―――結び目はほどけるものだ。
どんなに固く結んでも時間が経てば糸は毛羽立ち、緩みいつかほどける。靴紐も。荷造りの紐も。髪を結った紐も。
だから人は結び直す。
ほどけるたびにまた。何度でも。
エチオピアの森の奥で、何代もの女たちがそうしてきた。ほつれるたびに上から新しい糸で縛り直して。不格好で古い糸と新しい糸が何層にも重なって。
それでも切れなかった。
結び直す手があったから。
◇
4人目の青子がそのことに気づいたのは、朝の一杯を飲み終えた後だった。
窓辺で忉利の隣に座っていた。空になったカップを両手で包んだまま。
忉利の上着の左のポケットが妙に膨らんでいた。身じろぎするたびに中で何か小さくて硬いものがかちり、かちりと触れ合う音がした。
「……それ、何」
4人目がポケットを指さした。忉利は答えなかった。
4人目は少しのあいだ、忉利の横顔を見ていた。それから何も言わずに手を伸ばした。ポケットの中に指を入れて、取り出す。
手のひらの上に金色のボタンが三つ転がった。
三咲高校の校章。焦げた糸の切れ端。
一つはまだ新しかった。校章の輪郭がくっきりと残っている。
一つはだいぶすり減っていた。
一つはひどくすり減っていた。校章がもうほとんどわからないくらいに。
4人目は、自分のコートの内ポケットにもう片方の手を入れた。取り出したのは同じボタンだった。
手のひらの上に並べる。
四つ。
4人目のボタンは、三つ目のものよりさらに少しだけすり減っていた。
「…………」
4人目は長いこと、手のひらの上の四つのボタンを見下ろしていた。
誰のポケットから出てきたのか。どんなふうにこの男がそれを取り出したのか。
膝をついて。冷たい石の床の上で。動かなくなった自分のコートの内ポケットから。一つずつ。
三回。
「……あんた」
4人目の声が震えた。
「三回もこれ、やったの」
忉利は窓の外を見たまま、答えなかった。答えなくてもわかった。
4人目は、ボタンを握りしめた手を膝の上に落とした。それから何も言わずに忉利に抱きついた。首に腕を回して。額を肩に押しつけて。
強く。
「――――っ」
忉利の身体が一瞬強張った。それからゆっくりと力が抜けていった。
4人目は何も言わなかった。ごめん、とも。大丈夫、とも。ただ抱きしめていた。未来から来た女が。三回この男の前で死んだ女と同じ顔で。
窓の外で朝の山鳥が鳴いていた。
抱きついた腕の中で、4人目の指先が忉利の右手に触れた。拳の皮が裂けて、乾いた血が指の節にこびりついていた。
4人目は腕をほどいてその手を取った。
「……これ、どうしたの」
「壁」
「壁?」
「殴った」
4人目はしばらくその拳を見下ろしていた。それから鞄の中から白い手拭いを出し、湯で濡らして、黙って拭き始めた。
「……昨日の私に、何か言ったの」
手を動かしながら、4人目が訊いた。
忉利は少しのあいだ黙っていた。
「……蒼崎って、呼んだ」
4人目の手が止まった。
「……あんたが? 私を?」
「ああ」
「一回も呼んだことないくせに」
「ああ」
「……で、手重ねようとしたら、拳にしたんでしょ」
忉利は瞬きをした。
「……なんで知ってんだよ」
「知らないわよ。でも、わかるわよ。……あんたが本気で怒ったら、そうするもの」
4人目は手拭いをきつく拳に巻きつけた。
「謝りたいのに、謝る相手がもういないんでしょ」
「…………」
「なら、私に謝りなさいよ」
4人目は顔を上げた。
「同じ私よ。……聞いてあげるから」
忉利は長いこと、4人目の顔を見ていた。同じ顔。同じ、怒ると耳まで赤くなる癖。
それからぼそりと言った。
「……悪かった。青子」
4人目は少しだけ唇を噛んだ。それから巻きつけた手拭いの端をきゅっと結んだ。
「……うん」
小さな声だった。
「青子でいいの。……ずっと、それで」
◇
「――見せて」
しばらくして、4人目が顔を上げた。目の縁が赤かった。けれど、もう泣いてはいなかった。
「あんたの結び目。……どうなってるの、今」
忉利は少しのあいだ黙っていた。それから目の奥の扉を開いて、自分の胸を見た。
右目がずきりと痛んだ。
「……片側がほどけてる」
「ほどけてる?」
「最初の朝から。……一人目のお前が死んだ時に、お前の側の糸がどこにも繋がらなくなった。だらっと垂れ下がってる」
4人目の顔が強張った。
「それから、その結び目からもう一本、細い糸が出てる。……見えないどこかに向かって、何か重いもんをずっと持ち上げてる糸だ」
「…………」
「お前らが来るたびに、お前らの方の糸は少しずつ太くなってる。……でも、おれの方にもまだ絡みついてる。ほどけた方の結び目に」
4人目は自分の胸に手を当てた。目を閉じる。しばらくそのままだった。
「……私も何かを持ち上げてる。ずっと。ここに来た時から」
4人目は目を開けた。
「たぶん、それがこの歪みそのもの。……この歪みをここに留めてるのは、私の魔法よ。二人目も、三人目も、そこまでは気づいてたはず」
「……ああ。三人目が鳶丸にそう言ってたらしい」
「でも、あんたの目が痛むのは、それだけじゃ説明がつかない」
4人目は忉利の右目をじっと見た。それからゆっくりと言った。
「――結び目の片側がほどけて垂れ下がってるなら。本当は二人で半分ずつ持つはずの重さが、全部あんたの方に偏ってる。……そういうことじゃないの」
忉利は瞬きをした。
「……なら、どうすんだ」
4人目は答えなかった。代わりに自分の両手を見下ろした。
「……エチオピアの森で。あんた、お婆ちゃんを背負って無花果の木まで行ったでしょ」
「……ああ」
「ほつれてるところを、あんたが見て。お婆ちゃんが手で結び直した」
4人目は顔を上げた。
「――私が、結ぶわ」
「お前には線、見えねえだろ」
「見えないわよ」
「どうやって結ぶんだ」
「あんたが教えなさい。どこに何があるか。お婆ちゃんの時みたいに」
4人目は窓辺に正座した。忉利の前に両手を差し出す。
「……この結び目、お前とは結ばれてねえんだぞ」
忉利は、4人目の胸から伸びる輪になった時間の線を見た。その結び目の糸は相変わらず、ここにいない誰かの方へ――未来の自分の方へ伸びていた。
「お前の結び目は、向こうのおれとちゃんと結ばれてる。……おれのほどけた端と、お前を結んだら」
「わかってるわよ」
4人目は真っ直ぐに忉利を見た。
「ずっと、じゃなくていいの。この歪みの中だけでいい。……この歪みが閉じたら、ほどけていい。あんたは、あんたの青子のところに帰るんだから」
忉利は何も言えなかった。
「それまでの間だけ、私があんたの片側を持ってあげる」
4人目の差し出した両手が、ほんの少しだけ震えていた。
「……一人で持たせたの、私なんだから」
忉利は長いことその顔を見ていた。それからゆっくりとその手を取った。
◇
窓辺の畳の上で二人は向かい合って座っていた。
忉利は、自分の胸から垂れ下がるほどけた結び目の端を見ていた。滲んだ視界の中でそれだけがくっきりと見えていた。
「……もう少し上。お前の右手の、指一本分上」
4人目の右手が何もない空中を手探りで動く。
「そこだ。……今、指の先に触ってる」
4人目は目を閉じていた。見えないものを見ようとしていなかった。ただ忉利の声だけを頼りにしていた。
「左手を、お前の胸の前。……お前の結び目のすぐ脇。そこから糸を一本だけ、引っ張り出すつもりで」
「……こう?」
「そうだ」
4人目の指がゆっくりと何かを摘む形になった。
忉利の目には見えていた。4人目の右手の指先に、自分のほどけた端がそっと触れているのが。4人目の左手の指先に、4人目自身の結び目からごく細い一本の糸がほどけ出してきているのが。
「……そのまま、二本を交差させろ。右を上に」
4人目の両手がゆっくりと動いて、二本の糸が交わった。
「輪を作れ。……そう。右の端を、輪の中にくぐらせて」
不器用な手つきだった。七ヶ月もかけてネルを縫い上げた、あの何度も指に針を刺した手だった。
糸が輪をくぐった。
「――引け」
4人目が両手をそっと左右に引いた。
結び目が締まった。きゅっ、と。
音はなかった。けれど忉利には聞こえた気がした。胸の奥で。
ずっとだらりと垂れ下がっていた何かが、ぴんと張った。宙ぶらりんだった重さがふっと半分になる。
右目の奥の焼けるような痛みが引いていった。潮が引くようにゆっくりと。
忉利は目を開けた。
窓の外の山並み。木々の一本一本を形作る線。葉の一枚一枚の線。朝の光の粒の線。
全部くっきりと見えていた。墨で引いたように。
あの夜からずっと見てきたあの世界だった。
「……見える」
忉利は呟いた。
「全部、見える」
4人目が目を開けて、忉利の顔を見た。その右目からもう血は流れていなかった。
4人目の顔がくしゃりと崩れた。
「……よかった」
小さな声だった。
「ほんとによかった……」
4人目は結び目を結んだままの両手を膝の上に落として、そのままうつむいた。肩が震えていた。
忉利はその頭にそっと手を置いた。
不格好な結び目だった。エチオピアの無花果の木の根元の、あの結び目のように。
けれど切れていなかった。
◇
その日の午後、旅館じゅうに白い霧が立ち込めた。
音もなく廊下の床を這い、部屋の隙間から染み込んでくる、冷たい霧。
忉利は目の奥の扉を開いた。右目は痛まなかった。
霧の一粒一粒から髪の毛より細い線が無数に伸びていた。どの線も噛みつく寸前の形をしているのに、張りきらずに緩んでいた。
「――有珠の霧よ」
背後で4人目が低く言った。
「薔薇の猟犬。ワンダースナッチ。……有珠が本気になった時にしか出さない、人食いの霧。触れたら最後、敵も味方もなく噛み潰されるの」
「もう触ってるぞ」
4人目は自分の手を見下ろした。白い霧が指の間をゆっくりと流れていた。
「……本当なら、とっくに食べられてるわ」
「俺なんざ、廊下で十分ばかり浸かってたぜ」
黄色い襟巻きの除霊師が、火縄銃を肩に担いで廊下の向こうから歩いてきた。
「肩が冷えただけだ。食われちゃいねえよ」
「出力が落ちてるのね。……口が出てくるまで、間があるんだわ。でも十分を過ぎたらわからない」
4人目は唇を噛んだ。
「……有珠、朝からいないのよ。ロビンが起こしに行ったから、いるものだと思ってた」
鳶丸が廊下に出て手を一つ叩いた。部屋の戸を閉めろ。客は部屋から出すな。霧に触れたら十分のうちに戻れ。
それから人が消え始めた。
最初は資料室の花心だった。
赤い羽織の主人が渡り廊下を転がるように駆けてきた。ちょいと目を離した隙にふっといなくなっちまったんでさぁ、と色眼鏡の奥で目を白黒させていた。
花心は資料室の作業台で人形の顔に筆を入れていたのだという。煙が目に染みますね、と花心は言った。焼き物の煙でしょうか。こりゃ煙じゃなくて霧でさぁ、と主人は窓を閉めに立った。
なんだか世界が半分なくなってしまった気がしますよ。背中でそう聞いたのが最後だった。
振り返った時にはもう誰もいなかったという。
その次がマシュだった。鳶丸を探して廊下の角を曲がったその先で。次に鳶丸。顔を洗いに行った洗面所で。
それから。
「――青子?」
天空の間の奥の手洗いの前で忉利は立ち止まった。
4人目がさっきまでそこにいたはずだった。
手洗いの扉が半分開いていた。中には誰もいなかった。洗面台の上の小さな鏡に自分の顔だけが映っていた。
背後で足音が止まった。
「――霧じゃ、ないのかもしれない」
若い草十郎だった。いつもと同じ平坦な声だった。
「霊印坊は十分も霧の中にいて、何ともなかった。霧の入ってきた部屋の客も、誰も消えてない」
「…………」
「ひとりで、という条件は合ってると思う。誰かに見られていたり、隣に人がいたりしたら駄目なんだ」
草十郎は半分開いた扉の奥を見た。
「となると……洗面台の鏡、とか?」
忉利は鏡の中の自分の顔を見ていた。
「……確かめる」
「一人でか」
「一人じゃなきゃ、確かめらんねえだろ」
草十郎は少しだけ考えた。それから廊下へ一歩下がってこちらに背を向けた。
「十、数える。それで返事がなかったら、俺が入る」
忉利は手洗いに踏み込んだ。
忉利は鏡を見た。目の奥の扉を開く。
くっきりと見えた。
鏡の表面に無数の細い線が走っていた。硝子と銀のありふれた線ではなかった。鏡の奥へ、奥へとどこまでも続いていく線。鏡の中にもう一つの部屋がある。もう一つの廊下が。もう一つの旅館が。
その線の一本が、鏡の中から手招きするように揺れていた。鏡を見た者を奥へ引きずり込もうとして。
「……一人で鏡を見たら、持ってかれるのか」
呟いた瞬間、鏡の中の線が自分の方へずるりと伸びてきた。
ぷつり。
伸びてきた線を切った。鏡の表面に細い罅が一本走った。鏡の中の線はそれきり動かなくなった。
廊下で数えていた草十郎の声が八で止まった。
背後で翼の音がした。
「――さすがッスね、シャバ憎二号」
廊下の手すりに青い駒鳥が止まっていた。
「おいら、最初から知ってたッス。今回の犯人は、霧じゃなくて鏡ッス。一人で鏡を見たら、鏡の中に閉じ込められるッス」
「……知ってたなら、なんで言わねえ」
「だっておいら、はじめから敵側ッスから」
ロビンは胸を張った。
「マイ天使、今朝こっそり早起きして、旧館の屋根裏を調べに行ったッス。……それで、屋根裏の鏡に取り憑かれちゃったッス」
◇
旧館の屋根裏は鏡の間だった。逆写しの間。五大怪談の一つ。
天井の低い細長い部屋の壁という壁に、大小の鏡が何百枚も隙間なく掛けられていた。古い姿見。手鏡。割れた化粧台の鏡。どの鏡にも部屋の中の人影が無数に映り込んでいた。
部屋の真ん中に有珠が立っていた。
黒い服。肩に届かない黒い髪。白い顔。けれどその目は有珠の目ではなかった。鏡のように何も映していなかった。
「――来たのね」
有珠の唇が動いた。有珠の声で。有珠ではない何かが。
「鏡のルールを見破ったのなら、霧のルールに戻すわ。……三人一緒に入ってきたのは、褒めてあげる。でも、ここはわたしの部屋よ」
部屋じゅうの何百枚もの鏡が一斉に揺らいだ。どの鏡の中にも有珠がいた。何百人もの有珠が鏡の向こうからこちらを見ていた。
どれが本物の核なのか。
草十郎が忉利の隣で身を低く構えた。藤丸が息を詰めた。
開け放った窓の外、向かいの新館の屋根の上で黄色い襟巻きの人影が――今朝、3人目の青子が命を張って庇ったあの除霊師が火縄銃を構えていた。
けれど撃つべき鏡がわからない。何百枚のうちのどれを撃てばいいのか。
「忉利」
草十郎が静かに言った。
「見えるか?」
「見える」
忉利は部屋じゅうの鏡を見渡した。くっきりと見えていた。
何百枚もの鏡の一枚一枚から伸びる線。鏡の奥へ続く線。鏡と鏡を繋ぐ線。それらが全部、部屋の中を縦横に走り、絡み合って、一枚の鏡へ束ねられていた。
部屋のいちばん奥。古い楕円形の姿見。縁の金具が錆びついて、鏡面の左下に小さな欠けがある。
何百枚もの鏡の奥にマシュが鳶丸が、それから4人目の青子がいるのも見えた。鏡の中の廊下のずっと奥に。
鏡のこちらとむこうを縫い合わせている線を切れば、たぶん全部の鏡が一度に割れる。その時、中にいる者も一緒に断たれる。
切れる。
切らない方を選んだ。代わりに束ねられた線の元を探した。
「――奥の楕円の姿見。左下が欠けてるやつだ」
忉利は声を張らずに言った。窓の外の男に聞こえるはずのない声だった。
けれど草十郎がそれをそのまま、窓の外へ向かって繰り返した。山の峠で鍛えた声で。まっすぐに。
「――奥の楕円の姿見、左下の欠けだ」
銃声が一発。楕円の姿見が真ん中から砕け散った。
部屋じゅうの何百枚もの鏡から、一斉に有珠の姿が消えた。部屋の真ん中で、本物の有珠が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。草十郎が飛び出してその身体を受け止めた。
有珠の目が薄く開いた。鏡の間を見回して、忉利の顔を見て、それから窓の外の屋根の上の除霊師を見た。
「……あなたたちに、また、借りができたわね」
同時に屋根裏の何百枚もの鏡の表面から、人影が次々と転がり出てきた。マシュ。鳶丸。資料室の花心。それから宿の客が何人か。
最後に楕円の姿見の割れた枠の向こうから、長い髪の女がよろめきながら這い出してきた。
「――っ、もう何なのよ、鏡の中って……!」
4人目の青子だった。
忉利は何も言わずに駆け寄った。4人目の腕を掴んで引き起こす。
4人目が顔を上げた。忉利の顔を見て。それからその右目を見て。少しだけ笑った。
「……見えてたのね。ちゃんと」
「見えてた」
「そう」
4人目は忉利の腕を掴み返した。
「結んで、よかったわ」
◇
その夜、有珠が逆写しの間の床板の下から見つけ出した鞄が天空の間の卓の上で開けられた。
バゼットの盗まれた捜査資料の鞄だった。
紙の束の大半は時計塔からの調査の指示書だった。一九九九年の五月一日から六日まで、この国のある町の観測記録がまるごと抜け落ちている。その調査に、協会の封印指定執行者と教会の司祭代行を遣わす。
バゼットとカレンが連れ立ってこの山に来ていたのは、湯治のためではなかったのだ。
もう一束はこの旅館の従業員の身上書だった。鳶丸がそのいちばん上の一枚を読み上げた。
「――この旅館の今の主人。隈乃院ヨシスケ。元芸能人。一九九七年にこの宿に入って、先代の養子になってる。旧姓」
鳶丸は紙を卓の上に放り出した。
「木乃美、芳助」
忉利は動きを止めた。
初めて会った日から、どこかで聞いたことがあると思っていた。赤い羽織と色眼鏡の下の声。喋り方。笑う時のあの調子のよさ。
十年前の三咲高校の卒業式の日。「殿下ぁ!」と叫びながら、鳶丸の背中を追いかけていったあの。
「……芳助かよ」
天空の間の入り口で話を聞いていたらしい隈乃院が――芳助が、真っ青な顔で立ち尽くしていた。
芳助は観念したように首の後ろに手を回した。留め具の外れる小さな音がして、隈乃院ヨシスケの顔も肩も突き出た腹も羽織ごと前へ剥がれ落ちた。中から出てきたのはひと回り細い男だった。短い赤毛。派手なアロハシャツの上に、「隈乃温泉」と染め抜いた紺の法被。資料室の花心に作ってもらった体なのだと、後で本人がぼやいた。骨格まで変わってなかったか、と鳶丸が呟いた。
鳶丸を見た。青子を見た。それから忉利を見た。唇が震えた。
「……会長。日景」
声が裏返った。
「……ずっと、言い出せなかったんすよ。……なんで、二人とも十年前と同じ顔してんすか」
十年ぶりに聞くあの語尾だった。
鳶丸が椅子から立ち上がった。芳助の前まで歩いていってその襟首をぐいと掴んだ。
「……芳助」
「い、痛い、殿下、痛いっす」
「一つだけ答えろ」
鳶丸の声は低かった。
「おまえ、世界が滅びてくれたらいいとか思ってるか」
芳助は目を白黒させた。
「な、何言ってんすか。……借金は帳消しにしてほしいっすけど。全部リセットはやりすぎでしょ」
鳶丸はしばらく、芳助の顔を見ていた。それから襟首を離した。
「……だよな」
「……で、なんで化けてた」
鳶丸が訊いた。
芳助は床に落ちた抜け殻の羽織を拾い上げて胸に抱えた。
「新館っすよ。……あれ建てた時の借金で。取り立てから逃げてたんす」
「それで別人のふりか」
「花心ちゃん様の入れ知恵っす。どうせ化けるなら、怖がられる顔にしとけって」
鳶丸は長い息を吐いた。
「……小悪党だな、お前」
「小悪党だ」
若い草十郎も真顔で頷いた。それから芳助の抱えた羽織の背中を見た。染め抜かれた「隈」の一字。
「隈乃院の隈は、まっどべあのクマか」
芳助は目を泳がせた。
三咲の商店街の中華料理屋の名前だった。草十郎が高校の頃にアルバイトをしていた店。久万梨の家の店だった。
忉利は黙って見ていた。目の奥の扉を少しだけ開いて、芳助を見た。
ありふれた、少し擦り切れた人の線。借金の重さに少し撓んだ線。
その奥に一本だけ奇妙な線があった。
細い、細い、けれどひどく固い線。四年ほど前のあたりできつく結ばれたまま、一度もほどけていない。何かをずっと願い続けている線だった。
それが何なのかは見えなかった。ただその線の先がこの旅館のずっと下の方へ、地の底の方へ伸びていることだけはわかった。
芳助が羽織を抱えて出ていくと、部屋の者も一人ずつ引き上げていった。
残ったのは鳶丸と若い草十郎と窓辺の忉利だけだった。
「……慰安旅行ってのは、建前だ」
鳶丸が窓枠にもたれて言った。声を落としていた。
「俺たちは人捜しに来てたんだよ。長いこと行方知れずの馬鹿を捜してくれってな。学生時代の友人なら見つけられるかもしれねえってんで、うちに回ってきた」
「初耳だ」
若い草十郎が言った。
「鳶丸の目的は、木乃美だったのか」
「そもそも隈乃旅館に木乃美がいるかもしれねえって言い出したのは、お前だったんだぜ」
鳶丸はそう言ってから額を押さえた。
「……ああ。今は十年前のお前だったな」
「そうだったんだ」
草十郎は真顔で頷いた。
「十年後の俺が役に立ててるようで、なによりだ」
鳶丸は窓の外の暗い山を見た。それきり何も付け足さなかった。
背広の内ポケットのあたりを、鳶丸の手が一度だけ押さえた。
◇
その夜更け。
旧館の薄暗い廊下の突き当たりに、黒い古い電話機が一台置いてあった。この山の中で外と繋がる、ただ一本の線。
鳶丸は毎日、夕方の六時と寝る前にここへ来ていた。受話器を耳に当てて、何かを短く話していた。
それから振り返って、後ろに立っていた忉利に受話器を差し出した。
「……ほらよ」
「……何だよ」
「女房がお前と話したいってよ。お前がいるって言ったら、代われってうるせえんだ」
忉利は受話器を受け取った。耳に当てる。遠い回線のざあざあという雑音。
それから。
『――日景?』
少し低くなった、けれど聞き覚えのある声だった。十年前、生徒会室の窓際の机で帳簿から顔を上げずに話していた声。
「……久万梨か」
『今は、槻司よ』
受話器の向こうで鼻をすする音がした。
『……ほんとにいるのね。そこに』
「いる」
『青子は』
「いる。……たぶんお前の知らねえ話もいろいろあるけど。いる」
『……そう』
しばらく雑音だけが聞こえていた。忉利は廊下の窓の外の夜の山並みを見ていた。
「――決算」
「え?」
「決算、合ったのか」
受話器の向こうがしんと静まり返った。
それから、泣いているのか笑っているのかわからない声が聞こえてきた。
『……っ、合ったわよ。……合ったわよ、ばか。あんたのせいで十年、帳簿、閉じられなかったんだから……!』
忉利は少しだけ口の端を持ち上げた。
隣で鳶丸が壁に背を預けて窓の外を見ていた。その耳の後ろがまた赤かった。
◇
その夜、忉利は眠らなかった。天空の間の窓辺の縁側に座って、夜の山を見ていた。ポケットの中で三つのボタンを握っていた。
右目はもう痛まなかった。4人目が今朝、結び直してくれたから。
明日の朝、4人目はたぶんまた湯を見張りに行く。一人で。3人目と同じように。
――廊下で待ってて。
忉利はボタンを握りしめた。
約束はした。守った。
三つ目のボタンが今、手のひらの中にある。
「……もう待たねえ」
誰に言うでもなく、呟いた。
夜の山の稜線はまだ黒いままだった。
夜明け前。忉利は縁側から立ち上がって、廊下の先の有珠の部屋の襖を開けた。
4人目の青子の布団。
空になっていた。
シエルの小説満足度調査
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めちゃよかった
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よかった
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そこそこ
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びみょう