夜明けの色を見る眼   作:にんら

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珈琲禁止令

 日曜日の朝、五時半。

 

 久遠寺邸の台所は、まだ夜の底に沈んでいた。

 

 窓の外は真っ暗で、古い石造りの床から足の裏に刺さるような冷気が這い上がってくる。吐く息が、白い。

 

 その暗がりの中で、日景忉利は、息を殺して湯を沸かしていた。

 

 右目の包帯は昨夜のうちに、有珠が寄越した薄い布の眼帯に変わっていた。左目だけで、手元を睨む。

 

 コンロの上で、薬缶がしゅうしゅうと鳴り始める。その音がやけに大きく聞こえた。

 

 調理台の上には紙袋が一つ。父が持たせてくれた、いつものブレンド。

 

 それから、父のネルと古いミル。

 

 豆を手回しのミルで挽く。ごりごり、と。できるだけ静かに。

 

 香りが、立ちのぼった。

 

 深煎りの、焦げる寸前の、苦くて甘い匂い。

 

 たった二日嗅いでいないだけなのに、忉利は思わず目を閉じていた。

 

「……やっぱ、これだよな」

 

 ネルに粉を落とし、湯を細く注ぐ。

 

 粉が膨らむ。泡がゆっくりと沈んでいく。それを見届けてから、また細く――

 

「日景」

 

「――っ!?」

 

 忉利は危うく薬缶を取り落としそうになった。

 

 振り返ると、台所の入り口に草十郎が立っていた。

 

 寝間着代わりの浴衣の上に、屋敷の物置から出てきたらしい古い綿入れを羽織っている。左腕は、まだ包帯で吊ったままだ。

 

「……驚かすなよ。何時だと思ってんだ」

 

「五時半だ。山なら、もうとっくに起きている時間だよ」

 

「ここは山じゃねえ」

 

「そうだな」

 

 草十郎はすんすんと鼻を鳴らした。

 

「いい匂いがする」

 

「……珈琲」

 

「珈琲か。……蒼崎がこの屋敷では禁止だと言っていたやつだな」

 

「そうだよ。だから黙ってろ」

 

 草十郎は少しだけ考えて、頷いた。

 

「わかった、黙っておく。……ところで、俺も飲んでいいだろうか」

 

「……お前、飲んだことあんのか」

 

「ない」

 

 忉利はしばらく草十郎の顔を見ていた。

 

 それから無言で食器棚からもう一つカップを取り出した。

 

 薄暗い台所で、二人は立ったまま、湯気の立つカップを傾けていた。

 

 草十郎は一口含んで、眉を寄せた。

 

「……苦い」

 

「最初はそんなもんだ」

 

「炭を煮出したような味がするな」

 

「炭とか言うな。親父が聞いたら泣くぞ」

 

 草十郎はもう一口飲んだ。

 

 また眉を寄せた。

 

 それから三口目。

 

「……でも、後から甘いな」

 

「だろ」

 

「不思議だ。苦いのに、もう一口飲みたくなる」

 

 草十郎はカップの中の黒い液体を、しげしげと見つめた。

 

「町というのは、苦いものをわざわざ飲むところなんだな」

 

「そういうことにしとけ」

 

 忉利は自分のカップに口をつけた。

 

 苦くて、甘い。いつもの味。父の味にはまだ届かない、自分の味。

 

 窓の外がほんの少しだけ、群青色に白み始めていた。

 

「――珈琲の匂いがするわ」

 

 声は、背後から来た。

 

 静かな声だった。

 

 静かすぎて、背筋が凍った。

 

 忉利と草十郎はゆっくりと振り返った。

 

 台所の入り口に久遠寺有珠が立っていた。

 

 黒い寝間着の上に黒いガウン。長い髪は、一筋の乱れもない。手には燭台が一本。揺れる小さな炎が、その白い顔を下から冷たく照らし出していた。

 

 有珠は何も言わなかった。

 

 ただ、忉利の手元のカップを見て。

 

 草十郎の手元のカップを見て。

 

 調理台の上の、口の開いた紙袋を見た。

 

「…………」

 

「……おはよう、お嬢様」

 

「その呼び方はやめてと言ったわ」

 

 有珠は燭台を持ったまま、一歩、台所に踏み込んだ。

 

「この屋敷で、その泥を煮出すことは禁じられているわ。青子から聞いていなかったの」

 

「聞いてた」

 

「なら」

 

「でも、おれは紅茶じゃ目が覚めねえんだよ。朝の一杯だけだ。台所の窓開けて、匂いは外に逃がしてる。お前が起きてくる前に片付けるつもりだった」

 

「起きてきたわ」

 

「……早起きなんだな、お嬢様」

 

「わたしは、この屋敷で起きることはすべてわかるの」

 

 有珠の視線が草十郎に移った。

 

「静希草十郎。あなたも飲んだのね」

 

「ああ。苦かった」

 

「なら、なぜ飲んだの」

 

「日景が飲むかと訊いてくれたからね」

 

 有珠はしばらく草十郎を見つめていた。

 

 それから、ほんのわずかに眉を寄せた。

 

「……あなたまで、この泥に染まるつもりなの」

 

「泥じゃないよ。後から甘いんだ」

 

「――――」

 

 有珠の手の中で燭台の炎が、一度、大きく揺れた。

 

 忉利は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 

 まずい。

 

 遊園地の化け物より、まずいかもしれない。

 

「……二人とも」

 

 有珠は燭台を調理台の上に、ことりと置いた。

 

「今日から三日間、わたしに話しかけないで」

 

 そう言い残して、有珠は音もなく台所を出ていった。

 

 廊下の奥へと遠ざかっていく足音が完全に消えるまで、二人は動けなかった。

 

「……日景」

 

「なんだよ」

 

「三日間、話しかけるなと言われてしまったな」

 

「聞こえてたよ」

 

「蒼崎が言っていたとおりだな」

 

 草十郎は残りの珈琲を、ゆっくりと飲み干した。

 

「……それでも、うまかった」

 

 忉利は額を押さえて、長い長い溜息をついた。

 

 

◇

 

 

 その話を聞いた青子は、朝食のテーブルで腹を抱えて笑った。

 

「あっははは! 三日!? 初日で!? あんたたち、屋敷に来て二日目で、もう三日間の口きかない刑!?」

 

「笑いごとじゃねえよ」

 

「笑いごとよ! 私だって、ここに住み始めてから、最初の刑を食らうまで一週間はかかったのに!」

 

「お前も食らってんじゃねえか」

 

「そりゃ食らうわよ! 有珠の前で珈琲の話したら、一発でアウトなんだから!」

 

 青子は目尻の涙を拭いながら、トーストを齧った。

 

 テーブルの端では、有珠が何事もなかったかのように紅茶を飲んでいた。

 

 忉利と草十郎の方は、一度も見ない。

 

 徹底している。

 

「……あいつ、ほんとに三日間、話しかけてこねえつもりなのか」

 

「本気よ。有珠は、そういうところだけは絶対に曲げないの」

 

 青子は紅茶のカップを傾けながら、ちらりと忉利を見た。

 

「……でも、珍しいわね」

 

「何が」

 

「有珠が、朝の台所まで下りてきたこと。あの子、普段は七時まで絶対に部屋から出てこないのに」

 

 忉利はテーブルの端の有珠を見た。

 

 有珠は窓の外の庭を見ていた。

 

 冬枯れの庭で、昨日草十郎が剪定した薔薇の枝が、朝日を浴びてきれいに揃っていた。

 

「――それより」

 

 青子はトーストを皿に置いて、忉利と草十郎の顔を順番に見た。

 

 その目が据わっていた。

 

「二人とも。今日は、日曜日よね」

 

「……ああ」

 

「期末試験、いつだか、わかってる?」

 

 忉利の手が止まった。

 

 草十郎は握り飯を齧りながら、首を傾げた。

 

「期末試験? それは何だろう」

 

「――――」

 

 青子は額に手を当てた。

 

「木曜からよ。四日後。……静希くん、あんた転校してきてから、一回も授業のノート取ってないでしょ」

 

「取っているよ。頭の中に」

 

「頭の中に!?」

 

「山だと、紙は貴重だったんだ」

 

「ここは山じゃないの!」

 

 青子はテーブルを、ばん、と叩いた。

 

「忉利。あんたも。……先月の中間、数学、何点だった」

 

「…………」

 

「言いなさい」

 

「……二十八」

 

「はい、決まり」

 

 青子は立ち上がった。

 

「今日一日、二人とも、書庫に缶詰。私が教える。逃げたら、有珠の三日間の刑よりひどいことになるから」

 

「……お前、生徒会長だからって」

 

「生徒会長として、二年C組の平均点を下げる二人を放っておけないのよ!」

 

 

◇

 

 

 久遠寺邸の書庫は屋敷の一階の奥にあった。

 

 天井まで届く本棚。革の背表紙。読めない言葉で書かれた背表紙が壁一面を埋めている。その真ん中に大きな樫の机が一つ。

 

 青子はその机の向こう側に、腕を組んで立っていた。

 

 まるで教壇の上の教師のように。

 

「――静希くん。二次関数の頂点の座標は」

 

「頂点というのは、山の一番高いところのことか?」

 

「違うわよ! ……いえ、違わないけど、違うの!」

 

 青子は頭を抱えた。

 

 忉利は机の端で、教科書に顔を伏せて、眠りかけていた。

 

「忉利! 寝るな!」

 

 教科書の角が額に飛んできた。

 

「……痛え」

 

「痛くしたのよ。ほら、この問題。私が三回説明したやつ」

 

 青子は忉利の隣に、椅子を引いて座った。

 

 肩が触れるか触れないかの距離で。

 

 ノートの上に鉛筆で、さらさらと式を書いていく。

 

「ここが、こうなって。だから、ここは、こう。……わかった?」

 

「……わかんねえ」

 

「なんでよ! 三回目よ!?」

 

「お前の説明、途中で飛ぶんだよ。ここが、こう、って何がどうなってんのか言えよ」

 

「言ってるじゃない!」

 

「言ってねえ。お前、自分がわかることは、人もわかると思ってんだろ」

 

 青子は口を開けて、閉じた。

 

 それから、少しだけ頬を膨らませた。

 

「……昔からそうよね、あんた」

 

「何が」

 

「私が一人で先に行くと、必ず後ろから文句言うの。小学校の遠足の時も、中学の合唱コンクールの時も」

 

「文句じゃねえよ。事実だ」

 

「はいはい」

 

 青子はノートにもう一度、式を書き始めた。

 

 今度は一行ずつ。ゆっくりと。

 

 途中で忉利がわからない顔をするたびに、鉛筆を止めて、待った。

 

 三十分後、忉利はようやく、その問題を自分で解いた。

 

「……できたじゃない」

 

「お前の説明がまともになったからな」

 

「うるさいわね」

 

 青子はそっぽを向いた。

 

 その耳の先が、少しだけ赤かった。

 

 机の向かいで、草十郎がじっと二人を見ていた。

 

「……蒼崎と日景は、昔からこうなのか」

 

「こう、ってなによ」

 

「喧嘩をしながら教え合うんだな」

 

 青子と忉利は同時に、草十郎を見た。

 

 それから同時に、目を逸らした。

 

「……静希くん。あんたはこっち。二次関数、最初からよ」

 

「ああ。頼む」

 

 書庫の高い窓から、冬の午後の光が斜めに差し込んでいた。

 

 

◇

 

 

 夕方、忉利は屋敷の二階の奥まった一室の前に立っていた。

 

 手には銀の盆。その上に白磁のティーポットと、カップが一客。

 

 扉を二度叩く。

 

 返事はない。

 

 当然だ。三日間話しかけるなと言われているのだから。

 

「……入るぞ」

 

 扉を開けた。

 

 そこは奇妙な部屋だった。

 

 壁一面の本棚に、革の背表紙の古い本がぎっしりと詰まっている。窓際の大きな作業机の上には、乳鉢と乳棒、硝子の小瓶、見たこともない乾いた草の束。天井からは名前もわからない何かの根っこが、いくつも吊り下げられていた。

 

 鼻をつく青臭い匂い。

 

 その作業机の前に有珠が座っていた。

 

 乳鉢の中で、何かの乾いた葉を、ゆっくりと擂り潰している。

 

 顔を上げない。

 

「……それ、例の薬か」

 

 返事はない。

 

 ごり、ごり、と乳棒の音だけが響く。

 

 忉利は作業机の空いている端に、盆を置いた。

 

「紅茶。……詫びだ」

 

 有珠の手がほんの一瞬だけ、止まった。

 

 けれど、顔は上げなかった。また、ごり、ごりと乳棒を動かし始める。

 

 忉利はポットからカップに紅茶を注いだ。

 

 屋敷の台所にあった、有珠が普段使っている茶葉。同じポット。同じ湯。

 

 ただし、蒸らしは、十秒短く。

 

 琥珀色の液体が白い磁器の中で揺れた。

 

「冷めるぞ」

 

 それだけ言って、忉利は部屋を出ようとした。

 

 扉に手をかけた時。

 

 背後で、かちゃり、と小さな音がした。

 

 カップを受け皿から持ち上げる音。

 

 忉利は振り返らなかった。

 

 長い沈黙があった。

 

 それから。

 

「……悪くないわ」

 

 囁くような声だった。

 

 三日間話しかけるなと言った本人が、自分から口を開いたことに、有珠自身も気づいたのだろう。すぐに、ごほんと小さく咳払いをした。

 

「今のは独り言よ」

 

「そうかよ」

 

「あなたに言ったのではないわ」

 

「わかってるって」

 

 忉利は扉に背中を預けて、振り返った。

 

 有珠はカップを両手で包んだまま、じっとその中身を見つめていた。

 

「……聞きてえことがあんだけど。独り言でいいから」

 

「…………」

 

「おれの目って、何なんだ」

 

 有珠は答えなかった。

 

 けれど、追い出しもしなかった。

 

 忉利はそれを返事だと受け取った。

 

「物心ついた頃から、線が見えてた。壁とか、地面とか、人とか。乱視だと思ってた。医者にもそう言われた。……でも、違うんだろ。遊園地であれを切った。見て、切れろって思っただけで」

 

 有珠は紅茶を一口飲んだ。

 

 それから、窓の外に目をやったまま、独り言のように言った。

 

「わからないわ」

 

「……わかんねえのかよ」

 

「わからないの。本当に」

 

 有珠の声にはかすかな苛立ちが滲んでいた。

 

「普通の魔眼なら、わかるわ。魔力の流れがある。回路が働いている。どんなに珍しい目でも、それが魔術である以上、何かしらの手順を踏んでいるの。……でも、あなたの目には、それがない」

 

「…………」

 

「ただ、見て、切る。それだけ。手順も、理屈も、何もない。まるでこの世界の縫い目そのものが、最初からあなたの目にだけ見えているみたいに」

 

 有珠はカップを受け皿に戻した。

 

「わたしの知っているどんな本にも、そんな目のことは書いていないわ。……だから、あなたは危ないの」

 

「…………」

 

「わからないものは、止められないもの」

 

 忉利はしばらく黙っていた。

 

 それから、眼帯の上から、右目にそっと触れた。

 

「……じゃあ、薬飲んだらこの目のことも忘れんのか」

 

「目のことは、忘れないわ。あなたの身体の一部だもの。忘れるのは、この数日のこと。魔術のこと。わたしたちのこと」

 

「青子のことも」

 

 有珠の手が止まった。

 

「青子が、夜に一人でバケモノとやり合ってることも。全部」

 

「……ええ」

 

「そうかよ」

 

 忉利は扉から背中を離した。

 

「気に食わねえな」

 

 有珠は初めて、忉利の方を向いた。

 

 その目に浮かんでいたのは、いつもの無表情ではなかった。何かを確かめようとする目だった。

 

「……あなたは、青子をどう思っているの」

 

「幼馴染」

 

 即答だった。

 

 有珠はじっと忉利を見つめた。

 

 忉利は目を逸らさなかった。逸らさなかったが、その耳の先が、ほんのわずかに赤くなっていた。

 

 有珠はふっと、視線を乳鉢に戻した。

 

「一つだけ、言っておくわ」

 

「なんだよ」

 

「あの子は、あなたのためなら無茶をするわ。遊園地で、見たでしょう。回路が焼き切れる寸前まで、自分を燃やして」

 

 ごり、と乳棒が鳴る。

 

「だから、その目を軽々しく使わないで。あなたが壊れたら、あの子も壊れるわ」

 

 忉利は何も言わなかった。

 

 ただ、小さく頷いて、部屋を出た。

 

 扉が閉まる。

 

 有珠はしばらく扉を見つめていた。

 

 それから残りの紅茶を、ゆっくりと飲み干した。

 

「……十秒」

 

 誰もいない部屋に、小さな呟きが落ちた。

 

「本当に、十秒でこんなに変わるのね」

 

 

◇

 

 

 月曜日の三咲高校は朝から騒がしかった。

 

「――は? は? はあああああ!?」

 

 二年C組の教室に、木乃美芳助の絶叫が響き渡った。

 

「日景と静希が!? 会長の屋敷に!? 住んでる!? 住み込み!? 一つ屋根の下!?」

 

「声がでけえよ」

 

 忉利は眼帯の上から耳を塞いだ。

 

 隣の席の草十郎は左腕を吊ったまま、黙々と握り飯を食べている。

 

「なんで!? なんでお前らだけ!? しかも二人揃って怪我して!? 何があったんだよ週末に!?」

 

「屋敷の修繕の手伝い。怪我は、転んだ」

 

「二人とも!?」

 

「二人とも」

 

「同じ日に!?」

 

「同じ日に」

 

「嘘だろ!?」

 

「嘘じゃねえよ」

 

 言ってから忉利は、しまった、と思った。

 

 晴華の声が頭の中によみがえる。

 

 ―――お兄ちゃん、嘘つく時、ぜったい『じゃねえよ』って言うもん。

 

 幸い、芳助はそこまで鋭くなかった。

 

「ずりいよお……俺も会長の屋敷に住みてえよお……修繕でも掃除でも何でもするからさあ……」

 

 机に突っ伏して嘆く芳助を放っておいて、忉利は窓の外に目をやった。

 

 その時、教室の後ろのドアが、がらりと開いた。

 

「日景」

 

 鳶丸だった。

 

 いつもの刺々しい目つきで教室の中を見回している。その視線が、忉利の眼帯と草十郎の吊った腕の上で、一瞬ずつ止まった。

 

「ちょっと面貸せ」

 

 階段の踊り場で、鳶丸は手すりに背中を預けた。

 

「で」

 

 鳶丸は忉利の眼帯をじっと見た。

 

「何に首突っ込んでる」

 

「……何の話だよ」

 

「とぼけんな。蒼崎は先週から様子がおかしかった。夜な夜な何かやってて、昼間は死人みてえな顔してた。で、週明けてみりゃお前と草の字が揃って怪我して、蒼崎の屋敷に住み込みだ」

 

 鳶丸は目を細めた。

 

「蒼崎も今朝、鼻の下に擦り傷作ってたぞ。化粧で隠してたがな」

 

「…………」

 

「偶然にしちゃ、出来すぎてんだろ」

 

 忉利は答えなかった。

 

 鳶丸はしばらく忉利の顔を眺めていた。それからふっと鼻で笑った。

 

「……ま、いい。お前が言いたくねえなら、訊かねえよ」

 

「…………」

 

「ただな、日景」

 

 鳶丸の声が、一段低くなった。

 

「俺はあの女と一年半、生徒会で顔突き合わせてきた。あいつが自分からは絶対に弱音吐かねえ女だってことくらいは、知ってる」

 

 鳶丸は手すりから背中を離した。

 

「倒れそうになったら、お前が支えろ。……それだけだ」

 

 ひらりと手を振って、鳶丸は階段を上っていった。

 

 忉利はその背中を見送った。

 

「……お前に言われるまでもねえよ」

 

 誰にも聞こえない声で呟いた。

 

 

◇

 

 

 火曜日の夕方。

 

 屋敷の玄関ホールで、青子は小さな紙の包みを、草十郎の前に突き出していた。

 

「……はい。これ」

 

「何だ」

 

「贈り物よ。日頃の、その、……いろいろの」

 

 草十郎は包みを受け取って、開けた。

 

 中から出てきたのは、革の首輪だった。

 

 黒い、細い、飾り気のない革。真鍮の小さな留め金。犬の首輪のようにも、装身具のようにも見える。

 

「……首輪か」

 

「首輪じゃないわよ! ……いえ、首輪だけど!」

 

 青子は真っ赤になって、腕を組んだ。

 

「あんた、首にその古い布、ずっと巻いてるでしょ。ぼろぼろで見てられないのよ。……それ、代わりに巻いておきなさい」

 

 草十郎は首に巻いた布に、右手で触れた。

 

 子供の頃の、犬の噛み傷を隠している布。

 

 それから手の中の首輪を、じっと見た。

 

「……ありがとう、蒼崎」

 

 草十郎は少しも疑わずに、布をほどいて、その首輪を自分の首に巻いた。

 

 留め金をかちりと留める。

 

「これでいいか」

 

「……いいわよ」

 

 青子は目を逸らした。

 

 ホールの隅の階段の上から、忉利がそれを見ていた。

 

「……お前、犬苦手な奴に首輪贈るのかよ」

 

「うるさいわね! 他にちょうどいいものがなかったのよ!」

 

「商店街の犬猫屋で買ったろ、それ」

 

「――っ、なんで知ってるのよ!」

 

「あそこの親父がうちの常連なんだよ。生徒会長さんが真剣な顔で首輪選んでたって、昨日、親父に言ってた」

 

 青子は両手で顔を覆った。

 

 階段の途中に、いつの間にか有珠が立っていた。

 

 三日間の刑は、まだ明けていない。だから、何も言わなかった。

 

 ただ、草十郎の首の黒い革の首輪を、じっと見ていた。

 

 その視線に気づいて、草十郎が首を傾げた。

 

「……有珠。似合っていないだろうか」

 

 有珠は答えなかった。

 

 ただ、ほんのわずかに目を細めて。

 

 階段を上っていった。

 

 

◇

 

 

 その夜。

 

 久遠寺邸の二階の張り出した露台に、忉利は立っていた。

 

 眼下に三咲の町の灯りが広がっている。冬の夜気が頬を刺すように冷たい。

 

 父のマフラーを首に巻き直す。

 

「……寒くないの、そんなとこ」

 

 背後で硝子戸が開く音がした。

 

 青子だった。

 

 寝間着の上に昨日と同じ大きなカーディガン。手に湯気の立つカップを二つ持っている。

 

「紅茶。……有珠が淹れたやつ」

 

「あいつ、おれにも淹れてくれたのか」

 

「まさか。私が二つ分注いできただけよ」

 

 青子はカップの一つを忉利に押しつけ、隣の手すりにもたれた。

 

 しばらく、二人とも黙っていた。

 

 紅茶の湯気が夜気の中で白く溶けていく。

 

「……ねえ」

 

「なんだよ」

 

「有珠と何話したの。日曜の夕方」

 

「……紅茶の蒸らしの話」

 

「嘘」

 

「嘘じゃ――」

 

 言いかけて、忉利は口をつぐんだ。

 

 青子がじとりとした目で忉利を見ている。

 

「……薬の話とか。目の話とか」

 

「…………」

 

「薬飲んだら全部忘れるんだってな。この数日のこと」

 

 青子は紅茶のカップを、両手で握りしめた。

 

「……そうよ」

 

「お前が、夜に一人でバケモノとやり合ってることも」

 

「……それが、普通なのよ」

 

 青子の声は小さかった。

 

「普通の人は、知らなくていいの。知らない方がいいの。こっちの世界は、知ってるだけで危ないんだから」

 

「そうかよ」

 

「そうよ」

 

「……気に食わねえな」

 

 青子は忉利の横顔を見た。

 

 忉利は町の灯りを見下ろしていた。いつもと同じ、気だるげな横顔。

 

「お前が一人で夜中に出歩いて、傷作って帰ってきて、昼間は死人みてえな顔して。それを、おれだけ知らねえで、呑気に珈琲淹れてんのかよ」

 

「……それでいいのよ」

 

「よくねえよ」

 

 短い、けれど、はっきりとした声だった。

 

 青子は何か言い返そうとして、言葉に詰まった。

 

 夜風が二人の間を吹き抜けていく。

 

「……バカじゃないの」

 

 青子はカップに顔を埋めるようにして呟いた。

 

「あんたが覚えてたって、何もできないじゃない。魔術も使えないくせに。その目だって、使うたびに死にかけるくせに」

 

「知ってる」

 

「なら――」

 

「でも、忘れんのは、嫌だ」

 

 青子は顔を上げた。

 

 忉利はまだ町の灯りを見ていた。

 

「それだけだ」

 

 青子はしばらく、忉利の横顔を見つめていた。

 

 それからぷいと顔を背けた。

 

「……勝手にすれば」

 

 その耳の先が、夜目にもわかるほど真っ赤だった。

 

「どうせ薬ができたら、有珠が無理やりにでも飲ませるんだから」

 

「そん時は、そん時だ」

 

「……ほんと、バカ」

 

 青子は手すりに頬杖をついた。

 

 その肩がほんの少しだけ、忉利の腕に触れていた。

 

 どちらも、離れようとはしなかった。

 

 

◇

 

 

 水曜日の朝。

 

 朝食のテーブルで、草十郎が懐から二枚の紙を取り出した。

 

「蒼崎。有珠」

 

 テーブルの真ん中にその二枚を並べる。

 

 青い、小さな紙。魚の絵が印刷してある。

 

「これは何だろうか」

 

 草十郎は真顔で訊いた。

 

「おばあさんがくれたんだ。町の福引で当たったけど、自分は行かないからって」

 

 青子が紙を手に取った。

 

「……水族館の招待券じゃない。隣の市の」

 

「水族館? それはどういうところなんだ」

 

「魚を、見るところよ。大きな硝子の向こうに、海の魚が泳いでるの」

 

「魚なら、川でいつも見ていたよ」

 

「そういうことじゃないの!」

 

 青子は招待券を二枚とも、テーブルに戻した。

 

「……で、これをどうするの」

 

「二人で行ってきてほしい」

 

 草十郎は青子と有珠を順番に見た。

 

「ここに来てから、二人には世話になりっぱなしだ。……何か返したかったんだけど、俺にはこれしかないんだ」

 

「…………」

 

「魚は見たことがあるから、俺は行かなくていい。……二人で行ってきてくれ」

 

 青子はしばらく、草十郎の顔を見ていた。

 

 それから有珠の方を見た。

 

 有珠は紅茶のカップを持ったまま、招待券を見下ろしていた。

 

 三日間の刑は、今朝で明けていた。

 

「……有珠は、行くか?」

 

 草十郎が訊いた。

 

 有珠はすぐには答えなかった。

 

 それから、ひどく小さな声で、言った。

 

「……魚は、嫌いではないわ」

 

 青子がぱっと顔を輝かせた。

 

「行く! 今日、学校が早く終わるでしょ、私も有珠も。……午後から行きましょ!」

 

 忉利はテーブルの端で、トーストを齧りながら、それを見ていた。

 

「……お前ら、留守番か」

 

「留守番よ」

 

 青子は招待券をコートのポケットにしまった。

 

「絶対に、屋敷から出ないでよ。誰が来ても扉を開けちゃ駄目。……いいわね」

 

「ああ」

 

「……わかったよ」

 

 

◇

 

 

 水曜日の午後。

 

 青子と有珠が坂道を下りていってから、二時間。

 

 屋敷はしんと静まり返っていた。

 

 忉利は台所で洗い物をしていた。草十郎は裏庭で、右手一本で草をむしっていた。驚くほど速かった。ロビンは玄関脇の止まり木で、片目を閉じて、うつらうつらと揺れていた。

 

「……日景」

 

 裏口から、草十郎が顔を出した。

 

「有珠がいない」

 

「知ってる」

 

「なら、珈琲を淹れないか」

 

「……お前、染まるの早えな」

 

 忉利は呆れて草十郎を見た。

 

 それから少しだけ笑った。

 

「一杯だけだぞ」

 

 ミルに豆を入れかけた。

 

 その時だった。

 

 こん、こん、と。

 

 玄関の扉が、叩かれた。

 

 二度。

 

 硬く、短く。

 

 忉利と草十郎は、同時に手を止めた。

 

 止まり木の上で、ロビンが羽毛をぶわりと逆立てた。

 

「……だ、誰ッスか、こんな時間に」

 

 返事はなかった。

 

 ただ、もう一度。

 

 こん、こん、と。

 

 忉利はゆっくりと玄関ホールの方を振り返った。

 

 玄関の扉には、小さな磨り硝子の窓が嵌め込まれていた。外の冬の午後の光が、その硝子越しにぼんやりと滲んでいる。

 

 その光の中に、人影があった。

 

 すらりと背の高い、女の影だった。

 

 長い外套。長い髪。

 

 硝子越しに、かすかに煙草の匂いが漂ってきた。

 

 そして――その影の、目のあたりで。

 

 何かが、きらりと光った。

 

 眼鏡のレンズのように。

 

「――こんにちは」

 

 扉の向こうから柔らかな女の声がした。

 

「お留守のようね。……誰か、いるかしら?」

 

 忉利の右目の奥で、何かがずきりと疼いた。

 

 眼帯の下で、見えていた。

 

 扉の向こうから、線が伸びていた。

 

 細く、冷たく、定規で引いたような、あの線が。

 

 三日前の夜、この窓から見下ろした町の上に走っていた、あの線と同じ筆致で。

 

シエルの小説満足度調査

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