午前二時。
久遠寺邸の台所に、明かりが一つだけ灯っていた。
調理台の上の古いランプが、橙色の光で、石の床に長い影を落としている。窓の外は、まだ深い夜の底だった。
忉利は、右目に新しい布を当てて、椅子に座っていた。
有珠が、無言で薬を塗ってくれた。青臭い、冷たい軟膏だった。塗られた瞬間は火を押しつけられたように痛んだが、今は、熱がすうっと引いていくのがわかる。
有珠は、それきり何も言わずに、自室に戻っていった。
廊下の止まり木では、ロビンが、まだ翼を広げたまま固まっている。夜になれば戻る、と、あの女は言っていた。もう夜は深いのに、駒鳥は、まだ剥製のままだった。
蒼崎橙子。
青子の、姉。
「…………」
台所の入り口に、人影が立った。
青子だった。
カーディガンの前を掻き合わせて、裸足のまま。長い髪は、ほどけて背中に落ちている。
顔は、見えなかった。ランプの光が届かない、廊下の暗がりに立っていたから。
「……寝てねえのか」
「……眠れるわけ、ないでしょ」
青子は、台所に入ってきた。
調理台の脇の、忉利の向かいの椅子に、膝を抱えるようにして座る。
ランプの光に照らされたその顔は、ひどく疲れていた。泣いた跡は、なかった。泣くことすら、できなかったような顔だった。
しばらく、二人とも黙っていた。
ランプの芯が、じじ、と小さく鳴る。
「……忉利」
「なんだよ」
「珈琲、淹れて」
忉利は、左目を瞬かせた。
「……この屋敷、珈琲禁止だろ」
「今夜だけ、いいの」
「有珠に三日口きいてもらえなくなるぞ」
「いいの。……今夜は、あんたの珈琲が飲みたいの」
青子は、膝に顎を乗せて、ぽつりと言った。
「中学の頃みたいに」
忉利は、しばらく青子の顔を見ていた。
それから、黙って立ち上がった。
湯を沸かす。
父の豆を、手回しのミルで挽く。ネルに粉を落とし、湯を細く注ぐ。
粉が膨らむ。泡が、ゆっくりと沈んでいく。
その間、青子は、何も言わなかった。
ただ、膝を抱えたまま、忉利の手元を見ていた。中学の頃、Cafe HIKAGEのカウンターで、父の手元を見ていたのと同じ目で。
カップを、青子の前に置く。
「ほらよ」
「……ありがと」
青子は、両手でカップを包み込んだ。
湯気に、鼻先を埋める。
目を閉じて、深く、息を吸い込む。
一口。
「…………」
青子の肩から、ふっと、力が抜けた。
「……おじさんの味には、まだ届いてないわね」
「うるせえ」
「でも、おいしい」
青子は、もう一口飲んだ。
それから、カップを見つめたまま、静かに口を開いた。
「姉貴のこと、話すわ」
「蒼崎の家はね、魔術師の家なの」
青子は、カップの縁を指でなぞりながら言った。
「何代も前から。この町の地下に、古い網を張って、それを守ってきた。……網の張り方も、結び目の場所も、五つの礎の場所も、全部、代々の跡取りにだけ受け継がれてきたの」
「……跡取り」
「そう。で、本当なら、その跡取りは姉貴のはずだったのよ」
青子の声は、淡々としていた。
淡々としすぎていて、かえって痛々しかった。
「姉貴は、天才だった。私なんかより、ずっと。物心ついた頃には、もうお祖父ちゃんの工房に預けられて、跡取りとしての教育を受けてた。山の奥の、洞穴の工房。……家に帰ってくるのは、年に一度あるかないか」
「……だから、会ったことねえのか」
「ええ。あんたがうちに遊びに来てた頃、姉貴はずっといなかった。私も、あんたに話したことはなかったし」
青子は、少しだけ笑った。
「話したら、全部話さなきゃいけなくなるもの。姉貴がどうして家にいないのか。お祖父ちゃんの工房で、何を習ってるのか。……蒼崎の家が、何なのか」
「…………」
「あんたには、普通でいてほしかったのよ。私が、唯一、魔術のことを考えなくていい場所だったから。あの店のカウンターは」
忉利は、何も言わなかった。
ただ、自分のカップに口をつけた。苦い。いつもより、少しだけ苦い気がした。
「私は、町で育ったの。父さんと母さんと。父さんは、魔術の才能が、普通の人並みしかなかったから、家を継がなかった。……だから、私も、普通の子でいられたのよ。魔術のことは、知ってた。お祖父ちゃんが、魔法使いだってことも。でも、それは、姉貴の話で、私の話じゃなかった」
「…………」
「姉貴は、何でもできた」
青子は、続けた。
「ルーンも、人形作りも、網の手入れも。お祖父ちゃんが教えることを、全部、教わる前から知ってたみたいに覚えていった。……私は、年に一度帰ってくる姉貴が、ちょっとだけ自慢だった」
「…………」
「なのに」
青子の指が、カップの縁で止まった。
「お祖父ちゃんは、最後の最後で、私を選んだの」
ランプの芯が、じじ、と鳴った。
「跡取りを。……蒼崎の家が、何代もかけて守ってきた、一番大事なものの、受け継ぎ手を。何年も教育を受けてきた姉貴じゃなくて、何も知らずに町で遊んでた、私を」
「……なんでだよ」
「知らないわよ。お祖父ちゃんは、何も言わなかったもの」
青子は、カップを両手で強く握りしめた。
「中二の春よ。……お祖父ちゃんが、跡取りを私に変えるって言った。その次の日に、姉貴は、家を出ていった。それきり、一度も帰ってこなかった」
忉利は、中学二年の、あの春を思い出そうとした。
青子が、しばらく、店に来なかった。二週間ほど。理由を訊いても、答えなかった。戻ってきた時には、いつもの顔で、いつもの席に座って、ホットミルクではなく、父のブレンドを頼んだ。
あの時からだ。
青子が、珈琲を飲むようになったのは。
「……で、高一の春に、正式に、継いだのか」
「そう。三年前。……その日に、実家を出て、ここに来た」
青子は、目を閉じた。
「姉貴の部屋が、ずっと空っぽのまま残ってて。母さんが、毎週、誰もいないのに掃除してて。……あの家に、いたくなかったの。私が取ったのよ。姉貴の居場所を」
「お前が取ったわけじゃねえだろ」
「同じことよ」
「同じじゃねえよ」
忉利の声は、低かった。
「決めたのは、爺さんだろ。お前じゃねえ」
青子は、答えなかった。
ただ、膝を抱える腕に、ぎゅっと力を込めた。
「……姉貴は、私を恨んでる」
小さな声だった。
「この一ヶ月、網を削ってたのも。人形を送り込んでたのも。全部、私への当てつけよ。私が受け継いだものを、一つずつ、目の前で壊していくつもりなんだわ」
「…………」
「なのに、今日、あんたの目まで欲しいって」
青子の声が、震えた。
「私のせいよ。私が、あんたを巻き込んだから。あの夜、遊園地に来させちゃったから。あんたの目のことを、姉貴に知られちゃったから――」
「青子」
忉利は、カップを置いた。
調理台越しに、手を伸ばす。
青子の頭に、ぽん、と手を置いた。
「遊園地に行ったのは、おれが勝手に決めたことだ。お前のせいじゃねえ」
「…………」
「それに」
忉利は、気だるげに言った。
「姉貴だろうが何だろうが、おれの目が欲しいってんなら、やるわけねえだろ。こっちは片目潰れかけてんだぞ。これ以上持ってかれてたまるかよ」
青子は、しばらく、忉利の手の下でじっとしていた。
それから、小さく、鼻をすすった。
「……バカじゃないの」
「知ってる」
「ほんとに、バカ」
青子は、忉利の手を払いのけなかった。
ただ、膝に顔を埋めて、そのまま、長いこと動かなかった。
ランプの炎が、二人の影を、石の壁の上で、ひとつに重ねていた。
翌朝、忉利は、学校へ行く前に、Cafe HIKAGEに寄った。
胸騒ぎがしていた。
ゆうべ、あの女は、忉利の名前を知っていた。名乗ってもいないのに。喫茶店の子だということも、見抜いていた。
なら、この店のことも。
父のことも。晴華のことも。
ドアベルを鳴らすと、カウンターの中から、晴華が顔を出した。
「あ、お兄ちゃん! おかえり……じゃなくて、いらっしゃい? どっちだろ」
「……どっちでもいい。二人とも、何ともねえか」
「え? 何ともないよ? 変なお兄ちゃん」
晴華は、首を傾げた。
それから、何かを思い出したように、ぱっと顔を輝かせた。
「あ、そうだ! ねえ聞いて、今朝ね、すっごく綺麗なお客さんが来たの!」
忉利の背筋に、冷たいものが走った。
「……どんな」
「背が高くて、髪が短くて、眼鏡かけてて! なんか、大人の女の人って感じ! お父さんのブレンド頼んで、一口飲んで、『ああ、やっぱりこの味ね』って!」
忉利は、瞬きをした。
髪が、短い。
昨日の午後、屋敷の暖炉の前に座っていた女の髪は、背中まで流れる、長いものだった。
一晩で。
「…………」
「それでね、お兄ちゃんのこと訊かれたの。『この店の息子さんは、いつもこの時間はいないのかしら』って。だから、今は青子ちゃんのとこに住み込みで働いてますって言ったら、『そう、知ってるわ』って笑ってた」
晴華は、無邪気に笑った。
「青子ちゃんのお友達かな? なんか、ちょっと青子ちゃんに似てたんだよね、笑い方とか」
忉利は、カウンターの縁を、強く握りしめていた。
「……それで」
「え?」
「それで、その人、何か言ってたか」
「うーん……あ、帰り際に、わたしの頭撫でてくれた。『いいお兄さんね』って」
晴華は、自分の頭を、嬉しそうに押さえた。
「それと、チップ置いてってくれたの。ほら」
レジの横に、小さな紙片が一枚、置かれていた。
千円札ではなかった。
厚手の、上質な紙のカード。表には、何も書かれていない。
裏返すと、角張った、見たこともない形の文字が、一つだけ、細い万年筆で書き込まれていた。
ゆうべ、あの女が、指先で空中に描いたものとよく似た文字。
右目が、ずきりと疼いた。
「……晴華」
「なに?」
「これ、おれがもらっていく」
「えー!? それ、わたしがもらったやつなのに!」
「悪い。今度、代わりに何か買ってやるから」
忉利は、カードをポケットにねじ込んだ。
カウンターの奥で、父が、焙煎機の火を落としていた。
背中を向けたまま、言う。
「忉利」
「……なんだよ」
「今朝の客な」
父は、振り返らなかった。
「ありゃ、ただの客じゃねえ」
忉利は、父の背中を見た。
「珈琲を飲む時の目が、豆を見てなかった。店を見てた。俺を見てた。晴華を見てた。……値踏みするみてえにな」
焙煎機の蓋を閉める、重い音。
「何に巻き込まれてるかは、訊かん」
父は、ようやく振り返った。
いつもと同じ、無口な、職人の顔だった。
けれど、その目の奥に、忉利が今まで見たことのない、硬いものがあった。
「ただ、晴華を泣かせるような真似だけはするな。……お前も、青子ちゃんもだ」
忉利は、しばらく父の目を見返していた。
それから、小さく頷いた。
「……ああ」
「行ってこい」
父は、また背中を向けた。
忉利は、ドアベルを鳴らして店を出た。
冬の朝の冷たい空気が、頬を切った。
ポケットの中で、カードを握りしめる。
―――晴華の頭を、撫でていった。
怒りが、腹の底で、ゆっくりと煮え立っていくのがわかった。
放課後。
青子は、忉利と一緒に、Cafe HIKAGEの前に立っていた。
店の中には、入らなかった。
夕暮れの商店街の、色の褪せた看板の下で、青子は、しばらく黙って、店の硝子戸を見ていた。
「……姉貴は」
ぽつりと、言った。
「人の、一番大事なものから、手をつけるの。昔から。……私のギターの弦も、そうだった」
「…………」
「だから、ここに来た。……あんたの、一番大事なもの」
青子は、コートのポケットから、手袋を外した右手を出した。
人差し指の先に、青い光が、灯る。
ほんの小さな、蛍のような光。
青子は、その指先で、店の硝子戸の縁を、ゆっくりと、なぞった。
右上から、左へ。左から、下へ。下から、右へ。
戸口を、一周。
それから、看板の下の壁。店の角。裏口へ続く路地の入り口。
誰にも見えない線を、店の周りに、一本ずつ、引いていく。
忉利は、右目の布を、少しだけずらした。
見えた。
青子の指先が通った跡に、青い線が、細く、残っている。それが、店の外壁を、ぐるりと一周して、繋がっていた。
蒼崎の網の、いちばん小さな、一目。
この店だけを、囲む網。
「……気休めよ」
青子は、指先の光を消して、手袋を嵌め直した。
「姉貴が本気で来たら、こんなの、一息で解かれる。……でも、解かれたら、私にわかる。それだけ」
「…………」
「それだけでも、ないよりは、ましでしょ」
青子は、店の硝子戸の向こうを見た。
カウンターの奥で、父がネルを振っている。その手前で、晴華が、皿を拭いている。
「……おじさんと晴華ちゃんは、私の、大事なものでもあるのよ」
小さな声だった。
「あんたの家、なんだから」
忉利は、何も言わなかった。
ただ、店の周りに引かれた、目に見えない青い線を、見ていた。
今まで、青子の線は、いつも、戦うための線だった。撃つ線。砕く線。夜の中で、化け物を薙ぎ払う線。
守るための線を、見たのは、初めてだった。
「……行くぞ」
「ええ」
二人は、坂の上へ向かって、歩き出した。
店の周りの青い線は、夕闇の中で、しばらく、ほのかに光っていた。
その夜、久遠寺邸の居間には、四人と一羽が揃っていた。
暖炉の前のテーブルに、忉利が持ち帰ったカードが置かれている。
ロビンは、日暮れと同時に元に戻った。戻った瞬間から、ずっと喚き続けていた。
「あの女、あの女ッス! トーコの姐さんッス! 昔はマイ天使とも仲良しだったのに、なんであんな真似するんスか! おいらを置物にするなんて、あんまりッス!」
「黙りなさい、ロビン」
有珠が、カードを指先でつまみ上げた。
角張った文字を、じっと見つめる。
「……印ね」
「印?」
「目印よ。このカードがある場所を、橙子はいつでも見つけられる。……あなたの家に、あの女の目が一つ、置かれたということ」
忉利の拳が、膝の上で握りしめられた。
「……親父と、晴華は」
「今のところは、見ているだけでしょうね。橙子は、無駄な殺しはしないわ。魔術師として、合理的だから」
有珠は、カードを暖炉の火の中に放り込んだ。
紙が、一瞬で燃え上がる。角張った文字が、炎の中で、ちりちりと赤く光ってから、消えた。
「でも、あなたの目を手に入れるためなら、何でも使うわ。あなたが一番嫌がることでも」
「……それと、もう一つ」
忉利は、言った。
「晴華が言ってた。……髪が、短かったって」
有珠の手が、止まった。
青子が、顔を上げた。
「……昨日は、長かったわよね」
「ああ。背中まで、あった」
「一晩で、切った?」
「切ったのではないわ」
有珠は、暖炉の炎を見つめた。
「捧げたのよ」
「……捧げた?」
「契約の、対価に」
有珠の声が、低くなった。
「魔術師が、自分の一部を差し出して、何かと契約を結ぶ。髪は、いちばん、よく使われるものよ。切っても、痛くないから。……あの長さの髪を、一晩で全部差し出したなら、相手は、生半可なものではないわ」
「……使い魔、ってことか」
「ええ。とても、強い」
草十郎が、口を開いた。
「久遠寺。……昨日、あの人からは、犬の匂いがした」
全員が、草十郎を見た。
「外套に、染みついていた。大きな犬の匂いだ。……山の犬と同じ匂いだった」
草十郎は、首の革の首輪に、無意識に指で触れた。
子供の頃の、噛み傷の上に。
「犬は、苦手だ。……あの匂いは、人を食う獣の匂いだった」
有珠は、長いこと、黙っていた。
それから、小さく、息を吐いた。
「……人狼ね」
青子の顔から、血の気が引いた。
「姉貴が、あんなものと……」
「ええ。橙子なら、やるわ。あの人は、必要なら、何とでも契約する」
有珠は、暖炉から目を離さなかった。
「そして、その獣は、いずれ、ここに来る。……橙子が、連れてくる」
青子が、ソファの肘掛けを、ぎりっと握りしめた。
「……姉貴は、私が止める」
「青子」
「私がやるの。蒼崎の家の問題よ。私が受け継いだものを狙ってるんだから、私が――」
「あなた一人で、勝てるの」
有珠の声は、冷たかった。
「回路は、まだ半分も癒えていない。遊園地で焼き切れる寸前まで回して、河原で三十体撃って、昨日、また撃った。……それに、橙子の手の内を、あなたはどれだけ知っているの」
青子は、答えられなかった。
「わたしも、行くわ」
有珠は、暖炉の炎を見つめた。
「スナークの借りがあるもの」
その声は、いつもと同じように平坦だった。
けれど、その目の奥で、何かが、静かに、深く、燃えていた。
「俺も行く」
草十郎が、言った。
「あの匂いの獣は、放っておけない。……山では、そういう獣が出たら、村の男が全員で行った」
「静希くん、あんた、人狼が何かわかってるの!」
青子が、声を荒らげた。
「人間が素手で勝てる相手じゃ――」
「わかっている」
草十郎は、静かに言った。
「でも、行く」
青子は、言葉を失った。
それから、その視線が、ゆっくりと忉利に向けられた。
「……あんたは、来ちゃ駄目よ」
「なんでだよ」
「姉貴が欲しいのは、あんたの目なのよ! のこのこ出ていったら、向こうの思う壺じゃない!」
「ここにいたって、向こうから来るだろ。昨日、来た」
「それでも――」
「それに」
忉利は、右目の布に、指で触れた。
「あいつ、晴華の頭撫でてったんだぞ」
低い声だった。
気だるげな響きは、どこにもなかった。
「親父の店に、あの変な字を置いてった。……黙って待ってろってのかよ」
「その目を使ったら、あんた、死ぬわよ!」
青子の声が、居間に響いた。
「遊園地で、何回死にかけたと思ってるの! 昨日だって、また血が出たじゃない! 次に本気で使ったら、今度こそ、本当に――」
声が、詰まった。
青子は、唇を噛んで、うつむいた。
居間に、沈黙が落ちた。
暖炉の炎が、四人の顔を、赤く照らしている。
「……使わねえよ」
忉利は、ぼそりと言った。
「使わなきゃいけねえ時以外はな。……露台で、約束したろ」
「それが信用できないのよ……!」
「なら、使わなくて済むように、お前が守れ」
青子が、顔を上げた。
忉利は、気だるげに、けれどまっすぐに、青子を見ていた。
「おれは、お前の後ろにいる。お前が前に出る。で、どうしようもなくなったら、おれが切る。……それでいいだろ」
青子は、しばらく忉利の目を見つめていた。
それから、ぷいと顔を背けた。
「……勝手にすれば」
その耳の先が、赤かった。
有珠が、小さく溜息をついた。
「それと、日景忉利」
「なんだよ」
「薬のことだけれど」
有珠は、作業部屋のある二階の方に目をやった。
「作るのは、続けるわ。でも、今あなたに飲ませても、意味がない」
「……なんでだよ」
「あなたが全部忘れても、橙子は、あなたの目を狙うのをやめないもの。むしろ、何も知らないあなたの方が、ずっと簡単に奪えるわ」
有珠は、忉利を見た。
「だから、決着がつくまで、あなたには、覚えていてもらうわ」
忉利は、少しだけ目を見開いた。
「……いいのかよ、それ。決まりは決まりなんだろ」
「ええ。決まりは決まりよ」
有珠は、目を伏せた。
「でも、死んだ人間には、薬を飲ませられないもの」
その夜遅く。
屋敷が寝静まった頃、居間の窓辺に、一羽の小さな鳥がとまった。
紙でできた鳥だった。
真っ白な、上質な紙を折り上げた、精巧な小鳥。その翼に、角張った文字が一つ、細く書き込まれている。
窓を開けたのは、有珠だった。
眠っていなかった。最初から、来ることがわかっていたかのように、窓辺の椅子に座って待っていた。
紙の小鳥は、有珠の手のひらに舞い降りると、ひとりでに、はらりとほどけた。
一枚の紙になる。
そこには、流れるような筆記体の文字で、短い一文が記されていた。
―――鏡野の礎にて待つ。スナークの弔いをしよう。君一人で来たまえ。
有珠は、しばらく、その紙を見つめていた。
鏡野。町の西の外れ、丘の向こうの古い農園。五つの礎のうち、まだ削られていない、残り二つの一つ。
それから、暖炉の熾火の中に、そっと落とした。
紙が、音もなく燃え尽きる。
「……マ、マイ天使」
止まり木の上で、ロビンが、震える声で言った。
「ま、まさか、行く気ッスか。一人で。……罠ッスよ、絶対」
「わかっているわ」
有珠は、立ち上がった。
黒い外套を、肩にかける。
「でも、あの子の弔いを、あの女に任せるわけにはいかないもの」
「マイ天使……」
「それに」
有珠は、二階へと続く階段を見上げた。
青子の部屋。忉利の部屋。草十郎の部屋。
「青子は、まだ戦えないわ。……あの子を、姉と戦わせたくないの」
有珠は、玄関ホールへと歩き出した。
ロビンが、慌ててその肩に飛び乗る。
重い扉を、音を立てないように、そっと開ける。
冬の夜気が、流れ込んできた。
扉の外に、誰かが立っていた。
「――久遠寺」
静希草十郎だった。
綿入れを羽織って、吊った左腕を胸に抱えて、門へと続く石段の途中に立っている。
有珠は、足を止めた。
「……なぜ、起きているの」
「眠れなかった。庭を、見ていた」
草十郎は、有珠の外套と、肩の上のロビンを見た。
「出かけるのか」
「…………」
「一人でか」
有珠は、答えなかった。
草十郎は、少しだけ考えた。
「俺も、行こうか」
「駄目よ」
即答だった。
「あなたは、ここにいて。……青子と、日景忉利を、見ていて」
草十郎は、有珠の顔を、じっと見つめた。
月明かりの下で、その白い顔は、いつもと同じように、何の感情も浮かべていなかった。
けれど、草十郎には、わかった。
山で、一人で獣を追いに行く大人たちが、出かける前に、こういう顔をしていた。
「……わかった」
草十郎は、道を開けた。
「だが、帰ってこい」
有珠は、草十郎の脇を、すっと通り過ぎた。
石段を、三段下りたところで、足を止める。
振り返らずに、言った。
「静希草十郎」
「なんだ」
「……青子には、言わないで」
草十郎は、少しだけ間を置いた。
それから、静かに答えた。
「約束はできない」
有珠の肩が、ほんのわずかに、揺れた。
「朝になって、久遠寺がいなかったら、蒼崎は必ず訊く。訊かれたら、俺は嘘をつけない。……だから、朝までに帰ってこい。そうすれば、言わなくて済む」
長い、沈黙があった。
冬の風が、有珠の長い髪を揺らした。
「……そう」
有珠は、それだけ言った。
そして、坂道を、闇の中へと下りていった。
黒い外套の背中が、月明かりの届かない木立の向こうに消えるまで、草十郎は、石段の上に立ち尽くしていた。
二階の、忉利の客間。
忉利は、窓辺に立っていた。
眠れなかった。
右目の布を、少しだけ、ずらした。
窓の下の坂道を、黒い外套の背中が、下りていくのが見えた。
一人で。
肩の上に、小さな青い影を乗せて。
忉利は、意識を向けた。
見えた。
有珠の線。傷ひとつない、磨かれた石の上を滑る水のような線。
それが、坂道の向こうへ、町の西へ、まっすぐに伸びていく。
その先に。
冷たい、定規で引いたような線が、何本も、待ち構えているように、集まっていた。
それから、もう一つ。
その冷たい線の傍らに。
太く、荒々しく、獣の毛のように逆立った線が、一本。
草十郎が言った、犬の匂い。
忉利は、布を戻した。
隣の部屋の扉を、見た。
青子の部屋。
起こすべきか、と思った。
――青子は、まだ戦えないわ。
有珠は、そう言った。
――あの子を、姉と戦わせたくないの。
忉利は、扉を、叩かなかった。
代わりに、自分の右目の布に、手を当てた。
使わなきゃいけない時。
それが、いつなのか。
まだ、わからなかった。
東の空は、まだ、白む気配もなかった。