見知らぬ天井だった。

 

 古い太い梁。煤けた板張り。どこかで湯の流れる音がしていた。

 

 忉利は布団の中で、しばらく動かなかった。頭の芯が、ひどく重かった。

 

 何かを。とても大事なものを見た気がするのに、思い出そうとするたびに、ぼろぼろと崩れていく。

 

 燃える山。白い光。熱い風。

 

 それから、声。

 

――二年後の、ここで。待ってて。

 

 それだけが耳の奥に、はっきりと残っていた。

 

 誰の声かは、考えるまでもなかった。

 

「……青子」

 

 身体を起こした。六畳の和室だった。枕元に自分の鞄が置かれている。父のミルもネルも、有珠の古い鞄の中に、ちゃんとあった。

 

 隣の布団は、なかった。

 

 窓の外で、新緑の山が朝の光に濡れていた。

 

 襖が開いて、派手な柄の羽織を着た男が顔を出した。口髭。脂ぎった、よく喋りそうな顔。

 

「――お、目ぇ覚めましたかい、お客さん。昨日の夕方、裏山の道でぶっ倒れてたんですよ。うちの前で死なれちゃ縁起が悪いってんで運び込んどきました」

 

 男は隈乃院ヨシスケと名乗った。この温泉旅館の主人だという。

 

 忉利は男の顔をじっと見ていた。どこかで、見たことがある気がした。声か。喋り方か。笑う時の目尻の皺か。思い出そうとすると、頭の芯がまた重くなった。

 

「……今日、何日だ」

 

「五月の二日ですけど」

 

「……何年の」

 

 男は少しだけ、妙な顔をした。

 

「二〇〇一年に決まってるでしょう。お客さん、頭打ちました?」

 

 忉利は何も言わなかった。

 

 東京駅の階段で青子が西を指さしたのは、一九九九年の五月だった。

 

 二年が、消えていた。

 

――二年後の、ここで。待ってて。

 

「……待ってる、って」

 

 忉利は口の中で呟いた。

 

「どこでだよ。……どこにいんだよ、お前」

 

 男が首を傾げて、襖を閉めていった。

 

 忉利は鞄を掴んで、立ち上がった。旅館の玄関を出て、裏山の道を登り始めた。

 

 何かに呼ばれるように。

 

 

◇

 

 

 木々の向こうの小さな開けた場所に、二人が倒れかけていた。

 

 一人は、身の丈ほどもある大きな盾を構えた薄紫の髪の少女。もう一人は、その背中に庇われた、同じくらいの年の白い服の少女。

 

 その前に、何かがいた。

 

 獣のようで、獣ではなかった。猪と狼と大蛇を無理やり捏ね合わせたような形をとった影が、木々の間の空気そのものを歪ませながら、ずるりと這い寄ってくる。

 

 山の怪異。

 

 忉利は走りながら、目の奥の扉を開いた。線が浮かんだ。

 

 滲んでいた。いつもなら墨で引いたようにくっきり見える線が、雨に打たれた障子紙のようにぼやけて揺れている。

 

 それでも、見えた。怪異の身体から周りの森の地面へ、何十本もの線が根を張るように伸びている。この山の、この場所に縛りつけられた線。縄張りの線だった。

 

 ぷつり。

 

 切った、はずだった。

 

 手応えが、半分しかなかった。何十本のうち半分だけが断たれて、残りは滲んだまま、そこに残っていた。

 

 それでも、怪異の動きはがくんと鈍った。地面から半分足を抜かれたように、よろめく。

 

 同時に、右目の奥に針で刺されたような痛みが走った。

 

「――っ」

 

 忉利は思わず、右目を手で押さえた。

 

 痛み。旧校舎の夜以来、一度も感じたことのない種類の痛みだった。線を切るたびに眼の奥の細い血管が弾けて、脳の芯が焼けるような。あの冬、遊園地で初めて線を切った時に味わった、あの痛み。

 

 ほんの一瞬だった。すぐに消えた。押さえた指の隙間から、何か温かいものが一滴だけ、頬を伝い落ちた。

 

 怪異がよろめきながら、それでもこちらへ向き直った。影の口が裂けるように開いた。

 

 その時。

 

 木々の間に、青い光が差した。

 

「――このあたりの地面、崩れやすいから! 叩く系のは最後の手段にとっときなさい!」

 

 光の中から、誰かが現れた。魔弾が、よろめいた怪異の真ん中を撃ち抜いた。影はばらばらに弾けて、木漏れ日の中に溶けて消えた。

 

 現れた女は、焦げたコートの裾を払って振り返った。長い髪。煤のついた頬。片方の袖が、肘のあたりで焼け落ちている。

 

 忉利と目が合った。

 

 女の顔から、一瞬だけ何もかもが消えた。

 

 それから、ゆっくりと口の端が持ち上がった。笑い方が、少しだけ下手だった。

 

「……待たせたわね」

 

 忉利は何も言わなかった。

 

 三歩で青子の前まで歩いて、左の手首を掴んだ。赤と黒と白の糸の上から。

 

 今度は、掴めた。

 

「……遅えよ」

 

「……ごめん」

 

「どこ行ってた」

 

「……全部終わったら、話す」

 

 青子は掴まれた手首を振りほどかなかった。代わりに、もう片方の手で忉利の手の甲をそっと包んだ。

 

「――今はちょっと、人前よ」

 

「知らねえ」

 

「知らないじゃないわよ」

 

 盾の少女が、口を開けたまま二人を見ていた。白い服の少女がその袖を引いて、そっと目を逸らさせた。

 

「……た、助かりました」

 

 盾の少女は大きく息を吐いて盾を地面に下ろし、それから、青子を見上げた。

 

「あの、あなた方は……」

 

「観光客!」

 

 青子は指先の光を吹き消すように払って、胸を張った。

 

「通りすがりの旅行者よ。ちょっとこの辺を観光してたところ」

 

「観光……」

 

 少女は青子の焦げたコートの袖と煤のついた頬を、交互に見た。明らかに信じていない顔だった。

 

 白い服の少女が盾の少女の後ろから進み出て、頭を下げた。

 

「ありがとうございました。……藤丸です。こっちはマシュ」

 

「蒼崎青子。こっちは日景忉利」

 

 青子は忉利の方を顎で示した。

 

 マシュと呼ばれた少女が忉利を見た。眼鏡の奥の目が、ゆっくりと見開かれていった。

 

「……先輩」

 

 マシュの声が小さくなった。

 

「今、あの方の方から怪異の霊的な結合が断たれるのが観測されました。……でも、魔術回路の反応がありません。魔力の流れも、一切。……術式を使わずに見ただけで霊体の結合を断った……?」

 

 藤丸が忉利の顔を見た。マシュは青子の方をちらりと見た。

 

「それに……そちらの方は、光の中から現れたように見えましたが」

 

「見間違いじゃない? 光の中から出てくるなんて、ワープじゃあるまいし。あはは」

 

 忉利は右目の下を手の甲で拭って、面倒くさそうに言った。

 

「……邪魔だったから、線を切っただけだ」

 

 マシュが盾の縁をぎゅっと握りしめた。

 

 青子はその様子を横目で見て、ふと、忉利の頬に目を留めた。手の甲で拭った跡に、ほんの薄く赤い色が残っていた。

 

 青子の目が、一瞬だけ揺れた。何も言わなかった。

 

 

◇

 

 

 藤丸とマシュは、未来から来たのだと言った。カルデアという、雪山の天文台のような場所から。人類の歴史のどこかに歪みが生まれるとその時代に跳んで、歪みの原因を取り除く。それが、彼らの仕事なのだと。

 

 今、この場所も、そういう歪みの一つだった。七日ほどで閉じるはずの、小さな歪み。

 

 旅館までの道は、少し前に山道で行き会った男に教わったのだと藤丸は言った。宿の泊まり客で、散歩の途中だったらしい。背の高い日に焼けた人で、願いの叶う五つの秘湯の話を聞かせてくれたのだという。

 

「静希さん、とおっしゃっていました」

 

 マシュが言った。忉利は足を止めた。

 

「……静希」

 

「お知り合いですか」

 

 忉利は答えなかった。手首を握る青子の指に、少しだけ力がこもった。

 

「……ここ、二〇〇一年なんだとよ」

 

 忉利が小声で言った。

 

「おれ、二年どこにいた」

 

 青子は少しのあいだ、黙っていた。それから、首を横に振った。

 

「……今は、言えない」

 

「覚えてねえのか」

 

「覚えてるわ。……全部」

 

 青子はそう言って忉利から目を逸らし、木々の間の遠くの山並みの方を見た。

 

 忉利はその横顔を見ていた。何気なく、意識を向けた。

 

 青子の胸から伸びる時間の線と自分の線を結んでいる、あの結び目。そこから伸びる、細い、細い糸。どこか見えない場所へ向かって、何かを支えるようにぴんと張り詰めている糸。

 

 その糸は、青子の側の方がずっと太かった。青子の方が、ずっと重いものを支えていた。

 

 何を支えているのかは、見えなかった。ただ、それを青子が自分に言わずに、一人で持っていることだけは、わかった。

 

 

◇

 

 

 山の谷間に、古い旧館と新しい新館が渡り廊下で繋がって建っていた。

 

 隈乃旅館。

 

 玄関の前で、青子はぴたりと足を止めた。

 

「……やばいわ、ここ」

 

 低い声だった。

 

「何人か死んでる。間違いない」

 

 青子はしばらく何か考え込んでいた。それから、鞄の外ポケットから茶色い紙袋を取り出した。土産物屋の大きな紙袋。

 

 それを頭からすっぽりと被った。目の部分に、指で穴を二つ開ける。

 

「……何やってんだ、お前」

 

「変装よ」

 

 紙袋の中から、くぐもった声が返ってきた。

 

「念のため。私の名前はスセリツカでお願い」

 

「目立つだろ、それ。逆に」

 

「目立つのと正体がばれるのは、別の話よ」

 

 藤丸とマシュが顔を見合わせていた。忉利は額に手を当てた。

 

 宿の主人の隈乃院ヨシスケは忉利の顔を見て、「おや、昨日の行き倒れのお客さんじゃねえですか」と笑った。宿泊客のほとんどは霊能力者で、旅館に出る怪異を祓った者に礼金を出す。そういう趣向なのだと、得意げに説明した。

 

 静希という客はいるかと忉利が訊くと、主人は宿帳をめくった。

 

「ああ、探偵さんのお連れさんね。さっきお戻りになって、旧館の方へ行かれましたよ」

 

 旧館へ続く渡り廊下の先には、誰もいなかった。古い板張りの床が、薄暗い奥へまっすぐに延びているだけだった。

 

 忉利がそちらへ一歩踏み出しかけると、繋いだままの手を青子が引いた。

 

「後にしなさい」

 

 紙袋の穴の向こうから、青子の目が主人の顔をじっと見ていた。何かを確かめるような、長い目だった。

 

「――じゃ、手始めに裏山の地獄堂の霊障を鎮めてもらいましょうかねぇ。昔の鉱山跡の洞窟でしてね」

 

 隈乃院が、ぱんと手を叩いた。

 

「もうお一方、別の霊能力者の先生にもお願いしてるんで。どっちが先に鎮めるか競争ってことで」

 

 

◇

 

 

 洞窟の奥には、山彦がいた。

 

 こちらが何かをすると、それをそっくりそのまま跳ね返してくる怪異。撃てば撃った分だけ、同じ力が返ってくる。

 

 青子は紙袋を被ったまま、舌打ちした。

 

「……厄介ね。撃てば撃つほどこっちが削られる」

 

 忉利は洞窟の暗がりに目を凝らした。滲んだ線の向こうに、見えた。

 

 山彦たちの身体から伸びる細い線。それが洞窟の天井の一点へ、すべて束ねられている。こだまが跳ね返る、その起点。

 

「青子。天井の右奥の、鍾乳石の根元だ」

 

「……そこ?」

 

「そこから全部跳ね返ってきてる」

 

 青子は紙袋の穴から天井を見上げた。

 

 撃った。鍾乳石の根元が砕けた。

 

 山彦たちの動きが、一斉にばらばらになった。跳ね返す力を失ってただの影になり、うろうろと彷徨い始める。そこへ、藤丸とマシュが飛び込んでいった。

 

 忉利は右目を押さえていた。また、あの痛みが一瞬だけ走った。指先に、また一滴。

 

 青子が紙袋の穴から、それを見ていた。

 

 その時、洞窟の中の空気がふっと凍りついた。

 

 山彦たちが、一斉に消えた。跡形もなく。音もなく。

 

 洞窟の入り口の方から、静かな足音が近づいてきた。

 

「――勝ち負けは、もっと単純に決めるものよ」

 

 平坦な声だった。

 

「競争相手がいなくなれば、残った一人が勝者でしょう?」

 

 黒い服。長い髪。白い、硝子細工のような顔。肩の上に、青い駒鳥が一羽。

 

 久遠寺有珠が、そこに立っていた。

 

 有珠は洞窟の中を見渡した。藤丸を。マシュを。紙袋を被った女を。それから、忉利を。

 

 その目が止まった。長いこと、有珠は忉利の顔を見ていた。十年前、屋根裏の丸窓の下で真鍮の鍵を渡した時と、同じ目だった。

 

 けれど、それだけではなかった。何かを思い出そうとしている目だった。思い出せなくて、それでも思い出さなければならない何かがあると、知っている目。

 

「……忉利」

 

「……おう」

 

「――遅いわ」

 

 有珠はそれだけ言った。何が遅いのか、有珠自身にもわかっていないようだった。

 

 紙袋の女が深い溜息をついて、紙袋を脱いだ。

 

「……人前で魔術使うのは、ご法度でしょ。有珠」

 

「青子」

 

 有珠の目がほんのわずかに見開かれ、それから、すっと細められた。

 

「……あなたの変装は、相変わらず、壊滅的ね」

 

「うるさいわね」

 

 有珠の肩の上で、ロビンがばさばさと羽ばたいた。

 

「姉御! シャバ憎二号! ひ、久しぶりッス! 十年ぶりッス! ……あれ、二人とも全然変わってないッスね!?」

 

 十年、と忉利は口の中で繰り返した。八年だろ、と言いかけて、やめた。

 

「駄鳥」

 

 有珠がロビンの嘴を指でつまんだ。ロビンはじたばたと羽を震わせて、黙った。

 

 青子と有珠はしばらく言い合いを続けて、最後には、藤丸たちの勝ちと有珠の勝ちを両方認める引き分けで手を打った。

 

 忉利はその間、ずっと有珠の横顔を見ていた。

 

 有珠の線は、相変わらず前へ流れていた。傷ひとつない、磨かれた石の上を滑る水のように。

 

 けれど、その線のほんの少し前の方。二年ほど前のあたりで、何かがぼやけていた。線そのものが、そこだけ滲んでいた。

 

 

◇

 

 

 昼過ぎ、天空の間という広い客室で、有珠が召喚というものを見てみたいと言い出した。藤丸は少し迷ってから、マシュの盾の前で一人の男を喚んだ。

 

 未来の魔術師たちの、召喚という術だった。この土地に縁のある誰かを英霊として喚び出すのだという。

 

 光の中から現れたのは、背の高い痩せた若い男だった。着古した、三咲高校のブレザーの制服。飾り気のない、真剣な顔。

 

「なんだか不思議な場所で『世界のピンチだ』と言われた気がして、目を開けたらここにいた」

 

 男は部屋の中を見回した。

 

「ここが次のバイト先、ということでいいのだろうか」

 

 草十郎だった。

 

 八年前、三咲駅のホームで入場券を指に挟んでいた頃の、まだ少年の面影を残した草十郎。あの日から少しも年を取っていなかった。

 

 マシュが盾の陰で目を丸くしていた。山道で道を教えてくれた方です、と藤丸に囁く声が聞こえた。でも、ずっとお若いです、と。

 

 若い草十郎は、部屋の中の顔を一人ずつ見た。有珠を。青子を。それから、忉利を。少しだけ、首を傾げた。

 

「忉利か」

 

 平坦な声だった。

 

「行ってこいと言ったばかりなのに、もう帰ってきたのか。早いな」

 

 忉利は何も言えなかった。この草十郎にとっては、あのホームからほんの数日しか経っていないのだ。

 

 その時、忉利の頭の奥で何かがちかりと光った。

 

 燃える山。白い光。熱い風。

 

 焼け落ちた袖。ポケットの上から何かを握りしめる、青子の手。

 

 忉利は額を押さえた。何も、浮かばなかった。白い光と、熱い風と、青子の手のほかには、何も。

 

 隣で、青子がじっと若い草十郎の顔を見ていた。何も言わなかった。

 

 それから、ふいに草十郎の前に立った。

 

「あんた、今日はこの部屋から一歩も出ないこと。……出たら消し炭にするからね」

 

「どうしてだ?」

 

「なんでも」

 

 草十郎は少し考えて、それから頷いた。

 

 青子は、朝から握っていた忉利の手を離した。

 

「ちょっと見てくるところがあるの。……夜までには戻るわ」

 

「おれも行く」

 

「すぐよ。宿の中だけ」

 

 青子は振り返らずに廊下へ出ていった。怖い顔をしていた。

 

 戻ってきたのは、日が暮れてからだった。

 

「……どこ行ってた」

 

「野暮用。もう片づいたわ」

 

 それだけ言って、青子はまた忉利の手を握った。

 

 

◇

 

 

 夜が更けて、忉利が部屋の全員の分の珈琲を淹れに、廊下の端の湯沸かし場へ出ていった後。

 

 天空の間の窓辺で、青子は藤丸を手招きした。

 

「……ねえ。貴方たちは信用できそうだから、今のうちに言っとくわ」

 

「……はい」

 

「この宿で明日から、湯に入ろうとする人間がいたら。……止めて。誰にも、願いは叶えさせないで」

 

 声を落としていた。

 

「この歪み、解決しないと人類は滅びるの」

 

 藤丸は目を見開いた。

 

「……え」

 

「願い星が来るのよ。……たぶん、二年前に来たのと同じものが」

 

 青子は窓の外の暗い山並みを見ていた。

 

 二年前。藤丸は、その言葉の意味を訊こうとした。けれど青子は、それより先に藤丸の方を振り向いた。

 

「それと、もう一つ」

 

 真剣な目だった。

 

「今の話、あの人には言わないで」

 

「……日景さんに、ですか」

 

「そう。……お願い」

 

 廊下の方から足音が近づいてきた。青子はぱっと表情を戻して、窓枠に頬杖をついた。

 

 扉が開いて、盆にカップを並べた忉利が入ってきた。

 

「……何話してたんだ」

 

「別に。未来の話」

 

 青子はいつもの顔で笑った。

 

 忉利は何も言わずに、盆を卓の上に置いた。

 

 若い草十郎が、自分の前に置かれたカップをじっと見下ろした。

 

「……忉利」

 

「ん」

 

「豆は見つかったか?」

 

 忉利は少しのあいだ、黙っていた。

 

「……ああ。モカの港にも行った。エチオピアの森にも」

 

「そうか」

 

 草十郎はカップを両手で持ち上げて、一口飲んだ。

 

「よかった」

 

 それだけだった。八年前のホームから、ほんの数日しか経っていない顔で。

 

 忉利はその顔を、まともに見ていられなかった。理由は、わからなかった。

 

 

◇

 

 

 やがて、有珠が言った。

 

「青子は、わたしの部屋で引き取るわ」

 

「……なんでよ」

 

「静希君はあの人たちの部屋でしょう。なら、あなたはわたしの部屋。……十年ぶりなのだから、それくらい、いいでしょう」

 

 有珠はそれだけ言って、廊下へ出ていった。

 

 青子は少しのあいだ、その背中を見ていた。それから、忉利の方を振り返った。

 

 天空の間の窓辺。夜の山並みの上に、細い月が出ていた。

 

 青子は忉利の隣まで歩いてきて、窓枠に並んで寄りかかった。何も言わなかった。

 

 ただ、忉利の手を握った。指を絡めて、強く。

 

 今日一日じゅう、青子はずっとこうだった。山道でも、旅館の廊下でも、洞窟の中でも。人目がある時も、ない時も。気がつくと、忉利の手を握っていた。昼過ぎに一度だけ離れた、あの時のほかは。

 

「……どうした、今日」

 

 忉利は絡んだ指を見下ろした。

 

「朝、山ん中で会った時から。ずっとこれだ」

 

「別に」

 

 青子は窓の外の月を見ていた。

 

「なんとなく」

 

「なんとなく、ねえ」

 

「なんとなくよ」

 

 しばらく、二人とも黙っていた。遠くで、谷川の水の音がしていた。

 

「……ねえ、忉利」

 

「ん」

 

「明日の朝の一杯、楽しみにしてるわ」

 

 青子は忉利の方を見ないで言った。

 

「いつもの時間に淹れといて。……ちゃんと窓、開けて」

 

「有珠、いねえのに」

 

「有珠、いるわよ。今日は」

 

 青子は少しだけ笑った。それから、絡めた指をゆっくりとほどいた。

 

「……おやすみ」

 

「……ああ」

 

 青子は廊下の方へ歩いていった。扉の前で、一度だけ振り返る。コートの胸の内ポケットを、上からそっと押さえていた。

 

 何か言いかけたように見えた。けれど、何も言わずに扉の向こうへ消えた。

 

 

◇

 

 

 夜明け前、忉利は目を覚ました。

 

 天空の間の隅の布団。隣では、若い草十郎が背筋を伸ばしたまま、座って目を閉じていた。英霊というのは、眠らなくてもいいらしい。

 

 忉利は布団を抜け出して、窓を開けた。夜明け前の冷たい空気が流れ込んでくる。山の匂い。硫黄の匂い。

 

 部屋の隅の電気ポットで湯を沸かした。鞄から父のミルと、青子の縫ったネルを取り出す。

 

 豆を挽く。ごり、ごり、と。ネルに粉を落として、湯を細く注ぐ。粉が膨らむ。泡が浮いて、沈む。

 

 白いカップに一杯目を注いで、窓辺に置いた。

 

 それから、待った。

 

 いつもの時間を過ぎた。十分。二十分。カップの湯気が細くなっていった。

 

 廊下の方から、ばたばたと足音が聞こえた。扉が乱暴に開いた。

 

「――先輩っ! 皆さん!」

 

 マシュだった。顔が真っ白だった。

 

「大浴場で……草十郎さんが見つけて……青子さんが……!」

 

 

◇

 

 

 大浴場の濡れた石の床の上に、青子が倒れていた。

 

 服を着たままだった。後ろ頭が、ひどく壊れていた。

 

 忉利は入り口に立ったまま、動けなかった。

 

 目の奥の扉が、勝手に開いた。開けたくなかったのに、開いてしまった。

 

 青子の胸から伸びていた時間の線が、途中で、ぷつりと途切れていた。

 

 それから、自分の胸のあの結び目。九年半前の冬に結ばれて、七年前の七夕と六年前の二月に、輪になって閉じた結び目。

 

 その結び目の片側が、ほどけて、だらりと垂れ下がっていた。青子の側の糸が、どこにも繋がっていなかった。

 

 右目の奥に、あの痛みが走った。今度は、一瞬ではなかった。ずきり、ずきりと脈打つように痛み続けた。

 

 視界の線が、さっきよりもさらに滲んでいく。墨を垂らした水のように、何もかもがぼやけていく。

 

 ただ一つ、自分の胸から垂れ下がる、ほどけた結び目の端だけが、やけにくっきりと見えていた。

 

 忉利はゆっくりと、青子の傍らに膝をついた。コートの内ポケットに手を入れる。指先に、小さくて硬いものが触れた。取り出す。

 

 金色のボタンだった。

 

 三咲高校の校章。焦げた糸の切れ端。ついこの間の――いや、二年前の、あの一両きりの電車で青子がポケットの中で撫でていた、あのボタン。八年撫でられて、角がほんの少しだけ丸くなった。

 

 忉利はそれを握りしめた。

 

 声は出なかった。何も、出なかった。

 

「――――え?」

 

 背後で声がした。大浴場の入り口の方から。

 

「なに、え? 私、死んでる?」

 

 忉利はゆっくりと振り返った。

 

 青子が、立っていた。

 

 同じコート。同じ長い髪。首元に、同じ青い石の首飾り。目の前の石の床に倒れている青子と、同じ顔で。

 

「あ、ほんとだ。こりゃ死んでるわ。……っていうか、後ろ頭ひどくない? 自分の死体見るのって、なんかけっこう恥ずかしいわね。あはは」

 

 青子は頭を掻きながら、倒れている自分を覗き込んで、それから顔を上げた。

 

 忉利と目が合った。

 

「……忉利」

 

 青子の顔から、笑みがすうっと消えた。

 

「あんた、……私の知ってるあんたより、ちょっとだけ幼い目をしてる」

 

 忉利は立ち上がった。目の奥の扉を開いた。ずきずきと痛む右目で。滲んだ、ぼやけた視界で。

 

 新しい青子の胸から伸びる時間の線。輪になって閉じた、あの見慣れた線。その輪にも、結び目があった。

 

 けれど、その結び目のもう片方の糸は、自分の胸の方には伸びていなかった。どこか、ずっと遠く。この山の外の、この時間の外の、どこか。ここにいない誰かの方へ。

 

 たぶん。ずっと先の、自分の方へ。

 

 同じ青子なのに。自分とは、結ばれていなかった。

 

 

◇

 

 

 天空の間に戻って、忉利は窓辺のカップを見下ろした。すっかり冷めていた。それを流しに捨てて、もう一度、湯を沸かした。

 

 いつものように豆を挽いて、ネルを振った。白いカップに注ぐ。

 

 それを、窓辺に座った新しい青子の前に、黙って置いた。

 

 青子はカップを見下ろした。それから、両手でそっと包んだ。

 

「……紅茶党なんだけど、私」

 

 一字一句、同じだった。声も、言い方も、少しだけ唇を尖らせる癖も。昨日の朝までの自分の青子と、何ひとつ変わらなかった。

 

「知ってる」

 

 忉利はそれだけ言って、部屋を出た。

 

 廊下を少しだけ歩いて、角を曲がったところで足を止めた。壁に背中を預ける。ポケットの中で、金色のボタンを握りしめる。

 

 ほどけた結び目の端が、胸の奥でだらりと揺れていた。右目が、ずきずきと痛み続けていた。

 

 滲んだ視界の中で、廊下の窓の外の山並みが、ぼやけて揺れていた。

 

 泣いているせいなのか、目のせいなのか、忉利にはわからなかった。

 




原作見返してて思いましたが、シナリオすんごい長いですね。
それだけ、気合入ってたコラボだったって思ってます。

やっぱFGOで一番好きなシナリオだなと、再確認しまくってます。

ちなみに二部だとミクトランがダントツ一位です。ククルカンめっちゃすき。
アヴァロンは胸糞過ぎてマジで見れなかったです。



あと、昨日はみんな同じこと思ったと思います。

ダノンデサイルつんよ。って。何あの勝ち方、ヤヴァイ。
単勝に3万入れてました。最高の秋天でした。
ジャパンカップも楽しみですね。
多分府中で一番声出てました。

執筆ペース上がりそうなくらいテンション高いです。

シエルの小説満足度調査

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カナリアは歌わない(作者:にんら)(原作:月姫)

―――カナリアは、歌わない。▼ カナリアは、鳴かない。▼ カナリアは、誰も、温めない。▼ カナリアは、誰にも、温められない。▼ カナリアは、誰よりも先に、死ぬ。▼ 炭鉱の底で、見えない毒をいちばん最初に吸い込んで、小さな体を痙攣させて、落ちる。その死を合図に、人は毒の在処を知り、刃を振るう。▼ 冷たい坑道の底で、誰の手のひらにも包まれずに。誰の手のひらも、温…


総合評価:305/評価:8.9/完結:18話/更新日時:2026年10月31日(土) 23:25 小説情報

父をたずねて三千里(作者:くまも)(原作:月姫)

某掲示板で連載していた、アルクェイドと志貴の息子が現代を旅する話。アルクェイド√の後日譚。▼リメイク版の月姫を舞台としていますが、旧作の要素も含んでおります。▼※オリキャラあり、オリジナル設定マシマシ、月姫リメイクの重大なネタバレありなので、それらがNGな方はブラウザバックをお願いします。▼アルクェイド√のhappyendが見たいし、そもそも冒頭のプロローグ…


総合評価:1700/評価:9.14/連載:38話/更新日時:2026年10月29日(木) 18:06 小説情報

錬鉄と鍛造の贋作者(作者:英雄に憧れた一般魔導師)(原作:杖と剣のウィストリア)

あるはずの無い記憶、何処か遠い記憶。求めて失えど、それらだけは焼き付いて離れる事なんて無い、鮮烈に残る記憶。▼理想に裏切られた赤い外套纏いし錬鉄の英雄▼業を絶つ無念無想の刃を目指した鍛冶師▼そんな二人の力と技術を得て、ドワーフに鍛えられた鍛造技法を以て、彼は▼魔法の世界で剣を打つ。▼これは、杖と剣が交わる物語に贋作者が交差する。


総合評価:2737/評価:8.71/連載:22話/更新日時:2026年08月18日(火) 23:00 小説情報

両儀式(偽)が月姫にいる。(作者:ありえない話し‼️)(原作:月姫)

 タイトル通り。▼ 両儀式の中に転がり込んだ転生者が七転八倒しながら月姫世界を生き抜いていこうとするお話。▼ ※リメイク軸です。


総合評価:5592/評価:8.93/連載:3話/更新日時:2026年10月31日(土) 21:00 小説情報

絢辻さんを救いたい話(作者:紳士)(原作:アマガミ)

もしも主人公の橘純一が絢辻さん以外のルートに走った時、誰が絢辻さんを救済し、幸せにするのだろうか。▼一部加筆修正ありますが、内容に関わる変更ではありません。


総合評価:1901/評価:9.13/完結:28話/更新日時:2026年09月19日(土) 07:02 小説情報


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