夜明けの色を見る眼   作:にんら

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水面の月

 ―――水面に映る月を、掬おうとした者がいる。

 

 両手で、そっと。

 

 指の間から水がこぼれる。月は揺れて、崩れて、また元の形に戻る。

 

 何度掬っても掬えない。

 

 当たり前だ。

 

 そこに、月はないのだから。

 

 

◇

 

 

「――高いところが要るの」

 

 青子は鉄柵の前で、園の奥を見据えていた。

 

 観覧車。その隣に錆びた鉄骨のジェットコースターのレール。急な坂を、宙返りの輪を、夜空に突き上げる最頂点まで。白いライトがレールの縁をなぞって灯っていた。

 

「地上から撃っても届かない。……あいつは空のいちばん高いところにいる。私の魔弾は途中で、あいつの霧に食われて細くなる」

 

「なら、あそこに登って撃つのか」

 

 草十郎が、頭の上の卵から目を離さずに訊いた。

 

「登らない。……私は、ここで撃つ。地上に砲台を据えるの。自分を、砲台にして」

 

 青子は自分の長い髪を一房、指で掴んだ。

 

 コートのポケットから小さな折り畳みの鋏を取り出した。

 

 ざくり、と。

 

 迷いなく、切った。

 

 指の間に黒い、長い髪の束が残った。

 

「――青子」

 

 忉利が息を呑んだ。

 

「髪は、魔術師の触媒になるの。……私の身体の一部。切っても、私の魔力と繋がってる」

 

 青子は髪の束を二つに分けて、細い紐で手早く括った。

 

 それから、草十郎の前に差し出した。

 

「二つ。……一つ目は最初の合図で。二つ目は次の合図で。一発で決まるなんて、思ってないから」

 

「静希くん。これを持って、あのレールのいちばん上まで登って」

 

「わかった」

 

「それで、私が合図したら。……いちばん高いところから落として」

 

「落とすのか」

 

「落とすの。……落ちてくる髪が、照星になる。空の高いところから私のところまで、一本のまっすぐな道を引くの。その道に沿って撃つ」

 

 草十郎は二つの髪の束を受け取って、学生服の胸のポケットにしまった。

 

 頭の上の卵を見上げたまま。

 

「高いところは、慣れている。……山では、崖を登った」

 

「……一応、おまじないかけとくわ」

 

 青子は、草十郎の額に指先をそっと当てた。

 

 小さく、何かを呟いた。

 

「怖くなくなる暗示よ。……高いところで足がすくまないように」

 

「そうか」

 

 草十郎は、少しだけ首を傾げた。

 

「……何も、変わらないが」

 

「――変わるのよ、そういうもんなの! いいから行きなさい!」

 

「わかった」

 

 草十郎は頭の上の卵を見上げたまま、ジェットコースターの方へ走り出した。

 

 上を向いたまま。足元を見ずに。

 

 それでいて、一度も躓かなかった。

 

「……効いてねえだろ、そのおまじない」

 

 忉利がぼそりと言った。

 

「うるさいわね!」

 

 青子は、顔を赤くして忉利を睨んだ。

 

 それから、少しだけ声を落とした。

 

「……たぶん、最初から要らなかったのよ。あいつには」

 

 

◇

 

 

 噴水広場の真ん中。

 

 蜜の噴水は止まっていた。

 

 周りをパンの兵隊が、ピエロが、木馬が、遠巻きに取り囲んでいた。

 

 近づいてこなかった。

 

 待っているのだ。

 

 頭上の月が、何をするのかを。

 

 青子は、広場の真ん中に立って両足を開いた。

 

「……忉利」

 

「ん」

 

「あんたは、下がってて。どこか、隠れるところに」

 

「嫌だ」

 

「嫌だ、じゃないのよ! あんた、もう目ほとんど見えてないでしょ!」

 

「左は、見えてる」

 

 忉利は、噴水の縁に腰を下ろした。

 

 右目を押さえていたハンカチを外した。

 

 血は、まだ止まっていなかった。

 

「お前、撃つ間、動けねえんだろ。砲台ってそういうことだろ」

 

「…………」

 

「なら、誰かが周りを見てなきゃなんねえ」

 

 忉利は広場を取り囲む怪物たちを、左目で見渡した。

 

 右目は赤い靄の向こうに、糸だけをぼんやりと映していた。

 

「それと。……静希の髪が落ちてくる時。お前の髪と、お前の間に糸が張ってんのが見える。今も見えてる。静希の胸ポケットから、お前の胸まで」

 

 青子の身体がぴくりと止まった。

 

「落ちてくる途中で、それがいちばんまっすぐになる瞬間がある。……それを教えてやる」

 

 青子は長いこと、忉利の顔を見ていた。

 

 血に濡れた右目を。

 

 それから、低い声で言った。

 

「……約束よ。もう切らないって」

 

「ああ」

 

 嘘だった。

 

 二人とも、たぶんそれをわかっていた。

 

 

◇

 

 

 ジェットコースターの最頂点。

 

 夜空に突き上げた鉄骨のいちばん高いところに、草十郎が立っていた。

 

 頭の上の卵を見上げたまま。その向こうの白い、大きな満月を見上げたまま。

 

「――蒼崎」

 

 声が、夜空から降ってきた。

 

「着いた」

 

 青子は、深く息を吸った。

 

 背骨の奥の魔術回路に火を入れる。

 

 一本。十本。二十本。

 

 鏡の館で掻き乱された回路が、まだ軋んでいた。灯がちらついた。

 

 構わなかった。

 

 足りない魔力は、周りから奪えばいい。

 

 この遊園地じゅうに満ちている緑の霧。スナークが吐き出し続けている、途方もなく濃い魔力の霧。

 

 あれを、吸う。

 

「――魔弾形式、収束投射」

 

 青子の周りに、光が立ち上がった。

 

 一層目。足元から青い光の輪が、地面を這って広がっていく。噴水広場を覆い尽くすほどに。輪の縁に触れた緑の霧が、渦を巻いて光の中へ吸い込まれていく。

 

 吸収。

 

 二層目。胸の高さにもう一つの輪。吸い込んだ霧をねじって、固めて、青子の魔力の形に組み替えていく。

 

 加工。

 

 三層目。突き出した右手の先に、小さな、けれどひどく眩しい光の点。

 

 照星。

 

 三つの輪が、互いに逆向きに回り始めた。

 

「――静希くん!」

 

 夜空の頂上で、草十郎が右手を開いた。

 

 黒い髪の束が落ち始めた。

 

 忉利は、見ていた。

 

 髪の束と青子の胸を繋ぐ、細い糸。

 

 落ちてくるにつれて、たわんでいた糸が少しずつ張っていく。

 

 まだ。

 

 まだ。

 

 ――今。

 

「今だ、青子!」

 

「――スターマイン!!」

 

 

◇

 

 

 光が、夜空を貫いた。

 

 青い、一本の柱だった。

 

 噴水広場から、落ちてくる髪の束をなぞって、まっすぐに白い満月へ。

 

 夜空が、昼のように白く燃えた。

 

 瞬間、三千度。

 

 遊園地の電飾が、一斉に揺らいだ。

 

 青い柱が、月に届く。

 

 その寸前。

 

 月の前に、何かが生まれた。

 

 氷だった。

 

 透き通った、青白い巨大な氷の塊。一つではなかった。二つ、三つ、十。夜空の何もないところから次々と凍りついて、積み重なって、城壁のように月の前に立ち塞がった。

 

 氷の城。

 

 青い柱が、氷の城に激突した。

 

 音が消えた。

 

 一瞬、夜空の全部が真っ白になった。

 

 それから。

 

 氷の城の表面が溶けて、砕けて、水蒸気になって。

 

 青い柱が細くなって、ほどけて。

 

 消えた。

 

 相殺、だった。

 

 月は傷ひとつなく、白く夜空に浮かんでいた。

 

 砕けた氷の欠片が、きらきらと遊園地の上に降り注いでいた。

 

「……っ、は……!」

 

 青子の膝が、がくりと揺れた。

 

 踏みとどまった。

 

 足元の一層目の輪が明滅していた。

 

 吸い込む霧の量が減っていた。

 

 いや。

 

 減ったのではなかった。

 

 奪い返されていた。

 

 

◇

 

 

 忉利は、見た。

 

 遊園地じゅうの緑の霧から。

 

 太い、太い線の流れが、夜空の月へ向かって吸い上げられていた。

 

 青子の一層目の輪も霧を吸っている。けれど月の方が、ずっと強く、ずっと多く吸っていた。

 

 霧の奪い合いだった。

 

 十の霧があるなら。

 

 月が八を吸っていた。青子が、二。

 

「……負けてる」

 

 忉利は呟いた。

 

「霧の取り合いで、負けてる。……月の方に流れてく」

 

「――わかってるわよ……!」

 

 青子は歯を食いしばって、右手を突き出したまま叫んだ。

 

「なら、撃ち方を変える……!」

 

 三つの輪の回り方が変わった。

 

 三層目の照星が、一つから八つに割れた。

 

 八つの光の点が青子の周りに、八角形を描いて並んだ。

 

「――接続、八芒星!」

 

 青子の声が、夜空に響いた。

 

「全界層、ブン回せ―――!!」

 

 八本の光が、放たれた。

 

 まっすぐではなかった。

 

 八本とも、曲がった。

 

 途中で軌道を変えて。夜空をねじれながら、八方から月を囲むように。

 

 氷の城が、また生まれた。

 

 けれど八方からの光を、一枚の城壁では受けきれない。

 

 氷が、次々と砕けていった。

 

 一枚。三枚。五枚。

 

 月の白い表面に。

 

 青い光が、一本だけ届きかけた。

 

 ――その時。

 

 月が、光った。

 

 金色の光だった。

 

 月光の槍。

 

 何十本もの金色の光の槍が、月から地上へ。

 

 青子の三層目の輪を狙って。

 

 ――――!!

 

 三層目の輪が砕けた。

 

 照星が、全部消えた。

 

 八本の光が目標を見失って、夜空に散った。

 

「――あ、っ……!」

 

 青子の身体が、後ろに吹き飛ばされかけた。

 

 右腕が焼けていた。コートの袖が肘まで焦げて、裂けていた。

 

 

◇

 

 

 青子は、倒れなかった。

 

 倒れなかったけれど。

 

 その目が夜空ではなく、どこか別のものを見ていた。

 

 忉利は、青子の顔を見た。

 

 真っ白だった。

 

 目が見開かれていた。

 

 何もない場所を見ていた。

 

 噴水広場の端。燃え尽きた猫の灰の山の、そのさらに向こう。

 

 何も、いなかった。

 

 忉利の左目にも、右目の糸にも、何も映らなかった。

 

 けれど、青子はそれを見ていた。

 

 震えていた。

 

「……青子?」

 

「…………来る」

 

 青子の声が掠れていた。

 

「赤い、の。……赤い、影が」

 

 忉利には、見えなかった。

 

 何も。

 

 ただ、青子の身体から伸びる線が。

 

 全部、ひどく細く震えていた。

 

 怯えている線だった。

 

 十年以上、隣で見てきて一度も見たことのない線の震え方だった。

 

「――青子!」

 

 忉利は、噴水の縁から立ち上がった。

 

 膝が笑った。構わなかった。

 

 青子の背中のすぐ後ろまで、よろめきながら歩いた。

 

 触れなかった。

 

 砲台の輪の中に踏み込んだら、何が起きるかわからなかった。

 

 だから、声だけで。

 

「こっち、見なくていい。……前だけ、見てろ」

 

「…………」

 

「そっちに何がいんのか、おれには見えねえ。……でも、お前の後ろはおれが見てる」

 

 青子の肩が、ほんの少しだけ動いた。

 

「……ばか」

 

 小さな声だった。

 

「見えないくせに」

 

「見えねえから、見てんだよ」

 

 青子の震えていた線が。

 

 少しずつ、太さを取り戻していった。

 

 それから、青子は深く息を吐いた。

 

 目の焦点が戻ってきた。

 

 夜空の月に。

 

 

◇

 

 

「……出口が、小さいのよ」

 

 青子が言った。

 

 独り言のように。

 

「吸う輪が小さい。加工する輪が小さい。……だから、どれだけ撃っても押し負ける。あいつは、この遊園地じゅうの霧を吸ってる。私は、この広場の分しか吸えてない」

 

「……なら、どうする」

 

「広げる。……一層目と、二層目を。この遊園地の端から端まで」

 

 青子の目が光った。

 

「その代わり、もう三層目は作らない。……照星は、要らない。静希くんの髪が、照星の代わり」

 

 青子は、両手を胸の前で合わせた。

 

「――再接続」

 

 足元の輪が消えた。

 

 代わりに。

 

 噴水広場の石畳に、巨大な光の紋様が走り始めた。

 

 一つ目の大魔法陣。直径、何十メートルもの。噴水広場を越えてメリーゴーランドの足元まで。コーヒーカップの足元まで。

 

 二つ目の大魔法陣。一つ目と重なるように、逆向きに。観覧車の足元まで。ジェットコースターのレールの根元まで。

 

 二つの陣が、遊園地の地面を覆い尽くしていく。

 

 緑の霧が陣に触れた端から、渦を巻いて吸い込まれ始めた。

 

 月の方へ流れていた霧の一部が。

 

 向きを変えた。

 

「……忉利」

 

 青子が言った。

 

 前を見たまま。

 

「今、何対何」

 

 忉利は、見た。

 

 遊園地じゅうの霧の流れ。

 

 月へ向かう太い流れ。青子の陣へ向かう流れ。

 

「……六と、四」

 

「まだ、足りない……!」

 

 青子の額に、汗が噴き出していた。

 

 陣が軋んでいた。

 

 月の方が、霧を引っ張り返していた。

 

 

◇

 

 

 忉利は、見ていた。

 

 月へ向かう霧の流れを。

 

 何本もの太い流れがあった。

 

 メリーゴーランドから。観覧車から。パン工場の煙突から。それぞれの場所から、霧が月へ吸い上げられていく、太い柱のような流れ。

 

 その根元が、見えた。

 

 流れと地面を繋いでいる結び目が。

 

 ――切ったら。

 

 その場所の霧は、月へ上がれなくなる。

 

 青子の陣の方へ流れる。

 

 切れる。

 

 見えるのだから。

 

「……青子」

 

「――なに!」

 

「約束、破る」

 

「――は?」

 

 青子が振り返りかけた。

 

「前、見てろ!」

 

 忉利は叫んだ。

 

 右目を見開いた。

 

 赤い靄の向こうの、メリーゴーランドの太い霧の柱の根元を。

 

「――切れろ」

 

 ぷつり。

 

 メリーゴーランドから月へ昇っていた霧の柱が、根元から断ち切れた。

 

 行き場を失った霧が渦を巻いて。

 

 青子の陣へ雪崩れ込んだ。

 

 右目の奥で、何かが弾けた。

 

 遠くで、店のドアベルが鳴った。

 

 また、遠くなった。

 

「……っ、次」

 

 忉利は膝をつきかけながら、右目を観覧車の方へ向けた。

 

「――切れろ」

 

 ぷつり。

 

 観覧車の霧の柱が断ち切れた。

 

 また、霧が青子の陣へ。

 

「忉利っ!! やめなさい、あんた――!」

 

「前、見てろって言ってんだろ!!」

 

 パン工場の煙突。

 

「――――切れろっ!!」

 

 ぷつり。

 

 三本目の柱が断ち切れた。

 

 忉利は、石畳の上に崩れ落ちた。

 

 右目はもう、何も見えなかった。

 

 ドアベルの音は聞こえなかった。

 

 それでも、左目で見た。

 

 霧の流れが変わっていた。

 

 月へ向かう流れと、青子の陣へ向かう流れが。

 

 ほとんど、同じ太さになっていた。

 

「……五と、五だ」

 

 忉利は、石畳に頬をつけたまま言った。

 

「――撃て、青子」

 

 

◇

 

 

 青子は、振り返らなかった。

 

 振り返ったら撃てなくなると、わかっていた。

 

 唇を、血が出るほど噛んだ。

 

 両手を、夜空の月へ突き上げた。

 

「――静希くんっ!!」

 

 ジェットコースターの最頂点で、草十郎が胸のポケットから二つ目の髪の束を取り出した。

 

 落とした。

 

 黒い髪の束が夜空の頂上から、ひらひらと落ちてくる。

 

 月の真下を。

 

 青子の胸へ、まっすぐに。

 

 糸が、張った。

 

「――再接続、魔弾形式」

 

 二つの大魔法陣が、同時に回った。

 

 遊園地の地面全部が、青く燃えた。

 

「大月蝕、収斂投射―――!!」

 

 光が。

 

 噴水広場から、ではなかった。

 

 遊園地の地面全部から。

 

 二つの陣の何百本もの光の筋が、一斉に立ち上がって。

 

 落ちてくる髪の束の一点へ、収斂して。

 

 一本の、途方もなく太い青い光になって。

 

 月を、撃った。

 

 氷の城が生まれた。

 

 一枚。十枚。百枚。

 

 全部、砕けた。

 

 金色の月光の槍が生まれた。

 

 全部、青い光に呑まれた。

 

 月の白い表面を覆っていた、何百年分の童話の鎧が。

 

 正体を暴かれて剥がれかけていた、硝子の布が。

 

 一枚ずつ、焼け落ちていった。

 

「――撃ち落とす、なんてハンパもいいとこ」

 

 青子の声が、光の中で響いた。

 

「この場合、跡形もなく打ち砕く―――!!」

 

 青い光が、月の中心を貫いた。

 

 

◇

 

 

 月が割れた。

 

 白い満月の表面に蜘蛛の巣のような罅が走って。

 

 それから、内側から弾けた。

 

 白い月の破片が、夜空に散った。

 

 破片の向こうに一瞬だけ、何かが見えた気がした。

 

 緑色の霧の塊。月を眼窩に収めた、逆さまの髑髏のような形。

 

 それも青い光の中で、ほどけて消えた。

 

 夜空に、月はなかった。

 

 どこにも。

 

 星だけが、冷たく瞬いていた。

 

 新月の夜だった。

 

 青子の両手が、ゆっくりと下りた。

 

 足元の二つの大魔法陣が、明滅して消えた。

 

 膝が崩れた。

 

 石畳の上に両手をついた。

 

 息ができなかった。回路が空っぽだった。右腕が焼けて、上がらなかった。

 

 それでも。

 

 青子は、這うようにして振り返った。

 

 噴水の縁の石畳の上に。

 

 忉利が倒れていた。

 

 

◇

 

 

 夜空から、何かが降ってきた。

 

 光の針だった。

 

 砕けた月の最後の断末魔。何百本もの細い、白い光の針が、散弾のように遊園地じゅうに降り注いできた。

 

 その時。

 

 噴水広場の向こうの、燃え落ちた鏡の館の瓦礫の山が。

 

 動いた。

 

 瓦礫の中から、何かが這い出してきた。

 

 焼け焦げた人の形。

 

 顔の半分が溶けて崩れていた。残った半分が、青子の顔の形をしていた。

 

 硝子玉の目が、一つだけ残っていた。

 

 赤く炎を映したまま。

 

 人形は、呪いで動いていた。自分自身を呪い続けている限り止まらない。

 

 焼け焦げた人形が、石畳の上を這ってきた。

 

 力を使い果たした青子の方へ。

 

 右腕が上がった。

 

 肘から先が焼け爛れて、それでも銛の形を残していた。

 

 忉利は石畳に頬をつけたまま、それを見ていた。

 

 右目は、もう何も見えなかった。

 

 左目で見た。

 

 人形の線を。

 

 右目で見るほどには、はっきりしなかった。ぼやけて滲んで。

 

 それでも見えた。

 

 人形の胸から出て、背中を回って、また胸に戻る輪。

 

 ――切ったら。

 

 今度こそ、何かが戻らなくなるかもしれない。

 

 それでも。

 

 青子の背中が見えた。

 

 振り返れない背中が。

 

「――――切れろっ!!」

 

 ぷつり。

 

 人形の呪いの輪が断ち切れた。

 

 銛の腕が、振り上げられたまま止まった。

 

 人形の身体がぴたりと、凍りついたように止まった。

 

 忉利の視界が暗くなった。

 

 何も聞こえなかった。

 

 ただ、人形の胸の断ち切った輪の両端が。

 

 ゆっくりと。

 

 また、繋がろうとしているのが見えた。

 

 一秒。二秒。

 

 呪いの永久機関。何度切っても、また繋がる。

 

 時間稼ぎにしかならない。

 

 それでよかった。

 

 

◇

 

 

 夜空から、足音がした。

 

 鉄を蹴る音。

 

 ジェットコースターのレールの上を。

 

 誰かが駆け下りてきていた。

 

 急な坂を。

 

 宙返りの輪を。

 

 頭の上の卵を見上げたまま。

 

 静希草十郎だった。

 

 人間の速さではなかった。錆びた鉄のレールを、一段飛ばしに、三段飛ばしに。宙返りの輪の逆さまになる頂点を、天地を無視したように駆け抜けて。

 

 最後の急な下り坂の途中で。

 

 草十郎は、レールを蹴った。

 

 空中に跳んだ。

 

 頭の上の灰色の卵へ。

 

 卵を踏んだ。

 

 見上げたまま。目を離さずに。

 

 卵は落ちなかった。見ている限り、卵は落ちない。

 

 草十郎は、空中に浮いた卵を足場にして。

 

 もう一度、跳んだ。

 

 噴水広場へ。

 

 青子の目の前へ。

 

 人形の呪いの輪が繋がり直した。

 

 銛の腕が動き出した。

 

 振り下ろされた。

 

 その刃の前に。

 

 草十郎が降り立った。

 

 青子の身体を抱えて。

 

 石畳を転がった。

 

 銛の腕が、石畳を砕いた。

 

 その瞬間。

 

 夜空から降り注ぐ光の針が。

 

 焼け焦げた人形の真上に。

 

 何十本も。

 

 降った。

 

 人形の身体が光の針に貫かれて、縫い止められて。

 

 今度こそ、崩れた。

 

 灰になって、夜風に散った。

 

 

◇

 

 

 草十郎は青子を抱えたまま、石畳の上に倒れていた。

 

 頭の上を見上げた。

 

 灰色の卵が浮いていた。

 

 卵の中の唄がちょうど、最後の一節に差しかかっていた。

 

「……静希くん」

 

 腕の中で、青子が掠れた声で言った。

 

「卵……目、離しちゃだめ……」

 

「わかっている」

 

 草十郎は、卵を見上げたまま言った。

 

「だが、もう疲れた」

 

 草十郎は、ゆっくりと目を閉じた。

 

 卵が落ちた。

 

 石畳の上でぱりん、と割れた。

 

 中から、灰色の霧が噴き出した。

 

 五感を奪う、呪いの霧。

 

 それが、草十郎と青子に降りかかる――

 

 寸前。

 

 ちりん、と。

 

 どこかで、鈴の音がした。

 

 灰色の霧が、二人の顔のほんの数センチ手前で止まった。

 

 それから、ふっとほどけるように消えた。

 

 割れた卵の殻だけが、石畳の上に転がっていた。

 

 遊園地の電飾が、一つずつ消えていった。

 

 観覧車の輪郭が。メリーゴーランドの屋根が。ジェットコースターのレールの白いライトが。

 

 下から上へ。

 

 灯った時と逆の順番に。

 

 最頂点のライトが消えた。

 

 オルゴールが止んだ。

 

 メリーゴーランドの木馬が台座の上で、首の折れた元の姿に戻った。パンの兵隊はただの焦げたパンの山に。ピエロは色褪せた看板に。歩いていたハンバーガーショップは、崩れかけたただの小屋に。

 

 三年前に死んだ遊園地が、また眠りについた。

 

 

◇

 

 

 噴水広場の端に、いつの間にか有珠が立っていた。

 

 白い指先に、小さな青い鈴をつまんでいた。

 

 肩の上の駒鳥が、羽を膨らませて震えていた。

 

 有珠は、石畳の上に倒れている三人を見下ろしていた。

 

 青子。

 

 青子を抱えた草十郎。

 

 それから、噴水の縁に血を流して倒れている忉利。

 

 有珠の硝子のような目が、忉利の血に濡れた右目の上で止まった。

 

 長いこと、見ていた。

 

「……ゲームは、わたしの負けね」

 

 静かな声だった。

 

「月の油は、正体を暴かれて、撃たれた。……童話の決まりに従っただけよ」

 

 有珠は、鈴を袖の中にしまった。

 

「卵の呪いは、ほどいておいたわ。……終わったゲームの後始末までさせるほど、わたしは意地が悪くないもの」

 

 有珠はそれからもう一度、忉利を見た。

 

「でも、あなた」

 

 忉利は、答えられなかった。

 

 目を開けているのが、やっとだった。

 

「わたしの人払いを外からほどいたわね。……人形の巻き上げを。スナークの糸を。霧の柱を、三本。……それから、人形の呪いの輪まで」

 

 有珠の声は、平坦だった。

 

 けれど、その目の奥で何かが、ほんのわずかに揺れていた。

 

 警戒、だった。

 

「……その目は、何?」

 

 答えは、なかった。

 

 

◇

 

 

 噴水の縁の石畳の窪みに。

 

 雨水が溜まっていた。

 

 霧雨の名残の、小さな水たまり。

 

 忉利は頬を石畳につけたまま、その水たまりを左目で見ていた。

 

 水面に、夜空が映っていた。

 

 星が映っていた。

 

 月は、映っていなかった。

 

 さっきまであれほど白く、大きく夜空に浮かんでいたのに。

 

 水面には最初から、月などなかったように。

 

 ただ、星だけが揺れていた。

 

「……ほんとに、新月だったんだな」

 

 呟いたつもりだった。

 

 声になったかどうか、わからなかった。

 

 水たまりの向こうから、誰かが這ってくる気配がした。

 

 青子だった。

 

 焼け爛れた右腕を引きずって。

 

 忉利の顔の前まで来て、崩れるように座り込んだ。

 

「……ばか」

 

 掠れた声だった。

 

「約束、したでしょ。……切らないって」

 

「……破るって、言ったろ」

 

「――っ、何回切ったのよ」

 

「……数えてねえ」

 

「――っ、ばか! ばか、ばか……!」

 

 青子の声が、裏返った。

 

 震える左手で、忉利の頬の血を拭った。

 

 拭っても拭っても、止まらなかった。

 

「……店のさ」

 

 忉利は言った。

 

「ドアベルの音が、遠くなった。……切るたびに」

 

「…………」

 

「今、聞こえねえ。……ちょっと、遠い」

 

 青子の手が、止まった。

 

 意味は、わからなかった。

 

 けれど、それがとてもよくないことだということだけは、わかった。

 

「……もう、切らないで」

 

 青子は、忉利の頬に手を当てたまま言った。

 

「お願いだから。……私のために、切らないで」

 

 忉利は、答えなかった。

 

 答えられなかった。

 

 瞼が落ちた。

 

 最後に、左目に映ったのは。

 

 月の映っていない、水たまりと。

 

 泣きそうな顔でこっちを見下ろしている、幼馴染の顔だった。

 

 

◇

 

 

 給水塔の上で、女は膝の上の鏡を見下ろしていた。

 

 鏡の中は、もう何も映していなかった。

 

 瓦礫の下の人形は光の針に貫かれて、灰になった。

 

 最後に人形の硝子玉の目が見ていたのは。

 

 噴水の縁で血を流して倒れている、一人の少年だった。

 

 自分の人形の呪いの輪を。

 

 目で断ち切った少年。

 

 それから、その前に。

 

 スナークの霧の柱を、三本。

 

「……ふうん」

 

 女は、煙草を唇から離した。

 

 煙を、ゆっくりと吐き出した。

 

「月の油が、消えた。……有珠ちゃんの三つの奇跡の、一つが」

 

 眼鏡の奥で、女の目が細められた。

 

「それを消したのは、妹の魔弾。……でも、その魔弾に霧を回したのは」

 

 女は、鏡をポケットにしまった。

 

 給水塔の縁から立ち上がった。

 

 新月の夜空を見上げた。

 

「呪いの永久機関を切った。スナークの吸い上げを切った。……回路もないのに。魔力の匂いも、しないのに」

 

 研究者の目だった。

 

「――いい目ね」

 

 柔らかな声だった。

 

「欲しいわ」

 

 

◇

 

 

 東の空が、白み始めていた。

 

 新月の夜が明けようとしていた。

 

 噴水広場の石畳の上に、青子は座り込んでいた。

 

 膝の上に、忉利の頭が乗っていた。

 

 意識は戻らなかった。浅く細い息だけが、規則正しく続いていた。右目の上に当てた青子のハンカチは、とうに赤黒く染まりきっていた。

 

 青子の鼻の下にも、乾いた血がこびりついていた。大月蝕を撃った時に、回路の熱が逆流して噴き出したものだった。拭う気力も残っていなかった。

 

 少し離れた石畳の上に、草十郎が胡座をかいていた。

 

 右の手のひらにハンカチをきつく巻きつけていた。錆びたレールを素手で駆け降りた時に、ざっくりと裂けていた。

 

 朝靄が、遊園地の中を這っていた。

 

 緑の霧ではなかった。ただの、冬の朝の白い靄だった。

 

 その靄の中に、有珠がまだ立っていた。

 

 夜の間ずっと、そこにいたのかもしれなかった。帰らずに。三人が動けるようになるのを、黙って待っていたのかもしれなかった。

 

「……静希君」

 

 有珠が言った。

 

 草十郎が顔を上げた。

 

「あなたの記憶は、消すわ。……でも、今すぐには無理。忘却の準備には時間がかかるから」

 

「どのくらいだ」

 

「三ヶ月。……だから、それまではわたしたちの目の届くところにいてもらうわ」

 

 有珠は朝靄の向こうの丘の上を、ちらりと見た。

 

 坂の上の古い洋館の方を。

 

「屋敷に空いている部屋があるわ。……青子。あなたが、見張りなさい。あなたが生かすと決めたのだから」

 

 青子は、何か言い返そうとして、口を開いて。

 

 それから閉じた。

 

 有珠は、今度は青子の膝の上の忉利を見た。

 

 長いこと、見ていた。

 

「……その子のことは、目が覚めてから決めるわ」

 

 それだけ言って、有珠は踵を返した。

 

 有珠はそれ以上何も言わずに、朝靄の中を屋敷のある丘の方へと歩き去っていった。

 

 肩の上の駒鳥が、一度だけ振り返った。

 

 青子はしばらく、その背中を見つめていた。

 

 靄の中に黒い服の小さな背中が、溶けて見えなくなるまで。

 

 それから、大きく息を吐いた。

 

 背中から、力が全部抜けた。

 

 膝の上の忉利の頭を落とさないように、そのままへたり込んだ。

 

「……蒼崎」

 

 草十郎が、右手のハンカチを押さえながら言った。

 

「俺は、あの屋敷に住むのか」

 

「……そうみたいね」

 

「そうか」

 

 草十郎は、少しだけ考えた。

 

「……だが、今日の午後はまっどべあに行かなくてはならない」

 

「こんな時に、バイトの話?」

 

「久万梨に傘を返す約束をしている」

 

 草十郎は、石畳の脇を顎で示した。

 

 骨の一本曲がったビニール傘が、鏡の館の燃え跡の近くに転がっていた。煤で真っ黒になって。骨がもう一本曲がって。

 

 それでも、ちゃんとそこにあった。

 

 青子は呆気に取られて、草十郎の顔を見た。

 

 殺されかけて。人形に襲われて。童話の化け物に追い回されて。卵を頭に乗せたまま、ジェットコースターのてっぺんまで登って駆け降りて。

 

 その朝に考えていることが。

 

 傘を返す約束。

 

「……っ」

 

 それから――堪えきれずに吹き出した。

 

 笑った。

 

 鼻血で汚れた顔のまま、朝焼けの中で声を上げて笑った。

 

 焼けた右腕が痛んだ。空っぽの回路が軋んだ。笑うたびに肋がきしんだ。

 

 それでも、止まらなかった。

 

 草十郎は、不思議そうに首を傾げていた。

 

 何がおかしいのか、少しもわかっていない顔で。

 

 ひとしきり笑って、目尻に滲んだものを手の甲で拭って。

 

 青子は、膝の上で眠る幼馴染の顔を見下ろした。

 

 血に汚れた前髪。

 

 気だるげでも眠たげでもない、ただ、ひどく疲れた子供みたいな寝顔。

 

「……ねえ、忉利」

 

 血に汚れた前髪を、そっと指でどける。

 

「倒れたら担いで帰るのは、あんたの役目じゃなかったの」

 

 小学生の頃。遠足の帰り道で足を挫いた自分を、文句を言いながら家まで背負って帰ったのは、この男だった。中学の時。熱を出して教室で倒れた自分を、保健室まで担いでいったのも。

 

 いつも、担ぐのはこいつの方だった。

 

 返事は、なかった。

 

 朝の光が遊園地の錆びた観覧車の骨組みを、東の方からゆっくりと金色に染め始めていた。

 

 青子は忉利の頭を膝に乗せたまま、動かなかった。

 

 動けなかったのではなかった。

 

 もう少しだけ、このままでいたかった。

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