日曜日の朝、五時半。
久遠寺邸の台所は、まだ夜の底に沈んでいた。
窓の外は真っ暗で、古い石造りの床から、足の裏に刺さるような冷気が這い上がってくる。吐く息が、白い。
その暗がりの中で、日景忉利は、息を殺して湯を沸かしていた。
右目の包帯は、昨夜のうちに、有珠が寄越した薄い布の眼帯に変わっていた。左目だけで、手元を睨む。
コンロの上で、薬缶がしゅうしゅうと鳴り始める。その音が、やけに大きく聞こえた。
調理台の上には、紙袋が一つ。父が持たせてくれた、いつものブレンド。
それから、父のネルと、古いミル。
豆を、手回しのミルで挽く。ごりごり、と。できるだけ静かに。
香りが、立ちのぼった。
深煎りの、焦げる寸前の、苦くて甘い匂い。
たった二日嗅いでいないだけなのに、忉利は、思わず目を閉じていた。
「……やっぱ、これだよな」
ネルに粉を落とし、湯を細く注ぐ。
粉が膨らむ。泡がゆっくりと沈んでいく。それを見届けてから、また細く――
「日景」
「――っ!?」
忉利は、危うく薬缶を取り落としそうになった。
振り返ると、台所の入り口に、草十郎が立っていた。
寝間着代わりの浴衣の上に、屋敷の物置から出てきたらしい古い綿入れを羽織っている。左腕は、まだ包帯で吊ったままだ。
「……驚かすなよ。何時だと思ってんだ」
「五時半だ。山では、もう起きている時間だ」
「ここは山じゃねえ」
「そうだな」
草十郎は、すんすんと鼻を鳴らした。
「いい匂いがする」
「……珈琲」
「珈琲。……蒼崎が、この屋敷では禁止だと言っていたものか」
「そうだよ。だから黙ってろ」
草十郎は、少しだけ考えて、頷いた。
「わかった。黙っておく。……俺も、飲んでいいか」
「……お前、飲んだことあんのか」
「ない」
忉利は、しばらく草十郎の顔を見ていた。
それから、無言で食器棚からもう一つカップを取り出した。
薄暗い台所で、二人は立ったまま、湯気の立つカップを傾けていた。
草十郎は、一口含んで、眉を寄せた。
「……苦い」
「最初はそんなもんだ」
「炭を、煮出したような味がする」
「炭とか言うな。親父が聞いたら泣くぞ」
草十郎は、もう一口飲んだ。
また、眉を寄せた。
それから、三口目。
「……だが、後から、甘い」
「だろ」
「不思議だ。苦いのに、もう一口飲みたくなる」
草十郎は、カップの中の黒い液体を、しげしげと見つめた。
「町というのは、苦いものを、わざわざ飲むところなんだな」
「そういうことにしとけ」
忉利は、自分のカップに口をつけた。
苦くて、甘い。いつもの味。父の味には、まだ届かない、自分の味。
窓の外が、ほんの少しだけ、群青色に白み始めていた。
「――珈琲の匂いがするわ」
声は、背後から来た。
静かな声だった。
静かすぎて、背筋が凍った。
忉利と草十郎は、ゆっくりと振り返った。
台所の入り口に、久遠寺有珠が立っていた。
黒い寝間着の上に、黒いガウン。長い髪は、一筋の乱れもない。手には、燭台が一本。揺れる小さな炎が、その白い顔を、下から冷たく照らし出していた。
有珠は、何も言わなかった。
ただ、忉利の手元のカップを見て。
草十郎の手元のカップを見て。
調理台の上の、口の開いた紙袋を見た。
「…………」
「……おはよう、お嬢様」
「その呼び方は、やめてと言ったわ」
有珠は、燭台を持ったまま、一歩、台所に踏み込んだ。
「この屋敷で、その泥を煮出すことは、禁じられているわ。青子から聞いていなかったの」
「聞いてた」
「なら」
「でも、おれは紅茶じゃ目が覚めねえんだよ。朝の一杯だけだ。台所の窓開けて、匂いは外に逃がしてる。お前が起きてくる前に片付けるつもりだった」
「起きてきたわ」
「……早起きなんだな、お嬢様」
「わたしは、この屋敷で起きることは、すべてわかるの」
有珠の視線が、草十郎に移った。
「静希草十郎。あなたも、飲んだのね」
「ああ。苦かった」
「なら、なぜ飲んだの」
「日景が、飲むかと訊いたから」
有珠は、しばらく草十郎を見つめていた。
それから、ほんのわずかに、眉を寄せた。
「……あなたまで、この泥に染まるつもりなの」
「泥ではない。後から、甘い」
「――――」
有珠の手の中で、燭台の炎が、一度、大きく揺れた。
忉利は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
まずい。
遊園地の化け物より、まずいかもしれない。
「……二人とも」
有珠は、燭台を調理台の上に、ことりと置いた。
「今日から三日間、わたしに話しかけないで」
そう言い残して、有珠は、音もなく台所を出ていった。
廊下の奥へと遠ざかっていく足音が、完全に消えるまで、二人は動けなかった。
「……日景」
「なんだよ」
「三日間、話しかけるなと言われた」
「聞こえてたよ」
「蒼崎が言っていたとおりだな」
草十郎は、残りの珈琲を、ゆっくりと飲み干した。
「……それでも、うまかった」
忉利は、額を押さえて、長い長い溜息をついた。
その話を聞いた青子は、朝食のテーブルで、腹を抱えて笑った。
「あっははは! 三日!? 初日で!? あんたたち、屋敷に来て二日目で、もう三日間の口きかない刑!?」
「笑いごとじゃねえよ」
「笑いごとよ! 私だって、ここに住み始めてから、最初の刑を食らうまで一週間はかかったのに!」
「お前も食らってんじゃねえか」
「そりゃ食らうわよ! 有珠の前で珈琲の話したら、一発でアウトなんだから!」
青子は、目尻の涙を拭いながら、トーストを齧った。
テーブルの端では、有珠が、何事もなかったかのように紅茶を飲んでいた。
忉利と草十郎の方は、一度も見ない。
徹底している。
「……あいつ、ほんとに三日間、話しかけてこねえつもりなのか」
「本気よ。有珠は、そういうところだけは絶対に曲げないの」
青子は、紅茶のカップを傾けながら、ちらりと忉利を見た。
「……でも、珍しいわね」
「何が」
「有珠が、朝の台所まで下りてきたこと。あの子、普段は七時まで絶対に部屋から出てこないのに」
忉利は、テーブルの端の有珠を見た。
有珠は、窓の外の庭を見ていた。
冬枯れの庭で、昨日草十郎が剪定した薔薇の枝が、朝日を浴びて、きれいに揃っていた。
「――それより」
青子は、トーストを皿に置いて、忉利と草十郎の顔を、順番に見た。
その目が、据わっていた。
「二人とも。今日は、日曜日よね」
「……ああ」
「期末試験、いつだか、わかってる?」
忉利の手が、止まった。
草十郎は、握り飯を齧りながら、首を傾げた。
「期末試験とは、何だ」
「――――」
青子は、額に手を当てた。
「木曜からよ。四日後。……静希くん、あんた、転校してきてから、一回も授業のノート取ってないでしょ」
「取っている。頭の中に」
「頭の中に!?」
「山では、紙が貴重だった」
「ここは山じゃないの!」
青子は、テーブルを、ばん、と叩いた。
「忉利。あんたも。……先月の中間、数学、何点だった」
「…………」
「言いなさい」
「……二十八」
「はい、決まり」
青子は、立ち上がった。
「今日一日、二人とも、書庫に缶詰。私が教える。逃げたら、有珠の三日間の刑より、ひどいことになるから」
「……お前、生徒会長だからって」
「生徒会長として、二年C組の平均点を下げる二人を、放っておけないのよ!」
久遠寺邸の書庫は、屋敷の一階の奥にあった。
天井まで届く本棚。革の背表紙。読めない言葉で書かれた背表紙が、壁一面を埋めている。その真ん中に、大きな樫の机が一つ。
青子は、その机の向こう側に、腕を組んで立っていた。
まるで、教壇の上の教師のように。
「――静希くん。二次関数の頂点の座標は」
「頂点とは、山の一番高いところか」
「違うわよ! ……いえ、違わないけど、違うの!」
青子は、頭を抱えた。
忉利は、机の端で、教科書に顔を伏せて、眠りかけていた。
「忉利! 寝るな!」
教科書の角が、額に飛んできた。
「……痛え」
「痛くしたのよ。ほら、この問題。私が三回説明したやつ」
青子は、忉利の隣に、椅子を引いて座った。
肩が、触れるか触れないかの距離で。
ノートの上に、鉛筆で、さらさらと式を書いていく。
「ここが、こうなって。だから、ここは、こう。……わかった?」
「……わかんねえ」
「なんでよ! 三回目よ!?」
「お前の説明、途中で飛ぶんだよ。ここが、こう、って、何がどうなってんのか言えよ」
「言ってるじゃない!」
「言ってねえ。お前、自分がわかることは、人もわかると思ってんだろ」
青子は、口を開けて、閉じた。
それから、少しだけ、頬を膨らませた。
「……昔から、そうよね、あんた」
「何が」
「私が、一人で先に行くと、必ず、後ろから文句言うの。小学校の遠足の時も、中学の合唱コンクールの時も」
「文句じゃねえよ。事実だ」
「はいはい」
青子は、ノートに、もう一度、式を書き始めた。
今度は、一行ずつ。ゆっくりと。
途中で、忉利がわからない顔をするたびに、鉛筆を止めて、待った。
三十分後、忉利は、ようやく、その問題を自分で解いた。
「……できたじゃない」
「お前の説明が、まともになったからな」
「うるさいわね」
青子は、そっぽを向いた。
その耳の先が、少しだけ、赤かった。
机の向かいで、草十郎が、じっと二人を見ていた。
「……蒼崎と日景は、昔から、こうなのか」
「こう、ってなによ」
「喧嘩をしながら、教え合うのか」
青子と忉利は、同時に、草十郎を見た。
それから、同時に、目を逸らした。
「……静希くん。あんたは、こっち。二次関数、最初からよ」
「ああ。頼む」
書庫の高い窓から、冬の午後の光が、斜めに差し込んでいた。
夕方、忉利は、屋敷の二階の、奥まった一室の前に立っていた。
手には、銀の盆。その上に、白磁のティーポットと、カップが一客。
扉を、二度叩く。
返事はない。
当然だ。三日間、話しかけるなと言われているのだから。
「……入るぞ」
扉を開けた。
そこは、奇妙な部屋だった。
壁一面の本棚に、革の背表紙の古い本がぎっしりと詰まっている。窓際の大きな作業机の上には、乳鉢と乳棒、硝子の小瓶、見たこともない乾いた草の束。天井からは、名前もわからない何かの根っこが、いくつも吊り下げられていた。
鼻をつく、青臭い匂い。
その作業机の前に、有珠が座っていた。
乳鉢の中で、何かの乾いた葉を、ゆっくりと擂り潰している。
顔を上げない。
「……それ、例の薬か」
返事はない。
ごり、ごり、と乳棒の音だけが響く。
忉利は、作業机の空いている端に、盆を置いた。
「紅茶。……詫びだ」
有珠の手が、ほんの一瞬だけ、止まった。
けれど、顔は上げなかった。また、ごり、ごりと、乳棒を動かし始める。
忉利は、ポットから、カップに紅茶を注いだ。
屋敷の台所にあった、有珠が普段使っている茶葉。同じポット。同じ湯。
ただし、蒸らしは、十秒短く。
琥珀色の液体が、白い磁器の中で揺れた。
「冷めるぞ」
それだけ言って、忉利は、部屋を出ようとした。
扉に手をかけた時。
背後で、かちゃり、と小さな音がした。
カップを、受け皿から持ち上げる音。
忉利は、振り返らなかった。
長い沈黙があった。
それから。
「……悪くないわ」
囁くような声だった。
三日間話しかけるなと言った本人が、自分から口を開いたことに、有珠自身も気づいたのだろう。すぐに、ごほんと小さく咳払いをした。
「今のは、独り言よ」
「そうかよ」
「あなたに言ったのではないわ」
「わかってるって」
忉利は、扉に背中を預けて、振り返った。
有珠は、カップを両手で包んだまま、じっとその中身を見つめていた。
「……聞きてえことがあんだけど。独り言でいいから」
「…………」
「おれの目って、何なんだ」
有珠は、答えなかった。
けれど、追い出しもしなかった。
忉利は、それを返事だと受け取った。
「物心ついた頃から、線が見えてた。壁とか、地面とか、人とか。乱視だと思ってた。医者にもそう言われた。……でも、違うんだろ。遊園地で、あれを切った。見て、切れろって思っただけで」
有珠は、紅茶を一口飲んだ。
それから、窓の外に目をやったまま、独り言のように言った。
「わからないわ」
「……わかんねえのかよ」
「わからないの。本当に」
有珠の声には、かすかな苛立ちが滲んでいた。
「普通の魔眼なら、わかるわ。魔力の流れがある。回路が働いている。どんなに珍しい目でも、それが魔術である以上、何かしらの手順を踏んでいるの。……でも、あなたの目には、それがない」
「…………」
「ただ、見て、切る。それだけ。手順も、理屈も、何もない。まるで、この世界の縫い目そのものが、最初からあなたの目にだけ見えているみたいに」
有珠は、カップを受け皿に戻した。
「わたしの知っているどんな本にも、そんな目のことは書いていないわ。……だから、あなたは危ないの」
「…………」
「わからないものは、止められないもの」
忉利は、しばらく黙っていた。
それから、眼帯の上から、右目にそっと触れた。
「……じゃあ、薬飲んだら、この目のことも忘れんのか」
「目のことは、忘れないわ。あなたの身体の一部だもの。忘れるのは、この数日のこと。魔術のこと。わたしたちのこと」
「青子のことも」
有珠の手が、止まった。
「青子が、夜に一人でバケモノとやり合ってることも。全部」
「……ええ」
「そうかよ」
忉利は、扉から背中を離した。
「気に食わねえな」
有珠は、初めて、忉利の方を向いた。
その目に浮かんでいたのは、いつもの無表情ではなかった。何かを、確かめようとする目だった。
「……あなたは、青子を、どう思っているの」
「幼馴染」
即答だった。
有珠は、じっと忉利を見つめた。
忉利は、目を逸らさなかった。逸らさなかったが、その耳の先が、ほんのわずかに赤くなっていた。
有珠は、ふっと、視線を乳鉢に戻した。
「一つだけ、言っておくわ」
「なんだよ」
「あの子は、あなたのためなら、無茶をするわ。遊園地で、見たでしょう。回路が焼き切れる寸前まで、自分を燃やして」
ごり、と乳棒が鳴る。
「だから、その目を、軽々しく使わないで。あなたが壊れたら、あの子も壊れるわ」
忉利は、何も言わなかった。
ただ、小さく頷いて、部屋を出た。
扉が閉まる。
有珠は、しばらく扉を見つめていた。
それから、残りの紅茶を、ゆっくりと飲み干した。
「……十秒」
誰もいない部屋に、小さな呟きが落ちた。
「本当に、十秒で、こんなに変わるのね」
月曜日の三咲高校は、朝から騒がしかった。
「――は? は? はあああああ!?」
二年C組の教室に、木乃美芳助の絶叫が響き渡った。
「日景と静希が!? 会長の屋敷に!? 住んでる!? 住み込み!? 一つ屋根の下!?」
「声がでけえよ」
忉利は、眼帯の上から耳を塞いだ。
隣の席の草十郎は、左腕を吊ったまま、黙々と握り飯を食べている。
「なんで!? なんでお前らだけ!? しかも二人揃って怪我して!? 何があったんだよ週末に!?」
「屋敷の修繕の手伝い。怪我は、転んだ」
「二人とも!?」
「二人とも」
「同じ日に!?」
「同じ日に」
「嘘だろ!?」
「嘘じゃねえよ」
言ってから、忉利は、しまった、と思った。
晴華の声が、頭の中によみがえる。
―――お兄ちゃん、嘘つく時、ぜったい『じゃねえよ』って言うもん。
幸い、芳助はそこまで鋭くなかった。
「ずりいよお……俺も会長の屋敷に住みてえよお……修繕でも掃除でも何でもするからさあ……」
机に突っ伏して嘆く芳助を放っておいて、忉利は窓の外に目をやった。
その時、教室の後ろのドアが、がらりと開いた。
「日景」
鳶丸だった。
いつもの刺々しい目つきで、教室の中を見回している。その視線が、忉利の眼帯と、草十郎の吊った腕の上で、一瞬ずつ止まった。
「ちょっと、面貸せ」
階段の踊り場で、鳶丸は、手すりに背中を預けた。
「で」
鳶丸は、忉利の眼帯を、じっと見た。
「何に首突っ込んでる」
「……何の話だよ」
「とぼけんな。蒼崎は先週から様子がおかしかった。夜な夜な何かやってて、昼間は死人みてえな顔してた。で、週明けてみりゃ、お前と静希が揃って怪我して、蒼崎の屋敷に住み込みだ」
鳶丸は、目を細めた。
「蒼崎も、今朝、鼻の下に擦り傷作ってたぞ。化粧で隠してたがな」
「…………」
「偶然にしちゃ、出来すぎてんだろ」
忉利は、答えなかった。
鳶丸は、しばらく忉利の顔を眺めていた。それから、ふっと鼻で笑った。
「……ま、いい。お前が言いたくねえなら、訊かねえよ」
「…………」
「ただな、日景」
鳶丸の声が、一段、低くなった。
「俺は、あの女と一年半、生徒会で顔突き合わせてきた。あいつが自分からは絶対に弱音吐かねえ女だってことくらいは、知ってる」
鳶丸は、手すりから背中を離した。
「倒れそうになったら、お前が支えろ。……それだけだ」
ひらりと手を振って、鳶丸は階段を上っていった。
忉利は、その背中を見送った。
「……お前に言われるまでもねえよ」
誰にも聞こえない声で、呟いた。
火曜日の夕方。
屋敷の玄関ホールで、青子は、小さな紙の包みを、草十郎の前に突き出していた。
「……はい。これ」
「何だ」
「贈り物よ。日頃の、その、……いろいろの」
草十郎は、包みを受け取って、開けた。
中から出てきたのは、革の首輪だった。
黒い、細い、飾り気のない革。真鍮の小さな留め金。犬の首輪のようにも、装身具のようにも見える。
「……首輪か」
「首輪じゃないわよ! ……いえ、首輪だけど!」
青子は、真っ赤になって、腕を組んだ。
「あんた、首に、その古い布、ずっと巻いてるでしょ。ぼろぼろで、見てられないのよ。……それ、代わりに巻いておきなさい」
草十郎は、首に巻いた布に、右手で触れた。
子供の頃の、犬の噛み傷を、隠している布。
それから、手の中の首輪を、じっと見た。
「……ありがとう、蒼崎」
草十郎は、少しも疑わずに、布をほどいて、その首輪を、自分の首に巻いた。
留め金を、かちりと留める。
「これで、いいか」
「……いいわよ」
青子は、目を逸らした。
ホールの隅の階段の上から、忉利が、それを見ていた。
「……お前、犬苦手な奴に、首輪贈るのかよ」
「うるさいわね! 他に、ちょうどいいものがなかったのよ!」
「商店街の、犬猫屋で買ったろ、それ」
「――っ、なんで知ってるのよ!」
「あそこの親父が、うちの常連なんだよ。生徒会長さんが真剣な顔で首輪選んでたって、昨日、親父に言ってた」
青子は、両手で顔を覆った。
階段の途中に、いつの間にか、有珠が立っていた。
三日間の刑は、まだ、明けていない。だから、何も言わなかった。
ただ、草十郎の首の、黒い革の首輪を、じっと見ていた。
その視線に気づいて、草十郎が、首を傾げた。
「……久遠寺。似合っていないか」
有珠は、答えなかった。
ただ、ほんのわずかに、目を細めて。
階段を、上っていった。
その夜。
久遠寺邸の二階の、張り出した露台に、忉利は立っていた。
眼下に、三咲の町の灯りが広がっている。冬の夜気が、頬を刺すように冷たい。
父のマフラーを、首に巻き直す。
「……寒くないの、そんなとこ」
背後で、硝子戸が開く音がした。
青子だった。
寝間着の上に、昨日と同じ大きなカーディガン。手に、湯気の立つカップを二つ持っている。
「紅茶。……有珠が淹れたやつ」
「あいつ、おれにも淹れてくれたのか」
「まさか。私が、二つ分注いできただけよ」
青子は、カップの一つを忉利に押しつけ、隣の手すりにもたれた。
しばらく、二人とも黙っていた。
紅茶の湯気が、夜気の中で白く溶けていく。
「……ねえ」
「なんだよ」
「有珠と、何話したの。日曜の夕方」
「……紅茶の蒸らしの話」
「嘘」
「嘘じゃ――」
言いかけて、忉利は口をつぐんだ。
青子が、じとりとした目で忉利を見ている。
「……薬の話とか。目の話とか」
「…………」
「薬飲んだら、全部忘れるんだってな。この数日のこと」
青子は、紅茶のカップを、両手で握りしめた。
「……そうよ」
「お前が、夜に一人でバケモノとやり合ってることも」
「……それが、普通なのよ」
青子の声は、小さかった。
「普通の人は、知らなくていいの。知らない方がいいの。こっちの世界は、知ってるだけで、危ないんだから」
「そうかよ」
「そうよ」
「……気に食わねえな」
青子は、忉利の横顔を見た。
忉利は、町の灯りを見下ろしていた。いつもと同じ、気だるげな横顔。
「お前が一人で夜中に出歩いて、傷作って帰ってきて、昼間は死人みてえな顔して。それを、おれだけ知らねえで、呑気に珈琲淹れてんのかよ」
「……それでいいのよ」
「よくねえよ」
短い、けれど、はっきりとした声だった。
青子は、何か言い返そうとして、言葉に詰まった。
夜風が、二人の間を吹き抜けていく。
「……バカじゃないの」
青子は、カップに顔を埋めるようにして、呟いた。
「あんたが覚えてたって、何もできないじゃない。魔術も使えないくせに。その目だって、使うたびに死にかけるくせに」
「知ってる」
「なら――」
「でも、忘れんのは、嫌だ」
青子は、顔を上げた。
忉利は、まだ町の灯りを見ていた。
「それだけだ」
青子は、しばらく、忉利の横顔を見つめていた。
それから、ぷいと顔を背けた。
「……勝手にすれば」
その耳の先が、夜目にもわかるほど、真っ赤だった。
「どうせ、薬ができたら、有珠が無理やりにでも飲ませるんだから」
「そん時は、そん時だ」
「……ほんと、バカ」
青子は、手すりに頬杖をついた。
その肩が、ほんの少しだけ、忉利の腕に触れていた。
どちらも、離れようとはしなかった。
水曜日の朝。
朝食のテーブルで、草十郎が、懐から、二枚の紙を取り出した。
「蒼崎。久遠寺」
テーブルの真ん中に、その二枚を並べる。
青い、小さな紙。魚の絵が、印刷してある。
「これは、何だ」
草十郎は、真顔で訊いた。
「おばあさんが、くれた。町の福引で当たったが、自分は行かないから、と」
青子が、紙を手に取った。
「……水族館の、招待券じゃない。隣の市の」
「水族館とは、何だ」
「魚を、見るところよ。大きな硝子の向こうに、海の魚が、泳いでるの」
「魚なら、川で見た」
「そういうことじゃないの!」
青子は、招待券を、二枚とも、テーブルに戻した。
「……で、これを、どうするの」
「二人で、行ってきてくれ」
草十郎は、青子と有珠を、順番に見た。
「俺は、ここに来てから、二人に世話になった。……何か、返したかった。だが、これしか持っていない」
「…………」
「魚は、見たことがある。だから、俺は行かなくていい。……二人で、行ってくれ」
青子は、しばらく、草十郎の顔を見ていた。
それから、有珠の方を見た。
有珠は、紅茶のカップを持ったまま、招待券を見下ろしていた。
三日間の刑は、今朝で、明けていた。
「……久遠寺は、行くか」
草十郎が訊いた。
有珠は、すぐには答えなかった。
それから、ひどく小さな声で、言った。
「……魚は、嫌いではないわ」
青子が、ぱっと顔を輝かせた。
「行く! 今日、学校が早く終わるでしょ、私も有珠も。……午後から、行きましょ!」
忉利は、テーブルの端で、トーストを齧りながら、それを見ていた。
「……お前ら、留守番か」
「留守番よ」
青子は、招待券を、コートのポケットにしまった。
「絶対に、屋敷から出ないでよ。誰が来ても、扉を開けちゃ駄目。……いいわね」
「ああ」
「……わかったよ」
水曜日の午後。
青子と有珠が、坂道を下りていってから、二時間。
屋敷は、しんと静まり返っていた。
忉利は、台所で、洗い物をしていた。草十郎は、裏庭で、右手一本で草をむしっていた。驚くほど速かった。ロビンは、玄関脇の止まり木で、片目を閉じて、うつらうつらと揺れていた。
「……日景」
裏口から、草十郎が、顔を出した。
「久遠寺がいない」
「知ってる」
「なら、珈琲を淹れないか」
「……お前、染まるの早えな」
忉利は、呆れて草十郎を見た。
それから、少しだけ笑った。
「一杯だけだぞ」
ミルに、豆を入れかけた。
その時だった。
こん、こん、と。
玄関の扉が、叩かれた。
二度。
硬く、短く。
忉利と草十郎は、同時に手を止めた。
止まり木の上で、ロビンが、羽毛をぶわりと逆立てた。
「……だ、誰ッスか、こんな時間に」
返事はなかった。
ただ、もう一度。
こん、こん、と。
忉利は、ゆっくりと玄関ホールの方を振り返った。
玄関の扉には、小さな磨り硝子の窓が嵌め込まれていた。外の、冬の午後の光が、その硝子越しにぼんやりと滲んでいる。
その光の中に、人影があった。
すらりと背の高い、女の影だった。
長い外套。長い髪。
硝子越しに、かすかに、煙草の匂いが漂ってきた。
そして――その影の、目のあたりで。
何かが、きらりと光った。
眼鏡の、レンズのように。
「――こんにちは」
扉の向こうから、柔らかな女の声がした。
「お留守のようね。……誰か、いるかしら?」
忉利の右目の奥で、何かが、ずきりと疼いた。
眼帯の下で、見えていた。
扉の向こうから、線が、伸びていた。
細く、冷たく、定規で引いたような、あの線が。
三日前の夜、この窓から見下ろした町の上に走っていた、あの線と、同じ筆致で。