―――水面に映る月を、掬おうとした者がいる。
両手で、そっと。
指の間から水がこぼれる。月は揺れて、崩れて、また元の形に戻る。
何度掬っても掬えない。
当たり前だ。
そこに、月はないのだから。
◇
「――高いところが要るの」
青子は鉄柵の前で、園の奥を見据えていた。
観覧車。その隣に錆びた鉄骨のジェットコースターのレール。急な坂を、宙返りの輪を、夜空に突き上げる最頂点まで。白いライトがレールの縁をなぞって灯っていた。
「地上から撃っても届かない。……あいつは空のいちばん高いところにいる。私の魔弾は途中で、あいつの霧に食われて細くなる」
「なら、あそこに登って撃つのか」
草十郎が、頭の上の卵から目を離さずに訊いた。
「登らない。……私は、ここで撃つ。地上に砲台を据えるの。自分を、砲台にして」
青子は自分の長い髪を一房、指で掴んだ。
コートのポケットから小さな折り畳みの鋏を取り出した。
ざくり、と。
迷いなく、切った。
指の間に黒い、長い髪の束が残った。
「――青子」
忉利が息を呑んだ。
「髪は、魔術師の触媒になるの。……私の身体の一部。切っても、私の魔力と繋がってる」
青子は髪の束を二つに分けて、細い紐で手早く括った。
それから、草十郎の前に差し出した。
「二つ。……一つ目は最初の合図で。二つ目は次の合図で。一発で決まるなんて、思ってないから」
「静希くん。これを持って、あのレールのいちばん上まで登って」
「わかった」
「それで、私が合図したら。……いちばん高いところから落として」
「落とすのか」
「落とすの。……落ちてくる髪が、照星になる。空の高いところから私のところまで、一本のまっすぐな道を引くの。その道に沿って撃つ」
草十郎は二つの髪の束を受け取って、学生服の胸のポケットにしまった。
頭の上の卵を見上げたまま。
「高いところは、慣れている。……山では、崖を登った」
「……一応、おまじないかけとくわ」
青子は、草十郎の額に指先をそっと当てた。
小さく、何かを呟いた。
「怖くなくなる暗示よ。……高いところで足がすくまないように」
「そうか」
草十郎は、少しだけ首を傾げた。
「……何も、変わらないが」
「――変わるのよ、そういうもんなの! いいから行きなさい!」
「わかった」
草十郎は頭の上の卵を見上げたまま、ジェットコースターの方へ走り出した。
上を向いたまま。足元を見ずに。
それでいて、一度も躓かなかった。
「……効いてねえだろ、そのおまじない」
忉利がぼそりと言った。
「うるさいわね!」
青子は、顔を赤くして忉利を睨んだ。
それから、少しだけ声を落とした。
「……たぶん、最初から要らなかったのよ。あいつには」
◇
噴水広場の真ん中。
蜜の噴水は止まっていた。
周りをパンの兵隊が、ピエロが、木馬が、遠巻きに取り囲んでいた。
近づいてこなかった。
待っているのだ。
頭上の月が、何をするのかを。
青子は、広場の真ん中に立って両足を開いた。
「……忉利」
「ん」
「あんたは、下がってて。どこか、隠れるところに」
「嫌だ」
「嫌だ、じゃないのよ! あんた、もう目ほとんど見えてないでしょ!」
「左は、見えてる」
忉利は、噴水の縁に腰を下ろした。
右目を押さえていたハンカチを外した。
血は、まだ止まっていなかった。
「お前、撃つ間、動けねえんだろ。砲台ってそういうことだろ」
「…………」
「なら、誰かが周りを見てなきゃなんねえ」
忉利は広場を取り囲む怪物たちを、左目で見渡した。
右目は赤い靄の向こうに、糸だけをぼんやりと映していた。
「それと。……静希の髪が落ちてくる時。お前の髪と、お前の間に糸が張ってんのが見える。今も見えてる。静希の胸ポケットから、お前の胸まで」
青子の身体がぴくりと止まった。
「落ちてくる途中で、それがいちばんまっすぐになる瞬間がある。……それを教えてやる」
青子は長いこと、忉利の顔を見ていた。
血に濡れた右目を。
それから、低い声で言った。
「……約束よ。もう切らないって」
「ああ」
嘘だった。
二人とも、たぶんそれをわかっていた。
◇
ジェットコースターの最頂点。
夜空に突き上げた鉄骨のいちばん高いところに、草十郎が立っていた。
頭の上の卵を見上げたまま。その向こうの白い、大きな満月を見上げたまま。
「――蒼崎」
声が、夜空から降ってきた。
「着いた」
青子は、深く息を吸った。
背骨の奥の魔術回路に火を入れる。
一本。十本。二十本。
鏡の館で掻き乱された回路が、まだ軋んでいた。灯がちらついた。
構わなかった。
足りない魔力は、周りから奪えばいい。
この遊園地じゅうに満ちている緑の霧。スナークが吐き出し続けている、途方もなく濃い魔力の霧。
あれを、吸う。
「――魔弾形式、収束投射」
青子の周りに、光が立ち上がった。
一層目。足元から青い光の輪が、地面を這って広がっていく。噴水広場を覆い尽くすほどに。輪の縁に触れた緑の霧が、渦を巻いて光の中へ吸い込まれていく。
吸収。
二層目。胸の高さにもう一つの輪。吸い込んだ霧をねじって、固めて、青子の魔力の形に組み替えていく。
加工。
三層目。突き出した右手の先に、小さな、けれどひどく眩しい光の点。
照星。
三つの輪が、互いに逆向きに回り始めた。
「――静希くん!」
夜空の頂上で、草十郎が右手を開いた。
黒い髪の束が落ち始めた。
忉利は、見ていた。
髪の束と青子の胸を繋ぐ、細い糸。
落ちてくるにつれて、たわんでいた糸が少しずつ張っていく。
まだ。
まだ。
――今。
「今だ、青子!」
「――スターマイン!!」
◇
光が、夜空を貫いた。
青い、一本の柱だった。
噴水広場から、落ちてくる髪の束をなぞって、まっすぐに白い満月へ。
夜空が、昼のように白く燃えた。
瞬間、三千度。
遊園地の電飾が、一斉に揺らいだ。
青い柱が、月に届く。
その寸前。
月の前に、何かが生まれた。
氷だった。
透き通った、青白い巨大な氷の塊。一つではなかった。二つ、三つ、十。夜空の何もないところから次々と凍りついて、積み重なって、城壁のように月の前に立ち塞がった。
氷の城。
青い柱が、氷の城に激突した。
音が消えた。
一瞬、夜空の全部が真っ白になった。
それから。
氷の城の表面が溶けて、砕けて、水蒸気になって。
青い柱が細くなって、ほどけて。
消えた。
相殺、だった。
月は傷ひとつなく、白く夜空に浮かんでいた。
砕けた氷の欠片が、きらきらと遊園地の上に降り注いでいた。
「……っ、は……!」
青子の膝が、がくりと揺れた。
踏みとどまった。
足元の一層目の輪が明滅していた。
吸い込む霧の量が減っていた。
いや。
減ったのではなかった。
奪い返されていた。
◇
忉利は、見た。
遊園地じゅうの緑の霧から。
太い、太い線の流れが、夜空の月へ向かって吸い上げられていた。
青子の一層目の輪も霧を吸っている。けれど月の方が、ずっと強く、ずっと多く吸っていた。
霧の奪い合いだった。
十の霧があるなら。
月が八を吸っていた。青子が、二。
「……負けてる」
忉利は呟いた。
「霧の取り合いで、負けてる。……月の方に流れてく」
「――わかってるわよ……!」
青子は歯を食いしばって、右手を突き出したまま叫んだ。
「なら、撃ち方を変える……!」
三つの輪の回り方が変わった。
三層目の照星が、一つから八つに割れた。
八つの光の点が青子の周りに、八角形を描いて並んだ。
「――接続、八芒星!」
青子の声が、夜空に響いた。
「全界層、ブン回せ―――!!」
八本の光が、放たれた。
まっすぐではなかった。
八本とも、曲がった。
途中で軌道を変えて。夜空をねじれながら、八方から月を囲むように。
氷の城が、また生まれた。
けれど八方からの光を、一枚の城壁では受けきれない。
氷が、次々と砕けていった。
一枚。三枚。五枚。
月の白い表面に。
青い光が、一本だけ届きかけた。
――その時。
月が、光った。
金色の光だった。
月光の槍。
何十本もの金色の光の槍が、月から地上へ。
青子の三層目の輪を狙って。
――――!!
三層目の輪が砕けた。
照星が、全部消えた。
八本の光が目標を見失って、夜空に散った。
「――あ、っ……!」
青子の身体が、後ろに吹き飛ばされかけた。
右腕が焼けていた。コートの袖が肘まで焦げて、裂けていた。
◇
青子は、倒れなかった。
倒れなかったけれど。
その目が夜空ではなく、どこか別のものを見ていた。
忉利は、青子の顔を見た。
真っ白だった。
目が見開かれていた。
何もない場所を見ていた。
噴水広場の端。燃え尽きた猫の灰の山の、そのさらに向こう。
何も、いなかった。
忉利の左目にも、右目の糸にも、何も映らなかった。
けれど、青子はそれを見ていた。
震えていた。
「……青子?」
「…………来る」
青子の声が掠れていた。
「赤い、の。……赤い、影が」
忉利には、見えなかった。
何も。
ただ、青子の身体から伸びる線が。
全部、ひどく細く震えていた。
怯えている線だった。
十年以上、隣で見てきて一度も見たことのない線の震え方だった。
「――青子!」
忉利は、噴水の縁から立ち上がった。
膝が笑った。構わなかった。
青子の背中のすぐ後ろまで、よろめきながら歩いた。
触れなかった。
砲台の輪の中に踏み込んだら、何が起きるかわからなかった。
だから、声だけで。
「こっち、見なくていい。……前だけ、見てろ」
「…………」
「そっちに何がいんのか、おれには見えねえ。……でも、お前の後ろはおれが見てる」
青子の肩が、ほんの少しだけ動いた。
「……ばか」
小さな声だった。
「見えないくせに」
「見えねえから、見てんだよ」
青子の震えていた線が。
少しずつ、太さを取り戻していった。
それから、青子は深く息を吐いた。
目の焦点が戻ってきた。
夜空の月に。
◇
「……出口が、小さいのよ」
青子が言った。
独り言のように。
「吸う輪が小さい。加工する輪が小さい。……だから、どれだけ撃っても押し負ける。あいつは、この遊園地じゅうの霧を吸ってる。私は、この広場の分しか吸えてない」
「……なら、どうする」
「広げる。……一層目と、二層目を。この遊園地の端から端まで」
青子の目が光った。
「その代わり、もう三層目は作らない。……照星は、要らない。静希くんの髪が、照星の代わり」
青子は、両手を胸の前で合わせた。
「――再接続」
足元の輪が消えた。
代わりに。
噴水広場の石畳に、巨大な光の紋様が走り始めた。
一つ目の大魔法陣。直径、何十メートルもの。噴水広場を越えてメリーゴーランドの足元まで。コーヒーカップの足元まで。
二つ目の大魔法陣。一つ目と重なるように、逆向きに。観覧車の足元まで。ジェットコースターのレールの根元まで。
二つの陣が、遊園地の地面を覆い尽くしていく。
緑の霧が陣に触れた端から、渦を巻いて吸い込まれ始めた。
月の方へ流れていた霧の一部が。
向きを変えた。
「……忉利」
青子が言った。
前を見たまま。
「今、何対何」
忉利は、見た。
遊園地じゅうの霧の流れ。
月へ向かう太い流れ。青子の陣へ向かう流れ。
「……六と、四」
「まだ、足りない……!」
青子の額に、汗が噴き出していた。
陣が軋んでいた。
月の方が、霧を引っ張り返していた。
◇
忉利は、見ていた。
月へ向かう霧の流れを。
何本もの太い流れがあった。
メリーゴーランドから。観覧車から。パン工場の煙突から。それぞれの場所から、霧が月へ吸い上げられていく、太い柱のような流れ。
その根元が、見えた。
流れと地面を繋いでいる結び目が。
――切ったら。
その場所の霧は、月へ上がれなくなる。
青子の陣の方へ流れる。
切れる。
見えるのだから。
「……青子」
「――なに!」
「約束、破る」
「――は?」
青子が振り返りかけた。
「前、見てろ!」
忉利は叫んだ。
右目を見開いた。
赤い靄の向こうの、メリーゴーランドの太い霧の柱の根元を。
「――切れろ」
ぷつり。
メリーゴーランドから月へ昇っていた霧の柱が、根元から断ち切れた。
行き場を失った霧が渦を巻いて。
青子の陣へ雪崩れ込んだ。
右目の奥で、何かが弾けた。
遠くで、店のドアベルが鳴った。
また、遠くなった。
「……っ、次」
忉利は膝をつきかけながら、右目を観覧車の方へ向けた。
「――切れろ」
ぷつり。
観覧車の霧の柱が断ち切れた。
また、霧が青子の陣へ。
「忉利っ!! やめなさい、あんた――!」
「前、見てろって言ってんだろ!!」
パン工場の煙突。
「――――切れろっ!!」
ぷつり。
三本目の柱が断ち切れた。
忉利は、石畳の上に崩れ落ちた。
右目はもう、何も見えなかった。
ドアベルの音は聞こえなかった。
それでも、左目で見た。
霧の流れが変わっていた。
月へ向かう流れと、青子の陣へ向かう流れが。
ほとんど、同じ太さになっていた。
「……五と、五だ」
忉利は、石畳に頬をつけたまま言った。
「――撃て、青子」
◇
青子は、振り返らなかった。
振り返ったら撃てなくなると、わかっていた。
唇を、血が出るほど噛んだ。
両手を、夜空の月へ突き上げた。
「――静希くんっ!!」
ジェットコースターの最頂点で、草十郎が胸のポケットから二つ目の髪の束を取り出した。
落とした。
黒い髪の束が夜空の頂上から、ひらひらと落ちてくる。
月の真下を。
青子の胸へ、まっすぐに。
糸が、張った。
「――再接続、魔弾形式」
二つの大魔法陣が、同時に回った。
遊園地の地面全部が、青く燃えた。
「大月蝕、収斂投射―――!!」
光が。
噴水広場から、ではなかった。
遊園地の地面全部から。
二つの陣の何百本もの光の筋が、一斉に立ち上がって。
落ちてくる髪の束の一点へ、収斂して。
一本の、途方もなく太い青い光になって。
月を、撃った。
氷の城が生まれた。
一枚。十枚。百枚。
全部、砕けた。
金色の月光の槍が生まれた。
全部、青い光に呑まれた。
月の白い表面を覆っていた、何百年分の童話の鎧が。
正体を暴かれて剥がれかけていた、硝子の布が。
一枚ずつ、焼け落ちていった。
「――撃ち落とす、なんてハンパもいいとこ」
青子の声が、光の中で響いた。
「この場合、跡形もなく打ち砕く―――!!」
青い光が、月の中心を貫いた。
◇
月が割れた。
白い満月の表面に蜘蛛の巣のような罅が走って。
それから、内側から弾けた。
白い月の破片が、夜空に散った。
破片の向こうに一瞬だけ、何かが見えた気がした。
緑色の霧の塊。月を眼窩に収めた、逆さまの髑髏のような形。
それも青い光の中で、ほどけて消えた。
夜空に、月はなかった。
どこにも。
星だけが、冷たく瞬いていた。
新月の夜だった。
青子の両手が、ゆっくりと下りた。
足元の二つの大魔法陣が、明滅して消えた。
膝が崩れた。
石畳の上に両手をついた。
息ができなかった。回路が空っぽだった。右腕が焼けて、上がらなかった。
それでも。
青子は、這うようにして振り返った。
噴水の縁の石畳の上に。
忉利が倒れていた。
◇
夜空から、何かが降ってきた。
光の針だった。
砕けた月の最後の断末魔。何百本もの細い、白い光の針が、散弾のように遊園地じゅうに降り注いできた。
その時。
噴水広場の向こうの、燃え落ちた鏡の館の瓦礫の山が。
動いた。
瓦礫の中から、何かが這い出してきた。
焼け焦げた人の形。
顔の半分が溶けて崩れていた。残った半分が、青子の顔の形をしていた。
硝子玉の目が、一つだけ残っていた。
赤く炎を映したまま。
人形は、呪いで動いていた。自分自身を呪い続けている限り止まらない。
焼け焦げた人形が、石畳の上を這ってきた。
力を使い果たした青子の方へ。
右腕が上がった。
肘から先が焼け爛れて、それでも銛の形を残していた。
忉利は石畳に頬をつけたまま、それを見ていた。
右目は、もう何も見えなかった。
左目で見た。
人形の線を。
右目で見るほどには、はっきりしなかった。ぼやけて滲んで。
それでも見えた。
人形の胸から出て、背中を回って、また胸に戻る輪。
――切ったら。
今度こそ、何かが戻らなくなるかもしれない。
それでも。
青子の背中が見えた。
振り返れない背中が。
「――――切れろっ!!」
ぷつり。
人形の呪いの輪が断ち切れた。
銛の腕が、振り上げられたまま止まった。
人形の身体がぴたりと、凍りついたように止まった。
忉利の視界が暗くなった。
何も聞こえなかった。
ただ、人形の胸の断ち切った輪の両端が。
ゆっくりと。
また、繋がろうとしているのが見えた。
一秒。二秒。
呪いの永久機関。何度切っても、また繋がる。
時間稼ぎにしかならない。
それでよかった。
◇
夜空から、足音がした。
鉄を蹴る音。
ジェットコースターのレールの上を。
誰かが駆け下りてきていた。
急な坂を。
宙返りの輪を。
頭の上の卵を見上げたまま。
静希草十郎だった。
人間の速さではなかった。錆びた鉄のレールを、一段飛ばしに、三段飛ばしに。宙返りの輪の逆さまになる頂点を、天地を無視したように駆け抜けて。
最後の急な下り坂の途中で。
草十郎は、レールを蹴った。
空中に跳んだ。
頭の上の灰色の卵へ。
卵を踏んだ。
見上げたまま。目を離さずに。
卵は落ちなかった。見ている限り、卵は落ちない。
草十郎は、空中に浮いた卵を足場にして。
もう一度、跳んだ。
噴水広場へ。
青子の目の前へ。
人形の呪いの輪が繋がり直した。
銛の腕が動き出した。
振り下ろされた。
その刃の前に。
草十郎が降り立った。
青子の身体を抱えて。
石畳を転がった。
銛の腕が、石畳を砕いた。
その瞬間。
夜空から降り注ぐ光の針が。
焼け焦げた人形の真上に。
何十本も。
降った。
人形の身体が光の針に貫かれて、縫い止められて。
今度こそ、崩れた。
灰になって、夜風に散った。
◇
草十郎は青子を抱えたまま、石畳の上に倒れていた。
頭の上を見上げた。
灰色の卵が浮いていた。
卵の中の唄がちょうど、最後の一節に差しかかっていた。
「……静希くん」
腕の中で、青子が掠れた声で言った。
「卵……目、離しちゃだめ……」
「わかっている」
草十郎は、卵を見上げたまま言った。
「だが、もう疲れた」
草十郎は、ゆっくりと目を閉じた。
卵が落ちた。
石畳の上でぱりん、と割れた。
中から、灰色の霧が噴き出した。
五感を奪う、呪いの霧。
それが、草十郎と青子に降りかかる――
寸前。
ちりん、と。
どこかで、鈴の音がした。
灰色の霧が、二人の顔のほんの数センチ手前で止まった。
それから、ふっとほどけるように消えた。
割れた卵の殻だけが、石畳の上に転がっていた。
遊園地の電飾が、一つずつ消えていった。
観覧車の輪郭が。メリーゴーランドの屋根が。ジェットコースターのレールの白いライトが。
下から上へ。
灯った時と逆の順番に。
最頂点のライトが消えた。
オルゴールが止んだ。
メリーゴーランドの木馬が台座の上で、首の折れた元の姿に戻った。パンの兵隊はただの焦げたパンの山に。ピエロは色褪せた看板に。歩いていたハンバーガーショップは、崩れかけたただの小屋に。
三年前に死んだ遊園地が、また眠りについた。
◇
噴水広場の端に、いつの間にか有珠が立っていた。
白い指先に、小さな青い鈴をつまんでいた。
肩の上の駒鳥が、羽を膨らませて震えていた。
有珠は、石畳の上に倒れている三人を見下ろしていた。
青子。
青子を抱えた草十郎。
それから、噴水の縁に血を流して倒れている忉利。
有珠の硝子のような目が、忉利の血に濡れた右目の上で止まった。
長いこと、見ていた。
「……ゲームは、わたしの負けね」
静かな声だった。
「月の油は、正体を暴かれて、撃たれた。……童話の決まりに従っただけよ」
有珠は、鈴を袖の中にしまった。
「卵の呪いは、ほどいておいたわ。……終わったゲームの後始末までさせるほど、わたしは意地が悪くないもの」
有珠はそれからもう一度、忉利を見た。
「でも、あなた」
忉利は、答えられなかった。
目を開けているのが、やっとだった。
「わたしの人払いを外からほどいたわね。……人形の巻き上げを。スナークの糸を。霧の柱を、三本。……それから、人形の呪いの輪まで」
有珠の声は、平坦だった。
けれど、その目の奥で何かが、ほんのわずかに揺れていた。
警戒、だった。
「……その目は、何?」
答えは、なかった。
◇
噴水の縁の石畳の窪みに。
雨水が溜まっていた。
霧雨の名残の、小さな水たまり。
忉利は頬を石畳につけたまま、その水たまりを左目で見ていた。
水面に、夜空が映っていた。
星が映っていた。
月は、映っていなかった。
さっきまであれほど白く、大きく夜空に浮かんでいたのに。
水面には最初から、月などなかったように。
ただ、星だけが揺れていた。
「……ほんとに、新月だったんだな」
呟いたつもりだった。
声になったかどうか、わからなかった。
水たまりの向こうから、誰かが這ってくる気配がした。
青子だった。
焼け爛れた右腕を引きずって。
忉利の顔の前まで来て、崩れるように座り込んだ。
「……ばか」
掠れた声だった。
「約束、したでしょ。……切らないって」
「……破るって、言ったろ」
「――っ、何回切ったのよ」
「……数えてねえ」
「――っ、ばか! ばか、ばか……!」
青子の声が、裏返った。
震える左手で、忉利の頬の血を拭った。
拭っても拭っても、止まらなかった。
「……店のさ」
忉利は言った。
「ドアベルの音が、遠くなった。……切るたびに」
「…………」
「今、聞こえねえ。……ちょっと、遠い」
青子の手が、止まった。
意味は、わからなかった。
けれど、それがとてもよくないことだということだけは、わかった。
「……もう、切らないで」
青子は、忉利の頬に手を当てたまま言った。
「お願いだから。……私のために、切らないで」
忉利は、答えなかった。
答えられなかった。
瞼が落ちた。
最後に、左目に映ったのは。
月の映っていない、水たまりと。
泣きそうな顔でこっちを見下ろしている、幼馴染の顔だった。
◇
給水塔の上で、女は膝の上の鏡を見下ろしていた。
鏡の中は、もう何も映していなかった。
瓦礫の下の人形は光の針に貫かれて、灰になった。
最後に人形の硝子玉の目が見ていたのは。
噴水の縁で血を流して倒れている、一人の少年だった。
自分の人形の呪いの輪を。
目で断ち切った少年。
それから、その前に。
スナークの霧の柱を、三本。
「……ふうん」
女は、煙草を唇から離した。
煙を、ゆっくりと吐き出した。
「月の油が、消えた。……有珠ちゃんの三つの奇跡の、一つが」
眼鏡の奥で、女の目が細められた。
「それを消したのは、妹の魔弾。……でも、その魔弾に霧を回したのは」
女は、鏡をポケットにしまった。
給水塔の縁から立ち上がった。
新月の夜空を見上げた。
「呪いの永久機関を切った。スナークの吸い上げを切った。……回路もないのに。魔力の匂いも、しないのに」
研究者の目だった。
「――いい目ね」
柔らかな声だった。
「欲しいわ」
◇
東の空が、白み始めていた。
新月の夜が明けようとしていた。
噴水広場の石畳の上に、青子は座り込んでいた。
膝の上に、忉利の頭が乗っていた。
意識は戻らなかった。浅く細い息だけが、規則正しく続いていた。右目の上に当てた青子のハンカチは、とうに赤黒く染まりきっていた。
青子の鼻の下にも、乾いた血がこびりついていた。大月蝕を撃った時に、回路の熱が逆流して噴き出したものだった。拭う気力も残っていなかった。
少し離れた石畳の上に、草十郎が胡座をかいていた。
右の手のひらにハンカチをきつく巻きつけていた。錆びたレールを素手で駆け降りた時に、ざっくりと裂けていた。
朝靄が、遊園地の中を這っていた。
緑の霧ではなかった。ただの、冬の朝の白い靄だった。
その靄の中に、有珠がまだ立っていた。
夜の間ずっと、そこにいたのかもしれなかった。帰らずに。三人が動けるようになるのを、黙って待っていたのかもしれなかった。
「……静希君」
有珠が言った。
草十郎が顔を上げた。
「あなたの記憶は、消すわ。……でも、今すぐには無理。忘却の準備には時間がかかるから」
「どのくらいだ」
「三ヶ月。……だから、それまではわたしたちの目の届くところにいてもらうわ」
有珠は朝靄の向こうの丘の上を、ちらりと見た。
坂の上の古い洋館の方を。
「屋敷に空いている部屋があるわ。……青子。あなたが、見張りなさい。あなたが生かすと決めたのだから」
青子は、何か言い返そうとして、口を開いて。
それから閉じた。
有珠は、今度は青子の膝の上の忉利を見た。
長いこと、見ていた。
「……その子のことは、目が覚めてから決めるわ」
それだけ言って、有珠は踵を返した。
有珠はそれ以上何も言わずに、朝靄の中を屋敷のある丘の方へと歩き去っていった。
肩の上の駒鳥が、一度だけ振り返った。
青子はしばらく、その背中を見つめていた。
靄の中に黒い服の小さな背中が、溶けて見えなくなるまで。
それから、大きく息を吐いた。
背中から、力が全部抜けた。
膝の上の忉利の頭を落とさないように、そのままへたり込んだ。
「……蒼崎」
草十郎が、右手のハンカチを押さえながら言った。
「俺は、あの屋敷に住むのか」
「……そうみたいね」
「そうか」
草十郎は、少しだけ考えた。
「……だが、今日の午後はまっどべあに行かなくてはならない」
「こんな時に、バイトの話?」
「久万梨に傘を返す約束をしている」
草十郎は、石畳の脇を顎で示した。
骨の一本曲がったビニール傘が、鏡の館の燃え跡の近くに転がっていた。煤で真っ黒になって。骨がもう一本曲がって。
それでも、ちゃんとそこにあった。
青子は呆気に取られて、草十郎の顔を見た。
殺されかけて。人形に襲われて。童話の化け物に追い回されて。卵を頭に乗せたまま、ジェットコースターのてっぺんまで登って駆け降りて。
その朝に考えていることが。
傘を返す約束。
「……っ」
それから――堪えきれずに吹き出した。
笑った。
鼻血で汚れた顔のまま、朝焼けの中で声を上げて笑った。
焼けた右腕が痛んだ。空っぽの回路が軋んだ。笑うたびに肋がきしんだ。
それでも、止まらなかった。
草十郎は、不思議そうに首を傾げていた。
何がおかしいのか、少しもわかっていない顔で。
ひとしきり笑って、目尻に滲んだものを手の甲で拭って。
青子は、膝の上で眠る幼馴染の顔を見下ろした。
血に汚れた前髪。
気だるげでも眠たげでもない、ただ、ひどく疲れた子供みたいな寝顔。
「……ねえ、忉利」
血に汚れた前髪を、そっと指でどける。
「倒れたら担いで帰るのは、あんたの役目じゃなかったの」
小学生の頃。遠足の帰り道で足を挫いた自分を、文句を言いながら家まで背負って帰ったのは、この男だった。中学の時。熱を出して教室で倒れた自分を、保健室まで担いでいったのも。
いつも、担ぐのはこいつの方だった。
返事は、なかった。
朝の光が遊園地の錆びた観覧車の骨組みを、東の方からゆっくりと金色に染め始めていた。
青子は忉利の頭を膝に乗せたまま、動かなかった。
動けなかったのではなかった。
もう少しだけ、このままでいたかった。
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