―――約束は破られるためにあるのではない。
けれど人は約束を破る。
守れなかったからではない。守りたくなかったからでもない。
約束よりもっと大事なものが、目の前にあったからだ。
そういう破り方が世の中にはある。
それは守るよりずっと残酷だ。
◇
空の布団の枕の上に紙が一枚、置いてあった。
旅館の便箋。少し右上がりの見慣れた字。
――今朝の湯は、家内安全。両儀さんから鍵を借りたわ。見張ってくる。
――廊下で待ってて。中は、見ないで。扉も閉じて。
――約束よ。青子
忉利は便箋を握り潰した。
それから走った。渡り廊下を。旧館の階段を。大浴場へ続く長い廊下を。
暖簾が見えた。
十歩手前の壁際。昨日の夜明けに、3人目の青子に言われて座り込んだ場所。約束を守って、動かなかった場所。
忉利はそこで一度だけ足を止め、便箋を握り潰した拳を見下ろした。
――約束よ。
暖簾の向こうから湯の音が聞こえていた。
それから。
湯けむりの中で何かが、ずるりと立ち上がる気配がした。昨日と同じ気配だった。
忉利は目の奥の扉を開いた。
全部。
暖簾の向こうが見えた。
湯船の縁に立つ、4人目の青子の線。その向こうの湯けむりの中から立ち上がってくる、もう一本の線。細く、鋭く、冷たく張り詰めた線。一昨日、土産物屋で会ったあの着物の女と同じ線。
その手の中の抜き身の刃の線。
忉利は暖簾を跳ね上げた。
約束を、破った。
湯けむりの中、4人目の青子が湯船の縁に立っていた。振り返った顔が忉利を見て凍りついた。
その向こうの湯けむりの中から、黒い髪の着物の女が現れた。あの女と同じ顔だった。
両儀。
けれどその目は何も映していなかった。手には抜き身の刀を下げていた。
「――っ」
4人目の指先に光が灯るより早く、女が踏み込んだ。
速かった。湯けむりが真一文字に裂けた。
刃が、4人目の胸へまっすぐに――。
忉利は見ていた。くっきりと。
刀の線を。刃と柄を繋ぐ線を。鋼の分子の一粒一粒を繋ぐ線を。
ぷつり。
刃が、4人目の胸の指一本分手前でばらばらに断たれた。鋼の欠片が湯けむりの中に雨のように散った。
女が柄だけになった刀を握ったまま、目を見開いた。何も映していない目が初めて何かを映した。
忉利の目を。
忉利はもう一度見た。
女の身体のいちばん奥。湯の底の、地の底の、どこかへ繋がる細い、細い糸。
ぷつり。
女の輪郭が湯けむりに溶けるように崩れていった。足元から。膝から。胸から。最後に柄を握った手が。
消えた。
湯けむりの中、4人目は湯船の縁に立ち尽くして自分の胸を見下ろしていた。
傷一つなかった。
それからゆっくりと振り返った。
忉利がそこに立っていた。右目から血は流れていなかった。
「……生きてる」
4人目が呟いた。
「私、生きてる……」
「ああ」
「朝、なのに」
「ああ」
4人目はふらふらと忉利の方へ歩いてきて、目の前で立ち止まった。忉利の胸元を両手でぎゅっと掴む。
「……約束、破ったわね」
4人目は少しだけ笑った。泣きそうな顔のまま。
「……破った」
「廊下で待っててって、書いたのに」
「読んだ」
「読んで、破ったの」
「読んで、破った」
4人目の手が忉利の胸元をぎゅっと握りしめた。
「……間に合ったわね」
「間に合った」
四回目で。
ようやく。
◇
天空の間に戻って、忉利は窓を開けた。
夜明けの冷たい空気。山の匂い。
湯を沸かしていつものように淹れた。
白いカップに注いで、窓辺に座った青子の前に置いた。昨日の朝、自分に不器用な一杯を淹れてくれた、同じ青子の前に。
青子はカップを見下ろして、それから両手でそっと包んだ。
「……紅茶党なんだけど、私」
一字一句これまでの朝と同じだった。けれど今朝のそれは、初めて次の朝を迎えた青子の言葉だった。
「知ってる」
忉利は青子の隣に腰を下ろした。ポケットの中で三つのボタンがかちりと鳴った。
四つ目はまだ青子のポケットの中にあった。ちゃんと持ち主のポケットの中に。
◇
その朝、両儀は自分の部屋で忉利たちの話を黙って聞いた。
湯けむりの中の女が自分と同じ顔をしていたこと。同じ刀を握っていたこと。
五階の兎角の間だった。五階は両儀の家がまるごと借り切っていて、廊下の先まで物音一つしなかった。
奥の間の襖は閉じたままだった。娘が夜中から熱を出して寝ているのだと、両儀は座るなり声を落として言った。夫がついているのだという。床の間には、一昨日土産物屋で買っていった布の人形が二つ並べてあった。
両儀はしばらく何も言わなかった。それから窓の外の山を見ながら静かに言った。
「ここの山の神様は、件、なのでしょう。……士郎さんに聞いたわ」
「くだん?」
「未来を言い当てる牛の神。……伝承の件は、未来を口にすると死んでしまう。でも、この山の件は逆なのね。願った人間に、その人の未来を見せる」
両儀は忉利の方を見た。
「未来を見せられた人間は、件の代わりに死ぬ。……願いを抱えて湯に入ろうとした人間が、湯の底から出てきた自分の生き写しに殺される。それって」
「……自分の未来に、殺される」
「そういうことね」
両儀は少しだけ目を伏せた。
「一年前から予約していたのよ。家内安全の湯」
「今朝、入るつもりだったのよ。でも、急用ができて」
両儀は少しだけ眉を寄せた。
「夫に、散財を叱られたの。その理由が、娘の教育によくないから、ですって。……襖の向こうで聞いていた夫が、眼鏡を光らせて、少し話があります、なんて言うものだから」
それで鍵を蒼崎さんに譲ったのだ、と両儀は言った。
「入るのはやめて、鍵も預けたのに。……願うことまでは、やめられなかったのね」
両儀は閉じた襖の方へ目をやった。
襖の向こうで小さな咳が一つ聞こえた。両儀はそちらを見たまま、膝の上で指を組んだ。
「蒼崎さんがあの湯の前に立っていなければ。……今朝、斬られていたのは私だったわ」
4人目は何も言わなかった。ただ忉利の隣で、ポケットの上から何かを握っていた。
◇
ロビーに降りると鳶丸が待っていた。
「今朝の蒼崎殺しは、もうひとりの両儀で決まりだな。杉谷の時と同じだ」
士郎と藤乃の姿が朝から見えないのだという。資料室の花心も朝食を届けた時にはもういなかった。
「……あのクソ人形師、怪しいな」
杉谷が火縄銃を担ぎ直した。花心の寝床は旧館だったなちょっと見てくる、と言い残して出ていった。
主人によれば士郎は二日目に、この部屋は縁起が悪いと言って隣の部屋に移っていた。移った先は椿の間だった。
「五大怪談の一つ、物書きの首くくりです……!」
マシュが青ざめた。
両儀は帯の上から刀の柄に触れた。
「もし藤乃さんが悪霊に取り憑かれていたら、殺される前に殺すこと。……距離を取る、物陰に隠れる、は悪手よ」
椿の間の扉が開かなかった。
昭和の頃、原稿の書けない作家が家族を連れて泊まり、首をくくったという部屋だった。中からは扉が開かない。
中には宿泊客が二人、閉じ込められていた。両儀の取引相手の、士郎という美術商の男と両儀が様子を見に行かせた藤乃だ。
廊下で白い着物に青い帯を締めた両儀が、腰の刀に手をかけていた。土産物屋で会った女。今朝、湯けむりの中で4人目を斬りかけた偽物と同じ顔の女。
「――離れていて」
両儀が刀を抜いた。
古いよく使い込まれた刀だった。刃紋が行灯の明かりを受けて揺らめいている。
忉利は扉を見ていた。
くっきりと見えた。扉と柱を繋ぐ線。部屋の中と外を隔てる、硬く閉じた見えない境の線。部屋の四隅から伸びて、扉の真ん中で一つに結ばれている。
「……真ん中だ。扉のちょうど真ん中。そこで全部、結ばれてる」
両儀がちらりと忉利を見た。それから少しだけ口の端を持ち上げた。
「知ってるわ。……でも、ありがとう」
両儀の刀が扉の真ん中を一閃した。
扉が開いた。境の線がほどけて消えた。
同時に両儀の手の中で、刀が真ん中からぱきりと折れた。
「……やっぱり折れちゃった」
両儀は折れた刀を見下ろして、小さく溜息をついた。
「そろそろだと思ってたのよ。だから、新しいのが欲しかったのに」
部屋から出てきた美術商の男は、両儀に届けるはずだった古い刀を資料室の花心がいつの間にか買い取って持っていってしまったのだと言った。オレも訳がわからねえ、と。
その後ろから藤乃が出てきて着物の裾を払った。
「彼女は私のボディガードよ」
両儀が言った。
「今度の宿は物騒な噂があったから、護衛を頼んだの」
「休日返上で参りました」
藤乃は小さく頭を下げた。それから椿の間で花心とすれ違った時に呟きが聞こえたのだと言った。これでやっと封印の扉が開けられる、と。
開かずの間へ走った。
銃声が一発、響いた。
扉の前で杉谷が火縄銃を構えていた。その足元に花心が倒れていた。撃たれた肩の傷口から覗くのは、血ではなく木と布と綿だった。全身が人形だった。
扉はもう斬られて、開いていた。
花心の口がかたかたと動いた。
「……件の椀々様と、成りましょう」
開かずの間の奥の暗がりから、それは這い出してきた。
猪と狼と大蛇を無理やり捏ね合わせたような影。初日の朝、山の中で藤丸たちを襲っていたものと同じ形だった。
椀々様。
この山に昔から棲み、土地の者が件と呼んで祀ってきたもの。人の願いを叶えたがる、形のない何か。それが花心に取り憑いてこの数日、旅館じゅうの怪談を操っていた。
忉利は目を凝らした。
影には線がなかった。
あの白い星ほどではない。けれど影の身体そのものは、霧のようにぼやけて掴みどころがなかった。形のないものが形のふりをしているだけ。
けれど。
影の足元から線が伸びていた。初日の森で見た時と同じ、地面に根を張るような線。
旅館の床を這い、壁を伝い、地の底へ潜って、五つの方向へ。五つの秘湯へ。
若返り。恋愛成就。変成男子。家内安全。肩こり斬滅。
五つの湯からは、また細い線が何十本も旅館じゅうへ張り巡らされていた。宿泊客の部屋へ。廊下へ。
根だった。
湯に入りたいと願った者をこの根が捕まえる。捕まえてその者の生き写しを湯の底から紡ぎ出す。毎朝、青子を殺した仕組みだった。
「――青子。あいつそのものには、線がねえ」
忉利は言った。
「でも、根は見える」
「……根?」
「あいつが五つの湯と旅館じゅうに張ってる根だ。毎朝、偽物を作ってた糸が、全部あいつに繋がってる」
4人目が目を見開いた。
「……切れる?」
「切れる」
忉利は根の全体を見渡した。右目は痛まなかった。
ぷつり。ぷつり。ぷつり。ぷつり。ぷつり。
五つの湯へ伸びる五本の太い線を。それから、旅館じゅうに張り巡らされた何十本もの細い糸を。一本ずつ。
影が悲鳴のような音を立てた。四つの足が宙を掻く。根を失い足場を失って、ただの霧の塊のようにぐらりと揺らいだ。
最後に影の真ん中に一本だけ残っていた。
霧のような身体の奥で、何かをずっと叶えたがっている線。誰かの願いを叶えたくて叶えたくて仕方がない線。それがこの山の神の本体だった。
忉利はそれを見た。
ぷつり。
「――今よ!」
4人目の魔弾が。若い草十郎の目にも止まらない一撃が。マシュの大盾が。根を失った影の真ん中に一斉に叩き込まれた。
影が弾けた。黒い霧になって、開かずの間の暗がりに溶けて消えた。
廊下じゅうの重たく淀んでいた空気が、ふっと軽くなった。
杉谷が倒れていた花心を抱き起こした。
人形の目がゆっくりと開いた。
「ここは……開かずの間、ですカ?」
花心の主は妖術師だったのだという。この山の牛神の未来を見る眼が欲しくて、捕まえに来た。捕まえられないと悟って主は山を下りた。花心だけが残って、牛神のことを調べ続けていた。
「……俺が女にされたのも、牛神のせいだったのか!」
杉谷が言った。
「いエ、それハ私の趣味デすが」
杉谷は口を開けたまましばらく閉じなかった。
開かずの間のいちばん奥に岩の縦穴が口を開けていた。降りた底に小さな湯船が一つあった。苔むした縁の間から細く湯が湧いていた。
忉利は目を凝らした。何の線も絡んでいなかった。ただの温かい湯だった。
縦穴の上から芳助が覗き込んでいた。いつの間にか来ていたらしかった。
「ここに木の階段つけたら、名所になるっすよ。……椀々様の秘湯、完成じゃん!」
◇
その夜、宿の客たちが露天風呂を譲ってくれた。
岩で囲った湯船は、真ん中を竹垣で仕切って男湯と女湯に分けてあった。湯けむりの向こうに黒い山の稜線があって、その上に星が出ていた。
「温泉、最っ高……」
女湯の方で、4人目が湯の縁に頭を預けた。目を閉じたまま肩まで沈んでいく。
「椀々様は退治されて、事件は解決したのね」
有珠は湯に肩まで浸かって星を見ていた。
「旅館の霊障は、少しずつなくなっていくでしょう。……その代わりに、万能の秘湯もなくなったけれど」
宿の客たちのことをマシュが一人ずつ話した。両儀は明日から親子水入らずで過ごすのだという。杉谷は、花心が元気になったら文句を言ってやるのだと言っていた。今は落ち込んでいるから、と。藤乃はもう少しだけこの宿に残ると言った。
士郎は夕方のうちに宿を発っていた。ここでお別れだな、と言い残して。どこかで再会することになったらそん時は安くしとくぜ、と。
しばらく湯の流れる音だけがしていた。
「――青子」
有珠が言った。
「一人目のあなたにも二人目のあなたにも、同じことを訊いたのよ。まだ結婚していないのか、って」
「……そんなこと訊いてたの」
「二人とも答えなかったわ」
有珠は星を見たまま言った。
「だから、あなたには別のことを訊くの」
「……なによ」
「未来の忉利とは、どうなっているの」
4人目の足が湯の底で滑った。ばしゃんと湯が跳ねた。
「ど、どうって、何がよ」
「あなた、今朝から一度も忉利の隣を離れていないもの」
「……見張ってただけよ」
「そう」
有珠の声は少しも揺れなかった。
マシュが湯の中で膝を抱えたまま、小さく手を挙げた。
「あの……わたしも、少しだけ気になります」
「マシュまで!」
藤丸は何も言わずに湯の縁に顎をのせて、こちらを見ていた。
4人目は鼻の下まで湯に沈んだ。ぶくぶくと泡が上がった。
「……未来のことは言わないの。ずるいでしょ、そういうの」
「二人目のあなたも、同じことを言ったわ」
有珠は湯の中で指を組んだ。
「答えなくていいわ。顔に全部書いてあるもの」
4人目は湯から顔を出して両手で頬を押さえた。耳の先まで赤かった。
しばらくして、湯の面を見たまま小さく言った。
「……一つだけよ」
「ええ」
「毎朝の一杯目は、今でも私の分なの」
それだけだった。マシュが、ほう、と息をついた。
有珠は何も言わなかった。ほんの少しだけ目を細めて、また星を見た。
4人目ははっとして竹垣の方を振り向いた。
「……ねえ。向こう、聞こえてないわよね」
竹垣の向こうから、若い草十郎の平坦な声が返ってきた。
「全部聞こえた」
手桶が一つ、竹垣を越えて飛んでいった。
◇
男湯の湯の面に、手桶がぷかりと浮かんでいた。
若い草十郎はそれを拾って湯の縁に置いた。背筋をまっすぐ伸ばしたまま、何事もなかった顔をしていた。
忉利は口のあたりまで湯に沈んでいた。何も言わなかった。
鳶丸は少し遅れて湯に来た。
「どこ行ってたんだ」
若い草十郎が訊いた。
「電話だよ、電話。警察がいつまで経っても来ねえからな。山道で土砂崩れでもあったんじゃねえかと思ってよ」
「大人の対応だ」
草十郎は真顔で頷いた。
「十年後の鳶丸は、細かいところにも気が利くんだな」
「俺は昔から神経質だよ。根が臆病だからな」
鳶丸は湯に肩まで沈んだ。
「どうしようもねえ壁にぶち当たったら、背中を丸めて回れ右だ」
それからふと思い出したように竹垣の方へ声を張った。
「……って、そうか。そっちの嬢ちゃんたちは未来の人間だったか。俺と草十郎は二〇〇一年の人間だ。まあ、今ここにいる草の字は別だが」
竹垣の向こうから、はい、とマシュの声が返ってきた。
忉利は湯の中で自分の手のひらを開いた。湯の底で揺れているのは、二十歳の頃から何ひとつ変わらない手だった。
FGO篇書き終わったら、投稿ペースめっちゃ落ちると思います。
何せネタがないです。
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