―――明日のことは、誰にもわからない。
だから人は、明日の約束をする。明日の朝、また会おう。明日の夜、電話する。来年の春、桜を見に行こう。わからないからこそ、言葉にして結んでおく。
けれど、もし。
明日から来た誰かが、目の前にいたとしたら。
その人は、自分の知らない明日を全部知っている。
知っていて、何も言わない。
◇
廊下の角で壁に背中を預けていた忉利の隣に、誰かが黙って腰を下ろした。
2人目の青子だった。両手に、さっきの白いカップを持っている。中身は半分ほど減っていた。
しばらく、どちらも口を開かなかった。廊下の窓の外で、朝の山鳥が鳴いていた。
「……ごめん」
やがて、2人目がぽつりと言った。
「私が、先に死んでて」
「……お前じゃねえだろ」
「私よ」
2人目は、カップの縁を見下ろしたまま言った。
「あそこで倒れてたのも、私。……あんたを置いて一人で行ったのも、たぶん私」
忉利は何も答えなかった。2人目も、それ以上は何も言わなかった。
ただ、肩が並ぶくらいの近さで廊下の床に座って、冷めかけた珈琲を少しずつ飲んでいた。
飲み終わるまで、ずっとそこにいた。
◇
大浴場の前の廊下に、宿泊客が集められていた。集めたのは、一人の男だった。
くたびれた背広。緩めたネクタイ。鋭い目つきで、廊下に並んだ顔を一人ずつ値踏みするように眺めている。
「――探偵の槻司鳶丸だ」
男は名刺を一枚、指に挟んでひらつかせた。
「助手と二人で慰安旅行に来てたんだが、どうやら休暇は終わりらしい」
忉利は廊下の端に立ったまま、その男を見ていた。
鳶丸だった。
三咲高校の生徒会室。会長席の机に、行儀悪く腰かけていた男。卒業式の日、忉利の肩を拳で一度だけ叩いて、「骨を拾うのも、込みでな」と言った男。
十年分、歳を取っていた。頬の線が削げて、無精髭が板についている。けれど、あの鋭い目つきだけは何ひとつ変わっていなかった。
鳶丸の目が、廊下の端の忉利の上で止まった。しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと忉利の方へ歩いてきた。目の前に立つ。上から下まで、じっと見る。
「……日景」
「……おう」
「十年ぶりだな」
「……ああ」
鳶丸は忉利の顔を、長いこと見つめていた。十年前の卒業式の日と、何も変わらない顔を。
何か言おうとして口を開け、閉じた。それから、ふっと息を吐いた。
「……ずっとそうなんだな」
それだけだった。責めるでもなく、驚くでもなく、ただ確かめるような声だった。
忉利は答えなかった。鳶丸もそれ以上は訊かなかった。
ただ一度だけ、忉利の肩を拳で軽く叩いた。十年前と、同じ強さで。
それから、鳶丸の目が忉利の肩越しに、廊下の奥へ流れた。
灰色の上着の若い男が、壁際に背筋を伸ばして立っていた。
鳶丸の顔が固まった。
「……草の字?」
若い草十郎が首を傾げた。
「鳶丸か。少し老けたな」
「お前が十年若返ってんだよ!」
鳶丸はこめかみを押さえた。
「なんだ、これ。昨日、周りも見てくるっつって出てったきり戻らねえと思ったら。……願いの秘湯は本物ってことか」
「いや、俺は昨日喚ばれたばかりなんだ」
「喚ばれた?」
若い草十郎は、真顔で頷いた。
「藤丸のところが、次のバイト先なんだ」
鳶丸は天井を仰いだ。
助手として東京の事務所から連れてきた、十年分大人になった方の草十郎。それが昨日の昼過ぎ、宿の周りも見てくると言って出ていったきり戻らなかった。部屋に荷物だけを残して。
忉利は、昨日の昼過ぎに一人で出ていった青子の顔を思い出しかけて、やめた。
行き先は、誰にもわからなかった。
◇
「――で、こっちの嬢ちゃんは蒼崎の何だ」
鳶丸は天空の間の卓の前で、腕を組んでいた。向かいに、2人目の青子が座っている。
「私よ」
「死体も、お前だっただろ」
「死体も、私よ」
「……頭痛くなってきた」
鳶丸はこめかみを揉んだ。
2人目は、大浴場の死体が自分であることをあっさりと認めた。自分は未来から跳んできた。この時代のこの場所に、何か自分に関わる異常がある。だから来た。自分が死ねば、また別の未来の自分が来る。
蒼崎式ロケットペンシル試行法、と2人目は胸を張った。
忉利は部屋の隅で、その横顔を見ていた。
同じ顔。同じ声。同じ、得意げに胸を張る癖。けれど、ほんの少しだけ違った。
笑い方が、少しだけ柔らかい。何かを言いかけて言葉を選ぶ時の、ほんの一瞬の間が、少しだけ長い。
知らない何年かを、この女は生きてきたのだ。
その何年かの間も、自分の隣で。
◇
鳶丸と2人目と一緒に、忉利はもう一度、大浴場へ降りた。
死体は、まだそこにあった。
鳶丸が手袋をはめて、死体の周りの床を調べ始めた。2人目は少し離れたところで腕を組んで、自分の死体を見下ろしていた。
忉利は目を凝らした。右目の奥が、ずきりと痛んだ。かまわずに、目の奥の扉を開いた。
滲んだ線の中に、1人目の青子の途切れた時間の線があった。濡れた石の床に、何本もの線がぼんやりと残っている。昨夜この場所で、誰かと誰かがぶつかり合った跡。
その中に、奇妙な線が二本あった。
青子の線ではなかった。もっと細く、落ち着きなく揺れる、知らない誰かの線。二本とも同じ太さで、同じ色で、同じ揺れ方をしていた。
一本は、湯船の底から始まっていた。長いこと湯の底でじっとしていて、それから脱衣所の方へ慌ただしく逃げていった。
もう一本は、湯船の真ん中で唐突に始まっていた。1人目の青子の線とぶつかり合い、それから、ある場所でぷつりと途切れていた。死んだのではなかった。まるで、この場所にだけほんの短い間、切り取って貼りつけたかのように。
「……鳶丸」
「なんだ」
「ここに、もう一人いた。……いや、二人か」
鳶丸が顔を上げた。2人目も振り返った。
「同じ人間の線が二本ある。一本は湯の底に隠れてて、生きて逃げてった。もう一本が青子とやり合って、それから消えた」
「……同じ線、ってのは」
「同じ人間の線だ。……でも、別の奴だ」
鳶丸はしばらく忉利の顔を見ていた。それから、空の湯船の底に目をやった。
「湯の中に、誰か潜ってたってことか」
「なら、その人は見てたはずよ。……私がやられるところを」
鳶丸は頭を掻いた。それから、手帳に何かを書きつけた。
「……覚えとく。今は意味がわからんが」
手帳を閉じながら、鳶丸はぼそりと付け足した。
「早いとこ片付けてえんだがな。東京に女房待たせてんだ」
忉利は瞬きをした。
「……女房」
「悪いか」
「……久万梨か」
鳶丸は一瞬だけ手を止めた。それから、ふん、と鼻を鳴らして背を向けた。
「今は、槻司だ」
その耳の後ろが、ほんの少しだけ赤かった。十年前の卒業式の日、生徒会室の帳簿の上に金ボタンを一つ、ころりと置いていった男の耳だった。
忉利は右目を手のひらで押さえた。ずきり、ずきりと、痛みが脈打っている。指の隙間から、また一滴。
「――忉利」
2人目の声が、すぐ近くでした。いつの間にか、隣に立っていた。
「あんた目、痛いの」
「……少し」
「少し、じゃないでしょ」
2人目は忉利の手首を掴んで、目から手を引き剥がした。その下の、赤く滲んだ右目を覗き込む。
2人目の顔から、表情がすうっと消えた。
「……おかしい」
低い声だった。
「あんたの目、あの夜から一回も痛んだことなんてなかったのに。……少なくとも、私の知ってるあんたは」
2人目は忉利の目を見つめたまま、何かを考え込んでいた。それから、自分の胸に手を当てた。
「私もこっちに来てから、ずっと重いのよ。……出力が落ちてる。何かをずっと、どこかで持ち上げ続けてる感じ」
「……おれも同じだ」
「同じ?」
「昨日ここに着いた時から。……重てえ」
2人目の目が見開かれた。しばらく、何も言わなかった。
それから、忉利の手首を少しだけ強く握った。
「……ちょっと考えさせて」
◇
ロビーの長椅子で、一人の女が忉利を見て固まっていた。
背の高い、赤紫の髪を短く切り揃えた女。黒い背広。革の手袋。
膝の上に、温泉の案内の冊子を広げていた。その冊子の「恋愛成就の湯」の頁に、赤い鉛筆で丸がつけてあった。
女は忉利の顔を見た。それから、隣の2人目の顔を見た。それから、また忉利の顔を。
女の顔から、血の気が引いていった。
「……『青と、その眼』」
小さく、掠れた声だった。
「協会の特記事項の。……回路を持たずに術式を断つ眼。魔法使い『青』と不可分の一案件――」
女は膝の上の冊子を、ばたんと閉じた。恋愛成就の頁が見えなくなった。
「わ、私は休暇中です。……この国で、ある封印指定の――いえ、重要人物の再調査を少し」
聞いてもいないのに、女は言った。
「この温泉を選んだのは偶然です。秘湯の話なんてぜんぜん知りません。……何も見ていません。私は、何も」
女は立ち上がって、足早に廊下の奥へ消えていった。
2人目がその背中を見送って、小さく笑った。
「……協会の封印指定の執行者ね。あの手袋」
「怖がってたな」
「当然よ。あんた、協会じゃちょっとした怪談なんだから」
2人目は忉利の方を見て、少しだけ得意げに笑った。その笑い方が、また、ほんの少しだけ柔らかかった。
◇
昨夜、大浴場にいたという目撃者は、新館の一室に立て籠もっていた。
カウボーイハットをかぶった、赤の混じる長い黒髪の女。アメリカ一番のタタリハンター、イシュタリンと名乗っていた。扉を叩いても、作った声で「ゴーストバスター・ジョリーンハ、タダイマ留守デス」と繰り返すばかりだった。
2人目が扉を魔弾で吹き飛ばした。
女は悲鳴を上げて窓から飛び出し、渡り廊下の向こうの旧館へ逃げ込んだ。
旧館の、長い、長い廊下。五大怪談の一つ、永廊下。
女を追って廊下の端に踏み込んだ瞬間、気がつくと、また廊下の入り口に立っていた。
「……戻された」
マシュが呆然と呟いた。
もう一度、走る。廊下の終わりが見えた、と思った瞬間。
入り口。
三度目。入り口。
廊下の向こうから、イシュタリンの泣き叫ぶ声が聞こえていた。取り囲まれているのだ。廊下の暗がりから湧き出してくる、目のない影たちに。
「――時間が巻き戻されてる」
2人目が廊下の奥を睨んだ。
「ゴールに着いたら、スタートに戻される。……だったら」
2人目の指先に、見慣れない光が灯った。
青ではなかった。もっと深い。夜空のいちばん高いところの、そのさらに向こうの色。
「ゴールの、その先に跳べばいい」
「――待て」
忉利が、2人目の手首を掴んだ。2人目が振り返った。
「どこに跳ぶかわかってんのか」
「……ゴールの先よ」
「ゴールの先の、どこだ」
2人目は口を閉じた。
忉利は廊下の奥に目を凝らした。右目が焼けるように痛み、視界がひどく滲む。それでも、見えた。
廊下の線。床板の一枚一枚を繋ぐ線。壁の、柱の、天井の線。それらが廊下の終わりの手前で、ぐにゃりと曲がっている。
輪になっていた。廊下の終わりのほんの一歩手前で、線がくるりと向きを変えて、入り口の方へ戻っていく。
そして、その輪の継ぎ目。曲がり始める、その一点。
「――終わりの三歩手前。右の壁の、三本目の柱のちょうど真横」
忉利は言った。
「そこが継ぎ目だ。そこから輪が始まってる。……跳ぶなら、その半歩先」
2人目は忉利の顔を見た。それから、廊下の奥を見た。ほんの一瞬、何かを懐かしむような顔をした。
「……わかった」
2人目の身体が、光の中に消えた。
次の瞬間、廊下のずっと奥で、青い魔弾の音が立て続けに響いた。影たちが弾け飛ぶ音。イシュタリンの悲鳴が、止んだ。
同時に、忉利の胸の奥で、あの結び目がぎしりと軋んだ。
細い糸が、ぴんと張り詰める。何か重いものを、ぐいと持ち上げられたように。
視界が真っ白に滲んだ。膝が崩れた。
「――日景さん!」
マシュが駆け寄ってきた。
忉利は廊下の床に手をついて、荒い息を吐いていた。右目から、また一滴。今度は、一滴では止まらなかった。
2人目が何かとても大きな魔法を使った時、自分の目が、それに引きずられた。
なぜなのかは、わからなかった。ただ、その結び目の糸が、2人目の方と、自分の方と、それから見えないどこかの、三つを繋いでいることだけはわかった。
◇
救い出されたイシュタリンは、泣きじゃくりながら昨夜のことを話した。
深夜の一時から、若返りの湯の湯船の隅に隠れていたのだという。誰より先に入るために。四時ごろ湯が湧き始めて、湯の底に背中をつけて潜っていた。そこへ青子が入ってきた。その後ろに、もう一人誰かがいた。湯越しに影しか見えなかった。言い争うような声がして、それから二人は同時に相手に襲いかかった。
息が続かなくなって湯から顔を出すと、青子が倒れていた。もう一人は、どこにもいなかった。
「……それから」
女は、しゃくりあげながら言った。
「入ってくる時に、蒼崎さんが呟いてたの。……『利用者は全員、殺す。誰にも、願いは叶えさせない』って」
天空の間が静まり返った。
女はその日のうちに、相棒が迎えに来ると言って宿を出ていった。
忉利は壁にもたれたまま、その言葉を聞いていた。
誰にも、願いは、叶えさせない。
1人目の青子は、知っていたのだ。何かを。知っていて、夜明け前に一人で、あそこへ行った。
――覚えてるわ。全部。
――今は、言えない。
昨日、山道で、青子はそう言って目を逸らした。
全部を覚えていて、全部を一人で抱えて。自分には、何ひとつ渡さずに。
◇
夕暮れ、旅館の裏庭の古い手水鉢の前で、忉利は右目を冷やしていた。
濡らした手拭いを、瞼の上に押し当てる。冷たさが、ずきずきとした痛みを少しだけ和らげた。
「目が痛むのか?」
背後から、平坦な声がした。
若い草十郎だった。上着の袖をまくって、手水鉢の縁に腰を下ろす。
「……少しな」
「山ではね」
草十郎は、夕焼けの山並みを見ていた。
「目が痛む時は、何かを背負いすぎてる時だと言われてた。荷が重すぎると、足や腰より先に目の奥が痛むんだそうだ」
「……迷信だろ」
「うん。そうかもしれない」
草十郎は忉利の方を見た。
「でも、今の忉利は何か背負ってる顔をしてる」
忉利は手拭いの下で、目を閉じた。
胸の奥の、あの結び目。そこから伸びる細い糸。見えないどこかで、ずっと何かを持ち上げ続けている糸。
「……何を背負ってんだか、わかんねえ」
「そうか」
草十郎は、それ以上何も訊かなかった。
ただ、忉利の手から手拭いを取って、手水鉢の冷たい水に浸し直し、絞って、また手渡した。
◇
その夜、若い草十郎が前の晩に予約しておいた貸し切りの露天風呂に、全員で浸かった。秘湯ではない、ただの貸し切りの湯だった。湯浴み着を着て、山の夜空の下で。
有珠が湯の縁に腰かけて、足だけを湯に浸していた。肩の上で、ロビンが湯気に羽を膨らませている。
「――青子」
有珠が、2人目の方を見た。
「昨夜、一人目のあなたにも訊いたことよ」
「なによ」
「あなた、まだ結婚していないの」
2人目が、湯の中で盛大にむせた。
「げほっ、ごほっ……! な、な、何よ、いきなり!」
「十年ぶりに会った友人として、当然の質問よ。……一人目は、答えてくれなかったけれど」
有珠は涼しい顔で言った。
2人目は真っ赤な顔で、湯の中からちらりと忉利の方を見た。ほんの一瞬だった。それから、ぷいと顔を背けた。
「……い、言わないわよ。未来のことは」
「そう」
「未来のことは言わないの! ずるいでしょ、そういうの!」
有珠は、それ以上何も訊かなかった。ただ、湯に浸した足をゆっくりと揺らしていた。
忉利は湯の中で、2人目の横顔を見ていた。真っ赤な耳。逸らされた目。答えは、わからなかった。
この女は知っているのに。
自分だけが、知らない。
◇
夜更け、天空の間の窓辺の縁側で、2人目は忉利の隣に座っていた。有珠の部屋に戻る前に、少しだけ、と言って。
「……それ」
2人目が、忉利の手元を見た。
忉利は指の間で、小さな金色のボタンを転がしていた。1人目のポケットから取り出した、あのボタン。
2人目は、自分のコートの内ポケットに手を入れた。取り出したのは、同じボタンだった。
同じ校章。同じ、焦げた糸の切れ端。けれど、忉利のものよりずっとすり減っていた。校章の凹凸が、指で何千回も撫でられて、丸くなめらかになっている。
「……あんたが持ってるの、私のより新しいわね」
2人目は、二つのボタンを手のひらの上に並べた。新しい方と、すり減った方。同じボタンの、違う年月。
「……何年、先だ」
忉利は訊いた。
「お前が来たの」
2人目は答えなかった。ただ、すり減った方のボタンを、指先でそっと撫でた。
「言わないわよ」
「……ああ」
「未来のあんたのことも、言わない。……ずるいもの」
2人目はボタンをポケットに戻して、夜空を見上げた。
「――でも、一個だけ教えてあげる」
「……なんだ」
2人目は、自分の胸にそっと手を当てた。
「あんた私の結び目、見えてるでしょ。……その糸の先、どこに繋がってる?」
忉利は、目の奥の扉を少しだけ開いた。
滲んだ視界の中で、2人目の輪から伸びる結び目の糸。自分の胸の方には、来ていなかった。どこかずっと遠くの、この時間の外の、見えない場所へ。
「……知らねえ誰かだ」
「知らない誰か、じゃないわよ」
2人目は、少しだけ笑った。
「あんたよ。……私の結び目の先にいるの。ずっと先の、あんた」
その糸のはるか先に、自分がいる。
ちゃんと。
「心配しなくていいわよ」
2人目は忉利の方を見ずに言った。
「未来のあんたも、ちゃんとばかだから」
忉利は、何も言えなかった。
2人目は小さく笑って、縁側から立ち上がった。廊下の方へ歩き出す。
「……おい」
忉利は、その背中に声をかけた。
「一人で行くなよ。……明日の朝」
2人目が振り返った。
「行かないわよ」
迷いのない声だった。
「私、約束は破らないの」
それから、ふと何かを思い出したように首を傾げた。
「……ねえ。恋愛成就の湯って、どんな願いでも効くのかしら」
「は?」
「なんでもない」
2人目はひらりと手を振って、廊下の暗がりに消えていった。
◇
夜明け前。
忉利は窓を開けて、湯を沸かした。豆を挽く。ネルに粉を落とす。湯を細く注ぐ。白いカップに一杯目を注いで、窓辺に置いた。
待った。
いつもの時間を過ぎた。廊下の方から、足音が近づいてきた。
扉が開いた。有珠だった。
いつもの、感情のない顔だった。けれど、その白い指先が、ほんのかすかに震えていた。
「……目が覚めたら、部屋に、一人だったわ」
有珠は、それだけ言った。
忉利は窓辺のカップを見下ろした。湯気が細く、消えかけていた。
◇
旧館の渡り廊下の突き当たり。恋愛成就の湯の、古い木戸のすぐ脇で。
2人目の青子が、倒れていた。
顔が、ひどく潰されていた。
忉利は、その傍らに膝をついた。コートの内ポケットに手を入れる。すり減った、金色のボタン。取り出して、手のひらの上でもう一つのボタンと並べた。
新しい方と、すり減った方。どちらも、もう持ち主がいなかった。
――私、約束は破らないの。
昨夜、そう言った。迷いのない声で。
それでも、ここにいた。
何かに呼ばれたのか。何かを願ったのか。わからなかった。
右目が、ずきずきと痛んでいた。
「――よし、私の魔力の残り香、追跡完了! 私が死んでるのはここか!」
渡り廊下の向こうから、元気な声がした。
3人目の青子だった。同じコート。同じ長い髪。同じ青い石の首飾り。
忉利は立ち上がった。目の奥の扉を開いて、3人目を見た。
滲んだ視界の中で、3人目の胸から伸びる、輪になった時間の線。未来の誰かへ伸びる、結び目の糸。
それから、もう一本。見えないどこかへ何かを持ち上げるように、ぴんと張り詰めた、あの細い糸。
1人目の時よりも、2人目の時よりも、少しだけ太かった。
死ぬたびに、次に来る青子が、少しずつ重いものを引き受けている。
そして、その糸の反対側の端は、相変わらず、自分の胸のほどけて垂れ下がった結び目にも絡みついていた。
自分も、まだ何かを持ち上げ続けていた。何を、なのかはわからなかった。
ボタンを二つ握りしめたまま、忉利は天空の間へ戻った。
湯を沸かして、豆を挽いて、ネルを振った。白いカップを、窓辺に座った3人目の前に置いた。
3人目はカップを見下ろして、それから両手で包んだ。
「……紅茶党なんだけど、私」
「知ってる」
忉利は背を向けた。
ポケットの中で、二つのボタンが、かちりと小さく触れ合った。
次くらいから、ちょっとおもろくなってくるかな?と思います。
一旦下ごしらえターンというか、足場固めたかったので、あんまこれといった見どころは少ないと思います。申し訳ないです。
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