夜明けの色を見る眼   作:にんら

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眼鏡の人

 隣の市の水族館は、海沿いの、小さな建物だった。

 

 平日の午後で、客は、ほとんどいなかった。薄暗い通路の両側に、青い光を湛えた大きな硝子の壁が、どこまでも続いている。

 

 有珠は、その硝子の前で、足を止めたまま、動かなかった。

 

 鰯の群れが、銀色の渦を巻いて、硝子の向こうを回っている。何千匹もが、一つの生き物のように、同じ向きに、同じ速さで。

 

「……有珠。次、行くわよ」

 

「まだ」

 

「もう十分見てるじゃない」

 

「まだよ」

 

 有珠は、硝子から、目を離さなかった。

 

 青子は、溜息をついて、隣に並んだ。

 

 鰯の渦を、しばらく、一緒に見た。

 

「……きれいね」

 

「ええ」

 

「静希くんに、礼、言わなきゃ」

 

「……ええ」

 

 有珠は、それきり、何も言わなかった。

 

 けれど、その白い横顔が、青い光の中で、ほんの少しだけ、幼く見えた。

 

 青子は、ポケットの中の、もう使い終わった二枚の招待券を、指先で確かめた。

 

 こんな午後は、三年ぶりだった。

 

 夜の見回りも、網の繕いも、削られた結び目の地図も、全部、坂の上の屋敷に置いてきて。ただ、魚を見ているだけの、午後。

 

 ――あいつ、ちゃんと留守番してるかしら。

 

 ふと、そう思った。

 

 珈琲、淹れてなければいいけど。

 

 いや、淹れているだろう。有珠がいないのだから。

 

 青子は、少しだけ、笑った。

 

「――こんにちは」

 

 扉の向こうの声は、柔らかかった。

 

 冬の午後の冷気の中で、そこだけ暖炉の火が灯ったような、穏やかな女の声。

 

「お留守のようね。……誰か、いるかしら?」

 

 忉利は、玄関ホールの真ん中で、動けずにいた。

 

 磨り硝子の向こうに、背の高い人影が滲んでいる。長い外套。長い髪。そして、目のあたりで、午後の光をきらりと弾く、眼鏡のレンズ。

 

 右目の奥が、疼いている。

 

 ずきり、ずきりと。遊園地で線を断った時ほどではない。けれど、確かに、何かを見ろと急かすように。

 

「……日景」

 

 隣で、草十郎が小さく言った。

 

「開けない方がいいか」

 

「……ああ」

 

 蒼崎の言いつけだ、と草十郎は頷いた。

 

 止まり木の上で、ロビンが、全身の羽毛を逆立てたまま固まっている。

 

「……誰だよ。こんな時間に」

 

「あら、男の子の声」

 

 扉の向こうで、女が、くすりと笑った気配がした。

 

「驚いたわ。有珠のお屋敷に、男の子がいるなんて。……私は、ここの主の、古い知り合いよ。ちょっと近くまで来たものだから、顔を見に寄ったの」

 

「あいつは、今いねえよ」

 

「そう。なら、戻ってくるまで、待たせてもらえないかしら。外は、とても寒いのよ」

 

「悪いけど、開けらんねえ」

 

「どうして?」

 

「誰が来ても開けるなって、言われてる」

 

「……ふふ」

 

 女は、また笑った。

 

「青子に?」

 

 忉利の背筋が、ぴくりと強張った。

 

「いい子ね、あなた。言いつけを、ちゃんと守って」

 

 その声は、どこまでも穏やかだった。

 

 穏やかすぎて、忉利は、ぞくりとした。

 

 ―――見ろ。

 

 右目の奥で、何かが囁く。

 

 忉利は、眼帯を、ゆっくりとずらした。

 

 まだ赤く充血した右目で、磨り硝子の向こうの人影を、見た。

 

 息が、止まった。

 

 線が、あった。

 

 女の身体の周りに、無数の、細い、黒い線。けれど、それは今まで見てきたどの線とも違っていた。遊園地の怪物たちに絡みついていた、うねるような線ではない。人の肩口にまとわりついていた、ぼやけた線でもない。

 

 まっすぐだった。

 

 定規で引いたように。製図台の上で、烏口を走らせたように。完璧な直線と、完璧な曲線だけで組み上げられた、精緻な、あまりにも精緻な網の目。

 

 三日前の夜、屋敷の窓から見た、町の上空の線と同じ。

 

 町の西へと、何かを手繰り寄せるように集まっていた、あの冷たい線と、まったく同じ筆致だった。

 

「――っ」

 

 右目に、鋭い痛みが走る。

 

 忉利は、とっさに眼帯を戻した。

 

 扉の向こうで、女が、ふっと黙り込んだ。

 

 長い、長い沈黙。

 

「……あら」

 

 女の声が、少しだけ、温度を変えた。

 

「今、あなた。……何を、見たの?」

 

 忉利は、答えなかった。

 

 答えられなかった。

 

「まあ、いいわ」

 

 かちり、と。

 

 扉の錠が、内側から回る音がした。

 

 忉利も、草十郎も、錠には指一本触れていなかった。

 

「この屋敷の結界の癖なら、よく知っているの。有珠とは、長い付き合いだから」

 

 重い扉が、ゆっくりと、内側に開いていく。

 

 冬の冷気と一緒に、煙草の匂いが流れ込んできた。

 

「――お邪魔するわね」

 

 玄関ホールの明かりの下に、その女は立っていた。

 

 背が高い。忉利と、ほとんど変わらないくらい。

 

 上質な仕立ての、落ち着いた色の外套。その下に、白いシャツと、細身のスラックス。背中まで流れる長い髪は、明かりの加減で、燃え残りの熾火のような、深い橙色に見えた。

 

 縁の細い眼鏡の奥で、切れ長の目が、柔らかく微笑んでいる。

 

 年は、二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。

 

 美人だった。それも、町ですれ違えば誰もが振り返るような。

 

 けれど、忉利が最初に思ったのは、そんなことではなかった。

 

 ―――誰かに、似てる。

 

 その笑い方。立ち姿。背筋の伸ばし方。

 

 どこかで、見たことがある。

 

 草十郎が、女の顔を見て、わずかに、身体を強張らせた。

 

 パチンコ屋の、硝子の向こうで、笑っていた女。

 

 冬の小屋の外の、暗闇にいた、何か。

 

「ト、トー……!」

 

 止まり木の上で、ロビンが、甲高い声を上げかけた。

 

 女は、そちらを見もしなかった。

 

 ただ、右手の人差し指で、空中に、すっと何かを描いた。

 

 小さな、角張った、見たこともない形の文字。

 

 指先の軌跡が、一瞬だけ、淡く光った。

 

 ロビンが、ぴたりと動きを止めた。

 

 翼を半分広げたまま。嘴を開いたまま。まるで、剥製になってしまったかのように、止まり木の上で、完全に静止していた。

 

「久しぶりね、駒鳥さん。……少しだけ、静かにしていてね」

 

 女は、優しく微笑んだ。

 

「大丈夫よ。止めただけ。夜になれば、元に戻るわ」

 

 忉利は、一歩、後ずさった。

 

 草十郎が、無言で、その前に半歩出た。

 

 女は、二人を交互に見て、少しだけ首を傾げた。

 

「そんなに怖がらないで。取って食べたりしないわ」

 

 それから、玄関ホールの奥、居間へと続く扉に目をやった。

 

「暖炉、火が入っているでしょう? 少しだけ、当たらせてもらえないかしら。本当に、寒くて」

 

 断る、という選択肢は、もうなかった。

 

 扉の錠を、指一本触れずに開けた女だ。駒鳥を、指先ひとつで止めた女だ。

 

 忉利は、奥歯を噛みしめて、居間の扉を開けた。

 

 女は、暖炉の前の、有珠がいつも座っている椅子に、当たり前のように腰を下ろした。

 

 外套を脱いで、膝の上に畳む。手袋を外して、白い指を、炎にかざす。

 

「ああ、生き返るわ」

 

 その仕草は、どこまでも自然だった。

 

 まるで、この屋敷に何度も来たことがあるかのように。

 

「……あんた、誰だよ」

 

 居間の入り口に立ったまま、忉利は言った。

 

 草十郎は、その隣で、黙って女を見ている。

 

「名乗るのは、後にしましょう」

 

 女は、炎を見つめたまま答えた。

 

「その前に、一つお願いがあるの。……珈琲、淹れてもらえないかしら」

 

「……は?」

 

「あなたたちから、いい匂いがするのよ。深煎りの、とても丁寧に淹れた珈琲の匂い」

 

 女は、振り返って、忉利に微笑みかけた。

 

「この屋敷、紅茶しか置いていないでしょう。有珠のこだわりは、昔から変わらないのね。……でも、私は、珈琲の方が好きなの」

 

 忉利は、しばらく女の顔を見つめていた。

 

 罠かもしれない。台所に行っている間に、何をされるかわからない。

 

 けれど、ここで逆らって、何ができる。

 

「……静希。ここにいてくれ」

 

「ああ」

 

 忉利は、台所へ向かった。

 

 父の豆を、挽く。ネルに、粉を落とす。湯を、細く注ぐ。

 

 手が、少しだけ震えていた。

 

 それでも、湯を落とす手つきだけは、崩さなかった。崩せば、味が落ちる。どんな相手に出す一杯でも、父は、手を抜いたことがなかった。

 

 カップを持って居間に戻ると、女は、草十郎と向かい合って座っていた。

 

 正確には、女が一方的に、草十郎を観察していた。

 

「――面白いわね、あなた」

 

 女は、頬杖をついて、草十郎の顔をしげしげと眺めていた。

 

「どこから来たの?」

 

「山だ」

 

「山。……ずいぶん深い山のようね。電気も通っていないような」

 

「通っていなかった」

 

「ふふ。道理で」

 

 女は、細い指で、空中に何かをなぞるような仕草をした。

 

「あなたの身体、とても不思議。無意識が、ないのね。何をするにも、いちいち自分で決めてから動いている。息を吸うのも、瞬きをするのも、全部。……人払いも、暗示も、効かなかったでしょう?」

 

 草十郎は、少しだけ首を傾げた。

 

「よくわからない。だが、蒼崎にも、同じようなことを言われた」

 

「でしょうね。青子の暗示なんて、あなたには、きっと扉を叩く音くらいにしか聞こえないわ」

 

 女は、心底楽しそうに笑った。

 

「それに、その首輪。……青子が、贈ったのね」

 

 草十郎は、首の革の首輪に、右手で触れた。

 

「なぜ、わかる」

 

「わかるわよ。あの子は、昔から、自分のものに印をつけたがるの。……あなたは、青子のものなのね」

 

「……俺は、蒼崎のものではない」

 

「そう?」

 

 女は、微笑んだまま、首を傾げた。

 

「でも、あの子は、そう思っているわ。だから、首輪なのよ」

 

 そこに、忉利がカップを差し出した。

 

「……ほらよ」

 

「ありがとう」

 

 女は、両手でカップを受け取った。

 

 鼻を近づけて、香りを吸い込む。目を閉じる。

 

 一口。

 

 女の目が、眼鏡の奥で、ゆっくりと開かれた。

 

「……おいしい」

 

 その声は、社交辞令ではなかった。

 

「いい豆ね。焙煎も、とても丁寧。……それに、淹れ方がいいわ。湯の温度も、落とす速さも、完璧。あなた、喫茶店の子でしょう」

 

「……だったら、何だよ」

 

「別に。ただ、嬉しいの」

 

 女は、カップを両手で包んだまま、ふっと目を細めた。

 

「こんなにおいしい珈琲を淹れてくれる男の子がいるなら、この町も、捨てたものじゃないわね」

 

 その笑顔は、本当に、優しかった。

 

 優しくて、温かくて――だからこそ、忉利は、ますます背筋が冷たくなった。

 

 同じ頃。

 

 隣の市から三咲へ戻る、川沿いの道。

 

 夕暮れの土手の上で、青子は、足を止めていた。

 

「……有珠」

 

「見えているわ」

 

 土手の下の、河原。冬枯れの葦の間に、白いものが、立っていた。

 

 一体。二体。五体。

 

 数えるのをやめた。

 

 三十を超えていた。顔のない白い面。軋む関節。公園で、遊園地で、砕いてきたものと同じ人形が、河原一面に、まるで植えられたように立ち並んでいる。

 

 夕陽が、その白い面を、橙色に染めていた。

 

「……水族館の招待券」

 

 青子は、低く言った。

 

「おばあさんの福引、ですって。……できすぎてると、思わなかった?」

 

「思ったわ」

 

 有珠は、外套の襟を立てた。

 

「でも、魚は、きれいだった」

 

「そうね」

 

 青子は、コートの釦を、一つ外した。

 

「……行くわよ」

 

 三十体の人形が、一斉に、首をもたげた。

 

 青子は、土手を、駆け下りた。

 

 河原の石が、靴の下で鳴る。冷たい川風が、髪を巻き上げる。正面の五体が、滑るように向かってくる。

 

 右手。青い光。

 

 撃つ。額。撃つ。額。撃つ。額。

 

 三体が、崩れた。

 

 残り二体が、左右に分かれて、腕を刃のように振り上げる。青子は、身を沈めた。二本の白い腕が、頭上で交差する。その下から、両手を突き上げた。

 

 二発。二つの額。

 

 崩れる。

 

 背後で、砂利を踏む音。振り返る暇はない。

 

 青子は、振り返らなかった。

 

 背後の人形の腕が、青子の肩に届く、その寸前。

 

 人形の足元の河原の石が、ぐにゃりと、盛り上がった。

 

 石ではなかった。

 

 鉛だった。

 

 鈍い灰色の、鉛の兵隊。片脚しかない、小さな、玩具の兵隊が、河原の石の間から、何十体も、一斉に立ち上がっていた。銃剣を構えて。片脚で、律儀に、整列して。

 

「――撃て」

 

 土手の上で、有珠が、静かに言った。

 

 鉛の兵隊たちの銃剣が、一斉に、人形たちの膝を貫いた。

 

 三十体の人形が、一斉に、膝から崩れた。

 

 立ち上がれない。片脚しかない兵隊が、両脚を奪う。それが、この童話の筋書きだった。

 

「……有珠。あんた、そういうの持ってるなら、最初から出しなさいよ」

 

「あなたが、先に駆け下りたのよ」

 

 有珠は、土手を、ゆっくりと下りてきた。

 

 膝を砕かれて、河原に這いつくばる人形たちの間を、黒い服の裾を引きずって歩く。

 

 青子は、額を撃っていった。一体。二体。十体。二十体。

 

 三十体目の面が砕けて、河原に静寂が戻った時。

 

 有珠が、川の方を見ていた。

 

「……青子」

 

「なに」

 

「これは、足止めよ」

 

 有珠の声が、硬かった。

 

「わたしたちを、ここに引き留めるための。……屋敷が、空いている」

 

 青子の顔から、血の気が引いた。

 

 忉利。静希くん。

 

 二人は、河原を、駆け出した。

 

 居間で、女は、珈琲を飲み干した。

 

 空になったカップを、暖炉の脇の小卓に、そっと置く。

 

「ごちそうさま。本当に、おいしかったわ」

 

 そして、ゆっくりと、忉利の方に顔を向けた。

 

「それで」

 

 眼鏡の奥の目が、忉利の眼帯を、まっすぐに捉えた。

 

「さっき、扉越しに、私を見たでしょう。……何が、見えたの?」

 

 忉利は、答えなかった。

 

 女は、急かさなかった。ただ、微笑んだまま、待っていた。

 

 暖炉の薪が、崩れる。

 

「……線」

 

 忉利は、ようやく口を開いた。

 

「あんたの周りに、線が見えた。まっすぐな線。定規で引いたみてえな。……三日前、この屋敷の窓から見た、町の空の線と、同じだった」

 

 女の笑みが、ほんのわずかに、深くなった。

 

「そう」

 

 それから、女は、ゆっくりと右手を持ち上げた。

 

 細い指先が、自分の眼鏡のつるに、そっとかかる。

 

「なら、隠す意味はないわね」

 

 眼鏡を、外した。

 

 その瞬間。

 

 居間の空気が、変わった。

 

 女の顔から、柔らかな微笑みが、すうっと消えていった。代わりに浮かび上がったのは、刃物のように冷たく、硝子のように透き通った、何の感情もない表情だった。

 

 切れ長の目が、忉利を見下ろす。

 

 さっきまで、同じ目で珈琲を褒めていたとは、とても思えなかった。

 

「―――さて」

 

 声も、違った。

 

 低く、硬く、抑揚のない。まるで、研究者が標本に向かって話しかけるような声。

 

「ここからは、仕事の話をしよう」

 

 女は、外した眼鏡を、胸のポケットに差し込んだ。

 

「その線は、私が引いたものだ。この一ヶ月、三咲の地下に張られた古い網を、一目ずつ解いてきた。……ずいぶん、手間のかかる作業だったよ。何しろ、網を張った人間の癖を、私はよく知っているからね」

 

「……あんたが」

 

「遊園地の人形たちも、私の作品だ。ずいぶん壊してくれたようだね。まあ、あれは試作品だ。構わないさ。……青子の顔をしたあれも、癖を写すには、まだ足りなかった」

 

 忉利の拳が、握りしめられた。

 

 公園の人形。遊園地の人形。

 

 青子の手の、絆創膏。

 

 夜な夜な、町に出ていく背中。

 

 死人のような顔。

 

「……お前が、青子を」

 

「名乗っていなかったな」

 

 女は、忉利の言葉を遮った。

 

 椅子の背にもたれ、長い脚を組む。

 

「蒼崎橙子だ」

 

 忉利の思考が、止まった。

 

「……蒼崎?」

 

「青子の姉だよ」

 

 橙子は、何でもないことのように言った。

 

「もっとも、あの子は、君に一度も私の話をしなかったようだがね」

 

 姉。

 

 青子に、姉がいた。

 

 物心ついた頃から、隣にいた。蒼崎の家にも、何度も上がった。それなのに、一度も、そんな話は聞いたことがなかった。

 

 ―――誰かに、似てる。

 

 さっき、玄関ホールで感じた既視感の正体が、ようやくわかった。

 

 立ち姿。背筋の伸ばし方。笑い方。

 

 全部、青子に似ていた。

 

「…………」

 

 忉利は、何も言えなかった。

 

 橙子は、その様子を、興味深そうに眺めていた。

 

「さて。本題だ」

 

 橙子の視線が、再び、忉利の眼帯の上で止まった。

 

「君の目について、少し確かめさせてもらうよ」

 

 右手が、持ち上がる。

 

 人差し指が、空中に、すっと一文字を描いた。

 

 さっき、ロビンを止めたものと同じような、角張った文字。

 

 その文字が、赤く燃え上がった。

 

 炎が、指先から放たれる。拳ほどの大きさの、赤い火球。それが、一直線に、忉利の顔めがけて――

 

 考えるより先に、右目が開いていた。

 

 眼帯が、弾け飛ぶ。

 

 見えた。

 

 火球の真ん中を、まっすぐに貫く、一本の細い線。文字の形そのものを縫い合わせているような、たった一本の。

 

「――っ!」

 

 切れろ、と思う暇もなかった。

 

 ただ、見た。

 

 それだけで。

 

 火球が、線に沿って、ぱっくりと二つに割れた。

 

 割れた炎は、忉利の顔の両脇を、ほんの数センチの距離ですり抜け――そのまま、空中で、ふっと掻き消えた。

 

 熱風だけが、頬を撫でていった。

 

「……っ、ぐ……」

 

 遅れて、痛みが来た。

 

 右目の奥で、治りかけていた何かが、また千切れる。忉利は片膝をつき、右目を押さえた。指の間から、一筋、赤いものが伝い落ちる。

 

「日景」

 

 草十郎が、忉利の前に立ちはだかった。

 

 右腕を広げ、橙子と忉利の間に、身体を割り込ませる。

 

 橙子は、椅子に座ったまま、動かなかった。

 

 ただ、忉利を――忉利の、血に濡れた右目を、じっと見つめていた。

 

 その唇が、ゆっくりと、弧を描いた。

 

「――素晴らしい」

 

 囁くような声だった。

 

 けれど、そこには、隠しきれない熱があった。

 

 研究者が、生涯をかけて探し求めていた標本を、ついに目の前にした時のような。芸術家が、自分の最高傑作に欠けていた最後の一片を、ついに見つけ出した時のような。

 

「回路もない。魔力もない。術式も、手順も、何もない。……それなのに、私のルーンを、ただ見ただけで両断した」

 

 橙子は、ゆっくりと立ち上がった。

 

「魔眼の格付けなど、これの前では意味をなさないな。宝石か、あるいはそれ以上か。万象の継ぎ目を見て、断つ。境界の、さらにその果てを見る眼」

 

 一歩。

 

「名前がないなら、私がつけてやろう」

 

 また一歩。

 

「―――絶境の魔眼」

 

 橙子は、草十郎の肩越しに、忉利を見下ろした。

 

「君の目は、私の最高傑作に、ちょうどいい」

 

「……最高、傑作……?」

 

「私は、人形師でね。生涯をかけて、一体の人形を作ろうとしている。この世のどんな人間よりも、人間らしい人形を。……その人形に、ずっと足りないものがあった」

 

 橙子の指先が、空中で、何かの形をなぞった。

 

 目の形だった。

 

「世界を、正しく見る目だ。……それが、今日、ここにあった」

 

 草十郎が、一歩、前に出た。

 

「日景には、触らせない」

 

 橙子は、ちらりと草十郎を見た。

 

「君も、面白いな。静希草十郎、だったか」

 

「なぜ、俺の名前を知っている」

 

「調べたからさ。……君にも、いずれ用がある。その無意識のない身体は、実に興味深い。青子のものになる前に、私が先に見つけていれば、と思うくらいにはね」

 

 橙子は、それ以上は近づかなかった。

 

 代わりに、胸のポケットから眼鏡を取り出して、指先でくるりと回した。

 

「安心したまえ。今日は、挨拶に来ただけだ。……それに」

 

 橙子は、居間の窓の方に目をやった。

 

「そろそろ、戻ってくる頃だ。河原の子たちは、足止めにしかならないからね」

 

 玄関の扉が、叩き割られるような音を立てて開いた。

 

「――忉利!! 静希くん!!」

 

 青子の声だった。

 

 廊下を駆けてくる、乱れた足音。二人分。

 

 居間の扉が、開いた。

 

 青子の言葉が、途中で、止まった。

 

 暖炉の前に立つ、背の高い女。長い髪。外した眼鏡を、指先で弄んでいる。

 

 その足元で、片膝をついた忉利。右目から、血を流して。

 

 その前に立ちはだかる、草十郎。

 

 青子の顔から、血の気が、音を立てて引いていった。

 

「…………姉貴」

 

 掠れた声だった。

 

 橙子は、ゆっくりと振り返った。

 

「やあ、青子。久しぶりだな」

 

 何の感情もない声だった。

 

 まるで、昨日も会ったかのように。

 

 青子の後ろで、有珠が、居間の入り口に立ち尽くしていた。

 

 その目が、橙子を捉える。

 

「……橙子」

 

「やあ、有珠。君も、元気そうで何よりだ」

 

 橙子は、有珠に、ほんのわずかに顎を引いてみせた。

 

「スナークのことは、残念だったね。あの子の最期は、給水塔の上からでもよく見えたよ。……実に、見事な散り際だった」

 

 有珠の指先が、白くなるほど、握り込まれた。

 

「――河原の人形は、囮だったのね」

 

「網を一つ解けば、君たちが必ず塞ぎに来る。この一ヶ月、ずっとそうだったからね。今日は、少し趣向を変えただけだ。……私は、君たちの動きをよく知っているんだよ。この町の網を張ったのが誰で、その癖がどういうものか。この屋敷の結界が、誰の手で、どう組まれているか」

 

 橙子は、青子を見た。

 

「全部、昔、私が教わったものだからね」

 

 青子の身体が、震えた。

 

 怒りだった。

 

 両手に、青い光が灯る。河原で撃ち尽くしかけた回路に、無理やり熱が流し込まれていく。

 

「――っ、忉利に、何したのよ」

 

「何も。少し、目を見せてもらっただけだ」

 

「ふざけないでッ!!」

 

 青子が、撃った。

 

 青い光が、居間の空気を裂く。

 

 橙子は、動かなかった。

 

 ただ、指先で、空中に一文字を描いた。

 

 光が、橙子の目の前で、見えない壁に当たったように、弾けて散った。

 

「相変わらず、短気だな」

 

 橙子は、つまらなそうに言った。

 

「今日は、挨拶に来ただけだと言っただろう」

 

 橙子は、外套を拾い上げ、袖を通した。

 

 胸のポケットから眼鏡を取り出し、かけ直す。

 

 その瞬間、顔から、刃物のような冷たさが、嘘のように消えた。

 

「――それじゃあ、今日はこれで失礼するわね」

 

 柔らかな声だった。

 

 さっきまでと、まるで別人のように。

 

「珈琲、本当においしかったわ。ありがとう、忉利くん」

 

 名乗っていないはずの名前を、橙子は、当たり前のように口にした。

 

「また、来るわね」

 

 橙子は、青子の脇を、すっと通り過ぎた。

 

 青子は、動けなかった。震える両手に青い光を灯したまま、ただ、姉の横顔を睨みつけていた。

 

 居間の扉の前で、橙子は、一度だけ足を止めた。

 

 振り返らずに、言う。

 

「その目、大事にしておいてね」

 

 優しい声で。

 

 温かい声で。

 

「私のものになるまで」

 

 足音が、廊下を遠ざかっていく。

 

 玄関の扉が開き、閉まる音。

 

 居間に、静寂が戻った。

 

 暖炉の火が、ぱちりと爆ぜる。

 

 最初に口を開いたのは、有珠だった。

 

「……入れたのね」

 

 冷たい声だった。

 

 草十郎と、忉利を、順番に見る。

 

「誰が来ても、開けるなと言ったはずよ」

 

「開けてねえよ」

 

 忉利は、右目を押さえたまま言った。

 

「勝手に、開いたんだ。……錠が、向こうから回った」

 

「…………」

 

 有珠は、何も言わなかった。

 

 この屋敷の結界の癖を、知っている者。

 

 母の代から、この屋敷に出入りしていた者。

 

 有珠は、居間の窓辺に歩み寄り、外の夕闇を見つめた。

 

 その横顔は、いつもと同じ無表情だった。けれど、窓枠に置かれた白い指先は、かすかに、震えていた。

 

 青子の手から、青い光が、ふっと消えた。

 

 そのまま、膝から、床に崩れ落ちる。

 

「――青子」

 

 忉利は、血の流れる右目を押さえたまま、青子の方に手を伸ばした。

 

 青子は、床に座り込んだまま、動かなかった。

 

 両手を膝の上で握りしめ、うつむいている。長い髪が、顔を隠していた。

 

「……おい」

 

 忉利は、青子の前に膝をついた。

 

「姉貴って、なんだよ」

 

 青子の肩が、ぴくりと震えた。

 

「お前、姉貴なんて、いたのかよ」

 

 青子は、答えなかった。

 

 ただ、うつむいたまま、かすかに首を横に振った。

 

 否定ではなかった。

 

 答えたくない、という仕草だった。

 

 忉利は、それ以上、訊かなかった。

 

 ただ、血の流れる右目を押さえたまま、青子の隣に、腰を下ろした。

 

 肩が、触れるか触れないかの距離で。

 

 しばらく、どちらも、口を開かなかった。

 

「……私が」

 

 やがて、青子が、うつむいたまま、小さく言った。

 

「私が、隠してたのよ。ずっと。……小学校の時から」

 

「…………」

 

「あんたにも。晴華ちゃんにも。おじさんにも。……蒼崎には、姉なんていない。そういうことに、してた」

 

 青子の声が、震えた。

 

「そしたら、ほんとに、いなくなったの。……中二の時。それきり、一回も帰ってこなかった」

 

 忉利は、何も言わなかった。

 

 中学二年の、あの年。青子が、しばらく、店に来なかった時期があった。理由を訊いても、答えなかった。何週間かして、いつもの顔で戻ってきて、それきり、その話はしなかった。

 

 あれが、そうだったのだ。

 

「……なんで、戻ってきたのよ」

 

 青子は、膝の上の拳を、握りしめた。

 

「なんで、今になって」

 

 答える者は、誰もいなかった。

 

 止まり木の上で、剥製のように固まったロビンが、翼を半分広げたまま、ずっと同じ場所を見つめていた。

 

 夜は、まだ、長かった。

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