夜明けの色を見る眼   作:にんら

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幽霊屋敷の同居人

 目を覚ますと、知らない天井があった。

 

 高い。やけに高い。煤けた木の板ではなく、白い漆喰に、蔓草の模様を浮き彫りにした飾り縁が巡らされている。その真ん中から、埃をかぶった硝子の照明が、しんと垂れ下がっていた。

 

 線は、見えなかった。

 

 いや、左目の端に、かすかに一本。けれど、それは今朝の――昨日の朝の天井に見たものより、ずっと薄く、ずっと遠かった。

 

 右目は、何も映していなかった。

 

 手を伸ばすと、分厚い布の感触があった。包帯だ。右目を覆うように、頭に何重にも巻きつけられている。

 

「……どこだ、ここ」

 

 かすれた声が、広い部屋に吸い込まれる。

 

 身体を起こそうとして、忉利は顔をしかめた。頭の芯が、まだ鈍く痛む。全身が、泥のように重い。

 

 寝かされていたのは、古めかしい天蓋付きの寝台だった。カーテンの隙間から、白っぽい冬の陽射しが差し込んでいる。壁には色の褪せた風景画。暖炉には、小さな火が入っていた。

 

 その暖炉の上の、置き時計の脇に。

 

 青い駒鳥が一羽、とまっていた。

 

「お」

 

 駒鳥が、首を傾げた。

 

「シャバ憎二号が起きたッス」

 

「…………」

 

 忉利は、しばらく駒鳥を見つめた。

 

 それから、左目を手の甲でこすった。

 

 もう一度見る。

 

 駒鳥は、まだそこにいた。

 

「……鳥が喋った」

 

「失礼ッスね。おいらはロビンッス。この屋敷の、由緒正しき見張り番ッスよ」

 

 駒鳥は、胸の羽毛をふくらませて、得意げに言った。

 

「マイ天使から、アンタが起きたら知らせろって言われてるッス。……いやー、それにしても、よく寝てたッスねえ。もう昼過ぎッスよ」

 

「昼……」

 

「そうッス。ちなみに、アンタが寝てる間、あっちの姉御がずーっと枕元に座ってたッスよ。明け方から昼前まで、ずーっと。ついさっき、椅子の上で寝落ちして、マイ天使に部屋に放り込まれたッスけど」

 

 忉利は、寝台の脇に目をやった。

 

 背もたれの高い椅子が一脚、寝台に寄せて置かれている。その座面に、見覚えのある焦げたコートが、くしゃくしゃのまま掛けられていた。

 

「……あいつ」

 

「あ、今の、姉御には内緒ッスよ。おいらが喋ったってバレたら、焼き鳥にされるッス」

 

 駒鳥は、ばさりと翼を広げた。

 

「じゃ、マイ天使に報告してくるッス!」

 

 開いていた窓の隙間から、青い影がするりと飛び出していく。

 

 忉利は、ぼんやりとそれを見送った。

 

 鳥が喋る。

 

 遊園地のコーヒーカップが化け物になる。

 

 幼馴染が、手から光を出す。

 

「……もう、何でもありかよ」

 

 呟いて、忉利は、寝台の上に仰向けに倒れ込んだ。

 

 扉が、叩かれた。

 

 二度。硬く、短く。

 

「――入るわよ」

 

 返事を待たずに、扉が開いた。

 

 入ってきたのは、青子ではなかった。

 

 黒い服を着た、小柄な少女だった。

 

 長い髪が、背中まで流れている。肌は、冬の陽射しの中で透けそうなほど白い。手には、銀の盆。その上に、白磁のティーポットと、揃いのカップが一客。

 

 少女は、音もなく寝台の脇まで歩いてくると、テーブルに盆を置いた。

 

 靴を、履いたままだった。

 

 黒い、踵の低い靴。絨毯の上を、そのまま歩いてきた。

 

 そして、忉利を見下ろした。

 

 感情の読めない、静かな目だった。

 

「……あんたが、青子の同居人か」

 

「久遠寺有珠よ」

 

 短い名乗りだった。

 

 忉利は、数えるほどしか会ったことのない、この洋館の家主の顔を、左目だけで見上げた。

 

 噂では、礼園女学院に通うどこかのお嬢様。青子を「同居人がうるさい」とぼやかせる、紅茶にうるさい女。

 

 そして。

 

「遊園地の、あれ。……あんたも、いたのか」

 

 有珠は、答えなかった。

 

 ティーポットを手に取り、カップに紅茶を注ぐ。琥珀色の液体が、白い磁器の中でゆらりと揺れた。

 

「飲みなさい。身体が温まるわ」

 

 差し出されたカップを、忉利は受け取らなかった。

 

「質問に答えろよ、お嬢様」

 

 有珠の手が、ぴたりと止まった。

 

「……その呼び方は、やめて」

 

「じゃあ、答えろ」

 

 有珠は、しばらく黙って忉利を見ていた。

 

 それから、カップをテーブルに戻し、寝台の脇の椅子――青子のコートが掛けられたそれとは別の、窓際の一脚に、静かに腰を下ろした。

 

「いたわ」

 

 平坦な声だった。

 

「あの遊園地を目覚めさせたのは、わたしよ。フラットスナーク。わたしが母から受け継いだ、使い魔の一つ」

 

 忉利の左目が、わずかに見開かれた。

 

「……じゃあ、あのバケモノ連中は」

 

「わたしの子たちよ」

 

「静希を殺そうとしたのは」

 

「わたしよ」

 

 即答だった。

 

 何のためらいも、言い訳もない。まるで、今日の天気を答えるかのように。

 

 忉利は、布団を握りしめた。

 

「……青子も、死にかけたんだぞ」

 

「青子は、死なないわ。あの程度では」

 

「おれも、死にかけた」

 

「ええ」

 

 有珠は、窓の外に目をやった。

 

「そして、あなたが、わたしの子を殺したわ。初代の魔女の頃から、何百年も受け継がれてきた子を。……もう二度と、作ることはできないのに」

 

 静かな声だった。

 

 けれど、その膝の上で、白い指がかすかに握り込まれているのを、忉利は見た。

 

「…………」

 

 忉利は、何か言い返そうとして、口をつぐんだ。

 

 目の前の少女が何を失ったのか、忉利にはわからない。わからないが、少なくとも、それが彼女にとって軽いものではないことだけは、わかった。

 

「……おあいこってことかよ」

 

「そんな簡単な話ではないわ」

 

 有珠は、ゆっくりと忉利に向き直った。

 

「あなたがここにいる理由を、話しておくわね」

 

 有珠の説明は、短かった。

 

 この世界には、表に出てはならない決まりがある。魔術を見た者は、忘れさせなければならない。それができなければ、消さなければならない。

 

 静希草十郎は、夜明けまで生き延びた。だから、命は取らない。約束だからだ。

 

 けれど、見てしまったものは、忘れてもらう。

 

 そして、日景忉利。

 

「あなたには、何の約束もしていないわ」

 

 有珠は、淡々と言った。

 

「本当なら、昨日の夜明けに、あの遊園地で終わらせるつもりだった。……青子が、止めなければ」

 

「……あいつが」

 

「わたしと、本気でやり合うつもりだったわ。回路は焼けついて、指一本光らせることもできない身体で」

 

 忉利は、椅子に掛けられた焦げたコートを見た。

 

「記憶を消す術は、たぶん、あなたには効かない。その目が、術そのものを切ってしまうかもしれないから。だから、薬を作るわ。飲めば、この数日のことを、すべて忘れる薬。……でも、それができるまで、ひと月はかかる」

 

「その間、ここにいろってことか」

 

「そうよ。静希草十郎も一緒に。わたしの目の届くところに」

 

 有珠は、忉利の包帯を見つめた。

 

「目を離した隙に、何を切られるかわからないもの」

 

 忉利は、しばらく黙っていた。

 

 記憶を消される。

 

 この数日のことを、全部。

 

 青子が手から光を出していたことも。夜の遊園地も。月も。それから――池のほとりで、泣きそうな顔をしていた、あいつのことも。

 

「……それ、青子も賛成してんのか」

 

「反対しているわ」

 

「そうかよ」

 

「でも、決まりは決まりよ。青子も、それはわかっているわ」

 

 有珠は立ち上がり、テーブルの上のカップを、もう一度忉利に差し出した。

 

「冷めるわ」

 

 今度は、忉利も受け取った。

 

 両手で包む。温かい。立ちのぼる香りを、鼻から深く吸い込む。

 

 一口、含む。

 

「……うまい」

 

 有珠の目が、ほんのわずかに、満足げに細められた。

 

 けれど、忉利は、カップの中の琥珀色をじっと見つめたまま、続けた。

 

「けど、蒸らし、十秒長え」

 

 空気が、凍った。

 

「…………なんですって」

 

「茶葉、ちょっと開きすぎてる。渋みが、舌の奥に残るだろ。この葉っぱなら、あと十秒早く上げた方がいい」

 

 有珠は、無言で忉利を見下ろしていた。

 

 表情は、変わらない。

 

 変わらないが、部屋の温度が、確実に何度か下がった気がした。

 

「……わたしの淹れた紅茶に、文句をつけるの」

 

「文句じゃねえよ。事実だ。うちは喫茶店なんだよ」

 

「知っているわ。珈琲の家でしょう」

 

 有珠の声が、一段と冷たくなった。

 

「青子に、あの泥のような黒い飲み物を覚えさせた家」

 

「泥とか言うな。親父の豆は、この町で一番だぞ」

 

「紅茶の蒸らしに口を出すなら、この屋敷の敷居は二度とまたがせないわ」

 

「もうまたいでんだよ。お前が連れてきたんだろ」

 

 有珠と忉利は、しばらく無言で睨み合った。

 

 暖炉の火が、ぱちりと爆ぜる。

 

 そのとき、廊下の奥から、ばたばたと慌ただしい足音が近づいてきた。

 

 扉が、勢いよく開いた。

 

「忉利!」

 

 飛び込んできたのは、青子だった。

 

 髪はぼさぼさで、着ているのは寝間着の上に羽織った大きなカーディガン。頬に、枕の跡がくっきりとついている。

 

「目、覚めたの!? 大丈夫なの!? どこか痛くない!? 見える!? ちゃんと喋れる!?」

 

「……うるせえ。全部聞こえてるって」

 

 寝台に駆け寄った青子は、忉利の顔を両手で挟み込むようにして、包帯の上からそっと右目のあたりに触れた。

 

「痛い?」

 

「……ちょっとな」

 

「ちょっとって、どれくらいよ」

 

「ちょっとは、ちょっとだろ」

 

「あんたの『ちょっと』は信用できないのよ! 小四の時、自転車で転んで腕の骨にひび入れた時も『ちょっと』って言ってたじゃない!」

 

「……そんな昔の話、よく覚えてんな」

 

「覚えてるわよ! あんたのことなんて――」

 

 言いかけて、青子ははっと口をつぐんだ。

 

 両手で忉利の頬を挟んだまま、固まる。

 

 近い。

 

 息がかかるほど、近い。

 

 忉利の左目と、青子の目が、至近距離でぶつかった。

 

 青子の顔が、見る見るうちに、耳の先まで真っ赤に染まっていった。

 

「…………っ」

 

 ばっと手を離す。

 

 一歩、二歩、後ずさる。

 

「い、今のは、その、容態の確認よ! 医学的な!」

 

「……お前、医学とか知らねえだろ」

 

「うるさいわね!」

 

 窓際の椅子で、有珠が、何の感情もない目でその光景を眺めていた。

 

「青子」

 

「な、なによ!」

 

「寝癖がついているわ」

 

「――っ!!」

 

 青子は、両手で頭を押さえて、その場にしゃがみ込んだ。

 

 忉利は、紅茶のカップを持ったまま、長い溜息をついた。

 

 それから、ふと、窓の外に目をやった。

 

 寝室の窓から、屋敷の裏庭が見下ろせた。冬枯れの芝生。手入れの行き届いていない、伸び放題の生け垣。蔓の絡まった古い東屋。

 

 その真ん中で、誰かが、しゃがみ込んで土をいじっていた。

 

 左腕を包帯で吊ったまま、右手一本で、枯れた薔薇の枝を一本一本、丁寧に剪定している。

 

「……静希?」

 

「あいつ、朝からずっとああなのよ」

 

 青子が、しゃがみ込んだまま、ぼそりと言った。

 

「屋敷に着いて、庭を見た途端に『手入れをしてもいいか』って。有珠が返事する前に、もう鋏を探し始めてたわ」

 

「わたしは、許可していないわ」

 

 有珠が、窓の外を見ながら言った。

 

「……していないけれど」

 

 その視線の先で、草十郎が、剪定した枝を丁寧に束ねていく。冬の陽射しの中で、その手つきは、驚くほど優しかった。

 

 有珠は、それ以上何も言わなかった。

 

 ただ、じっと、その背中を見つめていた。

 

 起き上がれるようになってから、忉利は、屋敷の中を、青子に案内された。

 

 玄関ホールは、吹き抜けだった。大理石の階段が、二階へ向かって弧を描いている。壁には古い肖像画。天井には、蜘蛛の巣のかかった大きな燭台。

 

「まず、この屋敷の決まりね」

 

 青子は、階段の手すりに手をかけて、指を折った。

 

「一つ。屋敷の中は、土足。玄関で靴を脱いだら、有珠に睨まれるわよ。イギリスの家だから」

 

「……日本の屋敷で、土足かよ」

 

「有珠のお母さんが、イギリスから、屋敷ごと持ってきたのよ。だから、この屋敷の中だけは、イギリスなの」

 

 忉利は、絨毯の上の、自分の靴を見下ろした。

 

 寝台から起きて、靴を履いたまま廊下に出た時、ひどく落ち着かなかったのは、そのせいだった。

 

「二つ。番茶と、梅昆布茶は、禁止」

 

「……なんで」

 

「有珠が嫌いだから。あと、昆布の匂いが、屋敷に染みつくからですって」

 

「お前、梅昆布茶、好きだったろ」

 

「大好きよ! でも、三年間、一回も飲んでないわ!」

 

 青子は、心底悔しそうに言った。

 

「三つ。珈琲も、禁止」

 

「…………」

 

「四つ。紅茶の蒸らし時間に、口を出さない」

 

「もう出したぞ」

 

「知ってるわよ。有珠、さっきから、廊下ですれ違うたびに、あんたの方を見ないもの」

 

 青子は、階段を上りながら、続けた。

 

「あとは、まあ、普通よ。有珠の部屋と、有珠の書庫には、勝手に入らないこと。……それくらい」

 

 二階の廊下の突き当たりに、青子の部屋があった。

 

 その隣が、忉利の客間。その向かいが、草十郎の客間。

 

 青子は、自分の部屋の扉に、手をかけて、止まった。

 

「……なんで、私が、ここに住んでるか。訊かないの」

 

「訊いたら、答えんのか」

 

「……今なら、答えるわ」

 

 青子は、扉の前で、忉利の方を向いた。

 

「この屋敷が、三咲の網の、真ん中だから」

 

 低い声だった。

 

「町の五つの礎から汲み上げた力が、全部、ここに集まってくるの。ここを守るのが、久遠寺の仕事で、その網を守るのが、蒼崎の仕事。……だから、私は、ここに住んでる」

 

「…………」

 

「実家を出たのは、高一の春。お祖父ちゃんに、跡を継げって言われた、すぐ後。……普通の女の子でいられたのは、中学までよ」

 

 青子は、扉の取っ手を、握りしめた。

 

「あんたには、ずっと、言えなかった」

 

 忉利は、何も言わなかった。

 

 中学の卒業式の日。青子が、突然、坂の上の幽霊屋敷に引っ越すと言った日。理由を訊いても、「お嬢様の家で下宿するの、格好いいでしょ」と笑って、それきりだった。

 

 あれが、三年間、続いていたのだ。

 

「……そうかよ」

 

 忉利は、それだけ言った。

 

 それから、自分の客間の扉を開けた。

 

 その日の午後、忉利は、青子に付き添われて、Cafe HIKAGEに戻った。

 

 着替えと、身の回りの物を取りに行くため。そして――家族に、言い訳をするために。

 

「住み込み?」

 

 晴華が、素っ頓狂な声を上げた。

 

「お兄ちゃんが? 青子ちゃんの下宿に?」

 

「……屋敷の修繕を手伝ってもらうことになったの。年末までに片付けなきゃいけないことが山ほどあって、男手が要るのよ」

 

 青子は、カウンターのいつもの席で、まっすぐに前を向いたまま言った。

 

 語尾は、切らなかった。

 

 何度も練習したのだろう、と忉利は思った。

 

「で、その目は?」

 

 晴華が、忉利の包帯を指さした。

 

「……転んだ」

 

「どこで?」

 

「屋敷の階段」

 

「嘘だあ」

 

「嘘じゃねえよ」

 

「お兄ちゃん、嘘つく時、ぜったい『じゃねえよ』って言うもん」

 

 忉利は、言葉に詰まった。

 

 晴華は、兄と青子の顔を交互に見比べて、ぷうっと頬を膨らませた。

 

「……ずるい」

 

「は?」

 

「ずるいずるいずるい! お兄ちゃんだけ青子ちゃんと一緒に住むなんて、ずるい! わたしも行く!」

 

「お前は学校あるだろ」

 

「お兄ちゃんだってあるじゃん!」

 

「……晴華」

 

 カウンターの内側から、父の声がした。

 

 晴華は、ぴたりと口をつぐんだ。

 

 父は、ネルを置いて、しばらく忉利の包帯を見ていた。

 

 何も言わない。何も訊かない。

 

 ただ、その目が、包帯の下の何かを、じっと見透かそうとしているように見えた。

 

 それから、視線を、青子に移した。

 

「青子ちゃん」

 

「……はい」

 

 青子の背筋が、伸びた。

 

 父は、しばらく青子の顔を見つめていた。

 

 青子は、目を逸らさなかった。

 

「こいつを、頼む」

 

 それだけだった。

 

 青子は、一瞬、唇を震わせた。

 

 それから、カウンターに額がつきそうなほど、深く頭を下げた。

 

「――はい」

 

 父は、黙って頷くと、棚の奥から、茶色い紙袋を一つ取り出した。

 

「持ってけ。豆だ」

 

「……親父。あの屋敷、珈琲禁止らしいぞ」

 

「知らん。飲みたい時に飲め」

 

 忉利は、紙袋を受け取った。

 

 ずしりと重い。いつものブレンドの、焙煎したての香りが、袋の口から漏れ出してくる。

 

 それから、父は、もう一つ、棚の奥から取り出した。

 

 使い込まれた、古いネル。父のものより、少し小さい。忉利が中学の頃、初めて自分用にと父から渡された、あのネル。

 

「これも、持ってけ」

 

「…………」

 

「ミルは、そこの古いのを使え。壊れても構わん」

 

 忉利は、ネルと、ミルを、受け取った。

 

「……ありがとう、おじさん」

 

 青子が、小さな声で言った。

 

 父は、もう、次の豆を挽き始めていた。

 

 その夜、久遠寺邸の台所には、四人が集まっていた。

 

 正確には、一人と三人と一羽だった。

 

 コンロの前に立っているのは、忉利だった。右目に包帯を巻いたまま、左目だけで、フライパンの中身を睨んでいる。

 

 鉄のフライパンの上で、茹でたスパゲティとケチャップが、じゅうじゅうと音を立てていた。玉ねぎ。ピーマン。薄切りのウィンナー。最後に、バターをひとかけ。

 

「……なに、それ」

 

 台所の入り口で、有珠が、明らかに不審なものを見る目で言った。

 

「ナポリタン」

 

「ナポリ……?」

 

「喫茶店の飯だよ。知らねえのか」

 

「知らないわ」

 

「屋敷の台所に、パスタとケチャップしかなかったんだよ。冷蔵庫、ほとんど空じゃねえか。お前ら、普段何食ってんだ」

 

 有珠と青子は、同時に目を逸らした。

 

「……有珠は、紅茶と、お菓子だけで生きてるのよ」

 

「わたしは、それで足りているわ」

 

「足りてねえだろ。だから、そんなに白いんだよ」

 

「…………」

 

 テーブルの端では、草十郎が、ちゃぶ台の前の子供のように、行儀よく座って待っていた。その肩の上に、なぜかロビンがとまっている。

 

「シャバ憎、今日はちゃんと傘返してきたッスよ。おいら、ずっと後ろから見張ってたッス。まっどべあの小娘に『その腕どうしたの』って睨まれて、『転んだ』って答えてたッス」

 

「……お前もかよ」

 

「日景も、転んだのか」

 

「転んだことになってんだよ、お互いにな」

 

 忉利は、皿に四人分のナポリタンを盛りつけた。

 

 湯気の立つ、赤く艶やかな麺。上に、粉チーズをたっぷりと。

 

 テーブルに並べる。

 

 青子は、懐かしそうに目を細めた。

 

「……これ、昔よく作ってくれたやつね。中学の頃」

 

「親父の店の、まかないだからな」

 

「いただきます」

 

 草十郎が、律儀に手を合わせて、真っ先にフォークを取った。

 

 一口。

 

 それから、動きが止まった。

 

「……うまい」

 

 呟いて、二口、三口と、黙々と食べ始める。

 

 青子も、嬉しそうにフォークを動かした。

 

 有珠だけが、皿の前に座ったまま、じっと赤い麺を見つめていた。

 

「……有珠。冷めるぞ」

 

 忉利が言った。

 

 有珠は、ちらりと忉利を見た。

 

 それから、フォークを取り、ほんのひと巻きだけ、麺を口に運んだ。

 

 咀嚼する。

 

 表情は、変わらない。

 

 何も言わない。

 

 ただ、もう一度、フォークを皿に伸ばした。

 

 それから、もう一度。

 

 もう一度。

 

 気がつけば、有珠の皿は、四人の中で一番最初に空になっていた。

 

「…………」

 

 有珠は、空になった皿を見下ろして、ほんのわずかに眉を寄せた。

 

 青子が、口元を押さえて、肩を震わせている。

 

「……なに」

 

「べ、別に。なんでもないわよ」

 

「おかわり、あるぞ」

 

 忉利が、しれっとフライパンを持ち上げた。

 

 有珠は、しばらく無言でフライパンを睨んでいた。

 

 それから、何も言わずに、空の皿を、すっと忉利の方に押しやった。

 

 夜。

 

 二階の、東向きの露台に、青子は一人で立っていた。

 

 石の手すりに肘をついて、眼下の三咲の町を見下ろしている。商店街の灯り。駅前のビル。遠くの鉄塔の赤い点滅。

 

 背後で、硝子戸が開いた。

 

「……こんなとこで、何してんだよ」

 

 忉利だった。

 

 包帯の上から、父の濃紺のマフラーを巻いている。

 

「見張りよ。……ここから、町が全部、見えるから」

 

 青子は、振り返らなかった。

 

 忉利は、その隣に並んだ。

 

 肩が触れるか触れないか。いつもの距離で。

 

 しばらく、どちらも、口を開かなかった。

 

「……忉利」

 

「ん」

 

「約束、してほしいことがあるの」

 

「なんだよ」

 

「その目。……使わないで」

 

 青子は、町を見下ろしたまま、言った。

 

「使わなきゃいけない時以外は、絶対に。……線が見えても、切りたくなっても、見ないふりをして」

 

 忉利は、答えなかった。

 

「あんたの目は、魔術じゃない。回路がない。だから、負荷を受け止めるものが、何もないの。あんたは、脳で、神経で、直接、受けてる」

 

 青子の声が、少しだけ、低くなった。

 

「昨日の夜、五回。……あんたの右目の血管、全部、切れてた。あれ、あと二、三回やったら、たぶん、目が潰れるだけじゃ済まないわ」

 

「…………」

 

「使わないで。……お願い」

 

 二日前の夜、裏通りで聞いたのと、同じ言葉だった。

 

 ――早く、帰りなさい。お願い。

 

 あの時、忉利は、その頼みを聞かなかった。

 

「……使わなきゃいけない時は、使うぞ」

 

 忉利は、言った。

 

「それ以外は、使わねえ。……それでいいか」

 

 青子は、しばらく黙っていた。

 

 それから、小さく、息を吐いた。

 

「……それで、いいわ」

 

「ああ」

 

「使わなきゃいけない時、ってのが、来ないことを、祈るけど」

 

 青子は、ようやく、忉利の方を向いた。

 

「……もう一つ」

 

「まだあんのかよ」

 

「薬のこと」

 

 忉利の肩が、少しだけ、強張った。

 

「ひと月後に、あんたは、全部忘れる。……この四日間のこと、全部」

 

「…………」

 

「私が、魔術師だってことも。有珠のことも。……あんたの目のことも」

 

 青子は、忉利の包帯を見た。

 

「忘れたら、たぶん、あんたの目は、元に戻るわ。乱視だと思ってた、あの頃に。……線は見えても、切ろうとは思わなくなる。切れるってことを、知らなくなるから」

 

「……そうかよ」

 

「その方が、いいのよ。あんたにとっては」

 

 青子は、また、町の方を向いた。

 

「私が、勝手に、あんたを巻き込んだんだから。……元に戻すのが、筋でしょ」

 

 忉利は、何も言わなかった。

 

 しばらく、町の灯りを見ていた。

 

 それから、ぼそりと言った。

 

「……忘れるのは、おれの勝手だろ」

 

「え?」

 

「飲むかどうかは、おれが決める。……お前が決めることじゃねえ」

 

 青子は、目を見開いた。

 

「……何言ってるのよ。決まりなの。飲まなかったら、有珠が――」

 

「有珠は、あの時、見逃した。夜明けまで生き延びたら、静希を見逃すって言った。……おれのことも、お前が止めた」

 

 忉利は、手すりに肘をついた。

 

「決まりだ決まりだって言う割に、お前ら、けっこう、決まり破ってんじゃねえか」

 

「――っ」

 

 青子は、口を開けて、閉じた。

 

 それから、手すりの上で、拳を握った。

 

「……ばか」

 

「知ってる」

 

「ほんとに、ばか。……あんた、何もわかってない」

 

「わかってねえよ。だから、知りたくもねえって、言っただろ」

 

 忉利は、町を見下ろしたまま言った。

 

「お前が青子で、おれが隣にいる。……それだけ、わかってりゃ、いい」

 

 青子は、何も言えなかった。

 

 冬の夜風が、二人の間を吹き抜けていった。

 

 深夜。

 

 屋敷の居間で、青子と有珠は、暖炉を挟んで向かい合っていた。

 

 テーブルの上に、三咲町の古い地図が広げられている。その上に、赤いインクで、いくつもの印がつけられていた。

 

 この一ヶ月の間に、何者かに削り取られた、結界の網目の位置だ。

 

「今夜も、削られたわ」

 

 有珠が、地図の一点を、白い指で押さえた。

 

「西の古い神社。……蒼崎の礎の、すぐ隣よ」

 

 青子は、眉をひそめた。

 

「……礎の場所なんて、外の人間が知ってるはずないわよ。蒼崎の家の者しか――」

 

「ええ」

 

 有珠は、赤い印を、一つ一つ指でなぞっていった。

 

「最初は、町の外れから。次は、少し内側へ。その次は、もっと内側へ。まるで、この網の目の急所がどこにあるか、最初から知っているみたいに」

 

「……偶然でしょ」

 

「そうかもしれないわね」

 

 有珠は、それ以上は言わなかった。

 

「それと、あの遊園地の人形たち」

 

「……ええ」

 

「あそこは、蒼崎の網の外よ。穴を塞ぎに行ったわけでもない。それなのに、あの人形たちは、あなたが来るのを待っていた。……あなたの顔をした人形まで」

 

 有珠は、暖炉の火を見つめた。

 

「あなたの動きを、見ている誰かがいるわ。……あなたの癖を、写し取れるほど、近くで」

 

 青子は、答えなかった。

 

 地図の上の赤い印を、黙って見下ろしていた。

 

 外から来た、腕の立つ魔術師。それは、わかる。

 

 けれど、なぜ。どうやって。蒼崎の網の、誰も知らないはずの結び目を、こんなにも正確に。

 

 自分の癖まで、あんなに正確に。

 

 答えは、出なかった。

 

 いや。

 

 出ていた。一つだけ。

 

 青子は、その答えから、目を逸らした。

 

 出ないまま、暖炉の薪が、崩れた。

 

 ―――同じ頃。

 

 二階の客間で、日景忉利は、窓辺に立っていた。

 

 右目の包帯を、少しだけずらしている。

 

 真っ赤に充血した右目で、窓の外の、眠る三咲の町を見下ろしていた。

 

 使わない、と約束した。

 

 使わなきゃいけない時以外は。

 

 けれど、見るだけなら。

 

 見えていた。

 

 町の上空に、細い黒い線が、無数に走っている。遊園地で見たものとは違う。もっと細く、もっと冷たく、もっと整然とした線。

 

 まるで、誰かが定規で引いたように。

 

 その線が、町の西の方角へと、静かに、確実に、何かを手繰り寄せるように集まっていく。

 

「……なんだよ、あれ」

 

 右目が、ずきりと痛んだ。

 

 忉利は、包帯を元に戻した。

 

 窓の外で、冬の月が、何も知らない顔をして、冷たく町を照らしていた。

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