隣の市の水族館は、海沿いの小さな建物だった。
平日の午後で、客はほとんどいなかった。薄暗い通路の両側に、青い光を湛えた大きな硝子の壁がどこまでも続いている。
有珠はその硝子の前で、足を止めたまま動かなかった。
鰯の群れが銀色の渦を巻いて、硝子の向こうを回っている。何千匹もが一つの生き物のように、同じ向きに、同じ速さで。
「……有珠。次、行くわよ」
「まだ」
「もう十分見てるじゃない」
「まだよ」
有珠は硝子から目を離さなかった。
青子は溜息をついて、隣に並んだ。
鰯の渦をしばらく一緒に見た。
「……きれいね」
「ええ」
「静希くんに礼、言わなきゃ」
「……ええ」
有珠はそれきり、何も言わなかった。
けれど、その白い横顔が青い光の中で、ほんの少しだけ幼く見えた。
青子はポケットの中の、もう使い終わった二枚の招待券を指先で確かめた。
こんな午後は三年ぶりだった。
夜の見回りも、網の繕いも、削られた結び目の地図も、全部、坂の上の屋敷に置いてきて。ただ魚を見ているだけの、午後。
――あいつ、ちゃんと留守番してるかしら。
ふと、そう思った。
珈琲、淹れてなければいいけど。
いや、淹れているだろう。有珠がいないのだから。
青子は少しだけ笑った。
◇
「――こんにちは」
扉の向こうの声は柔らかかった。
冬の午後の冷気の中で、そこだけ暖炉の火が灯ったような、穏やかな女の声。
「お留守のようね。……誰か、いるかしら?」
忉利は玄関ホールの真ん中で、動けずにいた。
磨り硝子の向こうに、背の高い人影が滲んでいる。長い外套。長い髪。そして、目のあたりで午後の光をきらりと弾く、眼鏡のレンズ。
右目の奥が疼いている。
ずきり、ずきりと。遊園地で線を断った時ほどではない。けれど確かに、何かを見ろと急かすように。
「……日景」
隣で草十郎が小さく言った。
「開けない方がいいか」
「……ああ」
蒼崎の言いつけだ、と草十郎は頷いた。
止まり木の上で、ロビンが全身の羽毛を逆立てたまま固まっている。
「……誰だよ。こんな時間に」
「あら、男の子の声」
扉の向こうで女がくすりと笑った気配がした。
「驚いたわ。有珠のお屋敷に、男の子がいるなんて。……私は、ここの主の古い知り合いよ。ちょっと近くまで来たものだから、顔を見に寄ったの」
「あいつは今いねえよ」
「そう。なら、戻ってくるまで待たせてもらえないかしら。外は、とても寒いのよ」
「悪いけど、開けらんねえ」
「どうして?」
「誰が来ても開けるなって、言われてる」
「……ふふ」
女はまた笑った。
「青子に?」
忉利の背筋がぴくりと強張った。
「いい子ね、あなた。言いつけをちゃんと守って」
その声はどこまでも穏やかだった。
穏やかすぎて、忉利はぞくりとした。
―――見ろ。
右目の奥で何かが囁く。
忉利は眼帯をゆっくりとずらした。
まだ赤く充血した右目で、磨り硝子の向こうの人影を見た。
息が止まった。
線が、あった。
女の身体の周りに、無数の細い黒い線。けれど、それは今まで見てきたどの線とも違っていた。遊園地の怪物たちに絡みついていた、うねるような線ではない。人の肩口にまとわりついていた、ぼやけた線でもない。
まっすぐだった。
定規で引いたように。製図台の上で烏口を走らせたように。完璧な直線と完璧な曲線だけで組み上げられた、精緻な、あまりにも精緻な網の目。
三日前の夜、屋敷の窓から見た町の上空の線と同じ。
町の西へと何かを手繰り寄せるように集まっていた、あの冷たい線と、まったく同じ筆致だった。
「――っ」
右目に鋭い痛みが走る。
忉利はとっさに眼帯を戻した。
扉の向こうで女がふっと黙り込んだ。
長い、長い沈黙。
「……あら」
女の声が少しだけ温度を変えた。
「今、あなた。……何を、見たの?」
忉利は答えなかった。
答えられなかった。
「まあ、いいわ」
かちり、と。
扉の錠が内側から回る音がした。
忉利も草十郎も、錠には指一本触れていなかった。
「この屋敷の結界の癖なら、よく知っているの。有珠とは長い付き合いだから」
重い扉がゆっくりと内側に開いていく。
冬の冷気と一緒に煙草の匂いが流れ込んできた。
「――お邪魔するわね」
◇
玄関ホールの明かりの下に、その女は立っていた。
背が高い。忉利とほとんど変わらないくらい。
上質な仕立ての、落ち着いた色の外套。その下に、白いシャツと、細身のスラックス。背中まで流れる長い髪は、明かりの加減で燃え残りの熾火のような、深い橙色に見えた。
縁の細い眼鏡の奥で、切れ長の目が柔らかく微笑んでいる。
年は二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。
美人だった。それも、町ですれ違えば誰もが振り返るような。
けれど、忉利が最初に思ったのはそんなことではなかった。
―――誰かに、似てる。
その笑い方。立ち姿。背筋の伸ばし方。
どこかで見たことがある。
草十郎が、女の顔を見て、わずかに身体を強張らせた。
パチンコ屋の硝子の向こうで、笑っていた女。
冬の小屋の外の暗闇にいた、何か。
「ト、トー……!」
止まり木の上で、ロビンが甲高い声を上げかけた。
女はそちらを見もしなかった。
ただ、右手の人差し指で空中にすっと何かを描いた。
小さな、角張った、見たこともない形の文字。
指先の軌跡が一瞬だけ淡く光った。
ロビンがぴたりと動きを止めた。
翼を半分広げたまま。嘴を開いたまま。まるで剥製になってしまったかのように、止まり木の上で、完全に静止していた。
「久しぶりね、駒鳥さん。……少しだけ静かにしていてね」
女は優しく微笑んだ。
「大丈夫よ。止めただけ。夜になれば元に戻るわ」
忉利は一歩後ずさった。
草十郎が無言で、その前に半歩出た。
女は二人を交互に見て、少しだけ首を傾げた。
「そんなに怖がらないで。取って食べたりしないわ」
それから玄関ホールの奥、居間へと続く扉に目をやった。
「暖炉、火が入っているでしょう? 少しだけ当たらせてもらえないかしら。本当に、寒くて」
断る、という選択肢はもうなかった。
扉の錠を指一本触れずに開けた女だ。駒鳥を指先ひとつで止めた女だ。
忉利は奥歯を噛みしめて、居間の扉を開けた。
◇
女は暖炉の前の、有珠がいつも座っている椅子に、当たり前のように腰を下ろした。
外套を脱いで膝の上に畳む。手袋を外して、白い指を炎にかざす。
「ああ、生き返るわ」
その仕草はどこまでも自然だった。
まるで、この屋敷に何度も来たことがあるかのように。
「……あんた、誰だよ」
居間の入り口に立ったまま、忉利は言った。
草十郎はその隣で、黙って女を見ている。
「名乗るのは後にしましょう」
女は炎を見つめたまま答えた。
「その前に、一つお願いがあるの。……珈琲、淹れてもらえないかしら」
「……は?」
「あなたたちからいい匂いがするのよ。深煎りの、とても丁寧に淹れた珈琲の匂い」
女は振り返って、忉利に微笑みかけた。
「この屋敷、紅茶しか置いていないでしょう。有珠のこだわりは昔から変わらないのね。……でも、私は、珈琲の方が好きなの」
忉利はしばらく女の顔を見つめていた。
罠かもしれない。台所に行っている間に、何をされるかわからない。
けれど、ここで逆らって何ができる。
「……静希。ここにいてくれ」
「ああ」
忉利は台所へ向かった。
父の豆を、挽く。ネルに、粉を落とす。湯を、細く注ぐ。
手が少しだけ震えていた。
それでも、湯を落とす手つきだけは崩さなかった。崩せば、味が落ちる。どんな相手に出す一杯でも、父は手を抜いたことがなかった。
カップを持って居間に戻ると、女は草十郎と向かい合って座っていた。
正確には、女が一方的に草十郎を観察していた。
「――面白いわね、あなた」
女は頬杖をついて、草十郎の顔をしげしげと眺めていた。
「どこから来たの?」
「山だ」
「山。……ずいぶん深い山のようね。電気も通っていないような」
「うん、通っていなかった」
「ふふ。道理で」
女は細い指で、空中に何かをなぞるような仕草をした。
「あなたの身体、とても不思議。無意識が、ないのね。何をするにも、いちいち自分で決めてから動いている。息を吸うのも、瞬きをするのも、全部。……人払いも暗示も、効かなかったでしょう?」
草十郎は少しだけ首を傾げた。
「よくわからない。でも、蒼崎にも同じようなことを言われたな」
「でしょうね。青子の暗示なんて、あなたにはきっと扉を叩く音くらいにしか聞こえないわ」
女は心底楽しそうに笑った。
「それに、その首輪。……青子が贈ったのね」
草十郎は首の革の首輪に、右手で触れた。
「どうしてわかるんだ?」
「わかるわよ。あの子は昔から、自分のものに印をつけたがるの。……あなたは、青子のものなのね」
「……俺は蒼崎のものじゃないよ」
「そう?」
女は微笑んだまま、首を傾げた。
「でも、あの子は、そう思っているわ。だから、首輪なのよ」
そこに忉利がカップを差し出した。
「……ほらよ」
「ありがとう」
女は両手でカップを受け取った。
鼻を近づけて香りを吸い込む。目を閉じる。
一口。
女の目が眼鏡の奥で、ゆっくりと開かれた。
「……おいしい」
その声は社交辞令ではなかった。
「いい豆ね。焙煎も、とても丁寧。……それに、淹れ方がいいわ。湯の温度も落とす速さも、完璧。あなた、喫茶店の子でしょう」
「……だったら何だよ」
「別に。ただ、嬉しいの」
女はカップを両手で包んだまま、ふっと目を細めた。
「こんなにおいしい珈琲を淹れてくれる男の子がいるなら、この町も捨てたものじゃないわね」
その笑顔は本当に優しかった。
優しくて、温かくて――だからこそ、忉利はますます背筋が冷たくなった。
◇
同じ頃。
隣の市から三咲へ戻る、川沿いの道。
夕暮れの土手の上で、青子は足を止めていた。
「……有珠」
「見えているわ」
土手の下の、河原。冬枯れの葦の間に、白いものが、立っていた。
一体。二体。五体。
数えるのをやめた。
三十を超えていた。顔のない白い面。軋む関節。公園で、遊園地で砕いてきたものと同じ人形が、河原一面にまるで植えられたように立ち並んでいる。
夕陽がその白い面を橙色に染めていた。
「……水族館の招待券」
青子は低く言った。
「おばあさんの福引、ですって。……できすぎてると、思わなかった?」
「思ったわ」
有珠は外套の襟を立てた。
「でも、魚は、きれいだった」
「そうね」
青子はコートの釦を一つ外した。
「……行くわよ」
三十体の人形が一斉に首をもたげた。
青子は土手を駆け下りた。
河原の石が靴の下で鳴る。冷たい川風が髪を巻き上げる。正面の五体が、滑るように向かってくる。
右手。青い光。
撃つ。額。撃つ。額。撃つ。額。
三体が崩れた。
残り二体が左右に分かれて、腕を刃のように振り上げる。青子は身を沈めた。二本の白い腕が頭上で交差する。その下から、両手を突き上げた。
二発。二つの額。
崩れる。
背後で、砂利を踏む音。振り返る暇はない。
青子は振り返らなかった。
背後の人形の腕が青子の肩に届く、その寸前。
人形の足元の河原の石が、ぐにゃりと盛り上がった。
石ではなかった。
鉛だった。
鈍い灰色の、鉛の兵隊。片脚しかない小さな玩具の兵隊が、河原の石の間から何十体も、一斉に立ち上がっていた。銃剣を構えて。片脚で、律儀に整列して。
「――撃て」
土手の上で、有珠が静かに言った。
鉛の兵隊たちの銃剣が一斉に、人形たちの膝を貫いた。
三十体の人形が一斉に、膝から崩れた。
立ち上がれない。片脚しかない兵隊が両脚を奪う。それがこの童話の筋書きだった。
「……有珠。あんた、そういうの持ってるなら、最初から出しなさいよ」
「あなたが先に駆け下りたのよ」
有珠は土手をゆっくりと下りてきた。
膝を砕かれて河原に這いつくばる人形たちの間を、黒い服の裾を引きずって歩く。
青子は額を撃っていった。一体。二体。十体。二十体。
三十体目の面が砕けて、河原に静寂が戻った時。
有珠が川の方を見ていた。
「……青子」
「なに」
「これは足止めよ」
有珠の声が硬かった。
「わたしたちを、ここに引き留めるための。……屋敷が、空いている」
青子の顔から血の気が引いた。
忉利。静希くん。
二人は河原を駆け出した。
◇
居間で、女は珈琲を飲み干した。
空になったカップを、暖炉の脇の小卓にそっと置く。
「ごちそうさま。本当に、おいしかったわ」
そして、ゆっくりと忉利の方に顔を向けた。
「それで」
眼鏡の奥の目が、忉利の眼帯をまっすぐに捉えた。
「さっき、扉越しに私を見たでしょう。……何が、見えたの?」
忉利は答えなかった。
女は急かさなかった。ただ、微笑んだまま、待っていた。
暖炉の薪が崩れる。
「……線」
忉利はようやく口を開いた。
「あんたの周りに、線が見えた。まっすぐな線。定規で引いたみてえな。……三日前、この屋敷の窓から見た、町の空の線と同じだった」
女の笑みが、ほんのわずかに深くなった。
「そう」
それから、女はゆっくりと右手を持ち上げた。
細い指先が、自分の眼鏡のつるにそっとかかる。
「なら、隠す意味はないわね」
眼鏡を、外した。
その瞬間。
居間の空気が変わった。
女の顔から柔らかな微笑みが、すうっと消えていった。代わりに浮かび上がったのは、刃物のように冷たく、硝子のように透き通った、何の感情もない表情だった。
切れ長の目が忉利を見下ろす。
さっきまで、同じ目で珈琲を褒めていたとは、とても思えなかった。
「―――さて」
声も違った。
低く、硬く、抑揚のない。まるで研究者が標本に向かって話しかけるような声。
「ここからは、仕事の話をしよう」
女は外した眼鏡を、胸のポケットに差し込んだ。
「その線は、私が引いたものだ。この一ヶ月、三咲の地下に張られた古い網を一目ずつ解いてきた。……ずいぶん手間のかかる作業だったよ。何しろ、網を張った人間の癖を、私はよく知っているからね」
「……あんたが」
「遊園地の人形たちも、私の作品だ。ずいぶん壊してくれたようだね。まあ、あれは試作品だ。構わないさ。……青子の顔をしたあれも、癖を写すにはまだ足りなかった」
忉利の拳が握りしめられた。
公園の人形。遊園地の人形。
青子の手の絆創膏。
夜な夜な町に出ていく背中。
死人のような顔。
「……お前が、青子を」
「名乗っていなかったな」
女は忉利の言葉を遮った。
椅子の背にもたれ、長い脚を組む。
「蒼崎橙子だ」
忉利の思考が止まった。
「……蒼崎?」
「青子の姉だよ」
橙子は何でもないことのように言った。
「もっとも、あの子は君に一度も私の話をしなかったようだがね」
姉。
青子に姉がいた。
物心ついた頃から隣にいた。蒼崎の家にも何度も上がった。それなのに、一度も、そんな話は聞いたことがなかった。
―――誰かに、似てる。
さっき、玄関ホールで感じた既視感の正体が、ようやくわかった。
立ち姿。背筋の伸ばし方。笑い方。
全部、青子に似ていた。
「…………」
忉利は何も言えなかった。
橙子はその様子を、興味深そうに眺めていた。
「さて。本題だ」
橙子の視線が再び、忉利の眼帯の上で止まった。
「君の目について、少し確かめさせてもらうよ」
右手が持ち上がる。
人差し指が空中にすっと一文字を描いた。
さっきロビンを止めたものと同じような、角張った文字。
その文字が赤く燃え上がった。
炎が指先から放たれる。拳ほどの大きさの、赤い火球。それが一直線に、忉利の顔めがけて――
考えるより先に、右目が開いていた。
眼帯が弾け飛ぶ。
見えた。
火球の真ん中をまっすぐに貫く、一本の細い線。文字の形そのものを縫い合わせているような、たった一本の。
「――っ!」
切れろ、と思う暇もなかった。
ただ、見た。
それだけで。
火球が線に沿って、ぱっくりと二つに割れた。
割れた炎は忉利の顔の両脇を、ほんの数センチの距離ですり抜け――そのまま空中で、ふっと掻き消えた。
熱風だけが頬を撫でていった。
「……っ、ぐ……」
遅れて痛みが来た。
右目の奥で、治りかけていた何かがまた千切れる。忉利は片膝をつき、右目を押さえた。指の間から一筋、赤いものが伝い落ちる。
「日景」
草十郎が忉利の前に立ちはだかった。
右腕を広げ、橙子と忉利の間に身体を割り込ませる。
橙子は椅子に座ったまま、動かなかった。
ただ、忉利を――忉利の血に濡れた右目を、じっと見つめていた。
その唇がゆっくりと弧を描いた。
「――素晴らしい」
囁くような声だった。
けれど、そこには隠しきれない熱があった。
研究者が生涯をかけて探し求めていた標本を、ついに目の前にした時のような。芸術家が自分の最高傑作に欠けていた最後の一片を、ついに見つけ出した時のような。
「回路もない。魔力もない。術式も、手順も、何もない。……それなのに、私のルーンを、ただ見ただけで両断した」
橙子はゆっくりと立ち上がった。
「魔眼の格付けなど、これの前では意味をなさないな。宝石か、あるいはそれ以上か。万象の継ぎ目を見て、断つ。境界の、さらにその果てを見る眼」
一歩。
「名前がないなら、私がつけてやろう」
また一歩。
「―――絶境の魔眼」
橙子は草十郎の肩越しに、忉利を見下ろした。
「君の目は、私の最高傑作にちょうどいい」
「……最高、傑作……?」
「私は、人形師でね。生涯をかけて、一体の人形を作ろうとしている。この世のどんな人間よりも、人間らしい人形を。……その人形に、ずっと足りないものがあった」
橙子の指先が空中で、何かの形をなぞった。
目の形だった。
「世界を、正しく見る目だ。……それが今日、ここにあった」
草十郎が一歩、前に出た。
「日景には触らせない」
橙子はちらりと草十郎を見た。
「君も面白いな。静希草十郎、だったか」
「どうして俺の名前を知っているんだ」
「調べたからさ。……君にも、いずれ用がある。その無意識のない身体は実に興味深い。青子のものになる前に、私が先に見つけていれば、と思うくらいにはね」
橙子はそれ以上は近づかなかった。
代わりに胸のポケットから眼鏡を取り出して、指先でくるりと回した。
「安心したまえ。今日は、挨拶に来ただけだ。……それに」
橙子は居間の窓の方に目をやった。
「そろそろ戻ってくる頃だ。河原の子たちは、足止めにしかならないからね」
◇
玄関の扉が、叩き割られるような音を立てて開いた。
「――忉利!! 静希くん!!」
青子の声だった。
廊下を駆けてくる、乱れた足音。二人分。
居間の扉が開いた。
青子の言葉が途中で止まった。
暖炉の前に立つ、背の高い女。長い髪。外した眼鏡を指先で弄んでいる。
その足元で片膝をついた忉利。右目から、血を流して。
その前に立ちはだかる、草十郎。
青子の顔から血の気が、音を立てて引いていった。
「…………姉貴」
掠れた声だった。
橙子はゆっくりと振り返った。
「やあ、青子。久しぶりだな」
何の感情もない声だった。
まるで昨日も会ったかのように。
青子の後ろで、有珠が居間の入り口に立ち尽くしていた。
その目が橙子を捉える。
「……橙子」
「やあ、有珠。君も元気そうで何よりだ」
橙子は有珠に、ほんのわずかに顎を引いてみせた。
「スナークのことは残念だったね。あの子の最期は、給水塔の上からでもよく見えたよ。……実に、見事な散り際だった」
有珠の指先が、白くなるほど握り込まれた。
「――河原の人形は囮だったのね」
「網を一つ解けば、君たちが必ず塞ぎに来る。この一ヶ月、ずっとそうだったからね。今日は少し趣向を変えただけだ。……私は、君たちの動きをよく知っているんだよ。この町の網を張ったのが誰で、その癖がどういうものか。この屋敷の結界が、誰の手で、どう組まれているか」
橙子は青子を見た。
「全部、昔、私が教わったものだからね」
青子の身体が震えた。
怒りだった。
両手に、青い光が灯る。河原で撃ち尽くしかけた回路に、無理やり熱が流し込まれていく。
「――っ、忉利に何したのよ」
「何も。少し目を見せてもらっただけだ」
「ふざけないでッ!!」
青子が撃った。
青い光が居間の空気を裂く。
橙子は動かなかった。
ただ、指先で空中に一文字を描いた。
光が橙子の目の前で、見えない壁に当たったように、弾けて散った。
「相変わらず短気だな」
橙子はつまらなそうに言った。
「今日は、挨拶に来ただけだと言っただろう」
橙子は外套を拾い上げ、袖を通した。
胸のポケットから眼鏡を取り出し、かけ直す。
その瞬間、顔から刃物のような冷たさが、嘘のように消えた。
「――それじゃあ、今日はこれで失礼するわね」
柔らかな声だった。
さっきまでとまるで別人のように。
「珈琲、本当においしかったわ。ありがとう、忉利くん」
名乗っていないはずの名前を、橙子は当たり前のように口にした。
「また、来るわね」
橙子は、青子の脇をすっと通り過ぎた。
青子は動けなかった。震える両手に青い光を灯したまま、ただ、姉の横顔を睨みつけていた。
居間の扉の前で、橙子は一度だけ足を止めた。
振り返らずに、言う。
「その目、大事にしておいてね」
優しい声で。
温かい声で。
「私のものになるまで」
足音が廊下を遠ざかっていく。
玄関の扉が開き、閉まる音。
居間に静寂が戻った。
暖炉の火がぱちりと爆ぜる。
◇
最初に口を開いたのは、有珠だった。
「……入れたのね」
冷たい声だった。
草十郎と忉利を、順番に見る。
「誰が来ても、開けるなと言ったはずよ」
「開けてねえよ」
忉利は右目を押さえたまま言った。
「勝手に開いたんだ。……錠が、向こうから回った」
「…………」
有珠は何も言わなかった。
この屋敷の結界の癖を知っている者。
母の代からこの屋敷に出入りしていた者。
有珠は居間の窓辺に歩み寄り、外の夕闇を見つめた。
その横顔は、いつもと同じ無表情だった。けれど、窓枠に置かれた白い指先は、かすかに震えていた。
青子の手から青い光が、ふっと消えた。
そのまま膝から、床に崩れ落ちる。
「――青子」
忉利は血の流れる右目を押さえたまま、青子の方に手を伸ばした。
青子は床に座り込んだまま、動かなかった。
両手を膝の上で握りしめ、うつむいている。長い髪が顔を隠していた。
「……おい」
忉利は青子の前に膝をついた。
「姉貴って、なんだよ」
青子の肩がぴくりと震えた。
「お前、姉貴なんて、いたのかよ」
青子は答えなかった。
ただうつむいたまま、かすかに首を横に振った。
否定ではなかった。
答えたくない、という仕草だった。
忉利はそれ以上、訊かなかった。
ただ、血の流れる右目を押さえたまま、青子の隣に腰を下ろした。
肩が触れるか触れないかの距離で。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
「……私が」
やがて、青子がうつむいたまま、小さく言った。
「私が、隠してたのよ。ずっと。……小学校の時から」
「…………」
「あんたにも。晴華ちゃんにも。おじさんにも。……蒼崎には、姉なんていない。そういうことに、してた」
青子の声が震えた。
「そしたら、ほんとに、いなくなったの。……中二の時。それきり一回も帰ってこなかった」
忉利は何も言わなかった。
中学二年の、あの年。青子が、しばらく店に来なかった時期があった。理由を訊いても答えなかった。何週間かして、いつもの顔で戻ってきて、それきりその話はしなかった。
あれがそうだったのだ。
「……なんで、戻ってきたのよ」
青子は膝の上の拳を握りしめた。
「なんで、今になって」
答える者は誰もいなかった。
止まり木の上で、剥製のように固まったロビンが翼を半分広げたまま、ずっと同じ場所を見つめていた。
夜は、まだ長かった。
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