泥の魔女はリンゴ喰ってめっちゃ眠い   作:とびー君

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窮地、泥の魔女

 

 

 生暖かい安寧のなかで、モノノは泥のように眠っていた。

 

夢の中の彼女は、どこまでも広がる闇を掻き泳ぐようにして漂っている。この暗闇に身を浸していると、手先や足先から体が糸のようにほつれていく感覚があって、それがたまらなく幸福で、ぐずぐずに煮溶けたシチューの具にでもなった気分だった。ずっとこうしていたい、いっそ体を丸めて胎児に戻ってしまいたいと思うのに、そんな欲求にあらがおうとする自分がいるのは、どうしてだろう。ふと気づけば、闇の向こうには灰色のアスファルトが、果てしなくどこまでも続いていた。

 

泳ぐのをやめてあの道に足をつけたなら、自分はこの至福を手放すことになる。そのことをふんわりと理解したモノノは、しばらく闇の中で考えるように揺れていたが、やがて結局、その道を往くことに決めた。

 

 

 

 

*

 

「いいのか! このままで本当にいいのか!!」

 

エダノは気を失った少女を片脇に抱えたまま、曲がり角の向こうに潜む相手へ声を張り上げた。

 

彼のいる路地は、普段どおりの薄暗さと生臭さを保っていたが、ときおり路地のそこかしこの闇から、ドロドロとした黒い液体が滲み出しては足元へじわりと広がってくる。

 

その光景を横目に見るたび、エダノの額には冷や汗が浮かんだ。どうあっても、ここに長居してはいけない。

 

ところが今いるのはT字路の袋小路で、抜け出すには目の前の曲がり角を塞いでいる相手をどうにかするほかなかった。

 

「最も大切なのは自分自身だろう! この……」

 

そこで脇に抱えた少女へ目をやり、言葉を選び直す。

 

「女のために命を張るのは、明らかにリスクが大きいだろう、分かるか? このままだと本当に共倒れになるんだよ!」

 

頼む、通じてくれ、と心の中で念じながら、エダノは曲がり角の向こうにいる相手の理性に縋った。

 

誇張でも脅しでもない。このままここにいれば、自分も、この気絶した少女も、まとめて闇の中へ沈むことになる。行方不明者として報道されるだけで済めば御の字だろう。

 

それでも相手は動かず、曲がり角の向こうから一歩も出てこようとしない。こちらを袋小路に追い込んでいる以上、距離を詰めれば簡単に仕留められるはずなのに姿を晒さないのは、ただ慎重な性格なのか、それとも殺す相手にさえ顔を見せないのがプロというものなのか、エダノには判断がつかなかった。

 

何にせよ、その慎重さでこれまで生き延びてきた相手なのだから、この場の危険さも十分に承知しているはずだ。

 

賢いからこそ、リスクを理解できるはず。してくれ、頼むから、と祈るように願ったところで、その願いを嘲笑うかのように、曲がり角の向こうで何かが動いた。

 

黒い影がゆらりと揺れたと思った次の瞬間には、銀色の筒が弧を描いて飛び出していた。

 

あまりの速さにエダノが身を引こうとしたときには、もう目の前まで迫っている。筒がまばゆい光を放ち、路地裏が真っ白に塗りつぶされる寸前、エダノの腕の中で何かが身じろぎした。

 

「起きたよ」

 

抱えられていた身体が水のようにするりと腕から抜け、次の瞬間には地面に足をついている。そして間髪を入れず、その右足が天を向いた。

 

蹴り上げたのだと、エダノがようやく理解したときには、銀色の筒は路地の上空へ舞い上がって煌々と光を撒き散らし、狭い路地裏を昼間のように照らし出していた。

 

その光の下に、モノノの姿がくっきりと浮かび上がる。肩のあたりで切り揃えた髪に、慎ましやかに整った顔立ち。細められた目は眠りから覚めたばかりとは思えないほど静かで、目の前の襲撃者を、むしろ楽しんでいるようにさえ見えた。

 

「モノノさ~~ん!!!!」

 

半泣きのエダノの声を背中で聞き流しながら、モノノは曲がり角の向こうへ声をかける。

 

「逃げなくていいのかな」

 

影がゆらりと揺れた。そこに焦りと、それからもうひとつ、期待にも似た昂りを感じ取って、モノノの口元がわずかにゆるむ。

 

「逃げるのはツマラナイって? 猛々しい子だね」

 

首をこきりと鳴らしたモノノは、散歩でもするような足取りで、ゆっくりと曲がり角へ歩き出した。

 

一歩。

 

さらに一歩。

 

近づくたびに、向こう側に立つ影が大きくなっていく。やがてモノノが曲がり角にさしかかったところで、上空に浮かんでいた光がふっと弱まり、路地裏の輪郭が急速に闇へ沈んだ。

 

「――」

 

エダノは息を呑んだ。つい直前まで見えていたモノノの姿が、視界から跡形もなく消えている。

 

「モノノさん……?」

 

呼びかけても、返ってくる音はない。物音ひとつしない暗闇のなかで、やがて目が慣れてくるにつれ、闇の底からぼんやりと人影が浮かび上がってきた。

 

「や」

 

軽く片手を挙げたモノノのもう一方の手には、金髪の少女が一人、ぐったりとぶら下がっている。意識を失った身体を引きずりながら、何事もなかったような顔で、モノノはのんびりと戻ってきた。

 

*

 

「困りますよ、モノノさん。危うく死にかけたんですよ? 寝るなとは言いませんが、事前に説明ぐらいあっても……」

 

「大丈夫だよ、私が寝ていてもエダノなら心配ないさ」

 

「……まぁ、信頼を預けてくれるのは嬉しいですけども」

 

「君は優しい奴だよ。死んでも極楽だから心配することない」

 

「死後の心配ッ!?」

 

車内に悲痛な叫びが響き、エダノは思わずハンドルに額をぶつけそうになりながら、どうにか前を向き直った。そのとき、センターミラーに後部座席の様子が映り込む。

 

先ほど捕らえた金髪の少女が横たわっていて、その全身には泥がまとわりつき、手足はおろか胴体までがすっかり固められていた。

 

意識のないまま身動きひとつしない少女を、モノノはミラー越しにちらりと眺めてから、目線だけをエダノへ戻す。その視線が何を求めているのかを察したエダノは、事前に集めていた情報を頭の中で引っ張り出しながら口を開いた。

 

「『(株)黒曜の陽だまり』の構成員だったかと」

 

モノノがわずかに目を細める。

 

「魔女を雇って、普通の会社じゃ引き受けないような仕事まで請け負っているところです。表向きは警備や調査なんかもやっていますが、実際には脅迫、拉致、暗殺、それから他の魔女の排除まで、金になるなら大抵のことに手を出す」

 

淡々とした説明を聞きながら、モノノはもう一度ミラーに目をやった。

 

「魔女協会からも何度も問題にされていますよ。違法なことをするために魔女を使っている、なんて話まで出ているくらいで、黒曜と聞いて嫌な顔をする魔女は珍しくないでしょうね」

 

「……それで、あの子は?」

 

「その黒曜のなかでも有名な方です。界隈では名前が通っていて、冷酷無慈悲、引き受けた仕事は必ずやり遂げる、プロ意識は高い、とか」

 

そこまで言って、エダノは後部座席で眠る少女をバックミラー越しに見やり、小さく肩をすくめた。

 

「……まあ、今はこんな有様ですけど」

 

モノノはふたたび少女へ視線を向ける。ただ眠っているわけではない。少女の身体には泥が深く絡みつき、本人の意思とは無関係にその動きを封じていた。

 

魔女とは、特殊で人知を超えた能力を振るう者の総称であり、モノノもまたその一人だった。泥を生み出し、思うままに操る力を持つ彼女は、しかし意識を失っているあいだ、その力だけが持ち主の手を離れて暴走する。

 

路地裏を這っていたあの黒い液体もそうで、それも、こうして目を覚ましている今なら心配はない。

 

「しかし、あそこからよく持ち直しましたねモノノさ――」

 

「zzz……」

 

目を覚ましてさえいれば、危険はない。はずだった。

 

「うぉおおおお!!!!!!!」

 

「アベベべべべ」

 

エダノは片手でハンドルを握ったまま、助手席へ向けて高速のビンタを繰り出した。頬を往復で叩かれ、モノノの口から情けない声が漏れる。

 

「痛い……」

 

「生きてる証拠ですよッ。アンタ、危うく二人巻き込もうとした自覚を持ちなさい!」

 

「ふぁい……」

 

「くすっ……」

 

ようやく手を止めたエダノが荒い息を吐いたところへ、後部座席からくすくすと笑う声が聞こえてきた。いつの間に目を覚ましたのか、泥に拘束された少女が、薄く開いた目でモノノを見ている。

 

「起きたか」

 

反射的に声をかけたエダノには目もくれず、少女は顔だけをモノノへ向けた。眠気の抜けきらないモノノと視線がぶつかると、しばらくその顔を眺めてから、観念したように肩を竦める。

 

「やられたよ、泥の魔女。寝ている隙になら、殺せると思ったんだけどな」

 

そう言って、自分を縛り上げている泥へ目を落とし、指先を動かしてみるが、泥はぴくりとも緩まない。拘束の強さを確かめるように何度か手首へ力を込め、それでもどうにもならないと分かると、楽しそうに口元を歪めた。

 

「日がな一日寝ている奴なんて、簡単に殺せるって、な」

 

そこで少女は、あらためてモノノの顔を見た。

 

「――それ、リンゴの魔女にやられたんだってな」

 

モノノの瞼がわずかに持ち上がる。

 

「……知ってるんだ」

 

「耳が良いんだよ。それでも、最初に聞いた時はガセだと思ったさ」

 

少女は滔々と話し続けた。

 

「あれにやられた奴は皆、昏睡し続けるのに、アンタは起きている。ま、その様子を見る限り全くの無傷ってわけでもなさそうだし、敵の前で、殺し合いの最中に寝てしまうことがあるぐらいには大変なんじゃないか? そんな状態が本当なら、たとえアンタでも、寵愛の魔女だと噂される奴だって、倒せそうだと思わないか?」

 

モノノは答えず、ただ眠たげな目を向けたまま、少女の言葉に黙って耳を傾けている。

 

「クスクス……私は耳が早かったけれど、広まるさ。すぐに広まる。その弱体化は」

 

少女はまるで先の景色が見えているかのように、薄く笑った。

 

「そうなれば、今までアンタに手を出せなかった連中だって考え始める。寝ている時間が長い。起きていても眠い。そんな噂が広まれば、アンタを殺せると思う奴は増えるだろうな」

 

そこでようやく、少女はモノノの目をまっすぐに見据える。

 

「どんな気分なんだ? 命を狙われているのに、そうやって馬鹿みたいに寝るしかなくて、無能力者に庇われる気持ちってのは」

 

「忸怩たる思いで一杯です!……かな」

 

あっさりと返ってきた答えに、少女の笑みがぴたりと止まった。もっと悔しがるなり苛立つなりすると思っていたのかもしれないが、モノノは興味なさげに視線を前へ戻してしまう。

 

「どうやら、好奇心たっぷりで、まだまだ質問したりないって感じだね、君」

 

少女の眉が僅かに動いた。

 

「そんなに質問したいのなら、私なんかに聞くより、もっといい方法があるよ」

 

「……?」

 

「ほら、今の自分の心に聞いてみなよ」

 

モノノは眠たげな声のまま、歌うように続ける。

 

「私に負けて、泥まみれにされて、殺すつもりだった相手に生かされてる。今、どんな気分なのかなって」

 

「っ……!」

 

「きっと、面白い答えが返ってくると思うよ……」

 

言葉が途切れるのに合わせて、少女の身体に絡みついていた泥がゆっくりと蠢きはじめた。脚から腰へ、腰から胸元へと這い上がった泥は、首筋を伝って頬にまで達し、顔全体を覆おうとしたところで動きを鈍らせる。

 

完全に塞いでしまえば息ができなくなることを、眠りに落ちかけたモノノの意識も理解しているらしく、口と鼻のまわりにだけは、わずかに空気の通る隙間が残されていた。

 

「行き先は、あそこで良いですね」

 

エダノがそう尋ねたときには、すでにモノノの目は閉じられていた。返事を待つまでもなく、その意識は深い眠りへ沈んでいき、車の静かな揺れに身を任せたまま、夢の世界へと旅立っていく。エダノは小さく溜め息をひとつつくと、夜の道の先へ、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。

 

「―――――って、能力使っているときに寝るんじゃねえよっ!!!!」

 

「アベベべべべ」

 

 

 

 

 

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