「じゃあ、行きますか」
校舎の玄関を出ると、外の世界は変わらず、夜の底に沈んだ廃校の敷地のままだった。エダノは振り返って校舎を見上げると、外壁も屋根も、月明かりの下でひび割れたままの、ただの廃墟の姿に戻っていた。
「しかし面妖な魔法ですね。あれはその異界を作り出すとかそういうものなのでしょうか……」
「『先生』の魔法のこと? それならそうじゃないかな?何でも本人曰く『最も、生徒たちが輝いていた時間と空間を再現する』とかなんとか」
「少なくとも、本人が認めた人しか入れないからね~ 防衛という観念から見るならツヨツヨだよね」
あくびを噛み殺しながらモノノが答える横で、アメは黙りこくったまま、それでも足だけはしっかりとエダノたちについてきていた。
校門まで戻ってくると、停めていた車がヘッドライトの反射で鈍く光っている。助手席のドアに手をかけたところで、エダノはふと問いかける。
「『先生』からは詳しいことを決めませんでしたが、そもそも『お守り』って、具体的に何をすればいいんですか。あまりにふわっと話が進みましたから詳しい所が何も……」
先生の言い方はあまりにふわふわとしていて、結局のところ何を約束させられたのか、エダノにはまだよく分かっていなかった。モノノは車のドアに手をかけたまま、少し考えるように視線を上へ向けた。
「たぶん、文字通りの意味だよ。この子を、私たちの目の届く場所に置いておくこと。危ない橋を渡らせない。一人にしない。ただ――守る。それだけ」
「それだけって、ずいぶん漠然としてますね」
「『先生』は漠然とした口約束が好きなんだよ。そんでもって、曖昧だろうが何だろうが、頼めば相手は全力を尽くしてくれるって思ってる」
「えぇ……?」
「ま、魔女から受ける仕事なんて、大体こんなもんだよ。皆適当なんだ。魔女協会はそうでもなかったんだろうけど、こういうのもありふれてるから、ま、早いうちに慣れた方が良いよエダノ」
「成程……」
釈然としないまま、それでも詳しい説明を待つよりも先に体を動かすことにして、エダノは荷物を積み直し、助手席のドアを開けてアメを促した。少女は無言のまま乗り込み、シートの端に体を小さく丸めて座る。
「あ、私ちょっとお手洗い寄ってから行くから、先に車暖めといて」
エダノが運転席に腰を下ろした直後、モノノがそう言って校舎へ歩いて行った
軽い足取りで暗がりへ消えていく背中を見送りながら、エダノはエンジンをかけ、エアコンの温度を上げる。
数分後、暗がりの向こうからのんびりとした足音が戻ってきて、後部座席のドアが開く音がした。バックミラー越しに見えたのは、いつも通り眠そうな顔をしたモノノが、ゆっくりと横になる姿だった。
「お待たせ」
「もう大丈夫ですか?……それじゃ、とりあえず自宅まででいいですか?」
エダノはハンドルを切って、暗い校庭を後にする。
その隣で、アメだけが窓の外を睨むように見つめたまま、身じろぎひとつしない
街灯もろくにない裏道をしばらく走り、ようやく舗装のしっかりした幹線道路に合流した頃には、後部座席からはすでに規則正しい寝息が聞こえてきていた。
市街地に入ると、深夜だというのに街の明かりは途切れることなく続いていて、大通りに面したビルの壁一面を覆う巨大な液晶スクリーンが、ちょうど信号待ちのタイミングで新しい映像に切り替わった。
何気なくそれへ目をやったエダノは、思わず動きを止める。
夜空を焦がすほどの輝度で映し出されていたのは、燃えるような赤い髪を長く垂らした女性だった。
髪の一房に、黒い薔薇が一輪、挿し込まれている。見た目だけならあどけなさの残る少女の顔立ちをしているのに、細められた目元にも、緩く弧を描く唇にも、年齢という物差しでは測れない色香が滲んでいて、画面のこちら側にいるだけのエダノでさえ、思わず息を呑んで見入ってしまう。
背景には金色の縁取りの文字で「祝・第七百八十三回ヴァルプルギスの夜、開催決定」と躍っていた。
「……真祖」
呟くように漏れた声に、自分でも驚く。信号が青に変わっても、しばらくその残像が目の奥に焼きついて離れない。
「ねえ、お兄さん」
アメの声で、エダノはようやく我に返った。アクセルを踏みながら助手席に視線をやると、少女は窓の外を流れていく別の広告――同じ赤毛の女性が微笑む化粧品のCM――をぼんやりと眺めている。
「はい」
「お兄さんは、あー、どうしてこんなところに居るの?無能力者でしょ?」
エダノは一瞬言葉を探るように視線を宙へ泳がせたが、結局、普段人に説明するときと同じ言い回しに落ち着いた。
「協会に登録している、正式な補助員です。魔女の能力を持たない人間が、契約を結んだ魔女の生活面や交渉ごとをサポートする。表向きはそういう肩書きになってますね」
「表向き……」
エダノはハンドルを軽く切りながら、苦笑いを浮かべる。
「まあ、実際のところは何でも屋ですよ。運転手もやれば、荷物運びもやる。時には魔女の戦闘にだって介入する……最後のは稀ですけど」
「ふ~ん」
興味なさげに視線を逸らしたかと思うと、アメはすぐにまた別の問いを投げてきた。
「そんじゃ真祖については知ってますか?」
「協会の人間といっても、私はモノノさんの担当をしているだけの、末端も末端ですからね。詳しいことは知りませんよ。一般と同じ程度です」
「例えば?」
「すべての魔女の始まりで、今も魔女たちを見守ってる偉大な存在――なんて、まあ道徳の授業で習うくらいの話ですよ。ニュースでもこの時期はヴァルプルギスの夜の特集ばっかりですしね。でも結局、テレビの向こうの有名人と変わらないというか……実際に会ったことがあるわけでも、話したことがあるわけでもないので」
自分で言いながら、エダノはふと妙な居心地の悪さを覚えた。話せば話すほど、自分の持っている知識がどこかで又聞きしたものの積み重ねでしかないことに気づかされる。
「へえ」
短く、それだけをアメは言った。その一言に含まれた温度の低さに、エダノは気づく。
「何か、違うんですか」
「別に、違いませんよ」
疲れたような、諦めにも似た声だった。エダノは何も言い返せず、ただ前方の信号を見つめる。
「ただ真祖について聞きたいのなら、【寵愛】に聞くのが一番です。……契約してるのに知らないんですね」
言葉自体は軽い調子だったが、その分だけ、突き刺さり方も静かだった。エダノは何かを言い返そうとして、結局、うまい言葉を見つけられなかった。
【寵愛を受ける者】。その呼び名を、これまで何度も耳にしてきた。
だが、実際にその中身が何を意味するのかを、自分はモノノ本人から一度も聞かされたことがない。何千年も生きる真祖から、どうして彼女だけが特別扱いを受けているのか。その寵愛とやらが、彼女の身にどんな影響を及ぼしているのか。
重くなった沈黙を振り払うように小さく息を吐いたところで、また別のビルの壁面に、あの赤い髪の女性の広告が映し出されているのが目に入った。
今度は微笑みながら片手を胸の前に添えて、何かの化粧水を優しく差し出すような仕草をしている。あまりにも自然に、あまりにも美しく、街の景色に溶け込んでいて、誰もその笑顔の裏側を疑うことなく通り過ぎていく。
しばらく走ったところで、後部座席から、のそりと身を起こす気配がする。
「ん……あれ、もう着く?」
寝ぼけた声でモノノがそう聞いてきた。
「あと十分もしないうちに家ですよ。よく眠れましたか」
「全然寝た気がしない……」
「はいはい、あと少しで家ですから、そこで熟睡できま―――――」
「それなんだけど、進路変更しよっか」
「はい?」
「黒曜のビルに向かって」
ブレーキを踏みそうになるのを、エダノはどうにか堪えた。
「いや、今からですか。行くにしても、今日はゆっくり休んで、後日ちゃんと準備してから行きましょうよ」
「大丈夫大丈夫、すぐ終わるから」
言うが早いか、モノノはアメのほうへ視線を向ける。
「それに、気になるだろう? 私の実力」
挑発じみたその目つきを、アメは見返す
「…………ねえ、お兄さん、黒曜に向かってくれますか」
「実は私も凄い眠かったりするんですが……」
「賛成多数だからしょうがない」
「民意は大事よ、お兄さん」
助手席と後部座席から左右挟み撃ちのように投げつけられる声に、エダノは深々とため息をついてから、それでも渋々と車線を変えた。行き先を示す案内標識が、ヘッドライトの中を過ぎていく。
*
都心のオフィス街から少し外れた一角に、周囲の建物を見下ろすように大きなビルがそびえ立っている。窓という窓に明かりが灯り、表向きは何の変哲もない優良企業の本社ビルのように見えるが、その実態は犯罪の何でも屋だ。
車を降りたアメが、ビルを見上げたまま値踏みするような目をこちらへ向ける。
「それで? どうするんですか? 正面突破? それとも隠れて侵入?」
「まあ、それは人間の理屈だからね」
指先をゆっくりと持ち上げながら、モノノが答える。唇の端に浮かんだ笑みには、これから何が起きるのかを分かっていながら、まだ誰にも明かしていない者の余裕があった。
「我々魔女は、こんなことも許される」
言葉と同時に、足元の影という影から、泥が溢れ出した。最初はただの水たまりが広がるようにも見えたそれは瞬く間に量を増し、あたり一帯の地面という地面から噴き上がるようにして黒々とした奔流に変わっていく。夜の闇と見分けがつかないほど濃い色をしたそれは、意志を持つ生き物のようにうねりながらビルの外壁を這い上り、窓を、非常階段を、屋上のアンテナまでをも次々と呑み込んでいった。まるで巨大な菓子をとろけたチョコレートにくぐらせるように、ビルはその輪郭をゆっくりと泥の中へ沈めていく。悲鳴じみた警報音が幾つも重なって鳴り響いたが、それすらも泥の分厚い層に飲み込まれ、やがて何も聞こえなくなった。
「チョコレートフォンデュみたいだろう?」
その光景の前では、アメでさえ、しばらくの間、言葉を失っていた。
「これで私の実力は理解してくれたかな?」
「……中に居る奴は死んだの?」
「いーや? 気絶させただけ。あとで『先生』に頼んで回収してもらうよ」
軽い口調でそう答えるモノノの言葉が終わるか終わらないかのうちに、目の前の泥の壁が内側から弾けた。
勢いよく泥を突っ切って、一人の女性が地面に降り立つ。赤く熱された肌が夜の闇の中でぼうっと輪郭を浮かび上がらせ、魔法によるものだろう、全身からは陽炎じみた揺らぎが立ちのぼって、周囲の空気までもが歪んで見えた。ビル一棟を丸ごと沈めた直撃を、この女は肌を焼かれただけで凌ぎ切ったらしい。
「てめえか、襲撃者……寵愛!」
「泥の方で呼んでって……」
軽口を叩きながらも、モノノは油断なく体重を前に置いた。女はそれを合図と見たのか、地を蹴って距離を潰しにかかる。その速さは、エダノの目にはほとんど残像しか映らなかった。
すれ違いざまに突き出された拳を、モノノは半歩の体さばきだけでかわす。かわされた拳の風圧だけでアスファルトに亀裂が走った。女はすぐさま体勢を立て直し、今度は低く踏み込んで蹴りを放つ。モノノの足元から泥が壁のように立ち上がり、その一撃を受け止めたが、衝撃で泥の壁ごと数メートル後方まで押し込まれた。
「へえ」
ただの怪力ではない。一撃一撃に、女自身の体を燃料に変えているような、命を削る熱量があった。女の肌の赤みが増すたびに、周囲の気温が上がっていくのがエダノにも分かる。三合、四合と打ち合いが続き、そのたびに泥の壁が削れ、焦げ、あるいは弾け飛んだ。
「強いな君」
モノノが思わず呟いたときには、女の拳がついに泥の防御をこじ開けていた。
その勢いのまま、拳がモノノの頬をかすめる。
薄く裂けた皮膚から、赤い糸のような血が滲む。
「―――そろそろ決めるよ」
低く呟いた声に反応するように、地面という地面から泥が噴き上がる。今度は防御ではなかった。女を囲むように立ち上がった泥の柱が、四方から同時に襲いかかる。女はそれを掻い潜ろうとして、腕をクロスさせる。
次にはどちらかが倒れているそんな光景に。
「――もういいや」
囁くような声が、横から聞こえた。
エダノが振り向いたときには、もう終わっていた。
アメがいつの間にか女のすぐ隣に立っていて、女は声もなく地面へ頽れている。泥に飲まれかけていた腕は解放されたまま、だらりと投げ出されていた。口の端から泡が零れ、目は焦点を失っている。あれほど激しかった打ち合いの緊張が、たった一瞬で、何ごともなかったかのように消え去っていた。
「脳を、攪拌してやっただけ」
抑揚のない声だった。エダノは声も出せずに、たった今まで肌を焼き合うようにして殴り合っていた二人を、そしてその戦いをまるごと踏み台のように片付けてみせたアメを、交互に見つめることしかできなかった。あれほどの本気の攻防が、この少女にとっては割って入るまでもない、ただの退屈な前座でしかなかったのだ。
「さて」
アメの視線が、今度はビルへ滑る。まだ形を保っていた泥の壁が、彼女の視線ひとつでみしみしと軋みはじめた。何かに握り込まれるように収縮していくそれは、球体になり、拳大になり、最後には点になって、音もなく消える。数十階分の質量を、瞬きの間に握り潰したのだ。
モノノは、何も言わなかった。頬の傷から滲む血を拭いもせず、ただ黙って、その光景を見つめている。
「確かにすごい。でも」
アメの声には、まだ熱が戻っていなかった。
「アタシほどじゃない」
言い切ってから、アメはようやくモノノの目を正面から見た。
「『先生』がアンタをよこした理由、二つ考えてた」
指が一本、立つ。
「単純にアタシより強いなら、大人しく師事するつもりだった」
もう一本。
「そうじゃないなら、こんなママゴトに付き合う理由がない」
アタシの言いたいこと、分かるかしら?
「貴女には、後者の価値しかない」
アメの声が、低く沈む。
「バーバーヤーガが、生きて貴女を逃した――その絡繰りを、今ここで教えなさい」