目を覚ますと、知らない天井があった。
高い。やけに高い。煤けた木の板ではなく、白い漆喰に、蔓草の模様を浮き彫りにした飾り縁が巡らされている。その真ん中から、埃をかぶった硝子の照明が、しんと垂れ下がっていた。
線は、見えなかった。
いや、左目の端に、かすかに一本。けれど、それは今朝の――昨日の朝の天井に見たものより、ずっと薄く、ずっと遠かった。
右目は、何も映していなかった。
手を伸ばすと、分厚い布の感触があった。包帯だ。右目を覆うように、頭に何重にも巻きつけられている。
「……どこだ、ここ」
かすれた声が、広い部屋に吸い込まれる。
身体を起こそうとして、忉利は顔をしかめた。頭の芯が、まだ鈍く痛む。全身が、泥のように重い。
寝かされていたのは、古めかしい天蓋付きの寝台だった。カーテンの隙間から、白っぽい冬の陽射しが差し込んでいる。壁には色の褪せた風景画。暖炉には、小さな火が入っていた。
その暖炉の上の、置き時計の脇に。
青い駒鳥が一羽、とまっていた。
「お」
駒鳥が、首を傾げた。
「シャバ憎二号が起きたッス」
「…………」
忉利は、しばらく駒鳥を見つめた。
それから、左目を手の甲でこすった。
もう一度見る。
駒鳥は、まだそこにいた。
「……鳥が喋った」
「失礼ッスね。おいらはロビンッス。この屋敷の、由緒正しき見張り番ッスよ」
駒鳥は、胸の羽毛をふくらませて、得意げに言った。
「マイ天使から、アンタが起きたら知らせろって言われてるッス。……いやー、それにしても、よく寝てたッスねえ。もう昼過ぎッスよ」
「昼……」
「そうッス。ちなみに、アンタが寝てる間、あっちの姉御がずーっと枕元に座ってたッスよ。明け方から昼前まで、ずーっと。ついさっき、椅子の上で寝落ちして、マイ天使に部屋に放り込まれたッスけど」
忉利は、寝台の脇に目をやった。
背もたれの高い椅子が一脚、寝台に寄せて置かれている。その座面に、見覚えのある焦げたコートが、くしゃくしゃのまま掛けられていた。
「……あいつ」
「あ、今の、姉御には内緒ッスよ。おいらが喋ったってバレたら、焼き鳥にされるッス」
駒鳥は、ばさりと翼を広げた。
「じゃ、マイ天使に報告してくるッス!」
開いていた窓の隙間から、青い影がするりと飛び出していく。
忉利は、ぼんやりとそれを見送った。
鳥が喋る。
遊園地のコーヒーカップが化け物になる。
幼馴染が、手から光を出す。
「……もう、何でもありかよ」
呟いて、忉利は、寝台の上に仰向けに倒れ込んだ。
扉が、叩かれた。
二度。硬く、短く。
「――入るわよ」
返事を待たずに、扉が開いた。
入ってきたのは、青子ではなかった。
黒い服を着た、小柄な少女だった。
長い髪が、背中まで流れている。肌は、冬の陽射しの中で透けそうなほど白い。手には、銀の盆。その上に、白磁のティーポットと、揃いのカップが一客。
少女は、音もなく寝台の脇まで歩いてくると、テーブルに盆を置いた。
靴を、履いたままだった。
黒い、踵の低い靴。絨毯の上を、そのまま歩いてきた。
そして、忉利を見下ろした。
感情の読めない、静かな目だった。
「……あんたが、青子の同居人か」
「久遠寺有珠よ」
短い名乗りだった。
忉利は、数えるほどしか会ったことのない、この洋館の家主の顔を、左目だけで見上げた。
噂では、礼園女学院に通うどこかのお嬢様。青子を「同居人がうるさい」とぼやかせる、紅茶にうるさい女。
そして。
「遊園地の、あれ。……あんたも、いたのか」
有珠は、答えなかった。
ティーポットを手に取り、カップに紅茶を注ぐ。琥珀色の液体が、白い磁器の中でゆらりと揺れた。
「飲みなさい。身体が温まるわ」
差し出されたカップを、忉利は受け取らなかった。
「質問に答えろよ、お嬢様」
有珠の手が、ぴたりと止まった。
「……その呼び方は、やめて」
「じゃあ、答えろ」
有珠は、しばらく黙って忉利を見ていた。
それから、カップをテーブルに戻し、寝台の脇の椅子――青子のコートが掛けられたそれとは別の、窓際の一脚に、静かに腰を下ろした。
「いたわ」
平坦な声だった。
「あの遊園地を目覚めさせたのは、わたしよ。フラットスナーク。わたしが母から受け継いだ、使い魔の一つ」
忉利の左目が、わずかに見開かれた。
「……じゃあ、あのバケモノ連中は」
「わたしの子たちよ」
「静希を殺そうとしたのは」
「わたしよ」
即答だった。
何のためらいも、言い訳もない。まるで、今日の天気を答えるかのように。
忉利は、布団を握りしめた。
「……青子も、死にかけたんだぞ」
「青子は、死なないわ。あの程度では」
「おれも、死にかけた」
「ええ」
有珠は、窓の外に目をやった。
「そして、あなたが、わたしの子を殺したわ。初代の魔女の頃から、何百年も受け継がれてきた子を。……もう二度と、作ることはできないのに」
静かな声だった。
けれど、その膝の上で、白い指がかすかに握り込まれているのを、忉利は見た。
「…………」
忉利は、何か言い返そうとして、口をつぐんだ。
目の前の少女が何を失ったのか、忉利にはわからない。わからないが、少なくとも、それが彼女にとって軽いものではないことだけは、わかった。
「……おあいこってことかよ」
「そんな簡単な話ではないわ」
有珠は、ゆっくりと忉利に向き直った。
「あなたがここにいる理由を、話しておくわね」
有珠の説明は、短かった。
この世界には、表に出てはならない決まりがある。魔術を見た者は、忘れさせなければならない。それができなければ、消さなければならない。
静希草十郎は、夜明けまで生き延びた。だから、命は取らない。約束だからだ。
けれど、見てしまったものは、忘れてもらう。
そして、日景忉利。
「あなたには、何の約束もしていないわ」
有珠は、淡々と言った。
「本当なら、昨日の夜明けに、あの遊園地で終わらせるつもりだった。……青子が、止めなければ」
「……あいつが」
「わたしと、本気でやり合うつもりだったわ。回路は焼けついて、指一本光らせることもできない身体で」
忉利は、椅子に掛けられた焦げたコートを見た。
「記憶を消す術は、たぶん、あなたには効かない。その目が、術そのものを切ってしまうかもしれないから。だから、薬を作るわ。飲めば、この数日のことを、すべて忘れる薬。……でも、それができるまで、ひと月はかかる」
「その間、ここにいろってことか」
「そうよ。静希草十郎も一緒に。わたしの目の届くところに」
有珠は、忉利の包帯を見つめた。
「目を離した隙に、何を切られるかわからないもの」
忉利は、しばらく黙っていた。
記憶を消される。
この数日のことを、全部。
青子が手から光を出していたことも。夜の遊園地も。月も。それから――池のほとりで、泣きそうな顔をしていた、あいつのことも。
「……それ、青子も賛成してんのか」
「反対しているわ」
「そうかよ」
「でも、決まりは決まりよ。青子も、それはわかっているわ」
有珠は立ち上がり、テーブルの上のカップを、もう一度忉利に差し出した。
「冷めるわ」
今度は、忉利も受け取った。
両手で包む。温かい。立ちのぼる香りを、鼻から深く吸い込む。
一口、含む。
「……うまい」
有珠の目が、ほんのわずかに、満足げに細められた。
けれど、忉利は、カップの中の琥珀色をじっと見つめたまま、続けた。
「けど、蒸らし、十秒長え」
空気が、凍った。
「…………なんですって」
「茶葉、ちょっと開きすぎてる。渋みが、舌の奥に残るだろ。この葉っぱなら、あと十秒早く上げた方がいい」
有珠は、無言で忉利を見下ろしていた。
表情は、変わらない。
変わらないが、部屋の温度が、確実に何度か下がった気がした。
「……わたしの淹れた紅茶に、文句をつけるの」
「文句じゃねえよ。事実だ。うちは喫茶店なんだよ」
「知っているわ。珈琲の家でしょう」
有珠の声が、一段と冷たくなった。
「青子に、あの泥のような黒い飲み物を覚えさせた家」
「泥とか言うな。親父の豆は、この町で一番だぞ」
「紅茶の蒸らしに口を出すなら、この屋敷の敷居は二度とまたがせないわ」
「もうまたいでんだよ。お前が連れてきたんだろ」
有珠と忉利は、しばらく無言で睨み合った。
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜる。
そのとき、廊下の奥から、ばたばたと慌ただしい足音が近づいてきた。
扉が、勢いよく開いた。
「忉利!」
飛び込んできたのは、青子だった。
髪はぼさぼさで、着ているのは寝間着の上に羽織った大きなカーディガン。頬に、枕の跡がくっきりとついている。
「目、覚めたの!? 大丈夫なの!? どこか痛くない!? 見える!? ちゃんと喋れる!?」
「……うるせえ。全部聞こえてるって」
寝台に駆け寄った青子は、忉利の顔を両手で挟み込むようにして、包帯の上からそっと右目のあたりに触れた。
「痛い?」
「……ちょっとな」
「ちょっとって、どれくらいよ」
「ちょっとは、ちょっとだろ」
「あんたの『ちょっと』は信用できないのよ! 小四の時、自転車で転んで腕の骨にひび入れた時も『ちょっと』って言ってたじゃない!」
「……そんな昔の話、よく覚えてんな」
「覚えてるわよ! あんたのことなんて――」
言いかけて、青子ははっと口をつぐんだ。
両手で忉利の頬を挟んだまま、固まる。
近い。
息がかかるほど、近い。
忉利の左目と、青子の目が、至近距離でぶつかった。
青子の顔が、見る見るうちに、耳の先まで真っ赤に染まっていった。
「…………っ」
ばっと手を離す。
一歩、二歩、後ずさる。
「い、今のは、その、容態の確認よ! 医学的な!」
「……お前、医学とか知らねえだろ」
「うるさいわね!」
窓際の椅子で、有珠が、何の感情もない目でその光景を眺めていた。
「青子」
「な、なによ!」
「寝癖がついているわ」
「――っ!!」
青子は、両手で頭を押さえて、その場にしゃがみ込んだ。
忉利は、紅茶のカップを持ったまま、長い溜息をついた。
それから、ふと、窓の外に目をやった。
寝室の窓から、屋敷の裏庭が見下ろせた。冬枯れの芝生。手入れの行き届いていない、伸び放題の生け垣。蔓の絡まった古い東屋。
その真ん中で、誰かが、しゃがみ込んで土をいじっていた。
左腕を包帯で吊ったまま、右手一本で、枯れた薔薇の枝を一本一本、丁寧に剪定している。
「……静希?」
「あいつ、朝からずっとああなのよ」
青子が、しゃがみ込んだまま、ぼそりと言った。
「屋敷に着いて、庭を見た途端に『手入れをしてもいいか』って。有珠が返事する前に、もう鋏を探し始めてたわ」
「わたしは、許可していないわ」
有珠が、窓の外を見ながら言った。
「……していないけれど」
その視線の先で、草十郎が、剪定した枝を丁寧に束ねていく。冬の陽射しの中で、その手つきは、驚くほど優しかった。
有珠は、それ以上何も言わなかった。
ただ、じっと、その背中を見つめていた。
起き上がれるようになってから、忉利は、屋敷の中を、青子に案内された。
玄関ホールは、吹き抜けだった。大理石の階段が、二階へ向かって弧を描いている。壁には古い肖像画。天井には、蜘蛛の巣のかかった大きな燭台。
「まず、この屋敷の決まりね」
青子は、階段の手すりに手をかけて、指を折った。
「一つ。屋敷の中は、土足。玄関で靴を脱いだら、有珠に睨まれるわよ。イギリスの家だから」
「……日本の屋敷で、土足かよ」
「有珠のお母さんが、イギリスから、屋敷ごと持ってきたのよ。だから、この屋敷の中だけは、イギリスなの」
忉利は、絨毯の上の、自分の靴を見下ろした。
寝台から起きて、靴を履いたまま廊下に出た時、ひどく落ち着かなかったのは、そのせいだった。
「二つ。番茶と、梅昆布茶は、禁止」
「……なんで」
「有珠が嫌いだから。あと、昆布の匂いが、屋敷に染みつくからですって」
「お前、梅昆布茶、好きだったろ」
「大好きよ! でも、三年間、一回も飲んでないわ!」
青子は、心底悔しそうに言った。
「三つ。珈琲も、禁止」
「…………」
「四つ。紅茶の蒸らし時間に、口を出さない」
「もう出したぞ」
「知ってるわよ。有珠、さっきから、廊下ですれ違うたびに、あんたの方を見ないもの」
青子は、階段を上りながら、続けた。
「あとは、まあ、普通よ。有珠の部屋と、有珠の書庫には、勝手に入らないこと。……それくらい」
二階の廊下の突き当たりに、青子の部屋があった。
その隣が、忉利の客間。その向かいが、草十郎の客間。
青子は、自分の部屋の扉に、手をかけて、止まった。
「……なんで、私が、ここに住んでるか。訊かないの」
「訊いたら、答えんのか」
「……今なら、答えるわ」
青子は、扉の前で、忉利の方を向いた。
「この屋敷が、三咲の網の、真ん中だから」
低い声だった。
「町の五つの礎から汲み上げた力が、全部、ここに集まってくるの。ここを守るのが、久遠寺の仕事で、その網を守るのが、蒼崎の仕事。……だから、私は、ここに住んでる」
「…………」
「実家を出たのは、高一の春。お祖父ちゃんに、跡を継げって言われた、すぐ後。……普通の女の子でいられたのは、中学までよ」
青子は、扉の取っ手を、握りしめた。
「あんたには、ずっと、言えなかった」
忉利は、何も言わなかった。
中学の卒業式の日。青子が、突然、坂の上の幽霊屋敷に引っ越すと言った日。理由を訊いても、「お嬢様の家で下宿するの、格好いいでしょ」と笑って、それきりだった。
あれが、三年間、続いていたのだ。
「……そうかよ」
忉利は、それだけ言った。
それから、自分の客間の扉を開けた。
その日の午後、忉利は、青子に付き添われて、Cafe HIKAGEに戻った。
着替えと、身の回りの物を取りに行くため。そして――家族に、言い訳をするために。
「住み込み?」
晴華が、素っ頓狂な声を上げた。
「お兄ちゃんが? 青子ちゃんの下宿に?」
「……屋敷の修繕を手伝ってもらうことになったの。年末までに片付けなきゃいけないことが山ほどあって、男手が要るのよ」
青子は、カウンターのいつもの席で、まっすぐに前を向いたまま言った。
語尾は、切らなかった。
何度も練習したのだろう、と忉利は思った。
「で、その目は?」
晴華が、忉利の包帯を指さした。
「……転んだ」
「どこで?」
「屋敷の階段」
「嘘だあ」
「嘘じゃねえよ」
「お兄ちゃん、嘘つく時、ぜったい『じゃねえよ』って言うもん」
忉利は、言葉に詰まった。
晴華は、兄と青子の顔を交互に見比べて、ぷうっと頬を膨らませた。
「……ずるい」
「は?」
「ずるいずるいずるい! お兄ちゃんだけ青子ちゃんと一緒に住むなんて、ずるい! わたしも行く!」
「お前は学校あるだろ」
「お兄ちゃんだってあるじゃん!」
「……晴華」
カウンターの内側から、父の声がした。
晴華は、ぴたりと口をつぐんだ。
父は、ネルを置いて、しばらく忉利の包帯を見ていた。
何も言わない。何も訊かない。
ただ、その目が、包帯の下の何かを、じっと見透かそうとしているように見えた。
それから、視線を、青子に移した。
「青子ちゃん」
「……はい」
青子の背筋が、伸びた。
父は、しばらく青子の顔を見つめていた。
青子は、目を逸らさなかった。
「こいつを、頼む」
それだけだった。
青子は、一瞬、唇を震わせた。
それから、カウンターに額がつきそうなほど、深く頭を下げた。
「――はい」
父は、黙って頷くと、棚の奥から、茶色い紙袋を一つ取り出した。
「持ってけ。豆だ」
「……親父。あの屋敷、珈琲禁止らしいぞ」
「知らん。飲みたい時に飲め」
忉利は、紙袋を受け取った。
ずしりと重い。いつものブレンドの、焙煎したての香りが、袋の口から漏れ出してくる。
それから、父は、もう一つ、棚の奥から取り出した。
使い込まれた、古いネル。父のものより、少し小さい。忉利が中学の頃、初めて自分用にと父から渡された、あのネル。
「これも、持ってけ」
「…………」
「ミルは、そこの古いのを使え。壊れても構わん」
忉利は、ネルと、ミルを、受け取った。
「……ありがとう、おじさん」
青子が、小さな声で言った。
父は、もう、次の豆を挽き始めていた。
その夜、久遠寺邸の台所には、四人が集まっていた。
正確には、一人と三人と一羽だった。
コンロの前に立っているのは、忉利だった。右目に包帯を巻いたまま、左目だけで、フライパンの中身を睨んでいる。
鉄のフライパンの上で、茹でたスパゲティとケチャップが、じゅうじゅうと音を立てていた。玉ねぎ。ピーマン。薄切りのウィンナー。最後に、バターをひとかけ。
「……なに、それ」
台所の入り口で、有珠が、明らかに不審なものを見る目で言った。
「ナポリタン」
「ナポリ……?」
「喫茶店の飯だよ。知らねえのか」
「知らないわ」
「屋敷の台所に、パスタとケチャップしかなかったんだよ。冷蔵庫、ほとんど空じゃねえか。お前ら、普段何食ってんだ」
有珠と青子は、同時に目を逸らした。
「……有珠は、紅茶と、お菓子だけで生きてるのよ」
「わたしは、それで足りているわ」
「足りてねえだろ。だから、そんなに白いんだよ」
「…………」
テーブルの端では、草十郎が、ちゃぶ台の前の子供のように、行儀よく座って待っていた。その肩の上に、なぜかロビンがとまっている。
「シャバ憎、今日はちゃんと傘返してきたッスよ。おいら、ずっと後ろから見張ってたッス。まっどべあの小娘に『その腕どうしたの』って睨まれて、『転んだ』って答えてたッス」
「……お前もかよ」
「日景も、転んだのか」
「転んだことになってんだよ、お互いにな」
忉利は、皿に四人分のナポリタンを盛りつけた。
湯気の立つ、赤く艶やかな麺。上に、粉チーズをたっぷりと。
テーブルに並べる。
青子は、懐かしそうに目を細めた。
「……これ、昔よく作ってくれたやつね。中学の頃」
「親父の店の、まかないだからな」
「いただきます」
草十郎が、律儀に手を合わせて、真っ先にフォークを取った。
一口。
それから、動きが止まった。
「……うまい」
呟いて、二口、三口と、黙々と食べ始める。
青子も、嬉しそうにフォークを動かした。
有珠だけが、皿の前に座ったまま、じっと赤い麺を見つめていた。
「……有珠。冷めるぞ」
忉利が言った。
有珠は、ちらりと忉利を見た。
それから、フォークを取り、ほんのひと巻きだけ、麺を口に運んだ。
咀嚼する。
表情は、変わらない。
何も言わない。
ただ、もう一度、フォークを皿に伸ばした。
それから、もう一度。
もう一度。
気がつけば、有珠の皿は、四人の中で一番最初に空になっていた。
「…………」
有珠は、空になった皿を見下ろして、ほんのわずかに眉を寄せた。
青子が、口元を押さえて、肩を震わせている。
「……なに」
「べ、別に。なんでもないわよ」
「おかわり、あるぞ」
忉利が、しれっとフライパンを持ち上げた。
有珠は、しばらく無言でフライパンを睨んでいた。
それから、何も言わずに、空の皿を、すっと忉利の方に押しやった。
夜。
二階の、東向きの露台に、青子は一人で立っていた。
石の手すりに肘をついて、眼下の三咲の町を見下ろしている。商店街の灯り。駅前のビル。遠くの鉄塔の赤い点滅。
背後で、硝子戸が開いた。
「……こんなとこで、何してんだよ」
忉利だった。
包帯の上から、父の濃紺のマフラーを巻いている。
「見張りよ。……ここから、町が全部、見えるから」
青子は、振り返らなかった。
忉利は、その隣に並んだ。
肩が触れるか触れないか。いつもの距離で。
しばらく、どちらも、口を開かなかった。
「……忉利」
「ん」
「約束、してほしいことがあるの」
「なんだよ」
「その目。……使わないで」
青子は、町を見下ろしたまま、言った。
「使わなきゃいけない時以外は、絶対に。……線が見えても、切りたくなっても、見ないふりをして」
忉利は、答えなかった。
「あんたの目は、魔術じゃない。回路がない。だから、負荷を受け止めるものが、何もないの。あんたは、脳で、神経で、直接、受けてる」
青子の声が、少しだけ、低くなった。
「昨日の夜、五回。……あんたの右目の血管、全部、切れてた。あれ、あと二、三回やったら、たぶん、目が潰れるだけじゃ済まないわ」
「…………」
「使わないで。……お願い」
二日前の夜、裏通りで聞いたのと、同じ言葉だった。
――早く、帰りなさい。お願い。
あの時、忉利は、その頼みを聞かなかった。
「……使わなきゃいけない時は、使うぞ」
忉利は、言った。
「それ以外は、使わねえ。……それでいいか」
青子は、しばらく黙っていた。
それから、小さく、息を吐いた。
「……それで、いいわ」
「ああ」
「使わなきゃいけない時、ってのが、来ないことを、祈るけど」
青子は、ようやく、忉利の方を向いた。
「……もう一つ」
「まだあんのかよ」
「薬のこと」
忉利の肩が、少しだけ、強張った。
「ひと月後に、あんたは、全部忘れる。……この四日間のこと、全部」
「…………」
「私が、魔術師だってことも。有珠のことも。……あんたの目のことも」
青子は、忉利の包帯を見た。
「忘れたら、たぶん、あんたの目は、元に戻るわ。乱視だと思ってた、あの頃に。……線は見えても、切ろうとは思わなくなる。切れるってことを、知らなくなるから」
「……そうかよ」
「その方が、いいのよ。あんたにとっては」
青子は、また、町の方を向いた。
「私が、勝手に、あんたを巻き込んだんだから。……元に戻すのが、筋でしょ」
忉利は、何も言わなかった。
しばらく、町の灯りを見ていた。
それから、ぼそりと言った。
「……忘れるのは、おれの勝手だろ」
「え?」
「飲むかどうかは、おれが決める。……お前が決めることじゃねえ」
青子は、目を見開いた。
「……何言ってるのよ。決まりなの。飲まなかったら、有珠が――」
「有珠は、あの時、見逃した。夜明けまで生き延びたら、静希を見逃すって言った。……おれのことも、お前が止めた」
忉利は、手すりに肘をついた。
「決まりだ決まりだって言う割に、お前ら、けっこう、決まり破ってんじゃねえか」
「――っ」
青子は、口を開けて、閉じた。
それから、手すりの上で、拳を握った。
「……ばか」
「知ってる」
「ほんとに、ばか。……あんた、何もわかってない」
「わかってねえよ。だから、知りたくもねえって、言っただろ」
忉利は、町を見下ろしたまま言った。
「お前が青子で、おれが隣にいる。……それだけ、わかってりゃ、いい」
青子は、何も言えなかった。
冬の夜風が、二人の間を吹き抜けていった。
深夜。
屋敷の居間で、青子と有珠は、暖炉を挟んで向かい合っていた。
テーブルの上に、三咲町の古い地図が広げられている。その上に、赤いインクで、いくつもの印がつけられていた。
この一ヶ月の間に、何者かに削り取られた、結界の網目の位置だ。
「今夜も、削られたわ」
有珠が、地図の一点を、白い指で押さえた。
「西の古い神社。……蒼崎の礎の、すぐ隣よ」
青子は、眉をひそめた。
「……礎の場所なんて、外の人間が知ってるはずないわよ。蒼崎の家の者しか――」
「ええ」
有珠は、赤い印を、一つ一つ指でなぞっていった。
「最初は、町の外れから。次は、少し内側へ。その次は、もっと内側へ。まるで、この網の目の急所がどこにあるか、最初から知っているみたいに」
「……偶然でしょ」
「そうかもしれないわね」
有珠は、それ以上は言わなかった。
「それと、あの遊園地の人形たち」
「……ええ」
「あそこは、蒼崎の網の外よ。穴を塞ぎに行ったわけでもない。それなのに、あの人形たちは、あなたが来るのを待っていた。……あなたの顔をした人形まで」
有珠は、暖炉の火を見つめた。
「あなたの動きを、見ている誰かがいるわ。……あなたの癖を、写し取れるほど、近くで」
青子は、答えなかった。
地図の上の赤い印を、黙って見下ろしていた。
外から来た、腕の立つ魔術師。それは、わかる。
けれど、なぜ。どうやって。蒼崎の網の、誰も知らないはずの結び目を、こんなにも正確に。
自分の癖まで、あんなに正確に。
答えは、出なかった。
いや。
出ていた。一つだけ。
青子は、その答えから、目を逸らした。
出ないまま、暖炉の薪が、崩れた。
―――同じ頃。
二階の客間で、日景忉利は、窓辺に立っていた。
右目の包帯を、少しだけずらしている。
真っ赤に充血した右目で、窓の外の、眠る三咲の町を見下ろしていた。
使わない、と約束した。
使わなきゃいけない時以外は。
けれど、見るだけなら。
見えていた。
町の上空に、細い黒い線が、無数に走っている。遊園地で見たものとは違う。もっと細く、もっと冷たく、もっと整然とした線。
まるで、誰かが定規で引いたように。
その線が、町の西の方角へと、静かに、確実に、何かを手繰り寄せるように集まっていく。
「……なんだよ、あれ」
右目が、ずきりと痛んだ。
忉利は、包帯を元に戻した。
窓の外で、冬の月が、何も知らない顔をして、冷たく町を照らしていた。