夜明けの色を見る眼   作:にんら

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姉

 午前二時。

 

 久遠寺邸の台所に明かりが一つだけ灯っていた。

 

 調理台の上の古いランプが、橙色の光で石の床に長い影を落としている。窓の外は、まだ深い夜の底だった。

 

 忉利は右目に新しい布を当てて、椅子に座っていた。

 

 有珠が無言で薬を塗ってくれた。青臭い、冷たい軟膏だった。塗られた瞬間は火を押しつけられたように痛んだが、今は、熱がすうっと引いていくのがわかる。

 

 有珠はそれきり何も言わずに、自室に戻っていった。

 

 廊下の止まり木では、ロビンがまだ翼を広げたまま固まっている。夜になれば戻る、とあの女は言っていた。もう夜は深いのに、駒鳥は、まだ剥製のままだった。

 

 蒼崎橙子。

 

 青子の、姉。

 

「…………」

 

 台所の入り口に人影が立った。

 

 青子だった。

 

 カーディガンの前を掻き合わせて、裸足のまま。長い髪は、ほどけて背中に落ちている。

 

 顔は見えなかった。ランプの光が届かない、廊下の暗がりに立っていたから。

 

「……寝てねえのか」

 

「……眠れるわけ、ないでしょ」

 

 青子は台所に入ってきた。

 

 調理台の脇の、忉利の向かいの椅子に膝を抱えるようにして座る。

 

 ランプの光に照らされたその顔は、ひどく疲れていた。泣いた跡はなかった。泣くことすら、できなかったような顔だった。

 

 しばらく二人とも黙っていた。

 

 ランプの芯がじじ、と小さく鳴る。

 

「……忉利」

 

「なんだよ」

 

「珈琲、淹れて」

 

 忉利は左目を瞬かせた。

 

「……この屋敷、珈琲禁止だろ」

 

「今夜だけ、いいの」

 

「有珠に三日口きいてもらえなくなるぞ」

 

「いいの。……今夜は、あんたの珈琲が飲みたいの」

 

 青子は膝に顎を乗せて、ぽつりと言った。

 

「中学の頃みたいに」

 

 忉利はしばらく青子の顔を見ていた。

 

 それから黙って立ち上がった。

 

 湯を沸かす。

 

 父の豆を手回しのミルで挽く。ネルに粉を落とし、湯を細く注ぐ。

 

 粉が膨らむ。泡がゆっくりと沈んでいく。

 

 その間、青子は何も言わなかった。

 

 ただ、膝を抱えたまま、忉利の手元を見ていた。中学の頃、Cafe HIKAGEのカウンターで父の手元を見ていたのと同じ目で。

 

 カップを青子の前に置く。

 

「ほらよ」

 

「……ありがと」

 

 青子は両手でカップを包み込んだ。

 

 湯気に鼻先を埋める。

 

 目を閉じて、深く、息を吸い込む。

 

 一口。

 

「…………」

 

 青子の肩から、ふっと力が抜けた。

 

「……おじさんの味には、まだ届いてないわね」

 

「うるせえ」

 

「でも、おいしい」

 

 青子はもう一口飲んだ。

 

 それから、カップを見つめたまま静かに口を開いた。

 

「姉貴のこと、話すわ」

 

 

◇

 

 

「蒼崎の家はね、魔術師の家なの」

 

 青子はカップの縁を指でなぞりながら言った。

 

「何代も前から。この町の地下に、古い網を張って、それを守ってきた。……網の張り方も、結び目の場所も、五つの礎の場所も、全部、代々の跡取りにだけ受け継がれてきたの」

 

「……跡取り」

 

「そう。で、本当なら、その跡取りは姉貴のはずだったのよ」

 

 青子の声は淡々としていた。

 

 淡々としすぎていて、かえって痛々しかった。

 

「姉貴は天才だった。私なんかより、ずっと。物心ついた頃には、もうお祖父ちゃんの工房に預けられて、跡取りとしての教育を受けてた。山の奥の洞穴の工房。……家に帰ってくるのは、年に一度あるかないか」

 

「……だから会ったことねえのか」

 

「ええ。あんたがうちに遊びに来てた頃、姉貴はずっといなかった。私も、あんたに話したことはなかったし」

 

 青子は少しだけ笑った。

 

「話したら全部話さなきゃいけなくなるもの。姉貴がどうして家にいないのか。お祖父ちゃんの工房で、何を習ってるのか。……蒼崎の家が、何なのか」

 

「…………」

 

「あんたには普通でいてほしかったのよ。私が、唯一、魔術のことを考えなくていい場所だったから。あの店のカウンターは」

 

 忉利は何も言わなかった。

 

 ただ、自分のカップに口をつけた。苦い。いつもより少しだけ苦い気がした。

 

「私は町で育ったの。父さんと母さんと。父さんは、魔術の才能が普通の人並みしかなかったから、家を継がなかった。……だから私も、普通の子でいられたのよ。魔術のことは、知ってた。お祖父ちゃんが魔法使いだってことも。でも、それは姉貴の話で、私の話じゃなかった」

 

「…………」

 

「姉貴は、何でもできた」

 

 青子は続けた。

 

「ルーンも、人形作りも、網の手入れも。お祖父ちゃんが教えることを全部、教わる前から知ってたみたいに覚えていった。……私は、年に一度帰ってくる姉貴が、ちょっとだけ自慢だった」

 

「…………」

 

「なのに」

 

 青子の指がカップの縁で止まった。

 

「お祖父ちゃんは最後の最後で、私を選んだの」

 

 ランプの芯がじじ、と鳴った。

 

「跡取りを。……蒼崎の家が、何代もかけて守ってきた、一番大事なものの受け継ぎ手を。何年も教育を受けてきた姉貴じゃなくて、何も知らずに町で遊んでた、私を」

 

「……なんでだよ」

 

「知らないわよ。お祖父ちゃんは何も言わなかったもの」

 

 青子はカップを両手で強く握りしめた。

 

「中二の春よ。……お祖父ちゃんが跡取りを私に変えるって言った。その次の日に、姉貴は家を出ていった。それきり、一度も帰ってこなかった」

 

 忉利は中学二年の、あの春を思い出そうとした。

 

 青子がしばらく店に来なかった。二週間ほど。理由を訊いても、答えなかった。戻ってきた時にはいつもの顔で、いつもの席に座って、ホットミルクではなく父のブレンドを頼んだ。

 

 あの時からだ。

 

 青子が珈琲を飲むようになったのは。

 

「……で、高一の春に正式に継いだのか」

 

「そう。三年前。……その日に実家を出て、ここに来た」

 

 青子は目を閉じた。

 

「姉貴の部屋がずっと空っぽのまま残ってて。母さんが、毎週、誰もいないのに掃除してて。……あの家に、いたくなかったの。私が取ったのよ。姉貴の居場所を」

 

「お前が取ったわけじゃねえだろ」

 

「同じことよ」

 

「同じじゃねえよ」

 

 忉利の声は低かった。

 

「決めたのは、爺さんだろ。お前じゃねえ」

 

 青子は答えなかった。

 

 ただ、膝を抱える腕にぎゅっと力を込めた。

 

「……姉貴は、私を恨んでる」

 

 小さな声だった。

 

「この一ヶ月、網を削ってたのも。人形を送り込んでたのも。全部、私への当てつけよ。私が受け継いだものを一つずつ、目の前で壊していくつもりなんだわ」

 

「…………」

 

「なのに、今日、あんたの目まで欲しいって」

 

 青子の声が震えた。

 

「私のせいよ。私が、あんたを巻き込んだから。あの夜、遊園地に来させちゃったから。あんたの目のことを姉貴に知られちゃったから――」

 

「青子」

 

 忉利はカップを置いた。

 

 調理台越しに手を伸ばす。

 

 青子の頭にぽん、と手を置いた。

 

「遊園地に行ったのは、おれが勝手に決めたことだ。お前のせいじゃねえ」

 

「…………」

 

「それに」

 

 忉利は気だるげに言った。

 

「姉貴だろうが何だろうが、おれの目が欲しいってんなら、やるわけねえだろ。こっちは片目潰れかけてんだぞ。これ以上持ってかれてたまるかよ」

 

 青子はしばらく、忉利の手の下でじっとしていた。

 

 それから小さく鼻をすすった。

 

「……バカじゃないの」

 

「知ってる」

 

「ほんとに、バカ」

 

 青子は忉利の手を払いのけなかった。

 

 ただ、膝に顔を埋めて、そのまま長いこと動かなかった。

 

 ランプの炎が二人の影を、石の壁の上でひとつに重ねていた。

 

 

◇

 

 

 翌朝、忉利は学校へ行く前にCafe HIKAGEに寄った。

 

 胸騒ぎがしていた。

 

 ゆうべ、あの女は忉利の名前を知っていた。名乗ってもいないのに。喫茶店の子だということも、見抜いていた。

 

 なら、この店のことも。

 

 父のことも。晴華のことも。

 

 ドアベルを鳴らすと、カウンターの中から晴華が顔を出した。

 

「あ、お兄ちゃん! おかえり……じゃなくて、いらっしゃい? どっちだろ」

 

「……どっちでもいい。二人とも、何ともねえか」

 

「え? 何ともないよ? 変なお兄ちゃん」

 

 晴華は首を傾げた。

 

 それから、何かを思い出したようにぱっと顔を輝かせた。

 

「あ、そうだ! ねえ聞いて、今朝ね、すっごく綺麗なお客さんが来たの!」

 

 忉利の背筋に冷たいものが走った。

 

「……どんな」

 

「背が高くて、髪が短くて、眼鏡かけてて! なんか大人の女の人って感じ! お父さんのブレンド頼んで、一口飲んで、『ああ、やっぱりこの味ね』って!」

 

 忉利は瞬きをした。

 

 髪が、短い。

 

 昨日の午後、屋敷の暖炉の前に座っていた女の髪は、背中まで流れる長いものだった。

 

 一晩で。

 

「…………」

 

「それでね、お兄ちゃんのこと訊かれたの。『この店の息子さんは、いつもこの時間はいないのかしら』って。だから今は青子ちゃんのとこに住み込みで働いてますって言ったら、『そう、知ってるわ』って笑ってた」

 

 晴華は無邪気に笑った。

 

「青子ちゃんのお友達かな? なんかちょっと青子ちゃんに似てたんだよね、笑い方とか」

 

 忉利はカウンターの縁を、強く握りしめていた。

 

「……それで」

 

「え?」

 

「それでその人、何か言ってたか」

 

「うーん……あ、帰り際にわたしの頭撫でてくれた。『いいお兄さんね』って」

 

 晴華は自分の頭を、嬉しそうに押さえた。

 

「それと、チップ置いてってくれたの。ほら」

 

 レジの横に小さな紙片が一枚、置かれていた。

 

 千円札ではなかった。

 

 厚手の上質な紙のカード。表には、何も書かれていない。

 

 裏返すと角張った、見たこともない形の文字が一つだけ、細い万年筆で書き込まれていた。

 

 ゆうべ、あの女が指先で空中に描いたものとよく似た文字。

 

 右目がずきりと疼いた。

 

「……晴華」

 

「なに?」

 

「これ、おれがもらっていく」

 

「えー!? それ、わたしがもらったやつなのに!」

 

「悪い。今度、代わりに何か買ってやるから」

 

 忉利はカードをポケットにねじ込んだ。

 

 カウンターの奥で、父が焙煎機の火を落としていた。

 

 背中を向けたまま言う。

 

「忉利」

 

「……なんだよ」

 

「今朝の客な」

 

 父は振り返らなかった。

 

「ありゃ、ただの客じゃねえ」

 

 忉利は父の背中を見た。

 

「珈琲を飲む時の目が、豆を見てなかった。店を見てた。俺を見てた。晴華を見てた。……値踏みするみてえにな」

 

 焙煎機の蓋を閉める重い音。

 

「何に巻き込まれてるかは、訊かん」

 

 父はようやく振り返った。

 

 いつもと同じ、無口な職人の顔だった。

 

 けれど、その目の奥に、忉利が今まで見たことのない硬いものがあった。

 

「ただ、晴華を泣かせるような真似だけはするな。……お前も、青子ちゃんもだ」

 

 忉利はしばらく父の目を見返していた。

 

 それから小さく頷いた。

 

「……ああ」

 

「行ってこい」

 

 父はまた背中を向けた。

 

 忉利はドアベルを鳴らして店を出た。

 

 冬の朝の冷たい空気が頬を切った。

 

 ポケットの中でカードを握りしめる。

 

 ―――晴華の頭を撫でていった。

 

 怒りが腹の底で、ゆっくりと煮え立っていくのがわかった。

 

 

◇

 

 

 放課後。

 

 青子は忉利と一緒に、Cafe HIKAGEの前に立っていた。

 

 店の中には入らなかった。

 

 夕暮れの商店街の、色の褪せた看板の下で、青子はしばらく黙って店の硝子戸を見ていた。

 

「……姉貴は」

 

 ぽつりと言った。

 

「人の、一番大事なものから手をつけるの。昔から。……私のギターの弦も、そうだった」

 

「…………」

 

「だから、ここに来た。……あんたの、一番大事なもの」

 

 青子はコートのポケットから、手袋を外した右手を出した。

 

 人差し指の先に、青い光が灯る。

 

 ほんの小さな、蛍のような光。

 

 青子はその指先で店の硝子戸の縁を、ゆっくりとなぞった。

 

 右上から、左へ。左から、下へ。下から、右へ。

 

 戸口を一周。

 

 それから、看板の下の壁。店の角。裏口へ続く路地の入り口。

 

 誰にも見えない線を、店の周りに一本ずつ、引いていく。

 

 忉利は右目の布を少しだけずらした。

 

 見えた。

 

 青子の指先が通った跡に、青い線が細く残っている。それが、店の外壁をぐるりと一周して、繋がっていた。

 

 蒼崎の網の、いちばん小さな一目。

 

 この店だけを囲む網。

 

「……気休めよ」

 

 青子は指先の光を消して、手袋を嵌め直した。

 

「姉貴が本気で来たら、こんなの一息で解かれる。……でも、解かれたら、私にわかる。それだけ」

 

「…………」

 

「それだけでも、ないよりはましでしょ」

 

 青子は店の硝子戸の向こうを見た。

 

 カウンターの奥で、父がネルを振っている。その手前で、晴華が皿を拭いている。

 

「……おじさんと晴華ちゃんは、私の大事なものでもあるのよ」

 

 小さな声だった。

 

「あんたの家、なんだから」

 

 忉利は何も言わなかった。

 

 ただ、店の周りに引かれた、目に見えない青い線を見ていた。

 

 今まで、青子の線はいつも戦うための線だった。撃つ線。砕く線。夜の中で、化け物を薙ぎ払う線。

 

 守るための線を見たのは、初めてだった。

 

「……行くぞ」

 

「ええ」

 

 二人は坂の上へ向かって歩き出した。

 

 店の周りの青い線は、夕闇の中でしばらくほのかに光っていた。

 

 

◇

 

 

 その夜、久遠寺邸の居間には四人と一羽が揃っていた。

 

 暖炉の前のテーブルに、忉利が持ち帰ったカードが置かれている。

 

 ロビンは日暮れと同時に元に戻った。戻った瞬間から、ずっと喚き続けていた。

 

「あの女、あの女ッス! トーコの姐さんッス! 昔はマイ天使とも仲良しだったのに、なんであんな真似するんスか! おいらを置物にするなんてあんまりッス!」

 

「黙りなさい、ロビン」

 

 有珠がカードを指先でつまみ上げた。

 

 角張った文字をじっと見つめる。

 

「……印ね」

 

「印?」

 

「目印よ。このカードがある場所を、橙子はいつでも見つけられる。……あなたの家に、あの女の目が一つ、置かれたということ」

 

 忉利の拳が膝の上で握りしめられた。

 

「……親父と晴華は」

 

「今のところは見ているだけでしょうね。橙子は、無駄な殺しはしないわ。魔術師として、合理的だから」

 

 有珠はカードを暖炉の火の中に放り込んだ。

 

 紙が一瞬で燃え上がる。角張った文字が、炎の中でちりちりと赤く光ってから、消えた。

 

「でも、あなたの目を手に入れるためなら、何でも使うわ。あなたが一番嫌がることでも」

 

「……それと、もう一つ」

 

 忉利は言った。

 

「晴華が言ってた。……髪が、短かったって」

 

 有珠の手が止まった。

 

 青子が顔を上げた。

 

「……昨日は、長かったわよね」

 

「ああ。背中まで、あった」

 

「一晩で、切った?」

 

「切ったのではないわ」

 

 有珠は暖炉の炎を見つめた。

 

「捧げたのよ」

 

「……捧げた?」

 

「契約の、対価に」

 

 有珠の声が低くなった。

 

「魔術師が、自分の一部を差し出して、何かと契約を結ぶ。髪は、いちばんよく使われるものよ。切っても痛くないから。……あの長さの髪を一晩で全部差し出したなら、相手は、生半可なものではないわ」

 

「……使い魔、ってことか」

 

「ええ。とても、強い」

 

 草十郎が口を開いた。

 

「有珠。……昨日、あの人からは犬の匂いがしたんだ」

 

 全員が草十郎を見た。

 

「外套に染みついていたんだ。大きな犬の匂いだよ。……山の犬と同じ匂いだった」

 

 草十郎は首の革の首輪に、無意識に指で触れた。

 

 子供の頃の噛み傷の上に。

 

「犬は苦手なんだ。……あの匂いは、人を食う獣の匂いだった」

 

 有珠は長いこと、黙っていた。

 

 それから小さく息を吐いた。

 

「……人狼ね」

 

 青子の顔から血の気が引いた。

 

「姉貴が、あんなものと……」

 

「ええ。橙子なら、やるわ。あの人は、必要なら何とでも契約する」

 

 有珠は暖炉から目を離さなかった。

 

「そして、その獣は、いずれここに来る。……橙子が、連れてくる」

 

 青子がソファの肘掛けをぎりっと握りしめた。

 

「……姉貴は、私が止める」

 

「青子」

 

「私がやるの。蒼崎の家の問題よ。私が受け継いだものを狙ってるんだから、私が――」

 

「あなた一人で、勝てるの」

 

 有珠の声は冷たかった。

 

「回路は、まだ半分も癒えていない。遊園地で焼き切れる寸前まで回して、河原で三十体撃って、昨日、また撃った。……それに、橙子の手の内をあなたはどれだけ知っているの」

 

 青子は答えられなかった。

 

「わたしも、行くわ」

 

 有珠は暖炉の炎を見つめた。

 

「スナークの借りがあるもの」

 

 その声はいつもと同じように平坦だった。

 

 けれど、その目の奥で何かが、静かに深く燃えていた。

 

「俺も行く」

 

 草十郎が言った。

 

「あの匂いの獣は放っておけない。……山だと、そういう獣が出たら村の男が全員で行ったものなんだ」

 

「静希くん、あんた人狼が何かわかってるの!」

 

 青子が声を荒らげた。

 

「人間が素手で勝てる相手じゃ――」

 

「わかっている」

 

 草十郎は静かに言った。

 

「でも、行く」

 

 青子は言葉を失った。

 

 それから、その視線がゆっくりと忉利に向けられた。

 

「……あんたは、来ちゃ駄目よ」

 

「なんでだよ」

 

「姉貴が欲しいのは、あんたの目なのよ! のこのこ出ていったら、向こうの思う壺じゃない!」

 

「ここにいたって、向こうから来るだろ。昨日、来た」

 

「それでも――」

 

「それに」

 

 忉利は右目の布に指で触れた。

 

「あいつ、晴華の頭撫でてったんだぞ」

 

 低い声だった。

 

 気だるげな響きはどこにもなかった。

 

「親父の店にあの変な字を置いてった。……黙って待ってろってのかよ」

 

「その目を使ったら、あんた、死ぬわよ!」

 

 青子の声が居間に響いた。

 

「遊園地で何回死にかけたと思ってるの! 昨日だって、また血が出たじゃない! 次に本気で使ったら、今度こそ、本当に――」

 

 声が詰まった。

 

 青子は唇を噛んで、うつむいた。

 

 居間に沈黙が落ちた。

 

 暖炉の炎が、四人の顔を赤く照らしている。

 

「……使わねえよ」

 

 忉利はぼそりと言った。

 

「使わなきゃいけねえ時以外はな。……露台で、約束したろ」

 

「それが信用できないのよ……!」

 

「なら、使わなくて済むようにお前が守れ」

 

 青子が顔を上げた。

 

 忉利は気だるげに、けれどまっすぐに青子を見ていた。

 

「おれは、お前の後ろにいる。お前が前に出る。で、どうしようもなくなったら、おれが切る。……それでいいだろ」

 

 青子はしばらく忉利の目を見つめていた。

 

 それから、ぷいと顔を背けた。

 

「……勝手にすれば」

 

 その耳の先が赤かった。

 

 有珠が小さく溜息をついた。

 

「それと、日景忉利」

 

「なんだよ」

 

「薬のことだけれど」

 

 有珠は作業部屋のある二階の方に目をやった。

 

「作るのは、続けるわ。でも、今あなたに飲ませても、意味がない」

 

「……なんでだよ」

 

「あなたが全部忘れても、橙子は、あなたの目を狙うのをやめないもの。むしろ、何も知らないあなたの方がずっと簡単に奪えるわ」

 

 有珠は忉利を見た。

 

「だから、決着がつくまで、あなたには覚えていてもらうわ」

 

 忉利は少しだけ目を見開いた。

 

「……いいのかよ、それ。決まりは決まりなんだろ」

 

「ええ。決まりは決まりよ」

 

 有珠は目を伏せた。

 

「でも、死んだ人間には薬を飲ませられないもの」

 

 

◇

 

 

 その夜遅く。

 

 屋敷が寝静まった頃、居間の窓辺に一羽の小さな鳥がとまった。

 

 紙でできた鳥だった。

 

 真っ白な、上質な紙を折り上げた精巧な小鳥。その翼に、角張った文字が一つ、細く書き込まれている。

 

 窓を開けたのは有珠だった。

 

 眠っていなかった。最初から、来ることがわかっていたかのように、窓辺の椅子に座って待っていた。

 

 紙の小鳥は有珠の手のひらに舞い降りると、ひとりでに、はらりとほどけた。

 

 一枚の紙になる。

 

 そこには流れるような筆記体の文字で、短い一文が記されていた。

 

 ―――鏡野の礎にて待つ。スナークの弔いをしよう。君一人で来たまえ。

 

 有珠はしばらく、その紙を見つめていた。

 

 鏡野。町の西の外れ、丘の向こうの古い農園。五つの礎のうち、まだ削られていない残り二つの一つ。

 

 それから、暖炉の熾火の中にそっと落とした。

 

 紙が音もなく燃え尽きる。

 

「……マ、マイ天使」

 

 止まり木の上で、ロビンが震える声で言った。

 

「ま、まさか行く気ッスか。一人で。……罠ッスよ、絶対」

 

「わかっているわ」

 

 有珠は立ち上がった。

 

 黒い外套を肩にかける。

 

「でも、あの子の弔いをあの女に任せるわけにはいかないもの」

 

「マイ天使……」

 

「それに」

 

 有珠は二階へと続く階段を見上げた。

 

 青子の部屋。忉利の部屋。草十郎の部屋。

 

「青子は、まだ戦えないわ。……あの子を、姉と戦わせたくないの」

 

 有珠は玄関ホールへと歩き出した。

 

 ロビンが慌ててその肩に飛び乗る。

 

 重い扉を、音を立てないようにそっと開ける。

 

 冬の夜気が流れ込んできた。

 

 扉の外に誰かが立っていた。

 

「――有珠」

 

 静希草十郎だった。

 

 綿入れを羽織って、吊った左腕を胸に抱えて、門へと続く石段の途中に立っている。

 

 有珠は足を止めた。

 

「……なぜ、起きているの」

 

「眠れなくてね。庭を見ていたんだ」

 

 草十郎は有珠の外套と、肩の上のロビンを見た。

 

「出かけるのか」

 

「…………」

 

「一人でか」

 

 有珠は答えなかった。

 

 草十郎は少しだけ考えた。

 

「俺も、行こうか」

 

「駄目よ」

 

 即答だった。

 

「あなたは、ここにいて。……青子と、日景忉利を見ていて」

 

 草十郎は有珠の顔をじっと見つめた。

 

 月明かりの下で、その白い顔はいつもと同じように、何の感情も浮かべていなかった。

 

 けれど、草十郎にはわかった。

 

 山で、一人で獣を追いに行く大人たちが、出かける前にこういう顔をしていた。

 

「……わかった」

 

 草十郎は道を開けた。

 

「でも、ちゃんと帰ってきてくれ」

 

 有珠は草十郎の脇をすっと通り過ぎた。

 

 石段を三段下りたところで、足を止める。

 

 振り返らずに言った。

 

「静希草十郎」

 

「なんだ」

 

「……青子には、言わないで」

 

 草十郎は少しだけ間を置いた。

 

 それから静かに答えた。

 

「それは約束できないな」

 

 有珠の肩がほんのわずかに、揺れた。

 

「朝になって有珠がいなかったら、蒼崎は必ず訊いてくる。訊かれたら、俺は嘘をつけないんだ。……だから、朝までに帰ってきてくれ。そうすれば、言わなくて済むだろう?」

 

 長い、沈黙があった。

 

 冬の風が有珠の長い髪を揺らした。

 

「……そう」

 

 有珠はそれだけ言った。

 

 そして、坂道を闇の中へと下りていった。

 

 黒い外套の背中が、月明かりの届かない木立の向こうに消えるまで、草十郎は石段の上に立ち尽くしていた。

 

 

◇

 

 

 二階の忉利の客間。

 

 忉利は窓辺に立っていた。

 

 眠れなかった。

 

 右目の布を少しだけずらした。

 

 窓の下の坂道を、黒い外套の背中が下りていくのが見えた。

 

 一人で。

 

 肩の上に小さな青い影を乗せて。

 

 忉利は意識を向けた。

 

 見えた。

 

 有珠の線。傷ひとつない、磨かれた石の上を滑る水のような線。

 

 それが坂道の向こうへ、町の西へ、まっすぐに伸びていく。

 

 その先に。

 

 冷たい、定規で引いたような線が何本も、待ち構えているように集まっていた。

 

 それからもう一つ。

 

 その冷たい線の傍らに。

 

 太く、荒々しく、獣の毛のように逆立った線が一本。

 

 草十郎が言った犬の匂い。

 

 忉利は布を戻した。

 

 隣の部屋の扉を見た。

 

 青子の部屋。

 

 起こすべきか、と思った。

 

 ――青子は、まだ戦えないわ。

 

 有珠はそう言った。

 

 ――あの子を、姉と戦わせたくないの。

 

 忉利は扉を、叩かなかった。

 

 代わりに、自分の右目の布に手を当てた。

 

 使わなきゃいけない時。

 

 それが、いつなのか。

 

 まだ、わからなかった。

 

 東の空は、まだ白む気配もなかった。

 

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