夜明けの色を見る眼   作:にんら

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廊下で待て

―――待つというのは何もしないことではない。

 

 山の猟師は獣が通るのを何時間も何日も、息を殺して待つ。漁師は潮が変わるのを待つ。農夫は雨を待つ。喫茶店の主人は粉が膨らんで泡が沈むのを待つ。

 

 待つことはそれ自体が一つの仕事だ。

 

 ただ一つだけ。

 

 待っても待っても、何も帰ってこないとわかっている扉の前で待つことだけは仕事とは呼ばない。

 

 それは、ただの罰だ。

 

 

◇

 

 

 旧館の一階の小さな土産物屋。

 

 色褪せた暖簾。硝子の陳列棚に埃をかぶった木彫りの熊や温泉饅頭の箱、首の揺れる張り子の牛が並んでいる。

 

 忉利は店の隅の長椅子で、右目に濡れた手拭いを当てていた。

 

 帳場の奥には有珠が座っていた。臨時の店番なのだという。朝からそこを動かずに湯呑みの茶ばかり飲んでいる。

 

 暖簾が揺れた。

 

「――すみません。これ、いただけるかしら」

 

 女の声だった。忉利は手拭いを少しずらして、片目で見た。

 

 黒い髪を結い上げて、桃色の花の飾りを挿した女が陳列棚の前に立っていた。桃色の着物に柄の入った黒い帯。二十をいくつか過ぎたくらいだろうか。整った、けれどどこか冷たい、陶器のような横顔。

 

 女は棚の上の小さな布の人形を二つ、指さしていた。

 

「……店番なら、奥だ。働かねえけど」

 

「あら」

 

 女は奥の有珠を覗き込んだ。有珠は湯呑みを両手で包んだまま、顔も上げなかった。女はそれから忉利の方を振り向いた。

 

 その目が忉利を見た瞬間にぴたりと止まった。

 

 女の瞳の奥で何かが揺らいだ。青いとも黒いとも言えない。見つめていると底が抜けていくような目だった。

 

 女の手がほんのわずかに帯の内へ動いた。何かを握ろうとするように。

 

 それから止まった。

 

「……めずらしい」

 

 女はゆっくりと忉利の方へ歩いてきた。長椅子の前に立って、見下ろす。

 

「あなた、死が遠いのね」

 

 忉利は手拭いを下ろした。

 

「……何の話だ」

 

「線が、ほとんど見えないの。あなたの身体に」

 

 女は首を傾げた。

 

「人はみんな、どこかに終わりの線を持っているわ。ものも、人も。……私にはそれが見えるの。だから、わかる」

 

 女の目が細められた。

 

「あなたの死は、ここにはない。誰かがずっと、ずっと遠くに置いてきたのね」

 

 忉利の背筋を冷たいものが駆け上がった。

 

 白砂漠の夜。星空の下で見た、世界の果ての小さな黒い石。

 

 この女はそれを見ている。

 

 目を合わせたまま、忉利は目の奥の扉を開いた。

 

 見えた。

 

 女の胸から伸びる線。人の線だった。流れていくありふれた、けれどどこか鋭く張り詰めた線。

 

 それから女の目から伸びる視線の線。それはどこにも繋がっていなかった。

 

 いや、違った。繋がっていた。けれどその先が見えなかった。この世界のどこでもない場所。底のない、穴のような何か。女の眼差しはその穴の縁から世界を覗いていた。

 

 右目の奥がずきりと焼けた。忉利は目を逸らした。

 

「……あんたの目、何見てんだ」

 

「終わりよ」

 

 女はあっさりと言った。

 

「あなたは?」

 

「……繋がり」

 

「そう」

 

 女は少しだけ微笑んだ。初めて見せた、人間らしい表情だった。

 

「終わりを見る目と、繋がりを見る目。……見ている方向が真逆ね」

 

 奥で有珠が湯呑みを置いた。黙って立ってきて棚の人形を二つ下ろし、薄紙で包んだ。そのあいだも目は女の顔から離れなかった。湯呑みの縁越しに、さっきからずっと見ていたのだと忉利は気づいた。

 

 女は有珠に代金を払って包みを受け取った。

 

 暖簾の前で振り返った。

 

「両儀よ。……あなたの目、あまり無理をさせない方がいいわ。今、何かに引っ張られてる」

 

「……引っ張られてる?」

 

「あなたの目の奥の、終わりの線。一本だけ、あなたのものじゃない方へ引っ張られてるの。見えないどこかへ」

 

 両儀という女は、それだけ言って暖簾の向こうに消えた。

 

 忉利は長椅子の上でしばらく動けなかった。

 

 あなたのものじゃない方へ。

 

 見えないどこか。

 

 胸の奥の結び目から伸びるあの細い糸。

 

 

◇

 

 

 昼前には資料室でひと騒ぎあった。

 

 五大怪談の一つ、悪魔の教室。昭和の頃の等身大のフランス人形が並んだ薄暗い部屋で、赤いベレー帽に赤い服の、銀の髪の小柄な娘が何かに取り憑かれてけらけらと笑っていた。

 

 部屋の隅ではこの資料室に住んでいるという娘が一人、黙って人形の埃を払っていた。白い長い髪に左右で色の違う目。赤く長い外套の下に、古い甲冑のような胸当てが覗いている。花心と名乗っていた。

 

 壊した人形の数だけ、一体目と寸分違わぬ手つきで人形を作り直さなければならない。一ミリも一秒も違えずに。それが祟りの決まりだった。

 

 3人目の青子は二体目で音を上げた。藤丸は三体目で指を切った。

 

 若い草十郎が黙って糸と布と綿を手に取った。

 

 十体。

 

 一体目と一ミリも一秒も違わない手つきで。息をするのと同じ顔で。

 

 取り憑いていた何かが、呆れたように娘の身体から抜けていった。

 

「……静希君は、何をするにも全部、自分で決めてから動くのよ」

 

 部屋の隅で有珠が誰に言うでもなく呟いた。

 

「だから、同じことを、何度でも、そのとおりにやれるの」

 

 忉利は、それを聞きながら並んだ十体の人形を見ていた。

 

 どれも同じ顔をしていた。

 

 毎朝、窓辺に座る青子のように。

 

 

◇

 

 

 銀の髪の娘が目を覚ましたのは、十体目の人形が棚に並んでしばらくしてからだった。

 

 床に座り込んだまま、娘は金色の目を何度か瞬いた。赤いベレー帽が片方の耳の上までずり落ちていた。

 

「……長い悪夢から覚めた気がするのですが。信じていただけるでしょうか」

 

「信じるも何も、見てたわよ。全部」

 

 3人目の青子が腕を組んだ。

 

「けらけら笑いながら人形をけしかけてたわよ。あんた」

 

 娘はベレー帽をかぶり直した。それから何事もなかった顔で頭を下げた。

 

「カレンと申します。お見苦しいところを」

 

「……あんたも、ここの化け物を祓いに来たのか」

 

 忉利が訊いた。

 

「いいえ。私に除霊はできません。本業は悪魔祓いです」

 

 カレンは膝の埃を払った。

 

「ここへは、除霊士を名乗るインチキを縛り上げに来ました。除霊にかこつけて、よそのお宅の財産をくすねる方々です。……除霊士の除霊士、とでも申しましょうか」

 

「その除霊士の除霊士が、なんで取り憑かれてんのよ」

 

「体質です」

 

 カレンはあっさりと言った。

 

「私、ただそこにいるだけで霊に取り憑かれるのです」

 

 3人目が額を押さえた。

 

「それに、お気づきかしら」

 

 カレンは首を傾げた。

 

「五つの秘湯は、どれも叶う願いが決まっています。効能の限られた願いなんて、願いとは言えないでしょう?」

 

「……何が言いたいの」

 

「あるのよ。願いを叶える、万能の秘湯が。ご主人は黙っていますけれど」

 

 カレンはにこりともしなかった。

 

「そのためなら殺人も厭わない、と考えるインチキ霊能力者もいるのではなくて?」

 

「それより」

 

 カレンが顔を上げた。

 

「昨夜、同じ部屋のバゼットが夜中に出ていきました。……あの人の鉄拳は、コンクリートも砕きますから」

 

 カレンはにこりと笑った。

 

「あの拳を受ければ、顔なんて簡単に潰れてしまいます」

 

 3人目は何も言わなかった。恋愛成就の湯の前で死んでいた2人目は、顔を潰されていた。

 

「きっと怖くなって、どこかに隠れています。そうですね。たとえば裏山の地獄堂あたりに」

 

 忉利は黙ってその笑顔を見ていた。

 

 資料室を出たところで、有珠が赤い羽織の主人を呼び止めた。

 

「何でも願いが叶う秘湯があるはずだと、ほかのお客から聞いたわ。……なぜ黙っていたの、ヨシスケ」

 

 主人は色眼鏡の奥で目を泳がせた。

 

「……先代から聞いた話でさぁ。昔、この宿には地獄に続く道があったってね。それがあの部屋ですよ。開かずの間。アタシもなんとかしてあの扉を開けたいんですが、何をしても開きやしねえ」

 

 主人は頭を掻いた。

 

「霊能力者の先生方を募りはじめて二年。誰ひとり開けられねえどころか、みんな逆に祟られちまった。……もう諦めてまさぁ」

 

「それで、万能の秘湯というのは」

 

「昔、立ち寄った修行僧が言ってたそうで。万能の秘湯に辿り着くには、万能の杯が要る。願いを叶える杯の力で、あの扉を開ければいい、と」

 

 有珠は黙って主人の顔を見ていた。

 

 ロビーを抜けると、長椅子で黄色い襟巻きの除霊師が、昼間から酒の匂いをさせて誰彼かまわずぼやいていた。

 

 

◇

 

 

 昼過ぎ、裏山の古い鉱山跡の洞窟、地獄堂の入り口で赤紫の髪の女が待ち構えていた。

 

 昨日、ロビーで恋愛成就の頁を慌てて閉じたあの女だった。灰色のロングコート。革の手袋。

 

 女は3人目の青子を見た瞬間、顔色を変えた。

 

「――あなたは、死んだはずでは」

 

「死んだわよ。二回」

 

「……やはり」

 

 女の目が鋭くなった。

 

「リベンジに来たのですね。……あの蒼崎なら、生き返るくらいのことはするでしょう」

 

「ちょっと待ちなさいよ、話を――」

 

「問答は無用です」

 

 女が踏み込んだ。速かった。

 

 拳が空気を裂く。革の手袋の甲に刻まれた細かな文字が、赤く光っている。一撃で入り口の岩が粉々に砕けた。

 

「私の礼装は、神代のカウンター。相手の切り札にだけ、後から先に撃ち返します」

 

 女の背後に何かが浮かんでいた。鈍い色の小さな球体が、女の肩の上で静かに回っている。

 

「あなたが切り札を撃てば、私はその前にあなたを撃ち抜く。……時間を遡って」

 

 3人目の指先の光が揺らいだ。

 

「……厄介なもの持ってるわね」

 

 撃てない。撃てば、撃つより先に撃ち返される。

 

 3人目が唇を噛んだ。

 

 その時、忉利が一歩前に出た。

 

「――忉利、下がって!」

 

「下がらねえ」

 

 忉利は女の方を見ていた。女の手袋の赤く光る文字の線。肩の上の鈍い色の球体の線。

 

 右目が痛んだ。かまわずに見た。

 

 球体の線は奇妙だった。どこにも繋がっていない。いや、繋がっている。ただ未来の方に。相手が撃つその瞬間の方に。撃たれた瞬間にその線を辿り、時間を遡って先に届く。

 

 なら、撃たなければいい。

 

「……おれは何も撃たねえよ」

 

 忉利は女の手袋を見た。

 

 ぷつり。

 

 女の右の手袋の、赤く光っていた文字が一斉に光を失った。左の手袋も。

 

 女の拳から力が抜けた。女は目を見開いて、自分の手を見下ろした。

 

 肩の上の球体は静かに回り続けていた。何も起きなかった。撃たれていないのだから撃ち返すものもない。

 

「……何を」

 

 女の声が震えた。

 

「何を、したのですか。……攻撃ではない。魔術でもない。私の礼装が反応すらしなかった。……回路も動いていない。何も、していないのに」

 

「邪魔だったから、線を切っただけだ」

 

 忉利は右目を押さえた。指の隙間からまた一滴。

 

 女はその場に立ち尽くして、手袋の甲を何度も見下ろしていた。

 

「……『青と、その眼』」

 

 かすれた声だった。

 

「特記事項に、あった。……誇張だと思っていました」

 

 

◇

 

 

 女はバゼットと名乗った。魔術協会の封印指定の執行者。

 

 この国に、再調査の要る封印指定の人物がいるのだという。名前は言わなかった。3人目の青子が姉貴ね、と口の中で呟いた。

 

 恋愛成就の湯の前で青子を殺したのは自分ではない、と言った。

 

「昨夜、恋愛成就の湯に一番に入ろうと思ったのです。……一人しか願いは叶わないと聞いたので」

 

 バゼットは、洞窟の入り口の岩に腰を下ろしてぼそぼそと話した。

 

「夜中に、旧館の奥のあの湯へ行きました。そうしたら、あなたが――いえ、二人目のあなたが木戸の前に立っていました。服を着たまま。まるで見張りのように」

 

 3人目が眉を寄せた。

 

「……見張り」

 

「言い争いになりました。……私は一度引き下がって、受付の前で朝を待ちました。五時になってもう一度あの木戸の前に戻ったら――」

 

 バゼットは言葉を切った。

 

「……顔の潰れたあなたの死体がありました。これは絶対に私がやったことにされる、と思いました。だから、ここに隠れていたのです」

 

「あんた、服着たまま湯に入る人なんていない、とか考えなかったの」

 

「考えました。だから、あの死体は湯に入ろうとしていたのではない、と」

 

 バゼットは膝の上で指を組んだ。

 

「それから、もう一つ。……私の鞄が盗まれました。協会の捜査資料の入った鞄です」

 

「何が入ってたの」

 

「言えません。……ただ、一つだけ」

 

 バゼットは顔を上げた。

 

「一九九九年の五月。この国のある場所の観測記録が、まるごと存在しないのです。まるでその数日間だけ、世界から切り取られたように」

 

 忉利の頭の奥で何かが軋んだ。

 

 燃える山。白い光。熱い風。

 

 白い星。線のない。

 

 焼け落ちた袖。ポケットの上から何かを握りしめる、青子の手。

 

「――っ」

 

 忉利は洞窟の岩壁に手をついた。頭の芯が割れるように痛んだ。右目から血が筋になって流れ落ちた。

 

「忉利!」

 

 3人目が駆け寄ってきた。忉利の肩を掴み、顔を覗き込む。

 

 その目が忉利の右目の血の筋を見て、凍りついた。

 

「……一九九九年の、五月」

 

 忉利は荒い息の合間に呟いた。

 

「おれは……そこに、いた」

 

 

◇

 

 

 夕方、バゼットは宿を発った。

 

 玄関の前の坂道にカレンも並んでいた。赤いベレー帽に小さな鞄を一つ提げている。

 

「麓まで、ご一緒します」

 

 カレンは言った。

 

「それから、このたびのご無礼のお詫びを」

 

 カレンは玄関の方へ小さく頭を下げた。

 

「死ぬかもしれない大仕事の前に、恋人ができないまま死にたくない、と申しまして。この人」

 

「ば、ばばば馬鹿なことを言わないでください! 私は調査の精度を上げるために、体のメンテナンスに来ただけです!」

 

 バゼットの声が裏返っていた。

 

「資料室でのことは、どうかご内密に。私にも体面というものがありますので」

 

 カレンはそれだけ言って坂を下り始めた。

 

 バゼットは一度だけ振り返った。玄関の上がり框に座った忉利を見た。手拭いを当てた右目を。

 

 革の手袋の指がほんの少しだけ握り込まれた。

 

 バゼットは何も言わずに背を向けた。

 

 坂の下からカレンの声が一度だけ聞こえた。何を言ったのかはわからなかった。バゼットの怒鳴り返す声がそれに続いた。

 

 

◇

 

 

 その夜、天空の間の卓を囲んで、3人目は忉利と鳶丸、藤丸とマシュを前に話した。

 

「――毎朝、私が死ぬ。一人目は若返りの湯の前で。二人目は恋愛成就の湯の前で」

 

 3人目は指を二本立てた。

 

「二人とも湯に入ろうとしてたわけじゃない。……見張ってたのよ。誰かが湯に入るのを。願いを叶えさせないために」

 

「一人目の蒼崎が言ってたことか。『誰にも、願いは叶えさせない』」

 

 鳶丸が腕を組んだまま言った。

 

「そう。それから、忉利が最初の朝に見たもの」

 

 3人目は忉利の方を見た。

 

「湯に潜ってた人とそっくり同じ線の、もう一本」

 

「……ああ」

 

「たぶん、湯に入りたがってる人間のそっくりさんが出るのよ。……その人と同じ力を持った、偽物が」

 

「二人目の私の顔、潰されてたでしょ。……拳で。あれは、たぶんバゼットのそっくりさん。恋愛成就の湯に一番に入りたがってたのは、あの人だもの」

 

 3人目はバゼットの手袋の甲を思い出すように、自分の拳を見下ろした。

 

「二人目の私は、あの木戸の前に立って、あの人の身代わりになったのよ」

 

 天空の間が静まり返った。

 

「一人目の私も同じ。若返りの湯に潜ってたイシュタリンの偽物を、横から止めたの。……偽物は、湯に入った本人を殺しに来る。願いを叶えた代わりに。一人目の私は、それを肩代わりした」

 

「……代わりに、死んだのか」

 

「止めた偽物は、どこか遠くへ跳ばしたみたい。……私ならそうするわ。でも、自分の身までは守りきれなかった」

 

 3人目は小さく息を吐いた。それから真顔に戻って忉利を見た。

 

「だから、あんたは湯に近づかないで」

 

 忉利は顔を上げた。

 

「……なんでだ」

 

「あんたがどれか一つでも、湯に入りたいと思ったら」

 

 3人目の声が低くなった。

 

「あんたのそっくりさんが出る。……あんたと同じ目を持った、偽物が」

 

 天空の間の空気が凍りついた。

 

「北の果ての村で、あんた世界の空に罅を入れたでしょ。……私、覚えてるわよ。あんたも覚えてるでしょ」

 

「…………」

 

「あの目を持った偽物が、何も考えずに全力で線を切ったら。……この宿ごとじゃ済まない。世界ごと切られるわ」

 

 忉利は何も言わなかった。

 

 3人目は卓の上で拳を握った。

 

「だから、あんたは湯に近づかない。明日の朝も、明後日の朝も。……廊下で待ってて」

 

「――廊下で」

 

 忉利の声は低く、平坦で冷たかった。

 

 怒る時この男は声を荒げない。ただ温度がすっと下がる。天空の間の空気ごと。

 

 天井の電灯の傘がちり、と小さく鳴った。風もないのに窓硝子がかすかに震えた。

 

 藤丸が思わず自分の腕をさすった。マシュが何も言わずに半歩、藤丸の前に出た。

 

 忉利の右目の奥で扉が開きかけていた。開けたのではない。怒りが内側から押し開けていた。

 

 卓の木目の線。柱と梁を繋ぐ線。窓枠の線。電灯の線。目に入るものの線が一本残らず、ぴりぴりと張りつめて震え始めていた。忉利の視線が触れたところから。

 

 それでも忉利は卓の上の、自分の前のカップに手を伸ばした。

 

 さっき3人目の分と一緒に淹れた、二杯。3人目のカップはまだ手つかずで湯気を立てていた。

 

 忉利は自分のカップだけを持ち上げて、一口飲んだ。3人目の方は見なかった。

 

「……毎朝お前が死ぬのを、廊下で待ってろってのか。蒼崎」

 

 3人目の肩がびくりと跳ねた。

 

 蒼崎。

 

 この男が自分をそう呼んだことは一度もなかった。小学校の頃から一度も。

 

 鳶丸でさえほんの少しだけ目を見開いていた。

 

「……死なないわよ」

 

「二人、死んだ」

 

 短い言葉だった。天空の間の誰も口を開かなかった。

 

 ぴし、と乾いた音がした。

 

 卓の上に戻された忉利のカップに、細い罅が一本走っていた。誰も触れていなかった。

 

「一人目は、おれが寝てる間に。二人目は、一人で行くなって言ったのに。……二人とも、おれの知らねえところで死んだ」

 

 ぴし。

 

 二本目。

 

「三人目も、廊下で待ってる間に死ぬのか」

 

 3人目の目の縁が赤くなった。

 

「――しょうがないでしょ!!」

 

 3人目が卓を叩いて立ち上がった。

 

「あんたを湯に近づけたら、世界が終わるかもしれないのよ!? 私が死ぬのと世界が終わるのと、どっちがましかなんて決まってるじゃない!」

 

「決まってねえよ」

 

「決まってるわよ! 私が死んでも、次の私が来るの! でも、あんたは一人しかいないのよ! この時間には、あんたは一人しか――!」

 

 3人目の声が途中で途切れた。自分が何を言ったのか気づいたように。

 

 遅かった。

 

 忉利が立ち上がった。座布団が後ろへ跳ね飛んだ。ばちん、と天井の電灯が弾けて消えた。

 

「……ふざけんな」

 

 囁くような声だった。少しも大きくならなかった。

 

 それなのに天空の間の障子がびりびりと震えた。声にではない。その一言に合わせて、部屋じゅうの線が一斉に軋んだのだ。

 

 鳶丸が息を詰めてこちらを見ていた。

 

 暗がりの中で忉利の目だけが光っていた。灰色の目の縁の細い青い輪。それが、夜明け前の空のいちばん冷たい色で燃えていた。

 

「次の私が来る、だと」

 

 声がさらに低く落ちた。温度だけがどこまでも下がっていった。

 

「おれは、お前の死体を二つ見たんだぞ」

 

「…………」

 

「一つ目は、湯の前の石の床で冷たくなってた。二つ目は、顔が潰れてた。……どっちもお前だった。どっちも、おれの、青子だった」

 

 3人目は動けなかった。

 

「何人来たって、死ぬのは毎回お前だろうが。……それを替えがきくみてえに、二度と、言うな」

 

 卓の上でカップが真っ二つに割れた。

 

 冷めかけた珈琲が卓に広がって、天板の縁からぽたぽたと畳に落ちた。

 

 天板にも罅が走り始めていた。木目に沿ってぴし、ぴし、と。忉利の視線の先へまっすぐに。

 

 その先に、3人目が立っていた。

 

「――日景!」

 

 鳶丸が卓を回り込んで忉利の肩を鷲掴みにした。

 

「目ぇ閉じろ! ……部屋ごとばらす気か!」

 

 忉利は鳶丸を見なかった。3人目を見ていた。

 

 3人目の目に自分が映っていた。

 

 怯えていた。

 

 物心ついた頃から隣にいて、一度も自分に向けられたことのない目だった。

 

 ――あの目を持った偽物が、何も考えずに全力で線を切ったら。

 

 さっきこの女が言った言葉が耳の奥で鳴った。

 

 偽物など要らなかった。

 

 今ここにいる。

 

 忉利は目の奥の扉を力ずくで閉じた。

 

 天板の罅が止まった。窓硝子の震えが止んだ。暗がりの中で誰かの詰めていた息が漏れた。

 

 3人目が何か言おうとして、手を伸ばした。忉利の袖に指先が触れかけた。

 

 忉利はその手を見なかった。鳶丸の手を肩から払って、袖を指先の届かない方へ引いた。

 

 それから天空の間を出ていった。

 

 背後で、3人目が何か叫んでいた。振り返らなかった。

 

 

◇

 

 

 扉が閉まった後、天空の間には長い沈黙が落ちた。

 

 3人目は卓の前に立ったまま、閉まった扉を睨んでいた。肩が震えていた。

 

 電灯は点かなかった。窓から差し込む月明かりの中で割れたカップの隣の、手つかずのカップが冷めていった。

 

「……あいつが怒るの、初めて見たぞ」

 

 鳶丸が腕を組んだままぼそりと言った。

 

「高校の三年間、一回も見たことがなかった。お前が生徒会室で暴れても、職員室で啖呵切っても、あいつは欠伸してただけだった」

 

「……怒ってるとこなら、何回も見てるわよ」

 

 3人目は扉から目を離さずに言った。

 

「未来で。……何回も」

 

 それから声が少しだけ揺れた。

 

「でも、あんな目を向けられたのも。蒼崎って呼ばれたのも。……初めてよ」

 

「そうかい」

 

 鳶丸はそれ以上訊かなかった。

 

 藤丸とマシュが気まずそうに顔を見合わせて、そっと部屋を出ていった。

 

 3人目はゆっくりと卓の前に座り込んだ。膝を抱える。

 

「……私が怖いのは、死ぬことじゃないの」

 

 誰に言うでもなく、3人目は呟いた。

 

「あの人の目。……ずっと、血を流してるでしょ。私の知ってるどの時間のあの人も、あんなふうに目から血を流したことなんて一回もないのよ」

 

「…………」

 

「さっきの、見たでしょ。怒っただけで扉が勝手に開いた。……あの人の目は、そんなふうに開く目じゃないの。どこかに引っ張られて、蓋が緩んでる」

 

 鳶丸は黙って聞いていた。

 

「たぶんこの歪みのせい。……この歪みをここに留めてるのは、私。それはわかるの。自分の魔法の匂いがするもの。……でも、それだけじゃない」

 

 3人目は自分の胸に手を当てた。

 

「私の魔法のどこかに。あの人も引っかかってる。……私が何かを持ち上げてる、その同じ重さを、あの人もどこかで一緒に持たされてる」

 

「……わかってんなら、言ってやりゃいいだろ」

 

「まだわからないのよ。どういう仕組みなのか。……二人目の私が、考えさせてって言ったきり死んじゃったから」

 

 3人目は膝に顔を埋めた。

 

「わからないまま言ったら、あの人、全部自分のせいだと思うでしょ。……そういう人なのよ」

 

 鳶丸は長い息を吐いた。

 

「……似た者同士だな、お前ら」

 

「……うるさいわね」

 

「十年前から知ってたけどな」

 

 3人目は顔を上げなかった。ただ膝を抱えた腕に少しだけ力を込めた。

 

 

◇

 

 

 夜明け前。

 

 旧館の大浴場へ続く、長い廊下。

 

 暖簾の脇の木札は、今朝は「変成男子」に掛け替えられていた。秘湯は日ごとに旧館のどこかの湯に湧く。

 

 忉利は、大浴場の入り口の暖簾から十歩離れた壁際に座り込んでいた。一晩じゅうそこにいた。天空の間には戻らなかった。

 

 暖簾の向こうから湯の音だけが聞こえていた。

 

 足音が近づいてきた。3人目の青子だった。

 

 コートを羽織って、髪をまとめて。暖簾の前で足を止めて、十歩離れた壁際の忉利を見た。

 

 忉利は顔を上げなかった。

 

「……ここにいたの」

 

「…………」

 

「一晩じゅう?」

 

「…………」

 

 3人目はしばらく忉利を見下ろしていた。それから忉利の前まで歩いてきてしゃがみ込んだ。目線を合わせようとした。

 

 忉利は廊下の床の木目を見ていた。

 

「……お願い」

 

 3人目の声は小さかった。

 

「廊下で待ってて。……中は、見ないで。扉も閉じて」

 

「…………」

 

「あんたの目があの湯の中を、少しでも見たら。……湯の方が、あんたを見るの。それだけはさせたくないの」

 

 忉利は黙っていた。長いこと黙っていた。

 

 それから木目を見たまま言った。

 

「……ああ」

 

 短い、乾いた声だった。承知したのではなく、諦めた声だった。

 

 3人目は何か言いかけた。それから忉利の膝の上の手に、そっと自分の手を重ねようとした。

 

 忉利の手が膝の上でほんの少しだけ動いた。重ねられる前に。

 

 拳になった。

 

 3人目の指先がその拳の上で止まった。重ねずに引っ込めた。

 

「……ごめん」

 

 3人目は立ち上がった。暖簾の前で一度だけ振り返った。

 

 忉利は顔を上げなかった。

 

 暖簾が揺れた。3人目の姿が湯けむりの向こうに消えた。

 

 忉利は目の奥の扉を閉じた。最後まで。

 

 約束だった。中は見ない。

 

 湯の音だけが聞こえていた。右目が痛んでいた。扉を閉じていてもずっと痛んでいた。

 

 脱衣所の方から誰かの足音。大股の遠慮のない足音。湯に入ろうとしている。

 

 それから湯けむりの中で、何かがずるりと立ち上がる気配がした。

 

 見えなかった。扉を閉じていたから。

 

 忉利の手が壁を掴んだ。膝が浮きかけた。

 

――中は、見ないで。

 

――湯の方が、あんたを見るの。

 

 忉利は壁を掴んだまま、動かなかった。動けなかった。

 

 暖簾の向こうで誰かの怒鳴り声がした。女の声なのにひどくがらの悪い。

 

 それから青子の声。

 

「――伏せて!」

 

 銃声が響いた。

 

 一発。それからもう一発。

 

 静かになった。湯の音だけが戻ってきた。

 

 忉利は壁を掴んだままそこにいた。約束を守ったまま。

 

 脱衣所から、小柄な人影が転がるように飛び出してきた。

 

 肩までの焦げ茶の髪が濡れて頬に張りついていた。青い着物の胸にさらしを巻き、白い袴のような裾。首には黄色い襟巻き。古い火縄銃を握ったままだった。

 

 昨日、ロビーで昼間から酒の匂いをさせていた、杉谷霊印坊という除霊師だった。

 

 細い肩。細い手首。見た目はどこからどう見ても若い女だった。その顔を真っ白にしていた。

 

「――おい、あんた! あの嬢ちゃんが……!」

 

 女の顔と女の声で。口調だけがどうしようもなく男だった。

 

 二年前、この宿の仕事でしくじって死にかけた時、資料室の花心に新しい身体を作ってもらったのだと昨日の酒の席で本人がぼやいていた。俺は男だそれがこうなった、と。

 

 忉利は立ち上がった。暖簾を跳ね上げた。

 

 

◇

 

 

 湯けむりの中にもう偽物はいなかった。

 

 杉谷が言うには湯船の縁に、自分と同じ顔の、同じ銃を持ったもう一人の自分が立っていたのだという。そいつが自分を撃とうとした。その間にあの嬢ちゃんが飛び込んできた。

 

 弾は嬢ちゃんが受けた。その隙に杉谷は自分と同じ顔のそいつを撃った。そいつは湯けむりに溶けるように消えた。

 

「……俺を庇ったんだ」

 

 杉谷の声が震えていた。

 

「あんな見ず知らずの、ろくでもねえ俺を」

 

 湯船の縁の濡れた石の上に、3人目の青子が倒れていた。

 

 額から赤いものが、湯けむりの中にゆっくりと広がっていた。

 

 忉利は湯船の縁に膝をついた。3人目の傍らに。

 

 3人目の目は半分開いていた。もう、何も見ていなかった。

 

 忉利は、3人目のコートの内ポケットに手を入れた。指先が小さくて硬いものに触れた。

 

 金色のボタン。

 

 2人目のものよりさらにすり減っていた。校章の輪郭がもうほとんどわからなくなるくらいに。

 

 忉利はそれを、ポケットの中の二つのボタンの隣に入れた。

 

 三つ。かちり、と小さく触れ合った。

 

 廊下の方から足音がいくつも近づいてきた。

 

 若い草十郎が、暖簾をくぐって湯船の縁の青子を見下ろした。それから杉谷から事情を聞いた。

 

「蒼崎は、他人のために命を張ったりはしないよ」

 

 草十郎は静かに言った。

 

「自分の信念でしか動かない。それがどういうわけか、いつも人助けになってしまうんだ。そういう星の下に生まれてるんだと思う」

 

 忉利は何も言わなかった。

 

「……おれが湯に入りたいと思わなかったら、偽物は出ねえんだろ」

 

 忉利は3人目の顔を見下ろして、呟いた。

 

「おれは、湯なんかどうでもよかった」

 

 どうでもよかった。若返りも、恋愛成就も、変成男子も。

 

 ただお前に死んでほしくなかった。それだけだった。

 

 それだけを昨夜、言えばよかったのだ。

 

 ふざけんなじゃなくて。

 

 蒼崎じゃなくて。

 

 あの目で怯えさせるんじゃなくて。

 

 重ねようとした手を拳にするんじゃなくて。

 

「……馬鹿だな、おれ」

 

 湯けむりの中で、忉利は長いことそこに膝をついていた。

 

 

◇

 

 

 天空の間に戻る廊下の途中で忉利は足を止めた。

 

 壁に向き直って、右の拳を一度だけ壁に叩きつけた。

 

 古い漆喰に罅が走った。拳の皮が裂けていた。痛みはわからなかった。

 

 天空の間に戻ると窓辺に誰かが座っていた。

 

 4人目の青子だった。

 

 同じコート。同じ長い髪。同じ青い石の首飾り。窓の外の朝焼けの山並みを見ていた。

 

 忉利は部屋の隅の電気ポットの前に立った。湯を沸かそうとした。

 

 手が震えていた。ポットの取っ手を掴めなかった。何度掴もうとしても指が滑った。

 

「――貸して」

 

 背後から手が伸びてきて、4人目が忉利の手からポットを取り上げた。

 

 黙って湯を沸かす。鞄から父のミルを取り出して、豆を挽く。ごり、ごり、と。ぎこちない手つきで。

 

 ネルに粉を落とす。湯を注ぐ。

 

 どばっと落ちた。

 

「……細く、だろ」

 

「わ、わかってるわよ」

 

 4人目は息を止めて、ポットの注ぎ口を睨みつけた。

 

 湯が震えながら、細く落ちていく。粉が膨らんだ。泡が浮いて、沈んだ。

 

 白いカップに注いで、4人目はそれを忉利の前に置いた。

 

「……今朝は、私が淹れたわ」

 

 忉利はカップを見下ろした。それから両手で包んだ。

 

 一口。

 

 湯が暴れて、苦味が全部出ていた。ひどい味だった。

 

「……へたくそ」

 

「知ってるわよ」

 

「……でも」

 

 忉利はもう一口飲んだ。

 

 窓の外で朝日が山の稜線の上に顔を出していた。

 

「うまい」

 

 4人目は何も言わなかった。

 

 ただ忉利の隣に腰を下ろして、肩を寄せて、同じ朝日を見ていた。

シエルの小説満足度調査

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