白い光が、遊園地を塗り潰していた。
観覧車の電飾も、メリーゴーランドの飾り灯も、錆びた街灯のひとつひとつに至るまで。すべてが、空の満月と同じ、冷たく乾いた白一色に変わっている。
そして、その光に照らされたものから、順番に。
厚みが、失われていった。
「……なに、あれ」
チケット売り場の窓から外を覗いて、青子は息を呑んだ。
向かいの売店が、薄くなっていた。
屋根も、壁も、カウンターも。まるで、誰かが巨大な消しゴムで奥行きだけを消していくように、立体だったものが、少しずつ、一枚の絵のように平らになっていく。最後には、白い光の中に、切り絵のような売店の輪郭だけが、ぺらりと立っていた。
風が吹く。
切り絵の売店が、紙のようにはためいた。
「平面……」
青子は、窓枠を握りしめた。
「フラットスナーク。五次元平面。……触れられないもの」
「蒼崎。あれに触れると、どうなる」
草十郎が、窓の外を見たまま訊いた。
「……たぶん、同じになるわ。平らになって、あいつの一部になる。二度と戻ってこられない」
遊園地の外周から、白い光が、じわじわと内側へ広がってくる。光に呑まれたものから順に、厚みを奪われていく。コーヒーカップが。ベンチが。増え続けていた鉄柵が。
このチケット売り場まで届くのに、あと一時間もかからないだろう。
「夜明けまで、逃げ切るどころじゃないってわけね」
青子は、乾いた笑いを漏らした。
「上等じゃない。……だったら、こっちから叩くしかないわ」
「……月、だろ」
壁にもたれたまま、忉利が言った。
青子のマフラーを右目に押し当てたまま、左目だけで、窓の外の夜空を見上げている。
「線は、月に繋がってる。……全部、あそこに」
「でも、空の月は撃てないわ」
青子は、首を振った。
「あれは本物の月よ。どんなに強い魔弾だって、届きっこない。それに、スナークがあんなところに本体を置くはずがない。フラットっていうのは、平らってこと。平らなものが、空に浮かんでるわけ――」
「違う」
忉利が、遮った。
左目を細めて、じっと月を見つめている。
「線、月で止まってねえんだ」
「……え?」
「月に当たって、跳ね返ってる。……光みたいに」
忉利は、ゆっくりと視線を下ろしていった。
夜空から、園内へ。月から伸びる無数の黒い線を、その折り返す先を、目で追っていく。
「空から、下に。……地面に、戻ってきてる」
その視線の先を、青子も追った。
園内の石畳。雨に濡れた、でこぼこの路面。そこに、無数の水たまりが、白い光を照り返して光っている。
夕方から降り続いていた霧雨の、名残。
そのひとつひとつに。
小さな、白い満月が、映っていた。
青子は、息を止めた。
「……月の油」
青子の唇から、声が零れた。
「水に浮いた油みたいに、薄く、平らに広がるもの。空の月の、映し身……」
点と点が、繋がっていく。
平らなもの。触れられないもの。正体がわからないこと、そのものが正体。
そして、わざわざ雨雲を払っていった、あの手加減。
「空の月じゃない」
青子は、窓の外を指さした。
「スナークの本体は、水に映った月の方よ。雲を払ったのは、月を映させるため。……こっちに、答えを見せるためだったのよ」
「なら、あの水たまりを撃てばいいのか」
草十郎が言った。
「無理よ。数が多すぎる」
青子は、奥歯を噛んだ。
園内に、水たまりがいくつあるか。百か、二百か。そのすべてに月が映り、そのすべてがスナークの身体になりうる。一つを撃てば、残りの百九十九に逃げ込むだけだ。
正体不明。
どこにでもいて、どこにもいない。
それこそが、この童話の怪物の、いちばん厄介な性質だった。
「……だったら」
青子は、ゆっくりと顔を上げた。
その目に、見覚えのある光が宿っていた。
忉利は、それを知っていた。小学生の頃、学級会で担任を言い負かす直前に。中学の頃、上級生の不良に向かって喧嘩を買う直前に。いつも、青子はこういう目をした。
ろくでもないことを、思いついた目だ。
「逃げ場を、全部潰せばいいのよ」
「……は?」
「水たまりを、一個残らず吹き飛ばすの。この遊園地じゅうの、全部。月が映る場所を、たった一つだけ残して」
青子は、窓の外の、園の中央を指さした。
噴水広場の、さらに奥。
かつて白鳥の形をした足漕ぎボートが浮かんでいた、大きな池がある。
「あそこ以外、全部よ」
忉利は、しばらく青子の顔を見ていた。
「……できんのか、そんなこと」
「できるわよ。私を誰だと思ってるの」
青子は、両手の指を、一本ずつ握り込んでいった。
「広く撃つのは得意なの。細かいのは苦手だけど。……ただ、それをやったら、しばらく私は動けなくなる。回路が焼き切れる寸前まで回すから。最後の一発を撃つ分しか、残らない」
「最後の一発」
「池に逃げ込んだスナークを、撃ち抜く一発よ」
青子は、忉利を見た。
「でも、たぶん、それだけじゃ足りない。あいつは童話の怪物だから。筋書きに沿わない攻撃は、全部なかったことにされる。さっきのコーヒーカップみたいに」
「…………」
「だから」
青子の声が、少しだけ、揺れた。
「あんたの目が、要る」
忉利は、黙ってマフラーを右目から離した。
血は、止まっていた。けれど、白目の部分は、真っ赤に染まっている。
「……あの線を、切ればいいんだろ」
「そう。スナークを、スナークにしてる線。正体がわからないっていう、その理屈を繋ぎ止めてる線を」
青子は、忉利の真っ赤な右目を、まっすぐに見つめた。
「……もう一回、使えるの。その目」
「知らねえよ」
忉利は、気だるげに肩をすくめた。
「でも、使わねえと、おれら全員ぺらぺらの紙になるんだろ。……だったら、使うしかねえじゃねえか」
青子は、何か言いかけて、口をつぐんだ。
それから、ぎゅっと唇を結んで、頷いた。
「問題は、もう一つある」
草十郎が、窓の外を見ながら言った。
「池の水面が、揺れている」
三人は、園の奥を見た。
池の上を、何かが泳ぎ回っていた。
白鳥のボートだった。首の長い、プラスチックの白鳥たち。塗装の剥げたそれらが、今は本物の鳥のように首をくねらせ、翼の代わりに錆びたペダルを軋ませながら、池の水面をぐるぐると掻き回している。
水面は、絶えず波打っていた。
月の像は、無数の欠片に砕けて、揺らめいている。
「……水が揺れてたら、線が見えねえ」
忉利は、目を細めた。
「月が、ばらばらだ。どこが本体かわからねえ」
「水面を、止める必要がある」
草十郎は、少しだけ考えて――それから、当たり前のことを言うように、言った。
「俺がやろう」
「……どうやって」
「池に入って、あの鳥を全部止める。水が静かになるまで、押さえておく」
青子と忉利は、同時に草十郎の顔を見た。
「十二月よ、今」
「知っている」
「池の水、凍る寸前よ」
「山の沢は、もっと冷たかった」
「あんた、腕、怪我してるのよ」
「片方は動く」
草十郎は、首に巻いた古い布をほどき、それを怪我をした左腕にもう一度きつく巻きつけた。
その首筋に、古い傷跡が、白く浮かんでいた。
「蒼崎が水たまりを消す。俺が池を静かにする。日景が線を切る。蒼崎が撃つ」
淡々と、指を折っていく。
「順番は、それでいいか」
青子は、しばらく草十郎を見つめていた。
それから、額を押さえて、深く、深く溜息をついた。
「……ほんっとに、どいつもこいつも、バカばっかり」
その口元は、ほんの少しだけ、笑っていた。
チケット売り場の屋根に、青子は立った。
眼下に、白く光る遊園地が広がっている。平らになりかけた売店。首をもたげた木馬たち。群れをなして徘徊する、焼き菓子の人形。そして、石畳のあちこちで、小さな月を宿して光る、無数の水たまり。
青子は、両腕を大きく広げた。
息を吸う。
回路に、火を入れる。
一本、また一本。身体の内側に走る見えない回路が、熱を帯び、脈打ち、白熱していく。指先が痺れる。視界の端が、青く滲む。心臓が、肋骨の内側で暴れ馬のように跳ね回る。
まだ足りない。
もっと。
もっと広く。遊園地の端から端まで、すべての水たまりを、一滴残らず。
「―――――っ」
喉の奥から、声にならない声が漏れた。
身体中の血管が、沸騰するように熱い。鼻の奥に、鉄錆の味が広がる。
それでも、青子は、止めなかった。
下で見上げている、二人の少年のために。
右目を真っ赤に染めて、それでも「使うしかねえ」と言った、あのバカのために。
「――――行けッ!!」
両腕を、振り下ろした。
空が、青く染まった。
青子の手から放たれた光は、一本の矢ではなかった。雨だった。夜空いっぱいに広がった、青い光の豪雨。それが、白く光る遊園地の全域に、一斉に降り注いだ。
水たまりの一つ一つに、正確に。
石畳が爆ぜる。水が蒸発する。白い湯気が、園内のいたるところから一斉に立ちのぼる。月を宿していた小さな水面が、次々と、跡形もなく吹き飛んでいく。
十。五十。百。百五十――
最後の水たまりが、白い湯気に変わった。
遊園地に、静寂が落ちた。
青子は、屋根の上で、がくりと膝をついた。
腕が、上がらない。指先が、自分のものではないように震えている。鼻から、ひとすじ、赤いものが流れ落ちた。
「……っ、は……はっ……」
それでも、青子は顔を上げた。
湯気の向こう。園の中央、池の方角を、睨みつける。
園内のすべての白い光が、ゆらりと揺らいだ。
まるで、居場所を失った何かが、慌てふためいて、最後に残された逃げ場所へと殺到していくように。
「――逃げたわよ! 池に!」
青子の叫びと同時に、草十郎が走り出していた。
静希草十郎は、走った。
湯気の立ちこめる石畳の上を、低く、速く。右手に、売店から引き剥がした鉄の棒を一本握って。
焼き菓子の人形たちが、群がってくる。
草十郎は、止まらなかった。
正面の一体の足元を、滑り込むように潜り抜ける。横から伸びてきた腕を、鉄の棒で弾く。背後から跳びかかってきた一体の顔面に、振り向きざま肘を叩き込む。
山で、猪を相手にしたことがある。
熊から、逃げたこともある。
獣の群れの中を駆け抜けるのに、特別な理屈は要らなかった。相手の目を見る。相手が動く前に動く。迷わない。それだけだった。
噴水広場を突っ切り、植え込みを飛び越え、池のほとりに辿り着く。
黒い水面の上で、白鳥のボートたちが、狂ったように旋回していた。
水面が、激しく波打っている。
その波間に、白い月の像が、砕けた鏡の破片のように揺らめいていた。
草十郎は、一瞬も迷わなかった。
池に、飛び込んだ。
―――冷たい。
冷たいという言葉では、足りなかった。
水が、刃のように全身の皮膚を切り裂いた。心臓が、一瞬、止まったかと思った。肺が縮み上がり、息が吸えない。腰まで浸かった下半身の感覚が、みるみるうちに消えていく。
山の沢は、もっと冷たかった。
そう言ったのは、嘘ではなかった。けれど、あの頃の自分は、冬の沢には決して入らなかった。
草十郎は、歯を食いしばった。
白鳥の一羽が、長い首をしならせて、襲いかかってくる。
鉄の棒で、その首を受け止める。プラスチックの嘴が、棒に噛みつく。ぎりぎりと、力比べになる。
草十郎は、棒を捨てた。
白鳥の首を、右腕一本で抱え込んだ。
体重を、全部預ける。
水の中に、沈める。
ばしゃばしゃと暴れる白鳥を、胸で押さえ込み、足で水底を踏みしめ、動かないように。
一羽。
次の一羽が、背後から来る。
振り向きざま、その胴体に肘を打ち込む。プラスチックがひび割れる。首を掴む。水に沈める。
二羽。
三羽目。四羽目。
怪我をした左腕に、焼けるような痛みが走る。巻いた布が、水を吸って重い。指先の感覚が、もうない。唇が紫色に変わっていく。
それでも、草十郎は、押さえ続けた。
五羽目を水に沈めたとき。
ようやく、池の水面が、静まり始めた。
波が、ひとつ、またひとつと消えていく。
砕けていた月の欠片が、ゆっくりと寄り集まっていく。
そして――
黒い水面の真ん中に。
完全な、白い満月が、映った。
「――日景」
凍えた唇で、草十郎は呼んだ。
「今だ」
忉利は、池のほとりに立っていた。
青子が水たまりを消し飛ばした直後、草十郎の背中を追って、ここまで走ってきた。焼き菓子の人形に何度も弾き飛ばされ、石畳に何度も転がり、それでも立ち上がって、ここまで来た。
右目が、もう、ほとんど見えなかった。
視界が、赤い。世界の輪郭が、血の色に滲んでいる。
それでも。
見えていた。
池の水面に映る、白い満月。
その月から、無数の黒い線が、四方八方に伸びていた。遊園地のありとあらゆるものへ。木馬へ。コーヒーカップへ。焼き菓子の人形へ。平らになりかけた売店へ。そして、夜空の本物の月へ。
そして、その無数の線の、ちょうど真ん中に。
ひときわ太く、ひときわ黒く、ひときわ深い、一本の線が。
水面の月を、真横に貫いていた。
あれだ、と忉利は思った。
あれを切れば、終わる。
右目が、悲鳴を上げていた。
見るな。これ以上見たら、壊れる。目が潰れる。頭の中の、大事な何かが焼き切れる。
知っている。
わかっている。
それでも、忉利は、目を逸らさなかった。
背後で、屋根の上から、青子が見ている。
あいつは、自分の身体を焼いてまで、あの水たまりを全部消した。
池の中で、静希が凍えながら、化け物を押さえ込んでいる。
なら、おれの番だ。
「……っ」
右目を、見開く。
一本の線に、すべてを、叩きつける。
眼球の奥で、何かがはじけた。
ぶちり、ぶちり、と、頭の奥で細い糸が次々に千切れていく音がする。熱い。熱い、熱い、熱い。脳の芯が、そのまま溶け落ちていくような。鼻から、耳から、生温かいものが噴き出す。膝が崩れる。視界が、白く、赤く、黒く、明滅する。
それでも、線だけは、見失わなかった。
「――切れろッ!」
音は、しなかった。
ただ、水面の月が。
横一文字に、ずれた。
まるで、一枚の写真を、真ん中から鋏で切ったように。上半分と下半分が、わずかにずれて――その継ぎ目から、白い光が、血のように溢れ出した。
遊園地じゅうに伸びていた無数の黒い線が、一斉に、ぶつりと途切れた。
木馬が、動きを止めた。焼き菓子の人形たちが、ぼろぼろと崩れ落ちた。池の中の白鳥たちが、ただのプラスチックの塊に戻って、ぷかりと水面に浮いた。
そして、水面に映る、切り裂かれた月の像だけが。
逃げ場を失い、身をよじるように、ゆらゆらと揺れていた。
筋書きを、失った怪物。
正体不明という鎧を剥ぎ取られた、ただの、平らな光。
「――青子」
忉利は、膝をついたまま、かすれた声で呼んだ。
もう、声を張る力も残っていなかった。
けれど、聞こえたはずだ。
あいつなら。
「……今だ」
チケット売り場の屋根の上で。
蒼崎青子は、震える腕を、ゆっくりと持ち上げた。
回路は、焼き切れる寸前だった。指先の感覚は、とうにない。鼻から流れた血が、顎を伝ってコートの襟を汚している。
それでも、一発だけ。
最後の一発だけ、残しておいた。
池の水面で、切り裂かれた月が、揺れている。
その手前で、膝をついた幼馴染が、真っ赤な目で、こちらを見上げている。
―――見てなさいよ、忉利。
青子は、人差し指を、水面の月に向けた。
指先に、青い光が灯る。
小さな光だった。空を染めたさっきの豪雨とは、比べものにならないほど。
けれど、それは、今夜青子が撃ったどの光よりも、青く、鋭く、澄んでいた。
「―――これで、おしまいよ」
撃った。
一条の青い光が、夜を貫いた。
噴水広場を越え、植え込みを越え、池の水面へと、まっすぐに。
切り裂かれた月の、ちょうど継ぎ目に。
音もなく、吸い込まれていった。
一瞬の、静寂。
それから。
水面の月が、内側から、青く燃え上がった。
白い光と青い光が、螺旋を描いて絡み合い、池の上に巨大な光の柱を立ちのぼらせる。遊園地のすべての電飾が、一斉に明滅し、そして――
弾けた。
音のない爆発だった。
ただ、光だけが、遊園地の隅々まで、波紋のように広がっていった。
光が通り過ぎたあとには、何も残っていなかった。
電飾は消えていた。メリーゴーランドは、屋根の崩れた廃墟に戻っていた。コーヒーカップは、錆びて傾いたまま、ぴくりとも動かなかった。何重にも増えていた鉄柵は、一重の古い柵に戻っていた。
オルゴールの音色も、もう、どこからも聞こえなかった。
遊園地は、十年前に死んだまま、ただ静かにそこにあった。
頭上で、満月が、いつもと同じ大きさで、いつもと同じ色で、冷たく光っていた。
忉利は、池のほとりに仰向けに倒れていた。
夜空が、見える。
左目だけで。右目は、もう、何も映していなかった。ただ、熱い。燃えるように熱い。
線は、見えなかった。
空にも、月にも、どこにも。
「……は」
笑おうとして、咳き込んだ。口の中に、血の味が広がる。
池の方から、ばしゃばしゃと水を掻き分ける音がした。
草十郎が、よろめきながら岸に上がってくる。全身ずぶ濡れで、唇は紫色で、がちがちと歯を鳴らしていた。
「……日景。生きているか」
「……たぶんな」
「そうか。……よかった」
草十郎は、忉利の隣に、どさりと座り込んだ。
全身から、白い湯気が立ちのぼっている。
「さむい」
「……見りゃわかる」
「山の沢より、冷たかった」
「……嘘ついたのかよ」
「嘘ではない。あの頃は、冬に沢に入らなかっただけだ」
忉利は、また笑おうとして、また咳き込んだ。
足音がした。
ふらつきながら、けれど一直線に、誰かが駆けてくる。
「――忉利!」
青子だった。
鼻血で汚れた顔。焦げたコートの袖。震える膝。それでも、転がるように忉利のそばに膝をつき、その顔を覗き込んだ。
「忉利、忉利! しっかりしなさいよ! ねえ!」
「……うるせえ。聞こえてるって……」
「目、見せなさい! あんた、こんな……こんなになるまで……!」
青子の手が、忉利の頬に触れた。
冷たい手だった。けれど、震えていた。
「……青子」
「なによ!」
「お前、鼻血、出てんぞ」
「――っ、あんたに言われたくないわよ! この、バカ……!」
青子の声が、途中で詰まった。
ぽた、と。
忉利の頬に、温かいものが落ちてきた。
血ではなかった。
「……泣いてんのか」
「泣いてないわよ……!」
「……泣きそうな顔、すんなって、言ったろ……」
忉利は、力の入らない左手を、ゆっくりと持ち上げた。
青子の頬に、触れる。
濡れていた。
指先で、それを拭おうとして――
意識が、ふっと、遠のいた。
「忉利……? ねえ、忉利!」
青子の声が、遠くなっていく。
水の底に沈んでいくように。
最後に見えたのは、月明かりに照らされた、泣きそうな幼馴染の顔だった。
―――だから、そういう顔すんなって。
言葉にはならなかった。
日景忉利の意識は、そこで、途切れた。
東の空が、白み始めていた。
廃遊園地の池のほとりで、青子は、意識を失った忉利の頭を膝に乗せたまま、じっと座り込んでいた。
隣では、青子のコートを頭からかぶせられた草十郎が、膝を抱えて震えている。
呼吸は、ある。
脈も、ある。
ただ、忉利の右目の周りは、乾いた血で真っ黒になっていた。
「……夜明けね」
背後から、静かな声がした。
青子は、振り返らなかった。
久遠寺有珠が、朝靄の中を、音もなく歩いてくる。その肩の上で、青い駒鳥が、ひどく居心地悪そうに身を縮めていた。
「約束どおりよ。静希草十郎は、見逃してあげる」
有珠は、草十郎を一瞥した。
「夜明けまで、生き延びたのだもの」
「……ええ」
「スナークを失ったのは、痛いけれど」
有珠の声は、平坦だった。けれど、その指先が、かすかに握り込まれているのを、青子は見逃さなかった。
初代から受け継がれてきた、三つの奇跡の一つ。それが、今夜、この池の底で、永遠に失われたのだ。
「……それで」
有珠の視線が、ゆっくりと、青子の膝の上に移った。
「そっちは、別よ」
青子の背筋が、強張った。
「わたしが約束したのは、静希草十郎だけ。その子については、何も約束していないわ」
「……有珠」
「わたしの結界を切った。スナークの理を切った。魔術の手順も、回路も、魔力もなしに、ただ見ただけで」
有珠は、忉利の血に汚れた顔を、じっと見下ろした。
その目に浮かんでいるのは、怒りではなかった。
恐れだった。
この冷徹な魔女が、生まれて初めて見るものに対して抱く、剥き出しの警戒だった。
「あれは、わたしたちの世界に置いておくには、危なすぎるわ。……殺すか、すべて忘れさせるか。どちらかよ」
青子は、忉利の頭を、そっと石畳の上に下ろした。
立ち上がる。
膝は、まだ震えていた。回路は、まだ焼けついていた。指先ひとつ、まともに光らせることはできないだろう。
それでも、青子は、有珠と忉利の間に立った。
「指一本でも触れたら」
低い声だった。
「あんたでも、許さない」
朝靄の中で、二人の魔女は、しばらく無言で睨み合っていた。
駒鳥が、有珠の肩の上で、そっと身を縮める。
「……あ、あのー、マイ天使」
おそるおそる、駒鳥が口を開いた。
「こっちのシャバ憎、そろそろ凍え死にそうなんスけど……」
有珠は、答えなかった。
ただ、長い、長い沈黙のあとで――ふっと、目を伏せた。
「……記憶を消す術は、たぶん、その目が切ってしまうわ」
「…………」
「薬なら、あるいは。……でも、一から調合すれば、ひと月はかかる」
有珠は、踵を返した。
「なら、薬ができるまで、わたしの目の届くところに置くわ」
青子が、目を見開いた。
「二人とも。……あの屋敷に」
「有珠、それって――」
「勘違いしないで。見張るだけよ」
有珠は、振り返らずに言った。
「目を離した隙に、何を切られるかわからないもの。……それに」
ほんの一瞬だけ、有珠の足が止まる。
「あなたから珈琲の匂いがしていた理由が、ようやくわかったわ。……その子の家、なのでしょう」
青子は、答えられなかった。
有珠は、それ以上何も言わずに、朝靄の中を、屋敷のある丘の方へと歩き去っていった。
青子は、しばらくその背中を見つめていた。
それから、大きく息を吐いて、その場にへたり込んだ。
「……蒼崎」
草十郎が、コートの下から、がちがちと歯を鳴らしながら言った。
「俺は、あの屋敷に住むのか」
「……そうみたいね」
「そうか。……だが、今日の午後は、まっどべあに行かなくてはならない」
「こんな時に、バイトの話?」
「久万梨に、傘を返す約束をしている」
青子は、呆気に取られて、草十郎の顔を見た。
それから――堪えきれずに、吹き出した。
笑った。
鼻血で汚れた顔のまま、朝焼けの中で、声を上げて笑った。
ひとしきり笑って、目尻に滲んだものを拭って、青子は、膝の上で眠る幼馴染の顔を見下ろした。
「……ねえ、忉利」
血に汚れた前髪を、そっと指でどける。
「倒れたら担いで帰るのは、あんたの役目じゃなかったの」
返事は、なかった。
穏やかな寝息だけが、朝の冷たい空気の中に、白く溶けていった。
東の空から、最初の陽の光が、廃遊園地の錆びた観覧車を、金色に染め上げていく。
長い、長い夜が、ようやく明けた。