「着きましたよ……着きましたよって、モノノさん」
廃校の門前に車を寄せてエンジンを切ったエダノは、助手席でシートベルトに眠りこけている少女の肩を揺すった。返ってくるのは寝ぼけた唸り声ばかりで、路地裏でつい先ほど銀色の筒を蹴り上げ、速やかに敵を倒した人物とは、とても思えない。
「う~ん、あと……」
「5分ですか? 5時間ですか? 前は五日間って言ってましたね」
「……ボケつぶしは大罪だよ??」
「あほ言ってないで、さっさと行きますよ。まだ安全とは言えないんですから」
エダノはシートベルトを外すと車を降り、後部座席へ回り込んだ。
そこでは、先ほど倒した金髪の魔女が縄で縛られたまま眠っている。移動の途中でモノノから、眠気にはどうしても耐えられないと言い出したため、途中で気絶させ、その後はエダノが用意した縄を使っている。少々安全性に難はあるが贅沢は言っていられない。
ぐにゃりと力の抜けた身体を肩に担ぎ上げて、エダノは月のない夜へ降り立つ。
魔女協会
それは、魔女という存在を一手に管轄する教会であり、その根は世界中のあらゆる土地に張り巡らされている。そのため知らないものなどまず居ない。そんな巨大な組織の傘下にある施設のひとつが、黒い影のようにうずくまっているこの廃小学校だった。
玄関をくぐって板張りの廊下に足を乗せると、一歩ごとにミシミシと今にも折れそうな悲鳴があがり、ところどころに空いた穴が暗がりの中で口を開けて待っている。
夜も更けたこの時間に頼れる明かりは、切れかけて不規則に点滅する蛍光灯ばかりで、白く浮かび上がっては闇に沈む廊下の景色がかえって恐怖をあおってくる。
「えーと、5年D組、D組……ここかな」
プレートの文字を指でなぞるようにたどって、ようやくそれらしい教室を見つけ、立て付けの悪い戸をがらりと引き開ける。中から返事はなく、埃をかぶった机は壁際に押しやられ、天井の隅には蜘蛛の巣が幾重にも垂れ、ひび割れた窓ガラスが外の闇を黒々と映していた。そんなありさまの部屋の真ん中に、三脚の椅子が正面の黒板に向かって並べられていた。
エダノは一脚にモノノを座らせ、隣の椅子に自分も腰を下ろし、残る一脚に少女を据えてやったのだが、背もたれに体重を預けたまさにその瞬間、足元からぬるりと生温かい風が吹き上がった。
天井の隅に垂れていた蜘蛛の巣が糸をほどくように消えたかと思うと、踏み抜かれた穴だらけだった床板はひび割れが内側から縫い合わされるように塞がって飴色の艶を帯び、剥がれ落ちていた壁の塗装はペンキ缶をひっくり返したような勢いで真っ白に塗り直される。
ぼろ布同然だったカーテンがふわりと淡い黄色に染まって膨らんだところで、闇を映していた窓の向こうが、ぱちんと音がしそうなほど唐突に青く開けた。
埃とカビの臭いはいつの間にかワックスとチョークの匂いに入れ替わり、点滅していた蛍光灯は何事もなかったように白く安定して、遠くのどこかからは、始業前のようなのどかなチャイムの余韻まで聞こえてくる。ここはもう、さっきまで足を踏み入れていた廃校ではない。魔女がひとり自分の好きなように作り替えた、彼女だけの世界の内側なのだ。
「どうも~~~~~。5年D組モノノちゃんと、同じく5年D組のエダノ君ですね~?」
いつからそこにいたのか、間延びした声に顔を上げると、さっきまで誰もいなかったはずの教壇に、一人の女性が立っていた。フワフワとした髪を毛先でくるりと巻かせ、淡い色のカーディガンの袖から覗く手にはチョークの粉をうっすらとまとわせていて、胸には『先生』と書かれた名札が留められている。
彼女こそ、この教室を、そしてありとあらゆる廃校舎を預かる魔女、『先生』その人である。
彼女の背後では、誰も触れていないチョークがひとりでに踊り、「きょうのよてい」と丸い字を黒板に書きつける。
「さ・て、今日はどういう用事なのか教えてくれるかな~~? 生徒たちっ」
朗らかな問いかけの余韻が消えるより先に、椅子の上で体勢を崩した少女が床へ倒れ込み、ゴツンと頭を思い切り打ち付ける鈍い音が教室に響き渡った。
「……あらあら、黒曜さんのところの子ですかぁ」
「ええ、つい先ほど襲われまして……そちらに引き渡しても良いですかね?」
「大丈夫ですよ~」
パチンと指慣らし。
次の瞬間、椅子の上から少女の姿がきれいに消えていた。
「ご心配なく、ちょっとお預かりのお部屋にご案内しただけですよぉ。ちゃんと無事ですよぉ」
「……そうですか」
エダノは咳払いをひとつすると、気を取り直して本題に入った。
「調査の依頼です。すでにリンゴの魔女に後れを取ったことが周知され始めているようでして、このままだとモノノさんが危ない」
そうなる前に、とエダノは続ける。
「リンゴの魔女を捕まえて、魔法を解かせるしかない」
「あるいは殺すか」
モノノが、そうごく自然に物騒な選択肢を付け足す。
そんな二人を眺めていた『先生』が、ふと顎へ指を当てる。
「リンゴの魔女……私の生徒の中にそういう子は居ないですね~~」
「……となると、やはり野良ですかね」
魔女協会に籍を置く魔女は、力の使い方を知るために、誰もが『先生』に師事することになっている。もちろん別の魔女と直接の師弟関係を結んでいる者もいるのだが、少なくとも『先生』と全く関わらないものなどは教会には存在しない。
それはつまり、彼女が知らないと言うのなら、少なくとも協会の内側にいる魔女ではないということになる。
「ふ~~~む。ちょぉっとだけ、書類を調べてきますねぇ」
ふわりとした足取りで先生が教室の戸をくぐると、上履きのぱたぱたという軽い足音が明るい廊下の向こうへ遠ざかっていき、後には窓辺のカーテンが風に揺れる衣擦れの音と、壁の時計の秒針だけが残った。
束の間の静寂が二人を包んだ。エダノが「あの……」と切り出しながら、がたがたと机を寄せてきたので、モノノはキャッと照れて己の体を抱いて見せる。
「いきなり接近するなんて大胆だね///」
「ふざけないでください」
茶化す言葉をぴしゃりと遮った声は、思いのほか固かった。
「分かっているでしょう、このままだと貴方は半年もしないうちに――死ぬ」
車の中で黒曜の少女が笑いながら並べていた言葉が、頭の隅で繰り返されている。噂は広まる。すぐに広まる。正直、半年という猶予さえ怪しいものだった。
「この先、今の何倍にも増えていく刺客を今の状態でどうにか出来るとは思っていないでしょう」
「……そりゃまぁね」
肩をすくめる。
「でもほら千里の道も一歩よりって言うじゃない? ここはしっかり地道に探す以外に方法何て無いんじゃ……」
「あります」
まっすぐに向けられた目は、冗談を挟む余地などないほど真剣で、モノノがわずかに口をつぐむ。エダノは膝の上で拳を握りなおし、腹を決めるように息を吸った。
「真祖――バーバヤーガの力を借りるんです」
「…………あは、正気?」
「私は真祖について全てを知っているわけではないですけど、その果てしなさも、やばさも理解しているつもりです」
エダノは言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「何千年も前から生きている最初の魔女で、今もなお生き続けている伝説そのものだ。そして貴方は【寵愛を受ける者】と呼ばれていて、他ならない真祖からの寵愛を受けている。だったら――」
そこまで言ってから、エダノは一度だけ息を整えた。
「真祖の協力を得ることは出来ないのですか?」
「……」
言い終えても、モノノはすぐには答えなかった。壁の時計が秒針を刻む音だけが、やけに大きく教室に響いている。その沈黙を破ったのは、二人のどちらでもない、のんびりとした声だった。
「ざ~~んねん~~ん~~」
「っ!?」
いきなり背後から降ってきた声に、エダノは椅子ごと飛び上がりそうになった。心臓が喉元まで跳ね上がったまま恐る恐る振り返ると、調べ物に出ていったはずの『先生』が、いつの間にかすぐ後ろに立って、にこにこと二人を見下ろしている。
「確かにリンゴの魔女の魔法程度、どうとでもできるでしょうけどぉ。アレはお兄さんが思うような存在じゃないんですよねぇ~。ね、モノノさん」
「ん?」
「ひとつ、お願いを聞いてもらえませんかぁ?」
「最初っからそのつもりだろう?……良いよ」
あっさりとした返事に、『先生』はにんまりと笑みを深め、パンパンと手を打ち鳴らして教室の隅々にまで声を響かせた。
「それじゃあ皆さんにご紹介しまぁす。本日転校してきた、アメちゃんです! ……ほら入って」
一拍おいて、廊下側の戸がからりと開いた。光を背にして戸口に立っていたのは、エダノの胸にも届かないほど小さな少女で、しばらく中を窺うようにじっとしていたが、やがて上履きをぺたぺたと鳴らして教壇のほうへ進んでくる。『先生』はその隣で少女の頭の上にふわりと両手を重ね、いたずらっぽく首をかしげてみせた。
「彼女のお守りを引き受けてくれるなら、『先生』は色々と支援してあげます。もちろん、リンゴの魔女も探しますよぉ」
「お守り、かあ」
「受けてくれるんですよね? 【寵愛】さん」
その呼び名に、モノノは頬杖をついたまま、ほんの少しだけ眉を寄せた。足元の泥が、ぷくりと不満げな泡をひとつ立てる。
「泥の魔女って呼んでよ」
『先生』は「あらぁ、失礼しましたぁ」と悪びれもなく肩をすくめてみせる。そんな二人のやりとりのあいだも、少女は一言も発さず、ただ黙ってモノノを見つめていた。そして一言。
「強いんですか?貴女」
「ん~~?」
モノノは面白がるように首を傾けた。
「すごい自信だぁ……あのねぇ?これでもねぇ、お姉さんは強いよ? 泥の魔女って言われて――」
「そうですか。でもアタシは、自分で見たものしか信じない」
「自分で見たものだけ、ねえ。いいよ、それなら好きなだけ見ていくといい。私がどれだけ――」
言葉の後半は、いつの間にか寝息に溶けていた。こてん、と傾いた頭がそのまま机の角へ向かって落ちていき、ゴツン、と本日二度目の鈍い音が、明るい教室に気持ちよく響く。
アメの鋭かった目が、ぽかんと丸くなった。エダノは額を押さえて天井を仰いだ。
そのあいだに、足元でとぐろを巻いていた泥がのそりと身を起こし、机の上へ這い上がって、眠る主の額の下へ柔らかな枕のようにするりと収まった。そして何度か、優しく撫でると…消える。普段通りで、これが近頃の日常だった
『先生』は笑顔のまま、その様子をしばらく見つめ――ほんの少しだけ頬を引きつらせた。
「……大丈夫かなぁ~?」
思ってたより重症かもしれん。そんな彼女の不安を他所に、モノノ可愛らしい寝息が響かせていた。