夜明けの色を見る眼   作:にんら

9 / 10
姉

 午前二時。

 

 久遠寺邸の台所に、明かりが一つだけ灯っていた。

 

 調理台の上の古いランプが、橙色の光で、石の床に長い影を落としている。窓の外は、まだ深い夜の底だった。

 

 忉利は、右目に新しい布を当てて、椅子に座っていた。

 

 有珠が、無言で薬を塗ってくれた。青臭い、冷たい軟膏だった。塗られた瞬間は火を押しつけられたように痛んだが、今は、熱がすうっと引いていくのがわかる。

 

 有珠は、それきり何も言わずに、自室に戻っていった。

 

 廊下の止まり木では、ロビンが、まだ翼を広げたまま固まっている。夜になれば戻る、と、あの女は言っていた。もう夜は深いのに、駒鳥は、まだ剥製のままだった。

 

 蒼崎橙子。

 

 青子の、姉。

 

「…………」

 

 台所の入り口に、人影が立った。

 

 青子だった。

 

 カーディガンの前を掻き合わせて、裸足のまま。長い髪は、ほどけて背中に落ちている。

 

 顔は、見えなかった。ランプの光が届かない、廊下の暗がりに立っていたから。

 

「……寝てねえのか」

 

「……眠れるわけ、ないでしょ」

 

 青子は、台所に入ってきた。

 

 調理台の脇の、忉利の向かいの椅子に、膝を抱えるようにして座る。

 

 ランプの光に照らされたその顔は、ひどく疲れていた。泣いた跡は、なかった。泣くことすら、できなかったような顔だった。

 

 しばらく、二人とも黙っていた。

 

 ランプの芯が、じじ、と小さく鳴る。

 

「……忉利」

 

「なんだよ」

 

「珈琲、淹れて」

 

 忉利は、左目を瞬かせた。

 

「……この屋敷、珈琲禁止だろ」

 

「今夜だけ、いいの」

 

「有珠に三日口きいてもらえなくなるぞ」

 

「いいの。……今夜は、あんたの珈琲が飲みたいの」

 

 青子は、膝に顎を乗せて、ぽつりと言った。

 

「中学の頃みたいに」

 

 忉利は、しばらく青子の顔を見ていた。

 

 それから、黙って立ち上がった。

 

 湯を沸かす。

 

 父の豆を、手回しのミルで挽く。ネルに粉を落とし、湯を細く注ぐ。

 

 粉が膨らむ。泡が、ゆっくりと沈んでいく。

 

 その間、青子は、何も言わなかった。

 

 ただ、膝を抱えたまま、忉利の手元を見ていた。中学の頃、Cafe HIKAGEのカウンターで、父の手元を見ていたのと同じ目で。

 

 カップを、青子の前に置く。

 

「ほらよ」

 

「……ありがと」

 

 青子は、両手でカップを包み込んだ。

 

 湯気に、鼻先を埋める。

 

 目を閉じて、深く、息を吸い込む。

 

 一口。

 

「…………」

 

 青子の肩から、ふっと、力が抜けた。

 

「……おじさんの味には、まだ届いてないわね」

 

「うるせえ」

 

「でも、おいしい」

 

 青子は、もう一口飲んだ。

 

 それから、カップを見つめたまま、静かに口を開いた。

 

「姉貴のこと、話すわ」

 

「蒼崎の家はね、魔術師の家なの」

 

 青子は、カップの縁を指でなぞりながら言った。

 

「何代も前から。この町の地下に、古い網を張って、それを守ってきた。……網の張り方も、結び目の場所も、五つの礎の場所も、全部、代々の跡取りにだけ受け継がれてきたの」

 

「……跡取り」

 

「そう。で、本当なら、その跡取りは姉貴のはずだったのよ」

 

 青子の声は、淡々としていた。

 

 淡々としすぎていて、かえって痛々しかった。

 

「姉貴は、天才だった。私なんかより、ずっと。物心ついた頃には、もうお祖父ちゃんの工房に預けられて、跡取りとしての教育を受けてた。山の奥の、洞穴の工房。……家に帰ってくるのは、年に一度あるかないか」

 

「……だから、会ったことねえのか」

 

「ええ。あんたがうちに遊びに来てた頃、姉貴はずっといなかった。私も、あんたに話したことはなかったし」

 

 青子は、少しだけ笑った。

 

「話したら、全部話さなきゃいけなくなるもの。姉貴がどうして家にいないのか。お祖父ちゃんの工房で、何を習ってるのか。……蒼崎の家が、何なのか」

 

「…………」

 

「あんたには、普通でいてほしかったのよ。私が、唯一、魔術のことを考えなくていい場所だったから。あの店のカウンターは」

 

 忉利は、何も言わなかった。

 

 ただ、自分のカップに口をつけた。苦い。いつもより、少しだけ苦い気がした。

 

「私は、町で育ったの。父さんと母さんと。父さんは、魔術の才能が、普通の人並みしかなかったから、家を継がなかった。……だから、私も、普通の子でいられたのよ。魔術のことは、知ってた。お祖父ちゃんが、魔法使いだってことも。でも、それは、姉貴の話で、私の話じゃなかった」

 

「…………」

 

「姉貴は、何でもできた」

 

 青子は、続けた。

 

「ルーンも、人形作りも、網の手入れも。お祖父ちゃんが教えることを、全部、教わる前から知ってたみたいに覚えていった。……私は、年に一度帰ってくる姉貴が、ちょっとだけ自慢だった」

 

「…………」

 

「なのに」

 

 青子の指が、カップの縁で止まった。

 

「お祖父ちゃんは、最後の最後で、私を選んだの」

 

 ランプの芯が、じじ、と鳴った。

 

「跡取りを。……蒼崎の家が、何代もかけて守ってきた、一番大事なものの、受け継ぎ手を。何年も教育を受けてきた姉貴じゃなくて、何も知らずに町で遊んでた、私を」

 

「……なんでだよ」

 

「知らないわよ。お祖父ちゃんは、何も言わなかったもの」

 

 青子は、カップを両手で強く握りしめた。

 

「中二の春よ。……お祖父ちゃんが、跡取りを私に変えるって言った。その次の日に、姉貴は、家を出ていった。それきり、一度も帰ってこなかった」

 

 忉利は、中学二年の、あの春を思い出そうとした。

 

 青子が、しばらく、店に来なかった。二週間ほど。理由を訊いても、答えなかった。戻ってきた時には、いつもの顔で、いつもの席に座って、ホットミルクではなく、父のブレンドを頼んだ。

 

 あの時からだ。

 

 青子が、珈琲を飲むようになったのは。

 

「……で、高一の春に、正式に、継いだのか」

 

「そう。三年前。……その日に、実家を出て、ここに来た」

 

 青子は、目を閉じた。

 

「姉貴の部屋が、ずっと空っぽのまま残ってて。母さんが、毎週、誰もいないのに掃除してて。……あの家に、いたくなかったの。私が取ったのよ。姉貴の居場所を」

 

「お前が取ったわけじゃねえだろ」

 

「同じことよ」

 

「同じじゃねえよ」

 

 忉利の声は、低かった。

 

「決めたのは、爺さんだろ。お前じゃねえ」

 

 青子は、答えなかった。

 

 ただ、膝を抱える腕に、ぎゅっと力を込めた。

 

「……姉貴は、私を恨んでる」

 

 小さな声だった。

 

「この一ヶ月、網を削ってたのも。人形を送り込んでたのも。全部、私への当てつけよ。私が受け継いだものを、一つずつ、目の前で壊していくつもりなんだわ」

 

「…………」

 

「なのに、今日、あんたの目まで欲しいって」

 

 青子の声が、震えた。

 

「私のせいよ。私が、あんたを巻き込んだから。あの夜、遊園地に来させちゃったから。あんたの目のことを、姉貴に知られちゃったから――」

 

「青子」

 

 忉利は、カップを置いた。

 

 調理台越しに、手を伸ばす。

 

 青子の頭に、ぽん、と手を置いた。

 

「遊園地に行ったのは、おれが勝手に決めたことだ。お前のせいじゃねえ」

 

「…………」

 

「それに」

 

 忉利は、気だるげに言った。

 

「姉貴だろうが何だろうが、おれの目が欲しいってんなら、やるわけねえだろ。こっちは片目潰れかけてんだぞ。これ以上持ってかれてたまるかよ」

 

 青子は、しばらく、忉利の手の下でじっとしていた。

 

 それから、小さく、鼻をすすった。

 

「……バカじゃないの」

 

「知ってる」

 

「ほんとに、バカ」

 

 青子は、忉利の手を払いのけなかった。

 

 ただ、膝に顔を埋めて、そのまま、長いこと動かなかった。

 

 ランプの炎が、二人の影を、石の壁の上で、ひとつに重ねていた。

 

 翌朝、忉利は、学校へ行く前に、Cafe HIKAGEに寄った。

 

 胸騒ぎがしていた。

 

 ゆうべ、あの女は、忉利の名前を知っていた。名乗ってもいないのに。喫茶店の子だということも、見抜いていた。

 

 なら、この店のことも。

 

 父のことも。晴華のことも。

 

 ドアベルを鳴らすと、カウンターの中から、晴華が顔を出した。

 

「あ、お兄ちゃん! おかえり……じゃなくて、いらっしゃい? どっちだろ」

 

「……どっちでもいい。二人とも、何ともねえか」

 

「え? 何ともないよ? 変なお兄ちゃん」

 

 晴華は、首を傾げた。

 

 それから、何かを思い出したように、ぱっと顔を輝かせた。

 

「あ、そうだ! ねえ聞いて、今朝ね、すっごく綺麗なお客さんが来たの!」

 

 忉利の背筋に、冷たいものが走った。

 

「……どんな」

 

「背が高くて、髪が短くて、眼鏡かけてて! なんか、大人の女の人って感じ! お父さんのブレンド頼んで、一口飲んで、『ああ、やっぱりこの味ね』って!」

 

 忉利は、瞬きをした。

 

 髪が、短い。

 

 昨日の午後、屋敷の暖炉の前に座っていた女の髪は、背中まで流れる、長いものだった。

 

 一晩で。

 

「…………」

 

「それでね、お兄ちゃんのこと訊かれたの。『この店の息子さんは、いつもこの時間はいないのかしら』って。だから、今は青子ちゃんのとこに住み込みで働いてますって言ったら、『そう、知ってるわ』って笑ってた」

 

 晴華は、無邪気に笑った。

 

「青子ちゃんのお友達かな? なんか、ちょっと青子ちゃんに似てたんだよね、笑い方とか」

 

 忉利は、カウンターの縁を、強く握りしめていた。

 

「……それで」

 

「え?」

 

「それで、その人、何か言ってたか」

 

「うーん……あ、帰り際に、わたしの頭撫でてくれた。『いいお兄さんね』って」

 

 晴華は、自分の頭を、嬉しそうに押さえた。

 

「それと、チップ置いてってくれたの。ほら」

 

 レジの横に、小さな紙片が一枚、置かれていた。

 

 千円札ではなかった。

 

 厚手の、上質な紙のカード。表には、何も書かれていない。

 

 裏返すと、角張った、見たこともない形の文字が、一つだけ、細い万年筆で書き込まれていた。

 

 ゆうべ、あの女が、指先で空中に描いたものとよく似た文字。

 

 右目が、ずきりと疼いた。

 

「……晴華」

 

「なに?」

 

「これ、おれがもらっていく」

 

「えー!? それ、わたしがもらったやつなのに!」

 

「悪い。今度、代わりに何か買ってやるから」

 

 忉利は、カードをポケットにねじ込んだ。

 

 カウンターの奥で、父が、焙煎機の火を落としていた。

 

 背中を向けたまま、言う。

 

「忉利」

 

「……なんだよ」

 

「今朝の客な」

 

 父は、振り返らなかった。

 

「ありゃ、ただの客じゃねえ」

 

 忉利は、父の背中を見た。

 

「珈琲を飲む時の目が、豆を見てなかった。店を見てた。俺を見てた。晴華を見てた。……値踏みするみてえにな」

 

 焙煎機の蓋を閉める、重い音。

 

「何に巻き込まれてるかは、訊かん」

 

 父は、ようやく振り返った。

 

 いつもと同じ、無口な、職人の顔だった。

 

 けれど、その目の奥に、忉利が今まで見たことのない、硬いものがあった。

 

「ただ、晴華を泣かせるような真似だけはするな。……お前も、青子ちゃんもだ」

 

 忉利は、しばらく父の目を見返していた。

 

 それから、小さく頷いた。

 

「……ああ」

 

「行ってこい」

 

 父は、また背中を向けた。

 

 忉利は、ドアベルを鳴らして店を出た。

 

 冬の朝の冷たい空気が、頬を切った。

 

 ポケットの中で、カードを握りしめる。

 

 ―――晴華の頭を、撫でていった。

 

 怒りが、腹の底で、ゆっくりと煮え立っていくのがわかった。

 

 放課後。

 

 青子は、忉利と一緒に、Cafe HIKAGEの前に立っていた。

 

 店の中には、入らなかった。

 

 夕暮れの商店街の、色の褪せた看板の下で、青子は、しばらく黙って、店の硝子戸を見ていた。

 

「……姉貴は」

 

 ぽつりと、言った。

 

「人の、一番大事なものから、手をつけるの。昔から。……私のギターの弦も、そうだった」

 

「…………」

 

「だから、ここに来た。……あんたの、一番大事なもの」

 

 青子は、コートのポケットから、手袋を外した右手を出した。

 

 人差し指の先に、青い光が、灯る。

 

 ほんの小さな、蛍のような光。

 

 青子は、その指先で、店の硝子戸の縁を、ゆっくりと、なぞった。

 

 右上から、左へ。左から、下へ。下から、右へ。

 

 戸口を、一周。

 

 それから、看板の下の壁。店の角。裏口へ続く路地の入り口。

 

 誰にも見えない線を、店の周りに、一本ずつ、引いていく。

 

 忉利は、右目の布を、少しだけずらした。

 

 見えた。

 

 青子の指先が通った跡に、青い線が、細く、残っている。それが、店の外壁を、ぐるりと一周して、繋がっていた。

 

 蒼崎の網の、いちばん小さな、一目。

 

 この店だけを、囲む網。

 

「……気休めよ」

 

 青子は、指先の光を消して、手袋を嵌め直した。

 

「姉貴が本気で来たら、こんなの、一息で解かれる。……でも、解かれたら、私にわかる。それだけ」

 

「…………」

 

「それだけでも、ないよりは、ましでしょ」

 

 青子は、店の硝子戸の向こうを見た。

 

 カウンターの奥で、父がネルを振っている。その手前で、晴華が、皿を拭いている。

 

「……おじさんと晴華ちゃんは、私の、大事なものでもあるのよ」

 

 小さな声だった。

 

「あんたの家、なんだから」

 

 忉利は、何も言わなかった。

 

 ただ、店の周りに引かれた、目に見えない青い線を、見ていた。

 

 今まで、青子の線は、いつも、戦うための線だった。撃つ線。砕く線。夜の中で、化け物を薙ぎ払う線。

 

 守るための線を、見たのは、初めてだった。

 

「……行くぞ」

 

「ええ」

 

 二人は、坂の上へ向かって、歩き出した。

 

 店の周りの青い線は、夕闇の中で、しばらく、ほのかに光っていた。

 

 その夜、久遠寺邸の居間には、四人と一羽が揃っていた。

 

 暖炉の前のテーブルに、忉利が持ち帰ったカードが置かれている。

 

 ロビンは、日暮れと同時に元に戻った。戻った瞬間から、ずっと喚き続けていた。

 

「あの女、あの女ッス! トーコの姐さんッス! 昔はマイ天使とも仲良しだったのに、なんであんな真似するんスか! おいらを置物にするなんて、あんまりッス!」

 

「黙りなさい、ロビン」

 

 有珠が、カードを指先でつまみ上げた。

 

 角張った文字を、じっと見つめる。

 

「……印ね」

 

「印?」

 

「目印よ。このカードがある場所を、橙子はいつでも見つけられる。……あなたの家に、あの女の目が一つ、置かれたということ」

 

 忉利の拳が、膝の上で握りしめられた。

 

「……親父と、晴華は」

 

「今のところは、見ているだけでしょうね。橙子は、無駄な殺しはしないわ。魔術師として、合理的だから」

 

 有珠は、カードを暖炉の火の中に放り込んだ。

 

 紙が、一瞬で燃え上がる。角張った文字が、炎の中で、ちりちりと赤く光ってから、消えた。

 

「でも、あなたの目を手に入れるためなら、何でも使うわ。あなたが一番嫌がることでも」

 

「……それと、もう一つ」

 

 忉利は、言った。

 

「晴華が言ってた。……髪が、短かったって」

 

 有珠の手が、止まった。

 

 青子が、顔を上げた。

 

「……昨日は、長かったわよね」

 

「ああ。背中まで、あった」

 

「一晩で、切った?」

 

「切ったのではないわ」

 

 有珠は、暖炉の炎を見つめた。

 

「捧げたのよ」

 

「……捧げた?」

 

「契約の、対価に」

 

 有珠の声が、低くなった。

 

「魔術師が、自分の一部を差し出して、何かと契約を結ぶ。髪は、いちばん、よく使われるものよ。切っても、痛くないから。……あの長さの髪を、一晩で全部差し出したなら、相手は、生半可なものではないわ」

 

「……使い魔、ってことか」

 

「ええ。とても、強い」

 

 草十郎が、口を開いた。

 

「久遠寺。……昨日、あの人からは、犬の匂いがした」

 

 全員が、草十郎を見た。

 

「外套に、染みついていた。大きな犬の匂いだ。……山の犬と同じ匂いだった」

 

 草十郎は、首の革の首輪に、無意識に指で触れた。

 

 子供の頃の、噛み傷の上に。

 

「犬は、苦手だ。……あの匂いは、人を食う獣の匂いだった」

 

 有珠は、長いこと、黙っていた。

 

 それから、小さく、息を吐いた。

 

「……人狼ね」

 

 青子の顔から、血の気が引いた。

 

「姉貴が、あんなものと……」

 

「ええ。橙子なら、やるわ。あの人は、必要なら、何とでも契約する」

 

 有珠は、暖炉から目を離さなかった。

 

「そして、その獣は、いずれ、ここに来る。……橙子が、連れてくる」

 

 青子が、ソファの肘掛けを、ぎりっと握りしめた。

 

「……姉貴は、私が止める」

 

「青子」

 

「私がやるの。蒼崎の家の問題よ。私が受け継いだものを狙ってるんだから、私が――」

 

「あなた一人で、勝てるの」

 

 有珠の声は、冷たかった。

 

「回路は、まだ半分も癒えていない。遊園地で焼き切れる寸前まで回して、河原で三十体撃って、昨日、また撃った。……それに、橙子の手の内を、あなたはどれだけ知っているの」

 

 青子は、答えられなかった。

 

「わたしも、行くわ」

 

 有珠は、暖炉の炎を見つめた。

 

「スナークの借りがあるもの」

 

 その声は、いつもと同じように平坦だった。

 

 けれど、その目の奥で、何かが、静かに、深く、燃えていた。

 

「俺も行く」

 

 草十郎が、言った。

 

「あの匂いの獣は、放っておけない。……山では、そういう獣が出たら、村の男が全員で行った」

 

「静希くん、あんた、人狼が何かわかってるの!」

 

 青子が、声を荒らげた。

 

「人間が素手で勝てる相手じゃ――」

 

「わかっている」

 

 草十郎は、静かに言った。

 

「でも、行く」

 

 青子は、言葉を失った。

 

 それから、その視線が、ゆっくりと忉利に向けられた。

 

「……あんたは、来ちゃ駄目よ」

 

「なんでだよ」

 

「姉貴が欲しいのは、あんたの目なのよ! のこのこ出ていったら、向こうの思う壺じゃない!」

 

「ここにいたって、向こうから来るだろ。昨日、来た」

 

「それでも――」

 

「それに」

 

 忉利は、右目の布に、指で触れた。

 

「あいつ、晴華の頭撫でてったんだぞ」

 

 低い声だった。

 

 気だるげな響きは、どこにもなかった。

 

「親父の店に、あの変な字を置いてった。……黙って待ってろってのかよ」

 

「その目を使ったら、あんた、死ぬわよ!」

 

 青子の声が、居間に響いた。

 

「遊園地で、何回死にかけたと思ってるの! 昨日だって、また血が出たじゃない! 次に本気で使ったら、今度こそ、本当に――」

 

 声が、詰まった。

 

 青子は、唇を噛んで、うつむいた。

 

 居間に、沈黙が落ちた。

 

 暖炉の炎が、四人の顔を、赤く照らしている。

 

「……使わねえよ」

 

 忉利は、ぼそりと言った。

 

「使わなきゃいけねえ時以外はな。……露台で、約束したろ」

 

「それが信用できないのよ……!」

 

「なら、使わなくて済むように、お前が守れ」

 

 青子が、顔を上げた。

 

 忉利は、気だるげに、けれどまっすぐに、青子を見ていた。

 

「おれは、お前の後ろにいる。お前が前に出る。で、どうしようもなくなったら、おれが切る。……それでいいだろ」

 

 青子は、しばらく忉利の目を見つめていた。

 

 それから、ぷいと顔を背けた。

 

「……勝手にすれば」

 

 その耳の先が、赤かった。

 

 有珠が、小さく溜息をついた。

 

「それと、日景忉利」

 

「なんだよ」

 

「薬のことだけれど」

 

 有珠は、作業部屋のある二階の方に目をやった。

 

「作るのは、続けるわ。でも、今あなたに飲ませても、意味がない」

 

「……なんでだよ」

 

「あなたが全部忘れても、橙子は、あなたの目を狙うのをやめないもの。むしろ、何も知らないあなたの方が、ずっと簡単に奪えるわ」

 

 有珠は、忉利を見た。

 

「だから、決着がつくまで、あなたには、覚えていてもらうわ」

 

 忉利は、少しだけ目を見開いた。

 

「……いいのかよ、それ。決まりは決まりなんだろ」

 

「ええ。決まりは決まりよ」

 

 有珠は、目を伏せた。

 

「でも、死んだ人間には、薬を飲ませられないもの」

 

 その夜遅く。

 

 屋敷が寝静まった頃、居間の窓辺に、一羽の小さな鳥がとまった。

 

 紙でできた鳥だった。

 

 真っ白な、上質な紙を折り上げた、精巧な小鳥。その翼に、角張った文字が一つ、細く書き込まれている。

 

 窓を開けたのは、有珠だった。

 

 眠っていなかった。最初から、来ることがわかっていたかのように、窓辺の椅子に座って待っていた。

 

 紙の小鳥は、有珠の手のひらに舞い降りると、ひとりでに、はらりとほどけた。

 

 一枚の紙になる。

 

 そこには、流れるような筆記体の文字で、短い一文が記されていた。

 

 ―――鏡野の礎にて待つ。スナークの弔いをしよう。君一人で来たまえ。

 

 有珠は、しばらく、その紙を見つめていた。

 

 鏡野。町の西の外れ、丘の向こうの古い農園。五つの礎のうち、まだ削られていない、残り二つの一つ。

 

 それから、暖炉の熾火の中に、そっと落とした。

 

 紙が、音もなく燃え尽きる。

 

「……マ、マイ天使」

 

 止まり木の上で、ロビンが、震える声で言った。

 

「ま、まさか、行く気ッスか。一人で。……罠ッスよ、絶対」

 

「わかっているわ」

 

 有珠は、立ち上がった。

 

 黒い外套を、肩にかける。

 

「でも、あの子の弔いを、あの女に任せるわけにはいかないもの」

 

「マイ天使……」

 

「それに」

 

 有珠は、二階へと続く階段を見上げた。

 

 青子の部屋。忉利の部屋。草十郎の部屋。

 

「青子は、まだ戦えないわ。……あの子を、姉と戦わせたくないの」

 

 有珠は、玄関ホールへと歩き出した。

 

 ロビンが、慌ててその肩に飛び乗る。

 

 重い扉を、音を立てないように、そっと開ける。

 

 冬の夜気が、流れ込んできた。

 

 扉の外に、誰かが立っていた。

 

「――久遠寺」

 

 静希草十郎だった。

 

 綿入れを羽織って、吊った左腕を胸に抱えて、門へと続く石段の途中に立っている。

 

 有珠は、足を止めた。

 

「……なぜ、起きているの」

 

「眠れなかった。庭を、見ていた」

 

 草十郎は、有珠の外套と、肩の上のロビンを見た。

 

「出かけるのか」

 

「…………」

 

「一人でか」

 

 有珠は、答えなかった。

 

 草十郎は、少しだけ考えた。

 

「俺も、行こうか」

 

「駄目よ」

 

 即答だった。

 

「あなたは、ここにいて。……青子と、日景忉利を、見ていて」

 

 草十郎は、有珠の顔を、じっと見つめた。

 

 月明かりの下で、その白い顔は、いつもと同じように、何の感情も浮かべていなかった。

 

 けれど、草十郎には、わかった。

 

 山で、一人で獣を追いに行く大人たちが、出かける前に、こういう顔をしていた。

 

「……わかった」

 

 草十郎は、道を開けた。

 

「だが、帰ってこい」

 

 有珠は、草十郎の脇を、すっと通り過ぎた。

 

 石段を、三段下りたところで、足を止める。

 

 振り返らずに、言った。

 

「静希草十郎」

 

「なんだ」

 

「……青子には、言わないで」

 

 草十郎は、少しだけ間を置いた。

 

 それから、静かに答えた。

 

「約束はできない」

 

 有珠の肩が、ほんのわずかに、揺れた。

 

「朝になって、久遠寺がいなかったら、蒼崎は必ず訊く。訊かれたら、俺は嘘をつけない。……だから、朝までに帰ってこい。そうすれば、言わなくて済む」

 

 長い、沈黙があった。

 

 冬の風が、有珠の長い髪を揺らした。

 

「……そう」

 

 有珠は、それだけ言った。

 

 そして、坂道を、闇の中へと下りていった。

 

 黒い外套の背中が、月明かりの届かない木立の向こうに消えるまで、草十郎は、石段の上に立ち尽くしていた。

 

 二階の、忉利の客間。

 

 忉利は、窓辺に立っていた。

 

 眠れなかった。

 

 右目の布を、少しだけ、ずらした。

 

 窓の下の坂道を、黒い外套の背中が、下りていくのが見えた。

 

 一人で。

 

 肩の上に、小さな青い影を乗せて。

 

 忉利は、意識を向けた。

 

 見えた。

 

 有珠の線。傷ひとつない、磨かれた石の上を滑る水のような線。

 

 それが、坂道の向こうへ、町の西へ、まっすぐに伸びていく。

 

 その先に。

 

 冷たい、定規で引いたような線が、何本も、待ち構えているように、集まっていた。

 

 それから、もう一つ。

 

 その冷たい線の傍らに。

 

 太く、荒々しく、獣の毛のように逆立った線が、一本。

 

 草十郎が言った、犬の匂い。

 

 忉利は、布を戻した。

 

 隣の部屋の扉を、見た。

 

 青子の部屋。

 

 起こすべきか、と思った。

 

 ――青子は、まだ戦えないわ。

 

 有珠は、そう言った。

 

 ――あの子を、姉と戦わせたくないの。

 

 忉利は、扉を、叩かなかった。

 

 代わりに、自分の右目の布に、手を当てた。

 

 使わなきゃいけない時。

 

 それが、いつなのか。

 

 まだ、わからなかった。

 

 東の空は、まだ、白む気配もなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。